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2010年12月19日 (日) | 編集 |
1982年に公開されたSF映画史のエポック、「トロン」の完全な続編。
20年前に失踪した前作の主人公、ケヴィン・フリンを追って、息子のサムが電脳世界へと入り込む。
いかにも80年代的なオリジナルの世界観を忠実に踏襲し、そこに最新のデジタル3D映像が組み合わされる事で、ここ四半世紀の映像技術の進化を実感できる。
ケヴィンを演じるジェフ・ブリッジス、タイトルロールのトロンとケヴィンの親友アランの二役を演じるブルース・ボックスレイトナーは82年版のオリジナルキャスト。
現在のジェフ・ブリッジスの生身の姿と、デジタル的に作り出された20年前の若き日の姿が共演するという、一昔前ならあり得なかったシーンは、正に映像のイリュージョンだ。
コンピューター時代を主導していたエンコム社のCEO、ケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が失踪してから20年。
残された息子、サム(ギャレット・ヘドランド)の元に、父からの謎のメッセージが入る。
導かれる様に、父の古い作業場にやって来たサムだが、実は此処こそがケヴィンによって28年前に創造された、電脳世界“グリッド”への入り口だった。
グリッドに侵入したサムを迎えたのは、この世界を支配するケヴィンそっくりのプログラム、クルー。
彼は、負ければ即消滅という危険なゲームにサムを出場させる。
間一髪サムを救ったのは、クオラ(オリヴィア・ワイルド)と名乗る謎の美女。
彼女はサムをケヴィンに合わせると言うのだが・・・・・
嘗てコンピューターは、半分ファンタジーの世界の存在だった。
初期のそれは、巨大な体躯を大企業や政府機関の空調とセキュリティの行き届いた専用の部屋に収め、エンジニアはその業務の神秘性から“ビショップ(司祭)”と呼ばれたそうである。
70年代にパソコン(当時はマイコンと呼んだ)が発売されて、少しずつコンピューターが生活の中に入ってきたが、当時のパソコンは基本的に電卓に毛が生えた程度の代物。
一般の人々が“本物のコンピューター”に持っていたイメージというのは、かなり漫画チックなものだったが、この頃になるとようやくファンタジーからSF的なリアルを感じられる存在となる。
だからだろう、80年代頃までの映画に登場するコンピューターは、「エレクトリック・ドリーム」の様に飲み物をこぼされてショートしただけで知性を持ったり、「ウォーゲーム」や「スーパーマンIII」の様に人間を滅ぼそうとしたり、その時点での“現在”を描いているにも関わらず、相当にぶっ飛んだ高性能マシンが多い。
現在まで続く「ターミネーター」シリーズのコンピューター、スカイネットもこの時代の産物だ。
これらの作品に登場するコンピューターの描写は、当時はそれほど遠くない未来を予見したSFだったのだ。
本作のオリジナルに描かれた“グリッド”という世界の概念も、その延長線上にあると言って良いだろう。
ぶっちゃけ、オリジナルの「トロン」はそれほど面白い映画ではなかった。
映像的にはユニークだったが、物語は主役がケヴィン・フリンなのかトロンなのかどっちつかずだったり、敵の設定がえらくアバウトで対決が盛り上がらなかったりと、決して秀作といえる代物ではなかった。
監督のスティーブン・リズバーガーが、その後箸にも棒にも引っかからないB級映画を二本しか残せていない事からも、大体演出のレベルが知れるというもの。
にも拘らず、「トロン」が映画史のエポックとしてその名を記憶されている理由は、電脳世界を具現化した斬新な世界観と、“CG”或いは“コンピューター・グラフィックス”という言葉を始めて観客に認知させた事にある。
何しろこの映画、キャッチコピーの一つが「コンピューターが絵を描いた!」で、CGを使った作品である事を全面的に売りにしていたのだ。
もちろん、それまでにもCGを使った作品は存在していた。
マイケル・クライトンは「ウェスト・ワールド」の中で、アナログ・コンピューターを使った画像処理を効果的に使っていたし、ジョージ・ルーカスは、初期のCGを「スター・ウォーズ」に採用している。
だが、それらの技術は基本的に多くの表現技法の一つという位置付けで、間違っても作品の売りになる事は無かった。
