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2010年05月30日 (日) | 編集 |
高知県の鄙びた漁村にある「パーマネント野ばら」を舞台に、日本一男運の悪い女たちの、喪失と再生を描く叙情的物語。
原作は最近著作が続々と映画化されている西原理恵子の中篇漫画で、「サマーウォーズ」など細田守監督のアニメ映画で知られる奥寺佐渡子が脚色し、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の吉田大八が監督している。
おバカでお下品な台詞が飛び交うコミカルな日常の裏側に垣間見えるのは、ぽっかりと口を空けた悲しみの虚空だ。
※ネタバレ注意
離婚したなおこ(菅野美穂)は、幼い娘を連れて母のまさ子(夏木マリ)が経営する実家の「パーマネント野ばら」に出戻っている。
ここにはパワフルな村の女たちが集まり、思い出話や男談義に花を咲かせている吹き溜まりの様な店。
まさ子の再婚した夫カズオ(宇崎竜童)は、家出して隣村の農家のおばちゃんと同棲中。
なおこの幼馴染でフィリピンパブのママのみっちゃん(小池栄子)は、店の女に手を出した夫を車で轢き、もう一人の幼馴染のともちゃん(池脇千鶴)の夫は、ギャンブルに狂って失踪してしまう。
どうにも男運の悪い女たちに囲まれながら、なおこは高校教師のカシマ(江口洋介)との愛を密かに育んでいた・・・・
一見すると少々お下品な「かもめ食堂」的な物語に見えるが、実は心の大切な部分を喪失し、傷ついた女たちが、自分を受け入れてくれる密接なコミュニティの中で少しずつ癒されてゆく、「幻の光」的な物語である。
西原理恵子の原作は、一時間ほどもあれば読み終えてしまう中篇だが、奥寺佐渡子は高知の海と空にたゆたうような原作の独特の味わいを損ねない様に、慎重にエピソードとキャラクターを取捨選択し、一部を膨らませて再構成している。
映画ではなおこの喪失と再生がより物語の中核に設定され、原作とはやや異なるミステリアスな展開も盛り込んでおり、この辺りのロジックは、先頃公開された行定勲監督の「今度は愛妻家」に少し通じるものがある。
主人公のなおこを演じる菅野美穂がとても良い。
この人は十代の頃から芝居は抜群に上手かったが、年齢を重ねて素晴らしく繊細で深い表現力を獲得してる。
ついこの前女子高生の役をやっていたと思ったら、もう母親役が違和感の無い年齢なんだという事に時の流れの速さを実感させられるが、役者として理想的な歳のとり方をしているのではないだろうか。
奇人変人揃いの登場人物の中にあって、なおこはどちらかというと受身のキャラクターなのだが、彼女の内面に隠された複雑で切ない葛藤は、細やかな演技によって不思議な浮遊感と共に表現されている。
そして、カシマとのデートシーンで見せる、恋する乙女の様なはにかんだ笑顔は文句なしにカワイイ!
テレビの連ドラも良いけど、やはりこの人はスクリーンで非凡な輝きを放つ。
映画出演は8年ぶりだそうだが、是非もっと映画に出て欲しいものである。
野ばらに集まる女たちは、「チンコ、チンコ」とかしましい村のおばちゃんたちだが、なおこの幼馴染のみっちゃんとともちゃんだけが若い・・・と言っても三十代だけど。
フィリピンパブのママ、みっちゃんを演じる小池栄子は、エネルギーの塊の様なパワフルなキャラクターで、なおこと静と動の好対照を形作る。
映画版でややキャラクターを膨らませているともちゃんを演じる池脇千鶴と共に、この世代の演技派の揃ったキャストは見応え十分だ。
彼女たちの人生の師匠・・・もとい、反面教師の様な年寄りたちもまた、一人一人が魅力的で、宇崎竜童演じるカズオなんて妙な説得力がある。
まさ子との復縁を迫るなおこに、「男の人生は真夜中のスナック・・・云々」と説明するくだりは納得しすぎて笑ってしまった。
映画の前半は、なおこの生活描写に幾つものサブストーリーが絡み、全体的にコメディタッチ。
ゴミ屋敷で何故か数年ごとに代替わりする爺さんに囲まれた余生を過ごす、奇妙な婆さんのエピソードや、借金塗れになり、パチスロのメダルを残して山でのたれ死ぬともちゃんの夫のエピソード、度重なる浮気に切れたみっちゃんの殺人未遂のエピソードなど、恋に貪欲な女たちと、どうしようもないダメ男たちが織り成す物語は、リアルに捉えるとかなり辛らつながらも、西原作品らしいギャグや下ネタのオブラートにくるまれているおかげで、それほどの痛みを伴わずに観ていられる。
奥寺佐渡子は、これらの一見とりとめの無いエピソードを、最終的に物語が収束すべきところへ向かってゆくと、テーマ的な伏線として機能するように巧みに配置している。
物語の中盤、なおこの娘のももちゃんが別れた夫と旅行に行き、残されたなおこは空いた時間を持て余すようにカシマと温泉へと向かう。
ホテルの部屋で仲睦まじく過ごす二人だが、ふとなおこが目を覚ますとカシマの姿は無い。
突然取り残されたなおこは焦り、泣きながらカシマに電話し「あなたの事がわからない」と訴える。
実はここからが、原作とも少し異なる映画のハイライト。
原作では、なおこの相手が何者で、いつどの様に喪失したのかということに明確な描写は無い。
対して映画版では、多分なおこの抱えてる葛藤をもう少し具体的にしたかったのだと思うが、カシマはなおこが高校生の頃の恋人で、疾うの昔に死んでいたという設定になっているのだ。
このことが明らかになる少し前に、なおことともちゃんの会話の中で、「人間は二度死ぬ」という台詞が出てくる。
一度目は肉体的な死、そして二度目は、その人物を覚えている人が誰もいなくなった時。
なおこがカシマの事を忘れれば、カシマは本当に死んでしまう。
だからこそ、彼女は自らの中に狂気を宿してまで、彼の事を忘れる事が出来ないのである。
そして、パーマネント野ばらに集まる女たちは、全てをわかった上でなおこを見守っている。
やたらかしましいだけに見えたおばちゃんたちも、どちらかと言うと自分の抱える苦しみを、なおこに聞いてもらう役回りに見えていたみっちゃんやともちゃんも、実はなおこの苦しみを分かち合っているのである。
「私、狂ってる?」と聞くなおこに、みっちゃんは「そんなやったら、この街の女はみんな狂うとる」と答えるのだ。
どんなに苦しくても、切なくても、そして幾つになっても「恋」を諦める事の出来ない女たち。
男の私から観ると、なんとも不思議な女性論の様な物語でもあり、菅野美穂だけじゃなくパンチパーマのおばちゃんたちまで、それなりに愛しく感じさせられるキケンな魅力を持つ映画であった。
都会とは流れの違うゆったりとした時間を感じさせる、南国高知のロケーションも見所だ。
今回は高知を代表する地酒、「酔鯨 大吟醸」をチョイス。
酒をこよなく愛し、自ら「鯨海酔侯」と名乗った幕末の土佐藩主、山内豊信にちなんで命名されている。
ボディが強く、スッキリとした味わいは、正に太平洋を行く鯨のごとく力強さ。
この土地に生まれた女が、尋常でなくパワフルだとしても納得だ。
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原作は最近著作が続々と映画化されている西原理恵子の中篇漫画で、「サマーウォーズ」など細田守監督のアニメ映画で知られる奥寺佐渡子が脚色し、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の吉田大八が監督している。
おバカでお下品な台詞が飛び交うコミカルな日常の裏側に垣間見えるのは、ぽっかりと口を空けた悲しみの虚空だ。
※ネタバレ注意
離婚したなおこ(菅野美穂)は、幼い娘を連れて母のまさ子(夏木マリ)が経営する実家の「パーマネント野ばら」に出戻っている。
ここにはパワフルな村の女たちが集まり、思い出話や男談義に花を咲かせている吹き溜まりの様な店。
まさ子の再婚した夫カズオ(宇崎竜童)は、家出して隣村の農家のおばちゃんと同棲中。
なおこの幼馴染でフィリピンパブのママのみっちゃん(小池栄子)は、店の女に手を出した夫を車で轢き、もう一人の幼馴染のともちゃん(池脇千鶴)の夫は、ギャンブルに狂って失踪してしまう。
どうにも男運の悪い女たちに囲まれながら、なおこは高校教師のカシマ(江口洋介)との愛を密かに育んでいた・・・・
一見すると少々お下品な「かもめ食堂」的な物語に見えるが、実は心の大切な部分を喪失し、傷ついた女たちが、自分を受け入れてくれる密接なコミュニティの中で少しずつ癒されてゆく、「幻の光」的な物語である。
西原理恵子の原作は、一時間ほどもあれば読み終えてしまう中篇だが、奥寺佐渡子は高知の海と空にたゆたうような原作の独特の味わいを損ねない様に、慎重にエピソードとキャラクターを取捨選択し、一部を膨らませて再構成している。
映画ではなおこの喪失と再生がより物語の中核に設定され、原作とはやや異なるミステリアスな展開も盛り込んでおり、この辺りのロジックは、先頃公開された行定勲監督の「今度は愛妻家」に少し通じるものがある。
主人公のなおこを演じる菅野美穂がとても良い。
この人は十代の頃から芝居は抜群に上手かったが、年齢を重ねて素晴らしく繊細で深い表現力を獲得してる。
ついこの前女子高生の役をやっていたと思ったら、もう母親役が違和感の無い年齢なんだという事に時の流れの速さを実感させられるが、役者として理想的な歳のとり方をしているのではないだろうか。
奇人変人揃いの登場人物の中にあって、なおこはどちらかというと受身のキャラクターなのだが、彼女の内面に隠された複雑で切ない葛藤は、細やかな演技によって不思議な浮遊感と共に表現されている。
そして、カシマとのデートシーンで見せる、恋する乙女の様なはにかんだ笑顔は文句なしにカワイイ!
