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2009年01月28日 (水) | 編集 |
待望の、と言っていいだろう。
「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」は、映画史上空前絶後のヒット作「タイタニック」の主演コンビ、11年ぶりの再共演作。
とは言っても、華やかなラブロマンスやスペクタクルな大作を期待してはいけない。
「アメリカン・ビューティー」で、郊外のミドルクラスの崩壊を描いた英国人、サム・メンデス監督が今回作り上げたのは、満ち足りた日常に溺れ、幸せの本質を見失ってしまった、ある夫婦を巡る異色のホームドラマだ。
第二次世界大戦後、パーティで出会った復員兵のフランク・ウィーラー(レオナルド・ディカプリオ)と女優志望のエイプリル(ケイト・ウィンスレット)は、すぐに恋に落ち結婚。
レボリューショナリー・ロード沿いの美しい家で、二人の子供と共に満ち足りた生活を送っている。
しかし、何も変わらない平凡な毎日は、嘗て輝かしい未来を信じていたエイプリルの心に、言いようの無い倦怠感を齎していた。
ある日、彼女はフランクに、若い頃夢見ていたパリへの移住を提案する。
最初は躊躇していたフランクだったが、やがてエイプリルの考えに同意する。
しかし、計画が佳境に差し掛かったとき、エイプリルの体にはある変化が起こって・・・・
出世作となった「アメリカン・ビューティー」以来、一貫してアメリカの暗部を描いてきたサム・メンデスは、アメリカ社会の本質は郊外にあると思っている様だ。
この作品の舞台となる1950年代は、いわばアメリカの輝かしい豊かさが世界の憧れだった時代。
主人公のフランクとエイプリルのウィーラー夫妻には、美しい家も、十分な報酬を齎してくれる仕事も、愛する家族もあり、理屈の上では満ち足りて成功した人生を送っている。
しかしハリウッド映画のセットを思わせる豊かな生活の裏で、判で押したような平凡な毎日の繰り返しに、何かが間違っているのではないか、自分たちにはもっと別の可能性があるのではないかという葛藤を抱えており、それは時と共に次第に大きくなってくる。
そして、それは全てを捨ててパリへ移住するという、人生の「革命」として噴出するのである。
主演の二人、特にレオナルド・ディカプリオが良い。
思えば、役者としての彼のイメージを確立したのは「タイタニック」だったと思う。
以来、昨年の「ワールド・オブ・ライズ」に至るまで、「痛々しいくらいにひたむきな若者」を演じ続けて来た訳だが、今回のフランク役は、子供のように直情的な顔と、停滞をあえて受け入れる、くたびれた大人の顔もあるという複雑な役。
ディカプリオは二面性のギャップを巧みに使い分け、フランクのキャラクターをリアルで深みのある物にしている。
一方で、「タイタニック」のイメージを早々に拭い去る事に成功していたケイト・ウィンスレットは、とにかくキャラクターに圧倒的な説得力がある。
地に足をつけているはずなのに、何故か閉塞感から逃れられない、この手の迷えるマダム役をやらせたら恐らく今は世界一で、特に終盤の朝食のシーンで見せる穏やかな緊張感は本編の白眉だ。
メンデスは、レボリューショナリーロードの郊外ソサエティに、ウィーラー夫婦に加え、同世代で近所に住むシェップとミリーのキャンベル夫妻、家を紹介した不動産屋のヘレンとハワードの老夫婦、そして精神を病んでいるヘレンの息子のジョンというキャラクターを配し、それぞれに象徴的な役割を与えている。
キャンベル夫妻と不動産屋の夫妻は、彼らには成し得なかった選択をしたウィーラー夫妻に対する、羨望と嫉妬を象徴する役回りで、表面的には彼らの決断を賞賛するが、内心では恐らく計画の失敗を望んでいる。
また、彼らはウィーラー夫妻にとっての合わせ鏡であり、同時にIfの姿でもある。
こちらも「タイタニック」組のキャシー・ベイツが演じる、不動産屋のヘレンとハワードの姿は、もしもエイプリルが別の選択をしていたら、ウィーラー夫妻の未来の姿だったのかもしれないのである。
だからこそ、本心を仮面に隠す登場人物たち中で、唯一本音でのみ生きているヘレンの息子、ジョンの吐く言葉は、痛烈な皮肉となって、ウィーラー夫妻、そして彼らの姿にどこか自分を重ねている我々観客に突き刺さる。
物語のトリで、それまで一切アップを抜かれなかった夫のハワードの、ヘレンの独白を見つめる人生への諦めすら感じさせる空虚な目線は、なんとも言えない余韻を残す秀逸なラストであった。
「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」は、報われない幸せを探す若い夫婦の切ない物語だ。
メーテルリンクの「青い鳥」では、チルチルとミチルが幸せの青い鳥を捜し求めて長い冒険をするが、結局その鳥は初めから家の鳥かごにいた。
だが、ひと夏の葛藤の末に、エイプリルはたぶん知ってしまったのだ。
彼女の鳥かごには、初めから何も入っていなかったという事を。
レボリューショナリー・ロードは、その名とは逆に決して「革命」の起こらない場所。
そこに住む人は、理想と現実を天秤に架け、例えそれが命の無い剥製だとしても、それぞれに「青い鳥はいた」と思い込み、やがて虚像と現実は一体になる。
その残酷な人生の現実に、フランクは何とか折り合いを付け、エイプリルは付けられなかったという事なのだろう。
しかし、宣伝につられてラブロマンスだと思って観に行った観客は、あまりにも絶望的な内容に、あっけにとられる事必至。
特に今結婚を考えているカップルには決してお勧めしない。
まさに「結婚は人生の墓場」という格言の、リアルな例を見せ付けられる(笑
悪酔いして観た悪夢のようなこの映画、二日酔いの迎え酒として知られる「レッド・アイ」で締めよう。
ビールとトマトジュースを1:1でタンブラーに注ぎ、ステアする。
タバスコなどを加え、生卵を割り入れる場合もあるが、それだと精が付き過ぎるという場合はシンプルに飲んでも良いだろう。
ネーミングには赤いビールに浮かぶ卵が目玉に見えるからという説と、その色自体が二日酔いの赤い目を連想させるからという二つの説があるが、いずれにしてもボーッとした頭をスッキリさせてくれる。
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「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」は、映画史上空前絶後のヒット作「タイタニック」の主演コンビ、11年ぶりの再共演作。
とは言っても、華やかなラブロマンスやスペクタクルな大作を期待してはいけない。
「アメリカン・ビューティー」で、郊外のミドルクラスの崩壊を描いた英国人、サム・メンデス監督が今回作り上げたのは、満ち足りた日常に溺れ、幸せの本質を見失ってしまった、ある夫婦を巡る異色のホームドラマだ。
第二次世界大戦後、パーティで出会った復員兵のフランク・ウィーラー(レオナルド・ディカプリオ)と女優志望のエイプリル(ケイト・ウィンスレット)は、すぐに恋に落ち結婚。
レボリューショナリー・ロード沿いの美しい家で、二人の子供と共に満ち足りた生活を送っている。
しかし、何も変わらない平凡な毎日は、嘗て輝かしい未来を信じていたエイプリルの心に、言いようの無い倦怠感を齎していた。
ある日、彼女はフランクに、若い頃夢見ていたパリへの移住を提案する。
