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2010年03月28日 (日) | 編集 |
映画史の中では、過去にもの凄い数のエイリアンたちが地球にやって来ている。
彼らの来訪の目的は、侵略だったり、科学調査だったり、あるいは敵からの逃亡だったり様々だ。
だから、中には別に地球に来たくて来た訳ではない連中がいてもいい。
若き映画作家ニール・ブロムカンプが、ピーター・ジャクソンの支援の下に作り上げた「第9地区」に登場するエイリアンは、なんと「難民」である。
南アフリカ、ヨハネスブルグに巨大な宇宙船が飛来し、乗っていたエイリアンたちが難民化してから二十数年。
エイリアン問題を管理する多国籍機関MNUは、エイリアンを第9地区というスラム化した難民キャンプから、第10地区へと移転させる計画を立てる。
強制執行の責任者を任されたMNUエージェントのヴィカス(シャルト・コプリー)は、あるエイリアンの小屋で、奇妙な液体を浴びてしまう。
すると、彼の体は不気味な変異を起こし始め、片腕がまるでエイリアンの様な姿になってしまうのだが・・・
この作品は、ヨハネスブルグ出身で、VFXやCMの世界で活動していたブロムカンプが、2005年に自主制作した6分間の短編映画「Alive in Joburg」(YouTubeで視聴可能)の長編リメイク。
オリジナルをピーター・ジャクソンが気に入り、何とか3000万ドルを集めて、メジャースタジオのコントロールを排除した上で、好きな様に作らせた物だと言う。
サンクス、ピーター。
おかげで、ハリウッドメジャーではまずあり得ない、自由で独創的な感性とオタク魂が結合した傑作が仕上がった。
難民や移民のエイリアンの登場するSF映画は、これが初めてではない。
80年代には、人間とエイリアンの難民出身の刑事がコンビを組む「エイリアン・ネイション」や、友好的な移民に偽装したエイリアンによる侵略SFドラマ「V」などが作られている。
これらの作品に対して、本作が極めてユニークなのは、舞台をニューヨークでもロサンゼルスでもロンドンでもなく、南アフリカのヨハネスブルグに設定し、極めて風刺的な社会派娯楽作品に仕立て上げている事だ。
最初、映画はフェイクドキュメンタリーの様にスタートする。
映し出されるのは、巨大な宇宙船が何をするでもなくボーっと都市上空に浮かんでいる、なんともシュールな光景だが、街の人たちにとっては、これはもはや日常。
二十数年前に突如として現れた宇宙船に乗っていたのは、人類から“プラウン(エビ)”と差別的に呼ばれる難民エイリアン。
エビというよりはゴキブリを連想させる、見るもおぞましい造形だ。
人類は、彼らを地球に迎え入れ、難民キャンプに住まわせているが、周囲の住民は不満タラタラ。
なぜなら、キャンプの維持には巨額の税金が使われ、キャンプに入り込んだナイジェリア人ギャングの暗躍もあって、スラム化した地域の治安は極度に悪化している。
そこで、キャンプをより人里はなれた地域に移して、実質的に彼らを隔離するという計画が立てられる。
良く知られている様に、南アフリカはアパルトヘイトによる人種隔離政策が長年続き、人種間の分断が今も社会に影を落す国であり、この映画の設定がアパルトヘイトを比喩しているのは明らかだろう。
それまで人類同士の差別に苦しんできた人々が、今度は平然とエイリアンを差別するのだから強烈に皮肉が効いてる。
スラム化した難民キャンプでのエイリアンの細かな日常描写に、立ち退きを迫る人類の横暴、更にはそんなキャンプの利権を握るギャングの存在など、描写は徹底的にリアルで、異形の住人の姿さえ見なければ、これは地球のどこかにある現実を描写した映像だと思えるほどだ。
ドキュメントタッチの社会派SFとして最後まで突っ走る事も出来ただろうが、ブロムカンプは物語が進むにつれて徐々に作品を軌道修正する。
フェイクドキュメンタリーの様な物語の導入は、言わば観客を作品世界のリアルに誘うための装置。
主人公であるヴィカスが、偶然エイリアンの液体を浴び、まるで「ザ・フライ」のジェフ・ゴールドブラムの様に、人間とエイリアンのハイブリッドに変異してゆくのにあわせて、作品のスタイルは一般的な映画の様にドラマチックに変貌してゆくのだ。
半分エイリアン化した事で、人間たちに追われる身となったヴィカスは、彼を変異させた液体を作った、クリストファー・ジョンソンという地球名を持つエイリアンと図らずも組む事になる。
ここから物語は、追い詰められたヴィカスと第9地区からの脱出を図るクリストファー、MNUとナイジェリア人ギャングの思惑がぶつかり合い、低予算を感じさせない第一級のSFバトルアクションとして息をもつかせぬ怒涛の展開を見せる。
本来なら人類よりも遥に高度な文明を持つはずなのに、適当な地球名を与えられて、不毛のキャンプに押し込められて全くの厄介者扱されるしかないエイリアン。
一方で、エイリアンの武器は熱心に研究しながら、彼らを実験動物の様に扱い、簡単に処刑したり、都合よく隔離しようとする人類。
彼らは半エイリアンとなったヴィカスの体さえ、自らの欲望と利益のために利用しようとするのだ。
人間とエイリアンのどちらでもあり、どちらでもなくなってしまったヴィカスの目の前にあるのは、それまで厄介な来訪者としてしか見ていなかったエイリアンたちの極めて“人間的”な素顔と、逆説的に浮かび上がる人間社会の抱える深い闇だ。
面白かったのは、本作から幾つかの点で「アバター」を連想させられた事。
勿論、製作費が本作の10倍に達する3D超大作は、対極の作品とも言えるのだが、フェイクドキュメンタリーの手法と徹底的に作りこまれた世界観によって臨場感を作り出し、観客に作品世界をリアルに体感させるという見せ方は、方法論は別として狙いは良く似ている。
そして、エイリアンというモチーフを通じて、人類の抱える問題を提起するという点。
さらに、最初は人類側にあった視点が、人類とエイリアンの間の存在となった主人公を通して徐々にエイリアン側に移り、最終的には人類とは似ても似つかないエイリアンに感情移入させるのも共通だ。
もっとも、「アバター」のナヴィは元々人間に近く、見様によっては美しいとも感じられるが、おそらく観た人の99%に嫌悪感を感じさせる造形の“プラウン”で観客を感動させるのだから、考えようによってはこっちの方が凄い事をやっているのかも知れない。
いずれにしても、体感的リアリズムというのは21世紀のSF映画のカギなのだろう。
「第9地区」は、俊英ニール・ブロムカンプのマグマの様な才気が迸る傑作だ。
エイリアン版のアパルトヘイトというユニークな着想から生まれたのは、高度な社会性を持ちながら、B級SF的なアクションとバイオレンスの猥雑な面白さもあり、熱血な友情、先の見えない恐怖、さらにはブラックな笑いすらも詰め込まれた、センス・オブ・ワンダーの塊の様な作品である。
SF映画の歴史には、数年に一度くらいの割合で予想もしなかった斬新な視点を持った作品が生まれてくるものだが、これは間違いなくその一本。
1977年が「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が生まれた年として歴史に残ったのと同様、2009年は「アバター」と「第9地区」の年として長く記憶されるだろう。
SFヲタクは勿論の事だが、映画ファンなら新たな才能の出現を映画館で目撃するチャンスを逃すべきではない。
今回は、エイリアンがエビだったので、シュリンプカクテルと飲みたい酒を。
ロシアンリバーのスパークリング専門銘柄「J」の「キュヴェ・20・ブリュット」をチョイス。
カリフォルニアワイン好きなら知らぬ人のいないジョーダンワイナリーのオーナーの娘、ジョディ女史によって設立された銘柄で、複雑なフルーツの香りと、スッキリとした辛口の喉越しが味わえる逸品。
海の幸との相性も良く、ボトルもお洒落なので、カリフォルニア土産にもお勧めだ。
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だから、中には別に地球に来たくて来た訳ではない連中がいてもいい。
若き映画作家ニール・ブロムカンプが、ピーター・ジャクソンの支援の下に作り上げた「第9地区」に登場するエイリアンは、なんと「難民」である。
南アフリカ、ヨハネスブルグに巨大な宇宙船が飛来し、乗っていたエイリアンたちが難民化してから二十数年。
エイリアン問題を管理する多国籍機関MNUは、エイリアンを第9地区というスラム化した難民キャンプから、第10地区へと移転させる計画を立てる。
強制執行の責任者を任されたMNUエージェントのヴィカス(シャルト・コプリー)は、あるエイリアンの小屋で、奇妙な液体を浴びてしまう。
すると、彼の体は不気味な変異を起こし始め、片腕がまるでエイリアンの様な姿になってしまうのだが・・・
この作品は、ヨハネスブルグ出身で、VFXやCMの世界で活動していたブロムカンプが、2005年に自主制作した6分間の短編映画「Alive in Joburg」(YouTubeで視聴可能)の長編リメイク。
オリジナルをピーター・ジャクソンが気に入り、何とか3000万ドルを集めて、メジャースタジオのコントロールを排除した上で、好きな様に作らせた物だと言う。
サンクス、ピーター。
