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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2009年12月29日 (火) | 編集 |
日本も世界も、色々な意味で大きな変動期を迎えた2009年もそろそろ終わり。
昔から経済危機の時代には、映画が豊作になるといわれるが、そのジンクス通り2009年は昨年以上に優れた作品が多かった様に思う。
変わり行く世界と歩調を合わせるように、新しいチャレンジを試みる映画作家が目立ったのも今年の特徴で、ある者は作風を大きく変え、ある者は原点回帰し、またある者は新しい技術で映画の可能性を広げた。
ジャンル的に特に目立ったのは夢を具現化するアニメーション映画だろう。
ファンタジーからドキュメンタリーまで、様々なスタイルの優れたアニメーション映画が世界各国で作られた。
それでは、公開順に今年の「忘れられない映画」を振り返ってみたい。
「チェ 28歳の革命」 「チェ 39歳 別れの手紙」二部作は、スティーブン・ソダバーグ監督による骨太なチェ・ゲバラ論。
前後編4時間半の大作だが、二部作とした事でより人間ゲバラの内面が浮かび上がる構造となっている。
嘗て世界革命を目指した英雄は、2009年の激動の世界を果たしてどう見るのだろうか。
「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、前作の「ゾディアック」からガラリと作風を変えたデビッド・フィンチャー監督による異色のファンタジー。
80歳で生まれ、時と共に若返ってゆく主人公の人生は、切なく美しい一瞬の邂逅の連続だ。
一人の男の人生を、ファンタジーの手法で寓話的に描き出したのは、名手エリック・ロス。
物語のロジックが光る秀作であった。
「ウォッチメン」は、80年代末に生まれた伝説的なコミックス初の映像化。
パラレルワールドの冷戦時代という舞台装置、それぞれにメタファーとしての役割を持つキャラクターたちが織り成す物語は、リアルな現在へと続くユニークな歴史的視点を獲得している。
ザック・スナイダー監督のビジュアル演出が光る、重厚なSF大作だ。
「レッド・クリフ」二部作は、アクションテンコ盛り、お腹一杯のジョン・ウー版「三国志」だ。
ハリウッドへ活動拠点を移して以来、やや低迷している感のあったウーだが、今回は勝手知ったる中国大陸を舞台に、水を得た魚の様に躍動する。
意外にも物語の作り込みも細やかで、前後編5時間を飽きさせない。
今年は米国に並び立つ超大国として中国をクローズアップするG2論が盛んに語られたが、映画の世界でG2の出現を実感させる堂々たる大作だった。
「スラムドッグ$ミリオネア」は、ハリウッドとボリウッドの幸福なマリアージュ。
ムンバイのスラムを舞台とした社会派映画かと思いきや、これは愛と冒険、笑いと涙の正統派大娯楽映画。
ダニー・ボイル監督は、主人公ジャマールの疾走感溢れる人生に観客を感情移入させ、スクリーンと客席の一体化に成功している。
観客は、この御伽噺の様なサクセスストーリーに、世知辛い現実へのアンチテーゼとして喝采を送るのである。
「グラン・トリノ」は、クリント・イーストウッドからの大いなる遺言。
多くのチェンジを経験しつつある2009年のアメリカへの、オールドアメリカからの慈愛に溢れ示唆に富む寓話であった。
70代にして驚異的なペースで制作活動を続けるイーストウッドは、「チェンジリング」という優れた作品も残した。
願わくば、100歳まででも作品を作り続けて欲しい。
「チェイサー」は、新星ナ・ホンジン監督による超ヘビー級のクライム・スリラー。
風俗の女性ばかりを狙う猟奇殺人鬼vsワケアリな元刑事の緊迫した追撃戦は、我々を社会の底辺の人々が蠢く、巨大都市ソウルのダークサイドに誘う。
映画史上に残る、新人監督の鮮烈なデビュー作である。
「サマーウォーズ」は、夏休みに相応しい大家族ヴァーチャル・アドベンチャー。
日本の田舎の武家屋敷で、世界を救う戦いが密かに進行するというアイディアが秀逸。
安易なデジタル批判に持ってゆかず、デジタルだろうがアナログだろうが、結局最後に頼れるのは人間同士の絆というあたりも爽やかだ。
細田守監督の持ち味である細やかな日常描写が光る。
「3時10分、決断のとき」は、久々に登場した西部劇の秀作。
西部に名を轟かせる強盗団のボスと、コンプレックスを抱える平凡な農夫という二人の主人公の、男の誇りをかけた魂のドラマは、西部劇ならではの数々の見せ場とともに、観客の心に深い余韻を残す。
この作品の制作を長年切望していたジェームス・マンゴールド監督は、見事に西部劇ファンの期待に答えた。
「空気人形」は、色々な意味で痛みを伴う映画だ。
ダッチワイフののぞみから見た世界は、希薄な愛と虚無感を抱えた人間たちが風船の様に漂う。
切なく美しい、幻想の月島に凝縮されたのは、寓話的に捉えられた現在の縮図とも見える。
タイトルロールを演じるペ・ドゥナが素晴らしく、是枝裕和監督にとっても新境地と言える作品だろう。
「母なる証明」も、相当に痛く、容赦の無い映画だ。
デビュー作以来、毎回全く異なるジャンルに挑んで来たポン・ジュノ監督が今回選んだのは、ある種の心理サスペンスであり、人間を突き動かす最も強い感情である「愛」という概念に対する大胆な考察でもある。
意表を突く冒頭から、見事にその対となるラストカットに至るまで、観客は圧倒的な演出力でグイグイ引っ張られ、打ちのめされるのである。
「スペル」は、サム・ライミ久々の大バカホラーコメディ。
嘗ての「死霊のはらわた」シリーズにJホラーのエッセンスを取り混ぜ、やや上品にしたという感じの作品で、ホラーマニアを喜ばせる要素が詰まっている。
近年の「スパイダーマン」シリーズも、あれはあれで面白いけど、本作のノリノリの演出を見ると、やはりライミの映画作家としての原点はここなのだろうなと思わされる。
ホラー映画では、ハリウッド版たまみちゃんこと「エスター」もなかなかの仕上がりであった。
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は、時代の象徴となった偉大なアーティストの置き土産。
幻となったロンドン公演を、演出を勤めていたトニー・オルテガ監督が、可能な限り本番のイメージで構成したメイキングである。
スキャンダルでしかマイケル・ジャクソンを知らない世代を増えている中、この作品の予想外のヒットによって、アーティストとしての彼の一面が再評価されるとしたら嬉しい事だ。
何よりもスゴイのは、ジャクソン・ファイブ時代から数十年間に渡るヒット曲が奏でられるが、知らない曲が一つも無い!
「イングロリアス・バスターズ」は、タランティーノの映画愛が一杯詰まった新境地。
これまで、薀蓄の羅列になりがちで、やや鼻に付き始めていた彼の映画的な記憶が、今回は巧みに物語の中に融合されている。
勧善懲悪の講談的物語だが、タランティーノならではのテクニックも冴え、オチの付け方を含めてさすが映画バカならでは展開は楽しい。
「戦場でワルツを」は、イスラエルからやって来た異色のドキュメンタリー・アニメーション。
アリ・フォルマン監督が、自らの失った記憶を辿る、心理的なロードムービーであり、深層意識下の世界をアニメーションという手法で描いたのは秀逸だ。
悪夢的なアニメーションが、リアルに変わる瞬間は、ある程度予測していても強いインパクトを感じる。
「カールじいさんの空飛ぶ家」は、ピクサーアニメーションスタジオの記念すべき長編第10作目。
妻を亡くした老人の死への旅立ちが、突然現れた少年の乱入によって、新しい人生への冒険旅行へと大きく転換してゆくという構成は、いかにもピート・ドクターらしい。
二人の旅路を見守る作者の、優しい眼差しが印象的な作品だ。
ピクサー作品としては初めて立体版が用意されたが、同じディズニー配給のCGアニメーションの立体映像でも、ロバート・ゼメキスの「Disney'sクリスマス・キャロル」とは、考え方が180度違うのも面白かった。
「アバター」は、2009年の大トリを飾るに相応しい超大作。
ジェームス・キャメロン監督が創造した衛星パンドラの驚愕の世界は、我々に映画の新しい地平を垣間見せてくれた。
まるで自分が宇宙旅行をしているかの様な臨場感は、過去に経験した事の無い物で、シンプルなストーリーと判りやすいテーマを、徹底的に作りこまれた世界での“体験”によって伝えるというのは、映画の新しい表現手法として大いなる可能性を秘めている。
宇宙SFではJ・J・エイブラムスによって再生された「スター・トレック」も、センス・オブ・ワンダーを感じさせる快作だった。
ハリウッド映画は、出来の良し悪しはともかくとして、メジャー大作に続編物が目立ったのに対して、ある一家の心の風景を描いた「レイチェルの結婚」や、主演のミッキー・ロークのバックグラウンドをドキュメンタリー的に演出に取り込んだ「レスラー」など、個性派監督の小品に光る作品が多かった。
社会の変革期にあって、歴史や社会問題に目を向けた作品では、ケイト・ウィンスレットが素晴らしかった「愛を読むひと」や、ハリソン・フォードが珍しく社会派な役を演じた「正義のゆくえ I・C・E特別捜査官」などが印象に残る。
絶好調のケイト・ウィンスレットは、レオナルド・ディカプリオとの「タイタニック」コンビの「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」も良かったが、ロマンチックなラブストーリーを期待して来て、映画のあまりに容赦の無い内容に、地獄に突き落とされたようなカップル観客の表情の方が印象的だった。
容赦無しと言えば、やはり観客に媚びない韓国映画の鮮烈な輝きが記憶に残る年だったが、上記した二本以外にもキム・ジウンが思い入れたっぷりに作ったキムチ・ウェスタン「グッド・バッド・ウィアード」や、ホ・ジノのラブストーリー「きみに微笑む雨」など中堅若手が満遍なく良い仕事をしていた。
日本映画はヒット作に宣伝先行の空虚な作品が多かったが、紀里谷和明が物語に目覚めた「GOEMON」や、三池崇史のワルノリ映画「ヤッターマン」など、娯楽大作にも作家性の強い作品もあったのが救い。
全体にハリウッドや韓国映画と比べると、突出した作品が少なく、こちらは経済状態と比例して映画まで低調な年であったと言えるだろう。
さて、2010年はどんな映画と出会えるのだろう。
それでは皆さん、良いお年を。
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昔から経済危機の時代には、映画が豊作になるといわれるが、そのジンクス通り2009年は昨年以上に優れた作品が多かった様に思う。
変わり行く世界と歩調を合わせるように、新しいチャレンジを試みる映画作家が目立ったのも今年の特徴で、ある者は作風を大きく変え、ある者は原点回帰し、またある者は新しい技術で映画の可能性を広げた。
ジャンル的に特に目立ったのは夢を具現化するアニメーション映画だろう。
ファンタジーからドキュメンタリーまで、様々なスタイルの優れたアニメーション映画が世界各国で作られた。
それでは、公開順に今年の「忘れられない映画」を振り返ってみたい。
「チェ 28歳の革命」 「チェ 39歳 別れの手紙」二部作は、スティーブン・ソダバーグ監督による骨太なチェ・ゲバラ論。
前後編4時間半の大作だが、二部作とした事でより人間ゲバラの内面が浮かび上がる構造となっている。
嘗て世界革命を目指した英雄は、2009年の激動の世界を果たしてどう見るのだろうか。
「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」は、前作の「ゾディアック」からガラリと作風を変えたデビッド・フィンチャー監督による異色のファンタジー。
80歳で生まれ、時と共に若返ってゆく主人公の人生は、切なく美しい一瞬の邂逅の連続だ。
一人の男の人生を、ファンタジーの手法で寓話的に描き出したのは、名手エリック・ロス。
物語のロジックが光る秀作であった。
「ウォッチメン」は、80年代末に生まれた伝説的なコミックス初の映像化。
パラレルワールドの冷戦時代という舞台装置、それぞれにメタファーとしての役割を持つキャラクターたちが織り成す物語は、リアルな現在へと続くユニークな歴史的視点を獲得している。
ザック・スナイダー監督のビジュアル演出が光る、重厚なSF大作だ。
「レッド・クリフ」二部作は、アクションテンコ盛り、お腹一杯のジョン・ウー版「三国志」だ。
ハリウッドへ活動拠点を移して以来、やや低迷している感のあったウーだが、今回は勝手知ったる中国大陸を舞台に、水を得た魚の様に躍動する。
意外にも物語の作り込みも細やかで、前後編5時間を飽きさせない。
今年は米国に並び立つ超大国として中国をクローズアップするG2論が盛んに語られたが、映画の世界でG2の出現を実感させる堂々たる大作だった。
「スラムドッグ$ミリオネア」は、ハリウッドとボリウッドの幸福なマリアージュ。
ムンバイのスラムを舞台とした社会派映画かと思いきや、これは愛と冒険、笑いと涙の正統派大娯楽映画。
ダニー・ボイル監督は、主人公ジャマールの疾走感溢れる人生に観客を感情移入させ、スクリーンと客席の一体化に成功している。
観客は、この御伽噺の様なサクセスストーリーに、世知辛い現実へのアンチテーゼとして喝采を送るのである。
「グラン・トリノ」は、クリント・イーストウッドからの大いなる遺言。
多くのチェンジを経験しつつある2009年のアメリカへの、オールドアメリカからの慈愛に溢れ示唆に富む寓話であった。
70代にして驚異的なペースで制作活動を続けるイーストウッドは、「チェンジリング」という優れた作品も残した。
願わくば、100歳まででも作品を作り続けて欲しい。
「チェイサー」は、新星ナ・ホンジン監督による超ヘビー級のクライム・スリラー。
風俗の女性ばかりを狙う猟奇殺人鬼vsワケアリな元刑事の緊迫した追撃戦は、我々を社会の底辺の人々が蠢く、巨大都市ソウルのダークサイドに誘う。
映画史上に残る、新人監督の鮮烈なデビュー作である。
「サマーウォーズ」は、夏休みに相応しい大家族ヴァーチャル・アドベンチャー。
日本の田舎の武家屋敷で、世界を救う戦いが密かに進行するというアイディアが秀逸。
安易なデジタル批判に持ってゆかず、デジタルだろうがアナログだろうが、結局最後に頼れるのは人間同士の絆というあたりも爽やかだ。
細田守監督の持ち味である細やかな日常描写が光る。
「3時10分、決断のとき」は、久々に登場した西部劇の秀作。
西部に名を轟かせる強盗団のボスと、コンプレックスを抱える平凡な農夫という二人の主人公の、男の誇りをかけた魂のドラマは、西部劇ならではの数々の見せ場とともに、観客の心に深い余韻を残す。
この作品の制作を長年切望していたジェームス・マンゴールド監督は、見事に西部劇ファンの期待に答えた。
「空気人形」は、色々な意味で痛みを伴う映画だ。
ダッチワイフののぞみから見た世界は、希薄な愛と虚無感を抱えた人間たちが風船の様に漂う。
切なく美しい、幻想の月島に凝縮されたのは、寓話的に捉えられた現在の縮図とも見える。
タイトルロールを演じるペ・ドゥナが素晴らしく、是枝裕和監督にとっても新境地と言える作品だろう。
「母なる証明」も、相当に痛く、容赦の無い映画だ。
デビュー作以来、毎回全く異なるジャンルに挑んで来たポン・ジュノ監督が今回選んだのは、ある種の心理サスペンスであり、人間を突き動かす最も強い感情である「愛」という概念に対する大胆な考察でもある。
意表を突く冒頭から、見事にその対となるラストカットに至るまで、観客は圧倒的な演出力でグイグイ引っ張られ、打ちのめされるのである。
「スペル」は、サム・ライミ久々の大バカホラーコメディ。
嘗ての「死霊のはらわた」シリーズにJホラーのエッセンスを取り混ぜ、やや上品にしたという感じの作品で、ホラーマニアを喜ばせる要素が詰まっている。
近年の「スパイダーマン」シリーズも、あれはあれで面白いけど、本作のノリノリの演出を見ると、やはりライミの映画作家としての原点はここなのだろうなと思わされる。
ホラー映画では、ハリウッド版たまみちゃんこと「エスター」もなかなかの仕上がりであった。
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は、時代の象徴となった偉大なアーティストの置き土産。
幻となったロンドン公演を、演出を勤めていたトニー・オルテガ監督が、可能な限り本番のイメージで構成したメイキングである。
スキャンダルでしかマイケル・ジャクソンを知らない世代を増えている中、この作品の予想外のヒットによって、アーティストとしての彼の一面が再評価されるとしたら嬉しい事だ。
何よりもスゴイのは、ジャクソン・ファイブ時代から数十年間に渡るヒット曲が奏でられるが、知らない曲が一つも無い!
