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2010年09月27日 (月) | 編集 |
「十三人の刺客」と言えば、1963年に工藤栄一監督、片岡千恵蔵主演で封切られた、所謂東映集団時代劇の傑作。
リメイクしたのが全く作家性の異なる三池崇史監督という事で、多くのファンが期待半分不安半分で公開を待っていたのではないか。
だが、結論から言えば、三池版「十三人の刺客」は、オリジナルに勝るとも劣らないアクション時代劇の快作である。
オリジナルとはかなりムードは異なるが、近年では珍しいスケールの大きなチャンバラのカタルシスを、これでもかというくらいに味わわせてくれる。
熱血迸る活劇を求めている、肉食系男子は映画館へ走れ!
冷酷無比の暴君、明石藩主の松平斉韶(稲垣吾郎)が徳川幕府の次期老中に決まった。
幕府の重鎮・土井利位(平幹二朗)は、この人事を何とか阻止しようとするが、斉韶が将軍の弟であるために、表立っての反対は出来ない。
利位は、御目付役の島田新左衛門(役所広司)に、天下万民のために、参勤交代で国元に戻る斉韶を暗殺するように依頼する。
急遽集められた刺客たちは、新左衛門以下、甥の新六郎(山田孝之)、盟友の倉永左平太(松方弘樹)、孤高の剣豪平山九十郎(伊原剛志)ら僅か十二人。
道中、山の民の木賀小弥太(伊勢谷友介)の案内で、先回りする事に成功した新左衛門らは、中山道落合宿を決戦の場に選ぶ。
小弥太も加わった十三人の刺客と、明石十万石・兵三百人との死闘がはじまる・・・・・
松平斉韶役の稲垣吾郎が抜群に良い。
今年の映画賞の助演男優賞は彼で決まりだろう。
これほど迷いの無い明確な悪役というのは、近頃の邦画ではまず記憶に無い。
女子供を弓で射殺し、他人の妻を犯したうえに夫を惨殺、一揆を起こした百姓は一族郎党皆殺し。
そんな“バカ殿”という表現では生温過ぎる、正に悪鬼の様な暴君・松平斉韶を、稲垣吾郎が心底楽しそうに演じている。
三池崇史の演出も容赦なし。
暴君の暴君たる非道を、ここまでやっちゃって良いの?という位にきっちりと描写する。
特に、斉韶に両手両足を斬り落とされ、舌まで抜かれ、慰み者になった末に捨てられた名も無き女の姿と、彼女が血の涙を流しながら口にくわえた筆で書く、「みなごろし」の書は強烈。
この描写だけで、島田新左衛門が将軍の弟の暗殺という無謀な任務を、迷わず受けてしまう事に説得力が生まれている。
映画の前半は、斉韶暗殺のための準備段階だ。
秘密裏に手だれの侍を集めて暗殺団を組織し、圧倒的多数の敵を殲滅できる作戦を練る。
密旨を受けた刺客の数は新左衛門を含めて十二人。
さすがに数が多いので、一人一人が十分に描写されているとは言いがたい。
ある程度人となりがわかるのは、主人公の役所広司と山田孝之、松方弘樹、伊原剛志、古田新太、伊勢谷友介あたりまで。
山田孝之演じる島田新六郎は、生きがいを感じられず自堕落な生活を送っている若者。
伊原剛志の平山九十郎は、新左衛門に恩義を感じる孤高の剣豪、 松方弘樹の倉永左平太は新左衛門の古くからの盟友だ。
この手の映画には欠かせない豪快な槍の名手は、 古田新太演じる佐原平蔵。
あとのメンバーはそれぞれに一応個性は与えられてキャラ立ちはしているものの、感情移入までは難しい。
だが、これに関してはオリジナルも同じ様なもので、やむを得ないだろう。
黒澤明は七人を描くのに三時間半を費やした訳で、その倍近い人数をきっちりと描くのは一本の映画というフォーマットでは不可能だ。
敵側とのバランスを考えても、このぐらいがベストであったと思う。
ユニークなのは、オリジナルで山城新伍が演じ、今回は伊勢谷友介が演じた、木賀小弥太のキャラクター。
十三人目の刺客となる小弥太の設定は、落合宿の郷士からやや漫画チックな不死身の山の民(というより山の精か?)へと変わっている。
絶倫大王だったりするあたりを含めて、脚本を担当した天願大介のテイストを強く感じさせるキャラクターで、正統派時代劇の登場人物としては好みが分かれるだろうが、面白いアクセントになっていたと思う。
そして後半は、いよいよチャンバラの始まりだ。
オリジナルでは十三人VS五十三人だったが、リメイク版の相手は三百人!
いくら映画とは言っても、これでは現実的でないので、相手の半分以上は火薬と飛び道具で殆ど瞬殺。
これでようやく一人十殺の計算だが、戦国時代の合戦でも、大体死傷者の七割くらいは、刀を合わせる前に銃や弓矢でダメージを負っていたというので、まあリアルなのかもしれない。
いざ迷路の様な要塞に仕立てられた落合宿での決戦が始まると、ダントツの輝きを放つのが松方弘樹!
一目見て殺陣のレベルが違うのである。
もちろん他の俳優達も素晴らしいのだが、68歳とは思えないスピード、形の美しさなど、やはり本家東映で半世紀に渡って斬りまくっていた人は違うと思わされる。
映画の後半50分間に渡って繰り広げられる大乱戦は、工藤版「十三人の刺客」+「七人の侍」+「クローズZERO」といった感じか。
立体的なアクションや、死にゆく刺客たちの主観の描写など、何となく深作っぽさを感じさせる部分もある。
東京ドーム20個分の敷地に二億円を投じて作られたという、スケールの大きなセットを効果的に使ったギミックの面白さもあり、見応え十分だ。
でも時代劇で、敵をドロップキックで倒すのって、はじめて見たかも(笑
明石藩の警護部隊を率いるのは、新左衛門とは剣の同門で、因縁の相手である鬼頭半兵衛。
どちらかと言うと舞台のミュージカルの印象が強く、時代劇映画初出演の市村正親が、斉韶の残虐行為に憤りつつも、主君への忠誠という侍の大儀に、あくまでも忠実であろうとする男を味わい深く演じているのが面白い。
暴君対刺客だけだと、単純な善悪二元論に陥ってしまうが、半兵衛のキャラクターがいるお陰で、同じ侍でありながら、異なる生き様の激突という理念的な葛藤の要素が生まれているのである。
クライマックスとなる新左衛門と半兵衛の一騎打ちは、背景の描きこみがある分、殺陣の出来栄え以上のドラマチックな盛り上がりがある。
本作の冒頭、「これは広島、長崎に原爆が落とされる100年前に起こった」という字幕が出る。
二十年以上前に観たので、はっきりとは覚えていないが、これはオリジナルにはなかった様に思う。
果たして、あえて原爆に言及した意図は何か。
稲垣吾郎演じる松平斉韶は、「余が老中となったあかつきには、再び戦の世としよう」と語る。
主君を守るために命を捨てた家臣の首を、無情にも足蹴にする斉韶は、既に侍であって侍ではない。
思うに、本作に描かれた年代から二十三年後に江戸幕府が滅びた後、理念を失った侍たちによって、彼の言葉は実現したのだ。
そして、再び訪れた戦の世を経て、本当に侍の時代の残滓が消滅するのが、この映画から百年後の敗戦であったという事なのではないだろうか。
もちろん、江戸時代から広島、長崎の時代があって、我々の今があるという事を、実感として感じさせるための言葉でもあるのだろうが。
「十三人の刺客」は、昭和の日本映画黄金時代の熱気が蘇ったかのような、正統派アクション時代劇の快作である。
ここ数年、伝説的な時代劇のリメイクが相次いでいるが、その中で最も成功した一本である事は間違いない。
三池崇史監督で来年公開予定になっている、小林正樹監督の代表作「切腹」のリメイクも、俄然楽しみになってきた。
そう言えば賭場のシーンで“5万回斬られた男”福本清三がチラリと出ていたが、こういう細かいサービスも時代劇ファンとしては嬉しいポイント。
シネマスコープの大画面で繰り広げられる、熱血な男たちによる、血沸き肉踊るチャンバラ大活劇。
いやあ満腹、満福。
今回は、決戦の舞台となった落合宿のあった岐阜県中津川の地酒「三千櫻 純米」をチョイス。
湧水と低農薬米から作られた酒はかなり辛口で仄かな酸味が心地良い。
これからの季節は燗にしても良いだろう。
野趣溢れる山の幸を肴に、侍魂に思いをはせたい。
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リメイクしたのが全く作家性の異なる三池崇史監督という事で、多くのファンが期待半分不安半分で公開を待っていたのではないか。
だが、結論から言えば、三池版「十三人の刺客」は、オリジナルに勝るとも劣らないアクション時代劇の快作である。
オリジナルとはかなりムードは異なるが、近年では珍しいスケールの大きなチャンバラのカタルシスを、これでもかというくらいに味わわせてくれる。
熱血迸る活劇を求めている、肉食系男子は映画館へ走れ!
