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2009年03月31日 (火) | 編集 |
ちょうど20年前に、原作を読んだときの衝撃は忘れられない。
アラン・ムーア原作、ディヴ・ギボンズ作画による「ウォッチメン」は、フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」と共に、長らくマンネリ化していたアメコミの世界に革命をもたらした傑作である。
今回、映画化を手がけるのは、フランク・ミラーの「300 スリーハンドレッド」を、原作を上回る強烈なビジュアルで映像化した俊英ザック・スナイダー。
史実をベースとし、ストーリーラインのシンプルな「300 スリーハンドレッド」に対して、こちらはいわば現実世界をさらに混沌とさせたパラレルワールドを舞台にしたミステリアスなハードボイルド。
映画化が待望されていた作品であり、スナイダーにとっても映画作家としての真価が問われる作品だったが、結果的に言えば高すぎる期待に十二分に答えたと言えるだろう。
嘗て実在したスーパーヒーローたちが、活動を禁止されたもう一つの1985年。
コメディアンという名前で知られた元ヒーローのエドワード・ブレイク(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自宅で殺害される。
非合法に活動を続けているロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、この事件が何者かによるヒーロー狩りなのではないかと睨み、元ナイトオウル二世のダニエル(パトリック・ウィルソン)や、元二代目シルクスペクターのローリー(マリン・アッカーマン)ら嘗ての仲間たちに警告を発する。
ちょうどその頃、ローリーの恋人で超人的な力を持つDr.マンハッタン(ビリー・クラダップ)は、来るべき米ソの核戦争を止めるために、新たなるエネルギーを作り出そうとしていた。
元オジマンディアスというヒーローで巨万の富を持つヴェイト(マシュー・グード)は、南極の基地でDr.マンハッタンの力を再現しようと試みるのだが・・・
物語の翌年に当たる、1986年から執筆された「ウォッチメン」は、当時のアメコミの世界における「爆弾」だっただけではなく、SF文学、ハリウッド映画、あるいは当時既に大人の芸術として開花していた日欧のコミック界にも多大な影響を与えた。
所詮マンネリ化した子供の読み物という位置付けだったアメコミは、この時代以降再び世界のサブカルチャーの重要なカテゴリとして再浮上する。
もしもヒーローが実在する世界があったら、というifのSFという発想は多くのフォロワーを生み、最近でもピクサーの「Mr.インクレディブル」やテレビシリーズの「HEROES/ヒーローズ」、あるいは浦沢直樹のコミック「PLUTO」などにも、様々な形で「ウォッチメン」の影が見え隠れしている。
もっとも、登場そのものが大きな事件であった「ウォッチメン」という作品を、簡単に説明する事は、不可能に近い。
なぜならここに描かれている内容は、歴史から哲学に至るまで、極めて広範囲で多岐に及んでいるからだ。
ザック・スナイダーは原作の持つ世界観をかなり忠実に再現しつつ、映画的なビジュアルを駆使して、三時間近い上映時間をまったく飽きさせない。
物語的には細部に脚色はあるものの、時代設定も含めてほぼそのままだが、物語と現実がリアルタイムにリンクしていた原作とは異なり、映画は20年の時を隔てて虚構の過去を俯瞰することで、原作とは異なる視点を獲得している。
舞台となるのは、現実とはほんの少しずれた、パラレルワールドの1980年代。
この世界ではニクソンが五期目の大統領職(現実の合衆国大統領は二期まで)にあり、アメリカはベトナムに勝利し、アフガニスタンを巡り、ソ連との全面核戦争の瀬戸際にある。
またこの世界のアメリカは、嘗てスーパーヒーローたちが実在して活躍した歴史を持つが、彼ら「覆面自警団」の活動はキーン条例という法律によって規制されている。
ミニッツメン、後にウォッチメン(監視者)と呼ばれたヒーローたちは、多くは常人以上の身体能力と特殊な武器を持つものの普通の人間だが、唯一核施設の事故によって、肉体を分解され再生したDR.マンハッタンだけは正真正銘の不死身の超人で、少しずつ人間性そのものを失いつつあるという設定だ。
ここでは世界観、キャラクター、物語全てに、我々が現実に生きている世界のメタファーが散りばめられ、それらの複雑な相互作用によって、世界の本質の一面を描き出そうとしているのである。
核戦争へのカウントダウンを示す、終末時計の午前零時が目前に迫り、社会は退廃し、誰もが疑心暗鬼となる「ウォッチメン」の世界は、恐れと不安によって人々が支配され、それは嘗てのスーパーヒーローたちも例外ではない。
元ヒーローである登場人物たちは、それぞれがバットマンやワンダーウーマン、スーパーマンなどの良く知られたコミックヒーローのイメージを投影されており、明確な個性によりメタファーとしての役割を持つ。
最初に殺害されるコメディアンは、力の信奉者であり、正義を語りながら平然と残虐な行為をする。
彼はベトナム以降、アメリカ人自身から存在意義に疑問符が付けられた、力による正義の象徴だろう。
対照的に、素直と言えば素直だが、子供っぽい正義感を持つナイトオウル二世は、いわば自信を失ったアメリカの良心。
唯一本物の超人であるDr.マンハッタンは、核による恐怖の均衡を破壊した制御不能の怪物であり、ある意味で核時代の神でもある事はルックスからも、物語上のポジションからも明らかだ。
Dr.マンハッタンの恋人で、彼とナイトオウル二世の間で揺れ動く二代目シルクスペクターは、Dr.マンハッタンから彼女の存在自体が「奇跡」の象徴と定義される。
そして物語の語り部でもあり、心理テストの名を持つロールシャッハは、その名の通りにこの物語が観る者の視点によって様々な顔を見せる事を表現しているのだろう。
彼ら元ヒーローたちは、一見するとそれぞれの事象の単純なメタファーに見えるが、彼らが物語のなかで共鳴しあい、影響しあう事で重層的で奥深い世界を形作るのである。
その構造を象徴するのが、物語のまとめ役とも言えるヴェイトの存在だろう。
彼とDr.マンハッタンのもたらす究極の決断自体が、それまでのアメコミの常識からすれば相当にぶっ飛んでいるのだが、それだけならまだ驚きには値しない。
実際には、彼らの作り出した結果に対する作品の視点そのものが、「ウォッチメン」が凡百のSFドラマとは別次元の作品である事を示しているのである。
厭世的な世界観、正義という概念に対する明らかな疑念から、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」と比べる向きもあるようだが、あちらが正に2008年のアメリカの世界観をストレートに反映させた作品であるのに対し、こちらは虚構の1980年代という舞台装置を使い、ワンクッション置く事で、観る者に現在を振り返って考えさせる作りになっている。
その分、心の中心に切り込まれる様な鮮烈さでは「ダークナイト」に及ばないが、ロールシャッハテストの様に、観るたびに異なるイメージを見せてくれそうな混沌とした世界は、何度も浸りたくなるような独特の魅力がある。
恐らく、原作共々カルトシネマとして後世に残る作品だろう。
まあ細かい点を言えば、そもそも何故ロールシャッハは一人しか殺されてない時点でヒーロー狩りという突飛な発想をしたのか、などの原作から受け継がれたプロット上の疑問点も無くはないのだが、これは映画の責任ではあるまい。
「ウォッチメン」は、原作読者にも十二分な満足感を与えてくれる傑作だが、原作がアメコミという事でお気楽ヒーロー物だと思って観賞すると、恐らく戸惑いしか残らないだろう。
R-15指定なので、子連れで観賞する人はいないだろうが、これはあくまでも大人のための、残酷で知的な娯楽映画である。
それにしてもザック・スナイダーは、これでフランク・ミラーとアラン・ムーアをこれ以上無い形で描き切った訳で、残るはホロコーストを描いたスピーゲルマンの問題作「マウス」あたりか。
日本のコミックに手を出しても面白そうだ。
「ダークナイト・リターンズ」は、個人的にはクリストファー・ノーランに残しておいて欲しいな。
今回はメタファーが満載な内容に相応しい酒を。
アルファベットの最後の三文字を使った「XYZ」は、後に続く物は何も無いという、その名が象徴する様に、〆の一杯として最適だ。
ライト・ラム、コアントロー、レモンジュースを4:1:1の比率でシェイクし、グラスに注ぐ。
コアントローの甘みとレモンジュースの酸味がラムと上手くバランスし、映画の後味をきれいに纏めてくれるだろう。
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原作も待望の復刻
アラン・ムーア原作、ディヴ・ギボンズ作画による「ウォッチメン」は、フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」と共に、長らくマンネリ化していたアメコミの世界に革命をもたらした傑作である。
今回、映画化を手がけるのは、フランク・ミラーの「300 スリーハンドレッド」を、原作を上回る強烈なビジュアルで映像化した俊英ザック・スナイダー。
史実をベースとし、ストーリーラインのシンプルな「300 スリーハンドレッド」に対して、こちらはいわば現実世界をさらに混沌とさせたパラレルワールドを舞台にしたミステリアスなハードボイルド。
映画化が待望されていた作品であり、スナイダーにとっても映画作家としての真価が問われる作品だったが、結果的に言えば高すぎる期待に十二分に答えたと言えるだろう。
嘗て実在したスーパーヒーローたちが、活動を禁止されたもう一つの1985年。
コメディアンという名前で知られた元ヒーローのエドワード・ブレイク(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自宅で殺害される。
非合法に活動を続けているロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、この事件が何者かによるヒーロー狩りなのではないかと睨み、元ナイトオウル二世のダニエル(パトリック・ウィルソン)や、元二代目シルクスペクターのローリー(マリン・アッカーマン)ら嘗ての仲間たちに警告を発する。
