酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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アマルフィ 女神の報酬・・・・・評価額1250円
2009年07月26日 (日) | 編集 |
フジテレビ開局50周年記念作で、海外ロケでテロリストの出てくる大作サスペンス
しかも原作、主演が「ホワイトアウト」のコンビで、監督、主演は「県庁の星」のコンビ。
もうこの時点でイマイチ食指が動かない作品なのだが、意外にも周りの評判が良いので、先入観を捨てて観に行った。
なるほど、さすがに画作りは気合が入っているし、風格ある作品を作ろうと言う意欲は伝わってくる。
しかしながら、如何せん物語にアラがあり過ぎで、登場人物の造形も薄っぺらく、扱っているテーマが胸に迫ってこない。
つまらなくはないが、少々お金のかかった凡庸な二時間ドラマという感じだ。

クリスマス間近のイタリア、ローマ。
G8会合に出席する、川越外務大臣(平田満)の来訪を控えたローマの日本大使館では、準備作業が最終段階を迎えている。
テロ情報を受けて、急遽ローマ入りした外交官の黒田康作(織田裕二)は、赴任早々起こった日本人少女の誘拐事件に対処するために、研修生の安達香苗(戸田恵梨香)と共に少女の母親(天海祐希)にコンタクトする。
すると彼女の携帯に犯人からの電話が入り、黒田はとっさに少女の父親だと嘘をつくのだが・・・


日本人少女が誘拐され、母親の矢上紗江子とひょんなことから父親役を演じる羽目になった黒田が、犯人のメッセージを追ってローマ市内の観光地を駆けずり回る「天使と悪魔」ばりの前半部分はまあまあ面白かった。
もしもこの疾走感を維持できていたら、なかなかの作品になっていたかもしれないが、中途半端にテーマ性を強調した事と、凝った作劇が裏目に出る。
原作はベストセラー作家の真保裕一の手による書き下ろし小説なのだが、これって書いた後にミステリのロジックをちゃんと推敲したのだろうか。
過去にヨーロッパの某国で起こった虐殺事件に絡んで、日本国外務大臣に恨みを持つ、悲しきテロリストたちが7年もかけて計画した作戦にしては、あまりにも回りくどく、それでいて決定的な部分では偶然性に頼りすぎていて、計画のあちらこちらが破綻してしまっている。
切れ者の黒田が事件に関わったのは偶然に過ぎない訳で、もしも犯人の残した「ヒント」に誰も気付かなかったら?
また、GPS発信機を犯人グループが使えたのも、黒田の行動による偶然で、あれがなければ、どうやって警察を囮に誘導するつもりだったのだろう?
そもそも長年かけた計画の核心部分を全くの他人、しかも素人の女性に委ねるって・・・もしも彼女がボタンを押しそこなったら、あるいは土壇場で裏切ったら全てがオシマイではないか。
おまけにセキュリティ厳重なはずの警備会社の中枢司令室に、金属探知機も通らずに銃を持って堂々と入れるとか、都合良過ぎである。
計画の全貌の見えなかった前半部分は、矢継ぎ早な展開の面白さで何とか間が持ったが、佐藤浩市の正体が明かされ、物語のテーマ性が強調され始めると、逆にロジックの破綻と御都合主義が一気に表面化してしまった。
もっとも、計画の破綻の幾つかは、実は黒田が犯人グループの協力者だったという裏設定でもあるのなら、一応辻褄は合うのだけど(笑

では人間ドラマとしてはどうか。
残念ながら、これもキャラクターが記号的で深みに欠ける。
原因は物語を展開させるのに精一杯で、登場人物の内面や背景が殆ど描かれない事で、特に主人公の黒田に関しては、刻々と推移する事態に対処する姿しか描かれておらず、彼がどんな人物なのかさっぱりわからない
まあ織田裕二は、何だかんだ言ってもそれなりにスターオーラのある役者だから、画面はある程度持つのだけど、終始仏頂面で表層的なキャラクターは、今ひとつ魅力に欠けると言わざるを得ない。
おまけにこの人物、セキュリティ対策の専門家にしては首を傾げたくなる様な、後先考えない行動が多いのだ。
特にイタリア警察に銃を突きつけての大立ち回りは、どう考えても事態を深刻にするだけで、とりあえず日本人チームとイタリア人チームに別行動をとらせたいという作劇上の御都合主義にしか見えなかった。

他のキャラクターも描き方は似たような物で、佐藤浩市演じる犯人グループのリーダー藤井も、外務大臣に恨みがあるのはわかるのだけど、七年もかけた復讐の主目的がアレ??
関係者が皆死んでるというなら判らないでもないが、何しろ当事者が生きているのだから幾らでも告発の方法はあるだろう。
「隠蔽されました」の一言ではなくて、「どのように」という部分がないと、設定そのものに説得力が感じられない。
娘の身を案じる矢上紗江子を演じた天海祐希はリアリティがあったが、彼女にしても最後に黒田に託した藤井へのメッセージはあり得ないだろう。
娘が無事に保護された後なら判らないでもないが、あの時点での藤井はまだ憎き誘拐犯なのだ。
どうも登場人物の言動は内面の必然というよりも、作劇上の必然による物が目立ち、物語の強引な展開によってキャラクターの整合性が犠牲になってしまっている印象が強い。
全編を通して登場するキャラクターの中では、物語の核心部分からは一番遠い、戸田恵梨香演じる研修生が一番自然に見えるのはなんとも皮肉だ。
キャラと言えば、サラ・ブライトマンが本人役で登場しているのも話題だが、大金をかけてキャスティングしたからか、彼女の映像を劇中だけでなくエンドクレジットにまで再使用しているのも意図が良くわからない。
これが物語上で重要な意味のあるステージならともかく、単なる話の背景に過ぎないのだから、金を掛けた部分を必死に使っている様で、かえって貧乏臭く感じてしまった。

