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時代劇ならそれこそ無数の作品が作られているし、現代劇では現役の女王を主人公にしてしまった「クィーン」が記憶に新しい。
今回、俎上に載せられるのは、そのエリザベス女王の父君に当たる“善良王”ジョージ六世。
吃音の障害に苦しみ、望まぬ王位につかねばならない王子が、自らの運命と葛藤しながら、困難を克服して本当の王になってゆく物語だ。
本年度米アカデミー賞で作品賞他四冠、英アカデミー賞七冠を達成した話題作である。
英国王ジョージ五世の息子、ヨーク公アルバート王子(コリン・ファース)は、幼い頃から吃音障害があり、人前で上手く話せなかった。
妻のエリザベス妃(ヘレナ・ボナム=カーター)は、夫のためにオーストラリア人の言語療法士ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)を探し出す。
相手が王族でもまったく遠慮しないローグに、最初は反発するアルバートだったが、徐々に症状は良くなっていく。
だが、王に即位していた兄のエドワード八世が、離婚暦のあるアメリカ人女性シンプソン婦人と恋に落ち、突然退位を表明した事で、アルバートは思いがけずに王位を継ぐ事になってしまう。
時は風雲急を告げる第二次世界大戦前夜。
ナチスドイツの脅威の前に、人々は国の象徴たる王のリーダーシップを切望している。
果たして新王ジョージ六世は、吃音を克服して国民に力強く語りかけることができるのだろうか・・・
人物造形の、お手本の様な脚本である。
映画は、後にジョージ六世となるヨーク公アルバート王子が、大英帝国博覧会のスピーチで大失態をやらかすシーンから幕を開ける。
生来生真面目なうえに、吃音のコンプレックスから、引き篭もりがちで内向的な性格になった王子を救うのは、言語療法士のローグだ。
古びた雑居ビルで診療室を営むローグは、オーストラリア人の元兵士で、シェイクスピアに憧れる役者崩れでもあるという、色々な意味で王子とは対照的なユニークな人物に描写されている。
吃音矯正が仕事のローグが、オーストラリア訛を理由に芝居のオーディションに落とされるという、いかにも英国らしいシニカルなシーンもある。
彼は王族であっても患者を特別扱いせず、王子をバーティというあだ名で呼び、自分の薄汚いボロ診療室に呼びつける。
当然王子は反発するが、型破りな治療の効果を目の当たりにして、徐々にその閉ざされた心を開いてゆく。
ローグは「生まれつき吃音の子供はいない」と言う。
王子は、幼い頃から厳格な父王に抑圧され、乳母には虐待を受けて育った。
深層意識の中で傷ついた心が、吃音という障害になって現れているのである。
治療を通じて、王族に生まれた者の癒しようのない孤独と、秘められた心の傷を知ったローグは、やがて王子と友情によって結ばれ、言語療法士と患者の関係を超えて一人の友として彼を支える様になる。
対照的な二人の主人公を演じる、コリン・ファースとジェフリー・ラッシュを初め、エリザベス妃には久しぶりにエキセントリックじゃないヘレナ・ボナム=カーター、チャーチルにティモシー・スポール、エドワード八世にガイ・ピアース、ジョージ五世にマイケル・ガンボン、カンタベリー大主教に「ヒア アフター」に本人役で出演していたデレク・ジャコビと、まさに錚錚たる英国オールスター総出演だ。
もっとも、彼らの出演シーンは人によっては僅か数分という贅沢さで、物語の大半を占めるのはアルバート王子とローグの掛け合いによる会話劇。
王子は吃音なので、当然なかなか言葉が出てこない“間”がかなりの部分を閉める。
この映画は、無言の時間の見せ方が絶妙である。
俳優たちも見事だが、抜群のタイミングでカットを紡いでゆく演出と編集の技術も相当なものだ。
38歳の俊英、トム・フーパー監督は自主映画からCMを経て、映画監督になったそうだが、この繊細な繋ぎの技術は、十数秒間に全てをかけるCMディレクターならではのセンスだろう。
ただ、逆に全体の流れにはもう少し緩急をつけても良かったかもしれない。
物語は王子とローグの関係を軸に、父王の死や兄エドワード八世の所謂“世紀のロマンス”による退位、迫り来る戦争の危機などを背景に展開するが、中盤はエピソードの処理が丁寧過ぎて、ややもたつく印象がある。