ちょうどその頃、ローリーの恋人で超人的な力を持つDr.マンハッタン(ビリー・クラダップ)は、来るべき米ソの核戦争を止めるために、新たなるエネルギーを作り出そうとしていた。
元オジマンディアスというヒーローで巨万の富を持つヴェイト(マシュー・グード)は、南極の基地でDr.マンハッタンの力を再現しようと試みるのだが・・・
物語の翌年に当たる、1986年から執筆された「ウォッチメン」は、当時のアメコミの世界における「爆弾」だっただけではなく、SF文学、ハリウッド映画、あるいは当時既に大人の芸術として開花していた日欧のコミック界にも多大な影響を与えた。
所詮マンネリ化した子供の読み物という位置付けだったアメコミは、この時代以降再び世界のサブカルチャーの重要なカテゴリとして再浮上する。
もしもヒーローが実在する世界があったら、というifのSFという発想は多くのフォロワーを生み、最近でもピクサーの「Mr.インクレディブル」やテレビシリーズの「HEROES/ヒーローズ」、あるいは浦沢直樹のコミック「PLUTO」などにも、様々な形で「ウォッチメン」の影が見え隠れしている。
もっとも、登場そのものが大きな事件であった「ウォッチメン」という作品を、簡単に説明する事は、不可能に近い。
なぜならここに描かれている内容は、歴史から哲学に至るまで、極めて広範囲で多岐に及んでいるからだ。
ザック・スナイダーは原作の持つ世界観をかなり忠実に再現しつつ、映画的なビジュアルを駆使して、三時間近い上映時間をまったく飽きさせない。
物語的には細部に脚色はあるものの、時代設定も含めてほぼそのままだが、物語と現実がリアルタイムにリンクしていた原作とは異なり、映画は20年の時を隔てて虚構の過去を俯瞰することで、原作とは異なる視点を獲得している。
舞台となるのは、現実とはほんの少しずれた、パラレルワールドの1980年代。
この世界ではニクソンが五期目の大統領職(現実の合衆国大統領は二期まで)にあり、アメリカはベトナムに勝利し、アフガニスタンを巡り、ソ連との全面核戦争の瀬戸際にある。
またこの世界のアメリカは、嘗てスーパーヒーローたちが実在して活躍した歴史を持つが、彼ら「覆面自警団」の活動はキーン条例という法律によって規制されている。
ミニッツメン、後にウォッチメン(監視者)と呼ばれたヒーローたちは、多くは常人以上の身体能力と特殊な武器を持つものの普通の人間だが、唯一核施設の事故によって、肉体を分解され再生したDR.マンハッタンだけは正真正銘の不死身の超人で、少しずつ人間性そのものを失いつつあるという設定だ。
ここでは世界観、キャラクター、物語全てに、我々が現実に生きている世界のメタファーが散りばめられ、それらの複雑な相互作用によって、世界の本質の一面を描き出そうとしているのである。
核戦争へのカウントダウンを示す、終末時計の午前零時が目前に迫り、社会は退廃し、誰もが疑心暗鬼となる「ウォッチメン」の世界は、恐れと不安によって人々が支配され、それは嘗てのスーパーヒーローたちも例外ではない。
元ヒーローである登場人物たちは、それぞれがバットマンやワンダーウーマン、スーパーマンなどの良く知られたコミックヒーローのイメージを投影されており、明確な個性によりメタファーとしての役割を持つ。
最初に殺害されるコメディアンは、力の信奉者であり、正義を語りながら平然と残虐な行為をする。
彼はベトナム以降、アメリカ人自身から存在意義に疑問符が付けられた、力による正義の象徴だろう。
対照的に、素直と言えば素直だが、子供っぽい正義感を持つナイトオウル二世は、いわば自信を失ったアメリカの良心。
唯一本物の超人であるDr.マンハッタンは、核による恐怖の均衡を破壊した制御不能の怪物であり、ある意味で核時代の神でもある事はルックスからも、物語上のポジションからも明らかだ。
Dr.マンハッタンの恋人で、彼とナイトオウル二世の間で揺れ動く二代目シルクスペクターは、Dr.マンハッタンから彼女の存在自体が「奇跡」の象徴と定義される。
そして物語の語り部でもあり、心理テストの名を持つロールシャッハは、その名の通りにこの物語が観る者の視点によって様々な顔を見せる事を表現しているのだろう。
彼ら元ヒーローたちは、一見するとそれぞれの事象の単純なメタファーに見えるが、彼らが物語のなかで共鳴しあい、影響しあう事で重層的で奥深い世界を形作るのである。
その構造を象徴するのが、物語のまとめ役とも言えるヴェイトの存在だろう。
彼とDr.マンハッタンのもたらす究極の決断自体が、それまでのアメコミの常識からすれば相当にぶっ飛んでいるのだが、それだけならまだ驚きには値しない。
実際には、彼らの作り出した結果に対する作品の視点そのものが、「ウォッチメン」が凡百のSFドラマとは別次元の作品である事を示しているのである。
厭世的な世界観、正義という概念に対する明らかな疑念から、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」と比べる向きもあるようだが、あちらが正に2008年のアメリカの世界観をストレートに反映させた作品であるのに対し、こちらは虚構の1980年代という舞台装置を使い、ワンクッション置く事で、観る者に現在を振り返って考えさせる作りになっている。
その分、心の中心に切り込まれる様な鮮烈さでは「ダークナイト」に及ばないが、ロールシャッハテストの様に、観るたびに異なるイメージを見せてくれそうな混沌とした世界は、何度も浸りたくなるような独特の魅力がある。
恐らく、原作共々カルトシネマとして後世に残る作品だろう。
まあ細かい点を言えば、そもそも何故ロールシャッハは一人しか殺されてない時点でヒーロー狩りという突飛な発想をしたのか、などの原作から受け継がれたプロット上の疑問点も無くはないのだが、これは映画の責任ではあるまい。
「ウォッチメン」は、原作読者にも十二分な満足感を与えてくれる傑作だが、原作がアメコミという事でお気楽ヒーロー物だと思って観賞すると、恐らく戸惑いしか残らないだろう。
R-15指定なので、子連れで観賞する人はいないだろうが、これはあくまでも大人のための、残酷で知的な娯楽映画である。
それにしてもザック・スナイダーは、これでフランク・ミラーとアラン・ムーアをこれ以上無い形で描き切った訳で、残るはホロコーストを描いたスピーゲルマンの問題作「マウス」あたりか。
日本のコミックに手を出しても面白そうだ。
「ダークナイト・リターンズ」は、個人的にはクリストファー・ノーランに残しておいて欲しいな。
今回はメタファーが満載な内容に相応しい酒を。
アルファベットの最後の三文字を使った「XYZ」は、後に続く物は何も無いという、その名が象徴する様に、〆の一杯として最適だ。
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原作も待望の復刻
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2009年03月25日 (水) | 編集 |
ユダヤ人でゲイという、ヒットラー時代のドイツだったら確実にガス室行きのブライアン・シンガー監督が、主演にトム・クルーズを迎えて作り上げたのは、1944年7月20日に起こったヒットラー暗殺未遂事件を巡るサスペンス大作。
タイトルの「ワルキューレ」とは、ナチスに対するクーデターが起こったときに発令される作戦名で、もちろんワーグナーの歌劇「ニーベルングの指輪」に登場する女神の名に由来する。
1943年、北アフリカ。
ドイツ軍将校、シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、連合軍の空襲で負傷し、片腕と片目を失う。
ベルリンの病院に入院した大佐に、ヒットラー政権の打倒を目指す地下組織が接近するが、かねてからナチズムに批判的だった大佐は、これを受け入れる。
しかし、彼はとりあえずヒットラーを失脚させれば、後は何とかなると考える組織の甘さを見て失望。
ナチスに勝つには、ヒットラーを暗殺し、早急にベルリンの支配を完了する必要があると考える。
その秘策として、クーデターなどに対処するために作られた「ワルキューレ作戦」を逆に利用しようとするのだが・・・
ナチスへの抵抗運動を描いた映画は、今までにも多くの国で沢山の作品が作られてきたが、ハリウッドの米国人たちがドイツ人による抵抗運動を描いたこの映画、当のドイツではあまり評判がよろしくないらしい。
ヨーロッパではカルト扱いされるサイエントロジーの信者であるトム・クルーズに、ナチスと対決したした自国の英雄を演じられるのは抵抗があるのだろう。
確かに私も、典型的なアメリカンというイメージのあるトム・クルーズが、実在のドイツ軍将校を演じると聞いて微妙な違和感を感じた。
ただ、実際に映画が始まってドイツ人たちがみんな英語を喋る事になんとなく慣れてくると、キャラクターにはそれほど違和感はなくなり、端正でゲルマン的な顔立ち、と言えなくもないトム・クルーズもドイツ軍人に見えてくるから映画は不思議だ。
ナチス政権下のドイツでは、ヒットラー暗殺計画が数十回も企てられ、この1944年7月20日の事件はその中でも最大にして最後の物。
ヒットラーを暗殺し、対クーデター様に作られた「ワルキューレ作戦」を逆に利用してSS(ナチス親衛隊)のクーデターにでっち上げて、一気に政権そのものを掌握しようというのだから、大胆不敵というか、良く思いついたという感じだが、結果的には失敗してシュタウフェンベルク大佐らは処刑され、関与した数千人が粛清されたという。
あのロンメル将軍も本件への関与を疑われて自決を選んでいるのだから、ナチス体制の根幹を揺るがせた大事件であった事は間違いないだろう。
ブライアン・シンガーは、この結末が明らかな物語を題材にしながら、果たして計画がどのように立てられ、どのように失敗したのかをプロットの幹として構成し、骨太のサスペンス大作として成立させている。
シュタウフェンベルク大佐にとって、ヒットラーとナチスとは自らの欲望のために故国ドイツを私物化したような存在。
彼らから国を取り戻すという、明らかに「正しい計画」はなぜ失敗したのか。
綿密な計画の立案から実行、崩壊までのプロセスは、ダイジェスト感はあるものの史実から要所要所を押さえ、スリリングで良く出来ている。
この言わば失敗のロジックを通して、作品のテーマが浮かび上がってくると言う構造だ。
考えてみれば、シンガーの代表作である「X-MEN」シリーズもナチズムと選民思想を隠れテーマとして描いており、その意味でこれは彼にとっては長年ひっそりと描いてきたテーマを初めて前面に出した勝負作なのかもしれない。
