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2009年02月25日 (水) | 編集 |
ある日突然、最愛の息子が失踪し、数ヵ月後に警察によって発見される。
ところが自分を母と呼ぶその子は、我が子とは似ても似つかないまったくの別人。
何かの間違いだという必死の訴えにも、警察は厳正な捜査の結果だと相手にしてくれない。
果たして本当の息子はどこに消えたのか、発見された子はなぜ他人の名を語り嘘を言うのか。
ぶっちゃけ「チェンジリング」の設定は嘘臭く、まるで出来の悪い三流サスペンスなのだが、これが「true story」というのだから、まさに事実は小説よりも奇なり。
「硫黄島からの手紙」以来となるクリント・イーストウッドは、一歩間違えると限りなく俗っぽくなりそうなこの物語を、格調高い人間ドラマに仕上げるのだから、やはり大したものだ。
1928年、LA。
クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の一人息子、ウォルターが失踪し、母一人子一人で暮らしてきたクリスティンは憔悴した毎日を送る。
五ヶ月間の捜査の末に、ウォルターが遥かイリノイ州で発見されたという知らせが届く。
再開に胸躍らせるクリスティンだったが、列車から降り立った少年は、ウォルターとはまったくの別人だった。
息子ではないと主張するクリスティンに、不祥事続きで点数を稼ぎたいLAPD(ロス市警)は決して間違いを認めようとせず、逆にクリスティンを精神病院に放り込んでしまう。
そんな時、LAPD批判の急先鋒であるブリーグレブ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)がクリスティンに救いの手を差し伸べ、彼女はLAPDと司法の場で対決する事になる。
警察はあくまでもウォルターは発見済みとして事件の幕引きを図るのだが、まったく別件の事件から、本物のウォルターの手がかりが発見される・・・
失踪した少年の謎を追うサスペンス物の様に見えて、そうではない。
本来の役割を忘れ、自己保身がその存在意義となってしまった硬直した権力組織への不信感と、市井に生きる個人のささやかな生き様を対比して見せた社会派ドラマだ。
馬鹿で無能で傲慢な人間に権力を渡すと、とんでもない事になるという事を、摩訶不思議な事実をモチーフに描いた秀逸な逸話であり、誰が見ても無茶な主張を往生際悪く繰り返す権力の姿は、悲しいかな現在の日本の一面すら透けて見える位に説得力がある。
私は腐敗しない権力という物は存在しないと考えている。
どんなに清廉潔白な理想を掲げた権力であろうとも、人間である以上、時とともに必ず利権が生まれ、それを守ろうとするようになり腐敗する。
特に警察のような武力組織において、チェック機構が働かないという事がどれほど恐ろしい事か、改めて考えさせられた。
もちろん、お堅いだけの権力告発映画ではなく、真実を求める気持ちのベースに流れているのは失踪した息子への母親の愛であるというのが映画として上手いところ。
クリスティンの痛々しいくらい一途な気持ちには、誰もが素直に感情移入できるだろう。
物語後半の背景になっている「ウィネヴィラ養鶏場殺人事件」は、アメリカ犯罪史上、被害者の数と犯人の特異なキャラクター、殺害状況の残酷さで現在にも語り継がれる伝説的な事件だが、映画を観るまでこの話が事件とつながっている事は知らなかった。
ただでさえインパクトのある事件だけに、殺人事件に重点を置いてしまうと、物語のバランスが崩れてしまい、作劇としては難しいところだが、完成した作品では適度な距離感を保っていて、構成力の高さが際立つ。
テレビ出身のベテランライター、J・マイケル・ストラジンスキーの脚本は、サスペンスの構造で物語を引っ張りつつ、キャラクターの立ち位置を明確にする事で、テーマ性の部分をきっちりと浮かび上がらせて、なかなか見事だ。
ややもすれば作り過ぎに陥ってしまう危険のある作劇を、イーストウッドは内面から血の通ったキャラクターを表現出来る実力者たちを配して、深みのある人間ドラマに仕立てている。
主人公のクリスティンを演じるアンジェリーナ・ジョリーは、前評判どおりの熱演。
テンションが高すぎて、脳の血管切れちゃうんじゃないかと心配になるくらいだったが、最愛の一人息子を理不尽に奪われた母親の苦悩と捨て切れない希望を、まさに全身で表現していた。
女性が社会的に抑圧されていた時代、虐げられた弱者から、徐々に権力と戦う闘士に変貌してゆく姿はカタルシスさえ感じさせる。
傲慢な権力を象徴するLAPDのジョーンズ警部を演じたジェフリー・ドノバン、同じLAPDながら事件を解決へと導く叩上げのヤバラ刑事を演じたマイケル・ケリーが好対照。
権力批判でも、全てを十把一絡げにステロタイプ化しないのはさすがで、むしろ組織の中での腐敗の構造が際立った。
ジョン・マルコヴィッチが抑えた演技を見せるブリーグレブ牧師や、精神病院でクリスティンが権力と対決する切欠を与える冤罪被害者のキャロルを演じたエイミー・ライアンなど、要所要所にキーとなるキャラクターを配してドラマを引き締める。
1928年に起こったこの数奇な事件は、クリント・イーストウッドという反骨の映画作家によって、今日性を持つ物語として見事に蘇ったと言える。
権力の腐敗や女性への偏見と言ったテーマは、程度の差はあれど、現在でも十分に説得力がある。
この作品は80年も昔の事件を題材としてるが、批判のターゲットのLAPDは90年代にもLA暴動の発端となったロドニー・キング事件を起こしたり、何かと物議をかもす組織である。
日本でも、どう考えて殺人事件なのに、なぜか警察によって自殺と断定されてしまった事件や、交通事故の原因が警察のずさんな捜査ですりかえられてしまった事件などが報道されている。
もちろん、そういう例はほんの一部だとは思うが、警察に限らず権力という物には常に危険な側面があるという事は、市民として認識しておくべきだろう。
「チェンジリング」は社会的なテーマを母の愛という普遍的な価値観で裏打ちし、2時間21分の長尺をまったく飽きさせない。
巨匠の円熟した技術を堪能できる力作である。
ちなみに「チェンジリング」とは、欧州の民話で妖精が人間の子を攫い、代わりにそっくりな妖精の子を置いてゆく事を意味する。
1980年にはピーター・メダック監督で同タイトルの映画も作られているが、こちらは知る人ぞ知る渋いオカルト映画の佳作である。
イーストウッドの映画を観ると、いつもは日本酒が飲みたくなるのだが、今回は女性が主人公という事もあって、ちょっと違った物が欲しくなる。
メルシャンの「桔梗ヶ原メルロー オー・ド・ヴィー・ド・マール 2005」をチョイス。
マールとは、ワインを造った後の絞り粕を原料に作られた蒸留酒の事で、どちらかというと食後酒として知られる。
この桔梗ヶ原メルローは、爽やかで複雑なハーブ香と微かな甘味とともに、イーストウッドの映画の様に、ビターなテイストも感じさせる。
冷やしてストレートでも良いが、アルコール度数が相当高い事もあり、鑑賞後はオンザロックがお勧め。
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ところが自分を母と呼ぶその子は、我が子とは似ても似つかないまったくの別人。
何かの間違いだという必死の訴えにも、警察は厳正な捜査の結果だと相手にしてくれない。
果たして本当の息子はどこに消えたのか、発見された子はなぜ他人の名を語り嘘を言うのか。
ぶっちゃけ「チェンジリング」の設定は嘘臭く、まるで出来の悪い三流サスペンスなのだが、これが「true story」というのだから、まさに事実は小説よりも奇なり。
「硫黄島からの手紙」以来となるクリント・イーストウッドは、一歩間違えると限りなく俗っぽくなりそうなこの物語を、格調高い人間ドラマに仕上げるのだから、やはり大したものだ。
