酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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インビクタス‐負けざる者たち‐・・・・・評価額1700円
2010年02月28日 (日) | 編集 |
21世紀に入ってから、脅威のペースで傑作・名作を生み続けるスーパー映画爺さん、クリント・イーストウッドがゼロ年代の最後に放ったのは、1995年に開催されたラグビーの南アフリカ・ワールドカップを題材に、当時のマンデラ大統領と南ア代表チームの魂の交流を描いたヒューマンドラマ。
アパルトヘイトの終わりと共に、体制が崩壊した国家の再建と人種間の和解が、ラグビーというスポーツに託される。
タイトルの「INVICTUS」とは、劇中で使われる詩のタイトルで、ラテン語で「不屈」を意味するという。

ラグビーのワールドカップ開催が、一年後に迫る南アフリカ。
就任したばかりのマンデラ大統領(モーガン・フリーマン)の目の前には、アパルトヘイトが廃止されても、相変わらず白人と黒人に分断され、経済は低迷し、治安は悪化の一途を辿る、崩壊した祖国が横たわる。
白人に人気のスポーツだったラグビーと、白人主体の代表チーム・スプリングボクスは、アパルトヘイトの象徴として、黒人たちには忌み嫌われており、成績も低迷していた。
だが、ラグビーが白人のスポーツだからこそ、国民の和解の象徴になりえると考えたマンデラは、反対派の声を抑え、国を挙げてワールドカップの支援に乗り出す。
マンデラと面会したスプリングボクスのフランソワ・ピナール主将(マット・デイモン)は、スポーツに国の未来を象徴させようとする大統領の理想を心に感じ、バラバラのチームを纏め上げてゆく・・・・


ここ数年のイーストウッド作品は、全てが未来へ残す遺言の様だ。
前作の「グラン・トリノ」が、次世代のアメリカ人へ向けたオールドアメリカからの遺言だとすれば、この「インビクタス‐負けざる者たち‐」は、全人類への遺言とも取れる。
人間が人間を抑圧し、支配する事が肯定される、アパルトヘイトという異常な時代。
そんな時代を生き抜き、ついにその不屈の闘志によって歴史を変え、新たな時代の象徴となったネルソン・マンデラという偉大な政治家は、ボロボロになってしまった祖国を救う力を、復讐ではなく許しと和解に求めた。
少数派の白人の、多数派の黒人に対する恐怖心を取り除き、共に未来を作るというメッセージを、「人間的打算」によってラグビーというスポーツに象徴させたのである。

スポーツによる人種の和解、という巨大な試みを成功させるためには、先ずラグビーそのものの中で和解が行われなければならない。
その為に、マンデラの理想に共鳴し協力者となるのが、代表チーム・スプリングボクスの主将フランソワだ。
黒人に対して露骨な差別心を持つ父の元に育ち、黒人政権下の新生南アフリカにはむしろ不安と猜疑心を抱いていたフランソワは、マンデラと出会い、彼の温和な笑顔の下に隠された、強靭な魂と国の未来を描く力に惹かれ、率先してチームの意識を変えてゆく。
そしてスプリングボクスの中から始まった小さな変革は、やがてワールドカップの熱狂と共に国中に感染してゆくのだ。

本作の後に、話題作「シャーロック・ホームズ」が待機している脚本のアンソニー・ペッカムは、南アフリカ生まれで、アパルトヘイトに反発して故国を出た人物だという。
実際にその社会を知る者だからこそ作りえる、臨場感とリアリズムはこの作品が南アフリカから遠く離れたハリウッドの映画作家によって作られたことを忘れさせる。
ただ、描写のリアリズムは十分なものの、今回はアメリカを舞台に、アメリカ人を描いた作品と違い、イーストウッド自身の“リアル”はやや希薄で、ある程度物語を理詰めで描いている印象がある。
例えば日本人を主人公とした「硫黄島からの手紙」あたりと比べても、視点はかなり客観的な印象で、「グラン・トリノ」で見られた様な遊び心と詩情はあまり感じられない。
まあ、これらは映画としてはエクストラの部分だろうが、イーストウッド映画の大きな魅力になっていると思うので、そういう点では彼の作品としてはやや物足りなさが残る気がする。

もっとも、細かい不満を吹き飛ばすほど、後半のラグビーの試合は迫力満点。
まるで自分がグラウンドにいて、選手とスクラムを組んでいるかのような臨場感と勝利のカタルシスは、スポーツ映画の醍醐味に満ちている。
本作でオスカーにノミネートされたマット・デイモンを始めとした俳優陣も、立派にアスリートの肉体を作っているので、細部にいたるまで説得力があり、クライマックスでは、映画館が決勝の舞台エリス・パーク・スタジアムの観衆たちと一体になったかの様な高揚感を感じる。
9.11以降ではあり得ないジャンボ機機長の無茶や、いがみ合っていた黒人の少年と白人の警官が何時の間にか共に応援し、喝采を叫ぶというユーモラスな描写も楽しいが、こういう遊びが全体にもう少し欲しかったところ。

