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2008年10月31日 (金) | 編集 |
勝新太郎の代表作、「座頭市」のリメイク。
近年には北野武による金髪・碧眼の市という異色作もあったが、今回は綾瀬はるか主演の女座頭市だ。
「ベクシル 2077日本鎖国」の曽利文彦がメガホンをとり、脚本はドラマ「大奥」を手がけた浅野妙子。
国内外で何度もリメイクされている物語だけあって、素材の質は文句なし。
女座頭市という設定も、料理の仕方によってはかなり面白くなりそうなのだが、実際に出来上がった作品はどうもピンと来ない。
三味線片手の盲目の旅芸人、市(綾瀬はるか)。
幼い頃に、やはり盲目の男に居合の技を仕込まれ、父と信ずるその男を捜す旅をしている。
極力他人とのかかわりを避けて生きてきた市は、同じ盲目の女が野盗の男たちに襲われていても助けようとしない。
通りかかった一人の侍が止めに入るが、その男は刀を抜くことが出来ない。
野盗が侍を切ろうとした瞬間、市の仕込杖が電光石火に煌き、瞬く間に野盗を斬り倒す。
結果的に助けられた侍の名は、藤平十馬(大沢たかお)。
近くの宿場町に辿り着いた市と十馬は、ひょんな事から野盗の集団「万鬼党」と戦うことになる。
「万鬼党」の頭領・万鬼(中村獅童)は元侍で剛剣を振るうという。
市が斬り捨てた万鬼党の死体を見たやくざの虎次(窪塚洋介)に、達人と勘違いされた十馬は、用心棒として雇われることになるのだが・・・
女座頭市というモチーフは、今回が初めてではない。
棚下照生の劇画を松山容子主演で映画化した「めくらのお市」シリーズは69年から70年にかけて4作が作られているし、誰も覚えてないだろうけど91年には山口弘美主演の「座頭女子高生ナミ」なんていう珍品もあった。
力のぶつかり合いではなく、スピードと感覚で敵を切る座頭市は、実は女性剣客という設定が成り立ちやすい世界だと思う。
実際、綾瀬はるかの市は、その容姿が時代劇向きかどうかはともかくとして、画面として実に格好良く、予告編を観た時から結構楽しみにしていたのだ。
ところが、映画が進むにつれて、どうも違和感が強まってくる。
一体、この現実感の無さはなんだろう。
実写にもかかわらず、CGアニメの「ベクシル」よりもキャラクターに生身を感じないのはどういうことか。
これは曽利文彦監督のデビュー作、「ピンポン」でも感じたのだが、おそらく曽利監督にとって、キャラクターは世界を構成する記号に過ぎないのだろう。
設定は細かくされている。
ただそれは、市は薄幸の旅芸人だからこういう設定、万鬼は悪役だからこう、十馬はトラウマを抱えていた方が面白いからこう、とすべて設定のための設定に留まっており、そこからキャラクターを育てているようには見えない。
その結果、登場人物が皆プログラムどおりに動くゲームのキャラクターの様に表面的で、感情の無いロボットに見えてくる。
まあ、まだ市に関しては過去の座頭市というベンチマークがあるだけ、キャラクター造形はそれなりに説得力がある。
一番悲惨なのは大沢たかおが演じた藤平十馬で、彼は幼い頃に真剣を使った剣術の稽古中に、事故で母親を失明させてしまったというトラウマを抱えており、そのために剣を抜くことが出来ないという設定になっている。
まあトラウマの原因になった事故にしたところで、かなりご都合主義が漂っているのだが、彼が戦いの最中に必死に剣を抜こうとする、馬鹿げた芝居はあんまりだ。
大沢たかおは、こんな出来の悪いコントみたいな演技を要求されて怒らなかったのだろうか。
もっとも、これは演出の責任だけとは言えず、たぶん脚本家も描写を突き詰めて考えるタイプではないのかもしれない。
剣が抜けないなら、誰かが抜き身の剣を渡してやれば済むことで、そもそも木刀での試合なら無敵というなら、最初から木刀で戦えば良いではないか。
達人の振るう木刀は十分な殺傷力があり、実際に竹刀が発明されるまで、剣術の稽古中の死傷事故は珍しい物ではなかった。
シチュエーションを考えれば、何がリアルかはわかるはずだが、この映画の作り手は、あくまでもキャラクターに貼り付けた設定を忠実に描写する事を選んでしまい、結果表現されたのはうそ臭さだけである。
本来はキャラクターを掘り下げるための設定のはずなのに、設定のためのキャラクターになってしまっていて、物語の中で感情の流れが見えない。
だから本来なら大いに盛り上がるはずの十馬が初めて剣を抜く瞬間も、何がトラウマを克服させたのかさっぱりわからず、戸惑いしか浮かんでこない。
同じ事は他のキャラクターにも言え、悪役である万鬼も色々と設定はされているものの、彼が本質的にどういう人物なのかは最後まで伝わってこない。
幕府の剣術指南役に推されたほどの剣豪でありながら、顔に大きな傷があり、差別のために役職を追われたらしいのだが、その傷の原因は何か、なぜ彼は野盗にまで身を落とし、今何を思うのかという肝心の点は描かれていないため、キャラクターの内面は全く見えず、存在感は薄い。
万鬼と対立するやくざの虎次も、偉大な父親にコンプレックスを感じているという設定はされているのだが、なぜそういうコンプレックスを抱くようになったのか、彼自身はどう在りたいのかは描写されない。
現実感の無さはラストまで同様で、市は父と信ずる男から貰った小さな鈴を大切にしているのだが、それをラストで逗留先の子供に渡す。
鈴は彼女にとって帰るべき場所の象徴だったはずなのだが、なぜ彼女がこれを子供に渡したのか理解できない。
なぜなら、映画では市が逗留先の家族と心を通わせるような描写はほとんど無いので、彼女がそこを帰るべき場所と考える理由が見えないのだ。
だからこのラストはとって付けたような、妙に違和感のある物になってしまっている。
勿論、映画において設定は大切だ。
時代劇というある種の異世界を舞台にした作品ならなお更の事だが、本来設定は何のためにあるのかという事を忘れてしまうと、木を見て森を見ずという事に成りかねない。
「ICHI」の場合、残念ながら監督と脚本家が同じようなタイプで、ドラマの本質たる人間にあまり興味が無かった様に思える。
盲目の市の回想シーンにフラッシュバックの手法を使うなど、このキャラクターを深く考察して表現していたらあり得ない選択だろう。
え~と、この画は誰目線のフラッシュバックですか?と突っ込んだのは私だけではないはずだ。
まあ、なんだかんだと詰め込んで飽きさせない工夫はしているし、全くつまらない訳ではないのだが、端的に言って色々な意味で中途半端。
ビジュアル的な活劇に徹したとしても、クライマックスで肝心の主役がほとんど活躍の機会を与えられないという決定的な構成ミスは致命的だと思う。
どうせなら、斬って斬って斬りまくり、修羅の涙を流す市の姿が観たかったなあ。
今回はやはり日本酒。
凍てつく荒野に咲く花の様な市をイメージして、新潟は高野酒造の「越乃冬雪花」をチョイス。
やや辛口で純米酒らしく芳醇でまろやか。
透明感のある吟醸香も楽しめる。
勝新版の「座頭市」でも肴に楽しむのが良いかも。
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近年には北野武による金髪・碧眼の市という異色作もあったが、今回は綾瀬はるか主演の女座頭市だ。
「ベクシル 2077日本鎖国」の曽利文彦がメガホンをとり、脚本はドラマ「大奥」を手がけた浅野妙子。
国内外で何度もリメイクされている物語だけあって、素材の質は文句なし。
女座頭市という設定も、料理の仕方によってはかなり面白くなりそうなのだが、実際に出来上がった作品はどうもピンと来ない。
三味線片手の盲目の旅芸人、市(綾瀬はるか)。
幼い頃に、やはり盲目の男に居合の技を仕込まれ、父と信ずるその男を捜す旅をしている。
極力他人とのかかわりを避けて生きてきた市は、同じ盲目の女が野盗の男たちに襲われていても助けようとしない。
通りかかった一人の侍が止めに入るが、その男は刀を抜くことが出来ない。
野盗が侍を切ろうとした瞬間、市の仕込杖が電光石火に煌き、瞬く間に野盗を斬り倒す。
結果的に助けられた侍の名は、藤平十馬(大沢たかお)。
近くの宿場町に辿り着いた市と十馬は、ひょんな事から野盗の集団「万鬼党」と戦うことになる。
「万鬼党」の頭領・万鬼(中村獅童)は元侍で剛剣を振るうという。
市が斬り捨てた万鬼党の死体を見たやくざの虎次(窪塚洋介)に、達人と勘違いされた十馬は、用心棒として雇われることになるのだが・・・
女座頭市というモチーフは、今回が初めてではない。
棚下照生の劇画を松山容子主演で映画化した「めくらのお市」シリーズは69年から70年にかけて4作が作られているし、誰も覚えてないだろうけど91年には山口弘美主演の「座頭女子高生ナミ」なんていう珍品もあった。
力のぶつかり合いではなく、スピードと感覚で敵を切る座頭市は、実は女性剣客という設定が成り立ちやすい世界だと思う。
実際、綾瀬はるかの市は、その容姿が時代劇向きかどうかはともかくとして、画面として実に格好良く、予告編を観た時から結構楽しみにしていたのだ。
ところが、映画が進むにつれて、どうも違和感が強まってくる。
一体、この現実感の無さはなんだろう。
実写にもかかわらず、CGアニメの「ベクシル」よりもキャラクターに生身を感じないのはどういうことか。
これは曽利文彦監督のデビュー作、「ピンポン」でも感じたのだが、おそらく曽利監督にとって、キャラクターは世界を構成する記号に過ぎないのだろう。
設定は細かくされている。
ただそれは、市は薄幸の旅芸人だからこういう設定、万鬼は悪役だからこう、十馬はトラウマを抱えていた方が面白いからこう、とすべて設定のための設定に留まっており、そこからキャラクターを育てているようには見えない。
その結果、登場人物が皆プログラムどおりに動くゲームのキャラクターの様に表面的で、感情の無いロボットに見えてくる。
まあ、まだ市に関しては過去の座頭市というベンチマークがあるだけ、キャラクター造形はそれなりに説得力がある。
一番悲惨なのは大沢たかおが演じた藤平十馬で、彼は幼い頃に真剣を使った剣術の稽古中に、事故で母親を失明させてしまったというトラウマを抱えており、そのために剣を抜くことが出来ないという設定になっている。
まあトラウマの原因になった事故にしたところで、かなりご都合主義が漂っているのだが、彼が戦いの最中に必死に剣を抜こうとする、馬鹿げた芝居はあんまりだ。
大沢たかおは、こんな出来の悪いコントみたいな演技を要求されて怒らなかったのだろうか。
もっとも、これは演出の責任だけとは言えず、たぶん脚本家も描写を突き詰めて考えるタイプではないのかもしれない。
剣が抜けないなら、誰かが抜き身の剣を渡してやれば済むことで、そもそも木刀での試合なら無敵というなら、最初から木刀で戦えば良いではないか。
達人の振るう木刀は十分な殺傷力があり、実際に竹刀が発明されるまで、剣術の稽古中の死傷事故は珍しい物ではなかった。
シチュエーションを考えれば、何がリアルかはわかるはずだが、この映画の作り手は、あくまでもキャラクターに貼り付けた設定を忠実に描写する事を選んでしまい、結果表現されたのはうそ臭さだけである。
