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資本的には日本映画だが、舞台は北米で完全な英語劇である。
「かもめ食堂」の大成功を受けて作られた前作の「めがね」では、創りたい物と求められる物の間での迷いが感じられたが、今回は良い意味でやりたい事をストレートにやっている印象を受けた。
ただ、相変わらず独特の映像世界で展開する話なので、観客は選ぶと思う。
母の死から数週間。
企業の研究所に勤務するレイ(アレックス・ハウス)は、大学生の妹リサ(タチアナ・マズラニー)から実家に呼び出される。
思い出の詰まった家を売るかどうかで、リサとパニック障害を抱えて四年間外出した事の無い兄モーリー(ディヴィッド・レンドル)が揉めているのだ。
家にはもう一人、母が日本から呼び寄せた“ばーちゃん”(もたいまさこ)が暮らしているが、彼女は全く英語を話さないので、コミュニケーションすら出来ない。
ひょんな事からアパートに住めなくなり、実家に戻ったレイは、毎朝ばーちゃんがトイレの後に長いため息を吐く事が気になってしょうがないのだが・・・
私がアメリカに住んでいた時、日本から個人輸入しようか真剣に悩んだアイテムが二つある。
ひとつはマッサージチェアで、もう一つがウォッシュレット。
今では映画で描かれた様にどちらも輸入している業者があるみたいだが、ネット通販もポピュラーではなかった時代、残念ながら日本からの送料だけでとんでもない額になる事がわかって諦めた。
この二つは、極めてドメスティックなアイテムながら、海外でも熱烈なファンの多い、日本の偉大なアドバンスドテクノロジー。
「トイレット」というインパクトのあるタイトルは、日本人の“ばーちゃん”を理解するキーアイテムとして、この新世代和式トイレであるウォッシュレットが登場するからなのである。
荻上監督の作品は、物語よりもその空間設定に特徴があると言えるだろう。
物語が嵌る“型”と言い換えても良い。
「バーバー吉野」の子供達が皆同じヘアスタイルの街という型、「かもめ食堂」の北欧フィンランドにある日本食堂という型、「めがね」の奇妙な人々が集う南国の宿という型。
今回は、物言わぬ日本人の祖母がいる米国人の家(撮影はカナダだけど)という型である。
型に嵌められているから、基本的に彼女の作品では物語は大きな流れを持たない。
長編デビュー作である「バーバー吉野」と「恋は五・七・五!」では、それでも起承転結の構造に未練が感じられたが、以降の作品の物語性は非常に希薄である。
実際、「かもめ食堂」も「めがね」も、空間の持つ独特のムードと個々のエピソードは記憶しているが、物語の流れは全くと言って良いほど覚えていない。
もちろん人間の生活を描いているのだから、話が無いという訳ではないが、人物もエピソードも型の中でカリカチュアされ記号化された存在なので、決して型その物を壊す事が無く、結果的に印象に残るのはキャラクターよりも彼らが配置されている空間とディテールなのである。
本作も、もたいまさこの全く言葉を発さない“ばーちゃん”、全てに杓子定規な理系人間でロボットオタクのレイ、気が強く自分が価値ある人間だと証明したい女子大生のリサ、パニック障害を抱えるピアニストのモーリーと、登場人物は極めて特徴的できっちりとキャラ立ちしているが、設定上与えられた役割を忠実に表現してるだけで、人間的な深みはそれほど感じられない。
ただし、キャラクター造形の方向性には、荻上監督の新境地が見える。
「かもめ食堂」でも「めがね」でも登場人物の背景を全く描かず、それ故にキャラクターがスクリーンとなり、観客の自己投影装置として機能していたが、今回は控えめではあるが、ちゃんとそれぞれの抱える過去が描かれるので、独立した人格として感情移入が可能なのである。
また、レイを一応の主人公として描写しながら、視点は完全には固定されない。
エピソードごとに視点が三人の兄弟の間で移り変わっていくので、縦の流れが弱くても横の展開が生まれ、作品の時間軸に一定のリズムを与えている。
作品の構造としては、母の残した家の中で、三人の兄弟がもたいまさこ演じる“ばーちゃん”を中心にして、等距離で囲んでいると言うイメージだろうか。
最初三兄弟は、お互いにかなり距離を感じているのだが、ミステリアスな“ばーちゃん”の存在を接点にしてだんだんと近づいて行く。
最後にたどり着くのは、余計な言葉は要らないけれど、本当に大切な部分では繋がっているという、家族ならではの絶妙な距離感だ。
タイトルの由来であるウォッシュレットを初めとして、ロボットアニメのプラモデル、エアギター、母の形見のミシンとモーリーの作るスカート、手作りの餃子、更に猫好きにはうれしい猫のセンセーといった豊富なモチーフが細かなエピソードを作り出し、パズルのピースの様に作品を形作る。
これらが完成した全体像になると、問題を抱えた家族が、生き方の縛りを解いて、家族の絆を再確認するというテーマが浮かび上がってくる。
もっとも、それぞれのエピソードは、各キャラクターの中で自己完結する物が多くて有機的な結びつきは強くなく、それは希薄な物語性という印象にも繋がっている。
本作のポスターは、暖炉の前に厳しい顔をした“ばーちゃん”が座り、その後ろにそれぞれの個性を強調された三兄弟とが立ち、傍らにセンセーがいると言うもの。
彼らは一体どんな関係なのかと興味を抱かせる秀逸なキービジュアルだが、映画の物語的には、観客がこのポスターを見て抱いた疑問に、1時間49分をかけて丁寧に回答してる様な物だ。
そして答えそのものも、最初からこのポスターの中に示唆されているのである。
おそらく、映画に先の読めない物語が展開する面白さや、登場人物の内面の深みを常に求める人にとって、本作は酷く退屈な作品に映るだろう。
だが、映画は必ずしも文学的な物語論に縛られるものではないと思う。