退位騒動のあたりからは、もう少し畳み掛けるように物語をペースアップしても良かった様に思う。
ローグの治療によって、だんだんと言葉が出るようになった王子は、ついに兄の退位によって国王ジョージ六世となり、ウェストミンスター寺院での戴冠式の宣誓も何とか無難にこなす。
その戴冠式のニュースフィルムを観ていた王が、続けて上映されたヒットラーの演説に「演説が上手い」と驚嘆するシーンがある。
そう、時はナチスの猛威がヨーロッパを覆い尽くそうとする時代。
国家元首であるジョージ六世のライバルは、“演説の天才”ヒットラーなのである。
この映画の作り手が、あえてクライマックスを戴冠式ではなく、開戦を告げる戦争演説にした理由は、一つには時代性を明確化できる事、もう一つは戦争演説こそが王たる者がその義務と孤独を一番に感じる瞬間だからだろう。
英国の王政が、長い歴史の中で国民の一定の支持を得て生き残ってきたのは、戦争の様な国難において先頭に立つ、ノーブル・オブリゲーション(高貴なる義務)を果たすからである。
戦争が複雑に、大規模になった近代においても、その精神的意義は変わらない。
ジョージ六世は海軍士官でもあり、娘のエリザベス二世も第二次世界大戦末期に女子国防軍に入隊し軍務についている。
開戦を告げるスピーチは、英国民に当てた言葉であるのと同時に、海峡の向こう側にいるヒットラーに向けた不屈の宣言だ。
嘗て戦場を駆けた歴代の王と同じく、彼の言葉は英国の先陣を切って海を渡り、彼は初めて王としての職責を果たしたのである。
「英国王のスピーチ」は、いかにも英国の映画らしいウィットに富み、人間としての国王を暖かい視線で描いた秀作だ。
「ソーシャル・ネットワーク」を抑えて、本作がアカデミー賞を征した事で、保守が革新に勝ったという見方もある様だが、私は別に本作が保守的で「ソーシャル・ネットワーク」が新しいとは思わない。
あの映画は確かにフェイスブックという旬なネタを扱ってはいるが、映画としての作りは極めて正攻法のオーソドックスなハリウッド映画で、作劇的にも演出的にも特に新しくはない。
逆に本作は、王室物という定番のモチーフを題材にはしているが、その視点は過去に例の無い物だ。
この二本の間には、新しいモチーフを古典的な手法で描くか、古いモチーフを新しい視点で切るかという違いしかなく、どちらにも古さと新しさが同居しているからこそ、とても観易いのだ。
それぞれにアメリカ的なるものとイギリス的なるものを楽しむ事の出来る、非常に良く出来た娯楽映画である。
今回は、ブレンディッド・スコッチの名品、「シンジケート58/6」をチョイス。
奇妙な名前は、1958年に6人の仲間によって、自分たち専用のスコッチを造るためのシンジケートが結成された事に因む。
シングルモルト18銘柄とシングルグレーン2銘柄をブレンドした味わいは、非常に上品でまろやか。
正に王の酒にふさわしい。
ちなみに1958年は、チャールズ皇太子が立太子した年である。
果たして本当に彼が次の国王になるのか、イギリス映画界が次にネタにするのは王位継承問題あたりかもしれない。

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![]() シンジケート58/6 17年 |


よく太平洋戦争を紹介する文章などで、沖縄戦を「日本唯一の地上戦」と紹介している物があるが、それはあくまでも現在の日本領として考えた話で、実際には当時日本領であった多くの土地で戦いがあった。
本作で描かれるのは、太平洋戦争で最後の地上戦が行われた南樺太の物語である。
ソ連と国境を接する、南樺太の真岡。
この街の郵便局には、電話交換手として班長の律子(二木てるみ)ら多くの若い女性たちが務めていた。
広島が新型爆弾で消えたという噂に人々が動揺する中、真岡上空にソ連軍の偵察機が飛来、国境には戦車部隊が集結していた。
そして突然の宣戦布告とともに、南侵を開始するソ連軍。
多くの住民が難民化し大混乱する中、律子たちは人々の生命線である電話を守ろうと、職場にとどまる決意をするのだが・・・
作り手の「これだけは伝えたい、伝えなければならない」という強い意思の伝わってくる力作だ。
映画は、樺太を望む稚内の岬に立つ記念碑、”氷雪の門”の解説からスタートする。
終戦の時点で、南樺太には約四十万人の邦人が住んでおり、彼らは8月9日から始まったソ連軍の侵攻によって故郷の地を永遠に追われ、数千人が命を落とした。