テレビの連ドラも良いけど、やはりこの人はスクリーンで非凡な輝きを放つ。
映画出演は8年ぶりだそうだが、是非もっと映画に出て欲しいものである。
野ばらに集まる女たちは、「チンコ、チンコ」とかしましい村のおばちゃんたちだが、なおこの幼馴染のみっちゃんとともちゃんだけが若い・・・と言っても三十代だけど。
フィリピンパブのママ、みっちゃんを演じる小池栄子は、エネルギーの塊の様なパワフルなキャラクターで、なおこと静と動の好対照を形作る。
映画版でややキャラクターを膨らませているともちゃんを演じる池脇千鶴と共に、この世代の演技派の揃ったキャストは見応え十分だ。
彼女たちの人生の師匠・・・もとい、反面教師の様な年寄りたちもまた、一人一人が魅力的で、宇崎竜童演じるカズオなんて妙な説得力がある。
まさ子との復縁を迫るなおこに、「男の人生は真夜中のスナック・・・云々」と説明するくだりは納得しすぎて笑ってしまった。
映画の前半は、なおこの生活描写に幾つものサブストーリーが絡み、全体的にコメディタッチ。
ゴミ屋敷で何故か数年ごとに代替わりする爺さんに囲まれた余生を過ごす、奇妙な婆さんのエピソードや、借金塗れになり、パチスロのメダルを残して山でのたれ死ぬともちゃんの夫のエピソード、度重なる浮気に切れたみっちゃんの殺人未遂のエピソードなど、恋に貪欲な女たちと、どうしようもないダメ男たちが織り成す物語は、リアルに捉えるとかなり辛らつながらも、西原作品らしいギャグや下ネタのオブラートにくるまれているおかげで、それほどの痛みを伴わずに観ていられる。
奥寺佐渡子は、これらの一見とりとめの無いエピソードを、最終的に物語が収束すべきところへ向かってゆくと、テーマ的な伏線として機能するように巧みに配置している。
物語の中盤、なおこの娘のももちゃんが別れた夫と旅行に行き、残されたなおこは空いた時間を持て余すようにカシマと温泉へと向かう。
ホテルの部屋で仲睦まじく過ごす二人だが、ふとなおこが目を覚ますとカシマの姿は無い。
突然取り残されたなおこは焦り、泣きながらカシマに電話し「あなたの事がわからない」と訴える。
実はここからが、原作とも少し異なる映画のハイライト。
原作では、なおこの相手が何者で、いつどの様に喪失したのかということに明確な描写は無い。
対して映画版では、多分なおこの抱えてる葛藤をもう少し具体的にしたかったのだと思うが、カシマはなおこが高校生の頃の恋人で、疾うの昔に死んでいたという設定になっているのだ。
このことが明らかになる少し前に、なおことともちゃんの会話の中で、「人間は二度死ぬ」という台詞が出てくる。
一度目は肉体的な死、そして二度目は、その人物を覚えている人が誰もいなくなった時。
なおこがカシマの事を忘れれば、カシマは本当に死んでしまう。
だからこそ、彼女は自らの中に狂気を宿してまで、彼の事を忘れる事が出来ないのである。
そして、パーマネント野ばらに集まる女たちは、全てをわかった上でなおこを見守っている。
やたらかしましいだけに見えたおばちゃんたちも、どちらかと言うと自分の抱える苦しみを、なおこに聞いてもらう役回りに見えていたみっちゃんやともちゃんも、実はなおこの苦しみを分かち合っているのである。
「私、狂ってる?」と聞くなおこに、みっちゃんは「そんなやったら、この街の女はみんな狂うとる」と答えるのだ。
どんなに苦しくても、切なくても、そして幾つになっても「恋」を諦める事の出来ない女たち。
男の私から観ると、なんとも不思議な女性論の様な物語でもあり、菅野美穂だけじゃなくパンチパーマのおばちゃんたちまで、それなりに愛しく感じさせられるキケンな魅力を持つ映画であった。
都会とは流れの違うゆったりとした時間を感じさせる、南国高知のロケーションも見所だ。
今回は高知を代表する地酒、「酔鯨 大吟醸」をチョイス。
酒をこよなく愛し、自ら「鯨海酔侯」と名乗った幕末の土佐藩主、山内豊信にちなんで命名されている。
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この土地に生まれた女が、尋常でなくパワフルだとしても納得だ。

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2010年05月23日 (日) | 編集 |
何故だろう、最近やたらと「9」をタイトルに含む映画が多い。
異色のエイリアンSFやスター共演のゴージャスなミュージカルに続くのは、そのものズバリ数字の「9」がタイトルの作品。
「9 <ナイン> ~9番目の奇妙な人形~」は、人類絶滅後の世界を舞台に、心を持った小さな人形たちの冒険を描くCGアニメーションだ。
とある研究室で、麻袋の様な姿をした奇妙な人形(イライジャ・ウッド)が目覚める。
背中には大きく9の文字。
彼が外に出ると、人間たちの世界は滅びていた。
廃墟と化した街で、9は自分と同じような姿をした2(マーティン・ランドー)と出会う。
自分が一人ぼっちでない事を知り、ホッとする9だったが、突然現れた機械の怪物に襲われ、2が連れ去られてしまう。
気を失っていた9を助けたのは、他のナンバーを持つ人形たち。
9は彼らに、2を救出に行こうと訴えるのだが・・・
アメリカ映画だが、ヨーロッパ的なムードが強い。
主人公である人形たちの造形や敵キャラとなるマシーンたち、重厚な美術の造形感覚は、チェコのイジー・トルンカの人形アニメーションやカレル・ゼマンの銅版画調アニメーションを思わせる。
冒頭から人間たちの死体を描写するあたりを含め、ピクサーやドリームワークスなどの明るく楽しいハリウッドアニメとは一線を画する、ダークでマニアックな世界が広がる。
元々これは、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」にCGアニメーターとして参加していたシェーン・アッカーが、UCLAの卒業制作として作り、2006年度のアカデミー短編アニメーション部門にノミネートされた11分の短編のリメイク。
オリジナルを気に入ったティム・バートンがプロデューサーを務め、アッカー自身によって長編化されたものだ。
物語の骨子そのものは、過去に何度も使われてきた古典的なSF設定をベースとしている。
ある天才科学者が画期的な人工知能を開発する。
だが、為政者たちは、科学者からその技術を奪って、あろう事か戦争の道具に使ってしまい、進化したマシーンたちはやがて人類に反旗を翻えす。
全ての原因となる人工知能を開発した科学者は、最後に自分の魂を九つに分け、20センチほどの大きさの9体の人形に命を吹き込んで力尽きる。
人類は滅び、荒野と化した地上に残ったのは、感情を持たない人工知能と、人間の魂を受け継いだ9体の人形。
つまり、これは人類滅亡後の星を継ぐ者の物語なのである。
生命を消し去ろうとする人工知能が、完全な破壊者であり、無機質な存在として描かれているのに対して、9体の人形はそれぞれが人間の精神の一面を受け継いでいる。
頭が良くて色々な発明をしている2、知識と調査に長けている双子の3と4、9を精神的に支える5、エキセントリックなアーティストの6、孤高の戦士である7、巨漢のジャイアン的キャラクターの8。
そして明確なコントラストを形作るのが二人のリーダーである1と9だ。
人形たちの中で一番最後に生まれた9は、危険を冒しても仲間を救い、自分たちの存在の秘密を探ろうとする。
探究心と義侠心に厚い9に対して、1は変化を拒絶する臆病で保守的な老人として描かれる。
彼らは皆人間の最も人間らしい部分をカリカチュアしたキャラクターで、一人一人では酷くアンバランスで不完全な存在だ。
9と1の間で、分裂している人形たちは、やがて人工知能との存亡をかけた戦いの中で、心を一つにすることを学んでゆく。
主人公9の声をイライジャ・ウッドが演じ、敵対する1はクリストファー・プラマー。
他にもジェニファー・コネリー、ジョン・C・ライリー、マーティン・ランドーといった錚々たる顔ぶれの名優が人形たちを演じて、見応え、いや聞き応え十分。
主な冒険の舞台となるのは、嘗て人間たちが暮らしていた廃墟の街と、人工知能が支配する巨大な廃工場の二箇所。
このうち街のシークエンスで登場するのが、主に人間の精神性を象徴する教会であったり、知性を象徴する図書館であるのが面白い。
ショーン・アッカーはユニークな映像世界の中に、様々なメタファーとミステリアスな謎を散りばめ、観客を作品世界に引き込んでゆく。
だが、人形たちの心の物語が一応の美しいオチを迎えるのに対して、広げるだけ広げた世界観の謎に対する解が存在しないのはちょっと気になる。
人形は何故麻袋の様な姿をしているのか?科学者は何故生命を吸い上げるスイッチと、生命を交換するスイッチを同じ部品にしたのか?人工知能はいちいちロボットを組み立てていたけど、あんなに沢山いた戦闘用ロボットはどこへ消えたのか?そもそも何故科学者は9体の人形に魂を分けたのか?といった些細な事から物語の根本に関わる部分まで、様々な謎が放ったらかしのまま話は進み、結局何の解も見せてくれないまま終ってしまうのだ。
これが短編なら、世界観の部分はインパクト勝負で、ディテールにはあえて触れないという考え方もありだろう。
実際オリジナルの11分版では特に気にならなかった。
しかしながら80分の長編となり、一つ一つのシチュエーションが丁寧に描かれているが故に、説明されない部分が逆に目立ち、いちいち引っかかってしまうのは残念だ。
本来11分で描ける物語をあえて長編化するのならば、ストーリーラインの詳細化以上の新しい方法論が必要だったのではないだろうか。
とは言え、本作は欠点よりも魅力の方がずっと多い。
ハリウッド製のCGアニメーションとして、明るく楽しいメジャー作品とは明らかに異質の、ダークで大人向けの雰囲気を持つ本作が作られた意義は大きい。
ヨーロピアンな感性を持つアメリカ人、シェーン・アッカーの次回作に期待したい。
今回は、チェコの古典アニメ風のCGアニメということで、チェコのピルスナービール「ブドヴァイゼル・ブドヴァル(バドバー)」をチョイス。
このピルスナーが作られる中世以来のビール都市、チェスケー・ブジェヨヴィツェのドイツ語読みがブドヴァイスであり、これを更に英語読みしてアメリカンビールのバドワイザーが名付けられたのは有名な話だ。
故にバドワイザーは、ヨーロッパではバドワイザーの商標を使うことが出来ない。
700年の伝統を持つチェコ製元祖バドワイザーは、ふわりと広がる芳醇な香りに、苦味と酸味のバランスが絶妙。
王道を感じさせる力のある味わいである。
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異色のエイリアンSFやスター共演のゴージャスなミュージカルに続くのは、そのものズバリ数字の「9」がタイトルの作品。
「9 <ナイン> ~9番目の奇妙な人形~」は、人類絶滅後の世界を舞台に、心を持った小さな人形たちの冒険を描くCGアニメーションだ。
とある研究室で、麻袋の様な姿をした奇妙な人形(イライジャ・ウッド)が目覚める。
背中には大きく9の文字。
彼が外に出ると、人間たちの世界は滅びていた。
廃墟と化した街で、9は自分と同じような姿をした2(マーティン・ランドー)と出会う。
自分が一人ぼっちでない事を知り、ホッとする9だったが、突然現れた機械の怪物に襲われ、2が連れ去られてしまう。
気を失っていた9を助けたのは、他のナンバーを持つ人形たち。
9は彼らに、2を救出に行こうと訴えるのだが・・・
アメリカ映画だが、ヨーロッパ的なムードが強い。
主人公である人形たちの造形や敵キャラとなるマシーンたち、重厚な美術の造形感覚は、チェコのイジー・トルンカの人形アニメーションやカレル・ゼマンの銅版画調アニメーションを思わせる。
冒頭から人間たちの死体を描写するあたりを含め、ピクサーやドリームワークスなどの明るく楽しいハリウッドアニメとは一線を画する、ダークでマニアックな世界が広がる。
元々これは、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」にCGアニメーターとして参加していたシェーン・アッカーが、UCLAの卒業制作として作り、2006年度のアカデミー短編アニメーション部門にノミネートされた11分の短編のリメイク。
オリジナルを気に入ったティム・バートンがプロデューサーを務め、アッカー自身によって長編化されたものだ。
物語の骨子そのものは、過去に何度も使われてきた古典的なSF設定をベースとしている。
ある天才科学者が画期的な人工知能を開発する。
だが、為政者たちは、科学者からその技術を奪って、あろう事か戦争の道具に使ってしまい、進化したマシーンたちはやがて人類に反旗を翻えす。
全ての原因となる人工知能を開発した科学者は、最後に自分の魂を九つに分け、20センチほどの大きさの9体の人形に命を吹き込んで力尽きる。
人類は滅び、荒野と化した地上に残ったのは、感情を持たない人工知能と、人間の魂を受け継いだ9体の人形。
つまり、これは人類滅亡後の星を継ぐ者の物語なのである。
生命を消し去ろうとする人工知能が、完全な破壊者であり、無機質な存在として描かれているのに対して、9体の人形はそれぞれが人間の精神の一面を受け継いでいる。