観方をかえて、この映画をある種のデザインとして、空間とムードを楽しむ作品と捉えれば、個人的には十分ありだ。
私としては、奇跡のようだった「かもめ食堂」ほどのインパクトは無かったが、なかなかに楽しめた。
好き嫌いのはっきり分かれる作品だろうが、リラックスし、観るというよりも感じる事が出来れば、心地良い映画的な時間を過ごす事が出来るだろう。
今回は、ロケ地となったトロントのあるオンタリオ州の、アイスワインの銘柄ぺラーエステートから、「ヴィダル アイスワイン」をチョイス。
柑橘類に蜂蜜様なのコクが加わり、かなり濃密な甘みが楽しめる。
元々200年ほど前のドイツで、天候の悪戯から偶然生まれた極上のデザートがアイスワイン。
良い意味でぶっきらぼうな映画の後は、こちらでちょっと贅沢に〆たい。

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制作は「ガンダム」などで知られるサンライズで、同社の内田健二社長から原監督へ企画が打診され、異色のコラボレーションが実現したという。
まあ今の日本の演出家で、この人ほど期待を裏切らない人もいないだろうが、今回も比較的地味な内容ながら、全てがハイレベルに仕上がった秀作となった。
死んだはずの「ぼく」(冨澤風斗)に、小学生の様な格好をした天使(マイケル)が告げる。
「おめでとうございます!抽選に当たりました!」
「ぼく」は、生前大きな罪を犯したことで、本当なら輪廻のサイクルから脱落するはずだったが、特別に下界で再チャレンジするチャンスを得たらしい。
こうして下界に戻った「ぼく」は、プラプラと名乗る天使に導かれ、自殺した小林真という中学生の体に入りこみ、半年間の仮の生を生きることに。
突然生き返った息子に、両親は大喜び。
だが、小林真として振舞ううちに、「ぼく」はこの一見幸せそうな家族が、複雑な葛藤を抱えている事を知ってしまう・・・
原作は、直木賞作家の森絵都の小説だが、天使に導かれて生を見つめ直すという設定は、フランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」を思わせる。
しばしば木下恵介や小津安二郎に比較される原恵一が、いわばアメリカの木下とも言うべきキャプラ的物語にアプローチしたのは面白い。
もっとも、ハリウッド的なる幸せを追求する事に躊躇の無いキャプラに対して、原恵一の描く物語は良い意味で日本的で、爽やかさと曖昧さが融合した独特の味わいを持つ。
タイトルとは対照的に、モノトーンの寂しげな映像が印象的だ。
殆ど実写と見紛うばかりなリアルな背景は、観客と作品世界との距離を縮めるが、同時に本来“絵”に過ぎないキャラクターを浮かせる危険をはらむ。
だが、細やかに内面を造形、演出され、丁寧に命を吹き込まれたキャラクターは、下手な実写作品以上にエモーションを感じさせる。
背景をどこまで実写に近づけるかというさじ加減も、物語の進行の中で細かく計算されており、この一見実写でも作れそうな写実的アニメは、実は虚構と現実が奇妙な調和のなかに溶け合った、アニメでしか成立し得ない世界なのである。
この原作は、嘗て森田芳光脚本、中原俊監督で同名の実写映画化されている。
個人的な印象ではあるが、今回のアニメのキャラクターは、生身の実写キャラクターを、リアルではなくリアル感で遥かに超えていたと思う。
主人公は人生再挑戦のチャンスを与えれ、小林真として生き返った「ぼく」という変則的な存在。
死ぬと生前の記憶を失うので、「ぼく」は自分が何者かも覚えていない。
小林真の体を半年間借りるのは“ホームステイ”で、その間は自分の罪を思い出す“修行”の期間という位置付けなのだ。
まっさらの状態で再生した「ぼく」は、やがて小林真とは何者か、彼の生きてきた世界とはどの様な世界なのかを知って愕然とする。
一見普通に見える小林家は、優しさだけがとり得のうだつの上がらない父、フラメンコ教室のインストラクターと不倫関係にあった母、出来の悪い弟を見下してる兄に囲まれた、真にとっては全く気の休まらない所だ。
学校に行っても友達は一人もおらず、密かに好意を持っている後輩の桑原ひろかは中年男と援助交際中。
真にとって心から安らげる場所は、好きな絵を描く美術部の部室だけなのだ。
そんなこの世の地獄に生きる真を知るにつれて、「ぼく」は新しい人生にどう向き合えば良いのかがわからなくなる。
何とか生活に慣れようとしてみるものの、献身的に世話を焼く母親も、優しく接する父親も、表層だけ取り繕う偽善者に見えてしまうし、無口な兄は理解し難く、話しかけてくる数少ないクラスメートはうっとおしく、周りの者全てに辛く当たってしまう。
唯一の例外は、恋心を抱いているひろかに接する時だけだ。
真の抱えていた葛藤というのは、程度の差こそあれ誰もが思春期に通り過ぎる類のもので、だからこそ彼の心情は非常にわかりやすい。
観客は皆、彼を理解できる反面、そこに自分自身の過去を観て少々気恥ずかしくなるのではないか。
だが、閉じこもってばかりでは“修行”にならぬ、別に小林真と同じ生き方をしなくても良いのだと、プラプラに叱られた事で、「ぼく」は小林真の殻を少しずつ破り始める。
初めての友人となる早乙女と、廃線となった玉川線の後を辿る短い旅の描写は、現実の風景が驚くほど完全に再現されており、その描写の精密さは基本的に写実的な本作の中でも突出している。
ここは真の中の「ぼく」が初めて現実を肯定的に受け止めるシークエンス故に、ハッとするような日常の美しさをリアリズムの中に描写する事が必要なのだろう。
もちろん、人間突然大人になったりはしないから、相変わらずネチネチと母親を責めてみたり、自分を気にする女生徒の信頼を裏切ってみたり、ネガティブな行動も続く。
だが、人とつながり世界とつながる事を覚えた「ぼく」は、いくつものささやかな“幸せ”を知ってゆく。
