酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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エルム街の悪夢・・・・・評価額1400円
2010年06月29日 (火) | 編集 |
マイケル・ベイ率いるプラチナム・デューンズは、ホラーリメイクの専門レーベルで、今までも「テキサス・チェーンソー」のレザーフェイスや「13日の金曜日」のジェイソンなどを復活させてきた。
今回、彼らによって地獄から蘇るのは、ウェス・クレイブン監督によって創造された夢の中の殺人鬼、フレディ・クルーガーだ。
既に古典ホラーの仲間入りをしている1984年の一作目、「エルム街の悪夢」をベースに、これが長編デビュー作となるサミュエル・ベイヤーがメガホンを取った。

高校生のディーン(ケラン・ラッツ)が、ダイナーで自らの首にナイフを突き立てて死亡するという事件が起こる。
ディーンは、手にナイフをつけた帽子の男(ジャッキー・ア-ル・ヘイリー)に追いかけられる悪夢に悩まされていた。
そしてナイフ男は、エルム街に住むディーンの同級生達の夢にも出没するようになり、彼らは夢の中で一人また一人と殺されて行く。
夢の中でナイフ男と自分の幼稚園時代の姿を見たナンシー(ルーニー・マーラー)は、夢を見る者には何か共通する過去があるのではないかと考えるが、親達は頑なに口を閉ざす。
ナンシーは、夢で見た幼稚園を探し始めるのだが・・・・


自分が10代の頃にリアルタイムで観た作品が、もはや「古典」としか表現出来無い事に驚くが、この四半世紀の間に作られたシリーズは8本。
正規のシリーズは91年に作られた「エルム街の悪夢 ザ・ファイナルナイトメア」までの6本で、その後の番外編として、もう一つの人気シリーズ「13日の金曜日」とのコラボ作「フレディVSジェイソン」や、実名で出演する一作目のスタッフ・キャストが、現実世界でフレディに悩まされる「エルム街の悪夢 ザ・リアルナイトメア」という珍品もあった。
何れにせよ、ロバート・イングランドが当たり役フレディ・クルーガーを演じたシリーズは、今回仕切りなおしという事で、内容的には一作目の完全リメイクとなり、「ウォッチメン」のロールシャッハ役が記憶に新しい、ジャッキー・アール・ヘイリーが二代目フレディを襲名した。
この人も私の世代には「がんばれ!ベアーズ」の爽やか野球少年だったりするのだが、もはや面影すら残ってないなあ。

細かな人物設定や世界観のディテールは脚色されているものの、物語の流れはオリジナルにかなり忠実だ。
80年代当時流行だったスラッシュホラーは、流される血の量とグロテスクさを売りにしていたが、オリジナルはそれらと一線を画す物語の面白さで引っ張るタイプの作品だっただけに、プロットは今観ても十分良く出来ており、基本となるストーリーラインを変更しなかったのは正解だろう。
オリジナルでへザー・ランゲンカンプが演じたナンシーは、新作ではルーニー・マーラーが演じているが、相棒となるクエンティン役のカイル・ガルナーと共に、どことなく内向的でオタクっぽいキャラクターになっているのが面白い。
まあ相手は夢の中から襲ってくるのだから、内容とのマッチングという点ではこの方が良いのかも知れない。

この話の恐ろしさは、睡眠という生物にとって決定的に重要で、尚且つ本来は安らかで心地良いものによって命を奪われるという点だと思う。
眠ればフレディによって殺され、眠らなくてもやがては生物学的な限界で死ぬ、逃げようにも夢という具体的な場所を伴わない概念からは決して逃れられない、という正に悪夢、八方塞の状況である。
旧シリーズでは、フレディのキャラクターが回を重ねるごとに悪乗りし始め、だんだんとコメディ色が強くなっていったが、サミュエル・ベイヤーは作品のテイストもオリジナルに近いハードな恐怖映画とした。
嘗てのコメディ色は、あくまでもイングランドの確立したキャラクターとファンの長年の馴れ合いがあっての事で、「ファイナルナイトメア」から既に19年が経過し、昔のフレディを知らない若者たちをターゲットにしたリメイクだけに、この選択はまあ当然だろう。
実際、本作のフレディは残酷で容赦なく、被害者達の眠る事への恐怖も上手く出ている。
ベイヤーがリメイクしたのは、あくまでもホラー映画としての「エルム街の悪夢」であり、その点ではまずまずの仕事をしていると言って良い。
浴槽からニュ~ッと伸びてくるナイフの手や、壁から突き出すフレディの顔などの有名なシーンをオマージュ的に再現しつつ、現在のVFX技術を用いて迫力のある見せ場を構築している。
ただ、どうせならフレディの造形や夢の描写に、もう少しぶっ飛んだイマジネーションを持ち込んでも良かったかもしれない。
カーボンコピーの様なリメイクとは異なるものの、作り手にオリジナルへの忠誠心が強すぎるためか、オールドファンにとっては、どこか既視感から逃れられない印象だったのもまた事実である。
もっとも、本作で初めて「エルム街の悪夢」に浸る若い観客達にとっては、そもそもオリジナルとの相違などどうでも良い事なのかも知れないけど。
本作のプラチナム・デューンズやダークキャッスルといったホラー専門レーベルによる、旧作ホラーのリメイク企画はそれはそれで楽しいものだが、個人的にはそろそろホラーの世界にも新しい恐怖のヒーローの登場を望みたい。