本来はキャラクターを掘り下げるための設定のはずなのに、設定のためのキャラクターになってしまっていて、物語の中で感情の流れが見えない。
だから本来なら大いに盛り上がるはずの十馬が初めて剣を抜く瞬間も、何がトラウマを克服させたのかさっぱりわからず、戸惑いしか浮かんでこない。
同じ事は他のキャラクターにも言え、悪役である万鬼も色々と設定はされているものの、彼が本質的にどういう人物なのかは最後まで伝わってこない。
幕府の剣術指南役に推されたほどの剣豪でありながら、顔に大きな傷があり、差別のために役職を追われたらしいのだが、その傷の原因は何か、なぜ彼は野盗にまで身を落とし、今何を思うのかという肝心の点は描かれていないため、キャラクターの内面は全く見えず、存在感は薄い。
万鬼と対立するやくざの虎次も、偉大な父親にコンプレックスを感じているという設定はされているのだが、なぜそういうコンプレックスを抱くようになったのか、彼自身はどう在りたいのかは描写されない。
現実感の無さはラストまで同様で、市は父と信ずる男から貰った小さな鈴を大切にしているのだが、それをラストで逗留先の子供に渡す。
鈴は彼女にとって帰るべき場所の象徴だったはずなのだが、なぜ彼女がこれを子供に渡したのか理解できない。
なぜなら、映画では市が逗留先の家族と心を通わせるような描写はほとんど無いので、彼女がそこを帰るべき場所と考える理由が見えないのだ。
だからこのラストはとって付けたような、妙に違和感のある物になってしまっている。
勿論、映画において設定は大切だ。
時代劇というある種の異世界を舞台にした作品ならなお更の事だが、本来設定は何のためにあるのかという事を忘れてしまうと、木を見て森を見ずという事に成りかねない。
「ICHI」の場合、残念ながら監督と脚本家が同じようなタイプで、ドラマの本質たる人間にあまり興味が無かった様に思える。
盲目の市の回想シーンにフラッシュバックの手法を使うなど、このキャラクターを深く考察して表現していたらあり得ない選択だろう。
え~と、この画は誰目線のフラッシュバックですか?と突っ込んだのは私だけではないはずだ。
まあ、なんだかんだと詰め込んで飽きさせない工夫はしているし、全くつまらない訳ではないのだが、端的に言って色々な意味で中途半端。
ビジュアル的な活劇に徹したとしても、クライマックスで肝心の主役がほとんど活躍の機会を与えられないという決定的な構成ミスは致命的だと思う。
どうせなら、斬って斬って斬りまくり、修羅の涙を流す市の姿が観たかったなあ。
今回はやはり日本酒。
凍てつく荒野に咲く花の様な市をイメージして、新潟は高野酒造の「越乃冬雪花」をチョイス。
やや辛口で純米酒らしく芳醇でまろやか。
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2008年10月29日 (水) | 編集 |
16世紀のイングランド王宮を舞台に、国王ヘンリー八世と彼の寵愛を受けたブーリン家の二人の姉妹を巡る愛憎劇。
強大な権力を持つ者を巡って、周りの人間が権謀術数を繰り広げるというのは人の世の常であるらしく、要するにこれは西洋版の「大奥」だ。
フィリッパ・グレゴリーの原作は史実をベースにしているものの、物語そのものはこの手の話の定番とも言える展開で、特に深い内容でもないが、スカーレット・ヨハンソンとナタリー・ポートマンという美女二人の火花散る対決、細部まで作りこまれたビジュアルと見所は多い。
国王ヘンリー八世(エリック・バナ)の治世。
王妃のキャサリン(アナ・トレント)は死産と流産を繰り返し、ヘンリーは男子の世継ぎに恵まれなかった。
地方貴族ブーリン家にはアン(ナタリー・ポートマン)とメアリー(スカーレット・ヨハンソン)という美しい姉妹がいた。
父親のトーマス・ブーリン(マーク・ライランス)は、アンを王の愛人として王宮に送り込む計画を立てるが、王は既に人妻であった妹のメアリーに一目ぼれしてしまう。
二人は王妃の侍女として宮廷に入り、やがてメアリーが王の子を妊娠するが、やがてその運命は逆転してゆく・・・
英国史に詳しい方ならお分かりだろうが、この作品は史実とフィクションを巧みに組み合わせている。
アンとメアリーの姉妹のうち、最初にメアリーがヘンリー八世の愛人となるが、後にアンが正式な后となり、娘のエリザベス一世を産んだのは事実。
しかし、劇中で王の子とされるメアリーの子、ヘンリーの実際の父親が誰なのかには諸説あるし、姉妹の関係もメアリーが姉でアンが妹であったというのが定説となっている。
また映画では、アンはわずか二ヶ月間フランスの宮廷で暮らしただけで生まれ変わった様になるが、実際の彼女は幼少期から二十歳ごろイングランドに戻ってキャサリン王妃の侍女になるまでの殆どの期間フランスで育っており、当然帰国以前にヘンリーと接触はなかっただろう。
映画はアンとメアリーの関係を大胆に脚色し、最初に王に見初められなかったアンが、王の寵愛を受ける妹メアリーに嫉妬し、その復讐として王を誘惑するという設定になっている。
結果的に愛を打算的に利用したアンは報われず、姉妹を利用して権力のおこぼれに与ろうしようとした周りの人間も含めて幸福は訪れない。
史実では曖昧な王を中心とした姉妹の関係を、明確な三角関係とする事で、寓話的な構造を持つ因果応報の物語としているのだ。
約40年に渡りイングランドを支配し、同名のシェイクスピアの戯曲でも有名なヘンリー八世も、映画では惚れっぽい面だけが強調されているが、実際の王は芸術・文化に高い才能を発揮した反面、側近や王妃、愛人を次々に処刑していった冷酷な為政者として知られている。
彼には生涯に正式に結婚しただけで6人もの王妃がいたが、最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは離婚後に幽閉され失意のうちに亡くなっているし、二番目の妻アン・ブーリンは映画で描かれた通り処刑され、三番目の妻ジェーン・シーモアは待望の男子を産んだものの産後の肥立ちが悪く病死、四番目の妻アン・オブ・クレイヴスは顔がブサイクという酷い理由で結婚後直ぐに離婚されている。
おまけに本人に似ていない肖像画を見せて結婚させたという理由で、側近のクロムウェルを処刑している。
その次の妻のキャサリン・ハワードはブーリン姉妹の従姉妹だが、彼女もまたアン・ブーリンと同じような不義密通の嫌疑をかけられて処刑、最後の妻のキャサリン・バーだけは、ヘンリーが死んだおかげで王妃として無事に天寿をまっとう出来た。
またアン・ブーリンとの結婚のために、カソリックと決別して英国国教会を設立した件でも、大法官だった賢人トマス・モアをはじめ反対するカソリック関係者の多くを処刑しており、要するに自分の欲望のためなら手段を選ばない男だった様だ。
ロンドン塔には今もアンやキャサリン初め、ヘンリーに処刑された犠牲者たちの幽霊が出るというのはあまりにも有名な話。
アン・ブーリン処刑の顛末に関しても諸説あり、アンが男子を産むために実際に王以外の男と姦通したとする説もあるが、実際のところヘンリーは既にジェーン・シーモアと結婚を決意していて、その為に邪魔になったアンを謀殺したとする見方が一般的だ。
まあこの作品の場合、史実に忠実な物語というよりも、あくまでも混沌とした王宮を舞台にした姉妹の運命的な愛憎劇という成り立ちなので、史実との乖離はあまり目くじらを立てる必要は無いが、現実に起こった事に比べると、映画はかなり大人しい印象で、物語的にも深みに欠ける。
それは物語の枠組みを、王とブーリン姉妹の三角関係に構成しながら、内面的な描写はあくまでも姉妹の関係に限られ、王のキャラクターが受身にとどまっているからだろう。
ピーター・モーガンの脚本は、アンとメアリーの心の葛藤は丁寧に描かれているものの、彼女らと王の間の葛藤は、男子を産む産まない以外にはあまり追求されているとは言えず、王の内面があまり見えない。
この物語は、彼女らに対する王の異なる感情が描かれて初めて、三つの情念のトリニティとして完成するのではないだろうか。
これが本格的な劇場用映画デビュー作となるジャスティン・チャドウィック監督の演出は、衣装の色彩設計やこまごました装飾品などにも姉妹の性格を反映させるなど、細やかで丁寧。
自らも俳優だけあって、演技者の魅力を引き出すのはなかなか上手く、タイトルロールの二人はどちらも魅力的に撮られていると思う。
ただ、新人らしい強い個性という物はあまり見えず、まずは大作を手堅くまとめたという感じだ。
因みに、姉妹なのにまるっきり似ていないナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンだが、残されているブーリン姉妹の肖像画を見ると、ルックスに関してはかなり忠実なキャスティングなのがわかる。
本物のブーリン姉妹も似ていなかったのだから、役者が似てないのは致し方ない。
魑魅魍魎の巣食う伏魔殿のごとく、おそらくは映画以上のドロドロの愛憎劇が繰り広げられていたであろう、当時の貴族社会。
映画では良識人として描かれるブーリン姉妹の母親であるエリザベス・ハワードも、一説によると若い頃にヘンリー八世の年上の愛人であったという。
果たして全く似ていないアンとメアリーの父親は?などとつい考えてしまうが、そこまで想像力たくましく描いてくれたら、宮廷版ゴッドファーザーのような大河ドラマが出来上がっただろう。
まあ2時間以内の上映時間じゃとても無理だし、シンプルにまとめられた寓話的な時代劇として、水準以上の作品と言える。
人間と言うのは、何時の世も欲望深き者の様で・・・
因みに、この作品でスペイン出身の王妃キャサリンを演じているのは、1973年の「ミツバチのささやき」で無垢なる少女アナを演じて映画史の伝説となったアナ・トレント。
42歳となった今も、どことなく幼い頃の面影がある。
今回はイングランド王室とも関係が深いスペインから、「サンタ クルス デ アルタス」の2005年物をチョイス。
樹齢100年以上のガルナッチャ種から生み出され、複雑な香りとを持つ、非常にボディの強いパワフルな赤。
映画ではやや物足りなかった深みを十分に感じさせてくれるだろう。
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強大な権力を持つ者を巡って、周りの人間が権謀術数を繰り広げるというのは人の世の常であるらしく、要するにこれは西洋版の「大奥」だ。
フィリッパ・グレゴリーの原作は史実をベースにしているものの、物語そのものはこの手の話の定番とも言える展開で、特に深い内容でもないが、スカーレット・ヨハンソンとナタリー・ポートマンという美女二人の火花散る対決、細部まで作りこまれたビジュアルと見所は多い。
国王ヘンリー八世(エリック・バナ)の治世。
王妃のキャサリン(アナ・トレント)は死産と流産を繰り返し、ヘンリーは男子の世継ぎに恵まれなかった。
地方貴族ブーリン家にはアン(ナタリー・ポートマン)とメアリー(スカーレット・ヨハンソン)という美しい姉妹がいた。
父親のトーマス・ブーリン(マーク・ライランス)は、アンを王の愛人として王宮に送り込む計画を立てるが、王は既に人妻であった妹のメアリーに一目ぼれしてしまう。
