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2010年01月30日 (土) | 編集 |
世界一山あり谷ありな映画人生を歩む、孤高の映画作家テリー・ギリアム。
スタジオとケンカするぐらいは序の口で、「ドン・キホーテを殺した男」では度重なる様々な不幸の波状攻撃を受け、ついに制作を中止せざるを得なくなった顛末は、本編が存在しない最も有名なメイキングである「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳しい。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」では、何とドラマの中核を担う役を演じていたヒース・レジャーが、撮影中に急死するという悲劇に見舞われてしまう。
現実世界と変幻自在の幻想世界が入り混じる本作、不幸中の幸いにも現実世界のシーンは撮り終えていた事から、幻想世界のレジャーの役を生前レジャーと親交のあったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの三人が入れ替わって演じるという起死回生の裏ワザ駆使して、何とか完成に漕ぎ着けた。
現代のロンドン。
場末のパブの前で、今日もパルナサス博士率いる移動劇場の幕が開く。
一座は、もうすぐ16歳になる博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)と、彼女に思いを寄せる若者アントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)の四人構成。
観客をステージに置かれた「鏡」の中に誘って、不思議な体験をさせるというのだが、なかなか興味を持ってもらえず、いつも閑古鳥が鳴いている。
ある晩彼らは、橋の下で首を吊って死に掛けていたトニー(ヒース・レジャー)という男を助ける。
記憶を失っているというトニーは、すぐにヴァレンティナと親しくなり、色々なアイディアを出して一座の興行を盛り上げる。
だが、トニーには人に言えない秘密があって・・・
明確に、観客を選ぶ作品だと思う。
ここしばらく“らしさ”を失った作品が多かったが、本作は良くも悪くもギリアム節が全開だ。
パルナサスの一座の唯一最大のウリは、劇中で“イマジナリウム”と呼ばれるステージに置かれた不思議な「鏡」で、これは一見すると単なるハリボテなのだが、実はその鏡の中は入った人間の心が具現化する異世界につながっている。
初期の「バンデッドQ」や「バロン」を思わせる不思議世界の描写は、時間的にはそれほど長い物ではないが、ギリアムらしいシュールな造型に溢れており、観客を映画世界に誘うトリップ感はたっぷりだ。
この鏡というアイコンを使って語られるのは、ギリアムの考える「物語論」と言って良いだろう。
遠い昔、世界を存在させるために、「永遠の物語」を紡いでいたパルナサスは、Mr.ニックという悪魔に不死の存在にしてもらう。
やがて、ある女性に恋をした博士は、自らの若さを復活させるために、ニックとある契約を結ぶのだが、奇妙奇天烈な鏡はこの契約の産物で、不条理な鏡の世界に人間を誘い込み理想と欲望のどちらかを選択させる事で、悪魔と勝負を続けているのだ。
契約の期限は刻々と迫るが、博士はそのことを誰にも話せずに、絶望の淵に追い込まれつつある。
元々不明瞭な映画の輪郭は、パルナサスの葛藤と共に崩壊し、それが現実なのか、鏡の作り出す幻想なのか、そもそもどこまでがパルナサスの物語なのか、渾然一体に溶け合う様な作りとなっており、はっきりとしたコアは存在しない。
多分にレジャーの死による細部の変更が影響しているとは思うが、登場人物の位置づけもまたあやふやだ。
一見主役に見える謎の男トニーは、何時しか一座の中で客を鏡の世界へ誘う案内人の様な役割を演じる事になる。
鏡の中はその人物のイマジネーションを反映してるので、トニーの容貌も客の欲望によって、ジョニー・デップになったりジュード・ロウになったりと変化するという訳だ。
だが実際のところ、この話の主役はトニーではない。
この映画は、タイトルロールであるクリストファー・プラマー演じるパルナサス博士の語る、制御不能の物語に閉じ込められた鏡の世界であり、トニーもまた物語のモチーフに過ぎないのだ。
「Dr.パルサナスの鏡」とは、おそらく創造の悪魔と契約してしまい、どんなに不幸が襲い掛かろうとも、永遠に映画を作り続けなければならない、テリー・ギリアム自身の映画世界を描いた作品で、ボロボロになっても物語を語り続ける不死者パルナサスとは、要するにギリアム自身のメタファーだろう。
映画作家はスクリーンという自らの想像力の鏡に人々を誘い、そこで繰り広げられる物語に観客自身を投影させていると考えると、この作品自体が映画という物語る手段のカリカチュアとも思える。
映画の中の物語が境界を失って溶け合ってゆく様に、スクリーンの向こうとこちらもまた、作家と観客のイマジネーションによって融合してゆくのである。
この語り部と受け手の無限ループによって、ギリアムにとっての物語論はどうやら永続性に帰結する。
70年代末頃だっただろうか、何かの本で「物語は完結してはならない」と語っていた栗本薫は、実際本来100巻で完結予定だった「グイン・サーガ」を予定を遥に超えて書き続け、結局著者の死に至るまで完結しなかった。
また物語論的なファンタジーを多く残したミヒャエル・エンデが、友人で翻訳者の田村都志夫に自らの人生や作品について語った談話集「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」のあとがきで、田村氏は「エンデと話をするということは、あたかもミヒャエル・エンデという庭をあてもなく歩く様なものだった」と記している。
私はパルナサスが自らの物語の中で、迷い葛藤する姿に、この一文を思い出した。
スクリーンというギリアムの鏡の中で、ヒース・レジャーもまた永遠の物語の一部になったのかも知れない。
今回は、幻のギリアム映画に引っ掛けて「ドン・キホーテ」をチョイス。
ギネス・ビールとテキーラを30mlずつ、順にショットグラスへそそぐ。
本来は食前酒だが、夢うつつのような映画から目を覚ますにはこの超辛口がちょうどいい。
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こちらはバートン流の物語論
スタジオとケンカするぐらいは序の口で、「ドン・キホーテを殺した男」では度重なる様々な不幸の波状攻撃を受け、ついに制作を中止せざるを得なくなった顛末は、本編が存在しない最も有名なメイキングである「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳しい。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」では、何とドラマの中核を担う役を演じていたヒース・レジャーが、撮影中に急死するという悲劇に見舞われてしまう。
現実世界と変幻自在の幻想世界が入り混じる本作、不幸中の幸いにも現実世界のシーンは撮り終えていた事から、幻想世界のレジャーの役を生前レジャーと親交のあったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの三人が入れ替わって演じるという起死回生の裏ワザ駆使して、何とか完成に漕ぎ着けた。
現代のロンドン。
場末のパブの前で、今日もパルナサス博士率いる移動劇場の幕が開く。
一座は、もうすぐ16歳になる博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)と、彼女に思いを寄せる若者アントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)の四人構成。
観客をステージに置かれた「鏡」の中に誘って、不思議な体験をさせるというのだが、なかなか興味を持ってもらえず、いつも閑古鳥が鳴いている。
ある晩彼らは、橋の下で首を吊って死に掛けていたトニー(ヒース・レジャー)という男を助ける。
記憶を失っているというトニーは、すぐにヴァレンティナと親しくなり、色々なアイディアを出して一座の興行を盛り上げる。
だが、トニーには人に言えない秘密があって・・・
明確に、観客を選ぶ作品だと思う。
ここしばらく“らしさ”を失った作品が多かったが、本作は良くも悪くもギリアム節が全開だ。
パルナサスの一座の唯一最大のウリは、劇中で“イマジナリウム”と呼ばれるステージに置かれた不思議な「鏡」で、これは一見すると単なるハリボテなのだが、実はその鏡の中は入った人間の心が具現化する異世界につながっている。
初期の「バンデッドQ」や「バロン」を思わせる不思議世界の描写は、時間的にはそれほど長い物ではないが、ギリアムらしいシュールな造型に溢れており、観客を映画世界に誘うトリップ感はたっぷりだ。
この鏡というアイコンを使って語られるのは、ギリアムの考える「物語論」と言って良いだろう。
遠い昔、世界を存在させるために、「永遠の物語」を紡いでいたパルナサスは、Mr.ニックという悪魔に不死の存在にしてもらう。
やがて、ある女性に恋をした博士は、自らの若さを復活させるために、ニックとある契約を結ぶのだが、奇妙奇天烈な鏡はこの契約の産物で、不条理な鏡の世界に人間を誘い込み理想と欲望のどちらかを選択させる事で、悪魔と勝負を続けているのだ。
契約の期限は刻々と迫るが、博士はそのことを誰にも話せずに、絶望の淵に追い込まれつつある。
元々不明瞭な映画の輪郭は、パルナサスの葛藤と共に崩壊し、それが現実なのか、鏡の作り出す幻想なのか、そもそもどこまでがパルナサスの物語なのか、渾然一体に溶け合う様な作りとなっており、はっきりとしたコアは存在しない。
多分にレジャーの死による細部の変更が影響しているとは思うが、登場人物の位置づけもまたあやふやだ。
一見主役に見える謎の男トニーは、何時しか一座の中で客を鏡の世界へ誘う案内人の様な役割を演じる事になる。
鏡の中はその人物のイマジネーションを反映してるので、トニーの容貌も客の欲望によって、ジョニー・デップになったりジュード・ロウになったりと変化するという訳だ。
だが実際のところ、この話の主役はトニーではない。
この映画は、タイトルロールであるクリストファー・プラマー演じるパルナサス博士の語る、制御不能の物語に閉じ込められた鏡の世界であり、トニーもまた物語のモチーフに過ぎないのだ。