ちなみにこのシリーズは、一作目のウェス・クレイブン以来、続編を担当した監督が軒並み出世するという幸運のジンクスでも有名である。
二作目のジャック・ショルダー、三作目のチャック・ラッセル、四作目のレニー・ハーリン、五作目のスティーブン・ホプキンスらは、その後にメジャー大作のキャリアをスタートさせている。(もっとも、改めて見ると勢いが長続きしないというジンクスも見えるが・・)
また一作目は、今をときめくジョニー・デップのデビュー作でもあり(フレディに殺されるグレン役)、シリーズを通じてはローレンス・フィッシュバーンパトリシア・アークエットといったスター俳優たちが初期のキャリアを磨いている。
今回のサミュエル・ベイヤー監督は、既に2012年公開の続編を担当する事が決定しているというが、彼やキャストたちにはどんな未来が開けて行くのだろうか。

今回は、夢繋がりで新潟の田中酒造の「熊鷹 酔夢吟醸」をチョイス。
華やかな香りと、端麗辛口な味わいという北陸らしい特徴を持つ日本酒。
これからの季節は暑い夜に冷で楽しみたい。
ちなみにほろ酔いで見る夢はなんとなく楽しい物が多いが、泥酔すると悪夢が多くなる気がするのは私だけだろうか。

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FLOWERS ‐フラワーズ‐・・・・・評価額1250円
2010年06月25日 (金) | 編集 |
資生堂の化粧品“TSUBAKI”のCMから生まれた、スピンオフ企画の劇場用映画。
製作委員会にも資生堂とCMの代理店、ADKが含まれている。
小泉徳宏監督は、蒼井優、竹内結子、田中麗奈、仲間由紀恵、鈴木京香、広末涼子という、一人でも十分主役を張れる六人もの綺麗どころを、昭和11年から現代までの70年以上にも渡る時間軸の中に配し、三世代一つの家族の物語とした。
それぞれの時代の物語を、当時の映画の映像テイストで描くなど、遊び心もあってなかなかに楽しいが、如何せん六通りの人生を描くのに2時間に満たない上映時間は短すぎる。
家族の継承というコンセプト以外に、明確な物語のコアを持たない事もあり、やや漠然とした印象の作品となってしまった。
本作の「FLOWERS ‐フラワーズ‐」は、満開とはならず半開という感じだ。

昭和11年春。
結婚式を控えた凛(蒼井優)は、親の決めた結婚に従うべきかどうか悩んでいた。
相手は父が将来を見込んだ男性だが、凛の心は煮え切らない。
時はめぐり平成21年、ピアニストの夢に敗れた奏(鈴木京香)は、妊娠を告げられないまま長年付き合った恋人とも別れ、人生の進路に迷っていた。
そんな時、祖母が亡くなったという知らせで帰省した奏は、幸せな家庭を築いている妹の佳(広末涼子)と再会し、亡き母である慧(仲間由紀恵)の思い出に浸る。
昭和30年代末、慧、薫(竹内結子)、翠(田中麗奈)の三姉妹は、それぞれの青春を謳歌していた・・・・


CMなら兎も角、これだけの数の人気者を集めるのは大変だっただろう。
スケジュールはもちろん、所属事務所間の関係や、“格”に関わる序列の問題、また六人が平等の扱いであったCMとの関連性からも特定の誰かを主役にする訳にもいかず、相当に話作りに苦労したであろうことは、冒頭のあいうえお順のクレジットからも窺い知れる。
日本の一つの家族に生まれた三世代の女性達の、世代を超えた成長と葛藤の物語と言うのも、本当の意味で六名共演が不可能なための妥協の産物なのだろうが、それでもまあ課せられた条件下で、企画の方向性としては間違ってはいなかったと思う。

物語は昭和11年、明日結婚式を迎える蒼井優のエピソードで幕が開く。
厳格な父の言いなりとなり、特に好きでもない相手と結婚する事への葛藤、今で言うところのマレッジブルーに陥った花嫁の物語である。
舞台となる時代ごとに、過去の日本映画調の画作りがされているのも本作の特徴。
この話はモノクロで描かれ、カメラもフィックス中心で、昭和の日本映画、特に小津作品へのオマージュであることが伺い知れる。
しかし、いくらなんでもキャラクター造形などはステロタイプにはまり過ぎており、なんだかコスプレショーを観ている様に感じてしまうのはいかがなものか。
それに時代ごとの日本映画の映像的再現なら、ここはビスタじゃなくてスタンダードサイズでしょう。
このエピソードでイマイチ画が決まらないのは、ビジュアルの中途半端さも原因だと思う。
ソフト化の時の面倒を嫌ったのかもしれないが、昭和の日本映画の再現が本作の売りである以上、ここは妥協するべきではなかった。

この後、映画は突然平成の現在へと飛んで、描かれるのは鈴木京香広末涼子の対照的な人生を歩む姉妹の物語。
二人は、92歳で大往生した祖母の葬儀のために、帰省した実家で久々に再会するのだが、ここで祖母は凛であり、これが世代を超えた同じ一族の女たちの物語である事が明かされる。
鈴木京香演じる奏は、ピアニストの仕事を失い、お腹に新しい命を抱えたまま恋人とも別れ、言わば人生のどん底にいる。
対して妹の佳は、既に結婚し夫と息子と共に幸せな家庭を築いている。
この姉妹には、自らの命と引き換えに佳を出産した慧という母がいたのだが、ここから映画は昭和30年代末から40年代の、慧の二人の姉である薫と翠の物語へと飛ぶ。

