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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2009年08月31日 (月) | 編集 |
子供のころに大切にしていたモノたち。
いつも一緒に寝ていたダンボのぬいぐるみ、お年玉で買ったマジンガーZの超合金、幼稚園で作った鬼のお面・・・でも、どれもいつの間にか無くなっていた。
捨てた記憶はないのに、家のどこを探しても見つからず、忽然と消えてしまった。
もしも、そんな人の記憶から抜け落ちてしまったモノたちを、実は狐が拾ってリサイクルしていたら?
「ホッタラケの島~遥と魔法の鏡~」は、そんな誰にでも覚えのあるモノと思い出から広がる、アミニズム的モッタイナイ・ファンタジー。
言わば二十一世紀版の、エコロジカルな「不思議の国のアリス」という感じの作品だ。
高校生の遥(綾瀬はるか)は、幼い頃に亡くなった母親の形見の手鏡が消えている事に気付き、なくし物を見つけてくれるという神社に御参りする。
すると、そこで人間の忘れ物を拾ってゆく、変な生き物を目撃する。
生き物を追いかけた遥は、神社の裏手にある小さな水盤から、不思議な世界へ吸い込まれてしまう。
そこは、人間の世界から捨てられたり、忘れられたりした物を、狐に似た妖怪たちが集めて暮らすホッタラケの島。
遥は、母の手鏡もここにあるのではと考え、島のおちこぼれ住人のテオ(沢城みゆき)にたのんで、手鏡を探し始めるのだが・・・。
まあ狐と言っても、実際には狐に似た妖怪というか、異世界の生き物なのだけど、彼らが人間がホッタラケにしたゴミを集めて、魔法で世界を作っているというアイディアが秀逸だ。
物語のキーとなるのは遥が母からもらった形見の手鏡。
魔法をエネルギー源とするこの世界では、鏡には強い魔力が宿っているとして珍重されるのだ。
妖怪たちは、人間の生み出した物の残滓を使って自分たちの世界を形作っているわけだが、同時に欲しいものを全て手に入れ、古いものを忘れて行く人間の欲望を非常に恐れていて、ある種の自己矛盾を抱えているのが興味深い。
この不完全な世界を支配しようとする「男爵」は、いわば人間界の合わせ鏡であるこの世界で、人間的な醜さをカリカチュアした存在と言えるだろう。
面白かったのは、ホッタラケにされた物を、持ち主の思い出の詰まったタイムカプセルと捕らえている事で、妖怪の世界ではその物に残された思い出を映画や演劇の様に鑑賞して楽しむ娯楽すらある模様。
この点で重要なキャラクターとなるのが、やはり遥が放置した事で、いつの間にかホッタラケの島に連れて来られていた羊のぬいぐるみのコットン。
手鏡争奪戦だけでは一本調子になってしまうところを、コットンと遥の再会が絡む事で物語にドラマチックなメリハリがついた。
忘れられても、ホッタラケにされても、遥を慕い続けるコットンの想いは何とも切なく、まさかこんなユルキャラに泣かされるとは思ってもみなかった。
ただし、これによってただでさえゴチャゴチャした物語がさらに複雑になってしまった感は否めず、物語のテーマという点では焦点がボケてしまった様に思う。
実はコットンは、母を失った幼い遥に送られた父親からのプレゼント。
そう、この作品は思い出の中の母性を探す冒険の中、思わぬ形で現在の遥が自分から遠ざけてしまっている父性というもう一つの愛情を再発見する物語になっている。
二つのホッタラケにされた大切な物を使って、遥が見失っている物の本質を描くという狙いはわかるが、男爵との戦いや地下世界の冒険など物語に盛り込まれた要素があまりにも多すぎる。
もっとも、複雑に見えるわりにはストーリーラインはロジカルに整理されており、観難くなっていないのは大したものだが、ここはもう少しシンプルにした方が盛り上がったと思う。
打ち捨てられた玩具の葛藤というのは、おそらく「トイ・ストーリー」が元ネタだろうが、佐藤信介監督は、この思い出で作られた魔法の世界に、自身の映画的な記憶を散りばめて膨らませている。
一番顕著なのは、やはりビジュアルのデザインに大きな影響を与えているであろう、「天空の城ラピュタ」からのイメージろうか。
無数のカラフルな建物が壁面にびっしりと張り付いた島の世界観、そこに張り巡らされたトロッコの様な列車で繰り広げられるアクション、そして空を飛ぶことへの強いこだわりなど、「ラピュタ」的な物語を換骨奪胎した活劇としての魅力はなかなかだ。
他にも、テオの悪友三人組はどこかタツノコ調だったり、彼らが操る魔法で作った恐竜(?)や地下世界の巨人などの造形はティム・バートン系のストップモーションアニメを思わせる。
まあ節操が無いと言えばそうなのだが、思い出の寄せ集めで出来たホッタラケの島という設定が、これらごちゃ混ぜの要素を上手い具合に作品世界に吸収している。
ユニークな作品世界を表現する、映像の方向性もかなりユニーク。
本作は、日本では比較的珍しいフル3DCGの長編作品だ。
21世紀を迎える頃に、セルアニメから3DCGへ急速にシフトしたアメリカと異なり、日本のアニメーションは依然として手描きが主流派。
制作手法そのものはかなりデジタル化されたとは言っても、キャラクターは基本的に手描きで、3DCGは主にロボットやSF物の背景として、2Dの補完的な役割を果たす事が多かった。
ところがこの作品の場合、キャラクターが全て3DCGで表現され、背景美術に美しい手描き素材が効果的に使われているのである。
実は、これは非常に理にかなっている。
3DCGは基本的に実写と考え方が同じなので、映像として表現される物は、全て3次元で作りこまなければならない。
もしも大都会の全景を3DCGで作ろうとした場合、原則的に映っている全てのビル、車、街路樹、通行人をモデリングしなければならないのであるが、当然そんな事をすれば膨大な労力がかかる。
だから、ハリウッド映画の場合、風景の全景やVFXシーンの背景の場合、観客がCGだと思い込んでいる映像も、実は昔ながらのスーパーリアリズムアート、マットペインティングと呼ばれる手法で作られている場合が多いのである。
「ホッタラケの島」の手描き美術も同様の考え方だが、リアリズムではなく、絵である事を隠さない伝統的なセルアニメーションの背景画をデジタル加工し、3Dの質感も水彩画の様な柔かいタッチでレンダリングして違和感なくコンポジットする事で、セルアニメテイストのフル3DCGという独特のビジュアルを獲得している。
これは、日本ならではの3DCGの方向性として、注目すべき成果であり、VFXを多用した実写映画「修羅雪姫」や、多くのゲームムービーの演出でCGの特性を知り尽くした佐藤信介監督ならではの、独創的な世界観だった。
ただし、人間のキャラクターデザインに関しては、もう少しカリカチュアを強めても良かったと思う。
妖怪キャラとの対比の問題もあったのだろうけど、現状では中途半端にリアルさを感じさせて、今ひとつ感情移入しにくかった。
声優の起用方もユニークだ。
原則的に、人間のキャラクターは実写の俳優が演じ、ホッタラケの狐キャラはアニメの声優が演じているのだが、マッチングは悪くなく、両者の間での違和感もない。
主人公の遥を演じているのは、「おっぱいバレー」の好演が記憶に新しい綾瀬はるかで、本作でもなかなかの健闘を見せてくれる。
実写俳優がアニメキャラを演じる時にありがちな、素が出すぎて本人が思い浮かんでしまう事もなく、正直クレジットが出るまで誰だかわからなかった。
ちなみに、共同脚本の安達寛高とは作家の乙一なのだけど、たぶんプロットにはかなり彼の意見が反映されているのではと想像する。
特に一見明るそうで内面に影を抱えたキャラクター造形などに、彼の小説作品と共通する内向性があるのは面白かった。
この作品の舞台になっているのは、今も古の妖怪たちの息吹を感じる武蔵野。
というわけで、今回は麻原酒造の「武蔵野 純米大吟醸」をチョイス。
やや強目の酸味がすっきりした風味を演出し、フルーティで飲みやすい。
この季節に冷で飲むのにぴったりの酒で、バーベキューなどの肉料理にも向きそうだ。
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いつも一緒に寝ていたダンボのぬいぐるみ、お年玉で買ったマジンガーZの超合金、幼稚園で作った鬼のお面・・・でも、どれもいつの間にか無くなっていた。
捨てた記憶はないのに、家のどこを探しても見つからず、忽然と消えてしまった。
もしも、そんな人の記憶から抜け落ちてしまったモノたちを、実は狐が拾ってリサイクルしていたら?
「ホッタラケの島~遥と魔法の鏡~」は、そんな誰にでも覚えのあるモノと思い出から広がる、アミニズム的モッタイナイ・ファンタジー。
言わば二十一世紀版の、エコロジカルな「不思議の国のアリス」という感じの作品だ。
高校生の遥(綾瀬はるか)は、幼い頃に亡くなった母親の形見の手鏡が消えている事に気付き、なくし物を見つけてくれるという神社に御参りする。
すると、そこで人間の忘れ物を拾ってゆく、変な生き物を目撃する。
生き物を追いかけた遥は、神社の裏手にある小さな水盤から、不思議な世界へ吸い込まれてしまう。
そこは、人間の世界から捨てられたり、忘れられたりした物を、狐に似た妖怪たちが集めて暮らすホッタラケの島。
遥は、母の手鏡もここにあるのではと考え、島のおちこぼれ住人のテオ(沢城みゆき)にたのんで、手鏡を探し始めるのだが・・・。
まあ狐と言っても、実際には狐に似た妖怪というか、異世界の生き物なのだけど、彼らが人間がホッタラケにしたゴミを集めて、魔法で世界を作っているというアイディアが秀逸だ。
物語のキーとなるのは遥が母からもらった形見の手鏡。
魔法をエネルギー源とするこの世界では、鏡には強い魔力が宿っているとして珍重されるのだ。
妖怪たちは、人間の生み出した物の残滓を使って自分たちの世界を形作っているわけだが、同時に欲しいものを全て手に入れ、古いものを忘れて行く人間の欲望を非常に恐れていて、ある種の自己矛盾を抱えているのが興味深い。
この不完全な世界を支配しようとする「男爵」は、いわば人間界の合わせ鏡であるこの世界で、人間的な醜さをカリカチュアした存在と言えるだろう。
面白かったのは、ホッタラケにされた物を、持ち主の思い出の詰まったタイムカプセルと捕らえている事で、妖怪の世界ではその物に残された思い出を映画や演劇の様に鑑賞して楽しむ娯楽すらある模様。
この点で重要なキャラクターとなるのが、やはり遥が放置した事で、いつの間にかホッタラケの島に連れて来られていた羊のぬいぐるみのコットン。
手鏡争奪戦だけでは一本調子になってしまうところを、コットンと遥の再会が絡む事で物語にドラマチックなメリハリがついた。
忘れられても、ホッタラケにされても、遥を慕い続けるコットンの想いは何とも切なく、まさかこんなユルキャラに泣かされるとは思ってもみなかった。
ただし、これによってただでさえゴチャゴチャした物語がさらに複雑になってしまった感は否めず、物語のテーマという点では焦点がボケてしまった様に思う。
実はコットンは、母を失った幼い遥に送られた父親からのプレゼント。
そう、この作品は思い出の中の母性を探す冒険の中、思わぬ形で現在の遥が自分から遠ざけてしまっている父性というもう一つの愛情を再発見する物語になっている。
二つのホッタラケにされた大切な物を使って、遥が見失っている物の本質を描くという狙いはわかるが、男爵との戦いや地下世界の冒険など物語に盛り込まれた要素があまりにも多すぎる。
もっとも、複雑に見えるわりにはストーリーラインはロジカルに整理されており、観難くなっていないのは大したものだが、ここはもう少しシンプルにした方が盛り上がったと思う。
打ち捨てられた玩具の葛藤というのは、おそらく「トイ・ストーリー」が元ネタだろうが、佐藤信介監督は、この思い出で作られた魔法の世界に、自身の映画的な記憶を散りばめて膨らませている。
一番顕著なのは、やはりビジュアルのデザインに大きな影響を与えているであろう、「天空の城ラピュタ」からのイメージろうか。
無数のカラフルな建物が壁面にびっしりと張り付いた島の世界観、そこに張り巡らされたトロッコの様な列車で繰り広げられるアクション、そして空を飛ぶことへの強いこだわりなど、「ラピュタ」的な物語を換骨奪胎した活劇としての魅力はなかなかだ。
他にも、テオの悪友三人組はどこかタツノコ調だったり、彼らが操る魔法で作った恐竜(?)や地下世界の巨人などの造形はティム・バートン系のストップモーションアニメを思わせる。
まあ節操が無いと言えばそうなのだが、思い出の寄せ集めで出来たホッタラケの島という設定が、これらごちゃ混ぜの要素を上手い具合に作品世界に吸収している。
ユニークな作品世界を表現する、映像の方向性もかなりユニーク。
本作は、日本では比較的珍しいフル3DCGの長編作品だ。
21世紀を迎える頃に、セルアニメから3DCGへ急速にシフトしたアメリカと異なり、日本のアニメーションは依然として手描きが主流派。
制作手法そのものはかなりデジタル化されたとは言っても、キャラクターは基本的に手描きで、3DCGは主にロボットやSF物の背景として、2Dの補完的な役割を果たす事が多かった。
ところがこの作品の場合、キャラクターが全て3DCGで表現され、背景美術に美しい手描き素材が効果的に使われているのである。
実は、これは非常に理にかなっている。
3DCGは基本的に実写と考え方が同じなので、映像として表現される物は、全て3次元で作りこまなければならない。
もしも大都会の全景を3DCGで作ろうとした場合、原則的に映っている全てのビル、車、街路樹、通行人をモデリングしなければならないのであるが、当然そんな事をすれば膨大な労力がかかる。
だから、ハリウッド映画の場合、風景の全景やVFXシーンの背景の場合、観客がCGだと思い込んでいる映像も、実は昔ながらのスーパーリアリズムアート、マットペインティングと呼ばれる手法で作られている場合が多いのである。
「ホッタラケの島」の手描き美術も同様の考え方だが、リアリズムではなく、絵である事を隠さない伝統的なセルアニメーションの背景画をデジタル加工し、3Dの質感も水彩画の様な柔かいタッチでレンダリングして違和感なくコンポジットする事で、セルアニメテイストのフル3DCGという独特のビジュアルを獲得している。
これは、日本ならではの3DCGの方向性として、注目すべき成果であり、VFXを多用した実写映画「修羅雪姫」や、多くのゲームムービーの演出でCGの特性を知り尽くした佐藤信介監督ならではの、独創的な世界観だった。
ただし、人間のキャラクターデザインに関しては、もう少しカリカチュアを強めても良かったと思う。
妖怪キャラとの対比の問題もあったのだろうけど、現状では中途半端にリアルさを感じさせて、今ひとつ感情移入しにくかった。
声優の起用方もユニークだ。
原則的に、人間のキャラクターは実写の俳優が演じ、ホッタラケの狐キャラはアニメの声優が演じているのだが、マッチングは悪くなく、両者の間での違和感もない。
主人公の遥を演じているのは、「おっぱいバレー」の好演が記憶に新しい綾瀬はるかで、本作でもなかなかの健闘を見せてくれる。
実写俳優がアニメキャラを演じる時にありがちな、素が出すぎて本人が思い浮かんでしまう事もなく、正直クレジットが出るまで誰だかわからなかった。
ちなみに、共同脚本の安達寛高とは作家の乙一なのだけど、たぶんプロットにはかなり彼の意見が反映されているのではと想像する。
特に一見明るそうで内面に影を抱えたキャラクター造形などに、彼の小説作品と共通する内向性があるのは面白かった。
この作品の舞台になっているのは、今も古の妖怪たちの息吹を感じる武蔵野。
というわけで、今回は麻原酒造の「武蔵野 純米大吟醸」をチョイス。
やや強目の酸味がすっきりした風味を演出し、フルーティで飲みやすい。
この季節に冷で飲むのにぴったりの酒で、バーベキューなどの肉料理にも向きそうだ。

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2009年08月25日 (火) | 編集 |
もしもあなたが、一年間の単身赴任を命じられたとしたら・・・?
