酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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正義のゆくえ I.C.E特別捜査官・・・・・評価額1600円
2009年09月27日 (日) | 編集 |
「正義のゆくえ I.C.E特別捜査官」といういかにもな邦題と、ハリソン・フォード主演という事で、殺人事件をモチーフにしたハリウッド製エンタメ映画だと思って気楽に構えていたら、これはなかなかどうして骨太の社会派映画だ。
ハリソンフォードというビッグスターを主演に迎えているが、映画の作りは群像劇。
同じく、移民社会の葛藤を扱った群像劇であったポール・ハギスの「クラッシュ」と似ているが、テーマへのアプローチには独自性があり、非常に観応えのある一本だ。

ロサンゼルス移民・税関執行局のマックス(ハリソン・フォード)は、不法滞在者の摘発現場でメキシコ人女性のミレヤ(アリシー・ブラガ)と出会う。
彼女は一人息子を知人に預けていると訴えるが、そのまま強制送還されてしまう。
マックスは、彼女の残したメモを頼りに息子を保護すると、メキシコのミレヤの実家まで送り届ける。
ところが、ミレヤは入れ違いに息子を探してアメリカに戻ったところだった。
その頃、ハリウッドで成功を夢見て不法滞在中のオーストラリア人女優クレア(アリス・イヴ)は、交通事故相手の移民判定官コール(レイ・リオッタ)に、グリーンカードと引き換えに関係を持つように脅迫される。
コールの妻デニス(アシュレイ・ジャッド)は人権派弁護士で、授業中にイスラム過激派の主張に理解を訴え、FBIに拘束されたバングラディッシュ出身の少女タズリマ(サマー・ビシル)の交渉人を引き受ける。
だがFBIに出向いたデニスに、彼らが示した解放の条件は過酷なものだった。
アメリカに戻ったマックスは、相棒のハミード(クリフ・カーティス)の父親がアメリカに帰化するパーティに招かれるが、そこで出会ったハミードの妹ザーラ(メロディ・カザエ)が、何者かによって射殺されるという事件が発生する・・・


広いLAを舞台に、様々な階層、人種の人々が同時多発的に問題を抱え、それらが形作る葛藤が少しずつ絡み合ってゆくあたり、「クラッシュ」に非常によく似ている。
ただし、人間たちの衝突が齎す結果に関して、ハギスが最終的にLAのホワイトクリスマスというファンタジーに落とし込んで、オブラートに包み込んだのに対して、こちらはあくまでも移民たちが直面するリアルに拘る。
救われる人間よりも、救われない人間の方が目立つ辺りを含めて、物語は辛口だ。

監督のウェイン・クラマーは、南アフリカ生まれの白人で、アメリカに移民して帰化した人物。
なるほど、確かにこの題材はアメリカ生まれのアメリカ人ではなかなか撮れないし、そもそも思いつかないかもしれない。
この作品は、1996年に短編映画として作られた同名作品のプロットを膨らませたリメイクとなるのだが、思えばクラマーが一躍ハリウッドで注目される切欠となった、前作の「ワイルドバレット」も、背景に移民社会の問題があった。

登場人物の直面するシチュエーションは様々だが、移民局でのやり取りなどは、実際に体験した人間ならではのリアルさが感じられる。
私も嘗て移民としてアメリカで暮らし、グリーンカードまで取った経験があるので、その困難さ、実際にカードが発行されるまでの不安感はよくわかる。
ペラペラのプラスチックカードがあるかないかで、その国での立ち位置が180度変わる。
移民にとって、グリーンカードは魔法のカードなのだ。

登場人物のバックグラウンドが丁寧に描かれ、移民イコールアメリカ人の雇用を奪う単純労働者というステロタイプは覆される。
ハリウッド女優を目指すオージーのクレアや南アフリカ出身のミュージシャン、ギャビンの様な白人移民の存在は、当のアメリカにおいても移民という言葉のイメージから外れたものだし、彼らの存在は観客の色眼鏡を取り去る効果があるだろう。
彼らと同じような、夢を求める日本人の不法移民もアメリカにはたくさんいるのである。
そしてバングラディッシュ人の一家、韓国人の一家、そしてマックスの相棒であるハミードの家族の物語は、寛容と不寛容の狭間で、移民サイドから異文化に向き合って生活する困難さが表現されている。
生真面目な少女タズリマは、アメリカ社会の寛容さを信じ、結果的に現実に裏切られる。
彼女の辿る過酷な運命は、9・11以降に変質してしまったアメリカの一つの姿をストレートに現し、ある種の衝撃を観客に感じさせるだろう。

移民してきた者にとって、アメリカ帰化はある意味でアメリカンドリームの控えめなゴールである。
映画はその帰化宣誓式というゴールの喜びと、ゴールに辿り着けずにアメリカを去ってゆく悲しみを巧みに対比させる。
また宣誓式の中でも、ハミードの家族の問題を通して、今度はアメリカ人になるという事の重い意味を突きつける。
世界史に類を見ない実験国家アメリカ合衆国は、実は厳格な原理原則の上に辛うじて成り立っているのである。

ウェイン・クラマー監督は、あくまでもリアルに拘って物語を語ろうとしているが、全体を通すとそれ故の弊害も出ている。
関東地方に匹敵する広さを持つ大ロサンゼルス圏で、人物の交錯があまりにも出来すぎているのだ。
グリーンカードが欲しいオーストラリア人女優とたまたま接触事後を起こしたのがグリーンカードの判定官だったりするのは偶然性に頼りすぎていないか。
同じような構造を持つ「クラッシュ」で、ハギスは全体を寓話として昇華する事でこの問題をクリアしていたが、こちらはリアルに拘ったがゆえに少し気になってしまった。

