酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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GANTZ・・・・・評価額1550円
2011年01月31日 (月) | 編集 |
奥浩哉のベストセラーコミックを原作として、前・後編の二部作として構成されたSF大作。
死んだはずの人間たちが、謎の黒い球体“GANTZ(ガンツ)”に召喚され、“星人”と呼ばれる異形の敵と戦う、命がけのミッションに強制参加させられる。
「マトリックス」的なSFアクションと、最近流行りの不条理ホラーの設定をミックスした様な世界観は独特で、素晴らしく出来の良いビジュアルと相俟ってなかなかに楽しめる。

就職活動中の大学生玄野計(二宮和也)は、ある日小学校時代の同級生、加藤勝(松山ケンイチ)と共に鉄道事故にあう。
だが、死んだと思った瞬間、彼らは見知らぬマンションの一室にいた。
そこにはガンツと呼ばれる黒い球体が鎮座し、玄野たちの他に数名の男女が集められていた。
彼らは、自分達の身に何が起こったのか理解出来ぬまま、ガンツによってある街角に転送され、恐るべき敵と戦う羽目になるのだが・・・・


ハードでスタイリッシュなビジュアルと、所々に散りばめられた“ボケ”とのギャップが本作に奇妙な味わいを与えている。
ガンツによって“死”を保留された人間たちは、強制的に星人と呼ばれる謎の敵と戦わされるのだが、こいつらがねぎ星人とか田中星人とかおこりんぼ星人とか、ルックスも名前もかなりふざけた連中なのだ。
星人と戦って生き残れば、ガンツによって点数が付けられ、トータル100点満点になるまで戦いを繰り返さなければならない。
30代後半以上の人ならピンと来ると思うが、そもそもこの設定自体が、70年代の人気ロボットドラマ「がんばれ!!ロボコン」のパロディなのである。
戦うために転送される場所はごく普通の街並みだが、転送された人間と星人以外は存在しない異界。
脱力系の見た目とは対照的に、星人たちの戦闘能力は極めて高く、普通の人間ではとても適わないので、戦う人間にはガンツから強力な武器とボディスーツが与えられる。

劇団☆新感線の衣装デザイナー、竹田団吾の手によるスーツのデザインが秀逸だ。
彼は「ヤッターマン」でも驚くほど忠実にアニメのイメージを再現していたが、今回も漫画ならではのデザインを、見事なまでに具現化している。
これはある種のパワード・スーツで、装着する人間のスピードとパワーを、星人に対抗可能なほどに高める事が出来るのだが、手足の長い若い俳優のプロポーションにバッチリ映え、格好良さ倍増である。
男女で微妙にデザインテイストを変えているあたり、流石に芸が細かい。
そして発砲するときにXの形に展開する銃や、必要な時に刀身が飛び出す刀、それに何よりクールな光沢を放つガンツそのものなど、ギミック満載の小道具の出来がまた素晴らしい。
スーツや武器と言った作り物が、これも良く出来たCGと組み合わさり、邦画ではちょっと観た事の無いレベルの、これぞ21世紀の特撮アクションという映像を作り出している。
「修羅雪姫」や「ホッタラケの島~遥と魔法の鏡~」佐藤信介監督は、流石にこの手の映画の見せ方を知り尽くしており、都合三回で上映時間のおよそ半分を占める各星人との戦いは、とぼけたキャラクターと特殊能力を生かして工夫され、それぞれがユニークな魅力を持つ見せ場になっている。
多分に特撮監督の神谷誠のテイストが入っているのかもしれないが、おこりんぼ星人から千手観音、巨大大仏の三連発などは、ハリーハウゼンのストップモーションアニメへの大いなるオマージュとなっていて、特撮映画ファンには感涙物だ。

そして、意外と言っては失礼ながら、登場人物の描きこみが結構しっかりしており、薄味ながらも人間ドラマがきちんと作られている。
二宮和也松山ケンイチという、ハイレベルな演技が出来る若手二人を主役に選んだのが良かった。
生と死の境界線上で、不条理なサバイバルを強いられる彼らは、戦いの中で次第にその個性を明確にしてくる。
自分が信じられず、無気力な生き方をしている玄野は、命の危機に晒される事で逆にその生を実感し、戦いにのめりこんで行く。
彼が自分に言い聞かせる様に口にする、「人にはそれぞれに与えられた役割がある」と言う言葉の通り、彼は星人を倒すヒーローという役割に自らの情熱を再発見して行くのである。
冒頭の気だるそうな表情が、戦いを経るたびに、段々と自信溢れる表情へと変化して行くあたりの細やかな演技は実に上手い。
一方、松山ケンイチ演じる加藤は、たった一人の家族である弟を孤児にしないために、可能な限り皆で協力し合って生き残る事にプライオリティを置く。
彼にとっては、戦いは決して望む物ではなく、そのリスクは最小限にしなければならないのだ。
同じ状況に追い込まれていながら、異なる心情で戦う二人の葛藤が、物語にエモーションを作り出している。

ただ、やはり膨大な原作と上映時間との関係か、もう少し丁寧に描いて欲しかった部分も多い。
本作には、大学の同級生の玄野に惹かれ、彼をモデルに漫画を描いている小島多恵と、戦いの中で加藤の優しさに惹かれてゆく岸本恵という二人の女性が、ヒロイン的な位置付けで登場するが、彼女達の内面は殆ど描かれず、物足りない。
特に、悲劇的な最後を遂げる岸本恵は、演じる夏菜が不二子ちゃん体型で、ボディスーツ姿の存在感が絶大なために、ちゃんとバックグラウンドを描いて欲しかったところ。
ガンツにも「いたの?」と言われてしまった、田口トモロヲ演じる鈴木良一も、多分狙いなのだろうけど、せっかく演技派を起用してるのだから、戦闘シーン以外でもうちょっと積極的に物語りに絡んで欲しかった。
もっともこのあたりは、後編の展開を考えて、あえて抑えているのかも知れないが、とりあえず前編だけの印象としては、主役の二人以外がやや描写不足なのは否めない。