本作が2010年という年を迎えるタイミングで公開されたのは、おそらく明確な意図がある。
言うまでも無く、今年は冬季オリンピックサッカーのワールドカップが同年に開催されるスポーツイヤーである。
先日、内戦に苦しんだボスニア・ヘルツェゴビナのオリンピックチームのルポが放送されていたが、今も民族ごとに分断状態にある国内にあって、オリンピックチームだけは何のわだかまりも無く統一チームとして選抜運営され、国民の多くも民族の違いに関係無く応援しているという。
スポーツという特別な言語は、確かに人々の意志を一つに統合する力があり、スプリングボクスやボスニアヘルツェゴビナのオリンピックチームは、その力のポジティブな象徴と言える。
そして夏にサッカーのワールドカップが開催されるのは、映画と同じ南アフリカである。
映画の中では、ラグビーは白人のスポーツ、サッカーは黒人のスポーツとして描かれていた。
スポーツを「人間的打算」として良い意味で利用したマンデラの政治と、ラグビーのワールドカップによって、両人種の和解の第一歩は印されたのかもしれない。
果たして15年後の南アフリカが、どのような姿を世界に見せるのか、映画で決勝の舞台となったエリス・パーク・スタジアムでも再び開催される今度のワールドカップは、そのまま映画のリアルな続編という事だろう。
もちろんマンデラとは対照的に、スポーツの持つ統合の力を、「敵」を認識させるために利用したナチスドイツの様な政治もあることは忘れてはならないが。

南アフリカという遠い国の、人種問題を背景とした物語ということで、本作は日本人にとってはある意味で遠いイメージの作品かもしれない。
だが、この映画は今の日本にとっても、多くの示唆を含んだ作品だと思う。
社会が分断され、経済、治安など難問が山積する中、マンデラというニューリーダーが登場した当時の南アフリカは、程度の差はあれど今の日本の姿にどこか被る。
この国の全ての政治家は、本作を観賞すべきだ。
映画に描かれるマンデラの姿は、国家のリーダーにとって、いかに理想とビジョンが必要かを改めて感じさせる。
常に敵を作る事で人気取りに汲々とする一部のポピュリスト首長たち、あるいはマスコミにのせられてそんな底の浅い政治家たちを安易に支持してしまう我々有権者は、この映画を観てわが身を振り返るべきだろう。
もちろん、鳩山首相をはじめとする、今の日本政府のトップたちにも是非観てもらいたいものだ。
政治家としての器はともかく、リーダーとはどうあるべきかという事を、この作品は雄弁に教えてくれる。

イーストウッド映画の例に漏れず、本作も説明的な部分は極力省かれている。
劇中で最低限のインフォメーションは提示されるが、南アフリカで何が起こったのか、ネルソン・マンデラとは何者かという事は、観客の教養として当然知っているという前提で描かれている。
物語のバックグランドはある程度知った上で観賞すべきだろう。

今回は南アフリカのビール「CASTLE LAGER」をチョイス。
映画の中ではビールは「敗北の味」なんて言われてしまっていたけど、こちらはシャープな喉越しで、激しいスポーツの観戦には勿論、映画の熱い熱気を冷ますのにもちょうど良い。
日本の熱帯夜にもあいそうな一本だが、残念ながら日本には正規輸入されていないので、個人輸入するか、アフリカ料理店くらいでしか飲めないのが残念。
夏に南アのワールドカップを観に行く人がいたら是非お勧めしたい。

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ゼロ年代ベスト10
2010年02月19日 (金) | 編集 |
人気映画ブログ「自主映画制作工房Stud!o Yunfat」のしんさんが、映画ブロガーによるゼロ年代ベスト10という壮大な企画を集計・発表された。
私も参加させていただいたのだが、ぶっちゃけ10年間をたった10本に代表させるというのはかなり無謀で、ベスト100なら簡単なのになあとか思いつつ、選んでみた。
合計37名のシネフィル、あるいは映画オタクのベスト10は「自主映画制作工房Stud!o Yunfat」の「ブロガーによる00年代(2000~2009)映画ベストテン」を読んでもらうとして、私の投票したベスト10をこちらに記載しておく。

【00年代 日本映画ベストテン】
1位『誰も知らない』
2位『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』
3位『千と千尋の神隠し』
4位『たそがれ清兵衛』
5位『GO』
6位『空気人形』
7位『かもめ食堂』
8位『アフタースクール』
9位『東京ゴッドファーザーズ』
10位『虹の女神』

日本映画00年代ベスト監督『是枝裕和』
日本映画00年代ベスト女優『ペ・ドゥナ』
日本映画00年代ベスト男優『野原しんのすけ』

【00年代 外国映画ベストテン】
1位『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』
2位『殺人の追憶』
3位『アバター』
4位『ダークナイト』
5位『ミリオンダラー・ベイビー』
6位『チェイサー』
7位『グラディエイター』
8位『モンスターズ・インク』
9位『シティ・オブ・ゴッド』
10位『パンズ・ラビリンス』