おかげで、ハリウッドメジャーではまずあり得ない、自由で独創的な感性とオタク魂が結合した傑作が仕上がった。
難民や移民のエイリアンの登場するSF映画は、これが初めてではない。
80年代には、人間とエイリアンの難民出身の刑事がコンビを組む「エイリアン・ネイション」や、友好的な移民に偽装したエイリアンによる侵略SFドラマ「V」などが作られている。
これらの作品に対して、本作が極めてユニークなのは、舞台をニューヨークでもロサンゼルスでもロンドンでもなく、南アフリカのヨハネスブルグに設定し、極めて風刺的な社会派娯楽作品に仕立て上げている事だ。
最初、映画はフェイクドキュメンタリーの様にスタートする。
映し出されるのは、巨大な宇宙船が何をするでもなくボーっと都市上空に浮かんでいる、なんともシュールな光景だが、街の人たちにとっては、これはもはや日常。
二十数年前に突如として現れた宇宙船に乗っていたのは、人類から“プラウン(エビ)”と差別的に呼ばれる難民エイリアン。
エビというよりはゴキブリを連想させる、見るもおぞましい造形だ。
人類は、彼らを地球に迎え入れ、難民キャンプに住まわせているが、周囲の住民は不満タラタラ。
なぜなら、キャンプの維持には巨額の税金が使われ、キャンプに入り込んだナイジェリア人ギャングの暗躍もあって、スラム化した地域の治安は極度に悪化している。
そこで、キャンプをより人里はなれた地域に移して、実質的に彼らを隔離するという計画が立てられる。
良く知られている様に、南アフリカはアパルトヘイトによる人種隔離政策が長年続き、人種間の分断が今も社会に影を落す国であり、この映画の設定がアパルトヘイトを比喩しているのは明らかだろう。
それまで人類同士の差別に苦しんできた人々が、今度は平然とエイリアンを差別するのだから強烈に皮肉が効いてる。
スラム化した難民キャンプでのエイリアンの細かな日常描写に、立ち退きを迫る人類の横暴、更にはそんなキャンプの利権を握るギャングの存在など、描写は徹底的にリアルで、異形の住人の姿さえ見なければ、これは地球のどこかにある現実を描写した映像だと思えるほどだ。
ドキュメントタッチの社会派SFとして最後まで突っ走る事も出来ただろうが、ブロムカンプは物語が進むにつれて徐々に作品を軌道修正する。
フェイクドキュメンタリーの様な物語の導入は、言わば観客を作品世界のリアルに誘うための装置。
主人公であるヴィカスが、偶然エイリアンの液体を浴び、まるで「ザ・フライ」のジェフ・ゴールドブラムの様に、人間とエイリアンのハイブリッドに変異してゆくのにあわせて、作品のスタイルは一般的な映画の様にドラマチックに変貌してゆくのだ。
半分エイリアン化した事で、人間たちに追われる身となったヴィカスは、彼を変異させた液体を作った、クリストファー・ジョンソンという地球名を持つエイリアンと図らずも組む事になる。
ここから物語は、追い詰められたヴィカスと第9地区からの脱出を図るクリストファー、MNUとナイジェリア人ギャングの思惑がぶつかり合い、低予算を感じさせない第一級のSFバトルアクションとして息をもつかせぬ怒涛の展開を見せる。
本来なら人類よりも遥に高度な文明を持つはずなのに、適当な地球名を与えられて、不毛のキャンプに押し込められて全くの厄介者扱されるしかないエイリアン。
一方で、エイリアンの武器は熱心に研究しながら、彼らを実験動物の様に扱い、簡単に処刑したり、都合よく隔離しようとする人類。
彼らは半エイリアンとなったヴィカスの体さえ、自らの欲望と利益のために利用しようとするのだ。
人間とエイリアンのどちらでもあり、どちらでもなくなってしまったヴィカスの目の前にあるのは、それまで厄介な来訪者としてしか見ていなかったエイリアンたちの極めて“人間的”な素顔と、逆説的に浮かび上がる人間社会の抱える深い闇だ。
面白かったのは、本作から幾つかの点で「アバター」を連想させられた事。
勿論、製作費が本作の10倍に達する3D超大作は、対極の作品とも言えるのだが、フェイクドキュメンタリーの手法と徹底的に作りこまれた世界観によって臨場感を作り出し、観客に作品世界をリアルに体感させるという見せ方は、方法論は別として狙いは良く似ている。
そして、エイリアンというモチーフを通じて、人類の抱える問題を提起するという点。
さらに、最初は人類側にあった視点が、人類とエイリアンの間の存在となった主人公を通して徐々にエイリアン側に移り、最終的には人類とは似ても似つかないエイリアンに感情移入させるのも共通だ。
もっとも、「アバター」のナヴィは元々人間に近く、見様によっては美しいとも感じられるが、おそらく観た人の99%に嫌悪感を感じさせる造形の“プラウン”で観客を感動させるのだから、考えようによってはこっちの方が凄い事をやっているのかも知れない。
いずれにしても、体感的リアリズムというのは21世紀のSF映画のカギなのだろう。
「第9地区」は、俊英ニール・ブロムカンプのマグマの様な才気が迸る傑作だ。
エイリアン版のアパルトヘイトというユニークな着想から生まれたのは、高度な社会性を持ちながら、B級SF的なアクションとバイオレンスの猥雑な面白さもあり、熱血な友情、先の見えない恐怖、さらにはブラックな笑いすらも詰め込まれた、センス・オブ・ワンダーの塊の様な作品である。
SF映画の歴史には、数年に一度くらいの割合で予想もしなかった斬新な視点を持った作品が生まれてくるものだが、これは間違いなくその一本。
1977年が「スターウォーズ」と「未知との遭遇」が生まれた年として歴史に残ったのと同様、2009年は「アバター」と「第9地区」の年として長く記憶されるだろう。
SFヲタクは勿論の事だが、映画ファンなら新たな才能の出現を映画館で目撃するチャンスを逃すべきではない。
今回は、エイリアンがエビだったので、シュリンプカクテルと飲みたい酒を。
ロシアンリバーのスパークリング専門銘柄「J」の「キュヴェ・20・ブリュット」をチョイス。
カリフォルニアワイン好きなら知らぬ人のいないジョーダンワイナリーのオーナーの娘、ジョディ女史によって設立された銘柄で、複雑なフルーツの香りと、スッキリとした辛口の喉越しが味わえる逸品。
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2010年03月23日 (火) | 編集 |
筒井康隆原作の永遠のベストセラー、「時をかける少女」の四度目の映画化。
とは言っても、これは単なるリメイクではなく、原作の続編にあたるオリジナルストーリーで、元の主人公である芳山和子の一人娘、芳山あかりが母の想いをかなえるためにタイムトラベラーとなる。
あかりを演じるのは、2006年のアニメ版で主人公の紺野真琴の声を演じた仲里依沙だ。
2010年春、高校卒業を控えた芳山あかり(仲里依沙)は、母の芳山和子(安田成美)が交通事故にあったと言う知らせを受ける。
昏睡状態の和子が、つかの間意識を取り戻したとき、彼女はあかりに嘗ての恋人である深町一夫(石丸幹二)宛てのあるメッセージを託す。
薬学者である和子の開発した薬を飲んだあかりは、母の言葉を伝えるために、1972年4月の土曜日の実験室にタイムリープ。
だが彼女が到着したのは、目標から二年もずれた1974年だった・・・・
1983年に大ヒットした最初の映画化である大林宣彦版、そして作品的にも興行的にも大成功した細田守による2006年のアニメ版という、二つの「時かけ」に強くインスパイアされた企画である事は間違いないだろう。
冒頭のタイトルバックに大林版の主題歌を持って来た事や、芳山和子が薬学の研究者になっている事からも、本作が大林版を継承する作品である事は明確だ。
回想シーンのアングルやカット割りも、意図的に似せている部分が多い。
ただ和子が戻ろうとするのが83年ではなく72年である事から、設定は1972年に放送された最初の映像化である、NHK少年ドラマシリーズの「タイム・トラベラー」に基づいている様である。
また続編的なリメイクと言うアプローチは、明らかに細田版に影響を受けており、主人公のキャステイングを含めて、記憶に新しいアニメ版のヒットに良い意味で乗っかろうと言う意図が見える。
言わば大林版、NHK版、細田版という過去の同タイトルの作品から、少しずつベースを受け継いで、統合させた様な続編と言えるだろう。
主人公がタイムリープしまくっていた以前の「時かけ」とは異なり、今回タイムリープは一回だけ。
昏睡状態に陥った母の想いを伝えるために、娘のあかりが飛んだのは1974年。
おっちょこちょいなあかりは、目標を二年も外れてしまうが、和子の開発したタイムリープの薬は二回分だけなので、もしも72年に飛び直せば今度は2010年に帰れなくなってしまう。
あかりは仕方が無く、74年の世界で知り合った映画監督志望の大学生、溝呂木涼太の下宿に居候しながら、芳山和子と深町一夫を探す事になる。
若い男女が一つ屋根の下に暮らせば、当然のごとく情が移り、あかりと涼太は恋に落ちるのだが、未来人であるあかりはいつか元の時代へ帰らなければならない。
そう、これは未来人への恋を描いた原作の人間関係を逆転させ、未来人の視点で描いた物語なのだ。
もちろん、立場は違えど時間と言う決定的な見えない壁によって隔てられ、決して結ばれない恋の切なさは共通。
「神田川」や「春だったね」と言った世代を超えて残っている名曲が、彼らの感情を盛り上げる。