あと、演出のディテールでちょっと気になったのは、銃の扱いだ。
敵に確実にダメージを与えられる武器を持ちながら、発砲せずにただ構えているだけの描写が多い。
最初のねぎ星人や二度目の田中星人あたりまでなら、登場人物の経験値の少なさや、敵の動きが早すぎて発砲できないというエクスキューズも成り立つのだけど、おこりんぼ星人や巨大大仏は外しようが無いくらい的がでかいだけあって、武器があるのに逃げ回っているだけなのは何で?と思ってしまう。
数少ない発砲シーンの破壊力が超強力に描写されているために、余計に撃たない違和感は強まる。
この辺りは、せっかくのアクションシーンなので、派手にぶっ放してもらって、例えばシューティングゲームの様に、でかい敵には武器があまり効かないとか、何かシールドみたいな物を持っているとか、フォローの描写が欲しかったところだ。

ちなみに原作は、連載開始当事にちょうど本作で描かれた、おこりんぼ星人の辺りまで読んだが、珍妙なルックスの星人たちや、当事はまだ漫画では珍しかったCGを使った緻密な背景描写などはかなりインパクトがあった。
その後は、完結したら単行本で読もう・・・と思っているうちに10年経ってしまい、細かい設定や人間のキャラクターなどはもうあまり覚えていないから、原作から適度な距離感をもって観られたと思う。
二部作としてはちょうど良いところで切っていると思うが、聞くところによると脚色されている部分も多い様なので、原作の熱烈ファンからしたら評価の分かれる内容なのかもしれない。
四月公開の後編は、どうやら原作とは違う展開になるらしく、新キャラクターの役割やガンツの正体を含めて、とても楽しみである。

今回は、黒い球体に召喚される話という事で、黒繋がりで「東京ブラック」をチョイス。
よなよなエールで有名な軽井沢のヤッホー・ブルーイングが作った黒ビール。
濃厚なテイストと香ばしい香り、クリーミーな泡のトリニティが楽しめる一本で、本場欧州の黒ビールにも引けをとらない。
良い意味でハリウッドライクな、パワフルな娯楽映画の後に喉を潤すにはピッタリだろう。

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その街のこども 劇場版・・・・・評価額1650円
2011年01月26日 (水) | 編集 |
1995年1月17日、午前5時46分、神戸。
あの運命の日に、その街にいた子供たちの、15年後の邂逅を描く異色のドキュメンタリー風ロードムービー。
元々は、阪神・淡路大震災から15年目を迎えた、昨年の1月17日に放送されたNHKのテレビドラマだが、放送後に大きな反響を得て、再編集の上で10分長い劇場版として公開される事になった。
被災時に小学生と中学生だった一組の男女が偶然出会い、それぞれの心の奥に突き刺さった震災の記憶に向き合った一夜を描く物語である。

1月16日の午後。
建築会社に勤める中田勇治(森山未來)は、仕事で広島に向かう途中、ふと思い立って新神戸で降りる。
神戸出身の勇治は、子供の頃にこの街で震災に遭った。
もう街に家族はいないが、15年ぶりの帰郷だった。
偶然駅で知り合った大村美夏(佐藤江梨子)も、同じ経験を持つ事を知り、意気投合した二人は、翌日の朝開かれる慰霊式典までの間、懐かしい神戸の街を歩き回る。
被災後、共に神戸を離れて暮らしていた二人は、何時しか当時の思い出を語り合っていた・・・


阪神・淡路大震災が起こった時の事は、良く覚えている。
当時私は、普段はめったに日本のことなど報じられない米国に暮らしていたが、あの年の1月だけは、大震災とオウム真理教の地下鉄テロ事件で日本報道一色になったものだ。
南京街近くにあった学友の実家も燃えてしまい、私自身89年のサンフランシスコ大地震の記憶が鮮明で、在留日本人で義援金を集めて送ったりした。
同じ年の8月に、神戸を訪れる機会があったが、まだ倒壊したビルがそのまま放置されていたり、街の一角が完全に空き地となり沢山の花と線香が供えられていたり、禍々しい震災の爪跡の風景は今でもはっきりと思い出せる。
あれから長い歳月が過ぎたが、昨年は特に15周年という節目の年だった事もあって、様々なメディアで震災を振り返る企画が多かったと思う。
だが、他の多くの歴史上の事件がそうであった様に、時が経つにつれてマスコミの視点は画一的になり、感動的な美談であったり、涙なしでは語れない悲劇であったり、良くも悪くもステロタイプな型に押し込められた物が殆どだった。

そんな中にあって、本作のスタンスはかなり異色だ。
震災をモチーフにしつつ、当時の映像は必要最低限しか使われておらず、殆どが出ずっぱりで夜の神戸をさ迷い歩く、主人公の勇治と美夏の会話劇
それも手持ちカメラのハンディ感を生かした、殆どドキュメンタリーの様な作りなのである。
たぶん、シネフィルならすぐ気付くだろうが、本作の構造はリチャード・リンクレイター監督の「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離」に極めてよく似ている。
偶然列車で出会ったアメリカ人の男性とフランス人の女性が、ウィーンの街を歩き回りながら想いを通じ合う一夜を、ドキュメンタリー調のタッチで描いた瑞々しい物語が、本作に強いインスパイアを与えているのは間違いないと思う。
「ジョゼと虎と魚たち」で知られる脚本の渡辺あや、はこのラブストーリーの佳作の構造を巧みに換骨奪胎し、日暮から夜明けまでの長い長い散歩を通して、震災の体験が被災した子供たちの今にどの様な影響を与えているのか、彼らの中で震災とは何なのかをじっくりと描き出してゆく。