しかもその行き先が、雪と氷以外何も存在しない南極大陸だったとしたら・・・?
「南極料理人」というストレートなタイトル通り、これはひょんな事から南極行きの辞令を受けてしまった、一人の料理人の物語。
原作者の西村淳は実際に第30次南極観測隊、第38次南極観測隊ドーム基地越冬隊に参加した人物で、ホンモノの体験をした人だけが書ける、ユニークなエピソードが詰まっている。
1997年。
海上保安庁で料理人をしていた西村(堺雅人)は、南極大陸の内陸部にあるドームふじ基地に調理担当の越冬隊員として派遣される。
妻(西田尚美)と子供たちを残しての長期単身赴任は不安が一杯。
気象学者のタイチョー(きたろう)や氷柱学者の本さん(生瀬勝久)ら、8人の隊員たちの旺盛な胃袋を満たす西村の一年に渡る挑戦が始まる・・・。
南極といえばタロ・ジロで有名な昭和基地が直ぐに思い浮かぶが、この作品の舞台となるのはそこから遥か1000キロも内陸の、標高3800メートルの山の上に建つ南極ドームふじ基地。
年平均気温はマイナス50℃以下で、ペンギンやアザラシはおろか、ウィルスすら存在できないという究極の極寒環境だ。
そういえばウィルスで人類が絶滅する「復活の日」という映画では、南極基地だけが生き残るという設定だったけど、なるほど然もありなん。
基地の隊員意外全く生命の無い、見渡す限り雪と氷の世界は、もはや別の惑星と言って良い感覚で、これなら宇宙ステーションに派遣される方がまだ日常的な感すらある。
この隔絶された環境の中で、全く違ったバックグラウンドを持った個性の強い8人の隊員たちが、一年以上も一つ屋根の下で暮らす。
そんな彼らの唯一の共通の楽しみが、主人公西村の担当する「ごはん」なのだ。
西村は海上保安官で、巡視船の食堂の料理人。
元々南極派遣に志願していた同僚が、交通事故で負傷してしまった事から白羽の矢が立った。
どちらかというと消極的に南極の住人となったが、船乗りという職業柄か、わりと直ぐに環境に適応して、過酷な南極生活の潤滑油の役割を果たすのである。
もちろん環境がいかに特殊でも、料理人が主人公で「食」をテーマとした映画であるなら、出てくる食べ物が美味しそうに見えなければ、その時点で興醒めだ。
本作は、あの究極のスローフード映画、「かもめ食堂」で観客に生唾を飲み込ませたフードコーディネーターが参加しており、そのあたりはバッチリ。
西村の出す料理は、おにぎりから中華まで様々だが、総じて美味しそうに見えたし、最初の頃はまるでホテルのレストランと見紛うばかりに気合が入っていたのが、段々と皆の要望に流されて大皿料理や肉の直火焼き(?)といった豪快系に変化していくあたりもリアルだ。
南極の冬至を各国の基地が同時に祝うミッドウィンター際に、皆が正装して食事したりする独特のしきたりも面白かった。
びっくりしたのは、食材がダンボール箱のまんま野晒しで置いてある事。
まあ考えてみればマイナス50度の世界なら、絶対に融ける事はないし、雨も降らないから箱も傷まない。
臭いに惹かれてやってくる動物もいないし、バイ菌の心配も無い。
よく北海道では外の方が寒いので、凍らせたくない物を冷蔵庫に入れるという話を聞くが、それと同じ事で、食べる時に必要な物だけを屋内に運び込んだ方がよっぽど合理的なのだ。
何しろ一年間は補給が無いので、食材は原則的に冷凍保存可能なものというくくりはあるものの、結構ちゃんとした食事をとっているのは驚いた。
もっとも、この世界では食べる事くらいしか楽しみが無いから、自然とそのあたりのケアは手厚くなるのかもしれない。
一応私も元料理人の端くれなので、使い方としては非常に勿体無いと思うのだけど、冷凍伊勢海老の巨大エビフライは、ちょっと作って食べてみたくなったぞ。
まあ舞台が舞台なので、売り物の食事シーン以外は、物語的にも特に何かが起こるわけではなく、殆ど日常のディテール描写の積み重ねなのだが、これが結構興味深い。
南極観測隊というのは、大学の研究者以外はてっきり自衛隊などの公的な機関から隊員が派遣されているのだと思っていたが、民間企業からの派遣もあるという事は知らなかった。
自動車会社から派遣された隊員が、「究極の左遷だよ」と嘆いて引き篭もってしまっていたが、確かになあ・・・。
雪上車の整備以外にも極地環境でのデータ取りなど、仕事はあるのかもしれないが、自動車会社にとって南極が重要マーケットとも思えないし。
サラリーマンの悲哀がこんな所で見られるとは思わなかった。
南極に来たくて来た人間にしても、遠距離恋愛の恋人がいたり、西村の様に家族を置いての単身赴任組もおり、隊員たちの抱える家庭環境は複雑。
このあたり、実際に原作者が南極に行っていた年なのだろうが、1997年という時代設定が絶妙だ。
ちょうどネットが普及し始めた頃だが、映画を観る限りまだドームふじ基地にはネット環境は無い模様。
現在の南極事情はわからないが、これが今の様な完全なネット社会だと、長距離電話代を心配して砂時計の落ちる砂に胸をかき乱される事もないし、KDDのオペレーターに恋をするという設定も無理だろう。
外界とつながる唯一の手段が電話という事は、話している相手の表情、つまり本音が見えないという事でもある。
電話という小道具が、この静寂の世界で、男たちの心をかき乱すいくつもの小さなドラマを作り出すというのは上手い設定だ。
「南極料理人」という作品は、一言で言えば非日常な日常を眺めて楽しむ軽い喜劇である。
日々の業務をこなし、日本に残してきた家族との関係に悩み、何も無い世界でいかに楽しむかに知恵を使う、隊員たちの忙しくもきままな毎日は観ていて楽しい。
あえて物語にメッセージを求めるならば、南極という非日常に身を置くことで、西村が再発見する事になる家族との日常の大切さという事になるだろう。
監督・脚本の沖田修一は自主制作映画で注目を集め、本作が長編劇場用映画デビュー作となる若手。
お世辞にもドラマチックとは言えず、強いメッセージ性がある訳でもない物語を、観客の知らない南極の生活を丹念に描き、登場人物のキャラクターをキッチリと立てて感情移入させる事で、2時間5分を飽きさせないのは大したものだ。
堺雅人ら俳優陣の飄々とした佇まいも涼しげで、一服の清涼剤として気分良く映画館を後に出来る作品である。
今回は、劇中で巨大エビフライに付け合わされていた「アサヒ スーパードライ 生」をチョイス。
正統派のビールファンからは色々と不満の声も多いスーパードライだが、私はビールには生産国のお国柄が色濃く出ると考えており、これはこれで高温多湿の日本の夏が生み出した独自のテイストだと思う。
少なくとも今の季節の東京ではなかなか美味しく飲めるビールだし、アメリカンビールとはまた違ったあっさりとした咽越しは世界的にも人気が高い。
果たして、マイナス50℃の世界で飲んでも美味しいかどうかは判らないけど・・・・(笑
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しかもその行き先が、雪と氷以外何も存在しない南極大陸だったとしたら・・・?
「南極料理人」というストレートなタイトル通り、これはひょんな事から南極行きの辞令を受けてしまった、一人の料理人の物語。
原作者の西村淳は実際に第30次南極観測隊、第38次南極観測隊ドーム基地越冬隊に参加した人物で、ホンモノの体験をした人だけが書ける、ユニークなエピソードが詰まっている。
1997年。
海上保安庁で料理人をしていた西村(堺雅人)は、南極大陸の内陸部にあるドームふじ基地に調理担当の越冬隊員として派遣される。
妻(西田尚美)と子供たちを残しての長期単身赴任は不安が一杯。
気象学者のタイチョー(きたろう)や氷柱学者の本さん(生瀬勝久)ら、8人の隊員たちの旺盛な胃袋を満たす西村の一年に渡る挑戦が始まる・・・。
南極といえばタロ・ジロで有名な昭和基地が直ぐに思い浮かぶが、この作品の舞台となるのはそこから遥か1000キロも内陸の、標高3800メートルの山の上に建つ南極ドームふじ基地。
年平均気温はマイナス50℃以下で、ペンギンやアザラシはおろか、ウィルスすら存在できないという究極の極寒環境だ。
そういえばウィルスで人類が絶滅する「復活の日」という映画では、南極基地だけが生き残るという設定だったけど、なるほど然もありなん。
基地の隊員意外全く生命の無い、見渡す限り雪と氷の世界は、もはや別の惑星と言って良い感覚で、これなら宇宙ステーションに派遣される方がまだ日常的な感すらある。
この隔絶された環境の中で、全く違ったバックグラウンドを持った個性の強い8人の隊員たちが、一年以上も一つ屋根の下で暮らす。
そんな彼らの唯一の共通の楽しみが、主人公西村の担当する「ごはん」なのだ。
西村は海上保安官で、巡視船の食堂の料理人。
元々南極派遣に志願していた同僚が、交通事故で負傷してしまった事から白羽の矢が立った。
どちらかというと消極的に南極の住人となったが、船乗りという職業柄か、わりと直ぐに環境に適応して、過酷な南極生活の潤滑油の役割を果たすのである。
もちろん環境がいかに特殊でも、料理人が主人公で「食」をテーマとした映画であるなら、出てくる食べ物が美味しそうに見えなければ、その時点で興醒めだ。
本作は、あの究極のスローフード映画、「かもめ食堂」で観客に生唾を飲み込ませたフードコーディネーターが参加しており、そのあたりはバッチリ。
西村の出す料理は、おにぎりから中華まで様々だが、総じて美味しそうに見えたし、最初の頃はまるでホテルのレストランと見紛うばかりに気合が入っていたのが、段々と皆の要望に流されて大皿料理や肉の直火焼き(?)といった豪快系に変化していくあたりもリアルだ。
南極の冬至を各国の基地が同時に祝うミッドウィンター際に、皆が正装して食事したりする独特のしきたりも面白かった。
びっくりしたのは、食材がダンボール箱のまんま野晒しで置いてある事。
まあ考えてみればマイナス50度の世界なら、絶対に融ける事はないし、雨も降らないから箱も傷まない。
臭いに惹かれてやってくる動物もいないし、バイ菌の心配も無い。
よく北海道では外の方が寒いので、凍らせたくない物を冷蔵庫に入れるという話を聞くが、それと同じ事で、食べる時に必要な物だけを屋内に運び込んだ方がよっぽど合理的なのだ。
何しろ一年間は補給が無いので、食材は原則的に冷凍保存可能なものというくくりはあるものの、結構ちゃんとした食事をとっているのは驚いた。
もっとも、この世界では食べる事くらいしか楽しみが無いから、自然とそのあたりのケアは手厚くなるのかもしれない。
一応私も元料理人の端くれなので、使い方としては非常に勿体無いと思うのだけど、冷凍伊勢海老の巨大エビフライは、ちょっと作って食べてみたくなったぞ。
まあ舞台が舞台なので、売り物の食事シーン以外は、物語的にも特に何かが起こるわけではなく、殆ど日常のディテール描写の積み重ねなのだが、これが結構興味深い。
南極観測隊というのは、大学の研究者以外はてっきり自衛隊などの公的な機関から隊員が派遣されているのだと思っていたが、民間企業からの派遣もあるという事は知らなかった。
自動車会社から派遣された隊員が、「究極の左遷だよ」と嘆いて引き篭もってしまっていたが、確かになあ・・・。
雪上車の整備以外にも極地環境でのデータ取りなど、仕事はあるのかもしれないが、自動車会社にとって南極が重要マーケットとも思えないし。
サラリーマンの悲哀がこんな所で見られるとは思わなかった。
南極に来たくて来た人間にしても、遠距離恋愛の恋人がいたり、西村の様に家族を置いての単身赴任組もおり、隊員たちの抱える家庭環境は複雑。
このあたり、実際に原作者が南極に行っていた年なのだろうが、1997年という時代設定が絶妙だ。
ちょうどネットが普及し始めた頃だが、映画を観る限りまだドームふじ基地にはネット環境は無い模様。
現在の南極事情はわからないが、これが今の様な完全なネット社会だと、長距離電話代を心配して砂時計の落ちる砂に胸をかき乱される事もないし、KDDのオペレーターに恋をするという設定も無理だろう。
外界とつながる唯一の手段が電話という事は、話している相手の表情、つまり本音が見えないという事でもある。
電話という小道具が、この静寂の世界で、男たちの心をかき乱すいくつもの小さなドラマを作り出すというのは上手い設定だ。
「南極料理人」という作品は、一言で言えば非日常な日常を眺めて楽しむ軽い喜劇である。
日々の業務をこなし、日本に残してきた家族との関係に悩み、何も無い世界でいかに楽しむかに知恵を使う、隊員たちの忙しくもきままな毎日は観ていて楽しい。
あえて物語にメッセージを求めるならば、南極という非日常に身を置くことで、西村が再発見する事になる家族との日常の大切さという事になるだろう。
監督・脚本の沖田修一は自主制作映画で注目を集め、本作が長編劇場用映画デビュー作となる若手。
お世辞にもドラマチックとは言えず、強いメッセージ性がある訳でもない物語を、観客の知らない南極の生活を丹念に描き、登場人物のキャラクターをキッチリと立てて感情移入させる事で、2時間5分を飽きさせないのは大したものだ。
堺雅人ら俳優陣の飄々とした佇まいも涼しげで、一服の清涼剤として気分良く映画館を後に出来る作品である。