友達と並んで歩く幸せ、家族で鍋を囲む幸せ、自分の事を気にかけ、心配してくれる人がいる幸せ。
本作では真の食事のシーンが極めて象徴的に使われており、母と囲む空虚な食卓、父と出かけるラーメン店、早乙女と分け合うフライドチキンと肉饅などが、それぞれの段階の心の有様を端的に描写してゆく。
そして「ぼく」はようやく理解する。
今までの「ぼく」は人間を一つの色に染めて見ていたが、人間というのは単色で描けるほど単純ではなく、カラフルなのが当たり前で、一人のカラフルは沢山カラフルに支えられて生きていると言う事と、自分が生前どんな罪を犯したのか。
物語の結末は、意外性のある物だが、特にびっくりさせようと言う意図は見えない。
感の良い人なら、「ぼく」が小林真の心情に同化するあたりで気付くだろうし、物語上も途中からさり気無く「ぼく」が何者か示唆されている。
意外なのは、むしろプラプラが明かす自らの過去だが、「ぼく」との対照となってテーマ性をくっきりと浮き立たせる効果があった。
原監督の作品は、しばしば脚本のロジックで細部が破綻する事があるが、今回はベテランの丸尾みほが脚本を担当し、叙情的な演出と細部までロジカルにキッチリと構成された脚本と言う理想的な組み合わせとなった。
主人公の「ぼく」の声優は、「河童のクゥと夏休み」で、タイトルロールのクゥを演じた冨澤風斗。
天使のプラプラに子供タレントのまいける、小林真の両親を麻生久美子と高橋克己、兄の満を中尾明慶、真の初めての友達になる早乙女に入江甚儀、密かに想っている桑原ひろかに驚きの南明奈。
一番面白かったのが、ちょっと変な同級生、佐野唱子を演じた宮崎あおい。
エンドクレジットまで全然誰だかかわらなかった。相当に器用な人だ。
アニメ声優と実写俳優が入り混じるキャスティングだが、作品世界に十分フィットしていて違和感は無い。
まいけるの舌足らずの大阪弁などは、どう考えても演技が上手いとは言えないのだけど、キャラクターとしてしっかり説得力があるのだ。
「カラフル」は、ある意味現在の日本のアニメーションの本流からは最も遠い存在だろう。
ロボットも、萌え系の女の子も、グッズになりそうなキャラクターは一切出てこないし、スペクタクルな映像も無い。
物語も決してドラマチックではなく、終始淡々と地味に展開する。
だが、リアルな葛藤を抱えるキャラクター達に物語に引き込まれ、観終わると深い感動がじわじわと心に浸透するように、心地よく広がって行き、長く余韻が続く。
うまく言葉では説明出来ないが、原恵一の作品には理詰めではない叙情的な美しさがあり、それが心の奥底の琴線を静かに揺さぶるのである。
彼の特質を端的に表しているのが音楽のチョイスかもしれない。
尾崎豊の「僕が僕であるために」、アンジェラ・アキの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」、そしてTHE BLUE HEARTSの「青空」のカバーが、それぞれ絶妙のタイミングで使われる。
まあ、あまりにもドンピシャすぎてベタな気もするが、涙腺をギュッと刺激されるのは間違いなく、特にエンディングテーマになっている「青空」は歌詞の意味を考えるとより味わい深い。
今回はタイトル同様にとてもカラフルなカクテル、「エンジェルズ・ディライト」をチョイス。
シェリーグラスを用意し、グレナデン・シロップ、クレーム・ド・バイオレット、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番に各15mlを丁寧に注いでゆくと、虹の様にクッキリとした縞模様が出来上がる。
グラスにスプーンの背を沿わせて、そっと注ぎいれるのがコツ。
比重の関係で模様が生まれるので、他の組み合わせを実験してみるのも楽しい。
四種類以上のカラフルな虹を作ることも可能だ。

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フランスの女性監督ミリアム・トネロットは、味わいのあるアニメーションと実写映像を組み合わせて、風変わりなドキュメンタリーを作り上げた。
だが、タイトルから単にカワイイ猫の姿を期待してゆくと、思いがけずハードな内容にびっくりするかもしれない。
ここに描かれるのは、猫との関わりを通して浮かび上がってくる人間の姿なのだ。
映画の原題は「LA VOIE DU CHAT」つまり「猫の道」という意味である。
消えた飼い猫クロを追って、鏡の中に飛び込んだミリアムは、タイトル通り様々な時代の様々な国を訪れ、そこに暮らす人間と猫の関係を見つめる事になる。
十九世紀末のベル・エポックの時代、サロンでは文豪たちが猫を褒め称える。
世界各国で封建制が終わりを告げ、自由主義の革命が吹き荒れたこの時代、猫はその媚び諂わない半野生的性格から、自由と独立の象徴として持てはやされた。
逆に人間に従順な犬は、旧社会の動物として人気が急落したというから面白い。
人間と共に生きる動物達の運命は、社会の動向と密接に関わっているのである。
ミリアムが、サロンの作家達の中に見つけたのは、名高い文豪・夏目漱石の姿。
漱石と言えば「我輩は猫である」だが、日本人として興味深いのは、本作が上映時間の半部ほどを費やして描いているのが、他ならぬ日本社会における猫の姿であるという事だろう。
面白い事に、日本は歴史的に欧米での猫のポジションに決定的な影響を与えた国であるという。
元々キリスト教社会では、猫は魔女の使い魔や悪魔の化身など、ネガティブな印象が強く、ネズミの天敵として役に立つ動物、という以上の存在ではなかった。
一転して猫が大人気となるのが、前記したベル・エポックの時代なのだが、時期を同じくして欧州にはジャポニズムのムーブメントが到来し、浮世絵に描かれた様々な猫の姿が、ヨーロッパにおける猫のイメージを劇的に改善したのだという。
そんな日本は、現代では世界有数のペット大国。