芳山あかりを演じる仲里依沙は、紺野真琴の天真爛漫なキャラクターが印象に残っているが、今回のキャラクターも、どちらかと言うと真琴に近い元気系。
同タイトルの実写とアニメ、両方で主役を演じるというのは、もしかしたら過去に例が無いのではないか。
彼女はクォーターということで、ちょっと西欧的な顔立ちもあって、70年代の世界に紛れ込んだ未来人という設定が生きる。
また相手役の溝呂木涼太を演じる中尾明慶が良いなあ。
面構えといい、ファッションといい、見事に当時の青年になり切っており、ああそう言えばこんな兄ちゃんいたなあという懐かしさすら感じさせた。
あの頃のテレビの特撮ヒーロー物の主人公って、大体涼太みたいな髪型してた様な気がする(笑
彼は今で言うところのSF映画オタクで、大学の映研で8ミリ映画を撮っている。
あかりは、深町一夫を探しながら彼の映画作りを手伝う事で、次第に絆を深めていくのだ。
この映画作りのエピソードは、おそらく自主映画出身である谷口正晃監督自身の経験から来ているのだろうが、非常にリアルかつエモーショナルで、8ミリ映画を作った事のある人間には応えられない感慨がある。
時を永遠に封じ込められるフィルムの一コマに一コマに残された想いは、なるほどこの物語に相応しいメッセージだ。
ただ、あかりが74年の世界に落ち着いて以降の中盤の展開は、物語の流れという点ではやや停滞した印象を抱かせる事になってしまっている。
何しろここには、深町一夫探し、自主映画作りを通じた恋、高校生の芳山和子と彼女の将来の夫、つまりあかりの父を巡るエピソードまでもが詰め込まれている。
要するに元々の「時をかける少女」と「虹の女神」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を一度に詰め込んで同時進行する様なもので、描くべき事が多すぎて流れが滞ってしまっているのだ。
低予算ながら、非常に頑張って作りこまれた70年代の世界観の面白さによって、ある程度救われているが、少々欲張りすぎた感は否めない。
その分、物語の終盤で深町一夫ことケン・ソゴルが姿を現すと、物語は一気呵成に動き始める。
ここからの展開は、前半にわかりやすい伏線が張ってある事もあって、途中から読めてしまうのだが、わかっていても泣かされてしまった。
共にこれが長編デビュー作となる、谷口正晃監督と脚本の菅野友恵は、「時をかける少女」というビッグタイトルに新しいアプローチで挑み、成功を収めている。
芳山和子とあかりのそれぞれに訪れるラストシーンは、たとえ記憶は失われていても、心は覚えているという、人が人を想う力の強さを感じさせてくれる。
中盤をもうちょっと整理してくれたら、より観やすい映画になったと思うが、作り手の過剰なまでの想いが詰まった本作は、青春の切なさが心に響くさわやかな作品になった。
シンプルで骨格のしっかりした「時をかける少女」という小説は、物語を展開するプラットフォームとして非常に優れた存在なのだろう。
おそらく、これからも幾つものバリエーションが生まれてくるだろうが、大林版と細田版から本作が生まれたように、いつの日かその後の芳山あかりの物語が描かれる事があるのかもしれない。
「時かけ」と言えばラベンダーの香りが重要なモチーフになっているのだが、今回はラベンダーの香りのする酒を造ってみよう。
元々ラベンダーはリキュールの香り付けに使われる事があるが、簡単に自作して楽しむ事も出来る。
作り方は果実酒と同じように甲種焼酎にラベンダーを漬けるだけ。
焼酎1.8Lに対して、ラベンダーはドライで100グラム程度を投入し、一月ほどでラベンダーを取り除き、後は三ヶ月程度熟成させる。
好みで甘くしたり、他のハーブ酒を造って、色々とミックスさせるのも楽しい。
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とは言っても、これは単なるリメイクではなく、原作の続編にあたるオリジナルストーリーで、元の主人公である芳山和子の一人娘、芳山あかりが母の想いをかなえるためにタイムトラベラーとなる。
あかりを演じるのは、2006年のアニメ版で主人公の紺野真琴の声を演じた仲里依沙だ。
2010年春、高校卒業を控えた芳山あかり(仲里依沙)は、母の芳山和子(安田成美)が交通事故にあったと言う知らせを受ける。
昏睡状態の和子が、つかの間意識を取り戻したとき、彼女はあかりに嘗ての恋人である深町一夫(石丸幹二)宛てのあるメッセージを託す。
薬学者である和子の開発した薬を飲んだあかりは、母の言葉を伝えるために、1972年4月の土曜日の実験室にタイムリープ。
だが彼女が到着したのは、目標から二年もずれた1974年だった・・・・
1983年に大ヒットした最初の映画化である大林宣彦版、そして作品的にも興行的にも大成功した細田守による2006年のアニメ版という、二つの「時かけ」に強くインスパイアされた企画である事は間違いないだろう。
冒頭のタイトルバックに大林版の主題歌を持って来た事や、芳山和子が薬学の研究者になっている事からも、本作が大林版を継承する作品である事は明確だ。
回想シーンのアングルやカット割りも、意図的に似せている部分が多い。
ただ和子が戻ろうとするのが83年ではなく72年である事から、設定は1972年に放送された最初の映像化である、NHK少年ドラマシリーズの「タイム・トラベラー」に基づいている様である。
また続編的なリメイクと言うアプローチは、明らかに細田版に影響を受けており、主人公のキャステイングを含めて、記憶に新しいアニメ版のヒットに良い意味で乗っかろうと言う意図が見える。
言わば大林版、NHK版、細田版という過去の同タイトルの作品から、少しずつベースを受け継いで、統合させた様な続編と言えるだろう。
主人公がタイムリープしまくっていた以前の「時かけ」とは異なり、今回タイムリープは一回だけ。
昏睡状態に陥った母の想いを伝えるために、娘のあかりが飛んだのは1974年。
おっちょこちょいなあかりは、目標を二年も外れてしまうが、和子の開発したタイムリープの薬は二回分だけなので、もしも72年に飛び直せば今度は2010年に帰れなくなってしまう。
あかりは仕方が無く、74年の世界で知り合った映画監督志望の大学生、溝呂木涼太の下宿に居候しながら、芳山和子と深町一夫を探す事になる。
若い男女が一つ屋根の下に暮らせば、当然のごとく情が移り、あかりと涼太は恋に落ちるのだが、未来人であるあかりはいつか元の時代へ帰らなければならない。
そう、これは未来人への恋を描いた原作の人間関係を逆転させ、未来人の視点で描いた物語なのだ。
もちろん、立場は違えど時間と言う決定的な見えない壁によって隔てられ、決して結ばれない恋の切なさは共通。
「神田川」や「春だったね」と言った世代を超えて残っている名曲が、彼らの感情を盛り上げる。
芳山あかりを演じる仲里依沙は、紺野真琴の天真爛漫なキャラクターが印象に残っているが、今回のキャラクターも、どちらかと言うと真琴に近い元気系。
同タイトルの実写とアニメ、両方で主役を演じるというのは、もしかしたら過去に例が無いのではないか。
彼女はクォーターということで、ちょっと西欧的な顔立ちもあって、70年代の世界に紛れ込んだ未来人という設定が生きる。
また相手役の溝呂木涼太を演じる中尾明慶が良いなあ。
面構えといい、ファッションといい、見事に当時の青年になり切っており、ああそう言えばこんな兄ちゃんいたなあという懐かしさすら感じさせた。
あの頃のテレビの特撮ヒーロー物の主人公って、大体涼太みたいな髪型してた様な気がする(笑
彼は今で言うところのSF映画オタクで、大学の映研で8ミリ映画を撮っている。
あかりは、深町一夫を探しながら彼の映画作りを手伝う事で、次第に絆を深めていくのだ。
この映画作りのエピソードは、おそらく自主映画出身である谷口正晃監督自身の経験から来ているのだろうが、非常にリアルかつエモーショナルで、8ミリ映画を作った事のある人間には応えられない感慨がある。
時を永遠に封じ込められるフィルムの一コマに一コマに残された想いは、なるほどこの物語に相応しいメッセージだ。
ただ、あかりが74年の世界に落ち着いて以降の中盤の展開は、物語の流れという点ではやや停滞した印象を抱かせる事になってしまっている。
何しろここには、深町一夫探し、自主映画作りを通じた恋、高校生の芳山和子と彼女の将来の夫、つまりあかりの父を巡るエピソードまでもが詰め込まれている。
要するに元々の「時をかける少女」と「虹の女神」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を一度に詰め込んで同時進行する様なもので、描くべき事が多すぎて流れが滞ってしまっているのだ。
低予算ながら、非常に頑張って作りこまれた70年代の世界観の面白さによって、ある程度救われているが、少々欲張りすぎた感は否めない。
その分、物語の終盤で深町一夫ことケン・ソゴルが姿を現すと、物語は一気呵成に動き始める。
ここからの展開は、前半にわかりやすい伏線が張ってある事もあって、途中から読めてしまうのだが、わかっていても泣かされてしまった。
共にこれが長編デビュー作となる、谷口正晃監督と脚本の菅野友恵は、「時をかける少女」というビッグタイトルに新しいアプローチで挑み、成功を収めている。