最初は躊躇していたフランクだったが、やがてエイプリルの考えに同意する。
しかし、計画が佳境に差し掛かったとき、エイプリルの体にはある変化が起こって・・・・
出世作となった「アメリカン・ビューティー」以来、一貫してアメリカの暗部を描いてきたサム・メンデスは、アメリカ社会の本質は郊外にあると思っている様だ。
この作品の舞台となる1950年代は、いわばアメリカの輝かしい豊かさが世界の憧れだった時代。
主人公のフランクとエイプリルのウィーラー夫妻には、美しい家も、十分な報酬を齎してくれる仕事も、愛する家族もあり、理屈の上では満ち足りて成功した人生を送っている。
しかしハリウッド映画のセットを思わせる豊かな生活の裏で、判で押したような平凡な毎日の繰り返しに、何かが間違っているのではないか、自分たちにはもっと別の可能性があるのではないかという葛藤を抱えており、それは時と共に次第に大きくなってくる。
そして、それは全てを捨ててパリへ移住するという、人生の「革命」として噴出するのである。
主演の二人、特にレオナルド・ディカプリオが良い。
思えば、役者としての彼のイメージを確立したのは「タイタニック」だったと思う。
以来、昨年の「ワールド・オブ・ライズ」に至るまで、「痛々しいくらいにひたむきな若者」を演じ続けて来た訳だが、今回のフランク役は、子供のように直情的な顔と、停滞をあえて受け入れる、くたびれた大人の顔もあるという複雑な役。
ディカプリオは二面性のギャップを巧みに使い分け、フランクのキャラクターをリアルで深みのある物にしている。
一方で、「タイタニック」のイメージを早々に拭い去る事に成功していたケイト・ウィンスレットは、とにかくキャラクターに圧倒的な説得力がある。
地に足をつけているはずなのに、何故か閉塞感から逃れられない、この手の迷えるマダム役をやらせたら恐らく今は世界一で、特に終盤の朝食のシーンで見せる穏やかな緊張感は本編の白眉だ。
メンデスは、レボリューショナリーロードの郊外ソサエティに、ウィーラー夫婦に加え、同世代で近所に住むシェップとミリーのキャンベル夫妻、家を紹介した不動産屋のヘレンとハワードの老夫婦、そして精神を病んでいるヘレンの息子のジョンというキャラクターを配し、それぞれに象徴的な役割を与えている。
キャンベル夫妻と不動産屋の夫妻は、彼らには成し得なかった選択をしたウィーラー夫妻に対する、羨望と嫉妬を象徴する役回りで、表面的には彼らの決断を賞賛するが、内心では恐らく計画の失敗を望んでいる。
また、彼らはウィーラー夫妻にとっての合わせ鏡であり、同時にIfの姿でもある。
こちらも「タイタニック」組のキャシー・ベイツが演じる、不動産屋のヘレンとハワードの姿は、もしもエイプリルが別の選択をしていたら、ウィーラー夫妻の未来の姿だったのかもしれないのである。
だからこそ、本心を仮面に隠す登場人物たち中で、唯一本音でのみ生きているヘレンの息子、ジョンの吐く言葉は、痛烈な皮肉となって、ウィーラー夫妻、そして彼らの姿にどこか自分を重ねている我々観客に突き刺さる。
物語のトリで、それまで一切アップを抜かれなかった夫のハワードの、ヘレンの独白を見つめる人生への諦めすら感じさせる空虚な目線は、なんとも言えない余韻を残す秀逸なラストであった。
「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」は、報われない幸せを探す若い夫婦の切ない物語だ。
メーテルリンクの「青い鳥」では、チルチルとミチルが幸せの青い鳥を捜し求めて長い冒険をするが、結局その鳥は初めから家の鳥かごにいた。
だが、ひと夏の葛藤の末に、エイプリルはたぶん知ってしまったのだ。
彼女の鳥かごには、初めから何も入っていなかったという事を。
レボリューショナリー・ロードは、その名とは逆に決して「革命」の起こらない場所。
そこに住む人は、理想と現実を天秤に架け、例えそれが命の無い剥製だとしても、それぞれに「青い鳥はいた」と思い込み、やがて虚像と現実は一体になる。
その残酷な人生の現実に、フランクは何とか折り合いを付け、エイプリルは付けられなかったという事なのだろう。
しかし、宣伝につられてラブロマンスだと思って観に行った観客は、あまりにも絶望的な内容に、あっけにとられる事必至。
特に今結婚を考えているカップルには決してお勧めしない。
まさに「結婚は人生の墓場」という格言の、リアルな例を見せ付けられる(笑
悪酔いして観た悪夢のようなこの映画、二日酔いの迎え酒として知られる「レッド・アイ」で締めよう。
ビールとトマトジュースを1:1でタンブラーに注ぎ、ステアする。
タバスコなどを加え、生卵を割り入れる場合もあるが、それだと精が付き過ぎるという場合はシンプルに飲んでも良いだろう。
ネーミングには赤いビールに浮かぶ卵が目玉に見えるからという説と、その色自体が二日酔いの赤い目を連想させるからという二つの説があるが、いずれにしてもボーッとした頭をスッキリさせてくれる。

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2009年01月23日 (金) | 編集 |
「007/慰めの報酬」は、シリーズ史上初の続き物。
前作「カジノ・ロワイヤル」のラストシーンから、そのまま話が続いており、脚本チームも当然続投。
なのに、なぜか監督だけはマーティン・キャンベルから、どう考えてもアクション畑の人とは言えないマーク・フォスターに交代している。
このあたりは、大人の事情がありそうだが、基本的に作品のイメージは前作を踏襲しており、新世代「007」のカラーが大体固まってきたという感じだ。
愛する女、ヴェスパーを失ったボンド(ダニエル・クレイグ)は、彼女を操っていたミスター・ホワイト(ジェスパー・クリステンセン)を捕らえ、背後にいる組織の全貌を暴こうとする。
しかし、MI6に潜入していた敵の工作員によって、ミスター・ホワイトはあっさり逃亡。
ボンドは手がかりを求めてハイチに飛び、組織とつながりのある女カーミュ(オルガ・キュリレンコ)を通じて、謎の男グリーン(マチュー・アマルリック)に接近する。
表向きは、環境関連企業のトップであるグリーンだが、裏ではボリビアの反政府クーデターの計画に資金援助している。
ボリビアの広大な砂漠を取得しようとするグリーンの計画を知ったボンドは、彼の真の狙いを探り出そうとするのだが・・・
「カジノ・ロワイヤル」は、旧シリーズの遺産を受け継ぎながらも、アクション映画の原点に帰り、何よりも大幅に若返ったボンドのキャラクターを徹底的に立て、シリーズに新しい風を吹き込む事に成功していた。
今回、ポール・ハギス、ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイドの脚本陣は、イアン・フレミングの原作を元にした前作に、オリジナルの続編を付け加えるという形で、「新007シリーズ」の世界観を形作ろうとしている様に見える。
謎だらけだった強大な敵の組織の正体が徐々に明らかになり、恐らくこのいかにも今風な曖昧な悪のネットワークが、今後旧シリーズのスペクターのような役割を担ってゆくのだろう。
すっかり役が板についた、ダニエル・クレイグ演じるジェームス・ボンドのキャラクターも、より明確に性格付けがなされ、まさに命を削る様に荒々しく、内面に暗い情念を抱えた人間臭いボンド像を確立している。