この門は単に北海道の最北端を示す物ではなく、故郷樺太への望郷の門であり、かの地で亡くなった魂を迎える鎮魂の碑なのである。
そして氷雪の門の傍の小さな慰霊碑には、真岡郵便局の電話交換室に最後まで留まり、ソ連軍に包囲されて自決した9人の乙女たちの名が刻まれている。
彼女たちが死を選んだのは、天皇の玉音放送が流れてから5日後の事だ。
物語は、真岡で電話交換手として働く女性たちを中心に、当時樺太にいた軍民の多くの登場人物による群像劇として展開する。
村山三男監督は、前線で絶望的な戦いに挑む兵士、患者を優先して逃げ遅れた病院の看護師、難民をピストン輸送する機関車の運転士、子供を抱えて逃げ惑うしかない母親ら、ごく一般的な樺太の住人たちそれぞれの戦争を丹念に描く。
樺太は国境の島とは言っても、日ソ中立条約があったお陰で戦火に見舞われず、疎開地になっていたほどである。
それだけに、平穏な日常があっという間に破壊され、人々が数日前には予想だにしなかった地獄へと追いやられる描写は痛々しい。
だが、本作は悲劇性をひたすら強調する反戦映画とは一線を画する。
企画者であり、プロデューサーの望月利雄は、当初八木保太郎と松山善三に脚本を発注したが、余りにも反戦的に偏っていたために、改めて金子俊男のノンフィクションを元に、国弘威雄に脚本を依頼し、完成させたという。
そのためか、本作には悲劇の責任を押し付けられる、“憎まれどころ”が登場しない。
まあ見事なまでの鬼畜っぷりを発揮するのはソ連軍だが、彼らはあえて個性の見えない“嵐”の様な存在として描写されているので、所謂悪役とはまた異なる。
それだけに、憎しみをどこにも持ってゆく事ができず、戦争その物の理不尽さ、やるせなさが強調されるのである。
実は、本作を観て連想したのは、過去の戦争映画ではなく、「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」だ。
どちらの作品も、日本人がすっかり忘れ去ってしまった、しかし決して忘れてはならない、日本人の戦争を描く歴史秘話であり、日本の戦争映画が陥りがちなイデオロギーの呪縛から解放されている。
映画に描かれているのは、戦争という現実に直面した人々が、個人としていかに振舞ったかという人間性に基づく物語で、彼らそれぞれの生と死というミクロを描く事により、戦争の時代というマクロが見えてくるという構造を持つ。
この作品は1974年に制作され、当初は東宝系劇場での公開が決まっていたものの、当時のソ連モスフィルムの関係者が「内容が反ソ的」と発言した事から、合作企画を抱えていた東宝が撤退し、後に東映洋画系に拾われる形で公開されたが、109分に短縮された上に、全国でわずかに二箇所で二週間限定公開となってしまった。
結果的に当時ほとんど観た者もおらず、ソフト化もされていなかったので、長らく幻の映画となっていた。
ようやく昨年になって、太秦株式会社によって119分の再編集版が36年振りに公開され、限定的ながら今回の153分の全長版上映に繋がったという訳である。
関係者の熱意には、本当に頭が下がる。
今回の上映会には太秦の小林社長と主演の二木てるみさんもゲストとして参加されていたが、それぞれ73年の制作当時と昨年の復活劇の舞台裏を知っている訳で、彼らの言葉もなかなかに興味深かった。
本作が幻の映画となってしまった顛末において、上記した様にしばしばソ連の圧力が槍玉に上がるが、あちら側からみたら不愉快な映画なのは当たり前の話である。
小林社長は、結局のところモスフィルムの一幹部の言葉を大げさに受け止め、自主規制に走ったのは日本の会社であり、本作を抹殺しようとしたのは日本人自身であると語る。
全く持ってその通りだ。
戦う前から揉め事を恐れる、事なかれ主義の産物である自主規制は、芸術に対する自殺行為に他ならない。
これだけの人々が想いを込めた作品が、クレーム一つで歴史から消されそうになる、日本のコンテンツ産業が抱える悪癖の根深さを改めて思い知る。
主人公の律子を演じた二木てるみさんは、制作から36年を経て本作を観た若者たちが、感じるであろうたくさんの「なぜ?」がきっと未来に繋がると語る。
なぜ、律子たちは逃げなかった?なぜ、軍は反撃を禁じたのか?なぜ、ソ連は攻撃をやめなかったのか?そもそも、なぜ、戦争が起こったのか?
