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2010年01月08日 (金) | 編集 |
ピーター・ジャクソン版「大霊界 死んだらどうなる」か・・・。
「キング・コング」以来四年ぶりの新作となる「ラブリーボーン」は、14歳で殺された少女の霊を主人公とした異色作。
永遠の14歳となった主人公が、天国から残された家族や友人たちを見守りながら、精神的に成長して行く青春ファンタジー映画でもあり、一方で自らを殺した犯人が、逮捕されずに未だに大切な家族の近くに住んでいるというサスペンス的な要素もある。
なかなかに、一筋縄ではいかない映画である。
1973年12月6日。
スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)は14歳で殺される。
天国へ行ったスージーは、何でも思いの叶うその場所から、残された家族や友人たちの姿を見守る事にする。
最愛の娘を失ったお父さんのジャック(マーク・ウォールバーグ)とお母さんのアビゲイル(レイチェル・ワイズ)の間には、娘の死とどう向き合うかの違いで少しずつ溝が出来始める。
遅々として進まない警察の捜査に業を煮やしたジャックは、やがて犯人探しに夢中になり、喪失感に耐えられなくなったアビゲイルは家族の元から去ってしまう。
そんな家族の姿に心を痛めるスージーには、実はもっと心配な事がある。
自分を殺したジョージ・ハーヴェイ(スタンリー・トゥッチ)が、今も邪悪な欲望を隠して家族のすぐ近くに住み、その不気味な視線を、愛する妹のリンジー(ローズ・マックィーバ)に注いでいるのだ・・・
観終わって、なんだか引っかかる事が多かった。
映画は面白かったし、具体的に何処がおかしいとか、辻褄が合ってないという訳ではないのだが、どうも作り手の迷いや、方向性のブレの様な物が作品全体を覆っている様に感じたのだ。
物語の目線の置き所や、表現の方向性、テーマの捉え方など、幾つかの考え方が未整理なまま一本の作品中に残されている。
果たして、これは狙ったものなのか、それとも何らかの必然であったのか、どうにもモヤモヤとしたものが残った。
原作はアリス・シーボルトのベストセラー小説。
私は未読だったのだが、引っかかりの原因を知るべく本を買って読んでみた。
500ページ近い原作小説は、読む前は映画の印象から児童文学の類かと思っていのだが、これは全く見当違い。
なるほど、これはピーター・ジャクソンと指輪チームにしても、迷いたくなるのも無理は無い。
私が今までに読んだ事のある文学作品の中で、間違いなく最も映像化に向かない物の一つである。
語りは、主人公のスージー・サーモンという魚の様な名前の少女による一人称で、彼女は死んでしまって天国の見晴台から現世の人々を眺めているという設定になっている。
しかもこの天国は基本的に個人のイマジネーションによって形を変え、天国にいながらにして、地上に目線を持つ事も出来るらしい。
天国では特に何かが起こる訳でもなく、殆ど全ての事件はスージーが見つめる地上で起こり、そして彼女は地上に何の影響も及ぼす事は出来ない。
まあ例外の事態が物語の終盤に一度だけ起こるが、基本的に主人公は完全なる傍観者であり、地上で起こることを見守り、それを彼女のモノローグという形で、どう受け止めたのかが語られる。
文章なら何とかなっても、これを映像で表現するのは至難の業だ。
さらに、映画では主人公が殺される冒頭から、物語が完結するまでの時間は約2年だが、原作では10年もの歳月が流れている。
14歳で殺されたスージーは、もう歳をとることは出来ない。
嘗て恋した青年は別の女性と親しくなり、1歳違いの妹リンジーはスージーの出来なかった事、知らなかった事をどんどん体験しながら追い越してゆく。
殺されてから2年なら、スージーは16歳だが、10年なら24歳である。
思春期に流れるこの時間の差は大きい。
しかも彼女の心は、手の届かない地上を見守り、この世界の理を考えることで着実に成長して行くので、物語の中の歳月が長ければ長いほど、永遠に14歳を生きるスージーの切なさは強まる。
