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2010年04月27日 (火) | 編集 |
1981年に公開された「タイタンの戦い」のリメイク、とは言っても元々これはギリシャ神話のペルセウスの物語である。
神と人との間に生まれた半神ペルセウスが、怪物の生贄に捧げられそうになっていたアンドロメダ姫を救い出すと言う、星座にもなった有名な物語を大幅に脚色した物だ。
神話の世界の大冒険は、ビジュアル的な見せ場には事欠かないが、肝心のお話が分裂気味でなんともビミョーな仕上がりとなった。
全能の神ゼウス(リーアム・ニーソン)と人間の間に生まれた子、ペルセウス(サム・ワーシントン)はアルゴス国の漁師の子として育てられる。
あるときアルゴスの民が神に背いた為に、冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)が出現し、ペルセウスの養父たちも巻き添えになり殺されてしまう。
人間を罰しようとする神は、アルゴスの姫アンドロメダ(アレクサ・ダヴァロス)を怪物クラーケンの生贄に捧げる様に要求する。
ペルセウスが神の子である事を知った王は、彼に姫を救ってくれと哀願するのだが・・・・
正直なところ、オリジナルも1981年の時点で既に古色蒼然とした時代遅れのファンタジーだった。
この作品が歴史に名を留めているのは、その出来栄えによるものではなく、プロデューサー兼特撮監督の巨匠レイ・ハリーハウゼンの引退作で、映像技術のターニングポイントとなった作品だからである。
「キング・コング」のウィリス・オブライエンによって、その原型が完成したVFXとしてのモデルアニメーションは、歴史の中で二度の大きな技術革新を経ている。
その最初が、オブライエンの愛弟子ハリーハウゼンによるダイナメーションの技法の確立である。
先に実写パートを撮影し、スクリーンプロセスでアニメーション部分と組み合わせる事をカラーフィルムで可能とした大胆なアイディアは、複雑で高価な光学合成を最小限にする事を可能とした事で、瞬く間にスタンダードとなり、その後30年に渡って非人間型クリーチャーに命を吹き込む、最も有効な手法であった。
そして二度目の技術革新が、オリジナルの「タイタンの戦い」と同じ1981年に公開された「ドラゴンスレイヤー」のために、ILMのフィル・ティペットらによって開発されたゴーモーションである。
コンピューター制御されたモーターに接続されたロッドによって、精密にコントロールされた人形を、スローシャッターのカメラで撮影するこの技法によって、巨大なドラゴンはついにモデルアニメーションの最大の欠点であるフリッカー現象(動きにブレが無いためにカクカクする現象)から開放された。
異次元の滑らかさと、ダイナミックなカメラワークで描かれたドラゴンの飛翔によって、ダイナメーションは一気に過去の遺物となってしまったのである。
ハリーハウゼンは、自作とほぼ同時期に公開されたこの作品を観て、自分の時代が終ったのを悟り、引退を決意したと言われる。
いまやそのゴーモーションも、CGの台頭によって歴史上の技術となってしまったのだから、30年間の映像技術の凄まじい進化を実感できる。
そして、残念ながらリメイク版「タイタンの戦い」の見所もまた映像だけだ。
派手なCGによるお金のかかった大バトル以外、ただでさえそれほど出来が良いとはいえないオリジナルにも及んでいない。
本作の問題の根本は、間違いなく脚本である。
前記したように、これはリメイクと言っても神話を原作とした話なので、基本的な流れは前作とあまり変わらない。
だが、8年前にリメイク企画が立ち上がって以来、元々単純な物語のリライトに動員された脚本家は、クレジットされていない人物も含めて6人、更に監督やらプロデューサーやら、あまりにも多くの人のアイディアがごちゃ混ぜに詰め込まれたおかげで、なんともとりとめのない話になってしまい、ハリウッドシステムの弊害が出た典型的な例となってしまった。
もっとも、オリジナルでは主人公ペルセウスの冒険は、ほとんど神々のゲームの駒の様な扱いで、ワガママでやりたい放題の神、特にゼウスに人間たちが振り回されるような話だった。
これでは21世紀の観客に通用しないのは間違いないから、神が人間の信仰心によって不死の力を得ていて、力をつけて傲慢になり神を敬わなくなった人間との間に対立が生まれているという設定はまあ良い。
ただ、その設定が具体的な描写になっていないのである。
神の暴虐に人々が耐えかねたと説明されているが、その暴虐が具体的に何なのか説明がないので、何故そんなに人々の反感を買ったのか、何故人間が神と戦争するような事態になってしまったのかが全くわからないままだ。
だから半神であるペルセウスが、神と人間の間でアイデンティティの葛藤を抱えるのもいまひとつ説得力がない。
育ての親を冥界の神ハデスに殺されて、復讐心から自分が半神である事を否定する割には、父ゼウスにはあっさりと懐柔されてしまい、結局クライマックスでは贈られた剣で大活躍するのだからキャラクターとしての底は浅いと言わざるを得ない。
またオリジナルの人物関係を変更し、いくつかのキャラクターを統合し、その分新キャラクターを配したりしているのだが、この意図も良くわからないものが多い。
特に、ヒロインの役割をアンドロメダと新登場のイオに別けたのは、明らかに失敗ではないか。
ペルセウスの心がイオに向いているのは、劇中の流れで明らかなのに、クライマックスで助けなければならないのはアンドロメダだから、心情的に盛り上がらない。
神話の英雄は、やはり愛する女を救わなくては。
イオは本来のペルセウス神話とはあまり関係のない女神だが、なぜこのキャラクターが本作のヒロインでなければならないのか理解に苦しむ。
そして、オリジナルとも異なるこの映画のオチは、元の神話が有名だけにどうにも違和感が拭えない。
ここで神話どおりにしてしまうと、続編で動かし難いから・・・なんていう意図を邪推してしまうではないか。
ちなみにギリシャの神がナゼか鎧姿なのは、ルイス・レテリエ監督が「聖闘士星矢」のファンで、漫画へのリスペクトなんだとか(笑
だから車田正美がポスター描いてる訳ね。
でも、それなら最初から「星矢」を映画化した方が良かったんではないか?
オリジナルへのリスペクトがメカフクロウのブーボーが一瞬写るだけなのに、直接関係無い漫画へのリスペクトが出ずっぱりってどうなのよ(笑
まあ元々構成力にも演出力にも大いに疑問符が付くレテリエだけに、ビジュアル以外に光る物を見出せないのも、ある意味予想通りと言うべきか。
映像的には良くできているし、スペクタクルなアクションはそれなりに見応えがあるので退屈はしないが、映画館から出た瞬間に全てを忘れてしまう様な、あまり良い意味ではない“類型的ハリウッド映画”であった。
今回は濃いキャラクターを持つギリシャのスピリット、「ウゾ12」をチョイス。
アニスの香りが強烈な印象を残すギリシャの大衆酒で、日本人には好みが分かれそうだが、その分ギリシャ料理との相性は抜群。
映画が薄味で物足りない分、悠久の歴史を感じる食文化で古代神話のロマンにトリップしよう。
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神と人との間に生まれた半神ペルセウスが、怪物の生贄に捧げられそうになっていたアンドロメダ姫を救い出すと言う、星座にもなった有名な物語を大幅に脚色した物だ。
神話の世界の大冒険は、ビジュアル的な見せ場には事欠かないが、肝心のお話が分裂気味でなんともビミョーな仕上がりとなった。
全能の神ゼウス(リーアム・ニーソン)と人間の間に生まれた子、ペルセウス(サム・ワーシントン)はアルゴス国の漁師の子として育てられる。
あるときアルゴスの民が神に背いた為に、冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)が出現し、ペルセウスの養父たちも巻き添えになり殺されてしまう。
人間を罰しようとする神は、アルゴスの姫アンドロメダ(アレクサ・ダヴァロス)を怪物クラーケンの生贄に捧げる様に要求する。
ペルセウスが神の子である事を知った王は、彼に姫を救ってくれと哀願するのだが・・・・
正直なところ、オリジナルも1981年の時点で既に古色蒼然とした時代遅れのファンタジーだった。
この作品が歴史に名を留めているのは、その出来栄えによるものではなく、プロデューサー兼特撮監督の巨匠レイ・ハリーハウゼンの引退作で、映像技術のターニングポイントとなった作品だからである。
「キング・コング」のウィリス・オブライエンによって、その原型が完成したVFXとしてのモデルアニメーションは、歴史の中で二度の大きな技術革新を経ている。
その最初が、オブライエンの愛弟子ハリーハウゼンによるダイナメーションの技法の確立である。
先に実写パートを撮影し、スクリーンプロセスでアニメーション部分と組み合わせる事をカラーフィルムで可能とした大胆なアイディアは、複雑で高価な光学合成を最小限にする事を可能とした事で、瞬く間にスタンダードとなり、その後30年に渡って非人間型クリーチャーに命を吹き込む、最も有効な手法であった。
そして二度目の技術革新が、オリジナルの「タイタンの戦い」と同じ1981年に公開された「ドラゴンスレイヤー」のために、ILMのフィル・ティペットらによって開発されたゴーモーションである。
コンピューター制御されたモーターに接続されたロッドによって、精密にコントロールされた人形を、スローシャッターのカメラで撮影するこの技法によって、巨大なドラゴンはついにモデルアニメーションの最大の欠点であるフリッカー現象(動きにブレが無いためにカクカクする現象)から開放された。
異次元の滑らかさと、ダイナミックなカメラワークで描かれたドラゴンの飛翔によって、ダイナメーションは一気に過去の遺物となってしまったのである。
ハリーハウゼンは、自作とほぼ同時期に公開されたこの作品を観て、自分の時代が終ったのを悟り、引退を決意したと言われる。
いまやそのゴーモーションも、CGの台頭によって歴史上の技術となってしまったのだから、30年間の映像技術の凄まじい進化を実感できる。
そして、残念ながらリメイク版「タイタンの戦い」の見所もまた映像だけだ。
派手なCGによるお金のかかった大バトル以外、ただでさえそれほど出来が良いとはいえないオリジナルにも及んでいない。
本作の問題の根本は、間違いなく脚本である。
前記したように、これはリメイクと言っても神話を原作とした話なので、基本的な流れは前作とあまり変わらない。
だが、8年前にリメイク企画が立ち上がって以来、元々単純な物語のリライトに動員された脚本家は、クレジットされていない人物も含めて6人、更に監督やらプロデューサーやら、あまりにも多くの人のアイディアがごちゃ混ぜに詰め込まれたおかげで、なんともとりとめのない話になってしまい、ハリウッドシステムの弊害が出た典型的な例となってしまった。
もっとも、オリジナルでは主人公ペルセウスの冒険は、ほとんど神々のゲームの駒の様な扱いで、ワガママでやりたい放題の神、特にゼウスに人間たちが振り回されるような話だった。
これでは21世紀の観客に通用しないのは間違いないから、神が人間の信仰心によって不死の力を得ていて、力をつけて傲慢になり神を敬わなくなった人間との間に対立が生まれているという設定はまあ良い。
ただ、その設定が具体的な描写になっていないのである。
神の暴虐に人々が耐えかねたと説明されているが、その暴虐が具体的に何なのか説明がないので、何故そんなに人々の反感を買ったのか、何故人間が神と戦争するような事態になってしまったのかが全くわからないままだ。
だから半神であるペルセウスが、神と人間の間でアイデンティティの葛藤を抱えるのもいまひとつ説得力がない。
育ての親を冥界の神ハデスに殺されて、復讐心から自分が半神である事を否定する割には、父ゼウスにはあっさりと懐柔されてしまい、結局クライマックスでは贈られた剣で大活躍するのだからキャラクターとしての底は浅いと言わざるを得ない。
またオリジナルの人物関係を変更し、いくつかのキャラクターを統合し、その分新キャラクターを配したりしているのだが、この意図も良くわからないものが多い。
特に、ヒロインの役割をアンドロメダと新登場のイオに別けたのは、明らかに失敗ではないか。
ペルセウスの心がイオに向いているのは、劇中の流れで明らかなのに、クライマックスで助けなければならないのはアンドロメダだから、心情的に盛り上がらない。
神話の英雄は、やはり愛する女を救わなくては。
イオは本来のペルセウス神話とはあまり関係のない女神だが、なぜこのキャラクターが本作のヒロインでなければならないのか理解に苦しむ。
そして、オリジナルとも異なるこの映画のオチは、元の神話が有名だけにどうにも違和感が拭えない。
ここで神話どおりにしてしまうと、続編で動かし難いから・・・なんていう意図を邪推してしまうではないか。
ちなみにギリシャの神がナゼか鎧姿なのは、ルイス・レテリエ監督が「聖闘士星矢」のファンで、漫画へのリスペクトなんだとか(笑
だから車田正美がポスター描いてる訳ね。
でも、それなら最初から「星矢」を映画化した方が良かったんではないか?