西谷弘監督の前作、 「容疑者Xの献身」もベストセラーの映画化で、世評は極めて高かったが、私としては物語のアラが気になって、傑作とまでは思えなかった。
ミステリと言うよりは人間ドラマなんだから・・・という論評も多かったが、私は人間ドラマだからミステリとしてのロジックがいい加減で良いとは思わない。
少なくとも作劇のロジックの破綻に観ている間に気がついてしまったら、人間ドラマを味わう以前に白けてしまう。
その意味では、「容疑者Xの献身」も本作も五十歩百歩ではあるのだが、やはり人物をじっくりと描いている分、キャラクターの説得力は前作の方が数段上だったと思わざるを得ない。
そういえば、本作にはなぜか脚本のクレジットがなく、シナリオ作家協会が抗議するという事態になっている。
実際には原作者の真保裕一と西谷監督の共同脚本だそうで、どちらも自分一人で書いたわけではないと譲り合った末にノンクレジットとなったらしいが、それなら二人をクレジットすれば済む話。
ホントのところ、出来栄えに自信がないから名前出したくなかったんじゃないの、と穿った見方をしてしまいたくなる。

「アマルフィ 女神の報酬」は、観ている間はそれなりに楽しめるが、観終わって振り返ると突っ込み所満載のB級観光地サスペンスという感じだ。
しかし、そのものずばりのタイトルにもなっているアマルフィ。
「ロード・オブ・ザ・リング」に登場する、ミナス・ティリスを思わせる美しい街は、私のいつか行ってみたい観光地リストにも入っているのだけど・・・・てっきり後半の舞台はアマルィになるのかと思いきや、ただ時間稼ぎで立ち寄っただけという設定にはびっくり。
まあ、英雄ヘラクレスが愛する妖精アマルフィの死を悼み、世界で一番美しいこの地に埋葬したという、街の起源に纏わる神話に、亡き妻の無念を晴らそうとする藤井たちの境遇を重ねたという事なのだろうけど、これをタイトルにしちゃうのはかなり無理がある。
「女神の報酬」という副題も、映画を観る限り意味不明だし、正直なところ看板に偽りあり。
どうも「アマルフィ」「テロ」「誘拐」「スーパー外交官」などのキーワードを先に思いついて、後は強引に話をつなげ合わせたという印象だ。
イタリア旅行の気分は味わえるので、夏休みに暇つぶしに観る分には良いかもしれない。

アマルフィといえばやはりリモンチェッロという事で、今回はプロフーミ・デッラ・コスティエーラ
社の「リモンチェッロ プロフーミ・デッラ・コスティエーラ アマルフィ」をチョイス。
元々この地方の家庭で長年作られていたレモン皮ベースのリキュールだ。
日本で一般的なレモンに比べ、数倍も大きいという特徴的なアマルフィ産リモーネをたっぷり使ったこの酒は、非常にスッキリしていて食欲の増進効果もあるという。
飲み方は様々だが、この季節なら、私はキンキンに冷やしてスパークリングウォーターで割るのが好きだ。
ちなみに、ちょっと調べてみたら、何とこの映画オフィシャルのリモンチェッロがあるらしい。
「アマルフィ・女神の雫」と名づけられたこちらはイル・グスト・デッラ・コスタ社製。
この生産者の製品は飲んだ事はないが、何れにしても今ひとつな映画の後味をスッキリさせてくれるだろう。

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オフィシャル酒

この映画のオマージュらしきシーンも

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ハリー・ポッターと謎のプリンス・・・・・評価額1450円
2009年07月22日 (水) | 編集 |
早いもので、2001年のシリーズ開始から既に8年。
ハリーたちはホグワーツ魔法学校の6年生となり、もう見た目は完全に大人だ。
第4作の「炎のゴブレット」でヴォルデモートが復活してからは、それまでの一話完結的な展開から、壮大なサガ的物語へと大きく舵を切ったシリーズだが、今回の「ハリー・ポッターと謎のプリンス」は、いよいよ最終章への助走開始。
作品のトーンはますます暗くなり、もはやファミリー映画というよりも、ダークファンタジーという形容が相応しい。

復活した闇の帝王に脅かされる魔法界。
ダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)は、ホグワーツ魔法学校にホラス(ジム・ブロードベンド)という教員を復職させる。
嘗てヴォルデモートの担当教員であったホラスは、闇の帝王の復活に関する重大な秘密を知っているらしい。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はダンブルドアに、ホラスに取り入ってヴォルデモートの秘密を聞き出す様に命じられる。
同じ頃、父親がアズカバンに送られたドラコ(トム・フェルトン)は、自らヴォルデモートに忠誠を誓い、魔法の力で守られたホグワーツに闇の勢力を侵入させようとする。
舞台裏で生死をかけた熾烈な駆け引きが行われている一方、生徒たちは恋の季節の真っ只中。
ある女子生徒の猛烈アタックに夢中になるロン(ルパート・グリント)に、ハーマイオニー(エマ・ワトソン)は冷ややかな視線を送るのだが・・・