「イングロリアス・バスターズ」は、タランティーノの映画愛が一杯詰まった新境地。
これまで、薀蓄の羅列になりがちで、やや鼻に付き始めていた彼の映画的な記憶が、今回は巧みに物語の中に融合されている。
勧善懲悪の講談的物語だが、タランティーノならではのテクニックも冴え、オチの付け方を含めてさすが映画バカならでは展開は楽しい。
「戦場でワルツを」は、イスラエルからやって来た異色のドキュメンタリー・アニメーション。
アリ・フォルマン監督が、自らの失った記憶を辿る、心理的なロードムービーであり、深層意識下の世界をアニメーションという手法で描いたのは秀逸だ。
悪夢的なアニメーションが、リアルに変わる瞬間は、ある程度予測していても強いインパクトを感じる。
「カールじいさんの空飛ぶ家」は、ピクサーアニメーションスタジオの記念すべき長編第10作目。
妻を亡くした老人の死への旅立ちが、突然現れた少年の乱入によって、新しい人生への冒険旅行へと大きく転換してゆくという構成は、いかにもピート・ドクターらしい。
二人の旅路を見守る作者の、優しい眼差しが印象的な作品だ。
ピクサー作品としては初めて立体版が用意されたが、同じディズニー配給のCGアニメーションの立体映像でも、ロバート・ゼメキスの「Disney'sクリスマス・キャロル」とは、考え方が180度違うのも面白かった。
「アバター」は、2009年の大トリを飾るに相応しい超大作。
ジェームス・キャメロン監督が創造した衛星パンドラの驚愕の世界は、我々に映画の新しい地平を垣間見せてくれた。
まるで自分が宇宙旅行をしているかの様な臨場感は、過去に経験した事の無い物で、シンプルなストーリーと判りやすいテーマを、徹底的に作りこまれた世界での“体験”によって伝えるというのは、映画の新しい表現手法として大いなる可能性を秘めている。
宇宙SFではJ・J・エイブラムスによって再生された「スター・トレック」も、センス・オブ・ワンダーを感じさせる快作だった。
ハリウッド映画は、出来の良し悪しはともかくとして、メジャー大作に続編物が目立ったのに対して、ある一家の心の風景を描いた「レイチェルの結婚」や、主演のミッキー・ロークのバックグラウンドをドキュメンタリー的に演出に取り込んだ「レスラー」など、個性派監督の小品に光る作品が多かった。
社会の変革期にあって、歴史や社会問題に目を向けた作品では、ケイト・ウィンスレットが素晴らしかった「愛を読むひと」や、ハリソン・フォードが珍しく社会派な役を演じた「正義のゆくえ I・C・E特別捜査官」などが印象に残る。
絶好調のケイト・ウィンスレットは、レオナルド・ディカプリオとの「タイタニック」コンビの「レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで」も良かったが、ロマンチックなラブストーリーを期待して来て、映画のあまりに容赦の無い内容に、地獄に突き落とされたようなカップル観客の表情の方が印象的だった。
容赦無しと言えば、やはり観客に媚びない韓国映画の鮮烈な輝きが記憶に残る年だったが、上記した二本以外にもキム・ジウンが思い入れたっぷりに作ったキムチ・ウェスタン「グッド・バッド・ウィアード」や、ホ・ジノのラブストーリー「きみに微笑む雨」など中堅若手が満遍なく良い仕事をしていた。
日本映画はヒット作に宣伝先行の空虚な作品が多かったが、紀里谷和明が物語に目覚めた「GOEMON」や、三池崇史のワルノリ映画「ヤッターマン」など、娯楽大作にも作家性の強い作品もあったのが救い。
全体にハリウッドや韓国映画と比べると、突出した作品が少なく、こちらは経済状態と比例して映画まで低調な年であったと言えるだろう。
さて、2010年はどんな映画と出会えるのだろう。
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2009年12月27日 (日) | 編集 |
言葉が出ない・・・スゴ過ぎる。
「アバター」は、劇場用の長編映画としては「タイタニック」以来実に12年ぶりとなるジェームス・キャメロン監督の最新作。
正直なところ、キャメロンは「タイタニック」で燃え尽きてしまって、もう劇映画を撮らないのではないかと思っていた。
だが、この作品を観ると、なるほどこれは12年かかるかも・・・というか、毎回このクオリティを維持してくれるなら、12年に一回でも全然OKだ。
スピルバーグが「スターウォーズ以来、最も刺激的で驚くべきSF映画」と唸ったのも納得。
これは正に2009年、いや新ミレニアムの最初の10年を締めくくるに相応しい、途轍もない映画体験である。
地球から遠く離れた惑星系にある、緑の衛星パンドラ。
この自然豊かな星には、ナヴィという青い肌で背の高い先住民族が住み、鉱物資源を求める人類の入植者と小競り合いを繰り返していた。
地球での戦争で車椅子生活となった元海兵隊員ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は、死んだ双子の兄の代役として、パンドラにやってくる。
彼の任務は、人間とナヴィのDNAを掛け合わせて作られた“アバター”の体を遠隔操作し、ナヴィの部族に入り込み、彼らの信頼を得る事。
だが、人間とナヴィの融和を図ろうとする、グレース・オーガスティン博士(シガニー・ウィーバー)らのアバタープロジェクトに懐疑的なマイルズ・クオリッチ大佐(スティーブン・ラング)は、ジェイクに脊髄の治療と引き換えに軍事侵攻のための情報を引き出すように要求する。
ジェイクはナヴィの族長の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と親しくなり、次第に彼らの仲間として溶け込んで行くが、やがて人間の自分とアバターの自分の間で深刻な葛藤を抱える様になる・・・
映画の未来を開く作品と宣伝されているが、決してオーバーではない。
ついにデジタル技術はここまで来たのかという思いだ。
映画の歴史上、デジタル映像が初めて商業映画に使われたのは1970年代。
以来、一歩一歩着実な進化を遂げてきたわけだが、これはその歴史をロケットブースターで一足飛びに新たな次元にワープさせてしまった。
間違いなく映像技術史における分水嶺となる作品であり、今後はこの作品がデジタルでの映像作りの技術的な指針となるだろう。
CGキャラクターの不気味の谷の問題も、レンダリングの空気感ももはや関係なく、本作で描写されるキャラクター、風景はそれが現実でないとは思えない。
ナヴィも、ユニークな動物たちも、想像を絶するパンドラの世界も、この宇宙のどこかに実在していて、そこでロケーションを行ってきた様な錯覚すら感じさせる。
何よりも、人間に似ている様だが、青い皮膚のエイリアンに感情移入し、“我々自身”である人類を敵役として認識させるのだから尋常ではない表現力である。
立体演出的にも、所謂飛び出す感覚を見世物的に強調するのではなく、映画の世界の臨場感をを奥行きと広がりを持って観客に伝える事に主眼を置いており、我々はまるで自分自身がパンドラという未知の世界で、壮大な冒険旅行をしている様な気分を感じるのである。
正に、スクリーンに映し出されたストーリーを追うのではなく、一つの世界を体験する映画なのだ。
物語的には、異文化間の葛藤を描いた「ダンス・ウィズ・ウルブス」あるいは「ラスト・サムライ」のプロットを宇宙に移し、「もののけ姫」のテーマを描いた作品と言えよう。
王道のストーリーであり、緻密ではあるものの、特に斬新ではない。
戦争という最も利己的で愚かな行為によって、自分たちが存在している世界の根幹を破壊してしまうという皮肉な展開が浮かび上がらせるテーマは、キャメロン自身宮崎駿の影響を受けたと語っており、戦う人間への嫌悪を強く感じさせつつも、結局のところ戦いでしか解決できないあたりも宮崎的ではある。
大地との共生を知らず破壊しようとする限り、人類は“滅びるべきものでしかない”というのがこの作品のメッセージだろうが、キャメロンも宮崎も基本的にアクション監督であり、「戦闘シーンはどうしても派手に撮りたいんだぁ!」という魂の叫びが聞こえなくもない(笑
もっとも、物語が帰趨すべきところに帰趨し、ある意味類型的なのはやむをえないだろう。
こういったシチュエーションで全てが丸く収まるような解決策が簡単に見つかるなら、人類の歴史はもっと平和だろうし、作品のテーマ的にも異民族間の葛藤の問題よりも、母なる大地を守る事の方にプライオリティが置かれており、その為に様々な設定がなされている。
優れた異世界ファンタジーは、たいていその世界を特徴付けるワンポイントを持っている物だが、本作の場合は、パンドラの全ての動植物は髪の毛に似た神経細胞を結合させる事で、精神をシンクロさせる事が出来るという事だろう。
この秀逸なアイディアは、物語の後半で明かされるパンドラの驚くべき秘密に繋がり、クライマックスの展開にも大きく影響してくるだけでなく、映画のテーマにも直結して、本作を単なる冒険ファンタジー以上の非常にわかりやすい哲学性を持つ映画として見事に昇華しているのである。
まあ一言で言えばガイア思想なのだが、この良く知られているが漠然とした言葉を、ここまでストレートに具体化した作品は覚えが無い。
先住民族ナヴィのルックスや文化、哲学には明らかにネイティブアメリカンのイメージが投影されているが、ネイティブアメリカンそっくりの異星人が“侵略者”地球人と争うという設定はトニー・ダニエルのSF小説「戦士の誇り」を連想させる。
また衛星パンドラのビジュアル、特に巨大な樹木の枝が迷路の様に張り巡らされた風景は、日本の漫画「暁星紀」あるいは「風の谷のナウシカ」の腐海の森のイメージだろうか。
天空に浮かぶ巨大な岩は、ルネ・マグリットのシュールレアリズム絵画「ピレネーの城」に良く似ている。
今までキャメロンが吸収してきたであろう、様々な映画や芸術からのインスパイアが無数に感じられるが、それらは彼の創造したパンドラという星の風景と、そこで語られる星の神話として完璧に融合されており、浮いた部分は一つも無い。
自らの記憶に残る作品にオマージュを捧げる映画作家は多いが、これはその中でもお手本と言える。
人間のジェイクと青い肌のアバターを演じたサム・ワーシントンは、物語的にもキャラクターとしても消化不良気味だった「ターミネーター4」とは比べ物にならないくらいに魅力的だ。
戦争で下半身不随となるも、アバターとして再び自分の足で歩き、走り回れる事に無邪気に喜び、人間とナヴィとの間で深い葛藤を抱えて悩む、どこにでもいそうな人間臭いキャラクターを演じ、観客をこの世界へ入りやすくしている。
また一つの心に人間とナヴィという二つの肉体を有し、片方が目覚めている時はもう片方が眠っているという設定は、サスペンスの盛り上げにも効果的に使われていて無駄が無い。
アバタープロジェクトの責任者で、ジェイク同じようにアバターとしても活動するグレースには、86年の「エイリアン2」以来23年ぶりにキャメロンと組むシガニー・ウィーバー、ナヴィキャラなので素顔を見せることは一度もないネイティリ役は「スター・トレック」が記憶に新しいゾーイ・サルダナが配され、それぞれ好演している。
だが、彼ら以上にパワフルで生き生きしているのが、クオリッチ大佐を演じたスティーブン・ラングだろう。
「エイリアン2」のパワーローダーに良く似た戦闘用モビルスーツを操る、三度の飯より戦争大好きなオバカ軍人を嬉々として演じてインパクト絶大。
クライマックスのバトルシーンは、ちょっと強すぎだろう(笑
またキャメロン作品にはしばしば魅力的な女性兵士が登場するが、嘗て一部のSFオタクから熱烈な支持を受けたバスケス的なキャラクターが、最近ノリノリでキャリアを重ねているミッシェル・ロドリゲス演じるヘリコプター(?)パイロットのトゥルーディ。
出番は少ないながらも、萌えと燃え両方を感じさせてくれる格好良いキャラクターであった。
全体に、人類サイドの世界観やメカデザインは、「エイリアン2」に良く似ていて、同じ世界観の中のアナザー・ストーリーと言われても違和感がない。
「アバター」は、映像表現の歴史上、大きな転換点となるエポックメイキングな作品であり、映画館で観賞する価値のある映画だ。
これは体験する映画であり、徹底的に作りこまれたパンドラの世界での冒険は、ある意味で一番お手軽な宇宙旅行と言っても良い。
3時間近い上映時間という事で、立体版と通常版のどちらで観賞するか迷っている人も多いだろうが、先ずは立体版で観るのが良い。
私は立体メガネが軽量で、メガネonメガネでも疲れにくい、RIAL3D方式の劇場で立体版を観賞し、その後他県に遠征してIMAX 3Dで再観賞。
通常の映画館の立体版でも十分楽しめるが、圧倒的な映像の臨場感はやはりIMAXには敵わない。
近場にIMAXがある人は、追加料金を出してもIMAXがお勧めだ。
ちなみに、私は上映終了までには2D通常版も観賞して、ディテールを観察しようと思っている。
ジェームス・キャメロンは、この壮大な物語を三部作とする構想を持っていると言う。
もしもこのクオリティを維持、あるいは進化させて三部作を構成出来たとしたら、文学におけるJ・R・R・トールキンの作品群に匹敵する、映像で語られた星の神話として、映画史上の伝説となるだろう。
もちろん、これ一本だけでも物語的にはきちんと完結しているし、これだけで終わるのも潔いと思うのだけど。