今回は、劇中で巨大エビフライに付け合わされていた「アサヒ スーパードライ 生」をチョイス。
正統派のビールファンからは色々と不満の声も多いスーパードライだが、私はビールには生産国のお国柄が色濃く出ると考えており、これはこれで高温多湿の日本の夏が生み出した独自のテイストだと思う。
少なくとも今の季節の東京ではなかなか美味しく飲めるビールだし、アメリカンビールとはまた違ったあっさりとした咽越しは世界的にも人気が高い。
果たして、マイナス50℃の世界で飲んでも美味しいかどうかは判らないけど・・・・(笑

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2009年08月25日 (火) | 編集 |
今年はアポロ11号の月面着陸から40周年という事もあって、宇宙を題材にしたドキュメンタリーが相次いで作られている。
「空(そら)へ。」は、マーキュリー計画から現在のスペースシャトルまで、NASAの有人宇宙飛行の歴史を描いた、英BBC出身のリチャード・デイルによる作品だ。
先日公開された「ザ・ムーン」が、アポロ計画の宇宙飛行士たちのインタビューを中心に、言わば顔の見える形で、40年前の月への探検の意味に迫っていたのに対して、こちらは関係者インタビューは一切無く、記録映像によってそれぞの時代に起こった事を淡々と描写している。
本作もNASAの全面協力の元に作られており、秘蔵の映像は盛りだくさん。
テレビなどではめったに流れない、ロケット打ち上げの詳細なディテールや、大気圏突入を宇宙船の中から捉えた迫力ある映像などはなかなかの見もので、半世紀の時間を一時間半に縮小した事で、NASAが歩んできた有人宇宙開発史が、非常にわかりやすく解説されている。
宇宙船をポーンと打ち上げ、そのまま落下させる弾道飛行から始まって、軌道飛行、宇宙船同士のランデヴー、月着陸船開発と細かな技術を積み重ねて、ついに月面着陸を成し遂げるまでのプロセスは、慎重すぎるほどのステップ・バイ・ステップ。
一歩間違えると、大惨事を招きかねない宇宙開発に、決して近道は無いという事が良くわかる。
同時に、この気の遠くなるようなプロセスをクリアできた、アメリカという国の底力を改めて実感するのである。
だが、どんなに慎重に事を進めても、未知の領域に挑む時は、必ずと言っていいほど悲劇は起こってしまうもの。
本作の特徴は、栄光の歴史と同じくらい失敗の歴史をフィーチャーしている事だろう。
もう宇宙飛行士など珍しくも無いくらい、沢山の有人飛行を行っている印象のあるNASAですら、マーキュリー計画以来の総飛行回数は通算百数十回程度に過ぎず、そのうちの大半が80年代以降のスペースシャトルによるミッションである。
単純比較は出来ないにしろ、過去百年間に世界中で開発された航空機の熟成を考えれば、有人宇宙船はまだまだテスト段階でトライ&エラーの真っ最中な訳で、栄光と喝采の歴史の陰に、アポロ1号やチャレンジャー、コロンビアの両シャトルの悲劇的な事故も起こっている。
人々の目の前でチャレンジャーが爆発した時、あるいはコロンビアからの通信が途絶した時、記録映像は粉々に飛び散るシャトルだけでなく、言葉を失う管制室のスタッフの表情までをも赤裸々に捉えており、強く心に残る。
特に驚いたのは、コロンビアの事故直前まで機内映像が残されている事で、これから自分たちの身に起こる悲劇など全く予想だにしていないクルーの様子に胸が痛む。
これら成功・失敗問わず宇宙計画のあらゆる映像資料が残されているのも、もしも何かが起こった時に、全てを検証して明日の糧にするためなのだという。
宇宙旅行とは、21世紀の現在でも命がけの冒険である事を否応にも無く見せつけられる。
パイオニアの道とは過酷なものである。
もちろん、危険と厳しさだけでなく、宇宙には胸躍らせる美しさと神秘がある事も確か。
月面を歩くニール・アームストロングや、人類初の宇宙遊泳に子供の様にはしゃぐエドワード・ホワイトの姿など、是非とも一度はあの場所へ行ってみたいと思わせる魅力に満ちている。
そして何よりも、マーキュリー計画のレッドストーンロケットから、アポロのサターンV、お馴染みスペースシャトルにいたるまでの、ふんだんに盛り込まれた有人巨大ロケットの打ち上げシーンの荘厳な美しさは、誰もが魅了されるに違いない。
特に全長110メートル、総重量2700トンという史上最大級のロケット、サターンVが地響きと共に空気を切り裂いて上昇する迫力は凄まじく、何度観ても鳥肌が立つ。
ペガサスロケットやスペースシップワンの様な、空中発射式のロケットも、あれはあれで格好良いし、消費燃料も少なくてすむからエコなのだろうけど、やはり地上発射式の大型ロケットというのは、人類の本能を燃えさせる何かがあるような気がする。
神によって人類に課された重力というくびきを、液体酸素で氷結した氷と一緒に振り払って、巨大な火柱が天空に付きあがってゆく様は、限界に挑戦する人類の可能性の象徴に思えるのだ。
ただ、一本の映画として考えると、描く対象をNASAオンリーに絞った事は疑問を感じる。
米国の宇宙開発は、ソビエトというフロントランナーを目標に、追いつき追い越せという事で発展してきた訳で、決してNASAだけが「Rocketmen」の歴史を積み重ねてきた訳ではない。
アームストロングの有名な言葉を借りるなら、アポロ計画は確かに人類にとって大きな一歩だったと思うが、ユーリー・ガガーリンの宇宙初飛行だって、同じくらい重要だ。
ソ連が得意としたクラスターロケットも、米国のロケットとは別の美しさがあるし、ある程度米ソの宇宙開発競争の歴史も交えた方が、よりダイナミックな作品になったのではないだろうか。
まあこれは言ってみれば「一時間半でわかるNASA有人宇宙開発史入門」というような作品で、上映時間を考えると、キレイに纏まっていると言えるが、絞り込んだテーマが見えにくい分、映画としてのパワーはそれほど強くない。
NHKあたりに、V-2ロケットの頃から、人類の近代宇宙開発史を総合的に追ったアーカイブを作って欲しくなった。
そういえば無人輸送船HTVを搭載した日本の新型ロケットH-ⅡBも来月打ち上げられる。
こちらもサターンVほどではないが、全長60メートル近い堂々たる大型ロケットだ。
一度は種子島に打ち上げを見に行きたいものである。
今回は、宇宙開発によって生まれた酒、「土佐宇宙酒 玉川 安芸虎 純米大吟醸」をチョイス。
宇宙酒といっても宇宙で醸造された訳ではなく、高知県の蔵元有志によって推進された、日本酒酵母を宇宙へ送ろうというプロジェクトによって生まれた酒のこと。
2005年に国際宇宙ステーションへ運ばれた高知県産酵母は、8日間を宇宙で過ごした後に帰還。
この宇宙酵母によって高知の新たな名産品として生まれたのが、各蔵元による「宇宙酒」なのである。
こちらは有光酒造の製品だが、他にも幾つかの蔵元から宇宙酒は発売されている。
お味の方は・・・まあ普通の美味しい日本酒だが、宇宙に想いを馳せながら酔えば、無重力の気分になる?
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「空(そら)へ。」は、マーキュリー計画から現在のスペースシャトルまで、NASAの有人宇宙飛行の歴史を描いた、英BBC出身のリチャード・デイルによる作品だ。
先日公開された「ザ・ムーン」が、アポロ計画の宇宙飛行士たちのインタビューを中心に、言わば顔の見える形で、40年前の月への探検の意味に迫っていたのに対して、こちらは関係者インタビューは一切無く、記録映像によってそれぞの時代に起こった事を淡々と描写している。
本作もNASAの全面協力の元に作られており、秘蔵の映像は盛りだくさん。
テレビなどではめったに流れない、ロケット打ち上げの詳細なディテールや、大気圏突入を宇宙船の中から捉えた迫力ある映像などはなかなかの見もので、半世紀の時間を一時間半に縮小した事で、NASAが歩んできた有人宇宙開発史が、非常にわかりやすく解説されている。
宇宙船をポーンと打ち上げ、そのまま落下させる弾道飛行から始まって、軌道飛行、宇宙船同士のランデヴー、月着陸船開発と細かな技術を積み重ねて、ついに月面着陸を成し遂げるまでのプロセスは、慎重すぎるほどのステップ・バイ・ステップ。
一歩間違えると、大惨事を招きかねない宇宙開発に、決して近道は無いという事が良くわかる。
同時に、この気の遠くなるようなプロセスをクリアできた、アメリカという国の底力を改めて実感するのである。
だが、どんなに慎重に事を進めても、未知の領域に挑む時は、必ずと言っていいほど悲劇は起こってしまうもの。
本作の特徴は、栄光の歴史と同じくらい失敗の歴史をフィーチャーしている事だろう。
もう宇宙飛行士など珍しくも無いくらい、沢山の有人飛行を行っている印象のあるNASAですら、マーキュリー計画以来の総飛行回数は通算百数十回程度に過ぎず、そのうちの大半が80年代以降のスペースシャトルによるミッションである。
単純比較は出来ないにしろ、過去百年間に世界中で開発された航空機の熟成を考えれば、有人宇宙船はまだまだテスト段階でトライ&エラーの真っ最中な訳で、栄光と喝采の歴史の陰に、アポロ1号やチャレンジャー、コロンビアの両シャトルの悲劇的な事故も起こっている。
人々の目の前でチャレンジャーが爆発した時、あるいはコロンビアからの通信が途絶した時、記録映像は粉々に飛び散るシャトルだけでなく、言葉を失う管制室のスタッフの表情までをも赤裸々に捉えており、強く心に残る。
特に驚いたのは、コロンビアの事故直前まで機内映像が残されている事で、これから自分たちの身に起こる悲劇など全く予想だにしていないクルーの様子に胸が痛む。
これら成功・失敗問わず宇宙計画のあらゆる映像資料が残されているのも、もしも何かが起こった時に、全てを検証して明日の糧にするためなのだという。
宇宙旅行とは、21世紀の現在でも命がけの冒険である事を否応にも無く見せつけられる。
パイオニアの道とは過酷なものである。
もちろん、危険と厳しさだけでなく、宇宙には胸躍らせる美しさと神秘がある事も確か。
月面を歩くニール・アームストロングや、人類初の宇宙遊泳に子供の様にはしゃぐエドワード・ホワイトの姿など、是非とも一度はあの場所へ行ってみたいと思わせる魅力に満ちている。
そして何よりも、マーキュリー計画のレッドストーンロケットから、アポロのサターンV、お馴染みスペースシャトルにいたるまでの、ふんだんに盛り込まれた有人巨大ロケットの打ち上げシーンの荘厳な美しさは、誰もが魅了されるに違いない。
特に全長110メートル、総重量2700トンという史上最大級のロケット、サターンVが地響きと共に空気を切り裂いて上昇する迫力は凄まじく、何度観ても鳥肌が立つ。
ペガサスロケットやスペースシップワンの様な、空中発射式のロケットも、あれはあれで格好良いし、消費燃料も少なくてすむからエコなのだろうけど、やはり地上発射式の大型ロケットというのは、人類の本能を燃えさせる何かがあるような気がする。
神によって人類に課された重力というくびきを、液体酸素で氷結した氷と一緒に振り払って、巨大な火柱が天空に付きあがってゆく様は、限界に挑戦する人類の可能性の象徴に思えるのだ。
ただ、一本の映画として考えると、描く対象をNASAオンリーに絞った事は疑問を感じる。
米国の宇宙開発は、ソビエトというフロントランナーを目標に、追いつき追い越せという事で発展してきた訳で、決してNASAだけが「Rocketmen」の歴史を積み重ねてきた訳ではない。
アームストロングの有名な言葉を借りるなら、アポロ計画は確かに人類にとって大きな一歩だったと思うが、ユーリー・ガガーリンの宇宙初飛行だって、同じくらい重要だ。
ソ連が得意としたクラスターロケットも、米国のロケットとは別の美しさがあるし、ある程度米ソの宇宙開発競争の歴史も交えた方が、よりダイナミックな作品になったのではないだろうか。
まあこれは言ってみれば「一時間半でわかるNASA有人宇宙開発史入門」というような作品で、上映時間を考えると、キレイに纏まっていると言えるが、絞り込んだテーマが見えにくい分、映画としてのパワーはそれほど強くない。
NHKあたりに、V-2ロケットの頃から、人類の近代宇宙開発史を総合的に追ったアーカイブを作って欲しくなった。
そういえば無人輸送船HTVを搭載した日本の新型ロケットH-ⅡBも来月打ち上げられる。
こちらもサターンVほどではないが、全長60メートル近い堂々たる大型ロケットだ。
一度は種子島に打ち上げを見に行きたいものである。
今回は、宇宙開発によって生まれた酒、「土佐宇宙酒 玉川 安芸虎 純米大吟醸」をチョイス。
宇宙酒といっても宇宙で醸造された訳ではなく、高知県の蔵元有志によって推進された、日本酒酵母を宇宙へ送ろうというプロジェクトによって生まれた酒のこと。
2005年に国際宇宙ステーションへ運ばれた高知県産酵母は、8日間を宇宙で過ごした後に帰還。
この宇宙酵母によって高知の新たな名産品として生まれたのが、各蔵元による「宇宙酒」なのである。
こちらは有光酒造の製品だが、他にも幾つかの蔵元から宇宙酒は発売されている。
お味の方は・・・まあ普通の美味しい日本酒だが、宇宙に想いを馳せながら酔えば、無重力の気分になる?