物語的には、シリーズ中最も動きが少ない。
来年と再来年に公開が予定されている、シリーズ最終章「死の秘宝」二部作を前にした、嵐の前の静けさという感じか。
もちろん、結末への布石は着々と打たれており、決して話が滞っている訳ではない。
物語のメインストリームは、前作から本格化した魔法戦争であり、キャラクターの役割が明確化され、迫り来る最終決戦への準備が整う。
ヴォルデモートの脅威はますます顕著となり、ホグワーツの内部も光と闇に引き裂かれる。
ダークサイドの人となる事を選択したドラコに、ようやくハリーの対極としてのポジションが与えられ、ハリーとダンブルドアドラコとスネイプという師弟コンビの間で、ヴォルデモート復活の秘密という対立軸を巡る駆け引きが展開する。
人間関係はますます複雑に絡み合い、物語から退場する者もいれば、抜き差しならぬ袋小路に追い込まれる者もいるが、今回はとりあえず、最終局面を争うキャラクターたちがゲーム盤の上に並べられたところまで、という感じだろうか。

「ハリー・ポッター」シリーズは、第一作が出版された当初から、「スター・ウォーズ」との類似点の多さが指摘されてきたが、ヴォルデモート=シスの暗黒卿、不死鳥の騎士団=ジェダイ騎士団、ハリー=ルークと考えれば、このシリーズが、「SW」の旧三部作と新三部作をミックスしたような構造をもっている事がわかる。
今回のクライマックスのダンブルドアの行動は、もろ「エピソードⅣ」のオビワンだ。
もちろん、「SW」の新三部が完結したのは、J・K・ローリングが本作の原作を発表したのと同年で、多分に偶然よる部分もあるのだろうが、どんどんダークな方向へと突っ走るあたりを含めて「ハリー・ポッター」の原点にローリングの映画的な記憶が関わっている事は間違いないだろう。
もっとも、途中から始まり、そこへ通じる途中で終わる事で、ハッピーエンドとバッドエンドがループするという映画史的にも珍しい物語構造を作り上げた「SW」と違って、原作通りならこちらはもっとスッキリと終わるはずだけど。

また、権謀術数渦巻く魔法戦争だけが見所ではなく、学園物という側面があるのも、このシリーズの大きな特徴。
案外と描写される比重が大きいのは、青春真っ只中の若き魔法使いたちの恋の話だったりする。
ハーマイオニーとロンの恋の鞘当や、ハリーとジニーの微妙な関係にかなりの時間が費やされ、学園ラブストーリー半分、魔法戦争半分が物語の表裏に配されているという感じだ。
まあ恋バナの部分は、主人公たちが思春期にある事を強調する以上に意味を持って広がる事はなく、どちらかと言うと今回は手持ち無沙汰なロンとハーマイオニーの出番を作るために活用されている印象が強いのだが、一応ハリーにジニーと言う大切な存在が出来る事で、これまで以上にヴォルデモートとの対決ムードに切迫感がでていたり、ホグワーツの裏で展開するダークすぎる物語の箸休めの様な役割を果たしている。

「ハリー・ポッターと謎のプリンス」は、シリーズ映画として、忠実にポジションを守った一作だ。
このシリーズは、第一作から一貫して原作を読んでいる人に向けて作られており、そのスタンスは今回も変わらない。
もちろん原作を読んでいなくても、それなりにきちんと話は追えるし、楽しめない事は決してないが、相変わらず端折り感は否めないし、映画ではほんのチョイ役になってしまっている者を含め、キャラクター一人一人が誰だったかを思い出すのも大変だ。
その意味で、これはやはり原作の超豪華な挿絵であり、それ以上でも以下でもないのである。
「不死鳥の騎士団」から続投のデヴィッド・イェーツ監督は、膨大な文章量を誇る原作を、前作同様に比較的コンパクトに手堅く纏めているが、原作既読者向けというスタンスを維持する以上、誰が撮ったとしても劇的に違った物にはならないだろう。
もっとも、今回は初めて原作7部作の完結後に作られた映画である。
前回までは、原作の展開がどうなるのか不明だったので、なかなか大胆に脚色するのは難しいという事情があったが、今回はもう少し取捨選択が可能だったのではないか。
実際、切っても問題ない部分もあったし、「ロード・オブ・ザ・リング」の様に、次章の話の一部をこっちに持ってきてしまう事も可能だっただろう。
まあ契約上の問題もあるだろうし、映画チームにどこまで創作上の自由が与えられていたかはわからないが、ここまで来たらちょっと冒険して、一本の映画としての完成度を目指しても良かったかなあという気はする。
「ハリー・ポッター・サガ」全体の中で、クライマックスの前章としてはなかなかに良く出来た作品だと思うが、完全に話の途中で終わってしまう事もあり、この作品単体での印象はあまり強くない。
やはりこれは最終章とセットで評価すべき作品だろう。
個人的には、前作から登場したホグワーツの不思議ちゃん、ルーナ・ラブグッドの大西ライオンみたいな被り物が一番記憶に残った(笑

今回はアイルランドのブリュードッグ・ブルワリーから「パラドックス アラン1998カスク」をチョイス。
濃厚なインペリアル・スタウトを、アランのシェリーカスクの空き樽で熟成したという。
インペリアル・スタウトとは、帝政ロシアで飲まれていたスタウトがルーツで、体を暖めるためにアルコール度数が10%前後と高いのが特徴。
スパイシーかつフルーティで、強さだけではない深い味わいを持つ。
凍てつく冬の様に冷たいムードのこの映画、観賞後はこれで暖まろう。

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モンスターVSエイリアン・・・・・評価額1450円
2009年07月16日 (木) | 編集 |
この春、全米で大ヒットしたドリームワークス・アニメーション(DWA)の最新作。
「モンスターVSエイリアン」とは、身も蓋もないベタなタイトルだが、実際その通りの内容なのだ。
しかし物語こそ単純だが、実はこの映画、かなりマニアック
これがファミリー映画の企画として成立し、二億ドルを稼ぎ出すアメリカの映画文化って、やっぱりとても奥が深い。