芳山和子とあかりのそれぞれに訪れるラストシーンは、たとえ記憶は失われていても、心は覚えているという、人が人を想う力の強さを感じさせてくれる。
中盤をもうちょっと整理してくれたら、より観やすい映画になったと思うが、作り手の過剰なまでの想いが詰まった本作は、青春の切なさが心に響くさわやかな作品になった。
シンプルで骨格のしっかりした「時をかける少女」という小説は、物語を展開するプラットフォームとして非常に優れた存在なのだろう。
おそらく、これからも幾つものバリエーションが生まれてくるだろうが、大林版と細田版から本作が生まれたように、いつの日かその後の芳山あかりの物語が描かれる事があるのかもしれない。
「時かけ」と言えばラベンダーの香りが重要なモチーフになっているのだが、今回はラベンダーの香りのする酒を造ってみよう。
元々ラベンダーはリキュールの香り付けに使われる事があるが、簡単に自作して楽しむ事も出来る。
作り方は果実酒と同じように甲種焼酎にラベンダーを漬けるだけ。
焼酎1.8Lに対して、ラベンダーはドライで100グラム程度を投入し、一月ほどでラベンダーを取り除き、後は三ヶ月程度熟成させる。
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2010年03月17日 (水) | 編集 |
ウォルト・ディズニー・アニメーションスタジオの49本目の長編作品「プリンセスと魔法のキス」は、同社にとっては久々の2D手描き作品だ。
物語は、グリム童話の「かえるの王様」を元にしたE.Dベイカーの児童小説、「かえるになったお姫様」を大幅に脚色した物で、監督は「リトルマーメイド」や「アラジン」で知られるベテランコンビ、ジョン・マスカーとロン・クレメンツ。
ミュージカルアニメで重要な音楽は、御馴染みのアラン・メンケンではなく、ピクサー色の強いランディ・ニューマンがディズニー本体の作品をはじめて担当している。
ニューオーリンズに住むティアナ(アニカ・ノニ・ローズ)は、亡き父から受け継いだ夢であるレストラン経営を目指して、昼も夜も働きづめ。
ある日、金持ちの幼馴染のシャーロット(ジェニファー・コーディ)のパーティで、ティアナは人語を喋るカエルと出会う。
カエルは、自分は魔法をかけられてしまったナヴィーン王子(ブルーノ・カンポス)だと名乗り、人間に戻るためにキスしてくれる様にとティアナに頼む。
ティアナは躊躇するが、金持ちの王子ならレストラン開店資金を出資してくれると信じて、キスをする。
だが、王子は人間に戻らず、逆にティアナまでがカエルに変身してしまう・・・・
2003年に、世界のアニメ界のメインストリームが3DCGに移った事を理由に、80年の歴史を誇るディズニーの手描きアニメ部門は閉鎖された。
だが2006年、ディズニーがピクサーを買収した事で、ピクサーのジョン・ラセターとエド・キャットマルがディズニーのアニメ部門のトップに就任すると、意外な事に最初に公約に掲げたのが手描きアニメ部門の復活だった。
いわば自らを滅ぼした3DCG屋によって、手描き部門が息を吹き返す事になったのだから皮肉な物だが、要するにヒットしないのは、手描きだCGだという手法の問題ではなく、企画力や魅力的なキャラクター、そして何よりも物語の問題であり、世界中にファンを持つ手描きアニメには潜在的な需要がまだまだあるというのがラセターらの考えだった。
とは言え、一度止めてしてしまった物を再開するのは、大変な労力と資金が必要となる。
解雇されて散り散りになっていたベテランスタッフを呼び戻し、既にCG用に作り変えられた設備の一部を元に戻し、更に新たな世代に経験が物を言う手描きアニメの技法を習得させるのは一朝一夕には出来ない。
一昨年の「魔法にかけられて」のアニメシークエンスなどを経て、いよいよ満を持しての復活作となった。
ディズニーアニメの最大の顧客といえば、やはりプリンセスにあこがれる女の子たちという事で、本作も伝統のプリンセス物の枠組みを継承しているが、内容的には二十一世紀に相応しい様々な新機軸が満載で、相当に気合が入っている。
舞台となっているのは、南部の街ニューオーリンズで、時代は特定されていないが、街の様子や車などから推察するに、1930年代頃をイメージしている様だ。
当時の南部は、相当に人種差別の激しい土地柄だったはずだが、そういうリアルな部分はかなり薄められており、全体に白人は金持ちで有色人種は貧乏という程度の色分けに留まっている。
そして主人公となるのは、ディズニーの歴代プリンセスの中で初のアフリカ系となるティアナ。
彼女が何よりもユニークなのは、今までのディズニーアニメの女性たちと違って、完全に自立した女性で、レストラン経営と言う夢を叶えるために、四六時中仕事をしてお金を貯めているワーカホリックというところだろう。
彼女は、御伽噺の様な王子様との結婚など全く夢見ていないのだ。
逆に相手役のナヴィーン王子は、放蕩三昧で家来にまで裏切られるダメ人間として設定されており、完全に女性主導型のカップルになっている。
このあたりは、やり過ぎるとライバルのドリームワークスの「シュレック」シリーズの様に、過去のディズニー作品のパロディになってしまうが、さすがディズニー生え抜きのクリエイターの作品だけあって、正統派の枠内にギリギリのところで踏みとどまっている。
ちなみにナヴィーン王子の出身は架空の国になっているが、彼もおそらくはアフリカ系の有色人種に設定されており、作品全体に南部の黒人文化か散りばめられているのも特徴だ。
ティアナの作ろうとしているレストランも、フランスの影響の強いこの地のお袋の味である、ガンボスープやベニエといったケイジャン料理を出す店だし、王子をカエルにしたドクター・ファリシエの魔法もどうやらブードゥー教の黒魔術で、ティアナとナヴィーンが助けを求めに行くのもブードゥーの尼僧。
更にニューオーリンズと言えばジャズという事で、ランディ・ニューマンのスコアは全体にジャジーなテイストで、過去のディズニーアニメのミュージカルスコアとははっきりと一線を画す。
またミシシッピ川の河口に位置し、郊外に広大な湿地帯を抱える事で知られる街だけに、カエルになったティアナたちの旅の仲間となるのも、地域性の強い水辺の生き物のキャラクターたち。
ジャズが大好きで、人間のバンドに加わりたいと思っているワニのルイス、そして星に恋する蛍のレイが冒険の旅を導く。
丸太の様に大きなワニから指先ほどの蛍まで、普通メインキャラクターにこれだけ大きさの違いがあると、視点の置き所など演出的にはかなり難しい物だが、そんな不自然さを微塵も感じさせないマスカーとクレメンツはベテランらしい見事な仕事を見せてくれる。
主人公であるティアナのキャラクターは、極めて現代的と言えるかもしれないが、映画は必ずしも彼女の生き方を肯定しない。
なぜなら、彼女は一つの夢に邁進するために、人生で大切な物を忘れてしまっているからだ。
彼女はレストランを開店するという夢は持っているが、逆に言えばそれ以外の生きる目的を持っていない。
同様に、ナヴィーン王子も王家に生まれた幸運に胡坐をかき、面白可笑しく暮らす事以外特に夢もやりたい事も無い。
仕事人間のティアナと遊び人のナヴィーン王子という、生まれも生き方も対照的な二人だが、それぞれから仕事と遊びを取っ払ってしまえば、むしろ心に空洞を抱えた似たもの同士。
これは、ひょんな事からカエルになってしまった二人が、それぞれの人生を見つめなおし、お互いに成長する物語なのである。
勿論、新機軸満載と言っても、ディズニープリンセス物であるからには、ハッピーエンドのラストだけはお約束を守らなければならない。
現代的なビジネスウーマンであるティアナの生き方を、果たしてどのようにして王子様との愛に生きるディズニープリンセスの伝統とマッチさせるのかというあたりは、ややズルイ気もするが、まあなるほどと思える物であった。
「プリンセスと魔法のキス」は、ディズニーの手描きアニメーションの新しい時代を切り開いてゆこうとする意欲作だ。
ただ、良くも悪くもかなりエキセントリックなキャラクターに、やや感情移入し難かったのも事実で、伝統的なお約束の部分と新しいチャレンジの部分の統一感という点でも若干の違和感は残る。
このあたりは次回作以降の課題だろうが、心配なのは、既に2012年分まで発表されているディズニー/ピクサーのラインナップに、2D手描きアニメ作品が見当たらない事だ。
全盛期に比べればかなり縮小された制作体制で、次を作るのにも時間がかかるのは確かだろうけど、これが最初で最後の復活にならなければ良いのだが。
とりあえず3DCG作品ながら、手描きアニメ時代からのスタッフが多く参加し、正統派ディズニープリンセス物となりそうな「ラプンツェル(Rapunzel)」に期待しよう。
今回は舞台にちなんで、「ニューオーリンズ・ラム・フィズ」をチョイス。
ホワイトラム45ml、レモンジュース20ml、生クリーム20ml、シロップ2tsp、オレンジフラワーウォーター4dashに卵白一個と氷を加えてシェイクする。
氷を入れたゴブレットに注ぎ、更にお好みの量のソーダを加えて完成・・・とレシピはこんな物だが、これはなかなか上手く作るのが難しいカクテルで、お店で頼んだ方が簡単かつベター。
本当に美味しい物を作るのは、手描きアニメに通じる職人技が必要なのだ。