もし、この原作小説を正面から映像化しようとするならば、多分3時間以上あっても到底足りないだろう。
結果的にピーター・ジャクソンは、原作の中からスージーの初恋の部分、彼女の死により崩壊した家族の再生の部分、そして殺人犯ハーヴェイを巡るサスペンスの部分という最もわかりやすい部分だけを抽出して再構成する事を選んだ。
これらの要素を、派手でファンタスティックな天国のビジュアルが繋ぎ、ある種のジュブナイル・ファンタジーとして落とし込むという方法論だが、私はジャクソンの狙いは半分成功して半分失敗していると思う。
原作は映画よりももっと生々しく、痛々しい物語だ。
映画では単に殺されただけに見えるスージーは、原作ではハーヴェイによってレイプされたあと、切り刻まれ、バラバラにされて捨てられる。
そんな悲惨な現実を、本人が天国であっけらかんと客観視するのが本書のユニークなポイントだが、実は原作者のアリス・シーボルト自身も、十代の頃レイプされた経験があるという。
これは私の想像だが、彼女はレイプされた自分を天国で浄化される少女にキャラクター化して救済の物語とする事で、自分の体験と率直に向き合う事が出来たのではないだろうか。
映画は原作をオブラートで包み、ずっと観やすく作られているが、元の物語の持つ最も厳しい部分を封印して、可哀想な14歳の少女が奇跡によって初恋を成就させ、家族の再生を確認し、ついでに自分を殺した犯人の行く末を見届けて成仏(?)するという様に、物語をかなり単純化してしまったのは、テーマ性の表現と言う点では疑問が残る。
もっとも、これにはやむを得ない部分もあると思う。
原作はかなりセクシャルな要素もあり、そのまま映像化すると現在ではチャイルド・ポルノ扱いされてしまいそうな所もあるし、何よりも主人公が半分神の視点で現世を見ている物語なので、あまりにも描いている範囲が広い。
どの様な作り方をしても、ある程度の取捨選択は必要だっただろうと思うが、果たしてこれがベストであったかどうかは、判断が難しいところである。
主人公のスージー・サーモンを演じるシアーシャ・ローナンは、原作のイメージにもピッタリな美少女。
13歳の時に出演した「つぐない」のブライオニー役の演技で、史上7番目の若さでオスカーにノミネートされた逸材で、今後要注目の若手女優だ。
次回作の「The Way Back」は、「マスター・アンド・コマンダー」以来7年ぶりのピーター・ウィアー監督作品という事で、こちらも楽しみである。
両親のサーモン夫妻には、マーク・ウォールバーグとレイチェル・ワイズという演技派を配しているが、脚色の方向性が家族のエピソードの比重を低めている事もあり、あまり印象は強くない。
むしろスーザン・サランドン演じるエキセントリックなリン婆ちゃんの方がインパクトがある。
そして映画版の儲け役は、原作と比べて相対的にずっと大きな役となった猟奇殺人犯のハーヴェイを演じたスタンリー・トゥィチだろう。
おそらく「ラブリーボーン」は、かなり評価が分かれる映画だと思う。
特に原作既読者は、観やすいが物足りないと感じる人が多そうだ。
個人的には、切なくてちょっと奇妙な味わいの青春ファンタジーの佳作であり、これほど映像化の難しい長大な小説を、2時間15分という比較的コンパクトな上映時間の中に上手く纏めているのはさすがだと思う。
だが同時に原作に忠実に作るのか、オリジナルを追求するのか、ピーター・ジャクソンの中で迷いと妥協があったのをスクリーンから感じ取れたのも確かで、結果的に映画の輪郭はややぼやけてしまった。
たとえ3時間を越える大長編になったとしても、描くべきテーマは何なのかを突き詰めてクリアにして欲しかったところだ。
本人にとっては、過剰な期待は迷惑かもしれないが、やはり「LOTR」という奇跡を成し遂げたジャクソンには、もう一ランク上の仕事を望んでしまうのである。
今回は、やや甘口の映画の最後の締めに、リン婆ちゃんの愛飲酒「ジャック・ダニエル」をチョイス。
テネシー・ウィスキーを代表する銘柄で、バーボンとは異なる独特の風味を持つ。