二人は王妃の侍女として宮廷に入り、やがてメアリーが王の子を妊娠するが、やがてその運命は逆転してゆく・・・
英国史に詳しい方ならお分かりだろうが、この作品は史実とフィクションを巧みに組み合わせている。
アンとメアリーの姉妹のうち、最初にメアリーがヘンリー八世の愛人となるが、後にアンが正式な后となり、娘のエリザベス一世を産んだのは事実。
しかし、劇中で王の子とされるメアリーの子、ヘンリーの実際の父親が誰なのかには諸説あるし、姉妹の関係もメアリーが姉でアンが妹であったというのが定説となっている。
また映画では、アンはわずか二ヶ月間フランスの宮廷で暮らしただけで生まれ変わった様になるが、実際の彼女は幼少期から二十歳ごろイングランドに戻ってキャサリン王妃の侍女になるまでの殆どの期間フランスで育っており、当然帰国以前にヘンリーと接触はなかっただろう。
映画はアンとメアリーの関係を大胆に脚色し、最初に王に見初められなかったアンが、王の寵愛を受ける妹メアリーに嫉妬し、その復讐として王を誘惑するという設定になっている。
結果的に愛を打算的に利用したアンは報われず、姉妹を利用して権力のおこぼれに与ろうしようとした周りの人間も含めて幸福は訪れない。
史実では曖昧な王を中心とした姉妹の関係を、明確な三角関係とする事で、寓話的な構造を持つ因果応報の物語としているのだ。
約40年に渡りイングランドを支配し、同名のシェイクスピアの戯曲でも有名なヘンリー八世も、映画では惚れっぽい面だけが強調されているが、実際の王は芸術・文化に高い才能を発揮した反面、側近や王妃、愛人を次々に処刑していった冷酷な為政者として知られている。
彼には生涯に正式に結婚しただけで6人もの王妃がいたが、最初の妻であるキャサリン・オブ・アラゴンは離婚後に幽閉され失意のうちに亡くなっているし、二番目の妻アン・ブーリンは映画で描かれた通り処刑され、三番目の妻ジェーン・シーモアは待望の男子を産んだものの産後の肥立ちが悪く病死、四番目の妻アン・オブ・クレイヴスは顔がブサイクという酷い理由で結婚後直ぐに離婚されている。
おまけに本人に似ていない肖像画を見せて結婚させたという理由で、側近のクロムウェルを処刑している。
その次の妻のキャサリン・ハワードはブーリン姉妹の従姉妹だが、彼女もまたアン・ブーリンと同じような不義密通の嫌疑をかけられて処刑、最後の妻のキャサリン・バーだけは、ヘンリーが死んだおかげで王妃として無事に天寿をまっとう出来た。
またアン・ブーリンとの結婚のために、カソリックと決別して英国国教会を設立した件でも、大法官だった賢人トマス・モアをはじめ反対するカソリック関係者の多くを処刑しており、要するに自分の欲望のためなら手段を選ばない男だった様だ。
ロンドン塔には今もアンやキャサリン初め、ヘンリーに処刑された犠牲者たちの幽霊が出るというのはあまりにも有名な話。
アン・ブーリン処刑の顛末に関しても諸説あり、アンが男子を産むために実際に王以外の男と姦通したとする説もあるが、実際のところヘンリーは既にジェーン・シーモアと結婚を決意していて、その為に邪魔になったアンを謀殺したとする見方が一般的だ。
まあこの作品の場合、史実に忠実な物語というよりも、あくまでも混沌とした王宮を舞台にした姉妹の運命的な愛憎劇という成り立ちなので、史実との乖離はあまり目くじらを立てる必要は無いが、現実に起こった事に比べると、映画はかなり大人しい印象で、物語的にも深みに欠ける。
それは物語の枠組みを、王とブーリン姉妹の三角関係に構成しながら、内面的な描写はあくまでも姉妹の関係に限られ、王のキャラクターが受身にとどまっているからだろう。
ピーター・モーガンの脚本は、アンとメアリーの心の葛藤は丁寧に描かれているものの、彼女らと王の間の葛藤は、男子を産む産まない以外にはあまり追求されているとは言えず、王の内面があまり見えない。
この物語は、彼女らに対する王の異なる感情が描かれて初めて、三つの情念のトリニティとして完成するのではないだろうか。
これが本格的な劇場用映画デビュー作となるジャスティン・チャドウィック監督の演出は、衣装の色彩設計やこまごました装飾品などにも姉妹の性格を反映させるなど、細やかで丁寧。
自らも俳優だけあって、演技者の魅力を引き出すのはなかなか上手く、タイトルロールの二人はどちらも魅力的に撮られていると思う。
ただ、新人らしい強い個性という物はあまり見えず、まずは大作を手堅くまとめたという感じだ。
因みに、姉妹なのにまるっきり似ていないナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンソンだが、残されているブーリン姉妹の肖像画を見ると、ルックスに関してはかなり忠実なキャスティングなのがわかる。
本物のブーリン姉妹も似ていなかったのだから、役者が似てないのは致し方ない。
魑魅魍魎の巣食う伏魔殿のごとく、おそらくは映画以上のドロドロの愛憎劇が繰り広げられていたであろう、当時の貴族社会。
映画では良識人として描かれるブーリン姉妹の母親であるエリザベス・ハワードも、一説によると若い頃にヘンリー八世の年上の愛人であったという。
果たして全く似ていないアンとメアリーの父親は?などとつい考えてしまうが、そこまで想像力たくましく描いてくれたら、宮廷版ゴッドファーザーのような大河ドラマが出来上がっただろう。
まあ2時間以内の上映時間じゃとても無理だし、シンプルにまとめられた寓話的な時代劇として、水準以上の作品と言える。
人間と言うのは、何時の世も欲望深き者の様で・・・
因みに、この作品でスペイン出身の王妃キャサリンを演じているのは、1973年の「ミツバチのささやき」で無垢なる少女アナを演じて映画史の伝説となったアナ・トレント。
42歳となった今も、どことなく幼い頃の面影がある。
今回はイングランド王室とも関係が深いスペインから、「サンタ クルス デ アルタス」の2005年物をチョイス。
樹齢100年以上のガルナッチャ種から生み出され、複雑な香りとを持つ、非常にボディの強いパワフルな赤。
映画ではやや物足りなかった深みを十分に感じさせてくれるだろう。

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2008年10月25日 (土) | 編集 |
東野圭吾の人気小説からドラマ化された、天才物理学者湯川学が難事件に挑む「探偵ガリレオ」シリーズのザ・ムービー・・・なのだけど、その前にご挨拶。
2005年にこのブログを開設してから、そろそろ3年。
初めは自分の勉強のためにと書いていたのですが、今までに延べ100万人もの人に訪れていただきました。
まことに有難い事で、私の記事が、少しでも読んでくださっている方々の映画ライフのスパイスとなっていれば幸いです。
今後もぼちぼちアップしてゆきますので、よろしくお願いいたします。
閑話休題。
正直なところ、この作品は劇場スルーするつもりだったのだが、「カリスマ映画論」の睦月さんの熱烈プッシュを受けて、観に行ってみた。
内容的には予想通りだったが、結果的にまあまあ楽しめた。
睦月さんはこの映画を「堤真一の映画」だと仰っていたが、なるほどその通りで、役者の好演と演出的にも徹底的にキャラクターに振った心理劇とする事で、何とか持っている作品である。
私がこの作品を敬遠しようとした理由はただ一つ。
原作の出来が悪く、この話を誰がどういじろうが映画的に面白くする事は至難の業だろうと思ったからだ。
物語の筋書きはこうだ。
嘗て将来を嘱望された天才数学者・石神は、高校の数学教師として落ちぶれ、しがないアパート暮らし。
娘と二人暮らしの隣人・花岡靖子に淡い恋心を抱いている。
ある日靖子の別れた夫が彼女の元へ押しかけ、トラブルの末に靖子と娘は元夫を殺してしまう。
その様子を隣で察した石神は、靖子に協力を申し出て、絶対に突破できない完璧なアリバイを用意する。
どうしても靖子のアリバイを崩す事の出来ない警察は、大学時代石神のライバルでもあった物理学者・湯川学に捜査協力を依頼する、という物だ。
元々「ガリレオ」は一話完結の短編小説なのだが、この映画版の原作「容疑者Xの献身」はシリーズ初の長編で、短編シリーズとは色々な点で異なる。
短編は、常識では謎が解けない難事件を、湯川教授が科学の知識を駆使して解決するのが一つのパターンとなっているが、この作品では科学知識はあまり前面に出る事は無く、殺人事件の顛末も冒頭で全部見せてしまっているので、犯人探しも関係ない。
アリバイを巡る湯川学と石神という、因縁の二人の天才の火花散るせめぎ合いが見どころであり、その過程を通して石神という孤高の男の心理が徐々に明らかになる。
その意味で、これを石神を中心とした心理劇として映像化したのは正解であり、実際映画は原作以上に丁寧にキャラクターを描写し、原作には無い冬山登山のエピソードも加えて、石神という男の内面を描いてゆく。
確かにこの映画は石神が完全に主役である。
堤真一は、正直なところ原作の印象とは全く違うし、最初の頃はあまりにも役を作りすぎではないかと思ったのだが、時間が進むに連れてどんどんと引き込まれてゆく。
内面に幾つもの仮面を被り、本心が見えないこの複雑な役を、実に味わい深く演じている。
観客がいつの間にかこの寡黙な男に感情移入しているからこそ、ラストの慟哭は、深く胸を打つのだ。
ライバル湯川を演じる福山雅治は、テレビからの続投なので新たに出来る事は多くなかったと思うが、完全に受けの役柄を抑制を利かせて演じていたと思う。
石神の仄かな情念の炎を感じ取り、戸惑う花岡靖子を演じる松雪泰子も良い。
「フラガール」あたりから、この人は脂が乗り切っている感がある。
深く掘り下げられたキャラクターたちの織り成すドラマは、なかなかに見応えを感じるのは確かだ。
ただ、役者で何とか持ってはいるものの、観る前に思っていた通り、物語の抱える欠陥まではカバーできていない。
オリジナルのエピソードなどを作ってはいるものの、展開らしい展開の殆ど無い作劇は冗長で、かなり中ダレを感じるし、何よりもこの作品はミステリとして致命的な矛盾があるのだ。
それによって、石神が天才という設定まで疑わしくなってしまい、この作品に説得力をあまり感じられなくなってしまうのである。
簡単に言えば、事件とは第三者が認知して、初めて事件になるのである。
この作品の被害者の設定などから考えれば、死体が見つからなければ、事件はそもそも無かった事になったはずで、実際石神は完璧に最初の死体を消し去っていたし、劇中でも発見するのはほぼ無理だという本人の台詞もある。
それなのに、なぜ彼は複雑なトリックを駆使してわざわざ事件を発覚させる必要があるのか。
石神のやった事は、1+1=2という結論を得るのに、複雑な方程式を駆使する様な物で、劇中の台詞を借りれば「全く美しくない回答」という事になる。
犯人がマヌケな設定ならまだ良いが、石神は「天才」ではなかったのか(笑
東野圭吾は心理描写に夢中になって、ミステリとしての整合性を忘れてしまったのだろうか。
調理の方はなかなかなだけに、素材の質の悪さが残念な作品である。
この作品に合うのは、やはりしんみり飲める日本酒だろう。
映画版には、原作に無い登山シーンが付け加えられているが、ロケーションは白馬。