本作の場合は余りにも多くの要素を詰め込んだがために、描き切れていない部分も多く、正直なところ作品の完成度という点では一級品とは言い難い。
だが、それゆえに提示できる多くの「なぜ?」は、本作で樺太の戦いという忘れられた戦争を知った人たちの中で、確実に育ってゆくだろう。
今回の上映会は、16ミリフィルムで二回のみという事で、退色が進んでいる上にマスクの関係か一部にトリミングングされた様にキャラが切れてしまっているカットがあるなど、状態はベストとは言えなかったが、どうやらオリジナルネガも発見されているらしく、よりベターなプリントでの再上映の機会もあるかもしれない。
出来れば、今後も多くの人の目に触れるべき作品だと思う。
昨年の再公開時には、当時樺太に住んでいた多くの人々が劇場に詰めかけ、中には実際の律子を知る人までいたという。
戦後既に65年が経過し、ともすれば歴史の一ページとして捉えがちな日本の戦争が、全ての人の中で終わる日は、まだ訪れていないのである。
今回は、北海道を代表する地酒、「男山 純米大吟醸」をチョイス。
淡麗で飲みやすく、それでいて大吟醸らしい芳醇さも十分。
そう言えば、日本酒の評価を著しく貶めた、所謂アル添三倍酒が登場したのも、戦争による米不足がきっかけだった。
高品質な米を高い精米歩合でたっぷり使った大吟醸は、平和な時代の象徴なのかもしれない。
なお、旧作でありプリントも万全の状態でないという事で、評価額は差し控えた。

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1986年に公開された香港ノワールの代表作「男たちの挽歌」が、韓国でリメイクされた。
オリジナルの監督であるジョン・ウーがエグゼクティブ・プロデューサーを勤め、監督は「力道山」や「私たちの幸せな時間」で知られるソン・へソンが担当。
基本プロットはそれほど変わらないが、舞台を韓国に移し主人公たちを脱北者に設定するなど独自の脚色を加え、それがテーマに密接に関係してくる。
北朝鮮から脱出を試みた兄弟がいた。
兄のヒョク(チュ・ジンモ)は成功したものの、弟のチョル(キム・ガンウ)は捕らえられ、生き別れに成ってしまう。
数年後の釜山、ヒョクは同じ脱北者のヨンチュン(ソン・スンホ)と共に、銃器密売を日々の糧にしている。
ずっと弟の消息を探し続けていたヒョクの元に、チョルが脱北に成功して韓国にたどり着いたという連絡が入る。
だが、自分を見捨てて逃げた兄の事を、チョルは決して許そうとしない。
そんな時、ヒョクは部下のテミン(チョ・ハンソン)の裏切りで、タイ警察に逮捕されてしまい、ヨンチュンもタイの組織との戦いで足を撃たれてしまう。
長い歳月が過ぎ、出所して韓国に戻ったヒョクが見たのは、裏社会のボスとして君臨するテミンと、不自由な足を引き摺り、すっかり落ちぶれたヨンチュン、そして兄への反発から組織犯罪を担当する刑事になったチョルの姿だった・・・
オリジナルの登場は衝撃だった。
香港映画と言えばブルース・リー以来のクンフー物かコメディが定番だった時代である。
ブラックのコートとサングラス、スタイリッシュな“悪”の香りを感じさせる男たちによる、過去に作られたどんな映画とも異なる、スローモーションを多用した超接近戦のガンファイトには誰もが息を飲み、世界各国のアクション映画に絶大な影響を与えた。
リメイク版ではソン・スンホが演じるヨンチュンに当たる、マーク役のチョウ・ユンファは大ブレイクし、“亜州影帝”のニックネームで呼ばれる様になり、後に監督のジョン・ウーと共にハリウッドにも進出する事になる。
あれから25年。
オリジナルの主人公ホーは、ヒョクと名を変えチュ・ジンモが演じているが、彼を脱北者に設定したのが本作の最大のポイントだろう。
彼は国境を越える時に、弟のチョルを見捨てた事を悔いており、闇社会の大物となってからは、アジア中のブローカーを通じて弟の消息を追っている。
物語そのものは、オリジナルを踏襲する物だが、兄弟の間にある傷を深く大きな物にした事で、対照的な生き方をする二人の葛藤と絆がより強調される事になった。
同時に、単に裏社会の男たちの友情、裏切りを描いた物語に、韓国という“異文化”の中で暮らす脱北者の苦難という社会派の視点も加わった。
キャラクターの背景を丹念に描き、ヒューマニズムに溢れる作品を作ってきた、ソン・ヘソンらしい脚色である。
兄弟関係を重視した分、ややヨンチュンの印象が薄くなった気もするが、これはまあやむを得ないだろう。
そして「男たちの挽歌」と言えば、やはりガンファイト。
主な見せ場は、ヒョクを嵌めたタイの組織を、ヨンチュンが襲撃して皆殺しにするシーンと、クライマックスとなる埠頭での絶対不利の戦いの二箇所だ。
単身で敵のアジトに乗り込む、ヨンチュン役のソン・スンホは二挺拳銃の銃捌きも鮮やかで、オリジナルのチョウ・ユンファにも負けてない。
また最大の見せ場である埠頭で銃撃戦は、基本的にはオリジナルと流れは同じで、さすがに新鮮さは無いものの、圧倒的多数の敵に囲まれながら、三人の絆が深まってゆくところはわかっていても熱くなる。
