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2008年11月30日 (日) | 編集 |
捕虜を殺した容疑で逮捕された元兵士が、戦犯として処刑されるまでの日々を描いた「私は貝になりたい」のリメイク。
伝説的な脚本家、橋本忍の代表作の一つであり、監督デビュー作として知られる作品だが、今回のリメイクでは御歳90歳の橋本自らが脚本をリライトし、テレビドラマで多くの秀作を手がけてきた福沢克雄が、劇場用映画初のメガホンを取っている。
戦後僅か13年の時点で作られたオリジナルに対して、半世紀の時を経てリメイクされる本作には、どの様な意味付けがなされているのか、極めて興味深い。
昭和19年。
高知の田舎で床屋を営んでいた清水豊松(中居正広)は、妻の房江(仲間由紀恵)と息子の健一(加藤翼)を残して出征する。
新兵として激しい訓練の日々を送っていたある日、豊松の部隊は撃墜されたB-29搭乗員の捜索に駆りだされる。
山中で瀕死の米兵が捉えられるが、司令部からの「米兵を適切に処置せよ」という命令を「処刑せよ」という意味だと受け取った指揮官によって、豊松は縛られた米兵を銃剣で刺殺するように命じられる。
やがて戦争が終わり、復員して家族と平穏に暮らしていた豊松の元へ、突然米軍のMPが訪れ、豊松は捕虜を殺した戦犯容疑者として逮捕されてしまうのだが・・・
元々オリジナルは、1958年に現在のTBSの前身であるラジオ東京テレビが放送したフランキー堺主演のテレビドラマで、翌1959年に同じくフランキー堺主演、橋本忍監督作品として映画版が作られている。
テレビドラマとしては、1994年にも所ジョージ主演でリメイクされており、今回の映画化は通算四度目の映像化となる。
なお同タイトルのドラマが昨年日本テレビ系でも作られているが、こちらは橋本忍と原作権を巡って長年裁判を繰り広げた加藤哲太郎の著作を直接の原作としており、内容的にも橋本版とは大幅に異なるため、別の作品と考えるべきだろう。
タイトルの「私は貝になりたい」とは、処刑される豊松が家族に残した遺書の中で、最期に語られる一文である。
絶対服従の命令に従っただけで、実際には捕虜を殺してすらいない豊松が、自らに降りかかった理不尽な運命に対して、もし生まれ変わってももう人間にはなりたくない、戦争の無い深海の貝になりたい、という悲痛な心情を吐露した言葉だ。
不朽の名作とされているオリジナルのドラマだが、実は脚本を読んだ黒澤明は「橋本よ、これじゃあ貝にはなれんのじゃないか」と感想を述べたと伝えられており、黒澤組の同僚だった菊島隆三も同様の苦言を呈していたらしい。
一度完成させた脚本は、基本的に手をつけないという橋本忍が、今回半世紀ぶりに本格的なリライトに踏み切ったのは、どうやらこの黒澤の言葉が彼自身の中でも引っかかっていたからの様だ。
私がオリジナルのドラマを観たのは、25年ほど前に再放送された時の事だと思う。
あまりにも理不尽な運命に翻弄される豊松の姿に、深く心を打たれたものの、観終わった時に何かモヤモヤしたものが残ったのを覚えている。
中学生だった私には、それがなぜなのか良く判らなかったのだが、後に観直して理解出来た。
オリジナルでフランキー堺が演じた豊松は、最初からずっと希望を失っていない。
自分は処刑されるような事はしていないし、判決は何かの間違いだ、米軍もそのうちきっと判ってくれると思い続けているのである。
それゆえに、刑務所の房を移る事を命じられた時、自分は減刑されて助かるんだと思い込み、実際には処刑が執行される事を知った時に、深い絶望に突き落とされ、タイトルとなる遺書を残すのだが、この遺書の中で豊松は自らが捨て去りたい人間社会の思い出に、愛しているはずの妻子も含めているのである。
中学生の私は、豊松の遺書に同情しながらも、家族に対する裏切りを同時に感じ取って戸惑ったのだろうと思う。
黒澤明の言葉の真意は、今となっては判らないが、私も物語の流れから豊松の心情を考えれば「貝」にはならないだろうなと感じたのは事実だ。
もっとも、最愛の家族にすら背を向けるほどの絶望感に豊松が陥ったと言う解釈も出来るし、橋本忍がこの言葉を最期に持ってきた意図はそちらではないかという気もしている。
今回のリメイクでは、深海の貝になりたいというイメージを補足するために、豊松の暮らす街外れの岬から見える海の映像を、象徴的に使っている。
豊松の人生の節目節目に描写される岬は、帰るべき家と外界とを隔てる境界のイメージだろうし、ここから見た海の映像にインパクトがあるおかげで、ラストで人間社会への絶望が海底の貝へと転化する事は自然に感じられる。
しかし、個人的には豊松の遺書の持つ裏切りの印象は、かえって増幅されてしまっているように思える。
それはオリジナルに比べると、痛々しいくらいに献身的な妻、房江の比重が増している事と、刑務所での豊松が希望と絶望を半々に持ち合わせているキャラクターに描写されている事で、最期の絶望感への落差がオリジナルよりもむしろ和らいでいる事が原因だろう。
遺書の中の「房江や、健一のことを心配することもない」という部分には、やはりそりゃないよと思わざるを得なかった。
この遺書は、加藤哲太郎の「狂える戦犯死刑囚」からの引用なのは、裁判沙汰になった事でよく知られているが、元になった文章の妻子に言及した部分とは、若干ニュアンスが異なっている。
もっとも、ラストのモヤモヤは相変わらずながら、映画としての完成度は高く、執筆後半世紀を経た物語も、その意義を失っていない。
人間にとって世界がより小さく、そして複雑に絡み合った現在、「平和と人道に対する罪」を問う事の難しさはむしろ実感を増しているのではないだろうか。
戦争が単に物理的な破壊だけでなく、様々な形で人間を翻弄し、絶望を植えつける残酷なものだと言う事も、強いリアリティを持って描写されているし、物語上妻の比重が増えた事で、臭いものには蓋をして忘れ去ろうとする日本社会の歪みもしっかりと印象に残る。
福沢克雄の演出は風格もあり、テンポも良く、2時間20分の間スクリーンから目を離せないし、体重を9キロ落として豊松役に挑んだ中居正広、夫を救うために行動する房江を演じた仲間由紀恵は予想以上の好演と言える。
ただ、テレビ番組のつながりを露骨に感じさせるゲスト出演者の使い方や、演出と役者の芝居だけで十分エモーショナルなのに、喧しさを感じさせるくらいに鳴り響く久石譲の音楽は少々テレビ的な過剰さを感じさせて余計だった。
今回は、豊松が帰りたかった高知の代表的な酒「酔鯨 吟麗 純米吟醸」をチョイス。
高知の地酒らしく端麗で軽快。
フレッシュな吟醸香も心地よく、適度な酸味も食欲を高めてくれる。
美味い肴と一緒に、グイグイと飲んでしまいそうな酒だ。
太平洋を悠々と泳ぐ鯨の姿は、あの岬からも見えたに違いない。
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伝説的な脚本家、橋本忍の代表作の一つであり、監督デビュー作として知られる作品だが、今回のリメイクでは御歳90歳の橋本自らが脚本をリライトし、テレビドラマで多くの秀作を手がけてきた福沢克雄が、劇場用映画初のメガホンを取っている。
戦後僅か13年の時点で作られたオリジナルに対して、半世紀の時を経てリメイクされる本作には、どの様な意味付けがなされているのか、極めて興味深い。
昭和19年。
高知の田舎で床屋を営んでいた清水豊松(中居正広)は、妻の房江(仲間由紀恵)と息子の健一(加藤翼)を残して出征する。
新兵として激しい訓練の日々を送っていたある日、豊松の部隊は撃墜されたB-29搭乗員の捜索に駆りだされる。
山中で瀕死の米兵が捉えられるが、司令部からの「米兵を適切に処置せよ」という命令を「処刑せよ」という意味だと受け取った指揮官によって、豊松は縛られた米兵を銃剣で刺殺するように命じられる。
やがて戦争が終わり、復員して家族と平穏に暮らしていた豊松の元へ、突然米軍のMPが訪れ、豊松は捕虜を殺した戦犯容疑者として逮捕されてしまうのだが・・・
元々オリジナルは、1958年に現在のTBSの前身であるラジオ東京テレビが放送したフランキー堺主演のテレビドラマで、翌1959年に同じくフランキー堺主演、橋本忍監督作品として映画版が作られている。
テレビドラマとしては、1994年にも所ジョージ主演でリメイクされており、今回の映画化は通算四度目の映像化となる。
なお同タイトルのドラマが昨年日本テレビ系でも作られているが、こちらは橋本忍と原作権を巡って長年裁判を繰り広げた加藤哲太郎の著作を直接の原作としており、内容的にも橋本版とは大幅に異なるため、別の作品と考えるべきだろう。
タイトルの「私は貝になりたい」とは、処刑される豊松が家族に残した遺書の中で、最期に語られる一文である。
絶対服従の命令に従っただけで、実際には捕虜を殺してすらいない豊松が、自らに降りかかった理不尽な運命に対して、もし生まれ変わってももう人間にはなりたくない、戦争の無い深海の貝になりたい、という悲痛な心情を吐露した言葉だ。
不朽の名作とされているオリジナルのドラマだが、実は脚本を読んだ黒澤明は「橋本よ、これじゃあ貝にはなれんのじゃないか」と感想を述べたと伝えられており、黒澤組の同僚だった菊島隆三も同様の苦言を呈していたらしい。
一度完成させた脚本は、基本的に手をつけないという橋本忍が、今回半世紀ぶりに本格的なリライトに踏み切ったのは、どうやらこの黒澤の言葉が彼自身の中でも引っかかっていたからの様だ。
私がオリジナルのドラマを観たのは、25年ほど前に再放送された時の事だと思う。
あまりにも理不尽な運命に翻弄される豊松の姿に、深く心を打たれたものの、観終わった時に何かモヤモヤしたものが残ったのを覚えている。
中学生だった私には、それがなぜなのか良く判らなかったのだが、後に観直して理解出来た。
オリジナルでフランキー堺が演じた豊松は、最初からずっと希望を失っていない。
自分は処刑されるような事はしていないし、判決は何かの間違いだ、米軍もそのうちきっと判ってくれると思い続けているのである。
それゆえに、刑務所の房を移る事を命じられた時、自分は減刑されて助かるんだと思い込み、実際には処刑が執行される事を知った時に、深い絶望に突き落とされ、タイトルとなる遺書を残すのだが、この遺書の中で豊松は自らが捨て去りたい人間社会の思い出に、愛しているはずの妻子も含めているのである。
中学生の私は、豊松の遺書に同情しながらも、家族に対する裏切りを同時に感じ取って戸惑ったのだろうと思う。