1928年、LA。
クリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の一人息子、ウォルターが失踪し、母一人子一人で暮らしてきたクリスティンは憔悴した毎日を送る。
五ヶ月間の捜査の末に、ウォルターが遥かイリノイ州で発見されたという知らせが届く。
再開に胸躍らせるクリスティンだったが、列車から降り立った少年は、ウォルターとはまったくの別人だった。
息子ではないと主張するクリスティンに、不祥事続きで点数を稼ぎたいLAPD(ロス市警)は決して間違いを認めようとせず、逆にクリスティンを精神病院に放り込んでしまう。
そんな時、LAPD批判の急先鋒であるブリーグレブ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)がクリスティンに救いの手を差し伸べ、彼女はLAPDと司法の場で対決する事になる。
警察はあくまでもウォルターは発見済みとして事件の幕引きを図るのだが、まったく別件の事件から、本物のウォルターの手がかりが発見される・・・
失踪した少年の謎を追うサスペンス物の様に見えて、そうではない。
本来の役割を忘れ、自己保身がその存在意義となってしまった硬直した権力組織への不信感と、市井に生きる個人のささやかな生き様を対比して見せた社会派ドラマだ。
馬鹿で無能で傲慢な人間に権力を渡すと、とんでもない事になるという事を、摩訶不思議な事実をモチーフに描いた秀逸な逸話であり、誰が見ても無茶な主張を往生際悪く繰り返す権力の姿は、悲しいかな現在の日本の一面すら透けて見える位に説得力がある。
私は腐敗しない権力という物は存在しないと考えている。
どんなに清廉潔白な理想を掲げた権力であろうとも、人間である以上、時とともに必ず利権が生まれ、それを守ろうとするようになり腐敗する。
特に警察のような武力組織において、チェック機構が働かないという事がどれほど恐ろしい事か、改めて考えさせられた。
もちろん、お堅いだけの権力告発映画ではなく、真実を求める気持ちのベースに流れているのは失踪した息子への母親の愛であるというのが映画として上手いところ。
クリスティンの痛々しいくらい一途な気持ちには、誰もが素直に感情移入できるだろう。
物語後半の背景になっている「ウィネヴィラ養鶏場殺人事件」は、アメリカ犯罪史上、被害者の数と犯人の特異なキャラクター、殺害状況の残酷さで現在にも語り継がれる伝説的な事件だが、映画を観るまでこの話が事件とつながっている事は知らなかった。
ただでさえインパクトのある事件だけに、殺人事件に重点を置いてしまうと、物語のバランスが崩れてしまい、作劇としては難しいところだが、完成した作品では適度な距離感を保っていて、構成力の高さが際立つ。
テレビ出身のベテランライター、J・マイケル・ストラジンスキーの脚本は、サスペンスの構造で物語を引っ張りつつ、キャラクターの立ち位置を明確にする事で、テーマ性の部分をきっちりと浮かび上がらせて、なかなか見事だ。
ややもすれば作り過ぎに陥ってしまう危険のある作劇を、イーストウッドは内面から血の通ったキャラクターを表現出来る実力者たちを配して、深みのある人間ドラマに仕立てている。
主人公のクリスティンを演じるアンジェリーナ・ジョリーは、前評判どおりの熱演。
テンションが高すぎて、脳の血管切れちゃうんじゃないかと心配になるくらいだったが、最愛の一人息子を理不尽に奪われた母親の苦悩と捨て切れない希望を、まさに全身で表現していた。
女性が社会的に抑圧されていた時代、虐げられた弱者から、徐々に権力と戦う闘士に変貌してゆく姿はカタルシスさえ感じさせる。
傲慢な権力を象徴するLAPDのジョーンズ警部を演じたジェフリー・ドノバン、同じLAPDながら事件を解決へと導く叩上げのヤバラ刑事を演じたマイケル・ケリーが好対照。
権力批判でも、全てを十把一絡げにステロタイプ化しないのはさすがで、むしろ組織の中での腐敗の構造が際立った。
ジョン・マルコヴィッチが抑えた演技を見せるブリーグレブ牧師や、精神病院でクリスティンが権力と対決する切欠を与える冤罪被害者のキャロルを演じたエイミー・ライアンなど、要所要所にキーとなるキャラクターを配してドラマを引き締める。
1928年に起こったこの数奇な事件は、クリント・イーストウッドという反骨の映画作家によって、今日性を持つ物語として見事に蘇ったと言える。
権力の腐敗や女性への偏見と言ったテーマは、程度の差はあれど、現在でも十分に説得力がある。
この作品は80年も昔の事件を題材としてるが、批判のターゲットのLAPDは90年代にもLA暴動の発端となったロドニー・キング事件を起こしたり、何かと物議をかもす組織である。
日本でも、どう考えて殺人事件なのに、なぜか警察によって自殺と断定されてしまった事件や、交通事故の原因が警察のずさんな捜査ですりかえられてしまった事件などが報道されている。
もちろん、そういう例はほんの一部だとは思うが、警察に限らず権力という物には常に危険な側面があるという事は、市民として認識しておくべきだろう。
「チェンジリング」は社会的なテーマを母の愛という普遍的な価値観で裏打ちし、2時間21分の長尺をまったく飽きさせない。
巨匠の円熟した技術を堪能できる力作である。
ちなみに「チェンジリング」とは、欧州の民話で妖精が人間の子を攫い、代わりにそっくりな妖精の子を置いてゆく事を意味する。
1980年にはピーター・メダック監督で同タイトルの映画も作られているが、こちらは知る人ぞ知る渋いオカルト映画の佳作である。
イーストウッドの映画を観ると、いつもは日本酒が飲みたくなるのだが、今回は女性が主人公という事もあって、ちょっと違った物が欲しくなる。
メルシャンの「桔梗ヶ原メルロー オー・ド・ヴィー・ド・マール 2005」をチョイス。
マールとは、ワインを造った後の絞り粕を原料に作られた蒸留酒の事で、どちらかというと食後酒として知られる。
この桔梗ヶ原メルローは、爽やかで複雑なハーブ香と微かな甘味とともに、イーストウッドの映画の様に、ビターなテイストも感じさせる。
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2009年02月19日 (木) | 編集 |
「鉄コン筋クリート」で鮮烈な監督デビューを飾った、マイケル・アリアスの第二作は実写作品。
不治の病に冒された若者と女子中学生の逃避行を描いた「ヘブンズ・ドア」は、トーマス・ヤーン監督のドイツ映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」のリメイクだが、オリジナルとはだいぶ装いが異なる。
仕事を首になった28歳のフリーター勝人(長瀬智也)は、訪れた病院で脳腫瘍が見つかり、余命三日を宣告される。
同じ病棟で、やはり余命一ヶ月の14歳の少女春海(福田麻由子)と出会う。
偶然見つけたテキーラで酔っ払った二人は、一緒に海を見に行こうと病院を抜け出し、駐車場に放置されていた高級車を盗んでしまう。
ところがその車には、訳ありの大金と拳銃が積まれていた。
死ぬまでにやりたい事をリストにしながら、海を目指す二人に、警察と裏社会の双方から追っ手が迫る・・・
オリジナルの「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」を観たのはもう十年以上前。
正直なところ、細部までは覚えていないのだが、繊細な精神性とどこか自主映画のような荒っぽい展開が同居する、ロードムービーの佳作だった。
今回のリメイク版との最大の相違点は、男二人だった主人公が、長瀬智也演じる脳腫瘍のチンピラと福田真麻由子演じる骨肉腫の女子中学生に改められている事。
全体の印象としては、オリジナルの基本プロットはそのままに、ビジュアルをよりブラッシュアップし、コメディ色を弱めてスタイリッシュでシリアスな青春ロードムービーを目指している様に思える。