テクニカラー調のビジュアルで描かれる、この二人のエピソードの対比は面白い。
竹内結子演じる薫と夫を巡る切ないエピソードは、日活青春映画の様なハードなテイストで描かれ、逆に田中麗奈演じる翠の、ややコメディタッチのエピソードは森繁久弥か植木等あたりが出てきそうで、イメージしているのは東宝の社長シリーズあたりだろうか。
ちなみに薫と夫の温泉旅行の部分で使われている作劇ロジックが、つい先日公開されたある映画とそっくり。
偶然だろうが、シチュエーションまで同じなのには少々驚いた。
細かい点だが、ここでも例えば車のシーンはバレバレのリアプロジェクションで撮るくらいの技術的な拘りが欲しかったな。

やがて時代は昭和50年代の、仲間由紀恵演じる慧の家族を巡る物語へと移ってゆく。
体の弱い慧は、二人目の子供である佳を生んだ時に亡くなってしまうのだが、この事が母の思い出を知る奏と、自らの誕生と母の命を引き換えにしたという負目を感じている佳の現在の生き方に強い影響を与えている事がわかる。
実はこの映画、一つの家族の世代を超えた物語とは言っても、実際に二つの世代の継承が描写されているのはこの慧と娘達のエピソードだけなのである。
その分演出的にもかなり力が入っていて、慧の手紙が時間を越えて二人の娘に届くあたりはちょっとウルッと来たが、本作でドラマチックに感情が高ぶるのは、ぶっちゃけた話ここだけだ。

「何だか長い予告編みたい」とは一緒に映画を観た女性の感想だが、やはり一人当たり15分程度では決定的に時間が足りず、物語が断片化してしまっている。
女性達は命を継承し、喜びも悲しみも引き継いで行く・・・というテーマは理解できるし、それは確かに大切な事だろうが、逆にそれしか描いていないので、女性の幸せを子供を作るという一点のみに矮小化してしまった感は否めない。
この事は物語の幹が凛、慧、奏と佳というラインに引かれ、その血統のその後が示されない薫と翠のエピソードがサブストーリーに留まっているので余計に強調されてしまうのだ。
また凛に関しては、結婚後の人生が全く描かれず、娘達世代のエピソードで僅かに暮らしぶりに言及されるだけなので、実際に彼女が幸せな人生を送ったのかは観客には不明なままである。

「FLOWERS ‐フラワーズ‐」は、CMから生まれた企画物ではあるが、なかなか面白いコンセプトだっただけに、やや中途半端な作品になってしまったのがちょっと残念だ。
どうせなら、CMと同じように映画も白TSUBAKIと赤TSUBAKIに分けて二部作として、例えば二つの三世代を描いても良かったのではないか。
ついでにそのうちの誰かが国際結婚して、滝川クリステルも登場したりして(笑

今回はロケーションが行われた能登の地酒、数馬酒造の「竹葉 純米吟醸」をチョイス。
吟醸酒らしい仄かな吟醸香りと、ふんわりまろやかな味わいが特徴。
この蔵も江戸時代の醤油・味噌醸造所をルーツに持ち、明治2年に酒造りを始めて以来、世代を超えて日本の酒造りを守り続けている。
日本にはこうした老舗の酒蔵が1700以上もあるのだが、その数は年々減り続けている。
世代の継承も、なかなか大変である。

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ザ・ウォーカー・・・・・評価額1400円
2010年06月19日 (土) | 編集 |
最終戦争で人類文明が滅亡した後の世界を舞台に、この世に残されたたった一冊の貴重な本を、ひたすら西へと運ぶ男を描いた、デンゼル・ワシントン主演の近未来アクション映画。
一見すると「マッドマックス」や「北斗の拳」を彷彿とさせる世界観で、所謂ポスト・アポカリプト物のバリエーションと言えるが、物語全体が極めて宗教的な寓話となっている異色作だ。
邦題は「ザ・ウォーカー」というB級テイスト溢れる物だが、原題は「The Book of Eli」で、直訳すれば「イーライの本」となる。

最終戦争から30年。
イーライ(デンゼル・ワシントン)は、内なる声に導かれ、西へ向けて無限の荒野を歩み続けている。
一冊の本を、そのあるべき場所に運ぶために。
ある日、生き残った人間達の町に立ち寄ったイーライは、絡んだチンピラたちをあっという間に斬り伏せる。
町の支配者のカーネギー(ゲイリー・オールドマン)は、何年も捜し求めている本を、イーライが持っている事を知り、強引に奪い取ろうとするのだが・・・・


一言で言って、かなり変な映画、珍品と言って良いだろう。
戦争から30年経った世界で、文明社会を知る“年寄り”たちはごく小数となり、戦後生まれの若者達は、弱肉強食の世界で生き残るのに精一杯で、読み書きも出来ない文盲である。
主人公のイーライと、対立するカーネギーは文字を知る世代で、だからこそ本の持つ価値を知り、その力で人類の精神文明を復活させようとしている。
違いはイーライがある種の宗教的使命感で行動しているのに対して、カーネギーは私利私欲のためであるという点のみだ。
世界を変えるほどの精神的なパワーを持つ本、と言う時点でもう大体わかってしまうのだが、彼らが奪い合っているのは“聖書”である。