「Dr.パルサナスの鏡」とは、おそらく創造の悪魔と契約してしまい、どんなに不幸が襲い掛かろうとも、永遠に映画を作り続けなければならない、テリー・ギリアム自身の映画世界を描いた作品で、ボロボロになっても物語を語り続ける不死者パルナサスとは、要するにギリアム自身のメタファーだろう。
映画作家はスクリーンという自らの想像力の鏡に人々を誘い、そこで繰り広げられる物語に観客自身を投影させていると考えると、この作品自体が映画という物語る手段のカリカチュアとも思える。
映画の中の物語が境界を失って溶け合ってゆく様に、スクリーンの向こうとこちらもまた、作家と観客のイマジネーションによって融合してゆくのである。
この語り部と受け手の無限ループによって、ギリアムにとっての物語論はどうやら永続性に帰結する。
70年代末頃だっただろうか、何かの本で「物語は完結してはならない」と語っていた栗本薫は、実際本来100巻で完結予定だった「グイン・サーガ」を予定を遥に超えて書き続け、結局著者の死に至るまで完結しなかった。
また物語論的なファンタジーを多く残したミヒャエル・エンデが、友人で翻訳者の田村都志夫に自らの人生や作品について語った談話集「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」のあとがきで、田村氏は「エンデと話をするということは、あたかもミヒャエル・エンデという庭をあてもなく歩く様なものだった」と記している。
私はパルナサスが自らの物語の中で、迷い葛藤する姿に、この一文を思い出した。
スクリーンというギリアムの鏡の中で、ヒース・レジャーもまた永遠の物語の一部になったのかも知れない。
今回は、幻のギリアム映画に引っ掛けて「ドン・キホーテ」をチョイス。
ギネス・ビールとテキーラを30mlずつ、順にショットグラスへそそぐ。
本来は食前酒だが、夢うつつのような映画から目を覚ますにはこの超辛口がちょうどいい。

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2010年01月27日 (水) | 編集 |
久しぶりのブルース・ウィリス主演作「サロゲート」は、自分の分身の様な身代わりロボットが仕事を含む日常生活をこなし、人間は自宅からそれらを遠隔でオペレートする未来世界を描いたSFサスペンス。
要するに、例の大ヒット映画の元ネタでもあるインターネット上の“アバター”が実体化して社会活動を代行し、人類全体が総引きこもり状態になってしまったような世界である。
「ターミネーター3」のジョナサン・モストウ監督作品だが、所々にそれっぽい描写があるのが可笑しい。
ディテールの作り込みが甘く、アイディアを生かし切れていないのがやや物足りないが、B級エンタメとしてそこそこ楽しめる一本だ。
天才科学者のキャンター博士(ジェイムス・クロムウェル)によって、人生の代行ロボット“サロゲート”が開発されてから14年。
人口の98%がサロゲートを使用し、街を歩いているのはロボットだけで、人々はその殆どが自宅からサロゲートをオペレートする事で暮らしている。
殺人も、疫病も無く、戦争ですら人が死なない世界。
ところが、何者かによってサロゲートが破壊され、オペレートしていた人間までもが死亡するという事件が起こる。
トム・グリアー刑事(ブルース・ウィリス)は、殺された人間がキャンター博士の息子で、たまたま博士のサロゲートをレンタルしていた事を突き止める・・・
人類全体が引きこもり化し、自分そっくりの代行ロボットが社会生活を担うって・・・どこかで聞いたような話だと思っていたが、この映画の世界観って諸星大二郎の短編漫画「夢見る機械」そのものじゃん!
本作の原作はもちろん諸星大二郎ではなくて、ロバート・ヴェディティのグラフィックノベルなのだが、いやはやここまで似ているというのは驚きである。
まあ「夢見る機械」は知る人ぞ知るアングラな漫画なので、パクッた訳ではないだろうが、36年も前に描かれた漫画にようやく時代が追いついたと思うべきか。
ちなみにこの漫画は、過去にフジテレビの「世にも奇妙な物語」枠で一度だけ短編ドラマ化されている。
もっとも、ロボットしかいない社会という世界観は共通するものの、諸星漫画のロボットは人間の記憶や性格を移植された自立型で、引きこもった本人は「マトリックス」に出て来る様な機械で、「永遠に続く理想の夢」を見ているという非常にSFチックな設定。
対してこちらは、21世紀の現在においては必ずしも絵空事とは言えない、人間が遠隔でオペレートし、ロボットの見る物、感じるものをヴァーチャルで体験するというリアルな設定となっている。
正にネットのアバターの進化系の様な設定には、それなりに説得力がある。
理想の自分になれるから、頭の薄いブルース・ウィリスのサロゲートは髪の毛フサフサだったり、チビでデブのオヤジが金髪美女になっていたりするのも、いかにもありそうだと思わされる。
ネット依存症があるのだから、サロゲート依存症もあって当然でしょ、という事なのだろう。
米軍がロボット兵士に切り替わっていたりするのも、無人兵器がどんどん実用化されている現実を考えるとリアルだ。
ただし、サロゲートを使う事で、犯罪からも病気からも逃れられる理想社会が実現しているというのはかなり疑問。
一日中あんな椅子に座りっぱなしで体を全く動かさないのだから、健康には思いっきり悪そうだし、殺人事件だって別に路上強盗や通り魔だけとは限らないだろう。
人々がサロゲートのオペレートに夢中になってるのだから、泥棒は入り放題だし、他人名義の携帯電話が犯罪に使われるのと同じように、未登録やハッキングされたサロゲートを使った犯罪が横行するんじゃなかろうか?
それに発明されてからたった14年で、98%の人がサロゲートを使ってる設定になってたけど、いくらなんでも浸透速度早すぎ。
どんだけ安いんだ、サロゲート。
仮にこのあたりは映画的なウソと考えて突っ込まないとしても、サロゲートがそこまで人々を夢中にさせるほどの力があるように見えてこないのはちょっと問題。
現在でも、社会的なストレスやコンプレックスから、ネット依存症や引きこもりになってしまう人がかなりの数いる訳で、本作の主人公のグリアー刑事夫妻の場合は、どうやら愛する息子の事故死という現実からの逃避が切っ掛けだった様だ。
ただ、ネット依存症と違って、サロゲートではそれほど引きこもり効果は強くないように思えてしまう。
本作と似た設定の映画に、邦画の「ヒノキオ」があるが、あの映画では心と体に傷を負って引きこもりとなってしまった少年が、少しずつ外の世界へとでて行くための体験ツールとしてロボットが位置づけられていた。
こちらでは逆にサロゲートが引きこもりのための手段になっている訳だが、「ヒノキオ」よりもはるかにハイテクなロボットに、自分の五感をシンクロさせる事が出来るのだから、見た目が違うだけで、実質本人が外へ出ているのと感覚的には変わらないのではないのか。
ネットと違って、それ自体は世界中の情報にアクセスできたりする訳でもないし、外出する事で起こりえる肉体的リスクが低減される以外には日常生活が大きく変わるとも思えず、それ故にグリアー夫妻の間にあるサロゲートを使うことへの葛藤が、今ひとつピンと来ないのだ。
正直なところ「サロゲート」は、ハリウッド製SF大作と考えると、内容的にもビジュアル的にも少々物足りない。
マイケル・フェリスとジョン・ブランカトーの脚本は、どうも物語を前に進めるのに精一杯で細部が荒っぽく、アイディアを上手く使いこなせていない様に思える。
まあこの二人が担当した、「ターミネーター3&4」も似たようなものだったので、これが彼らの個性なのかもしれないけど・・・、作り方によっては、かなり深く精神性を描ける設定なのに勿体無い。
だが上映時間が89分と今時の映画にしてはかなり短い本作、SF設定の荒さやドラマ的な底の浅さという部分には目を瞑って、B級プログラムピクチャーの類として観れば、スピーディーでテンポ良く、それなりに楽しめる一本である。
事件の捜査の部分は、まるで時間に追い立てられる様にあまりにも簡単に進んでいってしまうので、ミステリとしての見所はそこそこだが、ジョナサン・モストウの職人的な上手さが生きるアクションシークエンスはさすがに切れ味良く、エキサイティングだ。
好意的に観れば「ターミネーター」+「ダイハード」な訳で、なかなかに出来は良い。
サロゲートに完全依存してしまっている人類、という設定に違和感さえ感じなければ、興味深い世界観とスピーディな展開、適度なアクションと見所はバランス良く揃い、物語的にも特に大きな破綻無く、そつなく纏められているので、安心して観ていられる作品だろう。
今回は、ロボットという言葉を生み出した劇作家カレル・チャペックの母国、チェコのビール「ピルスナー ウルケル」をチョイス。
元々ロボットは労働を意味するチェコ語ROBOTAから作られた造語で、機械人間の反乱を描いた戯曲「ロボット」は全てのロボットSFの元祖と言える。
ちなみにこのビールは世界中にあるピルスナービールの元祖。
チェコ、侮りがたしである。
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要するに、例の大ヒット映画の元ネタでもあるインターネット上の“アバター”が実体化して社会活動を代行し、人類全体が総引きこもり状態になってしまったような世界である。
「ターミネーター3」のジョナサン・モストウ監督作品だが、所々にそれっぽい描写があるのが可笑しい。
ディテールの作り込みが甘く、アイディアを生かし切れていないのがやや物足りないが、B級エンタメとしてそこそこ楽しめる一本だ。
天才科学者のキャンター博士(ジェイムス・クロムウェル)によって、人生の代行ロボット“サロゲート”が開発されてから14年。
人口の98%がサロゲートを使用し、街を歩いているのはロボットだけで、人々はその殆どが自宅からサロゲートをオペレートする事で暮らしている。
殺人も、疫病も無く、戦争ですら人が死なない世界。
ところが、何者かによってサロゲートが破壊され、オペレートしていた人間までもが死亡するという事件が起こる。
トム・グリアー刑事(ブルース・ウィリス)は、殺された人間がキャンター博士の息子で、たまたま博士のサロゲートをレンタルしていた事を突き止める・・・
人類全体が引きこもり化し、自分そっくりの代行ロボットが社会生活を担うって・・・どこかで聞いたような話だと思っていたが、この映画の世界観って諸星大二郎の短編漫画「夢見る機械」そのものじゃん!