十数年ぶりに神戸に戻った勇治と美夏は、三宮の居酒屋で酔っ払い、喧嘩をし、思い出の街を歩きながら、徐々にその心の奥に封印していた、記憶の核心を語りだす。
勇治は、震災で直接大切な人を亡くす事はなかったが、屋根職人だった父親が、街の復興の時に修理代を吊り上げて暴利を貪った事から、街にいられなくなって東京へ引っ越した過去を持つ。
同じ被災体験をした友人達から、裏切り者として蔑まれた事がトラウマとなっているのである。
一方の美夏は、幼馴染の少女とその家族を震災で亡くし、唯一生き残った少女の父親に会う事を恐れている。
元々家族が不仲で、神戸に幸せな思い出の少ない美夏にとって、彼はネガティブな記憶の象徴になってしまっているのである。
たぶん、被災後に神戸を離れた事で、その街の“子供たち”から、単数の“子供”となった彼らは、辛い記憶を共有できる相手を失って孤独を抱え込んでしまったのだろう。
そして15年間秘めてきた想いを、さらけ出す事が出来る相手に、漸く巡り合ったのだ。
もちろん、過去のトラウマを話したとしても、それで特にドラマチックな事が起こる訳ではない。
ただ、もしも出会わなければ、そのまま封印されていたであろう二人の記憶は、共鳴するように心の奥から噴出し、結果的に彼らの人生をほんの少し後押しする。

主人公を演じるのは、森山未來佐藤江梨子
彼らは共に震災当時実際に神戸に暮らしており、実年齢もキャラクター設定とほぼ同じ。
撮影の際には、脚本に書かれた台詞に、自分の記憶から思い出した事などを織り交ぜながら演技していたという。
俳優自ら「台本とリアルの境目がむずかしかった」と語っている様に、役者と役柄との近さは、これは実は彼ら自身の物語なのではという錯覚を観る者に抱かせる。
「不幸って法則ないやん。地震だけやなくてさ・・・」「地震で学校なくなってラッキーやなあとか、ハハハ・・・」「辛い時になってしもたら、どしたらちょっとは辛くなくなるんかを考えて工夫する」
彼らの発する言葉が伝えるのは、あの時その街にいた人々の、生々しい姿だ。
悲惨な状況が目の前にあったとしても、日々の生活が全くなくなる訳ではないし、楽しい事だって当然ある。
大変さのレベルは全然違うが、子供の頃台風が来る事は、怖いのと同時にワクワクする体験だったのを思い出す。
そんな当たり前だが、メディアの報道からは抜け落ちてしまいがちな、人間の暮しのリアリティがここにはあるのだ。

もちろん、ドキュメンタリー風ではあっても、これは実際には作りこまれたドラマである。
あくまでも自然に見せながらも、捉えるべき感情を捉え、きっちりとリズムを持って物語を紡ぎながらテーマを浮き彫りにしてゆく作り手の技術は見事なもの。
本作の制作はNHK大阪放送局であり、スタッフの多くも当時の被災者であったという。
彼らも撮影を通して、自らの過去に向き合ったであろう事は想像に難くないが、物語全体を俯瞰する視線は、不思議なほど冷静だ。
思うに、関西出身ではない井上剛監督の持つモチーフとの距離感が、感傷的過ぎず、入り込み過ぎず、かといって引き過ぎずの絶妙なポジションで物語を見せているのではないだろうか。
ドラマの演出としては決して正攻法とは言えないが、まだまだ記憶に新しい大震災という、ある意味で良い子ちゃん的なスタンスを要求されそうなモチーフで、こういう実験的なチャレンジが出来るのはNHKならではかもしれない。

「その街のこども」は、16年前に起こった阪神・淡路大震災の記憶を通し、今を生きる人間の“リアル”を描き出した秀作だ。
たぶん、実際に被災した人とそうでない人の間では、作品を観る目は異なるだろうし、本作のラストで、二人が違う選択をしたように、被災者の数だけ震災の“リアル”はあるとも言えるだろう。
間違いないのは、これからも毎年1月17日は巡ってくるという事と、「また来年」と言って別れた勇治と美夏には、少なくとも未来という名の希望があるという事だけである。
二人は、今年の1月17日に、東遊園地で会えたのだろうか。

神戸は日本有数の酒どころだが、多くの酒蔵も被災した。
今回は灘の酒蔵、神戸酒心館の「福寿 純米吟醸」をチョイス。
フルーティで口当たり良く、良い意味で癖がないので誰にでも好まれる一本だろう。
純米酒は冷という人が多いが、今の季節は燗にしても旨い。
福寿は、1751年創業の長い歴史を持つ蔵だが、震災により倒壊。
その後、被災した二つの酒蔵が共同出資して復活し、復興のシンボルとも言える酒である。

ところで、美夏のカバンが途中から消えていたけど、何処かに置いてくる描写ってあったっけ?

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福寿 純米吟醸 1800ml

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価格:2,752円(税込、送料別)



ウッドストックがやってくる!・・・・・評価額1600円
2011年01月22日 (土) | 編集 |
伝説のビハインド・ザ・シーン。
1969年8月15日から3日間に渡って繰り広げられた、愛と平和と音楽の祭典、ウッドストック・フェスティバル
50万人近い観客を集めたこの元祖夏フェスの会場が、名称とは異なり実はウッドストックではないという事実は、案外と知られていない。
これは、実際の開催地であるホワイトレイクにコンサートを誘致した一人の青年の目を通して、時代の大きな節目となった巨大イベントが如何にして生まれ、関わった人間達をどの様に変えていったのかを描くヒューマンドラマだ。

1969年夏。
アーティストのエリオット(ディミトリ・マーティン)は、ニューヨーク州の片田舎のホワイトレイクで、年老いた両親が経営するモーテル“エル・モナコ”を経営破綻から救うために、金策に奔走していた。
だが、訪れる人もいない過疎の町のおんぼろモーテルでは、借金の返済を夏の終わりまで引き延ばすのが精一杯。
そんな時、80キロ離れたウッドストックで予定されていた一万人規模の野外コンサートが、住民の反対でキャンセルされた事がわかる。
名ばかりの商工会議所の会頭でもあるエリオットは、コンサートを誘致して町おこしを図ろうとするのだが、それは予想を遥かに超える歴史的なイベントの始まりだった・・・