冷酷無比の暴君、明石藩主の松平斉韶(稲垣吾郎)が徳川幕府の次期老中に決まった。
幕府の重鎮・土井利位(平幹二朗)は、この人事を何とか阻止しようとするが、斉韶が将軍の弟であるために、表立っての反対は出来ない。
利位は、御目付役の島田新左衛門(役所広司)に、天下万民のために、参勤交代で国元に戻る斉韶を暗殺するように依頼する。
急遽集められた刺客たちは、新左衛門以下、甥の新六郎(山田孝之)、盟友の倉永左平太(松方弘樹)、孤高の剣豪平山九十郎(伊原剛志)ら僅か十二人。
道中、山の民の木賀小弥太(伊勢谷友介)の案内で、先回りする事に成功した新左衛門らは、中山道落合宿を決戦の場に選ぶ。
小弥太も加わった十三人の刺客と、明石十万石・兵三百人との死闘がはじまる・・・・・
松平斉韶役の稲垣吾郎が抜群に良い。
今年の映画賞の助演男優賞は彼で決まりだろう。
これほど迷いの無い明確な悪役というのは、近頃の邦画ではまず記憶に無い。
女子供を弓で射殺し、他人の妻を犯したうえに夫を惨殺、一揆を起こした百姓は一族郎党皆殺し。
そんな“バカ殿”という表現では生温過ぎる、正に悪鬼の様な暴君・松平斉韶を、稲垣吾郎が心底楽しそうに演じている。
三池崇史の演出も容赦なし。
暴君の暴君たる非道を、ここまでやっちゃって良いの?という位にきっちりと描写する。
特に、斉韶に両手両足を斬り落とされ、舌まで抜かれ、慰み者になった末に捨てられた名も無き女の姿と、彼女が血の涙を流しながら口にくわえた筆で書く、「みなごろし」の書は強烈。
この描写だけで、島田新左衛門が将軍の弟の暗殺という無謀な任務を、迷わず受けてしまう事に説得力が生まれている。
映画の前半は、斉韶暗殺のための準備段階だ。
秘密裏に手だれの侍を集めて暗殺団を組織し、圧倒的多数の敵を殲滅できる作戦を練る。
密旨を受けた刺客の数は新左衛門を含めて十二人。
さすがに数が多いので、一人一人が十分に描写されているとは言いがたい。
ある程度人となりがわかるのは、主人公の役所広司と山田孝之、松方弘樹、伊原剛志、古田新太、伊勢谷友介あたりまで。
山田孝之演じる島田新六郎は、生きがいを感じられず自堕落な生活を送っている若者。
伊原剛志の平山九十郎は、新左衛門に恩義を感じる孤高の剣豪、 松方弘樹の倉永左平太は新左衛門の古くからの盟友だ。
この手の映画には欠かせない豪快な槍の名手は、 古田新太演じる佐原平蔵。
あとのメンバーはそれぞれに一応個性は与えられてキャラ立ちはしているものの、感情移入までは難しい。
だが、これに関してはオリジナルも同じ様なもので、やむを得ないだろう。
黒澤明は七人を描くのに三時間半を費やした訳で、その倍近い人数をきっちりと描くのは一本の映画というフォーマットでは不可能だ。
敵側とのバランスを考えても、このぐらいがベストであったと思う。
ユニークなのは、オリジナルで山城新伍が演じ、今回は伊勢谷友介が演じた、木賀小弥太のキャラクター。
十三人目の刺客となる小弥太の設定は、落合宿の郷士からやや漫画チックな不死身の山の民(というより山の精か?)へと変わっている。
絶倫大王だったりするあたりを含めて、脚本を担当した天願大介のテイストを強く感じさせるキャラクターで、正統派時代劇の登場人物としては好みが分かれるだろうが、面白いアクセントになっていたと思う。
そして後半は、いよいよチャンバラの始まりだ。
オリジナルでは十三人VS五十三人だったが、リメイク版の相手は三百人!
いくら映画とは言っても、これでは現実的でないので、相手の半分以上は火薬と飛び道具で殆ど瞬殺。
これでようやく一人十殺の計算だが、戦国時代の合戦でも、大体死傷者の七割くらいは、刀を合わせる前に銃や弓矢でダメージを負っていたというので、まあリアルなのかもしれない。
いざ迷路の様な要塞に仕立てられた落合宿での決戦が始まると、ダントツの輝きを放つのが松方弘樹!
一目見て殺陣のレベルが違うのである。
もちろん他の俳優達も素晴らしいのだが、68歳とは思えないスピード、形の美しさなど、やはり本家東映で半世紀に渡って斬りまくっていた人は違うと思わされる。
映画の後半50分間に渡って繰り広げられる大乱戦は、工藤版「十三人の刺客」+「七人の侍」+「クローズZERO」といった感じか。
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東京ドーム20個分の敷地に二億円を投じて作られたという、スケールの大きなセットを効果的に使ったギミックの面白さもあり、見応え十分だ。
でも時代劇で、敵をドロップキックで倒すのって、はじめて見たかも(笑
明石藩の警護部隊を率いるのは、新左衛門とは剣の同門で、因縁の相手である鬼頭半兵衛。
どちらかと言うと舞台のミュージカルの印象が強く、時代劇映画初出演の市村正親が、斉韶の残虐行為に憤りつつも、主君への忠誠という侍の大儀に、あくまでも忠実であろうとする男を味わい深く演じているのが面白い。
暴君対刺客だけだと、単純な善悪二元論に陥ってしまうが、半兵衛のキャラクターがいるお陰で、同じ侍でありながら、異なる生き様の激突という理念的な葛藤の要素が生まれているのである。
クライマックスとなる新左衛門と半兵衛の一騎打ちは、背景の描きこみがある分、殺陣の出来栄え以上のドラマチックな盛り上がりがある。
本作の冒頭、「これは広島、長崎に原爆が落とされる100年前に起こった」という字幕が出る。
二十年以上前に観たので、はっきりとは覚えていないが、これはオリジナルにはなかった様に思う。
果たして、あえて原爆に言及した意図は何か。
稲垣吾郎演じる松平斉韶は、「余が老中となったあかつきには、再び戦の世としよう」と語る。
主君を守るために命を捨てた家臣の首を、無情にも足蹴にする斉韶は、既に侍であって侍ではない。
思うに、本作に描かれた年代から二十三年後に江戸幕府が滅びた後、理念を失った侍たちによって、彼の言葉は実現したのだ。
そして、再び訪れた戦の世を経て、本当に侍の時代の残滓が消滅するのが、この映画から百年後の敗戦であったという事なのではないだろうか。
もちろん、江戸時代から広島、長崎の時代があって、我々の今があるという事を、実感として感じさせるための言葉でもあるのだろうが。
「十三人の刺客」は、昭和の日本映画黄金時代の熱気が蘇ったかのような、正統派アクション時代劇の快作である。
ここ数年、伝説的な時代劇のリメイクが相次いでいるが、その中で最も成功した一本である事は間違いない。
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シネマスコープの大画面で繰り広げられる、熱血な男たちによる、血沸き肉踊るチャンバラ大活劇。
いやあ満腹、満福。
今回は、決戦の舞台となった落合宿のあった岐阜県中津川の地酒「三千櫻 純米」をチョイス。
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2010年09月23日 (木) | 編集 |
「ミックマック」って何?と思っていたら、フランス語で“混乱”や“悪戯”あるいは“ごちゃまぜ”などの意味を持つ言葉らしい。
なるほど確かに本作は、これらの意味を全部含んだ寓話で、はっちゃけたギミックの外連味と、物語的な薄さが同居する、良くも悪くもジャン=ピエール・ジェネらしい一本だ。
戦争で父を失ったバジル(ダニー・ブーン)は、苦労の末に成人するが、今度はギャングの放った銃弾に当たって、生死の境をさまよい、仕事も住処も無くしてしまう羽目に。
奇妙な仲間達と共にガラクタの再生屋をしているプラカール(ジャン=ピエール・マリエル)に拾われたバジルは、ある日自分の人生を滅茶苦茶にした武器商人の会社が近所にある事を知り、彼らへの復讐を決意する・・・
冒頭、1979年の西サハラで、地雷を除去するフランス軍部隊が映し出される。
スペインの植民地だった西サハラは、70年代以降、新たな支配者となったモロッコと、独立派のポリサリオ戦線の戦闘が続き、正式な帰属は21世紀の現在も未だに決定していない混沌の地。
主人公のバジルは、幼い頃にフランス軍兵士だった父を、この地に埋められられたフランス製の地雷で亡くす。
その後、母親はどうやら精神を病み、施設で苛酷な少年時代を送る事になるのだが、ここで時代は一気に飛んで30年後。
何とか成人したバジルは、ビデオ屋の店員として働いている。
ホークスの傑作「三つ数えろ」を台詞を丸暗記するくらい観込んでいるあたり、何となくオタクっぽい青年になっているのが可笑しい。
ところが、映画のクライマックスとシンクロするかのように、偶然店の前でギャングの銃撃戦が始まり、これまたフランス製の銃弾一発が、運悪くバジルの脳天を直撃。
何とか一命を取り留めたものの、入院生活の間に仕事を失ったバジルは、脳ミソの中に弾丸という時限爆弾を抱えたまま、ホームレスになってしまう。
彼は、同胞であるフランス人の作った武器によって、一度ならず二度までも人生を滅茶苦茶にされてしまうのである。
バジルを救うのは、ギロチンが壊れたお陰で死に損なったという元死刑囚のプラカール。
彼は、街の片隅にあるガラクタの山で、超軟体の体を持つラ・モーム・カウチュ、嘗て人間大砲のギネス記録を持っていたというフラカス、人間計算機のカルキュレット、天才発明家のプチ・ピエール、民俗学者のレミントン、肝っ玉母さんのタンブイユら、一癖も二癖もある仲間達とスクラップの再生屋を営んでいる。
