酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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デイブレイカー・・・・・評価額1450円
2010年11月30日 (火) | 編集 |
ヴァンパイアが地球を支配する近未来を描いた、異色のディストピアSF。
F.W.ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」以来90年近くの間に、ゾンビ物と結合したり、宇宙から襲来したりと、あらゆるパターンがやり尽くされたかに思えた吸血鬼ネタだが、これはちょっと目の付け所が新しい。
低予算のホラー映画「アンデッド」で注目された、ドイツ生まれオーストラリア育ちの、ピーターとマイケルのスピエリッグ兄弟は、“もしも地球がヴァンパイアで覆い尽くされてしまったら”というシミュレーションから、なかなかにユニークな作品を作り出した。
※ネタバレ注意

西暦2019年。
10年前に突如として発生した奇病によって、人類の95%がヴァンパイアと化した時代。
ヴァンパイアに同化する事を拒否した人間は次々と捕らえられ、血液を供給する家畜として飼育されている。
だが、ヴァンパイア人口の増加と、食料である人間の急激な減少は、社会に深刻な食糧難をもたらしており、代用血液の開発が急務となっていた。
血液学者のエドワード(イーサン・ホーク)は、ヴァンパイアとしての人生に馴染めず、血の通った人間だった頃を懐かしんでいる。
ある夜、逃亡中の人間を助けたエドワードは、彼らにある人物に引き合わされる。
エルビスと名乗った男(ウィレム・デフォー)は、一度ヴァンパイアになったものの、人間に戻ったと言うのだが・・・・


本作の面白さは、何よりもその世界観にある。
「ブレイド」を初め、ヴァンパイアが人間の支配を狙っている話は珍しくないが、いざ世界がヴァンパイアだらけになってしまったら、果たしてどうなるのか。
元は同じ人間なのだから、ヴァンパイアが増えれば増えるほど、同じ数だけ食料である人間は減ってゆくのが自然の道理。
しかもヴァンパイアは不死なので、自殺でもしない限り食い扶持は一向に減らない。
結果、全世界は深刻な食糧難の時代へと突入する・・・・という設定は、言われてみれば確かにそうだなあと妙に説得力がある。

この映画のヴァンパイアは、基本的に不死で歳もとらず、鏡にも映らないが、直射日光には弱く、心臓を杭で貫かれると死ぬという非常に古典的なタイプだ。
だが、それらの特徴以外は基本的に人間だった頃と変わらないので、ごく普通の社会生活を営んでいるのが面白い。
日中でも活動できるように、地下街が発達していたり、車が昼間になると太陽光をさえぎる仕様になっていたり、細かい部分もなるほどよく考えられている。
血を吸う方法も、人間の首に噛み付くという御馴染みのスタイルから、ミルクみたいにコーヒーに入れたりしてお上品に摂取する方法もあるようだ。
残り少ない人間から効率的に血液を採取するために、人間たちは「マトリックス」に出てきた様な機械につながれて、ヴァンパイアのための食料製造装置の一部にされてしまっているのだが、いよいよ人間の絶滅が近いとなると、投資家たちが自分が金を出した分だけ人間たちをどんどん持ち去ってしまう。
何しろ、ヴァンパイアは一定期間人間の血を摂取しないでいると、次第に知性を失い、“サブサイダー”と呼ばれる巨大なコウモリの様な怪物に変異して、人間もヴァンパイアも見境無く襲う様になってしまうので、背に腹はかえられないのだ。
食糧難は、血液を買えない貧困層を中心にサブサイダーの増加を招いており、人間にとってはモンスターであるヴァンパイアが、自らが変異したサブサイダーによって更に脅かされているのだから皮肉である。
全体に本作のヴァンパイア社会が抱えている問題は、そのまま人間社会を裏返してカリカチュアした物と言ってもいいだろう。
“血税”という言葉もある様に、この資本主義社会では正しく血と金は等しいのである。

そんな、終末の世に生きる主人公のエドワードは、食糧難を解決すべく代用血液を研究している血液学者。
彼は、元々ヴァンパイアになる事を自分で選んだ訳ではなく、弟によって知らない間にヴァンパイアにされたらしく、人間の血を飲むことに嫌悪感を隠せない。
代用血液の研究をしているのも、それによってヴァンパイアと人間が共存可能になると信じているからなのだ。
だが、そんな彼の切なる願いを、血液会社の社長は無情に却下。
「高価でもホンモノを求める人はいる」って・・・人間的過ぎるぞヴァンパイア(笑
いよいよ危機感を感じたエドワードの前に、ヴァンパイアから人間に戻ったというエルビスという男が現れる。
もしも全てのヴァンパイアが人間に戻れば、食糧難も解決するし、エドワードの個人的な悩みも解消されるではないか。
正に一石二鳥!と考えたエドワードは、人間達の隠れ家で自ら体を張った実験を行うのだが、これが科学者のくせに何の理論も計算もなく、いきなり実践あるのみという豪快な展開。
エルビスは、短時間直射日光に晒される事故によって、偶然人間に戻れたらしいのだが、エドワードもそれを真似てちょこっと太陽を浴びて、炎上したら消火、また炎上したら消火の繰り返し。
いくらなんでも無茶過ぎな気はするが、実験はなんとか成功し、エドワードは人間に戻る。
そして、ここからが本編のクライマックス。
エドワードをつけて来た弟が、エルビスを襲って血を飲んだところ、何と弟まで人間に戻ってしまう。
そう、ヴァンパイアから人間に戻った者の血は、それ自体がヴァンパイアを人間化してしまう力があったのだ。
ん・・・・だとしたら、最初からエドワードがエルビスの血をちゃんと調べていれば、何度も炎上しなくても済んだのでは・・・という突っ込みをしたくなるが、まあそれは結果論として置いておこう。

自らの血が、ヴァンパイアを人間に戻す治療薬である事を知ったエドワードは、ある行動をとるのだが、ここからの展開は賛否が分かれそうだ。
タイトルの「Daybreakers」とは、“夜を明ける者”とでも訳せるだろうが、何気に複数形なのがミソ。
冒頭に、ヴァンパイア化は一匹のコウモリから始まった感染症だった、という解説がある。
ならば、一人の元ヴァンパイアから始まる人間化という感染症も、同じような展開を辿るであろう事は自明の理であり、“夜を明ける者”はすぐに無数に増えて行く。
まるで歴史をリバースする様な構造だが、ヴァンパイア社会と人間社会がどこまでいってもコインの裏表の存在である事を示すという点でも、これは秀逸なアイディアと言えるだろう。
だからこそ、このシニカルさを生かすためには、クライマックスはグログロな喰い合いよりも、もっと比喩的でスマートな描写の方が相応しかったのではないか。
ありがちで蛇足感のあるラストカットも含めて、全ての仕掛けがわかってからの描写は、一番安っぽい見世物的な方向性に行ってしまった様に思えて、個人的には少し残念だった。

