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2010年01月30日 (土) | 編集 |
世界一山あり谷ありな映画人生を歩む、孤高の映画作家テリー・ギリアム。
スタジオとケンカするぐらいは序の口で、「ドン・キホーテを殺した男」では度重なる様々な不幸の波状攻撃を受け、ついに制作を中止せざるを得なくなった顛末は、本編が存在しない最も有名なメイキングである「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳しい。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」では、何とドラマの中核を担う役を演じていたヒース・レジャーが、撮影中に急死するという悲劇に見舞われてしまう。
現実世界と変幻自在の幻想世界が入り混じる本作、不幸中の幸いにも現実世界のシーンは撮り終えていた事から、幻想世界のレジャーの役を生前レジャーと親交のあったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの三人が入れ替わって演じるという起死回生の裏ワザ駆使して、何とか完成に漕ぎ着けた。
現代のロンドン。
場末のパブの前で、今日もパルナサス博士率いる移動劇場の幕が開く。
一座は、もうすぐ16歳になる博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)と、彼女に思いを寄せる若者アントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)の四人構成。
観客をステージに置かれた「鏡」の中に誘って、不思議な体験をさせるというのだが、なかなか興味を持ってもらえず、いつも閑古鳥が鳴いている。
ある晩彼らは、橋の下で首を吊って死に掛けていたトニー(ヒース・レジャー)という男を助ける。
記憶を失っているというトニーは、すぐにヴァレンティナと親しくなり、色々なアイディアを出して一座の興行を盛り上げる。
だが、トニーには人に言えない秘密があって・・・
明確に、観客を選ぶ作品だと思う。
ここしばらく“らしさ”を失った作品が多かったが、本作は良くも悪くもギリアム節が全開だ。
パルナサスの一座の唯一最大のウリは、劇中で“イマジナリウム”と呼ばれるステージに置かれた不思議な「鏡」で、これは一見すると単なるハリボテなのだが、実はその鏡の中は入った人間の心が具現化する異世界につながっている。
初期の「バンデッドQ」や「バロン」を思わせる不思議世界の描写は、時間的にはそれほど長い物ではないが、ギリアムらしいシュールな造型に溢れており、観客を映画世界に誘うトリップ感はたっぷりだ。
この鏡というアイコンを使って語られるのは、ギリアムの考える「物語論」と言って良いだろう。
遠い昔、世界を存在させるために、「永遠の物語」を紡いでいたパルナサスは、Mr.ニックという悪魔に不死の存在にしてもらう。
やがて、ある女性に恋をした博士は、自らの若さを復活させるために、ニックとある契約を結ぶのだが、奇妙奇天烈な鏡はこの契約の産物で、不条理な鏡の世界に人間を誘い込み理想と欲望のどちらかを選択させる事で、悪魔と勝負を続けているのだ。
契約の期限は刻々と迫るが、博士はそのことを誰にも話せずに、絶望の淵に追い込まれつつある。
元々不明瞭な映画の輪郭は、パルナサスの葛藤と共に崩壊し、それが現実なのか、鏡の作り出す幻想なのか、そもそもどこまでがパルナサスの物語なのか、渾然一体に溶け合う様な作りとなっており、はっきりとしたコアは存在しない。
多分にレジャーの死による細部の変更が影響しているとは思うが、登場人物の位置づけもまたあやふやだ。
一見主役に見える謎の男トニーは、何時しか一座の中で客を鏡の世界へ誘う案内人の様な役割を演じる事になる。
鏡の中はその人物のイマジネーションを反映してるので、トニーの容貌も客の欲望によって、ジョニー・デップになったりジュード・ロウになったりと変化するという訳だ。
だが実際のところ、この話の主役はトニーではない。