外国映画00年代ベスト監督『ピーター・ジャクソン』
外国映画00年代ベスト女優『ケイト・ウィンスレット』
外国映画00年代ベスト男優『ソン・ガンホ』

我ながら保守的というか、エンターテイメントとハリウッド至上主義者であることが一目瞭然(笑

ゼロ年代の日本映画は、やはり是枝裕和とアニメの時代という印象が強い。
ベスト1にした「誰も知らない」を始め、是枝裕和の作品はこの10年間に発表された作品全てで、極めて高いクオリティを維持していたと思う。
もちろん傑作を放った映画作家は他にもいたが、長編劇映画5作品(『大丈夫であるように』は未見)全てが水準以上の秀作という人物は他に見当たらない。
アニメーションは、宮崎駿の作品から「言いたい事」が失われてゆく中、原恵一や細田守らが作家性の強い優れた娯楽作品を発表してきている。
だが、3DCG作品がなかなか根付かず、日本型アニメーションのガラパゴス化が今後加速しそうなのが心配ではあるが。

外国映画は「指輪」と韓国映画の時代だった様に感じる。
私にとって今のところ人生のベスト1である「指輪三部作」と出会えたのが一番の事件だったのは間違いなく、一作あたり劇場で10回以上は観てるので、ほぼシーン構成を暗記してしまったほど観込んだ。
また80年代の民主化以降、急速にそのクオリティを上げてきた韓国映画は、このゼロ年代に入って正に大爆発といった感じだ。
韓流ブームのおかげで、節操無く作品が公開されたために、逆に一般映画ファンの離反を招いてしまったのは残念だが、ポン・ジュノ、キム・ギドク、イ・チャンドンといった個性豊かな作家たちは間違いなく世界のトップランナーだ。
そして毎年の様にとんでもない新たな才能が生まれてくるエネルギーは、正直凄いと思う。

まあ10年間の事なので、記憶から抜け落ちてる作品も多く、もう既に「あ、あれ入れ忘れた!」というのが結構あったりするのだが、1000本近い中から20本を拾い上げるというのは、なかなかに面白い経験であった。
こういう機会を企画してくれた「自主映画制作工房Stud!o Yunfat」のしんさんには感謝したい。

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コララインとボタンの魔女 3D・・・・・評価額1600円
2010年02月17日 (水) | 編集 |
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」「ジャイアント・ピーチ」で熱烈なファンを持つ人形アニメの鬼才、ヘンリー・セリック監督の最新作「コララインとボタンの魔女」が、米国リリースから一年遅れで、ようやく日本でも公開される事になった。
原作は「ベオウルフ 呪われし勇者」の脚本家としても知られる英国の作家、ニール・ゲイマンのベストセラー。
音楽はフランスのブリュノ・クーレに、コンセプトデザインには先日アニー賞を受賞したことでも話題になった日本のイラストレーター上杉忠弘と、国際色豊かなスタッフたちは、なかなかに味わい深いファンタジーアニメーションを作り上げた。

少女コラライン(ダコタ・ファニング)は、長年住み慣れた街を離れ、オレゴンの田舎にある築150年のピンクパレスアパートに越して来る。
忙しい両親はなかなか構ってくれず、友達もいない土地で暇をもてあます毎日。
そんなある日、コララインは家の中にクロスで隠された小さなドアを見つける。
ドアの向こうにあったのは、現実と似てるけどちょっと違う別の世界。
そこは優しくてコララインをとても可愛がってくれる別のママ(テリー・ハッチャー)と別のパパ(ジョン・ホッジマン)がいる、楽しくてワクワクする事が一杯の理想の世界だった。
唯一奇妙なのは、こっちでは人間の目にナゼかボタンが縫い付けられている事。
すっかり別の世界に心奪われたコララインは、元の世界と行き来する様になるのだが、ある時元の世界に戻ると、本当の両親の姿が消えていた・・・


色々な意味でセリックらしい作品である。
独特のダークな世界観と凝った造形感覚には、大人も子供も魅了されるだろう。
古い家の中に隠された小さなドアの先にある「別の世界」は、主人公であるコララインの理想が具現化したパラレルワールド。
ここは一見現実世界とそっくりながら、コララインが不満に思っていた全ての点が、180度ベターな方向に変わっている彼女の理想世界なのだ。
アパートの上の階に住む変人ポビンスキーと、地下に住む元女優だという不気味な二人の老婆たちは、別の世界では楽しいネズミサーカスに招待してくれたり、若返って素敵なステージを見せてくれたりする。
特に、二人揃ってワーカホリックで、自分に構ってくれない両親に不満を持っていたコララインは、優しく料理上手な別のママと、愉快でコララインを楽しませてくれる別のパパに夢中になる。

だが、世の中にそんなウマイ話は無いんだよぉとばかり、理想の世界は突然コララインに牙を剥く。
別のママは本当は魔女で、理想の世界もコララインをおびき寄せるために魔女が作り上げた虚構の世界だったのだ。
コララインが現実世界に逃げ帰ろうにも、いつの間にか本物の両親が魔女の手に落ちてしまっており、コララインは目にボタンを縫い付けて、魔女の世界に留まれと脅迫される。
甘い甘い夢の代償を見せ付ける、このあたりの展開はかなりホラーチックで、両親の姿をした者が、実は恐ろしい魔物であるという描写は、たぶん小さい子供には相当恐いはず。