スピエリッグ兄弟の次回作は、何とあの伝説的なパペット・ファンタジー「ダーク・クリスタル」の続編だという。
なるほど確かにあの作品のダークなムードと耽美的世界観は、本作のテイストに通じるものがあるかもしれない。
ジム・ヘンソンという偉大なクリエイターの作り出した世界を、この新しい才能がどの様に料理するのか、楽しみに待ちたい。

今回は、コーヒーに血を混ぜていたヴァンパイアを気取って、コーヒーに酒を混ぜる「アイリッシュコーヒー」をチョイス。
元々は、アイルランドの空港のパブで考案されたカクテルだという。
グラスにホットコーヒーを注ぎ、角砂糖2,3個とアイリッシュ・ウィスキー30mlを加えてステアする。
最後に生クリームを浮かせて完成。
寒い国の酒だけあって、冬に美味しい一杯だ。

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ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1・・・・・評価額1600円
2010年11月25日 (木) | 編集 |
2001年に第一作が公開された、歴史に残る大ヒットファンタジーも、遂に最終章を迎える。
刊行される度に分厚さを増して行く原作を、一本の映画に脚色する限界に達したのか、はたまた過去6作で世界累計54億ドルの興行記録を持つシリーズを終わらせる事への未練か、今回は前後編の二部構成だ。
夢一杯の魔法学園物から始まって、主人公たちの成長と共にダークな色彩を濃くしていったシリーズだが、ここに至ってもはやキッズムービーの色彩は微塵も無く、今までの主要舞台だったホグワーツすら殆ど出てこない。
ヴォルデモートとの最終決戦が迫る中、ハリー・ポッター最後の冒険は、闇の帝王の魂を隠した“分霊箱”と、死を超越できるという最強の魔道具“死の秘宝”を捜し求める、ハードなロードムービーから始まる。

ヴォルデモート(レイフ・ファインズ)が完全復活を遂げ、魔法界はあっけなく彼の軍門に下る。
やがてその影響は人間界にまで及び始め、追い詰められたハリーたちの元に、亡くなったダンブルドアからの形見の品が届けられる。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)は、ロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)と共に、ダンブルドアの残したヒントを頼りに、残された四つの分霊箱を探す旅に出る。
最初の一つを、アンブリッジ(イメルダ・ストーントン)から奪う事に成功したものの、反撃に遭ってロンが重症を負ってしまう。
先の展望が開けないまま、追っ手から逃れて各地を転々をするうちに、三人の友情にも亀裂が生じ、ハリーとハーマイオニーの仲を疑ったロンが姿を消す。
そんな時、ハリーはヴォルデモートが死を超越すると言われる、伝説の三つの秘宝を探している事を知るが・・・・


世界を闇が覆いつくそうとする時代の、陰鬱とした雰囲気は前作から変わらない。
シリウス、ダンブルドア、そして本作の冒頭ではマッドアイ・ムーディーやフクロウのヘドウィグまでもが命を落とし、ハリーは自分の存在が皆を危険に晒すと考え、一人でヴォルデモートと対決しようと旅に出る。
そんなハリーと行動を共にするのは、やはりロンとハーマイオニーだ。
だが、もう無垢なる子供だった時代は遠い昔。
大概の学園物で、男女三人組はどこかで仲違いするのがお約束だが、友情は何時しか愛憎へと変わる。
アンブリッジから奪った分霊箱のロケットが、まるでサウロンの指輪の様に、所有者のネガティブな心理を増幅させる力をもつため、三人の関係も徐々に蝕まれてゆく。
そして、戦いで傷つき、コンプレックスを抱えたロンが、ハリーとハーマイオニーの仲を勘ぐり、嫉妬から旅の仲間を離脱してしまう。
彼らは、ヴォルデモートの脅威からだけではなく、自らの内面というもう一つの敵とも向き合わなければならないのである。
その意味で、何時終わるともわからない流浪の旅は、彼らの心の情景でもあり、これは少年期の終わりにある彼らが、大人へと脱皮してゆく青春ドラマでもあるのだ。
自分たちが今どこにいて、どこへ行こうとしているのか、何者になろうとしているのか、ヴォルデモートは現実の脅威であると同時に、未来に対する漠然とした不安のメタファーであるとも言えるだろう。

そんな心の機微を表現できるほどに、幼かった主人公たちも立派な大人の俳優に成長している。
相変わらず背は低いが、ちょこっと胸毛も蓄えたダニエル・ラドクリフは、主役オーラたっぷりにハリーの苦悩を表現してみせる。
昔はモップ頭が愛らしかったハーマイオニー役のエマ・ワトソンも、胸の谷間も眩しいセクシーな赤いドレスが似合う、素敵なレディになった。
そしてロンは、言わば天才と秀才に挟まれた凡人という難しいポジション。
今回はそんな彼の立ち位置がドラマのキーとなる訳だが、見た目がグッと大人っぽくなったルパート・グリントは、三枚目ではあるものの、やる時はやる頼りがいのあるキャラクターを上手く作り上げている。
彼らを取り巻く、御馴染みのイギリス系オールスターキャストは、今回上映時間の大半が三人の逃避行に費やされている関係上、あまり出番は多くない。
むしろ今回主役の三人以外で一番目だったのは、悲劇の英雄のポジションを掻っ攫っていったCGキャラのドビーだろう。
まあ原作でも存在感の薄い魔法省大臣ルーファス役で、ビル・ナイをワンシーンだけ登場させているくらいなのだから、考えようによっては恐ろしく贅沢な映画である。

物語の動きは、次回の大団円の前で控えめだ。
前作の「謎のプリンス」に引き続いて、登場人物を居るべき所にポジショニングし、最終局面を迎える準備を着々と進めているという印象である。
もっとも、二部作に分けたおかげで脚色には多少の余裕が生まれ、今までとは違った時間の使い方が出来るようになっている。
その影響が如実に現れているのは、充実した各キャラクターの心理描写だ。
ハリーたちの長い旅路の描写は、愛する世界を救いたいのに、事態を打開する策がなかなか見つからないという、彼らのジリジリとした焦燥感をリアルに伝えてくるが、このあたりはもしも前作までの様なキチキチの構成だったら、かなり端折られて説明的になってしまっただろう。
もちろん、長くなったとは言っても、まだまだ原作の全てを描写するには不足なのだが、結果的にこのシリーズの後半四作全てでメガホンを取ったデヴィッド・イェーツ監督と、第一作から参加している脚本のスティーブ・クローヴスは、勝手知ったる物語のコアを若者たちの成長物語と明確に定め、膨大な要素を上手く取捨選択してしっかりとしたストーリーラインを再構築している。
物語の橋渡しが役目の作品という事で、展開としてはやや地味ではあるが、これは言わば「帝国の逆襲」であり、クオリティの点では過去最高の仕上がりと言って良い。