この映画は、タイトルロールであるクリストファー・プラマー演じるパルナサス博士の語る、制御不能の物語に閉じ込められた鏡の世界であり、トニーもまた物語のモチーフに過ぎないのだ。
「Dr.パルサナスの鏡」とは、おそらく創造の悪魔と契約してしまい、どんなに不幸が襲い掛かろうとも、永遠に映画を作り続けなければならない、テリー・ギリアム自身の映画世界を描いた作品で、ボロボロになっても物語を語り続ける不死者パルナサスとは、要するにギリアム自身のメタファーだろう。
映画作家はスクリーンという自らの想像力の鏡に人々を誘い、そこで繰り広げられる物語に観客自身を投影させていると考えると、この作品自体が映画という物語る手段のカリカチュアとも思える。
映画の中の物語が境界を失って溶け合ってゆく様に、スクリーンの向こうとこちらもまた、作家と観客のイマジネーションによって融合してゆくのである。
この語り部と受け手の無限ループによって、ギリアムにとっての物語論はどうやら永続性に帰結する。
70年代末頃だっただろうか、何かの本で「物語は完結してはならない」と語っていた栗本薫は、実際本来100巻で完結予定だった「グイン・サーガ」を予定を遥に超えて書き続け、結局著者の死に至るまで完結しなかった。
また物語論的なファンタジーを多く残したミヒャエル・エンデが、友人で翻訳者の田村都志夫に自らの人生や作品について語った談話集「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」のあとがきで、田村氏は「エンデと話をするということは、あたかもミヒャエル・エンデという庭をあてもなく歩く様なものだった」と記している。
私はパルナサスが自らの物語の中で、迷い葛藤する姿に、この一文を思い出した。
スクリーンというギリアムの鏡の中で、ヒース・レジャーもまた永遠の物語の一部になったのかも知れない。
今回は、幻のギリアム映画に引っ掛けて「ドン・キホーテ」をチョイス。
ギネス・ビールとテキーラを30mlずつ、順にショットグラスへそそぐ。
本来は食前酒だが、夢うつつのような映画から目を覚ますにはこの超辛口がちょうどいい。
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こちらはバートン流の物語論
スタジオとケンカするぐらいは序の口で、「ドン・キホーテを殺した男」では度重なる様々な不幸の波状攻撃を受け、ついに制作を中止せざるを得なくなった顛末は、本編が存在しない最も有名なメイキングである「ロスト・イン・ラ・マンチャ」に詳しい。
今回の「Dr.パルナサスの鏡」では、何とドラマの中核を担う役を演じていたヒース・レジャーが、撮影中に急死するという悲劇に見舞われてしまう。
現実世界と変幻自在の幻想世界が入り混じる本作、不幸中の幸いにも現実世界のシーンは撮り終えていた事から、幻想世界のレジャーの役を生前レジャーと親交のあったジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの三人が入れ替わって演じるという起死回生の裏ワザ駆使して、何とか完成に漕ぎ着けた。
現代のロンドン。
場末のパブの前で、今日もパルナサス博士率いる移動劇場の幕が開く。
一座は、もうすぐ16歳になる博士の娘ヴァレンティナ(リリー・コール)と、彼女に思いを寄せる若者アントン(アンドリュー・ガーフィールド)、小人のパーシー(ヴァーン・トロイヤー)の四人構成。
観客をステージに置かれた「鏡」の中に誘って、不思議な体験をさせるというのだが、なかなか興味を持ってもらえず、いつも閑古鳥が鳴いている。
ある晩彼らは、橋の下で首を吊って死に掛けていたトニー(ヒース・レジャー)という男を助ける。
記憶を失っているというトニーは、すぐにヴァレンティナと親しくなり、色々なアイディアを出して一座の興行を盛り上げる。
だが、トニーには人に言えない秘密があって・・・
明確に、観客を選ぶ作品だと思う。
ここしばらく“らしさ”を失った作品が多かったが、本作は良くも悪くもギリアム節が全開だ。