激しい戦いの末に、迎えるラストは・・・・。
主人公達が脱北者である以外は、比較的オリジナルに忠実な作りだった本作だが、なるほどここへ来て、リメイク版の真のテーマが明らかになる。
自由を求めて命がけで韓国に渡ったのに、そこでは北の人間として差別され、結局夢見た未来“A BETTER TOMORROW”はどこにも無かった。
その事を心の底から思い知らされてしまった時、彼らが帰るべき場所とは、一体どこなのか。
韓国社会の抱える闇に、何時しか飲み込まれてしまった脱北者の悲哀が胸を打つ。
ソン・ヘソンは、香港ノワールの代表作を換骨奪胎して、韓国ならではの物語を作り上げているが、残念なのは中盤の脚本の処理が雑な事。
兄弟の再会から、ヒョクがタイで服役するまでは物語のリズムも良く、サクサクと進むのだが、彼が出所して韓国に戻って以降は中ダレが激しい。
特に問題なのは、悪役であるテミンの行動が矛盾している事だろう。
彼はロシアと巨額の取引を控えているのだが、警察に目をつけられていて身動きが取れない。
そこで嘗ての兄貴分であったヒョクとヨンチュンを巻き込もうとするのだが、具体的にどうしたかったのかが描写されないので、結局何がやりたい人なのかわからなくなっており、自分から事態の悪化を招いている様にしか見えないのである。
彼の意図が不明なままなので、ヨンチュンやチョルを襲撃する事も、物語上の意味が不鮮明で、停滞した印象になってしまっている。
ここはテミンの行動原理を、もうちょっと明確に作るべきだった。
「男たちの挽歌 A BETTER TOMORROW」はオリジナルのテイストを色濃く残しつつも、韓国映画らしく良くも悪くもセンチメンタル。
もちろん、オリジナルほどのインパクトは無いが、これはこれで楽しめる。
しかし、80年代の香港を代表する作品が、四半世紀を経て韓国でリメイクされるのは、アジア映画の歴史の変遷を感じさせる。
97年の中国返還以来、香港映画界は人材の海外流失などで輝きを失い、逆に87年の民主化後、質量共に急速にレベルを上げてきた韓国映画は、21世紀に入り韓流ブームでアジアを席巻した。
おそらく、本作の様な国境を跨いだリメイク企画というのは、アジアでも今後は増えて行くだろうが、本作の様にお国柄を盛り込んで脚色するのは面白い方向性だと思う。
今回は、釜山の屋台で飲みたい酒。
ご当地焼酎「C1のキュウリ割り」をチョイス。
冷やしたストレートのC1に千切りにしたキュウリをざっくり入れるだけ。
焼酎の仄かな甘みがキュウリに移って、心なしかメロンみたいな風味になる。
不思議とこの飲み方は日本の焼酎だとイマイチ合わないのだ。
強い酒が苦手な人は、ソーダで割った物にキュウリを入れても爽やかで良い。

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死はすべての終わりなのか、それとも新しい何かの始まりなのか。
巨匠クリント・イーストウッドが齢80歳にして新たに挑んだのは、彼自身にも確実に忍び寄っている死後の世界だ。
臨死体験をしたフランス人ジャーナリスト、双子の兄を事故で亡くしたイギリス人の少年、そして死者と関わる事に疲れ、その力を封印しているアメリカ人の霊能者。
国籍も年齢も性別も異なる三人の主人公が、それぞれの立場から死の謎に迫ってゆく。
フランスのテレビジャーナリストとして活躍するマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、バケーションに訪れた島で津波に巻き込まれ、薄れゆく意識の中で不思議な光景を見る。
ロンドンに暮らす少年マーカス(ジョージ・マクラレン)は、双子の兄を事故で亡くした悲しみから立ち直れず、霊界の兄と再会する事を望むようになる。
アメリカ人のジョージ(マット・デイモン)は、死者の声を聞ける霊能者。
以前はその能力を使ってマスコミにも取り上げられた事があるが、今は力を嫌悪して封印している。
死という現象の謎に囚われた彼ら三人の運命は、やがてゆっくりと交錯してゆく・・・
冒頭の津波のシークエンスに、まずは圧倒される。
2004年12月のスマトラ沖地震で起こった大津波をイメージしているのだろうが、描写がリアルな分、ぶっちゃけ津波の映画より迫力があった。
物語の前半は、三人の主人公のエピソードが別々に進行するが、それぞれに直接の接点は無く、死に対するアプローチも異なっている。
彼らに共通するのは、死という現象の謎に人生を支配されている事だが、それぞれの心の傷と葛藤は丁寧に描写されており、説得力のある人間ドラマとして、興味深く観ることが出来る。
津波によって臨死体験をした著名ジャーナリストのマリーは、その時に見た不思議な光に包まれた世界のビジョンが頭から離れず、やがて仕事も手に付かなくなる。
自分が見たものは一体何だったのか?単なる幻覚?それとも本当に死後の世界を垣間見たのか?