映画は、1950年代に人類史上初の食物連鎖による公害病、「水俣病」が発生した熊本へ飛ぶ。
チッソの工場が垂れ流した廃液が海を汚染し、魚を食べた住人20万人以上が発症した恐ろしい病気の、最初の犠牲者が実は猫たちだった。
港の魚を食べていた猫たちが先ず病気の兆候を示し、人間に危険を知らせていたのだ。
病気が公になってからも、今度は自社と病気の因果関係が無いと立証したいチッソ側と、廃液と病気の関係を立証したい患者側の双方で、猫を使った実験と解剖が繰り返される。
水俣病の事はある程度知っているつもりだったが、かの地に犠牲となった猫たちの慰霊碑があることは初めて知った。
人間の利己主義の犠牲になった猫たちに合掌。
もちろん猫が人間の都合で犠牲になるのは日本だけではない。
英国では、猫もリストラされるらしい。
元々英国の国鉄では、信号のケーブルや生鮮食料品などの倉庫をネズミ被害から守るため、沢山の猫が社員として飼われていたという。
しかし、国鉄が分割民営化された時、新たな経営陣は猫を無用の長物とみなして解雇処分し、駅舎から追い出してしまった。
猫たちは立派な職人であり社員だと力説する、昔かたぎの鉄道マンたちの心情は痛いほど伝わってくるが、会社は猫の餌代をケチって株主に配当する事を選んだのだ。
猫も人間もリストラ、切符は値上がり、マンパワーが減ったために事故は増加、喜んだのはお金持ちの投資家と巨額の報酬を得る経営陣だけ。
何というか、経済の効率化というのが一体誰のためなのかというのを考えさせられる事例である。
だが、リストラされる猫もいれば、逆に人間をリストラから救った猫もいる。
和歌山県のローカル線、和歌山電鐵貴志川線の貴志駅の駅長を務めるのは、三毛猫の“たま”である。
元々駅の売店に飼われていたたまは、2007年に駅長に就任するや大人気となり、苦しい経営を続けていた和歌山電鐵復活の立役者となった。
実は、私の親の実家は和歌山で、以前この貴志駅に見に行ったことがある。
ところが、行ってみると「たま駅長は日曜日はお休みです」の張り紙があり、結局駅長の御尊顔は拝めなかったのだが、逆に猫好きとしてはホッとしたのを覚えている。
経済効果を最大限追求するなら、一番客が来るであろう日曜日に出勤させないという選択はあり得ないだろう。
ここでは、たまの人権ならぬ猫権が、経済よりも尊重されているのだ。
今ではたま駅長は和歌山電鐵の執行役員となり、無人駅だった貴志駅には、たまの同僚となる人間の駅長も赴任したと言う。
本来、自由で気ままな猫が駅舎に留まり旅人を送り出す光景に、ミリアムは幾分アイロニーを感じた様だが、この田舎の駅の光景には、まだ人から猫に対しての敬意が感じられる。
そもそも十九世紀の人々が賞賛した自由で独立した猫の姿は、今の社会に存在しえるのか。
アメリカのミネソタ州には、猫とお泊りできるホテル(文字通りの“キャット・ハウス”だ!)があり、日本の東京では沢山の猫カフェで人々が癒されている。
最近愛猫を亡くしたという女性は、猫カフェでそっくりな猫を抱いて喪失感を癒していた。
たぶん、これは猫と暮らしている人は皆感じているのではないかと思うが、現代人が猫に一番求めているのは“癒しの力”だろう。
アメリカには、死を予知する猫として有名になった“オスカー”のいる痴呆症専門病院があるが、元々オスカーもここで患者の癒しを担当するセラピーキャットなのだという。
今の社会、家で幸せに死ねるのは金持ちだけ。病院で家族にも看取られないで死ぬ人も多い。
世知辛い世の中、“病院で死ぬなら、猫に見守られて死にたい”なんて事を願っても、もしかしたら猫にとっては迷惑かもしれないが、そう思わざるを得ないほど人間同士の繋がりが弱くなっているのかもしれない。
ある日本人の男性は、猫の自由で気ままなところが好きで猫カフェに通っていると語る。
だが、そこにいる猫達は恐らく一生自由に外に出る事など無いのだ。
もちろん、“自由”という言葉には、単に行動の自由以外の意味がある事も確かだが、人間が猫に求めるイメージと、現実のギャップに、思わず考えさせられた。
「ネコを探して」は、猫を通じて人間を描き出す、ユニークなドキュメンタリーである。
結局、良くも悪くも何時の時代も猫は人間を映し出す鏡でありメタファーなのだ。
現代社会に完全に自由な人間が存在できない様に、完全に自由な飼い猫もいない。
その事自体は否定すべき事でも、肯定すべき事でもないだろう。
だが、猫が不幸な社会は、たぶん人間にとっても幸福ではない、という発想に立てば、猫との暮らしから、この世界を良くする方向性が見えてこないか。
少なくとも、年間25万匹以上の猫が、人間の無責任によって殺処分されているという日本の現状は変えて行きたいものである。
犬に関しては、過去四十年間ほぼ一貫して減り続け、二十年前と比較しても殺処分がほぼ三分の一(それでも20万頭近い)となり、捕獲後の引き取り割合も50%程度あるのだが、猫はここ十年以上横ばいで、殺処分数で犬を逆転してしまった。
行政も、社会も、そして何よりも一人一人の個人が、この恥ずべき数字を少しでも減らす努力をする事が、実は人間にとっても優しく豊かな社会を作ることに繋がって行くのではないだろうか。
“カワイイ”という言葉の元に、大切なパートナーの命まで消費してはいけないのだ。
今回は、神秘的な猫の目をモチーフにした「キャッツ・アイ」をチョイス。
このカクテル、店によってレシピが全然違うのだが、今回はジンベースで。
ドライ・ジン75ml、ドライ・ベルモット25ml、ホワイトキュラソー1/2tsp、レモンジュース1/2tsp、キルシュ2dashをシェイクしてグラスへ。
私はなぜかこれを飲むと眠くなる。
最後に、貴志川線のたま駅長公式ページで、ミリアム・トネロット監督がたまに宛てた素敵な手紙を公開しているので、以下にリンクしておく。