もっとも、数秒のイメージを作るのにもスーパーコンピューターが動員された時代である。
「トロン」に使われたCGも、実際にはほんの数分程度だったのだが、それでも光と影で表現された無機質なビジュアルと、コンピューターの中の世界を映像化するという試みは、当時としてはかなりインパクトがあったのである。
実際、本作の影響は映画や漫画だけに留まらない。
80年代に高度にコンピューター化された社会を目指し、その名も“TRONプロジェクト”を立ち上げた東大の坂村健教授も、映画に大きなインスピレーションを受けたと語っている。
現在、日本の家電や社会インフラの多くが、TRONプロジェクトから生まれたOSで作動している事を考えれば、我々は「トロン」の影響下に作られた世界に暮らしている事になる。
そして、28年ぶりに作られた続編「トロン:レガシー」は、色々な意味で極めて象徴的な、興味深い作品であった。
CM畑出身のジョセフ・コジンスキー監督は、オリジナルに対する深いリスペクトを、作品の全体に、細部に、様々な形で表現する。
どうやらエンコムの社屋は昔と同じらしく、冒頭でサムが会社へ侵入するシーンに出てくる巨大な扉が、オリジナルでケヴィンが侵入する扉と同じだったり、当時としてはSFチックだったタッチパネルのインターフェイスが忠実に再現されていたり、観る人が観れば嬉しくなってしまう小技があちこちに散りばめられている。
また物語の主要なステージとなる“グリッド”のビジュアルも、オリジナルのイメージを可能な限り再現しながら、デザインをモダンにリファインする事で、同じ世界観である事を感じさせつつも、古臭さを払拭する事に成功している。
物語的にも、オリジナルよりも洗練されていると言って良いだろう。
前作でグリッドと現実世界を行き来する事に成功したケヴィンは、プログラムであるトロンとクルーと協力して、そこにある種の理想郷を作り上げようとしていた。
だが、ある時クルーが反乱を起こし、捕らえられたトロンはプログラムを書き換えられ、ケヴィンも追われる身となり、電脳世界の無限の地平をさ迷う事になってしまう。
そして、クルーの野望は更に強大になり、遂には現実世界をも自らが追求する完璧な世界に取り込もうと考える。
そのために、現実世界とのキーを求め、サムを“グリッド”に呼び込んだという訳だ。
キャラもプロットも一本調子で、イマイチ盛り上がりに欠ける仕上がりだったオリジナルに対して、こちらではケヴィンとその分身であるクルー、そして息子のサムの三角構図が生まれている。
特に、薄味ではあるが父と子の葛藤が加わった事で、物語は前作よりも複雑かつエモーショナルになり、主人公であるサムに対して感情移入しやすくなっているのである。
全体に、アドベンチャーの部分はサムが担当し、禅に嵌っているケヴィンが作品の精神性というか、テーマの部分を受け持っている感じだ。
本来コンピューターによる自由を求めていたケヴィンが、完璧を求めすぎるあまり、自らの内面からクルーを生み出して葛藤するあたりは、現実の世界のコンピューターを巡るオープン派とクローズド派の鬩ぎ合いも連想させて興味深い。
とは言え、ストーリー性やテーマ性はあくまでも刺身のツマに過ぎず、本作の最大の売りは、オリジナル同様に最新テクノロジーを駆使したスタイリッシュな映像である。
大幅にスケールアップした“グリッド”の世界で繰り広げられる、数々のメカアクションは迫力満点。
前作の最大の見せ場であった、ライトサイクルのレースシーンも殆どそのまま再現されている他、終盤では空中戦も加えられて縦横無尽の3Dバトルが楽しめる。
ただ、デジタルドメインの手によるビジュアルは素晴らしい出来栄えだが、背景のベースカラーが黒一色のために立体感は期待したほどは感じない。
また、敵は赤系統、味方は青系統と光で色分けされているのだが、基本的に皆が同じ格好をしているために、誰がどこにいるのかイマイチわかりにくい。
特にライトサイクルのシーンは、サム側の5台は全く区別がつかず、せっかくのスリルをスポイルしてしまっている。
このあたりは、微妙に色や形を変えるとか、もうちょっと親切に目印をつけて欲しかったが、シンプルな色彩設計がクールなビジュアルのキモなだけに、悩ましいところだ。
