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2010 unforgettable movies
2010年12月30日 (木) | 編集 |
倦怠感が世間を包み、なんとなく自分的にも停滞期だった2010年もそろそろ終わる。
今年の映画を一言で言えば、“邦画とアニメの年”だろう。
多分に近年の韓国映画の影響がありそうだが、今年の邦画は人間のダークサイドや、破綻する社会の現実に向き合った力作が多かった。
一方で、ハリウッドからは3DCGの、日本からは伝統的な手描き手法の、優れたアニメーション映画が続出した。
また「ダークナイト」や「アバター」の様な、映画史を塗り替えるほどのスケールを持つ超大作が無かった反面、新人監督のフレッシュなデビュー作が目だった年でもあったように思う。
それでは、2010年の“忘れられない映画”を観賞順に。

「(500)日のサマー」は、草食系男子のリアルな恋愛模様を、センスの良い映像テクニックで描いたラブコメの佳作。
()で挟まれた500日のカレンダーを巧みに使い、シャッフルされた時系列から、観客の興味を引き出す作劇のロジックの上手さが光る。
タイトルロールのサマーを演じた、ズーイー・ディシャネルがとても魅力的だった。
マーク・ウェッブ監督は、本作の後「スパイダーマン」の新シリーズの監督に抜擢されており、これからが大いに楽しみである。

「今度は愛妻家」は、一人で観ても泣け、二人で観るともっと泣ける、ファンタスティックなラブストーリー。
コメディタッチで始まる物語が、途中から予想もしない方向へと舵を切り、観客は物語に隠された美しくも悲しい秘密に涙する。
中谷まゆみ作の舞台劇の構造をそのまま生かしつつ、非常に映画的な展開に落とし込んだ伊藤ちひろの脚本が素晴らしく、行定勲監督の演出も魅力的な登場人物を丁寧に生かしきった。
意味深なタイトルが秀逸で、後から考えればそこに色々な意味を感じ取る事が出来る。

「インビクタス-負けざる者たち-」は、クリント・イーストウッドからの人類への遺言。
アパルトヘイト撤廃直後の分裂した南アフリカを舞台に、未来への希望がラグビーのW杯に託される。
主人公であるネルソン・マンデラ大統領が見せる、過去の因縁を、許しと和解の力によって乗り越えようとするスタンスは、作者の願いであると共に、今の世界への重要な示唆に富んでいる。
ラグビーの試合のシーンも迫力満点で、スポーツ映画としても見応え十分だ。

「第9地区」は、南アフリカ出身の若きクリエイターによる斬新なSF映画。
これが長編デビュー作となるニール・ブロムカンプは、宇宙人が友人でも侵略者でもなく、やむを得ず地球にやって来た“難民”という風変わりな設定から、鋭い風刺性を持つ物語を作り上げた。
ひょんな事から人間と宇宙人のハイブリッドになってしまう主人公が目撃するのは、人間社会が抱える深い闇だ。
果たして三年後の約束は、果されるのだろうか?
これもまた南アフリカを舞台とした社会派作品であり、「インビクタス」と対比して観るとなお興味深い。

「ハート・ロッカー」は、イラク戦争に派兵された、爆弾処理のスペシャリストを描くハードな戦争映画。
まるで自分が戦場に叩き込まれて、兵士達と行動を共にしているかのような臨場感が最初から最後まで持続し、サスペンスフルなシチュエーションの連続は、観客の喉をカラカラに乾かせる。
元夫とのオスカー対決を征した、孤高のアクション派、キャスリン・ビグロー監督のベストワークと言って良いだろう。

「ジョニー・マッド・ドッグ」は、フランスの俊英、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールによる、アフリカの少年兵を描いた問題作。
主人公の“狂犬”ジョニーと仲間達を演じるのは、現実の元少年兵たちで、彼らは十代にして既に「ハート・ロッカー」の主人公と同じ目をしている。
舞台を、アメリカの解放奴隷により建国された、リベリアを模した架空の国に設定し、アフリカとアメリカ双方の歴史の延長線上に、現在アフリカの問題を捉える文脈は興味深い。
原作は現代アフリカ文学の巨匠、エマニュエル・ドンガラ。
彼の「世界が生まれた朝に」は素晴らしい作品で、本作の原作も邦訳版が待たれる。

「マイレージ、マイライフ」は、ジェイソン・ライトマン監督が、アメリカの“今”の空気を上手く切り取った、ほろ苦い大人のコメディ。
企業のリストラ請負人として、全米を飛び回る主人公のライアンは、“バックパックに入らない荷物は、人生で背負わない”がモットー。
そんなクールなライアンが、旅先で出会った魅力的な女性アレックスと、デジタル世代の新入社員ナタリーという二人の女性との出会いを通して、人生で本当に大切なものに気付いて行く。
“バックパックに入らない物”を、初めて背負いたいと思った時、ライアンの見せるとても人間的な姿は、オヤジ達の感情を揺さぶる。

「息も出来ない」は、そのタイトル通り、呼吸する事すら苦しくなるほどの、切なく鮮烈な人間ドラマ。
これがデビュー作となる34歳のヤン・イクチュンが、製作・監督・脚本・編集・主演を兼ねた自主制作映画だが、そのスケール感はシェイクスピア悲劇を思わせるほど。
毎年とんでもない新人が生まれ続けている韓国から、またまた恐るべき才能が登場した。

「プレシャス」は、80年代のNY、ハーレムを舞台に、ある少女の魂の成長を描く物語。
「最愛の人」を意味するプレシャスという名を持ちながら、貧困と虐待が日常化した悲惨な境遇に暮らす少女は、ブルー・レイン先生という一人の教師との出会いによって、精神的な自立の道を歩き出す。
20年以上の過去を描きながら、十分な現代性を持つことも含め、考えさせられる力作だった。
貧困の問題をベースにした作品では、「フローズン・リバー」も印象に残った。

「パーマネント野ばら」は、四国のひなびた漁村を舞台に、喪失と再生を描いた物語。
かしましくお下品な女達が、心の奥底に隠す愛と悲しみと狂気。
西原理恵子の中篇漫画を、奥寺佐渡子が独特の空気感を損なわない様に寓話的物語として脚本化し、吉田大八監督が女達の繊細な内面を丁寧に映像化した。
主人公を演じる菅野美穂の、悲しい愛の波にたゆたうような儚げな存在感が出色だ。

「告白」は、鬼才中島哲也の才気が大爆発した最高傑作。
観る人によって強烈に好き嫌いが分かれるだろうが、人間の負の情念を、これほどストレートにエンターテイメントに昇華した例は他にあるまい。
観客は、それが負の連鎖の肯定である事を理解しながらも、壮絶な復讐劇に喝采を送らざるを得ず、作者から自己矛盾を突きつけられる。
演出、脚本、ビジュアル、そして演技、映画を構成する全ての要素が完璧に計算され、その完成度には一分の隙も無い。

「トイ・ストーリー3」は、ピクサーの礎となった記念碑的作品の第三弾にして三部作のベスト。
今回は、持ち主のアンディが大人になってしまったことで、おもちゃたちが自らのアイデンティティ・クライシスに直面する。
この物語には、前作から11年経った今になって、なぜ「トイ・ストーリー」なのか、という問いに対する答えがきちんと用意されている。
リー・アンクリッジ監督は、正にシリーズ物のお手本の様な、素晴らしい一編を纏め上げた。
これほど完成度の高い三部作は、「LOTR」以来ではないだろうか。

「インセプション」は、才人クリストファー・ノーランから観客への新たな挑戦状。
現実から夢へ、夢からさらに深層の夢へと、五つの階層の物語が迷宮の様に複雑に絡み合いながら展開し、それでいながら決してわかり難くはない。
おそらくノーランにしか書けない、究極にロジカルな脚本が圧巻で、凝りに凝ったビジュアルも見応え十分だ。
観客は、無意識のうちに脳ミソをフル回転させて、ノーランとの思考のキャッチボールに挑まされているのである。

「ヒックとドラゴン」は、夢と冒険に溢れた超正統派の娯楽アニメーション。
ドラゴンと人間が殺しあうドラゴン・スレイヤーの時代から、ドラゴンと共生するドラゴン・ライダーの時代へと、歴史の転換を描いた神話的物語でもある。
元ディズニーのディーン・デュボアとクリス・サンダースは、嘗てのライバルのドリーム・ワークスに移籍して素晴らしい仕事をやってのけた。
ダイナミックな飛翔シーンは、正に3DCGならではの迫力と浮遊感で、立体上映の追加料金を納得して払える数少ない映画でもあった。
もしも、“今年一番忘れられない映画”を選ぶとしたら本作かもしれない。

「瞳の奥の秘密」は、アルゼンチンからやって来た極上の人間ドラマ。
25年前に起こった一件の殺人事件を巡るサスペンスだが、激動の時代が人々の人生に介入し、冷酷に運命を変えてゆく歴史ドラマでもある。
ファン・ホセ・カンパネラ監督は、登場人物の内面をじっくりと描きながら、凝ったビジュアルとドラマチックな物語の仕掛けで観客の度肝を抜く。
主人公の前に、初めて事件の全貌が明かされる瞬間は、観客もまた驚愕するしかない。