要するに今回は、愛する者を殺されたボンドの復讐譚であり、愛する者を失ったショックを引きずり、ヴェスパー・マティーニを浴びるほど飲んでしまう、見方によっては青臭いスパイには、旧シリーズのようなお戯れの恋愛はあまり似合わず、結果的にそれで更なる心の傷を負ってしまう痛々しさが印象的だ。
ギミック満載の秘密兵器を使い、漫画チックな悪役たちを倒してゆく、ダンディでどんな危機にも冷静沈着な、男の夢を具現化したようなボンド像はここには無い。
敵役にしても、嘗てはバカバカしいロマンがあったが、前作のル・シッフルも本作のグリーンも、要するに経済ヤクザの様な物であって、別に世界征服を狙っている訳でも、政治的イデオロギーのために活動してる訳でもなく、リアルではあるものの、古くからのシリーズのファンには、「007」と似て非なる物を観ている様な一抹の寂しさも感じるかもしれない。
もっとも大胆なイメチェンで、本来の活劇としての魅力を確実に取り戻したのは紛れも無い事実で、今回も冒頭の激しいカーチェイスから、息つく間もないアクションシーンの連続だ。
ただ、残念ながらマーク・フォスターの演出は、少なくともアクションの見せ方に関しては、マーティン・キャンベルには及んでいない。
追跡シーンなどで、ボンドと敵役を同一画面に捉えた画が極端に少なく、位置関係が把握しにくいので追いつ追われの緊張感が上手く出ていないし、格闘シーンでも編集が細かすぎて、画面上で何が起こっているのかよくわからない。
演出がアクションを流れで捉えられていないので、どうしても細かいカット割りに頼ってしまっている感じだ。
まあそれでもVFXの出来の良さも手伝って、描写そのものは非常に迫力があるし、とりあえず見せ場のテンコ盛りなので、決して飽きる事は無いのだけど。
物語的には、世界中を飛び回っているうちに、何となく形を作ってしまう強引さは相変わらずだが、今回は特にアクションの比重が高く、殆どアクションシーン合間にドラマがあるくらいの勢いだ。
個人的には、これほど人間ドラマを薄味にするなら、渋い人間ドラマの人であるマーク・フォスターを起用する意味は余り感じられず、アクションに定評のあるキャンベル監督のままでもよかった様な気がする。
まあ、敵の隠れ蓑が環境関連企業だったり、大儀を失い、国益という名の拝金主義に塗れた政府に翻弄されるCIAやMI6の内情を自虐的に描くなど、ドラマに時代性をリンクさせた新しい切り口を模索している部分もあるので、このあたりはもう少し突っ込んで膨らませても良かったかもしれない。
たまたま「チェ 28歳の革命」を観たばかりだったので、ボリビアのクーデター計画にCIAが絡むくだりはなんだかそれなりにリアリティを感じた。
ゲバラが武力革命思想に目覚める大きなきっかけになったのも、CIAの介入でグアテマラの革命政権が崩壊したからで、彼が死んだのはまさにボリビアのジャングルだった。
「007/慰めの報酬」は、さすがに前作ほどのインパクトは感じられないものの、アクション満載のスパイ活劇として、十分楽しめる内容だ。
過去のシリーズとの装いの違いはますます明確になってきたが、少なくともダニエル・グレイグがボンドを演じるであろう、今後数作はこの路線で作られるのだろうし、21世紀の「007」としては、これはこれでありだと思う。
今回は、というかボンド映画の場合はこれしか思い浮かばないのだが、ヴェスパー・マティーニをチョイス。
ゴードン・ジン3、ウォッカ1、キナ・リレ1/2でシェイクし、薄切りのレモンピールを加える。
かなり強いので、一般人がボンドの様に7杯も飲んだら確実に酔っ払う。
もてるスパイは酒豪でなければならないらしい。
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前作「カジノ・ロワイヤル」のラストシーンから、そのまま話が続いており、脚本チームも当然続投。
なのに、なぜか監督だけはマーティン・キャンベルから、どう考えてもアクション畑の人とは言えないマーク・フォスターに交代している。
このあたりは、大人の事情がありそうだが、基本的に作品のイメージは前作を踏襲しており、新世代「007」のカラーが大体固まってきたという感じだ。
愛する女、ヴェスパーを失ったボンド(ダニエル・クレイグ)は、彼女を操っていたミスター・ホワイト(ジェスパー・クリステンセン)を捕らえ、背後にいる組織の全貌を暴こうとする。
しかし、MI6に潜入していた敵の工作員によって、ミスター・ホワイトはあっさり逃亡。
ボンドは手がかりを求めてハイチに飛び、組織とつながりのある女カーミュ(オルガ・キュリレンコ)を通じて、謎の男グリーン(マチュー・アマルリック)に接近する。
表向きは、環境関連企業のトップであるグリーンだが、裏ではボリビアの反政府クーデターの計画に資金援助している。
ボリビアの広大な砂漠を取得しようとするグリーンの計画を知ったボンドは、彼の真の狙いを探り出そうとするのだが・・・
「カジノ・ロワイヤル」は、旧シリーズの遺産を受け継ぎながらも、アクション映画の原点に帰り、何よりも大幅に若返ったボンドのキャラクターを徹底的に立て、シリーズに新しい風を吹き込む事に成功していた。
今回、ポール・ハギス、ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイドの脚本陣は、イアン・フレミングの原作を元にした前作に、オリジナルの続編を付け加えるという形で、「新007シリーズ」の世界観を形作ろうとしている様に見える。
謎だらけだった強大な敵の組織の正体が徐々に明らかになり、恐らくこのいかにも今風な曖昧な悪のネットワークが、今後旧シリーズのスペクターのような役割を担ってゆくのだろう。
すっかり役が板についた、ダニエル・クレイグ演じるジェームス・ボンドのキャラクターも、より明確に性格付けがなされ、まさに命を削る様に荒々しく、内面に暗い情念を抱えた人間臭いボンド像を確立している。
要するに今回は、愛する者を殺されたボンドの復讐譚であり、愛する者を失ったショックを引きずり、ヴェスパー・マティーニを浴びるほど飲んでしまう、見方によっては青臭いスパイには、旧シリーズのようなお戯れの恋愛はあまり似合わず、結果的にそれで更なる心の傷を負ってしまう痛々しさが印象的だ。
ギミック満載の秘密兵器を使い、漫画チックな悪役たちを倒してゆく、ダンディでどんな危機にも冷静沈着な、男の夢を具現化したようなボンド像はここには無い。
敵役にしても、嘗てはバカバカしいロマンがあったが、前作のル・シッフルも本作のグリーンも、要するに経済ヤクザの様な物であって、別に世界征服を狙っている訳でも、政治的イデオロギーのために活動してる訳でもなく、リアルではあるものの、古くからのシリーズのファンには、「007」と似て非なる物を観ている様な一抹の寂しさも感じるかもしれない。
もっとも大胆なイメチェンで、本来の活劇としての魅力を確実に取り戻したのは紛れも無い事実で、今回も冒頭の激しいカーチェイスから、息つく間もないアクションシーンの連続だ。
ただ、残念ながらマーク・フォスターの演出は、少なくともアクションの見せ方に関しては、マーティン・キャンベルには及んでいない。
追跡シーンなどで、ボンドと敵役を同一画面に捉えた画が極端に少なく、位置関係が把握しにくいので追いつ追われの緊張感が上手く出ていないし、格闘シーンでも編集が細かすぎて、画面上で何が起こっているのかよくわからない。
演出がアクションを流れで捉えられていないので、どうしても細かいカット割りに頼ってしまっている感じだ。