あとタイトルロールのトロンも、前作とは違った形で登場しているのだが、彼の存在はもっと工夫して生かしても良かった気がする。
上手くすれば、グリッドからの脱出を狙うフリン親子とクルーとの対決に、もう一ひねり加えられたのではないだろうか。
ちなみに、クライマックスでサムが現実世界へのキーを開く動作が、劇中にも登場するオリジナルのポスターと同じ構図だったりするのも、オリジナルへのオマージュを感じさせ、ニヤリとさせられる所だ。
「トロン:レガシー」はそのタイトル通り、オリジナル「トロン」の残した遺産を、21世紀の現在から非常に興味深く見せてくれる。
だが、これはもはや“サイエンス・フィクション”とは言えないかもしれない。
1982年と2010年で、何よりも決定的に異なるのは、多分我々観客の意識だろう。
「トロン」は、当時コンピューターがもたらす未来を描いたSF映画だったが、現実にデジタル時代が到来し、我々の中に既に電脳空間のリアルなイメージが出来ている2010年に、80年代と同じ世界観で作られた本作は、SFと言うようりもある種の異世界ファンタジーに見える。
少なくとも、今我々の知るコンピューターとデジタル技術の先に、本作の描く未来があるとは想像しにくいのである。
現実世界のテクノロジーの進歩は、映画のビジュアルに映像革命をもたらしただけでなく、本作の世界観をSFからファンタジーのジャンルへと先祖がえりさせてしまった。
その意味で、二本の「トロン」は二つの時代の変化を、象徴的に表している様に感じる。
基本的にこれ単体で観ても十分に理解できるように工夫されているが、出来ればオリジナルを知った上で観賞した方が、この28年間の映像技術の進化、テクノロジーに対する我々の意識の変化を感じられて、より楽しめるのではと思う。
デジタルで無機質な本作の世界から連想するのは、氷の国の酒。
ちょうどクリスマスだし、サンタの故郷フィンランドの代表的なウォッカの「フィンランディア」をチョイス。
ウォッカの原料には様々な種類があるが、麦を原料とするこちらは、元々輸出用のブランドで、クセが無くすっきりとした飲み易さが特徴と言えるだろう。
氷河をイメージしたボトルデザインもいかにも涼しそうだが、寒い時期だからこそ、キンキンに冷やしたフィンランディアをストレートでグイッと飲むのも乙なものである。
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20年前に失踪した前作の主人公、ケヴィン・フリンを追って、息子のサムが電脳世界へと入り込む。
いかにも80年代的なオリジナルの世界観を忠実に踏襲し、そこに最新のデジタル3D映像が組み合わされる事で、ここ四半世紀の映像技術の進化を実感できる。
ケヴィンを演じるジェフ・ブリッジス、タイトルロールのトロンとケヴィンの親友アランの二役を演じるブルース・ボックスレイトナーは82年版のオリジナルキャスト。
現在のジェフ・ブリッジスの生身の姿と、デジタル的に作り出された20年前の若き日の姿が共演するという、一昔前ならあり得なかったシーンは、正に映像のイリュージョンだ。
コンピューター時代を主導していたエンコム社のCEO、ケヴィン・フリン(ジェフ・ブリッジス)が失踪してから20年。
残された息子、サム(ギャレット・ヘドランド)の元に、父からの謎のメッセージが入る。
導かれる様に、父の古い作業場にやって来たサムだが、実は此処こそがケヴィンによって28年前に創造された、電脳世界“グリッド”への入り口だった。
グリッドに侵入したサムを迎えたのは、この世界を支配するケヴィンそっくりのプログラム、クルー。
彼は、負ければ即消滅という危険なゲームにサムを出場させる。
間一髪サムを救ったのは、クオラ(オリヴィア・ワイルド)と名乗る謎の美女。
彼女はサムをケヴィンに合わせると言うのだが・・・・・
嘗てコンピューターは、半分ファンタジーの世界の存在だった。
初期のそれは、巨大な体躯を大企業や政府機関の空調とセキュリティの行き届いた専用の部屋に収め、エンジニアはその業務の神秘性から“ビショップ(司祭)”と呼ばれたそうである。
70年代にパソコン(当時はマイコンと呼んだ)が発売されて、少しずつコンピューターが生活の中に入ってきたが、当時のパソコンは基本的に電卓に毛が生えた程度の代物。