シリーズの魅力でもある壮大なビジュアルも、相変わらず凝っている。
今回は全体を不安色であるグリーンを基調としたトーンで統一し、季節的にも冬が背景となるので、寒々としたムードが作品を覆う。
またヴォルデモートが新たな支配者となり、世界観のイメージにも変化が現れている。
彼の支配する魔法界は、マグルとの混血を迫害していたり、秘密警察が反逆者狩りをしていたり、明らかにナチズムをモチーフにしているのだが、個々の描写が何となくビッグブラザー的というか、ギリアムの「未来世紀ブラジル」っぽいのが可笑しい。
昔リドリー・スコットが監督した、伝説的な1984年のアップル・コンピューターのCMの様なテイストも感じられ、このあたりのセンスはイギリス人独特の物かも知れない。
また冒頭の「おそ松くん」もどきの七人のハリー・ポッターや、まるで「ドラえもん」の四次元ポケットの様に何でも出てくるハーマイオニーの鞄とか、なぜかジャパニーズコミックテイストのディテールも楽しかった。

「ハリーポッターと死の秘宝」は、本来前後編あわせて評価すべき作品だと思うが、とりあえず「PART1」の印象としては、シリーズ中最も良く出来た一本である。
原作では最高にドラマチックな盛り上がりを見せる、ホグワーツでの最後の戦いへの期待は高まる。
個人的には一番燃えたスネイプのあのシーンとか、蘇りの石を使った泣けるあのシーンとか、どの様に映像化されているのか本当に楽しみだ。
しかし、最終章を二本に分けたのは正解だと思うが、基本的に一つの話なので同時、あるいは連続公開して欲しかったなあ。
まあ「PART2」公開前に「PART1」のDVDが出るだろうから、それを観て復習しろって事なんだろうけど、出きれば一気に映画館で味わいたかった。
ちなみに、本作は立体版の作業が間に合わないとかで、通常版のみの公開になっているが、ぶっちゃけそのあたりはどうでも良い作品である。
でも「PART2」は、派手な見せ場が多いだろうから立体でも観たいかな。

荒涼とした大地の、寒々しい風景が印象的な本作、今回は冬を乗り切る温かい酒を。
ドイツ名物の「グリューワイン」の白をチョイス。
要するに、体を温めるための甘めの燗専用ワインである。
マグカップに移してレンジでチンしても良いし、ヤカンでそのまま暖めても良い。
風呂上りやベッドに入る前に飲むと、本当に体がポカポカしてやみつきになる。
ちなみに、赤でも白でも良いが普通の安ワイン1本(720ml)に、蜂蜜大さじ2、砂糖大さじ2、レモン汁1個分、バニラ、シナモン、オレンジピール各適量を加えると、自分でも作れる。
甘いのが好きなら蜂蜜と砂糖を多めに、アルコールを低めにしたければ、これらの材料を加えた状態で、弱火で少し煮てアルコールを飛ばす。
逆にアルコール度を高めたければ、ブランデーを少し加えても美味しい。
ナイトキャップにも最適な一杯だ。

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マクナイーマ・・・・・評価額1350円
2010年11月20日 (土) | 編集 |
密林の幻想狂想曲。
ブラジル近代文学にその名を残す、マリオ・デ・アンドラーデの原作小説を、1969年にジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ監督が映像化したカルトシネマ。
不吉を意味する“マクナイーマ”と名付けられた、奇妙な男の一生を描く、ある種の神話的冒険譚だ。
ヌーヴェルヴァーグとほぼ同時代に、ブラジルで一世を風靡した、シネマ・ノーヴォの終焉期に登場した作品だが、完成から40年を経てデジタルリマスター版として復元され、日本初公開の運びとなった。

アマゾンの奥地、老婆から産み落とされたのは、中年の黒人男性の姿をした不気味な赤子(グランデ・オテロ)。
マクナイーマという不吉な名を付けられた男は、ある時魔法の泉の水を浴びて、ハンサムな白人青年(パウロ・ジョセ)に変身する。
白人の老人の長兄と、黒人の次兄と共に街へ出たマクナイーマは、シー(ディナ・スファト)という美しい女ゲリラと恋に落ち、二人の間にはやはり黒人の中年の様な子供が生まれる。
だが、シーは自分の作った爆弾で子供と共に爆死、マクナイーマは悲しみに打ちひしがれる。
そんな時、シーが持っていたはずの幸運を呼ぶ石“ムイラキタン”が、“人食い巨人”の異名を持つ大金持ちのヴェンセスラウ(ジャルデウ・フィーリョ)の手に渡った事がわかる。
“ムイラキタン”を取り戻したいマクナイーマは、女装してヴェンセスラウの屋敷に侵入し、誘惑しようとするのだが・・・・


異色作であることは間違いないが、何とも論評しにくい作品である。
正直なところ、映画が始まってからしばらくは、一体この作品が何を表現しようとしているのかさっぱりわからなかった。
いや、ナレーションで、マクナイーマを“ブラジルのヒーロー”と呼ぶフレーズが繰り返し出てくるので、なんとなく彼はブラジルという国自体のメタファーで、描かれているのは言わば創世神話なのだとは理解できる。
彼が中年の黒人に生まれて、途中で魔法をかけられて白人の王子になったり、元の黒人に戻ったり、更に泉の水を浴びて完全に白人になったりと、次々と変化してゆくのも、ブラジルの複雑な歴史を体言しているのだろう。
だが、前半何とか理解できるのは、精々そこまで。
映画はまさに比喩表現のアンサンブルだが、そもそもブラジル自体についてそれほど知っている訳ではないので、映画の描写が観客に何をイメージさせたいのかが掴めないのである。
かといって、物語らしい物語は最低限しか存在せず、通常の映画的文法はことごとく無視されているので、普通の映画として楽しむことも難しい。
何しろ、本作にはクローズアップが殆ど存在しない。
登場人物は、皆なにがしかのメタファーであるから、生身の個人としての感情を表現しようと言う意図が無いのである。
後半になると、手持ちカメラで俳優の顔に寄るカットも存在するが、それも特に感情表現のためではないので、一般的なクローズアップとは意味が異なる。
誰かに感情移入して物語に入るような観方はできないのだ。