「カラフル」は、原恵一監督による異色のホームドラマだ。
死んだはずの“ぼく”に与えられた、人生再チャレンジの日々を通して、“ぼく”にとってモノトーンだったこの世界が沢山の“カラフル”に染まってゆく。
一見すると実写と見紛うばかりにリアルな美術と、細やかに内面を作りこまれたキャラクターによって繰り広げられる、ほんの僅かに日常からずれた映画的世界は、日本の手描きアニメが到達した、新たなる地平だ。
ここには、まるで小津安二郎や木下恵介の作品の様な人間の息吹がある。

「悪人」は、ある殺人事件の犯人と、彼と行動を共にする女性の逃避行を通して、人間とは何か、“悪”とは何かを描き出そうとした意欲作だ。
登場するのは、永遠に変わらない日常に閉じ込められ、絶望的に孤独で、他人との微かな繋がりを探し求める悲しき人間達。
李相日監督は「フラガール」に続いて、見応えのある作品を作り上げた。
「告白」とは別の意味で、人間の心のダークサイドに迫った力作である。

「彼女が消えた浜辺」は、カスピ海の古びた別荘で展開する心理劇。
よかれと思ってついた善意の小さな嘘が、一人の女性の失踪事件によって次第に大きな意味を持ってしまい、嘘が次なる嘘を呼び、人々が疑心暗鬼を募らせて行く。
人が人を知るとはどういう事なのか、我々はすぐ隣にいる誰かの事を、本当に知っているだろうか。
観客は、映画の中の登場人物と共に、失踪した女性を探すうちに、実は人間そのものを探しているのである。

「十三人の刺客」は、時代劇ファンが待ち望んだ、大チャンバラスペクタクル。
これほど迷いの無い本格的なアクション時代劇は、平成に入ってからは観た記憶が無い。
三池崇史監督は、工藤栄一の伝説的なタイトルに正面から挑み、勝るとも劣らない快作をものにした。
巨大なオープンセットを縦横無尽に駆け巡り、敵味方入り乱れるクライマックスは、正に血沸き肉踊る熱き武士たちの世界だ!

「キック・アス」は、2010年のアメコミ映画の決定版。
ひ弱なオタク少年を語り部に、ニコラス・ケイジ演じる“ビッグ・ダディ”とクロエ・グレース・モレッツ演じる“ヒット・ガール”の狂気のコスプレヒーロー父娘が弾けまくる。
ヒット・ガールのキュートで危ない魅力に、見事ノックアウトされた。
だが、マシュー・ヴォーン監督は、チープでオバカな装いのこの物語に、底知れぬ深いテーマを潜ませた。
実は観る者に行間を読む事が要求される知的な作品だ。

「最後の忠臣蔵」は、師走の締めに相応しい重厚な時代劇。
杉田成道監督と脚本の田中陽造は、これぞ日本映画という渋い秀作を作り上げた。
日本人の大好きな「忠臣蔵」と「曽根崎心中」という二本の古典をモチーフに、武士道における公と個の鬩ぎ合いを描くロジックは見事。
主人公のラストの選択は、滅私して生きる事の厳しさと、秘められた愛の深さを感じさせ、涙なしでは観られない。
これもまた行間を読む事で、グッと深くなる作品である。

全体に、ハッピーなエンタメ作品よりも、シリアスな問題作に印象的な作品が多かった様に思う。
そんな中で、ハリウッドの二大アニメーションスタジオであるピクサーとドリームワークスが、共に素晴らしく気持ちの良い作品を見せてくれたのは、とても貴重だった。
アニメーションは豊作で、ハリウッドからは他にも「ガフールの伝説」「怪盗グルーの月泥棒」など3DCGのそれぞれの表現を追及した特徴ある作品が生み出され、日本からは「借りぐらしのアリエッティ」「REDLINE」と言った究極の手描き技を味わえる作品が印象に残った。
日本映画にヘヴィーな力作が揃った理由は、おそらく今の時代とも関係しているのだろう。
「悪人」では、日本の地方が抱える閉塞感が、物語のバックグラウンドになっているが、「春との旅」「書道ガールズ!! 私たちの甲子園」も地方の厳しい現実と向き合って、懸命に生きる人間達を描いて深い余韻を残す。
さて、来年はどんな映画と出会えるのだろう。
それでは皆さん、良いお年を。

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最後の忠臣蔵・・・・・評価額1700円
2010年12月28日 (火) | 編集 |
日本の師走の定番と言えば、何と言っても「忠臣蔵」である。
元禄15年12月14日に起こった、赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件を題材とした物語は、実に300年間に渡って、人形浄瑠璃や歌舞伎、近代以降では映画やテレビで人気を博してきた。
記録によれば、最初の映画化は1907年にまで遡ると言う。
おそらく、これほどの長期間にわたって、同じ題材が一年の一時期の定番として作り続けられている例は、世界でも稀有なのではないだろうか。
もっとも、毎年同じネタばかりでは少々飽きがくるのも事実。
本作、「最後の忠臣蔵」は、御馴染みの物語を直接描くのではなく、赤穂浪士の生き残り二人を中心に、討ち入りから16年後を描く後日譚となっている。

四十七士の一人だった寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、大石内藏助(片岡仁左衛門)から「討ち入りの真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよ」と命じられ、一人孤独な旅を続けてきた。
ようやく、最後の遺族を探し出した吉右衛門は、十六回忌法要が行われる京へと向う。
だが吉右衛門は京の近くで、嘗ての血盟の友であり、討ち入りの前日に逃亡した瀬尾孫左衛門(役所広司)に出会う。
実は孫左衛門もまた、内藏助から密命を帯びて、十六年間も世間から隠れて暮らしてきたのだ。
その命とは、内藏助の隠し子である可音(桜庭ななみ)を、一人前の姫君に育て上げる事だった・・・


池宮彰一郎の小説を、杉田成道監督が映像化した本作は、「忠臣蔵」をモチーフにしてはいるものの、討ち入りシーンなどは冒頭にさらりと描かれるだけで、事実上のオリジナルと言って良いだろう。
伝説の始まりを、想像力豊かに描いたのがリドリー・スコット版「ロビン・フッド」だとしたら、これはある伝説のその後を描く物語なのである。
物語の中心にいるのは、瀬尾孫左衛門と大石内蔵助の隠し子である可音、そして内蔵助から事件の語り部となる事を命じられた寺坂吉右衛門。
映画は、16年に及ぶ遺族探しの旅を漸く終えた吉右衛門が、京の都に程近いところで、孫左衛門を目撃するところから始まる。

ここに描かれるのは、侍として生まれ、武士道に生きる者の愛と苦悩だ。
鬩ぎあう公と個の葛藤を描いた物語と言っても良いだろう。
瀬尾孫左衛門は、内蔵助の命を受けてから、世間の目を眩ませるために商人として生き、京都の山間の竹林の庵で、密かに可音を育てている。
彼を影ながら支えるのは、嘗て島原の太夫として名を馳せた雅な女性、ゆう。
可音は、孫左衛門から武家の姫としての思想や行儀作法、ゆうからは豊かな教養を授けられ、すくすくと育っている。
そして討ち入りから16年が経ち、孫左衛門は使命の総仕上げである、可音の輿入れを考えなければならなくなる。
奇しくも、都一の豪商、茶屋四郎次郎の嫡男が可音に一目ぼれ。
普通に考えればこれ以上の良縁は無いのだが、なぜか可音は乗り気でなく、孫左衛門もまた心のどこかにモヤモヤした引っかかりを感じている。

その答えを教えてくれるのは、恋愛スペシャリストであるゆうだ。
彼女は、可音は孫左衛門にをしていると言うのである。
そして孫左衛門もまた、己が心の奥底に潜む衝動に、初めて気付かされ動揺する。
この二人は父娘であり、主従であり、禁断の愛で結ばれたプラトニックな恋人同士でもあるのだ。
よくよく考えれば、孫左衛門も可音も公には存在しないはずの人間であり、仮に二人で逃げたとしても、誰も追うものはいないはず。
だが、孫左衛門は一個の人間である前に侍であり、その理によって支配されている。
武士道という漠然とした概念を象徴し、孫左衛門たちの人生を決定付けるのが、物語の影の主役である大石内蔵助だ。
隠し子の養育など、本来は内蔵助の超個人的な要望であるはずだが、彼は死してなおその存在を巨大化させつつ時代に君臨し、本作の登場人物にとっての“公”を形作る。
侍としての孫左衛門にとっては、可音は公において亡き主君の姫君であり、恋愛感情を持つなど許される訳も無く、自分自身の気持ちを封印する他は無い。
そして、武士道に生きるのは何も男だけではない。
幼い頃から孫左衛門によって、武家の心得を教え込まれた可音もまた、個を殺し公に生きる事を選択せざるを得ないのである。
婚礼道中に、嘗ての赤穂藩士たちが、次々と内蔵助の名の元に馳せ参じ、遂には立派な大名行列になってしまう描写は、ドラマチックなクライマックスであると同時に、孫左衛門と可音にとっては、内蔵助という公に自らの個が完全に敗北する描写でもある。