オリジナルへのリスペクトがメカフクロウのブーボーが一瞬写るだけなのに、直接関係無い漫画へのリスペクトが出ずっぱりってどうなのよ(笑
まあ元々構成力にも演出力にも大いに疑問符が付くレテリエだけに、ビジュアル以外に光る物を見出せないのも、ある意味予想通りと言うべきか。
映像的には良くできているし、スペクタクルなアクションはそれなりに見応えがあるので退屈はしないが、映画館から出た瞬間に全てを忘れてしまう様な、あまり良い意味ではない“類型的ハリウッド映画”であった。
今回は濃いキャラクターを持つギリシャのスピリット、「ウゾ12」をチョイス。
アニスの香りが強烈な印象を残すギリシャの大衆酒で、日本人には好みが分かれそうだが、その分ギリシャ料理との相性は抜群。
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2010年04月22日 (木) | 編集 |
ティム・バートンとルイス・キャロルという、不思議な世界と異形の生物たちをこよなく愛する二人のファンタジー作家による、世紀を超えたコラボレーション。
「アリス・イン・ワンダーランド」というタイトルながら、これは「不思議の国のアリス」でも続編の「鏡の国のアリス」でもない。
少女時代の大冒険から13年後、大人の世界へ足を踏み入れようとしている19歳のアリスが、再び不思議の国を訪れるという後日談的なオリジナルストーリーとなっており、物語は「鏡の国のアリス」に出てくる、鏡文字で書かれた「ジャバウォックの詩」という本がベースとなっている。
アリス・キングスレー(ミア・ワシコウスカ)は、まもなく20歳の誕生日を迎える。
冴えない貴族の青年との気乗りしない結婚を迫られたアリスは、白ウサギを追ってウサギ穴に落ちてしまう。
そこは彼女が子供の頃から繰り返し見る夢に出てくる、奇妙奇天烈な世界。
アリスは双子のトゥィードルダムとトゥィードルディー、哲学的な芋虫のアブソレム、ドードー鳥などと出会う。
今、この世界は赤の女王(ヘレナ・ボナム=カーター)による圧制が敷かれ、多くの住民は恐怖によって支配されている。
アリスの帰還を待ちわびていたというマッドハッター(ジョニー・デップ)は、彼女が嘗てこの世界を訪れた事があり、再びやって来て世界を救う事が予言されていると言うのだが・・・
オリジナルストーリーとは言っても、物語の構成要素の多くはキャロルの原作小説から移植されており、アリス以下の登場人物もほぼ原作と共通、世界観もそれほど離れては見えない。
更にキャラクターデザインが、有名なディズニーのアニメ版などよりは原作の挿絵の雰囲気に近い物になっているので、とりあえず原作ファンが観ても「アリス」の世界観を受け継ぐ一編として、それほど違和感無く受け取れるだろう。
また原作のストーリーをある程度内包する親切な作りとなっており、原作やアニメ版の物語を知らない人でも、何とかついてゆく事ができる。
映画の舞台となるのは“ワンダーランド”ならぬ“アンダーランド”。
昔ここを訪れた幼い頃のアリスは、マジカルな地底世界を“ワンダーランド”と思い込んでいたという設定だが、これはルイス・キャロルがアリスのモデルとなったアリス・リデルに送った最初の直筆本のタイトルが、「地下の国のアリス(Alice's Adventures Under Ground)」であったことに符合していると思われる。
原作の挿絵は色が無いが、バートンらしい毒々しい色彩と奇抜な造形で彩られた映画版の世界観は、なかなかに魅力的だ。
19歳で再び不思議の国に足を踏み入れたアリスだが、当然ながら無垢なる少女の頃とはその冒険の意味合いも異なる。
現実世界で、周囲に流されるように生きる事に疑問を感じている彼女の前に、今回用意されるのは幾つもの「選択」だ。
最初この世界を夢だと思い込んでいるアリスは、伝説の救世主アリスが自分自身だという事すら信じる事が出来ない。
映画の中で繰り返される「本当のアリス」「偽者のアリス」という問いかけは、そもそもアリスという人格が彼女の中で揺らいでいるからなのだ。
子供の頃のアリスは、不思議の国が夢であろうが現実であろうが、自分がアリスである事に疑問など持っていなかったのだろう。
ところが、地上の世界でいつの間にか自分の意思で生きることを躊躇する様になってしまった彼女は、不思議の国で否応なく選択を迫られ、この世界を現実と受け入れ、自分で進む道を決めてゆく事でアリスとしての自分を取り戻してゆく。
これは、夢だと思い込んでいたアンダーランドで、逆説的に本当の自分として目覚めるアリスの成長を描いた作品なのである。
もちろん、この物語の方向性には異論もあるだろう。
キャロルの原作は英国らしいナンセンスさ、翻訳者泣かせといわれる言葉遊びが溢れ、意味が有りそうで無く、無さそうで深読みすれば見えるという難解でシュールな味わいが魅力だった。
子供たちは不思議な世界観やキャラクターたちを楽しみ、大人たちはこの世界に散りばめられた知的な遊び心を楽しむという、読者の年齢によって異なる受け取り方ができるからこそ、百年以上も世代を超えて親しまれているのだと思う。
その意味では、世界観やキャラクターは共通するものの、原作に比べれば圧倒的にわかりやすい“ハリウッド映画”であるこの作品はやや趣が異なる。
「アリス・イン・ワンダーランド」は、19世紀に書かれたファンタジーの金字塔を、21世紀の技術と新解釈で蘇らせたティム・バートンらしい良く出来た娯楽作と言えるが、特に原作のディープなファンにとっては物足りなさを感じるかもしれない。
個人的にも、もうちょっとマッドにぶっ飛んでもらっても良かった様な気もするが、ディズニーブランドの作品としてはこれでも冒険しているほうかも・・・。
不思議の国が不思議の国たる登場人物たちは、冒険しながらもずーっと悩んでいるアリスよりも、やはり突き抜けたキャラクターであるマッドハッターや赤の女王のインパクトが強い。
ジョニー・デップ演じるマッドハッターは原作に比べても大きな役になっており、比較的原作のイメージに近い登場人物たちの中にあって、かなり映画オリジナルの色彩が強くなっているが、キャラ立ちという点では成功していると言って良いだろう。
無論多くのデップファンにとっても、このぐらいの出番が無いとデップ主演作とは名乗って欲しくないだろうし。
また何時ものことだが、敵役の赤の女王を演じるヘレナ・ボナム=カーターは色んな意味で強烈。
あのデザイン・・・バートン、自分の嫁(結婚してないけど)だと思って好き放題にいじり倒しているな(笑
まあ、ある意味作り手の異形愛を感じる、お茶目なキャラクターでもあるのだけど。
うちのネコも、赤の女王のブタと同じようにドMで踏まれるのが大好きなので、寒い冬にはいつも私に踏み踏みされながら足を暖めている。
痛む足にはブタよりも太ったネコを(笑
一方、善玉キャラである白の女王も、アリスを利用してしれっと姉を追い落とすと結構無慈悲な捌きを下したりする。
アン・ハサウェイが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローみたいに両手でヘンなポーズを作り、いつも張りついた様な笑顔を絶やさない白の女王は、何気にかなり気持ち悪いキャラクターで、決して単なる良い人には見えないのも、もちろん狙いだろう。
他にも、原作そっくりなチェシャ猫や、禅問答の様な謎賭けをする芋虫のアブソレム、アリスの最後の敵となるジャバウォック(演じるのはクリストファー・リー!)など、不思議の国の住人たちは総じて魅力的だ。
ちなみに、過去に様々な手法で何度も映像化されてきた「アリス」だが、実写作品で私が一番気に入っているのが、ギャヴィン・ミラー監督が1985年に発表した「ドリームチャイルド」だ。
これは小説の直接の映像化ではなく、「不思議の国のアリス」誕生秘話とでも言うべき物語。
ルイス・キャロルがアリス・リデルに、小説の原型となる世にも奇妙な物語を語って聞かせた、1862年7月4日の伝説的な「黄金の午後」に纏わるファンタスティックで詩情溢れる佳作である。
名優イアン・ホルムがルイス・キャロル、本名チャールズ・ドジソン先生を味わい深く演じ、ジム・ヘンソンの手による不思議の国の住人たちが物語を彩る。
残念ながらDVDは絶版だが、復刻が待たれる作品である。
アリスとマッドハッターといえばお茶会という事で、今回は紅茶ベースのリキュール、ティフィンを使った「ティフィン レモンソーダ」をチョイス。
ティフィン30mlとソーダ90mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ軽く混ぜて、レモンを絞る。
感覚的には殆どスパークリングのアイスティーという感じで、スッキリ爽やかな気分にさせてくれるお酒だ。
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「アリス・イン・ワンダーランド」というタイトルながら、これは「不思議の国のアリス」でも続編の「鏡の国のアリス」でもない。
少女時代の大冒険から13年後、大人の世界へ足を踏み入れようとしている19歳のアリスが、再び不思議の国を訪れるという後日談的なオリジナルストーリーとなっており、物語は「鏡の国のアリス」に出てくる、鏡文字で書かれた「ジャバウォックの詩」という本がベースとなっている。
アリス・キングスレー(ミア・ワシコウスカ)は、まもなく20歳の誕生日を迎える。
冴えない貴族の青年との気乗りしない結婚を迫られたアリスは、白ウサギを追ってウサギ穴に落ちてしまう。
そこは彼女が子供の頃から繰り返し見る夢に出てくる、奇妙奇天烈な世界。
アリスは双子のトゥィードルダムとトゥィードルディー、哲学的な芋虫のアブソレム、ドードー鳥などと出会う。
今、この世界は赤の女王(ヘレナ・ボナム=カーター)による圧制が敷かれ、多くの住民は恐怖によって支配されている。
アリスの帰還を待ちわびていたというマッドハッター(ジョニー・デップ)は、彼女が嘗てこの世界を訪れた事があり、再びやって来て世界を救う事が予言されていると言うのだが・・・
オリジナルストーリーとは言っても、物語の構成要素の多くはキャロルの原作小説から移植されており、アリス以下の登場人物もほぼ原作と共通、世界観もそれほど離れては見えない。
更にキャラクターデザインが、有名なディズニーのアニメ版などよりは原作の挿絵の雰囲気に近い物になっているので、とりあえず原作ファンが観ても「アリス」の世界観を受け継ぐ一編として、それほど違和感無く受け取れるだろう。
また原作のストーリーをある程度内包する親切な作りとなっており、原作やアニメ版の物語を知らない人でも、何とかついてゆく事ができる。
映画の舞台となるのは“ワンダーランド”ならぬ“アンダーランド”。
昔ここを訪れた幼い頃のアリスは、マジカルな地底世界を“ワンダーランド”と思い込んでいたという設定だが、これはルイス・キャロルがアリスのモデルとなったアリス・リデルに送った最初の直筆本のタイトルが、「地下の国のアリス(Alice's Adventures Under Ground)」であったことに符合していると思われる。
原作の挿絵は色が無いが、バートンらしい毒々しい色彩と奇抜な造形で彩られた映画版の世界観は、なかなかに魅力的だ。
19歳で再び不思議の国に足を踏み入れたアリスだが、当然ながら無垢なる少女の頃とはその冒険の意味合いも異なる。
現実世界で、周囲に流されるように生きる事に疑問を感じている彼女の前に、今回用意されるのは幾つもの「選択」だ。
最初この世界を夢だと思い込んでいるアリスは、伝説の救世主アリスが自分自身だという事すら信じる事が出来ない。
映画の中で繰り返される「本当のアリス」「偽者のアリス」という問いかけは、そもそもアリスという人格が彼女の中で揺らいでいるからなのだ。
子供の頃のアリスは、不思議の国が夢であろうが現実であろうが、自分がアリスである事に疑問など持っていなかったのだろう。
ところが、地上の世界でいつの間にか自分の意思で生きることを躊躇する様になってしまった彼女は、不思議の国で否応なく選択を迫られ、この世界を現実と受け入れ、自分で進む道を決めてゆく事でアリスとしての自分を取り戻してゆく。
これは、夢だと思い込んでいたアンダーランドで、逆説的に本当の自分として目覚めるアリスの成長を描いた作品なのである。
もちろん、この物語の方向性には異論もあるだろう。
キャロルの原作は英国らしいナンセンスさ、翻訳者泣かせといわれる言葉遊びが溢れ、意味が有りそうで無く、無さそうで深読みすれば見えるという難解でシュールな味わいが魅力だった。
子供たちは不思議な世界観やキャラクターたちを楽しみ、大人たちはこの世界に散りばめられた知的な遊び心を楽しむという、読者の年齢によって異なる受け取り方ができるからこそ、百年以上も世代を超えて親しまれているのだと思う。
その意味では、世界観やキャラクターは共通するものの、原作に比べれば圧倒的にわかりやすい“ハリウッド映画”であるこの作品はやや趣が異なる。
「アリス・イン・ワンダーランド」は、19世紀に書かれたファンタジーの金字塔を、21世紀の技術と新解釈で蘇らせたティム・バートンらしい良く出来た娯楽作と言えるが、特に原作のディープなファンにとっては物足りなさを感じるかもしれない。
個人的にも、もうちょっとマッドにぶっ飛んでもらっても良かった様な気もするが、ディズニーブランドの作品としてはこれでも冒険しているほうかも・・・。
不思議の国が不思議の国たる登場人物たちは、冒険しながらもずーっと悩んでいるアリスよりも、やはり突き抜けたキャラクターであるマッドハッターや赤の女王のインパクトが強い。
ジョニー・デップ演じるマッドハッターは原作に比べても大きな役になっており、比較的原作のイメージに近い登場人物たちの中にあって、かなり映画オリジナルの色彩が強くなっているが、キャラ立ちという点では成功していると言って良いだろう。
無論多くのデップファンにとっても、このぐらいの出番が無いとデップ主演作とは名乗って欲しくないだろうし。
また何時ものことだが、敵役の赤の女王を演じるヘレナ・ボナム=カーターは色んな意味で強烈。
あのデザイン・・・バートン、自分の嫁(結婚してないけど)だと思って好き放題にいじり倒しているな(笑
まあ、ある意味作り手の異形愛を感じる、お茶目なキャラクターでもあるのだけど。
うちのネコも、赤の女王のブタと同じようにドMで踏まれるのが大好きなので、寒い冬にはいつも私に踏み踏みされながら足を暖めている。