今回はガイア繋がりでガイアの「ロッシ バス シャルドネ」の2007をチョイス。
名門ガイア家によって150年の歴史を紡いで来た、ピエモンテを代表する銘柄。
様々な革新的な挑戦によって、イタリアワインの知名度を高めてきたその歴史は、デジタル映画の歴史を革新し続けるキャメロンの姿勢に重なる。
このロッシ バス シャルドネは衛星パンドラに持っていって、あの美しい風景の中で飲みたくなるスッキリとしたエレガントなお酒。
ブルーのラベルとコルクキャップが洒落ていて、何となく映画に登場するバンシー(イクラン)をイメージさせる。
続き記事「『アバター』比べ」はこちら
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「アバター」は、劇場用の長編映画としては「タイタニック」以来実に12年ぶりとなるジェームス・キャメロン監督の最新作。
正直なところ、キャメロンは「タイタニック」で燃え尽きてしまって、もう劇映画を撮らないのではないかと思っていた。
だが、この作品を観ると、なるほどこれは12年かかるかも・・・というか、毎回このクオリティを維持してくれるなら、12年に一回でも全然OKだ。
スピルバーグが「スターウォーズ以来、最も刺激的で驚くべきSF映画」と唸ったのも納得。
これは正に2009年、いや新ミレニアムの最初の10年を締めくくるに相応しい、途轍もない映画体験である。
地球から遠く離れた惑星系にある、緑の衛星パンドラ。
この自然豊かな星には、ナヴィという青い肌で背の高い先住民族が住み、鉱物資源を求める人類の入植者と小競り合いを繰り返していた。
地球での戦争で車椅子生活となった元海兵隊員ジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は、死んだ双子の兄の代役として、パンドラにやってくる。
彼の任務は、人間とナヴィのDNAを掛け合わせて作られた“アバター”の体を遠隔操作し、ナヴィの部族に入り込み、彼らの信頼を得る事。
だが、人間とナヴィの融和を図ろうとする、グレース・オーガスティン博士(シガニー・ウィーバー)らのアバタープロジェクトに懐疑的なマイルズ・クオリッチ大佐(スティーブン・ラング)は、ジェイクに脊髄の治療と引き換えに軍事侵攻のための情報を引き出すように要求する。
ジェイクはナヴィの族長の娘ネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と親しくなり、次第に彼らの仲間として溶け込んで行くが、やがて人間の自分とアバターの自分の間で深刻な葛藤を抱える様になる・・・
映画の未来を開く作品と宣伝されているが、決してオーバーではない。
ついにデジタル技術はここまで来たのかという思いだ。
映画の歴史上、デジタル映像が初めて商業映画に使われたのは1970年代。
以来、一歩一歩着実な進化を遂げてきたわけだが、これはその歴史をロケットブースターで一足飛びに新たな次元にワープさせてしまった。
間違いなく映像技術史における分水嶺となる作品であり、今後はこの作品がデジタルでの映像作りの技術的な指針となるだろう。
CGキャラクターの不気味の谷の問題も、レンダリングの空気感ももはや関係なく、本作で描写されるキャラクター、風景はそれが現実でないとは思えない。
ナヴィも、ユニークな動物たちも、想像を絶するパンドラの世界も、この宇宙のどこかに実在していて、そこでロケーションを行ってきた様な錯覚すら感じさせる。
何よりも、人間に似ている様だが、青い皮膚のエイリアンに感情移入し、“我々自身”である人類を敵役として認識させるのだから尋常ではない表現力である。
立体演出的にも、所謂飛び出す感覚を見世物的に強調するのではなく、映画の世界の臨場感をを奥行きと広がりを持って観客に伝える事に主眼を置いており、我々はまるで自分自身がパンドラという未知の世界で、壮大な冒険旅行をしている様な気分を感じるのである。
正に、スクリーンに映し出されたストーリーを追うのではなく、一つの世界を体験する映画なのだ。
物語的には、異文化間の葛藤を描いた「ダンス・ウィズ・ウルブス」あるいは「ラスト・サムライ」のプロットを宇宙に移し、「もののけ姫」のテーマを描いた作品と言えよう。
王道のストーリーであり、緻密ではあるものの、特に斬新ではない。
戦争という最も利己的で愚かな行為によって、自分たちが存在している世界の根幹を破壊してしまうという皮肉な展開が浮かび上がらせるテーマは、キャメロン自身宮崎駿の影響を受けたと語っており、戦う人間への嫌悪を強く感じさせつつも、結局のところ戦いでしか解決できないあたりも宮崎的ではある。
大地との共生を知らず破壊しようとする限り、人類は“滅びるべきものでしかない”というのがこの作品のメッセージだろうが、キャメロンも宮崎も基本的にアクション監督であり、「戦闘シーンはどうしても派手に撮りたいんだぁ!」という魂の叫びが聞こえなくもない(笑
もっとも、物語が帰趨すべきところに帰趨し、ある意味類型的なのはやむをえないだろう。
こういったシチュエーションで全てが丸く収まるような解決策が簡単に見つかるなら、人類の歴史はもっと平和だろうし、作品のテーマ的にも異民族間の葛藤の問題よりも、母なる大地を守る事の方にプライオリティが置かれており、その為に様々な設定がなされている。
優れた異世界ファンタジーは、たいていその世界を特徴付けるワンポイントを持っている物だが、本作の場合は、パンドラの全ての動植物は髪の毛に似た神経細胞を結合させる事で、精神をシンクロさせる事が出来るという事だろう。
この秀逸なアイディアは、物語の後半で明かされるパンドラの驚くべき秘密に繋がり、クライマックスの展開にも大きく影響してくるだけでなく、映画のテーマにも直結して、本作を単なる冒険ファンタジー以上の非常にわかりやすい哲学性を持つ映画として見事に昇華しているのである。
まあ一言で言えばガイア思想なのだが、この良く知られているが漠然とした言葉を、ここまでストレートに具体化した作品は覚えが無い。
先住民族ナヴィのルックスや文化、哲学には明らかにネイティブアメリカンのイメージが投影されているが、ネイティブアメリカンそっくりの異星人が“侵略者”地球人と争うという設定はトニー・ダニエルのSF小説「戦士の誇り」を連想させる。
また衛星パンドラのビジュアル、特に巨大な樹木の枝が迷路の様に張り巡らされた風景は、日本の漫画「暁星紀」あるいは「風の谷のナウシカ」の腐海の森のイメージだろうか。
天空に浮かぶ巨大な岩は、ルネ・マグリットのシュールレアリズム絵画「ピレネーの城」に良く似ている。
今までキャメロンが吸収してきたであろう、様々な映画や芸術からのインスパイアが無数に感じられるが、それらは彼の創造したパンドラという星の風景と、そこで語られる星の神話として完璧に融合されており、浮いた部分は一つも無い。
自らの記憶に残る作品にオマージュを捧げる映画作家は多いが、これはその中でもお手本と言える。
人間のジェイクと青い肌のアバターを演じたサム・ワーシントンは、物語的にもキャラクターとしても消化不良気味だった「ターミネーター4」とは比べ物にならないくらいに魅力的だ。
戦争で下半身不随となるも、アバターとして再び自分の足で歩き、走り回れる事に無邪気に喜び、人間とナヴィとの間で深い葛藤を抱えて悩む、どこにでもいそうな人間臭いキャラクターを演じ、観客をこの世界へ入りやすくしている。
また一つの心に人間とナヴィという二つの肉体を有し、片方が目覚めている時はもう片方が眠っているという設定は、サスペンスの盛り上げにも効果的に使われていて無駄が無い。
アバタープロジェクトの責任者で、ジェイク同じようにアバターとしても活動するグレースには、86年の「エイリアン2」以来23年ぶりにキャメロンと組むシガニー・ウィーバー、ナヴィキャラなので素顔を見せることは一度もないネイティリ役は「スター・トレック」が記憶に新しいゾーイ・サルダナが配され、それぞれ好演している。
だが、彼ら以上にパワフルで生き生きしているのが、クオリッチ大佐を演じたスティーブン・ラングだろう。
「エイリアン2」のパワーローダーに良く似た戦闘用モビルスーツを操る、三度の飯より戦争大好きなオバカ軍人を嬉々として演じてインパクト絶大。
クライマックスのバトルシーンは、ちょっと強すぎだろう(笑
またキャメロン作品にはしばしば魅力的な女性兵士が登場するが、嘗て一部のSFオタクから熱烈な支持を受けたバスケス的なキャラクターが、最近ノリノリでキャリアを重ねているミッシェル・ロドリゲス演じるヘリコプター(?)パイロットのトゥルーディ。
出番は少ないながらも、萌えと燃え両方を感じさせてくれる格好良いキャラクターであった。
全体に、人類サイドの世界観やメカデザインは、「エイリアン2」に良く似ていて、同じ世界観の中のアナザー・ストーリーと言われても違和感がない。
「アバター」は、映像表現の歴史上、大きな転換点となるエポックメイキングな作品であり、映画館で観賞する価値のある映画だ。
これは体験する映画であり、徹底的に作りこまれたパンドラの世界での冒険は、ある意味で一番お手軽な宇宙旅行と言っても良い。
3時間近い上映時間という事で、立体版と通常版のどちらで観賞するか迷っている人も多いだろうが、先ずは立体版で観るのが良い。
私は立体メガネが軽量で、メガネonメガネでも疲れにくい、RIAL3D方式の劇場で立体版を観賞し、その後他県に遠征してIMAX 3Dで再観賞。
通常の映画館の立体版でも十分楽しめるが、圧倒的な映像の臨場感はやはりIMAXには敵わない。
近場にIMAXがある人は、追加料金を出してもIMAXがお勧めだ。
ちなみに、私は上映終了までには2D通常版も観賞して、ディテールを観察しようと思っている。
ジェームス・キャメロンは、この壮大な物語を三部作とする構想を持っていると言う。
もしもこのクオリティを維持、あるいは進化させて三部作を構成出来たとしたら、文学におけるJ・R・R・トールキンの作品群に匹敵する、映像で語られた星の神話として、映画史上の伝説となるだろう。
もちろん、これ一本だけでも物語的にはきちんと完結しているし、これだけで終わるのも潔いと思うのだけど。
今回はガイア繋がりでガイアの「ロッシ バス シャルドネ」の2007をチョイス。
名門ガイア家によって150年の歴史を紡いで来た、ピエモンテを代表する銘柄。
様々な革新的な挑戦によって、イタリアワインの知名度を高めてきたその歴史は、デジタル映画の歴史を革新し続けるキャメロンの姿勢に重なる。
このロッシ バス シャルドネは衛星パンドラに持っていって、あの美しい風景の中で飲みたくなるスッキリとしたエレガントなお酒。
ブルーのラベルとコルクキャップが洒落ていて、何となく映画に登場するバンシー(イクラン)をイメージさせる。
続き記事「『アバター』比べ」はこちら

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2009年12月24日 (木) | 編集 |
日本アニメーション界の大ベテラン、りんたろう監督による初のフル3DCGアニメーション。
マッドハウスを中心に、フランス、タイの制作チームと組み、総制作費は15億円に及ぶという大作映画だ。
ある種の異世界ファンタジーだが、ハリウッド製のCGアニメーションとは一線を画する独特の世界観は、一見の価値がある。
ココ(森迫永依)は、いつも亡き父が買ってくれたペンギンのコートを着ているちょっと変わった女の子。
父が生前話してくれた、空を飛ぶペンギンの存在を信じている。
ある夜、ココはペンギンの置物を拾い、家に持って帰るのだが、中に入っていた人形が突然動き出す。
人形は、ココをペンギンストアの開店セールに招待するという。
だが、ペンギンストアはゴブリンたちが暮らす不思議な世界への入り口で、ココを誘った人形はゴブリンの少年チャリー(田中麗奈)だったのだ。
この世界では老いた悪魔ブッカ・ブー(田中裕二)が力を盛り返し、子分のザミー(大田光)が毎日の様に村を襲っていた。
ゴブリンたちは、ココの事を伝説の勇者「飛べない鳥様」だと思い込み、村を助けてくれと言うのだが・・・
多国籍スタッフによる映画だからという訳ではないだろうが、映画の中身も多国籍、いや全くの無国籍。
和洋中のビジュアルがごちゃ混ぜになった世界観に、キリスト教の天使から日本の七福神、欧州民話のゴブリンやフェアリー、そしてもちろんタイトル通りにペンギンまでもがギュウギュウに詰め込まれている。
良くも悪くも節操のない舞台装置とキャラクターを、意外と破綻なく一つに纏め上げてしまうのは、実に日本的であり、りんたろう的だ。
他のどの作品にも似ておらず、おそらく日本以外のクリエイターでは思いもつかない作品世界だろう。
このぶっ飛んだ世界観ゆえに、ペンギンのコスプレに身を包んだ少女、というかなり変な主人公も特に違和感なく存在できているのである。
もっとも、CGアニメーションで鬼門となりやすい、キャラクター造形としては本作の主人公も疑問が残る。
他に出来の良いキャラクターもいるので、これはデザインそのものよりもココというキャラクター単体のモデリングの問題という気がするが、どうにも可愛くないのだ。
気持ちがきちんと描かれているので、一応感情移入は出来るものの、もうちょっと親しみのあるデザインに出来なかったものか。
主人公の造形でビジネス的な意味でもかなり損をしている気がする。
