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2009年10月31日 (土) | 編集 |
凄みのある映画だ。
デビュー以来、一作ごとに全く異なったジャンルの作品に挑み続けている、ポン・ジュノ監督の長編第四作はナント「母物」である。
ここに描かれるのは究極の母性愛。
とは言っても、描くテーマに対して斜めから切り込む達人であるポン・ジュノが、普通の人情物を撮るわけもなく、これは人間の心の奥底に秘められた、ドロドロとした情愛の爆発を観賞するような、シニカルで鮮烈な人間ドラマだ。
韓国の田舎町に住む青年トジュン(ウォンビン)は、漢方薬店で働く母親(キム・ヘジャ)と二人暮し。
ある夜、街で女子高生が殺されるという事件が起こり、たまたまその夜に被害者と接触していたトジュンは容疑者として逮捕されてしまう。
母の必死の訴えにも関わらず、警察はトジュンを犯人と断定し捜査を打ち切り、弁護士も匙を投げる。
誰も頼りにならないと考えた母親は、自ら事件を捜査し、真犯人を見つけようとするのだが・・・。
冒頭、いきなり映し出されるのは、ナゼか枯野で踊るおばさん(母親)。
切迫した感情を抑えつけるかの様な、張り詰めた表情で、涙を流しながら舞うその姿はなかなかにシュールで、一体これはどんな映画なのか、戸惑いと共に観客の興味を惹きつける。
物語は非常にシンプルだ。
軽い知的障害があるらしい、青年トジュンが殺人事件の犯人として逮捕される。
トジュンは“小鹿の様な純粋な目”を持った青年で、物を良く覚えられず、警察は曖昧な状況証拠からトジュンを犯人と決め付けて、捜査を終了してしまう。
知的障害者が犯人に仕立てられるというのは、大傑作「殺人の追憶」でも見られた展開だが、相変わらず韓国の警察はろくな組織に描かれていない。
これはポン・ジュノの作品に限らないので、たぶん軍事独裁政権時代以来の権力組織に対する不信感みたいな物が、韓国社会の中で未だに払拭されていないのだろう。
「身内の無実を信じる者が、たった一人で真犯人を探す」という物語の筋立ては、ミステリ物の王道の一つとも言うべき物で、特に目新しいものはない。
だがこの作品において犯人探しは、重要ではあるが物語を構成するモチーフの一つに過ぎない。
母親がトジュンのために必死になればなるほど、二人の間にある異様なまでに強固なつながりが鮮明となり、そこに浮かび上がる「母なるものの愛とは一体何か」というクエッションが本作のメインテーマと言って良い。
主人公の母親を演じるのは大ベテランのキム・ヘジャ。
韓国では誰もが「お母さん女優」というと彼女をイメージするという。
このキャラクターに特定の役名がなく、単に「母親」とされているのも、全ての母性のメタファーであるという事だろう。
映画は、死んだ女子高生の交友関係から、彼女の死の真相に迫る母親の姿をテンポ良く描いてゆく。
綿密なコンテを描き、徹底的に映像をプランニングして構成するポン・ジュノのスタイルは今回も健在で、細部まで計算された映像の作りこみは殆どアニメーションの様だ。
キャラクターのクローズアップを多用し、まるで彼らの深層意識にカメラで切り込もうとするかの様な緊張感あふれる演出は見事。
浮かび上がるのは、共依存を通り越して、殆ど一体となってしまった一組の母子の姿だ。
やがて過剰とも思われる愛情の根底には、あるトラウマがあることが明かされ、母親自身が自らの愛にすがり付く後半になると、映画は全く予想もしなかった意外な展開を見せる。
実は私は2年半ほど前に、韓国の映画関係者からポン・ジュノが次回作の準備中で、それは韓国の国民的お母さん女優を主人公としたサスペンスであるという話を聞いていた。
どうやらシナリオを読んだらしい彼に「どんな内容?」と聞くと、「う~ん、鬼子母神みたいな話かな」という答え。
映画の前半は、なぜこれが鬼子母神なんだろうと不思議だったが、なるほど後半の展開は確かに鬼子母神の説話を思い起こさせる。
母親の愛情というのは、一般に美しい無償の愛の象徴の様に思われている。
だが、本当にそれだけなのか。
本作に描かれる母親の愛情は、おそらく本人にとっては純粋なものなのだろう。
だがポン・ジュノはその裏側に、過去の罪の意識を覆い隠すために、母親の中で異常に成長してしまった怪物の様な感情としての愛を描き、近親相姦的すら匂わせる。
そして最終的に、母親はトジュンを救うために、周囲を死と偽りの連鎖に巻き込んでしまうのだから、
周りから観れば彼女の愛は狂気そのものだ。
「母なる証明」は、人間を突き動かすもっとも強い感情である愛とは何かについての強烈で切ない物語だ。
ポン・ジュノは、一組の孤独な母子を通して、愛情という言葉に対して世間一般が抱いているステロタイプを破壊し、その本質を描き出そうとしたのかもしれない。
そう思うと、物語が進むにつれて明らかになってくる、被害者の女子高生の素顔も興味深い。
何年も殺人事件が起こっていない、田舎の小さな街。
住人の殆どが知り合いの様なこの街で、彼女が売っていたのも、別種の「愛」である事に、この作品のアイロニーがある。
母が守った無垢なる魂であるトジュンが、はたして本当に何も覚えていないのか、彼の側からの愛をどう解釈するか、作者がキャラクターへの説明的な描写をあえて避けている事もあり、こちらもまた観る者を悩ませるのである。
冒頭の感情を押し殺した様な踊りと見事にリンクする、ラストの狂乱の舞は、まるで全てを悟り、しかしそれでも生きていかねばならない母の心の悲痛な叫びの様に感じた。
果たして彼女は、辛い事や悲しい事を忘れさせてくれるツボを上手く刺せたのだろうか?
本作は文句なしの傑作だが、ポン・ジュノ作品の持つシニカルで見方によっては冷徹な視線は、ある程度好みが分かれるだろう。
例えばイーストウッド映画の場合、どんなに痛々しくて切ない物語でも、最後には人間の心の温かさや信念の強さがポジティブな印象として心に残る。
対してポン・ジュノの映画では、人間の心や行為に対して、半ば諦めの様な達観した境地を感じる。
この突き放した視線は、どちらかというと藤子・F・不二雄の大人向け漫画に近い。
どんなに愚かな行為をして、どんなに悲惨に傷ついても、未来が美しいものでなかったとしても、結局人間はそれを抱えたまま生きるしかないという人間観は、人によっては痛々しくて耐えられないと思うかもしれない。
今回は、母に飲んでもらいたい韓国の酒「百歳酒」をチョイス。
もち米をベースに漢方薬に使われる様々なハーブを配合した発酵酒。
漢方の香りが気になる人には気になるだろうが、甘めで非常にあっさりとしていて飲みやすい。
実は韓国ではかなり厳密に酒と食べ物の取り合わせが決まっていて、韓国人が日本に来ると絶対にありえないような組み合わせを韓国料理店などで見てびっくりするのだそうな。
まあマッコリとチヂミを雨の日に食べるというのは有名だが、この百歳酒には辛いコルベンイやチゲなどが合うらしい。
個人的には漢方つながりでサムゲタンなども良い感じではと思う。
そう言えば韓国のサムゲタン屋で百歳酒を見たような?
ちなみに、百歳酒と韓国焼酎を半々で割ると、五十歳酒になるという(笑
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デビュー以来、一作ごとに全く異なったジャンルの作品に挑み続けている、ポン・ジュノ監督の長編第四作はナント「母物」である。
ここに描かれるのは究極の母性愛。
とは言っても、描くテーマに対して斜めから切り込む達人であるポン・ジュノが、普通の人情物を撮るわけもなく、これは人間の心の奥底に秘められた、ドロドロとした情愛の爆発を観賞するような、シニカルで鮮烈な人間ドラマだ。
韓国の田舎町に住む青年トジュン(ウォンビン)は、漢方薬店で働く母親(キム・ヘジャ)と二人暮し。
ある夜、街で女子高生が殺されるという事件が起こり、たまたまその夜に被害者と接触していたトジュンは容疑者として逮捕されてしまう。
母の必死の訴えにも関わらず、警察はトジュンを犯人と断定し捜査を打ち切り、弁護士も匙を投げる。
誰も頼りにならないと考えた母親は、自ら事件を捜査し、真犯人を見つけようとするのだが・・・。
冒頭、いきなり映し出されるのは、ナゼか枯野で踊るおばさん(母親)。
切迫した感情を抑えつけるかの様な、張り詰めた表情で、涙を流しながら舞うその姿はなかなかにシュールで、一体これはどんな映画なのか、戸惑いと共に観客の興味を惹きつける。
物語は非常にシンプルだ。
軽い知的障害があるらしい、青年トジュンが殺人事件の犯人として逮捕される。
トジュンは“小鹿の様な純粋な目”を持った青年で、物を良く覚えられず、警察は曖昧な状況証拠からトジュンを犯人と決め付けて、捜査を終了してしまう。
知的障害者が犯人に仕立てられるというのは、大傑作「殺人の追憶」でも見られた展開だが、相変わらず韓国の警察はろくな組織に描かれていない。
これはポン・ジュノの作品に限らないので、たぶん軍事独裁政権時代以来の権力組織に対する不信感みたいな物が、韓国社会の中で未だに払拭されていないのだろう。
「身内の無実を信じる者が、たった一人で真犯人を探す」という物語の筋立ては、ミステリ物の王道の一つとも言うべき物で、特に目新しいものはない。
だがこの作品において犯人探しは、重要ではあるが物語を構成するモチーフの一つに過ぎない。
母親がトジュンのために必死になればなるほど、二人の間にある異様なまでに強固なつながりが鮮明となり、そこに浮かび上がる「母なるものの愛とは一体何か」というクエッションが本作のメインテーマと言って良い。
主人公の母親を演じるのは大ベテランのキム・ヘジャ。
韓国では誰もが「お母さん女優」というと彼女をイメージするという。
このキャラクターに特定の役名がなく、単に「母親」とされているのも、全ての母性のメタファーであるという事だろう。
映画は、死んだ女子高生の交友関係から、彼女の死の真相に迫る母親の姿をテンポ良く描いてゆく。
綿密なコンテを描き、徹底的に映像をプランニングして構成するポン・ジュノのスタイルは今回も健在で、細部まで計算された映像の作りこみは殆どアニメーションの様だ。
キャラクターのクローズアップを多用し、まるで彼らの深層意識にカメラで切り込もうとするかの様な緊張感あふれる演出は見事。
浮かび上がるのは、共依存を通り越して、殆ど一体となってしまった一組の母子の姿だ。
やがて過剰とも思われる愛情の根底には、あるトラウマがあることが明かされ、母親自身が自らの愛にすがり付く後半になると、映画は全く予想もしなかった意外な展開を見せる。
実は私は2年半ほど前に、韓国の映画関係者からポン・ジュノが次回作の準備中で、それは韓国の国民的お母さん女優を主人公としたサスペンスであるという話を聞いていた。
どうやらシナリオを読んだらしい彼に「どんな内容?」と聞くと、「う~ん、鬼子母神みたいな話かな」という答え。
映画の前半は、なぜこれが鬼子母神なんだろうと不思議だったが、なるほど後半の展開は確かに鬼子母神の説話を思い起こさせる。
母親の愛情というのは、一般に美しい無償の愛の象徴の様に思われている。
だが、本当にそれだけなのか。
本作に描かれる母親の愛情は、おそらく本人にとっては純粋なものなのだろう。
だがポン・ジュノはその裏側に、過去の罪の意識を覆い隠すために、母親の中で異常に成長してしまった怪物の様な感情としての愛を描き、近親相姦的すら匂わせる。
そして最終的に、母親はトジュンを救うために、周囲を死と偽りの連鎖に巻き込んでしまうのだから、
周りから観れば彼女の愛は狂気そのものだ。
「母なる証明」は、人間を突き動かすもっとも強い感情である愛とは何かについての強烈で切ない物語だ。
ポン・ジュノは、一組の孤独な母子を通して、愛情という言葉に対して世間一般が抱いているステロタイプを破壊し、その本質を描き出そうとしたのかもしれない。
そう思うと、物語が進むにつれて明らかになってくる、被害者の女子高生の素顔も興味深い。
何年も殺人事件が起こっていない、田舎の小さな街。
住人の殆どが知り合いの様なこの街で、彼女が売っていたのも、別種の「愛」である事に、この作品のアイロニーがある。
母が守った無垢なる魂であるトジュンが、はたして本当に何も覚えていないのか、彼の側からの愛をどう解釈するか、作者がキャラクターへの説明的な描写をあえて避けている事もあり、こちらもまた観る者を悩ませるのである。
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果たして彼女は、辛い事や悲しい事を忘れさせてくれるツボを上手く刺せたのだろうか?