これがディズニーのクラッシクアニメなら、ここでお姫様も囚われて、白馬の王子様の登場を待つところだろうが、コララインは宮崎アニメが大好きで「もののけ姫」の英語版脚本も担当したニール・ゲイマンの創造したキャラクターだ。
見るからに気の強そうなキャラクターデザインの通り、コララインは魔女の脅しに屈せずに、自分自身の運命を賭けて、魔女に一世一代の勝負を挑むのである。
ここからのクライマックスは、ラストまで怒涛の勢いで一気に突っ走る。
過去に魔女の犠牲となった三人の子供たちの目を奪い返し、閉じ込められた両親を救うプロセスは、伏線やアイテムを生かして目的をクリアしてゆくゲームライクな展開とも言えるが、こういう構造は元々異世界ファンタジーの王道だ。
愛する者と世界を救うために、異世界で戦う少女という構図は、年少者にも何とか見せられるもう一つの「パンズ・ラビリンス」と言ったところか。
魔女の思念が作っていた世界が崩壊するあたりは、ちょっと押井守の「うる星やつら2/ビューティフルドリーマー」を思わせる。

最近のアニメらしく、本作も立体上映を前提としているが、全体に奥行と広がりを強調したビジュアルデザインがなされており、上杉忠弘のイラストがそのまま具現化された様な、美しく色彩豊かな世界は劇場で観るべき物だ。
また、「かいじゅうたちのいるところ」が着ぐるみのかいじゅうにCDで豊かな表情を与えていた様に、この作品では人形アニメーションとCGが融合し、上々の効果を挙げている。
人形アニメーションは細かな表情を作るのが難しく、過去には顔のパーツを差し替えるパペトゥーンの手法を使ったり、顔の表情だけメカニカルを組み込んだ大型のモデルを使用したりと様々な工夫が凝らされたが、今回は人形の表情をCGによって補完することで、3DCGアニメ並みの豊かな感情表現が可能となった。
手作りの暖かさの残る昔ながらのアナログな技術と、デジタル技術の融合は今後の映像表現における一つのトレンドとなるかもしれない。

「コララインとボタンの魔女」は、ニール・ゲイマンの創造した物語を、ヘンリー・セリックが見事な匠の技で具現化した秀作だ。
この作品の最も優れた点は、コララインの寂しさや退屈といった気持ちにつけ込む形で魔女がワナを仕掛ける事で、逆に現実世界の問題を際立たせ、彼女にとっての世界の現状を無条件で肯定していない事だろう。
コララインにとって両親は理想とは程遠いし、隣人も不気味で、幼馴染とは離れ離れだし、近所の同世代は妙チクリンなオタク。
それでも、不満のたくさんある自由な世界は、他人に支配されるハリボテの理想世界よりも、自らの運命を賭けても守る価値のある物であるという事を、コララインは行動で示して見せるのである。
本作は、子供が観たらコララインに感情移入して楽しめるだろうし、大人が観ても捻りのあるダークな世界観をたっぷり堪能出来るだろう。
もちろん、親子で観るのも良いと思う。
子供が煩わしいと思っている親や、親が構ってくれなくて退屈と思ってる子供の家には、いつの間にかどこかに小さなドアが出来ているのかも知れない。

今回は、一見甘そうで、実は結構ビターなダークファンタジーという事で、「インペリアル・チョコレート・スタウト」をチョイス。
バレンタインのプレゼントに人気だという所謂チョコレートビール。
赤ワインと黒ビールを合体させたような濃厚なボディが特徴で、夏ではなく、冬に飲みたい一本だ。
アルコール度数も8.5%と高く、長期間保存できるというので、私も一年ほど冷蔵庫で寝かせてみたが、全く問題なかった。
なかなかユニークな酒である。

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フローズン・リバー・・・・・評価額1650円
2010年02月11日 (木) | 編集 |
「フローズン・リバー」は、タイトル通り、凍りついた大河の様に厳しく困難な人生を歩む、二人の女性の物語である。
これが長編デビュー作となるコートニー・ハント監督は、貧困、ネイティブアメリカン、シングルマザーに不法移民とアメリカ社会の抱える様々な問題を盛り込みつつも、極めてコンパクトで引き締まった作品を作り上げた。
本作が作られたのは2008年なので、まるでリーマンショック以降の経済危機を先取りしたかのような描写は偶然だろうが、今の時代にこの様な作品が作られて、サンダンス映画祭グランプリを受賞したのをはじめ、世界各国で人々の喝采を浴びたのは必然に感じる。

モホーク族のリザベーションを抱える、アメリカ・カナダ国境の町。
ギャンブル狂の夫に、新しい家の購入費を持ち逃げされたレイ(メリッサ・レオ)は、夫の乗り捨てた車を拾ったというモホークのライラ(ミスティ・アパーム)と出会う。
共に金に困っていた二人は、アメリカとカナダにまたがるリザベーションの中が治外法権な事を利用して、冬の間凍結する国境のセントローレンス川を車で渡り、カナダ側からの密入国者をトランクに隠してアメリカ側に渡すという闇社会のビジネスに手を染める。
最初のうちは上手くいっていたのだが、あるパキスタン人の夫婦を渡した時に、テロリストではないかと疑ったレイは、彼らの持っていた大きなカバンを川の上に捨ててしまう。
だが、実はその中にはとんでもないモノが入っていたのだ・・・・。