例えば、中南米系カルトシネマの帝王と言われるホドロフスキーあたりと比較しても、本作の特異さは際立っている。
もちろん、ホドロフスキーの作品にも中南米独特の文化的な背景は見て取れるが、描いているモチーフは基本的に人間の精神性に根差した普遍的な物で、実はそれほどわかり難くは無い。
対して、本作の場合は、描いているのがブラジルという特定の国のカリカチュアなので、前提となる時代と社会に対する知識が存在しないと、作者の意図が伝わってこないのである。

それでも、中盤マクナイーマが街へ出るあたりから、内容がブラジル近代史と符合するようになり、モチーフがわかりやすくなるので、ある程度作り手が言いたい事を理解できる様にはなって来る。
ブラジルでは1964年にブランコ将軍がクーデターを起こし、軍事独裁政権が生まれる。
本作で描かれる「人食い巨人」の一族は、明らかに軍とその既得権者たちを比喩しており、マクナイーマが恋するシーは、当時の都市ゲリラだろう。
後半のキーとなる“ムイラキタン”は、古代インディオの時代に石を削って作られたペンダントで、アマゾンに伝わるアマゾネス伝説では、女戦士たちが愛の証として大切な人に贈ったとも言われている。
ここには、遠い民族的な記憶と、植民地化から独立を経て、自由と独裁を繰り返してきたブラジル近代史の葛藤を見て取る事が出来る。
クーデター以降、メディアへの締め付けは苛酷になり、映画産業にも相当な圧力がかかったという。
私自身は、シネマ・ノーヴォ作品も「リオ40度」くらいしか観たことがないが、50年代から続くこのムーブメントも大きな打撃を受けて、先細りとなってしまう。
本作が極めて抽象的な寓話となったのも、表現の自由を制限された中での精一杯の抵抗なのかもしれない。

それにしても、このぶっ飛んだ作品が当時商業的にも成功したというのが驚きだ。
思うに、本作は1969年のブラジルでしか生まれ得なかった作品で、良くも悪くも時代を超越する普遍性は無く、その時代にブラジルで観賞する事が極めて重要なのだ。
映画は時代を映す鏡であり、本作に散りばめられた比喩は、当時のブラジル人が観たら何を意味するのかは一目瞭然で、案外とストレートな娯楽作品なのかもしれない。
故に、本作を2010年の東京で観賞するのは、当然本来の作品の存在意義からは外れるし、本気で読み解こうとすれば、ブラジルの歴史・文化・社会に関する相当な知識を必要とする。
文化史的な興味を別にすると、私を含めて、ブラジルと言うとサッカーとセナとカーニバルしか想像出来ない大多数の日本人には、娯楽としては結構敷居の高い作品だというのが正直なところである。

一方で本作の持つ独特のムードと、既存の映画文法にとらわれない狂った展開は魅力でもある。
かつてアマゾンの先住民には、戦いで倒した相手を食べる事で、自らの力として取り入れるという風習があり、原作者のマリオ・デ・アンドラーデは“ブラジルもまた全てを食いつくし、独自の文化を生み出す”事を提唱したという。
なるほど、本作はまさに有史以来ブラジルが吸収してきたあらゆる要素を全てぶち込んで、ごった煮にしたメルティングポットの様な物で、混沌と混乱もまた意図された物だろう。
“ムイラキタン”のデザインは、アマゾンに住む毒蛙が多く、その毒からは先住民の儀式で使われるドラッグが作られると言う。
二十一世紀の外国人が本作を楽しむ場合、無理に時代を読み解こうとするよりも、サイケな狂想曲、映像ドラッグとして奇妙なムードを楽しんだ方が正解かもしれない。
いずれにしても、本作を劇場で観られる機会がとても貴重である事は間違い無く、カルトシネマという言葉にピンと反応してしまう人には、見逃せない珍品であることは間違いない。

ブラジルの酒と言えば、サトウキビの蒸留酒、ピンガが有名。
今回はピンガのトップブランドであるカシャーサ51を使った「カイピリーニャ」をチョイス。
ライム1/3程度をぶつ切りにしてグラスに入れ、1~2tspの砂糖をまぶし押しつぶす。
クラッシュド・アイスを加えて、ピンガ45mlを注いで、ステアする。
カイピリーニャとは田舎者の意味だが、その名の通り素朴ながらすっきりフレッシュな味わいだ。
コテコテの映画の後にはこのくらいシンプルな酒が良い。

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クレイジーズ・・・・・評価額1500円
2010年11月16日 (火) | 編集 |
近年ではすっかり“リビング・デッド”専業になってしまった感のあるジョージ・A・ロメロだが、若い頃は異色のヴァンパイア映画「マーティン」やバイク芸人のロードムービー「ナイトライダーズ」など、結構バラエティに富んだ作品を連発していた。
ブレック・アイズナー監督「クレイジーズ」は、そんなロメロが1973年に発表したウィルスホラーの先駆的作品、「ザ・クレイジーズ 細菌兵器の恐怖」のリメイク。
今回は、ロメロ自身もエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。

アイオワ州の小さな田舎町、オグデンマーシュ。
保安官のデービッド・ダットン(ティモシー・オリファント)が地元の高校で野球の試合を見ていると、突然酒乱で知られた男が銃を手にグランドにやってくる。
男は説得に耳を貸さず、引き金に指をかけたため、ダットンはやむなく男を射殺。
だが、彼の血中からアルコールは検出されなかった。
やがて、ほかの住人たちにも異変が現れる。
みな肌が青白く、目はうつろになり、手近な凶器を使って周りの者を殺そうとする。
ダットンは、保安官補のラッセル(ジョー・アンダーソン)と調査に乗り出し、一週間前に水源の池に軍の輸送機が墜落していた事を突き止める・・・


最近のリメイク物ホラーは、オリジナルに忠実な作品が多いが、本作は方向性がかなり違う。
軍が極秘に開発したウィルス兵器によって、田舎町の水源が汚染され、脳を侵されて超攻撃的なゾンビもどきになってしまった感染者“クレイジーズ”が出現。
主人公たちが、隠蔽のために出動した軍とクレイジーズの襲撃から逃れて、街から脱出しようするという大まかな流れは共通だが、物語の視点というか、どの様に事態を捉えるかが大きく異なるのである。