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物語は、グリム童話の「かえるの王様」を元にしたE.Dベイカーの児童小説、「かえるになったお姫様」を大幅に脚色した物で、監督は「リトルマーメイド」や「アラジン」で知られるベテランコンビ、ジョン・マスカーとロン・クレメンツ。
ミュージカルアニメで重要な音楽は、御馴染みのアラン・メンケンではなく、ピクサー色の強いランディ・ニューマンがディズニー本体の作品をはじめて担当している。
ニューオーリンズに住むティアナ(アニカ・ノニ・ローズ)は、亡き父から受け継いだ夢であるレストラン経営を目指して、昼も夜も働きづめ。
ある日、金持ちの幼馴染のシャーロット(ジェニファー・コーディ)のパーティで、ティアナは人語を喋るカエルと出会う。
カエルは、自分は魔法をかけられてしまったナヴィーン王子(ブルーノ・カンポス)だと名乗り、人間に戻るためにキスしてくれる様にとティアナに頼む。
ティアナは躊躇するが、金持ちの王子ならレストラン開店資金を出資してくれると信じて、キスをする。
だが、王子は人間に戻らず、逆にティアナまでがカエルに変身してしまう・・・・
2003年に、世界のアニメ界のメインストリームが3DCGに移った事を理由に、80年の歴史を誇るディズニーの手描きアニメ部門は閉鎖された。
だが2006年、ディズニーがピクサーを買収した事で、ピクサーのジョン・ラセターとエド・キャットマルがディズニーのアニメ部門のトップに就任すると、意外な事に最初に公約に掲げたのが手描きアニメ部門の復活だった。
いわば自らを滅ぼした3DCG屋によって、手描き部門が息を吹き返す事になったのだから皮肉な物だが、要するにヒットしないのは、手描きだCGだという手法の問題ではなく、企画力や魅力的なキャラクター、そして何よりも物語の問題であり、世界中にファンを持つ手描きアニメには潜在的な需要がまだまだあるというのがラセターらの考えだった。
とは言え、一度止めてしてしまった物を再開するのは、大変な労力と資金が必要となる。
解雇されて散り散りになっていたベテランスタッフを呼び戻し、既にCG用に作り変えられた設備の一部を元に戻し、更に新たな世代に経験が物を言う手描きアニメの技法を習得させるのは一朝一夕には出来ない。
一昨年の「魔法にかけられて」のアニメシークエンスなどを経て、いよいよ満を持しての復活作となった。
ディズニーアニメの最大の顧客といえば、やはりプリンセスにあこがれる女の子たちという事で、本作も伝統のプリンセス物の枠組みを継承しているが、内容的には二十一世紀に相応しい様々な新機軸が満載で、相当に気合が入っている。
舞台となっているのは、南部の街ニューオーリンズで、時代は特定されていないが、街の様子や車などから推察するに、1930年代頃をイメージしている様だ。
当時の南部は、相当に人種差別の激しい土地柄だったはずだが、そういうリアルな部分はかなり薄められており、全体に白人は金持ちで有色人種は貧乏という程度の色分けに留まっている。
そして主人公となるのは、ディズニーの歴代プリンセスの中で初のアフリカ系となるティアナ。
彼女が何よりもユニークなのは、今までのディズニーアニメの女性たちと違って、完全に自立した女性で、レストラン経営と言う夢を叶えるために、四六時中仕事をしてお金を貯めているワーカホリックというところだろう。
彼女は、御伽噺の様な王子様との結婚など全く夢見ていないのだ。
逆に相手役のナヴィーン王子は、放蕩三昧で家来にまで裏切られるダメ人間として設定されており、完全に女性主導型のカップルになっている。
このあたりは、やり過ぎるとライバルのドリームワークスの「シュレック」シリーズの様に、過去のディズニー作品のパロディになってしまうが、さすがディズニー生え抜きのクリエイターの作品だけあって、正統派の枠内にギリギリのところで踏みとどまっている。
ちなみにナヴィーン王子の出身は架空の国になっているが、彼もおそらくはアフリカ系の有色人種に設定されており、作品全体に南部の黒人文化か散りばめられているのも特徴だ。
ティアナの作ろうとしているレストランも、フランスの影響の強いこの地のお袋の味である、ガンボスープやベニエといったケイジャン料理を出す店だし、王子をカエルにしたドクター・ファリシエの魔法もどうやらブードゥー教の黒魔術で、ティアナとナヴィーンが助けを求めに行くのもブードゥーの尼僧。
更にニューオーリンズと言えばジャズという事で、ランディ・ニューマンのスコアは全体にジャジーなテイストで、過去のディズニーアニメのミュージカルスコアとははっきりと一線を画す。
またミシシッピ川の河口に位置し、郊外に広大な湿地帯を抱える事で知られる街だけに、カエルになったティアナたちの旅の仲間となるのも、地域性の強い水辺の生き物のキャラクターたち。
ジャズが大好きで、人間のバンドに加わりたいと思っているワニのルイス、そして星に恋する蛍のレイが冒険の旅を導く。
丸太の様に大きなワニから指先ほどの蛍まで、普通メインキャラクターにこれだけ大きさの違いがあると、視点の置き所など演出的にはかなり難しい物だが、そんな不自然さを微塵も感じさせないマスカーとクレメンツはベテランらしい見事な仕事を見せてくれる。
主人公であるティアナのキャラクターは、極めて現代的と言えるかもしれないが、映画は必ずしも彼女の生き方を肯定しない。
なぜなら、彼女は一つの夢に邁進するために、人生で大切な物を忘れてしまっているからだ。
彼女はレストランを開店するという夢は持っているが、逆に言えばそれ以外の生きる目的を持っていない。
同様に、ナヴィーン王子も王家に生まれた幸運に胡坐をかき、面白可笑しく暮らす事以外特に夢もやりたい事も無い。
仕事人間のティアナと遊び人のナヴィーン王子という、生まれも生き方も対照的な二人だが、それぞれから仕事と遊びを取っ払ってしまえば、むしろ心に空洞を抱えた似たもの同士。
これは、ひょんな事からカエルになってしまった二人が、それぞれの人生を見つめなおし、お互いに成長する物語なのである。
勿論、新機軸満載と言っても、ディズニープリンセス物であるからには、ハッピーエンドのラストだけはお約束を守らなければならない。
現代的なビジネスウーマンであるティアナの生き方を、果たしてどのようにして王子様との愛に生きるディズニープリンセスの伝統とマッチさせるのかというあたりは、ややズルイ気もするが、まあなるほどと思える物であった。
「プリンセスと魔法のキス」は、ディズニーの手描きアニメーションの新しい時代を切り開いてゆこうとする意欲作だ。
ただ、良くも悪くもかなりエキセントリックなキャラクターに、やや感情移入し難かったのも事実で、伝統的なお約束の部分と新しいチャレンジの部分の統一感という点でも若干の違和感は残る。
このあたりは次回作以降の課題だろうが、心配なのは、既に2012年分まで発表されているディズニー/ピクサーのラインナップに、2D手描きアニメ作品が見当たらない事だ。
全盛期に比べればかなり縮小された制作体制で、次を作るのにも時間がかかるのは確かだろうけど、これが最初で最後の復活にならなければ良いのだが。
とりあえず3DCG作品ながら、手描きアニメ時代からのスタッフが多く参加し、正統派ディズニープリンセス物となりそうな「ラプンツェル(Rapunzel)」に期待しよう。
今回は舞台にちなんで、「ニューオーリンズ・ラム・フィズ」をチョイス。
ホワイトラム45ml、レモンジュース20ml、生クリーム20ml、シロップ2tsp、オレンジフラワーウォーター4dashに卵白一個と氷を加えてシェイクする。
氷を入れたゴブレットに注ぎ、更にお好みの量のソーダを加えて完成・・・とレシピはこんな物だが、これはなかなか上手く作るのが難しいカクテルで、お店で頼んだ方が簡単かつベター。
本当に美味しい物を作るのは、手描きアニメに通じる職人技が必要なのだ。

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2010年03月11日 (木) | 編集 |
世紀の超大作「アバター」との元夫婦決戦を制し、オスカー6部門を獲得した「ハートロッカー」は、なるほど凄い映画であった。
まるで自分がアメリカ陸軍爆弾処理班と行動を共にしているかのような臨場感は、「アバター」とは別の意味で観客を戦場のリアル体験へと誘い、二時間の間張り詰めた緊張感は、握り締めた拳を開く間も与えない。
映画が終わり、平和な日常の光の中へ出たときに、これほどホッとした映画も久しぶりだ。
2004年イラク。
爆弾処理を専門とするブラボー中隊に、爆死したトンプソン軍曹(ガイ・ピアース)の後任として、ウィリアム・ジェームス軍曹(ジェレミー・レナー)が派遣されてくる。
彼はサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)とチームを組み、武装勢力の仕掛ける様々な爆弾を処理してゆく。
だが無謀にして命知らずで、協調性があるとは言いがたいジェームスのやり方は、メンバーの反感を買い、チームのムードは険悪に。
そんな時、チームに衝撃をもたらすある事件が起こる・・・・
デビュー以来、女流監督はラブストーリーやファミリー映画という風潮に逆らい、少年漫画的なアクションやホラー、SFに軍事物と言った漢の映画を作り続ける孤高の映画作家、キャスリン・ビクローの最高傑作だ。
