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グラン・トリノ・・・・・評価額1800円
2009年04月28日 (火) | 編集 |
どんなに巨匠と言われる映画作家でも晩年は創作ペースが鈍るものだし、作品のクオリティも最盛期には及ばない場合が殆どだ。
ヒッチコックも黒澤も、この法則を覆すことは出来なかった。
ところがここに、脅威の78歳がいる。
2000年5月に70歳を過ぎてから、発表した監督作品が10本。
毎年1本以上のペースで作品を作り続けており、そのうちの三作品の七部門で自身がオスカーにノミネートされ、二部門で受賞しているのだから、この歳にして全盛期を迎えていると言って良いだろう。
つい先日も「チェンジリング」という素晴らしい作品が公開されたばかりだが、ちょうど30本目の劇場用映画監督作となる「グラン・トリノ」は、一体何をどうすればこれほどの作品を連発出来るのか、彼の頭の中を覗いてみたくなるくらいだ。
「ミリオンダラー・ベイビー」以来4年ぶりの主演作でもあるが、これは正に映画監督・俳優クリント・イーストウッドの集大成。
世の中に必見の映画というのは決して多くは無いが、これは間違いなくその一本だ。

長年連れ添った妻を亡くしたウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、いまやすっかりアジア人の街となった地元の一軒家で隠居暮らしをしている。
独立した息子や孫たちとは折り合いが悪く、親しい友も無く孤独な日々。
妻の残した犬のディジーと、ピカピカに磨き上げられた1972年型フォード・グラン・トリノだけが彼が心を許す友達だ。
ある夜、ウォルトはグラン・トリノを盗もうと、ガレージに忍び込んだ泥棒を捕まえるが、それは隣家に住むアジア系移民、モン族の少年タオ(ビー・バン)だった。
彼はモン族のギャングへの入団テストのために車を盗もうとしたのだった。
その後、思いがけずタオの家族と親しくなったウォルトは、タオを本物の男に育て上げ、何とかギャングたちとの縁を切らせようとするのだが、ギャングの嫌がらせは次第に激しくなってゆく・・・


クリント・イーストウッドは、本当の意味での愛国者であると思う。
多分、彼は一人の年老いたアメリカ人として、次の世代に伝えたい事がまだまだ沢山あるのだろう。
考えてみれば、女性ボクサーの鮮烈な青春を描いた「ミリオンダラー・ベイビー」も、激戦に散った英霊たちへのレクイエムであった「硫黄島二部作」も、権力と対決した反骨の女性を描いた「チェンジリング」も、それぞれがアメリカンスピリットの一面を描いた物であり、同時にそれは気高く崇高な人間性を描いた物でもあった。
今回、イーストウッドが紡ぎ出すのは、嘗て戦場でトラウマを背負った朝鮮戦争の老帰還兵ウォルトと、あらゆる面で彼とは対照的な、アジア系移民モン族の少年タオとの奇妙な友情の物語だ。

物語は極めてシンプルで、舞台となるのもウォルトの家とその近所だけ。
にもかかわらず、ここには非常に幅広く深いテーマが、綿密なロジックと映画的なエモーションと共に描かれている。
作品を構成する要素全てに意味がある。
タイトルの「グラン・トリノ」とは、1972年製のマッスルカーの名であり、フォードの組立工だったウォルトが、自ら組み立てた思い出と共に大切にしている相棒でもある。
72年はアメリカの自動車産業にとって分水嶺と言える年で、翌73年に勃発した中東戦争によって、第一次オイルショックが起こり、我が世の春を謳歌していたデトロイトは大打撃を受け、特にガソリンをバカ食いするマッスルカーは急速に敬遠され、燃費性能に優れた日本車の躍進を許す事になる。
つまりウォルトのグラン・トリノは、輝けるデトロイトの最後の光であり、オールドアメリカの象徴だ。
嘗て世界を征していたビッグ3が、今や破綻の瀬戸際まで追い詰められているように、古きアメリカはもはや風前の灯となり、ウォルトの息子がトヨタのセールスマンとして成功した人生を歩んでいるというのも皮肉だ。

同様に、ウォルトの住む住宅地は、元々は白人が多い地域だったのだが、今ではアジア系移民の街になっている。
70年代以降、アジア系やヒスパニック系の新移民たちが都市部の比較的低所得の白人地域に入り込み、元から住んでいた白人たちは有色人種との共存を嫌って、続々と郊外に脱出する現象が起きた。
ウォルトの様に、頑なに自分の街に住み続ける白人はもはや少数派である。
ここでもアメリカは以前とは違った姿になりつつある。