元々ロメロの映画は、その時代の社会の動向を反映させた風刺的な作品が多い。
オリジナルが作られた1973年は、国内では公民権運動と反戦運動の余波で社会が不安定化し、海外ではベトナム戦争の敗北が決定的となり、政治権力への不信と先の見えない未来への不安が渦巻いている時代。
ロメロは、封じ込め作戦の指揮を執る軍人を準主役的なポジションに配置し、市民側の主人公と視点が交錯するような構造にしている。
彼は、民間人を隔離し、場合によっては殺さねばならないという事態を目の当たりにしながら、現場と融通のきかない上層部の板ばさみにあって、右往左往しながら狂気の拡大を防ぐ事が出来ない。
要するに、パニックに陥っているのは街の住人だけではなく軍も同じで、ここではヒーローは存在せず、誰も解決策を示してくれないのである。
劇中で「狂った世界で、誰が狂人か見分けられるのか?」という印象的な台詞が出てくるが、カオスが支配する世界の中で、誰も信用できないという不安感がどんどんと増幅してゆく心理パニック映画であった。
作品としての完成度は、それほど高いとは言えないが、今観ても1973年の時代の空気が伝わってくるロメロらしい作品だ。

対して、リメイク版はずっとシンプル。
視点は主人公である保安官にほぼ固定されており、彼らが軍とクレイジーズ双方からサバイバルするというわかりやすいホラーである。
そして観客を怖がらせるという点では、本作はかなり上質な仕上がりだ。
アイズナーは、古今東西のホラー映画をよく研究しており、単に残酷な描写をどぎつく見せるというよりは、思わせぶりな映像や不気味な音響を効果的に使い、恐怖のイメージを高めてゆくあたり実に上手い。
クレイジーズとなった男が、獲物を求めて引き摺る農業用のピッチフォークが立てる耳障りな金属音や、納屋で無人のまま回り続ける巨大なハーベスターといった視覚装置は、観客の不安を掻き立て、その後に訪れる真の恐怖には思わず悲鳴を上げそうになる。
クレイジーズは、ゾンビのように知性を失ってしまう訳ではなく、正気の時の記憶をもったまま攻撃的になるので、襲撃のシチュエーションもワンパターンではない。
葬儀家は葬儀家らしく、ハンターはハンターらしく襲ってくるので、彼らとの対決もそれぞれに工夫されていて飽きさせない。
また軍も今回は顔の見える人間としての側面が殆ど描かれず、ラストのオチも含めクレイジーズ以上の豪快な狂いっぷり、鬼畜っぷりで、主人公たちは正に前門の軍と後門のクレイジーズという恐怖でサンドイッチされている状態だ。
ダットンが事件の原因を突き止める件に、ややご都合主義を感じさせるものの、ロジカルに組み立てられたプロットは無駄が無く、必要最小限の数に絞り込まれたキャラクター造形も、類型的ではあるが悪くない。
恐怖映画としての完成度は、オリジナルを超えていると言っても良いだろう。

ただ、洗練されているからと言って、観終わった時の印象が強いかと言えば、そうでもない。
理由は簡単で、アイズナーは観客を怖がらせる事には成功しているものの、ロメロと違って何故2010年にこの映画を作らねばならないのかという点を物語に反映させていないからである。
もちろん、別にそんなものが無くても映画として成立はしているのだが、鮮烈に時代を描写したオリジナルが存在する以上、どうしても比べられるのはリメイク作の宿命だろう。
それにしても、今改めてオリジナルを眺めてみると、70年代と2010年代の社会が抱える不安感にある程度の共通性を見出せるのには驚く。
もしもアイズナーが二つの時代の接点を見出し、それを映画に表現する事ができていれば、本作は時代を象徴する恐怖のアイコンとなりえたかもしれない。

今回はウィルスで狂ってしまった人々の映画だったが、人を狂わせるには酒で十分である。
一発で酔いつぶれる酒「ボイラー・メイカー」をチョイス。
グラスにビールを注ぎ、そこにショットグラスに入れたバーボンを沈めるだけ。
一説には、ボイラー建設の作業員が発案したとも言われるが、同様の飲み方は世界中にあり、良く知られているところでは韓国の爆弾酒がある。
まあ、悪酔い必至の酒なので、ほどほどが宜しい。

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デザート・フラワー・・・・・評価額1550円
2010年11月12日 (金) | 編集 |
砂漠に生まれ、都会に咲いた一輪の花。
ソマリア出身のスーパーモデル、ワリス・ディリーの自伝「砂漠の女ディリー」を、本邦初登場となるシェリー・ホーマン監督が映像化したドイツ・オーストリア・フランス合作映画。
砂漠の遊牧民から世界のファッション界へ、そして幼少期に負った秘められた傷とは。
「デザート・フラワー」は、一人の女性が辿った壮絶な人生を、赤裸々に描いた力作である。

ロンドンでバレエダンサーになる夢を追うマリリン(サリー・ホーキンス)の元に、ある日奇妙な少女が転がり込んでくる。
彼女の名はワリス(リヤ・ケベデ)。
アフリカのソマリア出身らしいが、英語も満足に話せず、何故ロンドンにいるのかも不明。
マリリンは、仕方なくワリスを自分の下宿に泊まらせて、ハンバーガー屋のバイトを世話する。
店で黙々と床掃除を続けるワリスに、ある時客の男(ティモシー・スポール)が名刺を渡す。
男はカメラマンで、ワリスにモデルとして写真を撮らせて欲しいというのだが・・・・


アフリカの砂漠で生まれた少女が、世界的なスーパーモデルへと飛躍してゆくサクセス・ストーリー、観る前はそんな印象だった。
実際、映画の大半を占めるのは、英語も話せないソマリア人のホームレス少女が、生まれ持った才能と周りの人々との幸運な出会いによって、モデルとして開花して行く物語である。
映画はソマリアの砂漠に暮らす、少女時代のワリスからスタートする。
僅かな水と緑を求め、山羊の群れと旅を続ける、過酷だが愛する家族との生活
ところが、弟達に「ずっと一緒だよ」と言っていたのに、場面が変わると大人になったワリスがロンドンでホームレスをしている。
一体、彼女の人生に何が起こったのだろうと思わせる、秀逸なオープニングだ。
以降映画は、ワリスがモデルとしてのキャリアをスタートさせる時期から時系列に沿って進み、人生のそれぞれの節目に差し掛かると、アフリカ時代の過去を回想するという手法で展開してゆく。

実は、ワリスが13歳の時、祖父ほどに歳の離れた老人と結婚させられそうになり、彼女は母の実家であるモガディシオの祖母の元へと逃げる。
そこで運良く遠縁の駐英ソマリア大使のメイドとなり、ロンドンにやって来るものの、大使館から一歩も外に出られない奴隷の様な生活で、英語を学ぶ事もできない。
やがて、ソマリア内戦が激化し大使館も閉鎖されるが、帰国を拒否したワリスは、ホームレスとして一人ロンドンの街角に投げ出されるのだ。
ここから彼女のサクセス・ストーリーが始まってゆくのであるが、この様な過去と現在をシャッフルした作劇を採用したのには、ワケがある。
ワリスの人生を通して、本作が描くもう一つの大きなテーマは、今も続く女性器切除(FGM:female genital mutilation)という残酷な風習に対する、被害当事者からの告発なのである。