マイケル・アリアスは元々VFX畑の出身であり、アニメの人でもある。
その映像は細部までデザイン化され、フルデジタルでの制作を生かした演出もユニークだ。
構図はどのカットもバッチリ決まっており、ロケーションや小道具、色彩設計も綿密に計算されている。
映像的なクオリティに関して言えば、極めて完成度が高く、その作り込みの考え方はやはり実写というよりもアニメーションに近い。
ただ、これは諸刃の剣でもある。
デザイン化はビジュアルだけではなく、キャラクターにも及んでおり、良く言えばわかりやすく、悪く言えばステロタイプだ。
ここにはオリジナルが持っていた、荒削りな生々しさがない。
物語上の明確な役割にはめ込まれて造形されたキャラクターたちは、予定調和で生身の人間としての深みをあまり感じない。
一番問題なのは長塚圭史演じる悪の企業家で、機械的な妨害者としての役割しか与えられていないので、手下ともども行動がウソっぽ過ぎて浮いてしまっている。
正直なところ、「少林少女」の悪の学長を連想してしまうくらい、リアリティの無いキャラクターだ。
まあ、元々の物語自体が漫画チックではあるのだが、コメディ色の強いオリジナルでは言ってみれば作りの荒っぽさが妙なリアリティを生み出していたのに対して、あらゆる要素がきっちりと作りこまれた生真面目なリメイク版は、なんだかアニメの世界に実写の役者が入り込んでしまったかのような印象があるのだ。
もっとも、深みは感じないものの、マイケル・アリアスの演出はテンポ良く軽快で、1時間46分を一気に見せ切るし、 「デトロイト・メタル・シティ」でも漫画を漫画なまま上手く実写世界に移植していた、大森美香の脚本も、それ自体は良く出来ている。
主役の二人を演じる長瀬智也と福田麻由子も、ビジュアルを含めてキャラクターのイメージにぴったりで、好演と言って良いだろう。
作品のクオリティそのものは決して低くなく、娯楽映画として十分に楽しめる一本だ。
なんとなくだが、マイケル・アリアスという人は、ずっと日本に住んでいるくらいだから極めて日本的な感性を持つ真面目な人なのだろうと思う。
前作の「鉄コン筋クリート」も本作も、映像的なスタイリッシュさは異彩を放つものの、作品のベースに流れる精神性は極めて日本的で、アリアスの事を知らない人が見たら、外国人監督の作品だとは思わないだろう。
この作品は、おそらくこの映像的なクオリティを維持したまま、コメディ色をオリジナルくらいに強めた方が、はっちゃけて逆に説得力のある作品になったと思うが、監督の目指す方向性としては、そっちではなかったのだろうな、たぶん。
和風な感性と、ハリウッド的、アニメーション的な映像センスを併せ持つ、今の日本映画には稀有な才能であり、映像作家としてのポテンシャルはもっと凄い物を期待してよさそうな人物だから、次回作を楽しみに待ちたいと思う。
今回は、二人の旅のきっかけになるテキーラ。
本場メキシコはハリスコ州テキーラからやってきた「サウザ ゴールド」をチョイス。
美しい黄金色のそれはまさに命の水。
もちろんソルトとライムを添えて。
テキーラとしては比較的まろやかで飲みやすいが、強い酒なので飲みすぎには注意。
もちろん女子中学生は飲んではいけません(笑
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不治の病に冒された若者と女子中学生の逃避行を描いた「ヘブンズ・ドア」は、トーマス・ヤーン監督のドイツ映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」のリメイクだが、オリジナルとはだいぶ装いが異なる。
仕事を首になった28歳のフリーター勝人(長瀬智也)は、訪れた病院で脳腫瘍が見つかり、余命三日を宣告される。
同じ病棟で、やはり余命一ヶ月の14歳の少女春海(福田麻由子)と出会う。
偶然見つけたテキーラで酔っ払った二人は、一緒に海を見に行こうと病院を抜け出し、駐車場に放置されていた高級車を盗んでしまう。
ところがその車には、訳ありの大金と拳銃が積まれていた。
死ぬまでにやりたい事をリストにしながら、海を目指す二人に、警察と裏社会の双方から追っ手が迫る・・・
オリジナルの「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」を観たのはもう十年以上前。
正直なところ、細部までは覚えていないのだが、繊細な精神性とどこか自主映画のような荒っぽい展開が同居する、ロードムービーの佳作だった。
今回のリメイク版との最大の相違点は、男二人だった主人公が、長瀬智也演じる脳腫瘍のチンピラと福田真麻由子演じる骨肉腫の女子中学生に改められている事。
全体の印象としては、オリジナルの基本プロットはそのままに、ビジュアルをよりブラッシュアップし、コメディ色を弱めてスタイリッシュでシリアスな青春ロードムービーを目指している様に思える。
マイケル・アリアスは元々VFX畑の出身であり、アニメの人でもある。
その映像は細部までデザイン化され、フルデジタルでの制作を生かした演出もユニークだ。
構図はどのカットもバッチリ決まっており、ロケーションや小道具、色彩設計も綿密に計算されている。
映像的なクオリティに関して言えば、極めて完成度が高く、その作り込みの考え方はやはり実写というよりもアニメーションに近い。
ただ、これは諸刃の剣でもある。
デザイン化はビジュアルだけではなく、キャラクターにも及んでおり、良く言えばわかりやすく、悪く言えばステロタイプだ。
ここにはオリジナルが持っていた、荒削りな生々しさがない。
物語上の明確な役割にはめ込まれて造形されたキャラクターたちは、予定調和で生身の人間としての深みをあまり感じない。
一番問題なのは長塚圭史演じる悪の企業家で、機械的な妨害者としての役割しか与えられていないので、手下ともども行動がウソっぽ過ぎて浮いてしまっている。
正直なところ、「少林少女」の悪の学長を連想してしまうくらい、リアリティの無いキャラクターだ。
まあ、元々の物語自体が漫画チックではあるのだが、コメディ色の強いオリジナルでは言ってみれば作りの荒っぽさが妙なリアリティを生み出していたのに対して、あらゆる要素がきっちりと作りこまれた生真面目なリメイク版は、なんだかアニメの世界に実写の役者が入り込んでしまったかのような印象があるのだ。
もっとも、深みは感じないものの、マイケル・アリアスの演出はテンポ良く軽快で、1時間46分を一気に見せ切るし、 「デトロイト・メタル・シティ」でも漫画を漫画なまま上手く実写世界に移植していた、大森美香の脚本も、それ自体は良く出来ている。
主役の二人を演じる長瀬智也と福田麻由子も、ビジュアルを含めてキャラクターのイメージにぴったりで、好演と言って良いだろう。
作品のクオリティそのものは決して低くなく、娯楽映画として十分に楽しめる一本だ。
なんとなくだが、マイケル・アリアスという人は、ずっと日本に住んでいるくらいだから極めて日本的な感性を持つ真面目な人なのだろうと思う。
前作の「鉄コン筋クリート」も本作も、映像的なスタイリッシュさは異彩を放つものの、作品のベースに流れる精神性は極めて日本的で、アリアスの事を知らない人が見たら、外国人監督の作品だとは思わないだろう。
この作品は、おそらくこの映像的なクオリティを維持したまま、コメディ色をオリジナルくらいに強めた方が、はっちゃけて逆に説得力のある作品になったと思うが、監督の目指す方向性としては、そっちではなかったのだろうな、たぶん。
和風な感性と、ハリウッド的、アニメーション的な映像センスを併せ持つ、今の日本映画には稀有な才能であり、映像作家としてのポテンシャルはもっと凄い物を期待してよさそうな人物だから、次回作を楽しみに待ちたいと思う。
今回は、二人の旅のきっかけになるテキーラ。