本作は文句なしの傑作だが、ポン・ジュノ作品の持つシニカルで見方によっては冷徹な視線は、ある程度好みが分かれるだろう。
例えばイーストウッド映画の場合、どんなに痛々しくて切ない物語でも、最後には人間の心の温かさや信念の強さがポジティブな印象として心に残る。
対してポン・ジュノの映画では、人間の心や行為に対して、半ば諦めの様な達観した境地を感じる。
この突き放した視線は、どちらかというと藤子・F・不二雄の大人向け漫画に近い。
どんなに愚かな行為をして、どんなに悲惨に傷ついても、未来が美しいものでなかったとしても、結局人間はそれを抱えたまま生きるしかないという人間観は、人によっては痛々しくて耐えられないと思うかもしれない。
今回は、母に飲んでもらいたい韓国の酒「百歳酒」をチョイス。
もち米をベースに漢方薬に使われる様々なハーブを配合した発酵酒。
漢方の香りが気になる人には気になるだろうが、甘めで非常にあっさりとしていて飲みやすい。
実は韓国ではかなり厳密に酒と食べ物の取り合わせが決まっていて、韓国人が日本に来ると絶対にありえないような組み合わせを韓国料理店などで見てびっくりするのだそうな。
まあマッコリとチヂミを雨の日に食べるというのは有名だが、この百歳酒には辛いコルベンイやチゲなどが合うらしい。
個人的には漢方つながりでサムゲタンなども良い感じではと思う。
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2009年10月30日 (金) | 編集 |
最近あまりテレビドラマを観なくなってしまった。
ドラマなのかバラエティのコントなのかわからないような、安っぽい番組が幅を利かせ、物語の面白さを追求した作品が少なくなってしまったからだ。
だが、今クールは久々に毎週の放送が楽しみな作品がある。
TBSの日曜劇場枠で放送中の「JIN‐仁‐」である。
原作は「六三四の剣」「龍‐RON‐」などで知られる村上もとかによる人気漫画で、これをドラマ版セカチューの森下佳子が脚色し、大沢たかお主演でドラマ化している。
現代の脳外科医、南方仁が激動の幕末にタイムスリップ、21世紀の医学技術を駆使して江戸の人々を救ってゆくというのが物語の骨子だ。
様々な要素が詰め込まれ、一歩間違うと限りなくとっ散らかって、チャチな代物になってしまいそうな題材だが、少なくとも第三話までは非常に良く出来ていた。
原作漫画のしっかり練られたプロットを生かして脚色し、実写ドラマならではのディテール描写が光るという漫画原作では理想的な作りとなっているのだ。
まず、これはSFであると同時に、人間の生と死を扱い、元々ドラマチックな秀作の多い医療物である。
いくら最新の知識があっても、近代的な設備が全くない江戸時代で、果たしてどうやって患者を治すのかというプロセスが綿密に描かれている。
手術に大工道具を使ったり、点滴用の針を簪職人に作らせたり、現代よりも格段に困難な状況下の「IFの世界」というSF設定が最大限生かされてスリリングだ。
またこの作品には坂本竜馬や勝海舟、緒方洪庵といった日本人があこがれる幕末のヒーローたちが登場し、彼らと関わる事で未来を変えてしまうのではないかというタイムトラベルラーお約束の葛藤に、目の前の患者を見捨てられないという医者としての葛藤が交錯しドラマを盛り上げる
さらに画作りのスケールが大きい。
最近のドラマは、現代劇でもちんまりしたセットの狭苦しい印象の作品が多いが、これはロケーションとセット、VFXを巧みにミックスし、可能な限り画に広がりを持たせようとしている。
一方で江戸暮らしのディテールも細かく描かれているので、言わば異世界に飛び込んだストレンジャーである主人公の目線で、幕末の江戸庶民の暮らしを観察するような面白さもある。
元々の話が良く出来ているのに加えて、マクロとミクロでディテールに拘った綿密な作りこみが生きているのだ。
「GOEMON」の霧隠才蔵役が記憶に新しい大沢たかおは、原作キャラを思い浮かべると似てるような似てないような、ビミョーな感じではあるが、ドラマ単体のキャラクターとしては好演と言える。
ヒロインを演じるのは、2002年の「おとうさん」以来7年ぶりの連ドラ出演となる中谷美紀と綾瀬はるかという、華やかさに演技力を兼ね備えた美女二人。
中谷美紀は、妖艶ながら影のあるキャラクターである花魁の野風を演じる。
対する綾瀬はるか演じる旗本の娘、橘咲は仁に影響されて医術への情熱に目覚めるという、ストレートで爽やかなキャラで、この対照的な二人が仁を挟んでコントラストのある三角関係を形作る。
面白いのはドラマの脚色で、21世紀の世界に野風とそっくりな仁の恋人、友永未来というオリジナルのキャラクターを作っている事で、これによって「ある日どこかで」の様な時空を越えたラブストーリーの要素が入り、幕末の三人とあわせて四角関係になっており、原作とは少し違った方向性も持っている。
タイムトラベル物のSFであり、医療物であり、ブストーリー。
「JIN‐仁‐」は、正に幕の内弁当のような賑やかなドラマで、先の読めない物語を追うワクワクする楽しさがある。
話しよし、役者よし、ビジュアルよしの三拍子揃った観応えのある作品である。
仁がタイムスリップするきっかけになった、胎児の形をした奇形腫瘍など、ティザー的に配された謎の解明を含めて、今後未来の恋人との関係がどうなってゆくのか、ドラマオリジナルの展開も期待したい。
どうか12月まで失速しませんように。
ところで、このドラマを観ていて、25年ほど前に放送された「大江戸神仙伝」という単発ドラマを思い出した。
こちらは製薬会社のサラリーマンが江戸にタイムスリップし、薬を作って病気を治してしまった事から、「神仙様」と崇拝される様になるというもの。
石川英輔の小説を故・藤田敏八が監督し、史実に合わせて江戸の住人に全員背の低い俳優をキャスティングするなど、映像的にもこだわりのある力作だったと記憶している。
どこかソフト化してくれないかなあ。
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ドラマなのかバラエティのコントなのかわからないような、安っぽい番組が幅を利かせ、物語の面白さを追求した作品が少なくなってしまったからだ。
だが、今クールは久々に毎週の放送が楽しみな作品がある。
TBSの日曜劇場枠で放送中の「JIN‐仁‐」である。
原作は「六三四の剣」「龍‐RON‐」などで知られる村上もとかによる人気漫画で、これをドラマ版セカチューの森下佳子が脚色し、大沢たかお主演でドラマ化している。
現代の脳外科医、南方仁が激動の幕末にタイムスリップ、21世紀の医学技術を駆使して江戸の人々を救ってゆくというのが物語の骨子だ。
様々な要素が詰め込まれ、一歩間違うと限りなくとっ散らかって、チャチな代物になってしまいそうな題材だが、少なくとも第三話までは非常に良く出来ていた。
原作漫画のしっかり練られたプロットを生かして脚色し、実写ドラマならではのディテール描写が光るという漫画原作では理想的な作りとなっているのだ。
まず、これはSFであると同時に、人間の生と死を扱い、元々ドラマチックな秀作の多い医療物である。
いくら最新の知識があっても、近代的な設備が全くない江戸時代で、果たしてどうやって患者を治すのかというプロセスが綿密に描かれている。
手術に大工道具を使ったり、点滴用の針を簪職人に作らせたり、現代よりも格段に困難な状況下の「IFの世界」というSF設定が最大限生かされてスリリングだ。
またこの作品には坂本竜馬や勝海舟、緒方洪庵といった日本人があこがれる幕末のヒーローたちが登場し、彼らと関わる事で未来を変えてしまうのではないかというタイムトラベルラーお約束の葛藤に、目の前の患者を見捨てられないという医者としての葛藤が交錯しドラマを盛り上げる
さらに画作りのスケールが大きい。
最近のドラマは、現代劇でもちんまりしたセットの狭苦しい印象の作品が多いが、これはロケーションとセット、VFXを巧みにミックスし、可能な限り画に広がりを持たせようとしている。
一方で江戸暮らしのディテールも細かく描かれているので、言わば異世界に飛び込んだストレンジャーである主人公の目線で、幕末の江戸庶民の暮らしを観察するような面白さもある。
元々の話が良く出来ているのに加えて、マクロとミクロでディテールに拘った綿密な作りこみが生きているのだ。
「GOEMON」の霧隠才蔵役が記憶に新しい大沢たかおは、原作キャラを思い浮かべると似てるような似てないような、ビミョーな感じではあるが、ドラマ単体のキャラクターとしては好演と言える。
ヒロインを演じるのは、2002年の「おとうさん」以来7年ぶりの連ドラ出演となる中谷美紀と綾瀬はるかという、華やかさに演技力を兼ね備えた美女二人。
中谷美紀は、妖艶ながら影のあるキャラクターである花魁の野風を演じる。
対する綾瀬はるか演じる旗本の娘、橘咲は仁に影響されて医術への情熱に目覚めるという、ストレートで爽やかなキャラで、この対照的な二人が仁を挟んでコントラストのある三角関係を形作る。
面白いのはドラマの脚色で、21世紀の世界に野風とそっくりな仁の恋人、友永未来というオリジナルのキャラクターを作っている事で、これによって「ある日どこかで」の様な時空を越えたラブストーリーの要素が入り、幕末の三人とあわせて四角関係になっており、原作とは少し違った方向性も持っている。
タイムトラベル物のSFであり、医療物であり、ブストーリー。
「JIN‐仁‐」は、正に幕の内弁当のような賑やかなドラマで、先の読めない物語を追うワクワクする楽しさがある。
話しよし、役者よし、ビジュアルよしの三拍子揃った観応えのある作品である。
仁がタイムスリップするきっかけになった、胎児の形をした奇形腫瘍など、ティザー的に配された謎の解明を含めて、今後未来の恋人との関係がどうなってゆくのか、ドラマオリジナルの展開も期待したい。
どうか12月まで失速しませんように。
ところで、このドラマを観ていて、25年ほど前に放送された「大江戸神仙伝」という単発ドラマを思い出した。
こちらは製薬会社のサラリーマンが江戸にタイムスリップし、薬を作って病気を治してしまった事から、「神仙様」と崇拝される様になるというもの。
石川英輔の小説を故・藤田敏八が監督し、史実に合わせて江戸の住人に全員背の低い俳優をキャスティングするなど、映像的にもこだわりのある力作だったと記憶している。
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2009年10月25日 (日) | 編集 |
ポスターがコワイ・・・。
「エスター」の原題「Orphan」は、孤児を意味する。
裕福なアメリカ人夫婦が孤児院からロシア人の娘を迎え入れるが、やがて「この娘、どこかが変だ」というキャッチコピーの通りに、彼女の狂気によって恐怖のどん底に突き落とされる。
所謂チャイルド・ホラーの変種だが、脚本の出来が良く、予想以上にスリリングな佳作となった。
三番目の子供を流産したケイト・コールマン(ヴェラ・ファーミガ)と夫のジョン(ピーター・サースガード)は、孤児院から子供を迎える事を考える。