まあ、それはさておき本作は技術的にも結構面白い試みをしている。
キャラクターアニメーションはかなりリミテッドを強調する作りで、モーションは4コマ打ちが目立つ。
CGアニメーションでは2コマは珍しくないが、ここまで全体にコマ数を落としているのは劇映画でははじめて観た。
ただ担当しているアニメーターのスキルに結構差があり、出来の良い部分と悪い部分の差がハッキリでてしまっているのはちょっと勿体無い。
おそらくりんたろうのイメージには、日本型リミテッドセルアニメの独特のアクションがあったのだと思うが、CGアニメーターでこのノウハウに精通している人間は少ないし、海外スタッフが担当した部分もあるだろうから、クオリティコントロールは相当に難しかっただろう。
舞台装置たる異世界は、かなり細かく作りこまれ、色彩設計もなかなか面白い。
ただ個人的にはもう少し空気感を出して、照明をリアルに近づけ、人形アニメの様なムードにしても良かったと思う。
もちろんその分だけ金と時間がかかるし、これはこれで独特のムードがあるから悪くはないのだけど。
物語は、実世界で心に小さな葛藤を抱えた少女が、異世界での冒険を通じて成長し、その葛藤を超えてゆくという実にシンプルな寓話だ。
物語の中心にいるのはココとゴブリンのチャリー、そして堕天使のザミー。
彼ら三人は皆心の中に三者三様の葛藤を感じているが、それが大きすぎるザミーはファンタジーワールドのダークサイドに身を置いてしまっている。
最初敵対関係にある三人が、やがて村を救う冒険を通じて、信頼できる友となる展開は、この手のファンタジーの王道。
物語の冒頭で、天から落ちてくる金色の羽や、七福神の水盤の鳴らない音など、細かな設定も伏線として上手く生かされている。
ディテールを詰め込むだけ詰め込んでいる割には、物語はわかりやすく、年少の子供でも十分に理解できるだろう。
惜しむらくは、ココの持っている「ペンギンは飛ぶ」というイメージへの拘りが物語の中で少々浮いている事だろう。
亡き父が彼女に残した記憶が具体的に描写されるのは、最後の最後に回想シーンでちょこっと触れられるだけ。
あのシチュエーションだけでは、たまたまそこにペンギンがいたというだけで、ココがそこまでのペンギンオタクになる理由付けには弱い。
父親が語ったという「ペンギンと一緒に飛んだ」という言葉の意味も明かされていない。
飛べない鳥が飛ぶ、というテーマ的な意味付けは理解できるものの、ストーリー的な理由付けはちょっと無理やり感があり、結果として、「そもそも何でペンギン?」という疑問が最後まで残ってしまったのは残念だ。
「よなよなペンギン」は、りんたろう監督が68歳にして新しい表現に挑んだ意欲作だ。
私は以前から、異世界ファンタジーは、観客がその世界へ行ってみたくなったら半分勝ちだと思っているが、この作品の半分狂ったような世界観はそれなりに魅力的だ。
物語の基礎にあたる部分がやや弱いのが惜しまれるが、無国籍な世界の中で、これまた無国籍なキャラクターたちが繰り広げる冒険は、良い意味で子供っぽいワクワクする楽しさがある。
正月映画の中では注目度は低めの作品だが、漫画原作でない良質なキッズムービーとしてお勧めしたい。
今回は、「よなよなエール」で決まり。
というか、この映画のタイトルは絶対このビールから思い付いたのだと思う。
軽井沢のヤッホー・ブルーイングが手がけるあまりにも有名な地ビール。
本作はよなよなペンギンの格好をして歩き回る変な女の子の話だったが、映画の後の大人の時間は、お父さんお母さんだけでよなよなエールを楽しもう。
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マッドハウスを中心に、フランス、タイの制作チームと組み、総制作費は15億円に及ぶという大作映画だ。
ある種の異世界ファンタジーだが、ハリウッド製のCGアニメーションとは一線を画する独特の世界観は、一見の価値がある。
ココ(森迫永依)は、いつも亡き父が買ってくれたペンギンのコートを着ているちょっと変わった女の子。
父が生前話してくれた、空を飛ぶペンギンの存在を信じている。
ある夜、ココはペンギンの置物を拾い、家に持って帰るのだが、中に入っていた人形が突然動き出す。
人形は、ココをペンギンストアの開店セールに招待するという。
だが、ペンギンストアはゴブリンたちが暮らす不思議な世界への入り口で、ココを誘った人形はゴブリンの少年チャリー(田中麗奈)だったのだ。
この世界では老いた悪魔ブッカ・ブー(田中裕二)が力を盛り返し、子分のザミー(大田光)が毎日の様に村を襲っていた。
ゴブリンたちは、ココの事を伝説の勇者「飛べない鳥様」だと思い込み、村を助けてくれと言うのだが・・・
多国籍スタッフによる映画だからという訳ではないだろうが、映画の中身も多国籍、いや全くの無国籍。
和洋中のビジュアルがごちゃ混ぜになった世界観に、キリスト教の天使から日本の七福神、欧州民話のゴブリンやフェアリー、そしてもちろんタイトル通りにペンギンまでもがギュウギュウに詰め込まれている。
良くも悪くも節操のない舞台装置とキャラクターを、意外と破綻なく一つに纏め上げてしまうのは、実に日本的であり、りんたろう的だ。
他のどの作品にも似ておらず、おそらく日本以外のクリエイターでは思いもつかない作品世界だろう。
このぶっ飛んだ世界観ゆえに、ペンギンのコスプレに身を包んだ少女、というかなり変な主人公も特に違和感なく存在できているのである。
もっとも、CGアニメーションで鬼門となりやすい、キャラクター造形としては本作の主人公も疑問が残る。
他に出来の良いキャラクターもいるので、これはデザインそのものよりもココというキャラクター単体のモデリングの問題という気がするが、どうにも可愛くないのだ。
気持ちがきちんと描かれているので、一応感情移入は出来るものの、もうちょっと親しみのあるデザインに出来なかったものか。
主人公の造形でビジネス的な意味でもかなり損をしている気がする。
まあ、それはさておき本作は技術的にも結構面白い試みをしている。
キャラクターアニメーションはかなりリミテッドを強調する作りで、モーションは4コマ打ちが目立つ。
CGアニメーションでは2コマは珍しくないが、ここまで全体にコマ数を落としているのは劇映画でははじめて観た。
ただ担当しているアニメーターのスキルに結構差があり、出来の良い部分と悪い部分の差がハッキリでてしまっているのはちょっと勿体無い。
おそらくりんたろうのイメージには、日本型リミテッドセルアニメの独特のアクションがあったのだと思うが、CGアニメーターでこのノウハウに精通している人間は少ないし、海外スタッフが担当した部分もあるだろうから、クオリティコントロールは相当に難しかっただろう。
舞台装置たる異世界は、かなり細かく作りこまれ、色彩設計もなかなか面白い。
ただ個人的にはもう少し空気感を出して、照明をリアルに近づけ、人形アニメの様なムードにしても良かったと思う。
もちろんその分だけ金と時間がかかるし、これはこれで独特のムードがあるから悪くはないのだけど。
物語は、実世界で心に小さな葛藤を抱えた少女が、異世界での冒険を通じて成長し、その葛藤を超えてゆくという実にシンプルな寓話だ。
物語の中心にいるのはココとゴブリンのチャリー、そして堕天使のザミー。
彼ら三人は皆心の中に三者三様の葛藤を感じているが、それが大きすぎるザミーはファンタジーワールドのダークサイドに身を置いてしまっている。
最初敵対関係にある三人が、やがて村を救う冒険を通じて、信頼できる友となる展開は、この手のファンタジーの王道。
物語の冒頭で、天から落ちてくる金色の羽や、七福神の水盤の鳴らない音など、細かな設定も伏線として上手く生かされている。
ディテールを詰め込むだけ詰め込んでいる割には、物語はわかりやすく、年少の子供でも十分に理解できるだろう。
惜しむらくは、ココの持っている「ペンギンは飛ぶ」というイメージへの拘りが物語の中で少々浮いている事だろう。
亡き父が彼女に残した記憶が具体的に描写されるのは、最後の最後に回想シーンでちょこっと触れられるだけ。
あのシチュエーションだけでは、たまたまそこにペンギンがいたというだけで、ココがそこまでのペンギンオタクになる理由付けには弱い。
父親が語ったという「ペンギンと一緒に飛んだ」という言葉の意味も明かされていない。
飛べない鳥が飛ぶ、というテーマ的な意味付けは理解できるものの、ストーリー的な理由付けはちょっと無理やり感があり、結果として、「そもそも何でペンギン?」という疑問が最後まで残ってしまったのは残念だ。
「よなよなペンギン」は、りんたろう監督が68歳にして新しい表現に挑んだ意欲作だ。
私は以前から、異世界ファンタジーは、観客がその世界へ行ってみたくなったら半分勝ちだと思っているが、この作品の半分狂ったような世界観はそれなりに魅力的だ。
物語の基礎にあたる部分がやや弱いのが惜しまれるが、無国籍な世界の中で、これまた無国籍なキャラクターたちが繰り広げる冒険は、良い意味で子供っぽいワクワクする楽しさがある。
正月映画の中では注目度は低めの作品だが、漫画原作でない良質なキッズムービーとしてお勧めしたい。
今回は、「よなよなエール」で決まり。
というか、この映画のタイトルは絶対このビールから思い付いたのだと思う。
軽井沢のヤッホー・ブルーイングが手がけるあまりにも有名な地ビール。
本作はよなよなペンギンの格好をして歩き回る変な女の子の話だったが、映画の後の大人の時間は、お父さんお母さんだけでよなよなエールを楽しもう。

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2009年12月19日 (土) | 編集 |
一風変わった映画である事は間違いない。
西暦2000年10月に、アラスカ州ノームで起こったという一連の怪事件を題材にしたスリラーで、一応実話がベースという事になっているのだが、普通の物語のある映画とは違う。
かと言って「ブレアウィッチプロジェクト」や「クローバー・フィールド」の様な、フェイクドキュメンタリーとかモキュメンタリーなどと呼ばれるジャンルとも異なる。
冒頭で、ミラ・ジョヴォヴィッチがナビゲーターとして姿を現し、これはアビゲイル・タイラー博士という人物が経験した事を再現した作品であり、心理学者であるタイラー博士が当時記録した映像と、再現ドラマで構成されている事を告げる。
ジョヴォヴィッチはタイラー博士の役で俳優としても出演もしている。
まあ売り物の記録映像の真偽はともかく、世界中の事件や事故を記録映像+再現ドラマで紹介するテレビのバラエティ番組の構成に一番近いかも知れない。
2000年10月。
アラスカ州ノーム在住の心理学者、アビゲイル・タイラー博士(ミラ・ジョヴォヴィッチ)のところには、不眠を訴える複数の住民がカウンセリングに訪れていた。
彼らが一応に訴えるのは、窓の外から自分を見つめる白いフクロウのイメージ。
何か共通する原因があると考えた博士は、トミーという患者に退行催眠をかけて、フクロウの記憶を探り出そうとする。
ところが、催眠状態のトミーは、突然記憶の中で何かを見てパニックに陥る。
何を見たのかを博士には告げず、逃げるように帰っていったトミーは、その日の夜に家族全員を殺害して自殺してしまう・・・
ティザー的に謎を散りばめて、ミステリ的な要素で客を引っ張ろうというのなら、「THE 4TH KIND フォース・カインド」などと豪快にネタバレしたタイトルをつけてはダメだろう。
ノームの住人に何が起こったのか、それを当時の記録映像をベースに、再現ドラマで補完しつつ、少しずつ迫ってゆくというコンセプトはまあ良い。
時間的にはごく短い「現実の記録」のリアリティを高めるために、再現ドラマを使うという手法は、やり方によってはアリだと思う。
だが、この作品の場合、インタビューアーとして出演もしているオラトゥンデ・オスンサンミという舌を噛みそうな名前の監督が今ひとつ上手くない。
作品の構造にも問題があり、映画のオチの判明が早すぎる上に、再現ドラマの展開がダラダラしており、どうにも退屈だ。
謎解きの結論がエイリアン・アブダクションなのは、タイトルですでにネタバレしてる事を別にしても、始まってから10分もかからず観客にわかってしまう。
多くの住民が不眠に悩まされ、共通のイメージを持っていて、それが「白いフクロウ」という時点でバレバレである。
モスマン伝説を始め、フクロウはしばしばエイリアンと結びつけられるのは良く知られているし、最初の患者の退行催眠だけでこの話の謎の大半は見えてしまい、以降もそれ以上のものは殆ど何も出てこない。
まあ再現ドラマの方で、タイラー博士の身に次々と災難が降りかかる事で、観客の興味をつなごうとはしている。
あるテープの存在によって博士自身も隠された記憶を持つ事が判明し、テープにある謎の言葉を巡る謎解きがあったり、催眠治療が殺人事件を誘発したのではと疑う保安官との葛藤があったり、さらにはアブダクション説に懐疑的な同僚心理学者が、タイラー博士に退行催眠を試みたりもする。
また最後の方では、「X-ファイル」のモルダーのトラウマに良く似た事態が博士自身に起こったりと、エピソードの数的には結構盛り込まれている。
ただ、バラエティ番組の様な構成が仇となり、再現ドラマの一つ一つが有機的に結びつかず、どうにも盛り上がらない。
どのエピソードも思いのほかあっさりと終ってしまい、最終的に特にオチもつかないために、正直なところアブダクション説のネタバレ後は、細部のちっちゃな謎を無理やり引き伸ばしている印象だ。
