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2009年03月31日 (火) | 編集 |
ちょうど20年前に、原作を読んだときの衝撃は忘れられない。
アラン・ムーア原作、ディヴ・ギボンズ作画による「ウォッチメン」は、フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」と共に、長らくマンネリ化していたアメコミの世界に革命をもたらした傑作である。
今回、映画化を手がけるのは、フランク・ミラーの「300 スリーハンドレッド」を、原作を上回る強烈なビジュアルで映像化した俊英ザック・スナイダー。
史実をベースとし、ストーリーラインのシンプルな「300 スリーハンドレッド」に対して、こちらはいわば現実世界をさらに混沌とさせたパラレルワールドを舞台にしたミステリアスなハードボイルド。
映画化が待望されていた作品であり、スナイダーにとっても映画作家としての真価が問われる作品だったが、結果的に言えば高すぎる期待に十二分に答えたと言えるだろう。
嘗て実在したスーパーヒーローたちが、活動を禁止されたもう一つの1985年。
コメディアンという名前で知られた元ヒーローのエドワード・ブレイク(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自宅で殺害される。
非合法に活動を続けているロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、この事件が何者かによるヒーロー狩りなのではないかと睨み、元ナイトオウル二世のダニエル(パトリック・ウィルソン)や、元二代目シルクスペクターのローリー(マリン・アッカーマン)ら嘗ての仲間たちに警告を発する。
ちょうどその頃、ローリーの恋人で超人的な力を持つDr.マンハッタン(ビリー・クラダップ)は、来るべき米ソの核戦争を止めるために、新たなるエネルギーを作り出そうとしていた。
元オジマンディアスというヒーローで巨万の富を持つヴェイト(マシュー・グード)は、南極の基地でDr.マンハッタンの力を再現しようと試みるのだが・・・
物語の翌年に当たる、1986年から執筆された「ウォッチメン」は、当時のアメコミの世界における「爆弾」だっただけではなく、SF文学、ハリウッド映画、あるいは当時既に大人の芸術として開花していた日欧のコミック界にも多大な影響を与えた。
所詮マンネリ化した子供の読み物という位置付けだったアメコミは、この時代以降再び世界のサブカルチャーの重要なカテゴリとして再浮上する。
もしもヒーローが実在する世界があったら、というifのSFという発想は多くのフォロワーを生み、最近でもピクサーの「Mr.インクレディブル」やテレビシリーズの「HEROES/ヒーローズ」、あるいは浦沢直樹のコミック「PLUTO」などにも、様々な形で「ウォッチメン」の影が見え隠れしている。
もっとも、登場そのものが大きな事件であった「ウォッチメン」という作品を、簡単に説明する事は、不可能に近い。
なぜならここに描かれている内容は、歴史から哲学に至るまで、極めて広範囲で多岐に及んでいるからだ。
ザック・スナイダーは原作の持つ世界観をかなり忠実に再現しつつ、映画的なビジュアルを駆使して、三時間近い上映時間をまったく飽きさせない。
物語的には細部に脚色はあるものの、時代設定も含めてほぼそのままだが、物語と現実がリアルタイムにリンクしていた原作とは異なり、映画は20年の時を隔てて虚構の過去を俯瞰することで、原作とは異なる視点を獲得している。
舞台となるのは、現実とはほんの少しずれた、パラレルワールドの1980年代。
この世界ではニクソンが五期目の大統領職(現実の合衆国大統領は二期まで)にあり、アメリカはベトナムに勝利し、アフガニスタンを巡り、ソ連との全面核戦争の瀬戸際にある。
またこの世界のアメリカは、嘗てスーパーヒーローたちが実在して活躍した歴史を持つが、彼ら「覆面自警団」の活動はキーン条例という法律によって規制されている。
ミニッツメン、後にウォッチメン(監視者)と呼ばれたヒーローたちは、多くは常人以上の身体能力と特殊な武器を持つものの普通の人間だが、唯一核施設の事故によって、肉体を分解され再生したDR.マンハッタンだけは正真正銘の不死身の超人で、少しずつ人間性そのものを失いつつあるという設定だ。