貴志川線はたまをモチーフにしたたま電車の他にもユニークな電車を走らせていて、車窓から見えるみかん山が連なる風景はまさに日本のハートランド。
和歌山を訪れた際には、是非乗車してみてほしい。
http://www.wakayama-dentetsu.co.jp/sstama.html

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これは、社会全体に不穏な空気が充満する、1974年のアルゼンチンで起こったある殺人事件によって、人生を狂わせられた人々の四半世紀にわたる心の葛藤を、彼らの瞳から垣間見る様な作品である。
本年度米アカデミー賞、最優秀外国語映画賞受賞作で、アルゼンチン映画としては軍政時代の暗部を描いた秀作「オフィシャル・ストーリー」以来25年ぶりの受賞となった。
長年勤めた刑事裁判所を定年退職したベンハミン・エスポシト(リカルド・ダリン)は、彼の人生を変えることになったある殺人事件を小説にしようと考え、久しぶりに事件当時の判事補でベンハミンの上司だったイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪ねる。
今では彼女は検事となり、二人の子供の母親にもなっていた。
1974年のブエノスアイレスで、銀行員のリカルド(パブロ・ラゴ)と幸せな新婚生活を送っていた23歳の教師リリアナ(カルラ・ケベド)が惨殺され、ベンハミンは凄惨な現場に衝撃を受ける。
やがて容疑者としてリリアナの幼馴染であるイシドロ(ハビエル・ゴディーノ)という男が浮上し、ベンハミンたちは様々な困難を乗り越えて遂にイシドロを逮捕するのだが・・・・
中南米の映画は、ラテン民族の陽気なイメージとは対照的に、暗い情念を感じさせるヘヴィーな人間ドラマが多いが、これもその一本。
若い女性教師が惨殺された殺人事件を担当した主人公が、25年後の1999年から彼の書いている小説として過去を振り返るという二重の構造となっている。
サスペンスの様でありながら、ラブストーリーの要素もあり、情念渦巻く人間ドラマでもある。
また物語の背景は、軍部によるクーデターが目前に迫る不安の時代で、ある種の歴史劇としての側面もあるのが特徴だ。
映画は、殺人事件の容疑者を巡る捜査の顛末と、ベンハミンのイレーネに対する秘めた恋心、ベンハミンの部下である飲んだくれのパブロとの奇妙な友情が複雑に絡み合って展開する。
ベンハミンは美しく聡明なイレーネを愛しているが、アメリカの一流大学を卒業したエリートの上司に対して、高卒の叩き上げである自分をどこか卑下してコンプレックスを抱いている。
だから彼女が別の男と婚約しても、自分は何も行動する事が出来ないのである。
そんな彼が大きく影響を受けるのが、殺されたリリアナの夫であるリカルドの行動だ。
彼は姿を消したイシドロを探すために、ブエノスアイレスの駅で毎日張り込みを続けている。
リカルドのリリアナへの強い想いに、自分には踏み出す勇気が無い“真実の愛”を見たベンハミンは、イレーネの反対をも押し切り中断されていた捜査を再開する。
そして、パブロの知恵の助けもあって、遂にイシドロを逮捕するのだ。
これで終わりなら、物語はハッピーエンド。
だが、ここから歴史が冷酷に彼らの人生に介入してくる。
本来、暴行殺人で終身刑となるはずのイシドロは、拘留中に得たゲリラの情報を当局に提供した事で無罪放免となり、何とイザベル・ペロン大統領のSPに抜擢される。
当時はカリスマであったファン・ペロン大統領の死去後、後継の妻イザベルが失政を重ねた事で社会が不安定化し、軍と政権との間で緊張が高まっていた時代。
当局が拷問で犯人をでっち上げようとしたり、折角逮捕したイシドロが個人の思惑で簡単に釈放されたりと、ちょっと考えられない様な展開が説得力を持つのも、この1974年という時代故であろう。
ある時代の状況が、個人史としての物語に密接に絡みついているあたり、イ・チャンドンの「ペパーミント・キャンディー」やポン・ジュノの「殺人の追憶」といった韓国映画に通じる部分もある。
そう言えば韓国もアジアのラテン民族と言われるが、その映画文化に歴史のダークサイドが暗い影を落としているあたりも共通するのかもしれない。
権力の側に付いたイシドロと、ベンハミンたちの立場は逆転。
イシドロがベンハミンとイレーネのエレベーターに乗り込み、見せ付ける様に拳銃を取り出して無言の脅しをかけ、イレーネが恐怖と緊張から泣き出してしまうシーンは、状況の変化と登場人物の心理を、最小限の要素で表現した秀逸な演出が光る。
そして何者かによってパブロが殺害される事態に及んで、ベンハミンはブエノスアイレスから脱出し、その後10年を地方で過ごす羽目に陥ってしまうのだ。
この作品を簡潔に表現するなら、25年前に事件の真相もイレーネへの愛も中途半端なままにしてしまったベンハミンが、自らの心に生じた虚空を埋めるために、過去に向き合う物語と言えるだろう。
小説を書くために、イレーネの協力を得て再び事件を追い始めたベンハミンは、自分がブエノスアイレスを去った後に、なぜかイシドロも姿を消した事を知る。
イシドロの行方を探るために、郊外の農園に移り住み、世捨て人の様に暮らすリカルドを訪ねるが、彼は「25年も経った。もう事件を忘れるべきだ」とベンハミンを諭すのである。
この言葉をベンハミンはどうしても本心と信じることが出来ない。
なぜなら、警察が諦めた後も一人犯人を捜し続けたリカルドの姿に“真実の愛”を見たからこそ、ベンハミンはイシドロを逮捕したのであり、それは結果的にベンハミンの人生そのものを変える事になった。
事件を忘れるという事は、封印したイレーネへの想いや自分の身代わりに殺されたパブロへの贖罪という重しを背負ってきた、自らの人生を否定する事に繋がってしまう。
だからこそベンハミンは事件から逃れられないのだ。