黒澤明の言葉の真意は、今となっては判らないが、私も物語の流れから豊松の心情を考えれば「貝」にはならないだろうなと感じたのは事実だ。
もっとも、最愛の家族にすら背を向けるほどの絶望感に豊松が陥ったと言う解釈も出来るし、橋本忍がこの言葉を最期に持ってきた意図はそちらではないかという気もしている。
今回のリメイクでは、深海の貝になりたいというイメージを補足するために、豊松の暮らす街外れの岬から見える海の映像を、象徴的に使っている。
豊松の人生の節目節目に描写される岬は、帰るべき家と外界とを隔てる境界のイメージだろうし、ここから見た海の映像にインパクトがあるおかげで、ラストで人間社会への絶望が海底の貝へと転化する事は自然に感じられる。
しかし、個人的には豊松の遺書の持つ裏切りの印象は、かえって増幅されてしまっているように思える。
それはオリジナルに比べると、痛々しいくらいに献身的な妻、房江の比重が増している事と、刑務所での豊松が希望と絶望を半々に持ち合わせているキャラクターに描写されている事で、最期の絶望感への落差がオリジナルよりもむしろ和らいでいる事が原因だろう。
遺書の中の「房江や、健一のことを心配することもない」という部分には、やはりそりゃないよと思わざるを得なかった。
この遺書は、加藤哲太郎の「狂える戦犯死刑囚」からの引用なのは、裁判沙汰になった事でよく知られているが、元になった文章の妻子に言及した部分とは、若干ニュアンスが異なっている。
もっとも、ラストのモヤモヤは相変わらずながら、映画としての完成度は高く、執筆後半世紀を経た物語も、その意義を失っていない。
人間にとって世界がより小さく、そして複雑に絡み合った現在、「平和と人道に対する罪」を問う事の難しさはむしろ実感を増しているのではないだろうか。
戦争が単に物理的な破壊だけでなく、様々な形で人間を翻弄し、絶望を植えつける残酷なものだと言う事も、強いリアリティを持って描写されているし、物語上妻の比重が増えた事で、臭いものには蓋をして忘れ去ろうとする日本社会の歪みもしっかりと印象に残る。
福沢克雄の演出は風格もあり、テンポも良く、2時間20分の間スクリーンから目を離せないし、体重を9キロ落として豊松役に挑んだ中居正広、夫を救うために行動する房江を演じた仲間由紀恵は予想以上の好演と言える。
ただ、テレビ番組のつながりを露骨に感じさせるゲスト出演者の使い方や、演出と役者の芝居だけで十分エモーショナルなのに、喧しさを感じさせるくらいに鳴り響く久石譲の音楽は少々テレビ的な過剰さを感じさせて余計だった。
今回は、豊松が帰りたかった高知の代表的な酒「酔鯨 吟麗 純米吟醸」をチョイス。
高知の地酒らしく端麗で軽快。
フレッシュな吟醸香も心地よく、適度な酸味も食欲を高めてくれる。
美味い肴と一緒に、グイグイと飲んでしまいそうな酒だ。
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2008年11月25日 (火) | 編集 |
ある日突然、全人類が失明してしまったら・・・
「ブラインドネス」は、人類から視覚が奪われた世界を描く、異色のSFサスペンス。
ノーベル賞作家のジョセ・サラマーゴ原作の「白の闇」を、スクリーンに映し出したのは鬼才フェルナンド・メイレレス。
世界を感じる最も頼るべき力を失った時、人はどう生きるのかを問うた問題作である。
ある日の街角。
一人の日本人男性(伊勢谷友介)が、突然視力を失う。
それは暗黒の闇ではなく、目の前に光が溢れ、白の闇につつまれるという奇妙な現象。
彼は妻(木村佳乃)と共に眼科医(マーク・ラファロ)に駆けつけるが、別段異常は見つからず、眼科医は心因性のものだろうと考える。
ところが、その翌朝眼科医も視力を失い、謎の失明現象は急速に広まってゆく。
政府は感染者の隔離に踏み切り、眼科医も隔離施設に送られる事になるのだが、彼の妻(ジュリアン・ムーア)は見えているにもかかわらず、失明したと偽って夫に同行する。
やがて、隔離施設の収容者は膨れ上がり、外の世界も急速に崩壊してゆく。
だが、医師の妻には感染の兆候があらわれず、盲目の人々の中でただ一人の「見える人」でありつづけるのだが・・・・
舞台となるのは、ある国の、ある街。
明確な情報は明示されず、登場人物も名前を持たない。
「医者」だとか、「医者の妻」とか「泥棒」「サングラスの女」などの言葉で形容されるだけである。
何処でもなく、誰でもないということは、逆に言えば何処でもあり、誰でもあるという事である。
世界の縮図として、選ばれた街という事だろう。
映画は、ただ一人の見える人間である「医者の妻」の視点で、この壊れた世界を観察するように進んでゆく。
「白の闇」という現象で人々が失明し始めると、政府は直ぐに隔離政策をとる。
これ自体はまあ普通の対応だし、未知の危険に遭遇した場合、それを可能な限り遠ざけ様とするのは、人間の本能と言っても良いだろう。
興味深いのは、遠ざけられた危険、つまり感染者に対する社会の無関心だ。
一度排除された異物に対して、社会が全く関心を失ってしまう、つまり自らの一部とはもはや見做さなくなるというのは、ナチスの絶滅収容所、あるいは日系人強制収容所を思わせる隔離病棟の描写が雄弁に物語る。
そして見えないという困難を共有する、見捨てられた者同士は、しばらくの間は不便はあっても平等で平和な日々を過ごす。
しかし、閉ざされた世界のキャパシティが限界に達すると、力を持つ統率者が全てを支配しようとするのも、人間の世界の常。
一丁の銃を手にした、「第三病棟の王」が食料を独占し、力による支配を開始すると、物語は人間社会の醜さをカリカチュアしはじめる。
要するに、このあたりはウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」なのだけど、正直この部分のキャラクターの描き方は私にはあまりリアリティを感じなかった。
収容所に君臨する「王」に対して、人々はまったく無抵抗で、要求されれば愛する妻や恋人すら差し出す。
こんな事がありえるだろうか。
支配者の力のよりどころはたった一丁の銃であり、何より彼も「見えない」事に変わりは無いのである。
戦争になったところで、敵味方すら判らないのに、戦う事をこれほど恐れる理由が見えない。
「王」にしたところで、どう考えても役に立ちそうも無い貴金属類などを集め始めるのはいかがなものか。
また、ここで一番曖昧になってしまったのは、主人公であり、唯一の見える人である「医師の妻」のキャラクターだ。
何しろ彼女は見えるのである。
聞くところによると、人間は情報収集の90%以上を視覚に頼っていると言う。
つまり、この世界での彼女は神に匹敵する超人なのだ。
その気になれば第三病棟の男たちを、彼女一人だけで皆殺しにする事も容易いだろう。
それなのに、「王」の要求に応じて自らを差し出してまで、見えるという事を秘密にしようとする理由はスクリーンからは読み取れない。
文字通り物語の「目」であり、この「白の闇」の中で、観客のガイドでもある彼女を、理解しがたい人物にしてしまったのは、全体としては大きなマイナスだと思う。
悲劇的な最期を遂げる「泥棒」役で出演もしている、脚本のドン・マッケラーは難しい素材相手に健闘していると思うが、この作品の中盤の山場とも言うべき小さな世界の支配権を巡る物語は、ややリアリティを欠く印象が強い。
逆に、遂に世界全体が崩壊し、人々が塀の外に出てからの展開は、物語の主題がストレートに伝わってくる。
果たして、この「白の闇」の正体は一体何なのか。
様々な情報によって、自分たち自身が何者なのか判らなくなってしまった人類を、今一度リセットさせるために神が仕組んだ事なのかも知れない。
少なくとも映画のラストで、自分の番だと考えた「医師の妻」はそう思ったのだろう。
しかし、実際のラストカットの意図する事は・・・・。
理不尽さを強調しすぎて、無理を感じさせてしまった中盤が惜しまれるが、人間心理の奥底に果敢に切り込んでゆく、メイレレスのパワフルな演出はさすがに見応えがある。
色々な意味で、人間性というものを考えさせてくれる力作であった。
今回は、映画の様に無色透明から白くなるお酒「イエニラク」をチョイス。
ラクとはトルコを中心とした地域で、ブドウとアニスから作られる蒸留酒で、水で割ると白く濁るマジックのような不思議な酒。
トルコでは「ライオンのミルク」とも言われる。
アニスを使ったお酒に共通するが、独特の香りが強いので、好みははっきりと別れるだろう。
この臭いがOKならば、結構クセになる味だと思う。
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「ブラインドネス」は、人類から視覚が奪われた世界を描く、異色のSFサスペンス。
ノーベル賞作家のジョセ・サラマーゴ原作の「白の闇」を、スクリーンに映し出したのは鬼才フェルナンド・メイレレス。
世界を感じる最も頼るべき力を失った時、人はどう生きるのかを問うた問題作である。
ある日の街角。
一人の日本人男性(伊勢谷友介)が、突然視力を失う。
それは暗黒の闇ではなく、目の前に光が溢れ、白の闇につつまれるという奇妙な現象。
彼は妻(木村佳乃)と共に眼科医(マーク・ラファロ)に駆けつけるが、別段異常は見つからず、眼科医は心因性のものだろうと考える。
ところが、その翌朝眼科医も視力を失い、謎の失明現象は急速に広まってゆく。
政府は感染者の隔離に踏み切り、眼科医も隔離施設に送られる事になるのだが、彼の妻(ジュリアン・ムーア)は見えているにもかかわらず、失明したと偽って夫に同行する。
やがて、隔離施設の収容者は膨れ上がり、外の世界も急速に崩壊してゆく。
だが、医師の妻には感染の兆候があらわれず、盲目の人々の中でただ一人の「見える人」でありつづけるのだが・・・・
舞台となるのは、ある国の、ある街。
明確な情報は明示されず、登場人物も名前を持たない。
「医者」だとか、「医者の妻」とか「泥棒」「サングラスの女」などの言葉で形容されるだけである。
何処でもなく、誰でもないということは、逆に言えば何処でもあり、誰でもあるという事である。
世界の縮図として、選ばれた街という事だろう。
映画は、ただ一人の見える人間である「医者の妻」の視点で、この壊れた世界を観察するように進んでゆく。
「白の闇」という現象で人々が失明し始めると、政府は直ぐに隔離政策をとる。
これ自体はまあ普通の対応だし、未知の危険に遭遇した場合、それを可能な限り遠ざけ様とするのは、人間の本能と言っても良いだろう。