登場人物の中で一番知名度が高く、尚且つ男前なガイ・ピアーズが冒頭でいきなり爆死。
観客はもうこの時点で、この映画が並みの作品ではない事を思い知らされる。
ビグローは、ヒーローである主人公は決して死なないという、ハリウッド映画のお約束をあえて破壊する事で、我々を未来を予測する事が不可能な本物の戦場へと放り出す。
メインとなるブラボー中隊の3人は、一般的には殆ど無名の俳優たち。
彼らの周りにデビット・モースやレイフ・ファインズといったベテランを配しているが、主役はあくまでも爆弾処理班の3人だ。
一応主人公はチームリーダーのジェームス軍曹ということになるのだろうが、描き方はドキュメンタリーに近く、ビグローの演出も過度に彼だけに入り込む事はしない。
カメラは、まるでブラボー中隊に張り付いた記録チームでもいるかの様に、適度な距離感を保ちつつ、戦場の過酷な日常を描写する。
全てが砂っぽく、荒廃した街と砂漠で展開する物語は、ギラギラと照りつける太陽と、死と隣り合わせのスリルの相乗効果でカラカラに渇ききっており、主人公たちが生唾を飲み込む音までもが伝わってくるかの様なリアルを感じる。
引いた視点で状況を丹念に描写し、要所要所でスローモーションとディテールのアップを効果的に織り込む、ビクロー得意の演出が最大限生きるサスペンスフルなシチュエーションの連続だ。
我々はブラボー中隊と共に爆弾処理の現場に赴き、超スリリングなギャンブルを体験し、この世の生にギリギリで踏みとどまるのである。
原題の「the Hurt Locker」とは、軍のスラングで行きたくない場所、転じて棺桶を意味すると言う。
実際に爆弾処理を任務とする兵士の戦死率はダントツに高く、イラク戦争の場合一般の兵士を100とすると500%にも上るらしい。
しかも現在のアメリカ軍は、基本的に志願兵で構成されており、彼らは誰かに強制されたわけでなく、自らの意思によって、この世界一危険な職場に赴いているのである。
彼らを戦場へ駆り立てるのは、愛国心なのか、義務感なのか、それとも子供っぽいヒロイズムなのか。
映画は、あくまでも戦場における兵士の日常と、彼らが対峙している状況を丹念に描く事で、その理由に迫ってゆく。
ただし、これをイラク戦争を描いた映画と捉えてしまうと、本作が描こうとしている事の本質を見失う。
本作はイラク戦争をモチーフにした映画ではあるが、イラク戦争とは何かを描いた映画ではないので、そのあたりを期待してゆくと肩透かしを喰らうだろう。
戦争の是非や、その背景には殆ど全くと言っていいほど触れられないし、そもそもジェームスたち米軍が誰と戦っているのかすら明確には描写されない。
何しろ主なる相手は物言わぬ爆弾なのだ。
ここにあるのは恐怖と高揚感、比類する物の無い緊張という圧倒的な戦場のリアリティだけだ。
生と死の狭間にある戦場という特別な場所で、徐々に、そして確実に、兵士たちはその場所を知らなかった頃の自分とは異なる存在になってゆく。
これは、そんな彼らの心の葛藤と、彼らの中の生という物をリアルに描いた映画なのだ。
映画の中で効果的に使われているのが、「あと○○日でブラボー中隊の任務終了」というテロップだ。
私は、最初これが戦場からの解放と平和を意味する物だと思っていた。
だが、実際に任務が終了し、故郷アメリカに戻ったジェームスの心に、本当の安息は無い。
終盤のごくごく短いアメリカのシーンと戦場の対比が見事で、ここで描かれる現場の兵士と銃後の故郷のズレは、「父親たちの星条旗」で描かれた葛藤にも少し被る。
愛する人と買い物に訪れたスーパーで、あまりにも満ち足りた商品を前に、呆然と立ち尽くすしかないジェームスの姿は、彼の心に広がる虚無感を如実に物語っている。
そして、ラストカットで再び映し出されるテロップの内容に、なるほどこういう事かと、思わず私は声を上げてしまった。
映像や音響設計の見事さに目を奪われる作品だが、細部まで計算されつくされた脚本も超一級の出来栄えだ。
思うに「アバター」も本作も、今のアメリカの時代の空気を強く反映した力作だ。
ジェームス・キャメロンは、メッセージ性にある程度の妥協をしてまで、わかりやすく大衆に受け入れられる物を作り、結果的にアメリカ国内の保守派だけでなく中国共産党にも嫌われた(笑
対して、元妻の作品はもう少し複雑だ。
視点が完全に現場に張り付き、戦争を俯瞰する視点や客観的かつ明確なメッセージを読み取りにくいこの作品は、あまり単純に観てしまうと、単にアメリカ軍の勇敢さを賛美する映画と受け取られかねない危険性がある。
勿論、ビグローは現場で危険な任務につく兵士たちに対してリスペクトを感じているだろうし、自らの命を賭して爆弾処理に挑む兵士たちは間違いなくヒーローと言えるだろう。
だが、本作に描かれているのは単純なヒロイズムではない。
絶望的な虚無感を抱え、戦争というシステムの中だけでしか、本当の意味で生る事が出来ないジェームスたちは、同時に戦争の犠牲者でもある。
映画の冒頭に、NYタイムズのクリス・ヘッジズによる「戦争は麻薬と同じだ」という意味の言葉が映し出されるが、これは戦場で常に死と対峙する事によって、生と死を賭した極限のスリルの中でしか、自らの生を感じる事の出来なくなってしまった、悲しき英雄たちを描いた切ない寓話なのだ。
そして、戦争が麻薬であるという事は、人間がいつまでたっても戦う事をやめない理由の、一つの説明にもなっているのではないか。
「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で、中つ国を救った英雄フロドが、現世での安息を永遠に失ってしまったのと同じように、ウィリアム・ジェームス軍曹もまた、本当の死が彼に訪れるその瞬間まで、あの世とこの世の狭間の世界にしか生きる事を許されないのだろう。
あまりにも熱くて乾燥し、スリリングな映画だったので、観終わってビールが無性に飲みたくなった。
今回はアメリカンビールの代表的銘柄「ミラードラフト」をチョイス。
映画の中でも兵士たちはやたらと酔っ払っていたが、何となく兵士たちが任務の後の飲むビールの味を想像できる気がした。
だが彼らは、心の底から気持ちよく酔っ払う事はもう出来ないのかもしれないと思うと悲しい。
美味しいものを本当に美味しく飲める事に、感謝を感じる作品であった。
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まるで自分がアメリカ陸軍爆弾処理班と行動を共にしているかのような臨場感は、「アバター」とは別の意味で観客を戦場のリアル体験へと誘い、二時間の間張り詰めた緊張感は、握り締めた拳を開く間も与えない。
映画が終わり、平和な日常の光の中へ出たときに、これほどホッとした映画も久しぶりだ。
2004年イラク。
爆弾処理を専門とするブラボー中隊に、爆死したトンプソン軍曹(ガイ・ピアース)の後任として、ウィリアム・ジェームス軍曹(ジェレミー・レナー)が派遣されてくる。
彼はサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)とチームを組み、武装勢力の仕掛ける様々な爆弾を処理してゆく。
だが無謀にして命知らずで、協調性があるとは言いがたいジェームスのやり方は、メンバーの反感を買い、チームのムードは険悪に。
そんな時、チームに衝撃をもたらすある事件が起こる・・・・
デビュー以来、女流監督はラブストーリーやファミリー映画という風潮に逆らい、少年漫画的なアクションやホラー、SFに軍事物と言った漢の映画を作り続ける孤高の映画作家、キャスリン・ビクローの最高傑作だ。
登場人物の中で一番知名度が高く、尚且つ男前なガイ・ピアーズが冒頭でいきなり爆死。
観客はもうこの時点で、この映画が並みの作品ではない事を思い知らされる。
ビグローは、ヒーローである主人公は決して死なないという、ハリウッド映画のお約束をあえて破壊する事で、我々を未来を予測する事が不可能な本物の戦場へと放り出す。
メインとなるブラボー中隊の3人は、一般的には殆ど無名の俳優たち。
彼らの周りにデビット・モースやレイフ・ファインズといったベテランを配しているが、主役はあくまでも爆弾処理班の3人だ。
一応主人公はチームリーダーのジェームス軍曹ということになるのだろうが、描き方はドキュメンタリーに近く、ビグローの演出も過度に彼だけに入り込む事はしない。
カメラは、まるでブラボー中隊に張り付いた記録チームでもいるかの様に、適度な距離感を保ちつつ、戦場の過酷な日常を描写する。
全てが砂っぽく、荒廃した街と砂漠で展開する物語は、ギラギラと照りつける太陽と、死と隣り合わせのスリルの相乗効果でカラカラに渇ききっており、主人公たちが生唾を飲み込む音までもが伝わってくるかの様なリアルを感じる。
引いた視点で状況を丹念に描写し、要所要所でスローモーションとディテールのアップを効果的に織り込む、ビクロー得意の演出が最大限生きるサスペンスフルなシチュエーションの連続だ。
我々はブラボー中隊と共に爆弾処理の現場に赴き、超スリリングなギャンブルを体験し、この世の生にギリギリで踏みとどまるのである。
原題の「the Hurt Locker」とは、軍のスラングで行きたくない場所、転じて棺桶を意味すると言う。