生活苦から違法行為に手を染めてしまう女性の話というと、ケン・ローチ監督の「この自由な世界で」を連想するが、社会派的な視点に軸足を置いたあの作品に比べると、こちらはずっとパーソナルな視点で語られる。
主人公のレイは、チープなトレーラーハウスに住み、ギャンブル狂で甲斐性なしの夫に逃げられて、難しい年頃の二人の息子を抱え、明日の食費にも事欠いているという、典型的な地方の白人低所得層の女性である。
レイの“ビジネスパートナー”となるモホークの女性ライラも、夫を事故で亡くし、義母に連れ去られた一人息子の事を想いながら、狭いキャンピングカーで暮らす貧しい母親だ。
彼女は目が悪く、普通の仕事では失敗してばかりで長続きしないため、密輸や密入国の仕事に手を染めているが、人間関係の濃密な部族社会では、彼女のやっている事は既に皆の知るところとなっており、仕事に必要な車すら売ってもらえなくなる。
白人とモホークという民族の壁に阻まれているが、この二人は生活に困窮した母親としての共通の葛藤を抱えているのである。
対立点と共通点を抱えた二人の女性が偶然出会い、ギブ&テイクの形で危険な犯罪に徐々に深入りしてゆく様は痛々しいが、クライムサスペンスとしてもなかなかに良く出来ており、ちょっとリドリー・スコットの「テルマ&ルイーズ」を思わせる雰囲気もある。

いかにも人生に疲れ切ったという感じの、レイを演じるメリッサ・レオのくたびれた佇まいがいい。
レイの抱える問題は、ストレートに見れば貧困と言えるだろうが、恐らく日本の観客にとって、彼女は素直に感情移入し難い存在かもしれない。
お金が無い無いと言いつつも、リビングにはやたら巨大なテレビが鎮座し、車も二台持ち、古いトレーラーハウスも親子3人で暮らすには特に無理は無さそうに見える。
15歳の長男だって、本人の希望通りバイトさせてやれば良いし、犯罪に走る前に車一台売れよと思う人も多いだろう。
だが、私は彼女の考え方はいかにもアメリカ人的で、実際にありがちなパターンだなあと思った。
もちろん皆が皆そうという訳ではないし、ステロタイプに押し込める気もないが、クレジット社会に生きるアメリカ人は、「どうせ買うなら後にツケを回しても今良い物を」と、どう考えても生活レベルに合わない物を平気で買う人が多い。
巨大なプロジェクターテレビが安アパートに鎮座してたり、失業してるのに新車を買ったり、家を買ったりするケースは珍しくない。
それはまたある種の見栄でもあり、こういったライフスタイルが、今日の経済危機を招いた一因でもある訳だが、レオの抱えている危機的な状況は、決して彼女が特別に愚かだからという事ではないのだ。

またこの作品は、観客がアメリカ社会とネイティブアメリカンの関係を当然知っているという前提で作られているので、物語の背景を知っておいたほうがより理解が深まるはずである。
ネイティブアメリカンと一言にいっても、彼らは広大な南北アメリカに住む多種多様な民族の総称で、文化も言語も、白人社会との付き合いかたも様々だ。
ライラの属するモホークは、五大湖の東、アメリカ北東部からカナダのケベック、オンタリオ州にまたがる地域に、周辺の5部族と共に「イロコイ連邦」という“国家”を構成している。
日本ではあまり知られていないが、イロコイ連邦はその成立が十一世紀にまで遡る、アメリカ合衆国よりも遥に古い国で、かれらの連邦制度や民主制度は、合衆国の建国モデルとなった事でも知られている。
現在北米大陸に残るネイティブ部族の中でも、イロコイは最も独立色が強く、独自のパスポートを発行している他、可能な限り合衆国・カナダの影響力を排除しており、一説には現在のアメリカで、FBIでも手を出せないのは、イロコイ連邦とハワイにあるニイハウ島のみとも言われる。
それゆえに、周囲の白人社会との軋轢も絶えず、1990年にはカナダ側で祖先の墓場へのゴルフ場開発を巡りモホークが武装蜂起し、カナダ国防軍との間に小規模な銃撃戦がおきているほどで、相互不信は根深い物がある。
劇中でライラを始めとしたモホークが、白人への露骨な不信感を露にするのは、歴史的な事情故なのである。
また産業らしい産業を持たない多くのネイティブ部族にとって、経済的なよりどころの一つがカジノの経営だ。
イロコイはもとより全米各地のリザベーションにカジノが存在し、それがこの映画の一つのバックグラウンドになっている。
しかし、リザベーションの殆どは僻地にあり、周囲に住む白人もこの映画に描かれたように低所得層である場合が多いため、カジノの存在は失業者や低所得層のギャンブル依存という別の軋轢を生むことにも繋がっているのである。