という事で、長野県は薄井商店の「白馬錦 ひやおろし」をチョイス。
冬に搾った酒を、七倉ダム近くの湖洞トンネルに5ヶ月間貯蔵して熟成したのが名前の由来。
どちらかというと甘口だが、まろやかで旨みが強い。
個人的には食事の前に、ちょっとしたオードブルと、あるいは食後の締めに調度いい酒だと思う。
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2005年にこのブログを開設してから、そろそろ3年。
初めは自分の勉強のためにと書いていたのですが、今までに延べ100万人もの人に訪れていただきました。
まことに有難い事で、私の記事が、少しでも読んでくださっている方々の映画ライフのスパイスとなっていれば幸いです。
今後もぼちぼちアップしてゆきますので、よろしくお願いいたします。
閑話休題。
正直なところ、この作品は劇場スルーするつもりだったのだが、「カリスマ映画論」の睦月さんの熱烈プッシュを受けて、観に行ってみた。
内容的には予想通りだったが、結果的にまあまあ楽しめた。
睦月さんはこの映画を「堤真一の映画」だと仰っていたが、なるほどその通りで、役者の好演と演出的にも徹底的にキャラクターに振った心理劇とする事で、何とか持っている作品である。
私がこの作品を敬遠しようとした理由はただ一つ。
原作の出来が悪く、この話を誰がどういじろうが映画的に面白くする事は至難の業だろうと思ったからだ。
物語の筋書きはこうだ。
嘗て将来を嘱望された天才数学者・石神は、高校の数学教師として落ちぶれ、しがないアパート暮らし。
娘と二人暮らしの隣人・花岡靖子に淡い恋心を抱いている。
ある日靖子の別れた夫が彼女の元へ押しかけ、トラブルの末に靖子と娘は元夫を殺してしまう。
その様子を隣で察した石神は、靖子に協力を申し出て、絶対に突破できない完璧なアリバイを用意する。
どうしても靖子のアリバイを崩す事の出来ない警察は、大学時代石神のライバルでもあった物理学者・湯川学に捜査協力を依頼する、という物だ。
元々「ガリレオ」は一話完結の短編小説なのだが、この映画版の原作「容疑者Xの献身」はシリーズ初の長編で、短編シリーズとは色々な点で異なる。
短編は、常識では謎が解けない難事件を、湯川教授が科学の知識を駆使して解決するのが一つのパターンとなっているが、この作品では科学知識はあまり前面に出る事は無く、殺人事件の顛末も冒頭で全部見せてしまっているので、犯人探しも関係ない。
アリバイを巡る湯川学と石神という、因縁の二人の天才の火花散るせめぎ合いが見どころであり、その過程を通して石神という孤高の男の心理が徐々に明らかになる。
その意味で、これを石神を中心とした心理劇として映像化したのは正解であり、実際映画は原作以上に丁寧にキャラクターを描写し、原作には無い冬山登山のエピソードも加えて、石神という男の内面を描いてゆく。
確かにこの映画は石神が完全に主役である。
堤真一は、正直なところ原作の印象とは全く違うし、最初の頃はあまりにも役を作りすぎではないかと思ったのだが、時間が進むに連れてどんどんと引き込まれてゆく。
内面に幾つもの仮面を被り、本心が見えないこの複雑な役を、実に味わい深く演じている。
観客がいつの間にかこの寡黙な男に感情移入しているからこそ、ラストの慟哭は、深く胸を打つのだ。
ライバル湯川を演じる福山雅治は、テレビからの続投なので新たに出来る事は多くなかったと思うが、完全に受けの役柄を抑制を利かせて演じていたと思う。
石神の仄かな情念の炎を感じ取り、戸惑う花岡靖子を演じる松雪泰子も良い。
「フラガール」あたりから、この人は脂が乗り切っている感がある。
深く掘り下げられたキャラクターたちの織り成すドラマは、なかなかに見応えを感じるのは確かだ。
ただ、役者で何とか持ってはいるものの、観る前に思っていた通り、物語の抱える欠陥まではカバーできていない。
オリジナルのエピソードなどを作ってはいるものの、展開らしい展開の殆ど無い作劇は冗長で、かなり中ダレを感じるし、何よりもこの作品はミステリとして致命的な矛盾があるのだ。
それによって、石神が天才という設定まで疑わしくなってしまい、この作品に説得力をあまり感じられなくなってしまうのである。
簡単に言えば、事件とは第三者が認知して、初めて事件になるのである。
この作品の被害者の設定などから考えれば、死体が見つからなければ、事件はそもそも無かった事になったはずで、実際石神は完璧に最初の死体を消し去っていたし、劇中でも発見するのはほぼ無理だという本人の台詞もある。
それなのに、なぜ彼は複雑なトリックを駆使してわざわざ事件を発覚させる必要があるのか。
石神のやった事は、1+1=2という結論を得るのに、複雑な方程式を駆使する様な物で、劇中の台詞を借りれば「全く美しくない回答」という事になる。
犯人がマヌケな設定ならまだ良いが、石神は「天才」ではなかったのか(笑
東野圭吾は心理描写に夢中になって、ミステリとしての整合性を忘れてしまったのだろうか。
調理の方はなかなかなだけに、素材の質の悪さが残念な作品である。
この作品に合うのは、やはりしんみり飲める日本酒だろう。
映画版には、原作に無い登山シーンが付け加えられているが、ロケーションは白馬。
という事で、長野県は薄井商店の「白馬錦 ひやおろし」をチョイス。
冬に搾った酒を、七倉ダム近くの湖洞トンネルに5ヶ月間貯蔵して熟成したのが名前の由来。
どちらかというと甘口だが、まろやかで旨みが強い。
個人的には食事の前に、ちょっとしたオードブルと、あるいは食後の締めに調度いい酒だと思う。

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2008年10月20日 (月) | 編集 |
謎が謎を呼ぶサスペンス・アクション大作。
平凡な主人公が、突然掛かってきた一本の電話によって、訳も判らない間に巨大な陰謀に加担させられる展開は、嘗てアルフレッド・ヒッチコック監督が最も得意とした典型的な巻き込まれ型サスペンスのハイテク版だ。
9.11以来対テロ戦争の名目の下に作り上げられた過剰な監視社会を風刺する一面も持ち、「テイキング・ライブス」のD・J・カールソー監督の演出も歯切れ良く、118分を一気に見せる。
ただし、謎が明かされる後半は正直なところ少々難ありだ。
(※以下、重大なネタバレあり)
コピーショップで働く店員ジェリー(シャイア・ラブーフ)は、エリート軍人だった双子の兄を交通事故で亡くす。
ある日家に帰ると全く見覚えの無い武器弾薬が山積みされていた。
そこへ突然携帯に非通知の電話がかかって来て、女の声で「FBIが逮捕に向かった、直ぐに逃げなさい」と警告される。
同じ頃、ワシントンの議会で開かれるコンサートに出演する息子を駅まで送ったシングル・マザーのレイチェル(ミッシェル・モナハン)もまた、謎の電話によって脅迫されていた。
「言う通りにしないと、息子の乗った列車を脱線させる」
謎の女の声によって、ジェリーとレイチェルはFBIの捜査官(ビリー・ボブ・ソートン)から逃げ回る羽目になる。
しかし彼らの存在は、仕組まれた巨大な陰謀のほんの一部に過ぎなかった・・・
監視社会の恐ろしさを描いた作品としては、トニー・スコット監督の「エネミー・オブ・アメリカ」を連想させられるが、監視の手段が静止衛星からの画像中心だったあちらに対して、こちらは街角の監視カメラ中心。
とは言え「エネミー・オブ・アメリカ」の作られた1998年に比べて、監視カメラの量は全世界的に飛躍的に増え、何よりもネットワーク化された事で先進国の大都市においては殆ど死角が無い様な状況にあるのも事実。
ネットワークを支配する事さえ出来れば、衛星よりも遥かに近い距離で常時監視する事が可能な訳で、こちらの方がより現代的なのかもしれない。
携帯電話で一方的に命令を伝えられ、拒否すればネットワークで繋がったありとあらゆる都市機能によって抹殺されるという恐怖は、なるほど一定のリアリティがあり、特に電話の声の正体が判らない前半は、先の読めない展開と相俟って非常にスリリング。
良い意味で派手過ぎない、シャイア・ラブーフとミッシェル・モナハンのコンビネーションも良く、キャラクターのリアリティという点でも合格点だ。
しかし、物語の中盤で謎の電話の声「アリア」の正体が明かされると、この作品はリアルなサスペンスから半分SFになってしまう。
まああまりにも万能過ぎるアリアの行動から、途中で何となく予想は出来るものの、この部分の受け止め方次第で、作品の印象はだいぶ変わって来るだろう。
実際、海外批評などを読むと、アリアの正体が非現実的で陳腐だとして、否定的な評を書いている評論家も少なくない様だ。
確かに、治安の維持というスローガンの下、推し進められてきた監視社会化の危険性を、コンピューターの反乱という古典SFの様な世界に落としこんでしまったのは、私も疑問に思わざるを得ない。
日本物理学界が誇るニュートリノ検出施設「スーパーカミオカンデ」からデザインのヒントを得たと思われるアリアの能力はなかなかに凄そうだが、やっていることは「2001年宇宙の旅」のHALとあまり変わらず、単なる欠陥コンピューターによって監視社会が象徴されてしまう事で、作品のテーマが薄味になってしまった感は否めない。
実際にアメリカを中心に英語圏の国々が行っている全地球規模の盗聴システム、エシュロンなどを考えれば、意思を持ったコンピューターなど持ち出さなくても「誰かの意思」さえ介在させれば十分に監視社会の恐怖は描く事が出来ただろう。
また、アリアの正体が明かされて、物語の謎に対する興味が無くなった瞬間、今度は物語のアラが気になってくる。
最大の疑問は、こんなややこしい陰謀をめぐらせなくても、アリアの能力を持ってすれば、ジェリーを呼び寄せる事など、もっと簡単に出来るはずではないかと言う点だ。
ただ単に偽IDでも用意して、ペンダゴンのB36に来るように命じれば良いではないか。
同じことはミッシェルに対しても言え、爆弾のクリスタルは別に彼女以外の人物が身に着けていても良い訳で、何でコンピューターのクセにわざわざリスクのある人選をしているのか気になってしまう。
それに兄の声がデータに残っているなら、それを組み合わせて合成した方が早い気もする。
何よりも根本的に、コンピューターの判断に背いたら抹殺なんて、アリアのプログラムを作った奴はいくらなんでもバカ過ぎだろう(笑
アリアの正体を中途半端に早く明かしてしまったことで、この辺りの矛盾点が一気に噴出してしまった。
この設定で行くならば、もう少し構成を考えるべきだった。
先日、グーグルのストリートビューで、知り合いの店を除いてみたら、顔にぼかしはかかっているものの、彼らの姿がばっちり映っていた。
まああれはリアルタイムじゃないけど、誰もがカメラに写り、誰もがそれを見ることの出来る社会は、既に存在している。
「イーグル・アイ」は、そこそこ良く出来たサスペンス映画だが、少々懲りすぎた設定で損をしている様に思う。
テーマ的には実にタイムリーだったが、現実の世界が既に十分SF的なのにもかかわらず、過剰にぶっ飛び過ぎてしまって、かえって乖離してしまっているのだ。