アメリカでは、第二次大戦直後の数年間に生まれた世代を表すのに、“ウッドストック・ジェネレーション”という言葉を使う事がある。
所謂ベビーブーマーと同じ世代だが、定義は異なる。
要するに、ウッドストック・ジェネレーションとは、若者のサブカルがウッドストックという一箇所に集まり、その巨大な力を社会に認めさせた世代を意味するのである。
ウッドストックが開催された時、私はまだ物心ついていない赤子だったので、もちろん記憶は無い。
だが、このコンサートは同名のドキュメンタリー映画「ウッドストック」に記録され、会場の混沌とした異様なムードと時代の熱気はスクリーンを通しても感じる事が出来る。
長編ドキュメンタリー部門でオスカーを受賞した、マイケル・ウォドレー監督によるこの映画は、若きマーティン・スコセッシが編集マンとして参加している事でも知られている秀作だ。

本作の原作は、エリオット・タイバーとトム・モンテによる回想録。
たまたまエリオットと監督のアン・リーが同じTV番組に出演した事から、企画がスタートしたと言う。
1954年生まれのアン・リーは、ウッドストック当時は14歳で、まだ母国の台湾で暮らしている頃。
脚本を担当したのは、リーの盟友であり、フォーカス・フィーチャーズのCEOでもあるジェームス・シェイマスで、彼は当時10歳。
おそらくは、共にメディアを通して“祭”を知った世代だろうが、それ故にこの映画には、ウッドストックとその時代に対する客観性と共に、ある種の憧憬がにじみ出ている。

主人公のエリオットは、いわば精神的な引きこもりだ。
母親は、ホロコーストを逃れ、アメリカにやって来たユダヤ系移民でとても気難しく、そんな彼女と40年以上一緒にいる無口な父親は、そもそも何を考えているのかわからない。
どう考えても客商売向きとは思えない両親の経営するおんぼろモーテルは、普通に考えればとっくに破綻しているが、それでも彼は全財産を投じて救おうとする。
エリオットは、自分に依存する両親に対する義務感と、彼自身の人生の間で板ばさみとなり、どこにも行けなくなってしまっているのである。
そんな彼の元に現れるのが、ウッドストックのプロデューサーであるマイケル・ラングだ。
実はエリオットとは幼馴染でもあるマイケルは、ウッドストックのために巨額の資金を動かし、前代未聞の規模のイベントを指揮しているにも関わらず、ネイティブアメリカンの様なファッションに身を包み、馬に乗って準備の進む会場を颯爽と闊歩するヒッピーでもある。
日常の閉塞感に苛まれるエリオットにとって、ラングの姿はまるで草原を流れる風の様に自然に見えたのであろう。

ウッドストックを誘致した事によって、時代を作るムーブメントの中に放り込まれたエリオットは、様々な価値観を持つ人々との交流によって、少しずつ殻を破りはじめ、本来の自分を解放してゆく。
そして、それはエリオットだけに起こった事ではない。
時の神に忘れられた様な田舎町に、50万人の若者と共にやって来たウッドストックという“時代”は、否応なしにそこに住む住人をも巻き込んでゆく。
ある者はヒッピー達の文化に感化され、ある者は純粋に楽しみ、またある者は反発する。
頑ななエリオットの両親も、この巨大な時代の流れの中で、それまで見せる事のなかった意外な内面をエリオットにさらけ出し、親子の関係も新しい一歩を踏み出す事ができる。
同じ1969年に起こった、もう一つの大事件であるアポロ11号の月着陸が、全世界の人々の価値観を少しだけ変えたように、当時を知る人たちの多くは、ウッドストックの前と後では何かが変わったと言う。
それが何かは個人によって違うだろうが、色々な意味で変化を一番如実に感じたのが、あの現場にいた人々なのだろう。
エリオットがゲイである事は、物語の中で突然明かされるが、それは彼が自分自身の始めた大革命の中で、あるがままの自己を遂に解き放ち、自らのアイデンティティを確立した事を意味する。
間違いないのは、一度時計の針が進んでしまった以上、それ以前には決して戻れないという事だけである。

ちなみに、本作は「ウッドストックがやってくる!」というタイトルながら、肝心のコンサートのシーンは全く出てこない。
何しろ会場は50万人近い人で埋め尽くされ、更に周辺の道路には入りきらない100万人が大渋滞中なので、ステージに近づく事すらままならない。
会場を訪れたエリオットも、結局一度もステージを見ることは無いまま祭は終わってしまう。
まあこのあたりの描写は、権利関係の問題もありそうだが、結果的にはこれでよかったと思う。
なぜなら、これはウッドストックで繰り広げられたパフォーマンスを描く音楽映画ではなく、時代の大きな変化に関わったごく普通の人々が、いかにして自己変革を経験してゆくかを描くヒューマンドラマだからだ。
故に、本作におけるコンサートのステージは、現実とは逆に物語のビハインド・ザ・シーンに過ぎないのである。
同じ意味で、コンサートとしてのウッドストックが大赤字で終わり、その返済に十年以上費やした事や、マイケル・ラングが設立した運営会社の内紛劇、その後ホワイトレイクのあるベッセル町が大規模コンサート禁止条例を可決した事実なども描かれない。
それらは、ウッドストックの一部ではあるが、エリオットや両親の人生には無関係だからだ。

全てが終わった後で、マイケル・ラングがエリオットに、カリフォルニアでローリング・ストーンズの無料コンサートをやるから来ないか?と誘うシーンがある。
これはウッドストックから四ヵ月後に開催され、コンサートの警備を担当していたヘルスエンジェルスのメンバーに観客の一人が殺害された、“オルタモントの悲劇”として知られる事になるコンサートである。
ウッドストックが時代を象徴する音楽の光なら、こちらは影だ。
このオルタモントのコンサートを記録した傑作ドキュメンタリーが、「ギミー・シェルター」であり、こちらにはカメラマンとして当時25歳のジョージ・ルーカスが参加している。
スコセッシにルーカスら、1940年代生まれの所謂ハリウッド第9世代の作家達の、創作の原点としてこの時代を眺めると、また別の意味で興味深い。
本作を楽しめた人には、是非ドキュメンタリー映画の「ウッドストック」と「ギミー・シェルター」を合わせて観賞する事をお勧めする。
なぜ、1969年が音楽のみならず、文化史上のターニングポイントと言われるのかが、リアルにイメージできると思う。