本作の原作はもちろん諸星大二郎ではなくて、ロバート・ヴェディティのグラフィックノベルなのだが、いやはやここまで似ているというのは驚きである。
まあ「夢見る機械」は知る人ぞ知るアングラな漫画なので、パクッた訳ではないだろうが、36年も前に描かれた漫画にようやく時代が追いついたと思うべきか。
ちなみにこの漫画は、過去にフジテレビの「世にも奇妙な物語」枠で一度だけ短編ドラマ化されている。
もっとも、ロボットしかいない社会という世界観は共通するものの、諸星漫画のロボットは人間の記憶や性格を移植された自立型で、引きこもった本人は「マトリックス」に出て来る様な機械で、「永遠に続く理想の夢」を見ているという非常にSFチックな設定。
対してこちらは、21世紀の現在においては必ずしも絵空事とは言えない、人間が遠隔でオペレートし、ロボットの見る物、感じるものをヴァーチャルで体験するというリアルな設定となっている。
正にネットのアバターの進化系の様な設定には、それなりに説得力がある。
理想の自分になれるから、頭の薄いブルース・ウィリスのサロゲートは髪の毛フサフサだったり、チビでデブのオヤジが金髪美女になっていたりするのも、いかにもありそうだと思わされる。
ネット依存症があるのだから、サロゲート依存症もあって当然でしょ、という事なのだろう。
米軍がロボット兵士に切り替わっていたりするのも、無人兵器がどんどん実用化されている現実を考えるとリアルだ。
ただし、サロゲートを使う事で、犯罪からも病気からも逃れられる理想社会が実現しているというのはかなり疑問。
一日中あんな椅子に座りっぱなしで体を全く動かさないのだから、健康には思いっきり悪そうだし、殺人事件だって別に路上強盗や通り魔だけとは限らないだろう。
人々がサロゲートのオペレートに夢中になってるのだから、泥棒は入り放題だし、他人名義の携帯電話が犯罪に使われるのと同じように、未登録やハッキングされたサロゲートを使った犯罪が横行するんじゃなかろうか?
それに発明されてからたった14年で、98%の人がサロゲートを使ってる設定になってたけど、いくらなんでも浸透速度早すぎ。
どんだけ安いんだ、サロゲート。
仮にこのあたりは映画的なウソと考えて突っ込まないとしても、サロゲートがそこまで人々を夢中にさせるほどの力があるように見えてこないのはちょっと問題。
現在でも、社会的なストレスやコンプレックスから、ネット依存症や引きこもりになってしまう人がかなりの数いる訳で、本作の主人公のグリアー刑事夫妻の場合は、どうやら愛する息子の事故死という現実からの逃避が切っ掛けだった様だ。
ただ、ネット依存症と違って、サロゲートではそれほど引きこもり効果は強くないように思えてしまう。
本作と似た設定の映画に、邦画の「ヒノキオ」があるが、あの映画では心と体に傷を負って引きこもりとなってしまった少年が、少しずつ外の世界へとでて行くための体験ツールとしてロボットが位置づけられていた。
こちらでは逆にサロゲートが引きこもりのための手段になっている訳だが、「ヒノキオ」よりもはるかにハイテクなロボットに、自分の五感をシンクロさせる事が出来るのだから、見た目が違うだけで、実質本人が外へ出ているのと感覚的には変わらないのではないのか。
ネットと違って、それ自体は世界中の情報にアクセスできたりする訳でもないし、外出する事で起こりえる肉体的リスクが低減される以外には日常生活が大きく変わるとも思えず、それ故にグリアー夫妻の間にあるサロゲートを使うことへの葛藤が、今ひとつピンと来ないのだ。
正直なところ「サロゲート」は、ハリウッド製SF大作と考えると、内容的にもビジュアル的にも少々物足りない。
マイケル・フェリスとジョン・ブランカトーの脚本は、どうも物語を前に進めるのに精一杯で細部が荒っぽく、アイディアを上手く使いこなせていない様に思える。
まあこの二人が担当した、「ターミネーター3&4」も似たようなものだったので、これが彼らの個性なのかもしれないけど・・・、作り方によっては、かなり深く精神性を描ける設定なのに勿体無い。
だが上映時間が89分と今時の映画にしてはかなり短い本作、SF設定の荒さやドラマ的な底の浅さという部分には目を瞑って、B級プログラムピクチャーの類として観れば、スピーディーでテンポ良く、それなりに楽しめる一本である。
事件の捜査の部分は、まるで時間に追い立てられる様にあまりにも簡単に進んでいってしまうので、ミステリとしての見所はそこそこだが、ジョナサン・モストウの職人的な上手さが生きるアクションシークエンスはさすがに切れ味良く、エキサイティングだ。
好意的に観れば「ターミネーター」+「ダイハード」な訳で、なかなかに出来は良い。
サロゲートに完全依存してしまっている人類、という設定に違和感さえ感じなければ、興味深い世界観とスピーディな展開、適度なアクションと見所はバランス良く揃い、物語的にも特に大きな破綻無く、そつなく纏められているので、安心して観ていられる作品だろう。
今回は、ロボットという言葉を生み出した劇作家カレル・チャペックの母国、チェコのビール「ピルスナー ウルケル」をチョイス。
元々ロボットは労働を意味するチェコ語ROBOTAから作られた造語で、機械人間の反乱を描いた戯曲「ロボット」は全てのロボットSFの元祖と言える。
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チェコ、侮りがたしである。

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2010年01月20日 (水) | 編集 |
モーリス・センダックによって1963年に創造された、あまりにも有名な絵本「かいじゅうたちのいるところ」の初の実写映画化である。
過去にも幾度と無く企画されてきた映画化だが、最終的に本作を作り上げたのは「マルコビッチの穴」などで知られる鬼才スパイク・ジョーンズ。
とにかく世界観全てを作りこむ傾向にある最近のファンタジー映画の中にあって、ハンディ風のカメラでロケーションに拘り、CG全盛時代にあえて巨大な着ぐるみによるかいじゅうたちを登場させるなど、ライブ感を重視したかなりの変り種となった。
乱暴物の少年マックス(マックス・レコーズ)は、母親(キャスリン・キーナー)に叱られて家を飛び出し、泊めてあったボートに乗って海に漕ぎ出す。
長い航海の後に、マックスがたどり着いた島には、奇妙で巨大なかいじゅうたちが住んでいた。
ひょんな事から彼らの王様となったマックスは、キャロル(ジェイムズ・ガンドルフィーニ)というかいじゅうが考えている理想の砦の建設に協力する事になる。
だが、砦を建設しても皆との仲が上手く行かないキャロルは、癇癪を起こしてしまう。
怖くなったマックスは、砦の中に自分が隠れる小部屋を作ろうとするのだが、それがさらにキャロルの怒りをかって・・・・
原作の絵本は、10分もあれば読み終わってしまうシンプルな物。
少年マックスが、船で奇妙なかいじゅうたちのいる島へ行き、そこで彼らの王様となる。
しばらく滞在して大いに楽しんだマックスは、いいかげん飽きて里心がついたので、再び船に乗って家に戻ってくる、というだけの話である。
これだけでは精々短編にしかならない(実際過去に一度だけ短編アニメとして映像化されている)ので、映画は基本構成をそのままに、背景設定を詳細化しエピソードを新たに作り上げることで、元の話を大きく膨らませている。
スパイク・ジョーンズと共同脚本のディブ・エッガーズは、先ずマックス少年を母子家庭に育ち、コミュニケーション能力に少々問題を抱えた孤独で攻撃的な少年に設定した。
映画のファーストカットから暴れながら登場するマックスは、ぶっちゃけ自分が世界の王様でないと気がすまず、他人への思いやりに欠けた可愛げのないガキんちょだ。
そんなマックスが些細な事から母親とケンカをして家を飛び出し、たまたま泊めてあったボートに乗ってかいじゅうたちの島に漂着する。
この辺りの流れは下手に作ると限りなくうそ臭くなって興醒めなのだが、後述する作劇上のロジックを何気なく匂わせる事によって、自然に観客がこの奇妙な冒険旅行に入り込めるようになっている。
島にたどり着いたマックスが出会ったのは、ルックスも性格も非常に個性的な七匹のかいじゅうたち。
リーダーのキャロルは、皆と一緒に仲良く暮らす事を夢みて沢山の家を作るのだが、一番一緒にいて欲しかったKWという女の子が孤独になれる所を求めて出て行ってしまい、怒ったキャロルは癇癪を起こして皆で作った家を壊してしまう。
他にも毒舌のジュディスと木に穴を開けるのが得意で朴訥なアイラのカップル、キャロルの右腕的存在で鳥の様な姿のダグラス、寡黙なブルに、小柄でヤギの様に気弱なアレクサンダーといったかいじゅうたちが登場する。
彼らの王様になったマックスは、キャロルの夢に協力して巨大な砦を作り始める。
当初は順調に進んでゆく理想郷の建設計画だが、やがて仲間たちは独善的なキャロルと本当は力の無い王様マックスに愛想を尽かし、だんだんと離れていってしまう。
この「砦」は、冒頭の家でのシークエンスで、マックスがベットとシーツ、そして物言わぬぬいぐるみたちを集めて作った「砦」とそのままシンクロする。
母親を砦に誘ったマックスが拒絶されるように、自分の思い通りにならないと癇癪を起こすキャロルもまた、孤独を感じ仲間たちから浮いている。
そう、この「かいじゅうたちのいるところ」は、マックスの心象風景としてのファンタジーワールドであり、キャロルはマックスの合わせ鏡なのだ。
この世界がマックスの内面にあるという事は、映画の終盤で激高したキャロルがダグラスにある事をする描写でより明確に示される。
まあ原作も限りなく夢オチに近く、映画版も原作の構造をそのまま踏襲したとも言えるのだが、スパイク・ジョーンズはマックスがなぜかいじゅうたちのいる島に行ったのかという理由付けを考え、そのロジカルな回答として、家族の中のかいじゅうであるマックスが、原作とは異なり明確な個性を与えられたもう一人の自分と出会うという構造にしたのだろう。
そう考えると、ユニークなかいじゅうたちも、それぞれ人間の持つ様々な感情のメタファーである事がわかる。
現実世界で家族の王様になりたかったマックスは、かいじゅうたちの王様となり、自分そっくりのキャロルと出会うことで、初めて自分自身を知り、他人の心を尊重し思いやる事の大切さを学ぶのである。
この冒険が、マックスの内面世界への旅である事は、物語の前半からイメージとして示唆されているので、観客も子供が一人で嵐の海へ漕ぎ出すという荒唐無稽な設定をすんなり受け入れられるのだ。
よくもまあ原作のテイストをここまで再現した物だと感心させられるかいじゅうたちの造形は、ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップによるもの。