パルナサスの一座の唯一最大のウリは、劇中で“イマジナリウム”と呼ばれるステージに置かれた不思議な「鏡」で、これは一見すると単なるハリボテなのだが、実はその鏡の中は入った人間の心が具現化する異世界につながっている。
初期の「バンデッドQ」や「バロン」を思わせる不思議世界の描写は、時間的にはそれほど長い物ではないが、ギリアムらしいシュールな造型に溢れており、観客を映画世界に誘うトリップ感はたっぷりだ。
この鏡というアイコンを使って語られるのは、ギリアムの考える「物語論」と言って良いだろう。
遠い昔、世界を存在させるために、「永遠の物語」を紡いでいたパルナサスは、Mr.ニックという悪魔に不死の存在にしてもらう。
やがて、ある女性に恋をした博士は、自らの若さを復活させるために、ニックとある契約を結ぶのだが、奇妙奇天烈な鏡はこの契約の産物で、不条理な鏡の世界に人間を誘い込み理想と欲望のどちらかを選択させる事で、悪魔と勝負を続けているのだ。
契約の期限は刻々と迫るが、博士はそのことを誰にも話せずに、絶望の淵に追い込まれつつある。
元々不明瞭な映画の輪郭は、パルナサスの葛藤と共に崩壊し、それが現実なのか、鏡の作り出す幻想なのか、そもそもどこまでがパルナサスの物語なのか、渾然一体に溶け合う様な作りとなっており、はっきりとしたコアは存在しない。
多分にレジャーの死による細部の変更が影響しているとは思うが、登場人物の位置づけもまたあやふやだ。
一見主役に見える謎の男トニーは、何時しか一座の中で客を鏡の世界へ誘う案内人の様な役割を演じる事になる。
鏡の中はその人物のイマジネーションを反映してるので、トニーの容貌も客の欲望によって、ジョニー・デップになったりジュード・ロウになったりと変化するという訳だ。
だが実際のところ、この話の主役はトニーではない。
この映画は、タイトルロールであるクリストファー・プラマー演じるパルナサス博士の語る、制御不能の物語に閉じ込められた鏡の世界であり、トニーもまた物語のモチーフに過ぎないのだ。
「Dr.パルサナスの鏡」とは、おそらく創造の悪魔と契約してしまい、どんなに不幸が襲い掛かろうとも、永遠に映画を作り続けなければならない、テリー・ギリアム自身の映画世界を描いた作品で、ボロボロになっても物語を語り続ける不死者パルナサスとは、要するにギリアム自身のメタファーだろう。
映画作家はスクリーンという自らの想像力の鏡に人々を誘い、そこで繰り広げられる物語に観客自身を投影させていると考えると、この作品自体が映画という物語る手段のカリカチュアとも思える。
映画の中の物語が境界を失って溶け合ってゆく様に、スクリーンの向こうとこちらもまた、作家と観客のイマジネーションによって融合してゆくのである。
この語り部と受け手の無限ループによって、ギリアムにとっての物語論はどうやら永続性に帰結する。
70年代末頃だっただろうか、何かの本で「物語は完結してはならない」と語っていた栗本薫は、実際本来100巻で完結予定だった「グイン・サーガ」を予定を遥に超えて書き続け、結局著者の死に至るまで完結しなかった。
また物語論的なファンタジーを多く残したミヒャエル・エンデが、友人で翻訳者の田村都志夫に自らの人生や作品について語った談話集「ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと」のあとがきで、田村氏は「エンデと話をするということは、あたかもミヒャエル・エンデという庭をあてもなく歩く様なものだった」と記している。
私はパルナサスが自らの物語の中で、迷い葛藤する姿に、この一文を思い出した。
スクリーンというギリアムの鏡の中で、ヒース・レジャーもまた永遠の物語の一部になったのかも知れない。
今回は、幻のギリアム映画に引っ掛けて「ドン・キホーテ」をチョイス。
ギネス・ビールとテキーラを30mlずつ、順にショットグラスへそそぐ。
本来は食前酒だが、夢うつつのような映画から目を覚ますにはこの超辛口がちょうどいい。

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こちらはバートン流の物語論
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