アフリカや中東の一部地域では、思春期までの女性の外性器を切り取ったり、縫い合わせて陰部を封鎖してしまうFGMが今も続いている。
殆どのケースで、麻酔も無い非衛生的な環境でお粗末な手術が行われ、感染症などで亡くなってしまう悲劇も後を絶たない。
本作でも描かれた様に、術後も排卵や排尿の障害となり、生涯激痛を伴う後遺症に悩まされる女性も多く、心の病を引き起こす事もある。
ワリスは、五歳の時にFGMを受け、後年ロンドンで封鎖された陰部の開放手術を受けることが出来たが、彼女の姉はFGMが原因で亡くなっている。
彼女はこの経験でコンプレックスを抱え、男性に心を開けず、長年恋をすることさえできなかったという。
FGMは女性の肉体だけでなく、心まで縫い付けてしまうのだ。
この風習は一部でイスラム教に起因するとの誤解もあるようだが、もちろんコーランにこんな教えは書かれておらず、キリスト教や土着宗教など宗派に関わらず行われているので、信仰とは無関係
FGMをなかなか根絶できないのには、やはり伝統文化という意識が強い事と、男尊女卑的な風土や社会制度も影響しているのだろう。
個人的には、伝統文化は可能な限り尊重すべきだが、人権を超越する物であってはならないと考えるし、女性の肉体や精神を傷つけ、男性の征服欲を満たす以外になんら意味の無い風習を存続させる意義は見出せないと思う。
何れにしても、これはきわめて重く、難しい問題である。

実際のワリスは1965年生まれで、本作で描かれている内容というのは、彼女が女性器切除を受ける70年から、モデルとしてのキャリアをスタートさせる83年を経て、当時のアナン国連事務総長によってFGM廃絶のための特別大使に任命される1997年まで。
だが、映画は必ずしもこの年代を忠実に再現しているという訳ではない。
劇中で、彼女が大使館を追われる原因であるソマリアのバーレ政権崩壊は91年の事だし、モデルエージェントは最新のノートパソコンでネットを使っている。
このあたりは、多分に予算の都合もありそうだが、あくまでもワリス自身の辿った足跡を忠実に、その他の背景はわりと適当だ。
彼女がFGMを告発してから23年が経った今も、この風習が根絶に至っていない実事がこの様な作りを可能にしている一因だろうし、同時に80年代を舞台にしようが、現代だろうが状況はあまり変わらないというアフリカの現実を想起させる効果もあるかも知れない。

ワリスを演じるのは、エチオピア出身のスーパーモデル、リヤ・ケベデ
確かに、ビジュアルに説得力の必要なこの役は、普通の女優には演じられないだろう。
現役の“世界一の美女”は、さすがの存在感だ。
マリリンにサリー・ホーキンス、カメラマンのドナルドソンにティモシー・スポールといった演技派をワリスの回りに配し、人間ドラマとしての広がりを出して行く。
彼らとワリスとの人間関係で物語が進む前半部分は、適度なユーモアもあり、テンポも快調だ。
ビザのために偽装結婚したワリスと、一つ屋根の下で暮らしながら、手出しできないニールのエピソードには、ちょっとだけ同情した(笑

惜しむらくは、後半が駆け足になってしまい、彼女の人生の軌跡と、FGMの経験を公に告白する件が乖離してしまっている事だろう。
特にモデルとして成功し、NYに拠点を移してからは、実際の彼女の人生では10年近い歳月が流れているはずなのだが、映画ではロンドン時代に知り合った男性を訪ねるという、ワンシークエンスに凝縮されてしまっているので、彼女の心の変化が伝わってこない。
ここは、成功した人生を楽しみつつも、心のどこかに欠落を感じるワリスが、自らの内面に向き合って、その原因を少女時代に受けたFGMの経験へと帰結させてゆくプロセスが必要だったはず。
その意味で、告白の二年前のソマリアへの帰郷の旅もきちんと描くべきだっただろう。
モデルとしてのワリスのサクセス・ストーリー、ショッキングなFGMの告発は、それぞれに観るべき物語たり得ているが、もう少し上映時間をかけても、二つの要素をうまく融合させれば、更に優れた作品になった様に思える。

今回は、「デザートフラワー」のデザートに、砂漠とは対象的な寒冷地産のアイスワインを。
本作の製作国の一つドイツから、ゼーブリッヒ醸造所の「ニアシタイナー エルベルグ リースリング」をチョイス。
濃厚な甘みとコクを保ちつつ、リースリングらしい爽やかさも併せ持つ。
結構重い映画の後味を、優しく潤してくれるだろう。

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マチェーテ・・・・・評価額1550円
2010年11月07日 (日) | 編集 |
まさかのダニー・トレホ主演、まさかの映画化!
「マチェーテ」は、あの「グラインドハウス」で流れたうそ予告編を、本当に映画化してしまった、素晴らしきB級魂が迸る怪作である。
アバタ顔のヒスパニック系悪役スター、ダニー・トレホが文字通り大鉈(マチェーテ)を振るって悪を斬る、タイトルロールの元メキシコ連邦捜査官を溌剌と演じ、最高に格好良い!

メキシコ警察の豪腕捜査官、マチェーテ(ダニー・トレホ)は、麻薬王トーレス(スティーブン・セガール)と対決した事で、妻子を殺されてしまう。
三年後、テキサスで流れ者の不法移民として暮らしているマチェーテは、謎の男ブース(ジェフ・フェイヒー)から、反移民政策の急先鋒として知られる上院議員(ロバート・デ・ニーロ)の暗殺を依頼される。
だが全ては暗殺未遂事件をでっち上げて、再選を狙う議員サイドが仕掛けた茶番だった。
罪を着せられて追われる身となったマチェーテは、議員もブースもトーレスの麻薬組織と関わっており、反移民政策に乗じて国境を越える麻薬ルートを牛耳ろうとしている事を知る。
マチェーテは、I.C.Eの捜査官サルタナ(ジェシカ・アルバ)と密入国組織のルース(ミッシェル・ロドリゲス)の協力を得て、トーレス一味を倒そうとするが・・・