本場メキシコはハリスコ州テキーラからやってきた「サウザ ゴールド」をチョイス。
美しい黄金色のそれはまさに命の水。
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2009年02月12日 (木) | 編集 |
もしも、80歳の肉体を持って生まれ、時と共に若返ってゆく人生があるとしたら、それはその人間にとって幸福なのだろうか、不幸なのだろうか。
「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、そんな世にも奇妙な運命を背負った男の物語。
作家としてピークを迎えつつあるデヴィッド・フィンチャーがメガホンを取り、ブラッド・ピットがタイトルロールのベンジャミン・バトンを演じ、フィンチャーとの3度目のタッグを組む。
上映時間2時間47分という、堂々たる大作である。
1918年、11月。
第一次世界大戦の戦勝に沸くニューオーリンズのバトン家で、世にも奇妙な赤ん坊が生まれる。
母親が命と引き換えに生んだその子は、まるで80歳の老人の様に皺くちゃだった。
父親のトーマス(ジェーソン・フレミング)は、妻の命を奪った醜い息子を許すことが出来ず、ある老人ホームの前にその子を捨てる。
赤ん坊を拾ったのは、ホームで働く黒人女性のクィニー(タラジ・P・ヘンソン)。
彼女は妹が白人との間に生んだ子と偽って、ベンジャミン(ブラッド・ピット)と名づけた赤ん坊をホームで育て始める。
最初、すぐに死んでしまうと思われていたベンジャミンだが、時がたつにつれて少しずつ若返り始める。
そしてベンジャミンが12歳となった1930年の感謝祭、彼は施設に入居している老婆の孫であるデイジー(ケイト・ブランシェット)と出会う。
それは、その後70年以上に渡って、数奇な運命で結び付けられることになる二人の、最初の出会いだった・・・
この映画は、あのマーク・トウェインが「もし80歳で生まれて、ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう」と語った事にインスパイアされた、F・スコット・フィッツジェラルドによる短編小説が原案となっている。
私は原作は未読なのだが、どうやら映画化された物語はほぼオリジナルと言って良いくらい脚色されている様だ。
そもそも、ある人物の長い一生を、映画的なファンタジーとして寓話的に描く事で、物事の本質を浮き上がらせるという手法は珍しいものではない。
90年代以降で考えても、知的障害を抱えた主人公と共に、アメリカ現代史を疾走する「フォレスト・ガンプ」、父親の物語る奇妙な人生を、息子が追体験する「ビッグ・フィッシュ」、ある男の自殺の瞬間から時系列を遡る事で、現代韓国の抱えるひずみを描き出した「ペパーミントキャンディ」あたりがすぐに思い浮かぶ。
見事なまでに傑作が並ぶことからもわかる様に、要するにこれは映画における勝利の方程式の一つなのだが、面白いことに「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、上記の三本の要素を全て含んでいる。
第一次大戦からハリケーン・カトリーナまでの現代アメリカ史、語り部の物語る人生、そして逆転する時間。
秀逸な物語を生み出した脚本家、エリック・ロスは、自らの手による「フォレスト・ガンプ」を含め、すでに成功した3つのコンセプト、いわばストーリーテリングにおける鉄壁のロジックを用いて物語を構成し、想像以上の見事な成果をあげていると思う。
物語は2005年のハリケーン・カトリーナ上陸の日、年老いて病床にあるデイジーが、それまで縁遠かった娘に、ベンジャミン・バトンの残した日記の朗読を頼むところから始まるのだが、ディジーは娘が読み始める前に、ある物語を彼女に語って聞かせる。
第一次世界大戦中、盲目の時計技師ガトーが、ニューオーリンズの駅の大時計の制作を依頼される。
除幕式の日、大統領や多くの新聞記者らが見守る中、披露された時計の秒針は、逆回転を始めてしまう。
驚く観衆に対して、ガトーはこう言うのだ。
「もしも時が遡れば、戦争で戦死した息子も、未来を奪われた多くの若者も帰ってくる。自分にはこういう時計しかもはや作れない」と。
デイジーの語るこのエピソードは、ベンジャミン・バトンの人生とは直接は関係ない。
しかしガトーの思いを、気まぐれな神がちょっとひねくれて聞き届けたかの様に、同じころ、同じニューオーリンズに、逆転の人生を運命付けられて生まれたバトンの物語に対して、何らかの示唆を含むことは容易に推測できる。
ベンジャミン・バトンの時間で狂っているのは肉体だけ。
心は一般の人となんら変わらない。
しかし、いくら本人がそうでも、やはり周囲の人と異なるという事をバトンは成長(若返り)と共に知ってゆく。
彼は、時の流れを人と共有することが出来ない。
普通の人は、同じ世代でも異なる世代でも時が過ぎる分老い、感覚を共有することが出来る。
だがバトンには、老いは存在しないし、感じる事も出来ない。
彼が他人と共有できる時間はごく僅かな瞬間に過ぎず、人生は一瞬の邂逅の繰り返しである。
ゆえに、彼にとってその一瞬はとてつもなく濃厚で、二度と帰らない大切な時なのだ。
その容姿の醜さゆえに、実の父に捨てられた赤ん坊を、ゆったりとした愛で包み込んでくれた母親との出会い、ようやく自力で歩けるようになったバトンを、海の男として鍛えてくれた船長との出会い、故郷を遠く離れた異国で出会い、燃えるような恋に落ちた人妻との出会い。
そして、老人の様な子供の頃に出会い、人生の節目節目で運命的にバトンの人生を演出し、最終的に彼の人生の幕切れを看取る事となるデイジーとの出会い。
他の誰とも異なるという究極の孤独に生きるからこそ、彼は一瞬の出会いに誠実に向き合い、誰よりも愛を感じ、それを大切に胸にしまって生きる。
バトンが生まれたばかりの自分を捨てた父さえも許すのは、背負った運命ゆえに、誰よりも愛を知るからというアイロニーである。
前作「ゾディアック」で、作風を劇的に変えたデビッド・フィンチャーは、今回も良い意味で外連味を押さえ、彼一流の映像テクニックを最大限利用しつつ、決してひけらかすことなくすばらしい成果を見せる。
人生の最期を迎えたデイジーの病室から、物語はまるで一遍の映像詩の様に、時空を超えて淀みなく広がり、80年の時を刻み続ける。
主人公のベンジャミン・バトンを演じるブラッド・ピットと、彼と幼馴染で運命の人、デイジーを演じるケイト・ブランシェットは、共に80年以上というキャラクターの人生を、幼少期(バトンの場合は老年期だが)以外は本人が演じ切る熱演。
特にブラッド・ピットは特殊メイクとデジタルコンポジットの助けを借りているとは言え、超老け顔の子供という難しい表現を見事にこなしている。
演技者として、間違いなく代表作の一つとなるだろう。
多くの人にとって、人生は終わりの見えない川の流れの様な物だ。
流れの果てにあるのが死という名の海だという事は誰もが知っているが、いつそこへたどり着くのか、そこに到達して何を感じるのかは、行ってみなければわからない。
ところがバトンは、自分の人生の終点を知っている。
彼の人生は正に逆転す時計の秒針。
ゼロがいつ来るのか、そこに何が待っているのかも概ね予想が出来てしまう。
人生は一度きり、過ぎ去った時は二度と戻らない事を、この寓話は深い説得力を持って教えてくれる。
ガトーは無情な時の流れに抗議するかの様に、逆転時計を作ったが、おそらくそれは彼の悲しみを癒すことはなかっただろう。
時間は逆転させられない。
いかに肉体の時計が逆に動こうとも、心の秒針までは逆さまに動かない。
心と体で別々の時計を持っていたバトンの人生が幸せだったのかどうか、物語に明確な答えはない。
だが一つだけ、誰もが確実に感じ取れるのは、たとえバトンが終生孤独とさまざまな困難に直面していたとしても、最期の最期に振り返ればなんとも愛に溢れた美しい人生だったという事ではないだろうか。