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2009年08月20日 (木) | 編集 |
本国公開から2年も経っている上に、上映館は東京23区でたった一館・・・。
まあ今の日本で、渋い西部劇のマーケットなど殆ど存在しないのは分かっているが、一応全米No.1を記録してる作品だし、何よりも出来が良いだけに勿体無い。
「3時10分、決断のとき」は、エルモア・レナード原作の短編小説「3:10 to Yuma」を元に1957年に作られた「決断の3時10分」を、「17歳のカルテ」や「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」を手がけたジェームス・マンゴールド監督がリメイクした作品。
ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルという、正に脂ののり切った名優二人が、男の誇りをかけて激突する異色の西部劇だ。
ダン・エヴァンス(クリスチャン・ベイル)は、南北戦争で片足を失った傷痍軍人。
妻と二人の息子と共に、荒れ果てた土地で牛を飼って細々と暮らしているが、借金が嵩み土地を追い出されそうになっている。
ある日、資金繰りの交渉のため町へ出たダンは、強盗団のボスとして知られるベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)の逮捕現場に居合わせた事から、彼を護送する任務に志願する。
駅のあるコンテンションという町から、ユマの刑務所行きの汽車が出るのは翌々日午後3時10分。
それまでにウェイドをコンテンションへ連れて行く事が出来れば、高額の報酬を得る事が出来る。
だが強盗団の手下たちは、間違いなくボスを奪還するために襲ってくる。
ダンたちの一行は追っ手を撒くために、あえて危険なアパッチ族の支配地を通り抜けようとする。
ところが、父を助けようとダンの14歳の息子、ウィリアム(ローガン・ラーマン)がついてきてしまう・・・。
観客のおっさん比率が異様に高い。
これほど男女比の偏りが極端な作品は、9割以上が女性で埋まった「セックス・アンド・ザ・シティ」以来じゃないだろうか。
しかも単に男が多いだけではなくて年齢層が高く、客席の殆どが30代半ば以上のおっさんで占められている様に見えた。
でも、この映画はそれで良い。
これは正に男の映画、それも誇り高き父の映画であるから、おっさんが一人で観て、一人でしみじみ泣くのに相応しい作品なのだ。
クリスチャン・ベイル演じる真面目なカウボーイ、ダン・エヴァンスと、ラッセル・クロウ演じる凄腕の強盗、ベン・ウェイド。
映画はこの対照的な二人を軸に展開してゆくのだが、物語のキーパーソンとなるのは、危険な旅路の予期せぬ同伴者となるダンの息子、ウィリアムである。
ダンはクソが付くほど生真面目な男で、良き人間でありたいと願い、彼の息子たちにもそうあって欲しいと願っている。
彼の行動には全て理由があり、生活の苦しい荒野にあえて暮らすのも、結核を煩っている下の息子の療養に、乾燥した気候が必要なためなのだ。
だが、ウィリアムは戦場で傷つき、非力な存在となった父の想いを理解せず、むしろ軽蔑の眼差しを向けている。
一方、力によってフロンティアに名を轟かせてきたウェイドは、父に反発するウィリアムに若き日の自分の姿を見ており、ウィリアムもどこかウェイドに惹かれる素振りを見せる。
まあ若い頃には、真面目な大人よりもちょっと尖がったヤバイ雰囲気を持つ大人に憧れたりするものだが、そんなウィリアムが間近で見ているからこそ、ダンは父親として引くに引けなくなってしまうのである。
逮捕された犯罪者と言っても、力が正義と同義である無法の荒野で、絶対的な強者であるのはウェイドの方だ。
何時襲撃されるか戦々恐々としている護送チームに対して、ウェイドは必ず助けが来る事が分かっているし、いざとなったらダンを買収すれば良いと考えているから余裕綽々。
今風な言い方をすれば、ウェイドにとっては自分が勝ち組であり、ダンたちは負け組みの弱者連合に過ぎず、簡単に掌の上で転がす事が出来る相手だと思っている。
実際、ダンが護送任務に志願したのは、借金を返して自分と家族が住む土地を守りたいからであって、要するに金のためである。
物語の終盤、ウェイドがダンに買収を持ちかけるシーンがある。
鉄道会社が支払う報酬の20倍もの額で、エヴァンス家が借金を全額返済して、なお子供たちを学校に行かせられるだけの大金。
ダンはこれを断るのだが、もしもウィリアムが旅に同伴していなければ、彼はおそらく取引に応じていただろう。
人間は欲深で弱い生き物だ。
目の前に大金を積まれ、訳も分からずにダンの敵になってしまうコンテンションの住人たちは、その事を如実に表現している。
この部分は、悪の力に恐れをなし、街を守る保安官を見殺しにしようとする町の住人の姿を通し、赤狩りの時代に大衆の事なかれ主義を痛烈に批判した、フレッド・ジンネマンの大傑作「真昼の決闘」を連想させる。
もっともこっちは積極的に悪党に加担しようとしてる分、よりタチが悪くなっているのだけど。
ところが、ダンにとってはもはや金は問題でない。
物語のクライマックス、自分以外はほぼ全て敵という絶望的な状況の中で、ダンはウェイドに対して「自分には誇れるものが何も無いんだ」と告白する。
金の誘惑にも、力の恫喝にも屈せず、稀代の大悪党ベン・ウェイドを護送する任務を果たせれば、それは自分自身にとっても、また息子たちにとっても、父を誇りと思う唯一の理由となり得る。
ダンは自らの命を賭して、男として、父としての誇りを取り戻す事を選んだのである。
「欲しいものを手に入れるのが男だ」と語り、力によってそれを実現してきたウェイドにとっても、ダンの告白は重い。
何故なら彼は幼い頃に捨てられた孤児であり、親がその生き様によって見せてくれる誇りは、いくら金と力があっても彼には決して手に入れる事が出来ない物だからである。
ウィリアムに嘗ての自分を見たからこそ、ウェイドはダンの気持ちを理解し、ある種の共犯関係になる事を選択する。
全く対照的で、互いの生き方を否定していた二人の男が、ウィリアムを挟む事で、いつの間にか自身の心に欠けているモノを相互補完し、不思議な絆で結ばれるのだ。
そして3時10分、ユマ行きの汽車が到着してからラストまでの展開は、全く予想だにしなかった物。
いやあ、これぞウェスタン!という名シーンをみせてもらった。
まあ途中で裏切りそうになってた連中はともかく、ひたすら忠義者だった二挺拳銃のチャーリーの立場的には、別の意味で泣けるのだけど。
そのチャーリーを演じたベン・フォスターが、凄みのあるキャラクターで二人の主役に伍する強い印象を残す。
他にも年老いた賞金稼ぎ、バイロンを演じるピーター・フォンダや、ダンを雇う鉄道会社のバターフィールド役のダラス・ロバーツら、脇の登場人物一人一人が丁寧に描写されているのも良い。
ジェームス・マンゴールド監督にとって、この作品のリメイクは長年の悲願だったらしい。
ハリウッド好みの勧善懲悪でもなく、心理劇としての色彩の強い本作の制作には、なかなか資金を出すスタジオが現れずに大変な苦労があったと聞くが、結果的に本国では上々の評価を得てクリーンヒットとなったのは、衰退著しい西部劇の未来を考えれば幸いな事だ。
いかにも西部劇、という感じのマルコ・ベルトラミの音楽も良い感じで雰囲気を盛り上げ、強盗団による駅馬車襲撃や、40対1の銃撃戦、ウェイドとチャーリーが見せる目にも留まらぬ早撃ちの技、さらには牛のスタンピードなどのお約束の見せ場も一通り描かれており、エンターテイメントとしてもなかなかに満足度は高い。
「許されざる者」以降、このジャンルでは久々に記憶に残る作品と言えるだろう。
残念ながら、たぶん日本では直ぐに終わってしまうだろうから、西部劇ファンは劇場へ急げ!
さて、この作品はアリゾナが舞台となっているのだけど、アリゾナと言えば元々はメキシコ領で、現在でも美味しいメキシコ料理の店が多い。
今回は、乾燥した土地で飲むと特に美味しく感じられる、メキシカンビールの「コロナ」をチョイス。
元々軽いのだけど、ライムを加えて飲むとより軽い感じになる。
個人的にはこれにワカモレとトルティアチップがあれば、何時間でも飲み続けられてしまうなあ。
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この映画に似た雰囲気も
まあ今の日本で、渋い西部劇のマーケットなど殆ど存在しないのは分かっているが、一応全米No.1を記録してる作品だし、何よりも出来が良いだけに勿体無い。
「3時10分、決断のとき」は、エルモア・レナード原作の短編小説「3:10 to Yuma」を元に1957年に作られた「決断の3時10分」を、「17歳のカルテ」や「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」を手がけたジェームス・マンゴールド監督がリメイクした作品。
ラッセル・クロウとクリスチャン・ベイルという、正に脂ののり切った名優二人が、男の誇りをかけて激突する異色の西部劇だ。
ダン・エヴァンス(クリスチャン・ベイル)は、南北戦争で片足を失った傷痍軍人。
妻と二人の息子と共に、荒れ果てた土地で牛を飼って細々と暮らしているが、借金が嵩み土地を追い出されそうになっている。
ある日、資金繰りの交渉のため町へ出たダンは、強盗団のボスとして知られるベン・ウェイド(ラッセル・クロウ)の逮捕現場に居合わせた事から、彼を護送する任務に志願する。
駅のあるコンテンションという町から、ユマの刑務所行きの汽車が出るのは翌々日午後3時10分。
それまでにウェイドをコンテンションへ連れて行く事が出来れば、高額の報酬を得る事が出来る。
だが強盗団の手下たちは、間違いなくボスを奪還するために襲ってくる。
ダンたちの一行は追っ手を撒くために、あえて危険なアパッチ族の支配地を通り抜けようとする。
ところが、父を助けようとダンの14歳の息子、ウィリアム(ローガン・ラーマン)がついてきてしまう・・・。
観客のおっさん比率が異様に高い。
これほど男女比の偏りが極端な作品は、9割以上が女性で埋まった「セックス・アンド・ザ・シティ」以来じゃないだろうか。
しかも単に男が多いだけではなくて年齢層が高く、客席の殆どが30代半ば以上のおっさんで占められている様に見えた。
でも、この映画はそれで良い。
これは正に男の映画、それも誇り高き父の映画であるから、おっさんが一人で観て、一人でしみじみ泣くのに相応しい作品なのだ。
クリスチャン・ベイル演じる真面目なカウボーイ、ダン・エヴァンスと、ラッセル・クロウ演じる凄腕の強盗、ベン・ウェイド。
映画はこの対照的な二人を軸に展開してゆくのだが、物語のキーパーソンとなるのは、危険な旅路の予期せぬ同伴者となるダンの息子、ウィリアムである。
ダンはクソが付くほど生真面目な男で、良き人間でありたいと願い、彼の息子たちにもそうあって欲しいと願っている。
彼の行動には全て理由があり、生活の苦しい荒野にあえて暮らすのも、結核を煩っている下の息子の療養に、乾燥した気候が必要なためなのだ。
だが、ウィリアムは戦場で傷つき、非力な存在となった父の想いを理解せず、むしろ軽蔑の眼差しを向けている。
一方、力によってフロンティアに名を轟かせてきたウェイドは、父に反発するウィリアムに若き日の自分の姿を見ており、ウィリアムもどこかウェイドに惹かれる素振りを見せる。
まあ若い頃には、真面目な大人よりもちょっと尖がったヤバイ雰囲気を持つ大人に憧れたりするものだが、そんなウィリアムが間近で見ているからこそ、ダンは父親として引くに引けなくなってしまうのである。
逮捕された犯罪者と言っても、力が正義と同義である無法の荒野で、絶対的な強者であるのはウェイドの方だ。
何時襲撃されるか戦々恐々としている護送チームに対して、ウェイドは必ず助けが来る事が分かっているし、いざとなったらダンを買収すれば良いと考えているから余裕綽々。
今風な言い方をすれば、ウェイドにとっては自分が勝ち組であり、ダンたちは負け組みの弱者連合に過ぎず、簡単に掌の上で転がす事が出来る相手だと思っている。
実際、ダンが護送任務に志願したのは、借金を返して自分と家族が住む土地を守りたいからであって、要するに金のためである。
物語の終盤、ウェイドがダンに買収を持ちかけるシーンがある。
鉄道会社が支払う報酬の20倍もの額で、エヴァンス家が借金を全額返済して、なお子供たちを学校に行かせられるだけの大金。
ダンはこれを断るのだが、もしもウィリアムが旅に同伴していなければ、彼はおそらく取引に応じていただろう。
人間は欲深で弱い生き物だ。
目の前に大金を積まれ、訳も分からずにダンの敵になってしまうコンテンションの住人たちは、その事を如実に表現している。
この部分は、悪の力に恐れをなし、街を守る保安官を見殺しにしようとする町の住人の姿を通し、赤狩りの時代に大衆の事なかれ主義を痛烈に批判した、フレッド・ジンネマンの大傑作「真昼の決闘」を連想させる。
もっともこっちは積極的に悪党に加担しようとしてる分、よりタチが悪くなっているのだけど。
ところが、ダンにとってはもはや金は問題でない。
物語のクライマックス、自分以外はほぼ全て敵という絶望的な状況の中で、ダンはウェイドに対して「自分には誇れるものが何も無いんだ」と告白する。
金の誘惑にも、力の恫喝にも屈せず、稀代の大悪党ベン・ウェイドを護送する任務を果たせれば、それは自分自身にとっても、また息子たちにとっても、父を誇りと思う唯一の理由となり得る。
ダンは自らの命を賭して、男として、父としての誇りを取り戻す事を選んだのである。
「欲しいものを手に入れるのが男だ」と語り、力によってそれを実現してきたウェイドにとっても、ダンの告白は重い。
何故なら彼は幼い頃に捨てられた孤児であり、親がその生き様によって見せてくれる誇りは、いくら金と力があっても彼には決して手に入れる事が出来ない物だからである。
ウィリアムに嘗ての自分を見たからこそ、ウェイドはダンの気持ちを理解し、ある種の共犯関係になる事を選択する。
全く対照的で、互いの生き方を否定していた二人の男が、ウィリアムを挟む事で、いつの間にか自身の心に欠けているモノを相互補完し、不思議な絆で結ばれるのだ。
そして3時10分、ユマ行きの汽車が到着してからラストまでの展開は、全く予想だにしなかった物。
いやあ、これぞウェスタン!という名シーンをみせてもらった。
まあ途中で裏切りそうになってた連中はともかく、ひたすら忠義者だった二挺拳銃のチャーリーの立場的には、別の意味で泣けるのだけど。
そのチャーリーを演じたベン・フォスターが、凄みのあるキャラクターで二人の主役に伍する強い印象を残す。
他にも年老いた賞金稼ぎ、バイロンを演じるピーター・フォンダや、ダンを雇う鉄道会社のバターフィールド役のダラス・ロバーツら、脇の登場人物一人一人が丁寧に描写されているのも良い。
ジェームス・マンゴールド監督にとって、この作品のリメイクは長年の悲願だったらしい。
ハリウッド好みの勧善懲悪でもなく、心理劇としての色彩の強い本作の制作には、なかなか資金を出すスタジオが現れずに大変な苦労があったと聞くが、結果的に本国では上々の評価を得てクリーンヒットとなったのは、衰退著しい西部劇の未来を考えれば幸いな事だ。
いかにも西部劇、という感じのマルコ・ベルトラミの音楽も良い感じで雰囲気を盛り上げ、強盗団による駅馬車襲撃や、40対1の銃撃戦、ウェイドとチャーリーが見せる目にも留まらぬ早撃ちの技、さらには牛のスタンピードなどのお約束の見せ場も一通り描かれており、エンターテイメントとしてもなかなかに満足度は高い。
「許されざる者」以降、このジャンルでは久々に記憶に残る作品と言えるだろう。
残念ながら、たぶん日本では直ぐに終わってしまうだろうから、西部劇ファンは劇場へ急げ!