ここでは世界観、キャラクター、物語全てに、我々が現実に生きている世界のメタファーが散りばめられ、それらの複雑な相互作用によって、世界の本質の一面を描き出そうとしているのである。
核戦争へのカウントダウンを示す、終末時計の午前零時が目前に迫り、社会は退廃し、誰もが疑心暗鬼となる「ウォッチメン」の世界は、恐れと不安によって人々が支配され、それは嘗てのスーパーヒーローたちも例外ではない。
元ヒーローである登場人物たちは、それぞれがバットマンやワンダーウーマン、スーパーマンなどの良く知られたコミックヒーローのイメージを投影されており、明確な個性によりメタファーとしての役割を持つ。
最初に殺害されるコメディアンは、力の信奉者であり、正義を語りながら平然と残虐な行為をする。
彼はベトナム以降、アメリカ人自身から存在意義に疑問符が付けられた、力による正義の象徴だろう。
対照的に、素直と言えば素直だが、子供っぽい正義感を持つナイトオウル二世は、いわば自信を失ったアメリカの良心。
唯一本物の超人であるDr.マンハッタンは、核による恐怖の均衡を破壊した制御不能の怪物であり、ある意味で核時代の神でもある事はルックスからも、物語上のポジションからも明らかだ。
Dr.マンハッタンの恋人で、彼とナイトオウル二世の間で揺れ動く二代目シルクスペクターは、Dr.マンハッタンから彼女の存在自体が「奇跡」の象徴と定義される。
そして物語の語り部でもあり、心理テストの名を持つロールシャッハは、その名の通りにこの物語が観る者の視点によって様々な顔を見せる事を表現しているのだろう。
彼ら元ヒーローたちは、一見するとそれぞれの事象の単純なメタファーに見えるが、彼らが物語のなかで共鳴しあい、影響しあう事で重層的で奥深い世界を形作るのである。
その構造を象徴するのが、物語のまとめ役とも言えるヴェイトの存在だろう。
彼とDr.マンハッタンのもたらす究極の決断自体が、それまでのアメコミの常識からすれば相当にぶっ飛んでいるのだが、それだけならまだ驚きには値しない。
実際には、彼らの作り出した結果に対する作品の視点そのものが、「ウォッチメン」が凡百のSFドラマとは別次元の作品である事を示しているのである。
厭世的な世界観、正義という概念に対する明らかな疑念から、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」と比べる向きもあるようだが、あちらが正に2008年のアメリカの世界観をストレートに反映させた作品であるのに対し、こちらは虚構の1980年代という舞台装置を使い、ワンクッション置く事で、観る者に現在を振り返って考えさせる作りになっている。
その分、心の中心に切り込まれる様な鮮烈さでは「ダークナイト」に及ばないが、ロールシャッハテストの様に、観るたびに異なるイメージを見せてくれそうな混沌とした世界は、何度も浸りたくなるような独特の魅力がある。
恐らく、原作共々カルトシネマとして後世に残る作品だろう。
まあ細かい点を言えば、そもそも何故ロールシャッハは一人しか殺されてない時点でヒーロー狩りという突飛な発想をしたのか、などの原作から受け継がれたプロット上の疑問点も無くはないのだが、これは映画の責任ではあるまい。
「ウォッチメン」は、原作読者にも十二分な満足感を与えてくれる傑作だが、原作がアメコミという事でお気楽ヒーロー物だと思って観賞すると、恐らく戸惑いしか残らないだろう。
R-15指定なので、子連れで観賞する人はいないだろうが、これはあくまでも大人のための、残酷で知的な娯楽映画である。
それにしてもザック・スナイダーは、これでフランク・ミラーとアラン・ムーアをこれ以上無い形で描き切った訳で、残るはホロコーストを描いたスピーゲルマンの問題作「マウス」あたりか。
日本のコミックに手を出しても面白そうだ。
「ダークナイト・リターンズ」は、個人的にはクリストファー・ノーランに残しておいて欲しいな。
今回はメタファーが満載な内容に相応しい酒を。
アルファベットの最後の三文字を使った「XYZ」は、後に続く物は何も無いという、その名が象徴する様に、〆の一杯として最適だ。
ライト・ラム、コアントロー、レモンジュースを4:1:1の比率でシェイクし、グラスに注ぐ。
コアントローの甘みとレモンジュースの酸味がラムと上手くバランスし、映画の後味をきれいに纏めてくれるだろう。