ユダヤ人であるシンガーが、あえてドイツ軍人の目線で作品を描いたのは、「ドイツ人=ナチス」的なステロタイプな歴史観から離れ、個人と国家という対立軸を明確にするためだろう。
良心に従い、ドイツという国を愛した個人と、ヒットラー、あるいは彼の作り上げたナチスという権力のためだけに存在する第三帝国という国家。
「ドイツ人はナチスだけじゃない事を世界に示すのだ」というシュタウフェンベルクたちの叫びは、自らがマイノリティとしてステロタイプで世界を捉えることの危険性を知るシンガーの、世界に対するこうあって欲しいという希望の様なものなのかも知れない。
残念なのは、プロット上の対立構図が明確で、サスペンス物としての見せ場が盛り沢山な一方で、絶対的な主人公であるシュタウフェンベルク大佐のキャラクターがやや表層的な事。
彼の個人としての信念はどこから来たのか、なぜ彼は全てを犠牲にしてまでも、抵抗運動に身を投じる決意をしたのかが今ひとつはっきりせず、その為に映画全体の印象が深みを欠いてしまっている。
例えば学生による非暴力の抵抗運動を描いた「白バラの祈り」では、逮捕された女子学生ゾフィー・ショルとゲシュタポ尋問官の徹底的な論戦が描かれ、彼らの会話を通してゾフィーの信念を支える人間性の源が見える様になっていた。
「ワルキューレ」は、物語の中心をヒットラー暗殺計画を巡るサスペンスに置き、それを通してテーマを描く形をとったために、人物がやや弱いのだ。
まあ、描いている情報の多さを考えればこの上映時間で良く纏めたと思うし、良くも悪くも外国人が描いたハリウッド映画と考えると健闘していると言って良いだろう。
それにしても、この映画を見て改めて感じるのはヒットラーという独裁者の恐るべき悪運の強さ。
もしも、会議の場所が変更されていなかったら。
もしも、会議の時間が変更されていなかったら。
もしも、3時間の空白が無かったら。
これらの不測の事態が、よりにもよって計画決行の日に偶然起こっていたと言う事実。
このうち、一つでも起こっていなければ、計画は成功していたのかもしれず、結果だけ見れば悪魔に力を与えられた人間と言うのは、存在するのかもしれないと思わざるを得ない。
本来の北欧神話で、ワルキューレの女神たちが仕えるオーディーン神は、知恵と魔法を得るために片目を失った隻眼の男として描かれる。
もしもシュタウフェンベルク大佐がオーディーンなら、ヒットラーは彼を噛殺した魔獣フェンリルか。
神話は歴史の中で繰り返されているのだろうか。
さて、シュタウフェンベルク家は、元々ドイツ南部のヴルテンベルグの王家にルーツを持つ名門貴族。
ドイツ南部はワインどころとしても有名で、今回は隣接するバーデン地方の「シュペートブルグンダー・トロッケン・ホルツファス」という舌を噛みそうなピノノワールの2004年をチョイス。
やや辛口でボディが強く、古のゲルマン貴族の様な力強さと柔らかな繊細さを共に感じさせる。
敬虔なカソリック教徒であったというシュタウフェンベルク大佐を突き動かしたのは、いわゆる貴族の社会責任、ノーブル・オブリゲーションだったのかも知れない。
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タイトルの「ワルキューレ」とは、ナチスに対するクーデターが起こったときに発令される作戦名で、もちろんワーグナーの歌劇「ニーベルングの指輪」に登場する女神の名に由来する。
1943年、北アフリカ。
ドイツ軍将校、シュタウフェンベルク大佐(トム・クルーズ)は、連合軍の空襲で負傷し、片腕と片目を失う。
ベルリンの病院に入院した大佐に、ヒットラー政権の打倒を目指す地下組織が接近するが、かねてからナチズムに批判的だった大佐は、これを受け入れる。
しかし、彼はとりあえずヒットラーを失脚させれば、後は何とかなると考える組織の甘さを見て失望。
ナチスに勝つには、ヒットラーを暗殺し、早急にベルリンの支配を完了する必要があると考える。
その秘策として、クーデターなどに対処するために作られた「ワルキューレ作戦」を逆に利用しようとするのだが・・・
ナチスへの抵抗運動を描いた映画は、今までにも多くの国で沢山の作品が作られてきたが、ハリウッドの米国人たちがドイツ人による抵抗運動を描いたこの映画、当のドイツではあまり評判がよろしくないらしい。
ヨーロッパではカルト扱いされるサイエントロジーの信者であるトム・クルーズに、ナチスと対決したした自国の英雄を演じられるのは抵抗があるのだろう。
確かに私も、典型的なアメリカンというイメージのあるトム・クルーズが、実在のドイツ軍将校を演じると聞いて微妙な違和感を感じた。
ただ、実際に映画が始まってドイツ人たちがみんな英語を喋る事になんとなく慣れてくると、キャラクターにはそれほど違和感はなくなり、端正でゲルマン的な顔立ち、と言えなくもないトム・クルーズもドイツ軍人に見えてくるから映画は不思議だ。
ナチス政権下のドイツでは、ヒットラー暗殺計画が数十回も企てられ、この1944年7月20日の事件はその中でも最大にして最後の物。
ヒットラーを暗殺し、対クーデター様に作られた「ワルキューレ作戦」を逆に利用してSS(ナチス親衛隊)のクーデターにでっち上げて、一気に政権そのものを掌握しようというのだから、大胆不敵というか、良く思いついたという感じだが、結果的には失敗してシュタウフェンベルク大佐らは処刑され、関与した数千人が粛清されたという。
あのロンメル将軍も本件への関与を疑われて自決を選んでいるのだから、ナチス体制の根幹を揺るがせた大事件であった事は間違いないだろう。
ブライアン・シンガーは、この結末が明らかな物語を題材にしながら、果たして計画がどのように立てられ、どのように失敗したのかをプロットの幹として構成し、骨太のサスペンス大作として成立させている。
シュタウフェンベルク大佐にとって、ヒットラーとナチスとは自らの欲望のために故国ドイツを私物化したような存在。
彼らから国を取り戻すという、明らかに「正しい計画」はなぜ失敗したのか。
綿密な計画の立案から実行、崩壊までのプロセスは、ダイジェスト感はあるものの史実から要所要所を押さえ、スリリングで良く出来ている。
この言わば失敗のロジックを通して、作品のテーマが浮かび上がってくると言う構造だ。
考えてみれば、シンガーの代表作である「X-MEN」シリーズもナチズムと選民思想を隠れテーマとして描いており、その意味でこれは彼にとっては長年ひっそりと描いてきたテーマを初めて前面に出した勝負作なのかもしれない。
ユダヤ人であるシンガーが、あえてドイツ軍人の目線で作品を描いたのは、「ドイツ人=ナチス」的なステロタイプな歴史観から離れ、個人と国家という対立軸を明確にするためだろう。
良心に従い、ドイツという国を愛した個人と、ヒットラー、あるいは彼の作り上げたナチスという権力のためだけに存在する第三帝国という国家。
「ドイツ人はナチスだけじゃない事を世界に示すのだ」というシュタウフェンベルクたちの叫びは、自らがマイノリティとしてステロタイプで世界を捉えることの危険性を知るシンガーの、世界に対するこうあって欲しいという希望の様なものなのかも知れない。
残念なのは、プロット上の対立構図が明確で、サスペンス物としての見せ場が盛り沢山な一方で、絶対的な主人公であるシュタウフェンベルク大佐のキャラクターがやや表層的な事。
彼の個人としての信念はどこから来たのか、なぜ彼は全てを犠牲にしてまでも、抵抗運動に身を投じる決意をしたのかが今ひとつはっきりせず、その為に映画全体の印象が深みを欠いてしまっている。
例えば学生による非暴力の抵抗運動を描いた「白バラの祈り」では、逮捕された女子学生ゾフィー・ショルとゲシュタポ尋問官の徹底的な論戦が描かれ、彼らの会話を通してゾフィーの信念を支える人間性の源が見える様になっていた。
「ワルキューレ」は、物語の中心をヒットラー暗殺計画を巡るサスペンスに置き、それを通してテーマを描く形をとったために、人物がやや弱いのだ。
まあ、描いている情報の多さを考えればこの上映時間で良く纏めたと思うし、良くも悪くも外国人が描いたハリウッド映画と考えると健闘していると言って良いだろう。
それにしても、この映画を見て改めて感じるのはヒットラーという独裁者の恐るべき悪運の強さ。
もしも、会議の場所が変更されていなかったら。
もしも、会議の時間が変更されていなかったら。
もしも、3時間の空白が無かったら。
これらの不測の事態が、よりにもよって計画決行の日に偶然起こっていたと言う事実。
このうち、一つでも起こっていなければ、計画は成功していたのかもしれず、結果だけ見れば悪魔に力を与えられた人間と言うのは、存在するのかもしれないと思わざるを得ない。
本来の北欧神話で、ワルキューレの女神たちが仕えるオーディーン神は、知恵と魔法を得るために片目を失った隻眼の男として描かれる。
もしもシュタウフェンベルク大佐がオーディーンなら、ヒットラーは彼を噛殺した魔獣フェンリルか。
神話は歴史の中で繰り返されているのだろうか。
さて、シュタウフェンベルク家は、元々ドイツ南部のヴルテンベルグの王家にルーツを持つ名門貴族。
ドイツ南部はワインどころとしても有名で、今回は隣接するバーデン地方の「シュペートブルグンダー・トロッケン・ホルツファス」という舌を噛みそうなピノノワールの2004年をチョイス。
やや辛口でボディが強く、古のゲルマン貴族の様な力強さと柔らかな繊細さを共に感じさせる。
敬虔なカソリック教徒であったというシュタウフェンベルク大佐を突き動かしたのは、いわゆる貴族の社会責任、ノーブル・オブリゲーションだったのかも知れない。

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2009年03月19日 (木) | 編集 |
ぶっちゃけ、ここまで期待されていない作品も珍しいだろう。
本来は2008年に公開される予定だったのが、急遽2009年に延期になり、その原因は「作品のクオリティ」という噂が世界を駆け巡ったのも記憶に新しい。
日本公開がいよいよ近づくと、予告編の冒頭に原作者の鳥山明自らによる「映画と原作は別物として楽しんで」という内容の、逃げ口上とも思える一文が付け加えられる始末。
果たして「DRAGONBALL EVOLUTION」は、原作、あるいはアニメ版から、一体何が「EVOLUTION(進化)」していたのだろうか。
高校生の悟空(ジャスティン・チャットウィン)は、祖父の悟飯(ランダル・ダク・キム)と拳法の修行に明け暮れる日々。