興味深いのは、遠ざけられた危険、つまり感染者に対する社会の無関心だ。
一度排除された異物に対して、社会が全く関心を失ってしまう、つまり自らの一部とはもはや見做さなくなるというのは、ナチスの絶滅収容所、あるいは日系人強制収容所を思わせる隔離病棟の描写が雄弁に物語る。
そして見えないという困難を共有する、見捨てられた者同士は、しばらくの間は不便はあっても平等で平和な日々を過ごす。
しかし、閉ざされた世界のキャパシティが限界に達すると、力を持つ統率者が全てを支配しようとするのも、人間の世界の常。
一丁の銃を手にした、「第三病棟の王」が食料を独占し、力による支配を開始すると、物語は人間社会の醜さをカリカチュアしはじめる。
要するに、このあたりはウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」なのだけど、正直この部分のキャラクターの描き方は私にはあまりリアリティを感じなかった。
収容所に君臨する「王」に対して、人々はまったく無抵抗で、要求されれば愛する妻や恋人すら差し出す。
こんな事がありえるだろうか。
支配者の力のよりどころはたった一丁の銃であり、何より彼も「見えない」事に変わりは無いのである。
戦争になったところで、敵味方すら判らないのに、戦う事をこれほど恐れる理由が見えない。
「王」にしたところで、どう考えても役に立ちそうも無い貴金属類などを集め始めるのはいかがなものか。
また、ここで一番曖昧になってしまったのは、主人公であり、唯一の見える人である「医師の妻」のキャラクターだ。
何しろ彼女は見えるのである。
聞くところによると、人間は情報収集の90%以上を視覚に頼っていると言う。
つまり、この世界での彼女は神に匹敵する超人なのだ。
その気になれば第三病棟の男たちを、彼女一人だけで皆殺しにする事も容易いだろう。
それなのに、「王」の要求に応じて自らを差し出してまで、見えるという事を秘密にしようとする理由はスクリーンからは読み取れない。
文字通り物語の「目」であり、この「白の闇」の中で、観客のガイドでもある彼女を、理解しがたい人物にしてしまったのは、全体としては大きなマイナスだと思う。
悲劇的な最期を遂げる「泥棒」役で出演もしている、脚本のドン・マッケラーは難しい素材相手に健闘していると思うが、この作品の中盤の山場とも言うべき小さな世界の支配権を巡る物語は、ややリアリティを欠く印象が強い。
逆に、遂に世界全体が崩壊し、人々が塀の外に出てからの展開は、物語の主題がストレートに伝わってくる。
果たして、この「白の闇」の正体は一体何なのか。
様々な情報によって、自分たち自身が何者なのか判らなくなってしまった人類を、今一度リセットさせるために神が仕組んだ事なのかも知れない。
少なくとも映画のラストで、自分の番だと考えた「医師の妻」はそう思ったのだろう。
しかし、実際のラストカットの意図する事は・・・・。
理不尽さを強調しすぎて、無理を感じさせてしまった中盤が惜しまれるが、人間心理の奥底に果敢に切り込んでゆく、メイレレスのパワフルな演出はさすがに見応えがある。
色々な意味で、人間性というものを考えさせてくれる力作であった。
今回は、映画の様に無色透明から白くなるお酒「イエニラク」をチョイス。
ラクとはトルコを中心とした地域で、ブドウとアニスから作られる蒸留酒で、水で割ると白く濁るマジックのような不思議な酒。
トルコでは「ライオンのミルク」とも言われる。
アニスを使ったお酒に共通するが、独特の香りが強いので、好みははっきりと別れるだろう。
この臭いがOKならば、結構クセになる味だと思う。

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2008年11月20日 (木) | 編集 |
ウォーリーと言っても、あのメガネでシマシマの服の人ではない。
「Waste Allocation Load Lifter Earth-Class」の頭文字をとったウォーリーは、ピクサー・アニメーションスタジオの最新作「WALL・E / ウォーリー」の主人公で、人類の去った地球を綺麗にするために、700年もの間一人ぼっちでゴミ集めをしていたロボット。
意外にもピクサーとしては9本目の長編にして初のSFとなる本作は、前半はほぼ二体のロボットだけで物語が進行し、ロボットが自分の名前を言う意外に台詞が無いなど、内容的にも非常に冒険的な作品となっている。
人類が地球そのものを浪費しつくし、巨大なゴミ貯めとなった故郷を放棄してから700年。
ロボットのウォーリー(ベン・バート)は、たった一人で今日も働く。
何時の日か人類が帰還する時のため、地球に残された何千と言うゴミ処理ロボットの最後の一体だ。
彼は毎日何時果てるともないゴミの山を、少しずつ処理して積み上げる。
友達は、一匹のゴキブリだけ。
幸せだった頃の人類が残した映画「ハロー、ドーリー!」のビデオを見て、ウォーリーは何時の日か、自分以外の誰かと手をつなぐ事を夢見ている。
そんなある日、地球に一隻の宇宙船がやって来て、ツルツルした卵のようなロボットを残してゆく。
ちょっとでもキケンを感じると、容赦なく熱線ビームをぶっぱなす、その美しくも物騒なロボットは、イヴ(エリッシャ・ナイト)と名乗った。
初めて出来たロボットの友達と、幸せな日々を過ごすウォーリー。
しかしある時、ウォーリーが偶然見つけた植物の苗を見たイヴは、それを体内に取り込んで突然機能を停止してしまう。
そして、イヴを回収するために、あの宇宙船がやって来るのだが・・・
前半と後半で、物語のタッチが大きく異なり、まるで二部構成の様になっている。
廃棄された地球を舞台に、二台のロボット(と一匹のゴキブリ)の生活を描く前半は、言ってみれば異色のラブストーリー。
たった一人で過ごした700年の間に、ウォーリーには「感情」という奇跡が芽生えている。
あえて言葉は封印され、廃墟とゴミに溢れた世界を背景に、ゴキブリを立会人にした詩情あふれる物語は、そこに深遠な哲学すら感じさせる見事な出来栄え。
見るからに最新ハイテクなイヴに対して、ボロボロで無骨なデザインのウォーリーは、いわば美女と野獣の関係で、明確な表情すら持たないロボットを主人公に、これほどわかりやすく喜怒哀楽を感じさせるのだから、とてつもない演出力である。
その映像的なアプローチは非常に実写的で、ライブアクションの撮影には今回ILMが参加し、本作のプロデューサーもILM出身のジム・モリスが担当している。
劇中に実写映画の「ハロー、ドーリー!」の映像がそのまま流される事もあって、前半だけならVFXをふんだんに使った実写作品と見えなくも無い。
因みにウォーリーらの声を含むサウンドデザインは、「スターウォーズ」でロボット語を作り上げたベン・バートによるものだ。
ところが、ウォーリーがイヴを追って宇宙へ飛び出し、巨大宇宙船に暮らす人間たちが登場する後半は、良くも悪くも典型的なハリウッドアニメ調だ。
機械によって至れり尽くせりと世話されているうちに、怠惰のためにブクブク太り、歩く事すらままならなくなった人間たちは、「ハロー、ドーリー!」のバーブラ・ストライサンドやウォルター・マッソーとは似ても似つかない完全なアニメキャラにデザインされている。
イヴを想うウォーリーの一途な行動によって、機械に支配されていた人間たちが自らの意思をとりもどすという展開は正直なところ予定調和で、つい最近某映画で観た様な悪役キャラ(?)にしても超が付く位お馴染みの設定だ。
ただ、この作品はSF映画のパロディとしての側面もあり、類型的な展開が必ずしもネガティブに作用している訳ではないし、アンドリュー・スタントン監督は、ベタなお話でもパワフルな映像とテンポの良い演出でしっかりと見せ切る。
考えてみれば、名作の誉れ高い彼の前作「ファインディング・ニモ」も、お話そのものはごくごくありきたりな内容だった。
人間は、色々な物を失って初めてその大切さに気づく生き物だが、この映画でも自らの放漫さによって地球を巨大なゴミ貯めに変えてしまい、機械に頼ってようやく生かされている。
そんな堕落した人類を目覚めさせるのが、人間以上に人間的なちっぽけなロボットのささやかな恋心というのは、実際観てみると何気に筋が通っているのである。
スタントンは「ショート・サーキット」や「E.T」をはじめ、過去の様々なSF映画から映画的記憶を引用しているが、一人ぼっちで延々とゴミを処理するウォーリーの孤独な姿は、ダグラス・トランブル監督の傑作SF「サイレント・ランニング」に登場する、三体のロボットを思い起こさせる。
地球最後の植物を載せた宇宙船のドームの中で、たった一体残ったロボットが黙々と植物の世話をする有名なラストシーンは、ウォーリーのイメージに極めて近い。
思えば「サイレント・ランニング」は、人類による環境破壊をSFという手法で警告したパイオニア的な作品であり、同一のテーマを含む本作が大きな影響を受けていても何ら不思議ではないだろう。
エコロジーから心の在り様まで、「WALL・E / ウォーリー」が含む内容は広くて深い。
子供が楽しめるのはもちろん、大人にも十分な感銘を与えてくれる秀作である。
人類を管理する宇宙船のコンピューターを演じているのは、あのシガニー・ウィーバー。
彼女の声は「エイリアン」のパロディにもなっている。
また、ウォーリーの起動音がマックの起動音と同じなのも笑える。
ウォーリーが作られたのは22世紀という設定だが、まさかOSは未来のマック?(笑
ピクサーの育ての親が、アップルの創業者スティーブ・ジョブスであることはよく知られているが、このあたりマックファンはニヤリとしてしまうだろう。
その他にも細部に色々とマニアックな仕掛けが施されており、遊び心も相変わらず満載だ。
今回は、カリフォルニア州エマリービルのピクサー・アニメーション・スタジオから程近い、バークレーにあるビール会社ピラミッド・ブリュワリーズの「Pyramid Broken Rake」をチョイス。
秋限定のこの酒は、アルコール度数が高めにもかかわらずマイルドで非常に飲みやすい。
ピラミッドは、残念ながら日本には正規輸入されていないが、西海岸なら手に入りやすいので、お土産などにお勧めだ。
このビールの本社はシアトルだが、バークレー工場に併設されたバー「Alehouse」では、作りたてのビールを飲む事が出来、ピクサーのスタッフも仕事帰りによくやって来るという。
行ってみたらスタントンやラセターに会えるかも?