ある日訪れた孤児院で、コールマン夫妻はロシア出身で以前の里親の家が火事になり、たった一人生き残ったエスター(イザベル・ファーマン)という少女と出会う。
歌が上手くいつも絵を描いているという、しっかり者のエスターをすっかり気に入った夫妻は、彼女を養女として迎え入れる事を決める。
夫妻には長男のダニー(ジミー・ベネット)と難聴の障害を持つ妹のマックス(アリアーナ・エンジニア)がいたが、エスターは直ぐに手話を覚えてマックスと仲良くなり、すんなりと一家に溶け込んだように見えた。
だがエスターは天使の様な仮面の下に、恐るべき正体を隠していた・・・
子供が恐怖の対象になる作品と言うと、マコーレ・カルキンとイライジャ・ウッド主演で話題を呼んだ「危険な遊び」やスティーブン・キング原作の「チルドレン・オブ・ザ・コーン」、その原型とも言うべきスペイン映画「ザ・チャイルド」などが思い浮かぶが、この「エスター」はこれらの作品の中から一歩抜けた作品となった。
先ず何よりも、デヴィッド・レスリー・ジョンソンによる脚本の完成度が高い。
悪夢の様な冒頭の病院のシークエンスから、コールマン夫妻とエスターの出会いまでを快調なテンポで展開させると、後はエスターが本性を現し、ジワリ、ジワリと一家を追い込んでゆく恐怖と、エスターの正体を巡る謎という二つの興味で観客を引っ張る。
しかも、伏線が綿密に張り巡らされており、細かな描写や設定の一つ一つが、後々になって意味を持ってくるあたり、非常に芸が細かい。
観客はケイトや子供たち同様に、エスターによって直接的な恐怖を感じるのと同時に、本来家族を守るべきジョンや精神科医が完全にエスターによって丸め込まれてしまい、恐怖の本質になかなか気付かない事にもどかしさと絶望を感じる事になるが、これはもちろん作者の狙い通り。
単に描写のショッキングさで怖がらせるのではなく、不条理な恐怖のロジックによって真綿で絞め殺されるような不快感(褒め言葉である)を味わう映画なのである。
長編劇場用映画の脚本としてはこれがデビュー作となる様だが、どこでこれだけのスキルを身に着けたのかと思ったら、どうやらこの人はフランク・ダラボンの門下生らしい。
なるほど、このロジカルで完成度の高い脚本力は師匠譲りか。
まあ肝心のエスターの正体に関しては、過去に小説や漫画に似た話があるので、それほどショッキングではなかった。
エスターのロシア時代の記録が見つからなかったり、ジョンを誘惑し精神科医を懐柔するあまりにも見事なワルっぷりに、この手の映画が好きな人は途中で彼女の正体に関して、いくつかの可能性を思い浮かべるだろう。
私も、こういう事かなあと三つほど思いついた中の一つが的中だった。
もっとも、オチが見えたとしても、そこからの展開の見せ方の上手さもあり、特に作品の魅力をスポイルする事は無い。
むしろ彼女の正体が明かされる事によって、背負ってきた過酷な運命をも感じさせ、単なる恐怖の対象から切なさを感じさせるキャラクターに印象が変化しており、単純にびっくりさせるためというよりは、しっかりと物語上の必然となっているのは大したものだ。
そのために映画のラストは必ずしもハッピーエンドにはなっておらず、ある種の痛みを感じさせる物だが、個人的にはもっと痛くても良かったと思う。
ラストの展開は当然ながらケイト目線になっているのだが、ここはあえて物語を壊してでも、エスターの心に寄り添い、彼女が辿ってきたエンドレスの喪失感を今以上に強く感じさせることが出来たら、これはホラー映画史に残る傑作となっていたかもしれない。
天使の仮面の下に悪魔の本性を隠し持つ、エスターを演じるイザベル・ファーマンは1992年生まれの12歳。
ハリウッドにまた、素晴らしい演技力を持つ魅力的な子役スターが登場した。
本人はワシントン生まれのアメリカ人だが、微妙なロシア訛も含めて演技はとても繊細で、エキセントリックなキャラクターに強い説得力を与えている。
一見利発で天使の様に可憐だが、内面に恐るべき狂気と恐怖の歴史を秘めたエスターは、彼女なくしては生まれなかっただろう。
またファーマン以上に印象的なのが、聾唖の少女マックスを演じたアリアーナ・エンジニアで、恐怖によってエスターに支配されながらも、家族の身を案じる無垢な瞳は観客の心をかき乱す。
この年齢ではどこまで意識して演技しているのかはわからないが、目力の強さは末恐ろしい。
コールマン夫妻を演じるヴェラ・ファーミガとピーター・サースガードら大人の俳優も好演しているが、これはやはり子供たちのパワーが際立つ映画だ。
監督のジャウム・コレット=セラはスペイン出身で、前作の「蝋人形の館」でも、独特のムードのある演出が印象に残った。
もっともあちらは脚本がベタなので、作品としては類型的なB級ホラー以上の物には成っていないが、今回は出来の良い脚本とイザベル・ファーマンという素晴らしい素材を得て、良い仕事をしていると思う。
特にビジュアルに頼るのではなく、子役俳優のナチュラルな演技を最大限に生かす方向で演出しているのは正解だ。
子供を上手く撮る演出家に凡才はいない。
今後の進化が楽しみな人である。
今回は、凍てつく冬の様な心を持つエスターに飲ませたい、「フィンランディア・ワイルドベリー」をチョイス。
北欧フィンランドの代表的なウォッカで、冷えた心と体を芯から暖めてくれる。
フルーツフレーバーのチョイスがあるのが特徴だが、私はこのワイルドベリーのほのかな香りが一番好きだ。
これからの寒い季節に、あえてキンキンに冷してストレートで飲みたい。
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「エスター」の原題「Orphan」は、孤児を意味する。
裕福なアメリカ人夫婦が孤児院からロシア人の娘を迎え入れるが、やがて「この娘、どこかが変だ」というキャッチコピーの通りに、彼女の狂気によって恐怖のどん底に突き落とされる。
所謂チャイルド・ホラーの変種だが、脚本の出来が良く、予想以上にスリリングな佳作となった。
三番目の子供を流産したケイト・コールマン(ヴェラ・ファーミガ)と夫のジョン(ピーター・サースガード)は、孤児院から子供を迎える事を考える。
ある日訪れた孤児院で、コールマン夫妻はロシア出身で以前の里親の家が火事になり、たった一人生き残ったエスター(イザベル・ファーマン)という少女と出会う。
歌が上手くいつも絵を描いているという、しっかり者のエスターをすっかり気に入った夫妻は、彼女を養女として迎え入れる事を決める。
夫妻には長男のダニー(ジミー・ベネット)と難聴の障害を持つ妹のマックス(アリアーナ・エンジニア)がいたが、エスターは直ぐに手話を覚えてマックスと仲良くなり、すんなりと一家に溶け込んだように見えた。
だがエスターは天使の様な仮面の下に、恐るべき正体を隠していた・・・
子供が恐怖の対象になる作品と言うと、マコーレ・カルキンとイライジャ・ウッド主演で話題を呼んだ「危険な遊び」やスティーブン・キング原作の「チルドレン・オブ・ザ・コーン」、その原型とも言うべきスペイン映画「ザ・チャイルド」などが思い浮かぶが、この「エスター」はこれらの作品の中から一歩抜けた作品となった。
先ず何よりも、デヴィッド・レスリー・ジョンソンによる脚本の完成度が高い。
悪夢の様な冒頭の病院のシークエンスから、コールマン夫妻とエスターの出会いまでを快調なテンポで展開させると、後はエスターが本性を現し、ジワリ、ジワリと一家を追い込んでゆく恐怖と、エスターの正体を巡る謎という二つの興味で観客を引っ張る。
しかも、伏線が綿密に張り巡らされており、細かな描写や設定の一つ一つが、後々になって意味を持ってくるあたり、非常に芸が細かい。
観客はケイトや子供たち同様に、エスターによって直接的な恐怖を感じるのと同時に、本来家族を守るべきジョンや精神科医が完全にエスターによって丸め込まれてしまい、恐怖の本質になかなか気付かない事にもどかしさと絶望を感じる事になるが、これはもちろん作者の狙い通り。
単に描写のショッキングさで怖がらせるのではなく、不条理な恐怖のロジックによって真綿で絞め殺されるような不快感(褒め言葉である)を味わう映画なのである。
長編劇場用映画の脚本としてはこれがデビュー作となる様だが、どこでこれだけのスキルを身に着けたのかと思ったら、どうやらこの人はフランク・ダラボンの門下生らしい。
なるほど、このロジカルで完成度の高い脚本力は師匠譲りか。
まあ肝心のエスターの正体に関しては、過去に小説や漫画に似た話があるので、それほどショッキングではなかった。
エスターのロシア時代の記録が見つからなかったり、ジョンを誘惑し精神科医を懐柔するあまりにも見事なワルっぷりに、この手の映画が好きな人は途中で彼女の正体に関して、いくつかの可能性を思い浮かべるだろう。
私も、こういう事かなあと三つほど思いついた中の一つが的中だった。
もっとも、オチが見えたとしても、そこからの展開の見せ方の上手さもあり、特に作品の魅力をスポイルする事は無い。
むしろ彼女の正体が明かされる事によって、背負ってきた過酷な運命をも感じさせ、単なる恐怖の対象から切なさを感じさせるキャラクターに印象が変化しており、単純にびっくりさせるためというよりは、しっかりと物語上の必然となっているのは大したものだ。
そのために映画のラストは必ずしもハッピーエンドにはなっておらず、ある種の痛みを感じさせる物だが、個人的にはもっと痛くても良かったと思う。
ラストの展開は当然ながらケイト目線になっているのだが、ここはあえて物語を壊してでも、エスターの心に寄り添い、彼女が辿ってきたエンドレスの喪失感を今以上に強く感じさせることが出来たら、これはホラー映画史に残る傑作となっていたかもしれない。
天使の仮面の下に悪魔の本性を隠し持つ、エスターを演じるイザベル・ファーマンは1992年生まれの12歳。
ハリウッドにまた、素晴らしい演技力を持つ魅力的な子役スターが登場した。
本人はワシントン生まれのアメリカ人だが、微妙なロシア訛も含めて演技はとても繊細で、エキセントリックなキャラクターに強い説得力を与えている。
一見利発で天使の様に可憐だが、内面に恐るべき狂気と恐怖の歴史を秘めたエスターは、彼女なくしては生まれなかっただろう。
またファーマン以上に印象的なのが、聾唖の少女マックスを演じたアリアーナ・エンジニアで、恐怖によってエスターに支配されながらも、家族の身を案じる無垢な瞳は観客の心をかき乱す。
この年齢ではどこまで意識して演技しているのかはわからないが、目力の強さは末恐ろしい。
コールマン夫妻を演じるヴェラ・ファーミガとピーター・サースガードら大人の俳優も好演しているが、これはやはり子供たちのパワーが際立つ映画だ。
監督のジャウム・コレット=セラはスペイン出身で、前作の「蝋人形の館」でも、独特のムードのある演出が印象に残った。
もっともあちらは脚本がベタなので、作品としては類型的なB級ホラー以上の物には成っていないが、今回は出来の良い脚本とイザベル・ファーマンという素晴らしい素材を得て、良い仕事をしていると思う。
特にビジュアルに頼るのではなく、子役俳優のナチュラルな演技を最大限に生かす方向で演出しているのは正解だ。
子供を上手く撮る演出家に凡才はいない。