対立する民族に属するレイとライラの関係は、最初は単に金目当てのつながりだ。
レイは夫に持ち逃げされた新居の購入費用を取り返すため、ライラは奪われた子供のため、それぞれがリアルで切実な目的のために、打算と相互不信とリスクを抱えながら危険なビジネスに手を染めてゆく。
だが、そんな二人の関係は、物語の中盤にパキスタンからの密入国者を運んだ時に起こる、ある事件を切っ掛けにして大きく変わる事になる。
自分たちの偏見によって招いてしまった予期せぬ事態によって、図らずも彼女たちはお互いの中に母性という共通の本能を見出す事になったのだろう。
この事を切っ掛けに、二人の関係はギスギスしたビジネスライクな物から、徐々に同じ女性として、母親としての共感を伴った物へと変化して行く。
またこの事件によって、彼女たちは今まで単なる「密輸品」としてしか見ていなかった言葉も通じぬ密入国者も、同じ人間であり母親であるという現実を突きつけられてしまう。
本当はあの時点で、レイもライラも足を洗おうとしていたのではないかと思う。
しかし息子の起こした予想外の失態によって、切羽詰った状況に追い込まれたレイは、「最後の仕事」を決行せざるを得なくなり、ライラもまたやむなく応じる。
結果的に、それは予想しうる最悪の状態を齎すのだが、その時すでに彼女たちは互いの家族を託せるほどに、わかり合っているのである。
物語の結末は、バッドエンドでもハッピーエンドでもなく、まあこれ以外に無いだろうなというリアルな物だ。
だが、厳しい状況の中でも微かな希望が見え隠れし、「雪融け」を感じさせる観賞後の後味は決して悪くない。
ラストカットの落とし方を含めて、コートニー・ハントのバランス感覚の良さが伺える、センスの良い秀作だ。
確かな力量のある映画作家として、今後も彼女には注目してゆきたい。

今回は、寒い季節に燗して飲みたい「神亀 純米吟醸 ひこ孫」をチョイス。
純米吟醸は冷酒が一般的な飲み方だろうが、実はぬる燗にして飲むのも悪くない。
仄かな温かさを感じるこの映画のラストの続きは、芳醇な日本酒で更に温まろう。
きっと、「フローズン・リバー」も融けてしまうに違いない。

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パラノーマル・アクティビティ・・・・・評価額1450円
2010年02月05日 (金) | 編集 |
「パラノーマル・アクティビティ」とは、何ともストレートなタイトル。
ある家で起こった心霊現象を記録した衝撃映像、という触れ込みのフェイクドキュメンタリー調ホラー映画だが、その内容よりも、ど素人の監督が僅か1万5千ドルという冗談の様なローバジェットで作り、結果的に北米だけで1億ドルを超える興行収入を上げた事の方が話題になった。
映画は典型的なハイリスク・ハイリターン産業で、夜逃げしたり破産したりという事が珍しくない業界なのだけど、こういう宝くじ並みの事例が実際にあるから、作りたがる人が後を絶たないんだろうな・・・・

ディトレーダーのミカ(ミカ・スロート)は、毎夜彼の家で起こる怪現象の正体を突き止めようと、最新のビデオカメラを購入する。
恋人のケイティ(ケイティ・フェザーストーン)は霊媒体質で、子供のころから奇妙な音がしたり、物が勝手に動いたりという現象に悩まされてきたという。
ミカは、二人の寝室にカメラを設置し、寝ている間に何が起こっているのかを記録しようとするのだが・・・


「スピルバーグがリメイクを諦めた」って宣伝してるけど・・・当たり前だ(笑
これは正に一発芸であって、同じ事を二度やっても面白くもなんとも無いし、かといってドラマの設定としてはありきたり過ぎてリメイクの仕様がない。

パソコンとデジタル映像技術の普及によって、映画というものの概念が大きく変わった二十一世紀ならではの作品だ。
今は誰にでも劇場用映画を作ることが出来るし、その出来栄えとちょっとした運によって、メジャー大作以上の注目を集めることも出来る時代である。
もちろん古い時代にも8ミリフィルムがあったし、80年代以降はベータームービーや8ミリビデオという安価なアマチュアのための映像表現ツールは存在した。
だが、それらは所謂プロツールとは作れる映像のクオリティに歴然とした差が存在し、家庭用の8ミリビデオで作った映画を映画館の巨大スクリーンにかけようとは誰も思わなかった。
自主映画とメジャー映画は別の物で、いくら自主映画に素晴らしい作品があったとしても、それが一般の映画館で全国公開される事などあり得ない事だったのだ。

ところが90年代以降のデジタル化の波は、こうしたプロアマの垣根を機材面からも取り払ってしまった。
その結果、様々な人たちが映画を作り始めた事が、本作や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に代表されるフェイクドキュメンタリーとか、モキュメンタリーとか言われるジャンルの流行を齎したといえるだろう。
きちんとした物語を構成する技術や、美しく芸術的な映像を作る技術が無くても、アイディアと設定だけで勝負できるこの種の作品は、おそらくアマチュアリズムが最も力を発揮するフィールドの一つだ。
まあ中にはその事を逆手にとり、アマ的な設定の中にプロフェッショナルなストーリーテリングの技術を詰め込んだ「クローバーフィールド」の様な作品も生まれてきているが、本作などは正に設定と状況のリアリティだけで見せ切っていると言って良い。