この映画のテーマは、一般の日本人にとっては、今ひとつピンと来ないかもしれない。
だが、ここに描かれる世界は、既に日本社会にとって合わせ鏡であり、この国の未来にとっても様々な示唆が含まれていると思う。
数的な規模の違いはあれど、既に日本は移民社会であり、ほんの少し設定を変えれば、この映画はそのまま東京を舞台にリメイクする事が可能なのである。
多くの移民が日本に夢を求めて、あるいは経済的な理由でやって来ており、この映画に描かれた人々と同じように、当局の摘発に怯え、何とか生活基盤を保とうと必死に戦っている。
国民としての保護が受けられない移民という立場は、合法・不法を問わずに極めて不安定で、国の政策がほんのちょっと変わっただけで、あるいは当局者の気分次第で生活基盤が簡単に奪われる。
移民政策自体は色々な考え方があるだろうし、不法移民を犯罪として糾弾するのも簡単な事だ。
だが、移民たちには様々な背景があり、同時に社会における絶対的な弱者であることは事実であり、その事を端的に表現したこの作品の持つ意味は大きい。
また、移民は社会を計るバロメーターでもある。
外から人が来る、来たがるというのは、色々な意味でその社会に魅力がある証拠でもある。
逆に言えば、移民が来たがらない様な社会には、既に魅力が無いとも言える。
様々な問題を抱えながら、全世界の人々を惹きつけてきたアメリカには、やはり他の国には無い独特の魔力が存在するのだ。
振り返って、果たして日本社会は何時まで、移民を招き寄せる力を保ち続ける事が出来るのか?
正直なところ、私は少々疑問である。

今回は、映画の舞台となる「ロサンゼルス」という名のカクテルを。
バーボン45ml、レモンジュース20ml、スィートベルモット2dash、砂糖少々と卵を1つ、シェイクしてグラスに注ぐ。
アメリカを代表するバーボンを中心に、様々な素材がハーモニーを作り出すのは、正にアメリカの移民社会の様だ。
ただし、辛口の映画に対して、このカクテルはまろやかに甘酸っぱい。

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カムイ外伝・・・・・評価額1250円
2009年09月22日 (火) | 編集 |
白土三平による伝説的なコミック、「カムイ伝」シリーズからの初の実写映画化である。
1964年に連載が開始された「カムイ伝」は、主人公であるカムイを中心に、江戸時代の様々な階層のキャラクターたちが織り成す壮大な人間ドラマであり、現在に至るまで未完結のままである。
階級社会や被差別部落の問題を扱っているために、色々な意味で映像化は難しく、単行本も私が子供の頃に読んだ物と、現在出版されている物では台詞の差別語の扱いなどが異なっている様だ。
「カムイ外伝」は、「カムイ伝」で抜け忍となったカムイの逃避行をメインとした、いわばスピンオフのアクション編で、元のシリーズよりは社会派色が薄く、物語も比較的コンパクトに纏まっているので、こちらを映画化したのは正解だろう。
もっとも、「外伝」とはいっても、それ自体が多くのエピソードを含み、雑誌連載で百数十回を数えた膨大な物なので、映画は原作中の「スガルの島」という連作エピソードに絞って脚色されている。

伊賀忍者カムイ(松山ケンイチ)は、掟に縛られ血塗られた忍びの世界に嫌気がさし、抜け忍となる事を選択する。
しかし、それは大頭(イーキン・チェン)の放つ追忍たちに、常に追われ命を狙われる流浪の生活の始まりだった。
ある時、領主の愛馬を襲い、その足を切り落とした奇妙な男に興味を引かれたカムイは、その男、半兵衛(小林薫)を追っ手から救い、彼の住む奇ヶ島へと迎えられる。
だが、半兵衛の妻は嘗てカムイと戦った因縁のある抜け忍のスガル(小雪)だった。
互いを信じられぬ葛藤の中、徐々に島の生活に馴染んでゆくカムイに、半兵衛とスガルの娘サヤカ(大後寿々花)は恋をする。
だが、サヤカに横恋慕した吉人(金井勇太)の密告によって、半兵衛が領主に捉えられてしまう。
カムイとスガルは処刑場から半兵衛を救出しようとするのだが・・・・


制作途中からトラブルの噂しか聞こえてこなかったので、果たして完成するのかな?と心配していたのだが、何とか公開まで漕ぎ着けたのは良かった。
もっとも実際に映画を観ても、なるほどこれは作るの大変だっただろうなというのが伝わってくる作品なのだが、それが映画の出来栄えには必ずしも直結していないのは残念だ。
まあ最初から危険な予感はしていた。
監督の崔洋一と脚本の宮藤官九郎は、ビッグネームではあるものの、どう考えても時代劇の忍者アクションとは結びつかない人たちだ。
もちろん、意外な人材が意外な方面で才能を発揮する事は珍しいことではないし、今回もそうなる事を狙った人選だったのだろうが、結果は明らかに裏目に出てしまっているように思う。

まず、ナレーションと所謂「心の声」を使って強引に物語を展開するという手法の是非はさて置き、宮藤官九郎の脚本はバランスもテンポも今ひとつ良くない。
原作にかなり忠実な作りではあるのだが、いくらなんでも前半の奇ヶ島のパートと後半の幸島のパートが分断されすぎで、まるで2本の別々の映画を繋げた様な作りになってしまっている。
元々「スガルの島」は7編からなる連作エピソードで、そのまま映画に移し変えるには無理があるので、もう少し脚色の度合いを強めてでも物語の構成を見直すべきだったのではないか。
領主の役割を原作よりも拡大して、「カムイ伝」の持つ社会派の要素を取り込もうとしたりしているが、正直言って中途半端で、それほど伝わってくる物は無いし、かえって自分以外の何者も信じることが出来ないという抜け忍の宿命が描写不足となり、カムイとスガル一家の間の葛藤が薄味になってしまった。
ここはあくまでも、彼らの背負った悲しみの物語に絞った方が良かったと思う。