CGではなく実物を作る事によって、様々な物理的制約を受けるからこそのデザインテイストで、嘗ての「ダーク・クリスタル」や、知る人ぞ知る傑作テレビシリーズ「ストーリーテラー」のムードが色濃く残るアニマトロニクスの着ぐるみかいじゅうたちは、なかなかに味わい深い仕上がりだ。
ざっくりとした造形のかいじゅうたちが、複雑で繊細な内面を抱えているというギャップが、本作の隠し味になっているのだが、着ぐるみにCGによる豊かな表情をプラスすることで細やかな演技面をクリア。
アナログ技術とデジタル技術の効果的な結合を見ることが出来る。
「かいじゅうたちのいるところ」は、2010年の現在に観ると、良い意味でアナログ感が新鮮なファンタジー映画の佳作である。
ただ、基本的にマックスの精神世界で展開する話なので、かいじゅうたちのユニークなキャラクター以外に見せ場に乏しいのも確かだ。
ワクワクする物語の展開を楽しむというよりは、その裏に設定された物を深読みして、心の奥で詩的に解釈するような作品であり、正直子供向けとは言い難く、良くも悪くも淡々とした展開は、むしろ嘗て絵本に親しんだ大人客が子供時代のムードに浸るための物だろう。
話で楽しませようと思えば、この膨らませ方なら70分程度に纏めた方が観やすい映画になったはずで、101分まで引き伸ばすなら、脚色にもう一工夫合っても良かったかもしれない。
もしも子供も楽しめる内容で作るなら、個人的には原恵一あたりにアニメ化してもらっても面白いかなあという気がしている。
大人のためのファンタジーの後には、でしゃばらない優しいテイストのビール「キリン・ハートランド」をチョイス。
ビール文化の原点回帰をテーマに、1986年に生まれた少量生産銘柄で、苦味が少なく、スッキリとした柔らかな味わいが特徴だ。
ニューヨーク沖の沈没船から発見された17世紀のビンにヒントを得てデザインされたという、グリーンのボトルが美しく、作り手の大らかな遊び心が感じられる。
目と舌で味わえる、豊かな奥行きのあるビールである。
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過去にも幾度と無く企画されてきた映画化だが、最終的に本作を作り上げたのは「マルコビッチの穴」などで知られる鬼才スパイク・ジョーンズ。
とにかく世界観全てを作りこむ傾向にある最近のファンタジー映画の中にあって、ハンディ風のカメラでロケーションに拘り、CG全盛時代にあえて巨大な着ぐるみによるかいじゅうたちを登場させるなど、ライブ感を重視したかなりの変り種となった。
乱暴物の少年マックス(マックス・レコーズ)は、母親(キャスリン・キーナー)に叱られて家を飛び出し、泊めてあったボートに乗って海に漕ぎ出す。
長い航海の後に、マックスがたどり着いた島には、奇妙で巨大なかいじゅうたちが住んでいた。
ひょんな事から彼らの王様となったマックスは、キャロル(ジェイムズ・ガンドルフィーニ)というかいじゅうが考えている理想の砦の建設に協力する事になる。
だが、砦を建設しても皆との仲が上手く行かないキャロルは、癇癪を起こしてしまう。
怖くなったマックスは、砦の中に自分が隠れる小部屋を作ろうとするのだが、それがさらにキャロルの怒りをかって・・・・
原作の絵本は、10分もあれば読み終わってしまうシンプルな物。
少年マックスが、船で奇妙なかいじゅうたちのいる島へ行き、そこで彼らの王様となる。
しばらく滞在して大いに楽しんだマックスは、いいかげん飽きて里心がついたので、再び船に乗って家に戻ってくる、というだけの話である。
これだけでは精々短編にしかならない(実際過去に一度だけ短編アニメとして映像化されている)ので、映画は基本構成をそのままに、背景設定を詳細化しエピソードを新たに作り上げることで、元の話を大きく膨らませている。
スパイク・ジョーンズと共同脚本のディブ・エッガーズは、先ずマックス少年を母子家庭に育ち、コミュニケーション能力に少々問題を抱えた孤独で攻撃的な少年に設定した。
映画のファーストカットから暴れながら登場するマックスは、ぶっちゃけ自分が世界の王様でないと気がすまず、他人への思いやりに欠けた可愛げのないガキんちょだ。
そんなマックスが些細な事から母親とケンカをして家を飛び出し、たまたま泊めてあったボートに乗ってかいじゅうたちの島に漂着する。
この辺りの流れは下手に作ると限りなくうそ臭くなって興醒めなのだが、後述する作劇上のロジックを何気なく匂わせる事によって、自然に観客がこの奇妙な冒険旅行に入り込めるようになっている。
島にたどり着いたマックスが出会ったのは、ルックスも性格も非常に個性的な七匹のかいじゅうたち。
リーダーのキャロルは、皆と一緒に仲良く暮らす事を夢みて沢山の家を作るのだが、一番一緒にいて欲しかったKWという女の子が孤独になれる所を求めて出て行ってしまい、怒ったキャロルは癇癪を起こして皆で作った家を壊してしまう。
他にも毒舌のジュディスと木に穴を開けるのが得意で朴訥なアイラのカップル、キャロルの右腕的存在で鳥の様な姿のダグラス、寡黙なブルに、小柄でヤギの様に気弱なアレクサンダーといったかいじゅうたちが登場する。
彼らの王様になったマックスは、キャロルの夢に協力して巨大な砦を作り始める。
当初は順調に進んでゆく理想郷の建設計画だが、やがて仲間たちは独善的なキャロルと本当は力の無い王様マックスに愛想を尽かし、だんだんと離れていってしまう。
この「砦」は、冒頭の家でのシークエンスで、マックスがベットとシーツ、そして物言わぬぬいぐるみたちを集めて作った「砦」とそのままシンクロする。
母親を砦に誘ったマックスが拒絶されるように、自分の思い通りにならないと癇癪を起こすキャロルもまた、孤独を感じ仲間たちから浮いている。
そう、この「かいじゅうたちのいるところ」は、マックスの心象風景としてのファンタジーワールドであり、キャロルはマックスの合わせ鏡なのだ。
この世界がマックスの内面にあるという事は、映画の終盤で激高したキャロルがダグラスにある事をする描写でより明確に示される。
まあ原作も限りなく夢オチに近く、映画版も原作の構造をそのまま踏襲したとも言えるのだが、スパイク・ジョーンズはマックスがなぜかいじゅうたちのいる島に行ったのかという理由付けを考え、そのロジカルな回答として、家族の中のかいじゅうであるマックスが、原作とは異なり明確な個性を与えられたもう一人の自分と出会うという構造にしたのだろう。
そう考えると、ユニークなかいじゅうたちも、それぞれ人間の持つ様々な感情のメタファーである事がわかる。
現実世界で家族の王様になりたかったマックスは、かいじゅうたちの王様となり、自分そっくりのキャロルと出会うことで、初めて自分自身を知り、他人の心を尊重し思いやる事の大切さを学ぶのである。
この冒険が、マックスの内面世界への旅である事は、物語の前半からイメージとして示唆されているので、観客も子供が一人で嵐の海へ漕ぎ出すという荒唐無稽な設定をすんなり受け入れられるのだ。
よくもまあ原作のテイストをここまで再現した物だと感心させられるかいじゅうたちの造形は、ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップによるもの。
CGではなく実物を作る事によって、様々な物理的制約を受けるからこそのデザインテイストで、嘗ての「ダーク・クリスタル」や、知る人ぞ知る傑作テレビシリーズ「ストーリーテラー」のムードが色濃く残るアニマトロニクスの着ぐるみかいじゅうたちは、なかなかに味わい深い仕上がりだ。
ざっくりとした造形のかいじゅうたちが、複雑で繊細な内面を抱えているというギャップが、本作の隠し味になっているのだが、着ぐるみにCGによる豊かな表情をプラスすることで細やかな演技面をクリア。
アナログ技術とデジタル技術の効果的な結合を見ることが出来る。
「かいじゅうたちのいるところ」は、2010年の現在に観ると、良い意味でアナログ感が新鮮なファンタジー映画の佳作である。
ただ、基本的にマックスの精神世界で展開する話なので、かいじゅうたちのユニークなキャラクター以外に見せ場に乏しいのも確かだ。
ワクワクする物語の展開を楽しむというよりは、その裏に設定された物を深読みして、心の奥で詩的に解釈するような作品であり、正直子供向けとは言い難く、良くも悪くも淡々とした展開は、むしろ嘗て絵本に親しんだ大人客が子供時代のムードに浸るための物だろう。
話で楽しませようと思えば、この膨らませ方なら70分程度に纏めた方が観やすい映画になったはずで、101分まで引き伸ばすなら、脚色にもう一工夫合っても良かったかもしれない。
もしも子供も楽しめる内容で作るなら、個人的には原恵一あたりにアニメ化してもらっても面白いかなあという気がしている。
大人のためのファンタジーの後には、でしゃばらない優しいテイストのビール「キリン・ハートランド」をチョイス。
ビール文化の原点回帰をテーマに、1986年に生まれた少量生産銘柄で、苦味が少なく、スッキリとした柔らかな味わいが特徴だ。
ニューヨーク沖の沈没船から発見された17世紀のビンにヒントを得てデザインされたという、グリーンのボトルが美しく、作り手の大らかな遊び心が感じられる。
目と舌で味わえる、豊かな奥行きのあるビールである。

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2010年01月15日 (金) | 編集 |
低予算作品ながら、昨年の夏に全米でロングヒットを記録したラブコメディ。
「(500)日のサマー」とは変わったタイトルだが、これは映画のヒロインの名前と季節の「夏」を上手く引っ掛けた物で、なかなかに洒落が効いている。
誰にでも経験があるであろうリアルな恋愛模様を、軽妙でコミカルなテンポで綴った語り口も心地よく、あっという間の500日、いや96分である。
ただし、リアルすぎてちょっとだけハートが痛くなるかもしれない。
一月のある日、グリーティングカード会社に勤めているライターのトム(ジョセフ・ゴードン=レヴィッド)は、社長のアシスタントとして入社してきたサマー(ズーイー・ディシャネル)に一目惚れ。
だが、奥手なトムはなかなか彼女に話しかける切欠をつかめない。
半ば諦めかけた頃、偶然トムとエレベーターに乗り合わせたサマーが、トムのヘッドホンから漏れ聞こえる曲を聞き、「私もザ・スミスが好きよ」と語りかけてくる。
それから急速に親しくなり、デートを重ねる二人だったが、同時に二人の間にある恋愛観の大きなギャップも明らかになる。
何しろサマーは、真実の愛なんて物を全く信じていなかったのだ・・・
主人公であり、語り部でもあるトムは、今風に言えば草食系男子というのだろうか?