痛む足にはブタよりも太ったネコを(笑
一方、善玉キャラである白の女王も、アリスを利用してしれっと姉を追い落とすと結構無慈悲な捌きを下したりする。
アン・ハサウェイが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローみたいに両手でヘンなポーズを作り、いつも張りついた様な笑顔を絶やさない白の女王は、何気にかなり気持ち悪いキャラクターで、決して単なる良い人には見えないのも、もちろん狙いだろう。
他にも、原作そっくりなチェシャ猫や、禅問答の様な謎賭けをする芋虫のアブソレム、アリスの最後の敵となるジャバウォック(演じるのはクリストファー・リー!)など、不思議の国の住人たちは総じて魅力的だ。
ちなみに、過去に様々な手法で何度も映像化されてきた「アリス」だが、実写作品で私が一番気に入っているのが、ギャヴィン・ミラー監督が1985年に発表した「ドリームチャイルド」だ。
これは小説の直接の映像化ではなく、「不思議の国のアリス」誕生秘話とでも言うべき物語。
ルイス・キャロルがアリス・リデルに、小説の原型となる世にも奇妙な物語を語って聞かせた、1862年7月4日の伝説的な「黄金の午後」に纏わるファンタスティックで詩情溢れる佳作である。
名優イアン・ホルムがルイス・キャロル、本名チャールズ・ドジソン先生を味わい深く演じ、ジム・ヘンソンの手による不思議の国の住人たちが物語を彩る。
残念ながらDVDは絶版だが、復刻が待たれる作品である。
アリスとマッドハッターといえばお茶会という事で、今回は紅茶ベースのリキュール、ティフィンを使った「ティフィン レモンソーダ」をチョイス。
ティフィン30mlとソーダ90mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ軽く混ぜて、レモンを絞る。
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2010年04月16日 (金) | 編集 |
「月に囚われた男」は、冷たく無機質な映像が印象的なSFサスペンスである。
何でも、ダンカン・ジョーンズ監督は、あのデヴィッド・ボウイの息子なのだという。
そういえばボウイの主演作にも「地球に落ちてきた男」という、どことなく似た邦題のカルトなSF映画があったっけ。
本作は、プロダクションバジェット僅か500万ドルという、最近のSF映画の中では相当に控えめな小品ではあるが、物語のアイディアはなかなか秀逸で、色々な意味で今っぽくない独特のムードを持つ作品に仕上がった。
※完全ネタバレ注意。
月面でヘリウム3を採取する、ルナ産業の月面基地サラン。
ここにただ一人勤務するサム・ベル(サム・ロックウェル)は、あと二週間で三年間の契約期限が満了し、地球に残してきた妻子との再会を楽しみにしている。
だが、ある日月面車で事故を起こして気を失ったベルは、医務室のベッドの上で目を覚ます。
基地を管理するコンピューターのガーティ(ケビン・スペイシー)は、体調が回復するまで基地の外に出るなと警告する。
何か奇妙だと感じたベルは、ガーティを出し抜いて基地を出ると、採掘現場へと赴く。
ベルはそこで、事故を起こして放置された月面車と、その操縦席で意識を失っている、もう一人の自分を発見する・・・
もちろん21世紀に作られた作品なのだが、キューブリックやリドリー・スコットの影響が強く感じられ、20世紀調SF映画のカラーが色濃く出た作品だ。
舞台はほぼ月面基地内とその周囲に限定され、登場人物は二人のサム・ベル、そしてコンピューターのガーティだけ。
ミステリアスなシチュエーションと、白で統一された美術、そして謎を知るコンピューターの存在からは、「2001年宇宙の旅」を連想させられる。
ダンカン・ジョーンズは元々大学で哲学を専攻していたそうだが、なるほどこれはSFという設定を使い、自己存在の意味に迫る哲学的な心理劇。
人間、あまりにもビックリすると、はたして次にどう行動していいのかわからなくなるものだが、自分以外誰も存在しないはずの月面で、いるはずの無いもう一人の自分に出会うという超シュールなシチュエーションに直面したサムが、一見全然動じない様に見えるのは、演じるサム・ロックウェルの好演もあり、なかなかに説得力があった。
あまりにも奇妙すぎる状況を、二人のサムはとりあえず受け入れるしかない。
だが、一体自分が見ているのは何なのか、果たしてこれは現実なのか幻覚なのか、そもそも自分は何者なのかという不安に苛まれる事になる。
そして彼らの心理は、同じ様に情報を欠いたまま見守るしかない観客の心理とも、そのままシンクロするのである。
どちらかと言うと渋いバイブレイヤーという印象の強いロックウェルは、同一人物でありながら異なる状況を抱える二人という、極めて変則的な難役を見事に演じ分け、その実力を十二分に発揮して非凡な印象を残す。
まあ二人の自分という謎解きの部分は、サム自身が早々にクローンという解釈に落ち着いてしまう事もあり、作品における比重はそれほど大きくない。
これはあくまでも、自己存在の矛盾に直面した主人公の心のあり様を負った心理劇なのだ。
本来のサム、つまり間もなく地球に帰るはずだった方は、原因不明の体調不良に襲われている。
彼は、自分の運命を知るべく、ガーティの管理する基地の記録にアクセスし、過去のクローンたちがどうなったのかを知ってしまう。
3年の契約期限が切れるとき、彼らは例外なく同じ様に衰弱し、死を迎える病人の様な有様にある。
そう、彼らクローンには「ブレードランナー」のレプリカントと同じく、あらかじめ肉体の寿命が設定されているのである。
そして3年が経った時、地球に帰る船と思い込んでいるカプセルの中で、彼らの肉体は焼却処分され、次のクローンがまた目覚めるという寸法だ。
3年と言う時間と月面という空間に閉じ込められた人生を、エンドレスにループするだけのサムという存在。
自らにはもう時間が残されていない事を悟ったサムは、後から目覚めた方のまだまだ元気なサムに、自己存在の未来を託す選択をする。
本作で面白いのは、従来のSF作品ではだいたい敵か妨害者になるコンピューターのガーティが、積極的にサムの支援をする事。
どうやら、何人ものサムと時を共有するうちに、ガーティの中にはある種の自我が目覚めている様なのだ。
物語中ではそれほど追求されないので、アクセントに留まっているが、人間性を否定されたクローンと、人間性を獲得しつつある機械というのはなかなかにユニークなコンビであった。
ただ、アイディアの面白さと、独特の演出センスは強く印象に残るものの、私は本作を観賞中にどうしても大きな疑問が頭から離れなかった。
ルナ産業は、一体全体何だって、こんな面倒な仕掛けを作ったのか?
月面でのヘリウム3の採掘という設定にはリアリティがある。
ヘリウム3は、夢のクリーンエネルギーとして研究が進む核融合炉の燃料として利用できると考えられ、月面に豊富に存在してる事がわかっている。
今世紀に入った頃から、各国の月探査が活況を呈する様になったのは、将来的なヘリウム3確保へ向けた思惑があるのだ。
しかしながら、映画を観る限り月面基地に人間がいる必然性は限りなく低いのである。
サムのしている仕事と言えば、採掘の進行報告と、採掘マシーンがヘリウム3で一杯になったら、回収して地球に向けて送り出す事くらい。
この程度ならオートメーション化した方がよっぽど効率が良くないだろうか?
クローンとは言え、有人基地を維持するには水も食料も、眠っている何体ものスペアクローンの維持管理も必要になり、更には地球との通信を妨害するための巨大な電波塔まで建設していた。
かと言って月まで来るのが大変という訳でもない様で、この時代の人類は遥木星まで到達し、月面基地の機械の修理も、サムの仕事ではなくて外部から人間が来るという設定だった。
会社が、一体何のために危ない橋を渡り、巨額の費用を費やしてまで、クローンを常駐させているのか、納得のいく説明がこの作品には無い。
唯一のメリットは、(どう考えてもコストとつりあいそうも無いが)給料を払わなくても良い事くらいしか見えないのである。
機械が韓国語を喋っていたり、サラン(愛)という韓国語の基地名からしても、ルナ産業はどうやら韓国系の企業らしい。
この手のSFでは過去には日本企業が同じような役回りに設定される例が多かったし、東洋人には利益至上主義のイメージがあるのかもしれないが、これじゃ大赤字ではないのだろうか。
そんな事は、本作が描こうとしてる事の本質と関係ないという見方もあるだろう。
だが、SFやミステリは、ある意味設定とディテールが命のカテゴリで、いかに語り口が面白かろうと、ベースとなる部分が破綻していると説得力を失い、私の様に意地悪な観客は破綻に対する解があるのかがずっと気になってしまう。
本作はディテールは相当凝って作りこまれていたが、肝心の基本的な世界観に大きな穴があるのはいただけない。
ダンカン・ジョーンズには一箇所で良いから月面に人間が必要な訳、それがクローンである必然性を描写として盛り込んで欲しかった。
本作の持つ、20世紀哲学SF的な独特のムードはなかなかに楽しめるし、物語のアイディア自体も面白い。
だからこそ、やや詰めが甘いと思わざるを得ないのが、余計に勿体無いのである。
今回は、神秘的な月をモチーフとしたカクテル、「ルナ・パーク」をチョイス。
ウオッカ 20 ml 、クレーム・ド・バイオレット 20 ml、 ヨーグルト・ドリンク 10 ml、 アセロラ・ジュース 10 mlをシェイクする。
グラスに注ぐと、それはまるで白く輝く満月の様。
三日月型にカットしたフルーツを添える店が多いが、個人的にはこのままの方が月っぽいと思う。
甘酸っぱい複雑な味わいで、カルトSFの食後酒としてはちょうど良い。
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何でも、ダンカン・ジョーンズ監督は、あのデヴィッド・ボウイの息子なのだという。
そういえばボウイの主演作にも「地球に落ちてきた男」という、どことなく似た邦題のカルトなSF映画があったっけ。
本作は、プロダクションバジェット僅か500万ドルという、最近のSF映画の中では相当に控えめな小品ではあるが、物語のアイディアはなかなか秀逸で、色々な意味で今っぽくない独特のムードを持つ作品に仕上がった。
※完全ネタバレ注意。
月面でヘリウム3を採取する、ルナ産業の月面基地サラン。
ここにただ一人勤務するサム・ベル(サム・ロックウェル)は、あと二週間で三年間の契約期限が満了し、地球に残してきた妻子との再会を楽しみにしている。
だが、ある日月面車で事故を起こして気を失ったベルは、医務室のベッドの上で目を覚ます。
基地を管理するコンピューターのガーティ(ケビン・スペイシー)は、体調が回復するまで基地の外に出るなと警告する。
何か奇妙だと感じたベルは、ガーティを出し抜いて基地を出ると、採掘現場へと赴く。
ベルはそこで、事故を起こして放置された月面車と、その操縦席で意識を失っている、もう一人の自分を発見する・・・
もちろん21世紀に作られた作品なのだが、キューブリックやリドリー・スコットの影響が強く感じられ、20世紀調SF映画のカラーが色濃く出た作品だ。
舞台はほぼ月面基地内とその周囲に限定され、登場人物は二人のサム・ベル、そしてコンピューターのガーティだけ。
ミステリアスなシチュエーションと、白で統一された美術、そして謎を知るコンピューターの存在からは、「2001年宇宙の旅」を連想させられる。
ダンカン・ジョーンズは元々大学で哲学を専攻していたそうだが、なるほどこれはSFという設定を使い、自己存在の意味に迫る哲学的な心理劇。
人間、あまりにもビックリすると、はたして次にどう行動していいのかわからなくなるものだが、自分以外誰も存在しないはずの月面で、いるはずの無いもう一人の自分に出会うという超シュールなシチュエーションに直面したサムが、一見全然動じない様に見えるのは、演じるサム・ロックウェルの好演もあり、なかなかに説得力があった。
あまりにも奇妙すぎる状況を、二人のサムはとりあえず受け入れるしかない。
だが、一体自分が見ているのは何なのか、果たしてこれは現実なのか幻覚なのか、そもそも自分は何者なのかという不安に苛まれる事になる。
そして彼らの心理は、同じ様に情報を欠いたまま見守るしかない観客の心理とも、そのままシンクロするのである。
どちらかと言うと渋いバイブレイヤーという印象の強いロックウェルは、同一人物でありながら異なる状況を抱える二人という、極めて変則的な難役を見事に演じ分け、その実力を十二分に発揮して非凡な印象を残す。
まあ二人の自分という謎解きの部分は、サム自身が早々にクローンという解釈に落ち着いてしまう事もあり、作品における比重はそれほど大きくない。
これはあくまでも、自己存在の矛盾に直面した主人公の心のあり様を負った心理劇なのだ。
本来のサム、つまり間もなく地球に帰るはずだった方は、原因不明の体調不良に襲われている。
彼は、自分の運命を知るべく、ガーティの管理する基地の記録にアクセスし、過去のクローンたちがどうなったのかを知ってしまう。
3年の契約期限が切れるとき、彼らは例外なく同じ様に衰弱し、死を迎える病人の様な有様にある。
そう、彼らクローンには「ブレードランナー」のレプリカントと同じく、あらかじめ肉体の寿命が設定されているのである。
そして3年が経った時、地球に帰る船と思い込んでいるカプセルの中で、彼らの肉体は焼却処分され、次のクローンがまた目覚めるという寸法だ。
3年と言う時間と月面という空間に閉じ込められた人生を、エンドレスにループするだけのサムという存在。
自らにはもう時間が残されていない事を悟ったサムは、後から目覚めた方のまだまだ元気なサムに、自己存在の未来を託す選択をする。
本作で面白いのは、従来のSF作品ではだいたい敵か妨害者になるコンピューターのガーティが、積極的にサムの支援をする事。
どうやら、何人ものサムと時を共有するうちに、ガーティの中にはある種の自我が目覚めている様なのだ。
物語中ではそれほど追求されないので、アクセントに留まっているが、人間性を否定されたクローンと、人間性を獲得しつつある機械というのはなかなかにユニークなコンビであった。
ただ、アイディアの面白さと、独特の演出センスは強く印象に残るものの、私は本作を観賞中にどうしても大きな疑問が頭から離れなかった。
ルナ産業は、一体全体何だって、こんな面倒な仕掛けを作ったのか?