http://www.pyramidbrew.com/
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「Waste Allocation Load Lifter Earth-Class」の頭文字をとったウォーリーは、ピクサー・アニメーションスタジオの最新作「WALL・E / ウォーリー」の主人公で、人類の去った地球を綺麗にするために、700年もの間一人ぼっちでゴミ集めをしていたロボット。
意外にもピクサーとしては9本目の長編にして初のSFとなる本作は、前半はほぼ二体のロボットだけで物語が進行し、ロボットが自分の名前を言う意外に台詞が無いなど、内容的にも非常に冒険的な作品となっている。
人類が地球そのものを浪費しつくし、巨大なゴミ貯めとなった故郷を放棄してから700年。
ロボットのウォーリー(ベン・バート)は、たった一人で今日も働く。
何時の日か人類が帰還する時のため、地球に残された何千と言うゴミ処理ロボットの最後の一体だ。
彼は毎日何時果てるともないゴミの山を、少しずつ処理して積み上げる。
友達は、一匹のゴキブリだけ。
幸せだった頃の人類が残した映画「ハロー、ドーリー!」のビデオを見て、ウォーリーは何時の日か、自分以外の誰かと手をつなぐ事を夢見ている。
そんなある日、地球に一隻の宇宙船がやって来て、ツルツルした卵のようなロボットを残してゆく。
ちょっとでもキケンを感じると、容赦なく熱線ビームをぶっぱなす、その美しくも物騒なロボットは、イヴ(エリッシャ・ナイト)と名乗った。
初めて出来たロボットの友達と、幸せな日々を過ごすウォーリー。
しかしある時、ウォーリーが偶然見つけた植物の苗を見たイヴは、それを体内に取り込んで突然機能を停止してしまう。
そして、イヴを回収するために、あの宇宙船がやって来るのだが・・・
前半と後半で、物語のタッチが大きく異なり、まるで二部構成の様になっている。
廃棄された地球を舞台に、二台のロボット(と一匹のゴキブリ)の生活を描く前半は、言ってみれば異色のラブストーリー。
たった一人で過ごした700年の間に、ウォーリーには「感情」という奇跡が芽生えている。
あえて言葉は封印され、廃墟とゴミに溢れた世界を背景に、ゴキブリを立会人にした詩情あふれる物語は、そこに深遠な哲学すら感じさせる見事な出来栄え。
見るからに最新ハイテクなイヴに対して、ボロボロで無骨なデザインのウォーリーは、いわば美女と野獣の関係で、明確な表情すら持たないロボットを主人公に、これほどわかりやすく喜怒哀楽を感じさせるのだから、とてつもない演出力である。
その映像的なアプローチは非常に実写的で、ライブアクションの撮影には今回ILMが参加し、本作のプロデューサーもILM出身のジム・モリスが担当している。
劇中に実写映画の「ハロー、ドーリー!」の映像がそのまま流される事もあって、前半だけならVFXをふんだんに使った実写作品と見えなくも無い。
因みにウォーリーらの声を含むサウンドデザインは、「スターウォーズ」でロボット語を作り上げたベン・バートによるものだ。
ところが、ウォーリーがイヴを追って宇宙へ飛び出し、巨大宇宙船に暮らす人間たちが登場する後半は、良くも悪くも典型的なハリウッドアニメ調だ。
機械によって至れり尽くせりと世話されているうちに、怠惰のためにブクブク太り、歩く事すらままならなくなった人間たちは、「ハロー、ドーリー!」のバーブラ・ストライサンドやウォルター・マッソーとは似ても似つかない完全なアニメキャラにデザインされている。
イヴを想うウォーリーの一途な行動によって、機械に支配されていた人間たちが自らの意思をとりもどすという展開は正直なところ予定調和で、つい最近某映画で観た様な悪役キャラ(?)にしても超が付く位お馴染みの設定だ。
ただ、この作品はSF映画のパロディとしての側面もあり、類型的な展開が必ずしもネガティブに作用している訳ではないし、アンドリュー・スタントン監督は、ベタなお話でもパワフルな映像とテンポの良い演出でしっかりと見せ切る。
考えてみれば、名作の誉れ高い彼の前作「ファインディング・ニモ」も、お話そのものはごくごくありきたりな内容だった。
人間は、色々な物を失って初めてその大切さに気づく生き物だが、この映画でも自らの放漫さによって地球を巨大なゴミ貯めに変えてしまい、機械に頼ってようやく生かされている。
そんな堕落した人類を目覚めさせるのが、人間以上に人間的なちっぽけなロボットのささやかな恋心というのは、実際観てみると何気に筋が通っているのである。
スタントンは「ショート・サーキット」や「E.T」をはじめ、過去の様々なSF映画から映画的記憶を引用しているが、一人ぼっちで延々とゴミを処理するウォーリーの孤独な姿は、ダグラス・トランブル監督の傑作SF「サイレント・ランニング」に登場する、三体のロボットを思い起こさせる。
地球最後の植物を載せた宇宙船のドームの中で、たった一体残ったロボットが黙々と植物の世話をする有名なラストシーンは、ウォーリーのイメージに極めて近い。
思えば「サイレント・ランニング」は、人類による環境破壊をSFという手法で警告したパイオニア的な作品であり、同一のテーマを含む本作が大きな影響を受けていても何ら不思議ではないだろう。
エコロジーから心の在り様まで、「WALL・E / ウォーリー」が含む内容は広くて深い。
子供が楽しめるのはもちろん、大人にも十分な感銘を与えてくれる秀作である。
人類を管理する宇宙船のコンピューターを演じているのは、あのシガニー・ウィーバー。
彼女の声は「エイリアン」のパロディにもなっている。
また、ウォーリーの起動音がマックの起動音と同じなのも笑える。
ウォーリーが作られたのは22世紀という設定だが、まさかOSは未来のマック?(笑
ピクサーの育ての親が、アップルの創業者スティーブ・ジョブスであることはよく知られているが、このあたりマックファンはニヤリとしてしまうだろう。
その他にも細部に色々とマニアックな仕掛けが施されており、遊び心も相変わらず満載だ。
今回は、カリフォルニア州エマリービルのピクサー・アニメーション・スタジオから程近い、バークレーにあるビール会社ピラミッド・ブリュワリーズの「Pyramid Broken Rake」をチョイス。
秋限定のこの酒は、アルコール度数が高めにもかかわらずマイルドで非常に飲みやすい。
ピラミッドは、残念ながら日本には正規輸入されていないが、西海岸なら手に入りやすいので、お土産などにお勧めだ。
このビールの本社はシアトルだが、バークレー工場に併設されたバー「Alehouse」では、作りたてのビールを飲む事が出来、ピクサーのスタッフも仕事帰りによくやって来るという。
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2008年11月15日 (土) | 編集 |
ジョージ・A・ロメロ監督の、ライフワークとも言うべき「リビングデッド」物の最新作。
伝説的な「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」から「ランド・オブ・ザ・デッド」までの四作は、製作された年度に応じた飛躍はあるものの、基本的に同じ世界観の中で展開する物語だったが、今回の「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」はやや毛色が異なる。
全体がフェイクドキュメンタリーの構成となっており、今までのシリーズ+ 「クローバーフィールド」という感じだ。
大学の映画学科の学生、ジェイソン(ジョシュ・クローズ)たちは森でホラー映画の撮影中、ラジオで奇妙なニュースを聞く。
各地で死者が蘇り、人々を襲っていると言う。
不安を感じたジェイソンたちは、メンバーのメアリー(タチアナ・マスラニー)の車で彼女の実家へ向かう事にするが、途中で生ける死者「リビングデッド」と遭遇し、車でひき殺してしまう。
メアリーは罪の意識から自殺を図り、ジェイソンたちは瀕死の彼女を救うために病院にやって来るのだが、そこは既に生きている者はいなかった。
大手マスメディアはパニックを恐れてか、虚偽の報道を繰り返しているが、ネットには世界中の人々が真実の映像を次々とアップしていた。
ジェイソンは、自らも事件を記録する使命感に駆られるのだが・・・
1968年に作られた「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では、ラストシーンで唯一生き残った黒人男性が、リビングデッドと間違えられて白人のハンターたちにあっけなく射殺される。
低予算ホラー映画ではあったものの、当時ピークを迎えていた公民権運動に絡め、人種差別の問題をカリカチュアした秀逸な社会派映画でもあった。
続く「ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」では、リビングデッドに囲まれた巨大ショッピングモールを舞台に、消費文明の歪みを描き出し、冷戦末期に作られた「死霊のえじき(デイ・オブ・ザ・デッド)」には、軍人と科学者の対立を軸に、実は人間の不寛容が一番恐ろしいというテーマがあった。
このシリーズは、やや薄味のエンタメとして蘇った「ランド・オブ・ザ・デッド」も含めて、常に反権力的な社会派なテーマを「死者が蘇った世界」に投影することで比喩的に描いてきた。
今回の「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」でロメロが描こうとしているのは、情報が溢れすぎて、世界の真実の姿が見えにくくなっている現実への恐れだろうか。
果たして、この世界における真実とは何か?