時代の空気を存分に味わった後は、本当はマリワナ入りビールでも飲みたいところだが、日本でそれをやると大変な事になってしまうので、普通のビール。
ウッドストックのあるニューヨークの地ビール「ブルックリンラガー」をチョイス。
1998年に創業した新しい銘柄だが、元々ニューヨークには禁酒法以前に多くのブルワリーがあったそうで、その当時の伝統的な手法と味をイメージしているという。
色は美しいダークアンバーで、とてもフルーティでありながら、キリリとした苦味が特徴と言えるだろう。
これならマリワナなしでも幸福にトリップできそう。

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ソーシャル・ネットワーク・・・・・評価額1750円
2011年01月17日 (月) | 編集 |
全世界に5億人の会員を持つ、世界最大のソーシャルネットワークサービス“フェイスブック(FACEBOOK)”の誕生を描くノンフィクション。
鬼才デヴィッド・フィンチャーは、ハーバードの学生だったマーク・ザッカーバーグが、如何にしてこの巨大な“ともだち製造ネットワーク”を作り上げ、その成功の過程に何を得て、何を失ってきたのか、天才ゆえの葛藤と孤独を浮き彫りにする。
昨年秋に本国で公開されて以来、ゴールデングローブ賞、全米映画批評家協会賞を初め、賞レースでトップをひた走っているが、なるほどその出来栄えは期待に違わぬもの見事なものだ。

2003年晩秋。
ハーバード大に通うマーク・ザッカーバーク(ジェシー・アイゼンバーグ)は、交際していたエリカ(ルーニー・マーラー)に振られる。
マークはその腹いせに、学校中の寮のサイトにハッキングし、女子学生の写真を公開し、ランク付けする“フェイスマッシュ”と言うサイトを立ち上げる。
この一件でマークは懲罰を受けるが、僅かな時間に脅威のアクセス数を集めたマークの名前は、ハーバード中に知れ渡る。
ちょうど学生用のSNSを立ち上げようとしていたウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)は、マークにプログラマーとして参加を呼びかけるが、彼らの話からヒント得たマークは、親友のエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)らを誘って、さっさと新しいSNS“ザ・フェイススブック”を立ち上げてしまう。
会員は右肩上がりに増加し続け、新たなビジネスチャンスを探していたマークの前に、“ナップスター”の創業者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)が現れる。
壮大な野望を語るショーンにすっかり感化されたマークは、会社をシリコンバレーに移転させるのだが、それは巨大な成功の始まりであると共に、大切な友情の終わりでもあった・・・・


いやはや、これが天才達の世界というものか、我々凡才とは最初から見ている世界のスケールが違うのである。
起業するからには、数100万ドルなんて問題にならない。目指すは数10億ドル、いや100億ドル。
大学内の小さなコミュニティーからスタートして、僅か数年で世界市場を支配する。
多分、あらゆる産業の中でも、こんな事が可能なのはネットの世界だけで、だからこそ天才達はこのヴァーチャルな空間に引き寄せられて行くのだろう。
本作の主人公、マーク・ザッカーバーグも、そんな現在の錬金術を成功させた一人。
フェイスブックの創業から僅か6年にして、会員数は世界207カ国に5億人、会社の時価総額は250億ドルで、個人資産だけでも60億ドルというのだから驚きだ。

何よりもこの男、個性的過ぎるキャラクターがインパクト抜群。
映画は、マークがガール・フレンドのエリカに振られるシーンから始まるが、彼はとにかく頭は良いものの思考が超ロジカルで、相手の人間的な感情を考える事が出来ない。
彼の繰り出す言葉は的確ではあるが、一言一言が鋭いナイフの様に相手の心を傷つけてしまう。
ちょっとアスペルガー症候群を感じさせる性格だが、彼女とのデートでディベートみたいに相手を論破しちゃダメだという事が、どうも彼には理解できない様なのだ。
また、天才を自認しているが、同時に自分がひ弱なオタクである事も十分に理解しているマークは、マッチョな肉体を持つ同性に対する劣等感も併せ持ち、その事がボート部の選手でもあるウィンクルボス兄弟に対する曖昧な態度にも見て取れる。
まあ、はたから見てるには面白いキャラクターだが、振られた後の行動を見ても、多くの観客にとっては、少なくとも積極的に友達になりたいタイプではないだろう。

それにしても、世界を巻き込む巨大なムーブメントが、女の子に振られた腹いせから始まったというのが、何とも面白い。
物語はフェイスブックが大成功を遂げた後に起こされた二軒の訴訟の顛末と、ハーバードの学生寮で起業してから、どの様に成功して行ったのかという物語が、時系列を行きつ戻りつしながら並行して語られてゆく。
一件目の訴訟では、マークに自分達のサイトのプログラムを依頼したウィンクルボス兄弟から、アイディア盗用で訴えらおり、二件目では共同創業者であったはずのエドゥアルドから、何故か6億ドルという巨額の訴えを起こされている。
脚本のアーロン・ソーキンは、訴訟の進行を見せる事で、一体何故この様な事になってしまったのだろうという興味を観客に抱かせ、その答えを過去の物語として見せる事で物語を紡いで行く。

ウィンクルボス兄弟との訴訟は、そもそも発明は誰の物かが争点。
映画が事実なら、確かにマークは兄弟のアイディアからヒントを得ているのだから、アイディア盗用は否定できないところだろう。
だが、アイディアがあるという事と、それを発展させ実現できるという事は別の話。
フェイスブックは自分達のアイディアだと主張する兄弟に、マークは「なら作ってみろ!」と言い放つ。
まあ著作権を巡るこの手の訴訟は、ネット関係に限らず数多く、中にはとりあえず訴えてみる的な物もあるから、裁判の議論自体はありふれたものだ。
ただ、アイディアは貴重だが出発点に過ぎず、結果的に何を成し遂げたのかこそが一番評価されるべきだと言うマークの考えは、多分に独善的ではあるが、ものづくりに携わる全ての人間に対して重要な示唆に富む。