今後の進化が楽しみな人である。
今回は、凍てつく冬の様な心を持つエスターに飲ませたい、「フィンランディア・ワイルドベリー」をチョイス。
北欧フィンランドの代表的なウォッカで、冷えた心と体を芯から暖めてくれる。
フルーツフレーバーのチョイスがあるのが特徴だが、私はこのワイルドベリーのほのかな香りが一番好きだ。
これからの寒い季節に、あえてキンキンに冷してストレートで飲みたい。

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2009年10月18日 (日) | 編集 |
史上もっとも有名なロボットの一人、「鉄腕アトム」初のオリジナル長編劇場版。
そして日本以外で作られた、最初のアトムとなった。
海外製作という事で、色々と心配する向きもあるようだが、杞憂である。
アトムで育った子供たちは、何も日本人だけではない。
香港に拠点を置くイマジ・アニメーション・スタジオが製作し、キャラクターの声をそうそうたるハリウッドスターたちが演じ、英アードマン出身のデヴィッド・バワーズ監督が纏め上げたこの作品は、言わば世界中のアトムの子たちが作り上げた夢の結晶だ。
生活の面倒の全てをロボットが見てくれる夢の空中都市メトロシティ。
科学者のテンマ博士(ニコラス・ケイジ)の息子トビー(フレディ・ハイモア)は、父親譲りの天才児だが、ある時戦闘用ロボットのピースキーパーの暴走事故に巻き込まれて命を落とす。
テンマ博士は、息子の髪の毛から記憶を抽出すると、トビーそっくりの姿に作ったロボットに記憶を移植、究極のエネルギーであるブルーコアによって起動させる。
ロボットとして蘇ったトビーはしかし、やはり完全に元のトビーではなく、息子そっくりな姿に心をかき乱されたテンマ博士は、ロボットのトビーを拒絶してしまう。
家を失ったロボットは、自分の居場所を探すためにメトロシティを去って地上へと降り、そこで出会った人間の子供たちに、アトムと名乗る。
一方、ピースキーパーの完成を急ぐストーン大統領(ドナルド・サザーランド)は、ブルーコアがアトムに使用された事を知ると、回収してブルーコアをピースキーパーに使用せよと命令を出すのだが・・・
今年で亡くなって早20年となる手塚治虫が、アトムという傑出したキャラクターを生み出したのは今から58年前の1951年。
「アトム大使」というSF作品に登場し、宇宙に住む2つの人類の対立を仲裁するロボットというキャラクターだった。
翌1952年にスピンオフの様な形で、「鉄腕アトム」が連載開始。
そして1963年1月1日からは遂にテレビアニメの放送が始まり、爆発的な人気を獲得するのである。
欧米でも「ASTRO BOY」のタイトルで放送され、日本のサブカル系キャラクターとしてはゴジラ以来の知名度を持つに至り、日本アニメの世界進出の突破口を作った作品でもある。
アードマン初の長編CGアニメ、「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」を手がけた事で知られるデヴィッド・バワーズ監督はアトムマニアを自認し、自ら本作の監督に名乗りを上げた。
テンマ博士を演じるニコラス・ケイジもまた熱烈なファンで、一時は自ら実写映画化を考えたという。
彼らアトムで育った手塚治虫の継承者たちに作られた本作は、オリジナルの精神性とキャラクターを生かしつつ、世界観を大胆に改変し、長大な物語を94分というコンパクトなパッケージに纏め上げている。
おそらく日本人が作ったならば、ここまでの大きな改変は出来なかったはずで、このあたりの合理性はハリウッド的、あるいは香港的?
舞台となるのは、富士山と天空の城ラピュタが合体したような、浮遊する超科学都市メトロシティ。
どうやらここに住めるのは選ばれた金持ちだけで、その他の多くの人間たちはゴミ溜めのような地上に暮らしているらしい。
バワーズと共同脚本のティモシー・ハリスは、この新しい世界観に、オリジナルのキャラクターとエピソードを組み込むことで、映画版の物語を構成している。
もちろん足掛け16年間に渡って連載され、オリジナルのテレビシリーズだけでも200本近いアトムの全部を描くのは到底不可能なので、物語は極めてシンプルなテーマだけに絞って展開する。
これは、テンマ博士の死んだ息子のコピー品として作られた、人間でも単なるロボットでもない中途半端な存在であるアトムが、自分はなぜ存在するのか、自分の居場所は何処なのかを見つける物語である。
ここで上手いのは、アトムの葛藤を裏返せば、そのまま生みの親でもあるテンマ博士の葛藤でもあるというロジックで、父と息子(の姿をしたロボット)二人のすれ違う心が、物語を重層的にしており、単なるアクションに大人の鑑賞に堪えるドラマ性を付加している。
映画のテンポは非常に早く、トビーが事故死してアトムが誕生するまで僅かに15分程度で展開する。
正直、物語のディテール描写ではさすがにやや端折り感が出てしまっているが、全体にオリジナル同様子供向けを強く意識した作品であり、子供を飽きさせないためにはこのぐらい矢継ぎ早の展開でもいいのかもしれない。
SF的な考証の部分も原作が発表された50年代的な大らかさだが、お父さんたちも脳内スイッチをちょっと逆行させれば、ついていけない程ではない。
髪の毛から記憶を抽出できるなら、ロボットよりクローンを作ったら?とか突っ込んではいけないのだ。
この世界にはクローンという概念は無いのだろう、たぶん。
「ツインズ」や「キンダーガートンコップ」などのコメディ作品で知られるティモシー・ハリスのテイストだと思うのだが、思ったよりもユーモアの比重が高く、笑いとアクションで盛り上げながら、最後にはしっかりとテーマを形作るという脚本の出来は悪くない。
日本アニメをかなり研究したと思しき、バワーズ監督の演出も快調で、ロボットバトルのシーンは、CGならではの迫力がある。
予告編で物議をかもしたキャラクターデザインも、個人的にはあまり気にならなかった。
アトムは漫画のデザインと声を演じるフレディ・ハイモアを掛け合わせた様なルックスで、確かにやや西洋的なのだけど、テンマ博士や御茶ノ水博士といった御馴染みのキャラクターに映画オリジナルのキャラクターたちを含めて、デザインテイストは揃えられているので、直ぐに違和感はなくなる。
むしろ街の看板がヒョウタンツギだったり、アトム開発チームに手塚治虫がいたりする遊び心から、作り手のアトム愛が伝わって来て楽しい。
「ミュータント・タートルズ TMNT」などを手がけたイマジ・アニメーション・スタジオによるCGも、殆どのハリウッド製CGアニメと遜色無い出来だ。
まあピクサー辺りと比べると若干落ちるのは確かだが、かけている時間とお金の差があるので致し方あるまい。
彼らの技術レベルの高さを見ると、現在同社で製作中のCG版「科学忍者隊ガッチャマン」にも期待が持てるではないか。
「ATOM」はオリジナルの風合いを保ちながら、今風のCGアニメとして適度にリニューアルされた新世代の「鉄腕アトム」だ。
原作の持つ哲学性まで表現されているとは言いがたいが、オリジナルを知る世代も知らない世代も、これはこれで一つのよく出来た娯楽作品として楽しむことが出来るだろう。
出来れば、この作品から始まる新テレビシリーズとか観てみたい。
私は以前、オリジナルのテレビシリーズのスタッフだった方に、当時の制作の裏話をインタビューした事があるのだが、果たして彼らはこのデジタルアトムをどう考えるだろうか。
機会があれば是非感想を聞いてみたいものである。
映画は東洋と西洋の融合で生まれた作品だったが、お酒の世界でも異文化交流は盛ん。
今回はフランスで活躍する日本人によって生まれたスパークリング、ル・デュモンの「クレマン・ド・ブルゴーニュ・ブラン・ド・ブラン」をチョイス。
ル・デュモンはフランスワインでありながら、「天地人」の漢字ラベルで有名になったが、このスパークリングのラベルはまた違ったユニークなデザイン。
お味の方も柑橘類の風味を感じさせ、細やかな泡が口の中でアトムの様に飛び跳ねる、華やかで楽しい酒。
これからのホリデーシーズンの食卓にお勧めだ。
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そして日本以外で作られた、最初のアトムとなった。
海外製作という事で、色々と心配する向きもあるようだが、杞憂である。
アトムで育った子供たちは、何も日本人だけではない。
香港に拠点を置くイマジ・アニメーション・スタジオが製作し、キャラクターの声をそうそうたるハリウッドスターたちが演じ、英アードマン出身のデヴィッド・バワーズ監督が纏め上げたこの作品は、言わば世界中のアトムの子たちが作り上げた夢の結晶だ。
生活の面倒の全てをロボットが見てくれる夢の空中都市メトロシティ。
科学者のテンマ博士(ニコラス・ケイジ)の息子トビー(フレディ・ハイモア)は、父親譲りの天才児だが、ある時戦闘用ロボットのピースキーパーの暴走事故に巻き込まれて命を落とす。
テンマ博士は、息子の髪の毛から記憶を抽出すると、トビーそっくりの姿に作ったロボットに記憶を移植、究極のエネルギーであるブルーコアによって起動させる。
ロボットとして蘇ったトビーはしかし、やはり完全に元のトビーではなく、息子そっくりな姿に心をかき乱されたテンマ博士は、ロボットのトビーを拒絶してしまう。
家を失ったロボットは、自分の居場所を探すためにメトロシティを去って地上へと降り、そこで出会った人間の子供たちに、アトムと名乗る。
一方、ピースキーパーの完成を急ぐストーン大統領(ドナルド・サザーランド)は、ブルーコアがアトムに使用された事を知ると、回収してブルーコアをピースキーパーに使用せよと命令を出すのだが・・・
今年で亡くなって早20年となる手塚治虫が、アトムという傑出したキャラクターを生み出したのは今から58年前の1951年。
「アトム大使」というSF作品に登場し、宇宙に住む2つの人類の対立を仲裁するロボットというキャラクターだった。
翌1952年にスピンオフの様な形で、「鉄腕アトム」が連載開始。
そして1963年1月1日からは遂にテレビアニメの放送が始まり、爆発的な人気を獲得するのである。
欧米でも「ASTRO BOY」のタイトルで放送され、日本のサブカル系キャラクターとしてはゴジラ以来の知名度を持つに至り、日本アニメの世界進出の突破口を作った作品でもある。
アードマン初の長編CGアニメ、「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」を手がけた事で知られるデヴィッド・バワーズ監督はアトムマニアを自認し、自ら本作の監督に名乗りを上げた。
テンマ博士を演じるニコラス・ケイジもまた熱烈なファンで、一時は自ら実写映画化を考えたという。
彼らアトムで育った手塚治虫の継承者たちに作られた本作は、オリジナルの精神性とキャラクターを生かしつつ、世界観を大胆に改変し、長大な物語を94分というコンパクトなパッケージに纏め上げている。
おそらく日本人が作ったならば、ここまでの大きな改変は出来なかったはずで、このあたりの合理性はハリウッド的、あるいは香港的?