頭が良くて色々な発明をしている2、知識と調査に長けている双子の3と4、9を精神的に支える5、エキセントリックなアーティストの6、孤高の戦士である7、巨漢のジャイアン的キャラクターの8。
そして明確なコントラストを形作るのが二人のリーダーである1と9だ。
人形たちの中で一番最後に生まれた9は、危険を冒しても仲間を救い、自分たちの存在の秘密を探ろうとする。
探究心と義侠心に厚い9に対して、1は変化を拒絶する臆病で保守的な老人として描かれる。
彼らは皆人間の最も人間らしい部分をカリカチュアしたキャラクターで、一人一人では酷くアンバランスで不完全な存在だ。
9と1の間で、分裂している人形たちは、やがて人工知能との存亡をかけた戦いの中で、心を一つにすることを学んでゆく。
主人公9の声をイライジャ・ウッドが演じ、敵対する1はクリストファー・プラマー。
他にもジェニファー・コネリー、ジョン・C・ライリー、マーティン・ランドーといった錚々たる顔ぶれの名優が人形たちを演じて、見応え、いや聞き応え十分。
主な冒険の舞台となるのは、嘗て人間たちが暮らしていた廃墟の街と、人工知能が支配する巨大な廃工場の二箇所。
このうち街のシークエンスで登場するのが、主に人間の精神性を象徴する教会であったり、知性を象徴する図書館であるのが面白い。
ショーン・アッカーはユニークな映像世界の中に、様々なメタファーとミステリアスな謎を散りばめ、観客を作品世界に引き込んでゆく。
だが、人形たちの心の物語が一応の美しいオチを迎えるのに対して、広げるだけ広げた世界観の謎に対する解が存在しないのはちょっと気になる。
人形は何故麻袋の様な姿をしているのか?科学者は何故生命を吸い上げるスイッチと、生命を交換するスイッチを同じ部品にしたのか?人工知能はいちいちロボットを組み立てていたけど、あんなに沢山いた戦闘用ロボットはどこへ消えたのか?そもそも何故科学者は9体の人形に魂を分けたのか?といった些細な事から物語の根本に関わる部分まで、様々な謎が放ったらかしのまま話は進み、結局何の解も見せてくれないまま終ってしまうのだ。
これが短編なら、世界観の部分はインパクト勝負で、ディテールにはあえて触れないという考え方もありだろう。
実際オリジナルの11分版では特に気にならなかった。
しかしながら80分の長編となり、一つ一つのシチュエーションが丁寧に描かれているが故に、説明されない部分が逆に目立ち、いちいち引っかかってしまうのは残念だ。
本来11分で描ける物語をあえて長編化するのならば、ストーリーラインの詳細化以上の新しい方法論が必要だったのではないだろうか。
とは言え、本作は欠点よりも魅力の方がずっと多い。
ハリウッド製のCGアニメーションとして、明るく楽しいメジャー作品とは明らかに異質の、ダークで大人向けの雰囲気を持つ本作が作られた意義は大きい。
ヨーロピアンな感性を持つアメリカ人、シェーン・アッカーの次回作に期待したい。
今回は、チェコの古典アニメ風のCGアニメということで、チェコのピルスナービール「ブドヴァイゼル・ブドヴァル(バドバー)」をチョイス。
このピルスナーが作られる中世以来のビール都市、チェスケー・ブジェヨヴィツェのドイツ語読みがブドヴァイスであり、これを更に英語読みしてアメリカンビールのバドワイザーが名付けられたのは有名な話だ。
故にバドワイザーは、ヨーロッパではバドワイザーの商標を使うことが出来ない。
700年の伝統を持つチェコ製元祖バドワイザーは、ふわりと広がる芳醇な香りに、苦味と酸味のバランスが絶妙。
王道を感じさせる力のある味わいである。

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2010年05月21日 (金) | 編集 |
「書道ガールズ!! わたしたちの甲子園」に描かれるのは、一人心静かに紙と向かい合う、伝統的な書道ではない。
部屋ほどもある大きな和紙に、持つというよりも抱えると言った方がピッタリの巨大な筆で、ショーアップされた演出、ポップミュージックのリズムと共に、チームプレーで豪快な書を書き込んでゆく。
芸術とスポーツが合体したかの様な、紙の上で行われる団体競技だ。
愛媛県立三島高等学校書道部の書道パフォーマンスが一躍有名になったのは、日本テレビの朝のワイドショー「ズームインSUPER!! 」で紹介されたから。
私も放送は見ていて、「へえ、面白い事やってるなあ」と思ったのを覚えている。
実はこのパフォーマンスは、日本有数の「紙の街」である地元の町おこしのために、書道部の生徒たちが発案し、実践していったのだという。
本作は書道への情熱と故郷への想いを胸に、書道パフォーマンスに懸けた高校生たちを描いた青春映画の佳作である。
古くから紙の街として知られる、愛媛県四国中央市。
折からの不況で街は活気を失い、商店街はシャッター通りと化している。
街の四国中央高校の書道部部長の早川里子(成海璃子)は、書家の父の元で幼い頃から書道に打ち込んでいた。
だが、不況にあえぐ街とシンクロするかの様に、書道部も部員が一人、また一人と辞めてゆくじり貧状態。
そんな時、書道部の顧問に就任した臨時教師の池澤(金子ノブアキ)が、進入部員募集の書道パフォーマンスをやった事から、部員で文具店の娘の清美(高畑充希)が感化されてしまう。
書道パフォーマンスなんて邪道だと考えていた里子も、清美の店が閉店する事を聞いて、書道部で閉店セールのパフォーマンスをする事になるのだが・・・・
田舎町の女子高生グループが、一つの目標に突き進むのは「スイングガールズ」や「シムソンズ」と同様で、彼女らの取り組みが町おこしにという切実な目標に結びついているのは「フラガール」を連想させる。
言わば、青春スポコン物の王道のプロットだが、本来孤独でストイックなイメージのある書道を、まるで逆の派手な集団パフォーマンスに結びつけたのが面白い。
スポーツの世界からは、伝統的な競技に創意工夫を加える事で、例えばフリースタイルスキーの様なフレッシュな新競技が生まれたりしているが、これはその書道版。
実際、紙と墨を使ったチアリーディングの様な書道パフォーマンスは、始めて観る人には新鮮な驚きを感じさせるだろう。
本物の三島高校書道部を始め実在の高校生チームが見せる、ダイナミックな競技大会のシーンは、映画的な躍動感に溢れ、見るからに楽しそうだ。
もしも私が高校生だったら、これはやってみたくなるだろうな。
アンジェラ・アキの名曲「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」にのせて演じられる、クライマックスの四国中央高校書道部のパフォーマンスは、故郷への愛に満ち、観客に十分なカタルシスを感じさせる。
5人の書道部の少女たちがとても魅力的だ。
猪股隆一監督は、元々日本テレビのドラマの演出家。
その彼が5年前にチーフディレクターとして手掛けた「瑠璃の島」で初主演したのが、本作の語り部であり主人公の里子を演じる成海璃子だった。
この人って子供の頃から全然顔が変わらない、というか小学生の時点で大人に見えていたので、ようやく最近年齢とルックスがマッチしてきた様な気がする。
里子は、書道に対する複雑な葛藤を抱えているキャラクターだ。
彼女は厳格な書家である父の元で、ストイックに書道を追及して来たが、どうしても自分の理想とする書が書けないでいる。
精神的に父に支配されている彼女は、紙に向き合っても素直な自分を解放する事が出来ないのだ。
そんな時出あった書道パフォーマンスに、最初は反発しつつも、自分を解放できる何かを見つけて、徐々に情熱を傾けてゆく。
成海璃子は、誰にでも経験があるであろう、青春時代の世界と自我との葛藤を丁寧に演じ、堂々たる主役の存在感だ。
努力型の里子にとっては心のライバルとなる天才肌の美央を、「魔法使いに大切なこと」の山下リオが演じ、好コントラストを見せる。
眼鏡っ娘で天然、書道部をパフォーマンスの道に引き込む清美役に高畑充希、内向的でいじめに苦しんだ過去を持つ小春役に小島藤子、部員たちのまとめ役である副部長の香奈役に桜庭ななみ。
彼女らはルックスを含めて明確な個性を持ち、それぞれに長所も欠点も抱えたキャラクターになっている。
5人(+コミックリリーフ的な男子3人)が心を一つにして、初めて一つの調和が訪れ、作品が完成するのは感動的である。
ただ、物語の中で香奈の立ち位置が今ひとつ定まっていないのは気になる。
冒頭、香奈から映画がスタートするので、彼女が語り部なのかと思ったが、直ぐに物語の目線は里子に移ってしまう。
5人の中で唯一私生活の部分が描かれていない事もあり、一番ニュートラルなキャラクターであるはずの香奈を生かしきれずに、逆に少し浮いてしまっているのである。
丁寧に作られているだけに、この辺りはちょっと残念なポイントだ。
本作が描いているのは、書道パフォーマンスに勝った負けたというドラマだけではない。
田舎の高校生が接してる世界は、大人になった今にして思えば決して広い物ではないと思う。
だが、この作品はそんな彼女たちの生活環境に、様々な背景を持った大人たちを、さり気なく配している。
最高品質の紙を作りながら、デフレ社会から弾き出されてしまう紙職人の老人。
シャッター通りと化した商店街で、代々受け継いだ店を閉めなければならない個人商店主。
そして豊かな才能を持ちながら、心に密かな挫折感を抱えた池澤と、パフォーマンスという新しい書道の形を受け入れられない里子の父。
これらの細かなエピソードが、地方のおかれている現実を浮かび上がらせ、書道パフォーマンスへと少女たちを突き動かす情熱の背景に、郷土への真摯な愛情を感じさせのと同時に、映画に対して公共性と深みを与えているのである。
書道ガールズたちも、いつの日か三本煙突の街から外の世界へ旅立つ日が来るかもしれない。
実際に書道パフォーマンスがいくら人気になろうが、それだけで街の景気が回復する訳も無いが、それでも自分たちの育った街、すなわちそこにいる人間を愛し、懸命に行動した経験は、パフォーマンスの出来栄え以上に、彼女たちの心に大きな財産として残るはず。
老若男女誰にでもお勧めできる一本だ。
古来から製紙産業の興る土地には、日本酒の蔵も多い。
どちらも大量の良質の水を必要とするからである。
今回は、四国中央市からは少し離れているが、愛媛の地酒である酒六酒造の「悠 長谷川 大吟醸」をチョイス。
典型的な端麗辛口の吟醸酒で、非常にすっきりとして飲みやすく、これからの季節は冷でいただきたい。
良い意味でクセは無く、どんな料理にも合うだろう。
書道ガールズたちには、日本酒の似合う粋な女性に育っていって欲しいものである。
しかし、おっさんにとって少女たちのキラキラした青春は、もはや眩し過ぎるなあ(笑
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部屋ほどもある大きな和紙に、持つというよりも抱えると言った方がピッタリの巨大な筆で、ショーアップされた演出、ポップミュージックのリズムと共に、チームプレーで豪快な書を書き込んでゆく。
芸術とスポーツが合体したかの様な、紙の上で行われる団体競技だ。
愛媛県立三島高等学校書道部の書道パフォーマンスが一躍有名になったのは、日本テレビの朝のワイドショー「ズームインSUPER!! 」で紹介されたから。
私も放送は見ていて、「へえ、面白い事やってるなあ」と思ったのを覚えている。
実はこのパフォーマンスは、日本有数の「紙の街」である地元の町おこしのために、書道部の生徒たちが発案し、実践していったのだという。
本作は書道への情熱と故郷への想いを胸に、書道パフォーマンスに懸けた高校生たちを描いた青春映画の佳作である。
古くから紙の街として知られる、愛媛県四国中央市。
折からの不況で街は活気を失い、商店街はシャッター通りと化している。
街の四国中央高校の書道部部長の早川里子(成海璃子)は、書家の父の元で幼い頃から書道に打ち込んでいた。
だが、不況にあえぐ街とシンクロするかの様に、書道部も部員が一人、また一人と辞めてゆくじり貧状態。
そんな時、書道部の顧問に就任した臨時教師の池澤(金子ノブアキ)が、進入部員募集の書道パフォーマンスをやった事から、部員で文具店の娘の清美(高畑充希)が感化されてしまう。
書道パフォーマンスなんて邪道だと考えていた里子も、清美の店が閉店する事を聞いて、書道部で閉店セールのパフォーマンスをする事になるのだが・・・・
田舎町の女子高生グループが、一つの目標に突き進むのは「スイングガールズ」や「シムソンズ」と同様で、彼女らの取り組みが町おこしにという切実な目標に結びついているのは「フラガール」を連想させる。
言わば、青春スポコン物の王道のプロットだが、本来孤独でストイックなイメージのある書道を、まるで逆の派手な集団パフォーマンスに結びつけたのが面白い。
スポーツの世界からは、伝統的な競技に創意工夫を加える事で、例えばフリースタイルスキーの様なフレッシュな新競技が生まれたりしているが、これはその書道版。
実際、紙と墨を使ったチアリーディングの様な書道パフォーマンスは、始めて観る人には新鮮な驚きを感じさせるだろう。
本物の三島高校書道部を始め実在の高校生チームが見せる、ダイナミックな競技大会のシーンは、映画的な躍動感に溢れ、見るからに楽しそうだ。
もしも私が高校生だったら、これはやってみたくなるだろうな。
