2009年11月27日 (金) | 編集 |
クエンティン・タランティーノと言えば、嘗て一世を風靡したサブカル系B級エンターテイメントを再解釈し、オマージュたっぷりに自分の世界の中に再生産するのが一貫したスタイル。
アクの強い登場人物による意味が有るんだか無いんだかよくわからない膨大なセリフの応酬と、外連味たっぷりのバイオレンス映像で見せる作品群は、デビュー当時は新鮮だったものの、近年ではワルノリが少々鼻につき、ややマンネリ化していたのも事実。
その反省なのか、「イングロリアス・バスターズ」はいつものB級テイストをあえて抑えて、意外にも大作の風格(?)を持ち、それでいてタランティーノにしか撮りえない異色の戦争サスペンス映画になっている。
1941年、フランス。
ユダヤ人一家のドレフュス家がナチス親衛隊のランダー大佐(クリストフ・ヴァルツ)によって虐殺され、娘のショシャナ(メラニー・ロラン)だけが逃亡して生き残る。
数年後、エマニュエル・ミミューと名を変えて、パリで小さな映画館を経営しているショシャナは、ひょんな事からナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映を行う事になり、密かにナチスへの復讐を計画する。
同じ頃、イギリス情報部も、ドイツ人女スパイのハマーシュマルク(ダイアン・クルーガー)からプレミア上映の情報を得て、ドイツ映画の専門家であるヒコックス中尉(ミヒャエル・ファスベンダー)を、アメリカ人ゲリラ戦部隊“バスターズ”を率いるレイン大尉(ブラッド・ピット)の元へ送り込むのだが・・・
今回、タランティーノがオマージュを捧げるのは、彼の民族的なルーツでもある1978年のイタリア映画で、同名の英題を持つエンツォ・G・カステラッリ監督の「地獄のバスターズ」である。
もっとも、同タイトルとは言ってもリメイクではない。
オリジナルはアメリカ囚人部隊の活躍を描いたアクション映画で、設定にやや被るところがあるものの、本作に取り込まれた数多くの戦争映画やマカロニウェスタンの代表として名を冠されたという感じだ。
セルジオレオーネの「続・夕陽のガンマン」に大オマージュをささげた、キム・ジウン監督の限りなくリメイクに近い「グッド・バッド・ウィアード」とは、違ったコンセプトの作品なのだ。
ちなみに、カステラッリ監督はゲスト出演もしているようだ。
物語は五つの章に分かれ、第一章から第四章のそれぞれのエピソードで紹介されたモチーフが、ラストの第五章で大団円を迎える。
ぞれぞれの章は微妙にタッチが異なっており、例えばナチスのユダヤ人狩りを描いた冒頭の第一章はタイトル文字や音楽も含めて明確にマカロニウェスタン風。
サウンドにノイズまでのせているあたり、さすがに念入りだ。
洗濯物のシーツ越しに、ドイツ軍がやって来るのが見えるところなど、そのまま荒野から無法者がやって来るイメージに被る。
ちなみに、走ってるドイツ軍車両がカットが何度も変わっても同じ位置に見えるという、一見編集ミスみたいな事も、タランティーノ流の演出なんだろうな。
宣伝では、ブラッド・ピット扮するアルド・レイン大尉(この名前もマニアック!)が主役の様に見えるが、実際には第一章で殺されるユダヤ人一家の唯一の生き残りであるショシャナによる復讐劇が全体の中心となるので、実質的な主役はメラニー・ロラン演じるショシャナと言えるだろう。
第二章は以降は、レイン大尉率いるバスターズを描くエピソードや、エマニュエル・ミミューと名を変えてパリの映画館主となっているショシュナの元へ、ひょんな事からナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映の話が持ち込まれるエピソード、英国人の元映画評論家が地下のバーでのドイツ人女スパイのハマーシュマルクと接触するスリリングなエピソードが順に語られて、クライマックスのお膳立てが徐々に整ってゆく。
各エピソードは、一見すると直接の関係性が見えにくいのだが、綿密に伏線が張られており、それぞれで微妙に変えたタッチの効果もあってオムニバスを観るようなノリで楽しめる。
特にパリでのエピソードと地下のバーでの見事な掛け合いは、タランティーノにしてはかなり我を抑えた印象で、風格すら感じさせるのには驚かされた。
まあそうは言っても、バーのエピソードは彼の大好きなオチを迎えるし、いかにも重要そうなキャラクターがあっさりと死んだりするのも、いかにもタランティーノらしいのだけど。
そして、クライマックスのプレミア上映で、親衛隊のランダー大佐、レインたちバスターズ、そしてナチスへの復讐を狙うショシャナの思惑が入り乱れ、物語は一気に大団円になだれ込むことになるのだが、ここでの展開は正に超映画オタクのタランティーノならでは。
まさか映画によってナチスを滅ぼすなど、他の人間が思いつくとは思えない。
これは正に、タランティーノ流の「ニューシネマ・パラダイス」と言っても良いのではないだろうか。
史実完全無視の講談的なオチに見ればわかる様に、これは決してリアルな戦争映画ではなく、かといってやりたい放題のオバカ映画でもない。
今までも、数々のジャンルムービーを解体して自分の中に取り込んできたタランティーノらしく、この作品もイタリアのB級映画をベースとしながら、結果的にタランティーノ映画としか言えない物になっている。
彼は溢れんばかりの映画への情熱と、今までのキャリアで積み重ねてきた表現者としてのテクニックを、本作では抑制の効いた形でしっかりと形にすることに成功していると思う。
たぶん、今までの彼の語り口がどうも苦手という人でも、この作品は比較的観やすいだろうし、逆にコテコテのタランティーノ節が好みという人には、オバカ度の低いこの作品は多少薄味に感じるかもしれない。
いずれにしても、レイン大尉のラストのセリフは、観客への大胆な「最高傑作宣言」と受け取って良いだろう。
まあ皆がそう感じるかどうかはともかく、本作は色々な意味で、映画作家クエンティン・タランティーノの現時点での集大成であり、新たなステップと言える。
今回は、真っ赤なドレスが印象的だったメラニー・ロランのイメージで、美しい赤いカクテル「ルビー・カシス」をチョイス。
クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットを30mlと20mlタンブラーに注ぎ、さらにトニックウォーターを注いでステアする。
腹にもたれるタランティーノ映画の後は、優しくスッキリとした味わいのカクテルが良い。
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アクの強い登場人物による意味が有るんだか無いんだかよくわからない膨大なセリフの応酬と、外連味たっぷりのバイオレンス映像で見せる作品群は、デビュー当時は新鮮だったものの、近年ではワルノリが少々鼻につき、ややマンネリ化していたのも事実。
その反省なのか、「イングロリアス・バスターズ」はいつものB級テイストをあえて抑えて、意外にも大作の風格(?)を持ち、それでいてタランティーノにしか撮りえない異色の戦争サスペンス映画になっている。
1941年、フランス。
ユダヤ人一家のドレフュス家がナチス親衛隊のランダー大佐(クリストフ・ヴァルツ)によって虐殺され、娘のショシャナ(メラニー・ロラン)だけが逃亡して生き残る。
数年後、エマニュエル・ミミューと名を変えて、パリで小さな映画館を経営しているショシャナは、ひょんな事からナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映を行う事になり、密かにナチスへの復讐を計画する。