まあそれでもVFXの出来の良さも手伝って、描写そのものは非常に迫力があるし、とりあえず見せ場のテンコ盛りなので、決して飽きる事は無いのだけど。
物語的には、世界中を飛び回っているうちに、何となく形を作ってしまう強引さは相変わらずだが、今回は特にアクションの比重が高く、殆どアクションシーン合間にドラマがあるくらいの勢いだ。
個人的には、これほど人間ドラマを薄味にするなら、渋い人間ドラマの人であるマーク・フォスターを起用する意味は余り感じられず、アクションに定評のあるキャンベル監督のままでもよかった様な気がする。
まあ、敵の隠れ蓑が環境関連企業だったり、大儀を失い、国益という名の拝金主義に塗れた政府に翻弄されるCIAやMI6の内情を自虐的に描くなど、ドラマに時代性をリンクさせた新しい切り口を模索している部分もあるので、このあたりはもう少し突っ込んで膨らませても良かったかもしれない。
たまたま「チェ 28歳の革命」を観たばかりだったので、ボリビアのクーデター計画にCIAが絡むくだりはなんだかそれなりにリアリティを感じた。
ゲバラが武力革命思想に目覚める大きなきっかけになったのも、CIAの介入でグアテマラの革命政権が崩壊したからで、彼が死んだのはまさにボリビアのジャングルだった。
「007/慰めの報酬」は、さすがに前作ほどのインパクトは感じられないものの、アクション満載のスパイ活劇として、十分楽しめる内容だ。
過去のシリーズとの装いの違いはますます明確になってきたが、少なくともダニエル・グレイグがボンドを演じるであろう、今後数作はこの路線で作られるのだろうし、21世紀の「007」としては、これはこれでありだと思う。
今回は、というかボンド映画の場合はこれしか思い浮かばないのだが、ヴェスパー・マティーニをチョイス。
ゴードン・ジン3、ウォッカ1、キナ・リレ1/2でシェイクし、薄切りのレモンピールを加える。
かなり強いので、一般人がボンドの様に7杯も飲んだら確実に酔っ払う。
もてるスパイは酒豪でなければならないらしい。

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2009年01月16日 (金) | 編集 |
「感染列島」というタイトルからして、古色蒼然としたパニック映画。
設定に一定の説得力はあるものの、物語の展開や描写があまりにも大味かつお粗末。
正直なところ、あまり上等な映画とは言えない。
医師の松岡剛(妻夫木聡)の勤務する病院に、全身から出血し、瀕死の患者が担ぎこまれる。
同じ頃、病院に程近い養鶏場で鳥インフルエンザが発生した事や、患者の症状から新型
インフルエンザが疑われたが、原因となるウィルスは発見されない。
しかし、患者の血を浴びた同僚の医師の安馬(佐藤浩市)も同じ症状で倒れ、謎の感染症は原因がわからないまま、日本のあちこちに広がってゆく。
事態を重く見たWHO(世界保健機関)は、メディカルオフィサーの小林栄子(檀れい)を、対策チーフとして送り込むのだが・・・
致死率の高い鳥インフルエンザが、人から人へ感染するように変異し、世界中で流行することが懸念されている現在、この作品の設定にはある程度リアリティが感じられる。
実際、映画が始まって新型インフルエンザに似た謎の病気が、瞬く間に日本中に広まってゆくシミュレーション的な描写はなかなかに興味深く、発生源と疑われた養鶏場の経営者一家に降りかかる災厄も説得力がある。
しかしながらこの映画が輝きを放つのは、残念ながらそこまで。
病気の脅威が日本社会を制圧し、同時に対策チームがその正体に迫り始めると、映画は徐々に混沌としたカオスに落ち込み、二度と回復しないのである。
監督は脚本も兼任する瀬々敬久。
この人の映画は「MOON CHILD」しか観ていないので、どの程度の実力者なのかはよく判らないが、少なくともこれは褒められた仕事でないのは確かだ。
とにかく、中盤以降辻褄の合わない描写が多すぎる。
特に肝心の病気の描写の珍妙さは致命的で、明らかに話の展開にあわせるために、潜伏期間も症状もバラバラにしか見えず、御都合主義も甚だしい。
佐藤浩市などは、全身から血を噴出して死んでしまうのに、これが女性キャラだと一縷の血の涙を流して美しく最期を迎えるのだから、作品のシリアスさを疑われてもしかたがないだろう。
一番酷いのは病気の発生源たる某医療関係者で、コイツだけ一体何週間持ちこたえてるのか。
そもそも医療関係者が、自らの感染症を疑いながら、感染させたかも知れない家族にも知らせずに出国してしまうという展開はあり得ないだろう。
ある意味、病気が主役の映画で、考証がこんな適当で良いわけが無い。
また日本でパンデミックが進むと、なぜか車がそこら中でひっくり返っていたり、ビルの窓ガラスが全部割れていたと、まるで市街戦でも起こったかのような有様になるのだが、何で病気の蔓延でこんな風景が生まれるのか??
極めつけは、いつの間にか「デビルマン」を思わせる感染者狩りが行われており、「感染者を匿うのは犯罪です」などという標語が掲げられていたりするのだが、そもそも治療を受けなければ死んでしまう病気で、匿うも何もないだろう。
目や口から血を流した感染者が、防護服の自衛隊員から走って逃げ回るゾンビ映画みたいな描写もあったが、何で彼らはそんなに元気なのか(笑
登場人物やエピソードがやたらと多いのに、その多くが明確に特定の役割を表現するだけに存在する類型的なキャラだったり、単なる泣かせに終わっているのも萎える。
たとえば国仲涼子演じる、幼い子供を持つ献身的な看護士の女性は、登場した瞬間悲劇性を強調する死に役なのがバレバレ。
藤竜也演じるウィルス学者などは「ウィルスと共存できないものかねえ?」などと、意味不明な事を言う不思議ちゃんキャラになってしまっている。
彼は癌に罹った事から、その様な考えを持つように成ったらしいのだが、そもそも人にうつらない癌とウィルスはまるっきり違うだろう。
「癌との共存」というフレーズは確かにメディアでよく目にするが、単にその響きだけを使って、何となく深い映画であるというイメージを作るだけの、限りなく浅いキャラクターである。
演出センスも正直なところ酷い。
何しろ叙情的なシーンになると、必ず雨か雪が降り出すのだ。
ぶっちゃけ今時韓流ドラマでもやらないベタな演出だけど、一回だけならまだしも、二度三度と繰り返されると、もはやギャグに見えてきてしまう。
本来なら感動的で泣かせるシーンなんだろうけど、あまりのセンスの無さに違う意味で泣けてきた。
まあ「感染列島」というタイトルを聞いたときから、何となく嫌な気配は感じていたのだけど、残念ながら予感的中。
未知のウィルスのパンデミックによる社会の崩壊というモチーフそのものは、それなりに説得力が感じられるのだから、泣かせキャラも不思議キャラも下手糞なメロドラマも全て切り捨てて構成要素を絞り込み、未曾有の脅威に直面した徹底的にリアルな人間ドラマを描けばもっとずっと面白くなっただろう。
しかし「252 生存者あり」といい、この作品といい、なぜ70年代からタイムスリップしてきた様な大味なパニック映画が今連続して作られるのだろう。
ネタがないのか、世相が当時と似ているのか、どちらにしても独創性は感じられない。
そう言えばウィルスって、私が子供の頃はビールスと表記されていた様な記憶があるが、いつ頃からウィルスとなったのだろう。
という語呂合わせで、今回は寒い冬にホット専用ビールとして知られる「リーフマンス グリュークリーク」をチョイス。