アンジェラ・アキの名曲「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」にのせて演じられる、クライマックスの四国中央高校書道部のパフォーマンスは、故郷への愛に満ち、観客に十分なカタルシスを感じさせる。
5人の書道部の少女たちがとても魅力的だ。
猪股隆一監督は、元々日本テレビのドラマの演出家。
その彼が5年前にチーフディレクターとして手掛けた「瑠璃の島」で初主演したのが、本作の語り部であり主人公の里子を演じる成海璃子だった。
この人って子供の頃から全然顔が変わらない、というか小学生の時点で大人に見えていたので、ようやく最近年齢とルックスがマッチしてきた様な気がする。
里子は、書道に対する複雑な葛藤を抱えているキャラクターだ。
彼女は厳格な書家である父の元で、ストイックに書道を追及して来たが、どうしても自分の理想とする書が書けないでいる。
精神的に父に支配されている彼女は、紙に向き合っても素直な自分を解放する事が出来ないのだ。
そんな時出あった書道パフォーマンスに、最初は反発しつつも、自分を解放できる何かを見つけて、徐々に情熱を傾けてゆく。
成海璃子は、誰にでも経験があるであろう、青春時代の世界と自我との葛藤を丁寧に演じ、堂々たる主役の存在感だ。
努力型の里子にとっては心のライバルとなる天才肌の美央を、「魔法使いに大切なこと」の山下リオが演じ、好コントラストを見せる。
眼鏡っ娘で天然、書道部をパフォーマンスの道に引き込む清美役に高畑充希、内向的でいじめに苦しんだ過去を持つ小春役に小島藤子、部員たちのまとめ役である副部長の香奈役に桜庭ななみ。
彼女らはルックスを含めて明確な個性を持ち、それぞれに長所も欠点も抱えたキャラクターになっている。
5人(+コミックリリーフ的な男子3人)が心を一つにして、初めて一つの調和が訪れ、作品が完成するのは感動的である。
ただ、物語の中で香奈の立ち位置が今ひとつ定まっていないのは気になる。
冒頭、香奈から映画がスタートするので、彼女が語り部なのかと思ったが、直ぐに物語の目線は里子に移ってしまう。
5人の中で唯一私生活の部分が描かれていない事もあり、一番ニュートラルなキャラクターであるはずの香奈を生かしきれずに、逆に少し浮いてしまっているのである。
丁寧に作られているだけに、この辺りはちょっと残念なポイントだ。
本作が描いているのは、書道パフォーマンスに勝った負けたというドラマだけではない。
田舎の高校生が接してる世界は、大人になった今にして思えば決して広い物ではないと思う。
だが、この作品はそんな彼女たちの生活環境に、様々な背景を持った大人たちを、さり気なく配している。
最高品質の紙を作りながら、デフレ社会から弾き出されてしまう紙職人の老人。
シャッター通りと化した商店街で、代々受け継いだ店を閉めなければならない個人商店主。
そして豊かな才能を持ちながら、心に密かな挫折感を抱えた池澤と、パフォーマンスという新しい書道の形を受け入れられない里子の父。
これらの細かなエピソードが、地方のおかれている現実を浮かび上がらせ、書道パフォーマンスへと少女たちを突き動かす情熱の背景に、郷土への真摯な愛情を感じさせのと同時に、映画に対して公共性と深みを与えているのである。
書道ガールズたちも、いつの日か三本煙突の街から外の世界へ旅立つ日が来るかもしれない。
実際に書道パフォーマンスがいくら人気になろうが、それだけで街の景気が回復する訳も無いが、それでも自分たちの育った街、すなわちそこにいる人間を愛し、懸命に行動した経験は、パフォーマンスの出来栄え以上に、彼女たちの心に大きな財産として残るはず。
老若男女誰にでもお勧めできる一本だ。
古来から製紙産業の興る土地には、日本酒の蔵も多い。
どちらも大量の良質の水を必要とするからである。
今回は、四国中央市からは少し離れているが、愛媛の地酒である酒六酒造の「悠 長谷川 大吟醸」をチョイス。
典型的な端麗辛口の吟醸酒で、非常にすっきりとして飲みやすく、これからの季節は冷でいただきたい。
良い意味でクセは無く、どんな料理にも合うだろう。
書道ガールズたちには、日本酒の似合う粋な女性に育っていって欲しいものである。
しかし、おっさんにとって少女たちのキラキラした青春は、もはや眩し過ぎるなあ(笑

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2010年05月16日 (日) | 編集 |
マット・デイモン主演、ポール・グリーングラス監督という「ジェイソン・ボーン」シリーズのコンビによる軍事サスペンス。
元ワシントンポスト紙のバグダッド支局長、ラジブ・チャンドラセカランのノンフィクションをベースとした本作のモチーフとなるのは、「世紀の嘘」としてアメリカ合衆国の信用を一気に地に落す事になった、イラクの大量破壊兵器(WMD)の情報隠蔽問題だ。
タイトルの「グリーン・ゾーン」とは、バグダッド陥落後にアメリカが設けた、10平方キロに渡る隔離された安全地帯の事である。
2003年春、米軍占領下のイラク。
WMDの捜索を担当するMET隊を率いる米軍上級準尉のミラー(マット・デイモン)は、上層部からの情報が不正確で空振りばかりな事に不審感を抱いていた。
ある日、英語を話すイラク人のフレディ(ハリド・アブダラ)から、近くの家でフセイン政権の大物たちが会合を開いているという情報を入手したミラーは、急襲した現場でWMDのカギを握るアル・ラウィ将軍(イガル・ノール)を目撃するが取り逃がしてしまう。
ミラーはCIAのマーティ(ブレンダン・グリーソン)から、占領当局の内部で情報が操作され、偽情報が現場に流されているという事実を告げられる・・・・
全体の雰囲気は、同じ監督・主演コンビによる「ボーン」シリーズによく似ている。
情報の断片を追って、主人公が常に動き回り、敵味方入り乱れての情報戦を戦って行くと言う物語の構造も共通しているのだ。
特に途中からミラーが単独行動をし始めると、ますますボーンっぽくなり、違いと言えば探している物が自分のアイデンティティーか大量破壊兵器の証拠かというくらい。
だが、この一点の違いが、本作のシリアスな社会派映画としての側面を際立たせる。
ベースとなった本の原題は、「Imperial Life in the Emerald City: Inside Iraq's Green Zone(エメラルドシティの皇帝暮らし:イラク、グリーン・ゾーンの内情)」という、かなり皮肉っぽい物だ。
戦時下のイラクの混沌から隔離されたグリーン・ゾーンは、いわば現実の中に突然出現したファンタジーの街。
ここに引きこもり、優雅な皇帝の様な暮らしを送る占領当局は、現実を知らずに理屈だけでイラクを統治できると錯覚していたという事実を、かなり自虐的に表したタイトルだろう。
この本はノンフィクションで、映画のミラーのモデルとなっているのは、MET隊を率いたモンティ・ゴンザレスという実在の人物で、本作にもアドバイザーとして協力している。
つまり、映画は一応フィクションの体裁をとってはいるが、描かれている内容は実際のイラクで起こった事に限りなく近いという事だ。
グリーングラスは、この映画のリアリティを高めるために、MET隊の隊員役に実際の対テロ戦争の帰還兵をキャスティングし、隊の中で本職の俳優はマット・デイモンと副官のペリー役のニコイ・バンクスのみだと言う。
兵士たちは、現場で現実の上官の命令に対する様にデイモンの演技に反応し、結果的に俳優たちの演技もリアルに見えるという訳だ。
また乾燥した戦場の空気を写し取ったのは、「ハート・ロッカー」が記憶に新しい撮影監督バリー・アクロイド。
ドロドロした諜報戦の内情も含めて、戦場のライブ感は十分に伝わってきて、1時間55分を全く飽きさせない。
内容的には社会派映画ではあるけれど、とりあえずスリリングなサスペンス映画が観たいという人も十分楽しめるだろう。
しかしこの映画も、アメリカ映画なのに敵はアメリカ(の権力)。
これはもう時代の気分が反省モードというか、恥辱の歴史を早く払拭したいという事なのかもしれない。
映画のラストカットでさり気なく示唆されている様に、石油利権こそが戦争の最大の理由であった事は今や誰でも知っているが、元々開戦時から反対論の強かった戦争の、唯一の大義名分が真っ赤な嘘で、国家の権力の中枢が国民を欺いていたと言う事実は、アメリカ社会にとってかなり深刻なトラウマになっているのだろう。
この映画でも名門ウォールストリートジャーナルの記者が、政府からリークされた情報を裏も取らずに垂れ流しているという体たらくが描かれていたが、本作の原作者を含めたマスコミにとっても、イラク戦争はジャーナリズムを放棄し権力に阿った恥の歴史である。
そのマスコミは、一斉に反省したと思ったら、今度は揃ってブッシュ政権叩きと戦争の否定を始めるのだが、世界は彼らが好む白黒二元論で伝えきれるほどに単純ではないのもまた事実。
戦争の是非はともかく、この地域に詳しい人に話を聞くと、当初イラク人の多くはフセインの圧制から解放してくれた米軍を歓迎していたのだと言う。
第二次世界大戦後、アメリカが敗れた日本とドイツを力強く蘇らせた様に、イラクの再生に関して綿密な計画を持っていると思っていた様なのだ。
ところが現実には、社会制度やインフラもぶっ壊すだけぶっ壊して、後はイラク人の傀儡政権に任せようという超アバウトな出口戦略しか持っていなかった訳で、占領後の無策が明らかになればなるほど、人々の間に反米感情が高まっていったというのが実際の流れであったらしい。
この辺りの事情が、断片的ではあるが映画に盛り込まれ、「イラク人の気分」が描かれているのは、他のイラク戦争物には無い、なかなかに興味深いポイントだ。
まあ利権に塗れたバカな政治家を選んで、硬直して保身しか考えない官僚に国を任せてしまうと、最終的には国民自身に跳ね返ってくるという恐ろしい教訓話でもある。
そういえばWMDの偽情報にコロリと騙されて、いち早くブッシュへの支持を表明したどこかの国の首相もいたっけ・・・
ポール・グリーングラスとマット・デイモンという、共にアンチ・ブッシュで反イラク戦争派としても知られる二人によって作られた「グリーン・ゾーン」は、良く出来た軍事サスペンス映画であると同時に、アメリカが一刻も早く忘れたい歴史に切り込んだ力作である。
惜しむらくは、この映画がもう少し早く、例えば2005年頃に作られていたら、もっとずっとインパクトがあったという事だろう。
もっとも現在進行形の戦争でもあり、事実を冷静に見つめるにはある程度の時間が必要だと考えると、十分に早いのかも知れないが。
あまり知られていない歴史の内情を描く作品としては、例えば太平洋戦争降伏の玉音放送を巡る日本軍内部の諜報戦を描いた、「日本の一番長い日」などがあるが、これが作られたのは終戦から22年後の1967年であった。
ちなみに、2004年のアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ、恥を知れ!」とスピーチした、マイケル・ムーアは、本作を「It is the most honest film about Iraq War made by Hollywood(ハリウッドで作られた最もまともなイラク戦争映画)」と評しているという。
やっぱり(笑
今回は、またまた喉が渇いてビールが飲みたくなる映画。
主人公に引っ掛けて「ミラー ドラフト」をチョイス。
とにかくカラカラに乾燥した土地で、一番飲みたくなるのが良くも悪くも水っぽいアメリカンビール。
多分、バクダッドのエメラルドシティでも大量に消費されたに違いない。
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元ワシントンポスト紙のバグダッド支局長、ラジブ・チャンドラセカランのノンフィクションをベースとした本作のモチーフとなるのは、「世紀の嘘」としてアメリカ合衆国の信用を一気に地に落す事になった、イラクの大量破壊兵器(WMD)の情報隠蔽問題だ。
タイトルの「グリーン・ゾーン」とは、バグダッド陥落後にアメリカが設けた、10平方キロに渡る隔離された安全地帯の事である。
2003年春、米軍占領下のイラク。
WMDの捜索を担当するMET隊を率いる米軍上級準尉のミラー(マット・デイモン)は、上層部からの情報が不正確で空振りばかりな事に不審感を抱いていた。
ある日、英語を話すイラク人のフレディ(ハリド・アブダラ)から、近くの家でフセイン政権の大物たちが会合を開いているという情報を入手したミラーは、急襲した現場でWMDのカギを握るアル・ラウィ将軍(イガル・ノール)を目撃するが取り逃がしてしまう。
ミラーはCIAのマーティ(ブレンダン・グリーソン)から、占領当局の内部で情報が操作され、偽情報が現場に流されているという事実を告げられる・・・・
全体の雰囲気は、同じ監督・主演コンビによる「ボーン」シリーズによく似ている。
情報の断片を追って、主人公が常に動き回り、敵味方入り乱れての情報戦を戦って行くと言う物語の構造も共通しているのだ。
特に途中からミラーが単独行動をし始めると、ますますボーンっぽくなり、違いと言えば探している物が自分のアイデンティティーか大量破壊兵器の証拠かというくらい。