本作には、「仮名手本忠臣蔵」の他に、もう一つベースとなっている物語が存在する。
それは、赤穂浪士討ち入りの半年後に起こった情死事件を元に、近松門左衛門が書き下ろした「曽根崎心中」だ。
この人形浄瑠璃を観劇に訪れた可音を、茶屋家の嫡男が見初める事から物語が動き出し、以降は「曽根崎心中」の舞台にシンクロする様に、本編の物語も展開してゆくのである。
商家の手代・徳兵衛と、遊女のお初の悲恋を描いたこの物語は、侍の様な理を持たず、個を優先させられる町人の世界を描いたものだ。
お初と結婚するために、借金騒動に巻き込まれた徳兵衛は、身の潔白と二人の究極の愛を証明するために、互いの体を連理の松に縛りつけ、脇差でお初を殺害し、次いで自らも命を絶つ。
悲劇的ではあるものの、彼らは自らの意思により、自らの人生を決定する事が出来るのである。

「ツィゴイネルワイゼン」や「ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~」など、数々の名作を世に放ってきた大ベテラン、田中陽造の脚本は、本編の物語と劇中劇の「曽根崎心中」を対照的に描きながら、物語の最後で精神的な融合を見せる。
武家に生まれたが故に、公には決して結ばれる事の出来ない孫左衛門と可音は、内蔵助の臣下として、娘として、それぞれのけじめをつける。
可音は、自ら孫左衛門への想いを断ち切り、茶屋家へと嫁ぐ事で、精神的な自殺を図り、全てを見届けた孫左衛門もまた、内蔵助の前で主君の裃を纏い、割腹して果てる。
彼の最期は、忠義に生きる武士としてのけじめである同時に、内蔵助と共に死ぬイコール彼の中の内蔵助を殺す、即ち公に対する個の抵抗でもあるのだと思う。
そしてこれは、死ぬ事によって可音への愛を生かすための心中に他ならない。
武士の生き様とは、かくも壮絶なものである。

最近時代劇付いている役所広司が、愛と忠義に揺れる主人公の瀬尾孫左衛門を、実に魅力的に演じている。
いかにも昭和の、いや江戸の日本人という佇まいは、顔立ちの現代的な桜庭ななみと並ぶと、より味わい深い。
脇では、孫左衛門を密かに愛し、彼をこの世に繋ぎとめようとするゆうを演じる安田成実が、月光の様な儚げな輝きを放ち、出色の出来だ。
間違いなく彼女の代表作の一つになるだろう。
冒頭の討ち入りのシークエンスでは、大石内蔵助を名優片岡仁左衛門、吉良上野介を“五万回斬られた男”こと福本清三が演じ、流石の存在感を見せる。
また杉田成道と言えば「北の国から」で、この番組のファンとしては、奥野将監役で田中邦衛の登場もうれしいところだ。

「最後の忠臣蔵」は、御馴染みの物語とはかなり違うが、これは別の意味で日本人の心の琴線に触れる物語だと思う。
やや展開が偶然性に頼りすぎてる気もするが、杉田成道監督の演出は丁寧で、作りこまれたビジュアルも見応え十分。
派手なチャンバラは控えめながら、武家として生まれたが故の様々な二面性の葛藤を描き、人間ドラマとしても切ないラブストーリーとしても一級品であり、一年の締めくくりに相応しい重量級の力作である。
ただ、佐藤浩市の演じた寺坂吉右衛門のポジションがやや中途半端なのが少し気になった。
物語のバランス的に難しいところだが、彼の“語り部”としての役割をもっと明確にした方が、ラストの「最後の赤穂侍」という台詞の解釈も含め、死ぬ事すら許されないもう一人の赤穂浪士として、孫左衛門とのコントラストが立ったと思うのだが。

赤穂浪士に纏わる酒と言うのは本当に沢山あるのだが、今回は赤穂浪士が飲んだ酒として知られる、黒松剣菱の珍しい純米古酒「瑞祥黒松剣菱」をチョイス。
剣菱酒造は灘でも最古参の酒蔵の一つで、その正確な創業年は不明なほど歴史が古く、「忠臣蔵」にも登場する。
基本的にこの銘柄は本醸造しかないのだが、毎年冬に純米古酒が限定発売され、柔らかな吟醸香と古酒らしい芳醇な味わいは、普通の剣菱とはかなりキャラクターが違って驚かされる。
御馴染みの忠臣蔵が剣菱の本醸造だとすると、16年の歳月を経た「最後の忠臣蔵」には、こちらが相応しいだろう。

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キック・アス・・・・・評価額1700円
2010年12月24日 (金) | 編集 |
史上最強のロリータに、見事ノックアウト。
マーク・ミラーとジョン・S・ロミタJr.の原作コミックを、「レイヤーケーキ」 「スターダスト」マシュー・ヴォーンが映像化した、その名も「キック・アス」は、前評判に違わぬ快作であった。
コミカルさとバイオレンスが絶妙にブレンドされ、オバカでありながら描いている内容は相当に深い。
マーベルやDCコミックのキャラクターをカリカチュアした、四人のなりきりコスチュームヒーローは、アメコミ世界のそれぞれの側面の比喩的存在であり、この比較的低予算なアクションコメディは、ある意味で現在までのアメコミ映画の集大成とも言える密度を持っている。

高校生のディヴ(アーロン・ジョンソン)は、コミックオタク。
現実世界ではなぜ誰もヒーローになろうとしないのかと疑問を持ち、通販で買った緑のコスチュームに身を包んで、スーパーヒーロー“キック・アス”を名乗り、街の平和を守る活動を始める。
だが何の特殊能力も持たないディヴは、自動車泥棒を止めようとして、ナイフで刺されて車に轢かれる羽目に。
ところが、その治療の結果、ディヴの骨は金属のビスやプレートで補強され、末梢神経の麻痺で痛みを感じにくい体になる。
さらに、街のチンピラと戦う様子がユーチューブに投稿されたことで、“キック・アス”は一躍時の人に祭り上げられる。
調子に乗ったディヴは、憧れの同級生に付きまとうドラッグディーラーの元へ乗り込むのだが、そこは街を支配する悪の帝王フランコのシマだった。
ホンモノの悪党を前に、絶体絶命のディヴを救ったのは、“ヒット・ガール”を名乗る11歳の女の子ヒーローだった・・・・


映画館のもぎりのお姉さんが、いきなりキックガールのコスプレだ(笑
アメコミ世界のカリカチュアというと、 「ウォッチメン」「Mr.インクレディブル」が思い浮かぶが、どちらも“もしもヒーローが○○だったら”という風に、スーパーヒーローの実在を前提としたもの。
対して、「キック・アス」に登場するのは、特殊能力もSFチックな装備も持たない、ごく普通の人間によるなんちゃってヒーローたちだ。
もっとも、それぞれ登場人物の、ヒーローに対するスタンス、本格度は大きく異なる。
主人公であり、ストーリーテラーでもある“キック・アス”ことディヴは、世の中には悪が溢れているのに、なぜ現実にヒーローが存在しないのだろうという、純真な憧れからヒーローになる。
一般的なアメコミファンにも一番わかりやすく、感情移入しやすいキャラクターだろう。
だが、単なるひ弱なオタク少年であるディヴが戦えるのは、せいぜい車泥棒やチンピラ。
彼自身も、彼が退治する悪も、ヒーローごっこ、悪党ごっこをしているに過ぎない。

そんな彼の前に現れるのが、60年代のバットマンのコスチュームに身を包んだ、“ビッグ・ダディ”ことデイモンと“ヒット・ガール”ことミンディの親子だ。
デイモンは元警官で、街の悪の総元締めであるフランコによって罠に嵌められ、無実の罪で服役させられた過去がある。
全てを失ったデイモンは、法が裁けないのなら法を超越するまでと、自らをコミックヒーローに擬えて、フランコ抹殺の計画を立てる。
そして彼の歪んだ復讐心は、娘のミンディを恐るべきモンスターに育て上げてしまうのである。
何しろこの二人、いきなりデイモンがミンディを拳銃で撃つという、強烈な登場をする。
これは、彼女に弾丸の衝撃を体で覚えさせるためなのだが、要するにミンディは、パープルヘアーのふざけた格好とは裏腹に、幼い頃からヒーローになるための特殊教育を受けた最強の殺人マシーンなのだ。
学校にも行かせてもらえず、デイモンに洗脳されて育ったミンディは、父の教える正義に一切の疑問を持たず、何の躊躇も無く“悪人”を殺してゆく。
特に、フランコを守る殺し屋達を、圧倒的な戦闘能力で殺戮してゆくクライマックスは圧巻で、彼女が銃や刃物で大人たちをミンチにしてゆく描写には、小が大を制する痛快さを感じる反面、まるで見てはいけない物を見ているような気分にもなる。