一方で、エドゥアルドとの訴訟は、いわば友情と創造の葛藤とも言うべきもの。
フェイスブックが成功するにつれて、広告ビジネスを展開させ利益を生むべきだと主張するエドゥアルドと、クールさにこだわり広告を拒否するマークとの間で亀裂が広がって行く。
エドゥアルドとしては、自腹を切ってフェイスブックの運営資金を出しているのだから切実だ。
ここで登場するのが、ナップスターの創業者、ショーン・パーカー
かなり胡散臭い人物として描かれているが、実際にネット世界に一時代を築き、CDの小売から配信へと音楽業界のスタイルを激変させた男の言葉に、マークはすっかり感化されてしまう。
類は友を呼ぶというのか、この二人の出会いとフェイスブックの急成長はやはり、時代の必然だったのだろう。
前記した言葉で言えば、エドゥアルドは数100万ドルの成功を夢見ていたが、ショーンは同じ天才であるマークに、100億ドルの夢をリアルに感じさせたのだ。
だが、亀裂が決定的になるのは、西海岸に拠点を移したマークと、東海岸に住むエドゥアルドの距離がもたらしたすれ違いの結果、激高したエドゥアルドが資金を凍結したから。
いつでも、どこでも繋がれる事が売りのネット企業の内紛が、現実の距離に左右されるというのは、何とも皮肉だ。
結果的にマークは、5億人のともだちとヴァーチャルに繋るシステムと引き換えに、一番身近なリアルな友情を失ってしまうのである。

主演のジェシー・アイゼンバーグ、「ゾンビランド」の好演が記憶に新しいが、オタクっぽいヘタレ男を演じさせたら今や世界一だ。
本作では、天才の内面に隠された、孤独の深淵を感じさせて秀逸。
自らが作り上げたフェイスブックのサイトを見つめる、ラストの様々な感情を秘めた何ともいえない表情は、深い余韻を感じさせる。
彼の親友であり、フェイスブックの成功と共に袂を別つ事になるエドゥアルドは、次期スパイダーマンの アンドリュー・ガーフィールドが演じる。
エドゥアルドは、凡才と天才の境界上にあって、あちらの世界に行き切れなかった男であり、おそらくは観客にとって一番感情移入しやすいキャラクターだろう。
観客は、彼を基点に物語を眺めることで、やや引いた視点からマークというエキセントリックなキャラクターを理解し、間接的に感情移入する事が出来るのである。
逆に、完全に行っちゃってるのが、ジャスティン・ティンバーレイクが好演を見せるショーン・パーカーだ。
天才だが、経験の浅いマークにとって、ネットの荒波で百戦錬磨の彼は、天使であり悪魔でもある。
100万ドルより100億ドルをという彼のエネルギッシュな野望に感化されなければ、多分フェイスブックの大ブレイクも無かったのだろう。
そして、フェイスブック誕生の切っ掛けでもあるエリカを演じるのは、「エルム街の悪夢」でナンシーを演じたルーニー・マーラー
出演シーンは僅かだが、マークの心の奥に秘められた“本当に欲しかったともだち”の象徴として描かれ、強い印象を残す。

「ソーシャル・ネットワーク」は、デヴィッド・フィンチャーが、マーク・ザッカーバーグという時代のアイコンを使って、ネット社会の孤独と葛藤を描いた秀作だ。
巧みな脚本構成とテンポの良い演出・編集の技もあって、120分は「もう?」と思うくらいにあっという間。
だが、この映画の真の味わいは、映画を観ている間よりも、むしろラストの余韻がジワジワと観客の心に染み渡り、色々な事を考えさせる観賞後にあると思う。
実際、私は観終わって数日たってもう一回観たくてたまらなくなった。
ほぼ全世界を網羅する“ともだち製造ネットワーク”を作り上げた一人の天才。
しかし、その成功と引き換えに、彼の心には一体何が残ったのか。
ヴァーチャルな接点を提供するSNSという存在を通して、今の時代を切り取りながら、逆説的に個の内面に迫ったロジックは見事。
ただし、それ故にこの映画には、ネット社会というモチーフに対するマクロ的な視点は希薄だ。
実在の人物の現在進行形の物語の前章という、正に情報がリアルタイムで伝わる今風の捕らえ方ながら、作品の作りは極めて古典的で正攻法の人間ドラマである。
だからこそ、誰にとってもとても観やすい作品になっているのだけど。

本作の中盤、ハーバードを訪れたビル・ゲイツの講義を、マークたちが聴講しているシーンがある。
盛者必衰のIT業界、これは時代の潮目を象徴的に描いた秀逸なシーンだが、今この映画を観ながら100億ドルの夢を描いてる次世代の天才も世界のどこかにいるのだろう。
主演のアイゼンバーグによると、マーク本人は本作を映画館を借り切って社員と共に観賞したと言う。
はたして時代の寵児は、スクリーンに描かれた自分自身をどう観たのだろうか。

今回は、映画に描かれたサクセスストーリーにはだいぶ桁が足りないものの、「ミリオネアー」をチョイス。
ラム15ml 、スロー・ジン15ml、 アプリコット・ブランデー15ml、 ライム・ジュース15mlまたは1個 、グレナデン・シロップ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
ギラギラした名前の割にはフルーティでさっぱりしたカクテルで、適度な甘みライムの酸味が心地良い。
まあ、ビリオネアは無理にしてもミリオネアくらいには成りたいものだ。

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スプライス・・・・・評価額1300円
2011年01月13日 (木) | 編集 |
科学には、決して犯してはなならないリミットがある。
「CUBE」ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の最新作は、人間と動物の遺伝子を結合させた新種のキメラ生物を創造し、神の領域に踏み込んでしまった科学者夫婦の辿る、恐るべき運命を描くバイオSFホラー。
タイトルの「スプライス(Splice)」とは、つなぎ合わせるという意味で、本作の場合は遺伝子を切り貼りする事を指す。