だが、この一点の違いが、本作のシリアスな社会派映画としての側面を際立たせる。
ベースとなった本の原題は、「Imperial Life in the Emerald City: Inside Iraq's Green Zone(エメラルドシティの皇帝暮らし:イラク、グリーン・ゾーンの内情)」という、かなり皮肉っぽい物だ。
戦時下のイラクの混沌から隔離されたグリーン・ゾーンは、いわば現実の中に突然出現したファンタジーの街。
ここに引きこもり、優雅な皇帝の様な暮らしを送る占領当局は、現実を知らずに理屈だけでイラクを統治できると錯覚していたという事実を、かなり自虐的に表したタイトルだろう。
この本はノンフィクションで、映画のミラーのモデルとなっているのは、MET隊を率いたモンティ・ゴンザレスという実在の人物で、本作にもアドバイザーとして協力している。
つまり、映画は一応フィクションの体裁をとってはいるが、描かれている内容は実際のイラクで起こった事に限りなく近いという事だ。
グリーングラスは、この映画のリアリティを高めるために、MET隊の隊員役に実際の対テロ戦争の帰還兵をキャスティングし、隊の中で本職の俳優はマット・デイモンと副官のペリー役のニコイ・バンクスのみだと言う。
兵士たちは、現場で現実の上官の命令に対する様にデイモンの演技に反応し、結果的に俳優たちの演技もリアルに見えるという訳だ。
また乾燥した戦場の空気を写し取ったのは、「ハート・ロッカー」が記憶に新しい撮影監督バリー・アクロイド。
ドロドロした諜報戦の内情も含めて、戦場のライブ感は十分に伝わってきて、1時間55分を全く飽きさせない。
内容的には社会派映画ではあるけれど、とりあえずスリリングなサスペンス映画が観たいという人も十分楽しめるだろう。
しかしこの映画も、アメリカ映画なのに敵はアメリカ(の権力)。
これはもう時代の気分が反省モードというか、恥辱の歴史を早く払拭したいという事なのかもしれない。
映画のラストカットでさり気なく示唆されている様に、石油利権こそが戦争の最大の理由であった事は今や誰でも知っているが、元々開戦時から反対論の強かった戦争の、唯一の大義名分が真っ赤な嘘で、国家の権力の中枢が国民を欺いていたと言う事実は、アメリカ社会にとってかなり深刻なトラウマになっているのだろう。
この映画でも名門ウォールストリートジャーナルの記者が、政府からリークされた情報を裏も取らずに垂れ流しているという体たらくが描かれていたが、本作の原作者を含めたマスコミにとっても、イラク戦争はジャーナリズムを放棄し権力に阿った恥の歴史である。
そのマスコミは、一斉に反省したと思ったら、今度は揃ってブッシュ政権叩きと戦争の否定を始めるのだが、世界は彼らが好む白黒二元論で伝えきれるほどに単純ではないのもまた事実。
戦争の是非はともかく、この地域に詳しい人に話を聞くと、当初イラク人の多くはフセインの圧制から解放してくれた米軍を歓迎していたのだと言う。
第二次世界大戦後、アメリカが敗れた日本とドイツを力強く蘇らせた様に、イラクの再生に関して綿密な計画を持っていると思っていた様なのだ。
ところが現実には、社会制度やインフラもぶっ壊すだけぶっ壊して、後はイラク人の傀儡政権に任せようという超アバウトな出口戦略しか持っていなかった訳で、占領後の無策が明らかになればなるほど、人々の間に反米感情が高まっていったというのが実際の流れであったらしい。
この辺りの事情が、断片的ではあるが映画に盛り込まれ、「イラク人の気分」が描かれているのは、他のイラク戦争物には無い、なかなかに興味深いポイントだ。
まあ利権に塗れたバカな政治家を選んで、硬直して保身しか考えない官僚に国を任せてしまうと、最終的には国民自身に跳ね返ってくるという恐ろしい教訓話でもある。
そういえばWMDの偽情報にコロリと騙されて、いち早くブッシュへの支持を表明したどこかの国の首相もいたっけ・・・
ポール・グリーングラスとマット・デイモンという、共にアンチ・ブッシュで反イラク戦争派としても知られる二人によって作られた「グリーン・ゾーン」は、良く出来た軍事サスペンス映画であると同時に、アメリカが一刻も早く忘れたい歴史に切り込んだ力作である。
惜しむらくは、この映画がもう少し早く、例えば2005年頃に作られていたら、もっとずっとインパクトがあったという事だろう。
もっとも現在進行形の戦争でもあり、事実を冷静に見つめるにはある程度の時間が必要だと考えると、十分に早いのかも知れないが。
あまり知られていない歴史の内情を描く作品としては、例えば太平洋戦争降伏の玉音放送を巡る日本軍内部の諜報戦を描いた、「日本の一番長い日」などがあるが、これが作られたのは終戦から22年後の1967年であった。
ちなみに、2004年のアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ、恥を知れ!」とスピーチした、マイケル・ムーアは、本作を「It is the most honest film about Iraq War made by Hollywood(ハリウッドで作られた最もまともなイラク戦争映画)」と評しているという。
やっぱり(笑
今回は、またまた喉が渇いてビールが飲みたくなる映画。
主人公に引っ掛けて「ミラー ドラフト」をチョイス。
とにかくカラカラに乾燥した土地で、一番飲みたくなるのが良くも悪くも水っぽいアメリカンビール。
多分、バクダッドのエメラルドシティでも大量に消費されたに違いない。

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2010年05月11日 (火) | 編集 |
ここにボタンがある。
あなたがボタンを押せば、100万ドルを手に入れる事が出来る。
ただし、その結果あなたの知らない誰かが、世界のどこかで死ぬ。
さて、あなたはボタンを押す?押さない?
「運命のボタン」は、こんな究極の選択から、想像を絶するとんでもない事件に巻き込まれる一組の夫婦の物語だ。
1976年、ヴァージニア州。
教師のノーマ(キャメロン・ディアス)とNASAに勤めるアーサー(ジェームス・マースデン)夫妻の元へ、ある朝奇妙な箱が届けられる。
箱には、ガラスのカバーに覆われた、赤いボタンが付いていた。
その日の夕方、今度はスチュワード(フランク・ランジェラ)と名乗る不気味な容貌の男がノーマの元を訪れ、ある提案をする。
曰く「24時間以内にボタンを押せば、100万ドルを提供する。だがあなたの知らない誰かが死ぬ。」
夫妻は迷ったが、ちょうどお金に困っていた事もあり、ノーマがボタンを押してしまう・・・
原作はリチャード・マシスンの短編小説「死を招くボタン・ゲーム」で、以前テレビドラマの「新トワイライト・ゾーン」のエピソードとして映像化されている。
確か本ではボタンの報酬は5万ドルだったと思うが、良心と欲望のシンプルな葛藤を軸に、「人は自分以外の人の事を本当に理解できるのか?」というテーマを浮かび上がらせたマシスンらしい秀逸な寓話だった。
物語的には30分枠のドラマでピッタリというシンプルな内容なので、一体これをどうやって二時間の長編に脚色しているのか興味津々だったのだが・・・・。
一部でカルト的な人気を博した「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリーは、元の物語を単純化して序破急の「序」として使い、以降にオリジナルの「破急」を作り出すと言う構成をとっている。
だが、残念ながらこの脚色は大失敗。
ボタンをめぐる葛藤が、その後の展開に有機的に結びついていないので、前半と後半がまるで乖離してしまっている。
ケリーは原作の「Button, Button」と言うタイトルを、「The Box」に改題しているが、要するに重要なのはボタンよりもハコというモチーフということなのだろう。
しかしながらマシスンの原作をほぼそのまま序の部分に使った事で、どうしてもボタンの印象が強くなり、ハコの意味付けにはかなり無理やりな解説の台詞が必要というのは苦しい。
さらに、思わせぶりに展開する後半の物語は、「地球が静止する日」と「ノウイング」を合体させた様な陳腐な代物で、ワンアイディアを生かしきったシャープな短編に、ゴテゴテと色んなモチーフをくっ付けて引き伸ばした結果、なんとも身も蓋も無い空虚な話になってしまっている。
映画では単なるフックに過ぎないボタン・ゲームが早々に終了して、夫妻がスチュワードの正体を探り出すあたりから何となく嫌な予感がしていたが、前半のボタンを押すのか押さないのかの葛藤と、その結果に対する恐れが高まってくるまではそれなりに面白かった。
だがまさか、神様か宇宙人か創造主だか知らないが、その手の絶対者が出てきちゃうとは思わなかったよ。
劇中では相手が何者なのか明確な説明はないが、キリスト教圏では「雷に打たれる」は神罰の比喩でもあるので、まあ神様的な存在と捉えて間違いないだろう。
ぶっちゃけ、この時点で話がグダグダになるのは予測できた。
人間がどう考え、どう行動しようが、神様の掌から脱出する事は絶対に出来ないのだから、人間の行動によって生まれるドラマ性は失われてしまうのだ。
もちろん「2001年宇宙の旅」の様に、物語を放棄して徹底的に現象を描く事で、高度な哲学性を獲得する作品もあるが、この作品はなんとも中途半端だ。
そもそも人間に妙なゲームをさせる、神様の意図がよくわからない。
このボタンゲームは、人類の精神レベルを計って滅ぼすか生かすか決めるテストらしいのだが、前提条件が全くフェアでない。
一方的にルールを定め、結果の一部だけを開示し、ボタンを押したことで起こる不都合な事は一切教えず、おまけに質問には答えず・・・・まあそれが神様といえばそうだけど、人間サイドから見ればクレームの一つも言いたくなる。
要するに美味い話には裏があるという事なのだろうけど、こんな詐欺紛いのゲームを仕掛ける神様は、何か高尚な目的があるというよりも、普通に善良な市民をいたぶって楽しんでる様にしか見えない。
少なくともこの映画に出てくる「意思」で、もっとも精神性が低くて滅ぼされるべきなのは神様だと思うぞ。
サルトルとかバイキングの火星探査とか、あるいは主人公の肉体の欠損とか、話に何とか哲学的なイメージを盛り込もうと、意味深なモチーフを詰め込んではいるが、結果的にそれらが物語の上で積極的に生かされる事はなく、単なるムード作りにしか寄与していない。
神様のゲームに振り回される、人間たちの行動原理も妙だ。
特に最後の選択は、どう考えても感情の流れからすれば唐突で、ノーマが限りなくバカに見える。
あれでは息子は精神的に全然救われてないし、家族全員が不幸になっただけだ。
大体種ごと滅ぼされると宣言されてるのだから、目が見えるとか耳が聞こえるとかいうレベルの悩みなんて吹っ飛んでしまうだろう。
一神教の世界からは、たまにこういう「全ては神の御心のままに」的な作品が生まれてい来るが、私はどうもこの手の話に物語としての魅力を感じない。
人間は所詮こんな愚かですよ、来世(つうかあの世?)でしか浄化されませんので滅ぼします、と言われても、神様自らが不幸のタネをばら撒いているのだから、ふ~ん神様って酷い奴だね、という感想しか持てない。
何よりも、ボタンを押してしまえば後は人間が何をしようが、どう葛藤しようが、問答無用で帰趨すべき運命が決まっているなら、そもそもどれだけ話の風呂敷を広げようとも結末は運命論の原則に戻るしかなく、ドラマツルギーを自分で否定しているのと同じである。
私は「なす術の無い話」に、積極的に受け取る意味を見出せない。
まあ本作にしても、似たような決定論的世界観を持つ「ノウイング」にしても、本国でも大コケしてるので、これは決して日本人故の感想ではないだろう。
評価の高い「ドニー・ダーコ」は、内容にそれほど深い物があった訳ではないものの、脚本の構造と雰囲気は面白かったが、今回は見るべきロジックが存在せず、本当に雰囲気だけで見せる映画になってしまった。
人間ドラマのある前半はそこそこ見られるので、酷くつまらない訳ではないが、本作を一言で言えば凡庸なB級ムードSFだ。
「ドニー・ダーコ」の雰囲気が大好きな人か、ひたすら不条理な映画が好きな人にしか薦めらない。
今回は、映画の中にバイキング探査機が登場するところに引っ掛けて、バイキングが建国した国アイスランドに纏わる酒をチョイス。
「マーティン・ミラーズ・ジン」はイギリスのジンなのだけど、面白いことに精製の過程でイギリスからアイスランドへ一度運ばれ、アイスランドの氷河から流れ出る超軟水とブレンドされると言う。
この水が独特のソフトな口当たりをもたらす・・・ということなのだが、正直私にはそこまでの水の違いはわからなかった。
だが、ボトルにもイギリスとアイスランド間の航路が描かれているこの酒、氷河に封じされた古代の水を求めて、4500キロの旅を経ていると想像すると、なんともロマンを感じられるではないか。
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あなたがボタンを押せば、100万ドルを手に入れる事が出来る。
ただし、その結果あなたの知らない誰かが、世界のどこかで死ぬ。
さて、あなたはボタンを押す?押さない?