自分以上に事件によって心の傷を負ったリカルドが、事件を忘れる事など出来るのか、もし本当に忘れたとしたら、一体どの様にして心の虚空を埋めて25年の時を生きてこられたのか、ベンハミンにはどうしてもわからない。
リカルドの言葉は、いわば物語も終盤へ来てそれまでの流れを全否定するもので、一体どうオチをつけるのだろうと思っていたら、ここからのまさかの展開はさすがに読めなかった。
実はこの部分も某韓国映画をちょっと思い出したのだが、ありきたりなミステリの解決とは異なり、人間の愛の壮絶な深さと切なさを見せ付ける衝撃的なものだ。
そして事件の結末を見届ける事で、ようやく過去から開放されたベンハミンが、未来への一歩を踏み出すラストは、観る者の心に深く長い余韻を残すのである。
本作の監督は、アルゼンチン生まれで、米国で「LAW&ORDER:性犯罪特捜班」や「Dr.HOUSE」などの人気テレビシリーズの監督としても活躍し、母国では劇映画を撮り続けているベテランのファン・ホセ・カンパネラ。
観る者に錯覚を抱かせる様な冒頭の鉄道駅のシークエンスから、非凡なセンスを感じさせるラストカットまで、凝りに凝った映像演出も見もの。
特にイシドロがサッカースタジアムで逮捕されるシーンの、長い長いワンカットは、まるで全盛期のブライアン・デ・パルマの様で、一体どうやって撮ったのかわからないほどだ。
カンパネラはエドゥアルド・サチェリとの共同脚本も兼ねているが、“A”の打てないタイプライターや、寝室のメモなど細かな複線を張り巡らし、後半でそれらを一つずつ丁寧に回収してゆく構成は手際良く、様々な要素が入り混じったヘヴィーな人間ドラマに、適度なユーモアを取り混ぜて、物語に巧みに緩急をつけているのも見事。
オスカー受賞も納得の仕上がりだ。
さて、アルゼンチンと言えば南米のワイン大国。
今回は、映画がかなり重厚な上に、外は真夏なので、観賞後はライトなスパークリングをチョイス。
ボデガ・ノートンの「ブリュット・ロゼ・スパークリング」は、やや甘口でさっぱりとした喉ごしが楽しめる。
この季節にワインを飲もうとすると、やはりこういう系統が美味しく感じる。

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人とドラゴンが殺し合うドラゴン・スレイヤーの時代から、二つの種が共生するドラゴン・ライダーの時代へ、“ドラゴンと出会ったら殺せ”という長年当たり前とされてきた価値観を変え、憎しみの歴史に終止符を打つという偉業を、ひ弱ではみ出し者の少年が成し遂げる痛快なファンタジーだ。
ドリーム・ワークス・アニメーションの作品だが、パロディとシニカルさが売りの同社らしからぬ超正統派の娯楽映画である本作、監督は嘗てディズニーで「リロ・アンド・スティッチ」を手がけたディーン・デュボアとクリス・サンダース。
ライバルスタジオへ移籍し、手法も手描きからフルCGへと変わったが、彼らの八年ぶりの新作長編は、極めて現在的テーマを扱いながら、既にクラッシクの風格を持つ傑作である。
遠い遠い昔の事。北の海の孤島、バーク島では、ヴァイキングの村人が凶暴なドラゴンとの戦いに明け暮れていた。
ドラゴンを殺せる者だけが一人前と認められるこの村で、剣すらまともに振れないひ弱な少年ヒック(ジェイ・バルチェル)は厄介者扱い。
頭は良く、色々な道具を発明していたヒックは、ある夜とうとうドラゴンを打ち落とす事に成功する。
後を追ったヒックが、森の中で出会ったのは、傷つき飛べなくなってしまった若いドラゴンだった。
怯えるドラゴンを、ヒックはどうしても殺すことが出来ない。
本来憎むべき敵同士であるヒックとドラゴンは、次第に警戒を解いてお互いの距離を縮めて行く。
あり得ない友情の絆は、やがて島の運命を変える大騒動を巻き起こすのだが・・・・
原作は英国のクレシッダ・コーウェルによる児童文学だが、どうやら原作とは別物と言えるほど脚色されているらしい。
だが原作者は、“スピリットは受け継がれている”として映画版を肯定的に評価しているという。
私は未読なので、原作者の言うの“スピリット”が何かはわからないが、少なくとも映画のテーマ性は非常にわかりやすい。
世の中の大抵の争い事は、無知と不寛容から生ずるものだ。
難しいのは、当事者は自分が無知だとは思っていないので、問題の根源が自らの内部にある事を認識できない。
本作のヴァイキングの村も、まさにその状態にある。
彼らにとって、ドラゴンは邪悪で危険な巨大な害虫であり、ドラゴンに出会った時の行動に、選択の余地は無い。
先ず殺せ、とにかく殺せ、殺さなければ殺されるという絶対的な“常識”に縛られており、ドラゴンを殺せる者だけが一人前とみなされる。
巨大なドラゴンと戦うために、村の人々は筋骨隆々とした巨漢揃いで、子供達もある程度の年齢になると、ドラゴン殺しの訓練をつむ事になる。
そんな肉体至上主義的なヴァイキングの社会において、本作の主人公のヒック(ヒカップ)は、かなり異色の存在だ。
枯れ木の様に華奢な肉体と、妙なアイディアが詰まったオタク頭脳を持つ彼は、族長でもある父親のストイックにとっては悩みの種。
だが、そんなヒックは、他者が伺い知れない特質を持っている。
それは心の柔軟性と、優れた観察力、そして弱者ゆえの思いやりと優しさだ。
自分を馬鹿にする村人を見返そうと、発明した武器で、最強のドラゴンである“ナイト・フューリー”を打ち落としたヒックは、自らが傷つけたドラゴンを殺すことが出来ない。
それどころか、徐々にドラゴンと心を通じたヒックは、彼(?)にトゥース(トゥースレス)と名を付け、友達となるのである。
後で“なぜ最初にトゥースを殺さなかったのか”と自問したヒックは、人間がドラゴンを恐れるのと同じように、トゥースも自分を恐れ、怯えていたからだと気付く。
他の村人と違い戦いの外に身を置いていたヒックは、敵もまた自らと同じであるという事実を、素直に受け入れることが出来たのだ。