この背徳感はもちろん作者の狙いだろう。
ビッグ・ダディとヒット・ガールは、スパイダーマンやバットマン初め、過去のスーパーヒーローの多くが抱いてきた孤独と悲哀、正義とは何か、ヒーローとは何者かというディープなテーマを、行為の代償として具現化したキャラクターなのである。
彼らと出会ってしまったことで、ヒーローごっこをしてるに過ぎなかったディヴも、好むと好まざるとに関わらず、真剣勝負の世界へと叩き込まれてしまい、暴力を止めるためにヒーローが行使する力とは、結局別の暴力にしか過ぎないという事実に愕然とするしかないのだ。
そして一度動き出してしまった暴力の連鎖は、容易には止められない。
なりきりヒーローたちとフランコの戦いが、フランコ一味の皆殺しによってしか完結出来ず、結果的にそれが新たなる火種を生み出すのは大いなる皮肉だ。
“正義”という便利な言葉の持つ矛盾との葛藤は、あらゆるコミックヒーローが多かれ少なかれ抱えるテーマだが、それにどの様に折り合いをつけるのかはキャラクターによって異なる。
キック・アスの場合、彼自身の戦いをヒット・ガールと共に一度完結させる事で、とりあえず保留した段階に見える。
だが、ヒーローという虚構の存在を通して、自らの内面と向き合ったディヴ自身は、確実に一人の男として、人間として成長しているのである。
既に決定したという続編で、彼がどの様に進化するのか、非常に楽しみだ。
マシュー・ヴォーン監督は、その前に「X-MEN:ファースト・クラス」も手がけているので、こちらも大いに期待したい。

タイトルロールのキック・アスことディヴを演じるのは、「幻影師アイゼンハイム」や「ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ」などで知られるアーロン・ジョンソン
いかにもオタクっぽいルックスで登場し、ヒーローとしての苦悩を経験して、ラストではなかなか男っぽい面構えになっているなど、物語を通じた主人公の成長を丁寧に演じている。
また、芸名を「パワーマン」のキャラからとっていたり、息子にスーパーマンの名前をつけるなど、映画界屈指のコミックオタクとして知られるニコラス・ケイジが、実に楽しそうに狂気のヒーロー、ビッグ・ダディを演じている。
しかし、本編の白眉はやはりヒット・ガールを演じたクロエ・グレース・モレッツだろう。
キュートなローティーン少女と、殺人用に作り上げられた戦闘フリークスという、真逆の二面性を持つ史上最強の子供ヒーローを、愛嬌たっぷりに演じて、最高に魅力的だ。
殺人能力は要らないが、こんな娘が欲しくなった(笑
そしてもう一人、クリストファー・ミンツ=プラッセ演じるフランコの息子である“レッド・ミスト"は、いわばあわせ鏡の中のキック・アスだ。
彼は父親へのコンプレックスから、自らアンチヒーローの役を買って出るが、途中ディヴ同様彼自身の内面との葛藤で揺れ動く。 
結果的にビッグ・ダディとは別種の復讐鬼となる事が示唆される彼は、劇中ではジョーカーを気取っているが、どちらかというとスパイダーマンの宿敵ニュー・ゴブリンに近い存在だろう。
悪の帝王フランコは、なんだかすっかり悪役づいているスキンヘッドのマーク・ストロング「ロビン・フッド」に続いて怪演。
このキャラクターも、アメコミ悪役の定番であるギャングやマフィアのカリカチュアだ。

本作は日本のレイティングで“R15”が付いている。
まあ子供がサクサクと大人を殺しまくる映画なので、ストレートに観れば倫理的に問題がある事は否定しない。
だが、映画も文学と同じで、行間を読む、或いは裏の意味を読むという事が必要な作品もある。
この映画は正にそれで、悪趣味なB級オバカ映画の上っ面だけしか読み解けない人には、決してホンモノの姿は見せてくれない。
ふと思ったが、例の都の改正育成条例をありがたがったり、賛成しちゃったりする人というのは、こういう作品の読解が出来ないのだろう。
芸術の表現というのは、人間の想像力に働きかけ、しばしば表面的な描写とは正反対のテーマを導き出す。
だからこそ、観る人の能力によっていかようにも解釈する事が可能で、あいまいな法規制にはそぐわないのである。
都知事や都議会の議員センセイ方には、是非本作を観賞していただいて、感想文を公開してもらいたい。
おそらく、彼らの芸術読解力というのが一目瞭然となるであろう(笑

今回は一見甘そうで、実はかなりビターな映画という事でその名も「ビター」をチョイス。
ドライジン70ml、カンパリ70ml、アンゴスチュラ・ビター 2dash、レモンジュース適量を軽くシェイクして氷を入れたグラスに注ぐ。
レシピは店によってかなり異なる様だが、間違いないのはかなり苦いお酒だということ。
苦味のあとにくる柑橘の爽やかさを味わう、捻くれた酒だ。

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トロン:レガシー・・・・・評価額1500円
2010年12月19日 (日) | 編集 |
1982年に公開されたSF映画史のエポック、「トロン」の完全な続編。
20年前に失踪した前作の主人公、ケヴィン・フリンを追って、息子のサムが電脳世界へと入り込む。
いかにも80年代的なオリジナルの世界観を忠実に踏襲し、そこに最新のデジタル3D映像が組み合わされる事で、ここ四半世紀の映像技術の進化を実感できる。
ケヴィンを演じるジェフ・ブリッジス、タイトルロールのトロンとケヴィンの親友アランの二役を演じるブルース・ボックスレイトナーは82年版のオリジナルキャスト。
現在のジェフ・ブリッジスの生身の姿と、デジタル的に作り出された20年前の若き日の姿が共演するという、一昔前ならあり得なかったシーンは、正に映像のイリュージョンだ。

コンピューター時代を主導していたエンコム社のCEO、ケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が失踪してから20年。
残された息子、サム(ギャレット・ヘドランド)の元に、父からの謎のメッセージが入る。
導かれる様に、父の古い作業場にやって来たサムだが、実は此処こそがケヴィンによって28年前に創造された、電脳世界“グリッド”への入り口だった。
グリッドに侵入したサムを迎えたのは、この世界を支配するケヴィンそっくりのプログラム、クルー。
彼は、負ければ即消滅という危険なゲームにサムを出場させる。
間一髪サムを救ったのは、クオラ(オリヴィア・ワイルド)と名乗る謎の美女。
彼女はサムをケヴィンに合わせると言うのだが・・・・・


嘗てコンピューターは、半分ファンタジーの世界の存在だった。
初期のそれは、巨大な体躯を大企業や政府機関の空調とセキュリティの行き届いた専用の部屋に収め、エンジニアはその業務の神秘性から“ビショップ(司祭)”と呼ばれたそうである。
70年代にパソコン(当時はマイコンと呼んだ)が発売されて、少しずつコンピューターが生活の中に入ってきたが、当時のパソコンは基本的に電卓に毛が生えた程度の代物。
一般の人々が“本物のコンピューター”に持っていたイメージというのは、かなり漫画チックなものだったが、この頃になるとようやくファンタジーからSF的なリアルを感じられる存在となる。
だからだろう、80年代頃までの映画に登場するコンピューターは、「エレクトリック・ドリーム」の様に飲み物をこぼされてショートしただけで知性を持ったり、「ウォーゲーム」や「スーパーマンIII」の様に人間を滅ぼそうとしたり、その時点での“現在”を描いているにも関わらず、相当にぶっ飛んだ高性能マシンが多い。
現在まで続く「ターミネーター」シリーズのコンピューター、スカイネットもこの時代の産物だ。
これらの作品に登場するコンピューターの描写は、当時はそれほど遠くない未来を予見したSFだったのだ。
本作のオリジナルに描かれた“グリッド”という世界の概念も、その延長線上にあると言って良いだろう。

ぶっちゃけ、オリジナルの「トロン」はそれほど面白い映画ではなかった。
映像的にはユニークだったが、物語は主役がケヴィン・フリンなのかトロンなのかどっちつかずだったり、敵の設定がえらくアバウトで対決が盛り上がらなかったりと、決して秀作といえる代物ではなかった。
監督のスティーブン・リズバーガーが、その後箸にも棒にも引っかからないB級映画を二本しか残せていない事からも、大体演出のレベルが知れるというもの。
にも拘らず、「トロン」が映画史のエポックとしてその名を記憶されている理由は、電脳世界を具現化した斬新な世界観と、“CG”或いは“コンピューター・グラフィックス”という言葉を始めて観客に認知させた事にある。
何しろこの映画、キャッチコピーの一つが「コンピューターが絵を描いた!」で、CGを使った作品である事を全面的に売りにしていたのだ。