彼らのコミューンに温かく迎えられ、新たな居場所を見つけたバジルだが、ある日偶然にも自らの人生を狂わせた二つの兵器会社、ヴィジランテ兵器会社とオーベルヴィリエ軍事会社がすぐ近所にある事を知ってしまう。
バジルは、それぞれの社長に面会を申し込むが、完全に無視されると彼らの日常をスパイし、お互いがライバルとして憎みあい、相手を蹴落とそうとしている事を探り出す。
ここからの展開は、復讐を決意したバジルを、仲間達がそれぞれの特技を生かして助け、遂に悪の武器商人たちをやっつけるという、非常にわかりやすいスラップスティックコメディだ。
一言で言えば、ジャン=ピエール・ジェネの描く、お笑い反戦寓話という事になるだろう。
ただ、物語のギミックは良く考えられていて観ていて楽しいものの、反戦テーマとして捉えると、あまりにも他愛なさ過ぎて、少々物足りない話である。
現実の戦争をカリカチュアしていると言えばそうなのだが、見ようによっては矮小化している様にも思えてしまうし、バジルの頭に残された弾丸などの、意味ありげなアイテムが殆ど生かされておらず、思いのほかシニカルさが抑えられている事もあり、ジェネの作品としては際立ってフツーな印象で特に深みも無い。
いっそ、バジルがアフリカ移民だったりすれば、サルコジ政権へのアンチテーゼとしても強烈な話になったかもしれないけど。
むしろ物語の焦点は、それぞれ一芸に秀でるものの、社会的フリークスである登場人物たちが、それぞれの特質を生かしながらも一致団結する事で、社会的に大きな成果を成し遂げる事に向いている様に思える。
これも使い古された物語のパターンではあるものの、反戦テーマよりも個々のキャラクターの達成感に直結している事もあり、観ていて気持ちは良い。
まあ、フランス流というかジェネ流の“変”エスプリが程よく効いた、良質な娯楽映画として捉えるべき作品だろう。
ジェネの作品の見所でもある世界観は今回も楽しい。
ヴェルヌ的造形物に埋め尽くされた美術は、ジェネ組の常連でもあるアリーヌ・ボネットが担当。
これをグリーンを基調とした漫画的世界に写し取ったのは、世界各国で活躍する日本人カメラマンの永田鉄男だ。
本来は、「アメリ」以来の盟友であるブリュノ・デルボネルにオファーが行っていたらしいが、先に「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の仕事が決まってしまっており、シャネルのCMでジェネと組んだ永田鉄男に決まったらしい。
デジタル技術を駆使しつつも、アナログ的なるテイストを巧みに強調する画作りは、素晴らしい仕上がりである。
今回は、緑っぽいビジュアルが印象的な映画に合わせて、緑のカクテル「グランド・アイ」をチョイス。
ぺルノを40ml、クレーム・ド・ミント・グリーンを20mlシェイクして、グラスに注ぐ。
本来はアペリティフだが、かなり独特の風味のある個性溢れる酒。
ジェネ作品にしては、比較的クセが弱い本作にはちょうど良い気がする。
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なるほど確かに本作は、これらの意味を全部含んだ寓話で、はっちゃけたギミックの外連味と、物語的な薄さが同居する、良くも悪くもジャン=ピエール・ジェネらしい一本だ。
戦争で父を失ったバジル(ダニー・ブーン)は、苦労の末に成人するが、今度はギャングの放った銃弾に当たって、生死の境をさまよい、仕事も住処も無くしてしまう羽目に。
奇妙な仲間達と共にガラクタの再生屋をしているプラカール(ジャン=ピエール・マリエル)に拾われたバジルは、ある日自分の人生を滅茶苦茶にした武器商人の会社が近所にある事を知り、彼らへの復讐を決意する・・・
冒頭、1979年の西サハラで、地雷を除去するフランス軍部隊が映し出される。
スペインの植民地だった西サハラは、70年代以降、新たな支配者となったモロッコと、独立派のポリサリオ戦線の戦闘が続き、正式な帰属は21世紀の現在も未だに決定していない混沌の地。
主人公のバジルは、幼い頃にフランス軍兵士だった父を、この地に埋められられたフランス製の地雷で亡くす。
その後、母親はどうやら精神を病み、施設で苛酷な少年時代を送る事になるのだが、ここで時代は一気に飛んで30年後。
何とか成人したバジルは、ビデオ屋の店員として働いている。
ホークスの傑作「三つ数えろ」を台詞を丸暗記するくらい観込んでいるあたり、何となくオタクっぽい青年になっているのが可笑しい。
ところが、映画のクライマックスとシンクロするかのように、偶然店の前でギャングの銃撃戦が始まり、これまたフランス製の銃弾一発が、運悪くバジルの脳天を直撃。
何とか一命を取り留めたものの、入院生活の間に仕事を失ったバジルは、脳ミソの中に弾丸という時限爆弾を抱えたまま、ホームレスになってしまう。
彼は、同胞であるフランス人の作った武器によって、一度ならず二度までも人生を滅茶苦茶にされてしまうのである。
バジルを救うのは、ギロチンが壊れたお陰で死に損なったという元死刑囚のプラカール。
彼は、街の片隅にあるガラクタの山で、超軟体の体を持つラ・モーム・カウチュ、嘗て人間大砲のギネス記録を持っていたというフラカス、人間計算機のカルキュレット、天才発明家のプチ・ピエール、民俗学者のレミントン、肝っ玉母さんのタンブイユら、一癖も二癖もある仲間達とスクラップの再生屋を営んでいる。
彼らのコミューンに温かく迎えられ、新たな居場所を見つけたバジルだが、ある日偶然にも自らの人生を狂わせた二つの兵器会社、ヴィジランテ兵器会社とオーベルヴィリエ軍事会社がすぐ近所にある事を知ってしまう。
バジルは、それぞれの社長に面会を申し込むが、完全に無視されると彼らの日常をスパイし、お互いがライバルとして憎みあい、相手を蹴落とそうとしている事を探り出す。
ここからの展開は、復讐を決意したバジルを、仲間達がそれぞれの特技を生かして助け、遂に悪の武器商人たちをやっつけるという、非常にわかりやすいスラップスティックコメディだ。
一言で言えば、ジャン=ピエール・ジェネの描く、お笑い反戦寓話という事になるだろう。
ただ、物語のギミックは良く考えられていて観ていて楽しいものの、反戦テーマとして捉えると、あまりにも他愛なさ過ぎて、少々物足りない話である。
現実の戦争をカリカチュアしていると言えばそうなのだが、見ようによっては矮小化している様にも思えてしまうし、バジルの頭に残された弾丸などの、意味ありげなアイテムが殆ど生かされておらず、思いのほかシニカルさが抑えられている事もあり、ジェネの作品としては際立ってフツーな印象で特に深みも無い。
いっそ、バジルがアフリカ移民だったりすれば、サルコジ政権へのアンチテーゼとしても強烈な話になったかもしれないけど。
むしろ物語の焦点は、それぞれ一芸に秀でるものの、社会的フリークスである登場人物たちが、それぞれの特質を生かしながらも一致団結する事で、社会的に大きな成果を成し遂げる事に向いている様に思える。
これも使い古された物語のパターンではあるものの、反戦テーマよりも個々のキャラクターの達成感に直結している事もあり、観ていて気持ちは良い。
まあ、フランス流というかジェネ流の“変”エスプリが程よく効いた、良質な娯楽映画として捉えるべき作品だろう。
ジェネの作品の見所でもある世界観は今回も楽しい。
ヴェルヌ的造形物に埋め尽くされた美術は、ジェネ組の常連でもあるアリーヌ・ボネットが担当。
これをグリーンを基調とした漫画的世界に写し取ったのは、世界各国で活躍する日本人カメラマンの永田鉄男だ。
本来は、「アメリ」以来の盟友であるブリュノ・デルボネルにオファーが行っていたらしいが、先に「ハリー・ポッターと謎のプリンス」の仕事が決まってしまっており、シャネルのCMでジェネと組んだ永田鉄男に決まったらしい。
デジタル技術を駆使しつつも、アナログ的なるテイストを巧みに強調する画作りは、素晴らしい仕上がりである。
今回は、緑っぽいビジュアルが印象的な映画に合わせて、緑のカクテル「グランド・アイ」をチョイス。
ぺルノを40ml、クレーム・ド・ミント・グリーンを20mlシェイクして、グラスに注ぐ。
本来はアペリティフだが、かなり独特の風味のある個性溢れる酒。
ジェネ作品にしては、比較的クセが弱い本作にはちょうど良い気がする。

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2010年09月18日 (土) | 編集 |
ミステリーの様に宣伝されているが、基本的にそっち系の作品ではないと思う。
第59回ベルリン国際映画祭で銀熊賞に輝いた話題作、「彼女が消えた浜辺」は、キアロスタミやマフマルバフらの巨匠を輩出してきた中東の映画大国、イランから届いた極上の心理劇。
楽しいはずの三日間のバカンスで起こった、思いがけない事件によって、普段は見えない人間の深層心理が暴かれて行くスリリング展開に、全く目が離せない。
※ネタバレ注意
週末のバカンスを楽しむために、カスピ海沿岸のリゾートを訪れた友人達。
彼らは皆長年の知り合いだが、旅の企画者であるセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)は唯一の新参者だった。
最初の夜は楽しく過ぎたが、翌日子供の一人が海で溺れるという事件が起こる。
何とか無事だったものの、今度は浜にいたはずのエリが忽然と姿を消してしまった。