そして次なる段階として、一方的に敵とされているドラゴンとは何者かを、自らの経験として学び始めるのである。
恐れるのは、お互いに相手を知らないからで、相手の事を理解すれば、妄信的に恐れる必要は無くなる。
そうなれば無益な戦いも無くなり、憎しみ合う事も無い。
こうして奇妙な友情でトゥースと結ばれたヒックは、自分の武器で尾ヒレが傷つき、飛べなくなってしまったトゥースのために人工の尾ヒレを作り、自らがトゥースに乗って尾ヒレをコントロールする事で、再び大空に解き放つ。
このヒックとトゥースの二人三脚での飛翔シーンは本編の白眉だ。
今まで、様々な映画で空を飛ぶ描写を観てきたが、こんなダイナミックで気持ちの良い飛翔シーンは観た事が無い。
監督は、このシーンを作るに当たって宮崎アニメをかなり研究したらしいが、3DCGの特質を最大限生かした演出もあって、結果的にオリジナルを超えている。
ソフト化された暁には、このシーンばかりリピートで眺めてしまいそうだ。
大空を舞うドラゴンの姿は雄大で美しいが、生物としてのキャラクターは猫の生態がベースになっている様だ。
喉をコチョコチョされると気持ちよく脱力したり、マタタビ(?)に弱かったり、高いところに飛びつくのが好きだったりと、行動は限りなく猫。
特に一方の主人公であるトゥースは、顔全体の作りがまんま黒猫の様で、明るさで虹彩が変化する大きな丸い目などは猫そのもの。
この目の演技などはちょっと猫バスっぽくもある。
ハリウッドでは犬派の映画が多いが、これは珍しい隠れ猫派映画。
ヒックとトゥースが、始めて触れ合う感動的なシーンが、猫の愛情表現である鼻キッスなのは、愛猫家としてはたまらず萌えるところだ。
さて、人間とドラゴンを共生させる道を開いたヒックだが、物語の終盤で大きな自己矛盾に直面する。
切羽詰まった余裕の無い状況ではあるものの、ドラゴンの巣から出現した桁違いの超巨大ドラゴン(ほとんど怪獣だ)に対して、彼は躊躇無く戦う事を選択するのである。
不思議な事に、それまで彼が実践してきた理解と寛容の精神は、超巨大ドラゴンに対しては全く示されない。
おそらく、このボスキャラを、他のドラゴンとは完全に異なるスケールとデザインテイストに仕上げたのには意図がある。
当たり前だが、人間は自らに近しい存在をより理解しやすい。
ドラゴンは人間とはかなり隔たった存在だろうが、それでもトゥースや島を襲うドラゴン程度であれば、心を通じたり、飼い慣らしたりする事も可能に思える。
だが、クライマックスで登場するボスキャラは、スケール感が違いすぎて、理性ではわかっていたとしても、ヒックにももはや“ドラゴンの同族”とは捉えられないのだろう。
むしろヒックはトゥースと友達になった事によって、ドラゴンたちを支配するボスキャラを“共通の敵”として認識してしまい、自己矛盾に気付いていないのだ。
この物語で、ヒックは無知と不寛容から生まれる悲劇を、人間の知性と勇気によって乗り越える可能性を示し、同時に人間の限界も示している様に思える。
彼は一つの戦争を終わりに導いたが、別の戦争を避ける事は出来なかった。
私はこれをリアルに感じたが、物語のあり方としては唯一引っかかった部分でもあり、賛否が分かれるポイントだろう。
しかし、これは予め意図された矛盾だと思う。
なぜなら、最後の戦いが終わった後で、ヒックはある重い現実に直面するのである。
この描写、ハッピーエンドに水をさすと、ファイナルカットの段階でスタジオ幹部から反対意見が多く出て、物議を醸したらしい。
なるほどこれがディズニー・ピクサー系作品なら想像し難く、ある意味ドリーム・ワークスらしいとも言えるこの結末は、結果的に大正解だったと思う。
これはヒックがトゥースと同じ痛みを知ったという以上に、戦った事の代償を身をもって支払ったと言う事でもあり、彼の心の矛盾が肉体に象徴的に転化された描写なのである。
たとえどんな理由があろうとも、犠牲を伴わない戦争などあり得ないのだ。
最後に本当の意味で一心同体となったヒックとトゥース、既に2013年の続編公開がアナウンスされているが、ヒックの心がどこまで成長して行くのか、楽しみに待ちたい。
ところで、本作の日本語訳で、ドラゴンの名前がトゥースレスからトゥースに変更されているが、これでは意味が逆ではないか。
彼の名は、歯が引き込み式で、一見歯無しに見える事から物語の中で名付けられている。
語感を優先したのだろうが、ちゃんと意味のある名前なので、この様な変更は個人的にはあまり好ましくないと思う。
今回はちょっと変り種の酒をチョイス。
「X4 アイラ・スピリット」は、嘗てヴァイキングに支配された歴史を持つ、ヘブリディーズ諸島に伝わっていたウィスゲ・ベーハの製法を、17世紀の旅行者の記録を元にスコットランドのブルイックラディ蒸留所で復刻したもの。
ちなみにウィスゲ・ベーハとはゲール語で命の水を意味し、ウィスキーの語源である。
この酒、ウィスキーの一種ではあるものの、当時と同じ製法で作られ、全く熟成されていないらしいので、飲み頃がわからず、買ったけどまだあけてない。
そんな訳で、ぶっちゃけ味はどんなのかわからないが、300年以上前に記録された古のヴァイキングのレシピ、なんだか味を想像するだけでロマンを感じるではないか。

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元々トム・クルーズ主演の「エドウィン・A・ソルト」として企画が進行していたが、彼が結局契約書にサインしなかった事で、主人公をアンジェリーナ・ジョリー演じる女スパイに変更し、タイトルもシンプルに「ソルト」と改められて完成した。
謎多き主人公が、国家から追われるのは「ボーン・アイデンティティ」、米ロの二重スパイの疑いをかけられるのは「追いつめられて」、冷戦期のスリーパースパイの設定は「テレフォン」と、過去のスパイ映画の名作をごちゃ混ぜにして、「007」的スパイスをふりかけたいう感じで、何だか構成も含めて凄くアメコミチック。