月面でのヘリウム3の採掘という設定にはリアリティがある。
ヘリウム3は、夢のクリーンエネルギーとして研究が進む核融合炉の燃料として利用できると考えられ、月面に豊富に存在してる事がわかっている。
今世紀に入った頃から、各国の月探査が活況を呈する様になったのは、将来的なヘリウム3確保へ向けた思惑があるのだ。
しかしながら、映画を観る限り月面基地に人間がいる必然性は限りなく低いのである。
サムのしている仕事と言えば、採掘の進行報告と、採掘マシーンがヘリウム3で一杯になったら、回収して地球に向けて送り出す事くらい。
この程度ならオートメーション化した方がよっぽど効率が良くないだろうか?
クローンとは言え、有人基地を維持するには水も食料も、眠っている何体ものスペアクローンの維持管理も必要になり、更には地球との通信を妨害するための巨大な電波塔まで建設していた。
かと言って月まで来るのが大変という訳でもない様で、この時代の人類は遥木星まで到達し、月面基地の機械の修理も、サムの仕事ではなくて外部から人間が来るという設定だった。
会社が、一体何のために危ない橋を渡り、巨額の費用を費やしてまで、クローンを常駐させているのか、納得のいく説明がこの作品には無い。
唯一のメリットは、(どう考えてもコストとつりあいそうも無いが)給料を払わなくても良い事くらいしか見えないのである。
機械が韓国語を喋っていたり、サラン(愛)という韓国語の基地名からしても、ルナ産業はどうやら韓国系の企業らしい。
この手のSFでは過去には日本企業が同じような役回りに設定される例が多かったし、東洋人には利益至上主義のイメージがあるのかもしれないが、これじゃ大赤字ではないのだろうか。
そんな事は、本作が描こうとしてる事の本質と関係ないという見方もあるだろう。
だが、SFやミステリは、ある意味設定とディテールが命のカテゴリで、いかに語り口が面白かろうと、ベースとなる部分が破綻していると説得力を失い、私の様に意地悪な観客は破綻に対する解があるのかがずっと気になってしまう。
本作はディテールは相当凝って作りこまれていたが、肝心の基本的な世界観に大きな穴があるのはいただけない。
ダンカン・ジョーンズには一箇所で良いから月面に人間が必要な訳、それがクローンである必然性を描写として盛り込んで欲しかった。
本作の持つ、20世紀哲学SF的な独特のムードはなかなかに楽しめるし、物語のアイディア自体も面白い。
だからこそ、やや詰めが甘いと思わざるを得ないのが、余計に勿体無いのである。
今回は、神秘的な月をモチーフとしたカクテル、「ルナ・パーク」をチョイス。
ウオッカ 20 ml 、クレーム・ド・バイオレット 20 ml、 ヨーグルト・ドリンク 10 ml、 アセロラ・ジュース 10 mlをシェイクする。
グラスに注ぐと、それはまるで白く輝く満月の様。
三日月型にカットしたフルーツを添える店が多いが、個人的にはこのままの方が月っぽいと思う。
甘酸っぱい複雑な味わいで、カルトSFの食後酒としてはちょうど良い。

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2010年04月16日 (金) | 編集 |
マーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオの四作目のコンビ作は、断崖絶壁に囲まれた孤島、「シャッターアイランド」に建つ精神病院を舞台とした謎解きミステリ。
原作はデニス・ルヘインのベストセラーだそうだが、正直なところミステリとしてはかなりイージーなので、見所は現実と幻想が入り混じったシュールな心象風景の映像と、あちこちに散りばめられた謎解きのヒントを幾つ見つけられるかというゲームライクな興味だろう。
※完全ネタバレ注意。
1954年。
FBI捜査官のテディ(レオナルド・ディカプリオ)は、新しい相棒のチャック(マーク・ラファロ)と共に、ボストンの沖合いに浮かぶ孤島、シャッターアイランドへ降り立つ。
島にあるアッシュクリフ病院は精神を患った犯罪者だけを収容する特殊な病院。
この絶対に逃げ出せない病院から、レイチェルという女性患者が忽然と消えてしまったと言うのだ。
彼女の姿はどこにも見えず、島から出る手段もない。
唯一発見された手がかりは、意味不明の数字が書かれた謎賭けの様なメモだけで、院長のコーリー博士(ベン・キングスレー)は、あまり捜査に協力的ではない。
はたしてレイチェルはどこへ消えたのか、院長ら病院関係者は何を隠しているのか・・・・
ぶっちゃけ、ミステリのオチは観る前から読めてしまった。
孤島の精神病院、消えた女性患者、怪しげな院長に、トラウマを抱えてパラノイア気味のFBI捜査官と、もの凄く親切に揃ったキーワードが、この手のミステリが好きな人には始めから結末を示唆するのだ。
でも、まさかスコセッシ御大ともあろう人が、そのまんまはないよね・・・と思っていたら、謎解きの部分に関しては、やっぱりそのまんまだった(笑
要するにこれは、1920年に作られ後の映画やミステリ小説に多大なる影響を与えた、ロベルト・ヴィーネ監督の名作「カリガリ博士」の焼き直し。
事件を捜査している主人公は実は狂人で、全ては彼の妄想であったという、あのパターンの元祖である。
ディカプリオ演じるテディとベン・キングスレー演じるコーリー博士の関係は、「カリガリ博士」における主人公のフランシスとカリガリ博士の関係をコピーしたものだ。
もっとも、オチが読めるイコールつまらないという訳ではない。
結末へ観客を導きつつ、途中でミスリードさせるための工夫は、物語上にも映像演出としても、非常に細かく丁寧に配置されており、それらは一定の成功を収めていると言って良い。
特にテディが繰り返し見る悪夢の描写など、スコセッシというよりは、デビッド・リンチやデビッド・フィンチャーを思わせ、なかなかに良くできているし、終盤テディが夢と現実の区別がつかなくなるあたりは、ちょっと鈴木清順の「陽炎座」も思い出した。
途中で一瞬、う~ん自分の予想は間違っていたかも?と思わせる部分もあったから、ミステリのロジックとしてはビギナー向けながら、さすがに語り口は一級品というところだろう。
だが、本作を単なるプログラムピクチャから一歩抜け出た物にしているのは、事件の謎が全て解けた後の、この映画の本当のラストシーンだろう。
ここでのテディの心理をどの様に解釈するかによって、本作の評価はB級ミステリにもなりえるし、A級の心理ドラマにもなりえるのである。
テディは自分が妻を殺した殺人犯である事、そしてその事実を認めたくない心が、島に捜査にやって来るFBI捜査官という虚構の現実を作り出していた事を一度は認める。
しかし物語の最後で、テディは再び妄想の世界の住人になり、治療を諦めたコーリー博士たちは、彼にロボトミー手術を施す事を決めるのだ。
ここでテディが呟く「モンスターとして生きるのか、善人として死ぬのか」という問いかけこそが、テーマ的にはこの映画の全てだと言っても良いだろう。
思うにスコセッシとしては、この一言を言わせたいがために、本作を撮ったのではないか。
本作の138分と言う比較的長い上映時間は、全てラスト3分を生かすために費やされているのだ。
もしも、ラストのテディが本当に再び正気を失っていたと解釈するなら、本作はイージーなB級ミステリ映画に過ぎないが、テディは本当は正気を保っていて、あえてロボトミー手術という精神的自殺を選択したのだとしたら、これはなかなか考えさせられる。
個人的には、これはテディにとっての贖罪なのではないかと思う。
彼にとって、正気を保ってゆくという事は、愛する者を殺した「モンスター」として生き続ける事を意味する。
テディは、本来の自我である「モンスター」を妻の待つ地獄へと送り、ロボトミー手術を受けてもはや自分ではない「善人」として生きて死ぬ事を選択したのではないだろうか。
もちろんこのラスト、そして彼の最後のセリフの意図を巡っては様々な解釈が可能だ。
本作は、売り物のロジカルな謎解きの部分は、拍子抜けするほどわかりやすい。
だが、人間の心の複雑な葛藤という、この世界で一番ミステリアスな部分を最後の最後に突きつけてくるとは、さすがに読めなかった。
観客の戸惑う表情を思い浮かべて、ニンマリほくそ笑むスコセッシの顔がスクリーンの裏に透けて見えるかの様だ。
意地悪な作家による意地悪な映画である。
今回は、舞台に近いボストンの地ビール「サミュエル・アダムス・ボストンラガー」をチョイス。
第二代アメリカ大統領、ジョン・アダムスの兄である郷土の政治家に由来する銘柄で、所謂アメリカンビールとは一線を画すビールらしいコクと風味が魅力。
今ではボストン以外のビール党にも広く飲まれるようになった、アメリカで一番有名な地ビールだ。
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原作はデニス・ルヘインのベストセラーだそうだが、正直なところミステリとしてはかなりイージーなので、見所は現実と幻想が入り混じったシュールな心象風景の映像と、あちこちに散りばめられた謎解きのヒントを幾つ見つけられるかというゲームライクな興味だろう。
※完全ネタバレ注意。
1954年。
FBI捜査官のテディ(レオナルド・ディカプリオ)は、新しい相棒のチャック(マーク・ラファロ)と共に、ボストンの沖合いに浮かぶ孤島、シャッターアイランドへ降り立つ。
島にあるアッシュクリフ病院は精神を患った犯罪者だけを収容する特殊な病院。
この絶対に逃げ出せない病院から、レイチェルという女性患者が忽然と消えてしまったと言うのだ。
彼女の姿はどこにも見えず、島から出る手段もない。
唯一発見された手がかりは、意味不明の数字が書かれた謎賭けの様なメモだけで、院長のコーリー博士(ベン・キングスレー)は、あまり捜査に協力的ではない。
はたしてレイチェルはどこへ消えたのか、院長ら病院関係者は何を隠しているのか・・・・
ぶっちゃけ、ミステリのオチは観る前から読めてしまった。
孤島の精神病院、消えた女性患者、怪しげな院長に、トラウマを抱えてパラノイア気味のFBI捜査官と、もの凄く親切に揃ったキーワードが、この手のミステリが好きな人には始めから結末を示唆するのだ。
でも、まさかスコセッシ御大ともあろう人が、そのまんまはないよね・・・と思っていたら、謎解きの部分に関しては、やっぱりそのまんまだった(笑
要するにこれは、1920年に作られ後の映画やミステリ小説に多大なる影響を与えた、ロベルト・ヴィーネ監督の名作「カリガリ博士」の焼き直し。
事件を捜査している主人公は実は狂人で、全ては彼の妄想であったという、あのパターンの元祖である。
ディカプリオ演じるテディとベン・キングスレー演じるコーリー博士の関係は、「カリガリ博士」における主人公のフランシスとカリガリ博士の関係をコピーしたものだ。
もっとも、オチが読めるイコールつまらないという訳ではない。
結末へ観客を導きつつ、途中でミスリードさせるための工夫は、物語上にも映像演出としても、非常に細かく丁寧に配置されており、それらは一定の成功を収めていると言って良い。
特にテディが繰り返し見る悪夢の描写など、スコセッシというよりは、デビッド・リンチやデビッド・フィンチャーを思わせ、なかなかに良くできているし、終盤テディが夢と現実の区別がつかなくなるあたりは、ちょっと鈴木清順の「陽炎座」も思い出した。
途中で一瞬、う~ん自分の予想は間違っていたかも?と思わせる部分もあったから、ミステリのロジックとしてはビギナー向けながら、さすがに語り口は一級品というところだろう。
だが、本作を単なるプログラムピクチャから一歩抜け出た物にしているのは、事件の謎が全て解けた後の、この映画の本当のラストシーンだろう。
ここでのテディの心理をどの様に解釈するかによって、本作の評価はB級ミステリにもなりえるし、A級の心理ドラマにもなりえるのである。
テディは自分が妻を殺した殺人犯である事、そしてその事実を認めたくない心が、島に捜査にやって来るFBI捜査官という虚構の現実を作り出していた事を一度は認める。