ただ、前半の展開は正に息をも吐かせぬ面白さだし、後半も設定上の矛盾に目をつぶればアクションもサスペンスも盛りだくさんで、決して飽きる事は無いだろう。
イーグルの名を持つ酒としては、カリフォルニアの「スクリーミング・イーグル」が有名だが、あまりもバカ高いので、ぐっとリーズナブルな大衆ワイン「イーグルホーク メルロー」をチョイス。
「ブラックラベル」で有名なオーストラリアのウルフ・ブラウズの銘柄だが、深みはそれほど感じられないものの、飲みやすく香りもそれなりに楽しめるので、娯楽映画のあとの軽い食事に合わせるにはピッタリだろう。
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巻き込まれ型サスペンスのお手本
平凡な主人公が、突然掛かってきた一本の電話によって、訳も判らない間に巨大な陰謀に加担させられる展開は、嘗てアルフレッド・ヒッチコック監督が最も得意とした典型的な巻き込まれ型サスペンスのハイテク版だ。
9.11以来対テロ戦争の名目の下に作り上げられた過剰な監視社会を風刺する一面も持ち、「テイキング・ライブス」のD・J・カールソー監督の演出も歯切れ良く、118分を一気に見せる。
ただし、謎が明かされる後半は正直なところ少々難ありだ。
(※以下、重大なネタバレあり)
コピーショップで働く店員ジェリー(シャイア・ラブーフ)は、エリート軍人だった双子の兄を交通事故で亡くす。
ある日家に帰ると全く見覚えの無い武器弾薬が山積みされていた。
そこへ突然携帯に非通知の電話がかかって来て、女の声で「FBIが逮捕に向かった、直ぐに逃げなさい」と警告される。
同じ頃、ワシントンの議会で開かれるコンサートに出演する息子を駅まで送ったシングル・マザーのレイチェル(ミッシェル・モナハン)もまた、謎の電話によって脅迫されていた。
「言う通りにしないと、息子の乗った列車を脱線させる」
謎の女の声によって、ジェリーとレイチェルはFBIの捜査官(ビリー・ボブ・ソートン)から逃げ回る羽目になる。
しかし彼らの存在は、仕組まれた巨大な陰謀のほんの一部に過ぎなかった・・・
監視社会の恐ろしさを描いた作品としては、トニー・スコット監督の「エネミー・オブ・アメリカ」を連想させられるが、監視の手段が静止衛星からの画像中心だったあちらに対して、こちらは街角の監視カメラ中心。
とは言え「エネミー・オブ・アメリカ」の作られた1998年に比べて、監視カメラの量は全世界的に飛躍的に増え、何よりもネットワーク化された事で先進国の大都市においては殆ど死角が無い様な状況にあるのも事実。
ネットワークを支配する事さえ出来れば、衛星よりも遥かに近い距離で常時監視する事が可能な訳で、こちらの方がより現代的なのかもしれない。
携帯電話で一方的に命令を伝えられ、拒否すればネットワークで繋がったありとあらゆる都市機能によって抹殺されるという恐怖は、なるほど一定のリアリティがあり、特に電話の声の正体が判らない前半は、先の読めない展開と相俟って非常にスリリング。
良い意味で派手過ぎない、シャイア・ラブーフとミッシェル・モナハンのコンビネーションも良く、キャラクターのリアリティという点でも合格点だ。
しかし、物語の中盤で謎の電話の声「アリア」の正体が明かされると、この作品はリアルなサスペンスから半分SFになってしまう。
まああまりにも万能過ぎるアリアの行動から、途中で何となく予想は出来るものの、この部分の受け止め方次第で、作品の印象はだいぶ変わって来るだろう。
実際、海外批評などを読むと、アリアの正体が非現実的で陳腐だとして、否定的な評を書いている評論家も少なくない様だ。
確かに、治安の維持というスローガンの下、推し進められてきた監視社会化の危険性を、コンピューターの反乱という古典SFの様な世界に落としこんでしまったのは、私も疑問に思わざるを得ない。
日本物理学界が誇るニュートリノ検出施設「スーパーカミオカンデ」からデザインのヒントを得たと思われるアリアの能力はなかなかに凄そうだが、やっていることは「2001年宇宙の旅」のHALとあまり変わらず、単なる欠陥コンピューターによって監視社会が象徴されてしまう事で、作品のテーマが薄味になってしまった感は否めない。
実際にアメリカを中心に英語圏の国々が行っている全地球規模の盗聴システム、エシュロンなどを考えれば、意思を持ったコンピューターなど持ち出さなくても「誰かの意思」さえ介在させれば十分に監視社会の恐怖は描く事が出来ただろう。
また、アリアの正体が明かされて、物語の謎に対する興味が無くなった瞬間、今度は物語のアラが気になってくる。
最大の疑問は、こんなややこしい陰謀をめぐらせなくても、アリアの能力を持ってすれば、ジェリーを呼び寄せる事など、もっと簡単に出来るはずではないかと言う点だ。
ただ単に偽IDでも用意して、ペンダゴンのB36に来るように命じれば良いではないか。
同じことはミッシェルに対しても言え、爆弾のクリスタルは別に彼女以外の人物が身に着けていても良い訳で、何でコンピューターのクセにわざわざリスクのある人選をしているのか気になってしまう。
それに兄の声がデータに残っているなら、それを組み合わせて合成した方が早い気もする。
何よりも根本的に、コンピューターの判断に背いたら抹殺なんて、アリアのプログラムを作った奴はいくらなんでもバカ過ぎだろう(笑
アリアの正体を中途半端に早く明かしてしまったことで、この辺りの矛盾点が一気に噴出してしまった。
この設定で行くならば、もう少し構成を考えるべきだった。
先日、グーグルのストリートビューで、知り合いの店を除いてみたら、顔にぼかしはかかっているものの、彼らの姿がばっちり映っていた。
まああれはリアルタイムじゃないけど、誰もがカメラに写り、誰もがそれを見ることの出来る社会は、既に存在している。
「イーグル・アイ」は、そこそこ良く出来たサスペンス映画だが、少々懲りすぎた設定で損をしている様に思う。
テーマ的には実にタイムリーだったが、現実の世界が既に十分SF的なのにもかかわらず、過剰にぶっ飛び過ぎてしまって、かえって乖離してしまっているのだ。
ただ、前半の展開は正に息をも吐かせぬ面白さだし、後半も設定上の矛盾に目をつぶればアクションもサスペンスも盛りだくさんで、決して飽きる事は無いだろう。
イーグルの名を持つ酒としては、カリフォルニアの「スクリーミング・イーグル」が有名だが、あまりもバカ高いので、ぐっとリーズナブルな大衆ワイン「イーグルホーク メルロー」をチョイス。
「ブラックラベル」で有名なオーストラリアのウルフ・ブラウズの銘柄だが、深みはそれほど感じられないものの、飲みやすく香りもそれなりに楽しめるので、娯楽映画のあとの軽い食事に合わせるにはピッタリだろう。

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巻き込まれ型サスペンスのお手本


2008年10月15日 (水) | 編集 |
60年代の人気テレビシリーズ「それ行けスマート」のリメイク。
映画化されるのは80年の「それ行けスマート 0086笑いの番号」に次いで二度目で、90年代にも後日談的なシリーズが放映されている。
旧作でドン・アダムスが演じたドジなスパイ、マックスウェル・スマートを「40歳の童貞男」で大ブレイクしたスティーブ・カレルが演じるが、この21世紀版スマートは、文字通り少々スマート過ぎる。
秘密諜報機関「コントロール」の情報分析官、スマート(スティーブ・カレル)は現場で活躍するエージェントを夢見て、何度も昇進試験を受けているが、いつも落第ばかり。
ところがある日、コントロールの本部が敵対する悪の組織「カオス」の襲撃で破壊され、エージェント全員の素性がばれてしまう。
やむなく組織はスマートをエージェントに昇格させ、整形手術を受けたばかりのエージェント99(アン・ハサウェイ)とコンビを組ませ、カオスの陰謀に立ち向かうのだが・・・
この手のオバカコメディが大好きな私としては、大いに期待したのだが、正直なところあまり笑えない。
原因は色々あるが、確実に言えるのは、ピーター・シーガル監督のコメディセンスの無さが最大の問題だと言うことだ。
おかしなキャラクター、おかしな設定が揃っているのに、演出が笑いに持っていってくれない。
たとえば、スミソニアン博物館の地下にある、「コントロール」の本部へ入るには核シェルターのような扉を何枚も通ってゆかなければならない。
秘密基地のお約束だし、この扉の見せ方だけでも色々演出が出来ると思うが、実際は紙が一枚挟まるというギャグなのかどうかも判らない描写があるだけだ。
あるいは、スマートがロシアで車を物色し、異常に目立つフェラーリのオープンカーをチョイスしてしまう描写がある。
こちらとしては、それによってどんな面白い事が起こるんだろうとワクワクしながら身構えるが、ただ単にフェラーリを選んだというだけで終わってしまう。
この映画は、面白そうな設定だけあって、それが結局何の笑いにも結びついていない描写だらけで、要するにギャグが有機的に展開してゆかないのである。
まあさすがに幾つかは笑えるシーンもあるのだけど、全体には寸止めの連発のような消化不良感が強い。
スティーブ・カレルも魅力を生かされているとは言いがたい。
敏腕エージェントを夢想するものの、じっさいにはドジでマヌケなスマートを、中途半端に優秀な男に描いてしまったのは大きなミスだ。
何しろこの男、失敗はするものの、射撃は百発百中な上に、格闘ではあのロック様改めドウェイン・ジョンソンと互角に戦ってしまうのである(笑
この手のコメディは、ダメダメなエージェントが失敗ばかりするのに、結果的になぜか相手を倒しているという方向性に持っていかなければギャグが成立しない。
定石破りは結構だが、現状では中途半端にシリアスな要素が入るおかげで、スマートというキャラクターをどの様に描くかが定まらず、笑いが突き抜けないのだ。
アン・ハサウェイとの唐突な恋愛モードは陳腐すぎて観ていられない。
やたらと豪華な共演者たちも、中途半端なのは同じ事。
アン・ハサウェイのエージェント99も、整形美人という設定が何の意味も持っていない。
何故ここから笑いを作らないだろう。
ドウェイン・ジョンソンやテレンス・スタンプという一癖も二癖もありそうな連中までも、キャラクター造形はなんとも没個性的で、役者本人のキャラで何とか持っている感じだ。
「ヒーローズ」のマシ・オカが、せっかくガジェットオタクの技術者を演じているのに、彼の作るガジェットも殆ど生かされていない。
ハエ型ロボットとか、複線にしていくらでも使い様があるのに実に勿体無い。
唯一、「コントロール」のボスを演じるアラン・アーキンが、ハイテンションなボケ具合で美味しい活躍をするくらいだ。
物語的にも少々作りが荒っぽい。
「007」のパロディのような、秘密諜報機関vs悪の秘密結社という秘密対決をコアに持ってきたのはオリジナルから受け継いだ設定だしまあ良い。
しかし肝心の悪の結社「カオス」は、何をやりたいのか今ひとつよく判らない。
核兵器をコレクションして、それをネタにアメリカを脅迫して大金を脅し盗ろうというのは良いのだけど、先ずはデモンストレーションと言いつつ、いきなり大統領をロスごと爆殺しようとするのはどういうことか?