舞台となるのは、富士山と天空の城ラピュタが合体したような、浮遊する超科学都市メトロシティ。
どうやらここに住めるのは選ばれた金持ちだけで、その他の多くの人間たちはゴミ溜めのような地上に暮らしているらしい。
バワーズと共同脚本のティモシー・ハリスは、この新しい世界観に、オリジナルのキャラクターとエピソードを組み込むことで、映画版の物語を構成している。
もちろん足掛け16年間に渡って連載され、オリジナルのテレビシリーズだけでも200本近いアトムの全部を描くのは到底不可能なので、物語は極めてシンプルなテーマだけに絞って展開する。
これは、テンマ博士の死んだ息子のコピー品として作られた、人間でも単なるロボットでもない中途半端な存在であるアトムが、自分はなぜ存在するのか、自分の居場所は何処なのかを見つける物語である。
ここで上手いのは、アトムの葛藤を裏返せば、そのまま生みの親でもあるテンマ博士の葛藤でもあるというロジックで、父と息子(の姿をしたロボット)二人のすれ違う心が、物語を重層的にしており、単なるアクションに大人の鑑賞に堪えるドラマ性を付加している。
映画のテンポは非常に早く、トビーが事故死してアトムが誕生するまで僅かに15分程度で展開する。
正直、物語のディテール描写ではさすがにやや端折り感が出てしまっているが、全体にオリジナル同様子供向けを強く意識した作品であり、子供を飽きさせないためにはこのぐらい矢継ぎ早の展開でもいいのかもしれない。
SF的な考証の部分も原作が発表された50年代的な大らかさだが、お父さんたちも脳内スイッチをちょっと逆行させれば、ついていけない程ではない。
髪の毛から記憶を抽出できるなら、ロボットよりクローンを作ったら?とか突っ込んではいけないのだ。
この世界にはクローンという概念は無いのだろう、たぶん。
「ツインズ」や「キンダーガートンコップ」などのコメディ作品で知られるティモシー・ハリスのテイストだと思うのだが、思ったよりもユーモアの比重が高く、笑いとアクションで盛り上げながら、最後にはしっかりとテーマを形作るという脚本の出来は悪くない。
日本アニメをかなり研究したと思しき、バワーズ監督の演出も快調で、ロボットバトルのシーンは、CGならではの迫力がある。
予告編で物議をかもしたキャラクターデザインも、個人的にはあまり気にならなかった。
アトムは漫画のデザインと声を演じるフレディ・ハイモアを掛け合わせた様なルックスで、確かにやや西洋的なのだけど、テンマ博士や御茶ノ水博士といった御馴染みのキャラクターに映画オリジナルのキャラクターたちを含めて、デザインテイストは揃えられているので、直ぐに違和感はなくなる。
むしろ街の看板がヒョウタンツギだったり、アトム開発チームに手塚治虫がいたりする遊び心から、作り手のアトム愛が伝わって来て楽しい。
「ミュータント・タートルズ TMNT」などを手がけたイマジ・アニメーション・スタジオによるCGも、殆どのハリウッド製CGアニメと遜色無い出来だ。
まあピクサー辺りと比べると若干落ちるのは確かだが、かけている時間とお金の差があるので致し方あるまい。
彼らの技術レベルの高さを見ると、現在同社で製作中のCG版「科学忍者隊ガッチャマン」にも期待が持てるではないか。
「ATOM」はオリジナルの風合いを保ちながら、今風のCGアニメとして適度にリニューアルされた新世代の「鉄腕アトム」だ。
原作の持つ哲学性まで表現されているとは言いがたいが、オリジナルを知る世代も知らない世代も、これはこれで一つのよく出来た娯楽作品として楽しむことが出来るだろう。
出来れば、この作品から始まる新テレビシリーズとか観てみたい。
私は以前、オリジナルのテレビシリーズのスタッフだった方に、当時の制作の裏話をインタビューした事があるのだが、果たして彼らはこのデジタルアトムをどう考えるだろうか。
機会があれば是非感想を聞いてみたいものである。
映画は東洋と西洋の融合で生まれた作品だったが、お酒の世界でも異文化交流は盛ん。
今回はフランスで活躍する日本人によって生まれたスパークリング、ル・デュモンの「クレマン・ド・ブルゴーニュ・ブラン・ド・ブラン」をチョイス。
ル・デュモンはフランスワインでありながら、「天地人」の漢字ラベルで有名になったが、このスパークリングのラベルはまた違ったユニークなデザイン。
お味の方も柑橘類の風味を感じさせ、細やかな泡が口の中でアトムの様に飛び跳ねる、華やかで楽しい酒。
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2009年10月13日 (火) | 編集 |
今年は太宰治の生誕100周年で、色々と記念行事があるらしい。
この「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」もその流れの中で作られた作品なのだろう。
根岸吉太郎監督が、奇妙な夫婦の絆の物語をベテランらしい落ち着いたタッチでじっくりと描き、なかなかに観応えのある秀作となった。
小説家の大谷(浅野忠信)は、酒と色に溺れ、稼ぎの殆どを散財する毎日を送っている。
ある日、行き付けの飲み屋で酒代を踏み倒した上に金を盗んでしまう。
大谷を追って家にまで追いかけてきた店主の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)夫婦に対し、妻の佐知(松たか子)は自分が店で働いて返すから、警察沙汰にしないように懇願する。
翌日から働き始めた佐知は、すぐに店の人気者になるが、大谷は相変わらず家に寄り付かず愛人たちと飲み歩く毎日。
そんな佐知を見つめる常連客の岡田(妻夫木聡)は、何時しか佐知に恋してしまっていた・・・
ベースとなっているのは昭和22年に出版された「ヴィヨンの妻」という同名の小説で、映画はこれに幾つかの作品をミックスして脚色しているという。
原作小説自体は未読だが、太宰の本というのは青春時代に誰もが一度は通り過ぎる通過儀礼の様な物で、私も20代の頃にお約束の「人間失格」をはじめ何作か読んだ。
彼の作品は基本的に私小説なのだが、これほど自分自身の事をあっけらかんと描写できる人間がいるのだなあと驚嘆したのを覚えている。
まあ小説家としての才能はさておき、ぶっちゃけ太宰治という人間は酷い奴である。
稼ぎの殆どを飲みつくし、家庭には金を入れず、愛人をあちこちに作っては自殺未遂を繰り返すという、正に究極のダメ男。
さすが自分自身で「人間失格」と言うだけはある。
もちろん何故か女性にはもてるのだから、どこかに魅力はあったのだろうけど、私が女だったら絶対にこの男の妻にはなりたくないと思っていた。
果たして、こんな身勝手な男の妻であるという事は、どれほど辛い事であったのかと。
サブタイトルになっている桜桃とはサクランボの事で、太宰自身をモデルにした大谷を比喩している。
甘くて美味しく周りを誘惑するが、痛みやすく、食べてしまえばまた実がなるまで何年もかかるし、運が悪ければ種は捨てられて二度と芽を出す事はない。
一方のタンポポは妻の佐知のこと。
地味ながら大地に根を張り、春先のまだ寒い時期に花を咲かせる。
花の寿命は短くてもたくさんの種子を飛ばし、生命力はとても強い。
一見、この映画の佐知は、破滅的な大谷とは対照的な人物に描かれている。
妻としては奥ゆかしく控えめでありながら、明るい花の様な笑顔は人々をひき付け、常に多くの人に愛される理想の女性。
新橋の大衆酒場で、むさくるしい男たちの中に咲いた一厘の花の様に輝く佐知を見て、大谷はいつか他の男に寝取られるのではないかと怯えるのだ。
しかし、ダメ男に翻弄され、それでも尽くし続ける健気な妻の物語と思ってこの映画を観ると、本質を見失う。
よくよく観ると、なるほどこの夫にしてこの妻ありで、実はタンポポもかなり変な人だ。
松たか子演じる佐知は、相当に我が強く天然である。
世間一般の常識や善悪よりも、自分の中の論理が先行するあたり、大谷とよく似ている。
佐知と大谷の馴れ初めのエピソードは、佐知の論理のぶっ壊れっぷりと自己中な世界観を雄弁に物語り秀逸だ。
これは、世間と乖離した似た者同士の男と女が、磁石の両極の様に惹かれあい共に暮らし、葛藤する物語なのである。
桜桃とタンポポの命のサイクルが違うように、この二人を隔てているのは死生観の違いだけだ。
この世に居場所を見つけられず、ひたすら自分を追い込み、死に向かって突き進む大谷に対して、どっしりと地に足をつけ自分が世間と乖離している事すら気付かない佐知の方が、ある意味では大谷よりもエキセントリックな人物なのかもしれない。
「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」は、文学的な叙情性のある良質の日本映画である。
太宰の自己投影である大谷を演じる浅野忠信、佐知を演じる松たか子が素晴らしく良い。
破滅的でありながら繊細でどこか憎めない大谷のキャクターは、正にイメージの中の太宰そのもので、こんな酷い男に女性たちが群がる理由が何となくわかるくらいに作りこまれている。
松たか子もまた、表層的な古の妻のステロタイプの裏に隠された、大谷と同根の本質を細やかに表現した。
この話は主役二人の演技の説得力があってこそ、初めて成立する物語だが、二人とも完全にその役割を果たしていると言える。
脇を固める広末涼子や妻夫木聡らもそれぞれのキャラクターにピタリと嵌り、演技を観賞するという楽しみにおいて、この作品の満足度は高い。
田中陽造の出来の良い脚本を得て、登場人物の心理を緻密に描き、日常のディテールのリアリティにも拘って、役者の演技力を生かし切ったと根岸吉太郎の演出も見事。
近年の彼の作品ではベストの出来栄えだと思う。