さて、この作品はアリゾナが舞台となっているのだけど、アリゾナと言えば元々はメキシコ領で、現在でも美味しいメキシコ料理の店が多い。
今回は、乾燥した土地で飲むと特に美味しく感じられる、メキシカンビールの「コロナ」をチョイス。
元々軽いのだけど、ライムを加えて飲むとより軽い感じになる。
個人的にはこれにワカモレとトルティアチップがあれば、何時間でも飲み続けられてしまうなあ。

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この映画に似た雰囲気も


2009年08月15日 (土) | 編集 |
夜になると、博物館の展示物が皆命を持って動き出す!
子供の頃に誰もが一度は夢想したであろう、ファンタスティックな設定で大ヒットした、ベン・スティラー主演の「ナイトミュージアム」の第二弾。
おなじみの面々が前回のNY自然史博物館からお引越し。
ワシントンD.C.にある世界最大級の博物館、スミソニアン博物館で大騒動を巻き起こす。
ショーン・レビ監督以下、メインスタッフもほぼ前作からの続投だ。
NY自然史博物館の夜警だったラリー(ベン・スティラー)は、発明品のヒットでベンチャー企業を起こし、今は社長として激務に追われる日々を過ごしている。
古代エジプトの魔法のタブレットによって、毎夜命をもって動き出す展示物と大騒動を繰り広げた日々も過去のものとなっていたが、久々に博物館に立ち寄ったラリーは、博物館が改装され殆どの展示物がワシントンのスミソニアン博物館の倉庫に送られてしまう事を知る。
タブレットのある自然史博物館から出てしまえば、もう彼らは蘇る事は出来ないはず。
ところがある夜、突然ラリーの元へスミソニアンに送られたはずのジェデディア・スミス(オーウェン・ウィルソン)から電話がかかってくる。
サルのデクスターのいたずらで、タブレットがスミソニアンに持ち込まれ、世界征服を狙う古代エジプトの王、カームンラー(ハンク・アザリア)まで復活してしまったという。
ラリーはスミスたちを助けるために、広大なスミソニアンの倉庫に潜入するのだが・・・
前作の「ナイトミュージアム」は、荒唐無稽なお祭り映画でありながら、物語がしっかりと作られ、子供はもちろん大人も童心に帰って楽しむことの出来る快作であった。
続編を作るにあたっては、魔法のタブレットの力によって展示物が動き出し、大騒動が起こるという基本設定は変えようが無いので、今回はとりあえず舞台をNYの自然史博物館から、さらに規模の大きいワシントンのスミソニアン博物館に移し、大幅にビジュアルをスケールアップ。
自然史博物館の展示物は動物や歴史上の人物が中心だったが、スミソニアンは歴史、美術、航空宇宙から映画までをも網羅し、全てを見ようと思えば一週間あっても足りないと言われる巨大博物館群であるから、動き出すものは前作以上にバラエティに富んでいる。
人間や動物だけでなく、飛行機やロケットにモダンアートの美術品、さらには「ハリー・ポッター」の様に名画や写真も命をもって動き出し、その世界に飛び込むことも出来るのだ。
第二次世界大戦が終結した日に、NYのタイムズスクウェアでキスするカップルを撮った「V–J day in Times Square」という有名な写真に飛び込んだラリーが、モノクロの世界で落とした「ある物」がエンドクレジットの意外な複線になったりしているので、お見逃し無く。
新登場のキャラクターも盛りだくさんだ。
世界征服を企むカームンラーは、前作で登場したアクメンラーの不肖の兄で、ナポレオンにイワン雷帝、アル・カポネというお笑い悪の軍団を率いて、ラリーとのタブレット争奪戦を繰り広げる。
カームンラーの子供っぽいキャラクターが絶妙で、ラリーとのオバカでテンポの良い掛け合いは、良い意味で悪ガキの喧嘩を見ているようで微笑ましく、喜劇芝居の楽しさを堪能できるのがうれしい。
これを吹き替えで観ては勿体無いので、大人の観客には是非字幕版で観ていただきたい。
もちろん善玉サイドも前作からお馴染みの面々に、新登場のカスター将軍やバブルヘッドのアインシュタイン、さらには何の展示だか良く判らない大ダコに、リンカーン記念館から出張の巨大リンカーン大統領まで登場して、大いに盛り上げる。
ちなみにこの大タコ、日本版の公式ホームページではなぜか「ダイオウイカ」と大間違いの紹介がされてしまっている。
おそらく映画と提携している現実のスミソニアンに、ダイオウイカの標本が展示されている関係で、本国のタイアップグッズなどでも表記がイカだったりタコだったり混乱しているのだけど、少なくとも映画にはダイオウイカなど登場しないから、配給会社は早く直した方が良いぞ。
個人的には大ダコVSダイオウイカなんてシーンも観たかったけどさ。
そんなこんなでネタはテンコ盛りなのだけど、見世物的な楽しさだけで105分を持たせるのは難しい。
前作は、ダメ人間として息子からも見放されたラリーが、博物館の大騒動を自らの才覚で収拾してゆくことで、人間として父親としての自信を取り戻す物語であり、父性の復権というテーマを根底に置く事で作品に一本芯が通っていた。
だが本作のラリーは既に成功者となっていて、前作と同じテーマは成り立たない。
そこで持ってきたのは、ある種のミドルエイジクライシスである。
発明家として財を成し、思い描いていた人生を実現したはずなのに、どこか物足りず、心に隙間を感じてしまう。
その隙間を埋めるのが、ずばり冒険と恋という訳だ。
今回、ラリーと一夜限りパートナーとなるのは、1930年代に活躍した航空冒険家のアメリア・イアハート。
彼女の大ファンである私は、この展開にうれしくなってしまった。
日本ではイマイチ馴染みのない人物だろうが、女性蔑視の根強い時代に、数々の冒険飛行で記録を打ちたて、世界中の女性とマイノリティに勇気を与えた最高にクールで格好良い女性である。
1937年の世界一周飛行中に南太平洋で消息を絶ったが、いまだに彼女の終焉の地を探すプロジェクトが進められているほどに、米国では国民的な人気がある。
私の知人も彼女のファンで、一人娘にアメリアと名づけたくらいである。
「魔法にかけられて」でブレイクしたエイミー・アダムスが、文字通り魔法で蘇った20世紀のスーパーヒロインを好演しており、今回もノリノリのベン・スティラーとのコンビはなかなかに魅力的だ。
だだ、前作の父性の復権と異なり、「好きな事を好きな人と共にする」という今回のテーマは、どうしても全編を貫く芯とはなりえていない。
ラリーの人間としての成長がはっきり見えた前作に比べると、今回は結果的に人生をちょっとだけ後戻りして軌道修正する話になっている事もあって、作品を纏め上げるテーマ性の部分はやや弱く、全体がより賑やかになっている分、物語が雑にとっ散らかってしまった感があるのは残念なところだ。
「ナイトミュージアム2」は、正に玩具箱をひっくり返した様な、抱腹絶倒のファミリー映画。
総合的な完成度では前作に及ばないと思うが、見せ場は正につるべ打ちで、何よりも展開のテンポが早いので、だれる事は無い。
これはこれで十分に楽しく、期待を裏切られる事は無いだろう。
そして映画の後には、きっとまた博物館に行きたくなる。
映画館で大いに笑って、刺激された知的好奇心を抱えて博物館へGo!
誠に、夏休みにぴったりの映画ではないか。
もっとも、前作同様アメリカ人なら普通に知ってるんだけど・・・的なキャラクターが多いので、米国史に疎い人は観る前に公式ホームページなどで予習しておくとより楽しめるだろう。
イカ以外は(笑
今回は、博物館へ戻ることなく一人夜空に消えたアメリア・イアハートが目指した地、カナダのニューファンドランド島から伝統的なラム酒の「スクリーチ(SCREECH)」をチョイス。
ここは1932年に、彼女が女性として初めての大西洋単独横断飛行に飛び立った歴史的な地である。
寒冷なカナダの島でラム?というのはかなり奇妙な取り合わせに思えるが、ニューファンドランドのラムは300年以上の歴史を持つ由緒正しい物なのだ。
当時ニューファンドランド産の魚とジャマイカのラムのバーター貿易が盛んだったのだが、酒を入れる樽というのはかなり高価な物だったので、行きに塩漬けの魚を入れた樽に、帰りにラムを入れて帰ってくるという事をやっていたらしい。
その結果、魚のエキスと塩分がラムに溶け込み、独特の風味を持つ「スクリーチ」が出来上がったという訳だ。
度数は40°とかなり強い酒だが、もちろん生臭さなど全く無く、糖蜜系の柔かい甘みが喉に優しく、とても飲みやすい。
水割りでも美味しいが、現地で定番なのはコーラ割り。
他にも、ユニークなレシピが公式HPに紹介されているのでご覧あれ。
日本ではまず見かけない酒だが、カナダやアメリカでは手に入れるのは難しくないので、お土産にお薦めだ。
http://www.screechrum.com/
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子供の頃に誰もが一度は夢想したであろう、ファンタスティックな設定で大ヒットした、ベン・スティラー主演の「ナイトミュージアム」の第二弾。
おなじみの面々が前回のNY自然史博物館からお引越し。
ワシントンD.C.にある世界最大級の博物館、スミソニアン博物館で大騒動を巻き起こす。
ショーン・レビ監督以下、メインスタッフもほぼ前作からの続投だ。
NY自然史博物館の夜警だったラリー(ベン・スティラー)は、発明品のヒットでベンチャー企業を起こし、今は社長として激務に追われる日々を過ごしている。
古代エジプトの魔法のタブレットによって、毎夜命をもって動き出す展示物と大騒動を繰り広げた日々も過去のものとなっていたが、久々に博物館に立ち寄ったラリーは、博物館が改装され殆どの展示物がワシントンのスミソニアン博物館の倉庫に送られてしまう事を知る。
タブレットのある自然史博物館から出てしまえば、もう彼らは蘇る事は出来ないはず。
ところがある夜、突然ラリーの元へスミソニアンに送られたはずのジェデディア・スミス(オーウェン・ウィルソン)から電話がかかってくる。
サルのデクスターのいたずらで、タブレットがスミソニアンに持ち込まれ、世界征服を狙う古代エジプトの王、カームンラー(ハンク・アザリア)まで復活してしまったという。
ラリーはスミスたちを助けるために、広大なスミソニアンの倉庫に潜入するのだが・・・
前作の「ナイトミュージアム」は、荒唐無稽なお祭り映画でありながら、物語がしっかりと作られ、子供はもちろん大人も童心に帰って楽しむことの出来る快作であった。
続編を作るにあたっては、魔法のタブレットの力によって展示物が動き出し、大騒動が起こるという基本設定は変えようが無いので、今回はとりあえず舞台をNYの自然史博物館から、さらに規模の大きいワシントンのスミソニアン博物館に移し、大幅にビジュアルをスケールアップ。
自然史博物館の展示物は動物や歴史上の人物が中心だったが、スミソニアンは歴史、美術、航空宇宙から映画までをも網羅し、全てを見ようと思えば一週間あっても足りないと言われる巨大博物館群であるから、動き出すものは前作以上にバラエティに富んでいる。
人間や動物だけでなく、飛行機やロケットにモダンアートの美術品、さらには「ハリー・ポッター」の様に名画や写真も命をもって動き出し、その世界に飛び込むことも出来るのだ。
第二次世界大戦が終結した日に、NYのタイムズスクウェアでキスするカップルを撮った「V–J day in Times Square」という有名な写真に飛び込んだラリーが、モノクロの世界で落とした「ある物」がエンドクレジットの意外な複線になったりしているので、お見逃し無く。
新登場のキャラクターも盛りだくさんだ。
世界征服を企むカームンラーは、前作で登場したアクメンラーの不肖の兄で、ナポレオンにイワン雷帝、アル・カポネというお笑い悪の軍団を率いて、ラリーとのタブレット争奪戦を繰り広げる。
カームンラーの子供っぽいキャラクターが絶妙で、ラリーとのオバカでテンポの良い掛け合いは、良い意味で悪ガキの喧嘩を見ているようで微笑ましく、喜劇芝居の楽しさを堪能できるのがうれしい。
これを吹き替えで観ては勿体無いので、大人の観客には是非字幕版で観ていただきたい。
もちろん善玉サイドも前作からお馴染みの面々に、新登場のカスター将軍やバブルヘッドのアインシュタイン、さらには何の展示だか良く判らない大ダコに、リンカーン記念館から出張の巨大リンカーン大統領まで登場して、大いに盛り上げる。
ちなみにこの大タコ、日本版の公式ホームページではなぜか「ダイオウイカ」と大間違いの紹介がされてしまっている。
おそらく映画と提携している現実のスミソニアンに、ダイオウイカの標本が展示されている関係で、本国のタイアップグッズなどでも表記がイカだったりタコだったり混乱しているのだけど、少なくとも映画にはダイオウイカなど登場しないから、配給会社は早く直した方が良いぞ。
個人的には大ダコVSダイオウイカなんてシーンも観たかったけどさ。
そんなこんなでネタはテンコ盛りなのだけど、見世物的な楽しさだけで105分を持たせるのは難しい。
前作は、ダメ人間として息子からも見放されたラリーが、博物館の大騒動を自らの才覚で収拾してゆくことで、人間として父親としての自信を取り戻す物語であり、父性の復権というテーマを根底に置く事で作品に一本芯が通っていた。
だが本作のラリーは既に成功者となっていて、前作と同じテーマは成り立たない。
そこで持ってきたのは、ある種のミドルエイジクライシスである。
発明家として財を成し、思い描いていた人生を実現したはずなのに、どこか物足りず、心に隙間を感じてしまう。
その隙間を埋めるのが、ずばり冒険と恋という訳だ。
今回、ラリーと一夜限りパートナーとなるのは、1930年代に活躍した航空冒険家のアメリア・イアハート。
彼女の大ファンである私は、この展開にうれしくなってしまった。
日本ではイマイチ馴染みのない人物だろうが、女性蔑視の根強い時代に、数々の冒険飛行で記録を打ちたて、世界中の女性とマイノリティに勇気を与えた最高にクールで格好良い女性である。
1937年の世界一周飛行中に南太平洋で消息を絶ったが、いまだに彼女の終焉の地を探すプロジェクトが進められているほどに、米国では国民的な人気がある。
私の知人も彼女のファンで、一人娘にアメリアと名づけたくらいである。
「魔法にかけられて」でブレイクしたエイミー・アダムスが、文字通り魔法で蘇った20世紀のスーパーヒロインを好演しており、今回もノリノリのベン・スティラーとのコンビはなかなかに魅力的だ。
だだ、前作の父性の復権と異なり、「好きな事を好きな人と共にする」という今回のテーマは、どうしても全編を貫く芯とはなりえていない。
ラリーの人間としての成長がはっきり見えた前作に比べると、今回は結果的に人生をちょっとだけ後戻りして軌道修正する話になっている事もあって、作品を纏め上げるテーマ性の部分はやや弱く、全体がより賑やかになっている分、物語が雑にとっ散らかってしまった感があるのは残念なところだ。
「ナイトミュージアム2」は、正に玩具箱をひっくり返した様な、抱腹絶倒のファミリー映画。
総合的な完成度では前作に及ばないと思うが、見せ場は正につるべ打ちで、何よりも展開のテンポが早いので、だれる事は無い。
これはこれで十分に楽しく、期待を裏切られる事は無いだろう。
そして映画の後には、きっとまた博物館に行きたくなる。
映画館で大いに笑って、刺激された知的好奇心を抱えて博物館へGo!