映像作りの方向性も今ひとつ定まっていない様に思えた。
描写によって演出の志向がバラバラで統一感が無く、複数の演出家が部分的に撮っているかのように感じる。
この作品の場合、香港のドニー・イェンの元でアクションを学んだ谷垣健治アクション監督として参加しているのだが、単純にアクションとドラマの間で違和感があるというより、アクションの中、ドラマの中でもカットによって見せ方にバラつきがあるのである。
思うに、これはデジタル技術を使いこなせていない点が大きい。
作り手がCGに慣れていないのか、映像技術の限界に対する演出のフォローが無い。
まあCGの出来の良いカットと酷いカットの差が極端な事もあるが、これは時間と金の問題でもあるので、やむを得ない部分はあると思う。
ただ、カットの出来をそろえられないなら、それが気にならない見せ方を工夫して欲しかったところ。
最終的に一体どういう映像に仕上げたかったのか、志向するのがリアリズムなのか漫画なのか、今ひとつ不明瞭だ。
例えば、舞台となる海の色も、江戸時代の澄んだ海を表現したかったのだろうが、カラコレのやり過ぎで妙に人口的な色になってしまっており、不自然極まりない。
これならば、いっその事ラストカットでやっているような、画面全体にエフェクトをかけて劇画の雰囲気にして全編を統一してしまう事も出来たはず。
そうすれば、言葉は悪いがCGの出来はかなり誤魔化せただろうし、原作以上に重力を無視した忍者たちの無茶な動きを見ても、ザック・スナイダーばりに漫画を志向した方が作品の内容にはあっていたように思う。

ただ、出来のバラつきは大きいが、部分的には素晴らしい描写も多かった。
カムイの決め技である変移抜刀霞切りの映像表現など、CGでしか描き得ないなるほどと思わせる物だったし、谷垣健治入魂の忍術チャンバラアクションは全体になかなかの仕上がりだ。
砂の中から忍者が飛び出してくるカットや、忍者同士の電光石火の戦いの動きを逆にスロー&クローズアップ+CGでバレットタイム的に捉えた描写は、ハリウッド映画では見慣れたものだが、動きの早い引き画との組み合わせで効果的に生かされ、メリハリのあるアクションになっている。
体術の見せ方の上手さもあり、松山ケンイチ小雪がアクションスターに見えてくるのだから大したもの。
このように、部分的には映像センスの良さを感じさせるのだが、全体になるとなんだか壊れた印象になってしまうのが何とも残念だ。

実は、これを観ながら深作欣二監督監督が1987年に発表した「必殺!4 恨みはらします」を思い出していた。
この作品は、タイトル通りテレビの「必殺!」シリーズの映画版の一本なのだが、深作映画でお馴染みのJAC系俳優が大挙出演しており、シリーズ中最もアクション映画としての色彩が強い異色作である。
当然ながら白土三平とは何の関係も無いのだが、中盤のクライマックスである、蟹江敬三vs千葉真一の決闘シーンは、正にリアル「カムイ伝」と思えるような壮絶な忍者アクションであり、後にも先にもあれほど白土三平の忍者漫画の雰囲気を持ったアクションシーンを私は知らない。
もしも深作欣二が生きていて、現在のデジタル技術を駆使して白土三平を撮ったなら、果たしてどんな作品になっただろうか、そんな事を考えてしまった。

今回は、伊賀忍者発祥の地、名張の地酒である「瀧自慢 純米吟醸 備前雄町」をチョイス。
非常に口当たりの柔かい優しい印象だが、風味は力強いというくの一の様な酒。
瀧自慢酒造は、伊賀忍者の祖、百地三太夫が修行に使ったといわれる伝説の地、赤目四十八滝に水源を取る、由緒正しい伊賀の酒である。
白土三平のプロダクション名であり、漫画のキャクターとしてもしばしば登場する「赤目」もこの地名が由来なのかと思っていたが、実はスタッフが徹夜続きでいつも目が充血しているところから名づけられたという(笑

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火天の城・・・・・評価額1200円
2009年09月17日 (木) | 編集 |
戦国版「プロジェクトX」か?
今から400年以上前の戦国時代、琵琶湖の畔に建設された前代未聞の巨大城郭、安土城
山一つを丸ごと城とする大工事に、許された工期は僅かに3年だったという。
これは、一人のベテラン宮番匠(宮大工の棟梁)が、部下の反発やクライアントである織田信長の無理難題、また戦国時代という困難な政治状況に葛藤しながら、ついに壮麗な城を作り上げる物語である。
しかし、モチーフが「プロジェクトX」的なのは良いとしても、全体の印象がまるで年末に放送される「大河ドラマ総集編」みたいなのは、ちょっといただけないぞ。

天正4年、春。
熱田の宮番匠、岡部又右衛門(西田敏行)の元に、織田信長(椎名桔平)直々に城作りの依頼が入る。
天下統一を目前に控えた信長は、京の都に近く、関東・関西へも睨みが利く安土の地に、誰も見た事がない巨大な城を作るという。
指図争い(設計コンペ)の末に、自分より格上の宮番匠たちの案を破り、工事の総棟梁に選ばれた又右衛門だったが、それは想像も出来なかった苦難苦闘の3年間の始まりだった・・・


戦国物でありながら、合戦シーンは一切無し。
完成品の城は時代劇でお馴染みだし、現在でも現存する物は見たり訪れたりする事が出来るが、城の建設にスポットを当てた作品は極めて珍しいと思う。
不可能といわれた幻の城の築城というモチーフは、現在の物作りの現場ともリンクする普遍的な題材であり、作り方によってはかなり興味深い作品となり得ただろう。
だが完成した映画は、残念ながら安土城とは違って、逸品と言える作品には仕上がらなかった。
その原因は明確で、この作品には城で言えば天守を支える大柱が存在しないのである。
冒頭の信長との出会いから、又右衛門は次から次へと降りかかる様々な難題に向かい合わねばならなくなる。
先ずは要塞である城に、防衛上の弱点となる吹き抜けを作れという信長の我侭、次は城を支える巨大なヒノキの古木が敵である武田の領地でしか調達出来ない問題、さらには砦作りのために部下を戦場へ送らねばならない悲劇に、又右衛門自身の家族との心の葛藤と、正にドラマチックな要素の波状攻撃である。
しかしながら、横田与志の脚本ではそのどれもがごくごく表層的にしか描かれておらず、なおかつ物語全体を貫く序破急、あるいは起承転結の構造を持たないために、それぞれのエピソードが有機的に結びつかず、結果的にテーマ性も薄い。
田中光敏監督の演出も、手堅さは感じるものの、物語の弱点をカバーする事は出来ず、断片的なエピソードが脈略なく連続するだけの展開は、時に散漫で唐突な印象すら与えてしまっている。

