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2010年06月09日 (水) | 編集 |
中島哲也の才気が大爆発した様な一本である。
一人の女性教師の「告白」から始まる壮絶な復讐劇。
人間の心が抱える負の情念を、これほどストレートかつピュアに表現した作品があっただろうか。
復讐をモチーフとした映画といえば、パク・チャヌクの復讐三部作が記憶に新しいが、本作は容赦のない精神的痛みという点で韓国映画に決して負けていない。
原作は、2009年の本屋大賞を受賞した、湊かなえの同名ベストセラー小説。
松たか子が、映画史に残るであろう途轍もなく切なく恐ろしいキャラクター、森口先生を好演している。
※ネタバレ注意
中学校教師・森口悠子(松たか子)の三歳の一人娘が、悠子の勤務する学校のプールで溺死体になって発見される。
翌月の終業式の日、悠子は自分のクラスの三十五人の生徒に向けて「娘は、このクラスの生徒二人によって殺された」と衝撃的な告白をし、彼らがどのように殺人を実行したのかを詳細に語ってゆく。
生徒A、生徒Bと呼ばれた犯人が誰なのかは、クラスの生徒たちにはすぐにわかる。
悠子は彼らのミルクパックに、HIVウィルスで汚染された血液を混ぜたと告げると学校を去る。
そして4月、二年生に進学した彼らは、いつの間にか悠子の仕掛けた恐るべき復讐の罠に落ちていた・・・
画面の隅々、演技の一挙一動まで計算されている。
演出家、中島哲也と言えば日本映画界随一の映像テクニシャン。
過去にはその才気が先走って、やや詰め込みすぎになったり、ぶっ飛びすぎたりした事もあったが、本作はあらゆるバランスが完璧である。
いわゆる犯人探しのミステリではない。
終業式の日の森口先生の告白で、犯人が誰なのかは早々にわかってしまう、と言うかわかることによってドラマが動いてゆくのである。
森口先生は、単純に犯人の命を奪うことで復讐を遂げるようなことはしない。
この世で最も愛する者を理不尽に奪われた悲しみは、その程度では到底満たされないのだ。
彼女の復讐は周りの人間を巻き込んで周到に計画され、真綿で首を絞める様に、ゆっくりと、しかし確実に、犯人の精神を追い込んでゆく。
冒頭の教室のシーン以降、森口先生はしばらく画面に登場しない。
彼女の告白から始まる物語は、やがて時系列の過去現在を行き来しながら、数人の登場人物の告白によって紡がれてゆく。
代わって語り部となるのは、生徒AとBこと犯人の修哉と直樹、森口先生の後任となる熱血教師の良輝(自称ウェルテル)、息子にべったりの直樹の母親、そして修哉に心惹かれている女生徒の美月。
本作の構造は、黒澤明が「羅生門」で確立した、一つの事実を複数の視点で捉える事によって、物事の本質が浮かび上がってくるという作劇法のバリエーションと言える。
だがここで語られるのは、事件の真相ではなく、虚実綯交ぜの独白を通して見えてくる彼らの歪んだ心と、如何にして彼らが森口先生の仕掛けた底なしの罠に嵌り込んで行ったかという事であり、これはストーリーテリングの手法としてちょっと新しい。
中学生は当然としても、ウェルテルや直樹の母といった大人も含めたメインの登場人物たちは、本当の意味での自我が確立されていないオトナコドモだ。
彼らは自分と他人との関係性が未成熟なので、外的な要因に影響されやすく、コンプレックスと嗜虐心を刺激する事で容易にコントロールされる。
また自己客観性に欠けるので、思い込みによって状況を判断してしまい、結果的に意図せず他人を傷つけ、反作用で自分も傷つけられる。
すぐに犯人が特定される様な森口先生の告白と、彼らが飲まされた(と信じ込まされる)HIVに汚染されたミルクという穢れのアイテムは、三十五人の大衆を扇動し復讐劇の幕を開けるための心理的トラップ。
その結果、修哉はクラスの苛めの標的となり、直樹は恐怖心から心を病み引きこもりとなってしまう。
そして彼を強引に学校に行かせようとするウェルテルと、彼を溺愛する母親によって、逆に追い詰められた直樹は、ついに母親の殺害に至るのである。
そう、森口先生の復讐とは、愛する者を奪った彼らに、自らの手で愛する者を殺させる事。
事件の主犯である修哉に対する復讐は、更に凄惨だ。
修哉は、彼が幼い頃に家を出て行った理工系研究者の母親に、自らを認められたいという願望に全ての行動を支配されている。
彼が自分と母親以外の人間を見下し、大人顔負けの犯罪計画を練るのも、全ては母を求める子供っぽい願望の為なのだ。
森口先生は修哉の中の虚栄心とマザーコンプレックスを利用して、彼の心を完膚なきまでに破壊する。
その冷酷さと滑稽さは、まるでお釈迦様の掌で踊らされる孫悟空の様。
面白いのは、森口先生と修哉の母親には多くの共通点があるという事だ。