金を支払ってくれる相手のボスキャラを殺してしまっては、デモンストレーションもクソもないのではないか??
いくらコメディとは言っても、このあたりはきちんと整合性をつけて欲しかった。
まあ期待には程遠い出来栄えだった「ゲット スマート」だが、役者たちはポテンシャルを発揮できていないまでも、それなりに頑張っているし、アクション描写はそこそこ良く出来ているために、全くつまらない訳ではない。
これでもう少し脚本が丁寧で、何よりもコメディセンスのある監督が撮っていれば、と思わざるを得ないのが残念な作品である。
ピーター・シーガル監督は、フィルモグラフィを観るとコメディ専門の様だが、正直なところあまり成功した作品は残しておらず、むしろ普通のアクション映画などを撮った方が力を発揮できるのではないだろうか。
余計なお世話だけど。
今回は、パンチに欠ける映画なので、パンチのある酒を。
グレイスラムの「COR COR AGRICOLE」をチョイス。
南大東島で原料のサトウキビ生産から蒸留まで行われる、珍しい国産ラム。
ラムは廃糖蜜を原料としたインダストリアルラムと、サトウキビの搾り汁から直接作られるアグリコールラムがあるが、こちらは後者で無色透明のホワイトラムである。
変わった名前は、島を意味するCORAL CORONA (珊瑚の冠)から名付けられたという。
強いクセは無く呑み易いが、実にラムらしいパワフルな酒で、沖縄料理はもちろんだが、タイ料理やメキシコ料理などとも相性が良い。
このくらいのパワーが映画にも欲しかった。
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映画化されるのは80年の「それ行けスマート 0086笑いの番号」に次いで二度目で、90年代にも後日談的なシリーズが放映されている。
旧作でドン・アダムスが演じたドジなスパイ、マックスウェル・スマートを「40歳の童貞男」で大ブレイクしたスティーブ・カレルが演じるが、この21世紀版スマートは、文字通り少々スマート過ぎる。
秘密諜報機関「コントロール」の情報分析官、スマート(スティーブ・カレル)は現場で活躍するエージェントを夢見て、何度も昇進試験を受けているが、いつも落第ばかり。
ところがある日、コントロールの本部が敵対する悪の組織「カオス」の襲撃で破壊され、エージェント全員の素性がばれてしまう。
やむなく組織はスマートをエージェントに昇格させ、整形手術を受けたばかりのエージェント99(アン・ハサウェイ)とコンビを組ませ、カオスの陰謀に立ち向かうのだが・・・
この手のオバカコメディが大好きな私としては、大いに期待したのだが、正直なところあまり笑えない。
原因は色々あるが、確実に言えるのは、ピーター・シーガル監督のコメディセンスの無さが最大の問題だと言うことだ。
おかしなキャラクター、おかしな設定が揃っているのに、演出が笑いに持っていってくれない。
たとえば、スミソニアン博物館の地下にある、「コントロール」の本部へ入るには核シェルターのような扉を何枚も通ってゆかなければならない。
秘密基地のお約束だし、この扉の見せ方だけでも色々演出が出来ると思うが、実際は紙が一枚挟まるというギャグなのかどうかも判らない描写があるだけだ。
あるいは、スマートがロシアで車を物色し、異常に目立つフェラーリのオープンカーをチョイスしてしまう描写がある。
こちらとしては、それによってどんな面白い事が起こるんだろうとワクワクしながら身構えるが、ただ単にフェラーリを選んだというだけで終わってしまう。
この映画は、面白そうな設定だけあって、それが結局何の笑いにも結びついていない描写だらけで、要するにギャグが有機的に展開してゆかないのである。
まあさすがに幾つかは笑えるシーンもあるのだけど、全体には寸止めの連発のような消化不良感が強い。
スティーブ・カレルも魅力を生かされているとは言いがたい。
敏腕エージェントを夢想するものの、じっさいにはドジでマヌケなスマートを、中途半端に優秀な男に描いてしまったのは大きなミスだ。
何しろこの男、失敗はするものの、射撃は百発百中な上に、格闘ではあのロック様改めドウェイン・ジョンソンと互角に戦ってしまうのである(笑
この手のコメディは、ダメダメなエージェントが失敗ばかりするのに、結果的になぜか相手を倒しているという方向性に持っていかなければギャグが成立しない。
定石破りは結構だが、現状では中途半端にシリアスな要素が入るおかげで、スマートというキャラクターをどの様に描くかが定まらず、笑いが突き抜けないのだ。
アン・ハサウェイとの唐突な恋愛モードは陳腐すぎて観ていられない。
やたらと豪華な共演者たちも、中途半端なのは同じ事。
アン・ハサウェイのエージェント99も、整形美人という設定が何の意味も持っていない。
何故ここから笑いを作らないだろう。
ドウェイン・ジョンソンやテレンス・スタンプという一癖も二癖もありそうな連中までも、キャラクター造形はなんとも没個性的で、役者本人のキャラで何とか持っている感じだ。
「ヒーローズ」のマシ・オカが、せっかくガジェットオタクの技術者を演じているのに、彼の作るガジェットも殆ど生かされていない。
ハエ型ロボットとか、複線にしていくらでも使い様があるのに実に勿体無い。
唯一、「コントロール」のボスを演じるアラン・アーキンが、ハイテンションなボケ具合で美味しい活躍をするくらいだ。
物語的にも少々作りが荒っぽい。
「007」のパロディのような、秘密諜報機関vs悪の秘密結社という秘密対決をコアに持ってきたのはオリジナルから受け継いだ設定だしまあ良い。
しかし肝心の悪の結社「カオス」は、何をやりたいのか今ひとつよく判らない。
核兵器をコレクションして、それをネタにアメリカを脅迫して大金を脅し盗ろうというのは良いのだけど、先ずはデモンストレーションと言いつつ、いきなり大統領をロスごと爆殺しようとするのはどういうことか?
金を支払ってくれる相手のボスキャラを殺してしまっては、デモンストレーションもクソもないのではないか??
いくらコメディとは言っても、このあたりはきちんと整合性をつけて欲しかった。
まあ期待には程遠い出来栄えだった「ゲット スマート」だが、役者たちはポテンシャルを発揮できていないまでも、それなりに頑張っているし、アクション描写はそこそこ良く出来ているために、全くつまらない訳ではない。
これでもう少し脚本が丁寧で、何よりもコメディセンスのある監督が撮っていれば、と思わざるを得ないのが残念な作品である。
ピーター・シーガル監督は、フィルモグラフィを観るとコメディ専門の様だが、正直なところあまり成功した作品は残しておらず、むしろ普通のアクション映画などを撮った方が力を発揮できるのではないだろうか。
余計なお世話だけど。
今回は、パンチに欠ける映画なので、パンチのある酒を。
グレイスラムの「COR COR AGRICOLE」をチョイス。
南大東島で原料のサトウキビ生産から蒸留まで行われる、珍しい国産ラム。
ラムは廃糖蜜を原料としたインダストリアルラムと、サトウキビの搾り汁から直接作られるアグリコールラムがあるが、こちらは後者で無色透明のホワイトラムである。
変わった名前は、島を意味するCORAL CORONA (珊瑚の冠)から名付けられたという。
強いクセは無く呑み易いが、実にラムらしいパワフルな酒で、沖縄料理はもちろんだが、タイ料理やメキシコ料理などとも相性が良い。
このくらいのパワーが映画にも欲しかった。

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2008年10月09日 (木) | 編集 |
間瀬元朗原作の人気コミックの映画化。
もしもあなたが24時間後に確実に死ぬと言われたら、一体どのようにして過ごすだろうか。
全く理不尽な死に、どのようにして向き合うだろうか。
瀧本智行監督の「イキガミ」は、死が国家によって強制される世界を描いた、日本映画では極めて珍しいディストピア物の佳作である。
「国家繁栄維持法」という、奇妙な法律がある国。
命の大切さを実感できるようにと、18歳~24歳までの若者の千人に一人が、毎年この法律によって殺される。
対象となる者には、死の24時間前に死亡通知書、通称イキガミ(逝紙)が届けられる。
藤本賢吾(松田翔太)の仕事は、イキガミの配達人。
今回、彼が配る相手は三人。
一人目は、初めてのテレビ出演を控えた歌手の田辺翼(金井勇太)。
二人目は、国家繁栄維持法の守護者であり、保守系政治家の母(吹雪ジュン)を持つ引きこもりの滝沢直樹(佐野和真)。
三人目は盲目の妹に角膜の移植手術を受けさせたいと願う、チンピラの飯塚さとし(山田孝之)。
イキガミを届けられた彼らは、三者三様の24時間を歩みだし、彼らを見守る賢吾の心にも微妙な変化が生まれてくる・・・
ディストピアとはユートピアの反対語であり、理不尽で不寛容な全体主義社会や管理社会の事で、近未来やパラレルワールドを舞台とする作品が多い。
欧米ではSFの一ジャンルとして確固たる地位を築いており、たぶん一番有名なのは何度も映像化されているジョージ・オーウェル原作の「1984」だろう。
ギリアムの「未来世紀ブラジル」やキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」から、一昨年のアルフォンソ・キュアロンの力作「トゥモロー・ワールド」まで、多くの名作傑作が連なるジャンルでもある。
ところが日本人は根が楽天的なのか、邦画ではあまりメジャーなジャンルとは言えず、近年では中学生同士が殺し合いをさせられる問題作「バトル・ロワイヤル」が記憶に残る程度だ。
「イキガミ」の舞台となるのは国家繁栄の名の下に、若者の千人に一人が国家によって選別、殺害される国。
明らかに日本なのだが、日本という言葉は出てこない。
面白いのは、この映画の世界が現実の日本と異なるのは、国家繁栄維持法という法律の存在だけという点で、どうやら言論の自由もあり民主的な選挙も行われている様だ。
唯一、国家繁栄維持法だけが不可侵な法律であるらしく、この法律に反する者は思想犯として扱われる。
厳密に考えると果たしてそんなことがあり得るだろうかという気もするが、極めて日常的な世界に一つだけ異なる設定を投げ込むという手法は、作品世界を観客の身近に引き寄せ、リアルに感じさせるという点でそれなりに成功していると思う。
イキガミが届けられる三人は、ストリートミュージシャン、引きこもり、闇金回収業のチンピラと、境遇は異なるものの、現代日本のそれぞれのステージを象徴する若者像と言って良いだろう。
彼らは自らの死を告げられた瞬間から、戸惑い悲しみながらも、間近に迫った人生のまとめに向けて走り出す。
まるで、設定上の国家繁栄維持法の精神そのものに、死を真剣に見据えた時に初めて全身全霊をかけて生きるのである。
この物語のテーマは、素直に取れば生きる事の意味そのものだろうし、実際オムニバス的に語られる彼らの最後の24時間のドラマは、どれも短いながらも見応えがある。
原作者の間瀬元朗自らも参加した脚本の出来栄えはなかなかだ。
ただこの作品が面白いのは、三人の若者たちの生と死のドラマが、全体として見ると藤本賢吾という語り部の目を通した、ある種の国家論になっている点であり、実はこの映画の真のテーマはこちらではないのかという気がする。