記録映像の方も、怖い映像であるのは確かなのだけど、肝心のところがノイズだらけで、逆にそれがナマっぽい迫力を出しているとは言え、さすがにこれだけでは持たない。
ちなみにこの記録映像に関しては、一応ホンモノであるという事になっているが、客観的に考えれば眉唾だと思う。
何しろ、プライバシー保護のため仮名にしてると言いつつ、顔にモザイクも入らずバッチリ写っていたりするのだ。
博士本人の物はともかく、患者がこんな物の公開に同意するとは思えない。
ノイズが入る所以外も、9年前の映像にしては異様に画質が荒く、まるで80年代の裏ビデオみたいなのもリアリティを削いでいる。
ただ、この映像の真偽を追求する事に意味はないだろう。
映画の中でも描かれている様に、人間というものはどんなに証拠を突きつけられたとしても、受け入れられない物は受け入れられないのだ。
この映像も信じる人には真実だろうし、そうでない人には東スポのネタ記事と同じ類の物だ。
ちょうどこの映画を観ていて思い出した、私自身の経験を一つ紹介しておこう。
20年ほど前、私はアメリカの田舎のフリーウェイ上でUFOを目撃した事がある。
もうそれは幻覚とか見間違えとかが起こりえない至近距離だったのだが、車に同乗していて同時に目撃していた人間が4人いた。
彼らとはその後も付き合いがあり、十年後くらいにそのうちの二人にUFOを目撃したときの話をした。
ところが、彼らは「自分たちはそんなものは見てない」と言い張るのだ。
私が「あんなにはっきり見たのに、なぜそんな事を言うのか」と質すと、彼らは「だって、そんな事あり得ないから」と言う。
つまり「UFOなどあり得ない」故に「そんな物を見たという記憶は誤りだという」ロジックなのだ。
なるほど人間の記憶とは、何とも都合の良い物だという事だけは確かだろう。
「THE 4TH KIND フォース・カインド」は、ユニークなコンセプトを持った作品だが、残念ながらアイディアが上手く機能しているとは言いがたい。
テレビのバラエティ番組の1コーナー程度なら面白く観られたとしても、この程度の作りでは暗闇に2時間近く留置かれ、集中力を要求される映画としては辛い。
映画館よりも家庭のテレビ画面の方が相応しい作品だろう。
まあそれにしても、長さは半分くらいで十分だと思うが。
今回は、フクロウのラベルが印象的な豪州ワイン「バーキングオウル シャルドネ」の2006をチョイス。
バーキングオウルの白で白フクロウ、なんて事は置いといて、これはスッキリとした果実香がフレッシュな気分にさせてくれる、ドライなシャルドネ。
やや曖昧な映画の後味をキリリと引き締めてくれる。
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西暦2000年10月に、アラスカ州ノームで起こったという一連の怪事件を題材にしたスリラーで、一応実話がベースという事になっているのだが、普通の物語のある映画とは違う。
かと言って「ブレアウィッチプロジェクト」や「クローバー・フィールド」の様な、フェイクドキュメンタリーとかモキュメンタリーなどと呼ばれるジャンルとも異なる。
冒頭で、ミラ・ジョヴォヴィッチがナビゲーターとして姿を現し、これはアビゲイル・タイラー博士という人物が経験した事を再現した作品であり、心理学者であるタイラー博士が当時記録した映像と、再現ドラマで構成されている事を告げる。
ジョヴォヴィッチはタイラー博士の役で俳優としても出演もしている。
まあ売り物の記録映像の真偽はともかく、世界中の事件や事故を記録映像+再現ドラマで紹介するテレビのバラエティ番組の構成に一番近いかも知れない。
2000年10月。
アラスカ州ノーム在住の心理学者、アビゲイル・タイラー博士(ミラ・ジョヴォヴィッチ)のところには、不眠を訴える複数の住民がカウンセリングに訪れていた。
彼らが一応に訴えるのは、窓の外から自分を見つめる白いフクロウのイメージ。
何か共通する原因があると考えた博士は、トミーという患者に退行催眠をかけて、フクロウの記憶を探り出そうとする。
ところが、催眠状態のトミーは、突然記憶の中で何かを見てパニックに陥る。
何を見たのかを博士には告げず、逃げるように帰っていったトミーは、その日の夜に家族全員を殺害して自殺してしまう・・・
ティザー的に謎を散りばめて、ミステリ的な要素で客を引っ張ろうというのなら、「THE 4TH KIND フォース・カインド」などと豪快にネタバレしたタイトルをつけてはダメだろう。
ノームの住人に何が起こったのか、それを当時の記録映像をベースに、再現ドラマで補完しつつ、少しずつ迫ってゆくというコンセプトはまあ良い。
時間的にはごく短い「現実の記録」のリアリティを高めるために、再現ドラマを使うという手法は、やり方によってはアリだと思う。
だが、この作品の場合、インタビューアーとして出演もしているオラトゥンデ・オスンサンミという舌を噛みそうな名前の監督が今ひとつ上手くない。
作品の構造にも問題があり、映画のオチの判明が早すぎる上に、再現ドラマの展開がダラダラしており、どうにも退屈だ。
謎解きの結論がエイリアン・アブダクションなのは、タイトルですでにネタバレしてる事を別にしても、始まってから10分もかからず観客にわかってしまう。
多くの住民が不眠に悩まされ、共通のイメージを持っていて、それが「白いフクロウ」という時点でバレバレである。
モスマン伝説を始め、フクロウはしばしばエイリアンと結びつけられるのは良く知られているし、最初の患者の退行催眠だけでこの話の謎の大半は見えてしまい、以降もそれ以上のものは殆ど何も出てこない。
まあ再現ドラマの方で、タイラー博士の身に次々と災難が降りかかる事で、観客の興味をつなごうとはしている。
あるテープの存在によって博士自身も隠された記憶を持つ事が判明し、テープにある謎の言葉を巡る謎解きがあったり、催眠治療が殺人事件を誘発したのではと疑う保安官との葛藤があったり、さらにはアブダクション説に懐疑的な同僚心理学者が、タイラー博士に退行催眠を試みたりもする。
また最後の方では、「X-ファイル」のモルダーのトラウマに良く似た事態が博士自身に起こったりと、エピソードの数的には結構盛り込まれている。
ただ、バラエティ番組の様な構成が仇となり、再現ドラマの一つ一つが有機的に結びつかず、どうにも盛り上がらない。
どのエピソードも思いのほかあっさりと終ってしまい、最終的に特にオチもつかないために、正直なところアブダクション説のネタバレ後は、細部のちっちゃな謎を無理やり引き伸ばしている印象だ。
記録映像の方も、怖い映像であるのは確かなのだけど、肝心のところがノイズだらけで、逆にそれがナマっぽい迫力を出しているとは言え、さすがにこれだけでは持たない。
ちなみにこの記録映像に関しては、一応ホンモノであるという事になっているが、客観的に考えれば眉唾だと思う。
何しろ、プライバシー保護のため仮名にしてると言いつつ、顔にモザイクも入らずバッチリ写っていたりするのだ。
博士本人の物はともかく、患者がこんな物の公開に同意するとは思えない。
ノイズが入る所以外も、9年前の映像にしては異様に画質が荒く、まるで80年代の裏ビデオみたいなのもリアリティを削いでいる。
ただ、この映像の真偽を追求する事に意味はないだろう。
映画の中でも描かれている様に、人間というものはどんなに証拠を突きつけられたとしても、受け入れられない物は受け入れられないのだ。
この映像も信じる人には真実だろうし、そうでない人には東スポのネタ記事と同じ類の物だ。
ちょうどこの映画を観ていて思い出した、私自身の経験を一つ紹介しておこう。
20年ほど前、私はアメリカの田舎のフリーウェイ上でUFOを目撃した事がある。
もうそれは幻覚とか見間違えとかが起こりえない至近距離だったのだが、車に同乗していて同時に目撃していた人間が4人いた。
彼らとはその後も付き合いがあり、十年後くらいにそのうちの二人にUFOを目撃したときの話をした。
ところが、彼らは「自分たちはそんなものは見てない」と言い張るのだ。
私が「あんなにはっきり見たのに、なぜそんな事を言うのか」と質すと、彼らは「だって、そんな事あり得ないから」と言う。
つまり「UFOなどあり得ない」故に「そんな物を見たという記憶は誤りだという」ロジックなのだ。
なるほど人間の記憶とは、何とも都合の良い物だという事だけは確かだろう。
「THE 4TH KIND フォース・カインド」は、ユニークなコンセプトを持った作品だが、残念ながらアイディアが上手く機能しているとは言いがたい。
テレビのバラエティ番組の1コーナー程度なら面白く観られたとしても、この程度の作りでは暗闇に2時間近く留置かれ、集中力を要求される映画としては辛い。
映画館よりも家庭のテレビ画面の方が相応しい作品だろう。
まあそれにしても、長さは半分くらいで十分だと思うが。
今回は、フクロウのラベルが印象的な豪州ワイン「バーキングオウル シャルドネ」の2006をチョイス。
バーキングオウルの白で白フクロウ、なんて事は置いといて、これはスッキリとした果実香がフレッシュな気分にさせてくれる、ドライなシャルドネ。
やや曖昧な映画の後味をキリリと引き締めてくれる。

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2009年12月12日 (土) | 編集 |
アメリカ犯罪史上に名を残すギャング、ジョン・デリンジャー。
過去に何度も映像化されてきたキャラクターだが、映画では1973年にジョン・ミリアス監督、ウォーレン・オーツ主演で作られた、その名も「デリンジャー」が有名だろうか。
映像派のマイケル・マン監督による「パブリック・エネミーズ」は、男臭いフィルムノワールであるのは相変わらずながら、主演に優男のジョニー・デップを迎え、デリンジャーのロマンスにスポットを当てた事もあり、歴代デリンジャーの中でもっともスタイリッシュでオシャレなムードを持つ作品となった。
1933年、大恐慌下のアメリカ。
次々と銀行を襲うギャングのジョン・デリンジャー(ジョニー・デップ)は、決して庶民の金には手を出さない義賊として大衆からも持てはやされていた。
そんな状況を苦々しく見ていた捜査局のフーヴァー長官(ビリー・クラダップ)は、敏腕捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)を彼が潜伏するシカゴに送り込む。
一方のデリンジャーは、レストランで見かけた赤いドレスの女、ビリー・フレシェット(マリオン・コティヤール)に心を奪われ、恋に落ちていた。
シカゴに着任したパーヴィスは、デリンジャーのギャング団のアジトと思しきアパートに踏み込むのだが・・・
大恐慌が経済を直撃し、禁酒法の残滓が社会に後を引く1930年代は、数々の犯罪者が米国裏社会の歴史を闊歩した。
マシンガン・ケリー、ボニー&クライド、ラッキー・ルチアーノといったギャングやマフィアは、ハリウッド映画でも御馴染みの面々だ。
その中にあって、後にFBIを創設し初代長官となるJ・E・フーヴァーから、「パブリック・エネミー(社会の敵)No.1」のレッテルを初めて貼られ、大捜査が展開されたのが、本作の主役ジョン・デリンジャーだ。
マイケル・マンは、デリンジャーが伝説の存在となる1933年から1944年7月に射殺されるまでのおよそ一年間の出来事を、テンポ良く展開させてゆく。
細かな時系列の差異や、登場人物の役割の変更はあるものの、物語は比較的史実に忠実に作られており、当初大衆の人気者だったデリンジャーが、徐々に追い詰められて行くプロセスは、時代背景も詳細に描かれていて物語に深みを加えている。
銀行強盗という犯罪そのものが金を稼ぐ手段として時代遅れとなり、デリンジャーの様な昔ながらのアウトローが、警察だけでなく犯罪組織からも邪魔者として狙われるという描写は、歴史に名を残した多くのギャングスターたちが、30年代を生き抜けなかった事の理由が垣間見られて興味深い。
マンの得意とする重厚なアクション演出も冴え、スタイリッシュなフィルムノワールとしても観応えは十分だ。
デリンジャーを演じるジョニー・デップが良い。
「ネバーランド」で演じたバリの様なナイーブな役から、ジャック・スパロウに代表されるオバカキャラまで、この人の芸域は実はとても広いのだが、所謂カメレオンアクターとは少し違う気がする。
意図している訳ではないだろうが、役柄のコアの部分にジョニー・デップというスターの存在感を必ず残しているのだ。
本作の場合も、どう見てもカタギではない眼光鋭い犯罪者を丁寧に演じているのだが、「世界一セクシーな男」であるデップもキャラクターの中にちゃんといて、このあたりが女性ファンを惹きつける秘密なのかなと思う。
このデップならではのデリンジャー像を得て、彼とマリオン・コティヤールという美形カップルのロマンスを物語の横軸に、ライバル的な位置付けとなるクリスチャン・ベールとの戦いを縦軸に設定するという物語の構造は、本作の味わいを男性的なフィルムノワールとは一味違った重層的な味わいのある作品にしている。
ただ、これは同時に物語の構造上の欠点にもなってしまっている。
縦軸と横軸がそれぞれ別々の方向性を持って拡散し、ドラマチックに収束するポイントを持たないために、作品の印象がややぼやけてしまったのだ。