この作品の問題を象徴する、びっくりな展開が、後半に二度連続する。
一つ目は水野美紀扮する飯場の女うねが、突然信長暗殺を謀るシーンで、彼女がくの一なのは何となく示唆されていたものの、肝心の襲撃がまるで香港映画みたいなワイヤーアクションなのである。
それまでリアリズム一辺倒で作られている映画の中で、重力の法則を無視して人間がピョンピョン飛び回るアクションは明らかに異質
うねと彼女に思いを寄せる熊蔵の悲劇に涙するシーンなのだろうが、私は正直笑ってしまった。
まあせっかくアクションの出来る水野美紀をキャスティングしてるのだからと、気持ちはわからないもないが、映画の中では思いっきり浮いており、物語上でのシーンの意味付け、演出のスタンスにも疑問が残る。

二番目は、戦場へ送られて死んだはずの市造という若者が、クライマックスの直前に、突然現れるところ。
彼はどうやら又右衛門の娘である凛と相思相愛らしいのだが、一体1年以上もどこで何をしていたのか全く説明が無く、おまけに戦場から昨日帰ってきたかのように包帯など巻いている。
まさかタイムスリップした訳でもあるまいし、復活が唐突過ぎて、まるで本来あるべきシーンがカットされている様な感覚を味わった。
原作でどういう設定なのかはわからないが、少なくとも映画を観ている限りでは御都合主義にしか思えない。

もしもこれが1年を通して放送する大河ドラマであったなら、一話毎に新しい難題に挑む作りでも良かったのかもしれないが、2時間少々の映画としてはそれぞれのエピソードを有機的に結びつけ、物語のテーマを語るための大柱が必要だったのではないか。
現場責任者である又右衛門とクライアントの信長の間の葛藤、あるいは又右衛門と妻の田鶴との間の葛藤は、一過性の物ではないので、物語の中心になり得たと思うが、残念ながらどちらも他のエピソードと扱いが変わらない。
信長は後半殆ど出てこなくなるし、田鶴もまた印象的な一エピソードの登場人物以上にはなりえていないのである。
また作り方によっては、安土城そのものにも、物語上もっと象徴的な意味を持たせる事が出来たはずだ。
多くの犠牲を払って3年の期間で完成した、千年の風雪に耐える城が、奇しくも完成から3年後にこの世から永遠に消えたという皮肉。
又右衛門が葛藤に答えを見出すプロセスが、徐々に空に立ち上がってゆく城に象徴され、ついに完成した安土城が、400年後の現在ではもはや幻であるという、人の作りし物の儚さを感じさせる事ができれば、映画としては一本芯が通った様に思える。

「火天の城」は、興味深いモチーフを取り上げているし、真面目にスケールの大きな時代劇を作ろうという気概は伝わってくるが、残念ながら設計図の段階で失敗してしまっている。
映画の様に、この作品の脚本も指図争いで決めた方が良かったのではないか。
もっとも映画として見るべき点もある。
先日の「BALLAD 名もなき恋のうた」でも感じたが、デジタル技術の発達は、今まで表現不可能だった古の世界をより広く見せてくれる。
大ベテランの西岡善信による手の込んだ美術の出来も素晴らしく、戦国の築城風景をリアルに再現したビジュアルには一見の価値がある。

俳優も良い。
又右衛門を演じた西田敏行、信長の椎名桔平は、誠実で物作りに妥協しない職人肌の棟梁と破天荒な独裁者のイメージを丁寧に演じており、彼らの演技は見ごたえがある。
圧巻は又右衛門の妻、田鶴を演じた大竹しのぶで、極めて動きの無い役柄にも関わらず、内面に燃やす静かな情念をも感じさせる表現力は見事。
割を食ったのが娘の凛を演じた福田沙紀で、大竹しのぶと並ぶと妙に現代的で素を感じさせてしまいちょっと気の毒だった。
まあ全体に、散漫な印象の物語を、パワフルな演技陣と力の入ったビジュアルで、何とかフォローしているという感じだ。

今回は、安土城の天守から信長が見つめていたであろう京都の酒、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
吟醸香は軽やかで、やや辛口でフルーティな味わいをスッキリした喉ごしで楽しめる芳醇な酒。
聚楽第とは信長の後に天下人となった豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭邸宅。
安土桃山時代の安土を代表するのが安土城なら、桃山文化の建築を代表するのが聚楽第である。
聚楽第は豊臣家のお家騒動の余波で、完成後僅か8年で破壊され、これもまた今では幻の大建築として知られる。
ちなみに佐々木酒造は俳優の佐々木蔵之介さんのご実家だ。

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しんぼる・・・・・評価額1600円
2009年09月12日 (土) | 編集 |
2007年の怪作「大日本人」に続く、松本人志監督の第二作。
白い部屋に閉じ込められた男の話で、天使が出てきて、何故かメキシコのプロレスラーの話が絡むらしいという意味不明な情報以外、殆ど内容が漏れて来なかったのだが、なるほど観て納得。
これは確かに秘密にせざるを得ない、ネタバレ厳禁映画である。
今回は私も一応はネタバレ無しで書いているつもりだが、映画館で観ようと思っている人は、一切情報無しで観る事をお勧めする。

メキシコの田舎町。
中年ルチャドールのエスカルゴマンが、家族との団欒の朝を過ごしている。
妻は夫の様子が普段と違うと思うのだが、それは今日の試合の相手が一回りも歳の若い売出し中のヒールで、何かが起きそうな胸騒ぎを感じていたからだった。
一方、パジャマの男(松本人志)が目を覚ますと、そこは何も無い白い部屋。
どこにも出口は見えず、男が壁に一箇所だけ突き出ていた突起を押すと、何と部屋の壁からワラワラと天使が登場し、彼らの無数の「シンボル」を壁に残して消えてゆく。
取り残された男は、何とかこの部屋から脱出しようとするのだが・・・。