同じ頃、イギリス情報部も、ドイツ人女スパイのハマーシュマルク(ダイアン・クルーガー)からプレミア上映の情報を得て、ドイツ映画の専門家であるヒコックス中尉(ミヒャエル・ファスベンダー)を、アメリカ人ゲリラ戦部隊“バスターズ”を率いるレイン大尉(ブラッド・ピット)の元へ送り込むのだが・・・
今回、タランティーノがオマージュを捧げるのは、彼の民族的なルーツでもある1978年のイタリア映画で、同名の英題を持つエンツォ・G・カステラッリ監督の「地獄のバスターズ」である。
もっとも、同タイトルとは言ってもリメイクではない。
オリジナルはアメリカ囚人部隊の活躍を描いたアクション映画で、設定にやや被るところがあるものの、本作に取り込まれた数多くの戦争映画やマカロニウェスタンの代表として名を冠されたという感じだ。
セルジオレオーネの「続・夕陽のガンマン」に大オマージュをささげた、キム・ジウン監督の限りなくリメイクに近い「グッド・バッド・ウィアード」とは、違ったコンセプトの作品なのだ。
ちなみに、カステラッリ監督はゲスト出演もしているようだ。
物語は五つの章に分かれ、第一章から第四章のそれぞれのエピソードで紹介されたモチーフが、ラストの第五章で大団円を迎える。
ぞれぞれの章は微妙にタッチが異なっており、例えばナチスのユダヤ人狩りを描いた冒頭の第一章はタイトル文字や音楽も含めて明確にマカロニウェスタン風。
サウンドにノイズまでのせているあたり、さすがに念入りだ。
洗濯物のシーツ越しに、ドイツ軍がやって来るのが見えるところなど、そのまま荒野から無法者がやって来るイメージに被る。
ちなみに、走ってるドイツ軍車両がカットが何度も変わっても同じ位置に見えるという、一見編集ミスみたいな事も、タランティーノ流の演出なんだろうな。
宣伝では、ブラッド・ピット扮するアルド・レイン大尉(この名前もマニアック!)が主役の様に見えるが、実際には第一章で殺されるユダヤ人一家の唯一の生き残りであるショシャナによる復讐劇が全体の中心となるので、実質的な主役はメラニー・ロラン演じるショシャナと言えるだろう。
第二章は以降は、レイン大尉率いるバスターズを描くエピソードや、エマニュエル・ミミューと名を変えてパリの映画館主となっているショシュナの元へ、ひょんな事からナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映の話が持ち込まれるエピソード、英国人の元映画評論家が地下のバーでのドイツ人女スパイのハマーシュマルクと接触するスリリングなエピソードが順に語られて、クライマックスのお膳立てが徐々に整ってゆく。
各エピソードは、一見すると直接の関係性が見えにくいのだが、綿密に伏線が張られており、それぞれで微妙に変えたタッチの効果もあってオムニバスを観るようなノリで楽しめる。
特にパリでのエピソードと地下のバーでの見事な掛け合いは、タランティーノにしてはかなり我を抑えた印象で、風格すら感じさせるのには驚かされた。
まあそうは言っても、バーのエピソードは彼の大好きなオチを迎えるし、いかにも重要そうなキャラクターがあっさりと死んだりするのも、いかにもタランティーノらしいのだけど。
そして、クライマックスのプレミア上映で、親衛隊のランダー大佐、レインたちバスターズ、そしてナチスへの復讐を狙うショシャナの思惑が入り乱れ、物語は一気に大団円になだれ込むことになるのだが、ここでの展開は正に超映画オタクのタランティーノならでは。
まさか映画によってナチスを滅ぼすなど、他の人間が思いつくとは思えない。
これは正に、タランティーノ流の「ニューシネマ・パラダイス」と言っても良いのではないだろうか。
史実完全無視の講談的なオチに見ればわかる様に、これは決してリアルな戦争映画ではなく、かといってやりたい放題のオバカ映画でもない。
今までも、数々のジャンルムービーを解体して自分の中に取り込んできたタランティーノらしく、この作品もイタリアのB級映画をベースとしながら、結果的にタランティーノ映画としか言えない物になっている。
彼は溢れんばかりの映画への情熱と、今までのキャリアで積み重ねてきた表現者としてのテクニックを、本作では抑制の効いた形でしっかりと形にすることに成功していると思う。
たぶん、今までの彼の語り口がどうも苦手という人でも、この作品は比較的観やすいだろうし、逆にコテコテのタランティーノ節が好みという人には、オバカ度の低いこの作品は多少薄味に感じるかもしれない。
いずれにしても、レイン大尉のラストのセリフは、観客への大胆な「最高傑作宣言」と受け取って良いだろう。
まあ皆がそう感じるかどうかはともかく、本作は色々な意味で、映画作家クエンティン・タランティーノの現時点での集大成であり、新たなステップと言える。
今回は、真っ赤なドレスが印象的だったメラニー・ロランのイメージで、美しい赤いカクテル「ルビー・カシス」をチョイス。
クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットを30mlと20mlタンブラーに注ぎ、さらにトニックウォーターを注いでステアする。
腹にもたれるタランティーノ映画の後は、優しくスッキリとした味わいのカクテルが良い。

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2009年11月20日 (金) | 編集 |
「Disney's クリスマス・キャロル」は、デジタルアニメーション映画の世界で、独自のスタイルを追求しているロバート・ゼメキス監督による最新作。
ホリデーシーズンの定番中の定番、ディケンズの「クリスマス・キャロル」の映画化である。
ジム・キャリーが主人公のスクルージを始め複数のキャラクターを演じるなど、やはりクリスマスを題材にトム・ハンクスが一人五役を演じた2004年の「ポーラー・エクスプレス」を彷彿とさせる。
2億ドルの巨費を投じた映像の出来栄えも素晴らしく、見た目も美味しい豪華なクリスマスケーキの様に、ビジュアルと物語の両面で老若男女が楽しめる良作と言える。
凍てつく氷の様な心を持つエベネーザ・スクルージ(ジム・キャリー)は、ロンドンの下町に事務所を構え、書記のボブ・クラチット(ゲイリー・オールドマン)を薄給で雇い、強欲な商売で利益を上げ続けている。
愛情には無縁で金が全ての人生を送っているスクルージは、人々が訳も無く幸せそうに振舞うクリスマスが大嫌い。
甥っ子からのディナーへの招待も、恵まれない人々への寄付の願いも全て断ってしまう。
ところがイブの夜、彼の元へ嘗てのビジネスパートナーであるマーレイの幽霊がやってきて、これからスクルージの元に三人の精霊がやってくると告げる。
それは過去・現在・未来のクリスマスの精霊だというのだが・・・
クリスマスを題材にした文学は数多いが、1843年にイギリスで出版された「クリスマス・キャロル」はその中でも最も有名な作品と言って良いだろう。
映画やテレビなどで映像化された回数も数知れず、何と記録に残る最初の映像化は、映画の黎明期である1901年にまで遡るのだ。
キリスト教圏はもちろんのこと、日本人でも一度くらいは何らかの形で観た事、読んだ事のある物語なのではないかと思う。
まあ日本で言えば師走の定番「忠臣蔵」に匹敵するくらい、あまりにも有名な小説であり、今回の映画化も物語的には原作にかなり忠実な作りで、特に奇を衒って脚色された部分は無い。
お話その物は面白さの保障がついているような物なので、映画としての興味はやはり定番の物語をどのように映像化しているかという点になるだろうが、ロバート・ゼメキスは彼独自のデジタルアニメーションのスタイルをさらに進化させ、非常にゴージャスな新しい「クリスマス・キャロル」を作り出している。