恋に奥手で、好きな相手にも今ひとつ踏ん切りがつかない。
対するサマーは良くも悪くも率直で、トムの事が良いと思えば自分から落としてしまうくらいの勢いがある。
愛と運命を切々と説くトムに対して、真実の愛なんて物は信じないよと言うサマー。
よく恋愛に関して男はロマンチストで女はリアリストというが、この二人は正にそんな感じだ。
そもそも、まるっきり価値観の違う二人じゃ最初からあう訳無いじゃん!と思うのだけど、そんな事わかっていてもトムが惹かれてしまうサマーを演じるズーイー・ディシャネルが良いなあ。
凄く美人とか、スタイルが良いという訳ではなく、逆にどこの職場や学校に一人くらいはいそうな等身大で身近なキャラクターなのだけど、何ともキュートでセクシーなのだ。
価値観が違うからこその、どこか理解不能でつかみ所の無いミステリアスさも魅力的で、こんな娘が同僚だったらそりゃ誰でも惚れちまうだろう。
四歳違いのお姉ちゃんは、テレビの人気シリーズ「BONES」で、タイトルロールのボーンズを演じているエミリー・ディシャネル。
二人並ぶとよく似ているけど、髪の色がお姉ちゃんは栗色なのに対して、ズーイーは東洋人の様な長い黒髪というのも神秘性を高めている。
ちなみに「BONES」のシーズン5には、ズーイーがゲスト出演しているエピソードがあるようだ。
サマーはいわば夏の太陽だが、その輝きがまぶしいのは、対象となる影があるから。
主人公であり語り部である、日影の男トムを演じる子役出身の若きベテラン、ジョセフ・ゴードン=レヴィッドは、太陽を手に入れたいのに、熱くて触れない様な、男なら誰でも覚えのあるだろう悶々とした葛藤を繊細かつ巧みに演じ、見事に観客をスクリーンに一体化させる。
下手をするとひたすら可哀想な主人公になってしまいそうだが、彼の飄々とした演技が上手い具合にキャラクターの悲壮感を和らげて、ちょっぴりの切ないが笑えるキャラクターに作り上げている。
何でもこの長い長い一夏の恋物語は、脚本のスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーの実体験に基づいているという。
なるほど終始トム目線で語られる物語は、ライトなテイストで漫画チックですらあるが、個々のエピソードは極めてリアル。
男性客は「そうそう、そうなんだよぉ!」とトムに共感し、女性客は今時の草食男子の恋愛観を観察するような面白さがあるかもしれない。
ノイスタッターは映画「卒業」の熱烈なファンだそうだが、「卒業」を観賞するシーンはこの映画の中でも印象的に使われている。
たぶん、あれも実体験なんだろうな・・・とか思うと色々な意味で泣けてくる。
彼らの作劇は、エモーショナルであるだけでなく、テクニカルな面でも秀逸だ。
()で挟まれた500日間のカレンダーを巧妙に使ったロジックが、本作を一味違うラブコメディとして成立させている。
各シークエンスの冒頭で、今が500日の中の何日目なのかを表示する事で、時系列をシャッフルし、そこから笑いを生んでゆくあたりは実に上手い。
例えば××日目の落ち込んだトムを描写して、次にナゼそうなったのかを時間を遡って見せてゆくとゆう手法によって、観客にキャラクターとある程度の客観的な距離を感じさせるようにしている。
この距離感が絶妙で、観客はトム、あるいはサマーに感情移入しつつも、恋愛に翻弄される彼らを笑い飛ばす余裕をもてるのである。
ノイスタッターとウェバーの用意した見事なレシピと、旬なキャストという素材を料理したのはこれが長編デビュー作となるマーク・ウェブ。
PVやCMで充実したキャリアを持つ人物だが、PV出身者ならではの巧みな編集テクニックで物語をテンポよく紡ぎ、全く飽きさせない。
「卒業」からディズニーまで、古今東西の恋愛映画の記憶を詰め込んだディテールも楽しく、トムの恋愛の現実と希望がスプリットスクリーンで表現されるあたりは大笑いした。
「(500)日のサマー」は、たぶん男女の間で、あるいは年齢によって、観賞する目線の置き方の異なる映画だろう。
だがどんな立場から観ても、過去の自分の経験、あるいは現在進行形の自分と少し重ね合わせる事で、素直にスクリーンと一体化して、主人公たちの情熱的な夏を楽しむことが出来るだろう。
そして、これは単に彼らの恋の顛末のドタバタを楽しんで終わりという底の浅い映画ではない。
恋愛を人生の歳月を巡る季節の様な物と思えば、これはサマーと出会い様々な葛藤に満ちた500日間を経験する事でトムが大きく成長する物語だ。
映画の冒頭では生き方も曖昧で、いかにも頼りなげな若者だったトムが、ラストシーンでは芯のあるオトナの男となり、過ぎ行く時への感慨と共に、人生で一番長い夏にサヨナラを言う事も出来るのである。
これは映画を観てのお楽しみだが、タイトルに引っ掛けた粋なオチもまた秀逸であった。
ラブコメというと女性向けと思われがちだが、「(500)日のサマー」は男女を問わず、いやむしろ男性にこそ観てもらいたい作品だ。
今回はサマーと飲みたい真夏のカクテル、「サマー・ディライト」をチョイス。
ライムのジュース30mlとグレナデンシロップ15ml、シュガーシロップ10mlをシェイク。
氷を入れたグラスで、キンキンに冷したソーダでお好みの比率で割ってステアする。
グレナデンの赤によって全体がオレンジに染まり、真夏の太陽の様な鮮やかさがある。
スライスしたライムを添えると、清涼感が出てより夏っぽい雰囲気が味わえる。
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「(500)日のサマー」とは変わったタイトルだが、これは映画のヒロインの名前と季節の「夏」を上手く引っ掛けた物で、なかなかに洒落が効いている。
誰にでも経験があるであろうリアルな恋愛模様を、軽妙でコミカルなテンポで綴った語り口も心地よく、あっという間の500日、いや96分である。
ただし、リアルすぎてちょっとだけハートが痛くなるかもしれない。
一月のある日、グリーティングカード会社に勤めているライターのトム(ジョセフ・ゴードン=レヴィッド)は、社長のアシスタントとして入社してきたサマー(ズーイー・ディシャネル)に一目惚れ。
だが、奥手なトムはなかなか彼女に話しかける切欠をつかめない。
半ば諦めかけた頃、偶然トムとエレベーターに乗り合わせたサマーが、トムのヘッドホンから漏れ聞こえる曲を聞き、「私もザ・スミスが好きよ」と語りかけてくる。
それから急速に親しくなり、デートを重ねる二人だったが、同時に二人の間にある恋愛観の大きなギャップも明らかになる。
何しろサマーは、真実の愛なんて物を全く信じていなかったのだ・・・
主人公であり、語り部でもあるトムは、今風に言えば草食系男子というのだろうか?
