酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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グラン・トリノ・・・・・評価額1800円
2009年04月28日 (火) | 編集 |
どんなに巨匠と言われる映画作家でも晩年は創作ペースが鈍るものだし、作品のクオリティも最盛期には及ばない場合が殆どだ。
ヒッチコックも黒澤も、この法則を覆すことは出来なかった。
ところがここに、脅威の78歳がいる。
2000年5月に70歳を過ぎてから、発表した監督作品が10本。
毎年1本以上のペースで作品を作り続けており、そのうちの三作品の七部門で自身がオスカーにノミネートされ、二部門で受賞しているのだから、この歳にして全盛期を迎えていると言って良いだろう。
つい先日も「チェンジリング」という素晴らしい作品が公開されたばかりだが、ちょうど30本目の劇場用映画監督作となる「グラン・トリノ」は、一体何をどうすればこれほどの作品を連発出来るのか、彼の頭の中を覗いてみたくなるくらいだ。
「ミリオンダラー・ベイビー」以来4年ぶりの主演作でもあるが、これは正に映画監督・俳優クリント・イーストウッドの集大成。
世の中に必見の映画というのは決して多くは無いが、これは間違いなくその一本だ。

長年連れ添った妻を亡くしたウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、いまやすっかりアジア人の街となった地元の一軒家で隠居暮らしをしている。
独立した息子や孫たちとは折り合いが悪く、親しい友も無く孤独な日々。
妻の残した犬のディジーと、ピカピカに磨き上げられた1972年型フォード・グラン・トリノだけが彼が心を許す友達だ。
ある夜、ウォルトはグラン・トリノを盗もうと、ガレージに忍び込んだ泥棒を捕まえるが、それは隣家に住むアジア系移民、モン族の少年タオ(ビー・バン)だった。
彼はモン族のギャングへの入団テストのために車を盗もうとしたのだった。
その後、思いがけずタオの家族と親しくなったウォルトは、タオを本物の男に育て上げ、何とかギャングたちとの縁を切らせようとするのだが、ギャングの嫌がらせは次第に激しくなってゆく・・・


クリント・イーストウッドは、本当の意味での愛国者であると思う。
多分、彼は一人の年老いたアメリカ人として、次の世代に伝えたい事がまだまだ沢山あるのだろう。
考えてみれば、女性ボクサーの鮮烈な青春を描いた「ミリオンダラー・ベイビー」も、激戦に散った英霊たちへのレクイエムであった「硫黄島二部作」も、権力と対決した反骨の女性を描いた「チェンジリング」も、それぞれがアメリカンスピリットの一面を描いた物であり、同時にそれは気高く崇高な人間性を描いた物でもあった。
今回、イーストウッドが紡ぎ出すのは、嘗て戦場でトラウマを背負った朝鮮戦争の老帰還兵ウォルトと、あらゆる面で彼とは対照的な、アジア系移民モン族の少年タオとの奇妙な友情の物語だ。

物語は極めてシンプルで、舞台となるのもウォルトの家とその近所だけ。
にもかかわらず、ここには非常に幅広く深いテーマが、綿密なロジックと映画的なエモーションと共に描かれている。
作品を構成する要素全てに意味がある。
タイトルの「グラン・トリノ」とは、1972年製のマッスルカーの名であり、フォードの組立工だったウォルトが、自ら組み立てた思い出と共に大切にしている相棒でもある。
72年はアメリカの自動車産業にとって分水嶺と言える年で、翌73年に勃発した中東戦争によって、第一次オイルショックが起こり、我が世の春を謳歌していたデトロイトは大打撃を受け、特にガソリンをバカ食いするマッスルカーは急速に敬遠され、燃費性能に優れた日本車の躍進を許す事になる。
つまりウォルトのグラン・トリノは、輝けるデトロイトの最後の光であり、オールドアメリカの象徴だ。
嘗て世界を征していたビッグ3が、今や破綻の瀬戸際まで追い詰められているように、古きアメリカはもはや風前の灯となり、ウォルトの息子がトヨタのセールスマンとして成功した人生を歩んでいるというのも皮肉だ。

同様に、ウォルトの住む住宅地は、元々は白人が多い地域だったのだが、今ではアジア系移民の街になっている。
70年代以降、アジア系やヒスパニック系の新移民たちが都市部の比較的低所得の白人地域に入り込み、元から住んでいた白人たちは有色人種との共存を嫌って、続々と郊外に脱出する現象が起きた。
ウォルトの様に、頑なに自分の街に住み続ける白人はもはや少数派である。
ここでもアメリカは以前とは違った姿になりつつある。

こうした新移民は、環境変化や人種差別などに直面し、アメリカ社会に馴染めない者も多く、移民地区の多くには民族系ギャングが存在する。
私がアメリカのカレッジに行っていた頃の同級生にも、ヒスパニックギャングの元メンバーがいた。
こうした民族系ギャングは彼らの生まれ故郷を基盤としているので、世代を超えて継承されやすく、一度メンバーになると抜けるのは極めて難しい。
ギャングになれば一生ギャング、ギャングの子もギャングという悪循環が繰り返されるのである。
私の同級生の場合は、やはりギャングであった父親が刑務所に入ったのを切欠に、母が離婚を決断し生まれ育った街から遠く離れる事で、やっと足を洗う事が出来たという。
モン族のギャングに勧誘されていたタオは、正にギリギリのところで踏みとどまっているのである。