18歳の誕生日に、七つを集めると、どんな願い事でも叶うというドラゴンボールの一つを贈られる。
ところが、かつて封印された魔王ピッコロ(ジェームス・マスターズ)が復活、再び地球を支配しようと、ドラゴンボールを集め始める。
悟空が友達のチチ(ジェイミー・チャン)のパーティに行っている間に、悟飯はピッコロに襲われてしまう。
瀕死の悟飯は、悟空に「亀仙人を探せ」と言い残して息絶える。
そこへ奇妙な武器を持った女、ブルマ(エミー・ロッサム)が現れて、盗んだドラゴンボールを返せと悟空に迫るのだが・・・・
これが原作とはまったくの別物という事は覚悟していたし、それならそれで一本のアクションファンタジー映画として良く出来ていれば御の字かなあと考えていたので、観る前からかなりハードルは下がっていた。
にもかかわらず・・・正直、これはちょっとどうかと思う。
これが「ドラゴンボール」であるか否かと聞かれれば、まあそれなりには「ドラゴンボール」であったと言えるだろう。
確かにキャラのルックスは、アレンジというにはあんまりな位に原作とかけ離れているし、ビジョンが明確でない世界観も微妙なところ。
ストーリーラインも原作を抜粋しまくった上に、かなり強引につなぎ合わせている。
だが、映画を構成している要素そのものは、原作から借りてきているのは間違いなく、大きな部分には無頓着なくせに、妙な小技をちゃんと再現したりしているので、違和感バリバリなのに、原作の匂いは確かに感じるという妙な印象の作品になっている。
まあ徹底的にアニメのコスプレショーに徹した、「ヤッターマン」とは比べるべくも無いが、このぐらいのアレンジは一つの方法論として許容範囲だ。
問題は、やはり映画そのものの作りである。
原作のピッコロ編をベースにするのはまあ良い。
悟空がイケテない高校生なのも良いだろう。
実際、この冒頭のSF学園物みたいなシークエンスは、なんとなく「カラテ・キッド」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を掛け合わせた様な雰囲気でテンポも良く、原作とはかけ離れているものの、この部分だけ観れば別に悪くない。
ところが悟飯がピッコロに殺され、いよいよドラゴンボールを巡る冒険に出ると、映画は途端にリズムを失って失速してしまうのである。
何しろこの映画、上映時間が僅か90分ほどしかないので、展開がめちゃくちゃ急ぎ足。
とりあえず悪役ピッコロをはじめ、ブルマ、チチ、亀仙人にヤムチャとお馴染みの登場人物は出てくるのだが、彼らの背景すらろくに描かれないために、キャラクターに感情移入がまったく出来ない。
まあ唯一、主役の悟空だけは必要最小限描かれているが、ピッコロにいたっては封印されていたのがなぜ復活したのか、そもそもなぜ地球を征服したがるのかすら説明が無いので、単に悪のための悪、強いだけでキャラクターとしての魅力の欠片も無い存在になってしまっている。
また亀仙人が、原作のイメージからはずっと若いチョウ・ユンファになったために、一番弟子のはずの悟飯とどう見ても年齢が逆転してしまっている。
キャラのルックスが原作と違うなら、せめて設定を変えるとか、物語上で何か説明するとかすれば良いものの、このあたりはまったく無頓着。
ヤムチャなんかは出てきただけで、キャラとしてはまったく生かされていなかった。
キャラクターがこの調子だから、ドラマとしては盛り上がりようも無く、とりあえず意味も無く場所を移動しているだけにしか見えない。
世界観が作り込まれてないのも問題で、ヤムチャが穴掘って作った罠から、どうやったらあんな溶岩の流れる地底世界へつながってるのか、いくらなんでも強引過ぎるだろう。
アクションシーンになると、街中から突然山中の空き地にテレポートしてしまう、「戦隊シリーズ」ぐらいの違和感があったぞ。
確かに七つのドラゴンボール探しは、この上映時間では無理なのは判り切っているし、端折るのも仕方が無いとは思うのだが、継ぎ接ぎな作劇はあまりにも稚拙だ。
ジェームス・ウォン監督の演出も、冒頭の学園物以降は「ファイナル・デスティネーション」シリーズなどで見せた切れ味がまったく見られないが、この脚本では誰が撮ったとしても大した物にはならなかっただろう。
脚本家としても実績のある、ウォン監督自身が書いたほうが、まだ良かったのかもしれない。
「DRAGONBALL EVOLUTION」は一言で言って酷く中途半端な映画だ。
漫画の忠実なコスプレとしてはまったく物足りないし、一本の映画として観ても完成度は低い。
アクションがそこそこ良く出来ているので、絶望的につまらなくはないが、かといって面白くも無い。
正直、この内容ならあえて原作を使う必要性を感じないし、完全にオリジナルで物語を仕上げたほうが良かったのではないか。
まあ美点としては、悟空を演じたジャスティン・チャットウィンが結構アクションを頑張っていた事と、ブルマ役のエミー・ロッサムが可愛かったくらいか。
どうもチャウ・シンチーが、中途半端に名前を出している映画は、「地雷」という新たなジンクスが出来てしまいそうだ。
本人はいろいろ言い訳している様だが、プロデューサーとしてクレジットされているのだから、責任は免れないだろう。
まあ、さすがに「少林少女」の酷さを超える事は出来なかったようだけど(笑
今回はドラゴンつながりで、沖縄の泡盛瑞泉の10年古酒「黒龍」をチョイス。
マイルドでコクのある古酒ならではの深みのある味わいは、物語の本質を見失って表面的になってしまった映画に一番欠けていた物。
沖縄料理に豊かな古酒でも飲んでいると、無味乾燥な映画は直ぐに忘れ去られてしまいそうだ。
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本来は2008年に公開される予定だったのが、急遽2009年に延期になり、その原因は「作品のクオリティ」という噂が世界を駆け巡ったのも記憶に新しい。
日本公開がいよいよ近づくと、予告編の冒頭に原作者の鳥山明自らによる「映画と原作は別物として楽しんで」という内容の、逃げ口上とも思える一文が付け加えられる始末。
果たして「DRAGONBALL EVOLUTION」は、原作、あるいはアニメ版から、一体何が「EVOLUTION(進化)」していたのだろうか。
高校生の悟空(ジャスティン・チャットウィン)は、祖父の悟飯(ランダル・ダク・キム)と拳法の修行に明け暮れる日々。
18歳の誕生日に、七つを集めると、どんな願い事でも叶うというドラゴンボールの一つを贈られる。
ところが、かつて封印された魔王ピッコロ(ジェームス・マスターズ)が復活、再び地球を支配しようと、ドラゴンボールを集め始める。
悟空が友達のチチ(ジェイミー・チャン)のパーティに行っている間に、悟飯はピッコロに襲われてしまう。
瀕死の悟飯は、悟空に「亀仙人を探せ」と言い残して息絶える。
そこへ奇妙な武器を持った女、ブルマ(エミー・ロッサム)が現れて、盗んだドラゴンボールを返せと悟空に迫るのだが・・・・
これが原作とはまったくの別物という事は覚悟していたし、それならそれで一本のアクションファンタジー映画として良く出来ていれば御の字かなあと考えていたので、観る前からかなりハードルは下がっていた。
にもかかわらず・・・正直、これはちょっとどうかと思う。
これが「ドラゴンボール」であるか否かと聞かれれば、まあそれなりには「ドラゴンボール」であったと言えるだろう。
確かにキャラのルックスは、アレンジというにはあんまりな位に原作とかけ離れているし、ビジョンが明確でない世界観も微妙なところ。
ストーリーラインも原作を抜粋しまくった上に、かなり強引につなぎ合わせている。
だが、映画を構成している要素そのものは、原作から借りてきているのは間違いなく、大きな部分には無頓着なくせに、妙な小技をちゃんと再現したりしているので、違和感バリバリなのに、原作の匂いは確かに感じるという妙な印象の作品になっている。
まあ徹底的にアニメのコスプレショーに徹した、「ヤッターマン」とは比べるべくも無いが、このぐらいのアレンジは一つの方法論として許容範囲だ。
問題は、やはり映画そのものの作りである。
原作のピッコロ編をベースにするのはまあ良い。
悟空がイケテない高校生なのも良いだろう。
実際、この冒頭のSF学園物みたいなシークエンスは、なんとなく「カラテ・キッド」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を掛け合わせた様な雰囲気でテンポも良く、原作とはかけ離れているものの、この部分だけ観れば別に悪くない。
ところが悟飯がピッコロに殺され、いよいよドラゴンボールを巡る冒険に出ると、映画は途端にリズムを失って失速してしまうのである。
何しろこの映画、上映時間が僅か90分ほどしかないので、展開がめちゃくちゃ急ぎ足。
とりあえず悪役ピッコロをはじめ、ブルマ、チチ、亀仙人にヤムチャとお馴染みの登場人物は出てくるのだが、彼らの背景すらろくに描かれないために、キャラクターに感情移入がまったく出来ない。
まあ唯一、主役の悟空だけは必要最小限描かれているが、ピッコロにいたっては封印されていたのがなぜ復活したのか、そもそもなぜ地球を征服したがるのかすら説明が無いので、単に悪のための悪、強いだけでキャラクターとしての魅力の欠片も無い存在になってしまっている。
また亀仙人が、原作のイメージからはずっと若いチョウ・ユンファになったために、一番弟子のはずの悟飯とどう見ても年齢が逆転してしまっている。
キャラのルックスが原作と違うなら、せめて設定を変えるとか、物語上で何か説明するとかすれば良いものの、このあたりはまったく無頓着。
ヤムチャなんかは出てきただけで、キャラとしてはまったく生かされていなかった。
キャラクターがこの調子だから、ドラマとしては盛り上がりようも無く、とりあえず意味も無く場所を移動しているだけにしか見えない。
世界観が作り込まれてないのも問題で、ヤムチャが穴掘って作った罠から、どうやったらあんな溶岩の流れる地底世界へつながってるのか、いくらなんでも強引過ぎるだろう。
アクションシーンになると、街中から突然山中の空き地にテレポートしてしまう、「戦隊シリーズ」ぐらいの違和感があったぞ。
確かに七つのドラゴンボール探しは、この上映時間では無理なのは判り切っているし、端折るのも仕方が無いとは思うのだが、継ぎ接ぎな作劇はあまりにも稚拙だ。
ジェームス・ウォン監督の演出も、冒頭の学園物以降は「ファイナル・デスティネーション」シリーズなどで見せた切れ味がまったく見られないが、この脚本では誰が撮ったとしても大した物にはならなかっただろう。