役者が凄い。
これは本来、B級C級Z級をわざと狙った作品のはずだが、いざ蓋を開けてみると物凄いオールスターキャストになっている。
なにしろ悪の上院議員にいきなりのロバート・デ・ニーロ、悪の実業家にジェフ・フェイヒー、白人至上主義者の自警団長にドン・ジョンソン、I.C.E捜査官にジェシカ・アルバ、移民組織のリーダーにミッシェル・ロドリゲス、悪の実業家のおバカな娘にリンジー・ローハン、そしてボスキャラである麻薬王は何とスティーブン・セガールだ。
現在最高の演技派といわれるオスカー俳優デ・ニーロと、たぶん死ぬまでB級のセガールが、同じスクリーンで共演する映画など、一体誰が想像したであろう。
テキサス一の殺し屋、オシリスを演じてるのが、スプラッター特殊メイクの生ける伝説、トム・サビーニだったりするのも芸が細かい。
このゴージャスな面々が、相当に漫画チックかつ人によってはセルフパロディ的自虐キャラを嬉々として演じ、ノリと気分でガンガンと銃をぶっ放してゆく。

しかし、この銀河系の様なスター軍団の中にあっても、主人公のインパクトは群を抜いている。
ワニを思わせる生まれつきの凶悪面で、何をどうしても善人には見えない、ダニー・トレホが正義のヒーローというミスマッチ。
この見るからに恐そうな男が、巨大な鉈を振るって悪人達を細切れにしてゆくのだから、一歩間違えれば猟奇ホラーである(笑
ついでにこの男、何故かモテモテだ。
何しろミシェル・ロドリゲスにお試しされ、リンジー・ローハンとアリシア・レイチェル・マレクとは親子丼を楽しんだ挙句、最後にはジェシカ・アルバをかっさらって行ってしまうのだ。
このあたりは、悪役で知られるこの強面が、こんな良い思いを出来る事はもう一生無いだろうと、トレホの従兄弟でもあるロバート・ロドリゲスからのささやかなプレゼント?
いや、予告どおりに「殺しのマチェーテ」「続・殺しのマチェーテ」があれば、このモテモテは更に続くのか(笑

うそ予告の時からわかってはいたが、話は完全に漫画である。
基本的にマチェーテが出ずっぱりで物語を引っ張り、彼の行くところ、敵も味方も死体の山が築かれる。
アクション描写もスプラッターホラーと紙一重のえげつなさなので、この手の描写が苦手な人にはちょっと辛いかもしれない。
その分、小ネタのブラックジョークがかなり効いていて、例えばブースの屋敷に勤める小悪党とのコミカルな絡みなど、全体に良いスパイスになっている。
ただロドリゲスの映画は、いつも一本調子になりがちという欠点があり、本作でもドラマ的な捻りが無いので、後半はちょっと失速気味。
まあそれでも上映時間が1時間45分程度なので、墜落する前には終わってしまう。
クライマックスの大乱戦での見ものは、海賊風アイパッチに意味も無く黒ビキニのセクシーコスチュームで登場するミッシェル・ロドリゲスに、これまたナゼか尼僧姿でマシンガンをぶっ放すリンジー・ローハンのコスプレ合戦と、トレホVSセガールのボスキャラ決戦だろう。
大鉈に対抗するセガールの武器はやっぱり日本刀で、最期が切腹ってのも明らかに狙ってる(笑
まあ良くも悪くも悪趣味で、70年代B映画の香り漂う作品である。

だが、このマニアックな作品が、熱烈なサブカル系映画ファンの支持を受けただけでなく、興行的にもそれなりの成功を収めたのは、単に能天気なアクション映画だからという訳ではあるまい。
本作には、合衆国を二分する、不法移民に対するアプローチというテーマ性が明確に描かれているのである。
悪役であるテキサス出身のポピュリズム政治家と言えば、誰もがブッシュ前大統領を連想するだろうし、演じるデ・ニーロも意図的に似せている。
折りしも、テキサスと同じくメキシコと長い国境を接するアリゾナ州で、明らかに人種選別を目的とした州独自の厳しい移民対策法が4月に成立。
7月には連邦裁判所が、その大部分を差し止める判決を出したが、反移民というわかりやすいポピュリズムに傾く政治家は後を絶たず、連邦政府を巻き込んだ論争になっている。
本作が徹底的にオフザケをやりながらも、映画として一本の芯を失わないのには、こうした政治的なメッセージ性と共に、絵空事でない社会的なリアリズムが背景に存在しているからなのである。
映画は時代を映す鏡であると考えると、実は本作は極めてタイムリーに、2010年の時代の気分を映し出したのかも知れない。

今回は、メキシコのテキーラ「サウザ・ゴールド」をチョイス。
テキーラとしてはマイルドな口当たりで、どちらかと言うとトレホよりもミッシェル・ロドリゲスやジェシカ・アルバといったヒスパニック美女のイメージかもしれない。
もちろん強い酒なので、なめてかかるとあっという間に骨抜きにされてしまう。
ソルトとレモンを添えて。

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ウォーキング・デッド
2010年11月06日 (土) | 編集 |
「ミスト」以来となるフランク・ダラボンの最新作は、何とゾンビ物のテレビシリーズだ。
ロバート・カークマンによるグラフィックノベル、“The Walking Dead”を原作にしており、放送するAMCは、パイロット版を作らずに6話で構成されるファーストシーズン全体に初めからゴーサインを出したという。
10月31日のハロウィンにダラボン自身がメガホンを取った第一話が放送され、IMDBのユーザー評価でも11月8日現在で9.5ポイントという圧倒的な支持を得ている。

保安官のリック(アンドリュー・リンカーン)は、逃亡犯との銃撃戦で被弾し、意識を失って入院する。
彼が目覚めた時、世界は終わっていた。
まるで戦争でも起こったかのように、街中に死体が積み上げられ、軍の車両やヘリコプターまでが放置されている。
呆然とするリックは、偶然出会った親子に助けられる。
彼らによると、突然出現した奇病によって、死んだ人間が蘇って生きている人間を襲い始め、瞬く間に社会は崩壊してしまったという。
唯一安全な場所がアトランタにあるらしいのだが・・・・


ありそうで実は珍しい連続ドラマのゾンビ物
たぶん、イギリス製の「デッド・セット」ぐらいしか過去に例は無いのでは?
通常アメリカの大作ドラマは、パイロット版を放送して、その反響によってシリーズ化するかどうかが決定される。
6話というミニシリーズとはいえ、いきなり全話制作というのは原作の知名度と、ダラボンの信用ゆえだろうか。
実際、第一話はさすがの出来栄えである。

意識を失った主人公が、目覚めたらゾンビが跋扈する終末の世界だったというのは、ダニー・ボイルの「28日後」を思わせる。
まあこれは原作の出版当時にもパクリ論争があったらしいが、映画版「バイオ・ハザード」の冒頭も似たような物だし、ザック・スナイダー版の「ドーン・オブ・ザ・デッド」も、朝起きたらゾンビの世界になっていたという点では同じである。
類型的ではあるが、とにかく主人公を情報から遮断し、理解不能な状況へと叩き込むには最も適した展開であることは確かだろう。