誠に、夏休みにぴったりの映画ではないか。
もっとも、前作同様アメリカ人なら普通に知ってるんだけど・・・的なキャラクターが多いので、米国史に疎い人は観る前に公式ホームページなどで予習しておくとより楽しめるだろう。
イカ以外は(笑
今回は、博物館へ戻ることなく一人夜空に消えたアメリア・イアハートが目指した地、カナダのニューファンドランド島から伝統的なラム酒の「スクリーチ(SCREECH)」をチョイス。
ここは1932年に、彼女が女性として初めての大西洋単独横断飛行に飛び立った歴史的な地である。
寒冷なカナダの島でラム?というのはかなり奇妙な取り合わせに思えるが、ニューファンドランドのラムは300年以上の歴史を持つ由緒正しい物なのだ。
当時ニューファンドランド産の魚とジャマイカのラムのバーター貿易が盛んだったのだが、酒を入れる樽というのはかなり高価な物だったので、行きに塩漬けの魚を入れた樽に、帰りにラムを入れて帰ってくるという事をやっていたらしい。
その結果、魚のエキスと塩分がラムに溶け込み、独特の風味を持つ「スクリーチ」が出来上がったという訳だ。
度数は40°とかなり強い酒だが、もちろん生臭さなど全く無く、糖蜜系の柔かい甘みが喉に優しく、とても飲みやすい。
水割りでも美味しいが、現地で定番なのはコーラ割り。
他にも、ユニークなレシピが公式HPに紹介されているのでご覧あれ。
日本ではまず見かけない酒だが、カナダやアメリカでは手に入れるのは難しくないので、お土産にお薦めだ。
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2009年08月10日 (月) | 編集 |
今時珍しい脳味噌筋肉系の大バカアクション映画。
「G.I.ジョー」というタイトルからは、60年代生まれの私の世代は戦争映画を連想してしまうが、これは敵も味方も漫画的にぶっ飛んでおり、もはや完全にSFである。
どちらかと言うと、「G.I.ジョー」と言うよりも、実写版「ガッチャマン」みたいな物と思った方がしっくり来る。
近未来。
NATO軍の新兵器「ナノマイト」の弾頭が、輸送中に謎の武装集団に襲われる。
護衛に当たっていたアメリカ軍兵士、デューク(チャニング・テイタム)とリップコード(マーロン・ウェイアンズ)は、絶体絶命の危機を多国籍特殊部隊「G.I.ジョー」に救われ、弾頭をエジプトの砂漠にある彼らの秘密基地に移送する。
ホーク司令官(デニス・クエイド)に入隊を許可された二人だったが、基地に潜入した敵にナノマイトを奪われてしまう。
デュークの嘗ての恋人で、敵の幹部であるバロネス(シエナ・ミラー)がパリにある研究所に向かっている事が判り、「G.I.ジョー」たちは彼女を追ってパリへ飛ぶのだが・・・
元々「G.I.ジョー」とは、1964年にアメリカのハズブロ社が発売した、間接が可動して様々なポーズをとらせる事の出来る兵隊フィギュアである。
1967年から放送された、第二次世界大戦中のアメリカ軍部隊を描いた傑作テレビドラマ、「コンバット」が大ヒットした相乗効果もあって、全世界で売れに売れた。
この玩具とドラマのコンビネーションは、再放送が繰り返される毎に効果を発揮し、私が小学生だった70年代にも、夕方の「コンバット」の再放送を観て、サンダース軍曹気分で「G.I.ジョー」で遊ぶという男の子はたくさんいた。
おそらく現在のアラフォーから上の世代にとっては、「G.I.ジョー」とは迷彩服を着てドイツ軍と戦うアメリカ軍兵士のイメージだろう。
しかしこの映画は、そんな古きイメージを粉微塵に打ち砕く。
フィギュアの「G.I.ジョー」は、80年代に入るとクラッシクな兵隊物から様々なハイテク兵器を駆使するSFチックな玩具に変貌を遂げており、82年にはテレビアニメの放送が始まる。
映画版は、直接的にはこのテレビアニメの実写化という位置付けで、「G.I.ジョー」たちはウィリス・ジープに乗った迷彩服の兵隊ではなく、垂直離着陸機や水中を自在に駆け巡る小型潜水艇に乗り込み、「アイアンマン」の様なパワードスーツを装着して戦うスーパーヒーローとなっている。
対する敵も当然ドイツ軍ではなくて、世界征服を企むマッドサイエンティストに率いられた秘密結社コブラ。
人間を感情のないロボット兵士に改造し、超ハイテク兵器で武装した要塞を北極の海底に建造しているのだから、ハリウッド映画でも久しくお目にかからなかった類の、明快なる悪の組織である。
まあ、これを「G.I.ジョー」と言われると、私の世代にはどうしても違和感があるのだけど、今では見られなくなった70年代のタツノコ調勧善懲悪SFアニメの実写版だと脳内変換すれば、これはこれでありだろう。
スティーブン・ソマーズ監督は、映画的な記憶を総動員して派手派手なVFXアクションをこれでもかというくらいに詰め込んでいるが、ぶっちゃけ新鮮味は全く無い。
金属を喰う虫型ナノマシンというアイデアは、つい最近「地球が静止する日」で全く同じネタをやっていたし、全編がどこかで観たようなシーンの連続だ。
もっともこれはある程度狙ってやっているフシもあるので、シリアスな目で観るよりもパロディを楽しむくらいのノリで観た方が良いのだろう。
水中での戦闘シーンは「スターウォーズ」の各エピソードの宇宙での戦闘シーンをごちゃ混ぜにして水中に置き換えた物だし、戦闘機でミサイルを追跡するあたりは戦闘機のデザインを含めてイーストウッドの「ファイヤーフォックス」そっくり。
攻撃を命じる音声認識を、開発者の言語で言わなきゃ成らないあたりも、オリジナルに忠実にやっていた。(「ファイヤーフォックス」では「ロシア語で考えろ」だったけど)
ハイテク兵器同士のバトルだけでは味気ないからなのか、敵味方に因縁を抱えた白と黒のニンジャがいて、チャンバラまで見せてくれるあたり、まことにサービス精神の塊の様な映画だ(笑
そういえば、ソマーズ監督と「ハムナプトラ」シリーズでコンビを組んだ、ブレンダン・フレイザーがゲスト出演というサプライズもあったっけ。
登場人物が結構多いので、チャニング・テイタム演じる主人公のデュークのキャラがイマイチ立っていないあたりはシリーズ化するにはちょっと気になるが、今回は各人の紹介という役割もあるので、2作目以降に御期待という事か。
キャラクターで一番目立っていたのは、必要以上にセクシーな衣装に身を包んだファム・ファタールのバロネスを演じたシエナ・ミラーと、思った以上に美味しい見せ場の多かったニンジャ、シルバーストーム役のイ・ビョンホンだろう。
「G.I.ジョー」は、何も考えずに派手なアクションを観て、スカッとするにはちょうど良い作品だ。
物語を追い始めたら突っ込みどころだらけだし、テーマ性は全くと言って良いほど存在せず、正直言って作品としては軽い。
ただ、全体に大味ながらも、メカにアクションに適度なお色気と、この手の娯楽映画のツボは抑えられているので、過剰な期待を抱かなければ裏切られる事も無いだろう。
元々のアニメ版の成り立ちが玩具の宣伝である訳で、本作も基本的には同様の作りである。
もっとも、あまりにも薄味すぎて、肝心の子供たちも映画館を出た瞬間忘れてしまっていそうなのが心配ではあるが(笑
華やかに広がって、一瞬で消えるという、正に夏休みの打ち上げ花火の様な作品と言えるだろう。
今回は迷い無く、アメリカンビールの代表「バドワイザー」をチョイス。
夏のアメリカンスポーツの観戦には、水の様に薄いバドほど合う飲み物はないと思うが、本作も映画と言うよりはショーを観る様な感覚の作品。
本当はドライブイン・シアターあたりで、スタジアムサイズのバドをガブガブやりながら観るのが一番楽しいかもしれない。
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「G.I.ジョー」というタイトルからは、60年代生まれの私の世代は戦争映画を連想してしまうが、これは敵も味方も漫画的にぶっ飛んでおり、もはや完全にSFである。
どちらかと言うと、「G.I.ジョー」と言うよりも、実写版「ガッチャマン」みたいな物と思った方がしっくり来る。
近未来。
NATO軍の新兵器「ナノマイト」の弾頭が、輸送中に謎の武装集団に襲われる。
護衛に当たっていたアメリカ軍兵士、デューク(チャニング・テイタム)とリップコード(マーロン・ウェイアンズ)は、絶体絶命の危機を多国籍特殊部隊「G.I.ジョー」に救われ、弾頭をエジプトの砂漠にある彼らの秘密基地に移送する。
ホーク司令官(デニス・クエイド)に入隊を許可された二人だったが、基地に潜入した敵にナノマイトを奪われてしまう。
デュークの嘗ての恋人で、敵の幹部であるバロネス(シエナ・ミラー)がパリにある研究所に向かっている事が判り、「G.I.ジョー」たちは彼女を追ってパリへ飛ぶのだが・・・
元々「G.I.ジョー」とは、1964年にアメリカのハズブロ社が発売した、間接が可動して様々なポーズをとらせる事の出来る兵隊フィギュアである。
1967年から放送された、第二次世界大戦中のアメリカ軍部隊を描いた傑作テレビドラマ、「コンバット」が大ヒットした相乗効果もあって、全世界で売れに売れた。
この玩具とドラマのコンビネーションは、再放送が繰り返される毎に効果を発揮し、私が小学生だった70年代にも、夕方の「コンバット」の再放送を観て、サンダース軍曹気分で「G.I.ジョー」で遊ぶという男の子はたくさんいた。
おそらく現在のアラフォーから上の世代にとっては、「G.I.ジョー」とは迷彩服を着てドイツ軍と戦うアメリカ軍兵士のイメージだろう。
しかしこの映画は、そんな古きイメージを粉微塵に打ち砕く。
フィギュアの「G.I.ジョー」は、80年代に入るとクラッシクな兵隊物から様々なハイテク兵器を駆使するSFチックな玩具に変貌を遂げており、82年にはテレビアニメの放送が始まる。
映画版は、直接的にはこのテレビアニメの実写化という位置付けで、「G.I.ジョー」たちはウィリス・ジープに乗った迷彩服の兵隊ではなく、垂直離着陸機や水中を自在に駆け巡る小型潜水艇に乗り込み、「アイアンマン」の様なパワードスーツを装着して戦うスーパーヒーローとなっている。
対する敵も当然ドイツ軍ではなくて、世界征服を企むマッドサイエンティストに率いられた秘密結社コブラ。
人間を感情のないロボット兵士に改造し、超ハイテク兵器で武装した要塞を北極の海底に建造しているのだから、ハリウッド映画でも久しくお目にかからなかった類の、明快なる悪の組織である。
まあ、これを「G.I.ジョー」と言われると、私の世代にはどうしても違和感があるのだけど、今では見られなくなった70年代のタツノコ調勧善懲悪SFアニメの実写版だと脳内変換すれば、これはこれでありだろう。
スティーブン・ソマーズ監督は、映画的な記憶を総動員して派手派手なVFXアクションをこれでもかというくらいに詰め込んでいるが、ぶっちゃけ新鮮味は全く無い。
金属を喰う虫型ナノマシンというアイデアは、つい最近「地球が静止する日」で全く同じネタをやっていたし、全編がどこかで観たようなシーンの連続だ。
もっともこれはある程度狙ってやっているフシもあるので、シリアスな目で観るよりもパロディを楽しむくらいのノリで観た方が良いのだろう。
水中での戦闘シーンは「スターウォーズ」の各エピソードの宇宙での戦闘シーンをごちゃ混ぜにして水中に置き換えた物だし、戦闘機でミサイルを追跡するあたりは戦闘機のデザインを含めてイーストウッドの「ファイヤーフォックス」そっくり。
攻撃を命じる音声認識を、開発者の言語で言わなきゃ成らないあたりも、オリジナルに忠実にやっていた。(「ファイヤーフォックス」では「ロシア語で考えろ」だったけど)
ハイテク兵器同士のバトルだけでは味気ないからなのか、敵味方に因縁を抱えた白と黒のニンジャがいて、チャンバラまで見せてくれるあたり、まことにサービス精神の塊の様な映画だ(笑
そういえば、ソマーズ監督と「ハムナプトラ」シリーズでコンビを組んだ、ブレンダン・フレイザーがゲスト出演というサプライズもあったっけ。
登場人物が結構多いので、チャニング・テイタム演じる主人公のデュークのキャラがイマイチ立っていないあたりはシリーズ化するにはちょっと気になるが、今回は各人の紹介という役割もあるので、2作目以降に御期待という事か。
キャラクターで一番目立っていたのは、必要以上にセクシーな衣装に身を包んだファム・ファタールのバロネスを演じたシエナ・ミラーと、思った以上に美味しい見せ場の多かったニンジャ、シルバーストーム役のイ・ビョンホンだろう。
「G.I.ジョー」は、何も考えずに派手なアクションを観て、スカッとするにはちょうど良い作品だ。
物語を追い始めたら突っ込みどころだらけだし、テーマ性は全くと言って良いほど存在せず、正直言って作品としては軽い。
ただ、全体に大味ながらも、メカにアクションに適度なお色気と、この手の娯楽映画のツボは抑えられているので、過剰な期待を抱かなければ裏切られる事も無いだろう。
元々のアニメ版の成り立ちが玩具の宣伝である訳で、本作も基本的には同様の作りである。
もっとも、あまりにも薄味すぎて、肝心の子供たちも映画館を出た瞬間忘れてしまっていそうなのが心配ではあるが(笑
華やかに広がって、一瞬で消えるという、正に夏休みの打ち上げ花火の様な作品と言えるだろう。
今回は迷い無く、アメリカンビールの代表「バドワイザー」をチョイス。
夏のアメリカンスポーツの観戦には、水の様に薄いバドほど合う飲み物はないと思うが、本作も映画と言うよりはショーを観る様な感覚の作品。
本当はドライブイン・シアターあたりで、スタジアムサイズのバドをガブガブやりながら観るのが一番楽しいかもしれない。

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2009年08月05日 (水) | 編集 |
私はどちらかと言うと猫派の猫バカなので、ハリウッド映画における過剰な犬偏愛主義にはしばしば拒否反応を感じてしまう。