もちろん、それまでにもCGを使った作品は存在していた。
マイケル・クライトンは「ウェスト・ワールド」の中で、アナログ・コンピューターを使った画像処理を効果的に使っていたし、ジョージ・ルーカスは、初期のCGを「スター・ウォーズ」に採用している。
だが、それらの技術は基本的に多くの表現技法の一つという位置付けで、間違っても作品の売りになる事は無かった。
もっとも、数秒のイメージを作るのにもスーパーコンピューターが動員された時代である。
「トロン」に使われたCGも、実際にはほんの数分程度だったのだが、それでも光と影で表現された無機質なビジュアルと、コンピューターの中の世界を映像化するという試みは、当時としてはかなりインパクトがあったのである。
実際、本作の影響は映画や漫画だけに留まらない。
80年代に高度にコンピューター化された社会を目指し、その名も“TRONプロジェクト”を立ち上げた東大の坂村健教授も、映画に大きなインスピレーションを受けたと語っている。
現在、日本の家電や社会インフラの多くが、TRONプロジェクトから生まれたOSで作動している事を考えれば、我々は「トロン」の影響下に作られた世界に暮らしている事になる。

そして、28年ぶりに作られた続編「トロン:レガシー」は、色々な意味で極めて象徴的な、興味深い作品であった。
CM畑出身のジョセフ・コジンスキー監督は、オリジナルに対する深いリスペクトを、作品の全体に、細部に、様々な形で表現する。
どうやらエンコムの社屋は昔と同じらしく、冒頭でサムが会社へ侵入するシーンに出てくる巨大な扉が、オリジナルでケヴィンが侵入する扉と同じだったり、当時としてはSFチックだったタッチパネルのインターフェイスが忠実に再現されていたり、観る人が観れば嬉しくなってしまう小技があちこちに散りばめられている。
また物語の主要なステージとなる“グリッド”のビジュアルも、オリジナルのイメージを可能な限り再現しながら、デザインをモダンにリファインする事で、同じ世界観である事を感じさせつつも、古臭さを払拭する事に成功している。

物語的にも、オリジナルよりも洗練されていると言って良いだろう。
前作でグリッドと現実世界を行き来する事に成功したケヴィンは、プログラムであるトロンとクルーと協力して、そこにある種の理想郷を作り上げようとしていた。
だが、ある時クルーが反乱を起こし、捕らえられたトロンはプログラムを書き換えられ、ケヴィンも追われる身となり、電脳世界の無限の地平をさ迷う事になってしまう。
そして、クルーの野望は更に強大になり、遂には現実世界をも自らが追求する完璧な世界に取り込もうと考える。
そのために、現実世界とのキーを求め、サムを“グリッド”に呼び込んだという訳だ。
キャラもプロットも一本調子で、イマイチ盛り上がりに欠ける仕上がりだったオリジナルに対して、こちらではケヴィンとその分身であるクルー、そして息子のサムの三角構図が生まれている。
特に、薄味ではあるが父と子の葛藤が加わった事で、物語は前作よりも複雑かつエモーショナルになり、主人公であるサムに対して感情移入しやすくなっているのである。
全体に、アドベンチャーの部分はサムが担当し、禅に嵌っているケヴィンが作品の精神性というか、テーマの部分を受け持っている感じだ。
本来コンピューターによる自由を求めていたケヴィンが、完璧を求めすぎるあまり、自らの内面からクルーを生み出して葛藤するあたりは、現実の世界のコンピューターを巡るオープン派とクローズド派の鬩ぎ合いも連想させて興味深い。

とは言え、ストーリー性やテーマ性はあくまでも刺身のツマに過ぎず、本作の最大の売りは、オリジナル同様に最新テクノロジーを駆使したスタイリッシュな映像である。
大幅にスケールアップした“グリッド”の世界で繰り広げられる、数々のメカアクションは迫力満点。
前作の最大の見せ場であった、ライトサイクルのレースシーンも殆どそのまま再現されている他、終盤では空中戦も加えられて縦横無尽の3Dバトルが楽しめる。
ただ、デジタルドメインの手によるビジュアルは素晴らしい出来栄えだが、背景のベースカラーが黒一色のために立体感は期待したほどは感じない。
また、敵は赤系統、味方は青系統と光で色分けされているのだが、基本的に皆が同じ格好をしているために、誰がどこにいるのかイマイチわかりにくい。
特にライトサイクルのシーンは、サム側の5台は全く区別がつかず、せっかくのスリルをスポイルしてしまっている。
このあたりは、微妙に色や形を変えるとか、もうちょっと親切に目印をつけて欲しかったが、シンプルな色彩設計がクールなビジュアルのキモなだけに、悩ましいところだ。
あとタイトルロールのトロンも、前作とは違った形で登場しているのだが、彼の存在はもっと工夫して生かしても良かった気がする。
上手くすれば、グリッドからの脱出を狙うフリン親子とクルーとの対決に、もう一ひねり加えられたのではないだろうか。
ちなみに、クライマックスでサムが現実世界へのキーを開く動作が、劇中にも登場するオリジナルのポスターと同じ構図だったりするのも、オリジナルへのオマージュを感じさせ、ニヤリとさせられる所だ。

「トロン:レガシー」はそのタイトル通り、オリジナル「トロン」の残した遺産を、21世紀の現在から非常に興味深く見せてくれる。
だが、これはもはや“サイエンス・フィクション”とは言えないかもしれない。
1982年と2010年で、何よりも決定的に異なるのは、多分我々観客の意識だろう。
「トロン」は、当時コンピューターがもたらす未来を描いたSF映画だったが、現実にデジタル時代が到来し、我々の中に既に電脳空間のリアルなイメージが出来ている2010年に、80年代と同じ世界観で作られた本作は、SFと言うようりもある種の異世界ファンタジーに見える。
少なくとも、今我々の知るコンピューターとデジタル技術の先に、本作の描く未来があるとは想像しにくいのである。
現実世界のテクノロジーの進歩は、映画のビジュアルに映像革命をもたらしただけでなく、本作の世界観をSFからファンタジーのジャンルへと先祖がえりさせてしまった。
その意味で、二本の「トロン」は二つの時代の変化を、象徴的に表している様に感じる。
基本的にこれ単体で観ても十分に理解できるように工夫されているが、出来ればオリジナルを知った上で観賞した方が、この28年間の映像技術の進化、テクノロジーに対する我々の意識の変化を感じられて、より楽しめるのではと思う。

デジタルで無機質な本作の世界から連想するのは、氷の国の酒。
ちょうどクリスマスだし、サンタの故郷フィンランドの代表的なウォッカの「フィンランディア」をチョイス。
ウォッカの原料には様々な種類があるが、麦を原料とするこちらは、元々輸出用のブランドで、クセが無くすっきりとした飲み易さが特徴と言えるだろう。
氷河をイメージしたボトルデザインもいかにも涼しそうだが、寒い時期だからこそ、キンキンに冷やしたフィンランディアをストレートでグイッと飲むのも乙なものである。

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ロビン・フッド・・・・・評価額1650円
2010年12月14日 (火) | 編集 |
これは“ロビン・フッド:ザ・ビギニング”だ。
リドリー・スコット監督とラッセル・クロウの五度目のコンビ作は、永遠のヒーロー“ロビン・フッド”の大胆な再解釈。
「L.Aコンフィデンシャル」の脚本家、ブライアン・ヘルゲランドは、過去100年の間に登場した映像作品だけで100本を超えるという大人気キャラクターに、21世紀らしい新しい息吹を与える事に成功している。
リドリー・スコット拘りの、超リアルな中世の合戦シーンも迫力で、なかなかに楽しめる一本である。

獅子心王リチャードの十字軍遠征に従軍した射手のロビン・ロングストライド(ラッセル・クロウ)は、戦死した騎士ロバート・ロクスリーに託されて、亡き王の王冠をロンドンへ届ける事になる。
リチャードが死んだ事により、不肖の弟ジョン王(オスカー・アイザック)が即位するが、彼の側近のゴドフリー(マーク・ストロング)はフランス王フィリップ二世と通じ、イングランド侵攻の機会を狙っていた。
ロビンは、ロクスリーの形見の剣を渡すために、ノッティンガムの屋敷に、ロバートの父ウォルター(マックス・フォン・シドー)と未亡人のマリアン(ケイト・ブランシェット)を訪ねる。
ウォルターは、幼少の頃のロビンを知っており、領地を守るために、彼にロバートの身代わりとしてこの地に留まる様に提案し、ロビンもそれを受け入れる。
一方、密かに少数のフランス軍部隊を迎え入れたゴドフリーは、ジョン王の名の下に諸侯の領地を焼き討ちする事で、内戦状態を作り出す作戦を進めていた・・・・


先日、電車の中で耳にした会話。
「今度さ、『ロビン・フッド』観に行こうよ」
「なんだっけ、それ?」
「ほら、弓の達人の映画」
「あ~、あの頭にリンゴのせて射抜いた人ね」
「そう、そう」

いや・・・・それ、ウィリアム・テルだから・・・全然違う人ですから!
日本ではイマイチ曖昧なイメージのロビン・フッドは、中世イングランドで活躍したと伝えられる伝説上の義賊
アレキサンドル・デュマやハワード・パイルによる小説をはじめ、映画やアニメなどでも御馴染みのキャラクターで、古くはダグラス・フェアバンクスからケビン・コスナーまで多くのスターがロビンを演じてきた。
個人的には、リチャード・レスター監督、ショーン・コネリーとオードリー・ヘプバーン主演で、伝説の後日談を描いた異色作、「ロビンとマリアン」が印象に残っている。
細かな設定やキャラクターの性格などは各作品異なるものの、一般にロビン・フッドのイメージというと、ノッティンガムのシャーウッドの森深くに住み、強欲な代官と戦いながら、人々を助けたヒーローという物だろう。