科学者のクライヴ(エイドリアン・ブロディ)とエルザ(サラ・ポーリー)は、製薬会社のために遺伝子操作によって薬効成分を作り出す新種の生物を開発している。
二人は目覚ましい成果を上げるが、会社は研究の凍結と生産段階への移行を命令。
納得出来ないエルザは、会社に隠して人間の遺伝子を組み込む実験を行う。
はじめは胚の着床が確認出来た時点で、実験を中止するはずだったが、成長が予想外に早く、人間とげっ歯類のハイブリッドの様な、奇妙な生物が生まれてしまう。
次第に人間の特徴を現しはじめるそれに、エルザはドレン(デルフィーヌ・シャネアック)という名前をつけて可愛がるのだが・・・


観る前から既視感バリバリの一本だ。
遺伝子操作で生まれた女性型ミュータントという設定は明らかに「スピーシーズ 種の起源」を連想させるし、虫の様な幼体が脱皮して、内部からヒューマノイド型の生物が出現するのは「エイリアン」そのもの。
ドレンが、肉体の異常な成長速度に心が追いつかず、創造主へ倒錯的想いを抱くあたりは、バーバラ・カレラがセクシーな人造美女を演じた「エンブリヨ」あたりが元ネタか。
全体に、ナタリ監督の過去のSFホラー映画への偏愛が色濃く出ている印象だ。

もっとも、話そのものは結構な独自性を発揮している。
本作の主人公はクライヴとエルザの科学者夫婦と、彼らの創造物であるドレンだが、物語のコアは明らかに女性二人である。
クライヴは、どちらかと言えばエルザが勝手に進めた実験の結果に、優柔不断に巻き込まれるだけの存在であり、物語を主導する立場には一度も立つ事は無く、印象の薄いキャラクターだ。
エルザは、少女時代の亡き母親との歪んだ関係がトラウマとなっていて、それ故に子供を欲しがるクライヴの気持ちに答える気になれない。
母と同じ過ちを自分も繰り返してしまうのではないかと、無意識に恐れているのである。
エルザが突然暴走してドレンを創り出すのは、科学者としてのキャリア的野心以上に、創造主として完全にコントロール出来る、子供の代用品を欲する気持ちの現れと言えるだろう。
実験の思わぬ結果に恐れ戦くクライヴとは対照的に、まるで母親の様にドレンを愛するエルザの態度、そして物語の中盤で明かされる、ドレンに使われた人間の遺伝子は、エルザ自身の物だったという秘密は、二人の関係が言わば親子のシミュレーションである事を端的に示している。

だが、次第にドレンが成長し、人間の娘同様に従順な存在でなくなると、エルザは優しい母親から強権的支配者へと変化し、ついに成長したドレンがクライヴを誘惑するに至って、彼女はエルザにとっては、忌むべき自分自身のニセモノになるのである。
ヴィンチェンゾ・ナタリ監督は、元々特殊なシチュエーシュンに人間を追い込んでの心理劇を得意とする。
ドレンが成長した事で、研究所内では隠せなくなり、嘗てエルザが母と暮らした農場が、物語後半の舞台となるのは象徴的だ。
機械じかけのキューブや精神の迷路の代わりに、登場人物たちが追い込まれるのは、母娘のトラウマの詰まった記憶の館
本作は過去の多くのSFホラーの映画的記憶を無造作に詰め込んではいるものの、本質的にはエルザとドレンという同質性をもった二人の女性によって、母性の狂気とエゴイズムを描いた心理的葛藤劇なのである。

故に、ドレンが一度死んだ後で“ある存在”となって蘇る、いかにもB級ホラー的なクライマックスは物語的には中途半端な蛇足であり、一応途中に伏線は張ってあるものの、それまでの流れからは全く異質に思える。
思うに、このクライマックス部分は、作者が一番最初に構想した段階では無かったのではないだろうか。
これは私の想像だが、恐らくはクライヴの子を宿したドレンが死に、複雑な感情の葛藤を抱えたエルザが生まれた子を受け継ぐといったオチだった気がする。
ドレンの子はある意味でエルザ自身の子に他ならないのだから、図らずも彼女は合わせ鏡の自分によって子を授かる事になる。
擬似的な母娘の精神的葛藤から、やがて遺伝子の中に自分自身を感じ、もう一人の自分と対峙するという物語の構造からは、いきなりまったく別種の存在になってしまうよりも、物語のテーマには直結するはずである。
ただ、それだとホラー映画としてはあまりにも地味で、見せ場らしい見せ場もないまま終わってしまうので、苦肉の策として現状のオチが作られたのではないだろうか。

思うに、「スプライス」は、独特のムードを持ったSFホラーとして一見の価値はある作品だ。
母性と科学の狭間に生まれた悲しきクリーチャー・ドレンと、母でもある科学者・エルザの心理劇としてはなかなかに見応えがある。
だが、かなりアバウトに詰め込まれた映画的記憶は、観客が物語に入る前に既視感を感じさせてしまうし、かなり強引にB級ホラー的な展開に持ってゆくクライマックスは、物語の本質から乖離している。
テーマへのアプローチは面白いし、部分部分を観ると決して悪くは無いのだけど、全体を俯瞰すると今一つ芯が定まらず、薄味な印象になってしまったのはちょっと残念だ。

ドレンを演じたデルフィーヌ・シャネアックはフランス出身の女優。
今回は、フランスを代表するリキュール、クレーム・ド・カシスを使った「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット15ml、クレーム・ド・カシス15mlをステアしてグラスに注ぐ。
柔らかで、豊かな香りが特徴の、華やかなカクテルだ。
本来は食前酒だが、少し混乱した映画の後味を、爽やかに整えてくれるだろう。