とにかく、内容に関して何も書けないのである。
公開前に徹底的な緘口令が敷かれたのは、出来が悪すぎて口コミを恐れているなんていう辛らつな噂もあったし、実際人を選ぶ作品なのは確かだろうが、決してつまらない訳ではない。
映画の作り的に、ちょっとでも突っ込んで書けば即ネタバレにつながり、そしてこの作品の場合ネタバレは致命的なのだ。
M・ナイト・シャマランとは違った意味で、知らない方が楽しめる映画なのである。

思えば松本監督の前作「大日本人」は、映画と言う新しい玩具をどう扱っていいのか試行錯誤がありありで、観客に対するスタンスも含めて、ちょっと腰が引けていた。
独特のムードはあったし、個人的には結構好きだったりするのだが、監督の迷いがそのまま画面に出ており、正直なところ人には薦めにくいという微妙な作品であった。
映画という未知のメディアに対する「恐れ」すら感じさせる作風に、もしかしたら松本人志はもう映画を撮らないのではないか、という予感すら感じたものだ。
ところが、二年の間に何があったのか、「しんぼる」では「大日本人」の慎重さが嘘の様。
前回は映画と言う大海に、おっかなびっくり足を突っ込んでいる感じだったが、今回は何かが吹っ切れた様に思う存分泳ぎまくりで、伸び伸びと映画という表現を楽しみ、自信すら伝わってくる。

真っ白な何も無い部屋に閉じ込められた男の物語と、メキシコの覆面レスリングの物語、この一見何の関連も無い二つの話が平行に語られる。
誰もが想像する様に、一体何時どのようにして二つの話がリンクするのかが、観客の興味を引っ張る重要なポイントではあるのだが、設定は奇抜では在るものの、ストーリーテリングの手法そのものは何ら奇を衒った物ではなく、ごくごく正攻法
意外と言っては失礼ながら、話としても普通に面白く、「大日本人」の印象から、何気に難解な作品なのではと警戒している人は、安心して良い。
男が部屋から出ようと悪戦苦闘するドタバタは、テレビ的な様でいてテレビ的お笑いとは対極にあり、興味深いうえに結構笑える。

とは言っても、やはり普通の映画とはちょっと違う。
この映画の最大の衝撃である、二つの物語が結合する後半はついて行ける人とダメな人が明確に分かれそうだ。
結合の瞬間は、まさかここで!?こんなのアリ!?というタイミングで私にも予想外だったが、全体を通して考えると、「シンボル」は松本監督の映画的な記憶がストレートに現れた作品である。
白い部屋に閉じ込められた男の物語と言えば、ちょっと勘の良い人ならおそらく予告編で気付いたであろう映画史に残る「あの作品」以外に無いのである。
そう、つまりこれはお笑いの解釈で「あの作品」と同じ事をやってしまった・・・という事は松本人志演じるパジャマの男は、当然「あれ」であるという事になるのである。
まあ実際「あの映画」や「あれ」が何なのかは映画館で確認して欲しいが、ここまでまんまな展開に持って行くとは思わなかったよ。
逆に言えば、「あの作品」について行ける人は、これも大丈夫・・・かも知れない。

いやはや、しかしこんなに何も書けない作品は初めてだ。
ある意味でわかりやすい映画だと思うが、壮大な物語の行き着く果てが、最大級のくだらなさに結びついているあたりに、感心するか、はたまた怒り出すか・・・。
まあ映画は自由な物だから、私はこういう作家がいても良いと思う。
色々な意味で松本人志、恐るべしである。

今回は、ベリンダコーリーの「オデッセイ」の白をチョイス。
コストパフォーマンスの高いイタリアワイン。
映画とは対照的にスッキリとしたクセの無いワインだが、ぶっちゃけ今回は中身を書けない鬱憤で、名前で選んだ。
つまりそういう事である(笑

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メアリー・ブレア展 The Colors of Mary Blair
2009年09月09日 (水) | 編集 |
ブレア
メアリー・ブレアは、長年にわたってウォルト・ディズニーを支えたデザイナーである。
特に1940~50年代のディズニー長編アニメの黄金時代には、「シンデレラ」「不思議の国のアリス」「ピーターパン」などの不朽の名作でコンセプトデザイナーとして世界観、キャラクターの創作に大きく関わっており、後には絵本作家、グラフィックデザイナーとしても知られる様になる。
また1964年に開催された、ニューヨーク世界博覧会のユニセフ・パビリオンとしてウォルトがプロデュースした、「イッツ・ア・スモールワールド」のために彼女が描いたカラフルで斬新なデザインは、後にパビリオンがディズニーランドに移設された事で、半世紀近くに渡って世界中の子供たちを楽しませている。

東京都現代美術館で開催中の「メアリー・ブレア展 The Colors of Mary Blair」は、彼女のアーティスト人生を、1920年代の学生時代から最晩年の70年代まで時系列に沿って紹介している。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・リサーチライブラリー収蔵の貴重な資料を始め、遺族の元にあるスケッチや自画像まで膨大な作品が並び、アニメーションの一スタッフの作品展としては、質・量ともに圧巻の内容と言って良いのではないだろうか。
映画や絵本で親しんできたブレアの絵だが、改めて一つ一つの作品として観賞すると、その優れたデザイン・色彩感覚に驚かされる。
特に色彩に関しては、昔から女性の方が優れていると言われているが、美しい構図に配された色のマジックに驚嘆するばかり。
物や風景や人物をシンプルにデザイン化するディフォルメの技は、コンセプトアートとしてはもちろん、アニメーションの背景としても、今見るとむしろ斬新である。