故ミッテラン元大統領の伝記本を計画していたマリーは、予定を変更して臨死体験の謎を探り始める。
だがそれは、彼女が生きてきたジャーナリズムの世界では、オカルトとして蔑まれる題材であり、彼女は自らの社会的立場と、書きたいテーマとの間で、深刻な葛藤を抱える事になる。
一方で、ロンドンに暮らす少年マーカスは、一卵性双生児の兄ジェイソンを不慮の交通事故で亡くす。
兄弟は、ドラッグ中毒の母と三人暮らしで、消極的な性格のマーカスは、活発な兄にずっと頼って生きてきた。
心のよりどころであった兄を亡くし、治療施設に収容される母とも引き離されたマーカスは、心の喪失感を生めることが出来ない。
ある事件に遭遇した事で、兄の霊に護られていると感じたマーカスは、霊とコンタクトすることの出来る霊能者を探し始めるが、会う人会う人インチキばかり。
確実に存在を感じるのに、触れられない、話すことが出来ないというもどかしさ。
この世界のどこかに、そんな自分を救ってくれる人がいるだろうという仄かな希望が、彼の日常を支えている。
マーカスの求める本物の霊能者であるジョージは、サンフランシスコ近郊の工場で働いている。
彼は、手を触れた相手と関わりのある霊の言葉を聞く、所謂サイキック・リーディングの能力を持ち、嘗てマスコミにも取り上げられた有名人だったが、今はその力を呪い封印している。
触れただけで、相手の心の奥の秘密までもわかってしまうジョージは、他人と普通の関係を築く事ができず、孤独に苛まれているのである。
にもかかわらず、人々は彼の能力を知ると、それがどんな結果を齎すかも知らずに “読む”事を求めてくる。
霊能者のイメージとは程遠い、マット・ディモンをこの役にキャスティングしたセンスが光る。
朴訥なキャラクターが、かえってリアリティを感じさせるのである。
私も仕事絡みと個人的な興味から、ホンモノ(と思える)霊能者や臨死体験者に会った事があるが、この映画の描写はかなりリアルである。
サイキック・リーディングのシーンや臨死体験のビジョンは、恐らくモデルがいて、綿密に取材して作り上げていると思う。
彼らの多くは、その体験や能力と現実社会との間で葛藤し、何とか落としどころを見つけてゆくのだが、ジョージが自分の力によって人間関係に臆病になっていたり、マリーが臨死体験にとり憑かれて社会生活に支障をきたす辺りは、私が知っているケースにも酷似している。
やがて物語の後半になると、三人の人生はロンドンのブックフェアを舞台に交錯してゆくのだが、ここで彼らの運命を導くのが、文豪チャールズ・ディケンズと“Reading(リーディング)”というキーワードである。
英語のリーディングは、日本語の“読む”とは異なり、一語で“読む”と“聞かせる”の二つの意味を持つ。
ジョージは、疲れた体をベッドに横たえながら、ディケンズの小説の朗読(リーディング)を聞くのが趣味で、劇中「シェイクスピアよりディケンズが好きなんだ」という台詞がある。
何でシェイクスピアをわざわざ持ち出すのだろうと思ったが、要するにイギリス旅行の行く先をストラトフォード・アポン・エイヴォンじゃなく、自然にロンドンにするための細かい複線。
そしてジョージの能力も、文字通り死者の声を読み取り、読み聞かせるサイキック・リーディングだ。
ディケンズ博物館をツアーで訪ねた時、幽霊が描かれた「ディケンズの夢」と言う絵を見て、魂の繋がりを感じたジョージは、いつもCDで聞いている俳優のデレク・ジャコビによるディケンズの朗読会がある事を知り、ブックフェアを訪れる。
そこで偶然にも、自らの臨死体験を本にして出版したマリーの朗読会に、足を止めることになるのである。
日本ではイマイチなじみが薄いが、欧米では本の朗読が非常に盛んで、著者自身による朗読会などもよく開かれているほか、大きな書店に行けば必ず朗読CDのセクションがある。
死後の世界に魅入られた人間たちがリーディングという言葉で結びつき、霊界のディケンズによって導かれて出会うというアイディアはユニークだ。
さすが「クィーン」 「フロスト×ニクソン」などの凝った作劇で知られる、ピーター・モーガンの脚本である。
ただし、観客がディケンズの本を知っている事が前提となった描写が多く、字幕の訳し方の問題もあって、英語圏以外の観客に物語のニュアンスが十分伝わるかは少々疑問なのだけど。
さて、ようやく出会った三人だが、それぞれの物語のオチのつけ方をどう受け取るかによって、本作の評価は大きく異なるだろう。
先ず、マーカスと出会ったジョージは、彼の熱意に負けて封じていたリーデングを行い、ジェイソンの言葉をマーカスに伝える。
愛情深い言葉で自立を促すジェイソンの言葉に、マーカスは漸く自分の人生を前に進める事が出来るのである。
マーカスの物語は、ジョージとの出会いによって綺麗にオチが付いたと言えるが、問題は残るジョージとマリーだの関係だ。
恐らくこの映画を酷評している人の多くは、内面描写を伴わない唐突な二人の恋愛モードに引いてしまったのだと思う。
何しろ二人は、ジョージがマリーの本を買った時に、一瞬触れ合っただけで、ブックフェア以前には全く接点が無い。
何故ジョージが突如としてマリーに興味を引かれ、マリーもそれを受け入れるのか?