日本の様な非キリスト教圏において、いや世界最大のキリスト教国であるアメリカでも、宗教的な関心の薄い人には、この設定はあまりピンとこないだろう。
だが、“聖書”というワードを“信仰”に置き換えれば、なんとなく言わんとすることは理解できるのではないか。
なぜ世界一発行部数の多い本である聖書が、この世にたった一冊になってしまったのか、という設定が面白い。
どうやら戦争が起こったとき、聖書がその原因となったという噂が広まり、焚書されてしまったらしいのだ。
戦争を起こすほど人々の心を支配でき、尚且つ文明を保つために不可欠な要素、つまり“信仰”を象徴するのが本作における聖書なのである。
信仰の持つ二重性は、その力を自らの権力のために使おうとするカーネギーの言葉がわかりやすい。
「絶望した者に聖書の言葉を与えれば、言いなりになる」というのは、宗教戦争やカルト問題などを見てもそれなりに説得力のある理論ではある。
イーライとカーネギーが見ているのは、信仰の持つベクトルの異なる二つの力なのだ。

カーネギーが聖書を欲しがる理由が、言わば人間的な欲望であるとすれば、対するイーライの理由は正に神命と言える。
イーライは、ある時に自らの心の内に神の声を聞き、以来30年間も聖書のあるべき場所を探して、声の導く通りに東から西へ旅をしている。
アメリカ大陸を徒歩で横断しても、30年どころか3年もかからないだろう・・・という突っ込みは兎も角、このイーライという人物が何者であるのか、何故人間離れした戦闘能力を持つのか、映画は殆ど明かさないままクライマックスまで突っ走る。
欧米人の名前の多くが聖書にその源を持つ様に、Eli(イーライ)という名前もまた聖書由来の物だ。
旧約聖書のEli(エリ)は、イスラエルの祭司で預言者サムエルの師である。
彼の息子たちが神に対して不敬を働き罪を犯したために、神はエリに対して一族の者は壮年で死に、年寄りがいなくなると告げる。
そして二人の息子はぺリシテとの戦いで殺され、ユダヤの民にとって何よりも神聖な契約の箱まで奪われてしまい、知らせを聞いたエリは、椅子から落ちて首を折って死ぬのだ。
この話を映画に反映してみると、なかなか興味深い比喩になっていることがわかるだろう。
欧米の文学や映画には、人間は全て神から託された果すべき使命を持っていて、その事に気付き、目的を遂げる事こそが人間の生きる道である、という考え方に基づくものが多い。
本作のイーライは正にそれをストレートに具現化した存在であり、彼と旅の仲間となるヒロインのソラーラもまた、イーライにインスパイアされて自らの役割に目覚めるのである。

2001年の「フロム・ヘル」以来、久々の監督作品となるアルバートとアレンのヒューズ兄弟は、セピア調に色を落とした独特の映像で、神の消えた世界を描写する。
この二人はどうやら相当な映画ヲタクらしい。
宗教色の強い寓話でありながら、様々な映画へのマニアックなオマージュ、あるいはパロディを散りばめており、映画ファンなら元ネタ探しも楽しいだろう。
何よりも一番強烈なのは、ラストで明かされる、“神の御加護”に関する驚愕の事実。
何と、イーライのキャラクターは、あの日本映画へのオマージュであったのだ!
確かにトンネルの中でシルエットで描かれる電光石火の殺陣は、あの映画以外の何物でもないし、流れ者の剣客が土地のヤクザと揉めるのも定番の設定だった。
もっとも、このオチによってイーライの謎の多くが解消されたのは事実だが、なぜ運び手が彼なのかという最も大きな謎はそのまま。
もしかしたら、話のどこかにヒントが隠されているのか?

おそらく、多くの観客にとって、宗教色をどう受け止められるかが本作の評価の分かれ目になるだろう。
一冊の聖書が世界を変えるという、相当に無茶な設定を、これはある種の漫画と受け流す事が出来るか、あるいはキリスト教世界そのもののカリカチュアと面白がる事が出来れば、本作を遊び心のあるB級カルトSFとして楽しむ事が出来るのではないだろうか。
まあB級と言うには結構なお金が掛かっているんだけど・・・・。

今回は、カクテルの「ゴー・トゥー・ヘヴン」をチョイス。
スピリタスとラッテ・リ・ソッチラという超高アルコー度の酒を30mlずつミックスした、正しく昇天させてくれる一杯だ。
作り方は二種類の酒をソフトにシェイクして、カクテルグラスに注ぐだけ。
これを飲めば誰でも神の声を直接聞けるだろう。
ちなみにこの酒はガンガンに燃えるので、本当に昇天しちゃわないように火気には十分注意。

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アイアンマン2・・・・・評価額1600円
2010年06月13日 (日) | 編集 |
2008年のサマーシーズンに大ヒットした、アメコミヒーロー映画の続編。
ナルシストで大金持ちのマッドサイエンティスト、トニー・スタークの身に予想外の危機が迫り、アイアンマンと同じテクノロジーを持つ新たな敵が登場する。
スタッフ・キャスト共にほぼ前作と同じ顔ぶれで、登場キャラクター同士の息の合った掛け合い、釣瓶打ちのアクションなど、娯楽大作としての見所はたっぷりだ。