本来ならデップに伍する主役級の印象でなければならない、クリスチャン・ベールとマリオン・コティヤールも、「重要な脇役」以上の印象になっていないのが本作の問題を端的に現している。
特に残念なのは、デリンジャーとビリーの間にある絆の所以をあまり感じられなかった事か。
偶然出会った彼らが何故それほど惹かれあい、また滅んで行くのかという説得力が、実際に二人が共にする時間が短く、内面の描写不足もあって少し弱い。
二人の間にある情念の様な物を十分感じさせてくれていたら、この作品の魅力は更に増したはずである。
マンを初めロナン・ベネット、アン・ビダーマンの脚本陣は、伝説のギャングの太く短く刹那的な生を魅力的に描いているが、どうせならもう一歩踏み込んで欲しかったところだ。
脚色で面白いのは、デリンジャー伝説の中で必ず語られる「赤いドレスの女」の逸話が形を変えている事だろう。
史実では、映画館での待ち伏せの時、警察の協力者であるアンナが、目立ちやすくするために赤いドレスを着ていた。
この事が有名になった事で、「赤いドレスの女(the lady in red)」は男を破滅させる魔性の女の事を指すスラングとして今に残るのである。
ローレンス・カスダン監督のサスペンス映画の佳作“Body Heat”に、「白いドレスの女」というもじった邦題をつけた人も、このスラングを知っていたのだろう。
ところがこの映画では、クライマックスのアンナはごく普通の服装で、彼女の代わりに目にも鮮やかな赤いドレスに身を包んで登場するのがヒロインであるビリー・フレシェットという訳だ。
物語的にも、彼女に出会ったことで、デリンジャーはいつの間にか破滅へのスパイラルから逃れられなくなっているので、この作品の場合確かに赤いドレスの女はビリーが相応しいのかも知れない。
今回は、ジョニー・デップの愛飲酒である「ぺルノ・アブサン」をチョイス。
お友達でアブサン狂として知られるマリリン・マンソンにアブサンの魅力を教え込まれて以来、色々なアブサンを夜な夜な楽しんでいるそうな。
一時はニガヨモギの覚醒作用が問題視されて製造を禁止されていたこの酒、そう言えばデップは「フロム・ヘル」の中で、かなりキケンな古式の飲み方を披露していたっけ。
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過去に何度も映像化されてきたキャラクターだが、映画では1973年にジョン・ミリアス監督、ウォーレン・オーツ主演で作られた、その名も「デリンジャー」が有名だろうか。
映像派のマイケル・マン監督による「パブリック・エネミーズ」は、男臭いフィルムノワールであるのは相変わらずながら、主演に優男のジョニー・デップを迎え、デリンジャーのロマンスにスポットを当てた事もあり、歴代デリンジャーの中でもっともスタイリッシュでオシャレなムードを持つ作品となった。
1933年、大恐慌下のアメリカ。
次々と銀行を襲うギャングのジョン・デリンジャー(ジョニー・デップ)は、決して庶民の金には手を出さない義賊として大衆からも持てはやされていた。
そんな状況を苦々しく見ていた捜査局のフーヴァー長官(ビリー・クラダップ)は、敏腕捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)を彼が潜伏するシカゴに送り込む。
一方のデリンジャーは、レストランで見かけた赤いドレスの女、ビリー・フレシェット(マリオン・コティヤール)に心を奪われ、恋に落ちていた。
シカゴに着任したパーヴィスは、デリンジャーのギャング団のアジトと思しきアパートに踏み込むのだが・・・
大恐慌が経済を直撃し、禁酒法の残滓が社会に後を引く1930年代は、数々の犯罪者が米国裏社会の歴史を闊歩した。
マシンガン・ケリー、ボニー&クライド、ラッキー・ルチアーノといったギャングやマフィアは、ハリウッド映画でも御馴染みの面々だ。
その中にあって、後にFBIを創設し初代長官となるJ・E・フーヴァーから、「パブリック・エネミー(社会の敵)No.1」のレッテルを初めて貼られ、大捜査が展開されたのが、本作の主役ジョン・デリンジャーだ。
マイケル・マンは、デリンジャーが伝説の存在となる1933年から1944年7月に射殺されるまでのおよそ一年間の出来事を、テンポ良く展開させてゆく。
細かな時系列の差異や、登場人物の役割の変更はあるものの、物語は比較的史実に忠実に作られており、当初大衆の人気者だったデリンジャーが、徐々に追い詰められて行くプロセスは、時代背景も詳細に描かれていて物語に深みを加えている。
銀行強盗という犯罪そのものが金を稼ぐ手段として時代遅れとなり、デリンジャーの様な昔ながらのアウトローが、警察だけでなく犯罪組織からも邪魔者として狙われるという描写は、歴史に名を残した多くのギャングスターたちが、30年代を生き抜けなかった事の理由が垣間見られて興味深い。
マンの得意とする重厚なアクション演出も冴え、スタイリッシュなフィルムノワールとしても観応えは十分だ。
デリンジャーを演じるジョニー・デップが良い。
「ネバーランド」で演じたバリの様なナイーブな役から、ジャック・スパロウに代表されるオバカキャラまで、この人の芸域は実はとても広いのだが、所謂カメレオンアクターとは少し違う気がする。
意図している訳ではないだろうが、役柄のコアの部分にジョニー・デップというスターの存在感を必ず残しているのだ。
本作の場合も、どう見てもカタギではない眼光鋭い犯罪者を丁寧に演じているのだが、「世界一セクシーな男」であるデップもキャラクターの中にちゃんといて、このあたりが女性ファンを惹きつける秘密なのかなと思う。
このデップならではのデリンジャー像を得て、彼とマリオン・コティヤールという美形カップルのロマンスを物語の横軸に、ライバル的な位置付けとなるクリスチャン・ベールとの戦いを縦軸に設定するという物語の構造は、本作の味わいを男性的なフィルムノワールとは一味違った重層的な味わいのある作品にしている。
ただ、これは同時に物語の構造上の欠点にもなってしまっている。
縦軸と横軸がそれぞれ別々の方向性を持って拡散し、ドラマチックに収束するポイントを持たないために、作品の印象がややぼやけてしまったのだ。
本来ならデップに伍する主役級の印象でなければならない、クリスチャン・ベールとマリオン・コティヤールも、「重要な脇役」以上の印象になっていないのが本作の問題を端的に現している。
特に残念なのは、デリンジャーとビリーの間にある絆の所以をあまり感じられなかった事か。
偶然出会った彼らが何故それほど惹かれあい、また滅んで行くのかという説得力が、実際に二人が共にする時間が短く、内面の描写不足もあって少し弱い。
二人の間にある情念の様な物を十分感じさせてくれていたら、この作品の魅力は更に増したはずである。
マンを初めロナン・ベネット、アン・ビダーマンの脚本陣は、伝説のギャングの太く短く刹那的な生を魅力的に描いているが、どうせならもう一歩踏み込んで欲しかったところだ。
脚色で面白いのは、デリンジャー伝説の中で必ず語られる「赤いドレスの女」の逸話が形を変えている事だろう。
史実では、映画館での待ち伏せの時、警察の協力者であるアンナが、目立ちやすくするために赤いドレスを着ていた。
この事が有名になった事で、「赤いドレスの女(the lady in red)」は男を破滅させる魔性の女の事を指すスラングとして今に残るのである。
ローレンス・カスダン監督のサスペンス映画の佳作“Body Heat”に、「白いドレスの女」というもじった邦題をつけた人も、このスラングを知っていたのだろう。
ところがこの映画では、クライマックスのアンナはごく普通の服装で、彼女の代わりに目にも鮮やかな赤いドレスに身を包んで登場するのがヒロインであるビリー・フレシェットという訳だ。
物語的にも、彼女に出会ったことで、デリンジャーはいつの間にか破滅へのスパイラルから逃れられなくなっているので、この作品の場合確かに赤いドレスの女はビリーが相応しいのかも知れない。
今回は、ジョニー・デップの愛飲酒である「ぺルノ・アブサン」をチョイス。
お友達でアブサン狂として知られるマリリン・マンソンにアブサンの魅力を教え込まれて以来、色々なアブサンを夜な夜な楽しんでいるそうな。
一時はニガヨモギの覚醒作用が問題視されて製造を禁止されていたこの酒、そう言えばデップは「フロム・ヘル」の中で、かなりキケンな古式の飲み方を披露していたっけ。

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2009年12月07日 (月) | 編集 |
ピクサー・アニメーションスタジオの、記念すべき長編10作品目は、「モンスターズ・インク」のピート・ドクターによる8年ぶりの監督作「カールじいさんの空飛ぶ家」である。
なんともまんまな邦題だが、原題の方は超シンプルに「UP」なのでやむを得ないか。
妻を亡くした老人と、思い出の詰まった家に纏わる物語というのは、昨年度のアカデミー賞で短編アニメーション賞に輝いた加藤久仁監督の「つみきのいえ」を連想させるが、発想は似ていてもこちらはピクサーらしい大冒険活劇。
本作の主人公であるカールじいさんとラッセル少年の様に、老人から子供まであらゆる観客層が満足できるだろう。
長年連れ添った妻のエリーと死別したカール(エドワード・アスナー)は78歳。
二人で暮らした家の周りは再開発され、立ち退きを迫られている。
いよいよ家を明け渡さなければならなくなった時、カールは遠い昔にエリーと二人でいつか行こうと約束した、南米のパラダイス・フォールへの旅を思いつく。
そこはカールが子供の頃に、冒険家のマンツ(クリストファー・プラマー)によって発見された滝で、幼いカールとエリーの冒険心を掻き立てる夢の秘境だった。
風船売りを仕事にしていたカールは、ありったけの風船を家に結びつけ、空高く舞い上がる。
ところが、近所の少年ラッセル(ジョーダン・ナガイ)がいつの間にか空飛ぶ家に乗り込んでしまっていた事から、旅は思わぬ方向に・・・
冒頭の少年時代のカールとエリーの出会いから、二人が過ごした70年間を描いた数分間が素晴らしい。
結婚式以降は台詞の無い、この濃密なシークエンスは間違いなく本編の白眉である。
私はもうここだけでウルウルとしてしまった。
よく長年連れ添った夫婦は、出来れば夫が先に逝くのが良いというが、これは逆のパターンになってしまった夫が、人生の最後の冒険へと踏み出す映画。
亡き妻との約束の場所、天空の台地にあるその名もパラダイス・フォールという滝に、沢山の風船をつけた家ごと飛んで行くという展開からも判るように、これはカールにとって亡き妻の後を追う死への旅立ちである。
それが、ラッセル少年という予期せぬ珍入者によって、旅の意味が大きく変わってくる。
ラッセルもまた複雑な家庭事情から、カールとは違った意味で孤独を抱えており、自分を必要としてくれる人、自分の居場所を探しているのだ。
物語の途中から、カールとラッセルはテーブルマウンテンに降り、それ以降はずっと浮かんでいる家を引っ張っている。
それはあたかも、エリーの魂が二人の人生の旅路を見守っている様で象徴的だ。
これは孤独な疎外感を抱える一見対照的な二人が、文字通り天国への旅を通して、逆説的に人生の次のステップへと踏み出す道筋を見つける物語なのである。
アニメとは言え、冒険活劇の主役が70代の爺さんというのが面白い。
昨年の「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」では67歳のハリソンフォードが頑張っていたが、カールじいさんの設定年齢はそれよりも11歳も上だ。
映像的に面白いだけでなく、老人と少年というコンビネーションを作品の軸にする事によって、物語が寓話的になり、普遍的なテーマがとてもわかり易く伝わってくる。
自分の監督作品だけでな、く「トイ・ストーリー」や「WALL-E/ウォーリー」などの作品でも物語作りのスペシャリストとして活躍してるピート・ドクターはさすがに上手い。
この人の描く物語は、人間でもロボットでもモンスターでも、登場するキャラクターに対する深い愛情と、全体に流れる詩情と哀愁が印象的だが、今回は特に彼の持ち味が良く出ていると思う。
約束の地、パラダイス・フォールのモデルになっているのは、南米ギアナ高地のテーブルマウンテンにある世界一の落差978メートルを誇るエンジェル・フォールである。
映画ではカールが子供の頃に、冒険家のチャールズ・マンツによって発見された事になっているが、実際にこの滝は今から70年ほど前にアメリカ人飛行士のジミー・エンジェルによって空から発見されているので、物語と現実の年代は合っている。
更にギアナ高地と言えば、あのコナン・ドイルの古典SFの傑作「ロスト・ワールド」の舞台である。
小説ではテーブルマウンテンの上に、恐竜たちが生き残っていたが、マンツが絶滅した幻の鳥を追って、この地に留まっているという設定は多分にドイルの小説を意識したものだろう。
1930年代は多くの航空探検家によって、地図上の空白地帯が次々と埋められていった時代で、この時代の子供たちにとって探検家は正にヒーロー。
そんな憧れの人物が「ドクター・モローの島」の様な、自家製バウリンガルを使うマッドサイエンティストに成ってしまうのは、これもまた人生長く生きていると味わう皮肉な巡りあわせという事なのだろうけど、カールが78歳だとすると、マンツは一体何歳なのか??