共に理系で、映画では省かれているが、原作では森口先生も研究者と教師のどちらになるか迷ったという台詞がある。
修哉にとって、森口先生は母親の比喩的存在でもあり、それ故に本来彼がいるべきポジションを占めている愛娘を奪ったと見ることも出来るだろう。
松たか子は、全編を通して能面が張り付いたかの様に、ほとんど感情を見せないが、その分ラストの悲しみと喜びとその他のあらゆる感情がごちゃ混ぜに成ったような表情が強烈だ。
この世界の美しい事や楽しい事から完全に決別した様な、見ようによっては凛とした悠子の姿は、きれい事の解決策を一切寄せ付けない説得力がある。
モラルの観点から見れば、犯人だけで無く周りの人間までも復讐のコマとして巻き込んで行く森口先生を素直に肯定することは出来ないだろうし、目的を遂げた彼女の魂が救われることは永遠に無いだろう。
だが、彼女の余りにも深い悲しみと絶望は、もはや救済を求めていない様に見える。
森口先生は、自らの復讐を「命の授業」だと言う。
これは単に嘯いているとも取れるが、ある意味真意であろう。
命の意味を考えたこともなく、理不尽に奪った者にとって、最大の贖罪とは命の重さを知ることであり、その意味でより大きな罪によって自らの罪を悟らせる森口先生の行為は、犯人にとって究極の授業であったとも言える。
実は原作ではもう少しテーマを幅広く捉えているのだが、映画はこの一点に向けて絞り込む事でより鮮烈な印象となった。
確信をもってあざとく作っている映画であり、後味は決して良いとは言えないが、森口先生のあまりにも純粋な負の情念に、ある種のカタルシスと達成感を感じるのもまた事実だ。
人間の心が清濁併せ持つ以上、彼女の行動を100%否定できる人もまたいないのではないだろうか。
全ての感情が噴出した様な彼女のラストの表情からは、修哉に対してと言うよりは、人そのものに対する愛憎が強く感じられ、なぜこうなってしまったのかという切なる疑念が逆説的に表現される。
上映の間、劇場は水を打ったかの様に完全な静寂に支配され、エンドクレジットで席を立つ観客も皆無。
そして灯がついて、張り詰めた緊張感から開放された観客たちが、出口に向かいながら一斉に堰を切った様に、自分が感じた事を話し出したのが印象的だった。
おそらく明確に好悪の分かれる作品だろうが、表現の上手さだけでも観て損はない。
今回は松たか子がCMに出ている「キリン コクの時間」をチョイス。
名前のとおり、そこそこコクのある発泡酒だが、映画でどっぷり疲れたのでこのくらいライトな酒でちょうど良い。
ふう~喉渇いた・・・・。
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一人の女性教師の「告白」から始まる壮絶な復讐劇。
人間の心が抱える負の情念を、これほどストレートかつピュアに表現した作品があっただろうか。
復讐をモチーフとした映画といえば、パク・チャヌクの復讐三部作が記憶に新しいが、本作は容赦のない精神的痛みという点で韓国映画に決して負けていない。
原作は、2009年の本屋大賞を受賞した、湊かなえの同名ベストセラー小説。
松たか子が、映画史に残るであろう途轍もなく切なく恐ろしいキャラクター、森口先生を好演している。
※ネタバレ注意
中学校教師・森口悠子(松たか子)の三歳の一人娘が、悠子の勤務する学校のプールで溺死体になって発見される。
翌月の終業式の日、悠子は自分のクラスの三十五人の生徒に向けて「娘は、このクラスの生徒二人によって殺された」と衝撃的な告白をし、彼らがどのように殺人を実行したのかを詳細に語ってゆく。
生徒A、生徒Bと呼ばれた犯人が誰なのかは、クラスの生徒たちにはすぐにわかる。
悠子は彼らのミルクパックに、HIVウィルスで汚染された血液を混ぜたと告げると学校を去る。
そして4月、二年生に進学した彼らは、いつの間にか悠子の仕掛けた恐るべき復讐の罠に落ちていた・・・
画面の隅々、演技の一挙一動まで計算されている。
演出家、中島哲也と言えば日本映画界随一の映像テクニシャン。
過去にはその才気が先走って、やや詰め込みすぎになったり、ぶっ飛びすぎたりした事もあったが、本作はあらゆるバランスが完璧である。
いわゆる犯人探しのミステリではない。
終業式の日の森口先生の告白で、犯人が誰なのかは早々にわかってしまう、と言うかわかることによってドラマが動いてゆくのである。
森口先生は、単純に犯人の命を奪うことで復讐を遂げるようなことはしない。
この世で最も愛する者を理不尽に奪われた悲しみは、その程度では到底満たされないのだ。
彼女の復讐は周りの人間を巻き込んで周到に計画され、真綿で首を絞める様に、ゆっくりと、しかし確実に、犯人の精神を追い込んでゆく。
冒頭の教室のシーン以降、森口先生はしばらく画面に登場しない。