トニー・スターク(ロバート・ダウニーJr.)が、アイアンマンである事をカミングアウトしてから半年。
世界平和のために活動を続けるトニーに対して、合衆国政府が“兵器”であるアイアンマン・アーマーの引渡しを求める。
アイアンマンは兵器ではなく、自分自身だと訴えるトニーは要求を拒否するが、動力源であるアーク・リアクターの発する毒素によって、徐々に体が蝕まれていた。
その頃、嘗てトニーの父と共にアーク・リアクターを設計したロシア人科学者の息子、アイヴァン(ミッキー・ローク)が自らもアーク・リアクターを動力源とした戦闘用アーマーを開発し、アイアンマンに挑戦してくる・・・


ロバート・ダウニーJr.のアイアンマンも、すっかり板についてきた。
前作の時は、この手の映画とは全く縁のなさそうな演技派俳優の出演に意外性もあったが、ダウニーJr.自身がすっかりヒーロー物に魅了されてしまったのか、最近では「シャーロック・ホームズ」でも堂に入ったアクションを披露していた。
ペッパー役のグウィネス・パルトロウは前作からの続投で、ローディ役のドン・チードルと共に飄々としたキャラクターで本作に独特のノホホンとした雰囲気を与えている。
新登場の悪役は、「レスラー」で作った見事な肉体を再活用の、ミッキー・ローク演じるアィヴァン・“ウィップラッシュ”・ヴァンコとサム・ロックウェル演じるジャスティン・ハマー。
そして“シールド”のエージェント役でブラックウィドーことナターシャ・ロマノフが登場する。
演じるスカーレット・ヨハンソンも、今まではアクションのイメージが全く無い人だったが、黒のレザースーツに身を包み、長い手足を生かして男達をバッタバッタと倒して行く様は、「アンダーワールド」シリーズのケイト・ベッキンセールを思わせて、予想外に格好良い!
女性アクションスターとして、ポスト“アンジェリーナ・ジョリー”に名乗りを上げても良いんじゃないだろうか。
監督のジョン・ファヴローも、前作に引き続きコミックリリーフのハッピー役でちゃっかり出演。
何気に前作よりも役が大きくなって、しっかり見せ場まである(笑

本作の内容的な特徴は、能天気なアメコミテイスト下に隠された、シニカルで自虐的なユーモアと言えるだろう。
元々、アイアンマンの存在自体が、自己矛盾の産物みたいなものである。
死の商人で戦争で財を成したスタークが、アフガンでの捕虜経験によって平和のために働く事を決意するものの、結局作り出したのはより強大なる力の象徴であるアイアンマンという皮肉。
それでも、前作では暴走するアイアンモンガーとの一騎打ちがメインとなっていたので、裏テーマと言えるこのあたりの矛盾は隠し味程度だった。
ところが今回、スタークは自ら作り上げたアーク・リアクターによってジワジワと死の淵に追い込まれ、自暴自棄となりパーティ三昧の生活を送り、尚且つ敵キャラはスタークと同じ技術を持ち、アイアンマンのダークサイドとも言えるアイヴァン・ヴァンコ。
更に、アイアンマン・アーマーを手に入れた米軍が、待ってましたとばかりにありったけの武器を取り付けたりと、物語のロジックはアイアンマンという存在の持つ二重性を積極的に強調するスタンスになっているのである。

脚本がダウニーJr.が怪演を見せた超シニカルな戦争コメディ、「トロピックサンダー/史上最低の作戦」ジャスティン・セローに代わっている影響もあるのか、全体にそれぞれのキャラ立ちがより重視され、自虐的なコメディ色が強まっている。
ジョン・ファヴローの演出も、オープニングのド派手なスタークエキスポの開会式や、ハマー社によるドローンのお披露目などに、裏テーマを意識させつつも、迫力満点のアクションと適度なユーモア(俳優としての自分が受け持ってるのが可笑しい)を交えて、良い意味で漫画チックなアイアンマンワールドを構築している。
まあ登場人物も構成要素も増え、更にシリーズの先を見据えて、“シールド”関連の描写も加えた分、ややストーリーラインがとっ散らかっているのが気になるが、軽快なテンポで出来の良い見せ場が連続して展開してゆくので、それほど気にならない。

正義という言葉がもはや説得力を失った現代社会で、ヒーロー物のコンセプトは成立し難い。
ハリウッドでも一昔前なら反米映画扱いされた様な作品が続々と作られ、アメリカ的なる正義を明快に“悪”と捉えた「アバター」が歴代興収一位となる時代である。
それ故に長い歴史を持つ伝統的なアメコミヒーローも、単に力による正義以外の新しいアプローチを探る作品が増えており、「ダークナイト」の様に、ヒーローが抱える苦悩をストレートに表現した作品や、ヒーローの存在を時代性・社会性から考察した「ウォッチメン」の様な異色作も作られているが、あそこまで行ってしまうと、もはや娯楽の王道とはとても言えない。
何よりも、本来の顧客である子供達が観にこられない。
このシリーズは、上記の二作とは違って、昔ながらのアメコミアクションの仮面の下に、現代的な視点を巧みに隠しており、これはこれで非常に今風なヒーロー物の解釈と言えるのかもしれない。
と言うわけで、「アイアンマン2」深読みすべき映画である。
もちろんストレートに派手で熱いアクションを楽しむのも良いが、物語のあちこちに仕掛けられたシニカルな仕掛けこそが、本作の持つ現代性の本質なのである。

ところで、前回同様に本作もエンドクレジット後にオマケのシーンがあるので、最後まで席を立たない様に。
既に2012年公開がアナウンスされている、マーベルコミックのオールスター映画、「アベンジャーズ」に繋がって行く一連のヒーロー物。
あのトンカチが出てきたという事は、次に登場するのはやっぱり赤マントのマッチョマン?