ところが、この映画の主人公は、従来のロビン・フッド像とは大幅に異なる。
何しろ、トレードマークの緑の衣装すら封印されているのである。
ブライアン・ヘルゲランドが紡ぎだしたのは、言わば我々の良く知るロビン・フッドの誕生秘話
ロビン伝説と実在のジョン王を巡る当時の社会状況を巧みに組み合わせて、一人の弓の達人が如何にして大衆のヒーローとなったのかをドラマチックに描いてみせる。
本作のロビンは、自らの出自を知らず孤児として育ち、アイデンティティーを喪失した男として登場する。
親も知らず、故郷も知らず、使える主君も持たず、戦場へ出るのも金のため。
だが、だからこそ、彼は自由な男でもあるのだ。
従軍した戦場で騎士ロクスリーに剣を託され、形見として届けた相手がマリアンだったという設定になっており、更に父親を知るウォルター卿に出会ったことで、自らが何者であるのかを始めて知る事になる。
彼の父は、優れた石工であったと同時に思想家で、自由の尊さを説き、ウォルターを含む多くの貴族や民衆の支持を得たがために、王によって幼いロビンの目前で処刑されたのだという。
要するに、本作のロビンは、王権を脅かした大衆のカリスマの血を引く、唯一の男なのである。

一方で、バカ殿ならぬバカ王として歴史に名を残すジョン王だが、世界史の授業で習った“マグナ・カルタ”の制定と廃止で覚えている人も多いのではないだろうか。
これは、フランスとの戦争での敗北などの度重なる失政で、あまりにも不人気となった王が、退位を迫る諸侯に対して、自らの権力を制限し、諸侯や教会へ一定の自由と権限を委譲する事を約束した法律だが、ローマ教皇の介入もあり、僅か二ヶ月で撤回されてしまった。
映画では、史実と時系列がかなり異なっているが、このマグナ・カルタをモチーフにしたと思われる自由憲章を、ロビンの父親が想起した事になっている。
フランスの脅威が迫る中、父の残した理想の実現を王に約束させる事で、ロビンはイングランドを救う救世主となるのである。
だが戦いに勝つと、現実の歴史と同じように、王は公約を守ること無く、逆にロビンの人気を恐れ、反逆者の烙印を押す。
こうして、反権力の義賊、ロビン・フッドが誕生したという訳だ。
絶対君主であり独裁者の王と、対照的に現代的な自由人のロビン。
この対比によって、12世紀のイングランドを舞台とした歴史ドラマは、現在の世界における独裁と自由の葛藤の比喩として読み解けるのである。
自由憲章の履行を王に迫った事で、追われる身となるロビン・フッドを、先にノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏やミャンマーのアウンサンスーチー氏ら、各国の自由の闘士に擬えることは容易だが、公約によって人々の支持を受けたにも関わらず、いざ勝利した途端にそれを反故にするジョン王の姿が、どうもどこぞの国の政治家に被って見えるのは何とも切ない。
まあ結局、そういう輩がどうなるかは、映画には描かれないジョン王の末路が示しているのだけど。

タイトルロールを演じるラッセル・クロウが、相変わらず格好良い。
過去のロビン・フッドは、スマートで軽妙なキャラクターとして描かれる事が多く、どちらかと言うと端正な二枚目のイメージだが、このジャガイモ顔のおっさんは、ワイルドで男気溢れる新ロビン像にマッチしている。
史劇スペクタクルの傑作「グラディエーター」以来、リドリー・スコットと組んだ作品は既に五本。
デ・ニーロとスコセッシ、黒澤と三船といった映画史の名コンビと肩を並べつつあると言って良いのではないかと思う。
「ワールド・オブ・ライズ」ではブクブクのメタボ腹だったが、ちゃんとそれらしい体を作っているのも流石だ。
脇を締める俳優達も、ケイト・ブランシェットのマリアンは庶民の生活感と貴族の高貴さを同時に感じさせ、盲目の老騎士を演じたマックス・フォン・シドーは貫禄たっぷり、頭を剃り上げたマーク・ストロングの悪役っぷりもなかなかに渋い。
個人的には、ハチミツ神父ことタック修道士を演じたマーク・アディが結構ツボだった。

ビジュアル的にも見応えは十分だ。
徹底的に作りこまれた中世の生活描写や、「LOTR」以来のCGでとにかく兵士や船の数をウジャウジャと増やして見せる描写とは一線を画する、生身の肉体の迫力を感じさせる合戦シーンの作り込みは見事。
フランス軍の上陸をイングランド軍が迎え撃つクライマックスは、地上でのチャンバラだけでなく、甲冑の重みで溺れ死ぬ兵士や、海中に降り注ぐ矢の雨などの戦場のディテールが圧倒的にリアルで、正に「プライベート・ライアン」のオマハビーチのシーンの中世版だ。
剣にウォーハンマーに弓にと、次々に武器を持ち替えてのロビンの戦いも見所たっぷりで、時間的にはそれほど長いものではないが、十分にお腹一杯になる。

しかしながら、良く出来ている分、残念に感じるところもある。
この映画、前半と後半のバランスがあまり宜しくなく、後になればなるほどに、もうちょっと描き込んで欲しかった所が目立つのである。
前半、ノッティンガムの村でロビンとロクスリーの家族が徐々に打ち解けて行くシークエンスや、ゴドフリーが陰謀をめぐらせてゆくあたりまでは、物語のテンポも良く、人間ドラマとしても十分面白い。
だが、いざ戦いが迫ると、いくら父の名声が残っていたとしても、ロビンがイングランド軍の中であっという間にカリスマ化してゆくのは無理があるし、そもそも殆ど記憶をなくしていたロビンが、直ぐに自由の闘士としてのアイデンティティを取り戻すのも少々性急だ。
また勝気な性格には描かれているものの、マリアンが森に暮らす孤児の少年達を引き連れて、騎士の姿でクライマックスに加勢に来るのも唐突感は否めない。
孤児たちにしても、もう少しロビンやマリアンとの絡みがあっての行動にしたほうが、御馴染みの伝説に回帰するラストにスムーズに繋がるだろう。
プラス30分くらいは十分に持つ物語だと思うので、後半のエピソードをもう少し増やして、キャラの内面的な変化と周りへの影響を詳細に描写すれば、更に優れた作品に仕上がった様に思える。

今回はミードで決まり。
世界中で作られているが、国産の菊水酒造「はちみつのお酒」をチョイス。
ミードは元々熊などに壊された蜂の巣に雨水が溜まり、自然発酵して偶然に出来た酒と考えられており、人類が飲んだ最古の酒である可能性が高い。
こちらはクローバーの蜜を使った低アルコールであっさりした味わいのお酒だ。

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アメリア 永遠の翼・・・・・評価額1300円
2010年12月09日 (木) | 編集 |
空を飛ぶ事が、まだ命懸けの冒険だった時代。
女性初の大西洋単独横断飛行を初め、数々の飛行記録を作り、1937年に太平洋上空で行方不明となった、伝説的な航空冒険家、アメリア・イヤハートの半生を描いた伝記映画。
「レインマン」のロン・バスが脚本を担当し、「モンスーン・ウェディング」のミーラ・ナイール監督がメガホンを取った。
まるで記録映画から抜け出したかの様な、ヒラリー・スワンクの演技は見ものだが、なんだか作劇が迷走気味で、作り手がイヤハートという人物を捉えきれていない様に思える。

1928年の4月。
アメリア・イアハート(ヒラリー・スワンク)は、出版人のジョージ・パットナム(リチャード・ギア)と出会い、大西洋横断飛行に挑戦するチームに参加しないかと誘われる。
チャレンジは成功し、パットナムのプロモーション手腕もあり、イヤハートは一躍時代のシンボルとして祭り上げられる。
私生活ではパットナムと結婚し、1932年には遂に大西洋単独横断にも成功、パイロットとして頂点を極めるが、純粋に飛び続けたいという気持ちと、その資金を稼ぐためにスターを演じる事とのギャップは、彼女の中で徐々に大きくなってゆく。
そして1937年、彼女は最後の夢として、世界一周飛行へのチャレンジを表明するのだが・・・・


アメリア・イヤハートという名を始めて聞いたのは、今から25年ほど前だろうか。
航空史上の先駆者達を特集したドキュメンタリー番組の中で、多くの男性に混じってただ一人紹介されていた女性が彼女で、独特の響きの名前が記憶に残った。
その後、私は米国に移り住み、イヤハートが今なお愛されている国民的なスーパーヒロインである事を知った。
私の知人は愛娘にアメリアと名付けるほどの熱烈なファンで、彼女の本を沢山貸してくれた。
そして私もいつしか、男尊女卑の風潮が色濃く残る時代、周りの偏見を物ともせずに、自らの夢に向って飛び続けたイヤハートの姿に、すっかり魅了されてしまったのだ。
彼女の挑戦は、自らを社会に認めさせただけでなく、世界中の虐げられた女性とマイノリティに勇気と希望を与え、後に続く多くのチャレンジャーの心の支えとなった。
だからこそ、一冒険家という存在を超えて、アメリア・イヤハートの名は今も残っているのである。