さくらんぼ味の甘いビールで、これを50度くらいの燗で飲む。
ポカポカ暖まるのでナイト・キャップにも良いかも。
ちなみにビールをホットで飲むのは、冬の寒さの厳しいヨーロッパでは、比較的知られた飲み方で、専用ビール以外でも、黒ビールにシナモンや砂糖を加えて飲むと美味しい。
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設定に一定の説得力はあるものの、物語の展開や描写があまりにも大味かつお粗末。
正直なところ、あまり上等な映画とは言えない。
医師の松岡剛(妻夫木聡)の勤務する病院に、全身から出血し、瀕死の患者が担ぎこまれる。
同じ頃、病院に程近い養鶏場で鳥インフルエンザが発生した事や、患者の症状から新型
インフルエンザが疑われたが、原因となるウィルスは発見されない。
しかし、患者の血を浴びた同僚の医師の安馬(佐藤浩市)も同じ症状で倒れ、謎の感染症は原因がわからないまま、日本のあちこちに広がってゆく。
事態を重く見たWHO(世界保健機関)は、メディカルオフィサーの小林栄子(檀れい)を、対策チーフとして送り込むのだが・・・
致死率の高い鳥インフルエンザが、人から人へ感染するように変異し、世界中で流行することが懸念されている現在、この作品の設定にはある程度リアリティが感じられる。
実際、映画が始まって新型インフルエンザに似た謎の病気が、瞬く間に日本中に広まってゆくシミュレーション的な描写はなかなかに興味深く、発生源と疑われた養鶏場の経営者一家に降りかかる災厄も説得力がある。
しかしながらこの映画が輝きを放つのは、残念ながらそこまで。
病気の脅威が日本社会を制圧し、同時に対策チームがその正体に迫り始めると、映画は徐々に混沌としたカオスに落ち込み、二度と回復しないのである。
監督は脚本も兼任する瀬々敬久。
この人の映画は「MOON CHILD」しか観ていないので、どの程度の実力者なのかはよく判らないが、少なくともこれは褒められた仕事でないのは確かだ。
とにかく、中盤以降辻褄の合わない描写が多すぎる。
特に肝心の病気の描写の珍妙さは致命的で、明らかに話の展開にあわせるために、潜伏期間も症状もバラバラにしか見えず、御都合主義も甚だしい。
佐藤浩市などは、全身から血を噴出して死んでしまうのに、これが女性キャラだと一縷の血の涙を流して美しく最期を迎えるのだから、作品のシリアスさを疑われてもしかたがないだろう。
一番酷いのは病気の発生源たる某医療関係者で、コイツだけ一体何週間持ちこたえてるのか。
そもそも医療関係者が、自らの感染症を疑いながら、感染させたかも知れない家族にも知らせずに出国してしまうという展開はあり得ないだろう。
ある意味、病気が主役の映画で、考証がこんな適当で良いわけが無い。
また日本でパンデミックが進むと、なぜか車がそこら中でひっくり返っていたり、ビルの窓ガラスが全部割れていたと、まるで市街戦でも起こったかのような有様になるのだが、何で病気の蔓延でこんな風景が生まれるのか??
極めつけは、いつの間にか「デビルマン」を思わせる感染者狩りが行われており、「感染者を匿うのは犯罪です」などという標語が掲げられていたりするのだが、そもそも治療を受けなければ死んでしまう病気で、匿うも何もないだろう。
目や口から血を流した感染者が、防護服の自衛隊員から走って逃げ回るゾンビ映画みたいな描写もあったが、何で彼らはそんなに元気なのか(笑
登場人物やエピソードがやたらと多いのに、その多くが明確に特定の役割を表現するだけに存在する類型的なキャラだったり、単なる泣かせに終わっているのも萎える。
たとえば国仲涼子演じる、幼い子供を持つ献身的な看護士の女性は、登場した瞬間悲劇性を強調する死に役なのがバレバレ。
藤竜也演じるウィルス学者などは「ウィルスと共存できないものかねえ?」などと、意味不明な事を言う不思議ちゃんキャラになってしまっている。
彼は癌に罹った事から、その様な考えを持つように成ったらしいのだが、そもそも人にうつらない癌とウィルスはまるっきり違うだろう。
「癌との共存」というフレーズは確かにメディアでよく目にするが、単にその響きだけを使って、何となく深い映画であるというイメージを作るだけの、限りなく浅いキャラクターである。
演出センスも正直なところ酷い。
何しろ叙情的なシーンになると、必ず雨か雪が降り出すのだ。
ぶっちゃけ今時韓流ドラマでもやらないベタな演出だけど、一回だけならまだしも、二度三度と繰り返されると、もはやギャグに見えてきてしまう。
本来なら感動的で泣かせるシーンなんだろうけど、あまりのセンスの無さに違う意味で泣けてきた。
まあ「感染列島」というタイトルを聞いたときから、何となく嫌な気配は感じていたのだけど、残念ながら予感的中。
未知のウィルスのパンデミックによる社会の崩壊というモチーフそのものは、それなりに説得力が感じられるのだから、泣かせキャラも不思議キャラも下手糞なメロドラマも全て切り捨てて構成要素を絞り込み、未曾有の脅威に直面した徹底的にリアルな人間ドラマを描けばもっとずっと面白くなっただろう。
しかし「252 生存者あり」といい、この作品といい、なぜ70年代からタイムスリップしてきた様な大味なパニック映画が今連続して作られるのだろう。
ネタがないのか、世相が当時と似ているのか、どちらにしても独創性は感じられない。
そう言えばウィルスって、私が子供の頃はビールスと表記されていた様な記憶があるが、いつ頃からウィルスとなったのだろう。
という語呂合わせで、今回は寒い冬にホット専用ビールとして知られる「リーフマンス グリュークリーク」をチョイス。
さくらんぼ味の甘いビールで、これを50度くらいの燗で飲む。
ポカポカ暖まるのでナイト・キャップにも良いかも。
ちなみにビールをホットで飲むのは、冬の寒さの厳しいヨーロッパでは、比較的知られた飲み方で、専用ビール以外でも、黒ビールにシナモンや砂糖を加えて飲むと美味しい。

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2009年01月11日 (日) | 編集 |
歴史の表舞台で活動した期間、僅かに10年と少々。
「チェ 28歳の革命」は、太く短く鮮烈な人生を送り、二十世紀の歴史に名を留める革命家、エルネスト[チェ]・ゲバラの生涯を、スティーブン・ソダーバーグが二部作として描いた大作の前編部分にあたる。
革命家であると同時に、軍略家、政治家、医師、アマチュア写真家と幾つもの顔を持つゲバラは、文才もなかなかの人物だったらしく、自伝を含む複数の著作を残している事でも知られ、過去にも何度か映像化されている。
近年では、ゲバラの人生観に大きな影響を与えた、若き日の南米旅行を描いたウォルター・サレス監督のロードムービー「モータサイクル・ダイアリーズ」が記憶に新しい。
今回、ソダーバーグが描くのは、1955年にメキシコで後に共にキューバ革命を成し遂げる盟友となるフィデル・カストロとの出会いから、キューバ革命を経て1967年にボリビアで射殺されるまでの12年間。
まさに、ゲバラが歴史にその名を刻んだ時期である。
1955年メキシコ。
27歳のアルゼンチン人の医師チェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、若きキューバ人革命家フィデル・カストロ(デミアン・ビチル)と出会う。