彼女は、自分自身で生涯に三つの仕事をしたと語っている。
その三つとは、妻であり、母であり、そしてアーティスト。
それらの視点が合わさった、子供を描いた作品は特に優しさとワクワクする楽しさに満ちあふれ、思わず見ていて微笑んでしまうような可愛らしさがある。
ちなみにメアリーの夫であるリー・ブレア、義兄のプレストン・ブレアも当時のアニメーション界で大活躍した名デザイナー。
彼らの水彩作品なども見る事が出来る。

10月4日まで開催。
アニメーション史に興味のある人は勿論、学生やモノ作りを生業とする人たちにもお勧めしたい。
ここに展示された大先輩の作品には、現代に通じる様々なヒントが詰まっている。
また、ぶ厚く、しっかりと製本された図録は史料価値も高く、買って損は無い。

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BALLAD 名もなき恋のうた・・・・・評価額1350円
2009年09月07日 (月) | 編集 |
今年の9月は、まるで時代劇月間。
SF仕立てから伝説のコミックの映画化まで、様々なタイプの時代劇が連続して公開されるが、一連の作品の先陣を切るのが山崎貴監督「BALLAD 名もなき恋のうた」だ。
この作品は、2002年に公開された原恵一監督の傑作アニメ、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」の実写リメイクとなる。
思えば、山崎監督の出世作である「ALWAYS 三丁目の夕日」も、昭和と言う時代のテーマパーク的な捉え方など、同じ原監督の「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」に多分にインスパイアされたと思しき作品であった。
原監督による「クレしん」映画は秀作が多く、特に21世紀に入って公開された上記の2本は、どちらもアニメ映画史に残る傑作である。
VFX映画の雄、山崎貴が果たしてこの高い壁にどう挑むのか、極めて興味深い作品となった。

時は戦国、天正十二年。
関東の小国、春日の国に「鬼の井尻」の異名を持つ、井尻又兵衛(草剛)という豪傑がいた。
ある日、戦場で狙撃されそうになった又兵衛を、奇妙な少年が救う。
川上真一(武井証)と名乗ったその少年は、遥未来からのタイムトラベラー。
彼は、家の近所の大クヌギの根元で、偶然古い箱に入った手紙を見つけ、気付いた時にはこの時代に飛ばされていたと言うのだ。
又兵衛は、春日の城の城主、康綱(中村敦夫)の命令で真一の面倒を見ることになるが、やがて彼らは不思議な絆で結ばれてゆく。
その頃、北関東の大大名、大倉井高虎(大沢たかお)が、春日の廉姫(新垣結衣)との縁談を申し入れてくる。
実は廉姫と又兵衛は幼馴染で、二人は身分違いの恋に苦しんでいた。
一方、未来で真一の行方を捜す両親は、春日の国の歴史に秘められた意外な事実を発見するのだが・・・。


全編に渡って、オリジナルに対するリスペクトが滲み出ている。
物語は、驚くほどアニメ版に忠実であり、ディテールもあえて踏襲している部分が多く、両方を知っていると、どうしても2本を比較せざるを得ない。
おそらく、オリジナルを知らない人の方が、単体の映画として素直に楽しむ事が出来ると思う。
もっとも、忠実とは言っても、さすがにアニメと全く同じには作っていない、というか作れないので、特にキャラクター関連の設定は色々と変更している部分もあるのだが、残念ながらこの脚色が必ずしも上手く機能していない。

まず主人公だが、あんな超アクティブでお尻丸出しな幼稚園児は現実には存在しないので、無難に小学生の少年という設定に変わっている。
このしんのすけ改め真一は、何事にも物怖じしないしんちゃんとは対照的に、友達の女の子がいじめっ子に捕まっていても、一人逃げてしまう様なヘタレな少年という設定となっている。
実はこの主人公の設定が、本作のコンセプトをアニメ版と大きく違ったものにしているのである。
元々のアニメ版では、しんちゃん自身は未来から来た時と帰った時で特に何も変わってない。
主人公はどちらかと言うと又兵衛と廉姫であり、彼らの中にしんちゃんというギャグ爆弾が放り込まれる事で、戦国時代に未来からの突風が吹き、身分や面子に縛られた彼らの生き方に新しい価値観を齎すのである。
したがって、アニメ版の視点の置き所は又兵衛と廉姫の間にあり、しんちゃんがお笑いに走れば走るほどに彼らの悲恋が引き立ち、子供たちはおバカなギャグに笑い、一方で付き添いのお父さんお母さんは戦国の儚いラブロマンスに泣くという見事な構成があった。
対して、実写版は主人公をヘタレ少年に設定した事で、彼の成長物語という新たな側面が生まれ、真一の側に基本の視点を置こうとしている。
しかしながら、又兵衛と廉姫の部分も殆どアニメ版からの変更がなく、エピソードもほぼ同じなので、こちらに置かれた視点もそのまま機能しており、結果的に大幅に変わった真一のパートと二つの視点を持つ物語になってしまっているのだが、両者のマッチングは今ひとつだ。
真一は基本的に戦国の世界では傍観者であり、又兵衛とそれほど濃い交流をしている訳でもないから、彼の成長にそれほど説得力が感じられず、「もう逃げたくない」という印象的な台詞も、彼が如何にしてそう思うようになったのかがこちらに伝わってこないのだ。

また、真一ほどではないが、ある程度改変されているのが敵役である大倉井高虎だ。
オリジナルではひたすら傲慢な人物だったが、こちらでは廉姫に一方的な恋心を抱き、勝手に又兵衛にライバル心を燃やしている青くさい中学生みたいな人物に変わっているのだが、感情の描写があまりにも唐突で、又兵衛との関係も含めて、こちらも説得力が無くなってしまっている。
思うにメインキャラクターの設定を大幅に変えるなら、それに合わせて全体の作りを考え直す必要があると思うのだが、アニメ版のコアであった又兵衛と廉姫のパートには殆ど手が加えられていないように、アニメ版に忠実な部分と、新しく作り直した部分がかみ合っていない印象だ。