この映画の作者、オーレン・ペリの様な人物にとって、たぶん古い時代の自主映画作家たちとは、映画を作るという事の意味自体かなり異なっているのだろう。
過去の多くの自主映画作家は、多かれ少なかれ自己の内面の発露として、映画という手段を選択したと思うが、この作品は高価なビデオカメラで何か面白い物を作ってみようというぐらいのノリで、色々と案を練って工夫した結果なのではないか。
ここにあるのは、怖がらせるという目的だけにストレートに特化した作品であり、そしてそれがちゃんと結果に繋がっているから面白い。
ホラー映画を研究し、何が視覚的に状況的に恐怖を呼び起こすかを突き詰めた結果、その状況のみを描写した異色の作品が出来上がったのだ。
まあ私が怖がりなのもあるけど、はっきり言ってコワイ
只のホームビデオなのに、先が見えなくて目が離せない。
主演と言って良いのかわからないが、映画の中で彼ら自身を演じているミカとケイティも、素人っぽさが良い方向に効いている。
ケイティなど、カワイイけどちょっと太目だったりするあたり非常にリアルに感じられ、もしもハリウッドがちゃんとした女優を使って作ったなら、この生っぽさは出なかっただろう。
チープな映像が臨場感を高め、まるで知り合いの家で起こった出来事の様に、スクリーンとの距離感が近く感じられてくるから大したものだ。
異常な状況への恐怖以外に何も無い映画ではあるが、元々観に行くほうもそれ以外は求めてないのだから、これはこれで需要と供給がピッタリとあった、立派な商業映画と言えるだろう。
逆に言えば、映画には物語や精神性が必要で、何らかの「結果」を提示しなければならないと考える人には、全くお勧めできない。

何でもこの映画、最初に映画祭で上映されたバージョンと劇場版ではラストが違うらしい。
映画を観たスピルバーグのアドバイスを受けて、作り直したらしいが、私はラストの20秒ほどの部分は元バージョンには無かったのではないかと想像する。
それまでの、良くも悪くも素人臭くてリアルなトーンに比べると、あの部分だけ妙にハリウッドっぽいからだ。
たぶん、元々は二人が階下に下りて、凄い叫び声が聞こえた所までだったんじゃないかと思う。
それだと不気味ではあるがオチた感が無いので、あれを加えたのだと想像しているのだが、もし元バージョンを観た人がいたら、是非違いを教えて欲しい。

オーレン・ペリの次回作は、「Area51」なのだそうな・・・うわぁキケンな香り(笑
ちなみに本作の続編「Paranormal Activity 2」もすでにアナウンスされていて、ホラーシーズンのハロウィーンにあわせて、今年の10月22日に全米公開が予定されている。
オーレン・ペリがどう関わるのかを含めて、スタッフ・キャストは未発表だが、まあ作ろうと思えばあっという間に作れるだろうから、問題は無いのだろう。
「ブレア・ウィッチ2」の二の舞にならなければ良いが。

今回は、夜寝るのが怖くなったので、ベッドタイムカクテル「ナイトキャップ」をチョイス。
ナイトキャップとは所謂寝酒の事で、これはそのものズバリの名を持つカクテルだ。
ブランデーとオレンジキュラソー、アニゼット、を2:1:1の割合で、これに卵黄を一つ落とし、シェイクして完成。
変な物音が聞こえてくる前に、これを飲んでネコを抱きながら寝てしまおう。
でも、この映画で撮影していた様に、自分が寝てるところってちょっと興味がある。
一度カメラを置いて、撮ってみようと思った人は私だけではないはずだ。

ネコが二足歩行してたりして(笑

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今度は愛妻家・・・・・評価額1700円
2010年02月04日 (木) | 編集 |
・゜゜(ノД`)゜゜・ウワァァァァァァァァァァァン!!
予告編を見て、離婚した夫婦の話なのかなあと思っていたら、完全に騙された。
まさか、まさか、こんな切ない話だったなんて!
途中から完全に涙腺が決壊して、号泣してしまった。
観賞時にハンカチとティッシュが必需品な「今度は愛妻家」は、間違いなく「GO」に並ぶ行定勲の最高傑作である。

自堕落な生活を送るカメラマンの俊介(豊川悦司)は、妻のさくら(薬師丸ひろ子)に愛想を尽かされて、一人旅立たれてしまう。
うるさい妻がいなくなって清々すると思ったのもつかの間、いないならいないで人生から何かが抜け落ちたかの様な喪失感に悶々とする日々。
新人モデルの蘭子(水川あさみ)の誘惑にも心が動かず、蘭子はいつの間にかアシスタントの誠(濱田岳)と懇ろな仲に。
腑抜けの様な生活を送る俊介の前に、ひょっこりと帰ってきたさくらが、離婚する前に写真を撮って欲しいと頼むのだが・・・


脚本が素晴らしく良く出来ている。
物語は殆ど主人公である俊介の家の居間で展開し、メインの登場人物は僅かに5人。
なんだか演劇みたいな構成の作品だなあと思っていたら、原作は中谷まゆみによる舞台劇で、「スカイ・クロラ」伊藤ちひろが映画用の脚本にリライトしている。
なるほど、これは原作者と脚本家が女性で、監督が男性だからこそ描けた作品という気がする。
本作の場合、主人公は夫である俊介で、物語も彼の目線で語られるのだが、大人の男と言うよりもまるでワガママな子供の様な俊介の造形は、女性がじっくりと男性を観察し、男性の中の色々なキャラクターを上手くカリカチュア化する事で作りあげた様に思える。
恐らく男性が書いたら、このキャラクターは率直に言ってかなり恥ずかしいはずで、ここまで素直に描きこめたか疑問だ。
そして、女性による男性への冷静な視線と願望が織り交ざったキャラクターを、男性である行定監督がリアルに演出し、高い演技力を持つ豊川悦司が演じることで、なんとも魅力的な主人公のキャラクターが出来上がった。