現在のデジタルアニメーション、特に3DCGはピクサーに代表される漫画チックなカリカチュアを追及したキャラクターアニメーションと、実写映画のVFXに代表される徹底的なリアリズムにほぼ二極化しているが、ゼメキスは「ポーラー・エクスプレス」以来、そのどちらでも無い第三の道を歩んでいる様に思う。
簡単に言えば、フルCGによる現実にはあり得ないロケーションとカメラワークと、実写俳優によるハイレベルな演技力の融合である。
ピクサー作品などの場合、キャラクターの演技はアニメーターによって手付けされるが、こちらではパフォーマンスキャプチャという技術によって、細かな表情までもコピーされた俳優の演技がCGキャラクターに移し変えられる。
これにより、超一級の俳優の演技をそのままCGワールドに取り込む事が可能となり、本作でもジム・キャリーが少年から老人までの各年代のスクルージと、過去・現在・未来のクリスマスの精霊を全て一人で演じている他、ゲイリー・オールドマンやゼメキス作品では御馴染みのロビン・ライト・ペンらがそのパワフルな演技をデジタルキャラクターに提供している。
もちろん手付けによるアニメーションにもパフォーマンスキャプチャとは違った良さがあるし、演出的な考え方も異なってくると思うが、ピクサー型アニメーションがディズニー出身のジョン・ラセラーらによって、セルアニメの延長線上で発展してきたのに対し、こちらは実写出身のゼメキスが実写の延長上に作り上げてきたスタイルと言えるかもしれない。
またゼメキスはCGというツールを、テーマをストレートに語れる寓話的、神話的な世界を作り上げるのに向いていると考えているフシがあり、実写の考え方をベースとしながらも異世界感を感じさせる画作りも彼の作品の独自性を際立たせている。
その映像は、とにかく贅沢だ。
フルCG作品でも、実は引きの背景などはアナログなマットペインティグで処理している作品が多いのだが、これは一体どこまで作りこんでいるのか。
19世紀中ごろのロンドンを再現したビジュアルは見事で、特にスクルージの帰路にあわせてカメラがワンカットでロンドン中を縦横無尽に駆け抜けるシーンは圧巻。
これを作るだけでも、どれだけのマン&マシンパワーが必要になったのかを想像すると、なるほど2億ドルという巨額のバジェットも納得である。
演出的には立体上映に早くから取り組んできたゼメキスらしく、全体に立体である事を強く意識した演出がなされており、立体感そのものも「ポーラーエクスプレス」「ベオウルフ/呪われし勇者」からさらに進化が感じられ、観賞するなら3D立体上映版をお勧めする。
最近の映画に立体上映の作品が多いのは、どちらかというと海賊版防止のためであるので、立体版があっても演出的必然を感じない作品も少なくないが、これは間違いなくプラス料金を出しても立体版の方が楽しめるだろう。
「Disney's クリスマス・キャロル」は、誰もが知っている物語を、美しく神秘的な映像で再現したホリデーシーズンに相応しい豪華なファミリー映画である。
ディケンズの原作は、娯楽小説としても非常に良く出来ているが、なによりも良きキリスト教精神を表した優れた寓話で、普遍的なテーマ性を持つ。
産業革命による資本主義の無秩序な拡大によって、急激に持てる者と持たざる者の間の格差が広まっていた当時のイギリス社会に、クリスマスの寓話を通して慈善と友愛の精神を訴えた物語は、出版されてから160年以上を経た現在も、その存在意義は薄れるどころかむしろ高まっているように思える。
貧富の差が無く「世界一成功した社会主義国」と言われていたのも今は昔、いつの間にかOECD加盟国中で、国民の貧困率がワースト4位にまでなってしまった格差社会日本においても、この作品の提示するテーマは十分な説得力を持つだろう。
はたして、この国にいる沢山の「スクルージ」の元に、クリスマスの精霊はやってくるのだろうか。
今回はクリスマスに飲みたい華やかな酒。
カリフォルニアはアンダーソンヴァレー産のスパークリング「シャッフェンベルガー・ブリュット/カリフォルニアスパークリング」をチョイス。
ホワイトハウスのディナーでもしばしば提供される、アメリカを代表するスパークリングの一つであり、相対的に値段は高めだが、同程度のシャンパーニュに比べれば遥にコストパフォーマンスは高い。
はじける泡と余韻のある複雑でフルーティなテイストは、クリスマスの夜を盛り上げてくれるだろう。
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ホリデーシーズンの定番中の定番、ディケンズの「クリスマス・キャロル」の映画化である。
ジム・キャリーが主人公のスクルージを始め複数のキャラクターを演じるなど、やはりクリスマスを題材にトム・ハンクスが一人五役を演じた2004年の「ポーラー・エクスプレス」を彷彿とさせる。
2億ドルの巨費を投じた映像の出来栄えも素晴らしく、見た目も美味しい豪華なクリスマスケーキの様に、ビジュアルと物語の両面で老若男女が楽しめる良作と言える。
凍てつく氷の様な心を持つエベネーザ・スクルージ(ジム・キャリー)は、ロンドンの下町に事務所を構え、書記のボブ・クラチット(ゲイリー・オールドマン)を薄給で雇い、強欲な商売で利益を上げ続けている。
愛情には無縁で金が全ての人生を送っているスクルージは、人々が訳も無く幸せそうに振舞うクリスマスが大嫌い。
甥っ子からのディナーへの招待も、恵まれない人々への寄付の願いも全て断ってしまう。
ところがイブの夜、彼の元へ嘗てのビジネスパートナーであるマーレイの幽霊がやってきて、これからスクルージの元に三人の精霊がやってくると告げる。
それは過去・現在・未来のクリスマスの精霊だというのだが・・・
クリスマスを題材にした文学は数多いが、1843年にイギリスで出版された「クリスマス・キャロル」はその中でも最も有名な作品と言って良いだろう。
映画やテレビなどで映像化された回数も数知れず、何と記録に残る最初の映像化は、映画の黎明期である1901年にまで遡るのだ。
キリスト教圏はもちろんのこと、日本人でも一度くらいは何らかの形で観た事、読んだ事のある物語なのではないかと思う。
まあ日本で言えば師走の定番「忠臣蔵」に匹敵するくらい、あまりにも有名な小説であり、今回の映画化も物語的には原作にかなり忠実な作りで、特に奇を衒って脚色された部分は無い。
お話その物は面白さの保障がついているような物なので、映画としての興味はやはり定番の物語をどのように映像化しているかという点になるだろうが、ロバート・ゼメキスは彼独自のデジタルアニメーションのスタイルをさらに進化させ、非常にゴージャスな新しい「クリスマス・キャロル」を作り出している。
現在のデジタルアニメーション、特に3DCGはピクサーに代表される漫画チックなカリカチュアを追及したキャラクターアニメーションと、実写映画のVFXに代表される徹底的なリアリズムにほぼ二極化しているが、ゼメキスは「ポーラー・エクスプレス」以来、そのどちらでも無い第三の道を歩んでいる様に思う。
簡単に言えば、フルCGによる現実にはあり得ないロケーションとカメラワークと、実写俳優によるハイレベルな演技力の融合である。
ピクサー作品などの場合、キャラクターの演技はアニメーターによって手付けされるが、こちらではパフォーマンスキャプチャという技術によって、細かな表情までもコピーされた俳優の演技がCGキャラクターに移し変えられる。