これは私の解釈だが、ジョージは本を介してマリーに触れた瞬間、二人が魂の次元で結ばれたソウルメイトなのを知ったのだと思う。
今まで自分の力をネガティブに捉えて来たジョージだが、サイキック・リーディングの力があったからこそ、マリーに出会う事が出来た。
リーディングとは本来、読んだ者、聞かされた者の人生を豊かにし、前に進める力を持つ物で、それは対象が本でも霊の言葉でも変わらない。
マーカスと、そしてマリーとの出会いによって、始めてその事を実感したジョージにとって、それは“呪い(Curse)”が“贈り物(Gift)”に変わり、人生をポジティブに踏み出せた瞬間なのだろう。
彼らは、死の謎に触れた事で、改めて前向きに生を歩む事が出来たのである。
だが、この様な“魂に導かれて”的な展開は、観客が精神世界をどう捉えているかによって、かなり印象が違ってくると思う。
こういう話は信じる者には事実だし、そうでない者には御都合主義のファンタジーに過ぎないからだ。
それ故に、説得力のある丁寧な描写が不可欠なはずだが、往々にして作り手も自己完結に陥りがちで、このラストのシークエンスに関しては、クリント・イーストウッドをもってしても、自分はわかってるから、みんなもわかってるでしょ?的なところに嵌り込み、観客を置き去りにしてしまったのではないか。
そこまでの物語はなかなかに面白く丁寧に作られているだけに、オチの部分はやはり描写不足と言わざるを得ないのが残念だ。
今回は、タイトルとの語呂あわせで「ビア・バスター」をチョイス。
ビアジョッキに氷をいれ、そこにウォッカ40ml、タバスコを適量加え、ビールで満たす。
或いはビールを満たしたジョッキに、にショットグラスに入れたウォッカ&タバスコを沈める。
世界中にあるビール+蒸留酒の所謂爆弾酒の一つで、タバスコの辛さも強烈に、量を飲めば悪酔い必至。
運が悪いと本当に「ヒア アフター(来世)」を見ちゃうので注意。

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第二次大戦下のサイパン島で、日本軍の玉砕後も、実に512日間も戦い続けた兵士達がいた。
「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」は、神出鬼没のゲリラ戦で、“狐の様に賢い”と米軍に恐れられた、大場栄大尉を主人公にした戦争秘話。
これは、イーストウッドによる「硫黄島からの手紙」という見事な“邦画”に対する、日本映画界からの返信と言える渾身の力作である。
1944年6月、サイパンに米軍が上陸。
圧倒的な戦力の前に、島の日本軍は玉砕した。
僅かな残存兵力を集めた大場栄大尉(竹之内豊)は、ゲリラ戦を行うべく、島の中央部にあるタッポーチョ山に向っていた。
途中で二百人もの民間人が潜む野営地に遭遇した大場は、彼らを守りながら米軍に抵抗を続ける事を決めるのだが、それは長い長い苛酷な戦いの始まりだった・・・・・
原作は、サイパン島攻略に従軍した元アメリカ海兵隊員、ドン・ジョーンズの著した「タッポーチョ 「敵ながら天晴」 大場隊の勇戦512日」と「OBA, THE LAST SAMURAI」の二編。
アメリカ人の書いた本ながら、「タッポーチョ~」は日本で先行出版され、「OBA~」はその英語版なのだが、ハリウッドでの映画化を目指してよりエンターテイメント性が強くなっているという。
本作はこの二つの本をベースに、日米混成の脚本チームがプロットを組み、更に脚色を加えている。
私は「タッポーチョ」の方を昔読んだのだが、これが実に面白い。
映画とは違って、本では著者のジョーンズが、“戦友”である大場を訪ねて「サイパンでのあなたの戦いを、本にしたい」と言う所から始まる。
最初大場は、今更あの戦争を振り返るなんてと否定的だったが、嘗て戦場で敵味方に別れ、生死を賭して戦ったジョーンズと話すうちに、心に過るものがあったのか、最終的に本の執筆を許可する。
主人公は日本の軍人であるにも関わらず、アメリカ人によってその戦いが記録されたという原作の経緯が、本作にユニークな視点をもたらしているのは間違いないだろう。
映画でも、日米双方の視点が交互に描かれ、しかも面白い事に、それぞれの言語によって監督も別れているという。
日本語が支配的なパートは平山秀幸監督が演出し、英語が支配的なパートはリメイク版「サイドウェイズ」のチェリン・グラック監督が担当している。
全く個性の異なる二人の監督の演出が同居しているのだから、下手をするとバラバラに空中分解しそうに思えるが、不思議とそうはなっていない。