カリフォルニア州モデストに住むスーザンは、結婚式の直前に宇宙から飛来した謎の隕石とぶつかった事で、身長15メートルの巨人になってしまい、モンスターを管理する政府の秘密基地に監禁されてしまう。
そこには人間とゴキブリが合体したコックローチ博士や半魚人の様なミッシングリンク、アメーバの様なボブ、そして体長100メートルのムシザウルスといった仲間たち(?)が暮らしていた。
その頃、スーザンを巨人に変えたエネルギーを狙うエイリアンは、巨大戦闘ロボットを地球に派遣。
ロボットは、人類のあらゆる兵器の攻撃を寄せ付けず、サンフランシスコを目指して動き始める。
秘密基地のモンガー将軍は、モンスターたちを巨大ロボットと戦わせるように大統領に進言するのだが・・・


ライバルのピクサー・アニメーションスタジオに比べて、日本ではややマイナーなイメージのDWAだが、アメリカではCGアニメ界ビック2の一方の雄であり、実際アニメーション映画の世界興行歴代1位は同社の「シュレック2」が、僅差でピクサーの「ファインディング・ニモ」をかわす。
会社設立時の経営陣と過去のディズニーとの確執は有名で、ディズニー=ピクサー系の作品を露骨にライバル視して、ピクサーが「バッグズライフ」を作れば「アンツ」を、「ファインディグ・ニモ」を作れば「シャークテイル」と同系統の作品をぶつけて、企画盗用で訴訟沙汰になった時期もあった。
何れにしても、DWAとピクサーのライバル関係が、結果的にアメリカのCGアニメーションの歴史を作って来たと言っても過言ではないだろう。
どちらかというと万人受けする王道の作品が多いピクサーに対して、徹底的にディズニー的な世界観をコケにした「シュレック」シリーズの様にパロディ色が強いのもDWA作品の特徴で、今回の作品もパロディー満載。
いぢられるのは、もちろん古今東西のモンスターとエイリアンが出てくる映画だ(笑

映画は、まるで二部構成であるかの様に前半と後半で作りが違っている。
前半は、巨大花嫁スーザンをはじめとするモンスターVSエイリアンが送り込んできた巨大ロボットのバトルが中心。
モンスターたちのキャラ自体が、全員過去のB級SFのパロディなのを皮切りに、もう詰め込めるだけ詰め込んだというパロディの嵐だ。
メジャータイトルだけでなく、殆ど誰も知らないだろうという超マイナー映画までも堂々とパロられているのは、ある意味アメリカの観客のマニアックさの証明だろう。
近年ではOTAKUも国際語になったが、日本のオタク文化がやや閉鎖的なニュアンス持つのに対して、アメリカのマニアック文化は極めて裾野が広く奥も深い
それはB級C級を含む古い映画へのアクセスのしやすさはもちろん、映画を観るという行為その物が日本よりもずっと一般的であるという事と無縁ではないだろう。
この映画に詰め込まれたパロディがしっかりと笑いを取れるかどうかは、一年間に一人当たり一本しか映画館で観ない文化と、五本観に行く文化の違いだ。
もっとも、全世界を対象とするハリウッド映画であるから、元ネタを知らなくても普通に面白い。
特にサンフランシスコを舞台にした怪獣映画的スペクタクルは圧巻で、東宝怪獣バトルに胸躍らせた記憶のある人は、文句なしに楽しめるだろう。

ところが後半、ボスキャラのエイリアンが巨大UFOで襲来し、再度モンスターたちが出動すると、映画の様相はだいぶ変わる。
ムシザウルスが早々に倒された後は、殆どエイリアンのUFOの中が舞台となり、スーザンまでもがエネルギーを吸い取られて人間サイズに戻ってしまう。
こうなると、モンスター映画のパロディ色もかなり薄くなるので、普通のSFアクションコメディという感じだ。
「SW」ネタを初めとするパロディもしっかりとやってはいるのだが、前半の破天荒でマニアックなエネルギーはちょっとパワーダウン。
かなり間抜けなエイリアンの最期も、能天気な映画のトーンから少し浮いていて、なんだか可哀想に感じてしまった。
いっそのこと、モンガー将軍の新しいコレクションにされていても良かったんじゃないだろうか。
まあ、そうは言っても、これはこれで面白いし、クライマックの危機に飛来するあのキャラクターは、日本人としてはちょっと嬉しい。
繭になってた時点でわかってはいたけど、あれって「ゴ○ラ」のパロディだと思っていたら、そっちだったのね(笑
件のキャラクターは、1961年のオリジナルにおいて、東宝怪獣として始めてアメリカ(劇中ではロリシカという架空の国名が使われているが)を襲撃した記念すべき怪獣である。
翌62年には、コロムビア映画によって全米公開され大ヒット、当時14歳のスピルバーグ少年始め、多くの映画人に影響を与えている作品なので、なるほどハリウッドでちょっと捻ったパロディにされるにはこちらが相応しいのかもしれない。

また、全体の印象としてはどうしてもパロディやアクションが強いのだが、一応これはスーザンの成長物語にもなっており、薄いながらテーマ的にも考えられている。
突然モンスターになってしまったことで、信じていた婚約者に裏切られ、街を守って戦ったのに、見た目で差別される現実。
逆境の中で、自分にとって本当に大切なものを見つけてゆくスーザンの姿は、限りなくおバカな映画に一本筋を通す事に成功している。