昭和20年代の下町の様子を生活観たっぷりに再現したビジュアルもよく出来ているが、セット中心の画作りはやや狭苦しさを感じた。
ここはデジタル技術を駆使して、全体にもう少し引いた画が欲しかったところだ。
まあしかし、二人の根っこの部分のつながりを感じさせる良い物語だったが、こんな小説書いておいて、翌年には愛人と本当に心中しちゃうのだから、やっぱり太宰の妻にはなりたくないな(笑
今回は太宰治の故郷青森の地酒、西田酒造の「田酒 特別純米酒」をチョイス。
やや辛口で、純米酒らしいまろやかなふくらみ。
古典的な風格を持つ北国の日本酒らしい酒で、これからの季節はぬる燗で飲んでも美味しいと思う。
映画同様に丹念な職人の仕事を感じさせる、良質な一本だ。
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この「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」もその流れの中で作られた作品なのだろう。
根岸吉太郎監督が、奇妙な夫婦の絆の物語をベテランらしい落ち着いたタッチでじっくりと描き、なかなかに観応えのある秀作となった。
小説家の大谷(浅野忠信)は、酒と色に溺れ、稼ぎの殆どを散財する毎日を送っている。
ある日、行き付けの飲み屋で酒代を踏み倒した上に金を盗んでしまう。
大谷を追って家にまで追いかけてきた店主の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)夫婦に対し、妻の佐知(松たか子)は自分が店で働いて返すから、警察沙汰にしないように懇願する。
翌日から働き始めた佐知は、すぐに店の人気者になるが、大谷は相変わらず家に寄り付かず愛人たちと飲み歩く毎日。
そんな佐知を見つめる常連客の岡田(妻夫木聡)は、何時しか佐知に恋してしまっていた・・・
ベースとなっているのは昭和22年に出版された「ヴィヨンの妻」という同名の小説で、映画はこれに幾つかの作品をミックスして脚色しているという。
原作小説自体は未読だが、太宰の本というのは青春時代に誰もが一度は通り過ぎる通過儀礼の様な物で、私も20代の頃にお約束の「人間失格」をはじめ何作か読んだ。
彼の作品は基本的に私小説なのだが、これほど自分自身の事をあっけらかんと描写できる人間がいるのだなあと驚嘆したのを覚えている。
まあ小説家としての才能はさておき、ぶっちゃけ太宰治という人間は酷い奴である。
稼ぎの殆どを飲みつくし、家庭には金を入れず、愛人をあちこちに作っては自殺未遂を繰り返すという、正に究極のダメ男。
さすが自分自身で「人間失格」と言うだけはある。
もちろん何故か女性にはもてるのだから、どこかに魅力はあったのだろうけど、私が女だったら絶対にこの男の妻にはなりたくないと思っていた。
果たして、こんな身勝手な男の妻であるという事は、どれほど辛い事であったのかと。
サブタイトルになっている桜桃とはサクランボの事で、太宰自身をモデルにした大谷を比喩している。
甘くて美味しく周りを誘惑するが、痛みやすく、食べてしまえばまた実がなるまで何年もかかるし、運が悪ければ種は捨てられて二度と芽を出す事はない。
一方のタンポポは妻の佐知のこと。
地味ながら大地に根を張り、春先のまだ寒い時期に花を咲かせる。
花の寿命は短くてもたくさんの種子を飛ばし、生命力はとても強い。
一見、この映画の佐知は、破滅的な大谷とは対照的な人物に描かれている。
妻としては奥ゆかしく控えめでありながら、明るい花の様な笑顔は人々をひき付け、常に多くの人に愛される理想の女性。
新橋の大衆酒場で、むさくるしい男たちの中に咲いた一厘の花の様に輝く佐知を見て、大谷はいつか他の男に寝取られるのではないかと怯えるのだ。
しかし、ダメ男に翻弄され、それでも尽くし続ける健気な妻の物語と思ってこの映画を観ると、本質を見失う。
よくよく観ると、なるほどこの夫にしてこの妻ありで、実はタンポポもかなり変な人だ。
松たか子演じる佐知は、相当に我が強く天然である。
世間一般の常識や善悪よりも、自分の中の論理が先行するあたり、大谷とよく似ている。
佐知と大谷の馴れ初めのエピソードは、佐知の論理のぶっ壊れっぷりと自己中な世界観を雄弁に物語り秀逸だ。
これは、世間と乖離した似た者同士の男と女が、磁石の両極の様に惹かれあい共に暮らし、葛藤する物語なのである。
桜桃とタンポポの命のサイクルが違うように、この二人を隔てているのは死生観の違いだけだ。
この世に居場所を見つけられず、ひたすら自分を追い込み、死に向かって突き進む大谷に対して、どっしりと地に足をつけ自分が世間と乖離している事すら気付かない佐知の方が、ある意味では大谷よりもエキセントリックな人物なのかもしれない。
「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」は、文学的な叙情性のある良質の日本映画である。
太宰の自己投影である大谷を演じる浅野忠信、佐知を演じる松たか子が素晴らしく良い。
破滅的でありながら繊細でどこか憎めない大谷のキャクターは、正にイメージの中の太宰そのもので、こんな酷い男に女性たちが群がる理由が何となくわかるくらいに作りこまれている。
松たか子もまた、表層的な古の妻のステロタイプの裏に隠された、大谷と同根の本質を細やかに表現した。
この話は主役二人の演技の説得力があってこそ、初めて成立する物語だが、二人とも完全にその役割を果たしていると言える。
脇を固める広末涼子や妻夫木聡らもそれぞれのキャラクターにピタリと嵌り、演技を観賞するという楽しみにおいて、この作品の満足度は高い。
田中陽造の出来の良い脚本を得て、登場人物の心理を緻密に描き、日常のディテールのリアリティにも拘って、役者の演技力を生かし切ったと根岸吉太郎の演出も見事。
近年の彼の作品ではベストの出来栄えだと思う。
昭和20年代の下町の様子を生活観たっぷりに再現したビジュアルもよく出来ているが、セット中心の画作りはやや狭苦しさを感じた。
ここはデジタル技術を駆使して、全体にもう少し引いた画が欲しかったところだ。
まあしかし、二人の根っこの部分のつながりを感じさせる良い物語だったが、こんな小説書いておいて、翌年には愛人と本当に心中しちゃうのだから、やっぱり太宰の妻にはなりたくないな(笑
今回は太宰治の故郷青森の地酒、西田酒造の「田酒 特別純米酒」をチョイス。
やや辛口で、純米酒らしいまろやかなふくらみ。
古典的な風格を持つ北国の日本酒らしい酒で、これからの季節はぬる燗で飲んでも美味しいと思う。
映画同様に丹念な職人の仕事を感じさせる、良質な一本だ。

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2009年10月08日 (木) | 編集 |
ライアン・ラーキンは特異な経歴のアニメーション作家である。
若くして巨匠ノーマン・マクラレンにその才能を認められ、アート・実験アニメーションの聖地、カナダのNFB(National Film Board of Canada :カナダ国立映画庁)で四本の作品を残す。
特に1968年の「ウォーキング」と1972年の「ストリート・ミュージック」は、アカデミー賞にノミネートされた他、世界各国の映画賞を多数受賞したアニメーション映画史に残る傑作である。
しかし、その後ラーキンは作品の発表を止めてしまい、ついにはホームレスとして路上生活するようになってしまうのである。
「ライアンラーキン 路上に咲いたアニメーション」はそんなラーキンの全作品と、彼を題材としたユニークなドキュメンタリーアニメーション「ライアン」、晩年のラーキンを捉えた実写ドキュメンタリー「ライアン・ラーキンの世界」のダイジェストを併せて鑑賞できる、いわばライアン・ラーキン全集のようなプログラムだ。
インタビューの中で彼は、「あらゆるアニメーション作家が私の影響を受けたそうだ」と言っている。
自分で言うなよと突っ込みたくなるが、実際これは誇張でもなんでもなく、彼の作品にインスパイアされていると思しき作家の名10人、20人はすぐ思い浮かぶのである。
NFBでの最初の作品となる「シティスケープ」から才気溢れる「シランクス」、そしてオスカーにノミネートされ、一躍ラーキンをアートアニメのスターにした「ウォーキング」のクールさに、「ストリート・ミュージック」の躍動。
動き、メタモルフォーゼするというアニメーションの原初の姿を追求した作品群は、作られてから40年を経過した今も、観る者に新鮮な驚きを齎す。
私は「ウォーキング」を過去に一度観たことがあったのだが、(少なくとも一部は)実写で人物を撮影し、トレースしたのだろうと思っていたが、今回ドキュメンタリーであれが完全な手描きである事を知り、改めてこの映画作家が天才以外の何者でもないことを再認識させられた。
しかし、これほどの作品を残しながら、ラーキンはやがてアルコールとドラッグに溺れ、NFBを去る。
創作意欲を失い、恋人にも裏切られた彼は、ついに路上で生活するホームレスとなるのである。
「忘れられた天才」であったラーキンが、再び脚光を浴びるのは「ストリート・ミュージック」から四半世紀年以上がたった2000年で、ラーキンがホームレスをしているという噂を聞いたオタワ国際アニメーションフェスティバルのディレクターによって招かれ、映画祭の審査員として公の場に姿を現す事になる。
ドキュメンタリーの中で、路上のラーキンは「ポケットに10ドルあれば、それで良い」と語る。
しかし、創作のプレッシャーから開放されて、自由に生きているはずの彼は、何かに憤り、焦っている様に見える。
NFB時代のラーキンのプロデューサーは、インタビューで「創作意欲を失った作家に残るのは、憤りだけだ」と語っていたが、だとすれば憤りはまだ彼が作家である証だったのかもしれない。