ベンジャミン・バトンが、第一次大戦の戦勝の熱狂と犠牲の悲しみの狭間に生まれ、数奇な人生を送ったニューオーリンズの街は、ハリケーン・カトリーナによって歴史の彼方に消え去った。
だが再建された街では、今また時計の針が進み始め、人々は生まれ、出会い、愛し合い、新しい人生の物語が生まれてゆくのである。
今回は舞台となるニューオーリンズ生まれのフルーツフレーバーリキュール「サザン・カンフォート」をチョイス。
様々なフルーツのフレーバーとハーブの香りをミックスしたリキュールで、様々なカクテルのベースとしても知られている。
個人的にはシンプルに氷を入れたグラスに注いで、適量のジンジャーエールで割ったものが好きだ。
とても飲みやすいので、3時間近い映画の食後酒としてちょうど良いだろう。
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「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、そんな世にも奇妙な運命を背負った男の物語。
作家としてピークを迎えつつあるデヴィッド・フィンチャーがメガホンを取り、ブラッド・ピットがタイトルロールのベンジャミン・バトンを演じ、フィンチャーとの3度目のタッグを組む。
上映時間2時間47分という、堂々たる大作である。
1918年、11月。
第一次世界大戦の戦勝に沸くニューオーリンズのバトン家で、世にも奇妙な赤ん坊が生まれる。
母親が命と引き換えに生んだその子は、まるで80歳の老人の様に皺くちゃだった。
父親のトーマス(ジェーソン・フレミング)は、妻の命を奪った醜い息子を許すことが出来ず、ある老人ホームの前にその子を捨てる。
赤ん坊を拾ったのは、ホームで働く黒人女性のクィニー(タラジ・P・ヘンソン)。
彼女は妹が白人との間に生んだ子と偽って、ベンジャミン(ブラッド・ピット)と名づけた赤ん坊をホームで育て始める。
最初、すぐに死んでしまうと思われていたベンジャミンだが、時がたつにつれて少しずつ若返り始める。
そしてベンジャミンが12歳となった1930年の感謝祭、彼は施設に入居している老婆の孫であるデイジー(ケイト・ブランシェット)と出会う。
それは、その後70年以上に渡って、数奇な運命で結び付けられることになる二人の、最初の出会いだった・・・
この映画は、あのマーク・トウェインが「もし80歳で生まれて、ゆっくりと18歳に近づいていければどんなに幸せだろう」と語った事にインスパイアされた、F・スコット・フィッツジェラルドによる短編小説が原案となっている。
私は原作は未読なのだが、どうやら映画化された物語はほぼオリジナルと言って良いくらい脚色されている様だ。
そもそも、ある人物の長い一生を、映画的なファンタジーとして寓話的に描く事で、物事の本質を浮き上がらせるという手法は珍しいものではない。
90年代以降で考えても、知的障害を抱えた主人公と共に、アメリカ現代史を疾走する「フォレスト・ガンプ」、父親の物語る奇妙な人生を、息子が追体験する「ビッグ・フィッシュ」、ある男の自殺の瞬間から時系列を遡る事で、現代韓国の抱えるひずみを描き出した「ペパーミントキャンディ」あたりがすぐに思い浮かぶ。
見事なまでに傑作が並ぶことからもわかる様に、要するにこれは映画における勝利の方程式の一つなのだが、面白いことに「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、上記の三本の要素を全て含んでいる。
第一次大戦からハリケーン・カトリーナまでの現代アメリカ史、語り部の物語る人生、そして逆転する時間。
秀逸な物語を生み出した脚本家、エリック・ロスは、自らの手による「フォレスト・ガンプ」を含め、すでに成功した3つのコンセプト、いわばストーリーテリングにおける鉄壁のロジックを用いて物語を構成し、想像以上の見事な成果をあげていると思う。
物語は2005年のハリケーン・カトリーナ上陸の日、年老いて病床にあるデイジーが、それまで縁遠かった娘に、ベンジャミン・バトンの残した日記の朗読を頼むところから始まるのだが、ディジーは娘が読み始める前に、ある物語を彼女に語って聞かせる。
第一次世界大戦中、盲目の時計技師ガトーが、ニューオーリンズの駅の大時計の制作を依頼される。
除幕式の日、大統領や多くの新聞記者らが見守る中、披露された時計の秒針は、逆回転を始めてしまう。
驚く観衆に対して、ガトーはこう言うのだ。
「もしも時が遡れば、戦争で戦死した息子も、未来を奪われた多くの若者も帰ってくる。自分にはこういう時計しかもはや作れない」と。
デイジーの語るこのエピソードは、ベンジャミン・バトンの人生とは直接は関係ない。
しかしガトーの思いを、気まぐれな神がちょっとひねくれて聞き届けたかの様に、同じころ、同じニューオーリンズに、逆転の人生を運命付けられて生まれたバトンの物語に対して、何らかの示唆を含むことは容易に推測できる。
ベンジャミン・バトンの時間で狂っているのは肉体だけ。
心は一般の人となんら変わらない。
しかし、いくら本人がそうでも、やはり周囲の人と異なるという事をバトンは成長(若返り)と共に知ってゆく。
彼は、時の流れを人と共有することが出来ない。
普通の人は、同じ世代でも異なる世代でも時が過ぎる分老い、感覚を共有することが出来る。
だがバトンには、老いは存在しないし、感じる事も出来ない。
彼が他人と共有できる時間はごく僅かな瞬間に過ぎず、人生は一瞬の邂逅の繰り返しである。
ゆえに、彼にとってその一瞬はとてつもなく濃厚で、二度と帰らない大切な時なのだ。
その容姿の醜さゆえに、実の父に捨てられた赤ん坊を、ゆったりとした愛で包み込んでくれた母親との出会い、ようやく自力で歩けるようになったバトンを、海の男として鍛えてくれた船長との出会い、故郷を遠く離れた異国で出会い、燃えるような恋に落ちた人妻との出会い。
そして、老人の様な子供の頃に出会い、人生の節目節目で運命的にバトンの人生を演出し、最終的に彼の人生の幕切れを看取る事となるデイジーとの出会い。
他の誰とも異なるという究極の孤独に生きるからこそ、彼は一瞬の出会いに誠実に向き合い、誰よりも愛を感じ、それを大切に胸にしまって生きる。
バトンが生まれたばかりの自分を捨てた父さえも許すのは、背負った運命ゆえに、誰よりも愛を知るからというアイロニーである。
前作「ゾディアック」で、作風を劇的に変えたデビッド・フィンチャーは、今回も良い意味で外連味を押さえ、彼一流の映像テクニックを最大限利用しつつ、決してひけらかすことなくすばらしい成果を見せる。
人生の最期を迎えたデイジーの病室から、物語はまるで一遍の映像詩の様に、時空を超えて淀みなく広がり、80年の時を刻み続ける。
主人公のベンジャミン・バトンを演じるブラッド・ピットと、彼と幼馴染で運命の人、デイジーを演じるケイト・ブランシェットは、共に80年以上というキャラクターの人生を、幼少期(バトンの場合は老年期だが)以外は本人が演じ切る熱演。
特にブラッド・ピットは特殊メイクとデジタルコンポジットの助けを借りているとは言え、超老け顔の子供という難しい表現を見事にこなしている。
演技者として、間違いなく代表作の一つとなるだろう。
多くの人にとって、人生は終わりの見えない川の流れの様な物だ。
流れの果てにあるのが死という名の海だという事は誰もが知っているが、いつそこへたどり着くのか、そこに到達して何を感じるのかは、行ってみなければわからない。
ところがバトンは、自分の人生の終点を知っている。
彼の人生は正に逆転す時計の秒針。
ゼロがいつ来るのか、そこに何が待っているのかも概ね予想が出来てしまう。
人生は一度きり、過ぎ去った時は二度と戻らない事を、この寓話は深い説得力を持って教えてくれる。
ガトーは無情な時の流れに抗議するかの様に、逆転時計を作ったが、おそらくそれは彼の悲しみを癒すことはなかっただろう。