故国キューバを牛耳るバティスタ独裁政権を倒し、共産主義革命を目指していたカストロの熱意に共感したゲバラは、一年後カストロをリーダーとした82人の革命軍の一員としてキューバに潜入する。
それは、2年以上に渡るバティスタ軍との激しい戦争の始まりだった。
ゲバラは革命軍のナンバー2として、農民たちの支持を獲得し、ゲリラ戦によって徐々に勢力を拡大してゆく・・・
チェ・ゲバラを知らない人でも、赤い星のベレー帽にヒゲ面の肖像写真は一度くらい見たことがあるだろう。
彼は中南米においては、単に歴史を変えた革命の英雄というだけではなく、社会の改革・革新のシンボルであり、没後40年以上経つ現在でも、その人気に陰りは見えない。
日本で考えると、坂本竜馬の存在に近いものがあるかもしれない。
既に瓦解した共産主義の革命家がなぜ、という思いを抱く人も多いだろうが、ゲバラが体現したのは、共産主義という経済制度のイデオロギーだけではなく、植民地時代からその後の軍事独裁政権まで、長く支配され搾取され続けてきた中南米の人民の、誇り高き自主独立の願望そのものだったから、と言えるだろう。
ゲバラは60~70年代の公民権運動とベトナム反戦運動で、反体制、反権力のアイコンとなった事もあり、仇敵であるはずのアメリカですら未だ根強い人気がある。
革命を成し遂げた後、長く権力の座にとどまらずにキューバを去って、結果的に革命のその後の末路に関わらなかった事と、ボリビアのジャングルで一兵士として命を落とした悲劇性も、人々の判官贔屓の感情に訴えかけるものがあるのだろう。
本作のスティーブン・ソダーバーグ監督も、そんな風にゲバラに引かれたアメリカ人の一人であるのだろうか。
正直なところ、ソダーバーグはあまり私と相性の良い監督ではないのだが、この作品はなかなかに引き込まれた。
もちろん、実質的にはまだ映画の半分しか観ていない事になるのだが、歴史の中で殆ど神格化された人物を丁寧に描き、ゲバラとは何者であったのか、という問いにしっかりと向き合っている様に見える。
映画の構造は少し複雑で、1955年のメキシコシティでのゲバラとカストロの出会い、56年から59年に渡る革命戦争、そして1964年の国連総会でキューバ代表としてアメリカを訪れた時の三つの時系列がシャッフルされて描かれる。
ニューヨークのシークエンスは、モノクロのハンディ画像でアップが多用され、まるで当時の報道フィルムをそのまま使っているかの様な客観的なタッチで描かれ、逆にキューバでの革命戦争のシークエンスは劇映画のセオリーに忠実に描かれる。
冒頭と終盤のメキシコシティのシークエンスは、やや粒子の荒れた映像とキッチリと決め込まれたフィックスの構図が印象的。
それぞれの時系列で明確に演出の意図が異なるのが特徴だ。
ニューヨークでのシークエンスは、ゲバラという人物に興味津々なアメリカ、あるいは世界の視点であり、同時に現在から過去を眺める視点でもあるだろう。
上映時間の大半を占めるキューバのシークエンスは、逆に生身の人間としてのゲバラの生き様をリアルに感じさせ、メキシコのごく短いシークエンスはゲバラとカストロの歴史的な出会いを、過剰にドラマチックでなく、しかし象徴的に描くというのが狙いだろう。
ドラマの収束点がどこに行くのかはまだ見えないが、少なくとも物語の「起承」としては成功している様に思う。
ゲバラという人物は殆ど漫画の登場人物などと同じくらい、人々の中でイメージが固まっているから、リアルな個人として表現するのは大変難しかったと思うが、演じたベニチオ・デル・トロはこの複雑で才能豊かな人物を説得力たっぷりに纏め上げている。
国連での演説時の不遜なほどの堂々とした態度、外国人であるという負い目からキューバのジャングルで見せる弱気な青年の一面、そして戦場での指揮官として敵からも味方からも一目置かれる振舞い。
なるほど、ゲバラとはこういう人物だっただろうなあという感覚を、物語を通して自然に抱かせる好演である。
「チェ 28歳の革命」は、伝記映画としては淡々としていてそれほどドラマチックではないが、半世紀前に、強い信念を持って本気で世界を変えようとした青年の生き様を、リアルに感じさせてくれる。
映画作家としての主観を抑え、叙情的な演出を可能な限り排し、ゲバラ本人の再現を目指したかのように見えるソダーバーグのアプローチは、現時点では正解だろう。
戦争には勝ったものの、「革命はこれからだ」と語ったゲバラが、いかにして39歳の若さで命を落とす事になるのか、後編を楽しみに待ちたい。
今回は、キューバ革命という事でやはりラム。
「ハバナ・クラブ 七年」をチョイス。
元々キューバは、植民地時代から良質なサトウキビから出来るラム酒が一大産業だったが、革命で外国資本が海外に撤退した事から、革命政府によって銘柄の統合・新たなブランドの創出が行われる。
ハバナ・クラブは百年以上の歴史のあるブランドで、革命政府は一時期キューバンラムの輸出ブランドを全てこの銘柄に統一していた。
この7年物は適度に熟成が進んでマイルドかつライトで甘みも程よくコクもそれなりにある。
お値段もリーズナブルで、バランスの良いお酒だ。
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「チェ 28歳の革命」は、太く短く鮮烈な人生を送り、二十世紀の歴史に名を留める革命家、エルネスト[チェ]・ゲバラの生涯を、スティーブン・ソダーバーグが二部作として描いた大作の前編部分にあたる。
革命家であると同時に、軍略家、政治家、医師、アマチュア写真家と幾つもの顔を持つゲバラは、文才もなかなかの人物だったらしく、自伝を含む複数の著作を残している事でも知られ、過去にも何度か映像化されている。
近年では、ゲバラの人生観に大きな影響を与えた、若き日の南米旅行を描いたウォルター・サレス監督のロードムービー「モータサイクル・ダイアリーズ」が記憶に新しい。
今回、ソダーバーグが描くのは、1955年にメキシコで後に共にキューバ革命を成し遂げる盟友となるフィデル・カストロとの出会いから、キューバ革命を経て1967年にボリビアで射殺されるまでの12年間。
まさに、ゲバラが歴史にその名を刻んだ時期である。
1955年メキシコ。
27歳のアルゼンチン人の医師チェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、若きキューバ人革命家フィデル・カストロ(デミアン・ビチル)と出会う。
故国キューバを牛耳るバティスタ独裁政権を倒し、共産主義革命を目指していたカストロの熱意に共感したゲバラは、一年後カストロをリーダーとした82人の革命軍の一員としてキューバに潜入する。
それは、2年以上に渡るバティスタ軍との激しい戦争の始まりだった。
ゲバラは革命軍のナンバー2として、農民たちの支持を獲得し、ゲリラ戦によって徐々に勢力を拡大してゆく・・・
チェ・ゲバラを知らない人でも、赤い星のベレー帽にヒゲ面の肖像写真は一度くらい見たことがあるだろう。
彼は中南米においては、単に歴史を変えた革命の英雄というだけではなく、社会の改革・革新のシンボルであり、没後40年以上経つ現在でも、その人気に陰りは見えない。
日本で考えると、坂本竜馬の存在に近いものがあるかもしれない。
既に瓦解した共産主義の革命家がなぜ、という思いを抱く人も多いだろうが、ゲバラが体現したのは、共産主義という経済制度のイデオロギーだけではなく、植民地時代からその後の軍事独裁政権まで、長く支配され搾取され続けてきた中南米の人民の、誇り高き自主独立の願望そのものだったから、と言えるだろう。