しかし物語の最後で、テディは再び妄想の世界の住人になり、治療を諦めたコーリー博士たちは、彼にロボトミー手術を施す事を決めるのだ。
ここでテディが呟く「モンスターとして生きるのか、善人として死ぬのか」という問いかけこそが、テーマ的にはこの映画の全てだと言っても良いだろう。
思うにスコセッシとしては、この一言を言わせたいがために、本作を撮ったのではないか。
本作の138分と言う比較的長い上映時間は、全てラスト3分を生かすために費やされているのだ。
もしも、ラストのテディが本当に再び正気を失っていたと解釈するなら、本作はイージーなB級ミステリ映画に過ぎないが、テディは本当は正気を保っていて、あえてロボトミー手術という精神的自殺を選択したのだとしたら、これはなかなか考えさせられる。
個人的には、これはテディにとっての贖罪なのではないかと思う。
彼にとって、正気を保ってゆくという事は、愛する者を殺した「モンスター」として生き続ける事を意味する。
テディは、本来の自我である「モンスター」を妻の待つ地獄へと送り、ロボトミー手術を受けてもはや自分ではない「善人」として生きて死ぬ事を選択したのではないだろうか。
もちろんこのラスト、そして彼の最後のセリフの意図を巡っては様々な解釈が可能だ。
本作は、売り物のロジカルな謎解きの部分は、拍子抜けするほどわかりやすい。
だが、人間の心の複雑な葛藤という、この世界で一番ミステリアスな部分を最後の最後に突きつけてくるとは、さすがに読めなかった。
観客の戸惑う表情を思い浮かべて、ニンマリほくそ笑むスコセッシの顔がスクリーンの裏に透けて見えるかの様だ。
意地悪な作家による意地悪な映画である。
今回は、舞台に近いボストンの地ビール「サミュエル・アダムス・ボストンラガー」をチョイス。
第二代アメリカ大統領、ジョン・アダムスの兄である郷土の政治家に由来する銘柄で、所謂アメリカンビールとは一線を画すビールらしいコクと風味が魅力。
今ではボストン以外のビール党にも広く飲まれるようになった、アメリカで一番有名な地ビールだ。

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2010年04月12日 (月) | 編集 |
韓国映画界からまた驚くべき才能が現れた。
その名は、ヤン・イクチュン、34歳。
彼が製作・監督・脚本・編集・主演を兼ねた「息もできない」は、昨年度の東京フィルメックスで作品賞&観客賞の二冠に輝いた他、各国の映画祭でセンセーショナルな話題となった作品だ。
韓国社会の最下層に生きる男の物語は、タイトル通りに呼吸するのも苦しくなるほどの、切なく悲しい人間の姿を描いた鮮烈なる傑作である。
容赦ない借金の取立で恐れられるヤクザのサンフン(ヤン・イクチュン)は、ある日女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合う。
いきなりの殴り合いという最悪の出会いをした二人だったが、不思議と馬があい、心を通じ合わせるようになる。
全く対照的な立場の二人だったが、共に家族との関係に深刻な問題を抱えていた。
嘗て実の父親に母と妹を殺され、刑務所を出所した父にやり場のない怒りをぶつけるサンフン。
ヨニは元軍人で精神を病んだ父親と、学校にも行かず荒れた生活を送る弟ヨンジェ(イ・ファン)と毎日の様に衝突している。
そんなある日、ヨンジェがサンフンの組で仕事をする事になるのだが、彼がヨニの弟だとしらないサンフンは、オドオドした態度をとるヨンジェを「腰抜け」と罵倒する・・・・
邦題は「息もできない」で、英題は「Breathless」
これはもちろん破滅的な生き方をする主人公を描いた、ゴダールの「勝手にしやがれ」の英題からとったのだろうが、韓国語の原題はというと「トンパリ(똥파리)」、つまり「クソバエ」という凄いタイトルである。
社会のクソバエであるチンピラヤクザが主人公という事で、まあセリフは汚い言葉のオンパレード。
私は韓国語を少し勉強した事があるので、日常会話は僅かながら理解できるのだけど、この映画は韓国語教室では絶対に教えてくれないような四文字言葉で一杯だ。
20秒に一回くらいの割合で出てくる、「クソ野郎」と訳されている「シバラマ」という言葉など、観た人皆が覚えてしまうだろう。
ちなみに、知り合いの韓国人に聞いてみたところ、これは正確には「シバルロマ」に近い発音で、直訳すると「マ■コする奴」という意味だそうな。
サンフンは平然と言い放っていたけど、女性に使ったらその場でビンタされるから絶対に使うなと言われた(笑
全く無名の新人作家が書き、自ら主演し、主人公がヤクザというこの作品。
映画ファンならば、27年前に作られた一本の日本映画を連想する人も多いだろう。
当時33歳の金子正次が、残り少ない命の炎を燃やして作った「竜二」に、なるほど作品のバックグラウンドは良く似ている。
だが、「竜二」が暴力の世界から足を洗って何とか堅気の生活をしようと葛藤する男の物語で、基本的に暴力シーンを伴わないのに対して、こちらの主人公は暴力の世界にどっぷりだ。
二本の作品に共通するのは、緻密に積み重ねられた心理描写によって、圧倒的な説得力を持った不器用な男の生き様だろう。
メインキャラクターはヤクザのサンフンと女子高生のヨニだが、彼らを囲むように多くのキャラクターが配され、密接な人間関係を形作る。
ヤクザと女子高生という一見全く接点の無さそうなサンフンとヨニだが、彼らは共に心の奥に深い悲しみを抱えた似たもの同士。
サンフンは暴力的な父の元で育ち、幼い頃に母と妹を父に殺されると言う悲劇を経験している。
彼が借金の取り立ての現場で、とりわけ年上のオヤジたちに対して容赦がないのは、彼の抱えるトラウマの結果なのである。
父は最近刑務所を出所したのだが、彼に対して憎しみしか感じられないサンフンは、やり場のない怒りを暴力と言う形で老いた父にぶつけるしかない。
「韓国のオヤジは最低だ!」「殴る奴は、自分は殴られないと思っている」という言葉は、母と妹を守れなかった自責の念と共に、過去の父に向けられた物だろうし、父を否定しつつも、いつの間にか暴力の世界に生きている自分自身へ向けた言葉ともとれる。
サンフンには腹違いの姉がいるが、父の暴力を直接知らない姉が、父に優しくするのすら、サンフンは許せないのだ。
一方のヨニは、嘗てのベトナム出征兵で心を病んでしまった父の介護をし、ヤクザ予備軍の荒れた弟の暴力に耐える日々。
屋台を営んでいた母親は、数年前に立ち退かせようとするヤクザに殴られて殺された。
だからある意味でサンフンはヨニにとって憎しみの対象でもあるはずなのだが、ヨニがサンフンに惹かれてゆくのは、彼の中に自分と似た部分を見たのと、もしかしたら彼とその家族に彼女自身にはもう決して訪れない、家族の再生の可能性を見たからかもしれない。
二人が、ボロボロになったお互いの心を見つめあいながら、漢江の辺で慟哭するシーンは映画史に残る名シーン。
そうしてヨニとのふれあいを通して、サンフンが少しずつ頑なな心を変化させ、傷つきながも家族、そして自分自身を再生させるというプロセスは感動的だ。
だが、この映画は普通の「良い映画」では終らない。
悪意ある神のいたずらの様な、複雑に入り組んだ運命による暗転劇は、まるでシェイクスピアかギリシャ悲劇の様な壮大な人間ドラマとして観客の前で完結するのである。
そう極めて低予算な小品ではあるのだが、この映画は非常にドラマチックだ。
演劇を勉強した事のある人なら知っているだろうが、作劇の世界には「ポルティの36局面」と言われる概念がある。
これはフランスのジョルジュ・ポルティが提唱した物で、ドラマチックな要素というのは、全て36通りの劇的局面(「近親の復讐」「愛する者の喪失」など)に分類でき、物語はその組み合わせで構成されているというものだ。
個人的にはこの分類はいささか古典的過ぎて、現代ではもう少し多いのではないかと考えているが、試しにこの作品に当てはめてみると、やや拡大解釈した部分を含めれば、何と36局面のうちの25局面を含んでいる。
これほどドラマチックな要素ばかりを詰め込んだら、下手をするとわざとらしいメロドラマになってしまいそうだが、この作品は見事なまでに作為を感じさせない。
それはサンフンとヨニを始めとする全てのキャラクターに、生身の人間としての絶対的な説得力があり、彼らの抱える情念が、観客の心にストレートに突き刺さってくるからだ。
この語り口の上手さこそが、ヤン・イクチェンという才能の脅威なのである。
「息もできない」は、若き鬼才が生んだ、古典になり得るスケール感を持つ悲劇だ。
だが、この映画には救いもある。
憎しみと暴力に生きたサンフンは、少なくとも最後には憎しみと暴力の連鎖からは抜け出していた。
どれほど悲劇的な最期を遂げようと、彼の魂はおそらく救われたと感じる事が出来る。
もっとも、彼の抱えていた物は、そのままある登場人物に受け継がれたのもまた事実だろうが、人の世に絶対の救済は存在しないと考えると、これもまた人間という物なのだろう。
確かな事は、どんなに傷ついても、辛くても、生きている者には明日は必ずやって来て、人生は続いてゆくと言う事だけなのである。
それにしても、今年は緊張して喉が渇く映画が多い。
映画ではサンフンたちがOBビールの「CASS」を、うまそうに飲んでいたが、日本では手に入りにくいので今回は韓国で市場シェア1位の「HITE」をチョイス。
韓国のビールはどちらかと言うと、日本のビールよりはチョイアメリカンな感じで、水感覚でガブガブ飲めるのが良い。
色々な意味で熱い映画で、火照った頭を冷してくれる。
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その名は、ヤン・イクチュン、34歳。
彼が製作・監督・脚本・編集・主演を兼ねた「息もできない」は、昨年度の東京フィルメックスで作品賞&観客賞の二冠に輝いた他、各国の映画祭でセンセーショナルな話題となった作品だ。
韓国社会の最下層に生きる男の物語は、タイトル通りに呼吸するのも苦しくなるほどの、切なく悲しい人間の姿を描いた鮮烈なる傑作である。
容赦ない借金の取立で恐れられるヤクザのサンフン(ヤン・イクチュン)は、ある日女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合う。
いきなりの殴り合いという最悪の出会いをした二人だったが、不思議と馬があい、心を通じ合わせるようになる。
全く対照的な立場の二人だったが、共に家族との関係に深刻な問題を抱えていた。
嘗て実の父親に母と妹を殺され、刑務所を出所した父にやり場のない怒りをぶつけるサンフン。
ヨニは元軍人で精神を病んだ父親と、学校にも行かず荒れた生活を送る弟ヨンジェ(イ・ファン)と毎日の様に衝突している。
そんなある日、ヨンジェがサンフンの組で仕事をする事になるのだが、彼がヨニの弟だとしらないサンフンは、オドオドした態度をとるヨンジェを「腰抜け」と罵倒する・・・・
邦題は「息もできない」で、英題は「Breathless」
これはもちろん破滅的な生き方をする主人公を描いた、ゴダールの「勝手にしやがれ」の英題からとったのだろうが、韓国語の原題はというと「トンパリ(똥파리)」、つまり「クソバエ」という凄いタイトルである。
社会のクソバエであるチンピラヤクザが主人公という事で、まあセリフは汚い言葉のオンパレード。
私は韓国語を少し勉強した事があるので、日常会話は僅かながら理解できるのだけど、この映画は韓国語教室では絶対に教えてくれないような四文字言葉で一杯だ。
20秒に一回くらいの割合で出てくる、「クソ野郎」と訳されている「シバラマ」という言葉など、観た人皆が覚えてしまうだろう。
ちなみに、知り合いの韓国人に聞いてみたところ、これは正確には「シバルロマ」に近い発音で、直訳すると「マ■コする奴」という意味だそうな。
サンフンは平然と言い放っていたけど、女性に使ったらその場でビンタされるから絶対に使うなと言われた(笑
全く無名の新人作家が書き、自ら主演し、主人公がヤクザというこの作品。
映画ファンならば、27年前に作られた一本の日本映画を連想する人も多いだろう。