山崎監督得意のビジュアルは、さすがになかなかのもの。
アニメ版は、お子様アニメの看板を掲げながら、黒澤映画も真っ青というスーパーリアリズム時代劇をやってしまった作品だったが、こちらも白組のVFXの出来が良く、スケールの大きなセットとの合わせ業で、戦国時代の城の風景を巧みに再現している。
ただ、アクションとしての仕上がりはちょっと疑問が残る。
中盤の城攻めはまずまずだが、肝心のクライマックスの、敵本陣への奇襲突撃にあまり迫力が無いのはいただけない。
どうも視点が引いて漂っている感が強く、戦場の臨場感が伝わってこないのだ。
集団乱戦を長廻しのワンカットで撮ったりしているのも、何らかの拘りなんだろうとは思うが、今ひとつ意図が良くわからないし、効果的とも思えない。
この手の合戦シーンは黒澤映画を始め、世界中に傑作・名作が揃っているので、ここはもう一工夫が必要だったと思う。
勿論、同じ合戦でも「ロード・オブ・ザ・リング」あたりと比べると、田舎の城攻めの話なんでスケールや人数の差はあるのだけど、例えば「300 スリーハンドレッド」なんて、実際に画面で戦ってるのは大した数ではなくても、引きと寄りの緩急、画面構成のセンスが抜群で、大乱戦を見ているスペクタクル感があった。
川上ファミリーが車で助太刀に来る、一番盛り上がるべきシーンも、ただ引き画でゆっくり走ってくるだけなので、なんだか牧歌的。
ここは嘘でもいいから、ラリーカーの様にドリフトを決めて敵を蹴散らすくらいの演出が欲しかった。

まあどうしてもアニメ版と比べてしまい、色々と文句を言いたくなってしまうが、当然実写版ならではの美点もある。
携帯電話やカメラ、自転車と言ったオリジナルには登場しない小道具類は効果的に使われており、クヌギの大木や城跡の石碑の使い方も、アニメ版では希薄だった現在と過去の繋がりをイメージさせて上手い。
カメラなどの小道具を使うことで、真一の両親は物語的にもアニメ版より生かされていたと思う。
トータルで考えれば、正直なところ原恵一の壁は越えられなかったと思うが、こういう小技を効かせた演出はなかなかの物なので、もうちょっと全体を馴染ませる事が出来ていればなあと思わざるをえないのが残念だ。
もっとも、逆説的だが元々出来の良かった悲恋劇の部分を変えなかった事で、良くも悪くもこの部分だけで結構面白く観られるのも確か。
隣で観ていたカップルの女性などは後半ずーっとハンカチで目を押さえていたし、最後の銃声の所では私もちょっとウルッと来たくらいだから、ラブストーリーとしてはまあまあ成功していると言えるだろう。
ああ、でもこれだけアニメ版をリスペクトした作りにするなら、私の大好きな「青空侍」の部分は残して欲しかったなあ。

今回は、クレしんの街、春日部の地ビール「赤沼ロマン」をチョイス。
これは春日部の赤沼地区で明治中期に作られていた「マルコ麦酒」の復刻版で、古代赤米から作られたとても珍しいビールである。
残念ながら生産量が非常に少ないので、なかなか手に入らないのだけど、非常に深いコクがありながら、咽ごしにはキレがある。
一本を時間をかけて楽しみたくなる、懐の深い酒である。
映画の中では侍たちがビールとカレーで楽しんでいたけど、もしも戦国時代にビールを造る技術が伝わっていたら、こんな酒が造られていたのかもしれない。
http://tutuya.com/

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グッド・バッド・ウィアード・・・・・評価額1600円
2009年09月04日 (金) | 編集 |
最初のハリウッド映画は、西部劇だった。
エドウィン・S・ポーターが今から106年前の1903年に制作した「大列車強盗」は、ストーリー構造を持つ初のアメリカ映画と言われる。
以来、長い間西部劇は娯楽映画の花形であり、その影響は全世界に及んだ。
日本でも黒澤明ジョン・フォード流西部劇のスタイルを時代劇に持ち込み、新しいタイプの時代劇を花開かせたほか、60年代には日活アクションの渡り鳥シリーズや拳銃無頼帳シリーズなど、かなり漫画チックな和製西部劇が作られた時代もあった。
そして同じ頃のイタリアで、所謂マカロニ・ウェスタンが産声をあげ、本家ハリウッドを凌ぐほどの人気を得る。
クリント・イーストウッドの様にマカロニで名声を高め、ハリウッドに逆輸入されたスターも数多い。
当時のマカロニ・ウェスタンを代表する監督であり、世界の映画人に絶大な影響を齎した人物が、セルジオ・レオーネ監督である。
レオーネは、黒澤明監督の「用心棒」に感銘を受け、物語を西部劇に移し変えた「荒野の用心棒」として1964年にリメイクする。
これが世界的な大ヒットとなり、一気にマカロニ・ウェスタンの大量生産が始まるのである。
元々ジョン・フォードからインスパイアを受けた黒澤が、「用心棒」という西部劇風時代劇を作り、今度はそれに感動したイタリア人監督が、再び西部劇として再生する。
まあ著作権の問題はあるものの、映画史上稀に見る幸福な創作の連鎖がここにある。
さらに、本家ハリウッドと異なり、主人公が必ずしも正義漢ではないアウトローだったり、リアルで過激な暴力描写、反権力的なスタイルなどのマカロニ・ウェスタンの特徴は、当時勃興しつつあった日本の劇画の完成に大きな影響を及ぼすのである。

なぜ長々と西部劇の歴史を書き綴っているかというと、この「グッド・バッド・ウィアード」がセルジオ・レオーネの、いやマカロニ・ウェスタンの最高傑作「続・夕陽のガンマン」(英題:The Good, the Bad and the Ugly)にインスパイアされて作られた作品だからである。
にもかかわらず、この映画のポスターにも、予告編にも、公式ホームページにも「続・夕陽のガンマン」への言及は無い。
オリジナルの英題と邦題がかけ離れている事もあり、この映画が偉大なるマカロニ・ウェスタンへの大オマージュである事は、よほどの映画ファンならともかく、たまたまこの作品の情報を目にした人たちには全く伝わらないであろう。
案の定、映画館は殆どイ・ビョンホンとチョン・ウソンのファンと思しき女性たちばかり。
正直、なぜ客層を広げようとしないのか理解に苦しむ。
もしかしたら配給会社の社員自身がマカロニ・ウェスタンなんて知らないのかもしれないが、この映画は男性観客を韓流に振り向かせるポテンシャルを持っている。
狙うべきは、贔屓のスター目当ての女性観客以上に、「3時10分、決断の時」に群がっているオジサンたちだ。