「モンスターVSエイリアン」は、SFやモンスター映画のマニアが観ればより面白く、そうでない人もまずまず楽しく観る事が出来る。
今年の夏はアニメーション映画の封切りが例年以上に多いが、日本映画はシリーズ物が多く、予備知識無しの人でも楽しめる完全なファミリー向けは多くない。
本作や来月の「ボルト」といったハリウッド作品は、そいう意味で夏休みに家族で見る映画を探しているお父さんにはぴったりだろう。
パロディになっている作品からすると、世代的にはむしろ親の方が楽しめるかも?
どちらかというと映画好きなファミリーにこそお勧めだ。
ちなみに、この映画に盛り込まれているパロディーは、直接的な物以外にも盛りだくさん。
例えば、スーザンの家があり、エイリアンに襲撃されるモデストというカリフォルニアの田舎街は、ジョージ・ルーカスの故郷であり、彼の「アメリカン・グラフィティ」の舞台である。
映画ファンなら、いくつネタを見つけられるか、試してみるのも面白いかもしれない。

なお、最近のハリウッド製3DCGアニメは、3Dメガネをかけて観る立体版が用意されるのが普通で、今回も立体版と、2D版の二種類がある。
立体映画の上映システムが日本でもようやく普及し始めたが、過去に何度か起こった立体映画ブームがテレビとの差別化を主目的としていたのに対して、今ハリウッドで立体映画が増えている最大の理由は、増え続ける海賊版対策という極めて切実な物。
だから、今後ますますハリウッドの大作は立体映画の方が主流となるだろうが、元々見世物的な意味で作られている訳ではないので、立体感をことさら強調する演出は控えめだ。
この作品も、冒頭のカットを除けば立体を意識させる演出は多くなく、まあどちらで観ても印象はそれほど変わらないはず。
2000円の特別料金を出してまで、立体版を観るかどうかは正直微妙なところだ。

今回はコンパスボックス社のスコッチウィスキー、その名も「ピートモンスター」をチョイス。
2000年創業の新しい会社だが、ウィスキーだけにピートの怪物という訳だ。
ラベルにも、いかにもB級映画に出てきそうなモンスターが描かれている。
まあ味のほうは怪物的に凄いという訳ではないが、ピートモンスターというくらいだからスモーキーで、フルーティさとスパイシーさのバランスも良く、こちらもウィスキー好きなら広く好まれる味わいだと思う。

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ノウイング・・・・・評価額1350円
2009年07月11日 (土) | 編集 |
ニコラス・ケイジ主演のSF映画というだけで、なんとなくラジー賞の香りを嗅ぎ取ってしまうのは、良くない先入観と言うべきか。
もっとも、予告編の印象から大味なディザスターSFかと思っていると、色々な意味で裏切られる。
「ダークシティ」「アイ、ロボット」の、アレックス・プロヤス監督が作り上げた「ノウィング」は、どちらかというとM・ナイト・シャマラン風のミステリSFで、意外と言っては失礼ながら、細やかに計算され、しっかりと作られている。
ただ、この作品の持つ独特の世界観は、人によって好き嫌いがはっきりと別れそうだ。

MITで宇宙物理学の教鞭をとるジョン(ニコラス・ケイジ)は、小学生の息子ケイレブ(チャンドラー・カンタベリー)と二人暮らし。
ある日、ジョンはケイレブの鞄の中に、奇妙な数列が羅列された紙を見つける。
それはケイレブの通う小学校の創立50周年記念のイベントで、半世紀前に埋められたタイムカプセルから取り出された物だった。
数列にある規則性を見出したジョンは、そこに記載されているのが1959年以降に起こった事故や大災害の発生日時と犠牲者数である事を発見する。
しかもそこには、未だ起こっていない3件の悲劇が「予言」されていた・・・


冒頭、1959年に少女ルシンダが「啓示」を受け取るシークエンスから、謎が謎を呼ぶ形で展開する。
50年間封印されていた暗号、子供にだけ聞こえるささやき声、ケイレブに迫る謎の男たち、そして街を襲う異様な熱波。
SFやミステリ好きならは、思わず身を乗り出してしまう上手い展開だ。
実際映画が始まってから1時間あたりまでの謎解きは一つの謎を解明しかかると、次の謎が浮かび上がるように構成され、飽きさせない。
この作品は、バジェットが1億ドルを超えるような超大作ではないので、ビジュアル的な見せ場はやや控えめながらも、飛行機の墜落や地下鉄事故などのVFXも迫力があり、次々と的中する「予言」に直面する主人公の戸惑いと恐怖を伝えると言う役割は、十二分に果していると言って良いだろう。

常にワンパターンの演技しか出来ないニコラス・ケイジも、監督が彼のキャラクターを心得ている事もあり、上手く生かされている。
大学教授のくせに状況説明が下手すぎるのはハリウッド映画のお約束だが、自分の手に負える範疇を遥かに超える事態に直面し、葛藤する等身大の悩める父親象は、いつものヒーローキャラ以上に説得力があった。

もっとも、映画を観終わって感じる物は、正直なところ何も無かった。
それは、この映画の断定的な結論と、おそらくは神学的な世界観に原因がある。
世界の全ては既に決定されているのか、それとも偶然の連続によって瞬間瞬間に生み出されて行くのか。
映画が始まって間もなく示される、この決定論と非決定論という、世界の認識に対する根源的な問いこそ、この作品の実質的な核である。
映画は、最初この決定論をロジックに使った謎解きミステリと思わせながら、やがて予想外の方向に進んで行くのだ。
いや、正確にいえば物語の展開そのものにそれほど意外性は無い。
数列に隠された予言の謎が解ければ、次はその予言は何処から来たのかという謎に繋がるのは必然であり、ケイレブに付きまとう謎の男たちの正体も、この手のSFを観慣れた人には容易に想像がつくだろう。
予想外なのは、物語の結末がそのまま宗教的な世界に落とし込まれてゆく事である。