今回は、前回もあわせた「アイアン・ホース」のスパークリング「ブリュット・ブラン・ド・ブラン」の2001年 をチョイス。
赤もいいけど、やはりこの銘柄はシュワシュワと細かい泡のスパークリングが有名。
ホワイトハウス御用達でもあるこの酒は、さっぱりとしてクセが無く、料理を選ばないカリフォルニアを代表するスパークリングの逸品である。
トニー・スタークのパーティでも提供されているに違いない。

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告白・・・・・評価額1800円
2010年06月09日 (水) | 編集 |
中島哲也の才気が大爆発した様な一本である。
一人の女性教師の「告白」から始まる壮絶な復讐劇。
人間の心が抱える負の情念を、これほどストレートかつピュアに表現した作品があっただろうか。
復讐をモチーフとした映画といえば、パク・チャヌクの復讐三部作が記憶に新しいが、本作は容赦のない精神的痛みという点で韓国映画に決して負けていない。
原作は、2009年の本屋大賞を受賞した、湊かなえの同名ベストセラー小説。
松たか子が、映画史に残るであろう途轍もなく切なく恐ろしいキャラクター、森口先生を好演している。
※ネタバレ注意

中学校教師・森口悠子(松たか子)の三歳の一人娘が、悠子の勤務する学校のプールで溺死体になって発見される。
翌月の終業式の日、悠子は自分のクラスの三十五人の生徒に向けて「娘は、このクラスの生徒二人によって殺された」と衝撃的な告白をし、彼らがどのように殺人を実行したのかを詳細に語ってゆく。
生徒A、生徒Bと呼ばれた犯人が誰なのかは、クラスの生徒たちにはすぐにわかる。
悠子は彼らのミルクパックに、HIVウィルスで汚染された血液を混ぜたと告げると学校を去る。
そして4月、二年生に進学した彼らは、いつの間にか悠子の仕掛けた恐るべき復讐の罠に落ちていた・・・


画面の隅々、演技の一挙一動まで計算されている。
演出家、中島哲也と言えば日本映画界随一の映像テクニシャン
過去にはその才気が先走って、やや詰め込みすぎになったり、ぶっ飛びすぎたりした事もあったが、本作はあらゆるバランスが完璧である。
いわゆる犯人探しのミステリではない。
終業式の日の森口先生の告白で、犯人が誰なのかは早々にわかってしまう、と言うかわかることによってドラマが動いてゆくのである。
森口先生は、単純に犯人の命を奪うことで復讐を遂げるようなことはしない。
この世で最も愛する者を理不尽に奪われた悲しみは、その程度では到底満たされないのだ。
彼女の復讐は周りの人間を巻き込んで周到に計画され、真綿で首を絞める様に、ゆっくりと、しかし確実に、犯人の精神を追い込んでゆく。

冒頭の教室のシーン以降、森口先生はしばらく画面に登場しない。
彼女の告白から始まる物語は、やがて時系列の過去現在を行き来しながら、数人の登場人物の告白によって紡がれてゆく。
代わって語り部となるのは、生徒AとBこと犯人の修哉と直樹、森口先生の後任となる熱血教師の良輝(自称ウェルテル)、息子にべったりの直樹の母親、そして修哉に心惹かれている女生徒の美月。
本作の構造は、黒澤明が「羅生門」で確立した、一つの事実を複数の視点で捉える事によって、物事の本質が浮かび上がってくるという作劇法のバリエーションと言える。
だがここで語られるのは、事件の真相ではなく、虚実綯交ぜの独白を通して見えてくる彼らの歪んだ心と、如何にして彼らが森口先生の仕掛けた底なしの罠に嵌り込んで行ったかという事であり、これはストーリーテリングの手法としてちょっと新しい。

中学生は当然としても、ウェルテルや直樹の母といった大人も含めたメインの登場人物たちは、本当の意味での自我が確立されていないオトナコドモだ。
彼らは自分と他人との関係性が未成熟なので、外的な要因に影響されやすく、コンプレックスと嗜虐心を刺激する事で容易にコントロールされる。
また自己客観性に欠けるので、思い込みによって状況を判断してしまい、結果的に意図せず他人を傷つけ、反作用で自分も傷つけられる。
すぐに犯人が特定される様な森口先生の告白と、彼らが飲まされた(と信じ込まされる)HIVに汚染されたミルクという穢れのアイテムは、三十五人の大衆を扇動し復讐劇の幕を開けるための心理的トラップ。
その結果、修哉はクラスの苛めの標的となり、直樹は恐怖心から心を病み引きこもりとなってしまう。
そして彼を強引に学校に行かせようとするウェルテルと、彼を溺愛する母親によって、逆に追い詰められた直樹は、ついに母親の殺害に至るのである。
そう、森口先生の復讐とは、愛する者を奪った彼らに、自らの手で愛する者を殺させる事