これにより、超一級の俳優の演技をそのままCGワールドに取り込む事が可能となり、本作でもジム・キャリーが少年から老人までの各年代のスクルージと、過去・現在・未来のクリスマスの精霊を全て一人で演じている他、ゲイリー・オールドマンやゼメキス作品では御馴染みのロビン・ライト・ペンらがそのパワフルな演技をデジタルキャラクターに提供している。
もちろん手付けによるアニメーションにもパフォーマンスキャプチャとは違った良さがあるし、演出的な考え方も異なってくると思うが、ピクサー型アニメーションがディズニー出身のジョン・ラセラーらによって、セルアニメの延長線上で発展してきたのに対し、こちらは実写出身のゼメキスが実写の延長上に作り上げてきたスタイルと言えるかもしれない。
またゼメキスはCGというツールを、テーマをストレートに語れる寓話的、神話的な世界を作り上げるのに向いていると考えているフシがあり、実写の考え方をベースとしながらも異世界感を感じさせる画作りも彼の作品の独自性を際立たせている。
その映像は、とにかく贅沢だ。
フルCG作品でも、実は引きの背景などはアナログなマットペインティグで処理している作品が多いのだが、これは一体どこまで作りこんでいるのか。
19世紀中ごろのロンドンを再現したビジュアルは見事で、特にスクルージの帰路にあわせてカメラがワンカットでロンドン中を縦横無尽に駆け抜けるシーンは圧巻。
これを作るだけでも、どれだけのマン&マシンパワーが必要になったのかを想像すると、なるほど2億ドルという巨額のバジェットも納得である。
演出的には立体上映に早くから取り組んできたゼメキスらしく、全体に立体である事を強く意識した演出がなされており、立体感そのものも「ポーラーエクスプレス」「ベオウルフ/呪われし勇者」からさらに進化が感じられ、観賞するなら3D立体上映版をお勧めする。
最近の映画に立体上映の作品が多いのは、どちらかというと海賊版防止のためであるので、立体版があっても演出的必然を感じない作品も少なくないが、これは間違いなくプラス料金を出しても立体版の方が楽しめるだろう。
「Disney's クリスマス・キャロル」は、誰もが知っている物語を、美しく神秘的な映像で再現したホリデーシーズンに相応しい豪華なファミリー映画である。
ディケンズの原作は、娯楽小説としても非常に良く出来ているが、なによりも良きキリスト教精神を表した優れた寓話で、普遍的なテーマ性を持つ。
産業革命による資本主義の無秩序な拡大によって、急激に持てる者と持たざる者の間の格差が広まっていた当時のイギリス社会に、クリスマスの寓話を通して慈善と友愛の精神を訴えた物語は、出版されてから160年以上を経た現在も、その存在意義は薄れるどころかむしろ高まっているように思える。
貧富の差が無く「世界一成功した社会主義国」と言われていたのも今は昔、いつの間にかOECD加盟国中で、国民の貧困率がワースト4位にまでなってしまった格差社会日本においても、この作品の提示するテーマは十分な説得力を持つだろう。
はたして、この国にいる沢山の「スクルージ」の元に、クリスマスの精霊はやってくるのだろうか。
今回はクリスマスに飲みたい華やかな酒。
カリフォルニアはアンダーソンヴァレー産のスパークリング「シャッフェンベルガー・ブリュット/カリフォルニアスパークリング」をチョイス。
ホワイトハウスのディナーでもしばしば提供される、アメリカを代表するスパークリングの一つであり、相対的に値段は高めだが、同程度のシャンパーニュに比べれば遥にコストパフォーマンスは高い。
はじける泡と余韻のある複雑でフルーティなテイストは、クリスマスの夜を盛り上げてくれるだろう。

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2009年11月17日 (火) | 編集 |
「八月のクリスマス」の、ホ・ジノ監督によるラブストーリー。
主演は「私の頭の中の消しゴム」でブレイクし、最近では「グッド・バッド・ウィアード」のガンマン役も記憶に新しいチョン・ウソン。
中国は四川省の美しい古都・成都を舞台にした、韓国人男性と中国人女性の恋は、お互いを深く思いやる繊細な距離感が絶妙だ。
建設機械メーカーに勤めるドンハ(チョン・ウソン)は、出張で四川省成都へやって来る。
唐代の詩聖、杜甫を記念する杜甫草堂を訪れたドンハは、そこで懐かしい顔を見つける。
外国人観光客に草堂をガイドしていたのは、ドンハがアメリカに留学していた時代の思い出の女性メイ(カオ・ユアンユアン)だった。
十年ぶりに出会った二人は、再会を祝して乾杯し、嘗ての淡い恋心を蘇らせてゆく。
だが、お互いの知らない長い歳月は、二人の間に簡単には越えられない壁を作っていた・・・
ホ・ジノと言えば、惹かれあう男女の心の機微を、深い映画的言語で感じさせてくれる名手だが、今回はなんとも設定が上手い。
身も蓋も無い言い方をすれば、これは中年にさしかかろうとする嘗て友達以上恋人未満だった男女が再会し、若き日の焼けぼっくりに火がついたという、何と言う事はない話だ。
だが、彼らが国籍の違う元留学生同士で、二人の間の会話は互いにとって母国語でない英語。
東洋人が英語で演じるラブストーリーというのも新鮮だが、英語で会話することで、二人の間に微妙な距離感が作られ、互いの本心にダイレクトにたどり着けない恋愛のスリルみたいなものが増幅されて表現されている。
二人の過去の関係が過剰に説明されず、適度な曖昧さを保っているのも良い。
結果先の展開が読みにくく、物語を想像力で楽しむ余地が残されている。
舞台となる成都の美しいロケーション、物語のアクセントとして巧みに組み込まれた唐代の詩聖・杜甫の詩の使い方も印象的。
主人公のドンハは元詩人志望という設定があり、本作の原題「好雨時節」は、劇中でも紹介される杜甫の詩「春夜喜節」の一節「好雨知時節 当春乃発生」からとられている。
「良い雨は降るべき時を知り、春に降り万物を蘇生させる」という意味だが、映画を通してこの詩を解釈すると少し意味深。
なぜなら、この物語は単に昔の恋が蘇るだけではなく、深く傷ついた一つの心が、優しい涙雨によって再生する物語でもあるのだ。
それは四川省を一年前に襲った大地震にまつわる話で、静かな物語はここで大きく動く事になる。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、本作は舞台装置と物語の関係性が非常に細かく考えられており、全体にホ・ジノのストーリーテラーとしての技術が大きく進化してる事を感じさせる。
主人公の二人を演じるチョン・ウソンとカオ・ユアンユアンは、過ぎ去った青春への渇望と、お互いの領域へ今一歩踏み出せないもどかしさを感じさせて好演。
チョン・ウソンは今までのナルシスティックな役柄と比べると、ずいぶんと落ち着いたキャラクターだが、本作では役者として演技の幅を見せる。
メイを演じるカオ・ユアンユアンは私にとっては初めて見る役者さんだが、とてもキュートな人で芝居も上手く、思わずファンになってしまった。
映画は殆どこの二人が出ずっぱりなのだが、ドンハの会社の成都支社長を演じるキム・サンホがコミックリリーフとしてオイシイところを持ってゆく。
「きみに微笑む雨」は映画的な詩情もあり、何よりもホ・ジノのテクニックが光る、良く出来たラブストーリーだと思う。
スローで繊細な独自のタッチを残しながら、凝った設定と巧みなストーリーテリングのロジックによって適度な抑揚を作り、観る者を飽きさせない。
観客は2時間の間、ゆったりとした時間の流れの中で、美しい物語に浸ることが出来る。