終末の時、選ばれし者たちが、神に使わされた天使に導かれ、生命の樹が風になびく新たなるエデンの園へ到着するラストは、まるっきり宗教画の世界だ。
まあ厳密には天使とは言ってないのだけど、クライマックスの昇天シーンなどでは明らかにビジュアルで天使をイメージさせており、意図は明快だろう。
要するにこれは「星を継ぐもの」の物語であり、ある意味でプロヤス版の「2001年宇宙の旅」であり、「新世紀エヴァンゲリオン」なのだろうが、そこにいたるまでのプロセスが、極めて宗教的な決定論に基づいているのである。
何しろ、ニコラス・ケイジが何を悩もうと、何を探し出そうと、この映画の結末は全てはじめから神の御心のままに決まっていた訳で、ぶっちゃけ登場人物の行動は全部ムダというのがこの映画の結論なのだ。
同時に、これはSF的な解釈による旧約聖書の映像化でもある。
本作で引用されているエゼキエル書の、堕落したイスラエル人を嘆く神の「乗り物」の描写は昔からUFOだという説があり、この映画もそのあたりにインスパイアされていると思われる。
エゼキエル書では、預言者を拒否し神を軽視するイスラエルは滅び、ユダヤの王国はゼロからリセットされる事になるのだ。

「ノウイング」は入り口はミステリSFだが、出口は宗教映画であった。
たぶん、この映画は終末論者、特に救いの時には神が人間を選別するという予定説などを信じている人たちには、ある程度の説得力を持つ物語なのだと思う。
だが、決定論者でも運命論者でもない私としては、事実上の神を持ち出して、人間は結局その掌の上という結論は、人間存在を自己否定するようなニュアンスを受けてしまった。
もちろん例外もあろうが、基本的にドラマツルギーと言うのは人間の自由意志を前提に、行動し、葛藤し、運命を切り開いて行く事で成り立っていると思う。
その意味で、この映画の結論はドラマツルギーの否定でもある。
まあこの作品の場合、最後に訪れた家族の和解という事だけは、ジョンの自由意志による変化と言えなくもないが、全体で観ればこれも決定論の結果として導き出された行動なので、印象としては弱い。
実際のところ、この世界が既に決定されているのか、そうでないのかは、私にはわからない。
ただ、超越的な存在に全てが決定されていて、人間はそれを受け入れるだけの物語に、私は積極的に意味を見出すことは出来なかった。
キリスト教国であるアメリカでもコケたのは、やはりこの世界観に違和感を持った人が多かったのではないかなあと思うのだが。
もっとも、ミステリSFとしては良く出来ているし、日本ではまず出てこない類の映画であることは間違いない。
この映画を観て、果たして自分はどう感じるのか、試してみる価値はあるかもしれない。

今回は、もしも明日世界が滅ぶとしたら飲みたい酒。
日本酒の最高峰「十四代龍月 純米大吟醸斗瓶取り 」をチョイス。
これは値段が高すぎて、未だ飲んだことが無い酒だけど、明日死ぬと判れば後先考えずに買っちゃうかもしれない。

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MW-ムウ-・・・・・評価額950円
2009年07月06日 (月) | 編集 |
「MW-ムウ-」は、手塚治虫が大人向け作品に傾倒していた1976年に発表した、ピカレスク漫画の映画化である。
膨大な著作を残した手塚だが、実写映画化は珍しく、私の知る限りでは「マグマ大使」「火の鳥」「瞳の中の訪問者(ブラック・ジャック)」「ガラスの脳」「どろろ」 の五作しかない。
この内、「マグマ大使」は実質テレビの特撮番組のザ・ムービーだが、不思議なことに残り四作の映画は、名作の誉れ高い原作とは対照的に、歴史的な大失敗作が並んでしまっている。
過去に映画化された作品と比べると、本作は原作の知名度が低く、内容的にも比較的映画化しやすい物なのだが、残念ながら今回も「手塚漫画の実写化は成功しない」というジンクスを打ち破る事は出来なかった様だ。

16年前、ある島に貯蔵されていた米軍の「MW」と呼ばれる化学兵器が漏れ出し、島民全員が死亡するという事件が起こる。
事件は政府によって隠蔽されたが、人知れず二人の少年が生き延びていた。
成長した二人は対照的な人生を歩みだす。
一流銀行員となった結城美智夫(玉木宏)は、事件にかかわった人間を探し出し、次々に凄惨な方法で処刑してゆく。
一方、カソリック神父となった賀来裕太郎(山田孝之)は、良心との葛藤に苦しみながらも、結城の犯罪に加担し続けている。
しかし、結城の本当の狙いは、16年前の事件を引き起こした「MW」を自ら手に入れる事だった・・・