第一話は、とりあえず全体の起承転結のという感じである。
突然ゾンビワールドに目覚めてしまった主人公リックが、何とか家へ帰るものの妻子の姿は見えず、偶然出会った避難民の父子に救われて、絶望的な状況を教えられる。
彼らの家族を巡る悲しいドラマを絡めながらも、リックが妻子を探すためにアトランタへと向うというのが基本的な流れ。
無駄な描写が無く、テンポ良く物語を進めつつも、サブキャラクターのエピソードを効果的に使って、物語のキーワードが“家族”である事を示唆し、ついでに次回以降の展開のヒントも終盤に配置する。
そして、続きが観たくなる絶妙のポイントでの“To be continued”というオチ。
ダラボンの魅力はやはり圧倒的な脚本力であると思うが、本作もまた脚本の教科書になりそうな仕上がりだ。

原作を未読なので、第一話のみの印象ではあるが、二話目以降もリックがサバイバルしながら家族を探す物語が中心にあり、そこに生き残った様々な人々が絡んでくる、という展開になるようだ。
ダラボンのことだから、終末世界に比喩された濃密な人間ドラマが展開するのだろうし、彼の作品に特徴的な独特の宗教性が、どのように盛り込まれてゆくのか、あるいはゆかないのかも興味深い。
凄く楽しみであるのだが、第一話はFOXチャンネルで放送されるのに、第二話以降はFOXムービーでしか観られないという。
戦略的というか、意地悪というか・・・たぶん、DVD化は来年だろうし、この続きを観るためだけに、追加料金を出して契約するか、悩みどころである。
まだ正式決定はしていないようだが、この出来ならシーズン2以降も続くだろうし・・・・う~ん、悩ましい。

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怪盗グルーの月泥棒 3D・・・・・評価額1400円
2010年11月02日 (火) | 編集 |
この夏、全米で予想外の大ヒットを記録したキッズアニメ。
「アイス・エイジ」で知られるクリストファー・メレダンドリのプロデュース・チームによる作品で、監督のピエール・コフィンとクリス・ルノーは共にこれが長編映画デビュー作となる。
内容的には「Despicable me(卑劣な俺様)」という原題と「怪盗グルーの月泥棒」という邦題が全てを表していると言って良いだろう。
最近、業績が低迷していたユニバーサルとしては、初配給となる立体CGアニメが、三年ぶりに全米興収二億ドルオーバーを達成する救世主となった。

怪盗として名を馳せたグルー(スティーヴ・カレル)も、最近は若手の台頭に押され気味。
起死回生の大仕事として、ロケットで月へ行き、アジアの亡国が開発した全ての物を縮めてしまう光線銃を使って、月を盗むという計画を立てる。
ところが、折角手に入れた光線銃を、ライバルのベクター(ジェイソン・シーゲル)に盗まれてしまう。
グルーは、ベクターの屋敷に出入りしていた孤児の三姉妹を里子にもらい、彼女達を利用して銃を奪還するのだが、何時しか三姉妹に懐かれてしまう・・・・


ぶっちゃけ、話そのものは他愛ない。
邦題の通り、落ち目の泥棒による、月を縮めて盗むという荒唐無稽な計画を描いた作品だ。
お約束の通りに、おバカなライバルも登場し、マンガっぽい秘密兵器を使った戦いもちゃんとある。
もっとも、それだけでは本当に遊園地のアトラクションにしかならないので、物語的には、孤独な悪党を気取るグルーと、計画に利用しようとして里子にした三姉妹との、ふれあいの部分が中核を占める。
最初は原題の様に「オレを嫌え!懐くな!」といわんばかりだったグルーが、何時しか彼女らに親としての愛情を感じるようになり、新しい家族が生まれるまでの物語と言ってもいいだろう。

この、心根は優しいのに捻くれたグルーのキャラクターが良い。
グルーの屋敷の地下には、マッドサイエンティストのネファリオ博士の研究所があり、博士がバナナから作ったミニオンと呼ばれる小さな黄色い生き物がうじゃうじゃと暮らしている。
グルーにとっては人工の手下なのだが、このミニオンたちに対する接し方も、なんだかぶっきらぼうな学校の先生の様で、彼の人柄が上手く出ている。
月を盗むという計画にしても、子供の頃にテレビで見た月面着陸のシーンが忘れられないまま大人になったからで、要するに月へ行ってみたいという願望が先走っており、泥棒の部分は後付の理由にすぎない。
大人になりきれない大人気ない大人として、このキャラクターはなかなかにキュート。
ちなみに少々マザコンでもある(笑

ただし、全体の構成は少々強引かつアバウトで、ライバルとの泥棒対決のスペクタクルも、月への子供っぽい憧れも、はたまた三姉妹とのふれあいの物語も、綿密に組み立てられているとは言いがたい。
本来計画の目的だったはずの月泥棒の結果の描写なんて、えっこれだけ?というくらいにあっさり。
月が無くなって、地球の人たちが困るという描写も、サーファーの足元から波が消えるだけってのはいかがなものか。
あんまり大仕事に見えないぞ(笑
よくも悪くも空中分解ギリギリで、大人が集中して観賞する物語としては、ちょっと辛いのも事実だ。
その分、全編に渡って散りばめられた小ネタがかなり効いている。
飛び薬を飲まされて、ず~っと上昇し続けているミニオンとか、縮められちゃったミニオンとか、激遅の博士のスクーターとか、ミニオンと博士がシニカルなコミックリリーフとして上手く機能し、集中力を引き戻してくれる。
基本的に、ミニオンたちはお笑い担当で、直接物語には絡んでこないのだが、クライマックスに彼らもまたグルーの家族なのだという事がわかる、ある行動の描写を入れたのは良かった。
あれで、これが一つの大きな家族の物語なのだという事が明確になった。

しかし、これって2D版は上映されてないのね。
まあそういう内容なんだろうし、本国でどうなってるのかは知らないが、正直2000円(TOHOシネマズ)は高い。
こういうファミリー作品は敷居は低いほうが良いと思うし、個人的にはフツーの2D版を気楽に楽しみたかった。
本作のヒットを受けて、既に2013年公開の続編がアナウンスされているが、その時はもうちょっと選択肢を用意して欲しいものである。

今回は、バナナから生まれたミニオンにちなんで、バナナのお酒「ヘルメス バナナ」を使った「バナナフィズ」をチョイス。
ヘルメス バナナ45ml、レモンジュース20ml、砂糖少々をシェイクし、氷を入れたタンブラーに注いだ後でお好みの量のソーダで割る。
甘みと酸味が爽やかな、ジュース感覚のカクテルだ。
ヘルメス バナナは、ストレートやロックなどシンプルに飲んでも美味しい。

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