実際に爆弾処理を任務とする兵士の戦死率はダントツに高く、イラク戦争の場合一般の兵士を100とすると500%にも上るらしい。
しかも現在のアメリカ軍は、基本的に志願兵で構成されており、彼らは誰かに強制されたわけでなく、自らの意思によって、この世界一危険な職場に赴いているのである。
彼らを戦場へ駆り立てるのは、愛国心なのか、義務感なのか、それとも子供っぽいヒロイズムなのか。
映画は、あくまでも戦場における兵士の日常と、彼らが対峙している状況を丹念に描く事で、その理由に迫ってゆく。
ただし、これをイラク戦争を描いた映画と捉えてしまうと、本作が描こうとしている事の本質を見失う。
本作はイラク戦争をモチーフにした映画ではあるが、イラク戦争とは何かを描いた映画ではないので、そのあたりを期待してゆくと肩透かしを喰らうだろう。
戦争の是非や、その背景には殆ど全くと言っていいほど触れられないし、そもそもジェームスたち米軍が誰と戦っているのかすら明確には描写されない。
何しろ主なる相手は物言わぬ爆弾なのだ。
ここにあるのは恐怖と高揚感、比類する物の無い緊張という圧倒的な戦場のリアリティだけだ。
生と死の狭間にある戦場という特別な場所で、徐々に、そして確実に、兵士たちはその場所を知らなかった頃の自分とは異なる存在になってゆく。
これは、そんな彼らの心の葛藤と、彼らの中の生という物をリアルに描いた映画なのだ。
映画の中で効果的に使われているのが、「あと○○日でブラボー中隊の任務終了」というテロップだ。
私は、最初これが戦場からの解放と平和を意味する物だと思っていた。
だが、実際に任務が終了し、故郷アメリカに戻ったジェームスの心に、本当の安息は無い。
終盤のごくごく短いアメリカのシーンと戦場の対比が見事で、ここで描かれる現場の兵士と銃後の故郷のズレは、「父親たちの星条旗」で描かれた葛藤にも少し被る。
愛する人と買い物に訪れたスーパーで、あまりにも満ち足りた商品を前に、呆然と立ち尽くすしかないジェームスの姿は、彼の心に広がる虚無感を如実に物語っている。
そして、ラストカットで再び映し出されるテロップの内容に、なるほどこういう事かと、思わず私は声を上げてしまった。
映像や音響設計の見事さに目を奪われる作品だが、細部まで計算されつくされた脚本も超一級の出来栄えだ。
思うに「アバター」も本作も、今のアメリカの時代の空気を強く反映した力作だ。
ジェームス・キャメロンは、メッセージ性にある程度の妥協をしてまで、わかりやすく大衆に受け入れられる物を作り、結果的にアメリカ国内の保守派だけでなく中国共産党にも嫌われた(笑
対して、元妻の作品はもう少し複雑だ。
視点が完全に現場に張り付き、戦争を俯瞰する視点や客観的かつ明確なメッセージを読み取りにくいこの作品は、あまり単純に観てしまうと、単にアメリカ軍の勇敢さを賛美する映画と受け取られかねない危険性がある。
勿論、ビグローは現場で危険な任務につく兵士たちに対してリスペクトを感じているだろうし、自らの命を賭して爆弾処理に挑む兵士たちは間違いなくヒーローと言えるだろう。
だが、本作に描かれているのは単純なヒロイズムではない。
絶望的な虚無感を抱え、戦争というシステムの中だけでしか、本当の意味で生る事が出来ないジェームスたちは、同時に戦争の犠牲者でもある。
映画の冒頭に、NYタイムズのクリス・ヘッジズによる「戦争は麻薬と同じだ」という意味の言葉が映し出されるが、これは戦場で常に死と対峙する事によって、生と死を賭した極限のスリルの中でしか、自らの生を感じる事の出来なくなってしまった、悲しき英雄たちを描いた切ない寓話なのだ。
そして、戦争が麻薬であるという事は、人間がいつまでたっても戦う事をやめない理由の、一つの説明にもなっているのではないか。
「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で、中つ国を救った英雄フロドが、現世での安息を永遠に失ってしまったのと同じように、ウィリアム・ジェームス軍曹もまた、本当の死が彼に訪れるその瞬間まで、あの世とこの世の狭間の世界にしか生きる事を許されないのだろう。
あまりにも熱くて乾燥し、スリリングな映画だったので、観終わってビールが無性に飲みたくなった。
今回はアメリカンビールの代表的銘柄「ミラードラフト」をチョイス。
映画の中でも兵士たちはやたらと酔っ払っていたが、何となく兵士たちが任務の後の飲むビールの味を想像できる気がした。
だが彼らは、心の底から気持ちよく酔っ払う事はもう出来ないのかもしれないと思うと悲しい。
美味しいものを本当に美味しく飲める事に、感謝を感じる作品であった。

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2010年03月06日 (土) | 編集 |
韓国映画界随一の映像テクニシャン、パク・チャヌク監督の最新作「渇き」は、ひょんな事からヴァンパイアになってしまったカソリック神父の物語。
とは言ってもこれはホラー映画ではない。
禁欲的で信仰に一途な主人公が、自らの内面の生と性の狭間で葛藤する、シュールでコミカルな異色のラブストーリーである。
カソリックの病院に勤める神父のサンヒョン(ソン・ガンホ)は、祈りが患者を救えない事に無力感を募らせている。
ある時彼は、聖職者ばかりが犠牲となるエマニュエル・ウィルスの治験に志願し、発病して一度は死亡を宣告されるものの、奇跡的に息を吹き返し生還する。
ところが彼の肉体は、人間の血を飲まないと病気が再発するというヴァンパイアに変貌していた。
ある時、入院していた幼馴染のガンウ(シン・ハギュン)と再会したサンヒョンは、彼の妻のテジュ(キム・オクビン)と惹かれあう。
やがて、愛欲の海に溺れた彼らは、ガンウを亡き者にしようと謀るのだが・・・・
ヴァンパイアといっても色々なタイプがいるが、本作の場合は見た目は普通の人間のまま。
牙も生えてないし、変身能力も無い。
スパイダーマン並みの身体能力を手に入れる代わりに、太陽光線には弱く、人を襲うときは、ナイフで傷つけてそこから血を吸う。
伝統的なドラキュラ系のヴァンパイアよりは、トニー・スコットの「ハンガー」やキャスリン・ビグローの「ニア・ダーク/月夜の出来事」に描かれたリアル系のヴァンパイアに近い。
これは、あくまでも主人公たちはモンスターになったのではなく、人間の内面がメタファーとして具現化した存在だと感じさせるための設定だろう。
毎度の事だが、主人公のサンヒョンを演じるソン・ガンホがとても良い。
サンヒョンは、肉欲を感じると自らを鞭打つほど信心深い男で、ウィルスの治験に志願したのも、神に祈りを届け、人の役に立ちたいという自己犠牲的な精神から。
まあ考えようによっては、彼は既にこの時点から信仰を通して欲望を感じているとも言える。
果たして神もそう考えたのか、あるいは彼の行為が神を試したと受け取られたのか、結果として信仰からは最も遠いヴァンパイアと化してしまう。
キリスト教ではキリストの血は神聖な物で、ワインをその比喩として扱う事は知られているが、夜の世界の住人となったサンヒョンが、本物の血を飲まないと生きていけなくなってしまうのはなんとも皮肉だ。
それでも人間を殺すこと無く、何とか血を手に入れていたサンヒョンに、最後の一線を越えさせるのは、幼馴染の虐げられた妻テジュ。
血を飲むという背徳的な行為によって、自らの信仰に自信をもてなくなっていたサンヒョンを、テジュは欲望の世界に引きずり込む事で生きながら地獄へ落す。
彼女は幸薄い人生を送り、元々人間不信を抱いている人物で、サンヒョンの様に信仰というストッパーを持たない。
ヴァンパイアという圧倒的な力を持った彼女は、自らを虐げた者たちの世界を破壊し始めるのだが、それは結果的に自らの世界を滅ぼす事にも繋がってゆくのである。
サンヒョンとテジュの関係は、一見すると愛欲の絆の様に思えるが、それだけではない。
二人が実は幼馴染であるという設定がキーだ。
信仰と家庭環境という違いはあれど、彼らは共に欲望を抑圧された人生を送ってきており、再会により心の深い部分でつながりを感じたのだと思う。
そしてヴァンパイア化というスイッチに触れる事で、お互いの内面に抑えられえていた物が共鳴し、増幅されコントロール不能の状況に陥ってしまったのだろう。
テジュを演じるのは若手のキム・オクビン。
映画を観ると理由はわかるが、テジュ役はオファーを出した女優たちに尽く断られたそうで、キム・オクビンに決まったのは最後の最後だったらしい。
だが結果的にこのキャスティングはベストな組み合わせだったのではないだろうか。
内面の葛藤を繊細に演じるソン・ガンホの演技力に、キム・オクビンの厭世的な演技は決して負けていない。
クライマックスのあくまでも生へ執着する悪女的かつコミカルな演技は見事な物で、愚直なソン・ガンホと好コントラストを形作っており、最後を迎える二人の姿は、お互いの気持ちを理解しあう者同士の切ない情感に満ちていた。
脇では、脳出血で眼球以外を動かせなくなり、図らずもヴァンパイアカップルに囚われの身となる、ガンウの母を演じるキム・ヘスクの目の演技が強烈。
特にラストの微笑みは忘れられないインパクトを残すだろう。
パク・チャヌクは、サンヒョンの陥った奇怪な事態を、現実と心象風景的な幻想の入り混じったシュールな描写で紡いでゆく。