脚本家としても実績のある、ウォン監督自身が書いたほうが、まだ良かったのかもしれない。
「DRAGONBALL EVOLUTION」は一言で言って酷く中途半端な映画だ。
漫画の忠実なコスプレとしてはまったく物足りないし、一本の映画として観ても完成度は低い。
アクションがそこそこ良く出来ているので、絶望的につまらなくはないが、かといって面白くも無い。
正直、この内容ならあえて原作を使う必要性を感じないし、完全にオリジナルで物語を仕上げたほうが良かったのではないか。
まあ美点としては、悟空を演じたジャスティン・チャットウィンが結構アクションを頑張っていた事と、ブルマ役のエミー・ロッサムが可愛かったくらいか。
どうもチャウ・シンチーが、中途半端に名前を出している映画は、「地雷」という新たなジンクスが出来てしまいそうだ。
本人はいろいろ言い訳している様だが、プロデューサーとしてクレジットされているのだから、責任は免れないだろう。
まあ、さすがに「少林少女」の酷さを超える事は出来なかったようだけど(笑
今回はドラゴンつながりで、沖縄の泡盛瑞泉の10年古酒「黒龍」をチョイス。
マイルドでコクのある古酒ならではの深みのある味わいは、物語の本質を見失って表面的になってしまった映画に一番欠けていた物。
沖縄料理に豊かな古酒でも飲んでいると、無味乾燥な映画は直ぐに忘れ去られてしまいそうだ。

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2009年03月13日 (金) | 編集 |
う~む、ここまで徹底的にアニメのノリのまんま作ってくるとは・・・三池崇史恐るべし。
考え様によっては、相当勇気のある一本と言える。
1977年に、タツノコ・プロの「タイムボカン・シリーズ」第二弾として放送された「ヤッターマン」は、良く言えば破天荒でパワフル、悪く言えば徹底的にお下品でくだらない作品で、小学生には目の毒なお色気シーンも含めて、当時のPTAからは目の敵にされたアニメだった。
これを実写映画化した本作は、キャラクターから物語の構成、ビジュアル、さらにはお約束のギャグにいたるまで、驚くほど忠実にアニメ版を再現しているのだが、果たしてそれが映画として幸福かどうかというのは、観る人によって評価がわかれそうだ。
高田玩具店の一人息子、ガンちゃん(櫻井翔)とガールフレンドのアイちゃん(福田沙紀)は、ヤッターマン1号&2号に変身し、ガンちゃんの開発した巨大犬型ロボのヤッターワンを操って、ドロンボー一味から街の平和を守っている。
ある日、海江田博士(阿部サダヲ)の一人娘、翔子(岡本杏理)を保護するのだが、彼女は四つの破片が揃うとスーパーパワーを得る事が出来るドクロストーンの一部を持っていた。
博士は残りのドクロストーンを探しに行ったまま行方不明となったという。
その頃、泥棒の神と名乗るドクロベエはドロンボー一味のドロンジョ(深田恭子)らに、四つのドクロストーンを集めるよう命じるのだが・・・・
何故に第一弾の「タイム・ボカン」をすっ飛ばして、二本目の「ヤッターマン」を映画化したのかは、シリーズのキャラクター造形や世界観、お約束的なギャグがこの作品でほぼ完成したからという事と、多分「タイム・ボカン」の方が確実にお金が掛かるからだろう。
もっとも本作も、よくまあこんなアホな内容にこれだけの手間暇を掛けたなあと驚かされるくらいに、ビジュアルは凝りに凝っている。
実際、私もアニメの世界観を、これほどまでに忠実に実写で再現できるとは思っていなかった。
昨年公開された、同じくタツノコのアニメの実写リメイク、「スピードレーサー」と同様に、こちらもビジュアルイメージとしては実写とアニメの中間あたりを狙っている様だが、良い意味でチープなCGの質感もまたアニメっぽさを醸し出し、やたら壮大な美術や衣装を含めて世界観の構築は出色の出来栄えと言って良い。
アニメの実写化で、常にネックとなるキャラクターも合格点。
一番不安だった深田恭子のドロンジョさまは、アニメに比べるとやや若すぎる感はあるものの、セクシー衣装にツンデレキャラも可笑しくて、決して悪くない。
そう言えば彼女の最後の台詞も、アニメ版と同じだった。
ドロンボー一味のデブ&ヤセコンビ、トンズラーとボヤッキーもまるで絵がそのまま立体化したかの様な嵌り具合だ。
本来主役であるはずのヤッターマンたちが、やや影の薄い扱いなのが気になるが、これはアニメ版からしてそうだったから、狙い通りなのかもしれない。
ドクロストーンの鍵を握る海江田博士を演じる阿部サダヲの悪ノリ演技も、映画の作りには合っていると思うし、アニメ版でドロンボー一味を演じた、小原乃梨子、たてかべ和也らがカメオ出演で実写キャラとの競演を果していたり、街のあちこちにタツノコキャラが散りばめられてる遊び心も、こういう作品だと鼻につかない。
唐突にはじまる妙なミュージカルや、細かなギャグまで、リアルタイムでアニメ版に慣れ親しんだ世代は、本筋以外のオマケ的な部分でも結構楽しめるだろう。
三池崇史は、オリジナルのファンの「これが実写になったら・・・」という願望を適えるという点では、ベストの仕事をているのではないか。
アニメのイメージを壊さない忠実な実写化という点では、本作は過去に日本で作られた実写リメイク作品の中でもダントツによく出来ていると思う。
ただ・・・それが一本の映画として凄く面白いかというと、それはまた別の話だ。
ビジュアルやキャラクター同様に、この作品の場合物語の展開までもがテレビアニメ版を踏襲している。
上映時間のうち、最初の30分がキャラと世界観の紹介を兼ねた第一話、次の30分が毎週お馴染みのエピソード、最後の50分がいきなり拡大版最終回という構成で、良くも悪くもテレビ版の脚本を三つ合体させた様な作りになっていて、映画としての纏まりを決定的に欠いている。
30分番組なら、まずまず面白く観られたとしても、それをいくつか繋ぎ合わせた物が、2時間近く持つかというと、正直なところ微妙だ。
もっとも、本作の場合そんな作劇上の問題点は百も承知で、あえてテレビのテイストをそのまま残しているフシがある。
作品の狙いは、あくまでもテレビアニメの実写での忠実な再現で、要するにある種のコスプレショーであり、一般的な映画作りのセオリーとは、プライオリティが置かれている部分が異なるのだ。
故に、この作品は単体での評価が難しい。
コアターゲットとして狙っているのは、オリジナルをリアルタイムで観たアラフォー世代、そして現在放送中のリメイク版アニメシリーズを観ているその子供たちで、いずれにしてもアニメ版を知らない人は最初から考慮されていないと言っていい。
多分、オリジナルのアニメが好きな人は、最高とは言わないまでも、まずまず楽しい時間を過ごす事の出来る作品だろう。
反面オリジナルをまったく知らずに観に行く人にとっては、大金を掛けたおバカ映画に過ぎず、アニメ版を踏襲した妙なノリについて行けないと、寒すぎて引いてしまうのではないか。
個人的には、懐かしさもあって結構楽しかったのだけど、正直人に薦められるかと言われると、相手によるとしか言い様の無い作品なのである。
まあ映像は派手でよく出来ているし、どうしょうもなくくだらないギャグも、感覚が作品世界に馴染むとそれなりに笑えるから、誰が観ても退屈してしまうほどつまらなくは無いと思うのだけど。
さて、今回は事実上の主役であるドロンジョさまイメージのお酒を。
ドロンジョという名前は、元々オリジナルのボイスキャストである 小原乃梨子が吹き替えを担当していたフランスの女優、ミレーヌ・ドモンジョからとられているという。
という訳で、ドモンジョの出身地であるプロヴァンスのワイン、「グラン・ドメーヌ・スメール ロゼ 2007」をチョイス。
本来ドロンジョさまに似合うのは赤だと思うが、深キョンだともうちょっと軽いイメージでロゼ。
スッキリとしたやや辛口で、爽やかな果実香りを楽しめる。
しかし、続編は本気で期待して良いのかね・・・(笑
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考え様によっては、相当勇気のある一本と言える。
1977年に、タツノコ・プロの「タイムボカン・シリーズ」第二弾として放送された「ヤッターマン」は、良く言えば破天荒でパワフル、悪く言えば徹底的にお下品でくだらない作品で、小学生には目の毒なお色気シーンも含めて、当時のPTAからは目の敵にされたアニメだった。
これを実写映画化した本作は、キャラクターから物語の構成、ビジュアル、さらにはお約束のギャグにいたるまで、驚くほど忠実にアニメ版を再現しているのだが、果たしてそれが映画として幸福かどうかというのは、観る人によって評価がわかれそうだ。
高田玩具店の一人息子、ガンちゃん(櫻井翔)とガールフレンドのアイちゃん(福田沙紀)は、ヤッターマン1号&2号に変身し、ガンちゃんの開発した巨大犬型ロボのヤッターワンを操って、ドロンボー一味から街の平和を守っている。
ある日、海江田博士(阿部サダヲ)の一人娘、翔子(岡本杏理)を保護するのだが、彼女は四つの破片が揃うとスーパーパワーを得る事が出来るドクロストーンの一部を持っていた。
博士は残りのドクロストーンを探しに行ったまま行方不明となったという。
その頃、泥棒の神と名乗るドクロベエはドロンボー一味のドロンジョ(深田恭子)らに、四つのドクロストーンを集めるよう命じるのだが・・・・
何故に第一弾の「タイム・ボカン」をすっ飛ばして、二本目の「ヤッターマン」を映画化したのかは、シリーズのキャラクター造形や世界観、お約束的なギャグがこの作品でほぼ完成したからという事と、多分「タイム・ボカン」の方が確実にお金が掛かるからだろう。
もっとも本作も、よくまあこんなアホな内容にこれだけの手間暇を掛けたなあと驚かされるくらいに、ビジュアルは凝りに凝っている。
実際、私もアニメの世界観を、これほどまでに忠実に実写で再現できるとは思っていなかった。
昨年公開された、同じくタツノコのアニメの実写リメイク、「スピードレーサー」と同様に、こちらもビジュアルイメージとしては実写とアニメの中間あたりを狙っている様だが、良い意味でチープなCGの質感もまたアニメっぽさを醸し出し、やたら壮大な美術や衣装を含めて世界観の構築は出色の出来栄えと言って良い。
アニメの実写化で、常にネックとなるキャラクターも合格点。
一番不安だった深田恭子のドロンジョさまは、アニメに比べるとやや若すぎる感はあるものの、セクシー衣装にツンデレキャラも可笑しくて、決して悪くない。
そう言えば彼女の最後の台詞も、アニメ版と同じだった。