映画のリン婆ちゃんは原作以上に弾けたキャラクターになっていたが、こんな婆ちゃんとだったら酒を一緒に飲んでみたくなるかも(笑
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「キング・コング」以来四年ぶりの新作となる「ラブリーボーン」は、14歳で殺された少女の霊を主人公とした異色作。
永遠の14歳となった主人公が、天国から残された家族や友人たちを見守りながら、精神的に成長して行く青春ファンタジー映画でもあり、一方で自らを殺した犯人が、逮捕されずに未だに大切な家族の近くに住んでいるというサスペンス的な要素もある。
なかなかに、一筋縄ではいかない映画である。
1973年12月6日。
スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)は14歳で殺される。
天国へ行ったスージーは、何でも思いの叶うその場所から、残された家族や友人たちの姿を見守る事にする。
最愛の娘を失ったお父さんのジャック(マーク・ウォールバーグ)とお母さんのアビゲイル(レイチェル・ワイズ)の間には、娘の死とどう向き合うかの違いで少しずつ溝が出来始める。
遅々として進まない警察の捜査に業を煮やしたジャックは、やがて犯人探しに夢中になり、喪失感に耐えられなくなったアビゲイルは家族の元から去ってしまう。
そんな家族の姿に心を痛めるスージーには、実はもっと心配な事がある。
自分を殺したジョージ・ハーヴェイ(スタンリー・トゥッチ)が、今も邪悪な欲望を隠して家族のすぐ近くに住み、その不気味な視線を、愛する妹のリンジー(ローズ・マックィーバ)に注いでいるのだ・・・
観終わって、なんだか引っかかる事が多かった。
映画は面白かったし、具体的に何処がおかしいとか、辻褄が合ってないという訳ではないのだが、どうも作り手の迷いや、方向性のブレの様な物が作品全体を覆っている様に感じたのだ。
物語の目線の置き所や、表現の方向性、テーマの捉え方など、幾つかの考え方が未整理なまま一本の作品中に残されている。
果たして、これは狙ったものなのか、それとも何らかの必然であったのか、どうにもモヤモヤとしたものが残った。
原作はアリス・シーボルトのベストセラー小説。
私は未読だったのだが、引っかかりの原因を知るべく本を買って読んでみた。
500ページ近い原作小説は、読む前は映画の印象から児童文学の類かと思っていのだが、これは全く見当違い。
なるほど、これはピーター・ジャクソンと指輪チームにしても、迷いたくなるのも無理は無い。
私が今までに読んだ事のある文学作品の中で、間違いなく最も映像化に向かない物の一つである。
語りは、主人公のスージー・サーモンという魚の様な名前の少女による一人称で、彼女は死んでしまって天国の見晴台から現世の人々を眺めているという設定になっている。
しかもこの天国は基本的に個人のイマジネーションによって形を変え、天国にいながらにして、地上に目線を持つ事も出来るらしい。
天国では特に何かが起こる訳でもなく、殆ど全ての事件はスージーが見つめる地上で起こり、そして彼女は地上に何の影響も及ぼす事は出来ない。
まあ例外の事態が物語の終盤に一度だけ起こるが、基本的に主人公は完全なる傍観者であり、地上で起こることを見守り、それを彼女のモノローグという形で、どう受け止めたのかが語られる。
文章なら何とかなっても、これを映像で表現するのは至難の業だ。
さらに、映画では主人公が殺される冒頭から、物語が完結するまでの時間は約2年だが、原作では10年もの歳月が流れている。
14歳で殺されたスージーは、もう歳をとることは出来ない。
嘗て恋した青年は別の女性と親しくなり、1歳違いの妹リンジーはスージーの出来なかった事、知らなかった事をどんどん体験しながら追い越してゆく。
殺されてから2年なら、スージーは16歳だが、10年なら24歳である。
思春期に流れるこの時間の差は大きい。
しかも彼女の心は、手の届かない地上を見守り、この世界の理を考えることで着実に成長して行くので、物語の中の歳月が長ければ長いほど、永遠に14歳を生きるスージーの切なさは強まる。