一般の人々が“本物のコンピューター”に持っていたイメージというのは、かなり漫画チックなものだったが、この頃になるとようやくファンタジーからSF的なリアルを感じられる存在となる。
だからだろう、80年代頃までの映画に登場するコンピューターは、「エレクトリック・ドリーム」の様に飲み物をこぼされてショートしただけで知性を持ったり、「ウォーゲーム」や「スーパーマンIII」の様に人間を滅ぼそうとしたり、その時点での“現在”を描いているにも関わらず、相当にぶっ飛んだ高性能マシンが多い。
現在まで続く「ターミネーター」シリーズのコンピューター、スカイネットもこの時代の産物だ。
これらの作品に登場するコンピューターの描写は、当時はそれほど遠くない未来を予見したSFだったのだ。
本作のオリジナルに描かれた“グリッド”という世界の概念も、その延長線上にあると言って良いだろう。
ぶっちゃけ、オリジナルの「トロン」はそれほど面白い映画ではなかった。
映像的にはユニークだったが、物語は主役がケヴィン・フリンなのかトロンなのかどっちつかずだったり、敵の設定がえらくアバウトで対決が盛り上がらなかったりと、決して秀作といえる代物ではなかった。
監督のスティーブン・リズバーガーが、その後箸にも棒にも引っかからないB級映画を二本しか残せていない事からも、大体演出のレベルが知れるというもの。
にも拘らず、「トロン」が映画史のエポックとしてその名を記憶されている理由は、電脳世界を具現化した斬新な世界観と、“CG”或いは“コンピューター・グラフィックス”という言葉を始めて観客に認知させた事にある。
何しろこの映画、キャッチコピーの一つが「コンピューターが絵を描いた!」で、CGを使った作品である事を全面的に売りにしていたのだ。
もちろん、それまでにもCGを使った作品は存在していた。
マイケル・クライトンは「ウェスト・ワールド」の中で、アナログ・コンピューターを使った画像処理を効果的に使っていたし、ジョージ・ルーカスは、初期のCGを「スター・ウォーズ」に採用している。
だが、それらの技術は基本的に多くの表現技法の一つという位置付けで、間違っても作品の売りになる事は無かった。
もっとも、数秒のイメージを作るのにもスーパーコンピューターが動員された時代である。
「トロン」に使われたCGも、実際にはほんの数分程度だったのだが、それでも光と影で表現された無機質なビジュアルと、コンピューターの中の世界を映像化するという試みは、当時としてはかなりインパクトがあったのである。
実際、本作の影響は映画や漫画だけに留まらない。
80年代に高度にコンピューター化された社会を目指し、その名も“TRONプロジェクト”を立ち上げた東大の坂村健教授も、映画に大きなインスピレーションを受けたと語っている。
現在、日本の家電や社会インフラの多くが、TRONプロジェクトから生まれたOSで作動している事を考えれば、我々は「トロン」の影響下に作られた世界に暮らしている事になる。
そして、28年ぶりに作られた続編「トロン:レガシー」は、色々な意味で極めて象徴的な、興味深い作品であった。
CM畑出身のジョセフ・コジンスキー監督は、オリジナルに対する深いリスペクトを、作品の全体に、細部に、様々な形で表現する。
どうやらエンコムの社屋は昔と同じらしく、冒頭でサムが会社へ侵入するシーンに出てくる巨大な扉が、オリジナルでケヴィンが侵入する扉と同じだったり、当時としてはSFチックだったタッチパネルのインターフェイスが忠実に再現されていたり、観る人が観れば嬉しくなってしまう小技があちこちに散りばめられている。
また物語の主要なステージとなる“グリッド”のビジュアルも、オリジナルのイメージを可能な限り再現しながら、デザインをモダンにリファインする事で、同じ世界観である事を感じさせつつも、古臭さを払拭する事に成功している。
物語的にも、オリジナルよりも洗練されていると言って良いだろう。
前作でグリッドと現実世界を行き来する事に成功したケヴィンは、プログラムであるトロンとクルーと協力して、そこにある種の理想郷を作り上げようとしていた。
だが、ある時クルーが反乱を起こし、捕らえられたトロンはプログラムを書き換えられ、ケヴィンも追われる身となり、電脳世界の無限の地平をさ迷う事になってしまう。
そして、クルーの野望は更に強大になり、遂には現実世界をも自らが追求する完璧な世界に取り込もうと考える。