ドロンボー一味のデブ&ヤセコンビ、トンズラーとボヤッキーもまるで絵がそのまま立体化したかの様な嵌り具合だ。
本来主役であるはずのヤッターマンたちが、やや影の薄い扱いなのが気になるが、これはアニメ版からしてそうだったから、狙い通りなのかもしれない。
ドクロストーンの鍵を握る海江田博士を演じる阿部サダヲの悪ノリ演技も、映画の作りには合っていると思うし、アニメ版でドロンボー一味を演じた、小原乃梨子、たてかべ和也らがカメオ出演で実写キャラとの競演を果していたり、街のあちこちにタツノコキャラが散りばめられてる遊び心も、こういう作品だと鼻につかない。
唐突にはじまる妙なミュージカルや、細かなギャグまで、リアルタイムでアニメ版に慣れ親しんだ世代は、本筋以外のオマケ的な部分でも結構楽しめるだろう。
三池崇史は、オリジナルのファンの「これが実写になったら・・・」という願望を適えるという点では、ベストの仕事をているのではないか。
アニメのイメージを壊さない忠実な実写化という点では、本作は過去に日本で作られた実写リメイク作品の中でもダントツによく出来ていると思う。
ただ・・・それが一本の映画として凄く面白いかというと、それはまた別の話だ。
ビジュアルやキャラクター同様に、この作品の場合物語の展開までもがテレビアニメ版を踏襲している。
上映時間のうち、最初の30分がキャラと世界観の紹介を兼ねた第一話、次の30分が毎週お馴染みのエピソード、最後の50分がいきなり拡大版最終回という構成で、良くも悪くもテレビ版の脚本を三つ合体させた様な作りになっていて、映画としての纏まりを決定的に欠いている。
30分番組なら、まずまず面白く観られたとしても、それをいくつか繋ぎ合わせた物が、2時間近く持つかというと、正直なところ微妙だ。
もっとも、本作の場合そんな作劇上の問題点は百も承知で、あえてテレビのテイストをそのまま残しているフシがある。
作品の狙いは、あくまでもテレビアニメの実写での忠実な再現で、要するにある種のコスプレショーであり、一般的な映画作りのセオリーとは、プライオリティが置かれている部分が異なるのだ。
故に、この作品は単体での評価が難しい。
コアターゲットとして狙っているのは、オリジナルをリアルタイムで観たアラフォー世代、そして現在放送中のリメイク版アニメシリーズを観ているその子供たちで、いずれにしてもアニメ版を知らない人は最初から考慮されていないと言っていい。
多分、オリジナルのアニメが好きな人は、最高とは言わないまでも、まずまず楽しい時間を過ごす事の出来る作品だろう。
反面オリジナルをまったく知らずに観に行く人にとっては、大金を掛けたおバカ映画に過ぎず、アニメ版を踏襲した妙なノリについて行けないと、寒すぎて引いてしまうのではないか。
個人的には、懐かしさもあって結構楽しかったのだけど、正直人に薦められるかと言われると、相手によるとしか言い様の無い作品なのである。
まあ映像は派手でよく出来ているし、どうしょうもなくくだらないギャグも、感覚が作品世界に馴染むとそれなりに笑えるから、誰が観ても退屈してしまうほどつまらなくは無いと思うのだけど。
さて、今回は事実上の主役であるドロンジョさまイメージのお酒を。
ドロンジョという名前は、元々オリジナルのボイスキャストである 小原乃梨子が吹き替えを担当していたフランスの女優、ミレーヌ・ドモンジョからとられているという。
という訳で、ドモンジョの出身地であるプロヴァンスのワイン、「グラン・ドメーヌ・スメール ロゼ 2007」をチョイス。
本来ドロンジョさまに似合うのは赤だと思うが、深キョンだともうちょっと軽いイメージでロゼ。
スッキリとしたやや辛口で、爽やかな果実香りを楽しめる。
しかし、続編は本気で期待して良いのかね・・・(笑

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2009年03月08日 (日) | 編集 |
ディズニーのお姫様女優からスタートして、最近では演技者として成長著しいアン・ハサウェイ主演のミステリー。
飛行機事故で、九死に一生を得た5人の「パッセンジャーズ(乗客)」を担当する事になった心理セラピスト。
しかし、彼らの記憶は食い違い、やがて一人、また一人と消えてゆく。
一体事故の裏にはどんな恐るべき秘密が隠されているのか、という設定を聞くとなかなか面白そうなのだが、実際の作品は何だか構成がおかしいぞ。
セラピストのクレア(アン・ハサウェイ)は、飛行機事故で生き残った5人のカウンセリングを担当する事に。
グループセラピーを開始すると、事故原因に関する彼らの記憶が食い違っている事がわかる。
航空会社の公式発表はパイロットの過失だったが、生き残った乗客の中には墜落直前に爆発を見たという者がいるのだ。
真実を明らかにしようとするクレアだったが、やがて患者たちが失踪し始める。
クレアは事故原因を隠蔽しようとする、航空会社の陰謀を疑うのだが・・・・
とにかく物語がなかなか前に進まない。
冒頭でいきなり飛行機事故が起こり、セラピストのクレアが呼ばれ、生き残った乗客たちとのグループセラピーを行う。
このセラピーを通じて浮かび上がってくる、事故原因の謎を巡るミステリと、生き残った5人の中で唯一グループセラピーを受けようとしない、エリックという青年との微妙なラブロマンスが平行に描かれる。
しかし、どちらも思わせぶりな状況描写だけが多くて、物語的な展開は恐ろしくスローテンポ。
ぶっちゃけ、上映が始まって一時間近く、何も起こらないのだ。
ロニー・クリステンセンの脚本は、まず何よりも重要なオチが結末にあって、そこに向かって謎を散りばめた物語が収束してゆくという手法をとっている。
それ自体は別に悪くないのだが、物語の大半を謎解きのヒントを配置してゆく事だけに費やし、登場人物の感情の流れがまったく停滞したままになってしまっている。
それゆえに、実質的に中身のない恋愛の駆け引きと、ゆるいセラピーの描写しかない前半は酷く退屈だ。
まあ後半、といっても全体の2/3が経過したあたりから、ようやく物語が動き出すと、それなりに面白くはなるのだが、肝心のオチはそれほど奇想天外なものでは無く、いざ謎解きが始まると直ぐに先が読めてしまう。
映画好きの人なら、観た後、或いは観ながら、同じようなオチの映画を、少なくとも3~4本は思い出すだろう。
聞くところによると、心理療法の世界には、患者に心理ドラマを演じさせる事で、自然に自分自身と向き合い心を解放させる、心理劇療法という物があるという。
おそらく本作のアイディアはそのあたりから来ているのだろうけど、残念ながらクリステンセンの脚本はアイディアを上手く物語りに昇華させられておらず、どんでん返しに繋げるために強引に当てはめたという無理やり感の強い物になってしまっており、実際オチが判明した後に思い返すと辻褄が合わない事ばかりだ。
この手のオチ命の映画は、謎の風呂敷を広げながら適度にヒントを置きつつ、ギリギリまで先を読ませずに、なおかつ適度に物語を進行させて観客を飽きさせないという、非常に高度な業物の脚本が必要なはずなのだが、正直なところこの作品の脚本はかなり弱い。
ロドリゴ・ガルシアの演出も、平坦な物語を盛り上げる取っ掛かりを見出せずに、どこか手持ち無沙汰な印象だ。
クライマックスの謎解きがまだ途中の段階で、完全ネタばれの描写を入れてしまうなど、演出意図も理解に苦しむ部分が多い。
そんな訳で、かなりユルユルな出来になってしまった「パッセンジャーズ」の救いは、主演のアン・ハサウェイのキュートさくらい。
今回は眼鏡っ娘萌えなシーンも一瞬あったり、相変わらずカワイイのだけど、役者としては掴みどころの無い役で、やりにくかっただろう。
初のオスカー候補になった「レイチェルの結婚」を楽しみに待ちたいと思う。
さて、今回はアン・ハサウェイの出世作にちなんでカクテル「プリンセス」をチョイス。
杏の蒸留酒であるアプリコット・ブランデーをグラスに注ぎ、ブランデーに対して1:3の比率で表面に生クリームを浮かせたシンプルな物。
個人的にはこれにレモンジュースを少し加えたものが好きだ。
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飛行機事故で、九死に一生を得た5人の「パッセンジャーズ(乗客)」を担当する事になった心理セラピスト。
しかし、彼らの記憶は食い違い、やがて一人、また一人と消えてゆく。
一体事故の裏にはどんな恐るべき秘密が隠されているのか、という設定を聞くとなかなか面白そうなのだが、実際の作品は何だか構成がおかしいぞ。
セラピストのクレア(アン・ハサウェイ)は、飛行機事故で生き残った5人のカウンセリングを担当する事に。
グループセラピーを開始すると、事故原因に関する彼らの記憶が食い違っている事がわかる。
航空会社の公式発表はパイロットの過失だったが、生き残った乗客の中には墜落直前に爆発を見たという者がいるのだ。
真実を明らかにしようとするクレアだったが、やがて患者たちが失踪し始める。
クレアは事故原因を隠蔽しようとする、航空会社の陰謀を疑うのだが・・・・
とにかく物語がなかなか前に進まない。
冒頭でいきなり飛行機事故が起こり、セラピストのクレアが呼ばれ、生き残った乗客たちとのグループセラピーを行う。
このセラピーを通じて浮かび上がってくる、事故原因の謎を巡るミステリと、生き残った5人の中で唯一グループセラピーを受けようとしない、エリックという青年との微妙なラブロマンスが平行に描かれる。
しかし、どちらも思わせぶりな状況描写だけが多くて、物語的な展開は恐ろしくスローテンポ。
ぶっちゃけ、上映が始まって一時間近く、何も起こらないのだ。
ロニー・クリステンセンの脚本は、まず何よりも重要なオチが結末にあって、そこに向かって謎を散りばめた物語が収束してゆくという手法をとっている。
それ自体は別に悪くないのだが、物語の大半を謎解きのヒントを配置してゆく事だけに費やし、登場人物の感情の流れがまったく停滞したままになってしまっている。
それゆえに、実質的に中身のない恋愛の駆け引きと、ゆるいセラピーの描写しかない前半は酷く退屈だ。
まあ後半、といっても全体の2/3が経過したあたりから、ようやく物語が動き出すと、それなりに面白くはなるのだが、肝心のオチはそれほど奇想天外なものでは無く、いざ謎解きが始まると直ぐに先が読めてしまう。
映画好きの人なら、観た後、或いは観ながら、同じようなオチの映画を、少なくとも3~4本は思い出すだろう。