朝鮮戦争の帰還兵であるウォルトは、戦争中自らが手を下した残虐行為をトラウマとして抱えている。
彼が厭世的な言動を繰り返し、人種差別的な考えを捨てないのも、その反動と考えて良いだろう。
そんなウォルトにとって、思いがけず巡って来たタオとの日々は、心の奥底にずっと影を落としていた過去の過ちに再び向かい合う機会となる。
同時にそれは、タオに心を開く事で、それまでは自分の世代と共に失われてゆくと考えていた良きアメリカ人、良き人間の姿が、嘗て自らが命を奪った朝鮮の少年と同じ、アジア人のタオの中にしっかりと芽生えている事を知る喜びでもある。
故に、ウォルトの最後の選択は必然であり、ほかのチョイスはあり得ない。
熱心にウォルトの心をケアしようとするカソリックの神父に対して最後の懺悔をした時、彼が朝鮮での出来事を懺悔しなかったのは、既に彼の中での決着の付け方が決まっていたからだと思う。
彼は自らの命を賭して、自らの罪を贖うと同時に、一人の良きアメリカ人の未来を救ったのだ。
「グラン・トリノ」は、ウォルトにとって、贖罪と継承の物語なのである。
ギャングたちは、丸腰のウォルトを殺す事によって精神的敗北者となり、恐らくウォルトと同じトラウマを抱えて生きて行く事になるのだろう。
ある意味で、タオやその家族だけでなく、ギャングたちに対しても「平和」を齎した、ウォルトの選択は重い。
この部分に関しては、作家イーストウッドから、観客全員への大いなる問い掛けが含まれている様に思う。
タオの身に起こった災厄はある種のメタファーとして、世の中の争い事の多くに当てはめる事が出来る。
復讐に訴えるのは容易く、それはしばし更なる最悪の結果を招く事も多い。
ウォルトが見せた、敵を含む全ての人々を思いやる様な大きな精神性を私たちは持つ事が出来るのだろうか。

映画のラスト、ゆったりとしたリズムで奏でられる主題歌をBGMに、タオは犬のディジーを助手席に乗せ、夕日がきらめく海辺の道を、亡きウォルトの分身であるグラン・トリノで駆け抜けてゆく。
道は過去から、確実に未来へと繋がっている。
この美しくもどこか物悲しいラストは、今去ろうとしているオールドアメリカへのレクイエムであると同時に、そのスピリットは次の世代によってしっかりと理解され、より良い形で未来へと走り続けて欲しいという希望の表現でもあるのだろう。
何でも映画俳優としてのクリント・イーストウッドは、本作を持って事実上の引退を表明したという。
今後は映画監督に専念するというが、やはりこの人の姿をスクリーンで見られないのは何とも寂しい。
トヨタ・プリウスが似合うスターは、今のハリウッドには幾らでもいるが、グラン・トリノが似合う男は、やはり貴重だ。

今回は、極上の日本酒「十四代 龍の落とし子」をチョイス。
十四代と言えば日本酒の最高峰の一つだが、この「龍の落とし子」はその中では比較的買いやすい。
もちろん絶対的に高価ではあるのだが、酒器に注いだ瞬間、何ともいえない豊かな吟醸香が立ち昇り、口に含むと非常に複雑で濃厚な味わいに唸らされ、値段にも納得せざるを得なくなる。
極上の映画に負けない極上の酒である。

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おっぱいバレー・・・・・評価額1550円
2009年04月24日 (金) | 編集 |
たぶん、映画史に残る凄いタイトル(笑
正直、このタイトルを劇場の窓口で言うのはかなりの拷問だと思うのだが、今はネットでチケットが買える時代なので、窓口スルーで観賞する予定だった。
いつもの様に発券機でチケットを受け取ろうとすると、モニターに「チケットをおとりください」と表示されるのに、いつまでたっても出てこない。
こ、こんな時に限って紙詰まり?!
「お客様大変申し訳ありません。で、何という映画のチケットでしょうか?」と、ニッコリ微笑む結構カワイイ窓口のお姉さん。
「えっと・・・・・『おっぱいバレー』です・・・・」
ああ、無情。

1979年、北九州。
中学校の教師として赴任してきた美香子(綾瀬はるか)は、バカ部と揶揄される弱小男子バレー部の顧問を引き受ける事になる。
美香子は、全くやる気の無い部員たちを何とか奮い立たせようとするのだが、なんと「試合に勝ったらおっぱいを見せる」というとんでもない約束をさせられてしまう。
子供たちには頑張る気持ちを知ってほしい、でもおっぱいは見せたくない。
戸惑う美香子だったが、おっぱいという最強のニンジンをぶら下げられた部員たちは、人が変わった様に練習に打ち込み、どんどん強くなって行く・・・・


この作品、タイトルのインパクトも凄いが、予告編の出来が素晴らしく、かなり前から楽しみにしていた一本だ。
典型的なスポコン物のプロットに、「おっぱい」という最強アイテムを放り込んだら、予想外にキュートでノスタルジックな、青春映画の佳作が出来上がった。
先生のおっぱいを見たいという欲望から、初めてバレーに真剣に取り組み、動機は不純ながらも徐々に何かに夢中になる事の楽しさ、尊さを知ってゆくバカ部の面々。
バレーの試合のシーンは、時間的には短いものだが、物語の中で効果的に配置されており、この作品が一応スポコン物でもある事を忘れさせない。
でも、「おっぱい!」が掛け声のチームと戦うのは、相手の立場ならちょっと嫌だぞ(笑
そして、生徒に一生懸命になる事の素晴らしさを知ってもらいたいものの、自分のおっぱいが彼らの夢になってしまっている事に戸惑う新米教師、美香子先生。
彼女の過去に纏わるエピソードが物語の背景として描かれ、美香子にとっても成長ストーリーとなっており、ヲバカな笑い以外に普遍的な要素もちゃんとある。
ただ、かなり楽しい作品だったが、予告編で期待したほどの弾け感は無かった。
おそらく、作り手の感覚的には完全に元男子中学生の視点で世界観を構築しているのに、物語的には女性教師の視点で進行するあたりが、やや作品世界から引いて観る感覚につながっているのではないかと思う。
もっとも、それは同時に元男子中学生以外の観客にとっては観やすさにつながっているはずなので、一概に欠点とは言えないのだが。