恋に奥手で、好きな相手にも今ひとつ踏ん切りがつかない。
対するサマーは良くも悪くも率直で、トムの事が良いと思えば自分から落としてしまうくらいの勢いがある。
愛と運命を切々と説くトムに対して、真実の愛なんて物は信じないよと言うサマー。
よく恋愛に関して男はロマンチストで女はリアリストというが、この二人は正にそんな感じだ。
そもそも、まるっきり価値観の違う二人じゃ最初からあう訳無いじゃん!と思うのだけど、そんな事わかっていてもトムが惹かれてしまうサマーを演じるズーイー・ディシャネルが良いなあ。
凄く美人とか、スタイルが良いという訳ではなく、逆にどこの職場や学校に一人くらいはいそうな等身大で身近なキャラクターなのだけど、何ともキュートでセクシーなのだ。
価値観が違うからこその、どこか理解不能でつかみ所の無いミステリアスさも魅力的で、こんな娘が同僚だったらそりゃ誰でも惚れちまうだろう。
四歳違いのお姉ちゃんは、テレビの人気シリーズ「BONES」で、タイトルロールのボーンズを演じているエミリー・ディシャネル。
二人並ぶとよく似ているけど、髪の色がお姉ちゃんは栗色なのに対して、ズーイーは東洋人の様な長い黒髪というのも神秘性を高めている。
ちなみに「BONES」のシーズン5には、ズーイーがゲスト出演しているエピソードがあるようだ。
サマーはいわば夏の太陽だが、その輝きがまぶしいのは、対象となる影があるから。
主人公であり語り部である、日影の男トムを演じる子役出身の若きベテラン、ジョセフ・ゴードン=レヴィッドは、太陽を手に入れたいのに、熱くて触れない様な、男なら誰でも覚えのあるだろう悶々とした葛藤を繊細かつ巧みに演じ、見事に観客をスクリーンに一体化させる。
下手をするとひたすら可哀想な主人公になってしまいそうだが、彼の飄々とした演技が上手い具合にキャラクターの悲壮感を和らげて、ちょっぴりの切ないが笑えるキャラクターに作り上げている。
何でもこの長い長い一夏の恋物語は、脚本のスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーの実体験に基づいているという。
なるほど終始トム目線で語られる物語は、ライトなテイストで漫画チックですらあるが、個々のエピソードは極めてリアル。
男性客は「そうそう、そうなんだよぉ!」とトムに共感し、女性客は今時の草食男子の恋愛観を観察するような面白さがあるかもしれない。
ノイスタッターは映画「卒業」の熱烈なファンだそうだが、「卒業」を観賞するシーンはこの映画の中でも印象的に使われている。
たぶん、あれも実体験なんだろうな・・・とか思うと色々な意味で泣けてくる。
彼らの作劇は、エモーショナルであるだけでなく、テクニカルな面でも秀逸だ。
()で挟まれた500日間のカレンダーを巧妙に使ったロジックが、本作を一味違うラブコメディとして成立させている。
各シークエンスの冒頭で、今が500日の中の何日目なのかを表示する事で、時系列をシャッフルし、そこから笑いを生んでゆくあたりは実に上手い。
例えば××日目の落ち込んだトムを描写して、次にナゼそうなったのかを時間を遡って見せてゆくとゆう手法によって、観客にキャラクターとある程度の客観的な距離を感じさせるようにしている。
この距離感が絶妙で、観客はトム、あるいはサマーに感情移入しつつも、恋愛に翻弄される彼らを笑い飛ばす余裕をもてるのである。
ノイスタッターとウェバーの用意した見事なレシピと、旬なキャストという素材を料理したのはこれが長編デビュー作となるマーク・ウェブ。
PVやCMで充実したキャリアを持つ人物だが、PV出身者ならではの巧みな編集テクニックで物語をテンポよく紡ぎ、全く飽きさせない。
「卒業」からディズニーまで、古今東西の恋愛映画の記憶を詰め込んだディテールも楽しく、トムの恋愛の現実と希望がスプリットスクリーンで表現されるあたりは大笑いした。
「(500)日のサマー」は、たぶん男女の間で、あるいは年齢によって、観賞する目線の置き方の異なる映画だろう。
だがどんな立場から観ても、過去の自分の経験、あるいは現在進行形の自分と少し重ね合わせる事で、素直にスクリーンと一体化して、主人公たちの情熱的な夏を楽しむことが出来るだろう。
そして、これは単に彼らの恋の顛末のドタバタを楽しんで終わりという底の浅い映画ではない。
恋愛を人生の歳月を巡る季節の様な物と思えば、これはサマーと出会い様々な葛藤に満ちた500日間を経験する事でトムが大きく成長する物語だ。
映画の冒頭では生き方も曖昧で、いかにも頼りなげな若者だったトムが、ラストシーンでは芯のあるオトナの男となり、過ぎ行く時への感慨と共に、人生で一番長い夏にサヨナラを言う事も出来るのである。
これは映画を観てのお楽しみだが、タイトルに引っ掛けた粋なオチもまた秀逸であった。
ラブコメというと女性向けと思われがちだが、「(500)日のサマー」は男女を問わず、いやむしろ男性にこそ観てもらいたい作品だ。
今回はサマーと飲みたい真夏のカクテル、「サマー・ディライト」をチョイス。
ライムのジュース30mlとグレナデンシロップ15ml、シュガーシロップ10mlをシェイク。
氷を入れたグラスで、キンキンに冷したソーダでお好みの比率で割ってステアする。
グレナデンの赤によって全体がオレンジに染まり、真夏の太陽の様な鮮やかさがある。
スライスしたライムを添えると、清涼感が出てより夏っぽい雰囲気が味わえる。

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2010年01月08日 (金) | 編集 |
ピーター・ジャクソン版「大霊界 死んだらどうなる」か・・・。
「キング・コング」以来四年ぶりの新作となる「ラブリーボーン」は、14歳で殺された少女の霊を主人公とした異色作。
永遠の14歳となった主人公が、天国から残された家族や友人たちを見守りながら、精神的に成長して行く青春ファンタジー映画でもあり、一方で自らを殺した犯人が、逮捕されずに未だに大切な家族の近くに住んでいるというサスペンス的な要素もある。
なかなかに、一筋縄ではいかない映画である。
1973年12月6日。
スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)は14歳で殺される。
天国へ行ったスージーは、何でも思いの叶うその場所から、残された家族や友人たちの姿を見守る事にする。
最愛の娘を失ったお父さんのジャック(マーク・ウォールバーグ)とお母さんのアビゲイル(レイチェル・ワイズ)の間には、娘の死とどう向き合うかの違いで少しずつ溝が出来始める。
遅々として進まない警察の捜査に業を煮やしたジャックは、やがて犯人探しに夢中になり、喪失感に耐えられなくなったアビゲイルは家族の元から去ってしまう。
そんな家族の姿に心を痛めるスージーには、実はもっと心配な事がある。
自分を殺したジョージ・ハーヴェイ(スタンリー・トゥッチ)が、今も邪悪な欲望を隠して家族のすぐ近くに住み、その不気味な視線を、愛する妹のリンジー(ローズ・マックィーバ)に注いでいるのだ・・・
観終わって、なんだか引っかかる事が多かった。
映画は面白かったし、具体的に何処がおかしいとか、辻褄が合ってないという訳ではないのだが、どうも作り手の迷いや、方向性のブレの様な物が作品全体を覆っている様に感じたのだ。
物語の目線の置き所や、表現の方向性、テーマの捉え方など、幾つかの考え方が未整理なまま一本の作品中に残されている。
果たして、これは狙ったものなのか、それとも何らかの必然であったのか、どうにもモヤモヤとしたものが残った。
原作はアリス・シーボルトのベストセラー小説。
私は未読だったのだが、引っかかりの原因を知るべく本を買って読んでみた。
500ページ近い原作小説は、読む前は映画の印象から児童文学の類かと思っていのだが、これは全く見当違い。
なるほど、これはピーター・ジャクソンと指輪チームにしても、迷いたくなるのも無理は無い。
私が今までに読んだ事のある文学作品の中で、間違いなく最も映像化に向かない物の一つである。
語りは、主人公のスージー・サーモンという魚の様な名前の少女による一人称で、彼女は死んでしまって天国の見晴台から現世の人々を眺めているという設定になっている。
しかもこの天国は基本的に個人のイマジネーションによって形を変え、天国にいながらにして、地上に目線を持つ事も出来るらしい。
天国では特に何かが起こる訳でもなく、殆ど全ての事件はスージーが見つめる地上で起こり、そして彼女は地上に何の影響も及ぼす事は出来ない。
まあ例外の事態が物語の終盤に一度だけ起こるが、基本的に主人公は完全なる傍観者であり、地上で起こることを見守り、それを彼女のモノローグという形で、どう受け止めたのかが語られる。
文章なら何とかなっても、これを映像で表現するのは至難の業だ。
さらに、映画では主人公が殺される冒頭から、物語が完結するまでの時間は約2年だが、原作では10年もの歳月が流れている。
14歳で殺されたスージーは、もう歳をとることは出来ない。
嘗て恋した青年は別の女性と親しくなり、1歳違いの妹リンジーはスージーの出来なかった事、知らなかった事をどんどん体験しながら追い越してゆく。
殺されてから2年なら、スージーは16歳だが、10年なら24歳である。
思春期に流れるこの時間の差は大きい。
しかも彼女の心は、手の届かない地上を見守り、この世界の理を考えることで着実に成長して行くので、物語の中の歳月が長ければ長いほど、永遠に14歳を生きるスージーの切なさは強まる。
もし、この原作小説を正面から映像化しようとするならば、多分3時間以上あっても到底足りないだろう。
結果的にピーター・ジャクソンは、原作の中からスージーの初恋の部分、彼女の死により崩壊した家族の再生の部分、そして殺人犯ハーヴェイを巡るサスペンスの部分という最もわかりやすい部分だけを抽出して再構成する事を選んだ。