聞くところによると、心理療法の世界には、患者に心理ドラマを演じさせる事で、自然に自分自身と向き合い心を解放させる、心理劇療法という物があるという。
おそらく本作のアイディアはそのあたりから来ているのだろうけど、残念ながらクリステンセンの脚本はアイディアを上手く物語りに昇華させられておらず、どんでん返しに繋げるために強引に当てはめたという無理やり感の強い物になってしまっており、実際オチが判明した後に思い返すと辻褄が合わない事ばかりだ。
この手のオチ命の映画は、謎の風呂敷を広げながら適度にヒントを置きつつ、ギリギリまで先を読ませずに、なおかつ適度に物語を進行させて観客を飽きさせないという、非常に高度な業物の脚本が必要なはずなのだが、正直なところこの作品の脚本はかなり弱い。
ロドリゴ・ガルシアの演出も、平坦な物語を盛り上げる取っ掛かりを見出せずに、どこか手持ち無沙汰な印象だ。
クライマックスの謎解きがまだ途中の段階で、完全ネタばれの描写を入れてしまうなど、演出意図も理解に苦しむ部分が多い。
そんな訳で、かなりユルユルな出来になってしまった「パッセンジャーズ」の救いは、主演のアン・ハサウェイのキュートさくらい。
今回は眼鏡っ娘萌えなシーンも一瞬あったり、相変わらずカワイイのだけど、役者としては掴みどころの無い役で、やりにくかっただろう。
初のオスカー候補になった「レイチェルの結婚」を楽しみに待ちたいと思う。
さて、今回はアン・ハサウェイの出世作にちなんでカクテル「プリンセス」をチョイス。
杏の蒸留酒であるアプリコット・ブランデーをグラスに注ぎ、ブランデーに対して1:3の比率で表面に生クリームを浮かせたシンプルな物。
個人的にはこれにレモンジュースを少し加えたものが好きだ。

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2009年03月04日 (水) | 編集 |
国名そのものをタイトルにした映画というのは、極めて珍しいのではないかと思う。
オーストラリア出身のバズ・ラーマン監督が、同じくオーストラリア出身のニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンを主演に迎え、その他のメインキャストやスタッフもほぼオーストラリア出身者で固めた究極の郷土LOVE映画、その名も「オーストラリア」!!
総製作費1億3千万ドル、上映時間2時間45分に及ぶ超大作だが、本国オーストラリアでは健闘したものの、最大マーケットのアメリカでは残念ながら大コケし、批評的にもいまひとつだったため、オスカー戦線では早々に忘れ去られてしまった。
だが、少々とっ散らかった印象はあるものの、バズ・ラーマンらしい外連味たっぷりのスペクタクルな映像も楽しく、出来はそんなに悪く無い。
1939年。
第二次世界大戦前夜のオーストラリア。
イギリスの貴族、アシュレイ卿の婦人であるサラ・アシュレイ(二コール・キッドマン)は夫を探すために北西部の町ダーウィンに降り立つ。
案内人であるカウボーイのドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)と共に、内陸部にある領地ファラウェイダウンズを目指すサラ。
ところが到着した時には、夫は既に何者かに殺されていた。
ファラウェイダウンズは北西部を支配する食肉王カーニー(ブライアン・ブラウン)に狙われており、唯一の希望は所有する1500頭の牛を期限までにダーウィンまで運び、軍に納入して資金を獲得する事。
サラはドローヴァーやアボリジニの少年ナラ(ブランドン・ウォルターズ)ら6人の仲間と共に、牛を追いながら遥かダーウィンを目指す旅に出る。
彼らの動向を察知したカーニーは、腹心のフレッチャー(デヴィッド・ウェンハム)を使って卑劣な妨害工作に出るのだが・・・
どこまでも広がる荒野、荒くれカウボーイに大地を埋め尽くす牛の群れ、ミステリアスな先住民族、そして迫りくる戦争の嵐。
バズ・ラーマンは、この壮大かつてんこ盛りのモチーフを背景に、オーストラリアという存在を象徴するような、スペクタクルなラブ・ロマンスを構築しようとした様だ。
要するに、これはラーマン版の「風と共に去りぬ」である。
一人の女性の燃える様な恋を通して、アメリカ南部そのものを描いてみせたあの映画を換骨奪胎し、裕福な貴族夫人の二コール・キッドマンがスカーレット・オハラで、一箇所に留まれない無骨な風来坊、ヒュー・ジャックマンがレット・バトラー、背景となる南北戦争が太平洋戦争に、クライマックスのアトランタ炎上が日本軍によるダーウィン空襲になったと思えばいい。
面白いのは、「風と共に去りぬ」と同じ年に作られた「オズの魔法使い」が、劇中で繰り返し引用されている事で、これまたある種のファンタジー・ロードムービーでもある本作のベースと見ることが出来る。
ちょうど本作の舞台となる1939年に、ヴィクター・フレミング監督が世に送り出した、この歴史的な2本の作品(「風と共に去りぬ」には複数の監督がいたのは周知の事実だが)を、ラーマン流にアレンジして再構成した物が、「オーストラリア」なのかも知れない。
ただ、3時間を切る上映時間にあれもこれもと詰め込んでいるためか、物語はやや大味な印象を受ける。
本作はナラというストーリーテラーがいるものの、実際には終始英国からオーストラリアにやってきたサラ目線で描かれ、いわばサラによる「オーストラリア体験記」だ。
前半は困難に直面しながらもダーウィンに牛を届け、カーニーの鼻を明かす西部劇風ロードムービーで、後半は恋に落ちたサラとドローヴァーが、すれ違いながらもお互いの人生に正直に向き合うまでを描くラブロマンスという、事実上の二部構成となっており、ここに戦争スペクタクルと、オーストラリア政府による先住民族アボリジニ迫害の歴史が絡む。
アボリジニのスピリチュアルな世界観を、ファンタジー的な味わいに使っているのは面白いが、それがストレートにサラの物語と絡む訳でもなく、オーストラリア史の暗部とも言うべき社会的なテーマを深く描いている訳でもない。
要するに全てはサラのロマンスと人間的な成長の糧という位置付けで、この辺りも「風と共に去りぬ」なのだが、肝心のサラの心の成長がいま一つ感じられないのが残念だ。
ドローヴァーとの恋の顛末はともかく、結局のところオーストラリア流、というかアボリジニ流の生き方を受け入れただけで終わってしまい、物語を通した主人公の変化、あるいは成長の跡は乏しいと言わざるを得ない。
映画のビジュアル的なクライマックスは、1942年2月19日の日本軍によるダーウィン空襲だが、映画で描写されたのはもしかして初めてではないだろうか。
オーストラリアは1942年から43年にかけて、日本軍による本土攻撃を繰り返し受けたが、ハリウッド映画でも日本映画でもめったに描かれる事が無い、というか一方の当事者である日本ですらほとんど忘れられている戦争である。
オーストラリアという国は一大陸一国家という極めて稀な地政学的な条件もあって、建国以来外敵の攻撃はおろか周辺に明確な仮想敵国すら存在しなかったために、日本軍による本土攻撃は強烈なインパクトがあった様で、私もオーストラリアに行った時にオージーにこの件に関して日本での歴史見解を聞かれ、不勉強のためにろくに答えられなかった記憶がある。
もっとも、映画ではこのあたりの顛末もスペクタクルな戦闘描写以上に深く描かれる事は無く、考証的にもかなりいい加減。
何しろ日本軍が本土間近の島に上陸して、地上戦まで行ってしまうのだ。
戦争描写も、基本的にはこの映画に盛り込まれた様々なモチーフと同じく、サラとドローヴァーに降りかかる試練の一つ、要するに「オズの魔法使い」の竜巻の様な物に過ぎないのである。
「オーストラリア」は、アボリジニ関連の描写も含めて、決して深く正確に史実を描写した映画ではなく、イギリス生まれの一人の女性が、彼女の中のオーストラリアを発見する、寓話的なファンタジーだ。
歴史物と考えればいろいろと突っ込み所も多いが、バズ・ラーマンの作家映画と考えればこれはこれでアリだろうし、私は結構面白く観る事が出来た。
ただ作者の資質を考えると、むしろもっとぶっ飛ばして、オーストラリアの持つイメージをひたすらカリカチュアした世界観にしてしまった方が、魅力的な映画になった様な気がする。
サイケデリックという言葉を思い浮かべるほど、虚構の世界を徹底的に構築した「ムーラン・ルージュ」が、本物よりも魅力的でロマンチックな「パリ」を見事に描き出していたように。
あるいは、アボリジニのナラのストーリーテラーとしての役割をもっと明確にして、完全に彼の語る「物語」として全体を構成しても良かった。
現状はナラ目線とサラ目線が入り混じり、ナラの位置づけがちょっと中途半端だ。
全体を流れる隠れテーマである、ラーマンにとっての物語論としてはその方がスッキリしたのではないだろうか。
さて、オーストラリアといえば、現在ではワイン大国だったりするのだが、元々この国でもっともポピュラーな酒といえばラムだったという。
18世紀末の流刑移民時代初期には、ラムが通貨の代わりとしても流通したと言われ、1806年には英国から着任したウィリアム・ブライ総督が、ラムの取引を規制しようとした事から、軍の反乱まで起こっているのだから、どれほど重要な物だったのかがわかる。
映画の中でも、ラムが印象的な小道具として用いられれているのは、こうした歴史的な背景があるのだ。
今回は現在のオーストラリアを代表するラム、「バンダバーグ(Bundaberg Rum)」 をチョイス。
長い歳月のうちに、ラムの消費が低迷していたオーストラリアで、ラム復活のきっかけになったのがこのバンダバーグ。
残念ながら日本では公式には未発売だが、白熊バンディのラベルで知られるバンダバーグは、オーストラリア以外でも手に入る国は多いので、見かけたらお試しあれ。
クセはなく、とても口当たりは柔らかいのだが、ほのかな甘みと旨みが口に広がる。
お勧めはオージーが大好きなコーラ割り。
オーストラリアに行くと、割られた状態でボトリングされているのだが、もちろん自分で割っても良い。
http://www.bundabergrum.com.au
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オーストラリア出身のバズ・ラーマン監督が、同じくオーストラリア出身のニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンを主演に迎え、その他のメインキャストやスタッフもほぼオーストラリア出身者で固めた究極の郷土LOVE映画、その名も「オーストラリア」!!