そんな人気者の彼女の生涯は、以前にも何度かテレビドラマ化されている他、歴史的人物としてフィクションへのゲスト出演も多い。
「スタートレック・ヴォイジャー」では宇宙人に誘拐されていたし、最近では「ナイトミュージアム2」でのベン・スティラーとの一夜限りの恋が記憶に新しい。
あの映画でエイミー・アダムズが演じたイヤハート像が、いわばアメリカ人の心の中で理想化された姿だとしたら、本作でミーラ・ナイール監督とヒラリー・スワンクが描こうとしたのは、グッとリアルな等身大のイヤハートと言えるだろう。
しかしながら、ナイール監督は、彼女をどう描くのか、終始迷っている様に見える。
ストイックな航空冒険家としての彼女、ジョージ・パットナムの妻としての彼女、恋多きスターとしての彼女、後進に対するライバル心に揺れる彼女。
多分どれもがアメリア・イヤハートの実像であり、それ故にあれもこれも描こうとして物語の行く先が定まらないのである。

映画は、イヤハート最後の冒険となった、世界一周飛行への旅立ちのシーンから始まり、旅の進行と平行してそこに至るまでの過去が描かれる。
先ずは1928年のパットナムとの出会いから、初の大西洋横断の成功。
イヤハートが国民的スターとなったのは、彼女の成し遂げた挑戦と結果以上に、人生のパートナーでもある出版人のパットナムの宣伝手腕が大きな要因になったのは良く知られているし、本作も二人の関係を物語のコアにしようとしている。
どうもイヤハートとパットナムというのは、単なる夫婦というよりも、友情と愛情とビジネス的な利害が複雑に絡み合った“同士”の様な関係であったらしい。
だが、映画では結婚するまでのお互いに対する感情が殆ど描かれないので、なぜパットナムが彼女に惹かれ、なぜイヤハートが彼の愛を受け入れたのかが今一つ良くわからない。

飛ぶ事にとりつかれた女と、彼女を支える男の関係を全体の土台にするのであれば、飛びたい理由をきちんと描かなければ、それは伝わらないはずである。
それは実は、本作では描かれない1928年以前のイヤハートの人生を紐解くとわかってくるのだが、ロン・バスとアンナ・ハミルトン=フェランの脚本は飛行家イヤハートの誕生の理由を描かずに、単に「飛ぶのが好きだから」で終わらせてしまっている。
「好きだから」「したいから」で物事が進むなら人生楽チンだが、これではイヤハートがどうしても空を飛びたいという切実さが伝わってこないので、彼女に答えるパットナムの気持ちも見えない。

伝記物の場合、対象となる人物の人生のどの部分を切り取るのかは非常に重要な判断だが、希代の航空冒険家を描くのに、彼女が飛ぶ理由を曖昧なままにしたのは明らかに作劇の失敗である。
物語のベースとなる、キャラクターの動機付けが弱いので、以降も物語は揺れ動く。
パットナムによって、時代の象徴となったイヤハートは、単独飛行で二度目の大西洋横断を成功させ、いよいよその地位は不動のものとなる。
若く優秀な陸軍パイロットのジーン・ヴィダルとの浮気や、スターとして振舞う事への葛藤なども描かれるが、どれもごくごく表層的にしか描かれないので、イヤハートの内面がどの様に変化しているのか感じ取れない。
映画ではほぼ10年間の時間が描かれているのだが、大いなる人生の流れと言うよりは、ぶつ切りの断片をつなげ合わせたという印象だ。
ちなみに、映画の中でイヤハートに「パパと結婚して!」と大胆なお願いをするジーンの息子ゴアは、後の大作家であり、映画ファンには「パリは燃えているか」や「ベン・ハー」の脚本家(トラブルによりクレジットされていない)として知られるゴア・ヴィダルである。

「アメリア 永遠の翼」は、歴史上のアイコンとして祭り上げられた姿ではなく、リアルな人生を生きた一人の女性としてのアメリア・イヤハートを描こうとした意欲作だが、残念ながら少し熱意が空回りしてしまっている。
確かにヒラリー・スワンクの激似っぷりは凄いが、肝心の物語がダイジェストでは、いくら俳優が頑張っても伝わる事には限りがある。
この手の映画にしては短めの111分という上映時間で、物語のベースを曖昧にしたまま10年の歳月を描くのは無理があったのではないか。
クライマックスのハウランド島への飛行シーンは、さすがに緊迫していて見応えがあるが、そこから彼女の人物像が見える訳ではなく、本作は図らずも現実の彼女と同じように、着地すべき陸地を見失ってしまった様に思える。
結果的に、今までに伝えられているイヤハート像の表層をなぞっただけで終わってしまったのは、イヤハートのファンとしては何とも残念である。

1937年7月2日に、ハウランド島へ向う途中消息を絶ったイヤハートと愛機のロッキード・エレクトラがどうなったのかは、未だに多くの謎に包まれている。
アメリカ政府は当時の金額で400万ドルを費やして、大捜索を行ったが遂に発見される事はなかった。
燃料切れで墜落したというのが定説ではあるが、キリバスの島に漂着したという説から、当時アメリカと対立しつつあった日本軍によって、スパイ機と間違えられて撃墜されたという珍説まである。
何れにしても忽然と太平洋上空から消え、機体の断片すら発見されていないという事が、生存説を含めた様々な憶測を生む原因になっているのだろう。
ミステリアスな空の女王は、今なお大空へのロマンと共に、人々の心に生き続けているのだ。

今回は、イヤハートが大西洋単独横断の時に着陸したアイルランドから、アイリッシュウィスキーの「カネマラ 12年」をチョイス。
アイリッシュウィスキーの特徴は、まろやかかつスモーキーさが控えめで、ウィスキーが苦手な人にも比較的飲みやすい事かもしれない。
こちらはピート香をつけているが、全体にスパイシーですっきりとした味わいだ。
アイリッシュコーヒーやクローバーナイトなどのカクテルベースにも良い。
80年の昔、アイルランドの牧草地に舞い降りた、航空時代の先駆者に乾杯!

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SPACE BATTLESHIP ヤマト・・・・・評価額1500円
2010年12月04日 (土) | 編集 |
ザ・ニッポンのSF!
アニメ史上のエポックであり、今なお絶大な知名度を誇る、「宇宙戦艦ヤマト」が遂に実写映画化。
昨年、制作が発表された時は、半分ネタ映画だと思ったし、ぶっちゃけたところ、あまり期待していなかった。
が・・・・正直スマン。
山崎貴監督初めとしたスタッフ、そして木村拓哉らキャストたちは、現代的な映像センスにプラスして、オリジナルへの大いなるリスペクトを感じさせる、堂々たる大作を作り上げた。
突っ込みどころは多々あれど、これは思ったよりずっと良く出来ており、全体の印象としては驚くほどアニメ版に忠実だ

西暦2199年。
侵略者ガミラスの遊星爆弾によって、地球は放射能に汚染された死の星となりつつある。
頼みの綱の地球防衛軍も壊滅し、人々は地下に潜んで細々と生きながらえながら、滅びの時を待っている。
そんなある日、14万8千光年彼方の大マゼラン星雲にあるイスカンダル星から、恒星間飛行を可能にする波動エンジンの設計図が届けられる。
イスカンダルの持つ放射能除去装置は、人類最後の希望。
元防衛軍のパイロットだった古代進(木村拓哉)は、イスカンダルへ向う地球最後の宇宙戦艦、ヤマトへの乗艦を志願する。
艦長の沖田(山崎務)は、嘗て古代の兄を見殺しにした男だったが、なぜか古代を自分の右腕である戦闘班長に任命する・・・。


60年代生まれの私は、所謂ヤマト世代である。
オリジナルが登場した1974年は、「マジンガーZ」以降の巨大ロボット物の全盛期。
猫も杓子もロボット物を作っていた時代にあって、「宇宙戦艦ヤマト」は相当に型破りな異色作であった。
ロボットは登場せず、一年間に渡って宇宙を旅するロードムービーであり、若者たちの成長を描いた青春群像劇という、過去に例の無いタイプの作品である。
案の定、1974年の初放送時には、全くヒットせずに消えていったのだが、放送終了後にファンクラブなどを通じて口コミで評判が広がり、やがてそれは再放送を求める全国規模の署名活動へと繋がって行く。
そして実現した再放送によって人気に火がつき、77年の劇場版の大ヒットと、シリーズの続行へと繋がって行くのであるが、これは日本アニメ史上、ファンのアクティブな活動が作り手側を動かした、最初のムーブメントであると言って良い。
その意味で、オリジナルの出現は、日本独自のオタク文化が発達する契機となる“事件”であった。