キャスティングもなかなか良い。
美香子先生を演じる綾瀬はるかは、ここ数作の主演作の中では、一番魅力的に撮られている。
この役は、誠心誠意お願いすれば、もしかしたらおっぱいを見せてくれるんでは・・・という妄想が成立する人でなければならないが、人の良さそうな雰囲気があり、尚且つサイボーグ役が出来るほどプロポーション抜群の綾瀬はるかは正にドンピシャ。
本人的に嬉しいかどうかは判らないが、代表作になったのではないだろうか。
美香子を困らせる6人のバカ部員たちも、まるで70年代からタイムスリップしてきた様でリアル。
それぞれが、クラスに一人はいたよな~こんな奴と思わせる説得力があった。
さりげなく美香子を支える堀内先生役の青木崇高や、元実業団選手役の仲村トオルも物語に上手く絡み、キャラクターに深みは無いものの、役割は良く考えられている。

監督の羽住英一郎と言えば、「海猿」の人であり、他の作品を含めても漫画チックで熱血な世界の印象が強い。
だが、この作品では思いのほか力が抜けて良い塩梅だ。
たぶん、60年代生まれの監督にとって、70年代末を舞台としたこの作品は、自分自身の少年時代をそのまま描いたという感じなのではないだろうか。
ファーストカットの掌が、一体何を表しているのか、男性なら5秒で判っただろう。
正にヲバカな男子中学生の妄想が炸裂したような、本作を象徴するような秀逸なオープニング。
この映画には、男性なら誰もが一度は経験した事のある、恥ずかしいエピソードが満載だ。
笑いや泣かせの大仕掛を組むというよりも、細かな描写までもが非常にリアルで、世の中の元男子中学生にとってはまるで自分の心の中のアルバムを密かにめくって見るような楽しさがある。
バカ部の面々が、一応成長の跡は見せつつも、最後までおっぱいへのこだわりを忘れないのも良かった。
最後の美香子先生への手紙はつまり、見るよりも感触という事だろうが、映画のファーストカットと上手くリンクしていた。

思うに、この映画は現在が舞台では成立しにくいだろう。
もちろん男子中学生の生態など、時代が変わっても大した変化は無いとは思うが、人間よりも環境の方が劇的に変わってしまった。
映画に描かれている様に、当時はおっぱいを見たくても、せいぜい河原で拾ったエロ本くらいで、深夜のお色気番組を親に隠れて見るのが精一杯。
ビデオもインターネットも無い時代において、おっぱい、特に動くおっぱいの付加価値というものは、現在よりも遥かに高かったのである。
全世界のエロを、クリック一つでダウンロードできる今の中学生に、この作品に描かれているおっぱいへの熱意を理解してもらうのは難しいだろう。
その意味で、この作品を一番楽しめるのは、今青春真っ只中という世代よりも、嘗ての自分を懐かしみつつも笑って眺める事の出来る大人たちだと思う。
カテゴリー的には青春映画だが、その視点はかなりノスタルジックで、時代設定を含めて良い意味で懐古趣味である。
感覚的には、「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た時の感慨に近いのではないだろうか。

今回は、おっぱいゆえにπ
フランスはボジョレーから無限に続く円周率の名を持つ酒、「モルゴン キュヴェ 3.14π」の2004をチョイス。
当りはふくよかでやわらかく、その味わいはとても深く複雑。
正にワイン界のおっぱいである。

うーん、しかしこんなに「おっぱい」という単語を書いたのは始めてかもしれない(笑
正直、元中学生男子以外の人には、お勧め出来る作品なのかイマイチわからないのだけど、とりあえず、ナーイスおっぱい!

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スラムドッグ$ミリオネア・・・・・評価額1750円
2009年04月20日 (月) | 編集 |
1900万人がひしめき合う、インドのムンバイを舞台に、スラム育ちの無学の青年が、巨額の賞金が懸かるクイズ番組に挑戦する、ダニー・ボイル監督の異色作。
「スラムドッグ$ミリオネア」というタイトルは、野良犬と揶揄されるスラムの貧困層と、クイズ番組のタイトルでもある億万長者「ミリオネア」を掛け合わせた物だ。
英語劇ではあるものの、全編インド人俳優がインドを舞台に演じる本作が、アカデミー賞で8冠を獲得して圧勝したのは不思議な感じがしたし、観る前はスラムの現実を告発する様な社会派作品なのかと思っていた。
しかしなるほど、観て納得。
ここにあるのは愛と冒険と涙と笑いが詰まった、正に王道を行く正統派の娯楽映画である。

インド、ムンバイ。
この街で育った青年ジャマール(デーヴ・パテル)は、大人気クイズ番組の「Who Wants to Be a Millionaire」に出演する。
どうみても、育ちが良いとは言えないジャマールだったが、大方の予想に反して、出される問題を次々とクリア、遂に億万長者へ最後の一問というところまで到達する。
最終問題は翌日に収録される事になるのだが、テレビ局を出た彼は突然逮捕されてしまう。
「スラムの犬」が、どんな不正をして答えを知ったのかと迫る刑事に対して、ジャマールは彼の辿ってきた驚くべき人生を語りはじめる・・・