時間は逆転させられない。
いかに肉体の時計が逆に動こうとも、心の秒針までは逆さまに動かない。
心と体で別々の時計を持っていたバトンの人生が幸せだったのかどうか、物語に明確な答えはない。
だが一つだけ、誰もが確実に感じ取れるのは、たとえバトンが終生孤独とさまざまな困難に直面していたとしても、最期の最期に振り返ればなんとも愛に溢れた美しい人生だったという事ではないだろうか。
ベンジャミン・バトンが、第一次大戦の戦勝の熱狂と犠牲の悲しみの狭間に生まれ、数奇な人生を送ったニューオーリンズの街は、ハリケーン・カトリーナによって歴史の彼方に消え去った。
だが再建された街では、今また時計の針が進み始め、人々は生まれ、出会い、愛し合い、新しい人生の物語が生まれてゆくのである。
今回は舞台となるニューオーリンズ生まれのフルーツフレーバーリキュール「サザン・カンフォート」をチョイス。
様々なフルーツのフレーバーとハーブの香りをミックスしたリキュールで、様々なカクテルのベースとしても知られている。
個人的にはシンプルに氷を入れたグラスに注いで、適量のジンジャーエールで割ったものが好きだ。
とても飲みやすいので、3時間近い映画の食後酒としてちょうど良いだろう。

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2009年02月08日 (日) | 編集 |
私が初めて買ったブルーレイディスクは、『月周回衛星「かぐや」が見た月と地球 地球の出そして地球の入』という長いタイトルの記録映像だった。
月の周回軌道から見た地球の光景は、何とも神秘的で荘厳な美しさを感じさせる物だが、昨年5月にこの「かぐや」が、アポロ15号の着陸跡を確認したというニュースが流れたのを御記憶の方も多いだろう。
「1960年代のうちに人類を月に送る」という、有名なケネディ大統領の演説からスタートするアポロ計画では、1969年のアポロ11号から72年の17号までの7機が月面着陸に挑み、うち6機が着陸に成功している。
「ザ・ムーン」はアポロ計画に参加した宇宙飛行士のインタビューを中心に、NASAの秘蔵映像などを取り混ぜて構成され、40年後の現在からアポロ計画とは何だったのかにアプローチした科学ドキュメンタリーだ。
このアポロ計画を長年映画というフィールドで描き続けているのがロン・ハワードで、95年に唯一事故で途中帰還した「アポロ13」の物語を自ら監督した他、98年にはトム・ハンクスとの共同でTVシリーズ「フロム・ジ・アース(From the Earth to the Moon)」をプロデュースしている。
今回は「Presenter」という微妙な肩書きで参加しているが、監督はBBCのドキュメンタリー部門出身の英国人、デヴィッド・シントン。
構成は実にシンプルで、上映時間の大半を実際に月へ飛んだ宇宙飛行士たちのインタビューが占め、計画の背景や科学的意義の解説などは必要最小限に抑えられている。
もちろんNASAの蔵出し映像は、散々アポロ物の映画やテレビを観てきた私にとっても初見の物が結構あり、映像だけとっても十分見応えがあるが、やはり主役は月へ行った男たちだ。
40年の時を経て、すっかり皺の深くなった宇宙飛行士たちが振り返る、静寂なる月の世界。
実際にあの場所に立った彼らは、一体何を見て、何を感じたのか、そしてそれは現在の彼らに何を齎したのか。
未だ嘗て、彼ら以外の人類が経験した事のない、未知の世界を知る人間の言葉は実に興味深い。
別に彼らが哲学的で高尚な事を語っている訳ではない。
11号のオルドリン飛行士の、月面でのある初体験の告白など、むしろ茶目っ気たっぷりでトリビア的な面白さにも満ちているのだが、やはり彼らの一言一言は人間存在に対する様々な示唆に富み、宇宙や科学に興味の無い人が観たとしても色々と考えさせてくれると思う。
アポロ計画から40年が過ぎ、宇宙空間は米ソの国威発揚の場から、世界各国がしのぎを削るビジネスの場へと変貌した。
嘗ては有人飛行でしか成し得なかった事も、多くは無人の衛星や実験機器が肩代わりしてくれ、識者の中にはもはや有人飛行は無意味であると語る人もいる。
しかし、本当にそうだろうか。
人類はなぜ月へ行ったのか。
私は、劇中語られる「月から見た地球は、親指で隠れるくらい小さかった」という言葉に、思わずハッとさせられた。
アポロ計画以降、多くの人間が宇宙へ行った。
国際宇宙ステーション(ISS)には常駐している人もいるし、今やお金さえ出せば一般人でも宇宙旅行は可能な時代だ。
しかしスペースシャトルやISSの軌道は精々高度数百キロ。
地球の直径1万2千キロから考えれば、蜜柑の薄皮程度の距離でしかなく、窓の外には母なる地球が巨大なスケールで広がっているだろう。
同じ宇宙とは言っても、恐らくそれはアポロの飛行士たちが見た世界とは全く異なる物だ。
アポロ計画に参加し、月の世界を体験した飛行士の多くが、精神的な変化を見せている事はよく知られている。
本作に登場する飛行士たちも、ある種の悟りの境地(?)に達している様に見えるし、中には本当に宗教家になってしまった者もいる。
近年ではすっかり仙人の様な生活をしていると伝えられる、11号のアームストロング船長は、本作にもやはり姿を見せなかった。
彼らの心に起こった変化こそ、人類が次なるステップに進むために必要なものなのではないだろうか。
先月退陣したブッシュ政権は、月面への有人飛行の再チャレンジを表明した。
未曾有の経済危機の中、オバマ政権はNASAの多くの計画も見直すのだろうと思うが、個人的には月へ、そして火星へのプログラムは維持し、実現して欲しい。
宇宙への有人の探検は、確かに第一義的には国威発揚であったり、ビジネス的には無意味であったりするのかもしれない。
だが月へ行って、親指に隠れるくらい小さな地球を眺める事にはきっと意味がある。
究極的には、人類は自分自身を知るために宇宙へ行くのだろうと思う。
そしてそれは、地球を知る事、自らの存在に新たな可能性を感じさせてくれる事でもある。
世界中が意気消沈し、地球規模の環境対策が急がれる今、これからの人類が持つべき視点を、嘗て月へ行った先人たちは持っているような気がしてならないのは、私だけではないと思う。
今回は、地球から見上げる月を見ながら、「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライジン30mlとクレーム・ド・ヴァイオレット15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
美しい青色が印象的なロマンチックなカクテルだ。
人類が月に住む様になると、「ブルー・アース」なんていうカクテルが出来るのかもしれない。
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月の周回軌道から見た地球の光景は、何とも神秘的で荘厳な美しさを感じさせる物だが、昨年5月にこの「かぐや」が、アポロ15号の着陸跡を確認したというニュースが流れたのを御記憶の方も多いだろう。
「1960年代のうちに人類を月に送る」という、有名なケネディ大統領の演説からスタートするアポロ計画では、1969年のアポロ11号から72年の17号までの7機が月面着陸に挑み、うち6機が着陸に成功している。
「ザ・ムーン」はアポロ計画に参加した宇宙飛行士のインタビューを中心に、NASAの秘蔵映像などを取り混ぜて構成され、40年後の現在からアポロ計画とは何だったのかにアプローチした科学ドキュメンタリーだ。
このアポロ計画を長年映画というフィールドで描き続けているのがロン・ハワードで、95年に唯一事故で途中帰還した「アポロ13」の物語を自ら監督した他、98年にはトム・ハンクスとの共同でTVシリーズ「フロム・ジ・アース(From the Earth to the Moon)」をプロデュースしている。