こうした新移民は、環境変化や人種差別などに直面し、アメリカ社会に馴染めない者も多く、移民地区の多くには民族系ギャングが存在する。
私がアメリカのカレッジに行っていた頃の同級生にも、ヒスパニックギャングの元メンバーがいた。
こうした民族系ギャングは彼らの生まれ故郷を基盤としているので、世代を超えて継承されやすく、一度メンバーになると抜けるのは極めて難しい。
ギャングになれば一生ギャング、ギャングの子もギャングという悪循環が繰り返されるのである。
私の同級生の場合は、やはりギャングであった父親が刑務所に入ったのを切欠に、母が離婚を決断し生まれ育った街から遠く離れる事で、やっと足を洗う事が出来たという。
モン族のギャングに勧誘されていたタオは、正にギリギリのところで踏みとどまっているのである。

朝鮮戦争の帰還兵であるウォルトは、戦争中自らが手を下した残虐行為をトラウマとして抱えている。
彼が厭世的な言動を繰り返し、人種差別的な考えを捨てないのも、その反動と考えて良いだろう。
そんなウォルトにとって、思いがけず巡って来たタオとの日々は、心の奥底にずっと影を落としていた過去の過ちに再び向かい合う機会となる。
同時にそれは、タオに心を開く事で、それまでは自分の世代と共に失われてゆくと考えていた良きアメリカ人、良き人間の姿が、嘗て自らが命を奪った朝鮮の少年と同じ、アジア人のタオの中にしっかりと芽生えている事を知る喜びでもある。
故に、ウォルトの最後の選択は必然であり、ほかのチョイスはあり得ない。
熱心にウォルトの心をケアしようとするカソリックの神父に対して最後の懺悔をした時、彼が朝鮮での出来事を懺悔しなかったのは、既に彼の中での決着の付け方が決まっていたからだと思う。
彼は自らの命を賭して、自らの罪を贖うと同時に、一人の良きアメリカ人の未来を救ったのだ。
「グラン・トリノ」は、ウォルトにとって、贖罪と継承の物語なのである。
ギャングたちは、丸腰のウォルトを殺す事によって精神的敗北者となり、恐らくウォルトと同じトラウマを抱えて生きて行く事になるのだろう。
ある意味で、タオやその家族だけでなく、ギャングたちに対しても「平和」を齎した、ウォルトの選択は重い。
この部分に関しては、作家イーストウッドから、観客全員への大いなる問い掛けが含まれている様に思う。
タオの身に起こった災厄はある種のメタファーとして、世の中の争い事の多くに当てはめる事が出来る。
復讐に訴えるのは容易く、それはしばし更なる最悪の結果を招く事も多い。
ウォルトが見せた、敵を含む全ての人々を思いやる様な大きな精神性を私たちは持つ事が出来るのだろうか。

映画のラスト、ゆったりとしたリズムで奏でられる主題歌をBGMに、タオは犬のディジーを助手席に乗せ、夕日がきらめく海辺の道を、亡きウォルトの分身であるグラン・トリノで駆け抜けてゆく。
道は過去から、確実に未来へと繋がっている。
この美しくもどこか物悲しいラストは、今去ろうとしているオールドアメリカへのレクイエムであると同時に、そのスピリットは次の世代によってしっかりと理解され、より良い形で未来へと走り続けて欲しいという希望の表現でもあるのだろう。
何でも映画俳優としてのクリント・イーストウッドは、本作を持って事実上の引退を表明したという。
今後は映画監督に専念するというが、やはりこの人の姿をスクリーンで見られないのは何とも寂しい。
トヨタ・プリウスが似合うスターは、今のハリウッドには幾らでもいるが、グラン・トリノが似合う男は、やはり貴重だ。

今回は、極上の日本酒「十四代 龍の落とし子」をチョイス。
十四代と言えば日本酒の最高峰の一つだが、この「龍の落とし子」はその中では比較的買いやすい。
もちろん絶対的に高価ではあるのだが、酒器に注いだ瞬間、何ともいえない豊かな吟醸香が立ち昇り、口に含むと非常に複雑で濃厚な味わいに唸らされ、値段にも納得せざるを得なくなる。
極上の映画に負けない極上の酒である。

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