かつては英語読みのボンベイという名で呼ばれたインドのムンバイは、世界有数の映画の街、ボリウッドの愛称でも知られている。
今から15年ほど前に、私の友人がこの街を訪れた事があり、彼から旅の土産に聞いた話しが今でも記憶に残っている。
何でも飛行機が空港に近づくと、地表に大きなピラミッドの様な物が幾つも見えるのだそうである。
そして飛行機を降りると、鼻を突く強烈な臭気と共に、何十人というスラムの子供たちが群がって来る。
やっとの事でタクシーを拾って街を抜けて行くと、さっき飛行機から見たピラミッドの様な物が、巨大なゴミの山である事がわかり、しかもその山には幾つもの出入り口が付けられ、まるで横穴式住居よろしく人々がトンネルを掘って暮らしてたそうだ。
彼は二度と行きたくないと話していたが、私はそんなSFみたいな情景を、一度はこの目で見て、体験してみたいと思ったものだ。
残念ながら、私自身は未だインド訪問の夢は果せていないが、恐らくこの映画に描かれる主人公の幼少時代はちょうど15年くらい前だろうから、友人が見た風景もこんな感じだったのかもしれない。

物語の構成が抜群に上手い。
冒頭、スラムを駆け抜ける少年たちを活き活きと描写すると、いきなり警察で取調べを受ける主人公ジャマールのシーンに飛ぶ。
人気のクイズ番組「クイズ$ミリオネア」(「ファイナルアンサー?」というフレーズで有名な、英国生まれの番組のインド版である)に出演した彼は、破竹の快進撃で最後の問題までたどり着くのだが、スラム出身の無学な青年がそんなに物知りなのはおかしいと疑われて逮捕されてしまうのだ。
果たして彼は、医師や弁護士ら多くのインテリエリートたちが挫折したクイズの答えを、なぜ知っていたのか?という興味でまずは観客の心をつかむ。
そしてクイズ番組の進行と、警察での取調べ、そしてかけられた疑いを晴らす、それまでの彼の人生の軌跡が三つの流れとして描かれ、最後の最後に全てが一つに収束して行くという寸法だ。

ジャマールの辿ってきた人生は凄まじい。
憧れの映画スターにやっとの事でサインを貰った幼少期は、まだ貧しいながらも幸せだったが、幼くして宗教紛争で親を殺され、敵の神を知る事になる。
映画スターの名は?ヒンズーの神が手にしている物は?といったクイズの答えは、彼にとっては学問としての知識ではなく、実体験なのである。
ジャマールは、兄のサリームとやはり孤児となった少女ラティカと三人で暮らし始めるが、デュマの「三銃士」に自分たち三人を重ねており、これは物語のクライマックスの重要な複線となっている。
だが、やがて彼らは子供を食物にするギャングに捕まってしまい、ジャマールとサリームは何とか逃げ出すものの、ラティカを置き去りにする事になってしまう。

いつか初恋の人ラティカを救い出すという熱い想いは、やがてジャマールの人生を支配し、強烈な疾走感と共に物語をを突き動かす。
鉄道で勝手に物売りをし、ニセ観光ガイドとして白人の金をちょろまかし、ホテルのレストランで皿洗いをして、必至に成長しながらも一時も彼女の事を忘れない。
ラティカもまた、幼い頃に別れた彼のことを、半ば諦めながらも密かに想い続けている。
そう、これは今時珍しい超ストレートな純愛物語なのである。
ラティカへの想いが、ジャマールにとってどんなに辛い状況でも懸命に生きるエネルギーとなり、クイズ番組への出場も、行方のわからない彼女を探すため。
たった一つの願いに向けて突き進むジャマールの人生は、全くぶれない。
この点において、彼は観客がよほどの捻くれ者であっても感情移入してしまう、正統派の熱血ヒーローである。
そして、直球で生きる弟とは対照的に、打算的な兄サリームはやがて裏社会で生きるようになり、折角再会を果したジャマールとラティカの中を引き裂くという、悪役的な役回りとなる。
ジャマール、サリーム、そしてラティカのキャラクターは、それぞれに物語の中で極めて寓話的な役割を与えられており、彼らの関係性がこの作品の持つテーマ性に深くかかわってくる。

ここしばらくの間、ゾンビ映画やSF映画の設定を使って、クールな心理劇を作って来たダニー・ボイルだが、この作品の持つ人間へのパワフルな描写力は、間違いなく彼の出世作である「トレインスポッティング」を連想させる。
ボイルは、典型的な娯楽映画の形をとりながら、綿密に作りこんだ物語を通して、この世界の一面を描写する事も忘れない。
無学のジャマールがクイズ番組で億万長者となり、ギャングに囚われた初恋の彼女を奪還するという筋書きは、映画として説得力はあるものの、現実的に考えれば御伽噺の類だろう。
実際彼がクイズの答えを知っていたのは、たまたま同じシチュエーションが彼の人生にあったという、神が味方でもしなければまずあり得ない偶然の産物であって、見方によっては御都合主義とも言える。
だがボイルは、ジャマールのサクセスを通して、この作品を通して夢を見るしかない圧倒的多数の人々の存在感を、逆説的に描いて見せたのではないか。
ボンベイからムンバイへと時代が移り変わり、少なくとも表面的には目覚しい発展を遂げているインド。
だが映画に出てくる本物の「ミリオネア」たちはギャングの親分であったり、傲慢なテレビの司会者であったり、ろくな人間としては描かれない。
ミリオネアは夢、でも幸せとはそれだけではない。
2000万ルピーを獲得したはずの主人公だが、実際に金を受け取る描写は無く、彼が求めるのはあくまでもラティカなのである。
真っ当に生きる人間がサクセスする物語が、実は一番現実的でないという事実を微妙に感じさせつつも、ジャマールの冒険に感情移入し、喝采を送る事で、観客は無意識に自らを肯定出来る。
未曾有の経済危機に陥ったアメリカで、この作品が予想外に受けた理由も、この作品の持つ観客と作品世界との独特の一体感にある様な気がする。
これがハリウッド映画だったら、むしろ嘘を強く感じてしまったのだろうが、実質的なインド映画であることから、素直に作品世界を受け入れられたのではないだろうか。