事件の主犯である修哉に対する復讐は、更に凄惨だ。
修哉は、彼が幼い頃に家を出て行った理工系研究者の母親に、自らを認められたいという願望に全ての行動を支配されている。
彼が自分と母親以外の人間を見下し、大人顔負けの犯罪計画を練るのも、全ては母を求める子供っぽい願望の為なのだ。
森口先生は修哉の中の虚栄心とマザーコンプレックスを利用して、彼の心を完膚なきまでに破壊する。
その冷酷さと滑稽さは、まるでお釈迦様の掌で踊らされる孫悟空の様。
面白いのは、森口先生と修哉の母親には多くの共通点があるという事だ。
共に理系で、映画では省かれているが、原作では森口先生も研究者と教師のどちらになるか迷ったという台詞がある。
修哉にとって、森口先生は母親の比喩的存在でもあり、それ故に本来彼がいるべきポジションを占めている愛娘を奪ったと見ることも出来るだろう。

松たか子は、全編を通して能面が張り付いたかの様に、ほとんど感情を見せないが、その分ラストの悲しみと喜びとその他のあらゆる感情がごちゃ混ぜに成ったような表情が強烈だ。
この世界の美しい事や楽しい事から完全に決別した様な、見ようによっては凛とした悠子の姿は、きれい事の解決策を一切寄せ付けない説得力がある。
モラルの観点から見れば、犯人だけで無く周りの人間までも復讐のコマとして巻き込んで行く森口先生を素直に肯定することは出来ないだろうし、目的を遂げた彼女の魂が救われることは永遠に無いだろう。
だが、彼女の余りにも深い悲しみと絶望は、もはや救済を求めていない様に見える。
森口先生は、自らの復讐を「命の授業」だと言う。
これは単に嘯いているとも取れるが、ある意味真意であろう。
命の意味を考えたこともなく、理不尽に奪った者にとって、最大の贖罪とは命の重さを知ることであり、その意味でより大きな罪によって自らの罪を悟らせる森口先生の行為は、犯人にとって究極の授業であったとも言える。
実は原作ではもう少しテーマを幅広く捉えているのだが、映画はこの一点に向けて絞り込む事でより鮮烈な印象となった。
確信をもってあざとく作っている映画であり、後味は決して良いとは言えないが、森口先生のあまりにも純粋な負の情念に、ある種のカタルシスと達成感を感じるのもまた事実だ。
人間の心が清濁併せ持つ以上、彼女の行動を100%否定できる人もまたいないのではないだろうか。
全ての感情が噴出した様な彼女のラストの表情からは、修哉に対してと言うよりは、人そのものに対する愛憎が強く感じられ、なぜこうなってしまったのかという切なる疑念が逆説的に表現される。

上映の間、劇場は水を打ったかの様に完全な静寂に支配され、エンドクレジットで席を立つ観客も皆無。
そして灯がついて、張り詰めた緊張感から開放された観客たちが、出口に向かいながら一斉に堰を切った様に、自分が感じた事を話し出したのが印象的だった。
おそらく明確に好悪の分かれる作品だろうが、表現の上手さだけでも観て損はない。

今回は松たか子がCMに出ている「キリン コクの時間」をチョイス。
名前のとおり、そこそこコクのある発泡酒だが、映画でどっぷり疲れたのでこのくらいライトな酒でちょうど良い。
ふう~喉渇いた・・・・。

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春との旅・・・・・評価額1700円
2010年06月06日 (日) | 編集 |
頑固爺さんと孫娘の旅を描くロードムービー
終の棲家を探す淡々とした描写の中に、人間たちの絆と、社会全体の老いという日本社会にのしかかる問題が浮かび上がってくる。
問題作、「バッシング」を手がけた小林政広監督が、8年越しで実現させたと言う入魂の力作である。

北海道の増毛町に住む元漁師・忠男(仲代達矢)は、片足が不自由となり、孫娘の春(徳永えり)の世話になって暮らしている。
ところが春の勤める学校が廃校になり、失業した彼女は東京へと働きに出る決意をする。
忠男を一人で残していけないと考えた春は、祖父が安心して暮らせる場所を求めて、疎遠になっていた忠男の兄弟たちを訪ねる旅に出る・・・・


後ろで観ていたおばさんたちが、「増毛駅」という看板を見て「ぞうもうですって」「ぞうもうって、薄毛の人ばっかり住んでるのかしら」と漫才みたいな事を言っていたので、思わず吹いてしまったよ。
「ぞうもう」じゃなくて「ましけ」ですから・・・・。
それはさておき、冒頭流れる音楽が、何故かアニメーション映画「アメリカ物語」の主題歌「Somewhere out there」そっくり。
クレジットに記載が無かったような気がするので、著作権が気になるところだが、ストーリーを考えると何だか意味深だ。

主人公の忠男は、ニシン漁での一攫千金を夢見て宮城から北海道に移住した男で、ニシンの漁獲量が激減した今もその幻影から逃れられないでいる。
妻に先立たれ、娘は離婚した後に自殺し、不自由な足を抱えた忠男が心を許せる身内は、孫娘の春だけだ。
時代に取り残された様な世間ずれした老人が、良くも悪くも現代社会にどっぷり浸かって生きている親類縁者に拒絶される展開は、何となく小津安二郎の「東京物語」を連想させる。
小林監督は、会話シーンの切り返しであえてイマジナリーラインを超えて違和感を感じさせ、登場人物の心理的な距離感を演出しているが、これも小津作品にたまに見られる。
もっとも、以前小津組のスタッフだった方に聞いたところでは、小津監督は俳優の芝居以外に殆ど興味の無い人で、カメラがイマジナリーラインを超えるのも計算している訳ではなくて、俳優の芝居を効果的に捉えられる位置に置いていただけだという。
そういわれてしまうと、何だか身も蓋も無いけれど、結果的にそれがユニークな効果を生んでいたのは事実。
まあ小津演出は、カメラはフィックスだけどカット割りは結構細かい場合が多いが、本作は長回し主体なので、決して真似している訳ではない。
両者に共通するのは俳優の芝居をじっくりと見せてくれるという一点だろう。