ただ私はホ・ジノがテクニックと引き換えに、「八月のクリスマス」で見せた鮮烈な輝きを少しずつ失っている様にも思う。
物語の巧みさと完成度の高さは、別の言葉で言えば作家ホ・ジノの中で「良き物」として完成し、作品を観た観客の反応までをも予測したような予定調和の世界ともいえる。
ここには「八月のクリスマス」の頃の様な、作者の作為を感じさせない愚直なまでのストレートさ、ストーリーの枠を超えて魂を揺さぶられる様な、静かに燃える情念は見えない。
特に物語がメイの抱える影の部分に踏み込む終盤は、良くも悪くも物語から曖昧さが取り払われ、観客の欲しがるインフォメーションを全て描写してしまうのだ。
例えば、以前のホ・ジノならば、明確にイメージを固定する様な、この映画のラストは撮らなかっただろう。
ドンハからの手紙が届き、メイの傍らにそれまでの物語の中で印象的なモチーフとして言葉だけで語られていた黄色い自転車の現物が置いてあれば、それでもう十分だったはず。
この映画のラストが「観客の観たい物」である事は間違いないだろうが、あまりにも判りやすく作られたオチに、ややテレビ的な印象を持ってしまったのも、また事実なのである。
今回は、四川省のスピリッツ「五粮醇」をチョイス。
その名の通り、こうりゃん、もち米、うるち米、とうもろこし、小麦の五種類の原料から作られる蒸留酒で、45度と結構強い。
そのわりに印象はマイルドなので杯が進み、いつの間にか相当な量を飲んで酔っ払ってしまう。
内面のパワーを優しい外観で隠した四川美人の様なお酒だ。
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主演は「私の頭の中の消しゴム」でブレイクし、最近では「グッド・バッド・ウィアード」のガンマン役も記憶に新しいチョン・ウソン。
中国は四川省の美しい古都・成都を舞台にした、韓国人男性と中国人女性の恋は、お互いを深く思いやる繊細な距離感が絶妙だ。
建設機械メーカーに勤めるドンハ(チョン・ウソン)は、出張で四川省成都へやって来る。
唐代の詩聖、杜甫を記念する杜甫草堂を訪れたドンハは、そこで懐かしい顔を見つける。
外国人観光客に草堂をガイドしていたのは、ドンハがアメリカに留学していた時代の思い出の女性メイ(カオ・ユアンユアン)だった。
十年ぶりに出会った二人は、再会を祝して乾杯し、嘗ての淡い恋心を蘇らせてゆく。
だが、お互いの知らない長い歳月は、二人の間に簡単には越えられない壁を作っていた・・・
ホ・ジノと言えば、惹かれあう男女の心の機微を、深い映画的言語で感じさせてくれる名手だが、今回はなんとも設定が上手い。
身も蓋も無い言い方をすれば、これは中年にさしかかろうとする嘗て友達以上恋人未満だった男女が再会し、若き日の焼けぼっくりに火がついたという、何と言う事はない話だ。
だが、彼らが国籍の違う元留学生同士で、二人の間の会話は互いにとって母国語でない英語。
東洋人が英語で演じるラブストーリーというのも新鮮だが、英語で会話することで、二人の間に微妙な距離感が作られ、互いの本心にダイレクトにたどり着けない恋愛のスリルみたいなものが増幅されて表現されている。
二人の過去の関係が過剰に説明されず、適度な曖昧さを保っているのも良い。
結果先の展開が読みにくく、物語を想像力で楽しむ余地が残されている。
舞台となる成都の美しいロケーション、物語のアクセントとして巧みに組み込まれた唐代の詩聖・杜甫の詩の使い方も印象的。
主人公のドンハは元詩人志望という設定があり、本作の原題「好雨時節」は、劇中でも紹介される杜甫の詩「春夜喜節」の一節「好雨知時節 当春乃発生」からとられている。
「良い雨は降るべき時を知り、春に降り万物を蘇生させる」という意味だが、映画を通してこの詩を解釈すると少し意味深。
なぜなら、この物語は単に昔の恋が蘇るだけではなく、深く傷ついた一つの心が、優しい涙雨によって再生する物語でもあるのだ。
それは四川省を一年前に襲った大地震にまつわる話で、静かな物語はここで大きく動く事になる。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、本作は舞台装置と物語の関係性が非常に細かく考えられており、全体にホ・ジノのストーリーテラーとしての技術が大きく進化してる事を感じさせる。
主人公の二人を演じるチョン・ウソンとカオ・ユアンユアンは、過ぎ去った青春への渇望と、お互いの領域へ今一歩踏み出せないもどかしさを感じさせて好演。
チョン・ウソンは今までのナルシスティックな役柄と比べると、ずいぶんと落ち着いたキャラクターだが、本作では役者として演技の幅を見せる。
メイを演じるカオ・ユアンユアンは私にとっては初めて見る役者さんだが、とてもキュートな人で芝居も上手く、思わずファンになってしまった。
映画は殆どこの二人が出ずっぱりなのだが、ドンハの会社の成都支社長を演じるキム・サンホがコミックリリーフとしてオイシイところを持ってゆく。
「きみに微笑む雨」は映画的な詩情もあり、何よりもホ・ジノのテクニックが光る、良く出来たラブストーリーだと思う。
スローで繊細な独自のタッチを残しながら、凝った設定と巧みなストーリーテリングのロジックによって適度な抑揚を作り、観る者を飽きさせない。
観客は2時間の間、ゆったりとした時間の流れの中で、美しい物語に浸ることが出来る。
ただ私はホ・ジノがテクニックと引き換えに、「八月のクリスマス」で見せた鮮烈な輝きを少しずつ失っている様にも思う。
物語の巧みさと完成度の高さは、別の言葉で言えば作家ホ・ジノの中で「良き物」として完成し、作品を観た観客の反応までをも予測したような予定調和の世界ともいえる。
ここには「八月のクリスマス」の頃の様な、作者の作為を感じさせない愚直なまでのストレートさ、ストーリーの枠を超えて魂を揺さぶられる様な、静かに燃える情念は見えない。
特に物語がメイの抱える影の部分に踏み込む終盤は、良くも悪くも物語から曖昧さが取り払われ、観客の欲しがるインフォメーションを全て描写してしまうのだ。
例えば、以前のホ・ジノならば、明確にイメージを固定する様な、この映画のラストは撮らなかっただろう。
ドンハからの手紙が届き、メイの傍らにそれまでの物語の中で印象的なモチーフとして言葉だけで語られていた黄色い自転車の現物が置いてあれば、それでもう十分だったはず。
この映画のラストが「観客の観たい物」である事は間違いないだろうが、あまりにも判りやすく作られたオチに、ややテレビ的な印象を持ってしまったのも、また事実なのである。
今回は、四川省のスピリッツ「五粮醇」をチョイス。
その名の通り、こうりゃん、もち米、うるち米、とうもろこし、小麦の五種類の原料から作られる蒸留酒で、45度と結構強い。
そのわりに印象はマイルドなので杯が進み、いつの間にか相当な量を飲んで酔っ払ってしまう。
内面のパワーを優しい外観で隠した四川美人の様なお酒だ。

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2009年11月12日 (木) | 編集 |
“KING OF POP”の置き土産。
今年の6月に急逝したマイケル・ジャクソンが、その最後のステージとして準備していた7月のロンドン公演「THIS IS IT」のメイキング・ドキュメンタリー。
「ハイスクール・ミュージカル」シリーズで知られるケニー・オルテガ監督が、舞台監督として自ら演出していた幻のステージを、100時間に及ぶ記録映像と本来ステージの背景で使われる予定だった3D版「スリラー」などの新作ミュージックビデオをミックスして構成している。
スターの死による特需を当て込んだあざとい急造品と侮る無かれ。