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原作も待望の復刻
アラン・ムーア原作、ディヴ・ギボンズ作画による「ウォッチメン」は、フランク・ミラーの「ダークナイト・リターンズ」と共に、長らくマンネリ化していたアメコミの世界に革命をもたらした傑作である。
今回、映画化を手がけるのは、フランク・ミラーの「300 スリーハンドレッド」を、原作を上回る強烈なビジュアルで映像化した俊英ザック・スナイダー。
史実をベースとし、ストーリーラインのシンプルな「300 スリーハンドレッド」に対して、こちらはいわば現実世界をさらに混沌とさせたパラレルワールドを舞台にしたミステリアスなハードボイルド。
映画化が待望されていた作品であり、スナイダーにとっても映画作家としての真価が問われる作品だったが、結果的に言えば高すぎる期待に十二分に答えたと言えるだろう。
嘗て実在したスーパーヒーローたちが、活動を禁止されたもう一つの1985年。
コメディアンという名前で知られた元ヒーローのエドワード・ブレイク(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自宅で殺害される。
非合法に活動を続けているロールシャッハ(ジャッキー・アール・ヘイリー)は、この事件が何者かによるヒーロー狩りなのではないかと睨み、元ナイトオウル二世のダニエル(パトリック・ウィルソン)や、元二代目シルクスペクターのローリー(マリン・アッカーマン)ら嘗ての仲間たちに警告を発する。
ちょうどその頃、ローリーの恋人で超人的な力を持つDr.マンハッタン(ビリー・クラダップ)は、来るべき米ソの核戦争を止めるために、新たなるエネルギーを作り出そうとしていた。
元オジマンディアスというヒーローで巨万の富を持つヴェイト(マシュー・グード)は、南極の基地でDr.マンハッタンの力を再現しようと試みるのだが・・・
物語の翌年に当たる、1986年から執筆された「ウォッチメン」は、当時のアメコミの世界における「爆弾」だっただけではなく、SF文学、ハリウッド映画、あるいは当時既に大人の芸術として開花していた日欧のコミック界にも多大な影響を与えた。
所詮マンネリ化した子供の読み物という位置付けだったアメコミは、この時代以降再び世界のサブカルチャーの重要なカテゴリとして再浮上する。
もしもヒーローが実在する世界があったら、というifのSFという発想は多くのフォロワーを生み、最近でもピクサーの「Mr.インクレディブル」やテレビシリーズの「HEROES/ヒーローズ」、あるいは浦沢直樹のコミック「PLUTO」などにも、様々な形で「ウォッチメン」の影が見え隠れしている。
もっとも、登場そのものが大きな事件であった「ウォッチメン」という作品を、簡単に説明する事は、不可能に近い。
なぜならここに描かれている内容は、歴史から哲学に至るまで、極めて広範囲で多岐に及んでいるからだ。
ザック・スナイダーは原作の持つ世界観をかなり忠実に再現しつつ、映画的なビジュアルを駆使して、三時間近い上映時間をまったく飽きさせない。
物語的には細部に脚色はあるものの、時代設定も含めてほぼそのままだが、物語と現実がリアルタイムにリンクしていた原作とは異なり、映画は20年の時を隔てて虚構の過去を俯瞰することで、原作とは異なる視点を獲得している。
舞台となるのは、現実とはほんの少しずれた、パラレルワールドの1980年代。
この世界ではニクソンが五期目の大統領職(現実の合衆国大統領は二期まで)にあり、アメリカはベトナムに勝利し、アフガニスタンを巡り、ソ連との全面核戦争の瀬戸際にある。
またこの世界のアメリカは、嘗てスーパーヒーローたちが実在して活躍した歴史を持つが、彼ら「覆面自警団」の活動はキーン条例という法律によって規制されている。
ミニッツメン、後にウォッチメン(監視者)と呼ばれたヒーローたちは、多くは常人以上の身体能力と特殊な武器を持つものの普通の人間だが、唯一核施設の事故によって、肉体を分解され再生したDR.マンハッタンだけは正真正銘の不死身の超人で、少しずつ人間性そのものを失いつつあるという設定だ。
ここでは世界観、キャラクター、物語全てに、我々が現実に生きている世界のメタファーが散りばめられ、それらの複雑な相互作用によって、世界の本質の一面を描き出そうとしているのである。