ゲバラは60~70年代の公民権運動とベトナム反戦運動で、反体制、反権力のアイコンとなった事もあり、仇敵であるはずのアメリカですら未だ根強い人気がある。
革命を成し遂げた後、長く権力の座にとどまらずにキューバを去って、結果的に革命のその後の末路に関わらなかった事と、ボリビアのジャングルで一兵士として命を落とした悲劇性も、人々の判官贔屓の感情に訴えかけるものがあるのだろう。
本作のスティーブン・ソダーバーグ監督も、そんな風にゲバラに引かれたアメリカ人の一人であるのだろうか。
正直なところ、ソダーバーグはあまり私と相性の良い監督ではないのだが、この作品はなかなかに引き込まれた。
もちろん、実質的にはまだ映画の半分しか観ていない事になるのだが、歴史の中で殆ど神格化された人物を丁寧に描き、ゲバラとは何者であったのか、という問いにしっかりと向き合っている様に見える。
映画の構造は少し複雑で、1955年のメキシコシティでのゲバラとカストロの出会い、56年から59年に渡る革命戦争、そして1964年の国連総会でキューバ代表としてアメリカを訪れた時の三つの時系列がシャッフルされて描かれる。
ニューヨークのシークエンスは、モノクロのハンディ画像でアップが多用され、まるで当時の報道フィルムをそのまま使っているかの様な客観的なタッチで描かれ、逆にキューバでの革命戦争のシークエンスは劇映画のセオリーに忠実に描かれる。
冒頭と終盤のメキシコシティのシークエンスは、やや粒子の荒れた映像とキッチリと決め込まれたフィックスの構図が印象的。
それぞれの時系列で明確に演出の意図が異なるのが特徴だ。
ニューヨークでのシークエンスは、ゲバラという人物に興味津々なアメリカ、あるいは世界の視点であり、同時に現在から過去を眺める視点でもあるだろう。
上映時間の大半を占めるキューバのシークエンスは、逆に生身の人間としてのゲバラの生き様をリアルに感じさせ、メキシコのごく短いシークエンスはゲバラとカストロの歴史的な出会いを、過剰にドラマチックでなく、しかし象徴的に描くというのが狙いだろう。
ドラマの収束点がどこに行くのかはまだ見えないが、少なくとも物語の「起承」としては成功している様に思う。
ゲバラという人物は殆ど漫画の登場人物などと同じくらい、人々の中でイメージが固まっているから、リアルな個人として表現するのは大変難しかったと思うが、演じたベニチオ・デル・トロはこの複雑で才能豊かな人物を説得力たっぷりに纏め上げている。
国連での演説時の不遜なほどの堂々とした態度、外国人であるという負い目からキューバのジャングルで見せる弱気な青年の一面、そして戦場での指揮官として敵からも味方からも一目置かれる振舞い。
なるほど、ゲバラとはこういう人物だっただろうなあという感覚を、物語を通して自然に抱かせる好演である。
「チェ 28歳の革命」は、伝記映画としては淡々としていてそれほどドラマチックではないが、半世紀前に、強い信念を持って本気で世界を変えようとした青年の生き様を、リアルに感じさせてくれる。
映画作家としての主観を抑え、叙情的な演出を可能な限り排し、ゲバラ本人の再現を目指したかのように見えるソダーバーグのアプローチは、現時点では正解だろう。
戦争には勝ったものの、「革命はこれからだ」と語ったゲバラが、いかにして39歳の若さで命を落とす事になるのか、後編を楽しみに待ちたい。
今回は、キューバ革命という事でやはりラム。
「ハバナ・クラブ 七年」をチョイス。
元々キューバは、植民地時代から良質なサトウキビから出来るラム酒が一大産業だったが、革命で外国資本が海外に撤退した事から、革命政府によって銘柄の統合・新たなブランドの創出が行われる。
ハバナ・クラブは百年以上の歴史のあるブランドで、革命政府は一時期キューバンラムの輸出ブランドを全てこの銘柄に統一していた。
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2009年01月06日 (火) | 編集 |
愛すべきオタク監督、ギレルモ・デル・トロがマイク・ミニョーラの原作を受けて作り上げた、異色のコミック・ヒーロー映画の第二弾。
アメコミ原作物とは言っても、DCやマーベルの様な老舗メジャーレーベルの出身とは異なり、この異形のヒーローたちは、今回も妙な愛嬌いっぱいで、良い意味でB級テイストを漂わせて楽しませてくれる。
「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」でタイトルロールの猫派の赤い悪魔を演じるのは、もちろん怪優ロン・パールマンだ。
魔界からやって来た悪魔の子、ヘルボーイ(ロン・パールマン)は超常現象捜査防衛局「BPRD」のエージェント。
水棲人間のエイブ(ダグ・ジョーンズ)と発火能力者のエリザベス(セルマ・ブレア)とチームを組み、人間世界に現れる魔物退治に奔走している。
ヘルボーイとエリザベスは恋人同士だが、ある日エリザベスは自分の体に新しい命が宿っている事を知る。
そんな時、オークション会場に現れた、何でも食い尽くしてしまう「歯の妖精」退治に出動したヘルボーイたちは、マスコミに捉えられ、その姿を世間に報じられてしまう。
実はオークション会場での事件は、人間世界に隠れるように存在する、エルフ国の王子ヌアダ(ルーク・ゴス)が起こしたものだった。
彼は人間を抹殺して地上を支配するために、三つに分割された妖精王の王冠を集め、封印された無敵の軍団「ゴールデン・アーミー」を起動させようとしており、王冠の一部をオークション会場から奪っていたのだ。
事件の裏を追うヘルボーイたちは、妖精世界に通じる「トロール市場」に侵入するのだが・・・
悪魔でありながら人間の味方というのは、言わば「デビルマン」のアメコミ版か。
しかし壮大なカタストロフィを迎える元祖と異なり、「ヘルボーイ」に描かれる世界はどことなく能天気&ユーモラスで、今回もそれは変わらない。
物語の大筋は、人間を滅ぼして地上を支配しようとするエルフの王子ヌアダと、それを阻止しようとするヘルボーイたちの戦いだが、単純にアクションで流すだけでなく、色々とスパイスを効かせている。
人間と魔物の間で板ばさみになり、自分は一体何者で、どう生きるべきなのかというアイデンティティの問題に揺れるヘルボーイの姿は、そのままテーマに直結しているだろう。
ギレルモ・デル・トロは実に愛情深く、この異形のキャラクターを丹念に描き、しっかりと感情移入させる。
「お前は人間より俺たちに近い。お前なら世界の王にすらなれるのに」とヌアダに突きつけられた異形の存在の宿命を巡る命題と、エリザベスに宿った新しい命が物語の縦軸と横軸と成り、デル・トロならではのユニークなビジュアルも楽しく飽きさせない。
元々特殊メイク畑出身のデル・トロの造型感覚は、ダークファンタジーの傑作「パンズ・ラビリンス」を経てさらに磨きがかかり、地底世界のエルフの王国から封印されたゴールデン・アーミーに至るまで、不気味でありながら独特の様式美をもつ。
日本アニメの影響が強いのも相変わらずで、クライマックスに繋がる岩の巨人は「太陽の王子/ホルスの大冒険」を思わせるし、ゴールデン・アーミーの描写は「天空の城ラピュタ」に登場するロボット軍団が元ネタだろうか。
タイトルロールのヘルボーイ自体が、西洋の悪魔に日本の鬼とサムライのイメージを掛け合わせてデザインされているらしく、ヘアスタイルがチョンマゲなのもご愛嬌。