脚本を担当したのは「リベリオン」のカート・ウィマーだが、残念ながらGUN-KATAは出てこない。
CIAの敏腕エージェント、エヴリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)は、ロシアからの亡命者を名乗るオルロフ(ダニエル・オルブリフスキー)の尋問を担当する。
彼は副大統領の葬儀に出席するために、アメリカを訪問するロシア大統領が、旧KGBによって24年も前に送り込まれたスリーパースパイに狙われていると言う。
オルロフの告げたスパイの名はエヴリン・ソルト。
スパイが狙われる時は家族も狙われる。
二重スパイの嫌疑をかけられたソルトは、夫を守るためにCIAから脱出するが、既に夫はアパートから拉致されていた。
変装したソルトは副大統領の葬儀会場へ潜入するのだが・・・
99年の「ボーンコレクター」以来、アンジェリーナ・ジョリーとは11年ぶり二度目のコンビとなるフィリップ・ノイス監督は、嘗てジャック・ライアン・シリーズの「パトリオットゲーム」「今そこにある危機」を手がけた実績もあり、スパイアクション物の作り方を心得ている。
冒頭の北朝鮮のシークエンス、いきなり拷問によって綺麗な顔をボコボコにされたソルトが登場する意外性で掴みはOK。
そして舞台がアメリカへと移り、謎のロシア人がソルトをロシアのスパイだと告発すると、物語は一気呵成に動き出し、1時間40分という比較的コンパクトな上映時間を、アクション満載でテンポ良く見せ切る。
ぶっちゃけ、後から考えるとかなり突っ込みどころの多い話ではあるのだが、少なくもと観ている間はそれほど気にならない。
前作の「チェンジリング」ではしっかりと演技の出来ることを見せた(オスカー女優だし、当たり前だけど)アンジー姐さんだが、やはりこの人のシャープな容姿と抜群のスタイルはアクションが映える。
まあ最強スパイにしては華奢過ぎる気もするが、適度に漫画チックな作品のテイストが救っている。
トラックの屋根から屋根へと飛び移るスリリングなシークエンスから、屈強な大男たち皆殺しのガンファイトまで、アクションスターとしての見せ場には事欠かない。
また追跡を逃れるための、「スパイ大作戦」もどきの変装も面白い。
特に、ホワイトハウスへの潜入シーンで見せる男装姿はなかなかの見ものだ。
本作の作劇的な最大のポイントは、二重スパイ・ソルトの正体が観客にもなかなか掴めないことだ。
最初は劇中の彼女の台詞どおり、「誰かに嵌められた」事で濡れ衣を着せられたのかと思いきや、CIAから脱出した彼女は、オルロフの告発通りロシア大統領の暗殺を実行してしまうのだ。
それまで、典型的な巻き込まれ型サスペンスの主人公としてソルトを捉えていた観客は、突如として現れた彼女のダークサイドに戸惑うしかない。
ところが、ここから物語は更に二転三転と意外に展開してゆくのである。
この映画の興味は、アンジー姐さんのアクション以外、殆どこのソルトの正体を巡るサスペンスと、と言っても良いだろう。
ただし、前記したように突っ込みどころは満載である。
そもそも、オルロフがソルトの正体を告発する時点で矛盾している。
あれで彼女があっさり捕まったり殺されたりしたら、その時点で全ての計画はおしまいではないか。
そして今回、冷戦期並みに完全な悪の組織として描かれる旧KGBの世界制服計画も、よく考えるとかなり無茶苦茶。
イスラム圏を核攻撃してアメリカに復讐させるという人種偏見むき出しの作戦も、回りくどい上にあまりにも不確定要素が多すぎるし、あの本物の悪のボスキャラは、もしもソルトが来なかったら、ミサイルを発射してバンカーから出た後、どうやって誤魔化すつもりだったんだろう。
もっとも、彼女の正体をかなり終盤まで曖昧にしている事が功を奏し、作劇の矛盾はその時点では矛盾とはわからない様にはなっている。
後から考えればおかしなところだらけではあるものの、矢継ぎ早に変化するシチュエーションと演出の勢いで、観てる間はそこまで考える余裕が無いのだ。
この辺はまあ、ギリギリ許容範囲か。
カート・ウィマーの脚本は、良くも悪くも彼らしく、アメコミテイストのスーパーヒロイン物として本作を成立させている。
物語上の矛盾点には目を瞑るとしても、少々残念だったのは、ソルトの本心をギリギリまで曖昧にしたが故に、彼女を突き動かしているであろう夫への愛までもが嘘か真かわかりにくく、行動原理が最後まで不明瞭な事。
正直なところ、未だにどこまでが本物の彼女だったのかイマイチ確信が持てない。
また物語が一段落して、続編への前ふりとも言うべきエピローグはやや冗長に感じられ、ここはもう少しシンプルに落として欲しかったところだ。
どうやら作る気満々の続編では、当然ながらソルトの正体を巡るサスペンスはもう使えない。
次回作には新しいアイディアと共により緻密なプロットを期待したいところだ。
今回は、「ソルト」だけに塩を効果的に使ったカクテル「マルガリータ」をチョイス。
テキーラ 30ml 、ホワイトキュラソー15ml、ライムジュース15ml、塩 適量をシェイクし、塩でスノースタイルにしたカクテルグラスに注ぐ。
夏場の今なら大き目のラウンドグラスを使ってフローズンも美味しい。
このカクテル、要するにテキーラの原産国であるメキシコの、レモンをかじりつつ塩を舐め、テキーラをショットグラスでグイッと飲むという定番のスタイルを、一杯のグラスに纏めたものだ。
マルガリータの名の由来には諸説あるが、女性名詞で元々はギリシャ語の「真珠」に由来する。
美しいが、かなり塩辛い真珠、まさにアンジー姐さんの様ではないか。

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