総製作費1億3千万ドル、上映時間2時間45分に及ぶ超大作だが、本国オーストラリアでは健闘したものの、最大マーケットのアメリカでは残念ながら大コケし、批評的にもいまひとつだったため、オスカー戦線では早々に忘れ去られてしまった。
だが、少々とっ散らかった印象はあるものの、バズ・ラーマンらしい外連味たっぷりのスペクタクルな映像も楽しく、出来はそんなに悪く無い。
1939年。
第二次世界大戦前夜のオーストラリア。
イギリスの貴族、アシュレイ卿の婦人であるサラ・アシュレイ(二コール・キッドマン)は夫を探すために北西部の町ダーウィンに降り立つ。
案内人であるカウボーイのドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)と共に、内陸部にある領地ファラウェイダウンズを目指すサラ。
ところが到着した時には、夫は既に何者かに殺されていた。
ファラウェイダウンズは北西部を支配する食肉王カーニー(ブライアン・ブラウン)に狙われており、唯一の希望は所有する1500頭の牛を期限までにダーウィンまで運び、軍に納入して資金を獲得する事。
サラはドローヴァーやアボリジニの少年ナラ(ブランドン・ウォルターズ)ら6人の仲間と共に、牛を追いながら遥かダーウィンを目指す旅に出る。
彼らの動向を察知したカーニーは、腹心のフレッチャー(デヴィッド・ウェンハム)を使って卑劣な妨害工作に出るのだが・・・
どこまでも広がる荒野、荒くれカウボーイに大地を埋め尽くす牛の群れ、ミステリアスな先住民族、そして迫りくる戦争の嵐。
バズ・ラーマンは、この壮大かつてんこ盛りのモチーフを背景に、オーストラリアという存在を象徴するような、スペクタクルなラブ・ロマンスを構築しようとした様だ。
要するに、これはラーマン版の「風と共に去りぬ」である。
一人の女性の燃える様な恋を通して、アメリカ南部そのものを描いてみせたあの映画を換骨奪胎し、裕福な貴族夫人の二コール・キッドマンがスカーレット・オハラで、一箇所に留まれない無骨な風来坊、ヒュー・ジャックマンがレット・バトラー、背景となる南北戦争が太平洋戦争に、クライマックスのアトランタ炎上が日本軍によるダーウィン空襲になったと思えばいい。
面白いのは、「風と共に去りぬ」と同じ年に作られた「オズの魔法使い」が、劇中で繰り返し引用されている事で、これまたある種のファンタジー・ロードムービーでもある本作のベースと見ることが出来る。
ちょうど本作の舞台となる1939年に、ヴィクター・フレミング監督が世に送り出した、この歴史的な2本の作品(「風と共に去りぬ」には複数の監督がいたのは周知の事実だが)を、ラーマン流にアレンジして再構成した物が、「オーストラリア」なのかも知れない。
ただ、3時間を切る上映時間にあれもこれもと詰め込んでいるためか、物語はやや大味な印象を受ける。
本作はナラというストーリーテラーがいるものの、実際には終始英国からオーストラリアにやってきたサラ目線で描かれ、いわばサラによる「オーストラリア体験記」だ。
前半は困難に直面しながらもダーウィンに牛を届け、カーニーの鼻を明かす西部劇風ロードムービーで、後半は恋に落ちたサラとドローヴァーが、すれ違いながらもお互いの人生に正直に向き合うまでを描くラブロマンスという、事実上の二部構成となっており、ここに戦争スペクタクルと、オーストラリア政府による先住民族アボリジニ迫害の歴史が絡む。
アボリジニのスピリチュアルな世界観を、ファンタジー的な味わいに使っているのは面白いが、それがストレートにサラの物語と絡む訳でもなく、オーストラリア史の暗部とも言うべき社会的なテーマを深く描いている訳でもない。
要するに全てはサラのロマンスと人間的な成長の糧という位置付けで、この辺りも「風と共に去りぬ」なのだが、肝心のサラの心の成長がいま一つ感じられないのが残念だ。
ドローヴァーとの恋の顛末はともかく、結局のところオーストラリア流、というかアボリジニ流の生き方を受け入れただけで終わってしまい、物語を通した主人公の変化、あるいは成長の跡は乏しいと言わざるを得ない。
映画のビジュアル的なクライマックスは、1942年2月19日の日本軍によるダーウィン空襲だが、映画で描写されたのはもしかして初めてではないだろうか。
オーストラリアは1942年から43年にかけて、日本軍による本土攻撃を繰り返し受けたが、ハリウッド映画でも日本映画でもめったに描かれる事が無い、というか一方の当事者である日本ですらほとんど忘れられている戦争である。
オーストラリアという国は一大陸一国家という極めて稀な地政学的な条件もあって、建国以来外敵の攻撃はおろか周辺に明確な仮想敵国すら存在しなかったために、日本軍による本土攻撃は強烈なインパクトがあった様で、私もオーストラリアに行った時にオージーにこの件に関して日本での歴史見解を聞かれ、不勉強のためにろくに答えられなかった記憶がある。
もっとも、映画ではこのあたりの顛末もスペクタクルな戦闘描写以上に深く描かれる事は無く、考証的にもかなりいい加減。
何しろ日本軍が本土間近の島に上陸して、地上戦まで行ってしまうのだ。
戦争描写も、基本的にはこの映画に盛り込まれた様々なモチーフと同じく、サラとドローヴァーに降りかかる試練の一つ、要するに「オズの魔法使い」の竜巻の様な物に過ぎないのである。
「オーストラリア」は、アボリジニ関連の描写も含めて、決して深く正確に史実を描写した映画ではなく、イギリス生まれの一人の女性が、彼女の中のオーストラリアを発見する、寓話的なファンタジーだ。
歴史物と考えればいろいろと突っ込み所も多いが、バズ・ラーマンの作家映画と考えればこれはこれでアリだろうし、私は結構面白く観る事が出来た。
ただ作者の資質を考えると、むしろもっとぶっ飛ばして、オーストラリアの持つイメージをひたすらカリカチュアした世界観にしてしまった方が、魅力的な映画になった様な気がする。
サイケデリックという言葉を思い浮かべるほど、虚構の世界を徹底的に構築した「ムーラン・ルージュ」が、本物よりも魅力的でロマンチックな「パリ」を見事に描き出していたように。
あるいは、アボリジニのナラのストーリーテラーとしての役割をもっと明確にして、完全に彼の語る「物語」として全体を構成しても良かった。
現状はナラ目線とサラ目線が入り混じり、ナラの位置づけがちょっと中途半端だ。
全体を流れる隠れテーマである、ラーマンにとっての物語論としてはその方がスッキリしたのではないだろうか。
さて、オーストラリアといえば、現在ではワイン大国だったりするのだが、元々この国でもっともポピュラーな酒といえばラムだったという。
18世紀末の流刑移民時代初期には、ラムが通貨の代わりとしても流通したと言われ、1806年には英国から着任したウィリアム・ブライ総督が、ラムの取引を規制しようとした事から、軍の反乱まで起こっているのだから、どれほど重要な物だったのかがわかる。
映画の中でも、ラムが印象的な小道具として用いられれているのは、こうした歴史的な背景があるのだ。
今回は現在のオーストラリアを代表するラム、「バンダバーグ(Bundaberg Rum)」 をチョイス。
長い歳月のうちに、ラムの消費が低迷していたオーストラリアで、ラム復活のきっかけになったのがこのバンダバーグ。
残念ながら日本では公式には未発売だが、白熊バンディのラベルで知られるバンダバーグは、オーストラリア以外でも手に入る国は多いので、見かけたらお試しあれ。
クセはなく、とても口当たりは柔らかいのだが、ほのかな甘みと旨みが口に広がる。
お勧めはオージーが大好きなコーラ割り。
オーストラリアに行くと、割られた状態でボトリングされているのだが、もちろん自分で割っても良い。
http://www.bundabergrum.com.au

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