「運命のボタン」は、こんな究極の選択から、想像を絶するとんでもない事件に巻き込まれる一組の夫婦の物語だ。
1976年、ヴァージニア州。
教師のノーマ(キャメロン・ディアス)とNASAに勤めるアーサー(ジェームス・マースデン)夫妻の元へ、ある朝奇妙な箱が届けられる。
箱には、ガラスのカバーに覆われた、赤いボタンが付いていた。
その日の夕方、今度はスチュワード(フランク・ランジェラ)と名乗る不気味な容貌の男がノーマの元を訪れ、ある提案をする。
曰く「24時間以内にボタンを押せば、100万ドルを提供する。だがあなたの知らない誰かが死ぬ。」
夫妻は迷ったが、ちょうどお金に困っていた事もあり、ノーマがボタンを押してしまう・・・
原作はリチャード・マシスンの短編小説「死を招くボタン・ゲーム」で、以前テレビドラマの「新トワイライト・ゾーン」のエピソードとして映像化されている。
確か本ではボタンの報酬は5万ドルだったと思うが、良心と欲望のシンプルな葛藤を軸に、「人は自分以外の人の事を本当に理解できるのか?」というテーマを浮かび上がらせたマシスンらしい秀逸な寓話だった。
物語的には30分枠のドラマでピッタリというシンプルな内容なので、一体これをどうやって二時間の長編に脚色しているのか興味津々だったのだが・・・・。
一部でカルト的な人気を博した「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリーは、元の物語を単純化して序破急の「序」として使い、以降にオリジナルの「破急」を作り出すと言う構成をとっている。
だが、残念ながらこの脚色は大失敗。
ボタンをめぐる葛藤が、その後の展開に有機的に結びついていないので、前半と後半がまるで乖離してしまっている。
ケリーは原作の「Button, Button」と言うタイトルを、「The Box」に改題しているが、要するに重要なのはボタンよりもハコというモチーフということなのだろう。
しかしながらマシスンの原作をほぼそのまま序の部分に使った事で、どうしてもボタンの印象が強くなり、ハコの意味付けにはかなり無理やりな解説の台詞が必要というのは苦しい。
さらに、思わせぶりに展開する後半の物語は、「地球が静止する日」と「ノウイング」を合体させた様な陳腐な代物で、ワンアイディアを生かしきったシャープな短編に、ゴテゴテと色んなモチーフをくっ付けて引き伸ばした結果、なんとも身も蓋も無い空虚な話になってしまっている。
映画では単なるフックに過ぎないボタン・ゲームが早々に終了して、夫妻がスチュワードの正体を探り出すあたりから何となく嫌な予感がしていたが、前半のボタンを押すのか押さないのかの葛藤と、その結果に対する恐れが高まってくるまではそれなりに面白かった。
だがまさか、神様か宇宙人か創造主だか知らないが、その手の絶対者が出てきちゃうとは思わなかったよ。
劇中では相手が何者なのか明確な説明はないが、キリスト教圏では「雷に打たれる」は神罰の比喩でもあるので、まあ神様的な存在と捉えて間違いないだろう。
ぶっちゃけ、この時点で話がグダグダになるのは予測できた。
人間がどう考え、どう行動しようが、神様の掌から脱出する事は絶対に出来ないのだから、人間の行動によって生まれるドラマ性は失われてしまうのだ。
もちろん「2001年宇宙の旅」の様に、物語を放棄して徹底的に現象を描く事で、高度な哲学性を獲得する作品もあるが、この作品はなんとも中途半端だ。
そもそも人間に妙なゲームをさせる、神様の意図がよくわからない。
このボタンゲームは、人類の精神レベルを計って滅ぼすか生かすか決めるテストらしいのだが、前提条件が全くフェアでない。
一方的にルールを定め、結果の一部だけを開示し、ボタンを押したことで起こる不都合な事は一切教えず、おまけに質問には答えず・・・・まあそれが神様といえばそうだけど、人間サイドから見ればクレームの一つも言いたくなる。
要するに美味い話には裏があるという事なのだろうけど、こんな詐欺紛いのゲームを仕掛ける神様は、何か高尚な目的があるというよりも、普通に善良な市民をいたぶって楽しんでる様にしか見えない。
少なくともこの映画に出てくる「意思」で、もっとも精神性が低くて滅ぼされるべきなのは神様だと思うぞ。
サルトルとかバイキングの火星探査とか、あるいは主人公の肉体の欠損とか、話に何とか哲学的なイメージを盛り込もうと、意味深なモチーフを詰め込んではいるが、結果的にそれらが物語の上で積極的に生かされる事はなく、単なるムード作りにしか寄与していない。
神様のゲームに振り回される、人間たちの行動原理も妙だ。
特に最後の選択は、どう考えても感情の流れからすれば唐突で、ノーマが限りなくバカに見える。
あれでは息子は精神的に全然救われてないし、家族全員が不幸になっただけだ。
大体種ごと滅ぼされると宣言されてるのだから、目が見えるとか耳が聞こえるとかいうレベルの悩みなんて吹っ飛んでしまうだろう。
一神教の世界からは、たまにこういう「全ては神の御心のままに」的な作品が生まれてい来るが、私はどうもこの手の話に物語としての魅力を感じない。
人間は所詮こんな愚かですよ、来世(つうかあの世?)でしか浄化されませんので滅ぼします、と言われても、神様自らが不幸のタネをばら撒いているのだから、ふ~ん神様って酷い奴だね、という感想しか持てない。
何よりも、ボタンを押してしまえば後は人間が何をしようが、どう葛藤しようが、問答無用で帰趨すべき運命が決まっているなら、そもそもどれだけ話の風呂敷を広げようとも結末は運命論の原則に戻るしかなく、ドラマツルギーを自分で否定しているのと同じである。
私は「なす術の無い話」に、積極的に受け取る意味を見出せない。
まあ本作にしても、似たような決定論的世界観を持つ「ノウイング」にしても、本国でも大コケしてるので、これは決して日本人故の感想ではないだろう。
評価の高い「ドニー・ダーコ」は、内容にそれほど深い物があった訳ではないものの、脚本の構造と雰囲気は面白かったが、今回は見るべきロジックが存在せず、本当に雰囲気だけで見せる映画になってしまった。
人間ドラマのある前半はそこそこ見られるので、酷くつまらない訳ではないが、本作を一言で言えば凡庸なB級ムードSFだ。
「ドニー・ダーコ」の雰囲気が大好きな人か、ひたすら不条理な映画が好きな人にしか薦めらない。
今回は、映画の中にバイキング探査機が登場するところに引っ掛けて、バイキングが建国した国アイスランドに纏わる酒をチョイス。
「マーティン・ミラーズ・ジン」はイギリスのジンなのだけど、面白いことに精製の過程でイギリスからアイスランドへ一度運ばれ、アイスランドの氷河から流れ出る超軟水とブレンドされると言う。
この水が独特のソフトな口当たりをもたらす・・・ということなのだが、正直私にはそこまでの水の違いはわからなかった。
だが、ボトルにもイギリスとアイスランド間の航路が描かれているこの酒、氷河に封じされた古代の水を求めて、4500キロの旅を経ていると想像すると、なんともロマンを感じられるではないか。

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2010年05月07日 (金) | 編集 |
漫画家志望の日本人女性と、語学オタクのアメリカ人男性の恋を描いたラブコメディ。
「ダーリンは外国人」というタイトル通り、作者の小栗左多里が実際のパートナーのトニー・ラズロとの恋愛から結婚、子育てまで、ファニーで心温まる日常を描いたエッセイ漫画の映画化である。
原作は2002年に第一巻が発売されて以来、ロングセラーとなっている他、JRの車内モニターでアニメが放送されているので、そちらで知っている人も多いだろう。
漫画家志望のさおり(井上真央)は英語が大の苦手。
ところがそんな彼女が付き合っているのは、漢字の美しさに一目惚れして来日したという、自称語学オタクのアメリカ人ジャーナリスト、トニー(ジョナサン・シェア)。
両親にトニーの事を言い出せないでいたさおりは、姉の結婚式に二人で出席し、なし崩し的に認めさせる作戦を立てる。
だが、トニーの人柄を気に入った母の一江(大竹しのぶ)は賛成してくれたものの、父の正利(國村隼)には、漫画家になる夢も中途半端なのに、国際結婚なんて賛成できないと言われてしまう。
父に認められるために、頑張るさおりだったが、トニーとの間にだんだんとすれ違いが生まれて・・・
私が定宿にしている旅館に、この漫画が全巻置いてあるので結構以前から読んでいた。
原作はコミカルなショートショートなので、特に大きな事件が起こる訳でもなく、カルチャーギャップが生む深刻な葛藤が繰り広げられるわけでもなく、どちらかというと作者がダーリンのトニーを観察して面白がってるという様な内容だ。
まあとにかく、作者がトニーにベタ惚れしてるんだなあという事が凄く伝わってくる、お惚気・・・いや夫婦愛が大らかに感じられる漫画なのである。
映画は、漫画のキャラクターやエピソードをベースにしつつ、駆け出しのイラストレーターであるさおりが、漫画家を目指しながらも、トニーとの恋を成就させるまでの物語とし、彼ら二人にそれぞれの家族の物語が絡むという構成になっている。
明るくがんばりやだが、猪突猛進型のさおりと、温厚でガラスのハートを持つトニーという、誰が観ても共感出来る主人公二人のキャラクターを丁寧に描写し、観客に二人の応援団の様な意識で感情移入してもらおうという寸法だ。
二人に絡む脇役キャラがあまりにもわかりやすいステロタイプだったり、ベタな部分も多いのだが、奇を衒った部分のない正攻法の物語に仕上げているのは好感が持てる。
ちょっと気になったのは、さおりが漫画家志望なのは良いとして、トニーが何をやっている人かわからず、殆どヒモか主夫みたいに見えてしまう事。
あれじゃ 國村隼じゃなくても心配するぞ。
劇中数箇所に挿入されるアニメーションや、実際の国際結婚カップルのインタビュー映像なども、下手すると限りなく安っぽくなってしまうところだが、元々が適度に力の抜けた映画なので、ちょうど良いアクセントになっていたと思う。
ただ、外国人ならではの視点で日本を切るとか、カルチャーギャップによる大騒動と言ったような物を期待すると、肩透かしを食らうだろう。
確かに予告編にも使われていた、トニーが日本語の言い回しに妙に拘ったり、日本人の奇妙な習慣に戸惑ったりという愉快な描写はあるが、それはあくまでもフックであり、デイテール。
まあそういう要素に振り切った方がコメディとしては面白くなった気もするが、元々原作自体がそっち系ではないので、これはもう致し方あるまい。
この映画に描かれているのは、本来全くの他人である男女が、一つの家庭を持つと言う事の意味であったり、難しさであったり、要するに別に相手が外国人に限った事ではないのである。
さおりとトニーの仲に隙間風が吹く切っ掛けになる食器の洗い方とか、洗濯の仕方なんて、外国人じゃない彼女に怒られた経験のある男子は多いだろうし、ワーカホリックの恋人との接し方に悩んでいる人も相手が外国人じゃなくても沢山いるあだろう。