物語の前半は、このトヨエツ演じる俊介に、若いアシスタントの誠と新人モデルの蘭子、そして正体不明のゲイバーの経営者、文太といった登場人物たちが絡み、忘れた頃にひょこひょこ帰ってくるさくらとの絶妙の掛け合いもあり、コメディタッチに展開する。
だが、この作品の真の凄さが表れるのは、帰宅したさくらが俊介に離婚を宣言し、最後に自分の写真を撮って欲しいという辺りから。
実は写真のエピソードを境にして、物語は全く予想外の方向に劇的に展開してゆき、前半の全てのエピソードは後半の伏線という二重構造となっているのがわかって来る。
私はこの作品を観ていて、妻の家族に対する壮絶なまでの愛を描いた、ファンタジー映画の秀作、「いま、会いにゆきます」を思い出した。
もちろん内容は全く異なるのだけど、あの作品も綿密に作られた物語のロジックが秀逸で、後半が前半の種明かしになるという構造を持ち、意味深なタイトルが最後の最後に効いてくるあたりは少し似ている。

非常に凝った構造を持つ物語に対する、行定監督の演出もとても細やかで丁寧だ。
前半部分には、物語上だけでなく、演出的にも後半にかかる様々な仕掛けが施されており、それが観客に微妙な違和感を残してゆくのだ。
例えば、俊介が街で誘う井川遥演じるゆりのちょっとしたセリフや表情の演出。
後から考えれば辻褄が合う様に、全てのシーンの整合性が考えられているのである。

そして何よりも、妻のさくらを演じる薬師丸ひろ子を、何とキュートに撮っている事か。
60年代生まれの私の世代にとって、彼女は青春ど真ん中のスーパーアイドルである。
たぶん68年生まれの監督にとってもそれは同じ事で、彼女を撮る視線はまるで憧れの女性を愛でるかの様に、優しさと尊敬がにじみ出ている。
だからこそ、近年演じる事が多くなっていた母親役と違って、この映画の子供のいない「妻」役の薬師丸ひろ子は、正に80年代が戻ってきたかと思うくらい可愛い。
俊介じゃなくても思わず惚れちまいそうだ

彼ら二人以外の登場人物もいい。
誠役の濱田岳と文太役の石橋蓮司は、それぞれ事情を知りつつも、俊介にどう接して良いのかわからない戸惑いと葛藤を巧みに演じていた。
文太がゲイであるという設定は、いかにも演劇的な物で、映画版ではそれほど必然性があるとは思わなかったが、彼の本当の立場が明かされてからはグイグイと感情移入させられた。
唯一、蘭子のキャラクターが、若干全体のトーンから浮いているのが少し気になるが、これは他の登場人物が全て事情を知っていて、彼女だけが一家への乱入者という立場があるので、ある程度致し方ないと思う。
正直、私は水川あさみという役者さんにあまり魅力を感じた事がないのだが、今回初めて「良いかも?」と思える瞬間が幾つもあったのだから、むしろ大したものと言うべきだろう。
全体に役者の演技で見せる部分の多いこの作品、行定監督の特出が最大限生きていると思う。

「今度は愛妻家」というタイトルには、観る人ごとに様々な意味を見出すことが出来るだろう。
これは夫婦の愛を描いた切ないラブストーリーであり、同時に一つの家族の形を描いた暖かいファンタジーでもある。
結婚している人たちにはもちろん、長く付き合っているパートナーがいる人にも、是非ともカップルで観て欲しい作品だ。
観終わった時、隣にいる人の事を、たまらなく愛しく感じるはず。
もちろん、私の様なお一人様が観ても十分泣ける。
物語の妙と、素晴らしい演技を楽しむことの出来る、邦画らしい観応えのある快作である。

今回は俊介とさくらの思い出の地、沖縄の泡盛「請福」から、クースー(古酒)を作るために甕入りをチョイス。
泡盛は3年以上寝かせると、クースーと言われる様になり、時を経るほどにまるで長年連れ添った夫婦の様にマイルドに深みを持ってゆく。
戦争で殆どのクースーが割れてしまったそうだが、それ以前には百年物も珍しくなかったという。
私は以前石垣で50年物のクースーを飲ませてもらった事があるが、それは高級ウィスキーも驚くほど芳醇でコクのある酒に変貌していた。
そこまで熟成させた物は、なかなか手に入れる事は難しいが、泡盛は仕次ぎという方法で、家庭でも延々熟成させる事が出来る。
仕次ぎとは、例えば10年物の酒をある程度飲んで甕の中が減ったら、その分今度は8年物を注ぎ足し、8年ものには5年物をという風に、延々と継ぎ足してゆくことである。
こうする事で、50年でも100年でも持つというワケだ。
新婚旅行で泡盛の甕を一つ買い、沖縄旅行に行くたびに酒を買って、50年後の金婚式に振舞うなんてどうだろうか。

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