ラーキンは、36年ぶりの復帰作「スペア・チェンジ 小銭を」の制作中の2007年に死去。
作品はローリー・ゴードンに引き継がれて完成したが、路上で暮らす自分自身を描くという毒気たっぷりのシニカルさは、この作家が以前の作品には観られなかった新たな視点を獲得していたという事だったのかもしれない。
享年63歳であった。
今回のプログラムではラーキン自身の作品だけでなく、彼を題材としたクリス・ランドレス監督のCGアニメ「ライアン」も観ることが出来る。
心理状態をそのままカリカチュアした様な、異様なCGキャラクターに造形された監督のランドレスとラーキンが、創作について語り合う異色作で、ドキュメンタリーアニメーションとも言うべき作品だが、なるほど対象をカリカチュアするアニメーションの手法で、言葉の奥底に隠された本質を表現するというのは非常に面白い。
これはまたCGの特質が生きる作品であり、ラーキンが活躍した時代には考えられなかった、アニメーションの新しい可能性を広げる一本であったと思う。
「ライアン」は2004年度のアカデミー短編アニメーション賞を受賞している。
ラーキン自身はディズニーの壁に阻まれて果たせなかったオスカー受賞を、NFBの後輩が彼を題材として成し遂げた訳だ。
ここにもまた幸福な創作の連鎖がある。
「ライアンラーキン 路上に咲いたアニメーション」は、渋谷ライズXで上映中で、今後大阪や京都でも上映される様だ。
上映時間が全部で45分程度なので、1000円で観られるのも嬉しく、その価値は十分にある。
さて、ラーキンの故郷であるモントリオールは実はビールの街である。
フランス語圏のケベック州に位置するモントリオールは、北米にあって非常にヨーロッパ色の濃い土地で、地ビールもアメリカンビールとは一線を画すヨーロッパ風、特にベルギービールの影響が強い。
なかなかモントリオールビールは日本で手に入らないので、ケベック人にも人気のベルギービール「ポペリンフス・ホンメルビール」をチョイス。
典型的なベルギービールでアルコール度も高めだが、フルーティで喉ごしは柔かく、呑みやすい。
それはまるで美しくも熱い作家魂がこもった、ラーキンのアニメーションの様だ。
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若くして巨匠ノーマン・マクラレンにその才能を認められ、アート・実験アニメーションの聖地、カナダのNFB(National Film Board of Canada :カナダ国立映画庁)で四本の作品を残す。
特に1968年の「ウォーキング」と1972年の「ストリート・ミュージック」は、アカデミー賞にノミネートされた他、世界各国の映画賞を多数受賞したアニメーション映画史に残る傑作である。
しかし、その後ラーキンは作品の発表を止めてしまい、ついにはホームレスとして路上生活するようになってしまうのである。
「ライアンラーキン 路上に咲いたアニメーション」はそんなラーキンの全作品と、彼を題材としたユニークなドキュメンタリーアニメーション「ライアン」、晩年のラーキンを捉えた実写ドキュメンタリー「ライアン・ラーキンの世界」のダイジェストを併せて鑑賞できる、いわばライアン・ラーキン全集のようなプログラムだ。
インタビューの中で彼は、「あらゆるアニメーション作家が私の影響を受けたそうだ」と言っている。
自分で言うなよと突っ込みたくなるが、実際これは誇張でもなんでもなく、彼の作品にインスパイアされていると思しき作家の名10人、20人はすぐ思い浮かぶのである。
NFBでの最初の作品となる「シティスケープ」から才気溢れる「シランクス」、そしてオスカーにノミネートされ、一躍ラーキンをアートアニメのスターにした「ウォーキング」のクールさに、「ストリート・ミュージック」の躍動。
動き、メタモルフォーゼするというアニメーションの原初の姿を追求した作品群は、作られてから40年を経過した今も、観る者に新鮮な驚きを齎す。
私は「ウォーキング」を過去に一度観たことがあったのだが、(少なくとも一部は)実写で人物を撮影し、トレースしたのだろうと思っていたが、今回ドキュメンタリーであれが完全な手描きである事を知り、改めてこの映画作家が天才以外の何者でもないことを再認識させられた。
しかし、これほどの作品を残しながら、ラーキンはやがてアルコールとドラッグに溺れ、NFBを去る。
創作意欲を失い、恋人にも裏切られた彼は、ついに路上で生活するホームレスとなるのである。
「忘れられた天才」であったラーキンが、再び脚光を浴びるのは「ストリート・ミュージック」から四半世紀年以上がたった2000年で、ラーキンがホームレスをしているという噂を聞いたオタワ国際アニメーションフェスティバルのディレクターによって招かれ、映画祭の審査員として公の場に姿を現す事になる。
ドキュメンタリーの中で、路上のラーキンは「ポケットに10ドルあれば、それで良い」と語る。
しかし、創作のプレッシャーから開放されて、自由に生きているはずの彼は、何かに憤り、焦っている様に見える。
NFB時代のラーキンのプロデューサーは、インタビューで「創作意欲を失った作家に残るのは、憤りだけだ」と語っていたが、だとすれば憤りはまだ彼が作家である証だったのかもしれない。
ラーキンは、36年ぶりの復帰作「スペア・チェンジ 小銭を」の制作中の2007年に死去。
作品はローリー・ゴードンに引き継がれて完成したが、路上で暮らす自分自身を描くという毒気たっぷりのシニカルさは、この作家が以前の作品には観られなかった新たな視点を獲得していたという事だったのかもしれない。
享年63歳であった。
今回のプログラムではラーキン自身の作品だけでなく、彼を題材としたクリス・ランドレス監督のCGアニメ「ライアン」も観ることが出来る。
心理状態をそのままカリカチュアした様な、異様なCGキャラクターに造形された監督のランドレスとラーキンが、創作について語り合う異色作で、ドキュメンタリーアニメーションとも言うべき作品だが、なるほど対象をカリカチュアするアニメーションの手法で、言葉の奥底に隠された本質を表現するというのは非常に面白い。
これはまたCGの特質が生きる作品であり、ラーキンが活躍した時代には考えられなかった、アニメーションの新しい可能性を広げる一本であったと思う。
「ライアン」は2004年度のアカデミー短編アニメーション賞を受賞している。
ラーキン自身はディズニーの壁に阻まれて果たせなかったオスカー受賞を、NFBの後輩が彼を題材として成し遂げた訳だ。
ここにもまた幸福な創作の連鎖がある。
「ライアンラーキン 路上に咲いたアニメーション」は、渋谷ライズXで上映中で、今後大阪や京都でも上映される様だ。
上映時間が全部で45分程度なので、1000円で観られるのも嬉しく、その価値は十分にある。
さて、ラーキンの故郷であるモントリオールは実はビールの街である。
フランス語圏のケベック州に位置するモントリオールは、北米にあって非常にヨーロッパ色の濃い土地で、地ビールもアメリカンビールとは一線を画すヨーロッパ風、特にベルギービールの影響が強い。
なかなかモントリオールビールは日本で手に入らないので、ケベック人にも人気のベルギービール「ポペリンフス・ホンメルビール」をチョイス。
典型的なベルギービールでアルコール度も高めだが、フルーティで喉ごしは柔かく、呑みやすい。
それはまるで美しくも熱い作家魂がこもった、ラーキンのアニメーションの様だ。

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2009年10月02日 (金) | 編集 |
「空気人形」って何かの比喩かと思っていたら、まさかそのまんまだったとは。
私が現代日本の映画作家でもっともハズレがないと思っているのが、是枝裕和監督である。
デビュー作となった「幻の光」から前作の「歩いても 歩いても」まで、彼の作品には淡々とした日常の影で、心に見えない傷を負い、深く葛藤する人間たちの物語が独特の緊張感と共に描かれてきた。
この「空気人形」は、心を持った人形のラブストーリーという、今までの作品とは一線を画するメルヘンチックな設定だが、描かれているのはやはり切なくも悲しい人間たちの心の内側だ。
本質を表現するために、極めて寓話的な手法をとったために、逆説的だが本作は是枝監督の作品の中でも、もっとも刹那的で難解な作品となった。
下町のアパートで秀雄(板尾創路)と暮らすダッチワイフの「のぞみ」(ペ・ドゥナ)は、ある朝心を持ってしまう。
秀雄が仕事に出かけると、のぞみは一人街に出る。
様々な人が行き交う大都会で、色々な「初めて」を体験しながら、のぞみは一軒のレンタルビデオ屋にたどり着く。
そこでアルバイトをする事になった彼女は、やがて店員の純一(ARATA)に思いを寄せるのだが・・・
心を持った人形とのラブストーリーというと、昔「マネキン」というアメリカ映画があった。
最近では、「SATC」のセックス中毒の熟女サマンサ役で知られるキム・キャトラルが、キュートなマネキンを演じた若き日の代表作であり、アンドリュー・マッカーシー演じる芸術家との恋物語はいかにもハリウッドらしく楽しくて笑いに満ちたものだった。
対して、是枝裕和が描き、ペ・ドゥナによって文字通り命を吹き込まれた人形は、なんとダッチワイフ(何でも最近ではラブドールと呼ぶらしい)である。
無機質な性の代用品である彼女は、初めから人間たちが隠して見せない心の裏側をメタファーする存在だ。
そんな空気人形ののぞみが、ある日突然心を持つ訳だが、多くの観客は二つの疑問を持つだろう。
なぜ彼女は心を持ったのか?心を持つとはどういう事なのか?