子供を助けようとして溺れたと思い込んだセピデーたちは、必至に捜索するが彼女の姿はどこにも見当たらなかった・・・・
イランというのは面白い国である。
一般的には、アメリカにならず者国家呼ばわりされる、イスラム原理主義の厳格な宗教国家というイメージだろうが、私の知る幾人かの個人の印象としては、彼らは日本人以上に本音と建前を使い分ける民族だ。
何しろイスラム革命前のイランは、ぶっちゃけ何でもありの享楽的国家だった訳で(現状はその反動と言えなくもない)、伝え聞くところによると、一見ガチガチな現体制の裏でも、個人レベルではかなりしたたかに楽しんでいるらしい。
実際、私の知るイラン人は、外国在住とは言え、信仰に生きる人たちというより、トンカツとビールが大好きな快楽の達人の方が多い。
アラブ系の原理主義国では、映画その物が否定される事も少なくないのに、イランは中東随一の映画大国だったりするあたりも、ペルシャ帝国以来の文化的な融通性が影響している様に思える。
そして本作もまた、イランのどこにでもいるごく普通の個人に潜む、本音と建前が招いた悲劇を描いた一本なのである。
カスピ海に面した別荘に集まった男女八人と子供達三人のうち、アミールとセピデー、ペイマンとショーレ、マヌチュールとナジーの三組の夫妻は大学時代からの気心の知れた友人たちで、面倒見の良いセピデーがバカンスの幹事の様な立場にある。
実は彼らは、アミールの弟で最近バツイチになったアーマドに新しいガールフレンドを紹介しようとしていて、セピデーが自分の子供の幼稚園で先生をしているエリを誘ったのだ。
バカンスの最初の夜は、ジェスチャーゲームをしたり、水タバコを吸ったりして楽しく時が過ぎて行き、エリも少々戸惑いながらも彼らと打ち解けようとしている様に見える。
このあたりまでは、映画のテンポもゆったりしたものだ。
物語が大きく動くのは、二日目にペイマンの息子のアシューラが海で溺れてから。
アシューラは何とか救助されたが、ホッとしたのもつかの間、今度は子供達を見ていたはずのエリの姿が見えない。
助けようとして海に入って溺れたのではと考えた彼らは、必死に捜索するが見つからない。
実は一泊のつもりで来ていたエリは、朝から帰りたがっていたという話もでて、果たして彼女は海で溺れたのか、それとも黙ってテヘランへ帰ったのか、全くわからなくなってしまう。
しかも、警察に届けを出そうにも、エリを誘ったセピデーを含めて、彼らの誰もエリのフルネームすら知らないのだ。
混乱する事態を打開するために、セピデーたちは限られた情報からエリとは一体何者なのか、何を考えていたのかと思いを巡らせるが、観客の立場も彼らと全く同じ。
もう一人の登場人物になって、カスピ海からの風が吹きつける浜辺で、消えたエリを探して右往左往する気分を味わえる。
最初は、事態に戸惑うばかりだった登場人物たちの関係も、事が長引くにつれて徐々に変化してゆく。
ある者はエリの家族と連絡を取ることを主張し、ある者は全て放り出して家に帰りたいと言い出し、またある者はそもそも何でエリを誘ったんだとセピデーを責める。
仲の良い友人たちが、エゴをさらけ出して互いに責め合う様は恐ろしくリアル。
監督・脚本の新鋭アスガー・ファルハディは、キャラクターを内面まで徹底的に造形し、基本的にワンシチュエーションの物語を人間同士のぶつかり合いでグイグイと引っ張って行く。
やがて、セピデーがエリに関して皆に小さな嘘をついていた事がわかり、そこから物語は予期せぬ方向へと向って行く。
セピデーの嘘とは、エリには別れたがっていたものの、婚約者がいた事と、それ故に旅行に乗り気でなかった彼女を、強引に連れて来ていた事。
イスラム圏では、婚約者のいる女性に他の男を紹介するなど御法度で、こうなってくるとエリが溺れたにしろ、黙って帰ったにしろ揉め事は必至である。
さらに、ひょんな事から事件がエリの婚約者にバレてしまい、混沌としたリゾートは招かれざる客を迎える事になる。
次々と新事実が発覚し、嘘を誤魔化すために次なる嘘が生み出されるという、誰も予期することが出来ぬ展開に、登場人物は皆パニック状態だ。
観ている観客の方も、事件が起こってからは彼らと視点を共有しているので、“どうなるのだろう”という興味より、“どうしたらいいのだろう”という主観的な感覚で物語を追う事になる。
本作のポイントは、事件の原因を作ってしまったセピデーが、基本的に善意の人であるというところだろう。
彼女は誰かを傷つけようと思った訳ではなく、むしろ嘘をつくことで、余計な波風を立てずに、エリとアーマドに幸せになってもらいたかったのだ。
実際、もしもエリが姿を消さなければ、すべては上手くいっていたはずだった。
だがセピデーの問題は、その善意が一体誰のためなのかが自分でもわからなくなっている事だ。
何しろ彼女は、エリが何者なのかすら本当は知らないのである。
まあ日本にも、頼まれてもいないのにやたらと他人の世話を焼く人は珍しくないが、親切と御節介は紙一重。
この物語では、セピデーの小さな善意の嘘が、結果的に関わった全ての人間関係をグチャグチャにしてしまうのだが、それによって浮かび上がったのは、人間という存在の何ともミステリアスな複雑さだ。
エリを探す事は、実は人間を探す事なのである。
我々は、知っていると思っている身近な人を、或いは自分自身を本当に知っているのだろうか?
この作品、本国では2009年度の興行成績2位を記録したらしいが、“笑える”とか“泣ける”とかのわかりやすいキーワードで表す事の出来ない、こんなにもヘヴィーな人間ドラマが大ヒットするイランの映画マーケットってある意味凄い。
まあ社会的葛藤が顕在化している事のサインなのだろうが、ここに描かれているテーマは特にイラン社会に限らない普遍的なもの。
スリリングで超一級品の人間ドラマであり、忘れられない余韻を残す。
俳優達は総じて素晴らしくハイレベルな演技を見せてくれるが、特に「ワールド・オブ・ライズ」でハリウッド進出も果したゴルシフテェ・ファラハニーが、セピデーの苦悩を説得力たっぷりに演じて圧巻だ。
ちなみに彼女はハリウッド映画に出演した事で当局から睨まれて、事実上パリでの亡命生活を余儀なくされているらしく、今のところ本作がイランで出演した最後の作品である。
宗教国家のイランでは当然お酒は禁止・・・なので、世俗主義を国是とし、歴史的にもイランとの関係が深いトルコから「エフェス ダークビール」をチョイス。
トルコ料理店などでも御馴染みだが、まろやかでコクのある黒ビールである。
カスピ海の吹きすさぶ風にさらされて、カラカラになった喉を潤してくれる。
元々ビールは中東地域が発祥地、イスラム革命以前にはイランにも酒造会社があったそうで、飲んでみたかったな。
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第59回ベルリン国際映画祭で銀熊賞に輝いた話題作、「彼女が消えた浜辺」は、キアロスタミやマフマルバフらの巨匠を輩出してきた中東の映画大国、イランから届いた極上の心理劇。
楽しいはずの三日間のバカンスで起こった、思いがけない事件によって、普段は見えない人間の深層心理が暴かれて行くスリリング展開に、全く目が離せない。
※ネタバレ注意
週末のバカンスを楽しむために、カスピ海沿岸のリゾートを訪れた友人達。
彼らは皆長年の知り合いだが、旅の企画者であるセピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)は唯一の新参者だった。
最初の夜は楽しく過ぎたが、翌日子供の一人が海で溺れるという事件が起こる。
何とか無事だったものの、今度は浜にいたはずのエリが忽然と姿を消してしまった。
子供を助けようとして溺れたと思い込んだセピデーたちは、必至に捜索するが彼女の姿はどこにも見当たらなかった・・・・
イランというのは面白い国である。
一般的には、アメリカにならず者国家呼ばわりされる、イスラム原理主義の厳格な宗教国家というイメージだろうが、私の知る幾人かの個人の印象としては、彼らは日本人以上に本音と建前を使い分ける民族だ。
何しろイスラム革命前のイランは、ぶっちゃけ何でもありの享楽的国家だった訳で(現状はその反動と言えなくもない)、伝え聞くところによると、一見ガチガチな現体制の裏でも、個人レベルではかなりしたたかに楽しんでいるらしい。
実際、私の知るイラン人は、外国在住とは言え、信仰に生きる人たちというより、トンカツとビールが大好きな快楽の達人の方が多い。
アラブ系の原理主義国では、映画その物が否定される事も少なくないのに、イランは中東随一の映画大国だったりするあたりも、ペルシャ帝国以来の文化的な融通性が影響している様に思える。
そして本作もまた、イランのどこにでもいるごく普通の個人に潜む、本音と建前が招いた悲劇を描いた一本なのである。
カスピ海に面した別荘に集まった男女八人と子供達三人のうち、アミールとセピデー、ペイマンとショーレ、マヌチュールとナジーの三組の夫妻は大学時代からの気心の知れた友人たちで、面倒見の良いセピデーがバカンスの幹事の様な立場にある。
実は彼らは、アミールの弟で最近バツイチになったアーマドに新しいガールフレンドを紹介しようとしていて、セピデーが自分の子供の幼稚園で先生をしているエリを誘ったのだ。
バカンスの最初の夜は、ジェスチャーゲームをしたり、水タバコを吸ったりして楽しく時が過ぎて行き、エリも少々戸惑いながらも彼らと打ち解けようとしている様に見える。