1930年代、満州。
列車強盗のユン・テグ(ソン・ガンホ)は、襲った列車で清朝が隠したと言われる「宝の地図」を偶然手に入れる。
ところがその地図は、満州中のアウトローたちが狙っている代物。
冷酷な馬賊の首領パク・チャンイ(イ・ビョンホン)が迫る中、ユン・テグは賞金稼ぎのパク・トウォン(チョン・ウソン)と組んで宝を探そうとするが、朝鮮独立派や大日本帝国関東軍まで動きだして、事態は収拾のつかない大騒動へ発展してゆく・・・


よく、韓国はアジアのイタリアと言われる。
なるほど、そう考えれば、マカロニ・ウェスタンが韓国で再生されるのは理に適っているのかもしれない。
キム・ジウン監督は深い愛情を持って「続・夕陽のガンマン」を再解釈し、破天荒な冒険活劇を作り上げている。
オリジナルの隠された金貨が清朝が隠した謎の宝になり、南北戦争の両軍が関東軍に置き換えられているほか、細かなエピソードの幾つかも少しずつ形を変えて再現されている。
「インスパイア」となっているが、半分くらいはリメイクと考えても良い作りだ。

相変わらず韓国映画は俳優が良く、キャラクターがとにかく立っている。
オリジナルの三人の主人公、クリント・イーストウッド(良い奴)、リー・ヴァン・クリーフ(悪い奴)、イーライ・ウォラック(醜い奴)に当たるのは、チョン・ウソン(良い奴)イ・ビョンホン(悪い奴)ソン・ガンホ(変な奴)であり、唯一呼び名が変わっている「変な奴」が事実上の主役と言ってよいだろう。
彼と悪い奴の間には過去に因縁があり、なかなか明かされない変な奴の謎めいた二面性がオリジナルと一線を画す部分で、結果的にソン・ガンホが一番オイシイポジションをゲットしている。
もっとも、近頃悪の喜びに目覚めた(?)イ・ビョンホンのデカダンスも、チョン・ウソンのクールな正統派二枚目も十分に魅力的ではあるのだけど。

物語は意外とシンプル。
三つの個性が地図を巡る冒険の中に絶妙のバランスで配置され、時に同盟し、時に争いながら、少しずつ宝の隠し場所へと近づいて行くという寸法だ。
たとえ同盟している時でも、直ぐに裏切る可能性があるので、互いが信用できないという緊張感が持続するのも良い。
ここに日本の関東軍や他の馬賊集団や朝鮮独立派までが宝を狙って絡んでくるのだが、風呂敷を広げるのはどちらかと言うとアクションの見せ場を増やすためで、物語的にはあくまでも三人の関係性で完結していると言えるだろう。

もちろん、売り物のアクションは、冒頭の列車強盗シーンからテンコ盛り。
満州というよりも殆ど惑星タトゥイーン?というほど無国籍な闇市でのコミカルな銃撃戦は、スケールの大きなセットの構造を上手く使って、まるでジャッキー・チェンの3次元クンフーアクションのウェスタン版。
まさか潜水服にあんな使い方があったとは(笑
三人の主人公は、良い奴のライフル連射、悪い奴の早撃ち、変な奴の二挺拳銃と得意技が特徴的で、少々やり過ぎ感のある物も含めて、それぞれに相応しい見せ場が設定されている。
悪い奴には拳銃のほかにナイフの見せ場もあり、笑いを追及しながらも、血を流す描写に躊躇が無いあたりもマカロニ流だ。
後半には、宝の地図を持って砂漠を逃げる変な奴を追って、良い奴、悪い奴率いる馬賊たち、さらに別の馬賊に関東軍まで加わった圧巻の大追撃戦が展開する。
可能な限りCGに頼らず、昔ながらのスタント中心のアクションはスピード感があり、火薬の迫力も十分で見ごたえがある。
ただ、全体に言えるのだがアクションそのものの出来は良いのに、それぞれのシークエンスが長すぎてちょっとダレを感じさせてしまうのは勿体無い。
サービス精神全開なのはわかるが、もうちょっと刈り込んだ方がテンポが良くなったと思う。

そして「続・夕陽のガンマン」といえば、クライマックスの三竦み
オリジナルの熱烈なファンであるクエンティン・タランティーノが、出世作「レザボアドッグス」でやっていたアレである。
この結末はここでは書けないが、宝の正体も含めて、なかなかにシニカルでオリジナルとはまた違った面白さがある。
ちなみにこの映画のラストは別のバージョンもあるらしいのだが、やっぱりその場合は三人とも○○なのだろうか。
映画の最後に出るキム・ジウン監督のクレジットは、「Directed by」ではなくて「Western by」(笑
そう、これは舞台が満州で登場人物も東洋人だが、マカロニ魂、いやキムチ魂を持つ正統派のウェスタン
心意気、しっかり受け取った。

今回は、西部劇の神、ジョン・フォード監督の傑作「荒野の決闘」の原題であり、主題歌のタイトルとしても知られる西部の民謡「いとしのクレメンタイン」から、バーボンの「クレメンタイン」をチョイス。
ゴールドラッシュの時代に、所謂49ersの若者が、事故死した恋人の事を想って歌ったと言われる美しい歌で、日本では「雪山賛歌」の原曲としても有名だ。
クレメンタイン・バーボンは、その名の通りに口当たり柔かく甘口で、やや酸味を感じる。
名前は優雅だが、50度を超える強い酒で、超パワフルな映画にも決して負けないだろう。

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