だが、そんな私でもこの映画のオープニング、動物シェルターで遊ぶ仔犬のボルトの殺人的な可愛さにはノックアウトされた。
あの子犬のまま映画が続いたら、そのまま悶え死んでしまったかも知れない(笑
だが、犬でも猫でも人間でも、小さくて可愛い時期は一瞬。
大きくなったボルトは、なんと悪と戦うスーパードッグに大変身、と言ってもそれは劇中のテレビの中の話。
「ボルト」は、自分自身が何者かを知らなかった一匹の犬が、長い長い旅路の果てに、本当の幸せを見つけるまでを描いた良質のファミリー映画だ。
ボルトはハリウッドで活躍するスター犬。
飼い主のペニーを守って、悪の組織と戦う番組の主役として大人気だ。
だが、ボルトと自身は、自分が本当にスーパードッグだと思っている。
ある日、ペニーが悪の組織に連れ去られるシーンの撮影があり、本当に彼女が誘拐されたと思ったボルトは、スタジオの外に飛び出してしまう。
ひょんなことから、ハリウッドから遥かかなたのニューヨークまで運ばれてしまったボルトは、猫のミトンズとハムスターのライノを道連れに、ペニーを探す長い旅に出るのだが・・・
2006年にディズニーがピクサーを買収した事で、実質的にピクサーの元でディズニーのアニメーションスタジオの再建が始まってから3年。
この作品は企画の始まりからピクサーのスタッフが関与した最初の作品となり、ストーリー及びビジュアルの高い完成度、エンドクレジットなどに見られる絵的な遊び心も含めてピクサー流の映画作りを強く感じさせる作品となっている。
今までの所、ディズニーブランドの作品はピクサー作品と若干コアターゲットとなる年齢層を変え、こちらの方がより若年層から楽しめる作品を目指している事で棲み分けも上手くいっている様だ。
本作の主人公は、自分を悪と戦うスーパードッグだと思い込んでいた犬。
予告編を観たときから、どこかで聞いたような話だなあと思っていたのだが、なるほどこれは本作のエグゼクティブプロデューサーを務めるジョン・ラセターの代表作であり、映画史上初の長編フルCGアニメーション「トイ・ストーリー」の主人公の一人、バズ・ライトイヤーの葛藤の焼き直しだ。
あの映画で、自分の事を宇宙を救うヒーローだと思い込んでいたバズは、実は自分が子供の玩具に過ぎず、何のスーパーパワーも無いことに愕然とするが、彼の姿は本作のボルトにそのままかぶる。
また、物心付いた頃からスタジオのセットで育ち、外の世界を知らないという設定は、ピーター・ウィアー監督の「トゥルーマンショー」か。
これら、知らないうちにショービズというフェイクの人生を送っている主人公の物語に、懐かしのディズニー動物映画、「三匹荒野を行く」の様な、「ホーム」を目指す動物たちのロードムービーを組み合わせたのが「ボルト」と言えるだろう。
とは言っても、物語の構築に膨大な時間とお金をかけるのがピクサー流。
過去の作品のコンセプトを流用しつつも、プロットは無駄なく綿密に作りこまれ、観ている間デジャヴをそれほど感じさせないのはさすがである。
ボルトと旅の仲間となる、野良猫のミトンズとなぜか何時もボールに入っているハムスターのライノのキャラクターもいい。
ミトンズは、世間知らずのボルトに限りなく厳しい現実を教える役回りだ。
やせ細り、毛並みもボサボサの彼女は、都会の片隅でハトたちから食べ物を脅し取る事で何とか暮らしている。
猫を恐れるハトたちには強がりを言っているものの、彼女はどうやら昔の飼い主に爪を抜かれ、野生を生き抜く能力を奪われた上で、無残にも捨てられたらしい。
人間の愛を信じることが出来ないミトンズの傷ついた心は、私の様な猫バカにはたまらなく切ない。
対して、何時も能天気で、根拠無くポジティブなのはハムスターのライノ。
彼の迷いの無い生き方は、世界の現実に落ち込むボルトと厭世的なミトンズを勇気付ける。
ぶっちゃけ無謀ではあるものの、ライノの後先考えない(考える頭が無いとも言えるけど)行動力は、ボルトやミトンズだけでなく、我々観客にも明日を信じるパワーを与えてくれる・・・気がする(笑
一方、人間側でしっかりと描かれるキャラクターはペニーだけ。
彼女の周りの人間たちは出てくるものの、基本的にそれぞれの役割に記号化されたキャラクターだ。
だがこの作品の場合、フェイクで固められたボルトの世界で、「唯一本物だったもの」はペニーの愛だったわけで、人間側のキャラクターを彼女に絞ったのは正解だろう。
ペニーのマネージャーや視聴率至上主義のスタジオの女性幹部などの、ハリウッド的な価値観を揶揄するキャラクターは、若干自虐的なギャグにもなっていて面白いのだが、これをあんまり強調しすぎると、今度はドリームワークス系のアニメの様に毒で一杯になっちゃうので、バランスとしては今ぐらいがちょうど良いのかもしれない。
「ボルト」は、誰にでも薦められる超正統派のファミリー映画だ。
その分、万人向けを意識するあまり、優等生的にまとまり過ぎていて、全てが予定調和に進んでしまう事が欠点と言えるだろう。
まあ逆に言えば、観客を選ぶマニアックさは皆無で、年少の子供たちも安心して連れて行けるし、大人が観ても十分楽しめる。
ボルトの人生(犬生?)は極端な例だが、本当の自分とは何者なのか?と言う問いは、程度の違いはあれどおそらくは誰もが一度は抱いた事があるだろう。
その意味で、実社会で現実の壁にぶち当たり苦悩するボルトの姿は、自分はまだまだこんな程度じゃないはず・・・と思っている多くの大人たちにこそ説得力をもって受け入れられるかもしれない。
タイトルロールのボルトをジョン・トラボルタ、ペニーを「シークレット・アイドル/ハンナ・モンタナ」で大ブレイクしたマイリー・サイラスが好演。
共に喉に覚えのある二人だけあって、主題歌「I Thought I Lost You」も一緒に歌っている。
悪の組織のドクター・キャリコを、怪優マルコム・マクダウェルが演じていたりするのも遊び心があって嬉しい。
同時上映の短編はピクサー作品。
ジョン・ラセター監督の「カーズ」からのスピンオフ、その名も「TOKYO MATER」だ。
東京を舞台に、レッカー車のメーターのドリフトバトルが描かれるこちらは、「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」のパロデイ。
ゲイシャカーも登場し、まるで「スピードレーサー」の様にネオンがピカピカのこれは、確信犯的に日本を勘違いしてるな(笑
今回は犬だけに、「ソルティードッグ」をチョイス。
もっとも、この名前の元の意味は、海風に晒される水兵を「塩塗れの犬」に見立てたスラングで、地上の犬とはあまり関係ない。
グラスの淵にグレープフルーツジュースを塗って、粒の粗い天然塩を付着させてスノースタイルに。
塩は海塩の方が相性が良い。
冷したウォッカとグレープフルーツジュースをお好みの比率でステアして、夏の定番カクテルが完成。
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だが、そんな私でもこの映画のオープニング、動物シェルターで遊ぶ仔犬のボルトの殺人的な可愛さにはノックアウトされた。
あの子犬のまま映画が続いたら、そのまま悶え死んでしまったかも知れない(笑
だが、犬でも猫でも人間でも、小さくて可愛い時期は一瞬。
大きくなったボルトは、なんと悪と戦うスーパードッグに大変身、と言ってもそれは劇中のテレビの中の話。
「ボルト」は、自分自身が何者かを知らなかった一匹の犬が、長い長い旅路の果てに、本当の幸せを見つけるまでを描いた良質のファミリー映画だ。
ボルトはハリウッドで活躍するスター犬。
飼い主のペニーを守って、悪の組織と戦う番組の主役として大人気だ。
だが、ボルトと自身は、自分が本当にスーパードッグだと思っている。
ある日、ペニーが悪の組織に連れ去られるシーンの撮影があり、本当に彼女が誘拐されたと思ったボルトは、スタジオの外に飛び出してしまう。
ひょんなことから、ハリウッドから遥かかなたのニューヨークまで運ばれてしまったボルトは、猫のミトンズとハムスターのライノを道連れに、ペニーを探す長い旅に出るのだが・・・
2006年にディズニーがピクサーを買収した事で、実質的にピクサーの元でディズニーのアニメーションスタジオの再建が始まってから3年。
この作品は企画の始まりからピクサーのスタッフが関与した最初の作品となり、ストーリー及びビジュアルの高い完成度、エンドクレジットなどに見られる絵的な遊び心も含めてピクサー流の映画作りを強く感じさせる作品となっている。
今までの所、ディズニーブランドの作品はピクサー作品と若干コアターゲットとなる年齢層を変え、こちらの方がより若年層から楽しめる作品を目指している事で棲み分けも上手くいっている様だ。
本作の主人公は、自分を悪と戦うスーパードッグだと思い込んでいた犬。
予告編を観たときから、どこかで聞いたような話だなあと思っていたのだが、なるほどこれは本作のエグゼクティブプロデューサーを務めるジョン・ラセターの代表作であり、映画史上初の長編フルCGアニメーション「トイ・ストーリー」の主人公の一人、バズ・ライトイヤーの葛藤の焼き直しだ。
あの映画で、自分の事を宇宙を救うヒーローだと思い込んでいたバズは、実は自分が子供の玩具に過ぎず、何のスーパーパワーも無いことに愕然とするが、彼の姿は本作のボルトにそのままかぶる。
また、物心付いた頃からスタジオのセットで育ち、外の世界を知らないという設定は、ピーター・ウィアー監督の「トゥルーマンショー」か。
これら、知らないうちにショービズというフェイクの人生を送っている主人公の物語に、懐かしのディズニー動物映画、「三匹荒野を行く」の様な、「ホーム」を目指す動物たちのロードムービーを組み合わせたのが「ボルト」と言えるだろう。
とは言っても、物語の構築に膨大な時間とお金をかけるのがピクサー流。
過去の作品のコンセプトを流用しつつも、プロットは無駄なく綿密に作りこまれ、観ている間デジャヴをそれほど感じさせないのはさすがである。
ボルトと旅の仲間となる、野良猫のミトンズとなぜか何時もボールに入っているハムスターのライノのキャラクターもいい。
ミトンズは、世間知らずのボルトに限りなく厳しい現実を教える役回りだ。
やせ細り、毛並みもボサボサの彼女は、都会の片隅でハトたちから食べ物を脅し取る事で何とか暮らしている。
猫を恐れるハトたちには強がりを言っているものの、彼女はどうやら昔の飼い主に爪を抜かれ、野生を生き抜く能力を奪われた上で、無残にも捨てられたらしい。
人間の愛を信じることが出来ないミトンズの傷ついた心は、私の様な猫バカにはたまらなく切ない。
対して、何時も能天気で、根拠無くポジティブなのはハムスターのライノ。
彼の迷いの無い生き方は、世界の現実に落ち込むボルトと厭世的なミトンズを勇気付ける。
ぶっちゃけ無謀ではあるものの、ライノの後先考えない(考える頭が無いとも言えるけど)行動力は、ボルトやミトンズだけでなく、我々観客にも明日を信じるパワーを与えてくれる・・・気がする(笑
一方、人間側でしっかりと描かれるキャラクターはペニーだけ。
彼女の周りの人間たちは出てくるものの、基本的にそれぞれの役割に記号化されたキャラクターだ。
だがこの作品の場合、フェイクで固められたボルトの世界で、「唯一本物だったもの」はペニーの愛だったわけで、人間側のキャラクターを彼女に絞ったのは正解だろう。
ペニーのマネージャーや視聴率至上主義のスタジオの女性幹部などの、ハリウッド的な価値観を揶揄するキャラクターは、若干自虐的なギャグにもなっていて面白いのだが、これをあんまり強調しすぎると、今度はドリームワークス系のアニメの様に毒で一杯になっちゃうので、バランスとしては今ぐらいがちょうど良いのかもしれない。
「ボルト」は、誰にでも薦められる超正統派のファミリー映画だ。
その分、万人向けを意識するあまり、優等生的にまとまり過ぎていて、全てが予定調和に進んでしまう事が欠点と言えるだろう。
まあ逆に言えば、観客を選ぶマニアックさは皆無で、年少の子供たちも安心して連れて行けるし、大人が観ても十分楽しめる。
ボルトの人生(犬生?)は極端な例だが、本当の自分とは何者なのか?と言う問いは、程度の違いはあれどおそらくは誰もが一度は抱いた事があるだろう。
その意味で、実社会で現実の壁にぶち当たり苦悩するボルトの姿は、自分はまだまだこんな程度じゃないはず・・・と思っている多くの大人たちにこそ説得力をもって受け入れられるかもしれない。
タイトルロールのボルトをジョン・トラボルタ、ペニーを「シークレット・アイドル/ハンナ・モンタナ」で大ブレイクしたマイリー・サイラスが好演。
共に喉に覚えのある二人だけあって、主題歌「I Thought I Lost You」も一緒に歌っている。
悪の組織のドクター・キャリコを、怪優マルコム・マクダウェルが演じていたりするのも遊び心があって嬉しい。
同時上映の短編はピクサー作品。
ジョン・ラセター監督の「カーズ」からのスピンオフ、その名も「TOKYO MATER」だ。
東京を舞台に、レッカー車のメーターのドリフトバトルが描かれるこちらは、「ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT」のパロデイ。
ゲイシャカーも登場し、まるで「スピードレーサー」の様にネオンがピカピカのこれは、確信犯的に日本を勘違いしてるな(笑
今回は犬だけに、「ソルティードッグ」をチョイス。
もっとも、この名前の元の意味は、海風に晒される水兵を「塩塗れの犬」に見立てたスラングで、地上の犬とはあまり関係ない。
グラスの淵にグレープフルーツジュースを塗って、粒の粗い天然塩を付着させてスノースタイルに。
塩は海塩の方が相性が良い。
冷したウォッカとグレープフルーツジュースをお好みの比率でステアして、夏の定番カクテルが完成。