このあたりまでは、映画のテンポもゆったりしたものだ。
物語が大きく動くのは、二日目にペイマンの息子のアシューラが海で溺れてから。
アシューラは何とか救助されたが、ホッとしたのもつかの間、今度は子供達を見ていたはずのエリの姿が見えない。
助けようとして海に入って溺れたのではと考えた彼らは、必死に捜索するが見つからない。
実は一泊のつもりで来ていたエリは、朝から帰りたがっていたという話もでて、果たして彼女は海で溺れたのか、それとも黙ってテヘランへ帰ったのか、全くわからなくなってしまう。
しかも、警察に届けを出そうにも、エリを誘ったセピデーを含めて、彼らの誰もエリのフルネームすら知らないのだ。
混乱する事態を打開するために、セピデーたちは限られた情報からエリとは一体何者なのか、何を考えていたのかと思いを巡らせるが、観客の立場も彼らと全く同じ。
もう一人の登場人物になって、カスピ海からの風が吹きつける浜辺で、消えたエリを探して右往左往する気分を味わえる。
最初は、事態に戸惑うばかりだった登場人物たちの関係も、事が長引くにつれて徐々に変化してゆく。
ある者はエリの家族と連絡を取ることを主張し、ある者は全て放り出して家に帰りたいと言い出し、またある者はそもそも何でエリを誘ったんだとセピデーを責める。
仲の良い友人たちが、エゴをさらけ出して互いに責め合う様は恐ろしくリアル。
監督・脚本の新鋭アスガー・ファルハディは、キャラクターを内面まで徹底的に造形し、基本的にワンシチュエーションの物語を人間同士のぶつかり合いでグイグイと引っ張って行く。
やがて、セピデーがエリに関して皆に小さな嘘をついていた事がわかり、そこから物語は予期せぬ方向へと向って行く。
セピデーの嘘とは、エリには別れたがっていたものの、婚約者がいた事と、それ故に旅行に乗り気でなかった彼女を、強引に連れて来ていた事。
イスラム圏では、婚約者のいる女性に他の男を紹介するなど御法度で、こうなってくるとエリが溺れたにしろ、黙って帰ったにしろ揉め事は必至である。
さらに、ひょんな事から事件がエリの婚約者にバレてしまい、混沌としたリゾートは招かれざる客を迎える事になる。
次々と新事実が発覚し、嘘を誤魔化すために次なる嘘が生み出されるという、誰も予期することが出来ぬ展開に、登場人物は皆パニック状態だ。
観ている観客の方も、事件が起こってからは彼らと視点を共有しているので、“どうなるのだろう”という興味より、“どうしたらいいのだろう”という主観的な感覚で物語を追う事になる。
本作のポイントは、事件の原因を作ってしまったセピデーが、基本的に善意の人であるというところだろう。
彼女は誰かを傷つけようと思った訳ではなく、むしろ嘘をつくことで、余計な波風を立てずに、エリとアーマドに幸せになってもらいたかったのだ。
実際、もしもエリが姿を消さなければ、すべては上手くいっていたはずだった。
だがセピデーの問題は、その善意が一体誰のためなのかが自分でもわからなくなっている事だ。
何しろ彼女は、エリが何者なのかすら本当は知らないのである。
まあ日本にも、頼まれてもいないのにやたらと他人の世話を焼く人は珍しくないが、親切と御節介は紙一重。
この物語では、セピデーの小さな善意の嘘が、結果的に関わった全ての人間関係をグチャグチャにしてしまうのだが、それによって浮かび上がったのは、人間という存在の何ともミステリアスな複雑さだ。
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2010年09月14日 (火) | 編集 |
「悪人」とは、何ともド直球なタイトル。
多分に韓国映画の影響がありそうな気がするが、最近の日本映画には人間の心のダークサイドにスポットを当てた作品が多い。
中島哲也監督の「告白」はその代表だろうが、同じプロデュースチームによる本作は、また違った形で核心に迫った。
吉田修一のベストセラー小説を、原作者と共同で脚本化し演出したのは、 「フラガール」の李相日監督。
悪人とは何者か、悪とは一体何なのかを問う大変な意欲作である。
長崎の片田舎に住む解体作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、博多のOL石橋佳乃(満島ひかり)と待ち合わせをしていた。
だが佳乃は、たまたま待ち合わせ場所に現れた増尾圭吾(岡田将生)の車に乗っていってしまう。
翌日、福岡県の三瀬峠で佳乃の遺体が発見される。
警察は当初圭吾を疑ったが、やがて真犯人の存在が明らかとなる。
一方、佐賀の紳士服店で働く馬込光代(深津絵里)は、出会い系サイトで知り合った祐一と会うことになる。
ホテルで愛し合った二人だったが、祐一は自分が佳乃を殺した犯人である事を告白する・・・
映画は前半、それぞれの登場人物の背景を丹念に描いてゆく。
先ずは殺人の被害者になる佳乃と加害者の祐一、そして三角関係を形作り事件の切っ掛けとなる圭吾。
遺体が発見されてからは、祐一と佳乃それぞれの家族が事件に翻弄される過程がじっくりと描かれ、物語が重層化する。
だが、実はこのあたりまでは祐一の内面はそれほど触れられず、彼がどんな人物なのか今一つ掴めない。
ヒロインとなる光代が登場するのは30分が経過する頃だ。
この時点では既に捜査の手が祐一に迫りつつあり、二人が結ばれると物語は祐一と光代の刹那的逃避行を描くロードムービーへと装いを変えてゆき、この旅路を通して“悪人”祐一の内面が明かされてゆくという構造だ。
本作のキャッチコピーは「誰が本当の悪人なのか?」とiいう意味深なもの。
なるほど、殺人事件の関係者を丹念に描く事で、“犯人=悪人”という単純な図式を排し、事件をもたらした感情を紐解くと、意外な人物がその原因を作っているのはわかる。
上昇志向の強い佳乃は金で自分を抱こうとする祐一をバカにしており、その佳乃もまた軽い女として圭吾からバカにされている。
人が人を貶めるネガティブな感情の結果として殺人を捉えるなら、この作品の人間関係においては、感情の連鎖の頂点である圭吾が真の悪人であると見る事もできるだろう。
だがこの作品は、別に物語上で誰が悪人なのかを解き明かす映画ではない。
なぜなら、嫌なヤツである圭吾と佳乃にしたところで、心に抱えている孤独と虚無は祐一たちと変わらない。
彼らは、ただ他人を見下す事で、辛うじて自尊心を保って生きている哀れで弱い人間なのである。
圭吾と祐一、あるいは佳乃と光代の間にあるのは、自分が孤独であり、繋がりを求めている事を自ら認めているか否かという差だけだ。
そしてこの小さな差異が、感情的なボタンのかけ違いとなり、殺人と言う悲劇を生むのである。
だから、事件とその後の逃避行に関わった四人は、実は全員似たもの同士で、彼らの中に本当の意味での憎むべき悪人はいない。
ここに描かれているのは、繋がりを求める人間の切ない心が生み出した、愚かではあるが相対的な行為による悲劇であり、“悪人は誰か”というよりも“悪人とは何か”なのである。
役者が素晴らしく良い。
主人公を演じる妻夫木聡は、寡黙なキャラクターなのはわかっていても、いくらなんでも口数少なすぎじゃないかと思っていたが、後半になると彼が語らなかった事に意味が出てくる。
金髪のヤンキー風だが、その内側に優しさと鬱屈した闇を隠した、極めて複雑な役を見事に演じて一皮向けた印象だ。
彼を愛し受け止める光代を、深津絵里が繊細に、しかし堂々たる存在感で演じている。
だが、私にとって本作の一番のサプライズは、佳乃を演じた満島ひかりだ。
佳乃が祐一とボンボンの圭吾を量りにかけた事で、結果的に破滅を引き起こす、色々な意味で物語のキーパーソンと言えるキャラクターだが、登場時間は短いながらも女性の多面性を巧みに演じて鮮烈。
いつの間にか凄い芝居をする様になった。
「告白」でのKYキャラに続いて、本作でも徹底的に“嫌なヤツ”を演じた岡田将生を含めた四人の若者が物語のコアを占め、彼らの周りに配された家族達がサブストーリーを形作り、物語に深みを加えて行く。
突然、犯罪者の家族となった樹木希林の戸惑い、犯罪被害者の父となる柄本明の慟哭が印象的だ。
特に、テーマに直結する重要な台詞を連発する柄本明は、ある意味で作り手の代弁者的なキャラクターと言えるだろう。
逃避行の果に、祐一と光代がたどり着くのは、荒涼とした原野の切り立った崖に建つ、古びた灯台。
長崎の漁村で育った祐一は、「目の前に海があったら、もうそん先どこにも行かれんような気になるよ」と呟く。
無限の海に向けて心細い光を放つ灯台は、彼ら二人の追い詰められた心をメタファーした、秀逸な舞台装置だ。
ロードムービーになるあたりから、もしかして「テルマ&ルイーズ」的な結末になるのかと思っていたが、クライマックスで祐一がとる行動は意外性のあるもの。
一見唐突にも見えるのだけど、なるほど彼の心情を深く読み解けば、これ以外の結末はあり得ない。
彼の行動があってこそ、光代の最後の台詞が重い意味を持ってくるのである。
おそらく、本作の評価はタイトルロールの“悪人”でもある祐一、あるいは彼を愛する光代の心情をどこまで理解できるかによって大きく変わってくるだろう。
だが、この話に全く感情移入できないという人こそ、本当の孤独を知らずに人生を送っている、とても幸せな人なのかもしれない。
そんな事を思わされる、ある意味身につまされる切ない物語であった。