テレビやラジオなどの大手メディアは、多すぎる情報をコントロールしようとするが、使命感に駆られた一般の人々がネットという武器を使って真実を明かそうとする。
この作品の主人公であるジェイソンもその一人であり、基本的に一人称のカメラによるフェイクドキュメンタリーという形をとっているのも、情報という物を象徴的に描くためだろう。
なるほど、いかにもロメロらしく、テーマとしては面白い。
しかし、正直なところこの映画のメディア感というか、ロメロ流の世界の感じ方は少々古臭く感じた。
大手メディアがブッシュ政権の嘘にコロリとだまされて大儀なき戦争に加担し、YouTubeなどの動画配信サービスが新しい情報発信ツールとして脚光を浴びていた数年前なら、タイムリーな作品だったかもしれないが、今やネット世界は真実と虚構が交じり合うメルティングポットの様な状態なのは誰もが知る事で、決してこの映画のように単純に割り切れるイメージではない。
またフェイクドキュメンタリーとしても、作り込みがやや中途半端だ。
途中からカメラが二台になることもあるが、明らかに演出を感じさせるカット割りが目立ったり、プロを感じさせるきっちりとした止めの画があったり、ハンディ感があまりない。
主人公らが映画学科の学生で、「クローバーフィールド」の様に全くのド素人という設定ではないという事を差し引いても、狙いを考えるとライブ感の欠落は大きなマイナスポイントだろう。
さらに、客観的な視点を強調して撮った事で、映画の嘘もかえって目立ってしまった。
一般的なホラー映画なら、まあお約束という事で気にならない、登場人物が危険に対してあまりにも無防備でマヌケすぎる事とか、非合理的な行動をとる事が気になってしまう。
彼らが、死者が蘇っているという普通ならネタとしか思えない話を、たった一つのラジオニュースで聞いただけで、不安に駆られて実家へ向かうのもあまり説得力を感じないし、死者が蘇り始めてから一日か二日で世界が崩壊してしまうのはいくらなんでも早すぎる。
少なくとも火葬の日本では、蘇れる死体の数などたかが知れている(笑
東京発のニュースを流すなら、日本の葬儀習慣くらいは調べて欲しかった。
そもそも、テレビ局やラジオ局が全滅しているという状況なのに、電気の供給やネット接続サービスだけは途切れないなどと言うことはありえないだろう。
「生ける死者たち」は、三大ネットワークは襲っても、YouTubeやYahooは襲わないでくれているのだろうか(笑
あくまでも、自分の作り出した稀有な世界観にこだわって、社会性のあるテーマを撮り続けるというロメロの拘りは買うが、正直今回の作品はスタイルに凝り過ぎてしまって、やりたい事と結果が空回りしている感が強い。
殆ど学生たちの心理劇の様相なので、リビングデッドとのスプラッターな攻防戦も僅かしか描かれず、そちらを期待してくる観客にもやや消化不良を感じさせるだろう。
普通の劇映画として描いた方が、より自由度の高い演出が出来たと思うが、たぶんドキュメンタリー映画の流行をみて影響されちゃったんだろうなぁ・・・
演出家には向き不向きがあると思うのだけど。
さて、リビングデッドといえば、日本ではゾンビと訳される事が多い。
ゾンビと言えば、ハイチのブードゥー教の呪術の産物。
という訳でハイチ産のラム「バンバンクール」の15年ものをチョイス。
フランス人のバンバンクールが、コニャックの蒸留法を持ち込んで150年ほど前に作り出した酒。
香り豊かでコクのある上質なラムで、これを飲めばたぶんゾンビでも酔いつぶれるだろう。
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伝説的な「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」から「ランド・オブ・ザ・デッド」までの四作は、製作された年度に応じた飛躍はあるものの、基本的に同じ世界観の中で展開する物語だったが、今回の「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」はやや毛色が異なる。
全体がフェイクドキュメンタリーの構成となっており、今までのシリーズ+ 「クローバーフィールド」という感じだ。
大学の映画学科の学生、ジェイソン(ジョシュ・クローズ)たちは森でホラー映画の撮影中、ラジオで奇妙なニュースを聞く。
各地で死者が蘇り、人々を襲っていると言う。
不安を感じたジェイソンたちは、メンバーのメアリー(タチアナ・マスラニー)の車で彼女の実家へ向かう事にするが、途中で生ける死者「リビングデッド」と遭遇し、車でひき殺してしまう。
メアリーは罪の意識から自殺を図り、ジェイソンたちは瀕死の彼女を救うために病院にやって来るのだが、そこは既に生きている者はいなかった。
大手マスメディアはパニックを恐れてか、虚偽の報道を繰り返しているが、ネットには世界中の人々が真実の映像を次々とアップしていた。
ジェイソンは、自らも事件を記録する使命感に駆られるのだが・・・
1968年に作られた「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」では、ラストシーンで唯一生き残った黒人男性が、リビングデッドと間違えられて白人のハンターたちにあっけなく射殺される。
低予算ホラー映画ではあったものの、当時ピークを迎えていた公民権運動に絡め、人種差別の問題をカリカチュアした秀逸な社会派映画でもあった。
続く「ゾンビ(ドーン・オブ・ザ・デッド)」では、リビングデッドに囲まれた巨大ショッピングモールを舞台に、消費文明の歪みを描き出し、冷戦末期に作られた「死霊のえじき(デイ・オブ・ザ・デッド)」には、軍人と科学者の対立を軸に、実は人間の不寛容が一番恐ろしいというテーマがあった。
このシリーズは、やや薄味のエンタメとして蘇った「ランド・オブ・ザ・デッド」も含めて、常に反権力的な社会派なテーマを「死者が蘇った世界」に投影することで比喩的に描いてきた。
今回の「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」でロメロが描こうとしているのは、情報が溢れすぎて、世界の真実の姿が見えにくくなっている現実への恐れだろうか。
果たして、この世界における真実とは何か?