そのために、現実世界とのキーを求め、サムを“グリッド”に呼び込んだという訳だ。
キャラもプロットも一本調子で、イマイチ盛り上がりに欠ける仕上がりだったオリジナルに対して、こちらではケヴィンとその分身であるクルー、そして息子のサムの三角構図が生まれている。
特に、薄味ではあるが父と子の葛藤が加わった事で、物語は前作よりも複雑かつエモーショナルになり、主人公であるサムに対して感情移入しやすくなっているのである。
全体に、アドベンチャーの部分はサムが担当し、禅に嵌っているケヴィンが作品の精神性というか、テーマの部分を受け持っている感じだ。
本来コンピューターによる自由を求めていたケヴィンが、完璧を求めすぎるあまり、自らの内面からクルーを生み出して葛藤するあたりは、現実の世界のコンピューターを巡るオープン派とクローズド派の鬩ぎ合いも連想させて興味深い。
とは言え、ストーリー性やテーマ性はあくまでも刺身のツマに過ぎず、本作の最大の売りは、オリジナル同様に最新テクノロジーを駆使したスタイリッシュな映像である。
大幅にスケールアップした“グリッド”の世界で繰り広げられる、数々のメカアクションは迫力満点。
前作の最大の見せ場であった、ライトサイクルのレースシーンも殆どそのまま再現されている他、終盤では空中戦も加えられて縦横無尽の3Dバトルが楽しめる。
ただ、デジタルドメインの手によるビジュアルは素晴らしい出来栄えだが、背景のベースカラーが黒一色のために立体感は期待したほどは感じない。
また、敵は赤系統、味方は青系統と光で色分けされているのだが、基本的に皆が同じ格好をしているために、誰がどこにいるのかイマイチわかりにくい。
特にライトサイクルのシーンは、サム側の5台は全く区別がつかず、せっかくのスリルをスポイルしてしまっている。
このあたりは、微妙に色や形を変えるとか、もうちょっと親切に目印をつけて欲しかったが、シンプルな色彩設計がクールなビジュアルのキモなだけに、悩ましいところだ。
あとタイトルロールのトロンも、前作とは違った形で登場しているのだが、彼の存在はもっと工夫して生かしても良かった気がする。
上手くすれば、グリッドからの脱出を狙うフリン親子とクルーとの対決に、もう一ひねり加えられたのではないだろうか。
ちなみに、クライマックスでサムが現実世界へのキーを開く動作が、劇中にも登場するオリジナルのポスターと同じ構図だったりするのも、オリジナルへのオマージュを感じさせ、ニヤリとさせられる所だ。
「トロン:レガシー」はそのタイトル通り、オリジナル「トロン」の残した遺産を、21世紀の現在から非常に興味深く見せてくれる。
だが、これはもはや“サイエンス・フィクション”とは言えないかもしれない。
1982年と2010年で、何よりも決定的に異なるのは、多分我々観客の意識だろう。
「トロン」は、当時コンピューターがもたらす未来を描いたSF映画だったが、現実にデジタル時代が到来し、我々の中に既に電脳空間のリアルなイメージが出来ている2010年に、80年代と同じ世界観で作られた本作は、SFと言うようりもある種の異世界ファンタジーに見える。
少なくとも、今我々の知るコンピューターとデジタル技術の先に、本作の描く未来があるとは想像しにくいのである。
現実世界のテクノロジーの進歩は、映画のビジュアルに映像革命をもたらしただけでなく、本作の世界観をSFからファンタジーのジャンルへと先祖がえりさせてしまった。
その意味で、二本の「トロン」は二つの時代の変化を、象徴的に表している様に感じる。
基本的にこれ単体で観ても十分に理解できるように工夫されているが、出来ればオリジナルを知った上で観賞した方が、この28年間の映像技術の進化、テクノロジーに対する我々の意識の変化を感じられて、より楽しめるのではと思う。
デジタルで無機質な本作の世界から連想するのは、氷の国の酒。
ちょうどクリスマスだし、サンタの故郷フィンランドの代表的なウォッカの「フィンランディア」をチョイス。
ウォッカの原料には様々な種類があるが、麦を原料とするこちらは、元々輸出用のブランドで、クセが無くすっきりとした飲み易さが特徴と言えるだろう。
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