イキガミ(逝紙)とはつまりアカガミ(赤紙)の事であり、この世界が第二次大戦前の日本のメタファーなのは一目瞭然である。
国家によって殺される18歳から24歳という年齢も、多くの国での徴兵年齢である。
劇中で語られる国家繁栄維持法という法律の存在意義は、千人に一人は確実に死ぬという状況を作る事で、人々に命の大切さ生の素晴らしさを実感させ、その結果として出生率は上がり、GNPは上昇を続け、国家の繁栄がもたらされるという事の様だ。
つまり、この映画の国家は、嘗て大東亜共栄圏という国家の理想を掲げ、数百万の国民を死に追いやった日本という国家と同じように、繁栄の名の下に個人の人間性を犠牲にし、切り捨てる事で維持されているのである。
瀧本智行監督はメタファーを巧みに使い、泣ける物語に描かれる人間性とは対極にある国家という物の正体を少しずつ暴いてゆく。
劇中で、藤本を捉えた監視カメラの映像が印象的に使われるが、映像を見ているのが誰なのかは、一切描写されない。
それはつまり、自己繁栄という目的意識を持った国家という一つの生物の目線であり、だれか個人が見ている訳ではないのだ。
藤本が機械的なイキガミの配達を強いられる様に、カメラの向こうで監視している人間にしても、それは国家の一ピースとしての存在であり、そこに主体的な意識は存在しない。
同様に藤本が通勤に使うモノレールのいかにも頑強そうなレールもまた、人々から思考を奪い去り、定められた道だけを歩ませようとする国家の象徴だろう。
個人が不在で、国家の意思だけが存在する社会、それはどんな民主的な選挙が行われていようが、言論の自由があろうがなかろうが、成立してしまう可能性はある。
国家とはそれ自体が意識を持った生き物で、個人の価値観とは根本の部分でぶつかり合う運命であり、国家の幸せは、イコール個人の幸せとは限らないのである。
ディストピア物の多くは、壮大なSF設定や徹底的に世界観を構築した管理社会の描写を通して、この事実を描き出すが、たった一つの設定だけで同じ事をさりげなく、しかしきっちりと表現している「イキガミ」は、実はかなり効率的かつユニークな作品であると言えるのではないか。
ちなみに、この映画の公開にあわせる様に、「イキガミ」と星新一の短編小説「生活維持省」との類似が話題となっているが、個人的には実に馬鹿げた話に思える。
「生活維持省」は星新一らしいシニカルで良く出来た短編だが、共通点は政府によって選別された国民が殺害されるという発想点だけであり、殺害の対象も方法も目的も異なる。
この発想自体は別に「生活維持省」が始めてという訳ではないし、仮に「イキガミ」の原作者がこの作品からヒントを得たとしても、少なくとも実際の物語に共通点は皆無である。
私は「イキガミ」の原作を全部読んだわけではないが、これがパクリというのなら、タイムトラベル物は全て「タイムマシン」のパクリだし、人間の乗る巨大ロボットは全部「マジンガーZ」のパクリになってしまう。
元々創作というのは長い歳月の間、無数の人材が影響を与え合って生み育ててきた物であり、単なる発想に著作権を認めたら、創作など不可能になってしまう。
黒澤版「隠し砦の三悪人」から「スターウォーズ」を経て、樋口版「隠し砦の三悪人 / The Last Princess」にいたるプロセスは、創作の循環の好例だろう。
著作権の保護は大切な事だが、極端に考えすぎると創造性そのものを破壊してしまうのである。
あの世で星新一が聞いたら、この様な騒ぎは決して望まないだろうと思うのだが。
今回は、もし自分が余命24時間を宣告されたら、飲みたいお酒。
石川県の「天狗舞 古々酒吟醸」をチョイス。
琥珀色に仄かに色づいた液体は芳醇の一言。
口に含むと複雑で奥深いうまみを残して、柔らかな香りと共に滑らかに喉を潤してゆく。
正に古代から人々によって脈々と受け継がれてきた、日本酒の持つ創造性の結晶。
出来れば墓場まで持って行きたい酒である。
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ディストピア物の傑作といえば
もしもあなたが24時間後に確実に死ぬと言われたら、一体どのようにして過ごすだろうか。
全く理不尽な死に、どのようにして向き合うだろうか。
瀧本智行監督の「イキガミ」は、死が国家によって強制される世界を描いた、日本映画では極めて珍しいディストピア物の佳作である。
「国家繁栄維持法」という、奇妙な法律がある国。
命の大切さを実感できるようにと、18歳~24歳までの若者の千人に一人が、毎年この法律によって殺される。
対象となる者には、死の24時間前に死亡通知書、通称イキガミ(逝紙)が届けられる。
藤本賢吾(松田翔太)の仕事は、イキガミの配達人。
今回、彼が配る相手は三人。
一人目は、初めてのテレビ出演を控えた歌手の田辺翼(金井勇太)。
二人目は、国家繁栄維持法の守護者であり、保守系政治家の母(吹雪ジュン)を持つ引きこもりの滝沢直樹(佐野和真)。
三人目は盲目の妹に角膜の移植手術を受けさせたいと願う、チンピラの飯塚さとし(山田孝之)。
イキガミを届けられた彼らは、三者三様の24時間を歩みだし、彼らを見守る賢吾の心にも微妙な変化が生まれてくる・・・
ディストピアとはユートピアの反対語であり、理不尽で不寛容な全体主義社会や管理社会の事で、近未来やパラレルワールドを舞台とする作品が多い。
欧米ではSFの一ジャンルとして確固たる地位を築いており、たぶん一番有名なのは何度も映像化されているジョージ・オーウェル原作の「1984」だろう。
ギリアムの「未来世紀ブラジル」やキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」から、一昨年のアルフォンソ・キュアロンの力作「トゥモロー・ワールド」まで、多くの名作傑作が連なるジャンルでもある。
ところが日本人は根が楽天的なのか、邦画ではあまりメジャーなジャンルとは言えず、近年では中学生同士が殺し合いをさせられる問題作「バトル・ロワイヤル」が記憶に残る程度だ。
「イキガミ」の舞台となるのは国家繁栄の名の下に、若者の千人に一人が国家によって選別、殺害される国。
明らかに日本なのだが、日本という言葉は出てこない。
面白いのは、この映画の世界が現実の日本と異なるのは、国家繁栄維持法という法律の存在だけという点で、どうやら言論の自由もあり民主的な選挙も行われている様だ。
唯一、国家繁栄維持法だけが不可侵な法律であるらしく、この法律に反する者は思想犯として扱われる。
厳密に考えると果たしてそんなことがあり得るだろうかという気もするが、極めて日常的な世界に一つだけ異なる設定を投げ込むという手法は、作品世界を観客の身近に引き寄せ、リアルに感じさせるという点でそれなりに成功していると思う。
イキガミが届けられる三人は、ストリートミュージシャン、引きこもり、闇金回収業のチンピラと、境遇は異なるものの、現代日本のそれぞれのステージを象徴する若者像と言って良いだろう。
彼らは自らの死を告げられた瞬間から、戸惑い悲しみながらも、間近に迫った人生のまとめに向けて走り出す。
まるで、設定上の国家繁栄維持法の精神そのものに、死を真剣に見据えた時に初めて全身全霊をかけて生きるのである。
この物語のテーマは、素直に取れば生きる事の意味そのものだろうし、実際オムニバス的に語られる彼らの最後の24時間のドラマは、どれも短いながらも見応えがある。
原作者の間瀬元朗自らも参加した脚本の出来栄えはなかなかだ。
ただこの作品が面白いのは、三人の若者たちの生と死のドラマが、全体として見ると藤本賢吾という語り部の目を通した、ある種の国家論になっている点であり、実はこの映画の真のテーマはこちらではないのかという気がする。
イキガミ(逝紙)とはつまりアカガミ(赤紙)の事であり、この世界が第二次大戦前の日本のメタファーなのは一目瞭然である。
国家によって殺される18歳から24歳という年齢も、多くの国での徴兵年齢である。
劇中で語られる国家繁栄維持法という法律の存在意義は、千人に一人は確実に死ぬという状況を作る事で、人々に命の大切さ生の素晴らしさを実感させ、その結果として出生率は上がり、GNPは上昇を続け、国家の繁栄がもたらされるという事の様だ。
つまり、この映画の国家は、嘗て大東亜共栄圏という国家の理想を掲げ、数百万の国民を死に追いやった日本という国家と同じように、繁栄の名の下に個人の人間性を犠牲にし、切り捨てる事で維持されているのである。
瀧本智行監督はメタファーを巧みに使い、泣ける物語に描かれる人間性とは対極にある国家という物の正体を少しずつ暴いてゆく。
劇中で、藤本を捉えた監視カメラの映像が印象的に使われるが、映像を見ているのが誰なのかは、一切描写されない。
それはつまり、自己繁栄という目的意識を持った国家という一つの生物の目線であり、だれか個人が見ている訳ではないのだ。
藤本が機械的なイキガミの配達を強いられる様に、カメラの向こうで監視している人間にしても、それは国家の一ピースとしての存在であり、そこに主体的な意識は存在しない。
同様に藤本が通勤に使うモノレールのいかにも頑強そうなレールもまた、人々から思考を奪い去り、定められた道だけを歩ませようとする国家の象徴だろう。
個人が不在で、国家の意思だけが存在する社会、それはどんな民主的な選挙が行われていようが、言論の自由があろうがなかろうが、成立してしまう可能性はある。
国家とはそれ自体が意識を持った生き物で、個人の価値観とは根本の部分でぶつかり合う運命であり、国家の幸せは、イコール個人の幸せとは限らないのである。
ディストピア物の多くは、壮大なSF設定や徹底的に世界観を構築した管理社会の描写を通して、この事実を描き出すが、たった一つの設定だけで同じ事をさりげなく、しかしきっちりと表現している「イキガミ」は、実はかなり効率的かつユニークな作品であると言えるのではないか。
ちなみに、この映画の公開にあわせる様に、「イキガミ」と星新一の短編小説「生活維持省」との類似が話題となっているが、個人的には実に馬鹿げた話に思える。
「生活維持省」は星新一らしいシニカルで良く出来た短編だが、共通点は政府によって選別された国民が殺害されるという発想点だけであり、殺害の対象も方法も目的も異なる。
この発想自体は別に「生活維持省」が始めてという訳ではないし、仮に「イキガミ」の原作者がこの作品からヒントを得たとしても、少なくとも実際の物語に共通点は皆無である。
私は「イキガミ」の原作を全部読んだわけではないが、これがパクリというのなら、タイムトラベル物は全て「タイムマシン」のパクリだし、人間の乗る巨大ロボットは全部「マジンガーZ」のパクリになってしまう。
元々創作というのは長い歳月の間、無数の人材が影響を与え合って生み育ててきた物であり、単なる発想に著作権を認めたら、創作など不可能になってしまう。
黒澤版「隠し砦の三悪人」から「スターウォーズ」を経て、樋口版「隠し砦の三悪人 / The Last Princess」にいたるプロセスは、創作の循環の好例だろう。
著作権の保護は大切な事だが、極端に考えすぎると創造性そのものを破壊してしまうのである。
あの世で星新一が聞いたら、この様な騒ぎは決して望まないだろうと思うのだが。
今回は、もし自分が余命24時間を宣告されたら、飲みたいお酒。
石川県の「天狗舞 古々酒吟醸」をチョイス。
琥珀色に仄かに色づいた液体は芳醇の一言。