核戦争へのカウントダウンを示す、終末時計の午前零時が目前に迫り、社会は退廃し、誰もが疑心暗鬼となる「ウォッチメン」の世界は、恐れと不安によって人々が支配され、それは嘗てのスーパーヒーローたちも例外ではない。
元ヒーローである登場人物たちは、それぞれがバットマンやワンダーウーマン、スーパーマンなどの良く知られたコミックヒーローのイメージを投影されており、明確な個性によりメタファーとしての役割を持つ。
最初に殺害されるコメディアンは、力の信奉者であり、正義を語りながら平然と残虐な行為をする。
彼はベトナム以降、アメリカ人自身から存在意義に疑問符が付けられた、力による正義の象徴だろう。
対照的に、素直と言えば素直だが、子供っぽい正義感を持つナイトオウル二世は、いわば自信を失ったアメリカの良心。
唯一本物の超人であるDr.マンハッタンは、核による恐怖の均衡を破壊した制御不能の怪物であり、ある意味で核時代の神でもある事はルックスからも、物語上のポジションからも明らかだ。
Dr.マンハッタンの恋人で、彼とナイトオウル二世の間で揺れ動く二代目シルクスペクターは、Dr.マンハッタンから彼女の存在自体が「奇跡」の象徴と定義される。
そして物語の語り部でもあり、心理テストの名を持つロールシャッハは、その名の通りにこの物語が観る者の視点によって様々な顔を見せる事を表現しているのだろう。
彼ら元ヒーローたちは、一見するとそれぞれの事象の単純なメタファーに見えるが、彼らが物語のなかで共鳴しあい、影響しあう事で重層的で奥深い世界を形作るのである。
その構造を象徴するのが、物語のまとめ役とも言えるヴェイトの存在だろう。
彼とDr.マンハッタンのもたらす究極の決断自体が、それまでのアメコミの常識からすれば相当にぶっ飛んでいるのだが、それだけならまだ驚きには値しない。
実際には、彼らの作り出した結果に対する作品の視点そのものが、「ウォッチメン」が凡百のSFドラマとは別次元の作品である事を示しているのである。
厭世的な世界観、正義という概念に対する明らかな疑念から、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」と比べる向きもあるようだが、あちらが正に2008年のアメリカの世界観をストレートに反映させた作品であるのに対し、こちらは虚構の1980年代という舞台装置を使い、ワンクッション置く事で、観る者に現在を振り返って考えさせる作りになっている。
その分、心の中心に切り込まれる様な鮮烈さでは「ダークナイト」に及ばないが、ロールシャッハテストの様に、観るたびに異なるイメージを見せてくれそうな混沌とした世界は、何度も浸りたくなるような独特の魅力がある。
恐らく、原作共々カルトシネマとして後世に残る作品だろう。
まあ細かい点を言えば、そもそも何故ロールシャッハは一人しか殺されてない時点でヒーロー狩りという突飛な発想をしたのか、などの原作から受け継がれたプロット上の疑問点も無くはないのだが、これは映画の責任ではあるまい。
「ウォッチメン」は、原作読者にも十二分な満足感を与えてくれる傑作だが、原作がアメコミという事でお気楽ヒーロー物だと思って観賞すると、恐らく戸惑いしか残らないだろう。
R-15指定なので、子連れで観賞する人はいないだろうが、これはあくまでも大人のための、残酷で知的な娯楽映画である。
それにしてもザック・スナイダーは、これでフランク・ミラーとアラン・ムーアをこれ以上無い形で描き切った訳で、残るはホロコーストを描いたスピーゲルマンの問題作「マウス」あたりか。
日本のコミックに手を出しても面白そうだ。
「ダークナイト・リターンズ」は、個人的にはクリストファー・ノーランに残しておいて欲しいな。
今回はメタファーが満載な内容に相応しい酒を。
アルファベットの最後の三文字を使った「XYZ」は、後に続く物は何も無いという、その名が象徴する様に、〆の一杯として最適だ。
ライト・ラム、コアントロー、レモンジュースを4:1:1の比率でシェイクし、グラスに注ぐ。
コアントローの甘みとレモンジュースの酸味がラムと上手くバランスし、映画の後味をきれいに纏めてくれるだろう。

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原作も待望の復刻
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