もっとも、そんな深読みをせずとも、これは娯楽映画のエッセンスが全て詰まった、老若男女全てに薦められる傑作であることは間違いない。
素直にジャマールの冒険に喝采を贈るも良し、様々な要素が複雑に組み合わせられたプロットに作家が託した意味を読み解くも良し。
スラムの子供たちの逞しさに魅了される冒頭から、ラストの粋なサプライズ!まで全くムダな所のない至福の2時間である。

残念ながらインドの酒は飲んだ事がない。
実際かの国では宗教的な理由からなのか、あまりアルコールがポピュラーではないらしいのだが、地酒の類はあるようなので、いつか行って飲んでみたいものである。
今回は、スクリーンからも熱風が吹き付けてきそうな暑い映画だったので、熱帯のタイのビールにしよう。
タイ料理店でもお馴染みの「シンハー」をチョイス。
ビールというものはその生産地で飲むのが一番美味しいものだが、日本でこれを飲むならやはり夏だろう。
今はちょっと早いが、色々な意味で熱い映画の後で、気持ちをクールダウンするにはちょうど良いかもしれない。

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レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦―・・・・・評価額1700円
2009年04月15日 (水) | 編集 |
「三国志」の前半部分でも特に人気の高い「赤壁の戦い」を描いた、ジョン・ウー監督のスペクタクル時代劇の完結編。
「レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦―」は、もはや「演義」でも「正史」でもない。
ジョン・ウーという映画作家によって、独自の視点とテーマを与えられて新たに生み出された、オリジナルの「三国志」だ。
ドラマ、アクション、VFXとあらゆる面で「Part I」よりスケールアップしており、正にザ・クライマックス。
一瞬たりとも目が離せない。

長江を挟んで対峙する孫権軍と曹操軍。
戦力差は圧倒的だが、長引く遠征は確実に曹操軍の兵士の体力を奪い、疫病が蔓延し始めていた。
ところが曹操(チャン・フォンイー)は、疫病で死んだ兵士の遺体を対岸に流し、孫権軍にも病気を発生させる事に成功。
劣勢に疫病が追い討ちをかけ、ついに劉備(ヨウ・ヨン)が同盟を離脱し、夏口へと撤退してしまう。
単独で80万の曹操軍と戦う事になった孫権軍だが、総司令官の周瑜(トニー・レオン)は劉備撤退で足りなくなった矢の調達を、一人残った諸葛孔明(金城武)に命じる。
必要な矢の数は三日間で10万本。
誰もが不可能と思った無理難題だったが、気象を読み間もなく長江を濃霧が覆うと予測した孔明は、確実に矢を獲得する秘策を編み出す。
一方の周瑜も、孔明の矢の調達と同時に、戦況を決定的に有利にする謀を実行に移すのだが・・・。


前作が、さあこれからクライマックスという所で終わったので、「Part II」ではドラマ部分はそこそこに、赤壁の決戦でひたすら引っ張るのかと思いきや、意外と戦いに至るまでのドラマ部分が濃い
しかもその脚色が、複線の張り方や映画独自のキャラクターの動かし方を含めてかなり良く出来ていて、十分に見応えがあるのだ。
もちろん、最後の戦いに至るまでには有名な諸葛孔明による十万本の矢の調達や、長江での水上戦を熟知した曹操軍の蔡瑁らの謀殺などの、「演義」のお約束の場面はきっちりと描かれているのだが、物語の中で持つ意味合いは映画オリジナルの解釈がなされ、それがドラマを大きく膨らませている。
これは主人公たる周瑜のキャラクターが、どちらかと言うと「正史」に近いためだが、「演義」では同盟しつつも反目するライバルだった諸葛孔明との関係が、映画では仁義で結ばれた友情である事がはっきりする。
老将軍黄蓋が自ら鞭打たれる所謂「苦肉の計」が周瑜の一言で却下されて、形を変えているのも、良い人キャラとなった彼なら当然か。

そしてジョン・ウーは、本来男たちのドラマの印象が強い「三国志」の世界に、自らの意思で考え、行動する女性たちを送り込み、彼女たちのドラマにかなりの比重を持たせている。
間者として曹操軍に潜入し、そこで敵兵との間に友情を育んでしまう孫権の妹、尚香のエピソードや、争いを止めるために単身曹操の元へ乗り込み、結果的に戦いの帰趨を決定付ける小喬のエピソードは、意外なほどに元の物語と上手く絡み合い、ウーがこの映画に持たせたテーマ性を際立たせているのだ。
原作ファンには異論もあろうが、私はこの脚色はかなり成功しているのではないかと思う。
男たちの荒々しい覇権争いに、女性の視点が入った事で、守るべきプライドと果て無き欲望、そして平和へ切実な願いが葛藤する物語となり、現代性とある程度の深みを獲得しているのである。

また連作として観ると、二本繋がることで意味のある複線が綿密に張られているのがわかる。
例えば「PartⅠ」の、孫権が戦を決意する虎狩りのシーンで放つ一矢の意味や、周瑜 と小喬が「平安」の書を書くシーンなどの細かな描写。
あるいは単にジョン・ウーの趣味かと思っていた白い鳩などが、「PartⅡ」の重要な複線になっているなど、かなりしっかりと良く練られた脚本である。
また曹操の愛人である麗姫の、小喬に対する複雑な想いを、一瞬ではあるがキチンと描写する1カットが入っていたりと、演出面も意外と細やかで抜かりが無い。