もし、この原作小説を正面から映像化しようとするならば、多分3時間以上あっても到底足りないだろう。
結果的にピーター・ジャクソンは、原作の中からスージーの初恋の部分、彼女の死により崩壊した家族の再生の部分、そして殺人犯ハーヴェイを巡るサスペンスの部分という最もわかりやすい部分だけを抽出して再構成する事を選んだ。
これらの要素を、派手でファンタスティックな天国のビジュアルが繋ぎ、ある種のジュブナイル・ファンタジーとして落とし込むという方法論だが、私はジャクソンの狙いは半分成功して半分失敗していると思う。
原作は映画よりももっと生々しく、痛々しい物語だ。
映画では単に殺されただけに見えるスージーは、原作ではハーヴェイによってレイプされたあと、切り刻まれ、バラバラにされて捨てられる。
そんな悲惨な現実を、本人が天国であっけらかんと客観視するのが本書のユニークなポイントだが、実は原作者のアリス・シーボルト自身も、十代の頃レイプされた経験があるという。
これは私の想像だが、彼女はレイプされた自分を天国で浄化される少女にキャラクター化して救済の物語とする事で、自分の体験と率直に向き合う事が出来たのではないだろうか。
映画は原作をオブラートで包み、ずっと観やすく作られているが、元の物語の持つ最も厳しい部分を封印して、可哀想な14歳の少女が奇跡によって初恋を成就させ、家族の再生を確認し、ついでに自分を殺した犯人の行く末を見届けて成仏(?)するという様に、物語をかなり単純化してしまったのは、テーマ性の表現と言う点では疑問が残る。
もっとも、これにはやむを得ない部分もあると思う。
原作はかなりセクシャルな要素もあり、そのまま映像化すると現在ではチャイルド・ポルノ扱いされてしまいそうな所もあるし、何よりも主人公が半分神の視点で現世を見ている物語なので、あまりにも描いている範囲が広い。
どの様な作り方をしても、ある程度の取捨選択は必要だっただろうと思うが、果たしてこれがベストであったかどうかは、判断が難しいところである。
主人公のスージー・サーモンを演じるシアーシャ・ローナンは、原作のイメージにもピッタリな美少女。
13歳の時に出演した「つぐない」のブライオニー役の演技で、史上7番目の若さでオスカーにノミネートされた逸材で、今後要注目の若手女優だ。
次回作の「The Way Back」は、「マスター・アンド・コマンダー」以来7年ぶりのピーター・ウィアー監督作品という事で、こちらも楽しみである。
両親のサーモン夫妻には、マーク・ウォールバーグとレイチェル・ワイズという演技派を配しているが、脚色の方向性が家族のエピソードの比重を低めている事もあり、あまり印象は強くない。
むしろスーザン・サランドン演じるエキセントリックなリン婆ちゃんの方がインパクトがある。
そして映画版の儲け役は、原作と比べて相対的にずっと大きな役となった猟奇殺人犯のハーヴェイを演じたスタンリー・トゥィチだろう。
おそらく「ラブリーボーン」は、かなり評価が分かれる映画だと思う。
特に原作既読者は、観やすいが物足りないと感じる人が多そうだ。
個人的には、切なくてちょっと奇妙な味わいの青春ファンタジーの佳作であり、これほど映像化の難しい長大な小説を、2時間15分という比較的コンパクトな上映時間の中に上手く纏めているのはさすがだと思う。
だが同時に原作に忠実に作るのか、オリジナルを追求するのか、ピーター・ジャクソンの中で迷いと妥協があったのをスクリーンから感じ取れたのも確かで、結果的に映画の輪郭はややぼやけてしまった。
たとえ3時間を越える大長編になったとしても、描くべきテーマは何なのかを突き詰めてクリアにして欲しかったところだ。
本人にとっては、過剰な期待は迷惑かもしれないが、やはり「LOTR」という奇跡を成し遂げたジャクソンには、もう一ランク上の仕事を望んでしまうのである。
今回は、やや甘口の映画の最後の締めに、リン婆ちゃんの愛飲酒「ジャック・ダニエル」をチョイス。
テネシー・ウィスキーを代表する銘柄で、バーボンとは異なる独特の風味を持つ。
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