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アンストッパブル・・・・・評価額1650円
2011年01月08日 (土) | 編集 |
全長800メートル、有毒物質を満載し巨大なミサイルと化した暴走列車を止めろ!
トニー・スコット監督デンゼル・ワシントンの5度目のコンビ作は、前作「サブウェイ123 激突」に続いてまたも列車物。
未曾有の大惨事を止めるために、退職間近のベテラン運転士と新米車掌のコンビが命がけの作戦に挑むパニック映画だ。
余計な物が一切無いシンプルなプロットに、必要最低限ながら的確な人物描写、実物の巨大列車を効果的に使った迫力の映像と、プロフェッショナルな職人芸の光る快速エンターテイメントとなった。

ペンシルバニアの操車場。
接着剤の原料である劇薬を満載した巨大な貨物列車『777』号が、無人のまま走り出してしまう。
鉄道会社の停止作戦は、尽く失敗に終わり、列車は勢いを増したまま走り続ける。
このままでは、一時間四十分後に人口密集地のカーブを曲がりきれずに転覆し、大惨事を引き起こすのは必至。
その頃、別の貨物列車を運行していたベテラン運転士のフランク(デンゼル・ワシントン)と新米車掌のウィル(クリス・パイン)は、故郷の街に危機が迫っている事を知り、貨車を切り離すと会社の命令を無視して暴走する『777』を追跡し始める。
彼らだけが可能な、列車を止める作戦とは・・・。


暴走列車物は案外と難しい。
列車内に舞台を限定すると、どうしても一本調子になるので、サスペンスだったり、人間ドラマだったり、大きなストーリーラインの中の一つの要素として扱われる作品が多い。
「サブウェイ123 激突」もそうだったし、日本映画が誇る列車パニックの傑作「新幹線大爆破」も同様だ。
ところが、この映画にはサブストーリーが全く存在しない。
正に「アンストッパブル」な巨大列車が暴走し、それを止めるために二人のヒーローが命がけで大奮闘する。
彼らの作戦とは、暴走列車に追いついて連結させ、後ろから引っ張って止める。
簡単に言えばそれだけの話である。
シンプルであるという事は、つまり単調である事と同義だ。
下手に描けば、いくら画に迫力があろうが、退屈極まりない作品になってもおかしくない。

本作のモデルになっているのは、2001年にオハイオ州で実際に起こった列車暴走事故。
有毒物質を満載して走る無人の列車を、本作と同じ方法で危機一髪停止させた顛末は、日本のテレビ番組でも放送されたので、覚えている人も多いだろう。
本作に描かれる登場人物は基本的に架空の存在だが、人為ミスと不運が重なった事故原因や、脱線装置が列車のパワーに負けて失敗した事、そして追跡した機関車のクルーがベテラン運転士と新米車掌だった事など、事故の基本的な流れとディテールはかなり忠実に描かれている様だ。
ちなみに実際の事故では、死者は出ていない。

脚本のマーク・ボンバックは、妙な色気を出さずに事実からコア要素を抽出し、暴走する列車とそれを止めようとする人々、特にフランクとウィルの周囲だけにドラマの焦点を絞った。
二人は黒人と白人、ベテランとルーキーと対照的なキャラクターだが、共通点もある。
それぞれに少し問題を抱えているものの愛する家族を持ち、鉄道マンとして仕事に誇りを感じているブルーカラーだ。
フランクと年頃の二人の娘たち、ウィルと深刻な夫婦喧嘩中の妻とのエピソードは、ごく短いながらも彼らの英雄的な行動の動機となり、また物語をドラマチックに盛り上げるのに効果をあげている。

暴走列車と追跡する二人鉄道マンのドラマが全体を貫く中心軸だとすると、鉄道司令室と会社上層部の思惑の違いによる葛藤や、現場で列車を追跡するエンジニアのエピソードは横軸だ。
ここでもしも物語に深みを出そうとして、横軸の人間ドラマを膨らませてしまったりしたら、全体がぶれてしまうところだが、ボンバックは良い意味で職人に徹している。
暴走列車の追跡劇から、軸足を決して動かさず、適度に横軸を交錯させる事で、物語が単調に陥るのを防ぎつつも、サスペンスをさらに盛り上げる。
二段構えのクライマックスで、二人の主人公を両方とも立てる使い方のバランスもお見事。
シンプルではあるが極めてロジカルで、構成のお手本の様な優れたプロットだ。

トニー・スコットの演出も、主人公の二人をじっくり見せながら、事故を中継するメディアの映像を短いカットで効果的に織り込む事で、迫力とスピード感を維持しながら、画作りに適度な緩急をつけている。
もちろん、悪魔の様な凶悪な面構えに『777』という銀河鉄道みたいな車番をつけた、暴走列車のビジュアルは迫力満点だ。
機関車三両を連ねた巨大な体躯は、正に動く要塞と言うに相応しく、こんな物が暴走し始めたら、何をどうやっても止めることは不可能に思える。
『777』が膨張色の赤と黄色にペイントされている一方、追跡する機関車の方は縮小色の青色で、実際に一回り小型である事で生まれる対比も、挑むべき相手の強大さを際立たせており、デザイン効果もさすがに良く考えられている。
クライマックスの急カーブを通過するシーンは、映画だとわかっていても拳を握り締めてしまった。

「アンストッパブル」は、古典的なパニックスペクタクル映画としては、非常に良く出来た一本である。
シンプルな分、舞台が限定的なので、大作感はにはやや欠けるが、その分ピュアに引き締まった物語は、一切の無駄が無く極めてサスペンスフル。
刻々と迫り来る危機へのスリルに、98分間という短めの上映時間はあっという間に通り過ぎ、絵に描いたようなハッピーエンドは爽やかだ。
新年の景気付けにはピッタリの作品ではないだろうか。

アメリカには、日本の様なハイテク超特急は無いが、開拓時代の名残を残す大らかな大陸横断鉄道が張り巡らされている。
今回は、ゴールドラッシュの時代に蒸気機関車が目指した地、サンフランシスコの地ビール「アンカースチーム」をチョイス。
100年以上の歴史を持つ伝統的なスチームビールの銘柄は、ラガー的なキレとエール的なフルーティーなコクを併せ持つ。
緊張感で乾いた喉を潤してくれるだろう。

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