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2009年08月01日 (土) | 編集 |
3年前の夏、小規模公開ながら口コミで人気が広がり、異例のロングランヒットとなった「時をかける少女」の細田守監督の最新作。
「サマーウォーズ」というタイトルが付けられたこの作品、予告編からは田舎の大家族と奇妙なヴァーチャルワールドが絡むらしいという以外、どんな話なのかさっぱりわからなかったが、なるほどこれは実に細田監督らしい異色の「戦争映画」である。
高校二年の夏休み。
数学オタクの小磯健二(神木隆之介)は、憧れの先輩・夏希(桜庭ななみ)からアルバイトを頼まれる。
二人は長野県の上田にある夏希の田舎にやって来るが、祖母の栄(富司純子)は室町時代から続く武家の名門・陣内家の当主だった。
90歳の栄の誕生祝に、全国から続々と集まってくる御親戚の皆さん。
そこで健二は、突然夏希から「フィアンセのふりをしてくれ」と頼まれる。
あっけにとられる健二の元に、その夜何者かから数学の難題がメールで送られてくる。
何かのクイズかと思った健二は、問題を解いて返信してしまうが、実はこの問題は、全世界で10億人以上が利用し、現実世界のライフラインと直結する巨大ヴァーチャル空間「OZ」のセキュリティキーだったのだ。
目を覚ました健二が目にしたのは、全国ネットのテレビで、大混乱の犯人として流されている自分の顔写真と、彼を見つめる陣内家の面々の冷たい視線だった・・・
舞台となるのは、長野県上田市にある旧家のお屋敷と、セカンドライフをもっと巨大にしたようなヴァーチャル空間、OZ。
現実世界と密接に結びついたOZの中に、突如としてある「怪物」が現れた事で、現実世界が崩壊に向かってしまい、デジタルとは一番縁遠そうな田舎の日本屋敷で、世界を救う戦争が遂行されるというのが物語の骨子だ。
たぶんこの設定でピンとくる人も多いだろうが、本作のアイディアのベースとなっているのは、細田監督の出世作である「劇場版デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」だろう。
ネットの世界に現れた怪物の暴走を止めるために、二人の子供が活躍する「デジモン」を、基本設定はそのままに拡大・改良し、「時をかける少女」の青春物の要素を組み合わせ、細田監督が一貫して描いてきた人間同士の絆をテーマに纏め上げたのが「サマーウォーズ」と言える。
「デジモン」は、二人の子供の戦いだったが、今回は健二と中学生ゲーム王から90歳のおばあさんまで、陣内家の個性的な面々がそれぞれの方法で世界の危機と戦う。
何でも、大家族物というアイディアは、細田監督が上田にある奥さんの実家に食事に行った時に、思いがけず親戚一同が集まった結婚披露宴になってしまった事から思いついたらしい。
まずは前半に、デジタル人間の健二の無意識の過ちが世界を大混乱に落とし入れ、さらに問題の根本に陣内家のはみ出し者である侘助の野望が絡んでいる事がわかると、当主の栄が今や骨董品の黒電話という超アナログなツールを駆使して混乱を最小限に抑えにかかり、お次は様々なジャンルのスペシャリストが揃った陣内家が結束して混乱に立ち向かう。
戦う陣内家のモデルになっているのは、もちろん信州上田から戦国の世に名を轟かせた真田氏だろう。
数々の数的劣勢の合戦を、団結と知略で生き抜いてきた真田軍団の戦いを、現代のヴァーチャル戦争に投影したという事か。
この作品は、まあSFと思えばSFなんだろうけど、描かれている世界は既に荒唐無稽な絵空事とは言えず、現実とSFの境界線上の物語と言えるかも知れない。
テクノロジーの発達によって世界がどんどん便利になる反面、希薄化する生身の人間同士の触れあいや、全ての情報が一元化されるシステムの脆弱性に対する危機感には十分なリアリティがありる。
ここまで来ると、デジタル技術に過度に依存した現代社会を批判したくなるところだが、単純な文明批判に持っていかないあたりが、なかなか思慮深いところ。
何しろOZは鯨の姿をしたジョンとヨーコが守護するラブ&ピースな世界であり、その世界を崩壊させるのは「ラブマシーン」(笑)という名の野望の塊。
ハイテクだろうがローテクだろうが、結局人間の作り出した物は、それを生かすのも殺すのも人間であり、ラブマシーンだって使い方次第で世界を滅ぼせるのである。
物語のクライマックスでは、文字通り仮想と現実が一体となって、OZの世界にも決して諦めない人々の善意が溢れ出す事で、人間の絆というのは社会の変化と共に、常に新しい形が出来てくるのだという事をキッチリと描いてくるのはさすがである。
本作と同じく貞本義行がキャラクターデザインを手がけた、「エヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズとは違った意味で、現在の日本社会を希望的に捉えた作品と言える。
田舎の大家族の織り成すホームドラマと、高校生の甘酸っぱい青春物、さらにはみ出し者の野望が生み出した怪物とのヴァーチャル戦争と、「サマーウォーズ」を構成する要素は一見脈役が無いくらいに盛りだくさんだ。
だが2時間弱の上映時間の中に整然と纏まった物語は、「全世界のハッカーは、混乱の間一体何をしているのか?」など多少の突っ込みどころはあるものの、全体にテンポ良く快調に進み、無理やり詰め込んだ感はあまり無い。
これは作者の頭の中で、物語が収束するポイントが明確に定まっており、幾ら風呂敷を広げたとしても畳む手順がキッチリと計算されているからだろう。
ある種の群像劇なのに、メインの登場人物それぞれに個性を発揮する見せ場が用意され、手持ち無沙汰なキャラがいないあたりも含めて、奥寺佐渡子が担当した脚本は構成力の高さが際立つ。
「学校の怪談」シリーズ以来少年少女の描写には定評のある人だが、間違いなくベストワークだろう。
技術的なクオリティも極めて高い。
まるで頭のネジが飛んじゃった人が描いた様な、OZのサイケデリックな世界はフルCGで描かれ、昔ながらの手描きアニメで表現される、現実世界の生活観たっぷりの日本の夏との対比は、作品の内容ともリンクしており、試みとしても面白い。
ジブリ作品でもお馴染みの武重洋二の素晴らしい美術は、まるで夏草の香りまでスクリーンを通して漂ってくる様だ。
もちろん、細田演出の特徴でもある、キャラクターたちの演技の細やかさは今回も健在で、ちょっとした衣装の拘りや所作でその人物の人となりが観る者にリアルに伝わってきて、この作品に独特の生っぽさを与えている。
内容的にも映像的にも、日本のアニメーション映画のレベルの高さを十二分に堪能できる秀作であり、夏休み映画として老若男女に進められる作品だ。
今回は、真夏の戦いの後にサッパリ飲みたい「サッポロ ラガービール」をチョイス。
劇中の宴会にも登場していたが、ビールと言うのは不思議と土地柄の出る飲み物で、日本の夏にはスッキリした日本のビールが一番合う。
力の入った夏休み映画の後には、キンキンに冷やしたビールで乾杯!
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「サマーウォーズ」というタイトルが付けられたこの作品、予告編からは田舎の大家族と奇妙なヴァーチャルワールドが絡むらしいという以外、どんな話なのかさっぱりわからなかったが、なるほどこれは実に細田監督らしい異色の「戦争映画」である。
高校二年の夏休み。
数学オタクの小磯健二(神木隆之介)は、憧れの先輩・夏希(桜庭ななみ)からアルバイトを頼まれる。
二人は長野県の上田にある夏希の田舎にやって来るが、祖母の栄(富司純子)は室町時代から続く武家の名門・陣内家の当主だった。
90歳の栄の誕生祝に、全国から続々と集まってくる御親戚の皆さん。
そこで健二は、突然夏希から「フィアンセのふりをしてくれ」と頼まれる。
あっけにとられる健二の元に、その夜何者かから数学の難題がメールで送られてくる。
何かのクイズかと思った健二は、問題を解いて返信してしまうが、実はこの問題は、全世界で10億人以上が利用し、現実世界のライフラインと直結する巨大ヴァーチャル空間「OZ」のセキュリティキーだったのだ。
目を覚ました健二が目にしたのは、全国ネットのテレビで、大混乱の犯人として流されている自分の顔写真と、彼を見つめる陣内家の面々の冷たい視線だった・・・
舞台となるのは、長野県上田市にある旧家のお屋敷と、セカンドライフをもっと巨大にしたようなヴァーチャル空間、OZ。
現実世界と密接に結びついたOZの中に、突如としてある「怪物」が現れた事で、現実世界が崩壊に向かってしまい、デジタルとは一番縁遠そうな田舎の日本屋敷で、世界を救う戦争が遂行されるというのが物語の骨子だ。
たぶんこの設定でピンとくる人も多いだろうが、本作のアイディアのベースとなっているのは、細田監督の出世作である「劇場版デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」だろう。
ネットの世界に現れた怪物の暴走を止めるために、二人の子供が活躍する「デジモン」を、基本設定はそのままに拡大・改良し、「時をかける少女」の青春物の要素を組み合わせ、細田監督が一貫して描いてきた人間同士の絆をテーマに纏め上げたのが「サマーウォーズ」と言える。
「デジモン」は、二人の子供の戦いだったが、今回は健二と中学生ゲーム王から90歳のおばあさんまで、陣内家の個性的な面々がそれぞれの方法で世界の危機と戦う。
何でも、大家族物というアイディアは、細田監督が上田にある奥さんの実家に食事に行った時に、思いがけず親戚一同が集まった結婚披露宴になってしまった事から思いついたらしい。
まずは前半に、デジタル人間の健二の無意識の過ちが世界を大混乱に落とし入れ、さらに問題の根本に陣内家のはみ出し者である侘助の野望が絡んでいる事がわかると、当主の栄が今や骨董品の黒電話という超アナログなツールを駆使して混乱を最小限に抑えにかかり、お次は様々なジャンルのスペシャリストが揃った陣内家が結束して混乱に立ち向かう。
戦う陣内家のモデルになっているのは、もちろん信州上田から戦国の世に名を轟かせた真田氏だろう。
数々の数的劣勢の合戦を、団結と知略で生き抜いてきた真田軍団の戦いを、現代のヴァーチャル戦争に投影したという事か。
この作品は、まあSFと思えばSFなんだろうけど、描かれている世界は既に荒唐無稽な絵空事とは言えず、現実とSFの境界線上の物語と言えるかも知れない。
テクノロジーの発達によって世界がどんどん便利になる反面、希薄化する生身の人間同士の触れあいや、全ての情報が一元化されるシステムの脆弱性に対する危機感には十分なリアリティがありる。
ここまで来ると、デジタル技術に過度に依存した現代社会を批判したくなるところだが、単純な文明批判に持っていかないあたりが、なかなか思慮深いところ。
何しろOZは鯨の姿をしたジョンとヨーコが守護するラブ&ピースな世界であり、その世界を崩壊させるのは「ラブマシーン」(笑)という名の野望の塊。
ハイテクだろうがローテクだろうが、結局人間の作り出した物は、それを生かすのも殺すのも人間であり、ラブマシーンだって使い方次第で世界を滅ぼせるのである。
物語のクライマックスでは、文字通り仮想と現実が一体となって、OZの世界にも決して諦めない人々の善意が溢れ出す事で、人間の絆というのは社会の変化と共に、常に新しい形が出来てくるのだという事をキッチリと描いてくるのはさすがである。
本作と同じく貞本義行がキャラクターデザインを手がけた、「エヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズとは違った意味で、現在の日本社会を希望的に捉えた作品と言える。
田舎の大家族の織り成すホームドラマと、高校生の甘酸っぱい青春物、さらにはみ出し者の野望が生み出した怪物とのヴァーチャル戦争と、「サマーウォーズ」を構成する要素は一見脈役が無いくらいに盛りだくさんだ。
だが2時間弱の上映時間の中に整然と纏まった物語は、「全世界のハッカーは、混乱の間一体何をしているのか?」など多少の突っ込みどころはあるものの、全体にテンポ良く快調に進み、無理やり詰め込んだ感はあまり無い。
これは作者の頭の中で、物語が収束するポイントが明確に定まっており、幾ら風呂敷を広げたとしても畳む手順がキッチリと計算されているからだろう。
ある種の群像劇なのに、メインの登場人物それぞれに個性を発揮する見せ場が用意され、手持ち無沙汰なキャラがいないあたりも含めて、奥寺佐渡子が担当した脚本は構成力の高さが際立つ。
「学校の怪談」シリーズ以来少年少女の描写には定評のある人だが、間違いなくベストワークだろう。
技術的なクオリティも極めて高い。
まるで頭のネジが飛んじゃった人が描いた様な、OZのサイケデリックな世界はフルCGで描かれ、昔ながらの手描きアニメで表現される、現実世界の生活観たっぷりの日本の夏との対比は、作品の内容ともリンクしており、試みとしても面白い。
ジブリ作品でもお馴染みの武重洋二の素晴らしい美術は、まるで夏草の香りまでスクリーンを通して漂ってくる様だ。
もちろん、細田演出の特徴でもある、キャラクターたちの演技の細やかさは今回も健在で、ちょっとした衣装の拘りや所作でその人物の人となりが観る者にリアルに伝わってきて、この作品に独特の生っぽさを与えている。
内容的にも映像的にも、日本のアニメーション映画のレベルの高さを十二分に堪能できる秀作であり、夏休み映画として老若男女に進められる作品だ。
今回は、真夏の戦いの後にサッパリ飲みたい「サッポロ ラガービール」をチョイス。
劇中の宴会にも登場していたが、ビールと言うのは不思議と土地柄の出る飲み物で、日本の夏にはスッキリした日本のビールが一番合う。
力の入った夏休み映画の後には、キンキンに冷やしたビールで乾杯!

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