彼女の告白から始まる物語は、やがて時系列の過去現在を行き来しながら、数人の登場人物の告白によって紡がれてゆく。
代わって語り部となるのは、生徒AとBこと犯人の修哉と直樹、森口先生の後任となる熱血教師の良輝(自称ウェルテル)、息子にべったりの直樹の母親、そして修哉に心惹かれている女生徒の美月。
本作の構造は、黒澤明が「羅生門」で確立した、一つの事実を複数の視点で捉える事によって、物事の本質が浮かび上がってくるという作劇法のバリエーションと言える。
だがここで語られるのは、事件の真相ではなく、虚実綯交ぜの独白を通して見えてくる彼らの歪んだ心と、如何にして彼らが森口先生の仕掛けた底なしの罠に嵌り込んで行ったかという事であり、これはストーリーテリングの手法としてちょっと新しい。
中学生は当然としても、ウェルテルや直樹の母といった大人も含めたメインの登場人物たちは、本当の意味での自我が確立されていないオトナコドモだ。
彼らは自分と他人との関係性が未成熟なので、外的な要因に影響されやすく、コンプレックスと嗜虐心を刺激する事で容易にコントロールされる。
また自己客観性に欠けるので、思い込みによって状況を判断してしまい、結果的に意図せず他人を傷つけ、反作用で自分も傷つけられる。
すぐに犯人が特定される様な森口先生の告白と、彼らが飲まされた(と信じ込まされる)HIVに汚染されたミルクという穢れのアイテムは、三十五人の大衆を扇動し復讐劇の幕を開けるための心理的トラップ。
その結果、修哉はクラスの苛めの標的となり、直樹は恐怖心から心を病み引きこもりとなってしまう。
そして彼を強引に学校に行かせようとするウェルテルと、彼を溺愛する母親によって、逆に追い詰められた直樹は、ついに母親の殺害に至るのである。
そう、森口先生の復讐とは、愛する者を奪った彼らに、自らの手で愛する者を殺させる事。
事件の主犯である修哉に対する復讐は、更に凄惨だ。
修哉は、彼が幼い頃に家を出て行った理工系研究者の母親に、自らを認められたいという願望に全ての行動を支配されている。
彼が自分と母親以外の人間を見下し、大人顔負けの犯罪計画を練るのも、全ては母を求める子供っぽい願望の為なのだ。
森口先生は修哉の中の虚栄心とマザーコンプレックスを利用して、彼の心を完膚なきまでに破壊する。
その冷酷さと滑稽さは、まるでお釈迦様の掌で踊らされる孫悟空の様。
面白いのは、森口先生と修哉の母親には多くの共通点があるという事だ。
共に理系で、映画では省かれているが、原作では森口先生も研究者と教師のどちらになるか迷ったという台詞がある。
修哉にとって、森口先生は母親の比喩的存在でもあり、それ故に本来彼がいるべきポジションを占めている愛娘を奪ったと見ることも出来るだろう。
松たか子は、全編を通して能面が張り付いたかの様に、ほとんど感情を見せないが、その分ラストの悲しみと喜びとその他のあらゆる感情がごちゃ混ぜに成ったような表情が強烈だ。
この世界の美しい事や楽しい事から完全に決別した様な、見ようによっては凛とした悠子の姿は、きれい事の解決策を一切寄せ付けない説得力がある。
モラルの観点から見れば、犯人だけで無く周りの人間までも復讐のコマとして巻き込んで行く森口先生を素直に肯定することは出来ないだろうし、目的を遂げた彼女の魂が救われることは永遠に無いだろう。
だが、彼女の余りにも深い悲しみと絶望は、もはや救済を求めていない様に見える。
森口先生は、自らの復讐を「命の授業」だと言う。
これは単に嘯いているとも取れるが、ある意味真意であろう。
命の意味を考えたこともなく、理不尽に奪った者にとって、最大の贖罪とは命の重さを知ることであり、その意味でより大きな罪によって自らの罪を悟らせる森口先生の行為は、犯人にとって究極の授業であったとも言える。
実は原作ではもう少しテーマを幅広く捉えているのだが、映画はこの一点に向けて絞り込む事でより鮮烈な印象となった。
確信をもってあざとく作っている映画であり、後味は決して良いとは言えないが、森口先生のあまりにも純粋な負の情念に、ある種のカタルシスと達成感を感じるのもまた事実だ。
人間の心が清濁併せ持つ以上、彼女の行動を100%否定できる人もまたいないのではないだろうか。
全ての感情が噴出した様な彼女のラストの表情からは、修哉に対してと言うよりは、人そのものに対する愛憎が強く感じられ、なぜこうなってしまったのかという切なる疑念が逆説的に表現される。
上映の間、劇場は水を打ったかの様に完全な静寂に支配され、エンドクレジットで席を立つ観客も皆無。
そして灯がついて、張り詰めた緊張感から開放された観客たちが、出口に向かいながら一斉に堰を切った様に、自分が感じた事を話し出したのが印象的だった。
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