今回は「Presenter」という微妙な肩書きで参加しているが、監督はBBCのドキュメンタリー部門出身の英国人、デヴィッド・シントン。
構成は実にシンプルで、上映時間の大半を実際に月へ飛んだ宇宙飛行士たちのインタビューが占め、計画の背景や科学的意義の解説などは必要最小限に抑えられている。
もちろんNASAの蔵出し映像は、散々アポロ物の映画やテレビを観てきた私にとっても初見の物が結構あり、映像だけとっても十分見応えがあるが、やはり主役は月へ行った男たちだ。
40年の時を経て、すっかり皺の深くなった宇宙飛行士たちが振り返る、静寂なる月の世界。
実際にあの場所に立った彼らは、一体何を見て、何を感じたのか、そしてそれは現在の彼らに何を齎したのか。
未だ嘗て、彼ら以外の人類が経験した事のない、未知の世界を知る人間の言葉は実に興味深い。
別に彼らが哲学的で高尚な事を語っている訳ではない。
11号のオルドリン飛行士の、月面でのある初体験の告白など、むしろ茶目っ気たっぷりでトリビア的な面白さにも満ちているのだが、やはり彼らの一言一言は人間存在に対する様々な示唆に富み、宇宙や科学に興味の無い人が観たとしても色々と考えさせてくれると思う。
アポロ計画から40年が過ぎ、宇宙空間は米ソの国威発揚の場から、世界各国がしのぎを削るビジネスの場へと変貌した。
嘗ては有人飛行でしか成し得なかった事も、多くは無人の衛星や実験機器が肩代わりしてくれ、識者の中にはもはや有人飛行は無意味であると語る人もいる。
しかし、本当にそうだろうか。
人類はなぜ月へ行ったのか。
私は、劇中語られる「月から見た地球は、親指で隠れるくらい小さかった」という言葉に、思わずハッとさせられた。
アポロ計画以降、多くの人間が宇宙へ行った。
国際宇宙ステーション(ISS)には常駐している人もいるし、今やお金さえ出せば一般人でも宇宙旅行は可能な時代だ。
しかしスペースシャトルやISSの軌道は精々高度数百キロ。
地球の直径1万2千キロから考えれば、蜜柑の薄皮程度の距離でしかなく、窓の外には母なる地球が巨大なスケールで広がっているだろう。
同じ宇宙とは言っても、恐らくそれはアポロの飛行士たちが見た世界とは全く異なる物だ。
アポロ計画に参加し、月の世界を体験した飛行士の多くが、精神的な変化を見せている事はよく知られている。
本作に登場する飛行士たちも、ある種の悟りの境地(?)に達している様に見えるし、中には本当に宗教家になってしまった者もいる。
近年ではすっかり仙人の様な生活をしていると伝えられる、11号のアームストロング船長は、本作にもやはり姿を見せなかった。
彼らの心に起こった変化こそ、人類が次なるステップに進むために必要なものなのではないだろうか。
先月退陣したブッシュ政権は、月面への有人飛行の再チャレンジを表明した。
未曾有の経済危機の中、オバマ政権はNASAの多くの計画も見直すのだろうと思うが、個人的には月へ、そして火星へのプログラムは維持し、実現して欲しい。
宇宙への有人の探検は、確かに第一義的には国威発揚であったり、ビジネス的には無意味であったりするのかもしれない。
だが月へ行って、親指に隠れるくらい小さな地球を眺める事にはきっと意味がある。
究極的には、人類は自分自身を知るために宇宙へ行くのだろうと思う。
そしてそれは、地球を知る事、自らの存在に新たな可能性を感じさせてくれる事でもある。
世界中が意気消沈し、地球規模の環境対策が急がれる今、これからの人類が持つべき視点を、嘗て月へ行った先人たちは持っているような気がしてならないのは、私だけではないと思う。
今回は、地球から見上げる月を見ながら、「ブルー・ムーン」をチョイス。
ドライジン30mlとクレーム・ド・ヴァイオレット15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
美しい青色が印象的なロマンチックなカクテルだ。
人類が月に住む様になると、「ブルー・アース」なんていうカクテルが出来るのかもしれない。

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2009年02月02日 (月) | 編集 |
革命家、チェ・ゲバラの半生を描いた二部作の後編。
前作「チェ 28歳の革命」では、主にキューバでの革命戦争を通して青年ゲバラの姿が描かれたが、今回は一気に時代が飛んで1966年のボリビア潜入から1967年に政府軍の捕虜となり銃殺されるまでの最期の一年間が中心となる。
時系列で言うと、前作で断片的に描かれた、ニューヨークの国連本部での演説の翌年から始まる物語である。
1965年、キューバ政府の要職にあったチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、誰にも何も告げずに姿を消す。
たった一通の別れの手紙を、盟友カストロ(デミアン・ビチル)に残して。
一年後、コンゴでの革命支援活動から撤退したゲバラは、まるで別人のように変装して極秘にキューバに帰国する。
愛する家族やカストロとのつかの間の再会を果たすも、彼が次に向かったのは抑圧的なバリエントス軍事独裁政権が支配する、南米ボリビアだった。
ゲバラは、この国のジャングルで再び革命軍を組織し、政府軍との革命戦争に乗り出すのだが、それは予想もしない困難な闘いの始まりだった・・・
映画は、ゲバラの残した別れの手紙を、カストロが国民に向けて朗読するところから始まる。
彼が突然キューバでの地位を捨てて姿を消し、世界の抑圧されている国で革命を広める運動に乗り出したのには、ソビエトとの軋轢を初め様々な要因があった事が知られているが、映画では一切触れられない。
前作同様に、スティーブン・ソダーバーグはあえてキューバ革命の熱狂や、第三世界でゲバラがカリスマに祭り上げられてゆく過程は描かず、あくまでもチェ・ゲバラという一人の男がどんな行動をし、何を考え、何を感じたかという描写にこだわる。
この映画は、ゲバラという個人をリアルに描く物であって、歴史上のカリスマとしてのゲバラをさらに称え、観客にカタルシスを感じさせる目的で作られている訳ではないのである。
結局のところカリスマ性などという物は、ある人物の業績やキャラクターに対して、第三者が見出した付加価値に過ぎず、当人の人物性にはなんら関係ないという事だろう。
この作品を観ると、なるほど二部作にした意味が良くわかるし、物語としては明らかにこちらが面白い。
ボリビアでの一年間の戦争は、色々な意味でキューバでの革命戦争と対照的だ。
二年間の激戦の末、劇的な勝利となったキューバとは異なり、最終的にゲバラの死という形で終わりを告げるこちらの戦いは、要するに負け戦である。
ソダーバーグはこの二つの対照的な戦いを通して、ゲバラの人間性に迫ろうとしている。
キューバでの戦いは、勝ち戦だった事もあり、黙々とやるべき事をやり、最終的に全ての結果がついて来たという感じだったが、ボリビアではその勝利の方程式が通じない。
淡々としているのは相変わらずだが、ソダーバーグは、一年間の戦いを通して、敗北してゆくゲバラの苦悩と葛藤を描き出す。
外国人を警戒する農民たち、ソ連の圧力を受けた地元共産党の非協力、ゲリラ戦を知る敵の特殊部隊の登場、キューバ革命の方程式はここでは既に研究され、逆にゲバラたちを追い詰めてゆく。
さらには持病の喘息の悪化までもがゲバラの心を打ちのめし、人間的な弱さを浮かび上がらせる。
劇中、政府軍から逃れてジャングルを行軍する中、恐らく食料不足と疲れからだろうが、体調の悪いゲバラを乗せた馬が動かなくなる。
この馬を何とか動かそうとして激昴し我を失うゲバラの姿は、歴史上の英雄、カリスマとしての彼のイメージからは程遠い。
しかしながら、ソダーバーグは、こういった弱さを含めて人間として実に魅力的なゲバラ像を描き出す事に成功している。