当時33歳の金子正次が、残り少ない命の炎を燃やして作った「竜二」に、なるほど作品のバックグラウンドは良く似ている。
だが、「竜二」が暴力の世界から足を洗って何とか堅気の生活をしようと葛藤する男の物語で、基本的に暴力シーンを伴わないのに対して、こちらの主人公は暴力の世界にどっぷりだ。
二本の作品に共通するのは、緻密に積み重ねられた心理描写によって、圧倒的な説得力を持った不器用な男の生き様だろう。
メインキャラクターはヤクザのサンフンと女子高生のヨニだが、彼らを囲むように多くのキャラクターが配され、密接な人間関係を形作る。
ヤクザと女子高生という一見全く接点の無さそうなサンフンとヨニだが、彼らは共に心の奥に深い悲しみを抱えた似たもの同士。
サンフンは暴力的な父の元で育ち、幼い頃に母と妹を父に殺されると言う悲劇を経験している。
彼が借金の取り立ての現場で、とりわけ年上のオヤジたちに対して容赦がないのは、彼の抱えるトラウマの結果なのである。
父は最近刑務所を出所したのだが、彼に対して憎しみしか感じられないサンフンは、やり場のない怒りを暴力と言う形で老いた父にぶつけるしかない。
「韓国のオヤジは最低だ!」「殴る奴は、自分は殴られないと思っている」という言葉は、母と妹を守れなかった自責の念と共に、過去の父に向けられた物だろうし、父を否定しつつも、いつの間にか暴力の世界に生きている自分自身へ向けた言葉ともとれる。
サンフンには腹違いの姉がいるが、父の暴力を直接知らない姉が、父に優しくするのすら、サンフンは許せないのだ。
一方のヨニは、嘗てのベトナム出征兵で心を病んでしまった父の介護をし、ヤクザ予備軍の荒れた弟の暴力に耐える日々。
屋台を営んでいた母親は、数年前に立ち退かせようとするヤクザに殴られて殺された。
だからある意味でサンフンはヨニにとって憎しみの対象でもあるはずなのだが、ヨニがサンフンに惹かれてゆくのは、彼の中に自分と似た部分を見たのと、もしかしたら彼とその家族に彼女自身にはもう決して訪れない、家族の再生の可能性を見たからかもしれない。
二人が、ボロボロになったお互いの心を見つめあいながら、漢江の辺で慟哭するシーンは映画史に残る名シーン。
そうしてヨニとのふれあいを通して、サンフンが少しずつ頑なな心を変化させ、傷つきながも家族、そして自分自身を再生させるというプロセスは感動的だ。
だが、この映画は普通の「良い映画」では終らない。
悪意ある神のいたずらの様な、複雑に入り組んだ運命による暗転劇は、まるでシェイクスピアかギリシャ悲劇の様な壮大な人間ドラマとして観客の前で完結するのである。
そう極めて低予算な小品ではあるのだが、この映画は非常にドラマチックだ。
演劇を勉強した事のある人なら知っているだろうが、作劇の世界には「ポルティの36局面」と言われる概念がある。
これはフランスのジョルジュ・ポルティが提唱した物で、ドラマチックな要素というのは、全て36通りの劇的局面(「近親の復讐」「愛する者の喪失」など)に分類でき、物語はその組み合わせで構成されているというものだ。
個人的にはこの分類はいささか古典的過ぎて、現代ではもう少し多いのではないかと考えているが、試しにこの作品に当てはめてみると、やや拡大解釈した部分を含めれば、何と36局面のうちの25局面を含んでいる。
これほどドラマチックな要素ばかりを詰め込んだら、下手をするとわざとらしいメロドラマになってしまいそうだが、この作品は見事なまでに作為を感じさせない。
それはサンフンとヨニを始めとする全てのキャラクターに、生身の人間としての絶対的な説得力があり、彼らの抱える情念が、観客の心にストレートに突き刺さってくるからだ。
この語り口の上手さこそが、ヤン・イクチェンという才能の脅威なのである。
「息もできない」は、若き鬼才が生んだ、古典になり得るスケール感を持つ悲劇だ。
だが、この映画には救いもある。
憎しみと暴力に生きたサンフンは、少なくとも最後には憎しみと暴力の連鎖からは抜け出していた。
どれほど悲劇的な最期を遂げようと、彼の魂はおそらく救われたと感じる事が出来る。
もっとも、彼の抱えていた物は、そのままある登場人物に受け継がれたのもまた事実だろうが、人の世に絶対の救済は存在しないと考えると、これもまた人間という物なのだろう。
確かな事は、どんなに傷ついても、辛くても、生きている者には明日は必ずやって来て、人生は続いてゆくと言う事だけなのである。
それにしても、今年は緊張して喉が渇く映画が多い。
映画ではサンフンたちがOBビールの「CASS」を、うまそうに飲んでいたが、日本では手に入りにくいので今回は韓国で市場シェア1位の「HITE」をチョイス。
韓国のビールはどちらかと言うと、日本のビールよりはチョイアメリカンな感じで、水感覚でガブガブ飲めるのが良い。
色々な意味で熱い映画で、火照った頭を冷してくれる。

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2010年04月08日 (木) | 編集 |
リストラ宣告人の心の旅。
「JUNO」のジェイソン・ライトマン監督は、軽妙ながら極めて現代性の高い、味わい深い作品を世に送り出した。
これは世知辛い世の中に生きる、迷える大人たちへ贈るほろ苦いコメディだ。
ライアン・ビンガム(ジョージ・クルーニー)は、全米を股にかけるリストラ宣告人。
年間322日も出張し、街から街へ空路で飛び回る日々を、もう何年も送っている。
ある日、旅先で知り合ったアレックス(ヴェラ・ファーミガ)という女性と一夜を過ごしたライアンは、久々に本社に戻る。
ところが、そこでは新入社員のナタリー(アナ・ケンドリック)が、ライアンの生きがいである出張を廃止し、ネットによるリストラ宣告という新しいシステムを提案していた・・・
この作品は、あらゆる部分が非常にキッチリ仕上がっている。
特に脚本は殆ど文句のつけようが無い。
全ての構成要素に無駄が無く、エピソードの緩急もテンポも完璧で、おまけに心に残るセリフも多い。
映画学校の脚本のクラスで、テキストに使っても良い出来栄えである。
アカデミー賞では無冠に終ったが、脚色賞をあげても良かったのではないか。
そのぐらい完成度が高い。
ある意味、昨今の大不況が生んだ作品と言えるかも知れない。
ジョージ・クルーニー演じるライアンは、リストラを決めた企業へ赴き、経営者に代わって従業員にクビを宣告するというプロフェッショナルだ。
リストラ宣告人という職業が存在する事も、彼らがクビにする一人一人に面談するために全米を飛び回っているということも初めて知った。
まあ銃器大国という事で、上司や経営者への復讐心を削ぐという事や、訴訟リスクを避けるという点で、これもアメリカらしいビジネスといえるのかも知れない。
“バックパックに入らない荷物は人生で背負わない”がモットーのライアンは、一年の殆どを出張先で過ごすため、自宅はモーテルに毛が生えた程度の簡素なアパート。
どんな長期の出張も小型スーツケース一つだけを携え、空港での乗り継ぎも効率を重視するために、旅なれたアジア人ビジネスマンの多い列に並ぶという徹底振りだ。
それでいて、旅先で出会った魅力的な女性、アレックスとの“大人な関係”を楽しんだり、1000万マイルをためて、憧れの機長と対面する事を夢見ているというロマンチストな一面もある。
見方によっては人生を楽しむ優雅な独身貴族であり、別の見方をすれば真の愛を知らない孤独な中年男と言えるだろうが、何れにしても確固たるスタイルを持っている大人の男である。
だが、大不況の波は、ついにライアンの様な本来不況ウェルカムなはずのプロフェッショナルにも影響してくる。
出張費用の削減を狙った会社は、デジタル世代の新入社員、ナタリーのアイディアを採用し、直接顔を合わせずにネット経由で解雇を通告するという新しいスタイルを導入しようとするのだ。
このアイディアを巡って、ライアンとナタリーは衝突し、彼女を世間知らずだと追及したライアンは、結果的に彼女の教育係を仰せつかる事になるのだが、ここから物語はこの世代の違う二人を軸に、様々な対照を形作りながら、人生を巡るフライトに飛び出してゆくのである。
実社会を知らない頭でっかちの現代っ子であるナタリーに、リストラの宣告の仕事とは相手の魂のケアなのだという事を説くライアン。
ライアンは自分がクビを言い渡す一人一人の人生を理解し、彼らの心の動揺を考えた誠実な対応を心がけているのだ。
実生活で割り切ったドライな人間関係を好むのも、他人の人生に関わることの重さを十分すぎるくらいに知っているからだとも言える。
対するナタリーは、実生活での人間関係の考え方はむしろ保守的。
ライアンが、アレックスと割り切った関係を続けている事にも疑問の目を向けるが、若い彼女は他人の人生との関わりに、まだ本質的な実感を持っていないのだ。
単純にデジタル世代とアナログ世代にステロタイプ的に割り切るのではなく、彼らの内面の複雑な人間性を、キャラクターをクロスする形で描いたのは上手い。
観客が、ライアン世代でも、ナタリー世代でも、互いの中に拒絶と親しみの入り混じった絶妙な距離感を感じる事だろう。
当初、対照的で対立する価値観として物語に登場する二つの世代が、徐々に理解を深め歩み寄るプロセスはほっとさせられる物だ。
もちろん、結果的には時代は常に新しい方向に向いてゆくのだけれども。
本作は、ライアンを挟んだナタリーとアレックスという二人の女性との関係性を中心に物語られているが、中盤のナタリーとの葛藤が主にジェネレーションギャップと人生経験の差に基づく物なのに対して、アレックスとの葛藤は男女の価値観の違いと言えるかもしれない。
出張先でライアンと逢瀬を重ねるアレックスは、人生に余計な物を背負いたくないと考えるライアンにとって、非常に都合の良い女と言える存在だ。
だが、ナタリーとの旅や疎遠だった妹の結婚式への出席を経て、自分の人生を見直す事になったライアンが、初めて“バックパックに入らない物”を背負いたいと思った時、物語は大きな山場を迎える。
この意外性のある展開は、まあ一言で言えば、女はリアリストで、男はロマンチストという事だろうが、考えてみれば、ライトマン監督の前作「JUNO」でも、どっかりと肝っ玉が座っているのは女性であって、男たちはその場その場の状況で揺れ動いていた。
ここで予期せぬ状況に直面したライアンもまた、ある意味でとても情けなく、とても人間的に見える。
そして一度は正式採用となったネット経由のリストラ宣告と言うシステムが、意外な理由で頓挫し、以前と変わらない日常がライアンに戻ってきた時も、そこにいるのは色々な意味でもう過去のライアンではないのである。
メインとなる登場人物はライアン、ナタリー、アレックスの三人だが、それぞれが持ち味を生かされていてとても良い。
主人公を演じるジョージ・クルーニーは、ダンディさに寂しさを滲ませたキャラクターが、特に同世代の男性観客の感情移入を誘うだろう。
真っ直ぐな凛々しい眉毛が、トム・クルーズに見えて仕方がなかったナタリー役のアン・ケンドリックスは、鼻息の荒いキャリア志向の強さと、彼氏に振られたと子供の様に泣いてしまう幼さのバランスがカワイイ。
そして女のしたたかさを見せ付けて、圧倒的な存在感なのがアレックスを演じたヴェラ・ファーミガ。
それぞれがオスカーノミネートも納得の好演であった。
「マイレージ、マイライフ」は、極めて完成度の高いロードムービーの佳作であり、ウィットの効いた大人のための寓話である。
殆ど文句の付けようもないが、あえて言うならば生真面目に良く出来すぎている事が欠点と言えるかもしれない。
「JUNO」もそうだったが、ジェイソン・ライトマンの作品は、その人間味のあるテーマや物語に対して、全体の印象がややデジタル的で硬く、描かれている物語以上の世界の広がりをあまり感じない。
好みの問題かも知れないが、私は天邪鬼なもので、ここまでそつなく作られると、どこかで破綻が欲しくなってしまうのである。
今回は、ライアンが忠誠を尽くしていたアメリカン航空の機内食でも飲める、「ザ・グレンリベット シングルモルト12年」をチョイス。
200年近く前に英政府公認蒸留所の第一号となった伝統の銘柄で、ソフトでバランスの良い味わいは、この映画と通じる物がある。