また、歴史に名を残す多くの作品がそうであるように、これもまた時代が呼んだ作品とも言える。
当時は、アメリカに追いつき追い越せと突き進んだ高度成長期が終わりを告げ、日本が豊かさと自信を取り戻した時代である。
何しろ、太平洋戦争で撃沈された日本海軍の象徴が、核で汚染された地球から不死鳥の様に蘇り、全人類を救うために旅立つという、極めて比喩的な物語だ。
多分に民族主義的な色彩と共に、サブカルチャーの分野から“ジャパン・アズ・ナンバー・ワン”を最初に具現化した作品であったと言えるだろう。

それでは、2010年に再び船出する、新たなるヤマトが体言する価値観とは何なのか?
山崎貴監督は、それを“先の見えない時代の希望と挑戦”と位置づけている様に見える。
実は今回、イスカンダルから送られてくる通信カプセルは、アニメとは異なり、ある重要な情報が欠落しているのだ。
また敵であるガミラスの正体も目的も不明のまま、戦い続けているという設定である。
故に、ヤマトは何の保障も確証もなく、五里霧中のまま旅立たねばならなくなる。
それでも、行動が無ければ滅びを待つのみという状況の中、人類は僅かな希望を自ら見出し、生き残るための挑戦としてヤマトを発進させるのである。
なるほど、オリジナルが生まれた36年前とは異なり、八方塞の閉塞感に苛まれる、21世紀の日本人へのメッセージとして、このテーマ性は意味があると思う。

物語的には、アニメの1と2を組み合わせて、上手い具合に一本に纏め上げたという感じである。
大きな相違点は、主人公の古代進を初めとするメインキャラクターが、18歳の学生から30代の歴戦の戦士に変更されている事だ。
これは実際に演じる俳優に合わせたという点と、さすがに実写で子供の様な若者が主人公では嘘臭くなるからだろう。
また、森雪が生活班長ではなく、ブラックタイガー隊のトップガンだったり、大酒飲みの佐渡先生や通信士の相原ら、元は男性だったキャラクターが女性になっていたりする。
いまや現実世界でも護衛艦に女性が乗っているので、これもまた時代に合わせた変化と言えるだろう。
そして、キャストたちは、意外なほどキャラクターに嵌っている。
古代進を演じる木村拓哉は、やっぱりいつものキムタクなのだが、見ているうちにこれはこれで古代像としてアリだと思えてくる。
何しろ、あのアニメチックなコスチュームを、上下の色を変えただけで格好良く着こなしてしまうのだから、やはりスターオーラは絶大だ。
男らしい女戦士になった黒木メイサの森雪や、柳葉敏郎の真田さんも悪くない。
そして、後半の出番の少なさが残念だが、沖田艦長を演じる山崎務が、さすがの説得力を持って作品の要石となっているのである。

オリジナルファンにとって一番残念なのは、古代以上の人気キャラクターである、デスラー総統閣下が実体として登場しない事かもしれない。
今回のガミラスは、イスカンダルと表裏一体の、ある種の精神生命という設定になっている。
故に全と個の区別は無く、必要な時にはコンピューターの端末の様に、ロボットの体を操り、場合によっては人間に憑依する事もある。
もっとも、この設定自体は新しいものではない。
確かオリジナルの企画段階で、豊田有恒が提唱したアイディアだったと思うが、イスカンダルのスターシャは惑星を管理するコンピューター生命で、防衛プログラムの一部が暴走したのがガミラスだという設定があり、実際に当時朝日ソノラマから出ていたノベライズ版では、こちらの案が採用されていた。
本作の精神生命という設定は、これを現代的に再解釈したものだろう。
まあ、最後にはあの青いお姿もさわり程度にチラリ見せしてくれるし、何しろ声が伊武雅刀なので、ヤマト世代としては脳内で総統閣下に変換するのは容易なのだけど(笑
ちなみに、石津嵐によるノベライズ版は、古代守がキャプテン・ハーロックになっていたり、アニメとは全く異なるトンデモ展開が楽しめる珍品である。

宇宙SFのキモであるビジュアルに関しては、予想以上の仕上がりと言っていい。
CGで描かれるヤマトの戦いは、多分に「SW」「ギャラクティカ」あたりの影響を見せつつも、ハリウッド映画にそれほど遜色を感じさせない。
お金や時間の条件というエクスキューズを考えなくても、VFXの白組は世界レベルの素晴らしい仕事をしている。
メカデザインはアニメのデザインを踏襲しながらも、細部をリファインするというギャラクティカ式で、これは基本的に成功だろう。
ヤマトは誰が見てもヤマトだけど、全体のイメージとしてはモダンな雰囲気になっている。
戦艦の砲撃に先行して、艦載機がターゲットにデジタルマーキングしてゆくあたりも面白いし、ワープに備えてミサイルを固定するなどの描写も細やか。
最初はワープにビビって乗組員が、最後には慣れて平然と食事していたりする日常描写もリアリティを高めるのには効果的で、ディテールの充実振りは特筆に価する。
SFを絵空事に感じさせないためには、とにかく細部の描きこみが命だが、ビジュアル畑出身の山崎監督は、さすがにその事を良く知っている。

本作の冒頭が、アニメ版と全く同じ様に地球艦隊とガミラス艦隊の決戦から始まり、戦いの展開もほぼ同様である事からもわかるように、物語りもビジュアルも、アニメ版をベースに実写ならではのリアリズムを付加しつつ、再現するというスタンスで全編が貫かれている。
ガミラスの巨大ミサイルを撃破したヤマトが、巨大なきのこ雲の中から悠々と姿を現すシーンを初め、伝説的な名シーンが、次々に実写化されてゆくのである。
特に戦いのなかで散って行く、各キャラクターの最期は、明らかに狙って台詞やアングルまで全く忠実に再現しているので、ファンは脳内でオリジナルの記憶が蘇るという寸法だ。
山崎監督も脚本の佐藤嗣麻子も1964年生まれの、バリバリのヤマト世代ど真ん中。
演出としては相当にあざといやり方だが、この世代に向けた作品と考えれば、思い出との相乗効果で泣けてくるのも確かだ。
ただ、これは諸刃の剣でもある。
あくまでも先にアニメ版ありきで、アニメ版のファンのための実写という作りのために、オリジナルを全く知らない人には、印象が大きく異なると思われる。
どこに作品のプライオリティを置くかという問題でもあるが、ある意味で観客を選ぶ手法で作られている事は確かだろう。

まあ、そのあたりを含めて、アニメの延長線上にある実写リメイクとしては、本作は良く出来ている。
ただ、26話のテレビシリーズにプラスして、「さらば宇宙戦艦ヤマト」までもミックスした上で、設定変更を行って纏め上げているので、ある程度ダイジェスト感が出てしまっており、それがドラマの希薄さに繋がっているのは否めない。
特に、古代がいきなり森雪にキスして押し倒すという恋愛モードは、かなり唐突な印象が強い。
例えば二人の関係を、元恋人同士で古代の除隊で別れたと設定しておけば、何の違和感も無かったはず。
古代と雪の恋愛感情は、物語後半のキーであるだけに、ここはもう少し考えて欲しかった。
もう一点、残念なのは、山崎監督がどうも生身の人間のアクションを苦手としている事だ。
この事は、前作の「BALLAD 名もなき恋のうた」でも露見していたのだが、CGメカの戦いは水を得た魚の様に生き生きと演出しているのに、後半イスカンダルに着陸しての白兵戦になると、途端にグダグダになってしまう。
もっとも、ここはアナライザーがまさかの大活躍をするサプライズで、ある程度救ってくれているのだが、真田さんと斉藤の名シーンが、イマイチ盛り上がりに欠けたまま終わってしまったのは、少し残念だった。

ぶっちゃけ、世代的な贔屓目があるのは確実だが、「宇宙戦艦ヤマト」改め「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は、思っていたよりもずっと楽しる作品だった。
次なる“希望と挑戦”に繋げるためにも、本作には是非ともヒットしてもらいたい。
日本の劇場用実写作品で本格的な宇宙SFが作られるのは、大コケした「さよならジュピター」以来実に26年ぶりだ。
いや、世界中を見回しても、これ程のスケールの宇宙SFはハリウッド映画以外に殆ど存在していないのが実情なのである。
アメリカ人だけじゃなくて、“ニッポン人だって世界を救う!”今の時代だからこそ、そんな傲慢な物語も、あえて肯定したくなる。
だって、SF映画は夢そのものなのだからさ。

今回は、ホンモノの戦艦大和に積まれていたという日本酒「加茂鶴」の純米を。
ちなみに、海軍の飲酒文化というのはお国柄があるようで、英国海軍は紳士のたしなみとしてある程度OKらしいが、アメリカ海軍はNGなのだとか。
英国をモデルとした戦前の日本海軍は飲酒に比較的寛容だったそうだが、戦後の海上自衛隊はアメリカ式なので、今は飲めないらしい。
のんべえの佐渡先生は実在不可能という事で、残念!

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