もちろん、アクション派ウーならではのスペクタクルシーンは迫力満点。
孔明による十万本の矢の調達は、蔡瑁謀殺のエピソードと上手く組み合わされ、前半の見せ場になっているし、長江の風向きが変わり、いざ決戦が始まるともはや怒涛の戦闘スペクタクルに息つく暇も無い。
赤壁と言えば、やはり火攻めであるのだけど、夜間の水上戦闘のシーン、そして夜が明けた後の陸上戦のシーンも、とにかく炎の迫力が古代の戦場をド派手に演出する。
東洋の合戦物では、ウーが敬愛すると語る黒澤明以来のインパクトといっても過言ではなく、黒澤映画の合戦と言えば土砂降りの雨だったが、こちらでは雨の代わりにが降り注ぐという訳だ。
もっとも、ただ爆発して燃えるだけでは単調になってしまうから、戦いながらも登場人物それぞれのドラマがいくつもの流れとなって展開し、ビジュアル的にも工夫が凝らされている。
「PartⅠ」でも圧巻だった、盾を戦場の壁として使う、他に例を見ない特異な戦闘シーンは今回も魅せるが、さすがに前回の様な孫権軍楽勝とは行かず、双方の膨大な犠牲は戦う事の痛みをビジュアル面からしっかりと描写する。
また戦場で敵味方として再会した尚香と曹操軍の友との悲しいエピソードは、良い意味で感傷を刺激し、物語の持つテーマ性を思い起こさせるのである。
一方で、曹操のキャラクターが深く描かれた事で、敵役としてかなり魅力的になり、小喬を巡る曹操と周瑜の葛藤も、戦いの背景にあるドラマを盛り上げる。
まあ代わりに劉備軍の三将が今ひとつキャラの深みに欠けるのだが、彼らは個人技のアクション担当として、長大な戦闘シーンのメリハリになっているので、これはこれで良しとすべきか。
そして、文字通り役者の揃うクライマックスでは、ウーのガンアクション映画ではお馴染みの、三すくみの描写まで剣で再現してくれているのだから、正にお腹一杯の戦闘シーンのフルコースである。
戦い終わった周瑜 が戦場を眺めて発する、テーマを率直に表した一言など、「七人の侍」の志村喬の台詞を思わせ、黒澤へのオマージュすら感じさせるのは、これだけの作品をやり切ったという余裕なのかもしれない。

「レッドクリフ Part II ―未来への最終決戦―」は、映画史に残るであろう壮絶な合戦シークエンスだけではなく、物語としてもなかなかの仕上がりだ。
これを観ると、「Part I」はやはりプロローグであって、ドラマが大きく動き、キャラクターたちも明確に個性を発揮するこちらの方が圧倒的に面白い。
まあ拘りのある原作ファンには、受け入れがたい脚色でもあるだろう。
だが、もしも「演義」に描かれた「赤壁」を限りなく忠実に映像化したとしたら、ぶっちゃけ映画としては酷くつまらない物になったと思う
なぜなら「演義」の物語構造、キャラクターの配置は、お世辞にも映画向きとは言えないからだ。
ジョン・ウーの選んだ方向性がベストとは言わないが、誰が作ったとしてもこの上映時間に収めるには大幅な脚色が不可避であり、私としてはこれはこれで一人の映画作家が21世紀と言う時代の中で作った、新しい「三国志」として大いに楽しんだ。
ハリウッド映画に全く遜色ない良く出来たVFXに、スケールの大きな美術、迫力満点の殺陣に加え、耳に残る岩代太郎の楽曲も、ちょっとNHK大河ドラマ調な気もするが、長江の流れの如き悠久の歴史を感じさせる優美な仕上がりだ。
前後編合わせて上映時間4時間50分、見所には事欠かない。
ちなみにテレビCMでは前半観て無くても大丈夫とか言ってるが、やはりこれは2本で一つの映画
前作の観賞が、楽しむための大前提である。

それにしても、十年前だったら日本資本やハリウッドを巻き込んだ、これほどの規模の中国語映画というのはちょっと考えられなかった。
本作のジョン・ウーはもちろんの事、今世紀に入ったあたりからの中国系映画人の国際進出は目覚しいものがある。
映画というソフトパワーの世界でも、中国はハリウッドに比類しうるスーパーパワーとして台頭してゆくのかもしれない。

今回は「PartⅠ」でも付け合せた静岡県三和酒造の「臥龍梅」の、今度は最高峰の「純米大吟醸」をチョイス。
臥龍とは、司馬徽が諸葛孔明を眠れる龍に例えて評した言葉。
大吟醸らしいふくらみのある優しい味で、香りは実にフルーティー。
三和酒造の酒は近年非常に人気が高まっているのだが、知名度がまだそれほどでもないので、出来を考えればコストパフォーマンスも高い。
少量生産なのですぐ売切れてしまい、なかなか買えないのが残念なところだが、名前の通りに何時か天下を取ってもおかしくない酒である。

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フロスト×ニクソン・・・・・評価額1600円
2009年04月10日 (金) | 編集 |
第37代合衆国大統領のリチャード・ニクソンと言えば、先日観た「ウォッチメン」では5選を果たして80年代半ばまで大統領をやっていたが、現実世界では歴史上初めて任期途中で辞任した大統領として知られる。
その辞任劇の原因となったのが、政敵である野党民主党本部があったウォーターゲート・ビルに不審者が侵入し、盗聴器を仕掛けようとした、所謂ウォーターゲート事件である。
当初関わりを否定していたニクソンだったが、やがてマスコミによって次々と大統領本人の関わりを示す証拠が暴かれ、遂に追われるようにホワイトハウスを後にする事となるのだが、後任のフォード大統領が恩赦したために、最終的に何の罪にも問われる事も、自らの過ちを証言する事も無かった。
「フロスト×ニクソン」は、事件から3年後の1977年に、イギリスのテレビ司会者だったデヴィッド・フロストがニクソンにインタビューした番組制作の舞台裏を描いた、実話ベースの舞台劇の映画化となる。
ジャーナリストですらないフロストが、策士ニクソンに翻弄されながらも、それまで語られていなかったウォーターゲート事件の核心に迫るスリリングな駆け引きは、なかなかに見応えがある。