しかし、航空不況で機内のアルコールがどんどん有料化されているのはいただけない。
酒飲みには辛い時代である。
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「JUNO」のジェイソン・ライトマン監督は、軽妙ながら極めて現代性の高い、味わい深い作品を世に送り出した。
これは世知辛い世の中に生きる、迷える大人たちへ贈るほろ苦いコメディだ。
ライアン・ビンガム(ジョージ・クルーニー)は、全米を股にかけるリストラ宣告人。
年間322日も出張し、街から街へ空路で飛び回る日々を、もう何年も送っている。
ある日、旅先で知り合ったアレックス(ヴェラ・ファーミガ)という女性と一夜を過ごしたライアンは、久々に本社に戻る。
ところが、そこでは新入社員のナタリー(アナ・ケンドリック)が、ライアンの生きがいである出張を廃止し、ネットによるリストラ宣告という新しいシステムを提案していた・・・
この作品は、あらゆる部分が非常にキッチリ仕上がっている。
特に脚本は殆ど文句のつけようが無い。
全ての構成要素に無駄が無く、エピソードの緩急もテンポも完璧で、おまけに心に残るセリフも多い。
映画学校の脚本のクラスで、テキストに使っても良い出来栄えである。
アカデミー賞では無冠に終ったが、脚色賞をあげても良かったのではないか。
そのぐらい完成度が高い。
ある意味、昨今の大不況が生んだ作品と言えるかも知れない。
ジョージ・クルーニー演じるライアンは、リストラを決めた企業へ赴き、経営者に代わって従業員にクビを宣告するというプロフェッショナルだ。
リストラ宣告人という職業が存在する事も、彼らがクビにする一人一人に面談するために全米を飛び回っているということも初めて知った。
まあ銃器大国という事で、上司や経営者への復讐心を削ぐという事や、訴訟リスクを避けるという点で、これもアメリカらしいビジネスといえるのかも知れない。
“バックパックに入らない荷物は人生で背負わない”がモットーのライアンは、一年の殆どを出張先で過ごすため、自宅はモーテルに毛が生えた程度の簡素なアパート。
どんな長期の出張も小型スーツケース一つだけを携え、空港での乗り継ぎも効率を重視するために、旅なれたアジア人ビジネスマンの多い列に並ぶという徹底振りだ。
それでいて、旅先で出会った魅力的な女性、アレックスとの“大人な関係”を楽しんだり、1000万マイルをためて、憧れの機長と対面する事を夢見ているというロマンチストな一面もある。
見方によっては人生を楽しむ優雅な独身貴族であり、別の見方をすれば真の愛を知らない孤独な中年男と言えるだろうが、何れにしても確固たるスタイルを持っている大人の男である。
だが、大不況の波は、ついにライアンの様な本来不況ウェルカムなはずのプロフェッショナルにも影響してくる。
出張費用の削減を狙った会社は、デジタル世代の新入社員、ナタリーのアイディアを採用し、直接顔を合わせずにネット経由で解雇を通告するという新しいスタイルを導入しようとするのだ。
このアイディアを巡って、ライアンとナタリーは衝突し、彼女を世間知らずだと追及したライアンは、結果的に彼女の教育係を仰せつかる事になるのだが、ここから物語はこの世代の違う二人を軸に、様々な対照を形作りながら、人生を巡るフライトに飛び出してゆくのである。
実社会を知らない頭でっかちの現代っ子であるナタリーに、リストラの宣告の仕事とは相手の魂のケアなのだという事を説くライアン。
ライアンは自分がクビを言い渡す一人一人の人生を理解し、彼らの心の動揺を考えた誠実な対応を心がけているのだ。
実生活で割り切ったドライな人間関係を好むのも、他人の人生に関わることの重さを十分すぎるくらいに知っているからだとも言える。
対するナタリーは、実生活での人間関係の考え方はむしろ保守的。
ライアンが、アレックスと割り切った関係を続けている事にも疑問の目を向けるが、若い彼女は他人の人生との関わりに、まだ本質的な実感を持っていないのだ。
単純にデジタル世代とアナログ世代にステロタイプ的に割り切るのではなく、彼らの内面の複雑な人間性を、キャラクターをクロスする形で描いたのは上手い。
観客が、ライアン世代でも、ナタリー世代でも、互いの中に拒絶と親しみの入り混じった絶妙な距離感を感じる事だろう。
当初、対照的で対立する価値観として物語に登場する二つの世代が、徐々に理解を深め歩み寄るプロセスはほっとさせられる物だ。
もちろん、結果的には時代は常に新しい方向に向いてゆくのだけれども。
本作は、ライアンを挟んだナタリーとアレックスという二人の女性との関係性を中心に物語られているが、中盤のナタリーとの葛藤が主にジェネレーションギャップと人生経験の差に基づく物なのに対して、アレックスとの葛藤は男女の価値観の違いと言えるかもしれない。
出張先でライアンと逢瀬を重ねるアレックスは、人生に余計な物を背負いたくないと考えるライアンにとって、非常に都合の良い女と言える存在だ。
だが、ナタリーとの旅や疎遠だった妹の結婚式への出席を経て、自分の人生を見直す事になったライアンが、初めて“バックパックに入らない物”を背負いたいと思った時、物語は大きな山場を迎える。
この意外性のある展開は、まあ一言で言えば、女はリアリストで、男はロマンチストという事だろうが、考えてみれば、ライトマン監督の前作「JUNO」でも、どっかりと肝っ玉が座っているのは女性であって、男たちはその場その場の状況で揺れ動いていた。
ここで予期せぬ状況に直面したライアンもまた、ある意味でとても情けなく、とても人間的に見える。
そして一度は正式採用となったネット経由のリストラ宣告と言うシステムが、意外な理由で頓挫し、以前と変わらない日常がライアンに戻ってきた時も、そこにいるのは色々な意味でもう過去のライアンではないのである。
メインとなる登場人物はライアン、ナタリー、アレックスの三人だが、それぞれが持ち味を生かされていてとても良い。
主人公を演じるジョージ・クルーニーは、ダンディさに寂しさを滲ませたキャラクターが、特に同世代の男性観客の感情移入を誘うだろう。
真っ直ぐな凛々しい眉毛が、トム・クルーズに見えて仕方がなかったナタリー役のアン・ケンドリックスは、鼻息の荒いキャリア志向の強さと、彼氏に振られたと子供の様に泣いてしまう幼さのバランスがカワイイ。
そして女のしたたかさを見せ付けて、圧倒的な存在感なのがアレックスを演じたヴェラ・ファーミガ。
それぞれがオスカーノミネートも納得の好演であった。
「マイレージ、マイライフ」は、極めて完成度の高いロードムービーの佳作であり、ウィットの効いた大人のための寓話である。
殆ど文句の付けようもないが、あえて言うならば生真面目に良く出来すぎている事が欠点と言えるかもしれない。
「JUNO」もそうだったが、ジェイソン・ライトマンの作品は、その人間味のあるテーマや物語に対して、全体の印象がややデジタル的で硬く、描かれている物語以上の世界の広がりをあまり感じない。
好みの問題かも知れないが、私は天邪鬼なもので、ここまでそつなく作られると、どこかで破綻が欲しくなってしまうのである。
今回は、ライアンが忠誠を尽くしていたアメリカン航空の機内食でも飲める、「ザ・グレンリベット シングルモルト12年」をチョイス。
200年近く前に英政府公認蒸留所の第一号となった伝統の銘柄で、ソフトでバランスの良い味わいは、この映画と通じる物がある。
しかし、航空不況で機内のアルコールがどんどん有料化されているのはいただけない。
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2010年04月03日 (土) | 編集 |
「ジョニー・マッド・ドッグ」は、アフリカの内戦で過酷な運命を生きる、少年兵たちの凄まじい日常を描く問題作である。
ドキュメンタリー出身で、これが長編劇映画デビュー作となるフランスの新鋭監督、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、内戦が終結したばかりのアフリカ西海岸の国 、リベリアで長期ロケを行い、主人公の狂犬ジョニーほかメインキャラクターにキャスティングされているのは、実際に内戦を戦った元少年兵たちであるという。
また撮影監督に、戦場カメラマンの経験を持つマルク・コルナンスを起用するなど、徹底的にリアルに拘り、凄みのある映画を作り出している。
内戦の混乱の中、子供たちだけで構成された反政府軍の部隊がいた。
“狂犬”と呼ばれる15歳のジョニー(クリストファー・ミニー)は部隊のリーダーであり、子供たちを率いて虐殺、略奪、レイプなど暴虐の限りを尽くしていた。
優勢に戦いを進める反政府軍はついに首都へ迫り、ジョニーの部隊も政府軍との激しい戦闘を制して街に進軍する。
一方、首都に住む13歳の少女ラオコレ(デージ・ヴィクトリア・ヴァンディ)は、足の悪い父を置いて、8歳の弟と逃げる途中、ジョニーたちが幼い少年を一方的に敵と決め付けて虐殺するのを目撃する。
付近に敵が残っていないか調べるジョニーは、ラオコレと弟を見つけるが、なぜかジョニーは彼女らに銃を向けなかった。
ラオコレは弟をビルに隠し、父を助けに家に戻ろうとするのだが・・・
映画は、変則的な二部構成の様な構造を持っている。
狂犬と呼ばれる少年兵、ジョニーの戦いに明け暮れる日常と、逆に彼らの暴力によって追い立てられる少女ラオコレの日常が交互に描かれ、やがて交錯してゆくのである。
彼らの立場は対照的だが、どちらも戦場に生きる子供と言う点では共通しており、二人を通して戦争の異なる顔が見えてくるというのが狙いだろう。
この映画には、物語の基本構造の他にも、絶望と希望、殺戮と誕生、静と動など様々な対照性のモチーフがあちこちに仕掛けられており、これが映画全体にメリハリの効いたリズムを与えるのと同時に、視点が画一的になるのを効果的に防いでいる。
冒頭の少年たちによる村の襲撃シーンは極めて印象的である。
目を覆いたくなる暴力と略奪が行われている同じ村で、一人の少年兵が純白のウェディングドレスを身に纏ってウットリしているのだ。
彼らの多くは女物のドレスやチョウチョの飾りのついた子供服を着ていたり、真っ赤なズラを被っていたり、兵士というにはあまりにもふざけた格好をしている。
最初、観客は彼らの容赦ない暴力に圧倒され、いくら子供でもこんな奴らは許せないと思うだろう。
だが、物語が進むに連れて、結局のところ彼らは主体性があって残酷な兵士になっているのではなく、戦場と言う状況の中で、極めて「子供らしく」生きているだけである事に気付く。
親を殺されたり、無理やり誘拐されたりして家族と言う居場所を失った子供たちは、新たな庇護者である武装勢力の大人たちに報われない愛を求める。
軍隊という擬似家族で、上官の大人たちに褒められたいから、自分を必要とされたいから戦うのであって、それはママの愛が欲しくて良い子にするのと何ら変わらない。
彼らは、良い子だから殺し、奪い、犯す。
戦闘前に上官がジョニーの額に傷をつけて、そこにドラッグを塗りこむ描写があるが、やがてはクスリよって恐怖感すら麻痺し、大人のための無邪気で忠実な殺人マシーンとなる。
そこには罪悪感などあるわけも無く、彼らは子供であるが故に、とても恐ろしいのである。
そんな狂気が支配する日常の中で、ジョニーの側近であるNGアドヴァイスが、略奪したブタに情が移ってしまい、食べようとする仲間に精一杯抵抗して泣いてしまうあたりは、ユーモラスだが彼らの中にある子供らしい優しさが垣間見られてちょっとホッとするシーンだ。
物心ついた頃から戦いの中に身を置いてた少年兵たちにとっては、戦場こそが世界。
しかし、大人にとっては従順で便利な戦力である彼らも、戦争が終ってしまえば用済みとなり、単に邪魔な子供に戻る。
ジョニーが「将軍」と呼んで絶対視していた上官も、実際には彼らを利用していたただの下士官で、当然ながら戦後の子供たちの面倒を見るような甲斐性など無く、新しい体制下で私腹を肥やす目算しか立てていない。
戦争しか知らない子供たちは、突然平和という知らない世界に放り出されてしまうのである。