一言で言えば、脚色で大失敗している映画である。
映画は、原作の設定を二つの点で大きく変更している。
まず、原作では主人公の結城美智夫は、幼い頃にMWを吸い込んだ事によりを侵され、一片の良心もモラルも持たない人間となったと設定されている。
人間の作り出した悪魔の兵器によって、文字通り悪魔そのものとなってしまった結城は、人間的な感情を持たない絶対悪なのである。
故に彼の悪事には動機がない。
結城の行動は一見復讐劇にも見えるのだが、原作では物語が進むにつれて、その心に巣食う想像を超えた底知れぬ闇が露になり、読む者を戦慄させる事になる。
つまり、彼は「ダークナイト」のジョーカーにも似た、完全な悪のメタファーなのだ。
ところが映画はこの設定をばっさりカットしてしまい、その結果結城というキャラクターの立ち位置が妙に中途半端になってしまった。
玉木宏が熱演しているのは判るのだが、元々のキャラクターに説得力が無いので、どうも無理して必死に悪事を働いている様に見えて痛々しい。
彼の行動は悪のための悪というよりは、単にMW事件に対する復讐にしか見えなくなり、悪役としてのスケールはぐっと小さくなってしまった。

もう一つ、原作では賀来と結城はバイセクシャルで、長年肉体関係にある。
賀来にとっての結城は、愛憎を超えた情念で結ばれた運命の相手であり、だからこそ結城が何者であれ、賀来は決して彼を見捨てられないのだ。
そして結城と賀来の間に流れる結びつきは、この物語の核でもある。
人間とは何か、悪とは何か、信仰とは何かというこの物語のテーマ全てが二人を軸に展開しているのだから、当然である。
ところが映画の脚本家は一体何を考えたのか知らないが、この決定的に重要な設定を丸ごと消し去るという愚を犯している。
一応、結城が賀来の命の恩人であるという新しい設定を付け加えているが、当然ながら理由付けとしては弱過ぎる。
映画を観ている人には、このカトリック神父が何故信仰に背いてまで、結城の凄惨な犯罪に手を貸し続けるのかが理解できないだろう。

要するに、この映画の脚本家は、一方の主人公が何者で、もう一方の主人公は何故相方を止められないのか、という物語の根幹の部分を綺麗さっぱり消去してしまったのだ。
いわば家の土台を外してしまった訳だが、だからと言って別の土台を入れたわけでもない。
故に、この映画は作品の方向性が定まらず、最初から最後まで迷走気味だ。

冒頭の、やたらと力の入ったバンコクでの追跡劇のシークエンスは、海外ロケで国内では出来ないようなアクションをぶちかまし、観客を作品世界に引き込もうという狙いなのだろう。
なるほど、これがアクション映画なら、それなりに良く出来たオープニングといると言えるだろが、その後作品のトーンがまるで変わってしまうので、映画全体からは浮いている。
お金と時間をかけるべきは、ここではなかったはずだ。
まあ展開は矢継ぎ早なので、なんとなく勢いで観ている事は出来る。
だが、石橋凌演じる刑事が突然結城のアジトに不法侵入したり、MW事件の責任者だった政治家が、いつの間にか結城が犯人だと知っていたり、観ている間も観終わった後も、辻褄の合わない、あるいは強引過ぎる展開に頭を捻るばかり。
極めつけはクライマックスの展開で、なんと日本国警察も在日米軍も、数十万人の命が懸かった事件解決へのイチかバチかの賭けを、結城の共犯者である賀来に委ねるのである。
こんな馬鹿げた展開はないだろう。
キャラクターの背景設定を変えているので、原作のクライマックスをそのまま使うことは出来なかったのは理解出来るが、止せば良いのに中途半端に原作をトレースしようとした事で、恐ろしく不自然な展開になってしまい、ラストの落ちも陳腐極まりない。

手塚治虫は人間の抱える原罪に目を向け、33年も前に聖職者の背徳やバイセクシャルなどの、タブー視されていた設定を物語の根幹に置く事で、物語のテーマ性を際立たせた。
だが、21世紀になって作られた映画は、一体誰に何を遠慮したのかタブーと共にテーマ性までも取り去ってしまい、結果的に極めて表層的でとっ散らかった印象のB級サスペンス映画になってしまっている。
映画と原作はもちろん違った物だが、原作から切り取るだけ切り取って、その代わりになる物を何も提示できず、エンターテイメントとしても中途半端となると、一体なんのためにタブー満載の「MW-ムウ-」をわざわざ映画化したのか、はなはだ疑問だ。
人類絶滅を願う孤高の絶対悪、結城美智夫と悩めるカソリック神父、賀来裕太郎の情念の物語は、作り様によってはもう一つの「ダークナイト」にもなり得たはずだ。
作品の持つポテンシャルを考えると、何とも勿体無い作品と言わざるを得ない。

今回は、手塚治虫が育った兵庫県の酒どころ灘から、300年の歴史を誇る櫻正宗の「大吟醸 櫻華一輪」をチョイス。
大吟醸らしくフルーティで芳醇。
口に含むとふわりとした吟醸香りが口いっぱいに広がる。
これからの季節には冷で飲むのがおすすめだ。
手塚漫画の映画化も、このぐらいのクオリティを望みたい物だが・・・。

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愛を読むひと・・・・・評価額1650円
2009年07月01日 (水) | 編集 |
「愛を読むひと」というタイトルからして、てっきり恋愛物だと思っていた。
実際始まってから3、40分の展開は、懐かしの「青い体験」みたいな物で、15歳の少年と20歳以上も年上の女性との恋物語は特に新鮮味は無い。
ところが、彼らのつかの間の逢瀬が終わってからの意外な展開は、ある意味ショッキングであり、なるほどこう来たかというインパクトがある。

1958年、西ドイツのノイシュタット。
15歳のマイケル(デヴィッド・クロス/レイフ・ファインズ)は、突然気分が悪くなり苦しんでいるところを、路面電車の車掌として働く21歳年上のハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられる。
やがて二人は人知れず逢瀬を重ねる仲になる。
ハンナはいつもマイケルに本の朗読を求め、その後情事を重ねる毎日。
だが会社から昇進を告げられたある日、ハンナは忽然と姿を消す。
8年後の1966年、大学の法学部で学ぶマイケルは、ゼミで傍聴に訪れたナチス時代の戦争犯罪を裁く裁判の被告席に、懐かしいハンナの姿を見る。
裁判に通ううちに、マイケルはハンナがずっと隠してきたある「秘密」に気づくのだが・・・