これらの要素を、派手でファンタスティックな天国のビジュアルが繋ぎ、ある種のジュブナイル・ファンタジーとして落とし込むという方法論だが、私はジャクソンの狙いは半分成功して半分失敗していると思う。
原作は映画よりももっと生々しく、痛々しい物語だ。
映画では単に殺されただけに見えるスージーは、原作ではハーヴェイによってレイプされたあと、切り刻まれ、バラバラにされて捨てられる。
そんな悲惨な現実を、本人が天国であっけらかんと客観視するのが本書のユニークなポイントだが、実は原作者のアリス・シーボルト自身も、十代の頃レイプされた経験があるという。
これは私の想像だが、彼女はレイプされた自分を天国で浄化される少女にキャラクター化して救済の物語とする事で、自分の体験と率直に向き合う事が出来たのではないだろうか。
映画は原作をオブラートで包み、ずっと観やすく作られているが、元の物語の持つ最も厳しい部分を封印して、可哀想な14歳の少女が奇跡によって初恋を成就させ、家族の再生を確認し、ついでに自分を殺した犯人の行く末を見届けて成仏(?)するという様に、物語をかなり単純化してしまったのは、テーマ性の表現と言う点では疑問が残る。
もっとも、これにはやむを得ない部分もあると思う。
原作はかなりセクシャルな要素もあり、そのまま映像化すると現在ではチャイルド・ポルノ扱いされてしまいそうな所もあるし、何よりも主人公が半分神の視点で現世を見ている物語なので、あまりにも描いている範囲が広い。
どの様な作り方をしても、ある程度の取捨選択は必要だっただろうと思うが、果たしてこれがベストであったかどうかは、判断が難しいところである。
主人公のスージー・サーモンを演じるシアーシャ・ローナンは、原作のイメージにもピッタリな美少女。
13歳の時に出演した「つぐない」のブライオニー役の演技で、史上7番目の若さでオスカーにノミネートされた逸材で、今後要注目の若手女優だ。
次回作の「The Way Back」は、「マスター・アンド・コマンダー」以来7年ぶりのピーター・ウィアー監督作品という事で、こちらも楽しみである。
両親のサーモン夫妻には、マーク・ウォールバーグとレイチェル・ワイズという演技派を配しているが、脚色の方向性が家族のエピソードの比重を低めている事もあり、あまり印象は強くない。
むしろスーザン・サランドン演じるエキセントリックなリン婆ちゃんの方がインパクトがある。
そして映画版の儲け役は、原作と比べて相対的にずっと大きな役となった猟奇殺人犯のハーヴェイを演じたスタンリー・トゥィチだろう。
おそらく「ラブリーボーン」は、かなり評価が分かれる映画だと思う。
特に原作既読者は、観やすいが物足りないと感じる人が多そうだ。
個人的には、切なくてちょっと奇妙な味わいの青春ファンタジーの佳作であり、これほど映像化の難しい長大な小説を、2時間15分という比較的コンパクトな上映時間の中に上手く纏めているのはさすがだと思う。
だが同時に原作に忠実に作るのか、オリジナルを追求するのか、ピーター・ジャクソンの中で迷いと妥協があったのをスクリーンから感じ取れたのも確かで、結果的に映画の輪郭はややぼやけてしまった。
たとえ3時間を越える大長編になったとしても、描くべきテーマは何なのかを突き詰めてクリアにして欲しかったところだ。
本人にとっては、過剰な期待は迷惑かもしれないが、やはり「LOTR」という奇跡を成し遂げたジャクソンには、もう一ランク上の仕事を望んでしまうのである。
今回は、やや甘口の映画の最後の締めに、リン婆ちゃんの愛飲酒「ジャック・ダニエル」をチョイス。
テネシー・ウィスキーを代表する銘柄で、バーボンとは異なる独特の風味を持つ。
映画のリン婆ちゃんは原作以上に弾けたキャラクターになっていたが、こんな婆ちゃんとだったら酒を一緒に飲んでみたくなるかも(笑
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「キング・コング」以来四年ぶりの新作となる「ラブリーボーン」は、14歳で殺された少女の霊を主人公とした異色作。
永遠の14歳となった主人公が、天国から残された家族や友人たちを見守りながら、精神的に成長して行く青春ファンタジー映画でもあり、一方で自らを殺した犯人が、逮捕されずに未だに大切な家族の近くに住んでいるというサスペンス的な要素もある。
なかなかに、一筋縄ではいかない映画である。
1973年12月6日。
スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)は14歳で殺される。
天国へ行ったスージーは、何でも思いの叶うその場所から、残された家族や友人たちの姿を見守る事にする。
最愛の娘を失ったお父さんのジャック(マーク・ウォールバーグ)とお母さんのアビゲイル(レイチェル・ワイズ)の間には、娘の死とどう向き合うかの違いで少しずつ溝が出来始める。
遅々として進まない警察の捜査に業を煮やしたジャックは、やがて犯人探しに夢中になり、喪失感に耐えられなくなったアビゲイルは家族の元から去ってしまう。
そんな家族の姿に心を痛めるスージーには、実はもっと心配な事がある。
自分を殺したジョージ・ハーヴェイ(スタンリー・トゥッチ)が、今も邪悪な欲望を隠して家族のすぐ近くに住み、その不気味な視線を、愛する妹のリンジー(ローズ・マックィーバ)に注いでいるのだ・・・
観終わって、なんだか引っかかる事が多かった。
映画は面白かったし、具体的に何処がおかしいとか、辻褄が合ってないという訳ではないのだが、どうも作り手の迷いや、方向性のブレの様な物が作品全体を覆っている様に感じたのだ。
物語の目線の置き所や、表現の方向性、テーマの捉え方など、幾つかの考え方が未整理なまま一本の作品中に残されている。
果たして、これは狙ったものなのか、それとも何らかの必然であったのか、どうにもモヤモヤとしたものが残った。
原作はアリス・シーボルトのベストセラー小説。
私は未読だったのだが、引っかかりの原因を知るべく本を買って読んでみた。
500ページ近い原作小説は、読む前は映画の印象から児童文学の類かと思っていのだが、これは全く見当違い。
なるほど、これはピーター・ジャクソンと指輪チームにしても、迷いたくなるのも無理は無い。
私が今までに読んだ事のある文学作品の中で、間違いなく最も映像化に向かない物の一つである。
語りは、主人公のスージー・サーモンという魚の様な名前の少女による一人称で、彼女は死んでしまって天国の見晴台から現世の人々を眺めているという設定になっている。
しかもこの天国は基本的に個人のイマジネーションによって形を変え、天国にいながらにして、地上に目線を持つ事も出来るらしい。
天国では特に何かが起こる訳でもなく、殆ど全ての事件はスージーが見つめる地上で起こり、そして彼女は地上に何の影響も及ぼす事は出来ない。
まあ例外の事態が物語の終盤に一度だけ起こるが、基本的に主人公は完全なる傍観者であり、地上で起こることを見守り、それを彼女のモノローグという形で、どう受け止めたのかが語られる。
文章なら何とかなっても、これを映像で表現するのは至難の業だ。
さらに、映画では主人公が殺される冒頭から、物語が完結するまでの時間は約2年だが、原作では10年もの歳月が流れている。
14歳で殺されたスージーは、もう歳をとることは出来ない。
嘗て恋した青年は別の女性と親しくなり、1歳違いの妹リンジーはスージーの出来なかった事、知らなかった事をどんどん体験しながら追い越してゆく。
殺されてから2年なら、スージーは16歳だが、10年なら24歳である。
思春期に流れるこの時間の差は大きい。
しかも彼女の心は、手の届かない地上を見守り、この世界の理を考えることで着実に成長して行くので、物語の中の歳月が長ければ長いほど、永遠に14歳を生きるスージーの切なさは強まる。
もし、この原作小説を正面から映像化しようとするならば、多分3時間以上あっても到底足りないだろう。
結果的にピーター・ジャクソンは、原作の中からスージーの初恋の部分、彼女の死により崩壊した家族の再生の部分、そして殺人犯ハーヴェイを巡るサスペンスの部分という最もわかりやすい部分だけを抽出して再構成する事を選んだ。
これらの要素を、派手でファンタスティックな天国のビジュアルが繋ぎ、ある種のジュブナイル・ファンタジーとして落とし込むという方法論だが、私はジャクソンの狙いは半分成功して半分失敗していると思う。
原作は映画よりももっと生々しく、痛々しい物語だ。
映画では単に殺されただけに見えるスージーは、原作ではハーヴェイによってレイプされたあと、切り刻まれ、バラバラにされて捨てられる。
そんな悲惨な現実を、本人が天国であっけらかんと客観視するのが本書のユニークなポイントだが、実は原作者のアリス・シーボルト自身も、十代の頃レイプされた経験があるという。
これは私の想像だが、彼女はレイプされた自分を天国で浄化される少女にキャラクター化して救済の物語とする事で、自分の体験と率直に向き合う事が出来たのではないだろうか。
映画は原作をオブラートで包み、ずっと観やすく作られているが、元の物語の持つ最も厳しい部分を封印して、可哀想な14歳の少女が奇跡によって初恋を成就させ、家族の再生を確認し、ついでに自分を殺した犯人の行く末を見届けて成仏(?)するという様に、物語をかなり単純化してしまったのは、テーマ性の表現と言う点では疑問が残る。
もっとも、これにはやむを得ない部分もあると思う。
原作はかなりセクシャルな要素もあり、そのまま映像化すると現在ではチャイルド・ポルノ扱いされてしまいそうな所もあるし、何よりも主人公が半分神の視点で現世を見ている物語なので、あまりにも描いている範囲が広い。
どの様な作り方をしても、ある程度の取捨選択は必要だっただろうと思うが、果たしてこれがベストであったかどうかは、判断が難しいところである。
主人公のスージー・サーモンを演じるシアーシャ・ローナンは、原作のイメージにもピッタリな美少女。