テレビやラジオなどの大手メディアは、多すぎる情報をコントロールしようとするが、使命感に駆られた一般の人々がネットという武器を使って真実を明かそうとする。
この作品の主人公であるジェイソンもその一人であり、基本的に一人称のカメラによるフェイクドキュメンタリーという形をとっているのも、情報という物を象徴的に描くためだろう。
なるほど、いかにもロメロらしく、テーマとしては面白い。
しかし、正直なところこの映画のメディア感というか、ロメロ流の世界の感じ方は少々古臭く感じた。
大手メディアがブッシュ政権の嘘にコロリとだまされて大儀なき戦争に加担し、YouTubeなどの動画配信サービスが新しい情報発信ツールとして脚光を浴びていた数年前なら、タイムリーな作品だったかもしれないが、今やネット世界は真実と虚構が交じり合うメルティングポットの様な状態なのは誰もが知る事で、決してこの映画のように単純に割り切れるイメージではない。
またフェイクドキュメンタリーとしても、作り込みがやや中途半端だ。
途中からカメラが二台になることもあるが、明らかに演出を感じさせるカット割りが目立ったり、プロを感じさせるきっちりとした止めの画があったり、ハンディ感があまりない。
主人公らが映画学科の学生で、「クローバーフィールド」の様に全くのド素人という設定ではないという事を差し引いても、狙いを考えるとライブ感の欠落は大きなマイナスポイントだろう。
さらに、客観的な視点を強調して撮った事で、映画の嘘もかえって目立ってしまった。
一般的なホラー映画なら、まあお約束という事で気にならない、登場人物が危険に対してあまりにも無防備でマヌケすぎる事とか、非合理的な行動をとる事が気になってしまう。
彼らが、死者が蘇っているという普通ならネタとしか思えない話を、たった一つのラジオニュースで聞いただけで、不安に駆られて実家へ向かうのもあまり説得力を感じないし、死者が蘇り始めてから一日か二日で世界が崩壊してしまうのはいくらなんでも早すぎる。
少なくとも火葬の日本では、蘇れる死体の数などたかが知れている(笑
東京発のニュースを流すなら、日本の葬儀習慣くらいは調べて欲しかった。
そもそも、テレビ局やラジオ局が全滅しているという状況なのに、電気の供給やネット接続サービスだけは途切れないなどと言うことはありえないだろう。
「生ける死者たち」は、三大ネットワークは襲っても、YouTubeやYahooは襲わないでくれているのだろうか(笑
あくまでも、自分の作り出した稀有な世界観にこだわって、社会性のあるテーマを撮り続けるというロメロの拘りは買うが、正直今回の作品はスタイルに凝り過ぎてしまって、やりたい事と結果が空回りしている感が強い。
殆ど学生たちの心理劇の様相なので、リビングデッドとのスプラッターな攻防戦も僅かしか描かれず、そちらを期待してくる観客にもやや消化不良を感じさせるだろう。
普通の劇映画として描いた方が、より自由度の高い演出が出来たと思うが、たぶんドキュメンタリー映画の流行をみて影響されちゃったんだろうなぁ・・・
演出家には向き不向きがあると思うのだけど。
さて、リビングデッドといえば、日本ではゾンビと訳される事が多い。
ゾンビと言えば、ハイチのブードゥー教の呪術の産物。
という訳でハイチ産のラム「バンバンクール」の15年ものをチョイス。
フランス人のバンバンクールが、コニャックの蒸留法を持ち込んで150年ほど前に作り出した酒。
香り豊かでコクのある上質なラムで、これを飲めばたぶんゾンビでも酔いつぶれるだろう。

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2008年11月09日 (日) | 編集 |
究極の食育映画。
人間は、他の命を取り込んで生きている。
それは生命の必然であり、ある意味原罪なのだと思うが、嘗ては当たり前のように身近に存在していた命のサイクルが、隠される様に見えなくなって久しい。
核家族化が進み家の中で人が死ななくなり、都市のマンションやアパートでペットは飼えず、スーパーで売っている肉や魚は細かくカットされ、原型を見ることは殆ど無い。
実際、大人になるまで、一度も生命の死という物を体験した事が無いという人も増えていると聞く。
そんな時代に、学校のクラス全員で一頭の豚を飼育し、卒業の時に食べるという授業を本当にやった教師がいたというのだから驚きだ。
4月の始業式。
六年二組の教室に、新任の担任の星先生(妻夫木聡)が、一頭の子豚を連れてくる。
「皆でこの子豚を育て、最後に食べようと思います」
この提案に子供たちはびっくりするが、子豚はPちゃんと名づけられ、校庭で飼育される事になる。
最初は戸惑いながらも、徐々にPちゃんに愛情をもって接する様になる子供たち。
しかし、夏が来て秋になり、子供たちの卒業が迫ってくると、彼らは決断を迫られる事になる。
Pちゃんを、食べるのか、食べないのか・・・・
おそらく、映画にするのはとても難しい作品だったと思う。
元々この話は、1990年に大阪の小学校で実際に行われた授業だという。
その顛末を記録したドキュメンタリー番組を観て感銘を受けた前田哲監督が、長年構想を温め、実現させた作品だ。
私は放送当時海外在住だったので、残念ながら元のドキュメンタリーを観ておらず、その番組に寄せられた大きな反響というのも知らなかったのだが、そりゃ確かに現在の日本でこんな授業をやったら大きな波紋を起こすだろう。
映画では六年生の一年間の話になっているが、実際には二年半にわたって豚を飼育し、その後子供たちの間で豚を食べるか否かについて激論が交わされたと言う。
映画でも、上映時間の四割近くを占める、子供たちの討論のシーンが圧巻だ。
まるでドキュメンタリーの様な臨場感と思ったら、実はこの映画には大人用の脚本と子供用の二通りの脚本が用意され、子供用の物は台詞が白紙となっていたそうだ。
オーディションで選ばれてから、撮影が終わるまでのおよそ半年間、子供たちは実際に豚に触れて、情愛を通じ、その心で言葉を交わしているので非常にリアル。
つまりこれは、芝居ではなく子供たちの本心からの討論なのだ。
観客はまるで六年二組のもう一人の生徒になったかのような感覚で、彼らの意見を聞き、自分ならどうするかを考える。
教室は食べる派と食べない派に二分されるのだが、食べない派が感情論に陥ってしまっているのに対して、食べる派はある程度冷静な目で命を受け取るという事を判断しているように見える。
大人の今だったら、たぶん私も食べる派だけど、小学生の頃だったらどうだったか。
実際彼らの言葉の応酬は、もちろん子供っぽい部分も多いのだが、どちらの主張も非常に鋭く、こちらもエモーションを刺激され涙が止まらなかった。
その涙は、物語としての映画を観ての感動の涙というよりは、自分自身も彼らの中にいて、感極まって同じように泣いているという不思議な涙だ。
この映画はあくまでも子供たちが主役であって、台詞つきシナリオを渡された大人の俳優たちは基本的には子供たちの芝居を受けて、物語をリードする役回り。
その中でも、この授業の発案者で、最後に自らも重い決断を迫られる妻夫木聡はなかなかの好演。
子供たちの真剣さに、思わず自分の信条までもぶれてしまうあたりは非常にリアルだった。
先生方の中では田畑智子がふっくらしていて驚いたが、校長先生役の原田美枝子が良い。
思慮深く、包容力もあり、こんな校長先生ばかりだったら、教育問題なんて起こらないだろう。
「ブタがいた教室」はかなり風変わりな作品で、非常にドキュメンタリー的なアプローチで作られたドラマと言えるかと思う。
テーマをそのままぶつけ合った討論のシーンがあまりにもインパクトが強く、正直物語の部分はバックグラウンドに過ぎないのだが、この映画の場合は、あくまでも観客が共に考える事が重要なのだ。
劇中で星先生が言うように、これは決して正解のないテーマ。
映画の結論が正しい訳でもないし、間違っている訳でもない。
今現在、この授業を再び行うことは難しいだろう。
授業そのものに賛否があるだろうし、実際当時は反発の方が多かった様だ。
正直、私も小学生には結構キツイ体験かなと思わないでもない。
しかし、こんなにも命と真剣に向き合うという得難い経験は、間違いなく子供たちの心に大きな何かを残したと思う。
実際の授業を受けた子供たちだけでなく、映画に出演したことで授業を追体験した子供たちも同様だ。
この映画は観るもの全てに、18年前の授業の意味するところ、そして命の問題に直面した子供たちの感情を擬似的に追体験させてくれる。
その意味で、これは素晴らしい教育映画であり、学校で見せるべき作品だろう。
感受性の豊かな子供たちは、きっとこの映画からの大切なメッセージを掴み取り、自分自身の心で考えるはず。
ラストの26人の生徒たちと、彼らの描いたPちゃんの絵を使ったクレジットもナイス。
作り手の真摯さを感じる事の出来る力作である。
ところで、Pちゃんには悪いけど、私はトンカツが大好きだ。
トンカツを食べる時に飲みたいお酒というと、人によって様々だろうが、私はさっぱりしたビール。
今回はプレミアムビールの代表格、「琥珀エビス」をチョイス。
名前の通りの美しい琥珀色が特徴で、カラッと揚がったトンカツとの相性は抜群。
やっぱり・・・食べるからには心の底から美味しく食べさせていただいて、成仏してもらいたい。
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人間は、他の命を取り込んで生きている。
それは生命の必然であり、ある意味原罪なのだと思うが、嘗ては当たり前のように身近に存在していた命のサイクルが、隠される様に見えなくなって久しい。
核家族化が進み家の中で人が死ななくなり、都市のマンションやアパートでペットは飼えず、スーパーで売っている肉や魚は細かくカットされ、原型を見ることは殆ど無い。
実際、大人になるまで、一度も生命の死という物を体験した事が無いという人も増えていると聞く。
そんな時代に、学校のクラス全員で一頭の豚を飼育し、卒業の時に食べるという授業を本当にやった教師がいたというのだから驚きだ。
4月の始業式。
六年二組の教室に、新任の担任の星先生(妻夫木聡)が、一頭の子豚を連れてくる。
「皆でこの子豚を育て、最後に食べようと思います」
この提案に子供たちはびっくりするが、子豚はPちゃんと名づけられ、校庭で飼育される事になる。
最初は戸惑いながらも、徐々にPちゃんに愛情をもって接する様になる子供たち。
しかし、夏が来て秋になり、子供たちの卒業が迫ってくると、彼らは決断を迫られる事になる。