これはマイケル・ジャクソンという稀代のアーティストの知られざる一面を見せてくれ、尚且つ一流の物作りの面白さを十分に体感させてくれる、熱いドキュメンタリーの秀作である。
MJの全盛期に十代を過ごした私の世代にとって、彼はやはり比類なきスーパースター。
中学校の昼休みには、皆競ってムーンウォークの真似をしたものだったし、ビデオが普及しだした当時、初めて買ったPVも「スリラー」だった。
ジョン・ランディスが監督し、モンスター造形がリック・ベイカーという「狼男アメリカン」のコンビが手がけた「スリラー」は、ドラマ仕立てPVのパイオニアであり、短編映画としても秀逸な事から多くの映画ファンが注目した最初のPVだったと思う。
これ以降多くの作品が作られ、PVは一大映像産業にまでなったが、インパクトという点で「スリラー」を越える作品というのは未だにお目にかかっていない。
25年ぶりに3D映像として再現された、新しい「スリラー」の映像をバックに、激しいダンスを見せるMJは、実にエネルギッシュで格好良く、とても数日後に死んでしまうような人には見えない・・・。
おそらく、この作品に描かれるMJの姿は、多くの観客にとって新鮮な驚きをもたらしてくれるだろう
90年代の後半以降はスキャンダラスな話題ばかりで、傲慢でバブリーな奇人というイメージが定着してしまったMJだが、ここにいるのは物作りに真摯で、スタッフ一人一人にプロフェッショナルとして敬意を持って接する控えめなスーパースターだ。
ダンサーもミュージシャンも裏方のスタッフも、MJという偉大なアーティストと仕事をするのをとてもエキサイティングに感じ、心底彼とステージを作り上げるというプロセスを楽しんでいる様に見えるし、MJもまた彼らを信頼している様に見える。
もちろん、見せたくない部分は意図的に除いてあるのかもしれないが、その事が作品の評価を低める事は無いと思う。
これはジャーナリスティックな第三者視点で撮られた作品ではなく、あくまでも作り手側のメイキングであり、結果的にMJの追悼作品である。
この作品に妙に社会派ぶった批判的視点などファンは求めていないし、そんなものは過去の報道に散々出尽くしている。
ここで楽しむべきは誰もが知っているヒット曲の数々と、今や幻となったMJのラスト・パフォーマンス、そしてファンを楽しませるために、途方もないお金と手間のかかった物作りのプロセスだ。
ステージの全体像は、MJと舞台監督のケニー・オルテガが話し合いながら構成している感じだが、MJからスタッフへの指示が非常に具体的でわかりやすいのも興味深い。
物作りの現場において、イメージするものを的確に説明する能力は非常に重要だ。
まあ考えてみれば、これほど規模の大きなプロジェクトをあいまいなまま進めたら収拾がつかなくなってしまうだろうし、逆に言えば創造のイメージを具体的に示せる人だからこそ、これだけの成功を収める事が出来たと言えるだろう。
スタッフの立場から観たら、要求水準は高いが非常に仕事のしやすい人だったのではないだろうか。
それにしても、この作品を観ていると、永遠に未完のままとなったロンドンでの「THIS IS IT」が観たくてたまらなくなる。
凝ったステージセットに観客を驚かせる様々なギミック。
3D版「スリラー」を始め、ステージの背景様に作られた映像の数だけでも膨大で、下手なハリウッド映画顔負けの製作費かかっていそうだ。
超一流のスタッフたちが作り上げる、壮大なイリュージョンの世界に目を奪われ、リハーサルでこれなのだから、一体完成形はどれだけスゴイのだろうとワクワクする。
本編が存在しないメイキングというと、テリー・ギリアムの「ドン・キホーテを殺した男」のメイキング、「ロスト・イン・ラ・マンチャ」が有名だが、少なくともまだギリアムは生きているし、失敗に終った映画も彼の中の通過点として楽しむ事が出来る。
だが、MJがアーティストとしての長い旅路の終わりに用意した、「THIS IS IT」の、どんなにファンが願ったとしても、本編を観る事はもはや永遠に適わないという切なさは、過去に体験した事の無い感慨だった。
まあ救いとしては、このステージに打ち込んできた多くのスタッフ、ダンサー、ミュージシャンらの仕事が、本来あるべき形とは違うとは言え、日の目を見た事だろう。
彼らの情熱が、こうして多くの人の心に届いた事は喜ばしい。
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は、時代を駆け抜けた稀代のスーパースターからの素敵な、しかし少しだけ罪作りなラストプレゼントである。
MJファンにも、そうでない人にもテレビ画面ではなく、ライブ感のある映画館で観る事を強くお勧めする。
あっという間の2時間であった。
今回は環境問題に危機感を持っていたMJが喜びそうなワイン、モーレル・ヴドーの「リヴィング・アース・シャルドネ2007」をチョイス。
オーガニック栽培の葡萄を使った、地球と体に優しい一本である。
非常にスッキリとした飲みやすいワインで、今宵は「アース・ソング」を聞きながらこれを飲んで彼を追悼したい。
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今年の6月に急逝したマイケル・ジャクソンが、その最後のステージとして準備していた7月のロンドン公演「THIS IS IT」のメイキング・ドキュメンタリー。
「ハイスクール・ミュージカル」シリーズで知られるケニー・オルテガ監督が、舞台監督として自ら演出していた幻のステージを、100時間に及ぶ記録映像と本来ステージの背景で使われる予定だった3D版「スリラー」などの新作ミュージックビデオをミックスして構成している。
スターの死による特需を当て込んだあざとい急造品と侮る無かれ。
これはマイケル・ジャクソンという稀代のアーティストの知られざる一面を見せてくれ、尚且つ一流の物作りの面白さを十分に体感させてくれる、熱いドキュメンタリーの秀作である。
MJの全盛期に十代を過ごした私の世代にとって、彼はやはり比類なきスーパースター。
中学校の昼休みには、皆競ってムーンウォークの真似をしたものだったし、ビデオが普及しだした当時、初めて買ったPVも「スリラー」だった。
ジョン・ランディスが監督し、モンスター造形がリック・ベイカーという「狼男アメリカン」のコンビが手がけた「スリラー」は、ドラマ仕立てPVのパイオニアであり、短編映画としても秀逸な事から多くの映画ファンが注目した最初のPVだったと思う。
これ以降多くの作品が作られ、PVは一大映像産業にまでなったが、インパクトという点で「スリラー」を越える作品というのは未だにお目にかかっていない。
25年ぶりに3D映像として再現された、新しい「スリラー」の映像をバックに、激しいダンスを見せるMJは、実にエネルギッシュで格好良く、とても数日後に死んでしまうような人には見えない・・・。
おそらく、この作品に描かれるMJの姿は、多くの観客にとって新鮮な驚きをもたらしてくれるだろう
90年代の後半以降はスキャンダラスな話題ばかりで、傲慢でバブリーな奇人というイメージが定着してしまったMJだが、ここにいるのは物作りに真摯で、スタッフ一人一人にプロフェッショナルとして敬意を持って接する控えめなスーパースターだ。
ダンサーもミュージシャンも裏方のスタッフも、MJという偉大なアーティストと仕事をするのをとてもエキサイティングに感じ、心底彼とステージを作り上げるというプロセスを楽しんでいる様に見えるし、MJもまた彼らを信頼している様に見える。
もちろん、見せたくない部分は意図的に除いてあるのかもしれないが、その事が作品の評価を低める事は無いと思う。