オーストラリアやイギリスでテレビ司会者として活躍していたデヴィッド・フロスト(マイケル・シーン)は、アメリカテレビ界へ進出を図るために、未だ誰も実現していないニクソン元大統領(フランク・ランジェラ)へのインタビュー番組を企画する。
政界への返り咲きを画策していたニクソンは、ジャーナリストでないフロストならば与しやすく、番組を自らの宣伝の場に出来ると考え、巨額の出演料と引き換えに申し出を受ける。
フロストは番組のプロデューサーのジョン・バート(マシュー・マクファディン)を中心に対策チームを作り、ニクソン攻略のプランを練る。
だが、フロストの狙いに反して放映権はなかなか売れず、インタビューまでの数ヶ月の間、フロストは準備そっちのけで金策に走り回る羽目になる。
遂にやってきたインタビューの日、フロストは「ウォーターゲートに関する質問は最後にする」という契約上の取り決めを無視して、いきなり事件の核心部分からニクソンに切り込むのだが・・・


主役の一方は、ショウビズの本場アメリカ進出を賭けて、名声の獲得を狙うテレビ司会者。
もう一方は、マスコミのスクープによって失脚させられ、復活を狙う元大統領。
言ってみれば、二人はどちらもメディアの申し子であり、二人の対決を通して描かれているの、はテレビというメディアの姿そのものだ。
監督のロン・ハワードは、このテーマを描くために、ちょっとユニークなスタイルで映画を作っている。
歴史的なインタビューの数年後から、関係者が当時を振り返るという設定になっており、ハンディカメラを駆使したフェイクドキュメンタリー風に演出する事で、当時の時代感、臨場感を高めている。
逆にインタビューのシーンはきっちりとしたテレビ的な映像で押さえ、メリハリをつけつつ作品において「テレビとは何か」を明確化する戦法である。
ニクソンから決定的な言葉を引き出した後の、興奮と安堵が同居したようなフロストの表情、あるいは侮っていた相手に、最後の最後に敗れたニクソンの表情を捉えたカットは、正に「決定的一瞬」によって成り立つテレビというメディアの本質を見せ付ける見事な仕事だった。

タイトルロールの「フロスト×ニクソン」を演じる二人が良い。
二人ともコスプレ的に本人に似ているという訳ではないのだが、じっくりとキャラクターを作りこんでおり、実にリアリティがある。
マイケル・シーン「クィーン」のトニー・ブレア役が印象的だったが、今回は名声を求めて軽いノリで元大統領との勝負に出たものの、圧倒的な相手の腹芸と資金難というダブルの困難に直面して、当惑するフロストを好演し、実際にベテラン名優フランク・ランジェラが演じるニクソンとの見事な演技合戦を見せる。
アカデミー賞ではフランク・ランジェラが主演男優賞にノミネートされたが、個人的には二人とも十分に主演男優賞に値する名演だったと思う。

考えてみれば、ニクソンはメディアによって注目を浴び、メディアによって滅ぼされた政治家と言えるかもしれない。
1952年、若き日のニクソンがアイゼンハワーの副大統領候補として挑んだ選挙戦の最中、選挙資金の不正融資から窮地に立たされるが、この時彼はテレビに出演して有名な「チェッカーズ・スピーチ」を行い、完全な自己弁護に成功する。
これは恐らく、テレビが大きな影響力を発揮した最初の大統領選挙であり、結果的にニクソンはテレビによって救われた事になる。
しかし8年後に自らが大統領候補として挑んだ選挙では、よりメディア戦略に長けたケネディにテレビ討論のビジュアル的な印象で圧倒され、落選の憂き目をみる。
ここではニクソンは、テレビによって挫折を味わっている。
そして、政界への返り咲きを狙った、この1977年のインタビューである。
政治家でもジャーナリストでもないテレビタレントのインタビューアーなど、百戦錬磨の策士ニクソンにとっては、ごくごく簡単な相手に思えたのだろう。
言わばライト級アマチュアボクサーがバリバリのヘビー級チャンピオンに真剣勝負を挑む様な、客観的に考えればかなり無茶な挑戦で、実際に映画に描かれているインタビューでも、終始ニクソンがペースを握り、フロストは攻めるタミングすら見出せない。

ニクソンの圧倒的優勢で進むインタビューは、最終日を前に酒に酔ったニクソンがフロストにかけた一本の電話を切欠に大きく動き出す。
この電話のニクソンの言葉で、闘志に火をつけられたフロストは、遂に難攻不落のニクソン攻略の秘策を掴み、元大統領の口から自らの過ちを認めさせる言葉を引き出す事に成功する。
正にニクソンが勝利を確信した後の、奇跡の大逆転であり、史実とは思えないくらいに映画的な幕切れである。
脚本のピーター・モーガンはオリジナルの舞台劇を書いた人物でもあるが、映画では「クィーン」や「ラストキング・オブ・スコットランド」「ブーリン家の姉妹」などの作品がある。
史実をベースにして映画的な脚色を加えるのを得意とする脚本家なので、あの電話はもしかしたら脚色なのかな、という気がしているのだが、真相はどうなのだろう。

それにしても、インタビューというのが、場合によってはこんなに時間とお金の掛かる物だったとは。
専門のスタッフが数ヶ月を欠けて相手の攻略法を練り、機材、スタッフ、場所の選定から警備にいたるまで、膨大な準備の手間がかけられていることに驚かされる。
インタビュー番組一本に400万ドルという大作映画並のプロダクションバジェットも納得で、本物の報道番組を作ろうとすると、物凄くお金が掛かるという事の意味が、この映画を観るとよくわかる。
通信社から買ってきた映像を垂れ流し、激安グルメのレポートとか、似たような企画物ばっかりの日本のニュース番組を思い浮かべて、何だか別の意味で「テレビとは何か」という事を考えさせられた。