Pちゃんを、食べるのか、食べないのか・・・・
おそらく、映画にするのはとても難しい作品だったと思う。
元々この話は、1990年に大阪の小学校で実際に行われた授業だという。
その顛末を記録したドキュメンタリー番組を観て感銘を受けた前田哲監督が、長年構想を温め、実現させた作品だ。
私は放送当時海外在住だったので、残念ながら元のドキュメンタリーを観ておらず、その番組に寄せられた大きな反響というのも知らなかったのだが、そりゃ確かに現在の日本でこんな授業をやったら大きな波紋を起こすだろう。
映画では六年生の一年間の話になっているが、実際には二年半にわたって豚を飼育し、その後子供たちの間で豚を食べるか否かについて激論が交わされたと言う。
映画でも、上映時間の四割近くを占める、子供たちの討論のシーンが圧巻だ。
まるでドキュメンタリーの様な臨場感と思ったら、実はこの映画には大人用の脚本と子供用の二通りの脚本が用意され、子供用の物は台詞が白紙となっていたそうだ。
オーディションで選ばれてから、撮影が終わるまでのおよそ半年間、子供たちは実際に豚に触れて、情愛を通じ、その心で言葉を交わしているので非常にリアル。
つまりこれは、芝居ではなく子供たちの本心からの討論なのだ。
観客はまるで六年二組のもう一人の生徒になったかのような感覚で、彼らの意見を聞き、自分ならどうするかを考える。
教室は食べる派と食べない派に二分されるのだが、食べない派が感情論に陥ってしまっているのに対して、食べる派はある程度冷静な目で命を受け取るという事を判断しているように見える。
大人の今だったら、たぶん私も食べる派だけど、小学生の頃だったらどうだったか。
実際彼らの言葉の応酬は、もちろん子供っぽい部分も多いのだが、どちらの主張も非常に鋭く、こちらもエモーションを刺激され涙が止まらなかった。
その涙は、物語としての映画を観ての感動の涙というよりは、自分自身も彼らの中にいて、感極まって同じように泣いているという不思議な涙だ。
この映画はあくまでも子供たちが主役であって、台詞つきシナリオを渡された大人の俳優たちは基本的には子供たちの芝居を受けて、物語をリードする役回り。
その中でも、この授業の発案者で、最後に自らも重い決断を迫られる妻夫木聡はなかなかの好演。
子供たちの真剣さに、思わず自分の信条までもぶれてしまうあたりは非常にリアルだった。
先生方の中では田畑智子がふっくらしていて驚いたが、校長先生役の原田美枝子が良い。
思慮深く、包容力もあり、こんな校長先生ばかりだったら、教育問題なんて起こらないだろう。
「ブタがいた教室」はかなり風変わりな作品で、非常にドキュメンタリー的なアプローチで作られたドラマと言えるかと思う。
テーマをそのままぶつけ合った討論のシーンがあまりにもインパクトが強く、正直物語の部分はバックグラウンドに過ぎないのだが、この映画の場合は、あくまでも観客が共に考える事が重要なのだ。
劇中で星先生が言うように、これは決して正解のないテーマ。
映画の結論が正しい訳でもないし、間違っている訳でもない。
今現在、この授業を再び行うことは難しいだろう。
授業そのものに賛否があるだろうし、実際当時は反発の方が多かった様だ。
正直、私も小学生には結構キツイ体験かなと思わないでもない。
しかし、こんなにも命と真剣に向き合うという得難い経験は、間違いなく子供たちの心に大きな何かを残したと思う。
実際の授業を受けた子供たちだけでなく、映画に出演したことで授業を追体験した子供たちも同様だ。
この映画は観るもの全てに、18年前の授業の意味するところ、そして命の問題に直面した子供たちの感情を擬似的に追体験させてくれる。
その意味で、これは素晴らしい教育映画であり、学校で見せるべき作品だろう。
感受性の豊かな子供たちは、きっとこの映画からの大切なメッセージを掴み取り、自分自身の心で考えるはず。
ラストの26人の生徒たちと、彼らの描いたPちゃんの絵を使ったクレジットもナイス。
作り手の真摯さを感じる事の出来る力作である。
ところで、Pちゃんには悪いけど、私はトンカツが大好きだ。
トンカツを食べる時に飲みたいお酒というと、人によって様々だろうが、私はさっぱりしたビール。
今回はプレミアムビールの代表格、「琥珀エビス」をチョイス。
名前の通りの美しい琥珀色が特徴で、カラッと揚がったトンカツとの相性は抜群。
やっぱり・・・食べるからには心の底から美味しく食べさせていただいて、成仏してもらいたい。

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2008年11月04日 (火) | 編集 |
中国歴史文学の中でも、汎アジア的な人気を誇る「三国志」中の、前半部分のクライマックス「赤壁の戦い」の映画化。
ジョン・ウー監督が長年温めていた念願の企画だそうで、その気合の入り具合はスクリーンからも熱気となって伝わってくる。
本来は一本で収まる予定で、実際その様にアナウンスされていたが、作ってみたらあまりにも長大となってしまったので、公開直前になって急遽二部作とする事が発表された。
実際に観てみると、この判断は正解で、お馴染みの登場人物をファンの納得する様に生かし、尚且つ壮大な戦争を俯瞰するという事を考えれば、前後編合せて5時間という上映時間でも決して余裕のあるものではない。
西暦208年。
漢王朝が力を失い、群雄割拠の戦国時代。
曹操孟徳(チャン・フォンイー)は、朝廷を後ろ盾に全権を握り、徐々に中国全土を制圧しつつあった。
漢の王族劉氏に連なる劉備玄徳(ヨウ・ヨン)は、長坂の戦いで曹操に大敗し、大勢の民を連れて夏口に避難する。
劉備は、江南を支配する呉の孫権(チャン・チェン)と同盟を結ぶため、軍師の諸葛孔明(金城武)を孫権のもとに遣わすが、呉では曹操の圧倒的な戦力を前に降伏論が強く、同盟の成立は難しい。
そこで孔明は、孫権が兄と慕う軍の総司令官・周瑜(トニー・レオン)と会うために彼が布陣する長江のほとり、赤壁へ赴く。
孔明と周瑜は、直ぐに互いの人徳と才能を感じ取り、共に曹操と戦う決意をする。
周瑜の説得を受けた孫権も開戦を決断し、遂に劉備・孫権連合軍5万は80万とも言われる曹操軍と赤壁で対峙するのだが・・・・
本編が始まる前に、日本の配給会社が付けた解説映像が流れる。
物語の背景となる「三国志」の世界を紹介する物だが、これはとても親切。
まあ普通だったら、完成した映画に後から映像をくっつけるなど許されない事だが、何しろ三つの国の興亡を描いた一大叙事詩のごく一部だけを映画化した作品なので、一見さんには敷居が高すぎる。
基本的に、観客は話のあらすじとメインの登場人物くらいは当然知っているという前提で作られているので、解説映像が無いと原作を全く知らない人には、誰が誰だかわからずに、あれよあれよという間に物語が流れていってしまうだろう。
劇中の字幕でも、キャラクターの名前がしつこいくらいに何度も表示されるが、これも致し方なかろう。
解説映像のおかげで、原作を知らなくても何とかついてゆく事は出来るだろうが、最低限の基礎知識くらいは持っていた方が楽しめる事は確かだ。
「三国志」とは言っても、この頃はまだ三国は成立しておらず、劉備・曹操・孫権の三人が勢力争いを繰り広げていた時代。
赤壁の戦いは、曹操の圧倒的有利に傾きつつあった情勢を覆し、所謂「天下三分の計」が第一歩を踏み出した歴史的な合戦であり、「三国志」中でも最も人気が高い見せ場の一つ。
元々「三国志」には、一般に「正史」として知られている三世紀に書かれた歴史書「三国志」と、これを元に十四世紀の明代に羅貫中が小説化した「三国志演義」の二つがある。
日本でお馴染みの吉川英治や横山光輝の描いた「三国志」は、基本的に「演義」の翻訳脚色版であり、本国中国でも一般に「三国志」と言えば「演義」であるという認識は変わらない様だ。
劉備や曹操、孔明や関羽といった人気キャラクターの造形やそれぞれの見せ場は、殆ど全て「演義」によって作られたイメージといって良い。
今回の映画化でも、基本的にそれは同じ。
劉備は草履を編んでいるし、関羽は義人だし、孔明はイケメンで頭脳明晰。
趙雲には長坂の戦いでの、劉備の息子・阿斗救出の見せ場もばっちり描かれる。
張飛は素手で突撃して大声で敵をびびらせるという、まるでジャイアンみたいなキャラになっているが、まあルックスも含めてイメージどおり。
小説や漫画で三国志に親しんだ人も、映画のキャラクターには納得できるだろう。
面白いのは、映画の主役が呉の周瑜となっている事で、これはたぶん多くの人にとって意外だったのではないだろうか。
「演義」の中では、孔明をライバル視して様々な策略を巡らせながら、結局最後には「天は、なぜ周瑜を生まれさせながら、孔明までも生まれさせたのだ!」と叫んで死んでしまうという、半悪役的な役回りのキャラクターだし、実際赤壁の戦いから僅か二年後に病死しているので、「三国志」全体の中ではとても主役になるようなキャラクターではない。
ただ、実在の周瑜は、知力・武力・政治力のいずれにも優れた人物だったようで、この作品での周瑜のキャラクターは、どちらかと言うと「演義」よりも「正史」に近く、トニー・レオンのキャスティングもその意味ではピッタリだ。
同じことは金城武演じる諸葛孔明にも言え、「演義」では妖術を使って天候を変えるなど、殆どファンタジーの魔法使いと化していたが、映画では頭脳明晰ではあるものの、軍師として周瑜をサポートする普通の人間として描かれている。
まあ確かに、赤壁の戦いというモチーフを観察すれば、一番中心にいたのは呉軍の司令官である周瑜であり、「三国志」全体ではなく赤壁の戦いのみを描いた事で、意外な人物が主役に抜擢されたのだろう。
他にも、原作とキャラクター設定や展開が異なる部分は幾つかあり、全体的には「演義」をベースに「正史」をミックスした上で、さらに映画オリジナルの脚色を加えたという感じだ。
戦争映画であるから当たり前だが、戦闘シーンは長くて多い。
たぶん2時間30分の半分ぐらいは戦っていたような気もするが、それ以外のところも色々と工夫されていて飽きさせない。
孔明が周瑜に会いに行った時、言葉ではなく琴の合奏でお互いの胸の内を探り合うあたりは、いかにも中国らしい詩情のある表現で面白い。
冒頭の漢の宮廷のシーンで、室内にもかかわらず猛烈に霧が渦巻いていたり、キャラクターの感情を表すのに、掟破りのズームレンズを多用するなど、静かなシーンも含めて、良くも悪くもジョン・ウー節の強烈な作品なので、あくまでもアクションを中心に世界を広げる、彼のテイストに乗れるかどうかが作品の評価の分かれ目になるだろう。