映画のHPで、本物のトニー・ラザロが「国際結婚とは、ただの結婚である」と書いているが、結局のところ異なる個人の歴史、異なる価値観を持った人間同士が家族になると言う事は、外国人でも同国人でも一緒。
私の知人にも国際結婚カップルは結構いるけど、ムスリムの厳しい食物禁忌は別に問題にならなくても、オムレツに納豆を入れるかどうかで喧嘩するカップルもいるし、アメリカ人の奥さんが和食好きで朝はごはんに焼き魚なのに、日本人の夫はパンとベーコンというカップルもいる。
原作漫画も、違いを受け入れて面白がるくらいの方が結婚生活は長続きする・・・的スタンスなのだけど、何よりも大切なのは、お互いを愛し、思いやる心。
これだけはどこの国でも変わらない、普遍的な価値観じゃなかろうか。
主人公さおりを井上真央、ダーリンことガラスのトニーをジョナサン・シェアが好演。
井上真央はTVドラマの女子高生の役の印象しかないので、もう結婚する役をやってるのにビックリ・・・時の経つのは早い・・・・。
ジョナサン・シェアは本職はコメディアンだそうだが、イイ人キャラにピッタリ嵌り、なかなかに達者な役者っぷりを見せる。
この爽やかな二人を軸に、大竹しのぶや國村隼と言ったベテランたちが脇を固める。
監督の宇恵和昭はベテランのCMディレクターで、長編映画はこれがデビュー作となる。
派手さは無いが、まずは手堅く一本目を仕上げたという印象だ。
「ダーリンは外国人」は、異文化コミュニケーションを肴に、若いカップルの恋の顛末をコミカルかつエモーショナルに描いた愛すべき小品だ。
あらゆる意味でセオリー通りの作りで、もう少し突っ込んで描いて欲しかった部分も少なからずあるし、深みという点では物足りない。
だが、元々これは良い意味で手軽なショートショート漫画の映画化。
原作ファンはまずまず楽しめるだろうし、そうでない人にも敷居は低い。
誰もが素直に共感できて、気分良く映画館を後に出来る、気楽な娯楽映画と捉えると、これは決して悪くない一本である。
今回は、異文化コミュニケーションで生まれた酒を。
カリフォルニア州のバークレーで作られる、米国宝酒造の純米吟醸酒「シエラコールド」をチョイス。
スッキリした口当たりのライトなテイストが特徴で、味付けの濃いアメリカンフードにもピッタリと合う。
日本では販売されていないが、北米の日系スーパーや一部の米国系スーパーでも手に入る。
300mlの飲み切りサイズなので、旅行に行った際などにお勧め。
カリフォルニアの日本酒と言えば、以前はワイン所として知られるナパバレーにも「白山」と言う銘柄が存在していたのだけど、残念ながらクローズしてしまった。
頑張れ、北米のSAKE!
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「ダーリンは外国人」というタイトル通り、作者の小栗左多里が実際のパートナーのトニー・ラズロとの恋愛から結婚、子育てまで、ファニーで心温まる日常を描いたエッセイ漫画の映画化である。
原作は2002年に第一巻が発売されて以来、ロングセラーとなっている他、JRの車内モニターでアニメが放送されているので、そちらで知っている人も多いだろう。
漫画家志望のさおり(井上真央)は英語が大の苦手。
ところがそんな彼女が付き合っているのは、漢字の美しさに一目惚れして来日したという、自称語学オタクのアメリカ人ジャーナリスト、トニー(ジョナサン・シェア)。
両親にトニーの事を言い出せないでいたさおりは、姉の結婚式に二人で出席し、なし崩し的に認めさせる作戦を立てる。
だが、トニーの人柄を気に入った母の一江(大竹しのぶ)は賛成してくれたものの、父の正利(國村隼)には、漫画家になる夢も中途半端なのに、国際結婚なんて賛成できないと言われてしまう。
父に認められるために、頑張るさおりだったが、トニーとの間にだんだんとすれ違いが生まれて・・・
私が定宿にしている旅館に、この漫画が全巻置いてあるので結構以前から読んでいた。
原作はコミカルなショートショートなので、特に大きな事件が起こる訳でもなく、カルチャーギャップが生む深刻な葛藤が繰り広げられるわけでもなく、どちらかというと作者がダーリンのトニーを観察して面白がってるという様な内容だ。
まあとにかく、作者がトニーにベタ惚れしてるんだなあという事が凄く伝わってくる、お惚気・・・いや夫婦愛が大らかに感じられる漫画なのである。
映画は、漫画のキャラクターやエピソードをベースにしつつ、駆け出しのイラストレーターであるさおりが、漫画家を目指しながらも、トニーとの恋を成就させるまでの物語とし、彼ら二人にそれぞれの家族の物語が絡むという構成になっている。
明るくがんばりやだが、猪突猛進型のさおりと、温厚でガラスのハートを持つトニーという、誰が観ても共感出来る主人公二人のキャラクターを丁寧に描写し、観客に二人の応援団の様な意識で感情移入してもらおうという寸法だ。
二人に絡む脇役キャラがあまりにもわかりやすいステロタイプだったり、ベタな部分も多いのだが、奇を衒った部分のない正攻法の物語に仕上げているのは好感が持てる。
ちょっと気になったのは、さおりが漫画家志望なのは良いとして、トニーが何をやっている人かわからず、殆どヒモか主夫みたいに見えてしまう事。
あれじゃ 國村隼じゃなくても心配するぞ。
劇中数箇所に挿入されるアニメーションや、実際の国際結婚カップルのインタビュー映像なども、下手すると限りなく安っぽくなってしまうところだが、元々が適度に力の抜けた映画なので、ちょうど良いアクセントになっていたと思う。
ただ、外国人ならではの視点で日本を切るとか、カルチャーギャップによる大騒動と言ったような物を期待すると、肩透かしを食らうだろう。
確かに予告編にも使われていた、トニーが日本語の言い回しに妙に拘ったり、日本人の奇妙な習慣に戸惑ったりという愉快な描写はあるが、それはあくまでもフックであり、デイテール。
まあそういう要素に振り切った方がコメディとしては面白くなった気もするが、元々原作自体がそっち系ではないので、これはもう致し方あるまい。
この映画に描かれているのは、本来全くの他人である男女が、一つの家庭を持つと言う事の意味であったり、難しさであったり、要するに別に相手が外国人に限った事ではないのである。
さおりとトニーの仲に隙間風が吹く切っ掛けになる食器の洗い方とか、洗濯の仕方なんて、外国人じゃない彼女に怒られた経験のある男子は多いだろうし、ワーカホリックの恋人との接し方に悩んでいる人も相手が外国人じゃなくても沢山いるあだろう。
映画のHPで、本物のトニー・ラザロが「国際結婚とは、ただの結婚である」と書いているが、結局のところ異なる個人の歴史、異なる価値観を持った人間同士が家族になると言う事は、外国人でも同国人でも一緒。
私の知人にも国際結婚カップルは結構いるけど、ムスリムの厳しい食物禁忌は別に問題にならなくても、オムレツに納豆を入れるかどうかで喧嘩するカップルもいるし、アメリカ人の奥さんが和食好きで朝はごはんに焼き魚なのに、日本人の夫はパンとベーコンというカップルもいる。
原作漫画も、違いを受け入れて面白がるくらいの方が結婚生活は長続きする・・・的スタンスなのだけど、何よりも大切なのは、お互いを愛し、思いやる心。
これだけはどこの国でも変わらない、普遍的な価値観じゃなかろうか。
主人公さおりを井上真央、ダーリンことガラスのトニーをジョナサン・シェアが好演。
井上真央はTVドラマの女子高生の役の印象しかないので、もう結婚する役をやってるのにビックリ・・・時の経つのは早い・・・・。
ジョナサン・シェアは本職はコメディアンだそうだが、イイ人キャラにピッタリ嵌り、なかなかに達者な役者っぷりを見せる。
この爽やかな二人を軸に、大竹しのぶや國村隼と言ったベテランたちが脇を固める。
監督の宇恵和昭はベテランのCMディレクターで、長編映画はこれがデビュー作となる。
派手さは無いが、まずは手堅く一本目を仕上げたという印象だ。
「ダーリンは外国人」は、異文化コミュニケーションを肴に、若いカップルの恋の顛末をコミカルかつエモーショナルに描いた愛すべき小品だ。
あらゆる意味でセオリー通りの作りで、もう少し突っ込んで描いて欲しかった部分も少なからずあるし、深みという点では物足りない。
だが、元々これは良い意味で手軽なショートショート漫画の映画化。
原作ファンはまずまず楽しめるだろうし、そうでない人にも敷居は低い。
誰もが素直に共感できて、気分良く映画館を後に出来る、気楽な娯楽映画と捉えると、これは決して悪くない一本である。
今回は、異文化コミュニケーションで生まれた酒を。
カリフォルニア州のバークレーで作られる、米国宝酒造の純米吟醸酒「シエラコールド」をチョイス。
スッキリした口当たりのライトなテイストが特徴で、味付けの濃いアメリカンフードにもピッタリと合う。
日本では販売されていないが、北米の日系スーパーや一部の米国系スーパーでも手に入る。
300mlの飲み切りサイズなので、旅行に行った際などにお勧め。
カリフォルニアの日本酒と言えば、以前はワイン所として知られるナパバレーにも「白山」と言う銘柄が存在していたのだけど、残念ながらクローズしてしまった。
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2010年05月03日 (月) | 編集 |
1980年代のNY、ハーレムの黒人社会を舞台にした、ハードなヒューマンドラマ。
「高価な、素晴らしい」あるいは「最愛の人」を意味する「プレシャス」という名前を持ちながらも、虐待の連鎖に苦しみ、愛を知らない一人の少女が、自らの内面に抑圧された「自我」という宝物を見つけ出す物語だ。
本年度アカデミー賞では、助演女優賞と脚色賞の二冠に輝いた秀作である。
16歳のクレアリース・プレシャス・ジョーンズ(ガボレイ・シディベ)は、二人目の子を妊娠し、学校を退学処分になってしまう。
実はお腹の子は、実の父親に性的虐待を受けて出来た子で、母親のメアリー(モニーク)はいつも娘に辛くあたる。
仕方がなく代用学校に通うようになったプレシャスは、そこで美しく聡明なレイン先生(ポーラ・ハットン)と出会う。
レイン先生は、教育を通じて頑なに閉ざされたプレシャスの心を少しずつ解放してゆくが、プレシャスの身には更なる悲劇が・・・・
主人公、プレシャスの境遇はただただ悲惨だ。
驚くほど太った巨大な体はコンプレックスとなり、中学校には行っているものの読み書きも満足に出来ない。
家に帰れば実の父にレイプされ、母親には召使扱いされたうえに暴力を振るわれる。
父親との間に出来た最初の子はダウン症を患っており、二番目の子を妊娠した事で学校からも退学処分を受ける。
よくもまあ、これほど悲惨なシチュエーションを考えるものだ。
誰からも愛されない、必要とされないと感じているプレシャスが逃げ込めるのは、唯一空想の世界だけ。