口に含むと複雑で奥深いうまみを残して、柔らかな香りと共に滑らかに喉を潤してゆく。
正に古代から人々によって脈々と受け継がれてきた、日本酒の持つ創造性の結晶。
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ディストピア物の傑作といえば


2008年10月04日 (土) | 編集 |
未曾有のアメコミ原作物ラッシュとなった2008年夏。
本国ではその先陣を切って大ヒットしたにもかかわらず、原作の知名度の低さからか日本では4ヶ月も待たされた「アイアンマン」が、ようやく公開となった。
「ダークナイト」の深さは微塵もないが、さすがに全世界で6億ドル近い興行収入を叩き出しただけあり、老若男女客層を問わない娯楽大作としてはかなり良く出来ている。
軍需企業スターク・インダストリーズの二代目CEOにして、天才技術者のトニー・スターク(ロバート・ダウニーJr.)は、アフガニスタンでの新型ミサイルのお披露目試射の帰路、武装勢力に誘拐されてしまう。
デモンストレーションをしたのと同じミサイルを作れと迫られるスタークだが、それを作るフリをしながら、材料を流用してパワード・スーツを作り、脱出に成功する。
自ら作り出した兵器によって、多くの人の血が流されている事を知ったスタークは、自社の軍需産業からの撤退を発表。
アフガンで開発したパワード・スーツが、平和維持の鍵になると考えたスタークは、一人屋敷にこもってスーツの改良作業に没頭する。
しかし、スタークはいつのまにか恐ろしい陰謀に巻き込まれていた・・・
ミサイルをオーダーしたのに、全く形の違うパワード・スーツを作られても、作業の最終段階まで気が付かないタリバンもどきのゲリラ集団はかなりマヌケ。
原作は未読なのだが、元々は60年代に描かれた物だけあって、ベトコンに捕まる設定になっているらしい。
まあ40年もたって、まだ同じ設定が通用するあたり、相変わらずアメリカは戦争ばっかりやっていたのだなあという気分になってしまうが、このアフガンという現在進行形の戦争のエピソードが、一見荒唐無稽な物語にある種のリアリティを与えているのも確かだ。
自分の作り出した兵器によって、自分が命の危険にさらされるスタークの皮肉は、結局兵器産業から撤退した後も、アイアンマンという力の象徴を作り出すことで継続される。
力に頼る限り、その循環から逃げられないというニヒリズムは、作り手が意図したものかどうかは別として、派手なビジュアルと表面的な浅いテーマに対して、ちょっとした裏テーマというか哲学性を与えている。
もっとも、そんな深読みをせずとも、冒頭のアフガンのエピソードから、クライマックスのロボットバトルまで、VFXを駆使したアクションを観ているだけで十分に楽しめる。
ジョン・ファヴロー監督は、派手なビジュアルで飾られた格好の良い映像の合間に、適度なユーモアを挟み込み、一本調子になるのを防いでいる。
特にテクノロジーヲタクであるスタークの幼児性を強調した部分は楽しく、研究室の組み立てロボットとのコントみたいなやり取りは笑える。
アイアンマンのデザインや色に拘ったりするのも、なんとなくプラモ感覚で、空を飛べた時の無邪気な喜び様も含めて、確かにエンジニアってこういうタイプが多いかもと、キャラクターに妙なリアリティがあるのだ。
アイアンマンことトニー・スタークを、この手の映画は一番似合わないロバート・ダウニーJr.が演じているのも本作の話題の一つだが、実際に観てみると、なるほどこの役は彼にピッタリ。
何しろスタークという男は、他のアメコミ・ヒーローの様なタイツスーツで強調された筋骨隆々の体を持つわけでもなく、科学を超えたスーパーパワー持つわけでもない。
気分屋でエゴイストで女たらしの二代目ボンボンで、理想主義者のメカヲタクという異色のヒーローは、彼のような演技派こそ相応しい。
また物語的にはお飾りの域を出ないグウィネス・パルトロウ扮するヒロインも、彼女独特の飄々とした雰囲気が強調され、唯我独尊状態のスタークと良いコントラスト。
メインの登場人物は彼らを含めてわずか4人、後はアフガンのエピソードに敵味方一人ずつと、ぎりぎりまで絞り込まれており、人間的なリアリティとコミック的なカリカチュアもバランスよく、キャラは全員うまく立っている。
「アイアンマン」は、大人も子供も楽しめるSFアクションの快作と言える。
ストレートにヒーローの活躍に喝采を送るもよし、ひねくれた設定を裏読みしてニヤリとするもよし。
いくら出来が良くても「ダークナイト」はさすがに暗すぎるという、正しいアメコミファンには特にお勧めだ。
ただ、陰謀の黒幕である悪のボスキャラが結局何をやりたかったのか良く判らないのは、作劇上の大きなマイナスポイントだ。
クライアント全部を敵に回して、自分専用パワード・スーツを作ったところで、彼には何のメリットも無い様な気がするのだが。
ちなみに、原作の描かれた60年代には考えもつかなかっただろうが、現在人間が装着するパワード・スーツは主に日米で開発が進められ実用化間近の段階にあり、特にアメリカのはバリバリの軍事用である。
また先日、ジェットエンジン付きのウェアラブル・ウィングを開発したスイス人の男性が、
ドーバー海峡を横断したというニュースもあり、この映画に登場するテクノロジーは既に100%荒唐無稽とは言えず、現在においては一定の説得力がある。
近い将来、現実世界に空飛ぶアイアンマン軍団が登場するのかもしれない。
今回は、カリフォルニアから「アイアンマン」じゃなくて「アイアン・ホース」のピノ・ノワール2006年ものを。
国防総省ならぬホワイトハウス御用達のスパークリングワイン、のウエディング・キュヴェで有名な銘柄だが、赤もおいしい。
桃を思わせる柔らかな果実香りが楽しめる芳醇でエレガントなワイン。
とても飲みやすいのも特徴だ。
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本国ではその先陣を切って大ヒットしたにもかかわらず、原作の知名度の低さからか日本では4ヶ月も待たされた「アイアンマン」が、ようやく公開となった。
「ダークナイト」の深さは微塵もないが、さすがに全世界で6億ドル近い興行収入を叩き出しただけあり、老若男女客層を問わない娯楽大作としてはかなり良く出来ている。
軍需企業スターク・インダストリーズの二代目CEOにして、天才技術者のトニー・スターク(ロバート・ダウニーJr.)は、アフガニスタンでの新型ミサイルのお披露目試射の帰路、武装勢力に誘拐されてしまう。
デモンストレーションをしたのと同じミサイルを作れと迫られるスタークだが、それを作るフリをしながら、材料を流用してパワード・スーツを作り、脱出に成功する。
自ら作り出した兵器によって、多くの人の血が流されている事を知ったスタークは、自社の軍需産業からの撤退を発表。
アフガンで開発したパワード・スーツが、平和維持の鍵になると考えたスタークは、一人屋敷にこもってスーツの改良作業に没頭する。
しかし、スタークはいつのまにか恐ろしい陰謀に巻き込まれていた・・・
ミサイルをオーダーしたのに、全く形の違うパワード・スーツを作られても、作業の最終段階まで気が付かないタリバンもどきのゲリラ集団はかなりマヌケ。
原作は未読なのだが、元々は60年代に描かれた物だけあって、ベトコンに捕まる設定になっているらしい。
まあ40年もたって、まだ同じ設定が通用するあたり、相変わらずアメリカは戦争ばっかりやっていたのだなあという気分になってしまうが、このアフガンという現在進行形の戦争のエピソードが、一見荒唐無稽な物語にある種のリアリティを与えているのも確かだ。
自分の作り出した兵器によって、自分が命の危険にさらされるスタークの皮肉は、結局兵器産業から撤退した後も、アイアンマンという力の象徴を作り出すことで継続される。
力に頼る限り、その循環から逃げられないというニヒリズムは、作り手が意図したものかどうかは別として、派手なビジュアルと表面的な浅いテーマに対して、ちょっとした裏テーマというか哲学性を与えている。
もっとも、そんな深読みをせずとも、冒頭のアフガンのエピソードから、クライマックスのロボットバトルまで、VFXを駆使したアクションを観ているだけで十分に楽しめる。
ジョン・ファヴロー監督は、派手なビジュアルで飾られた格好の良い映像の合間に、適度なユーモアを挟み込み、一本調子になるのを防いでいる。
特にテクノロジーヲタクであるスタークの幼児性を強調した部分は楽しく、研究室の組み立てロボットとのコントみたいなやり取りは笑える。
アイアンマンのデザインや色に拘ったりするのも、なんとなくプラモ感覚で、空を飛べた時の無邪気な喜び様も含めて、確かにエンジニアってこういうタイプが多いかもと、キャラクターに妙なリアリティがあるのだ。
アイアンマンことトニー・スタークを、この手の映画は一番似合わないロバート・ダウニーJr.が演じているのも本作の話題の一つだが、実際に観てみると、なるほどこの役は彼にピッタリ。
何しろスタークという男は、他のアメコミ・ヒーローの様なタイツスーツで強調された筋骨隆々の体を持つわけでもなく、科学を超えたスーパーパワー持つわけでもない。
気分屋でエゴイストで女たらしの二代目ボンボンで、理想主義者のメカヲタクという異色のヒーローは、彼のような演技派こそ相応しい。
また物語的にはお飾りの域を出ないグウィネス・パルトロウ扮するヒロインも、彼女独特の飄々とした雰囲気が強調され、唯我独尊状態のスタークと良いコントラスト。
メインの登場人物は彼らを含めてわずか4人、後はアフガンのエピソードに敵味方一人ずつと、ぎりぎりまで絞り込まれており、人間的なリアリティとコミック的なカリカチュアもバランスよく、キャラは全員うまく立っている。
「アイアンマン」は、大人も子供も楽しめるSFアクションの快作と言える。
ストレートにヒーローの活躍に喝采を送るもよし、ひねくれた設定を裏読みしてニヤリとするもよし。
いくら出来が良くても「ダークナイト」はさすがに暗すぎるという、正しいアメコミファンには特にお勧めだ。
ただ、陰謀の黒幕である悪のボスキャラが結局何をやりたかったのか良く判らないのは、作劇上の大きなマイナスポイントだ。
クライアント全部を敵に回して、自分専用パワード・スーツを作ったところで、彼には何のメリットも無い様な気がするのだが。
ちなみに、原作の描かれた60年代には考えもつかなかっただろうが、現在人間が装着するパワード・スーツは主に日米で開発が進められ実用化間近の段階にあり、特にアメリカのはバリバリの軍事用である。
また先日、ジェットエンジン付きのウェアラブル・ウィングを開発したスイス人の男性が、
ドーバー海峡を横断したというニュースもあり、この映画に登場するテクノロジーは既に100%荒唐無稽とは言えず、現在においては一定の説得力がある。
近い将来、現実世界に空飛ぶアイアンマン軍団が登場するのかもしれない。
今回は、カリフォルニアから「アイアンマン」じゃなくて「アイアン・ホース」のピノ・ノワール2006年ものを。
国防総省ならぬホワイトハウス御用達のスパークリングワイン、のウエディング・キュヴェで有名な銘柄だが、赤もおいしい。
桃を思わせる柔らかな果実香りが楽しめる芳醇でエレガントなワイン。
とても飲みやすいのも特徴だ。

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