これはジャーナリスティックな第三者視点で撮られた作品ではなく、あくまでも作り手側のメイキングであり、結果的にMJの追悼作品である。
この作品に妙に社会派ぶった批判的視点などファンは求めていないし、そんなものは過去の報道に散々出尽くしている。
ここで楽しむべきは誰もが知っているヒット曲の数々と、今や幻となったMJのラスト・パフォーマンス、そしてファンを楽しませるために、途方もないお金と手間のかかった物作りのプロセスだ。
ステージの全体像は、MJと舞台監督のケニー・オルテガが話し合いながら構成している感じだが、MJからスタッフへの指示が非常に具体的でわかりやすいのも興味深い。
物作りの現場において、イメージするものを的確に説明する能力は非常に重要だ。
まあ考えてみれば、これほど規模の大きなプロジェクトをあいまいなまま進めたら収拾がつかなくなってしまうだろうし、逆に言えば創造のイメージを具体的に示せる人だからこそ、これだけの成功を収める事が出来たと言えるだろう。
スタッフの立場から観たら、要求水準は高いが非常に仕事のしやすい人だったのではないだろうか。
それにしても、この作品を観ていると、永遠に未完のままとなったロンドンでの「THIS IS IT」が観たくてたまらなくなる。
凝ったステージセットに観客を驚かせる様々なギミック。
3D版「スリラー」を始め、ステージの背景様に作られた映像の数だけでも膨大で、下手なハリウッド映画顔負けの製作費かかっていそうだ。
超一流のスタッフたちが作り上げる、壮大なイリュージョンの世界に目を奪われ、リハーサルでこれなのだから、一体完成形はどれだけスゴイのだろうとワクワクする。
本編が存在しないメイキングというと、テリー・ギリアムの「ドン・キホーテを殺した男」のメイキング、「ロスト・イン・ラ・マンチャ」が有名だが、少なくともまだギリアムは生きているし、失敗に終った映画も彼の中の通過点として楽しむ事が出来る。
だが、MJがアーティストとしての長い旅路の終わりに用意した、「THIS IS IT」の、どんなにファンが願ったとしても、本編を観る事はもはや永遠に適わないという切なさは、過去に体験した事の無い感慨だった。
まあ救いとしては、このステージに打ち込んできた多くのスタッフ、ダンサー、ミュージシャンらの仕事が、本来あるべき形とは違うとは言え、日の目を見た事だろう。
彼らの情熱が、こうして多くの人の心に届いた事は喜ばしい。
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は、時代を駆け抜けた稀代のスーパースターからの素敵な、しかし少しだけ罪作りなラストプレゼントである。
MJファンにも、そうでない人にもテレビ画面ではなく、ライブ感のある映画館で観る事を強くお勧めする。
あっという間の2時間であった。
今回は環境問題に危機感を持っていたMJが喜びそうなワイン、モーレル・ヴドーの「リヴィング・アース・シャルドネ2007」をチョイス。
オーガニック栽培の葡萄を使った、地球と体に優しい一本である。
非常にスッキリとした飲みやすいワインで、今宵は「アース・ソング」を聞きながらこれを飲んで彼を追悼したい。

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2009年11月07日 (土) | 編集 |
猫ちゃんはやめてぇ~!
・・・いやはや、自らの映画的記憶の故郷へと回帰したサム・ライミの、何と楽しげな事か。
冒頭の一昔前のユニバーサル映画のマークから、怪しげな悪魔祓い、「Drag me to hell」といういかにもなタイトルまでの一連の流れで、もうこの映画の狙いは明確だ。
リアルに怖がろうなんて思ってはいけない。
これは大音響でびっくりさせ、悪趣味なやり過ぎ描写が笑いを誘う、古典的なB級ホラーの現代版、あるいはパロディと言っても良いだろう。
さすがに出世作「死霊のはらわた」ほどどぎつい描写はないが、おそらくライミが子供の頃に親しんだのであろう6、70年代コミックホラー調のテイストはテンポも快調で、遊園地のファンハウスのノリで一時間半楽しめば良い。
クリスティン・ブラウン(アリソン・ローマン)は、昇進を間近に控えた銀行の融資担当者。
ある日彼女は、ジプシーの老婆、ガーナッシュ婦人(ローナ・レイヴァー)からの住宅ローンの返済猶予の願いを却下する。
怒ったガーナッシュ婦人は、駐車場でクリスティンを襲撃し、彼女のボタンを奪うと不気味な呪文をつぶやく。
するとその日から、彼女の周囲には怪奇現象が続発する様になる。
クリスティンを霊視した霊媒のラム・ジャス(ディリープ・ラオ)は、彼女には強力な魔神ラミアの呪いがかけられており、三日後に魂を奪われるという・・・
実にライミらしい話である。
主人公のクリスティンは、一言で言えば「良い人」だ。
真面目でコンプレックスを抱え、小さな幸せを何とか掴もうと努力もしている。
だがそんな彼女が、ただ一度だけ無慈悲な選択をしてしまったばかりに、地獄へ続く恐怖の三日間に叩き落される事になる。
不条理な話ではあるものの、ホラー映画的には実に王道の展開である。
確か「死霊のはらわた」の一作目が日本公開されたときだと思うのだが、ライミの考えるホラー映画の三か条みたいなものが雑誌に紹介されていた。
そのうちの二つは忘れてしまったが、最後の一つは確か「善良な人は罰せられねばならない」だったような。
「3」で製作費がついに2億5千万ドルを越えた「スパイダーマン」の様な超大作を作り続けるのに疲れたのか、製作費3千万ドル程度の小品である本作は、色々な意味で原点回帰であり、「健全なサム・ライミ」なのだろう。
クリスティンを演じるアリソン・ローマンが良い。
奇麗な人なんだけど、どこか田舎っぽいイモ姉ちゃんの雰囲気があって、農家出身で昔太っていたというコンプレックスのある役にフィットしている。
元々この手の映画の主役というのは、メジャーの超大作の主役を張るにはちょっと・・・というくらいの容姿の人がちょうど良いもので、彼女は正にぴったり。
落ち込んでアイスクリームをバケツ食いする女なんていう古典的でステキなギャグが似合う女優なんて、なかなかお目にかかれるものではない。
叫びっぷりも良く、たぶんローマンにはホラーのオファーが殺到するだろう。
新スクリーミング・クィーンの誕生である。
彼女と、ローナ・レイヴァー扮する怪人ならぬ「怪婆」、ガーナッシュ婦人の駐車場バトルは正にライミ節が炸裂したイタ可笑しい見せ場になっている。
蹴られようが、ダッシュボードに激突しようが、顔面にホチキス喰らってもなお襲ってくる最強婆さんとの戦いは、殆ど懐かしの死霊VSアッシュの戦いの様だったよ(笑
日本映画の影響が見られるのも、Jホラーにも早くから着目し、「呪怨」のハリウッド版をプロデュースしたりしているホラーオタクのライミならでは。
この作品のアイディア自体はかなり以前に考えられていたらしいが、呪いに三日間というタイムリミットを設定した事、そして終盤に判明する呪いを解く方法と、それを知った主人公の葛藤の元ネタは、まず違いなく「リング」からの発想だろう。
ラミアの影に襲われるあたりは「スウィートホーム」か。(まあ影が襲って来る映画は他にもあったけど)
古今東西のホラー映画が、ライミの映画的記憶の中に、ごった煮的に表現されているのもこの映画の魅力で、この人は心底こういう映画が好きなんだというのが伝わってくる。
もっとも、個人的には大好きな作品だが、映画そのものは結構観る人を選ぶと思う。