忠男を演じる仲代達也は、もちろん日本を代表する名優の一人だが、今回は特に素晴らしい。
孫娘の徳永えりとのコンビは、しっかり者の孫娘とわがままな子供の様な偏屈爺さんというコントラストが絶妙で、二人の掛け合いはシリアスな中に適度なユーモアさえも感じさせ、ある種のバディムービーとして上々の仕上がりである。
彼の芝居は良くも悪くも少々大げさで、前日の「座頭市 THE LAST」の様に作品によっては浮いてしまう場合もあるが、今回は忠男のアクの強いキャラクターが全体を巻き込んで進んでゆくので、良い意味で彼の映画になっており、はまり役だ。
偏屈で強気一辺倒の中にも、ふと寂しさを感じさせるあたりはさすがに上手い。
もちろん、忠男に振り回される受けのキャラクターである春を演じる徳永えりも負けていない。
「フラガール」で蒼井優の親友役を演じて注目された人だが、春はエキセントリックな忠男に対しての観客サイドの目としても機能しており、彼女の抑制された緻密な演技は観客を物語に入りやすくしている。
手足をピンと伸ばしてバタバタと走り回る姿は、それだけで春の素朴な人柄が伝わってくる様だ。
そして、二人が訪ね歩く兄弟や縁者たちの顔ぶれが、これまた凄い。
兄夫婦は大滝秀治と菅井きん、姉は淡島千景、弟夫婦は柄本明に美保純、さらに刑務所に入っている不肖の弟の内縁の妻は田中裕子で、春の父と継母は香川照之と戸田菜穂
まともに顔すら写らない、ちょっとした役を小林薫がやっていたりするのだから贅沢だ。
小林監督は、フィックスの長回しという日本映画の伝統的な手法で、彼らの演技をじっくりと見せる。
この手法は下手くそが使うと単に冗長なだけになってしまうが、前記した様な細かなテクニックを使って、ギリギリのタイミングで効果的にカットを割っているので、思いのほかテンポは良く、退屈を感じる事は無い。

安住の地を探す忠男と春の旅は、現実の壁に阻まれなかなか上手く行かない。
兄夫婦は老人ホームへの入居を控え、弟の一人は刑務所暮らし、もう一人の羽振りの良かった弟も事業に失敗し受け入れる余裕は無い。
旅館を経営する姉は、忠男の心に春への依存と甘えがある事を看破し、愛情を持って拒絶する。
彼らが忠男を受け入れられないのは、単に薄情なのではなく様々な理由があり、そこから社会全体が活力を失い、ゆっくりと老いてゆく日本社会が浮かび上がってくるのである。
高間賢治の透明感のあるカメラが写し取る、閑散とした町にシャッターが締まった店舗ばかりが目立つ田舎町の風景は、そこで老いた弱者たちが生きてゆくことの困難をさり気なく、しかし如実に感じさせる。
ニシンへの夢に生きてきた男は、旅を通して初めて自分が生きている社会の現実と過去の人生に向き合う事を迫られ、孫娘もまた心に閉じ込めてきた離れて暮らす父への想いに向き合う決意をする。
そう、忠男が春に依存しているように、実は春もまた心の傷を抱えて忠男に依存している。
二人の旅は、忠男にとっては人生の総括であり、春にとっては再出発のための助走なのである。
劇中で「馬が合う、合わない」「気が合う、合わない」と言う言葉が繰り返し出てくる。
人は、人と繋がる時に、誰でも小さな葛藤を抱えている。
合っても合わなくても、そこに小さな愛があって、誰かと繋がっていられるという事自体が、たぶんとても大切な事なのかもしれない。

「春との旅」は普遍的なテーマを、錚々たる名優たちの素晴らしい芝居で見せ切った力作だ。
唯一気になるのが、物語の終盤がやや御都合主義を感じさせてしまう事か。
戸田菜穂の演じる伸子が、初対面の忠男に一緒に暮らそうと言うのは、彼女が忠男に父の面影を見たとしても、やや唐突に感じてしまった。
ラストもまあ想像は出来たし、物語上の必然ではあるものの、見せ方としてタイミング良すぎの感は否めない。
もっとも、それを差し引いても、本作は一級の人間ドラマであり、優れたロードムービーである。
観客には忠男世代の人が目立ったが、春世代が観ても、私の様に中間の世代が観ても、それぞれの立ち位置から考えさせられる作品である事は間違いないだろう。

今回は、劇中で忠男が一気飲みしていた「男山」をチョイス。
江戸時代に伊丹で創業した蔵で、現在は旭川に本拠を置く北海道の代表的な地酒。
全国にある「男山」銘柄の元祖である。
この御免酒は、アルコール度が若干抑えられた爽やかでソフトな味わいの酒で、冷で飲むのがお勧め。

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