アニメ版には日本を舞台にした物もあり、このシリーズは「デビルマン」を含めて意外と根っこが日本と繋がるのである。
インタビューで宮崎駿や高畑勲や押井守の名前がポンポン飛びだし、ゴジラもガメラも大好きだと語るデル・トロが、心底楽しんで撮っているのは間違いない。
ある意味、オタクのおもちゃ箱の様な映画である。
ただ、惜しむらくは散らかりっぱなしの子供部屋の様に、物語の構成が複雑で、描ききれていない部分が多い事だ。
主人公の葛藤はもっと深く描けるだろうし、登場はしたものの描写が中途半端なキャラクターもいる。
ストーリーと脚本も手がけたデル・トロ自身が、これも、あれも見せたいと詰め込んでしまった感があり、その為にややメリハリを欠いてしまっているのは残念なポイントだ。
まあ、基本的にこの人は監督デビュー作の「クロノス」の頃から、物語を重層的にする傾向があるし、それはそれで面白いのだけど、今回のように構成要素がてんこ盛りだと、とっ散らかった印象になってしまう。
もっとも、不気味で美しい異形の者どもが織り成す、モンスターの悲哀をたっぷり含んだ冒険物語は十分に魅力的で、ファンタジー映画が好きな人には特にお勧めの作品だ。
ギレルモ・デル・トロの次回作は、あの「ホビットの冒険」で、公開予定は2012年。
本作の加速がかかったビジュアルを見ると、ピーター・ジャクソン版とは一線を画す「中つ国」が生まれそうだ。
いずれにしても、デル・トロとジャクソンという、究極のオタク二人が組む「ホビットの冒険」は、今から首を長くして待つ価値があるだろう。
あ、でもいつか「ヘルボーイ3」も作って欲しいなあ。
今回はストレートに「デビルズ」という名のカクテルをチョイス。
ポートワインとドライ・ベルモットを1:1でステアし、レモンジュースを適量加える。
好みでポートワインに変えて赤ワインを使っても良い。
風味の強い酒を使っているので、好みは分かれるだろうが、名前とは違ってマイルドで飲みやすい。
見た目とは違って、心優しく繊細なヘルボーイの様な酒だ。
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アメコミ原作物とは言っても、DCやマーベルの様な老舗メジャーレーベルの出身とは異なり、この異形のヒーローたちは、今回も妙な愛嬌いっぱいで、良い意味でB級テイストを漂わせて楽しませてくれる。
「ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー」でタイトルロールの猫派の赤い悪魔を演じるのは、もちろん怪優ロン・パールマンだ。
魔界からやって来た悪魔の子、ヘルボーイ(ロン・パールマン)は超常現象捜査防衛局「BPRD」のエージェント。
水棲人間のエイブ(ダグ・ジョーンズ)と発火能力者のエリザベス(セルマ・ブレア)とチームを組み、人間世界に現れる魔物退治に奔走している。
ヘルボーイとエリザベスは恋人同士だが、ある日エリザベスは自分の体に新しい命が宿っている事を知る。
そんな時、オークション会場に現れた、何でも食い尽くしてしまう「歯の妖精」退治に出動したヘルボーイたちは、マスコミに捉えられ、その姿を世間に報じられてしまう。
実はオークション会場での事件は、人間世界に隠れるように存在する、エルフ国の王子ヌアダ(ルーク・ゴス)が起こしたものだった。
彼は人間を抹殺して地上を支配するために、三つに分割された妖精王の王冠を集め、封印された無敵の軍団「ゴールデン・アーミー」を起動させようとしており、王冠の一部をオークション会場から奪っていたのだ。
事件の裏を追うヘルボーイたちは、妖精世界に通じる「トロール市場」に侵入するのだが・・・
悪魔でありながら人間の味方というのは、言わば「デビルマン」のアメコミ版か。
しかし壮大なカタストロフィを迎える元祖と異なり、「ヘルボーイ」に描かれる世界はどことなく能天気&ユーモラスで、今回もそれは変わらない。
物語の大筋は、人間を滅ぼして地上を支配しようとするエルフの王子ヌアダと、それを阻止しようとするヘルボーイたちの戦いだが、単純にアクションで流すだけでなく、色々とスパイスを効かせている。
人間と魔物の間で板ばさみになり、自分は一体何者で、どう生きるべきなのかというアイデンティティの問題に揺れるヘルボーイの姿は、そのままテーマに直結しているだろう。
ギレルモ・デル・トロは実に愛情深く、この異形のキャラクターを丹念に描き、しっかりと感情移入させる。
「お前は人間より俺たちに近い。お前なら世界の王にすらなれるのに」とヌアダに突きつけられた異形の存在の宿命を巡る命題と、エリザベスに宿った新しい命が物語の縦軸と横軸と成り、デル・トロならではのユニークなビジュアルも楽しく飽きさせない。
元々特殊メイク畑出身のデル・トロの造型感覚は、ダークファンタジーの傑作「パンズ・ラビリンス」を経てさらに磨きがかかり、地底世界のエルフの王国から封印されたゴールデン・アーミーに至るまで、不気味でありながら独特の様式美をもつ。
日本アニメの影響が強いのも相変わらずで、クライマックスに繋がる岩の巨人は「太陽の王子/ホルスの大冒険」を思わせるし、ゴールデン・アーミーの描写は「天空の城ラピュタ」に登場するロボット軍団が元ネタだろうか。
タイトルロールのヘルボーイ自体が、西洋の悪魔に日本の鬼とサムライのイメージを掛け合わせてデザインされているらしく、ヘアスタイルがチョンマゲなのもご愛嬌。
アニメ版には日本を舞台にした物もあり、このシリーズは「デビルマン」を含めて意外と根っこが日本と繋がるのである。
インタビューで宮崎駿や高畑勲や押井守の名前がポンポン飛びだし、ゴジラもガメラも大好きだと語るデル・トロが、心底楽しんで撮っているのは間違いない。
ある意味、オタクのおもちゃ箱の様な映画である。
ただ、惜しむらくは散らかりっぱなしの子供部屋の様に、物語の構成が複雑で、描ききれていない部分が多い事だ。
主人公の葛藤はもっと深く描けるだろうし、登場はしたものの描写が中途半端なキャラクターもいる。
ストーリーと脚本も手がけたデル・トロ自身が、これも、あれも見せたいと詰め込んでしまった感があり、その為にややメリハリを欠いてしまっているのは残念なポイントだ。
まあ、基本的にこの人は監督デビュー作の「クロノス」の頃から、物語を重層的にする傾向があるし、それはそれで面白いのだけど、今回のように構成要素がてんこ盛りだと、とっ散らかった印象になってしまう。
もっとも、不気味で美しい異形の者どもが織り成す、モンスターの悲哀をたっぷり含んだ冒険物語は十分に魅力的で、ファンタジー映画が好きな人には特にお勧めの作品だ。
ギレルモ・デル・トロの次回作は、あの「ホビットの冒険」で、公開予定は2012年。
本作の加速がかかったビジュアルを見ると、ピーター・ジャクソン版とは一線を画す「中つ国」が生まれそうだ。
いずれにしても、デル・トロとジャクソンという、究極のオタク二人が組む「ホビットの冒険」は、今から首を長くして待つ価値があるだろう。
あ、でもいつか「ヘルボーイ3」も作って欲しいなあ。
今回はストレートに「デビルズ」という名のカクテルをチョイス。
ポートワインとドライ・ベルモットを1:1でステアし、レモンジュースを適量加える。
好みでポートワインに変えて赤ワインを使っても良い。
風味の強い酒を使っているので、好みは分かれるだろうが、名前とは違ってマイルドで飲みやすい。
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