ここでは彼女は好きな男の子とデートも出来るし、歌って踊れるスターにもなれる。
現実には暴力でプレシャスを支配しているメアリーだって、遠い記憶に残るやさしい母親のままだ。
この空想世界のポップな描写が、この映画を陰鬱な空気に落ち込むのを救っている。
プレシャスの人生を変えるのは、中学を追い出された結果通う事になる代用学校(alternative school)で出会ったブルー・レイン先生。
この神秘的な名前を持つ先生は、それまで殆どまともに教育を受ける機会の無かったプレシャスに、学ぶ喜び、表現する喜びを誠実に教え、彼女の心を解放してゆく。
支配され、抑圧され続けてきたプレシャスは、現状を受け入れて諦める事しか知らない。
だがレイン先生との出会いは、彼女の中に自我を目覚めさせ、遂に自らの意思で自分の人生を歩み始めるのである。
プレシャスの背景にあるのは、世代を超えた負の連鎖。
彼女を虐待する母のメアリーも、実は諦める事に慣れてしまっている。
働く事をせず、カウチに座ってテレビばかり見ているのも、それが彼女にとって逃げ込める場だからに過ぎない。
愛した男は、あろう事か実の娘に手をだしてしまう。
メアリーにとって、プレシャスは愛する娘であるのと同時に、愛する男を奪った憎い恋敵。
複雑な愛憎に苦しみ、暴力でプレシャスを支配する事で、自らの葛藤に蓋をしている孤独で悲しい女性なのだ。
タイトルロールのプレシャスを演じる新星ガボレイ・シディベは、その巨体の迫力もあって、鮮烈な印象を残す。
実際にハーレムの出身だという彼女、演技経験は皆無だったそうだが圧倒的な存在感でこの役を演じきっている。
体格でもプレシャスに見劣りしない母メアリーを演じるのは、本作でオスカーを受賞したモニーク。
二人の壮絶な肉弾戦も見ものだが、娘に対して抱いている複雑な感情を吐露するシーンは、本編の白眉であった。
そして、メアリーがプレシャスを地獄に留め置こうとするなら、彼女を引っ張り上げる「蜘蛛の糸」となるのがレイン先生を演じたポーラ・ハットンだ。
本作のリー・ダニエルズ監督がプロデュースした、「チョコレート」のハル・ベリーを彷彿とさせるクールなルックスで、包容力のあるインテリでレズビアンの教師という、いかにも80年代的なキャラクターを説得力たっぷりに演じている。
またマライヤ・キャリーやレニー・クラヴィッツと言ったミュージックシーンの大物が、地味な役で達者な演技を見せているのも面白い。
特にスッピンのマライヤは一瞬誰だかわからないくらいだ。
80年代を舞台にした本作、当時深刻になりつつあったHIVの問題や同性愛のムーブメントを自然に物語の背景に取り込み、時代性は生かされている。
だが、映画化にあたって舞台を現在にしなかったのには、別の意図もあるのではないか。
物語を通して、閉じこもった精神を解放してゆくプレシャスだが、映画の結末は必ずしもハッピーエンドとは言えない。
確かに彼女の心は物語の始まりと終わりで大きく成長し、たくましくなっているのだが、現実に彼女が直面している状況としては、決して良くなっている訳ではないのだ。
乳飲み子と自らの病気を抱えて、十分な学歴を持たないプレシャスが、この先社会の中で幸せな人生を送れる可能性は限りなく低いだろう。
そして、彼女に象徴される黒人社会の実情が、一体この20数年の間に劇的に改善されたであろうか。
もちろん、変わった部分もあるだろう。
レーガン大統領の時代に、バラク・オバマの登場は夢想すら出来なかった。
だが、だからと言って差別が無くなった訳でもなく、アフリカ系女性が生活保護に依存するパーセンテージは依然として深刻なままで、貧富の格差はむしろ激しくなった。
そして、昔も今も無数に存在しているプレシャスの様な境遇の少女たちが、現実のレイン先生や本当に親身になってくれるソーシャルワーカーに巡りあえる可能性は、映画とは違って決して高くないだろう。
そう、プレシャスは星の数ほどの悲劇の中の、幸運な一人なのだ。
観客は、プレシャスが強く成長する物語に救われる。
だが同時に、20年以上過去の事を描いているのにも関わらず、なぜか十分な現代性があるという、救われない事実にも気付かされるのである。
様々な顔を持つ巨大都市ニューヨーク。
今回の映画が、そのもっとも厳しい一面を描いた物だとしたら、映画の後は華やかに、カクテル「ビッグ・アップル」でしめよう。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアする。
最後にカットしたアップルを飾って完成。
シンプルに作れて、シャープな輪郭のこの酒は、どちらかと言うとレイン先生のイメージかな。
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「高価な、素晴らしい」あるいは「最愛の人」を意味する「プレシャス」という名前を持ちながらも、虐待の連鎖に苦しみ、愛を知らない一人の少女が、自らの内面に抑圧された「自我」という宝物を見つけ出す物語だ。
本年度アカデミー賞では、助演女優賞と脚色賞の二冠に輝いた秀作である。
16歳のクレアリース・プレシャス・ジョーンズ(ガボレイ・シディベ)は、二人目の子を妊娠し、学校を退学処分になってしまう。
実はお腹の子は、実の父親に性的虐待を受けて出来た子で、母親のメアリー(モニーク)はいつも娘に辛くあたる。
仕方がなく代用学校に通うようになったプレシャスは、そこで美しく聡明なレイン先生(ポーラ・ハットン)と出会う。
レイン先生は、教育を通じて頑なに閉ざされたプレシャスの心を少しずつ解放してゆくが、プレシャスの身には更なる悲劇が・・・・
主人公、プレシャスの境遇はただただ悲惨だ。
驚くほど太った巨大な体はコンプレックスとなり、中学校には行っているものの読み書きも満足に出来ない。
家に帰れば実の父にレイプされ、母親には召使扱いされたうえに暴力を振るわれる。
父親との間に出来た最初の子はダウン症を患っており、二番目の子を妊娠した事で学校からも退学処分を受ける。
よくもまあ、これほど悲惨なシチュエーションを考えるものだ。
誰からも愛されない、必要とされないと感じているプレシャスが逃げ込めるのは、唯一空想の世界だけ。
ここでは彼女は好きな男の子とデートも出来るし、歌って踊れるスターにもなれる。
現実には暴力でプレシャスを支配しているメアリーだって、遠い記憶に残るやさしい母親のままだ。
この空想世界のポップな描写が、この映画を陰鬱な空気に落ち込むのを救っている。
プレシャスの人生を変えるのは、中学を追い出された結果通う事になる代用学校(alternative school)で出会ったブルー・レイン先生。
この神秘的な名前を持つ先生は、それまで殆どまともに教育を受ける機会の無かったプレシャスに、学ぶ喜び、表現する喜びを誠実に教え、彼女の心を解放してゆく。
支配され、抑圧され続けてきたプレシャスは、現状を受け入れて諦める事しか知らない。
だがレイン先生との出会いは、彼女の中に自我を目覚めさせ、遂に自らの意思で自分の人生を歩み始めるのである。
プレシャスの背景にあるのは、世代を超えた負の連鎖。
彼女を虐待する母のメアリーも、実は諦める事に慣れてしまっている。
働く事をせず、カウチに座ってテレビばかり見ているのも、それが彼女にとって逃げ込める場だからに過ぎない。
愛した男は、あろう事か実の娘に手をだしてしまう。
メアリーにとって、プレシャスは愛する娘であるのと同時に、愛する男を奪った憎い恋敵。
複雑な愛憎に苦しみ、暴力でプレシャスを支配する事で、自らの葛藤に蓋をしている孤独で悲しい女性なのだ。
タイトルロールのプレシャスを演じる新星ガボレイ・シディベは、その巨体の迫力もあって、鮮烈な印象を残す。
実際にハーレムの出身だという彼女、演技経験は皆無だったそうだが圧倒的な存在感でこの役を演じきっている。
体格でもプレシャスに見劣りしない母メアリーを演じるのは、本作でオスカーを受賞したモニーク。
二人の壮絶な肉弾戦も見ものだが、娘に対して抱いている複雑な感情を吐露するシーンは、本編の白眉であった。
そして、メアリーがプレシャスを地獄に留め置こうとするなら、彼女を引っ張り上げる「蜘蛛の糸」となるのがレイン先生を演じたポーラ・ハットンだ。
本作のリー・ダニエルズ監督がプロデュースした、「チョコレート」のハル・ベリーを彷彿とさせるクールなルックスで、包容力のあるインテリでレズビアンの教師という、いかにも80年代的なキャラクターを説得力たっぷりに演じている。
またマライヤ・キャリーやレニー・クラヴィッツと言ったミュージックシーンの大物が、地味な役で達者な演技を見せているのも面白い。
特にスッピンのマライヤは一瞬誰だかわからないくらいだ。
80年代を舞台にした本作、当時深刻になりつつあったHIVの問題や同性愛のムーブメントを自然に物語の背景に取り込み、時代性は生かされている。
だが、映画化にあたって舞台を現在にしなかったのには、別の意図もあるのではないか。
物語を通して、閉じこもった精神を解放してゆくプレシャスだが、映画の結末は必ずしもハッピーエンドとは言えない。
確かに彼女の心は物語の始まりと終わりで大きく成長し、たくましくなっているのだが、現実に彼女が直面している状況としては、決して良くなっている訳ではないのだ。
乳飲み子と自らの病気を抱えて、十分な学歴を持たないプレシャスが、この先社会の中で幸せな人生を送れる可能性は限りなく低いだろう。
そして、彼女に象徴される黒人社会の実情が、一体この20数年の間に劇的に改善されたであろうか。
もちろん、変わった部分もあるだろう。
レーガン大統領の時代に、バラク・オバマの登場は夢想すら出来なかった。
だが、だからと言って差別が無くなった訳でもなく、アフリカ系女性が生活保護に依存するパーセンテージは依然として深刻なままで、貧富の格差はむしろ激しくなった。
そして、昔も今も無数に存在しているプレシャスの様な境遇の少女たちが、現実のレイン先生や本当に親身になってくれるソーシャルワーカーに巡りあえる可能性は、映画とは違って決して高くないだろう。
そう、プレシャスは星の数ほどの悲劇の中の、幸運な一人なのだ。
観客は、プレシャスが強く成長する物語に救われる。
だが同時に、20年以上過去の事を描いているのにも関わらず、なぜか十分な現代性があるという、救われない事実にも気付かされるのである。
様々な顔を持つ巨大都市ニューヨーク。
今回の映画が、そのもっとも厳しい一面を描いた物だとしたら、映画の後は華やかに、カクテル「ビッグ・アップル」でしめよう。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアする。
最後にカットしたアップルを飾って完成。
シンプルに作れて、シャープな輪郭のこの酒は、どちらかと言うとレイン先生のイメージかな。

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