映画はこの問いかけに対する、答えを探す小さな旅の様な物である。
「誰も知らない」と同じように、人気のない都会の電車からスタートする物語は、決して多くを語らない。
主人公であるのぞみが体験する事と、それに対する彼女の心の機微は丁寧に描かれているが、その解釈は観る者にゆだねられている様に思う。
タイトルロールを演じるペ・ドゥナが圧倒的に素晴らしい。
元々独特の存在感のある役者さんだが、この体を張った役はもはや彼女以外ではイメージする事すら困難だ。
初めて街へ出た時の、本当に人形の様な、あるいは無垢な赤ん坊の様な、ぎこちない動作と表情は見事だが、彼女が人形だからこそ起こってくる、秀雄や純一との間の何とも複雑な葛藤の繊細な表現には舌を巻く。
ややアクセントのおかしい日本語も、この役柄からすればむしろピッタリで、これは間違いなく彼女の代表作となるだろう。
のぞみは自分の事を「からっぽの性欲処理の代用品」だという。
自分に詰まっているのは空気だけ。
だが、空気が詰まっているという事は、実はからっぽとは違う。
当たり前の様に存在している空気こそが、この世界で人々を繋ぐものであり、人間を生かすものでもある。
のぞみの暮らす下町は、海からの風が吹き抜け、ペットボトルの風車を回す。
その風はタンポポの綿毛を飛ばし、命のサイクルを紡いでもいる。
そして、ちょっとした事件で体の空気が抜け、思いを寄せる純一の息を体内に受け入れるシーンでのぞみの感じる官能。
私は、なぜ心をもってしまったのだろうか?
自分自身の存在理由に悩む彼女がたどり着いたのは、自分が生まれた人形工場。
そこで生みの親である人形師がのぞみに尋ねる質問が、この作品の最初の疑問に繋がっていると思う。
これは私なりの物語の解釈なのだけど、空気人形ののぞみに宿ったのは、とても臆病な無垢な魂。
この世界に生まれてくるのが不安で怖くてたまらない。
そこで、人形という仮の生に魂を宿して、確かめに来たのではないだろうか。
この世界に「キレイ」なものはあるのかどうか。
多分、並みの作家であれば人形師の質問に対する彼女の答えを持って、物語を閉じようとした事だろう。
だが、のぞみが心とは何ぞやという本当の理を知るために、物語はもうワンステップを用意する。
おそらく、ここからの展開は賛否両論となる部分だろうが、心というモノの持つキレイにも残酷にも、是枝監督はしっかりと向き合う。
そして心を巡る小さな旅路の果てに、のぞみは自分を形作る物が、決して空っぽではない事を知るのである。
「空気人形」は、観方によっては人間になれなかったもう一つの「ピノキオ」の物語かもしれない。
「ピノキオ」では人間らしい心を持つ事で人形が人間となったが、一つの心の器としてののぞみは、人形のまま役割を終える。
物語の最後は、今度は仮の器ではない新しい命となるための、旅の始まりの様に思えた。
彼女が関わった人々の心に、それぞれの感じるキレイを残して。
ホウ・シャオシェン作品で知られる撮影監督のリー・ピンビンのカメラは、人間同士が希薄な空気でかろうじて繋がっている東京の下町を空気感たっぷりに写し取る。
舞台となっているのは月島あたりだろうか?
登場人物の生活感たっぷりに、映画的な遊び心も忘れない種田陽平の美術も相変わらず見事な仕上がりだ。
映画にはこの街に生きる様々な人々が登場し、それぞれが印象的に描かれるが、特に色々な意味でイタタな結末を迎えるARATA演じる純一と、「のぞみ」の命名者である板尾創路演じる秀雄という、のぞみをはさんで描写される二人の男性像は、男にとっては何だかムズ痒い。
のぞみに心がある事を知った秀雄の言動なんて、かなり酷いと思わせるのだが、ああいう心理は理解出来なくないのもまた事実。
彼にとってダッチワイフは、あくまでも彼の心にいるのぞみを反映させる器に過ぎない訳だから、突然自我を持ったのぞみに登場されたら、戸惑いの方が大きいだろう。
ここにもまた心の複雑さと残酷さが描写されているのだが、正直ああいう男の生々しい内面は女性にはあまり見られたくないな。
詩的なタイトルのやわらかい印象から、カップルで観に行く人も多いと思うが、後から気まずい空気が流れるのは必至な作品なので、できれば一人で観賞する事をお勧めする(笑
今回は、「蓬莱泉」の銘柄で有名な愛知県を代表する酒蔵、関谷醸造から純米大吟醸の「空」をチョイス。
空気の様に軽やかだが、フルーティな吟醸香とたっぷりの米の旨みが広がる豊かなお酒。
こちらの「空」も決してからっぽではないのだ。
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私が現代日本の映画作家でもっともハズレがないと思っているのが、是枝裕和監督である。
デビュー作となった「幻の光」から前作の「歩いても 歩いても」まで、彼の作品には淡々とした日常の影で、心に見えない傷を負い、深く葛藤する人間たちの物語が独特の緊張感と共に描かれてきた。
この「空気人形」は、心を持った人形のラブストーリーという、今までの作品とは一線を画するメルヘンチックな設定だが、描かれているのはやはり切なくも悲しい人間たちの心の内側だ。
本質を表現するために、極めて寓話的な手法をとったために、逆説的だが本作は是枝監督の作品の中でも、もっとも刹那的で難解な作品となった。
下町のアパートで秀雄(板尾創路)と暮らすダッチワイフの「のぞみ」(ペ・ドゥナ)は、ある朝心を持ってしまう。
秀雄が仕事に出かけると、のぞみは一人街に出る。
様々な人が行き交う大都会で、色々な「初めて」を体験しながら、のぞみは一軒のレンタルビデオ屋にたどり着く。
そこでアルバイトをする事になった彼女は、やがて店員の純一(ARATA)に思いを寄せるのだが・・・
心を持った人形とのラブストーリーというと、昔「マネキン」というアメリカ映画があった。
最近では、「SATC」のセックス中毒の熟女サマンサ役で知られるキム・キャトラルが、キュートなマネキンを演じた若き日の代表作であり、アンドリュー・マッカーシー演じる芸術家との恋物語はいかにもハリウッドらしく楽しくて笑いに満ちたものだった。
対して、是枝裕和が描き、ペ・ドゥナによって文字通り命を吹き込まれた人形は、なんとダッチワイフ(何でも最近ではラブドールと呼ぶらしい)である。
無機質な性の代用品である彼女は、初めから人間たちが隠して見せない心の裏側をメタファーする存在だ。
そんな空気人形ののぞみが、ある日突然心を持つ訳だが、多くの観客は二つの疑問を持つだろう。
なぜ彼女は心を持ったのか?心を持つとはどういう事なのか?
映画はこの問いかけに対する、答えを探す小さな旅の様な物である。
「誰も知らない」と同じように、人気のない都会の電車からスタートする物語は、決して多くを語らない。
主人公であるのぞみが体験する事と、それに対する彼女の心の機微は丁寧に描かれているが、その解釈は観る者にゆだねられている様に思う。
タイトルロールを演じるペ・ドゥナが圧倒的に素晴らしい。
元々独特の存在感のある役者さんだが、この体を張った役はもはや彼女以外ではイメージする事すら困難だ。
初めて街へ出た時の、本当に人形の様な、あるいは無垢な赤ん坊の様な、ぎこちない動作と表情は見事だが、彼女が人形だからこそ起こってくる、秀雄や純一との間の何とも複雑な葛藤の繊細な表現には舌を巻く。
ややアクセントのおかしい日本語も、この役柄からすればむしろピッタリで、これは間違いなく彼女の代表作となるだろう。
のぞみは自分の事を「からっぽの性欲処理の代用品」だという。
自分に詰まっているのは空気だけ。
だが、空気が詰まっているという事は、実はからっぽとは違う。
当たり前の様に存在している空気こそが、この世界で人々を繋ぐものであり、人間を生かすものでもある。
のぞみの暮らす下町は、海からの風が吹き抜け、ペットボトルの風車を回す。
その風はタンポポの綿毛を飛ばし、命のサイクルを紡いでもいる。
そして、ちょっとした事件で体の空気が抜け、思いを寄せる純一の息を体内に受け入れるシーンでのぞみの感じる官能。
私は、なぜ心をもってしまったのだろうか?
自分自身の存在理由に悩む彼女がたどり着いたのは、自分が生まれた人形工場。
そこで生みの親である人形師がのぞみに尋ねる質問が、この作品の最初の疑問に繋がっていると思う。
これは私なりの物語の解釈なのだけど、空気人形ののぞみに宿ったのは、とても臆病な無垢な魂。
この世界に生まれてくるのが不安で怖くてたまらない。
そこで、人形という仮の生に魂を宿して、確かめに来たのではないだろうか。
この世界に「キレイ」なものはあるのかどうか。
多分、並みの作家であれば人形師の質問に対する彼女の答えを持って、物語を閉じようとした事だろう。
だが、のぞみが心とは何ぞやという本当の理を知るために、物語はもうワンステップを用意する。
おそらく、ここからの展開は賛否両論となる部分だろうが、心というモノの持つキレイにも残酷にも、是枝監督はしっかりと向き合う。
そして心を巡る小さな旅路の果てに、のぞみは自分を形作る物が、決して空っぽではない事を知るのである。
「空気人形」は、観方によっては人間になれなかったもう一つの「ピノキオ」の物語かもしれない。
「ピノキオ」では人間らしい心を持つ事で人形が人間となったが、一つの心の器としてののぞみは、人形のまま役割を終える。
物語の最後は、今度は仮の器ではない新しい命となるための、旅の始まりの様に思えた。
彼女が関わった人々の心に、それぞれの感じるキレイを残して。
ホウ・シャオシェン作品で知られる撮影監督のリー・ピンビンのカメラは、人間同士が希薄な空気でかろうじて繋がっている東京の下町を空気感たっぷりに写し取る。
舞台となっているのは月島あたりだろうか?
登場人物の生活感たっぷりに、映画的な遊び心も忘れない種田陽平の美術も相変わらず見事な仕上がりだ。
映画にはこの街に生きる様々な人々が登場し、それぞれが印象的に描かれるが、特に色々な意味でイタタな結末を迎えるARATA演じる純一と、「のぞみ」の命名者である板尾創路演じる秀雄という、のぞみをはさんで描写される二人の男性像は、男にとっては何だかムズ痒い。
のぞみに心がある事を知った秀雄の言動なんて、かなり酷いと思わせるのだが、ああいう心理は理解出来なくないのもまた事実。
彼にとってダッチワイフは、あくまでも彼の心にいるのぞみを反映させる器に過ぎない訳だから、突然自我を持ったのぞみに登場されたら、戸惑いの方が大きいだろう。
ここにもまた心の複雑さと残酷さが描写されているのだが、正直ああいう男の生々しい内面は女性にはあまり見られたくないな。
詩的なタイトルのやわらかい印象から、カップルで観に行く人も多いと思うが、後から気まずい空気が流れるのは必至な作品なので、できれば一人で観賞する事をお勧めする(笑
今回は、「蓬莱泉」の銘柄で有名な愛知県を代表する酒蔵、関谷醸造から純米大吟醸の「空」をチョイス。
空気の様に軽やかだが、フルーティな吟醸香とたっぷりの米の旨みが広がる豊かなお酒。
こちらの「空」も決してからっぽではないのだ。

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