マッドサイエンティストの技で若返ってるのかも知れないが、格闘シーンでぎっくり腰になってしまう冒険活劇って斬新だ(笑
そう言えば、ピクサー作品はドリームワークス系のアニメとは対照的に、キャラクターデザインから演じる俳優のイメージを排除していたが、今回は主役のカール爺さんを演じるエドワード・アスナーと、マンツを演じるクリストファー・プラマーはかなりキャラクターと本人が似ている。
まあ二人ともカリカチュアしやすそうな顔の作りだし、役者としても自分に似ていると感情が入りやすいのかもしれないけど。
ちなみに少女時代のエリーを演じているのはピート・ドクター監督の娘さん、エリー・ドクターである。
テスト用に仮で録った声が良かったので、そのまま出演となったらしいが、キャラの名前は当然意識して付けたのだろう。
良いお父さんだなあ・・・子供にとって最高の思い出じゃないだろうか。
映像的にも相変わらずクオリティが高い。
キャラクターアニメーションの見事さは言わずもがなだが、今回の技術的なハイライトは空気感の表現だろう。
靄や霧、あるいは埃の反射が美しく、画面に深い奥行きを与えている。
本作にはピクサー作品としては初めて3D立体上映版が用意されているが、恐らくは立体効果を高めるための手法の一つとしてトライされているのだと思う。
この作品の空気感と光の表現は、2004年に製作され翌年のアカデミー短編アニメーション賞にノミネートされたパク・セジョン監督による韓国・豪州合作のCGアニメーション「BIRTHDAY BOY」に画作りの考え方がよく似ている。
もちろん物語の背景は全く異なるが、あの作品も飛行帽を被った少年が主人公だったし、何らかの影響を受けているのかもしれない。
もっとも、早くから立体映像の演出を追及していたロバート・ゼメキスの「Disney's クリスマス・キャロル」と比べると、この作品には積極的に立体感をアピールする演出は殆ど観られない。
映像のクオリティの高さは別に立体でなくても味わえる類の物なので、あえて追加料金を出して立体版を観賞する理由はあまり見出せない。
むしろ広がりのあるカラフルな映像は通常版の方がじっくりと味わえるかもしれない。
同時上映の短編、「Partly Cloudy」は、命を作り出す雷雲とコウノトリの物語。
もう一ひねり欲しかった気もするが、クスッと笑えてちょっとホロリとするセンスの良い短編映画だ。
これが初監督となるピーター・ソンは、「カール爺さんの空飛ぶ家」でもストーリーボードを担当している韓国系アメリカ人で、ラッセル少年のモデルでもある。
笑っちゃうくらい似てるので、“Peter Sohn”で画像検索してみて欲しい。
今回は、カールとエリーの約束の場所から「パラダイス」をチョイス。
ドライ・ジンとアプリコット・ブランデー、オレンジ・ジュースを30ml:15ml:15mlでシェイクする。
美しいイエローのカクテルで、その味も長年連れ添った夫婦の間に流れる空気の様に、風味豊かでまろやかな物。
この映画の〆にぴったりである。
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なんともまんまな邦題だが、原題の方は超シンプルに「UP」なのでやむを得ないか。
妻を亡くした老人と、思い出の詰まった家に纏わる物語というのは、昨年度のアカデミー賞で短編アニメーション賞に輝いた加藤久仁監督の「つみきのいえ」を連想させるが、発想は似ていてもこちらはピクサーらしい大冒険活劇。
本作の主人公であるカールじいさんとラッセル少年の様に、老人から子供まであらゆる観客層が満足できるだろう。
長年連れ添った妻のエリーと死別したカール(エドワード・アスナー)は78歳。
二人で暮らした家の周りは再開発され、立ち退きを迫られている。
いよいよ家を明け渡さなければならなくなった時、カールは遠い昔にエリーと二人でいつか行こうと約束した、南米のパラダイス・フォールへの旅を思いつく。
そこはカールが子供の頃に、冒険家のマンツ(クリストファー・プラマー)によって発見された滝で、幼いカールとエリーの冒険心を掻き立てる夢の秘境だった。
風船売りを仕事にしていたカールは、ありったけの風船を家に結びつけ、空高く舞い上がる。
ところが、近所の少年ラッセル(ジョーダン・ナガイ)がいつの間にか空飛ぶ家に乗り込んでしまっていた事から、旅は思わぬ方向に・・・
冒頭の少年時代のカールとエリーの出会いから、二人が過ごした70年間を描いた数分間が素晴らしい。
結婚式以降は台詞の無い、この濃密なシークエンスは間違いなく本編の白眉である。
私はもうここだけでウルウルとしてしまった。
よく長年連れ添った夫婦は、出来れば夫が先に逝くのが良いというが、これは逆のパターンになってしまった夫が、人生の最後の冒険へと踏み出す映画。
亡き妻との約束の場所、天空の台地にあるその名もパラダイス・フォールという滝に、沢山の風船をつけた家ごと飛んで行くという展開からも判るように、これはカールにとって亡き妻の後を追う死への旅立ちである。
それが、ラッセル少年という予期せぬ珍入者によって、旅の意味が大きく変わってくる。
ラッセルもまた複雑な家庭事情から、カールとは違った意味で孤独を抱えており、自分を必要としてくれる人、自分の居場所を探しているのだ。
物語の途中から、カールとラッセルはテーブルマウンテンに降り、それ以降はずっと浮かんでいる家を引っ張っている。
それはあたかも、エリーの魂が二人の人生の旅路を見守っている様で象徴的だ。
これは孤独な疎外感を抱える一見対照的な二人が、文字通り天国への旅を通して、逆説的に人生の次のステップへと踏み出す道筋を見つける物語なのである。
アニメとは言え、冒険活劇の主役が70代の爺さんというのが面白い。
昨年の「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」では67歳のハリソンフォードが頑張っていたが、カールじいさんの設定年齢はそれよりも11歳も上だ。
映像的に面白いだけでなく、老人と少年というコンビネーションを作品の軸にする事によって、物語が寓話的になり、普遍的なテーマがとてもわかり易く伝わってくる。
自分の監督作品だけでな、く「トイ・ストーリー」や「WALL-E/ウォーリー」などの作品でも物語作りのスペシャリストとして活躍してるピート・ドクターはさすがに上手い。
この人の描く物語は、人間でもロボットでもモンスターでも、登場するキャラクターに対する深い愛情と、全体に流れる詩情と哀愁が印象的だが、今回は特に彼の持ち味が良く出ていると思う。
約束の地、パラダイス・フォールのモデルになっているのは、南米ギアナ高地のテーブルマウンテンにある世界一の落差978メートルを誇るエンジェル・フォールである。
映画ではカールが子供の頃に、冒険家のチャールズ・マンツによって発見された事になっているが、実際にこの滝は今から70年ほど前にアメリカ人飛行士のジミー・エンジェルによって空から発見されているので、物語と現実の年代は合っている。
更にギアナ高地と言えば、あのコナン・ドイルの古典SFの傑作「ロスト・ワールド」の舞台である。
小説ではテーブルマウンテンの上に、恐竜たちが生き残っていたが、マンツが絶滅した幻の鳥を追って、この地に留まっているという設定は多分にドイルの小説を意識したものだろう。
1930年代は多くの航空探検家によって、地図上の空白地帯が次々と埋められていった時代で、この時代の子供たちにとって探検家は正にヒーロー。
そんな憧れの人物が「ドクター・モローの島」の様な、自家製バウリンガルを使うマッドサイエンティストに成ってしまうのは、これもまた人生長く生きていると味わう皮肉な巡りあわせという事なのだろうけど、カールが78歳だとすると、マンツは一体何歳なのか??