今回は、深津絵里の故郷大分から、下町のナポレオンこと三和酒類の「いいちこ」をチョイス。
大分は麦焼酎の本場で、三和酒類はその中でも最大手。
“いいちこ”とは大分方言で“良い”の最上級なのだそうだが、お味の方は誰にでも受け入れられるクセのないものだ。
どこにでもいる市井の人々を描いたこの映画、見終わった後は気の置けない安酒場で、気の置けない酒を飲んで余韻に浸りたい。
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多分に韓国映画の影響がありそうな気がするが、最近の日本映画には人間の心のダークサイドにスポットを当てた作品が多い。
中島哲也監督の「告白」はその代表だろうが、同じプロデュースチームによる本作は、また違った形で核心に迫った。
吉田修一のベストセラー小説を、原作者と共同で脚本化し演出したのは、 「フラガール」の李相日監督。
悪人とは何者か、悪とは一体何なのかを問う大変な意欲作である。
長崎の片田舎に住む解体作業員の清水祐一(妻夫木聡)は、博多のOL石橋佳乃(満島ひかり)と待ち合わせをしていた。
だが佳乃は、たまたま待ち合わせ場所に現れた増尾圭吾(岡田将生)の車に乗っていってしまう。
翌日、福岡県の三瀬峠で佳乃の遺体が発見される。
警察は当初圭吾を疑ったが、やがて真犯人の存在が明らかとなる。
一方、佐賀の紳士服店で働く馬込光代(深津絵里)は、出会い系サイトで知り合った祐一と会うことになる。
ホテルで愛し合った二人だったが、祐一は自分が佳乃を殺した犯人である事を告白する・・・
映画は前半、それぞれの登場人物の背景を丹念に描いてゆく。
先ずは殺人の被害者になる佳乃と加害者の祐一、そして三角関係を形作り事件の切っ掛けとなる圭吾。
遺体が発見されてからは、祐一と佳乃それぞれの家族が事件に翻弄される過程がじっくりと描かれ、物語が重層化する。
だが、実はこのあたりまでは祐一の内面はそれほど触れられず、彼がどんな人物なのか今一つ掴めない。
ヒロインとなる光代が登場するのは30分が経過する頃だ。
この時点では既に捜査の手が祐一に迫りつつあり、二人が結ばれると物語は祐一と光代の刹那的逃避行を描くロードムービーへと装いを変えてゆき、この旅路を通して“悪人”祐一の内面が明かされてゆくという構造だ。
本作のキャッチコピーは「誰が本当の悪人なのか?」とiいう意味深なもの。
なるほど、殺人事件の関係者を丹念に描く事で、“犯人=悪人”という単純な図式を排し、事件をもたらした感情を紐解くと、意外な人物がその原因を作っているのはわかる。
上昇志向の強い佳乃は金で自分を抱こうとする祐一をバカにしており、その佳乃もまた軽い女として圭吾からバカにされている。
人が人を貶めるネガティブな感情の結果として殺人を捉えるなら、この作品の人間関係においては、感情の連鎖の頂点である圭吾が真の悪人であると見る事もできるだろう。
だがこの作品は、別に物語上で誰が悪人なのかを解き明かす映画ではない。
なぜなら、嫌なヤツである圭吾と佳乃にしたところで、心に抱えている孤独と虚無は祐一たちと変わらない。
彼らは、ただ他人を見下す事で、辛うじて自尊心を保って生きている哀れで弱い人間なのである。
圭吾と祐一、あるいは佳乃と光代の間にあるのは、自分が孤独であり、繋がりを求めている事を自ら認めているか否かという差だけだ。
そしてこの小さな差異が、感情的なボタンのかけ違いとなり、殺人と言う悲劇を生むのである。
だから、事件とその後の逃避行に関わった四人は、実は全員似たもの同士で、彼らの中に本当の意味での憎むべき悪人はいない。
ここに描かれているのは、繋がりを求める人間の切ない心が生み出した、愚かではあるが相対的な行為による悲劇であり、“悪人は誰か”というよりも“悪人とは何か”なのである。
役者が素晴らしく良い。
主人公を演じる妻夫木聡は、寡黙なキャラクターなのはわかっていても、いくらなんでも口数少なすぎじゃないかと思っていたが、後半になると彼が語らなかった事に意味が出てくる。
金髪のヤンキー風だが、その内側に優しさと鬱屈した闇を隠した、極めて複雑な役を見事に演じて一皮向けた印象だ。
彼を愛し受け止める光代を、深津絵里が繊細に、しかし堂々たる存在感で演じている。
だが、私にとって本作の一番のサプライズは、佳乃を演じた満島ひかりだ。
佳乃が祐一とボンボンの圭吾を量りにかけた事で、結果的に破滅を引き起こす、色々な意味で物語のキーパーソンと言えるキャラクターだが、登場時間は短いながらも女性の多面性を巧みに演じて鮮烈。
いつの間にか凄い芝居をする様になった。
「告白」でのKYキャラに続いて、本作でも徹底的に“嫌なヤツ”を演じた岡田将生を含めた四人の若者が物語のコアを占め、彼らの周りに配された家族達がサブストーリーを形作り、物語に深みを加えて行く。
突然、犯罪者の家族となった樹木希林の戸惑い、犯罪被害者の父となる柄本明の慟哭が印象的だ。
特に、テーマに直結する重要な台詞を連発する柄本明は、ある意味で作り手の代弁者的なキャラクターと言えるだろう。
逃避行の果に、祐一と光代がたどり着くのは、荒涼とした原野の切り立った崖に建つ、古びた灯台。
長崎の漁村で育った祐一は、「目の前に海があったら、もうそん先どこにも行かれんような気になるよ」と呟く。
無限の海に向けて心細い光を放つ灯台は、彼ら二人の追い詰められた心をメタファーした、秀逸な舞台装置だ。
ロードムービーになるあたりから、もしかして「テルマ&ルイーズ」的な結末になるのかと思っていたが、クライマックスで祐一がとる行動は意外性のあるもの。
一見唐突にも見えるのだけど、なるほど彼の心情を深く読み解けば、これ以外の結末はあり得ない。
彼の行動があってこそ、光代の最後の台詞が重い意味を持ってくるのである。
おそらく、本作の評価はタイトルロールの“悪人”でもある祐一、あるいは彼を愛する光代の心情をどこまで理解できるかによって大きく変わってくるだろう。
だが、この話に全く感情移入できないという人こそ、本当の孤独を知らずに人生を送っている、とても幸せな人なのかもしれない。
そんな事を思わされる、ある意味身につまされる切ない物語であった。
今回は、深津絵里の故郷大分から、下町のナポレオンこと三和酒類の「いいちこ」をチョイス。
大分は麦焼酎の本場で、三和酒類はその中でも最大手。
“いいちこ”とは大分方言で“良い”の最上級なのだそうだが、お味の方は誰にでも受け入れられるクセのないものだ。
どこにでもいる市井の人々を描いたこの映画、見終わった後は気の置けない安酒場で、気の置けない酒を飲んで余韻に浸りたい。

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2010年09月08日 (水) | 編集 |
2008年に米国で放送を開始した「FRINGE(フリンジ)」は、まさに現代版の「X‐ファイル」と言えるだろう。
“パターン”と呼ばれる超常現象に、FBI捜査官のオリビア・ダナムと、無頼漢の天才ピーター・ビショップ、それにピーターの父でマッドサイエンティストのウォルター・ビショップ博士が挑む。
やがてパターンの出現には、我々の世界と平行して存在する“もう一つの世界”が関わっている事がわかってくる、という物だ。
まあ一部ではパクリという声もある様で、実際否定しがたい部分もあるが、私はある種の進化系として楽しんでいる。
テレビドラマ史に一時代を築いたあの番組が、21世紀の初頭に終了して以降も、超常現象を扱ったドラマは沢山作られてきたが、恐らくJ・J・エイブラムスはそのどれもが微妙に「X‐ファイル」のマーケットを外している事に気付き、かなり意図的に似せて作ったのだと思う。
実際、両ドラマのコンセプトは非常に近い。
物語は全体に大きな流れを持つものの、基本的には一話完結で、扱うネタはSFからホラーの領域まで幅広く、主人公はどちらもFBI捜査官で、対照的な性格の男女がペアを組む。
彼らの過去に巨大な陰謀が見え隠れし、謎が謎を呼ぶ形で世界観が広がって行くのも同じ。
「フリンジ」におけるパラレルワールドの“もう一つの世界”を巡る謎は、「X-ファイル」のエイリアンの地球侵入を置き換えたものだ。
そもそも「LOST」や「クローバーフィールド HAKAISHA」でもエイブラムスが用いた、ティーザー的なストーリー展開の元祖が「X-ファイル」だとも言えるだろう。
だが同時に相違点もある。
「X-ファイル」がシリーズの末期に力を失っていった原因は、風呂敷を広げすぎて単発のエピソードとエイリアンを巡る謎というドラマのバランスが崩れ、全体が流れを失ってダラダラとした展開に陥ってしまったことにある。
対して「フリンジ」では一話ごとのエピソードに対して、“もう一つの世界”の比重がドラマ全体で強く、どちらかと言うと単発のエピソードが全体のサブストーリーとなる構成になっており、容易に「X-ファイル」の陥った罠には嵌らない様に工夫されている。
またオリビアとピーターという二人の主人公にプラスして、かなり不思議ちゃんなマッドサイエンティストのウォルターを登場させて、トライアングルを形作り、チーム物にしているのも最近のヒットドラマの法則通りだ。
セカンドシーズンでは、いよいよ作品の世界観が全体像を見せつつあるという印象だ。
第一話となる「A New Day in the Old Town」で監督・脚本を努めるのは、「ビューティフルマインド」のアカデミー賞脚本家アキヴァ・ゴールズマン。