13歳の時に出演した「つぐない」のブライオニー役の演技で、史上7番目の若さでオスカーにノミネートされた逸材で、今後要注目の若手女優だ。
次回作の「The Way Back」は、「マスター・アンド・コマンダー」以来7年ぶりのピーター・ウィアー監督作品という事で、こちらも楽しみである。
両親のサーモン夫妻には、マーク・ウォールバーグとレイチェル・ワイズという演技派を配しているが、脚色の方向性が家族のエピソードの比重を低めている事もあり、あまり印象は強くない。
むしろスーザン・サランドン演じるエキセントリックなリン婆ちゃんの方がインパクトがある。
そして映画版の儲け役は、原作と比べて相対的にずっと大きな役となった猟奇殺人犯のハーヴェイを演じたスタンリー・トゥィチだろう。
おそらく「ラブリーボーン」は、かなり評価が分かれる映画だと思う。
特に原作既読者は、観やすいが物足りないと感じる人が多そうだ。
個人的には、切なくてちょっと奇妙な味わいの青春ファンタジーの佳作であり、これほど映像化の難しい長大な小説を、2時間15分という比較的コンパクトな上映時間の中に上手く纏めているのはさすがだと思う。
だが同時に原作に忠実に作るのか、オリジナルを追求するのか、ピーター・ジャクソンの中で迷いと妥協があったのをスクリーンから感じ取れたのも確かで、結果的に映画の輪郭はややぼやけてしまった。
たとえ3時間を越える大長編になったとしても、描くべきテーマは何なのかを突き詰めてクリアにして欲しかったところだ。
本人にとっては、過剰な期待は迷惑かもしれないが、やはり「LOTR」という奇跡を成し遂げたジャクソンには、もう一ランク上の仕事を望んでしまうのである。
今回は、やや甘口の映画の最後の締めに、リン婆ちゃんの愛飲酒「ジャック・ダニエル」をチョイス。
テネシー・ウィスキーを代表する銘柄で、バーボンとは異なる独特の風味を持つ。
映画のリン婆ちゃんは原作以上に弾けたキャラクターになっていたが、こんな婆ちゃんとだったら酒を一緒に飲んでみたくなるかも(笑

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2010年01月02日 (土) | 編集 |
あけましておめでとうございます。
元日の深夜に、 「アバター」の2D版を観賞。
これで3D版、IMAX3D版とあわせて3バージョン。
12月の後半からは「アバター」しか観てないぞ・・・(笑
こんな観方をしたのは私も初めてなので、それぞれの印象を記しておきたい。
ジェームス・キャメロンが元々3D用に作ったと語るように、この映画の基準点は3D版だろう。
これを100%と考え、単純にアドレナリンの沸騰具合を数値で表すと、IMAX版の印象は120%、2D版の印象は80%くらいだろうか。
2D版は、やはりシンプルな物語とテーマを体感によって伝えるという、本作のコンセプトに不可欠な臨場感がかなりスポイルされている。
もっともその分視界がクリアでディテールには目が行くので、マニアックに観るには2D版も悪くなく、3度目の観賞でも飽きる事は全くなかった。
やはり情報量が半端じゃないというのが3度観た正直な感想で、パンドラの世界は観る度に新しい発見があり、徹底的な作り込みへの驚嘆の度合いはむしろ深まったかもしれない。
シンプルなストーリーラインも、このように繰り返し観るには好都合。
ストーリーを追うのに頭を使わないで済む分、色々な角度から映画を眺める事が出来るのである。
最初に3D版を観た時はあれよあれよという間に終ってしまったが、ディテールをじっくり見るとキャメロンがいかにSF好きで、特にSF小説をよく研究しているかがわかり、遊び心を含めて彼がこの映画に融合させた豊富な芸術的記憶は、余裕を持って観るほどに楽しめる。
ドラゴンライダーVSモビルスーツ軍団の攻防なんて、実はありそうでなかったマニアが夢にまで観たビジュアルなんじゃなかろうか。
今回、私は3D→IMAX→2Dの順番で観たのだが、結果的にこれは理想的だったと思う。
一発目で衝撃を受け、二発目で更にパワーアップ、そして最後は冷静な目で細部まで堪能できた。
これから観賞する人には、やはり3Dから観るのがお勧めだ。
ところで劇場のお姉さんに聞いたのだが、この映画はリピーター率が非常に高いらしい。
まあ私の様な観方をしてる人が多いということだろうけど、アメリカでの興行もいつの間にか凄い事になっている。
12月18日の全米公開の最初の週は、7700万ドルでトップに立ったものの、2009年公開作の中では5位スタートで、やや期待はずれというのが向こうの業界の反応だったのだが、翌週にはムードが一転。
通常、この手の大作は二週目に4割程度の落ち込みがあるものだが、「アバター」は殆ど落ち込みを見せずに、ハイアベレージをキープ。
しかもウィークデーに至っては、二週目が全ての曜日で前週を上回ったのである。
これは12年前の「タイタニック」の興行パターンと同じなのだ。
あの時もスタートこそ年間8位の2800万ドルだったものの、リピーターと口コミで客足が落ちず、最終的に17週連続でトップをキープするという驚異的な記録を打ちたて、世界歴代1位となる18億ドルを稼ぎ出した。
「アバター」の場合、米国市場と海外市場の比率も「タイタニック」とほぼ同じで、このまま行くと30年くらいは破られないと見られてきた「タイタニック」の記録も視野に入ってくるかもしれない。
アメリカでは批評家・観客の評価も共に高く、賞レースでも急浮上している。
SFファンタジーはオスカーを受賞できないというジンクスは、記憶に新しい「王の帰還」のファンタジー映画初の11部門制覇によって崩れたが、いまだSF映画でオスカーの作品賞に輝いた例はない。
興行、オスカーレース共に、キャメロンにとっては自分の記録への挑戦であり、私が映画を観始めた70年代以降では例のない、一人の映画作家によるワンツー独占を成し遂げるのか、しばらく注目して行きたい。
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元日の深夜に、 「アバター」の2D版を観賞。
これで3D版、IMAX3D版とあわせて3バージョン。
12月の後半からは「アバター」しか観てないぞ・・・(笑
こんな観方をしたのは私も初めてなので、それぞれの印象を記しておきたい。
ジェームス・キャメロンが元々3D用に作ったと語るように、この映画の基準点は3D版だろう。
これを100%と考え、単純にアドレナリンの沸騰具合を数値で表すと、IMAX版の印象は120%、2D版の印象は80%くらいだろうか。
2D版は、やはりシンプルな物語とテーマを体感によって伝えるという、本作のコンセプトに不可欠な臨場感がかなりスポイルされている。
もっともその分視界がクリアでディテールには目が行くので、マニアックに観るには2D版も悪くなく、3度目の観賞でも飽きる事は全くなかった。
やはり情報量が半端じゃないというのが3度観た正直な感想で、パンドラの世界は観る度に新しい発見があり、徹底的な作り込みへの驚嘆の度合いはむしろ深まったかもしれない。
シンプルなストーリーラインも、このように繰り返し観るには好都合。
ストーリーを追うのに頭を使わないで済む分、色々な角度から映画を眺める事が出来るのである。
最初に3D版を観た時はあれよあれよという間に終ってしまったが、ディテールをじっくり見るとキャメロンがいかにSF好きで、特にSF小説をよく研究しているかがわかり、遊び心を含めて彼がこの映画に融合させた豊富な芸術的記憶は、余裕を持って観るほどに楽しめる。
ドラゴンライダーVSモビルスーツ軍団の攻防なんて、実はありそうでなかったマニアが夢にまで観たビジュアルなんじゃなかろうか。
今回、私は3D→IMAX→2Dの順番で観たのだが、結果的にこれは理想的だったと思う。
一発目で衝撃を受け、二発目で更にパワーアップ、そして最後は冷静な目で細部まで堪能できた。
これから観賞する人には、やはり3Dから観るのがお勧めだ。
ところで劇場のお姉さんに聞いたのだが、この映画はリピーター率が非常に高いらしい。
まあ私の様な観方をしてる人が多いということだろうけど、アメリカでの興行もいつの間にか凄い事になっている。
12月18日の全米公開の最初の週は、7700万ドルでトップに立ったものの、2009年公開作の中では5位スタートで、やや期待はずれというのが向こうの業界の反応だったのだが、翌週にはムードが一転。
通常、この手の大作は二週目に4割程度の落ち込みがあるものだが、「アバター」は殆ど落ち込みを見せずに、ハイアベレージをキープ。
しかもウィークデーに至っては、二週目が全ての曜日で前週を上回ったのである。
これは12年前の「タイタニック」の興行パターンと同じなのだ。
あの時もスタートこそ年間8位の2800万ドルだったものの、リピーターと口コミで客足が落ちず、最終的に17週連続でトップをキープするという驚異的な記録を打ちたて、世界歴代1位となる18億ドルを稼ぎ出した。
「アバター」の場合、米国市場と海外市場の比率も「タイタニック」とほぼ同じで、このまま行くと30年くらいは破られないと見られてきた「タイタニック」の記録も視野に入ってくるかもしれない。
アメリカでは批評家・観客の評価も共に高く、賞レースでも急浮上している。
SFファンタジーはオスカーを受賞できないというジンクスは、記憶に新しい「王の帰還」のファンタジー映画初の11部門制覇によって崩れたが、いまだSF映画でオスカーの作品賞に輝いた例はない。
興行、オスカーレース共に、キャメロンにとっては自分の記録への挑戦であり、私が映画を観始めた70年代以降では例のない、一人の映画作家によるワンツー独占を成し遂げるのか、しばらく注目して行きたい。

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