ヴァンパイアが昏睡状態の患者の横に寝そべって、点滴から血をチューチュー吸うなんていうシチュエーションは序の口で、サンヒョンとテジュが謀殺したガンウは、亡霊となって二人の愛し合うベッドに割り込み、運動機能を失ったガンウの母は、眼球の動きで来客に二人がヴァンパイアである事を告発しようとする。
これらの一連の描写はテンポ良く、シリアスとコミカルの狭間で絶妙な可笑しさを醸し出す。
リュ・ソンヒの遊び心のある美術も上手く演出に組み込まれ、映像で物語を紡ぐパク・チャヌクのテクニックには、今回も唸らされる。
ただし、本作は彼の映画としては、やや薄味かもしれない。
パク・チャヌクと言えばテーマを形作るメタファーを過剰なほど強調し、それを物語の中にパズルの様にはめ込んでゆくテクニックが魅力の映画作家だ。
日本で言えば中島哲也あたりが近いかもしれないが、良くも悪くも外連味タップリの映像演出は、観客をグイグイ作品に引き込む力がある。
その分しばしば自らの技に溺れる傾向があり、突っ走っている間に空中分解気味になってしまう作品も多いのだが、欠点を含めてパク・チャヌク的映画世界を形作っていると思う。
ところが本作の場合、信仰と欲望、生と性、愛と憎しみなど様々な相反するファクターを、ヴァンパイアと化した神父とその物語に比喩させているが、やや詰め込みすぎて全体の印象が拡散してしまった感がある。
代表作である復讐三部作などに比べると、テーマ的にも抽象的な内容なので、より全体に霧がかかったような曖昧な印象が強くなる。
もっとも、この曖昧さ自体が、サンヒョンの心の迷いを象徴しているとも言え、もしかしたら狙った物なのかもしれない。
圧倒的なパワーで、結論まで強引に連れて行ってくれる過去のパク・チャヌク作品とは一線を画する印象だが、ヴァンパイアという意外性のあるモチーフを使う事で、人間の心の本質に深く迫り、深い余韻を残す一本だ。
今回は、キリストの血を象徴する赤ワイン。
先日大地震に見舞われたチリから、サンタ・イネス・ワイナリーの 「カベルネソーヴィニヨン・レゼルヴァ 」をチョイス。
ふわりとした芳醇なアロマと、パワフルなボディが楽しめるコストパフォーマンスの優れた一本。
今回の地震ではチリのワイン産業も大きな被害を受けたと聞く。
安価で美味しい酒の供給源であり、世界中の貧乏な酒飲みの味方、チリの早期復興を祈りたい。
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とは言ってもこれはホラー映画ではない。
禁欲的で信仰に一途な主人公が、自らの内面の生と性の狭間で葛藤する、シュールでコミカルな異色のラブストーリーである。
カソリックの病院に勤める神父のサンヒョン(ソン・ガンホ)は、祈りが患者を救えない事に無力感を募らせている。
ある時彼は、聖職者ばかりが犠牲となるエマニュエル・ウィルスの治験に志願し、発病して一度は死亡を宣告されるものの、奇跡的に息を吹き返し生還する。
ところが彼の肉体は、人間の血を飲まないと病気が再発するというヴァンパイアに変貌していた。
ある時、入院していた幼馴染のガンウ(シン・ハギュン)と再会したサンヒョンは、彼の妻のテジュ(キム・オクビン)と惹かれあう。
やがて、愛欲の海に溺れた彼らは、ガンウを亡き者にしようと謀るのだが・・・・
ヴァンパイアといっても色々なタイプがいるが、本作の場合は見た目は普通の人間のまま。
牙も生えてないし、変身能力も無い。
スパイダーマン並みの身体能力を手に入れる代わりに、太陽光線には弱く、人を襲うときは、ナイフで傷つけてそこから血を吸う。
伝統的なドラキュラ系のヴァンパイアよりは、トニー・スコットの「ハンガー」やキャスリン・ビグローの「ニア・ダーク/月夜の出来事」に描かれたリアル系のヴァンパイアに近い。
これは、あくまでも主人公たちはモンスターになったのではなく、人間の内面がメタファーとして具現化した存在だと感じさせるための設定だろう。
毎度の事だが、主人公のサンヒョンを演じるソン・ガンホがとても良い。
サンヒョンは、肉欲を感じると自らを鞭打つほど信心深い男で、ウィルスの治験に志願したのも、神に祈りを届け、人の役に立ちたいという自己犠牲的な精神から。
まあ考えようによっては、彼は既にこの時点から信仰を通して欲望を感じているとも言える。
果たして神もそう考えたのか、あるいは彼の行為が神を試したと受け取られたのか、結果として信仰からは最も遠いヴァンパイアと化してしまう。
キリスト教ではキリストの血は神聖な物で、ワインをその比喩として扱う事は知られているが、夜の世界の住人となったサンヒョンが、本物の血を飲まないと生きていけなくなってしまうのはなんとも皮肉だ。
それでも人間を殺すこと無く、何とか血を手に入れていたサンヒョンに、最後の一線を越えさせるのは、幼馴染の虐げられた妻テジュ。
血を飲むという背徳的な行為によって、自らの信仰に自信をもてなくなっていたサンヒョンを、テジュは欲望の世界に引きずり込む事で生きながら地獄へ落す。
彼女は幸薄い人生を送り、元々人間不信を抱いている人物で、サンヒョンの様に信仰というストッパーを持たない。
ヴァンパイアという圧倒的な力を持った彼女は、自らを虐げた者たちの世界を破壊し始めるのだが、それは結果的に自らの世界を滅ぼす事にも繋がってゆくのである。
サンヒョンとテジュの関係は、一見すると愛欲の絆の様に思えるが、それだけではない。
二人が実は幼馴染であるという設定がキーだ。
信仰と家庭環境という違いはあれど、彼らは共に欲望を抑圧された人生を送ってきており、再会により心の深い部分でつながりを感じたのだと思う。
そしてヴァンパイア化というスイッチに触れる事で、お互いの内面に抑えられえていた物が共鳴し、増幅されコントロール不能の状況に陥ってしまったのだろう。
テジュを演じるのは若手のキム・オクビン。
映画を観ると理由はわかるが、テジュ役はオファーを出した女優たちに尽く断られたそうで、キム・オクビンに決まったのは最後の最後だったらしい。
だが結果的にこのキャスティングはベストな組み合わせだったのではないだろうか。
内面の葛藤を繊細に演じるソン・ガンホの演技力に、キム・オクビンの厭世的な演技は決して負けていない。
クライマックスのあくまでも生へ執着する悪女的かつコミカルな演技は見事な物で、愚直なソン・ガンホと好コントラストを形作っており、最後を迎える二人の姿は、お互いの気持ちを理解しあう者同士の切ない情感に満ちていた。
脇では、脳出血で眼球以外を動かせなくなり、図らずもヴァンパイアカップルに囚われの身となる、ガンウの母を演じるキム・ヘスクの目の演技が強烈。
特にラストの微笑みは忘れられないインパクトを残すだろう。
パク・チャヌクは、サンヒョンの陥った奇怪な事態を、現実と心象風景的な幻想の入り混じったシュールな描写で紡いでゆく。
ヴァンパイアが昏睡状態の患者の横に寝そべって、点滴から血をチューチュー吸うなんていうシチュエーションは序の口で、サンヒョンとテジュが謀殺したガンウは、亡霊となって二人の愛し合うベッドに割り込み、運動機能を失ったガンウの母は、眼球の動きで来客に二人がヴァンパイアである事を告発しようとする。
これらの一連の描写はテンポ良く、シリアスとコミカルの狭間で絶妙な可笑しさを醸し出す。
リュ・ソンヒの遊び心のある美術も上手く演出に組み込まれ、映像で物語を紡ぐパク・チャヌクのテクニックには、今回も唸らされる。
ただし、本作は彼の映画としては、やや薄味かもしれない。
パク・チャヌクと言えばテーマを形作るメタファーを過剰なほど強調し、それを物語の中にパズルの様にはめ込んでゆくテクニックが魅力の映画作家だ。
日本で言えば中島哲也あたりが近いかもしれないが、良くも悪くも外連味タップリの映像演出は、観客をグイグイ作品に引き込む力がある。
その分しばしば自らの技に溺れる傾向があり、突っ走っている間に空中分解気味になってしまう作品も多いのだが、欠点を含めてパク・チャヌク的映画世界を形作っていると思う。
ところが本作の場合、信仰と欲望、生と性、愛と憎しみなど様々な相反するファクターを、ヴァンパイアと化した神父とその物語に比喩させているが、やや詰め込みすぎて全体の印象が拡散してしまった感がある。
代表作である復讐三部作などに比べると、テーマ的にも抽象的な内容なので、より全体に霧がかかったような曖昧な印象が強くなる。
もっとも、この曖昧さ自体が、サンヒョンの心の迷いを象徴しているとも言え、もしかしたら狙った物なのかもしれない。
圧倒的なパワーで、結論まで強引に連れて行ってくれる過去のパク・チャヌク作品とは一線を画する印象だが、ヴァンパイアという意外性のあるモチーフを使う事で、人間の心の本質に深く迫り、深い余韻を残す一本だ。
今回は、キリストの血を象徴する赤ワイン。
先日大地震に見舞われたチリから、サンタ・イネス・ワイナリーの 「カベルネソーヴィニヨン・レゼルヴァ 」をチョイス。
ふわりとした芳醇なアロマと、パワフルなボディが楽しめるコストパフォーマンスの優れた一本。
今回の地震ではチリのワイン産業も大きな被害を受けたと聞く。
安価で美味しい酒の供給源であり、世界中の貧乏な酒飲みの味方、チリの早期復興を祈りたい。

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