何しろ三世紀の赤壁にも白い鳩を飛ばしてしまう人だ。
一体何処で「教会」が出てくるのだろうとドキドキしてしまった(笑
ビジュアル的に面白いのは、孔明が繰り出すユニークな陣形。
特に「Part1」のクライマックスとなる戦いで使われる、亀の甲羅の様な形の「八卦の陣」の奇抜さは、本編の白眉だ。
「ロード・オブ・ザ・リング」以来、人海戦術による騎馬戦の表現は出し尽くされた感があり、やや食傷気味だったが、陣形そのものを戦場の形にしてしまうという発想は、いかにも東洋的なビジュアルと相まって、非常にインパクトがある。
確か原作では、赤壁の戦いで八卦の陣は用いられておらず、ずっと後年に魏の仲達と戦う時に出てきた陣形なので、これは映画オリジナルの脚色だろう。
外連味たっぷりのジョン・ウー節が、最大限に発揮された見事な戦闘シーンだった。
映画は、これから盛り上がるという所で「To be continued」になってしまうので、これ単体で評価するのは難しいが、少なくともこれだけの張尺を飽きさせないし、キャラクターを含め「三国志」の映像化としてはまずまず納得できる仕上がりだ。
「Part2」では、有名な「苦肉の策」や十万本の矢を船で奪い取るエピソードが描かれるのだろうが、果たしてどのような脚色がなされるのか、「Part1」でイマイチ目立たなかったキャラクターたちの活躍も楽しみだ。
いずれにしても、傑作「フェイス/オフ」以来、ハリウッドでは今ひとつ足踏みしている感があったジョン・ウーが、久々に思う存分腕を振るった超大作。
アジア圏では軒並み大ヒットしているようだし、どうせならピーター・ジャクソンみたいにスペシャル・エクステンデット版を作って、時間を気にせず暴れてもらっても良いと思う。
今回は静岡の三和酒造の「臥龍梅」をチョイス。
臥龍とは、劉備が司馬徽を尋ねて軍師に相応しい人物はいないか聞いた時、司馬徽が諸葛孔明を眠れる龍に例えて推薦した言葉。
それが後年、日本で人質時代の徳川家康を指す言葉になり、転じて今はまだ知られていないが、いつか天下を取る酒という意味で名づけられたと言う。
生産量が少なく、あまり知られていない酒だが、ふくよかで透明感があり、とても飲みやすい。
やや腹にもたれるジョン・ウー節の後にはピッタリだ(笑
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ジョン・ウー監督が長年温めていた念願の企画だそうで、その気合の入り具合はスクリーンからも熱気となって伝わってくる。
本来は一本で収まる予定で、実際その様にアナウンスされていたが、作ってみたらあまりにも長大となってしまったので、公開直前になって急遽二部作とする事が発表された。
実際に観てみると、この判断は正解で、お馴染みの登場人物をファンの納得する様に生かし、尚且つ壮大な戦争を俯瞰するという事を考えれば、前後編合せて5時間という上映時間でも決して余裕のあるものではない。
西暦208年。
漢王朝が力を失い、群雄割拠の戦国時代。
曹操孟徳(チャン・フォンイー)は、朝廷を後ろ盾に全権を握り、徐々に中国全土を制圧しつつあった。
漢の王族劉氏に連なる劉備玄徳(ヨウ・ヨン)は、長坂の戦いで曹操に大敗し、大勢の民を連れて夏口に避難する。
劉備は、江南を支配する呉の孫権(チャン・チェン)と同盟を結ぶため、軍師の諸葛孔明(金城武)を孫権のもとに遣わすが、呉では曹操の圧倒的な戦力を前に降伏論が強く、同盟の成立は難しい。
そこで孔明は、孫権が兄と慕う軍の総司令官・周瑜(トニー・レオン)と会うために彼が布陣する長江のほとり、赤壁へ赴く。
孔明と周瑜は、直ぐに互いの人徳と才能を感じ取り、共に曹操と戦う決意をする。
周瑜の説得を受けた孫権も開戦を決断し、遂に劉備・孫権連合軍5万は80万とも言われる曹操軍と赤壁で対峙するのだが・・・・
本編が始まる前に、日本の配給会社が付けた解説映像が流れる。
物語の背景となる「三国志」の世界を紹介する物だが、これはとても親切。
まあ普通だったら、完成した映画に後から映像をくっつけるなど許されない事だが、何しろ三つの国の興亡を描いた一大叙事詩のごく一部だけを映画化した作品なので、一見さんには敷居が高すぎる。
基本的に、観客は話のあらすじとメインの登場人物くらいは当然知っているという前提で作られているので、解説映像が無いと原作を全く知らない人には、誰が誰だかわからずに、あれよあれよという間に物語が流れていってしまうだろう。
劇中の字幕でも、キャラクターの名前がしつこいくらいに何度も表示されるが、これも致し方なかろう。
解説映像のおかげで、原作を知らなくても何とかついてゆく事は出来るだろうが、最低限の基礎知識くらいは持っていた方が楽しめる事は確かだ。
「三国志」とは言っても、この頃はまだ三国は成立しておらず、劉備・曹操・孫権の三人が勢力争いを繰り広げていた時代。
赤壁の戦いは、曹操の圧倒的有利に傾きつつあった情勢を覆し、所謂「天下三分の計」が第一歩を踏み出した歴史的な合戦であり、「三国志」中でも最も人気が高い見せ場の一つ。
元々「三国志」には、一般に「正史」として知られている三世紀に書かれた歴史書「三国志」と、これを元に十四世紀の明代に羅貫中が小説化した「三国志演義」の二つがある。
日本でお馴染みの吉川英治や横山光輝の描いた「三国志」は、基本的に「演義」の翻訳脚色版であり、本国中国でも一般に「三国志」と言えば「演義」であるという認識は変わらない様だ。
劉備や曹操、孔明や関羽といった人気キャラクターの造形やそれぞれの見せ場は、殆ど全て「演義」によって作られたイメージといって良い。
今回の映画化でも、基本的にそれは同じ。
劉備は草履を編んでいるし、関羽は義人だし、孔明はイケメンで頭脳明晰。
趙雲には長坂の戦いでの、劉備の息子・阿斗救出の見せ場もばっちり描かれる。
張飛は素手で突撃して大声で敵をびびらせるという、まるでジャイアンみたいなキャラになっているが、まあルックスも含めてイメージどおり。
小説や漫画で三国志に親しんだ人も、映画のキャラクターには納得できるだろう。
面白いのは、映画の主役が呉の周瑜となっている事で、これはたぶん多くの人にとって意外だったのではないだろうか。
「演義」の中では、孔明をライバル視して様々な策略を巡らせながら、結局最後には「天は、なぜ周瑜を生まれさせながら、孔明までも生まれさせたのだ!」と叫んで死んでしまうという、半悪役的な役回りのキャラクターだし、実際赤壁の戦いから僅か二年後に病死しているので、「三国志」全体の中ではとても主役になるようなキャラクターではない。
ただ、実在の周瑜は、知力・武力・政治力のいずれにも優れた人物だったようで、この作品での周瑜のキャラクターは、どちらかと言うと「演義」よりも「正史」に近く、トニー・レオンのキャスティングもその意味ではピッタリだ。
同じことは金城武演じる諸葛孔明にも言え、「演義」では妖術を使って天候を変えるなど、殆どファンタジーの魔法使いと化していたが、映画では頭脳明晰ではあるものの、軍師として周瑜をサポートする普通の人間として描かれている。
まあ確かに、赤壁の戦いというモチーフを観察すれば、一番中心にいたのは呉軍の司令官である周瑜であり、「三国志」全体ではなく赤壁の戦いのみを描いた事で、意外な人物が主役に抜擢されたのだろう。
他にも、原作とキャラクター設定や展開が異なる部分は幾つかあり、全体的には「演義」をベースに「正史」をミックスした上で、さらに映画オリジナルの脚色を加えたという感じだ。
戦争映画であるから当たり前だが、戦闘シーンは長くて多い。
たぶん2時間30分の半分ぐらいは戦っていたような気もするが、それ以外のところも色々と工夫されていて飽きさせない。
孔明が周瑜に会いに行った時、言葉ではなく琴の合奏でお互いの胸の内を探り合うあたりは、いかにも中国らしい詩情のある表現で面白い。
冒頭の漢の宮廷のシーンで、室内にもかかわらず猛烈に霧が渦巻いていたり、キャラクターの感情を表すのに、掟破りのズームレンズを多用するなど、静かなシーンも含めて、良くも悪くもジョン・ウー節の強烈な作品なので、あくまでもアクションを中心に世界を広げる、彼のテイストに乗れるかどうかが作品の評価の分かれ目になるだろう。
何しろ三世紀の赤壁にも白い鳩を飛ばしてしまう人だ。
一体何処で「教会」が出てくるのだろうとドキドキしてしまった(笑
ビジュアル的に面白いのは、孔明が繰り出すユニークな陣形。
特に「Part1」のクライマックスとなる戦いで使われる、亀の甲羅の様な形の「八卦の陣」の奇抜さは、本編の白眉だ。
「ロード・オブ・ザ・リング」以来、人海戦術による騎馬戦の表現は出し尽くされた感があり、やや食傷気味だったが、陣形そのものを戦場の形にしてしまうという発想は、いかにも東洋的なビジュアルと相まって、非常にインパクトがある。
確か原作では、赤壁の戦いで八卦の陣は用いられておらず、ずっと後年に魏の仲達と戦う時に出てきた陣形なので、これは映画オリジナルの脚色だろう。
外連味たっぷりのジョン・ウー節が、最大限に発揮された見事な戦闘シーンだった。
映画は、これから盛り上がるという所で「To be continued」になってしまうので、これ単体で評価するのは難しいが、少なくともこれだけの張尺を飽きさせないし、キャラクターを含め「三国志」の映像化としてはまずまず納得できる仕上がりだ。
「Part2」では、有名な「苦肉の策」や十万本の矢を船で奪い取るエピソードが描かれるのだろうが、果たしてどのような脚色がなされるのか、「Part1」でイマイチ目立たなかったキャラクターたちの活躍も楽しみだ。
いずれにしても、傑作「フェイス/オフ」以来、ハリウッドでは今ひとつ足踏みしている感があったジョン・ウーが、久々に思う存分腕を振るった超大作。
アジア圏では軒並み大ヒットしているようだし、どうせならピーター・ジャクソンみたいにスペシャル・エクステンデット版を作って、時間を気にせず暴れてもらっても良いと思う。
今回は静岡の三和酒造の「臥龍梅」をチョイス。
臥龍とは、劉備が司馬徽を尋ねて軍師に相応しい人物はいないか聞いた時、司馬徽が諸葛孔明を眠れる龍に例えて推薦した言葉。
それが後年、日本で人質時代の徳川家康を指す言葉になり、転じて今はまだ知られていないが、いつか天下を取る酒という意味で名づけられたと言う。
生産量が少なく、あまり知られていない酒だが、ふくよかで透明感があり、とても飲みやすい。
やや腹にもたれるジョン・ウー節の後にはピッタリだ(笑

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