「青い体験」状態の前半では、わざわざドイツを舞台にしている事の意図がよく判らなかったが、全体を通してみると納得。
これはハンナという一人の女性の半生と、戦後ドイツ史を絡ませた大河ドラマなのだ。
二人がただ情事に溺れている間には、それほどの意味があるとは思わなかったさりげない描写、意味深なタイトルといったピースが、物語が進みにつれてハンナの隠された過去にピタリと嵌ってゆき、そこには戦後ドイツ史の抱える複雑な葛藤が浮かび上がってくるという寸法だ。

同時にこれは、15歳の少年と36歳の中年女性の恋に比喩された、戦前・戦中の記憶を持つ古いドイツと、戦後の新しいドイツの邂逅の物語でもある。
国家というマクロ的な視点ではなく、ごく普通の市民の持つ戦争の歴史
物語の中でハンナはホロコーストに関与した戦争犯罪で裁かれるが、これは彼女の「罪」や戦争の残虐性を描く話ではない。
1958年からほぼ40年間に渡る物語の中で、ハンナとの関わりを通して考え続けるマイケルの視線を借りて、私たちに突きつけられる重い問いかけが本作の本質だ。
ただ与えられた仕事に対してあくまでも忠実だったハンナを、当時見て見ぬフリをしていた人間たちに裁く権利があるのかという疑問。
二人だけが知るハンナの「秘密」は、もしかしたら彼女を無罪に出来るかもしれない事だが、あくまでも誇り高い彼女はその事実に口を噤む事を選び、マイケルもまた彼女を愛した男として一つの選択をする。
映画は繰り返し、繰り返し、観る者に問う。
もしも私たち観客が、戦争中のハンナだったら、あるいは裁かれる彼女の過去を知ったマイケルだったら一体どうするのか?

「リトル・ダンサー」スティーブン・ダルドリー監督は、不思議な出会いをした男女の40年間に渡る時を誠実に描き、人間存在の本質に迫ろうとしている。
人は誰でも、過ちを犯したくは無いのだけど、人生の中ではその時々の葛藤があり、うまくいく時もあれば、いつの間にか決して望んでいない方向に転んでしまうこともある。
そんな人間を単に愚かと切り捨てる事もできるだろうが、でもそれを含めて人間であり、だからこそ切ないほどに互いが愛しいのだ、というのがダルドリーのスタンスである様に思う。

作品のテーマ性を体現する、ハンナを演じるケイト・ウィンスレットは、本作でオスカーを受賞。
人生に疲れた薄幸の中年女性を演じさせたら、間違いなく今世界一だろう。
もっとも本人はまだ34歳で老け込む歳でもないのだけど、今回は秘められた過去を持つ厭世的なキャラクターという事もあって、彼女の演技力が際立つ。
出演作の中では、やはり「タイタニック」の知名度が圧倒的なのだろうけど、元々この人は18歳で主演したピーター・ジャクソンの「乙女の祈り」以来、心のどこかがちょっと壊れちゃった役を得意とする。
前作の「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで」で演じた主婦とは、あらゆる面で対照的なのだが、抱えている物はどこか共通する。
キャラクターの説得力はどちらも出色の出来栄えだったが、こちらがオスカーの対象となったのはやはり役柄のリスキーさ、演技者としてのチャレンジがより必要な作品だったからだろうか。
相手役のマイケルは、少年時代の50、60年代をデヴィッド・クロスが、それ以降をレイフ・ファインズが演じ、90年代のファインズは物語のストーリーテラーとしての役割りも持つ。
そう言えばファインズが大ブレイクしたのは、ナチスの絶滅収容所の所長を演じた「シンドラーのリスト」だった。

「愛を読むひと」は、骨太なテーマを内包した歴史ドラマであり、切ない愛を描いた人間ドラマでもある。
2度のオスカーに輝く名手、クリス・メンゲスとロジャー・ディーキンスによる、重厚な空気感のあるカメラも素晴らしく、緻密に再現された時代性を含めて映像的にも見ごたえはたっぷりだ。
観た人の心に長く余韻を残す力作である事は間違いない。
ただ、物語のキーとなるハンナがひた隠す「秘密」が、はたして一生の自由と引き換えにするほどに「恥ずかしい」物かと言うと疑問だ。
300人を虐殺した殺人者というレッテルよりも、こちらの方が彼女の誇りを傷つけるとは思えない。
まあこれが違う秘密だと物語の根本が崩れてしまうし、もしかしたら原作ではもう少しフォローがあるのかもしれないが、これはミステリアスな物語全体のパーツを繋ぎ止めるコアの部分。
映画を観る限り、この理由付けは少し弱く、映画全体の印象がやや曖昧になってしまった感があり、その点はちょっと残念なポイントだ。

さて、今回は映画の舞台となるドイツワイン、ミュラー・カトワールの「ハムバッハー・ レーマーブルンネン・ カビネット」の2003をチョイス。
辛口ながら、喉越しはやわらかくとてもフルーティな白で、これからの暑い季節にもぴったりだ。
この爽やかさは、どちらかというとケイト・ウィンスレットの様な熟女というよりは、若々しい村娘という感じだけど。
ドイツワインは比較的コストパフォーマンスが高いのも魅力だ。

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