ここにいるのは、自分の中の弱さを知り、内面の葛藤と戦いつつも、あくまでも理想に対して誠実に生き、誠実に死んだ一人の男だ。
劇中のゲバラは、敗北の可能性を覚悟し恐れはしているものの、自らの目指すものに対する信念には全く疑問を持っていない様に見える。
ゲバラが後年カリスマとして名を残したのも、彼がいかに凄いことをやってのけたかという業績そのものよりも、最後の最後までぶれなかった、あまりにもストイックな生き様が人々の心の琴線を揺さぶるからかもしれない。
アメリカの中道やや保守を代表するニューズウィーク誌は、最近キューバ革命50周年を論評した記事の中で、「キューバは、革命後五年間輝いた」と書いた。
仇敵であるアメリカですらその価値を認める5年間とは、ほぼゲバラがいた時期と重なる。
何もゲバラがいたから、キューバが輝いていたという訳ではない。
要するにキューバ革命は、5年間で実質的に終わったという事だろう。
革命家ゲバラは革命と共に去り、その後のキューバは様々な問題を抱えた、ありふれた国と成った。
革命から半世紀後の現在、病身のフィデル・カストロは第一線を退いたが、キューバは今も革命世代の支配が続いている。
映画のラストは、1956年にキューバに向かうグランマ号の船上で、不安と希望が入り混じったような複雑な目線でカストロを見つめる、若き日のゲバラの姿で幕を閉じる。
彼は、きっとこの時と同じ目を持ったまま逝ったのだと思う。
恐らく、この映画を観るであろうキューバ革命の年老いた同志たちは、遠い昔から自分たちを見据えるゲバラの目に、いかなる思いを抱くのだろうか。
今回は、前後編あわせて4時間30分のフルコースの後という事で、ライトなカクテル「キューバン・スクリュー」をチョイス。
要するにスクリュードライバーのラム版で、基本的にはウォッカをホワイトラムに変えるだけ。
氷を入れたタンブラーにラムを入れ、オレンジジュースをお好みで適量注ぎ、軽くステアしてオレンジスライスをそえて完成。
ヘヴィーな映画で疲れた心をそっと解きほぐしてしてくれるだろう。
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前作「チェ 28歳の革命」では、主にキューバでの革命戦争を通して青年ゲバラの姿が描かれたが、今回は一気に時代が飛んで1966年のボリビア潜入から1967年に政府軍の捕虜となり銃殺されるまでの最期の一年間が中心となる。
時系列で言うと、前作で断片的に描かれた、ニューヨークの国連本部での演説の翌年から始まる物語である。
1965年、キューバ政府の要職にあったチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)は、誰にも何も告げずに姿を消す。
たった一通の別れの手紙を、盟友カストロ(デミアン・ビチル)に残して。
一年後、コンゴでの革命支援活動から撤退したゲバラは、まるで別人のように変装して極秘にキューバに帰国する。
愛する家族やカストロとのつかの間の再会を果たすも、彼が次に向かったのは抑圧的なバリエントス軍事独裁政権が支配する、南米ボリビアだった。
ゲバラは、この国のジャングルで再び革命軍を組織し、政府軍との革命戦争に乗り出すのだが、それは予想もしない困難な闘いの始まりだった・・・
映画は、ゲバラの残した別れの手紙を、カストロが国民に向けて朗読するところから始まる。
彼が突然キューバでの地位を捨てて姿を消し、世界の抑圧されている国で革命を広める運動に乗り出したのには、ソビエトとの軋轢を初め様々な要因があった事が知られているが、映画では一切触れられない。
前作同様に、スティーブン・ソダーバーグはあえてキューバ革命の熱狂や、第三世界でゲバラがカリスマに祭り上げられてゆく過程は描かず、あくまでもチェ・ゲバラという一人の男がどんな行動をし、何を考え、何を感じたかという描写にこだわる。
この映画は、ゲバラという個人をリアルに描く物であって、歴史上のカリスマとしてのゲバラをさらに称え、観客にカタルシスを感じさせる目的で作られている訳ではないのである。
結局のところカリスマ性などという物は、ある人物の業績やキャラクターに対して、第三者が見出した付加価値に過ぎず、当人の人物性にはなんら関係ないという事だろう。
この作品を観ると、なるほど二部作にした意味が良くわかるし、物語としては明らかにこちらが面白い。
ボリビアでの一年間の戦争は、色々な意味でキューバでの革命戦争と対照的だ。
二年間の激戦の末、劇的な勝利となったキューバとは異なり、最終的にゲバラの死という形で終わりを告げるこちらの戦いは、要するに負け戦である。
ソダーバーグはこの二つの対照的な戦いを通して、ゲバラの人間性に迫ろうとしている。
キューバでの戦いは、勝ち戦だった事もあり、黙々とやるべき事をやり、最終的に全ての結果がついて来たという感じだったが、ボリビアではその勝利の方程式が通じない。
淡々としているのは相変わらずだが、ソダーバーグは、一年間の戦いを通して、敗北してゆくゲバラの苦悩と葛藤を描き出す。
外国人を警戒する農民たち、ソ連の圧力を受けた地元共産党の非協力、ゲリラ戦を知る敵の特殊部隊の登場、キューバ革命の方程式はここでは既に研究され、逆にゲバラたちを追い詰めてゆく。
さらには持病の喘息の悪化までもがゲバラの心を打ちのめし、人間的な弱さを浮かび上がらせる。
劇中、政府軍から逃れてジャングルを行軍する中、恐らく食料不足と疲れからだろうが、体調の悪いゲバラを乗せた馬が動かなくなる。
この馬を何とか動かそうとして激昴し我を失うゲバラの姿は、歴史上の英雄、カリスマとしての彼のイメージからは程遠い。
しかしながら、ソダーバーグは、こういった弱さを含めて人間として実に魅力的なゲバラ像を描き出す事に成功している。
ここにいるのは、自分の中の弱さを知り、内面の葛藤と戦いつつも、あくまでも理想に対して誠実に生き、誠実に死んだ一人の男だ。
劇中のゲバラは、敗北の可能性を覚悟し恐れはしているものの、自らの目指すものに対する信念には全く疑問を持っていない様に見える。
ゲバラが後年カリスマとして名を残したのも、彼がいかに凄いことをやってのけたかという業績そのものよりも、最後の最後までぶれなかった、あまりにもストイックな生き様が人々の心の琴線を揺さぶるからかもしれない。
アメリカの中道やや保守を代表するニューズウィーク誌は、最近キューバ革命50周年を論評した記事の中で、「キューバは、革命後五年間輝いた」と書いた。
仇敵であるアメリカですらその価値を認める5年間とは、ほぼゲバラがいた時期と重なる。
何もゲバラがいたから、キューバが輝いていたという訳ではない。
要するにキューバ革命は、5年間で実質的に終わったという事だろう。
革命家ゲバラは革命と共に去り、その後のキューバは様々な問題を抱えた、ありふれた国と成った。
革命から半世紀後の現在、病身のフィデル・カストロは第一線を退いたが、キューバは今も革命世代の支配が続いている。
映画のラストは、1956年にキューバに向かうグランマ号の船上で、不安と希望が入り混じったような複雑な目線でカストロを見つめる、若き日のゲバラの姿で幕を閉じる。
彼は、きっとこの時と同じ目を持ったまま逝ったのだと思う。
恐らく、この映画を観るであろうキューバ革命の年老いた同志たちは、遠い昔から自分たちを見据えるゲバラの目に、いかなる思いを抱くのだろうか。
今回は、前後編あわせて4時間30分のフルコースの後という事で、ライトなカクテル「キューバン・スクリュー」をチョイス。
要するにスクリュードライバーのラム版で、基本的にはウォッカをホワイトラムに変えるだけ。
氷を入れたタンブラーにラムを入れ、オレンジジュースをお好みで適量注ぎ、軽くステアしてオレンジスライスをそえて完成。
ヘヴィーな映画で疲れた心をそっと解きほぐしてしてくれるだろう。

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