マッドサイエンティストの技で若返ってるのかも知れないが、格闘シーンでぎっくり腰になってしまう冒険活劇って斬新だ(笑
そう言えば、ピクサー作品はドリームワークス系のアニメとは対照的に、キャラクターデザインから演じる俳優のイメージを排除していたが、今回は主役のカール爺さんを演じるエドワード・アスナーと、マンツを演じるクリストファー・プラマーはかなりキャラクターと本人が似ている。
まあ二人ともカリカチュアしやすそうな顔の作りだし、役者としても自分に似ていると感情が入りやすいのかもしれないけど。
ちなみに少女時代のエリーを演じているのはピート・ドクター監督の娘さん、エリー・ドクターである。
テスト用に仮で録った声が良かったので、そのまま出演となったらしいが、キャラの名前は当然意識して付けたのだろう。
良いお父さんだなあ・・・子供にとって最高の思い出じゃないだろうか。
映像的にも相変わらずクオリティが高い。
キャラクターアニメーションの見事さは言わずもがなだが、今回の技術的なハイライトは空気感の表現だろう。
靄や霧、あるいは埃の反射が美しく、画面に深い奥行きを与えている。
本作にはピクサー作品としては初めて3D立体上映版が用意されているが、恐らくは立体効果を高めるための手法の一つとしてトライされているのだと思う。
この作品の空気感と光の表現は、2004年に製作され翌年のアカデミー短編アニメーション賞にノミネートされたパク・セジョン監督による韓国・豪州合作のCGアニメーション「BIRTHDAY BOY」に画作りの考え方がよく似ている。
もちろん物語の背景は全く異なるが、あの作品も飛行帽を被った少年が主人公だったし、何らかの影響を受けているのかもしれない。
もっとも、早くから立体映像の演出を追及していたロバート・ゼメキスの「Disney's クリスマス・キャロル」と比べると、この作品には積極的に立体感をアピールする演出は殆ど観られない。
映像のクオリティの高さは別に立体でなくても味わえる類の物なので、あえて追加料金を出して立体版を観賞する理由はあまり見出せない。
むしろ広がりのあるカラフルな映像は通常版の方がじっくりと味わえるかもしれない。
同時上映の短編、「Partly Cloudy」は、命を作り出す雷雲とコウノトリの物語。
もう一ひねり欲しかった気もするが、クスッと笑えてちょっとホロリとするセンスの良い短編映画だ。
これが初監督となるピーター・ソンは、「カール爺さんの空飛ぶ家」でもストーリーボードを担当している韓国系アメリカ人で、ラッセル少年のモデルでもある。
笑っちゃうくらい似てるので、“Peter Sohn”で画像検索してみて欲しい。
今回は、カールとエリーの約束の場所から「パラダイス」をチョイス。
ドライ・ジンとアプリコット・ブランデー、オレンジ・ジュースを30ml:15ml:15mlでシェイクする。
美しいイエローのカクテルで、その味も長年連れ添った夫婦の間に流れる空気の様に、風味豊かでまろやかな物。
この映画の〆にぴったりである。

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2009年12月02日 (水) | 編集 |
「戦場でワルツを」は、イスラエルの映画監督アリ・フォルマンによる、自身の記憶を巡る長編ドキュメンタリーアニメーションという異色作だ。
本年度の米アカデミー賞外国語映画部門で、「おくりびと」の対抗馬であった事でも話題になったが、その「おくりびと」の本木雅弘も、「最後までこちらが本命と思っていた」と語るように、世界各国の映画祭を席巻し、日本でも東京フィルメックスで最優秀作品賞を受賞した作品でもある。
2006年、フォルマンは兵役時代の旧友と再会し、1982年のレバノンでの戦争にまつわる悪夢を見るという話を聞く。
それは無数の怒り狂った犬によって追い立てられるという恐ろしいものだったが、フォルマンは自分自身のレバノンでの記憶がすっかり抜け落ちている事に気づく。
唯一覚えているのは、レバノンの海岸で戦闘を見ながら海水浴をしているという奇妙な幻想のようなイメージのみ。
友人の精神科医の助言を受けたフォルマンは、当時の戦友や関係者に会って話を聞きながら、いったい自分はレバノンで何をして、何を見たのかという核心に徐々に迫ってゆくのである。
人の記憶はいい加減な物で、強いショックを受けたり、覚えていると都合の悪い事実などは、偽りの記憶によってかき消されてしまったりするという。
傷口がやがてかさぶたで覆われる様なものだろう。
これは、戦争という鮮烈な体験の記憶を失った一人の映画作家が、自らの記憶を探して過去へ旅する過程を描いた、ある種の心象的ロードムービーと言える。
映画の背景にあるのは、1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻である。
1975年の内戦勃発以来、キリスト教、イスラム教、宗教各派が抗争を繰り広げていたレバノンに、PLO強硬派排除を目指したイスラエルが侵攻し、イスラム系の街だった西ベイルートを支配下に置く。
そのまま傀儡政権の樹立を目指したものの、大統領に当選したばかりのキリスト教徒のカリスマ的な指導者バシール・ジェマイエルが暗殺される事態となり、報復として起こったのがレバノンのキリスト教右派ファランヘ党の民兵によるパレスチナ人の虐殺事件「サブラ・シャティーラの虐殺」である。
果たして当時19歳の新兵だったフォルマンは一体そこで何を見たのか。
この時を遡る内面への旅を、フォルマンはドキュメンタリーアニメーションという手法で描き、彼の心に封印された真実の記憶を明らかにして行く。
アニメーションによってドキュメンタリーを描くという試みは、斬新ではあるが過去にも例がある。
2004年のアカデミー短編アニメーション賞を受賞した「ライアン」では、クリス・ランドレス監督がホームレスのアニメーション作家ライアン・ラーキンへのインタビューを、心象風景をカリカチュアした3DCGアニメーションとして描いた。
ドキュメンタリー映画の始祖の一人であるジガ・ヴェルトフが、アニメーションも重要な手法として研究していた事からも判るように、フィクションではない現実の人間の心理の奥底を表現するのに、物事の本質を映像的なメタファーとして表現できるアニメーションは、実は非常に有効な手法なのである。
暗く冷たいタッチで心の闇を描く本作のアニメーションは、一見リチャード・リンクレイターが用いるロトスコープの技法に似ている。
彼の「スキャナ・ダークリー」や「ウェイキング・ライフ」も、心象風景をそのまま映像にした様な、一種独特の世界を作り出していた。
もっとも、「戦場でワルツを」とリンクレイターの作品とは、技術的にはそれほど共通項は無い様だ。
3DCGと手描きのアニメーション、更にはフラッシュによる切り絵に近い技法をミックスして作られた本作の映像は、リアリティを持ちながら現実にはあり得ない悪夢的な記憶の世界を、淡々と描写する。
キャラクターとして描かれる19歳当時のフォルマンの目はまるで小さな丸いレンズのように、全く感情が宿っていないように見える。
アマチュアカメラマンがファインダー越しに戦場を見ると、恐怖を感じずに高揚感だけが得られるという劇中のたとえ話そのままに、彼の目はそこで起こっている事を見てはいても、心では見る事を拒否していたのだろう。
映画は、フォルマンと同じくレバノンに侵攻した元兵士たちだけでなく、サブラ・シャティーラの虐殺を取材した著名なジャーナリストのロン・ベンイシャイにもインタビューする。
これにより、フォルマンは恐らくより客観的なビジョンを掴んだのだと思う。
ちなみにこの作品の原題「バシールとワルツを」というタイトルは、ベンイシャイの取材した市街戦の最中に、フレンケルという兵士が巨大なバシール・ジェマイエルの看板の前で、ショパンのワルツにのせて踊るように機関銃を乱射する印象的なシーンから取られている。
当時を知る者たちへのインタビューを通して、少しずつ記憶を取り戻したフォルマンは、ついに虐殺当日の記憶に向き合う事になり、ここで映画はアニメーションから虐殺を伝える実写のニュース映像に切り替わる。
個人の中のあいまいな記憶という虚構が、現実の記録とシンクロする瞬間であり、スティーブン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」のラストで、モノクロの映画が突然カラーとなり、俳優ではない登場人物の現在の姿が登場するシーンを髣髴とさせる。
映画の手法としては限りなく禁じ手に近いと思うが、それまでいかにドキュメンタリーとは言っても、アニメーションというイメージの世界を観ていた観客へのインパクトは絶大だ。
「戦場でワルツを」は恐らくイスラエルではある種のタブーを破った作品なのだろう。
それ故なのか、海外での圧倒的な賛辞とは対照的に、本国での公開は比較的小規模だったという。
もちろんこれを戦争を告発した社会派映画として観るならは、いくつかの不満もある。
この映画には一方の当事者であるパレスチナの声は反映されていないし、実際に虐殺を行った民兵への追求も無い。
それによってここに描かれているイスラエル軍の姿は、フォルマン同様の傍観者に見える。
海外の観客としては、この戦争におけるイスラエル軍の役割りが、作者の中でこれもまた無意識の内に矮小化されている様に感じてしまうのも事実である。
ただ、逆に海外ではそれほど伝わらなくても、イスラエル人が観たら強烈なアイロニーとして表現されているのだろうなと感じる部分もある。
本作の登場人物は、何度かサブラ・シャティーラの虐殺とホロコーストを関連して考える発言をする。
虐殺の当事者である ファランヘ党は、元々レバノン独立運動の中で過激なキリスト教保守派が、ナチスや伊ファシスト党をモデルに作った極右政党である。
いわばヒットラーの亡霊の行為をユダヤ人であるイスラエル軍が黙認する事の意味を、この映画で突きつけられたイスラエル人の思いはいかに複雑だろうか。
もっとも、根本的な部分で、これはあくまでもアリ・フォルマンという個人の記憶を追った作品であり、その点で社会的・歴史的な視点を過度に求めるのは間違いなのかもしれないが。
多くの血が流されたレバノンは、キリスト教文化が根付き、地中海に面した温暖な気候などの条件も申し分なく、中東地域のワイン大国である。
今回はレバノンの代表的な銘柄「シャトー・ミュザール レッド」の'99年物をチョイス。
カベルネ他三種類の葡萄から作られる、複雑でへヴィーなボディを持つ味わい深い赤である。
いまだ不安定な政情が続くこの地域、高級リゾート地として知られていた頃の平和を取り戻し、人々が安心してワインを楽しめる国になってほしいものだ。
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本年度の米アカデミー賞外国語映画部門で、「おくりびと」の対抗馬であった事でも話題になったが、その「おくりびと」の本木雅弘も、「最後までこちらが本命と思っていた」と語るように、世界各国の映画祭を席巻し、日本でも東京フィルメックスで最優秀作品賞を受賞した作品でもある。
2006年、フォルマンは兵役時代の旧友と再会し、1982年のレバノンでの戦争にまつわる悪夢を見るという話を聞く。
それは無数の怒り狂った犬によって追い立てられるという恐ろしいものだったが、フォルマンは自分自身のレバノンでの記憶がすっかり抜け落ちている事に気づく。
唯一覚えているのは、レバノンの海岸で戦闘を見ながら海水浴をしているという奇妙な幻想のようなイメージのみ。
友人の精神科医の助言を受けたフォルマンは、当時の戦友や関係者に会って話を聞きながら、いったい自分はレバノンで何をして、何を見たのかという核心に徐々に迫ってゆくのである。
人の記憶はいい加減な物で、強いショックを受けたり、覚えていると都合の悪い事実などは、偽りの記憶によってかき消されてしまったりするという。
傷口がやがてかさぶたで覆われる様なものだろう。
これは、戦争という鮮烈な体験の記憶を失った一人の映画作家が、自らの記憶を探して過去へ旅する過程を描いた、ある種の心象的ロードムービーと言える。
映画の背景にあるのは、1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻である。
1975年の内戦勃発以来、キリスト教、イスラム教、宗教各派が抗争を繰り広げていたレバノンに、PLO強硬派排除を目指したイスラエルが侵攻し、イスラム系の街だった西ベイルートを支配下に置く。
そのまま傀儡政権の樹立を目指したものの、大統領に当選したばかりのキリスト教徒のカリスマ的な指導者バシール・ジェマイエルが暗殺される事態となり、報復として起こったのがレバノンのキリスト教右派ファランヘ党の民兵によるパレスチナ人の虐殺事件「サブラ・シャティーラの虐殺」である。
果たして当時19歳の新兵だったフォルマンは一体そこで何を見たのか。
この時を遡る内面への旅を、フォルマンはドキュメンタリーアニメーションという手法で描き、彼の心に封印された真実の記憶を明らかにして行く。
アニメーションによってドキュメンタリーを描くという試みは、斬新ではあるが過去にも例がある。
2004年のアカデミー短編アニメーション賞を受賞した「ライアン」では、クリス・ランドレス監督がホームレスのアニメーション作家ライアン・ラーキンへのインタビューを、心象風景をカリカチュアした3DCGアニメーションとして描いた。
ドキュメンタリー映画の始祖の一人であるジガ・ヴェルトフが、アニメーションも重要な手法として研究していた事からも判るように、フィクションではない現実の人間の心理の奥底を表現するのに、物事の本質を映像的なメタファーとして表現できるアニメーションは、実は非常に有効な手法なのである。
暗く冷たいタッチで心の闇を描く本作のアニメーションは、一見リチャード・リンクレイターが用いるロトスコープの技法に似ている。
彼の「スキャナ・ダークリー」や「ウェイキング・ライフ」も、心象風景をそのまま映像にした様な、一種独特の世界を作り出していた。
もっとも、「戦場でワルツを」とリンクレイターの作品とは、技術的にはそれほど共通項は無い様だ。
3DCGと手描きのアニメーション、更にはフラッシュによる切り絵に近い技法をミックスして作られた本作の映像は、リアリティを持ちながら現実にはあり得ない悪夢的な記憶の世界を、淡々と描写する。
キャラクターとして描かれる19歳当時のフォルマンの目はまるで小さな丸いレンズのように、全く感情が宿っていないように見える。
アマチュアカメラマンがファインダー越しに戦場を見ると、恐怖を感じずに高揚感だけが得られるという劇中のたとえ話そのままに、彼の目はそこで起こっている事を見てはいても、心では見る事を拒否していたのだろう。
映画は、フォルマンと同じくレバノンに侵攻した元兵士たちだけでなく、サブラ・シャティーラの虐殺を取材した著名なジャーナリストのロン・ベンイシャイにもインタビューする。
これにより、フォルマンは恐らくより客観的なビジョンを掴んだのだと思う。
ちなみにこの作品の原題「バシールとワルツを」というタイトルは、ベンイシャイの取材した市街戦の最中に、フレンケルという兵士が巨大なバシール・ジェマイエルの看板の前で、ショパンのワルツにのせて踊るように機関銃を乱射する印象的なシーンから取られている。
当時を知る者たちへのインタビューを通して、少しずつ記憶を取り戻したフォルマンは、ついに虐殺当日の記憶に向き合う事になり、ここで映画はアニメーションから虐殺を伝える実写のニュース映像に切り替わる。
個人の中のあいまいな記憶という虚構が、現実の記録とシンクロする瞬間であり、スティーブン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」のラストで、モノクロの映画が突然カラーとなり、俳優ではない登場人物の現在の姿が登場するシーンを髣髴とさせる。
映画の手法としては限りなく禁じ手に近いと思うが、それまでいかにドキュメンタリーとは言っても、アニメーションというイメージの世界を観ていた観客へのインパクトは絶大だ。
「戦場でワルツを」は恐らくイスラエルではある種のタブーを破った作品なのだろう。
それ故なのか、海外での圧倒的な賛辞とは対照的に、本国での公開は比較的小規模だったという。
もちろんこれを戦争を告発した社会派映画として観るならは、いくつかの不満もある。
この映画には一方の当事者であるパレスチナの声は反映されていないし、実際に虐殺を行った民兵への追求も無い。
それによってここに描かれているイスラエル軍の姿は、フォルマン同様の傍観者に見える。
海外の観客としては、この戦争におけるイスラエル軍の役割りが、作者の中でこれもまた無意識の内に矮小化されている様に感じてしまうのも事実である。
ただ、逆に海外ではそれほど伝わらなくても、イスラエル人が観たら強烈なアイロニーとして表現されているのだろうなと感じる部分もある。
本作の登場人物は、何度かサブラ・シャティーラの虐殺とホロコーストを関連して考える発言をする。
虐殺の当事者である ファランヘ党は、元々レバノン独立運動の中で過激なキリスト教保守派が、ナチスや伊ファシスト党をモデルに作った極右政党である。
いわばヒットラーの亡霊の行為をユダヤ人であるイスラエル軍が黙認する事の意味を、この映画で突きつけられたイスラエル人の思いはいかに複雑だろうか。
もっとも、根本的な部分で、これはあくまでもアリ・フォルマンという個人の記憶を追った作品であり、その点で社会的・歴史的な視点を過度に求めるのは間違いなのかもしれないが。
多くの血が流されたレバノンは、キリスト教文化が根付き、地中海に面した温暖な気候などの条件も申し分なく、中東地域のワイン大国である。
今回はレバノンの代表的な銘柄「シャトー・ミュザール レッド」の'99年物をチョイス。
カベルネ他三種類の葡萄から作られる、複雑でへヴィーなボディを持つ味わい深い赤である。
いまだ不安定な政情が続くこの地域、高級リゾート地として知られていた頃の平和を取り戻し、人々が安心してワインを楽しめる国になってほしいものだ。

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