戦場と言う遊び場を失って、手持ち無沙汰なジョニーの表情は、僅か15歳にして「ハート・ロッカー」の主人公と同じ虚無感を抱えている。
ジョニーを演じるクリストファー・ミニーら、元少年兵のキャストたちが体現する戦場のメンタリティは、子役芝居とは別次元の凄まじい説得力がある。
ソヴェールは、撮影前の一年間、単身リベリアに渡り、キャスティングされた子供たちと寝食を共にし、信頼を得ていったという。
子供たちに悪夢の様な経験を演技として再現させるというのは、素人考えでは危険な気もするのだが、彼らにとってはトラウマを克服するための演技セラピーの様な効果があったらしい。
また、出演した子供たちの将来のために撮影後には財団も作られたそうで、本作の様な作品の場合、撮りっぱなしにしないという姿勢はとても重要な事であると思う。
幸運にも映画出演のチャンスを得た15人の他にも、何万、何十万人もいるであろう心に深い傷を負った子供たちの将来に、この映画が少しでもポジティブな影響を及ぼす事を祈らずにはいられない。
ちなみに、この物語がリベリア内戦をモデルとしているのは確かだろうが、劇中ではどこの国の出来事というはっきりした説明は無い。
思うに、フランス資本でありながら、あえてリベリアで撮影し英語劇とした事も、それなのに何故か国名を明かさない事も、明確な理由があると思う。
まず、舞台を曖昧にしたのは、この映画に描かれた状況が、リベリアと言う特定の場所だけで起こった過去の問題と捉えられるのを避けるためだろう。
ジョニーたちがいるのは、リベリアかもしれないし、コンゴかもしれないし、スーダンかもしれない。
様々な要因で内戦や地域紛争が絶えないアフリカのどこかであり、どこであっても少年兵たちは現在進行形の問題として存在しているのだ。
そして、リベリアをモデルとしたのは、この国が他のアフリカ諸国には無い歴史的な背景を持ち、物語により深い象徴性を持たせる事が出来るからだろう。
実はリベリアは、アメリカ合衆国からアフリカに帰還した、解放奴隷たちが建国に深く関与した国であり、アフリカ大陸では例外的にヨーロッパよりもアメリカ文化の影響が強い。
国名のリベリアは英語で自由を意味するリバティから命名されているし、国旗のデザインも星条旗をモデルとしている。
映画の中ほどで、ラオコレが父を墓場に埋葬している所に、ジョニーたちが通りかかるシーンがある。
この時に、彼らが持っているラジカセから流れているのは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのあまりにも有名な演説“I have a dream”なのである。
解放された自由なアフリカ人の理想郷となるはずが、どこかで間違ってしまった国で、この演説が流れている痛烈な皮肉。
また、キングと同時代に公民権運動のシンボルとなった、ジャズ歌手のニーナ・シモン版の「奇妙な果実」が使われているのも興味深い。
これは、リンチされて木から吊るされた黒人の死体を比喩した歌で、原曲が発表された1939年から現在に至るまで、人種問題を告発する象徴的な曲として広く知られ、歌い継がれている。
ソヴェールが、この映画で描かれている戦争を、米国とアフリカ双方の歴史の延長線上という文脈で捉えようとしているのは明らかだ。
ジョニーやラオコレが身を置いているのは、19世紀から続く果てしない戦いの「今」なのである。
アフリカ大陸の熱がそのままスクリーンから吹き付ける様で、非常に喉が渇く本作。
今回はリベリアのルーツであるアメリカから、その名も「アンカー・リバティ・エール」をチョイス。
熟成初期にカスケードホップをドライホッピングするのが特徴で、独特のフルーティなテイストを味わえる。
サンフランシスコの地ビールの雄、アンカーが生み出した力作だ。
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ドキュメンタリー出身で、これが長編劇映画デビュー作となるフランスの新鋭監督、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、内戦が終結したばかりのアフリカ西海岸の国 、リベリアで長期ロケを行い、主人公の狂犬ジョニーほかメインキャラクターにキャスティングされているのは、実際に内戦を戦った元少年兵たちであるという。
また撮影監督に、戦場カメラマンの経験を持つマルク・コルナンスを起用するなど、徹底的にリアルに拘り、凄みのある映画を作り出している。
内戦の混乱の中、子供たちだけで構成された反政府軍の部隊がいた。
“狂犬”と呼ばれる15歳のジョニー(クリストファー・ミニー)は部隊のリーダーであり、子供たちを率いて虐殺、略奪、レイプなど暴虐の限りを尽くしていた。
優勢に戦いを進める反政府軍はついに首都へ迫り、ジョニーの部隊も政府軍との激しい戦闘を制して街に進軍する。
一方、首都に住む13歳の少女ラオコレ(デージ・ヴィクトリア・ヴァンディ)は、足の悪い父を置いて、8歳の弟と逃げる途中、ジョニーたちが幼い少年を一方的に敵と決め付けて虐殺するのを目撃する。
付近に敵が残っていないか調べるジョニーは、ラオコレと弟を見つけるが、なぜかジョニーは彼女らに銃を向けなかった。
ラオコレは弟をビルに隠し、父を助けに家に戻ろうとするのだが・・・
映画は、変則的な二部構成の様な構造を持っている。
狂犬と呼ばれる少年兵、ジョニーの戦いに明け暮れる日常と、逆に彼らの暴力によって追い立てられる少女ラオコレの日常が交互に描かれ、やがて交錯してゆくのである。
彼らの立場は対照的だが、どちらも戦場に生きる子供と言う点では共通しており、二人を通して戦争の異なる顔が見えてくるというのが狙いだろう。
この映画には、物語の基本構造の他にも、絶望と希望、殺戮と誕生、静と動など様々な対照性のモチーフがあちこちに仕掛けられており、これが映画全体にメリハリの効いたリズムを与えるのと同時に、視点が画一的になるのを効果的に防いでいる。
冒頭の少年たちによる村の襲撃シーンは極めて印象的である。
目を覆いたくなる暴力と略奪が行われている同じ村で、一人の少年兵が純白のウェディングドレスを身に纏ってウットリしているのだ。
彼らの多くは女物のドレスやチョウチョの飾りのついた子供服を着ていたり、真っ赤なズラを被っていたり、兵士というにはあまりにもふざけた格好をしている。
最初、観客は彼らの容赦ない暴力に圧倒され、いくら子供でもこんな奴らは許せないと思うだろう。
だが、物語が進むに連れて、結局のところ彼らは主体性があって残酷な兵士になっているのではなく、戦場と言う状況の中で、極めて「子供らしく」生きているだけである事に気付く。
親を殺されたり、無理やり誘拐されたりして家族と言う居場所を失った子供たちは、新たな庇護者である武装勢力の大人たちに報われない愛を求める。
軍隊という擬似家族で、上官の大人たちに褒められたいから、自分を必要とされたいから戦うのであって、それはママの愛が欲しくて良い子にするのと何ら変わらない。
彼らは、良い子だから殺し、奪い、犯す。
戦闘前に上官がジョニーの額に傷をつけて、そこにドラッグを塗りこむ描写があるが、やがてはクスリよって恐怖感すら麻痺し、大人のための無邪気で忠実な殺人マシーンとなる。
そこには罪悪感などあるわけも無く、彼らは子供であるが故に、とても恐ろしいのである。
そんな狂気が支配する日常の中で、ジョニーの側近であるNGアドヴァイスが、略奪したブタに情が移ってしまい、食べようとする仲間に精一杯抵抗して泣いてしまうあたりは、ユーモラスだが彼らの中にある子供らしい優しさが垣間見られてちょっとホッとするシーンだ。
物心ついた頃から戦いの中に身を置いてた少年兵たちにとっては、戦場こそが世界。
しかし、大人にとっては従順で便利な戦力である彼らも、戦争が終ってしまえば用済みとなり、単に邪魔な子供に戻る。
ジョニーが「将軍」と呼んで絶対視していた上官も、実際には彼らを利用していたただの下士官で、当然ながら戦後の子供たちの面倒を見るような甲斐性など無く、新しい体制下で私腹を肥やす目算しか立てていない。
戦争しか知らない子供たちは、突然平和という知らない世界に放り出されてしまうのである。
戦場と言う遊び場を失って、手持ち無沙汰なジョニーの表情は、僅か15歳にして「ハート・ロッカー」の主人公と同じ虚無感を抱えている。
ジョニーを演じるクリストファー・ミニーら、元少年兵のキャストたちが体現する戦場のメンタリティは、子役芝居とは別次元の凄まじい説得力がある。
ソヴェールは、撮影前の一年間、単身リベリアに渡り、キャスティングされた子供たちと寝食を共にし、信頼を得ていったという。
子供たちに悪夢の様な経験を演技として再現させるというのは、素人考えでは危険な気もするのだが、彼らにとってはトラウマを克服するための演技セラピーの様な効果があったらしい。
また、出演した子供たちの将来のために撮影後には財団も作られたそうで、本作の様な作品の場合、撮りっぱなしにしないという姿勢はとても重要な事であると思う。
幸運にも映画出演のチャンスを得た15人の他にも、何万、何十万人もいるであろう心に深い傷を負った子供たちの将来に、この映画が少しでもポジティブな影響を及ぼす事を祈らずにはいられない。
ちなみに、この物語がリベリア内戦をモデルとしているのは確かだろうが、劇中ではどこの国の出来事というはっきりした説明は無い。
思うに、フランス資本でありながら、あえてリベリアで撮影し英語劇とした事も、それなのに何故か国名を明かさない事も、明確な理由があると思う。
まず、舞台を曖昧にしたのは、この映画に描かれた状況が、リベリアと言う特定の場所だけで起こった過去の問題と捉えられるのを避けるためだろう。
ジョニーたちがいるのは、リベリアかもしれないし、コンゴかもしれないし、スーダンかもしれない。
様々な要因で内戦や地域紛争が絶えないアフリカのどこかであり、どこであっても少年兵たちは現在進行形の問題として存在しているのだ。
そして、リベリアをモデルとしたのは、この国が他のアフリカ諸国には無い歴史的な背景を持ち、物語により深い象徴性を持たせる事が出来るからだろう。
実はリベリアは、アメリカ合衆国からアフリカに帰還した、解放奴隷たちが建国に深く関与した国であり、アフリカ大陸では例外的にヨーロッパよりもアメリカ文化の影響が強い。
国名のリベリアは英語で自由を意味するリバティから命名されているし、国旗のデザインも星条旗をモデルとしている。
映画の中ほどで、ラオコレが父を墓場に埋葬している所に、ジョニーたちが通りかかるシーンがある。
この時に、彼らが持っているラジカセから流れているのは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのあまりにも有名な演説“I have a dream”なのである。
解放された自由なアフリカ人の理想郷となるはずが、どこかで間違ってしまった国で、この演説が流れている痛烈な皮肉。
また、キングと同時代に公民権運動のシンボルとなった、ジャズ歌手のニーナ・シモン版の「奇妙な果実」が使われているのも興味深い。
これは、リンチされて木から吊るされた黒人の死体を比喩した歌で、原曲が発表された1939年から現在に至るまで、人種問題を告発する象徴的な曲として広く知られ、歌い継がれている。
ソヴェールが、この映画で描かれている戦争を、米国とアフリカ双方の歴史の延長線上という文脈で捉えようとしているのは明らかだ。
ジョニーやラオコレが身を置いているのは、19世紀から続く果てしない戦いの「今」なのである。
アフリカ大陸の熱がそのままスクリーンから吹き付ける様で、非常に喉が渇く本作。
今回はリベリアのルーツであるアメリカから、その名も「アンカー・リバティ・エール」をチョイス。
熟成初期にカスケードホップをドライホッピングするのが特徴で、独特のフルーティなテイストを味わえる。
サンフランシスコの地ビールの雄、アンカーが生み出した力作だ。

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