昨年ファーストシーズンの「悪夢」で監督デビューしたゴールズマンだが、セカンドシーズンでは第一話と二部構成となる最終回のエピソードで監督を務めている。
最も重要な新シーズンの掴みを負かされるのだから、演出家としての手腕もかなりのもの。
第一話では、前シーズンの最終回で“もう一つの世界”へと消えたオリビアが意外な形で帰還するところから始まり、彼女を追って姿を自在に変える異世界の兵士、シェイプシフターが登場し、スリリングに展開する。
オリビアの命を狙う見えない敵とのサスペンスを描きながら、セカンドシーズンの世界観をじんわりとオープンにしてゆくストーリーテリングの手腕はさすがに上手い。
このシェイプシフターというキャラクターは「X-ファイル」の無敵兵士に良く似たキャラクターだが、ある意外性のある人物に姿を変えるので今後かなり物語に関与してきそうだ。
第二話の「Night of Desirable Objects」は「セッション9」や「マシニスト」のブラッド・アンダーソン監督作品。
ある田舎町で人々が失踪する事件が発生、どうやら彼らは何か捕食生物によって地中に引きずり込まれた事がわかる。
こちらはうって変わって古典的なモンスターホラーで、単発物としての色彩が強い作品だ。
セカンドシーズンでは第十話の「Grey Matters」を監督しているヤノット・シュワルツにも注目したい。
90年代以降はテレビや母国フランスでの仕事が多い大ベテランだが、元々B級SFの佳作「燃える昆虫軍団」や「JAWS2」などの監督として知られるだけあって、サスペンス物も手堅い。
それに何よりもこの人の最高傑作は、故クリストファー・リーヴとジェーン・シーモアの時空を超えたロマンスを描いた「ある日どこかで」であろう。
この作品の原作者が、超常現象ドラマの元祖とも言える「トワイライトゾーン」に多くの物語を提供しているリチャード・マシスンである事を考えると、最も相応しい演出家と言えるかもしれない。
ちなみにアキヴァ・ゴールズマンが脚本を手掛けた「アイ・アム・レジェンド」もマシスンの原作である。
まあ必ずしも成功とは言えない作品だったが・・・・。
何れにしても、テレビ初期から続く超常現象ドラマの正統な継承作品と言える「フリンジ」は、今後の展開が楽しみな作品である。
米国ではもうすぐサードシーズンが始まるというが、とりあえずこちらはセカンドシーズン。
エイブラムスの生み出したもう一つのヒットシリーズ「LOST」がいよいよ大団円を迎えるので、今後はこちらにもますます力が入るだろう。
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“パターン”と呼ばれる超常現象に、FBI捜査官のオリビア・ダナムと、無頼漢の天才ピーター・ビショップ、それにピーターの父でマッドサイエンティストのウォルター・ビショップ博士が挑む。
やがてパターンの出現には、我々の世界と平行して存在する“もう一つの世界”が関わっている事がわかってくる、という物だ。
まあ一部ではパクリという声もある様で、実際否定しがたい部分もあるが、私はある種の進化系として楽しんでいる。
テレビドラマ史に一時代を築いたあの番組が、21世紀の初頭に終了して以降も、超常現象を扱ったドラマは沢山作られてきたが、恐らくJ・J・エイブラムスはそのどれもが微妙に「X‐ファイル」のマーケットを外している事に気付き、かなり意図的に似せて作ったのだと思う。
実際、両ドラマのコンセプトは非常に近い。
物語は全体に大きな流れを持つものの、基本的には一話完結で、扱うネタはSFからホラーの領域まで幅広く、主人公はどちらもFBI捜査官で、対照的な性格の男女がペアを組む。
彼らの過去に巨大な陰謀が見え隠れし、謎が謎を呼ぶ形で世界観が広がって行くのも同じ。
「フリンジ」におけるパラレルワールドの“もう一つの世界”を巡る謎は、「X-ファイル」のエイリアンの地球侵入を置き換えたものだ。
そもそも「LOST」や「クローバーフィールド HAKAISHA」でもエイブラムスが用いた、ティーザー的なストーリー展開の元祖が「X-ファイル」だとも言えるだろう。
だが同時に相違点もある。
「X-ファイル」がシリーズの末期に力を失っていった原因は、風呂敷を広げすぎて単発のエピソードとエイリアンを巡る謎というドラマのバランスが崩れ、全体が流れを失ってダラダラとした展開に陥ってしまったことにある。
対して「フリンジ」では一話ごとのエピソードに対して、“もう一つの世界”の比重がドラマ全体で強く、どちらかと言うと単発のエピソードが全体のサブストーリーとなる構成になっており、容易に「X-ファイル」の陥った罠には嵌らない様に工夫されている。
またオリビアとピーターという二人の主人公にプラスして、かなり不思議ちゃんなマッドサイエンティストのウォルターを登場させて、トライアングルを形作り、チーム物にしているのも最近のヒットドラマの法則通りだ。
セカンドシーズンでは、いよいよ作品の世界観が全体像を見せつつあるという印象だ。
第一話となる「A New Day in the Old Town」で監督・脚本を努めるのは、「ビューティフルマインド」のアカデミー賞脚本家アキヴァ・ゴールズマン。
昨年ファーストシーズンの「悪夢」で監督デビューしたゴールズマンだが、セカンドシーズンでは第一話と二部構成となる最終回のエピソードで監督を務めている。
最も重要な新シーズンの掴みを負かされるのだから、演出家としての手腕もかなりのもの。
第一話では、前シーズンの最終回で“もう一つの世界”へと消えたオリビアが意外な形で帰還するところから始まり、彼女を追って姿を自在に変える異世界の兵士、シェイプシフターが登場し、スリリングに展開する。
オリビアの命を狙う見えない敵とのサスペンスを描きながら、セカンドシーズンの世界観をじんわりとオープンにしてゆくストーリーテリングの手腕はさすがに上手い。
このシェイプシフターというキャラクターは「X-ファイル」の無敵兵士に良く似たキャラクターだが、ある意外性のある人物に姿を変えるので今後かなり物語に関与してきそうだ。
第二話の「Night of Desirable Objects」は「セッション9」や「マシニスト」のブラッド・アンダーソン監督作品。
ある田舎町で人々が失踪する事件が発生、どうやら彼らは何か捕食生物によって地中に引きずり込まれた事がわかる。
こちらはうって変わって古典的なモンスターホラーで、単発物としての色彩が強い作品だ。
セカンドシーズンでは第十話の「Grey Matters」を監督しているヤノット・シュワルツにも注目したい。
90年代以降はテレビや母国フランスでの仕事が多い大ベテランだが、元々B級SFの佳作「燃える昆虫軍団」や「JAWS2」などの監督として知られるだけあって、サスペンス物も手堅い。
それに何よりもこの人の最高傑作は、故クリストファー・リーヴとジェーン・シーモアの時空を超えたロマンスを描いた「ある日どこかで」であろう。
この作品の原作者が、超常現象ドラマの元祖とも言える「トワイライトゾーン」に多くの物語を提供しているリチャード・マシスンである事を考えると、最も相応しい演出家と言えるかもしれない。
ちなみにアキヴァ・ゴールズマンが脚本を手掛けた「アイ・アム・レジェンド」もマシスンの原作である。
まあ必ずしも成功とは言えない作品だったが・・・・。
何れにしても、テレビ初期から続く超常現象ドラマの正統な継承作品と言える「フリンジ」は、今後の展開が楽しみな作品である。
米国ではもうすぐサードシーズンが始まるというが、とりあえずこちらはセカンドシーズン。
エイブラムスの生み出したもう一つのヒットシリーズ「LOST」がいよいよ大団円を迎えるので、今後はこちらにもますます力が入るだろう。

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2010年09月04日 (土) | 編集 |
人類滅亡後の世界で、アンデッドの群れからのサバイバルを描く人気シリーズ第四作。
「バイオハザード� アフターライフ」では、シリーズの生みの親であるポール・W・S・アンダーソンが2002年の第一作以来8年ぶりにメガホンを取り、愛妻でもあるミラ・ジョヴォビッチ演じるアリス・アバーナシーの冒険を描く。
アクションは相変わらず満載で楽しく観られるが、物語がやや説明不足なのが気になる。
クローンと共にアンブレラ日本支社を壊滅させたアリス(ミラ・ジョヴォビッチ)は、アルカディアに向かったクレアたちを追って、アラスカにやって来る。
だが、そこは荒涼とした荒野で街は無く、記憶を失ったクレア(アリ・ラーター)がただ一人残っていただけだった。
二人は、飛行機で生存者を探して南下中、ロサンゼルスの刑務所に立てこもるグループを見つける。
彼らによると、アルカディアとは街ではなく巨大な船で、今はロサンゼルスの海上に停泊しているという。
アリスは、殺人犯と疑われて監禁されていたクリス(ウェントワース・ミラー)の協力を得て、脱出を試みるのだが・・・・
元々カプコンのホラーゲームを原作とするこのシリーズ、四作目にして遂に生まれ故郷である日本に帰還を果した。
冒頭、渋谷のスクランブル交差点で、サラリーマンに襲い掛かる日本初の感染者!・・・誰かと思ったら何と中島美嘉。
このシーンだけの出演で、役名“J-POP Girl”って(笑
もしかしてゲームのファンなのか?