勿論、単に暇つぶし目的の人がこの映画を観ても普通に面白いとは思うのだが、真に楽しめるのはかなり古典的なホラー映画を観込んでいるマニア。
これは決してストレートなホラー映画ではないし、ロッテントマトなどでの高評価はB級ホラーを良く知ってる人たちがマニアックに評価しているからだろう。
全米興行収入が4千万ドルと、評価のわりに平凡な結果なのが作品の性格を物語っていると思う。
その意味で、古典映画のファンの少ない日本では、なお更海外ほどの評価を得ることは難しいだろう。
熱烈な映画マニア、というかホラーマニアにこそお勧めの一本だ。
久々の古巣がよほど楽しかったのか、ライミの次回作は自主映画から数えて通算5作目となる「死霊のはらわた」のリメイクだという。
当初は監督しないと伝えられていたが、結局自身でメガホンを取る様だ。
どうやらアッシュは出てこない、旧作とは違った物語となるらしいが、2010年の公開を楽しみに待ちたい。
しかしこの酷い邦題は何とかならなかったのか。
「スペル」に「呪文」って意味があるのは確かだが、日本人の何%が理解できるのか?(苦笑
こんな邦題を考えるのもどうかしてるが、これでOKになってしまうのも信じがたい。
今の日本でこの手の作品のマーケットは期待できないにしても、もうちょっと宣伝で作品の魅力を伝えて欲しかった。
今回はラベルのイラストがライミの映画に出てきそうな、コンパスボックス社のスコッチウィスキー「ピートモンスター」をチョイス。
ピートの怪物が作り上げる美味しいウィスキー。
スモーキー&スパイシーながら、柔かいフルーティーさもあり、こちらは飲み手を選ばない良質な酒である。
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・・・いやはや、自らの映画的記憶の故郷へと回帰したサム・ライミの、何と楽しげな事か。
冒頭の一昔前のユニバーサル映画のマークから、怪しげな悪魔祓い、「Drag me to hell」といういかにもなタイトルまでの一連の流れで、もうこの映画の狙いは明確だ。
リアルに怖がろうなんて思ってはいけない。
これは大音響でびっくりさせ、悪趣味なやり過ぎ描写が笑いを誘う、古典的なB級ホラーの現代版、あるいはパロディと言っても良いだろう。
さすがに出世作「死霊のはらわた」ほどどぎつい描写はないが、おそらくライミが子供の頃に親しんだのであろう6、70年代コミックホラー調のテイストはテンポも快調で、遊園地のファンハウスのノリで一時間半楽しめば良い。
クリスティン・ブラウン(アリソン・ローマン)は、昇進を間近に控えた銀行の融資担当者。
ある日彼女は、ジプシーの老婆、ガーナッシュ婦人(ローナ・レイヴァー)からの住宅ローンの返済猶予の願いを却下する。
怒ったガーナッシュ婦人は、駐車場でクリスティンを襲撃し、彼女のボタンを奪うと不気味な呪文をつぶやく。
するとその日から、彼女の周囲には怪奇現象が続発する様になる。
クリスティンを霊視した霊媒のラム・ジャス(ディリープ・ラオ)は、彼女には強力な魔神ラミアの呪いがかけられており、三日後に魂を奪われるという・・・
実にライミらしい話である。
主人公のクリスティンは、一言で言えば「良い人」だ。
真面目でコンプレックスを抱え、小さな幸せを何とか掴もうと努力もしている。
だがそんな彼女が、ただ一度だけ無慈悲な選択をしてしまったばかりに、地獄へ続く恐怖の三日間に叩き落される事になる。
不条理な話ではあるものの、ホラー映画的には実に王道の展開である。
確か「死霊のはらわた」の一作目が日本公開されたときだと思うのだが、ライミの考えるホラー映画の三か条みたいなものが雑誌に紹介されていた。
そのうちの二つは忘れてしまったが、最後の一つは確か「善良な人は罰せられねばならない」だったような。
「3」で製作費がついに2億5千万ドルを越えた「スパイダーマン」の様な超大作を作り続けるのに疲れたのか、製作費3千万ドル程度の小品である本作は、色々な意味で原点回帰であり、「健全なサム・ライミ」なのだろう。
クリスティンを演じるアリソン・ローマンが良い。
奇麗な人なんだけど、どこか田舎っぽいイモ姉ちゃんの雰囲気があって、農家出身で昔太っていたというコンプレックスのある役にフィットしている。
元々この手の映画の主役というのは、メジャーの超大作の主役を張るにはちょっと・・・というくらいの容姿の人がちょうど良いもので、彼女は正にぴったり。
落ち込んでアイスクリームをバケツ食いする女なんていう古典的でステキなギャグが似合う女優なんて、なかなかお目にかかれるものではない。
叫びっぷりも良く、たぶんローマンにはホラーのオファーが殺到するだろう。
新スクリーミング・クィーンの誕生である。
彼女と、ローナ・レイヴァー扮する怪人ならぬ「怪婆」、ガーナッシュ婦人の駐車場バトルは正にライミ節が炸裂したイタ可笑しい見せ場になっている。
蹴られようが、ダッシュボードに激突しようが、顔面にホチキス喰らってもなお襲ってくる最強婆さんとの戦いは、殆ど懐かしの死霊VSアッシュの戦いの様だったよ(笑
日本映画の影響が見られるのも、Jホラーにも早くから着目し、「呪怨」のハリウッド版をプロデュースしたりしているホラーオタクのライミならでは。
この作品のアイディア自体はかなり以前に考えられていたらしいが、呪いに三日間というタイムリミットを設定した事、そして終盤に判明する呪いを解く方法と、それを知った主人公の葛藤の元ネタは、まず違いなく「リング」からの発想だろう。
ラミアの影に襲われるあたりは「スウィートホーム」か。(まあ影が襲って来る映画は他にもあったけど)
古今東西のホラー映画が、ライミの映画的記憶の中に、ごった煮的に表現されているのもこの映画の魅力で、この人は心底こういう映画が好きなんだというのが伝わってくる。
もっとも、個人的には大好きな作品だが、映画そのものは結構観る人を選ぶと思う。
勿論、単に暇つぶし目的の人がこの映画を観ても普通に面白いとは思うのだが、真に楽しめるのはかなり古典的なホラー映画を観込んでいるマニア。
これは決してストレートなホラー映画ではないし、ロッテントマトなどでの高評価はB級ホラーを良く知ってる人たちがマニアックに評価しているからだろう。
全米興行収入が4千万ドルと、評価のわりに平凡な結果なのが作品の性格を物語っていると思う。
その意味で、古典映画のファンの少ない日本では、なお更海外ほどの評価を得ることは難しいだろう。
熱烈な映画マニア、というかホラーマニアにこそお勧めの一本だ。
久々の古巣がよほど楽しかったのか、ライミの次回作は自主映画から数えて通算5作目となる「死霊のはらわた」のリメイクだという。
当初は監督しないと伝えられていたが、結局自身でメガホンを取る様だ。
どうやらアッシュは出てこない、旧作とは違った物語となるらしいが、2010年の公開を楽しみに待ちたい。
しかしこの酷い邦題は何とかならなかったのか。
「スペル」に「呪文」って意味があるのは確かだが、日本人の何%が理解できるのか?(苦笑
こんな邦題を考えるのもどうかしてるが、これでOKになってしまうのも信じがたい。
今の日本でこの手の作品のマーケットは期待できないにしても、もうちょっと宣伝で作品の魅力を伝えて欲しかった。
今回はラベルのイラストがライミの映画に出てきそうな、コンパスボックス社のスコッチウィスキー「ピートモンスター」をチョイス。
ピートの怪物が作り上げる美味しいウィスキー。
スモーキー&スパイシーながら、柔かいフルーティーさもあり、こちらは飲み手を選ばない良質な酒である。

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