今回は、ニクソンの故郷に近いカリフォルニア州サンタバーバラのワイン「ヒッチングポスト ピノ・ノワール ハイライナー」の20005年をチョイス。
映画「サイドウェイ」で日本でも有名になったが、いまやカリフォルニアを代表するピノの逸品。
フルーティで複雑な香りが口の中に広がり、なんとも豊かな気分にしてくれる。
丁々発止の真剣勝負を見た後は、南カリフォルニアの自然の恵みで弛緩したい。

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トワイライト ~初恋~・・・・・評価額1350円
2009年04月05日 (日) | 編集 |
欧米で大ヒットを記録したという、ステファニー・メイヤー原作のティーン向けヴァンパイアストーリー。
ホラー色は限りなく薄く、「トワイライト~初恋~」というタイトル通りに、ラブ・ストーリーに重きを置いた少女漫画的な作りだ。
なんとなく「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」を低年齢化させて、更に淡白にした様な印象で、つまらなくは無いが、あまり印象に残らない。

ワシントン州の田舎町フォークス。
17歳の高校生ベラ・スワン(クリスティン・スチュアート)は、母親の再婚に気兼ねし、全米一雨の多いこの町で警察官をしている父の元に越してくる。
地元の学校に転入したベラは、そこで謎めいた青年、エドワード・カレン(ロバート・パティンソン)と出会う。
エドワードは、なぜか初対面のベラを避け、嫌うような素振りを見せる。
自分が嫌われる理由がわからないベラは戸惑うが、ある時偶然エドワードに命を救われる。
その時、エドワードが見せた人間離れした異常なスピードとパワーに驚いたベラは、エドワードには何か秘密があるのではと考えるのだが・・・


人の血を吸う怪物でありながら、ヴァンパイアはロマンチックでセクシー、そして何よりも大抵美形である。
それ故か、多くの女性作家がホラーというよりはラブ・ストーリーのモチーフとして、ヴァンパイアと人間の禁断の恋を描いてきた。
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」のアン・ライスは言うに及ばず、その元ネタと思われる萩尾望都による少女漫画の金字塔、「ポーの一族」など傑作も多い。
本作の原作も、この流れの延長線上にあるのだろうが、主人公を高校生に設定し、コア・ターゲットとして明確にティーンに的を絞ってっているのが特徴だろう。
まあこれはある種の異種婚姻譚であり、日本の場合は類似の話が昔話から漫画まで山ほどあるので、欧米ほどのインパクトを持って受け取られる事は無いと思う。
実際、この物語はいかにも日本のライトノベルや少女漫画にありそうな内容で、正直なところ物語に新味は無い。

主人公のベラが恋するエドワードは、カレン一族というヴァンパイアのグループに属しているのだが、彼らは人間と共存するために、動物だけを狩る「ベジタリアン」という設定だ。
彼らヴァンパイアの中には、特殊な超能力を持つ者もいるらしく、エドワードはある種のテレパスで、周りの人の心が読めるし、カレン一族のアリスは未来予知が出来たりする。
エドワードが人間のベラに惹かれたのも、なぜか彼女の心だけが読めなかったためで、それ故にこれは運命の出会いという事なのだろう。
彼ら二人の、いろいろな意味でもどかしい恋を物語のメインストリームに置き、物語後半ではベジタリアンではない別のヴァンパイア一族のジェームズからベラを守るための戦いが描かれる。
まあ少々特殊な関係ではあるものの、基本的には相手を想っていてもなかなか言葉に出来ないという様な思春期の微妙な心象風景を描いているので、物語の抑揚はあまりなく、なぜお互いに惹かれ合うのかというあたりも、特に物語の視点を担うベラの心理があまり明確ではないため、なんとなく雰囲気で強引に押し流している印象が強い。
後半の山場となるジェームズとのバトルも案外あっさりと終わってしまい、全体にメリハリがなく物語が印象に残らない結果になっている。
原作を未読なので、どこまで忠実に作られているのかは判らないが、もう少しいろいろな要素が有機的に結びついていたら、もっと面白くなるのになあと思わざるを得なかった。

ただ、プロダクションデザイナー出身のキャサリン・ハードウィック監督は、さすがに画作りが上手い。
全編雨と霧に覆わたフォークスの町のロケーションや、遊び心のある美術、太陽に当たると灰になるのではなく、ダイヤモンドの様に光り輝くヴァンパイアの皮膚など、工夫されたビジュアルは大きな魅力になっており、作品のムードを高めている。
まあワシントン州は確かに雨の多い場所ではあるが、いくらなんでもあんなに雨ばっかり降っている訳は無いのだけど、そこはある種のファンタジーとしてギリギリのリアリティを保っていると思う。
クリスティン・スチュワートとロバート・パティンソンの、顔色の悪い美形主役コンビも作品世界にピッタリだし、全体に世界観はなかなか魅力的だ。

このシリーズ、どうやら全米での大ヒットを受けて、原作通り四部作が作られるらしく、第二弾の「New Moon」が早くも今年中に封切られる様だ。
監督が「ライラの冒険」クリス・ワイツに交代している外は、メインキャストやスタッフはほぼ続投。
原作好きな人によると、話が進むにつれて新しいキャラクターが出てきたり、意外な人物の正体が明らかになったりするそうなので、次回の展開に期待したい。

今回はそのまんま「トワイライト」というカクテルをチョイス。
甲種焼酎40ml、パルフェタムール10ml、レモンジュース10mlを氷を入れたグラスに注いで、軽くかき混ぜる。
焼酎ベースだが、ウォッカをベースにしてみても美味しかった。
パープルカラーの幻想的な美しさのあるカクテルだが、味は辛口。

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そういえば、この話の主人公の一人はアラン・トワイライトという名前だった・・・