しかし渋谷の地下に、あんなプチ第三新東京みたいな基地があるとは知らなかったよ。
アンブレラの私兵軍団は押井守のケルベロス風で格好良いが、背中に「アンブレラ社」って日本語で書いてあるのがちょっとマヌケだ。
エージェント・スミスばりにウジャウジャでてくる沢山のアリスがスピーディーに基地を壊滅させて、ついでに渋谷に巨大クレーターを穿って以降、アラスカ、LAの刑務所、謎の船アルカディア号と物語はテンポ良く進む。
無数のアンデッドに囲まれた刑務所にたどり着いたアリスは、脱出して沖合いに停泊しているアルカディア号に向う事を決意するが、ここで刑務所からの脱出経路を知る男、クリス・レッドフィールドを演じるのが何度も“プリズン・ブレイク”しているウェントワース・ミラーっていうのは、さり気無いギャグなんだろうか。
中島美嘉といい、何となくキャスティングにオタクっぽい香りがするあたりも、アンダーソンらしいところ。
もちろん、愛するジョヴォビッチは最大限魅力的に捉えられており、ママになったとは信じられないほどに、相変わらずスタイル抜群の肢体から繰り出されるアクションは華麗にしてスピーディー。
集団アリスvsアンブレラ軍の銃撃戦から巨大アンデッドとの死闘、さらにはアルカディア号でのラスボスとの戦いまで見せ場は盛り沢山だ。
特にクライマックスの銃器を使った超接近戦は、ジョヴォビッチも「ウルトラヴァイオレット」で経験のあるGUN-KATAに「マトリックス」がブレンドされたかのようなイメージで、既視感はあるもののなかなかに面白い。
ただ、画作りには疑問もある。
本作はシリーズ初の3D立体上映が売りの一つで、これを強調するためにやたらとスローモーションとバレットタイムを多用しており、確かに効果的ではあるのだが、本来この種の手法はここぞという決めのカットで使うべきもの。
今回はいくらなんでも多用し過ぎで、だんだんと食傷気味となり、シーンによってはむしろアクションのテンポを殺いでしまっている様に感じた。
また2D上映では意味を持たないビックリ箱的な立体演出が多いので、たぶん2D版ではアクションの冗長さが強調されてしまうのではないかと思う。
このあたりは、今後のアクション映画の演出上の課題かもしれない。
まあ、それでも立体効果を楽しむアクション映画としては、なかなかに良く出来ているのだが、やはり気になるのはゲームを知らない人には説明不足な世界観だ。
以前から漠然とした存在ではあったものの、アンブレラ社はますます何をしてるのか、何をしたいのかよくわからない組織になってしまっている。
特に今回はアンデッドからのサバイバルは添え物で、メインの話がアリスvsアンブレラの上級エージェントのウェスカーの戦いという構造になっており、前作でも印象の薄かったウェスカーを敵に持ってきた事(しかも役者が代わっている)で、正直私などは「え~と、あんた誰?」と思い出すのに苦労した。
ウェスカーは、いつの間にかT-ウィルスに抗体を持つ人間兵器と化していたらしいのだが、アリスに対して「お前は不良品で私は完成品」とか言ってたくせに、T-ウィルスを抑えられずにアンデッド化しそうになってアリスのDNAを求めるって矛盾して無いか。
そもそも貨幣経済が崩壊した世界で、“会社”が存続できるのかという最大の疑問はとりあえず置いておくとしても、前作からアンブレラがどう動いて、今どういう状況なのか、現状のアンブレラの指揮系統が全く描かれないので、ウェスカーが組織の命令で動いてるのか、個人的な目的で動いているのかも観客にはわからないのだ。
ゲームを全部やりこんでいる人には、このあたりの設定は常識の範囲なのかもしれないが、敵役の目的意識が全く読み取れないのはちょっと不親切な気がする。
どうやら作る気満々の更なる続編では、もうちょっとわかりやすく状況説明して欲しいものだ。
本作はポール・W・S・アンダーソンのオタクなこだわりも楽しく、一見さんでも面白く観られるが、基本的にはシリーズ通してのファン、そして何よりもゲームのファンに向けて作られた作品なのだろう。
前作でも合わせたアリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールから、今回は「シャブリ ロゼット」をチョイス。
アリスとオリヴィエのカップルによる素晴らしいワイン。
シャブリというとドライ&シャープで繊細な印象があるが、これは思いのほかパワフルな一本で、シャブリの良さを残しながらも、豊かな味わいが喉に広がってゆく。
こちらのアリスの匠の技も、ミラ・ジョヴォビッチに負けず、強い印象を残すだろう。
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「バイオハザード� アフターライフ」では、シリーズの生みの親であるポール・W・S・アンダーソンが2002年の第一作以来8年ぶりにメガホンを取り、愛妻でもあるミラ・ジョヴォビッチ演じるアリス・アバーナシーの冒険を描く。
アクションは相変わらず満載で楽しく観られるが、物語がやや説明不足なのが気になる。
クローンと共にアンブレラ日本支社を壊滅させたアリス(ミラ・ジョヴォビッチ)は、アルカディアに向かったクレアたちを追って、アラスカにやって来る。
だが、そこは荒涼とした荒野で街は無く、記憶を失ったクレア(アリ・ラーター)がただ一人残っていただけだった。
二人は、飛行機で生存者を探して南下中、ロサンゼルスの刑務所に立てこもるグループを見つける。
彼らによると、アルカディアとは街ではなく巨大な船で、今はロサンゼルスの海上に停泊しているという。
アリスは、殺人犯と疑われて監禁されていたクリス(ウェントワース・ミラー)の協力を得て、脱出を試みるのだが・・・・
元々カプコンのホラーゲームを原作とするこのシリーズ、四作目にして遂に生まれ故郷である日本に帰還を果した。
冒頭、渋谷のスクランブル交差点で、サラリーマンに襲い掛かる日本初の感染者!・・・誰かと思ったら何と中島美嘉。
このシーンだけの出演で、役名“J-POP Girl”って(笑
もしかしてゲームのファンなのか?
しかし渋谷の地下に、あんなプチ第三新東京みたいな基地があるとは知らなかったよ。
アンブレラの私兵軍団は押井守のケルベロス風で格好良いが、背中に「アンブレラ社」って日本語で書いてあるのがちょっとマヌケだ。
エージェント・スミスばりにウジャウジャでてくる沢山のアリスがスピーディーに基地を壊滅させて、ついでに渋谷に巨大クレーターを穿って以降、アラスカ、LAの刑務所、謎の船アルカディア号と物語はテンポ良く進む。
無数のアンデッドに囲まれた刑務所にたどり着いたアリスは、脱出して沖合いに停泊しているアルカディア号に向う事を決意するが、ここで刑務所からの脱出経路を知る男、クリス・レッドフィールドを演じるのが何度も“プリズン・ブレイク”しているウェントワース・ミラーっていうのは、さり気無いギャグなんだろうか。
中島美嘉といい、何となくキャスティングにオタクっぽい香りがするあたりも、アンダーソンらしいところ。
もちろん、愛するジョヴォビッチは最大限魅力的に捉えられており、ママになったとは信じられないほどに、相変わらずスタイル抜群の肢体から繰り出されるアクションは華麗にしてスピーディー。
集団アリスvsアンブレラ軍の銃撃戦から巨大アンデッドとの死闘、さらにはアルカディア号でのラスボスとの戦いまで見せ場は盛り沢山だ。
特にクライマックスの銃器を使った超接近戦は、ジョヴォビッチも「ウルトラヴァイオレット」で経験のあるGUN-KATAに「マトリックス」がブレンドされたかのようなイメージで、既視感はあるもののなかなかに面白い。
ただ、画作りには疑問もある。
本作はシリーズ初の3D立体上映が売りの一つで、これを強調するためにやたらとスローモーションとバレットタイムを多用しており、確かに効果的ではあるのだが、本来この種の手法はここぞという決めのカットで使うべきもの。
今回はいくらなんでも多用し過ぎで、だんだんと食傷気味となり、シーンによってはむしろアクションのテンポを殺いでしまっている様に感じた。
また2D上映では意味を持たないビックリ箱的な立体演出が多いので、たぶん2D版ではアクションの冗長さが強調されてしまうのではないかと思う。
このあたりは、今後のアクション映画の演出上の課題かもしれない。
まあ、それでも立体効果を楽しむアクション映画としては、なかなかに良く出来ているのだが、やはり気になるのはゲームを知らない人には説明不足な世界観だ。
以前から漠然とした存在ではあったものの、アンブレラ社はますます何をしてるのか、何をしたいのかよくわからない組織になってしまっている。
特に今回はアンデッドからのサバイバルは添え物で、メインの話がアリスvsアンブレラの上級エージェントのウェスカーの戦いという構造になっており、前作でも印象の薄かったウェスカーを敵に持ってきた事(しかも役者が代わっている)で、正直私などは「え~と、あんた誰?」と思い出すのに苦労した。
ウェスカーは、いつの間にかT-ウィルスに抗体を持つ人間兵器と化していたらしいのだが、アリスに対して「お前は不良品で私は完成品」とか言ってたくせに、T-ウィルスを抑えられずにアンデッド化しそうになってアリスのDNAを求めるって矛盾して無いか。
そもそも貨幣経済が崩壊した世界で、“会社”が存続できるのかという最大の疑問はとりあえず置いておくとしても、前作からアンブレラがどう動いて、今どういう状況なのか、現状のアンブレラの指揮系統が全く描かれないので、ウェスカーが組織の命令で動いてるのか、個人的な目的で動いているのかも観客にはわからないのだ。
ゲームを全部やりこんでいる人には、このあたりの設定は常識の範囲なのかもしれないが、敵役の目的意識が全く読み取れないのはちょっと不親切な気がする。
どうやら作る気満々の更なる続編では、もうちょっとわかりやすく状況説明して欲しいものだ。
本作はポール・W・S・アンダーソンのオタクなこだわりも楽しく、一見さんでも面白く観られるが、基本的にはシリーズ通してのファン、そして何よりもゲームのファンに向けて作られた作品なのだろう。
前作でも合わせたアリス・エ・オリヴィエ・ド・ムールから、今回は「シャブリ ロゼット」をチョイス。
アリスとオリヴィエのカップルによる素晴らしいワイン。
シャブリというとドライ&シャープで繊細な印象があるが、これは思いのほかパワフルな一本で、シャブリの良さを残しながらも、豊かな味わいが喉に広がってゆく。
こちらのアリスの匠の技も、ミラ・ジョヴォビッチに負けず、強い印象を残すだろう。

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