それは物語の構造が、日米それぞれのパートを対等の視点に位置づけているからだ。
脚本化作業は、チェリン・グラックとカナダ人脚本家のグレゴリー・マーケットが先行して「OBA~」をベースに進め、それから「タッポーチョ~」の要素を掛け合わせた上で、ベテランの西岡琢也が纏め上げている。
この過程で上手く日米のパートが色分けされ、アメリカ側にも日本通のルイス大尉という主人公を置いたことで、本作は言わば硫黄島二部作を、一本の映画の中でやった様な、独特の視点を持つ作品になっているのである。
結果的に、本作はある種の日本人論の様な側面も持つ。
ルイス大尉が、上官に日本人の考え方を理解させるのに、将棋とチェスのルールの違いを使うあたりは面白い。
もちろん、当時の日本軍人と観客である今の日本人は思考が大きく異なるので、このあたりの構造は、若い日本の観客に対する帝国軍人論としても機能しているのだろう。
主人公の大場大尉は、決してヒロイックな人物ではない。
原作によれば、彼は米軍に向けて突撃を繰り返しているうちに、いつの間にか米軍を通り越して背後に出てしまい、結果的に残存兵力を集めて指揮する様になったに過ぎない。
“フォックス”として米軍に恐れられたのは事実だが、映画ではそれほど戦闘の描写は多くなく、戦果もどちらかと言うと半分偶然に助けられた結果に見える。
大場という人物が物語の主役足りえているのは、彼が軍人として、人間として、様々な葛藤を抱えながらも芯の部分ではぶれず、魅力的なリーダーとして、その時々で最良の決断をしているからだろう。
本作のプロットには、いくつもの対立要素が配置されている。
日米両軍の対立だけでなく、それぞれの内部にも異なる価値観を持つ集団や個人が存在し、それがドラマチックな葛藤に繋がる。
幸運にも玉砕戦を生き残った大場は、戦友たちの仇に米兵を100人殺すと宣言するヤクザ上がりの一等兵、堀内と出会う。
軍籍にありながら、もはや命令では動かない堀内と、あくまでも指揮官として皆を束ねる大場のコントラストが日本側のパートで良いメリハリを生んでいる。
朴訥とした好人物である大場を竹野内豊が好演。
俳優としてはあまり器用な人ではないと思うが、涼しげな風貌と穏やかな語り口がキャラクターにマッチし、自然な存在感は説得力がある。
対照的に、そり上げたスキンヘッドと派手なモンモンを背負った堀内を、唐沢寿明がインパクトたっぷりに演じる。
ちなみに、原作で描かれる堀内の最期は、映画に輪をかけて壮絶な物で、その怒りは大場に決して降伏しないという思いを、改めて抱かせる事になる。
そして、大場の葛藤の最大の源と言えるのが、行動を共にする二百人もの民間人の存在だ。
軍隊が最大のプライオリティを置くべきは、敵を攻撃し殲滅する事なのか、自国民を守る事なのかという、軍人としての究極の選択を常に迫られるのである。
まあ大体において、歴史上では前者が優先され、特に日本軍は基本的に国民の軍隊ではなくて天皇の軍隊という思想が根強かったので、多くの民間人が犠牲にされたのは周知の通り。
大場も最初は民間人の面倒を見るつもりは無かったのだが、丸腰の彼らが攻撃目標にされた事で、思い直して保護する事にする。
このあたりの対応を見ても、基本的に彼は優しく、過剰に理念に囚われずに、目の前の状況で何をすべきかを判断できる、非常にロジカルな指揮官だったのだろうと思う。
とは言え、民間人を守りつつも米軍と戦えば、当然多くの無理が出てくるわけで、状況はジリジリと悪化し続け、遂に大場は民間人を米軍に投降させる事を決断する。
面白いのは、捕虜収容所が日米双方の交錯する場所として機能している事で、米軍は日本軍を投降させるために、日本軍は戦い続けるために、お互いが収容所の人間を利用し、結果的にそれが交渉の接点にもなるのである。
大場たちが戦い続ける間にも、日本にとって戦況は悪化し続け、とうとう8月15日がやってくる。
タッポーチョにも、日本の敗戦は知らされるが、大場はなおも降伏しない。
サイパンの戦いで将軍たちは自決し、多くの将兵は玉砕し、民間人はバンザイクリフから飛び降りた。
やがて東京は焼け野原となり、広島・長崎は一瞬で蒸発し、遂に天皇は玉音放送を流し、無条件降伏の憂目を見る。
それは大日本帝国という国家の敗北だが、実はそれと個人とは関係ない。
帝国軍人である大場栄という人物が、現在の我々から見ても、あまつさえ敵国であるアメリカから見ても、リーダーとして魅力的であるのは、彼が国家に従属した存在ではなく、個人として説得力を持った振る舞いをしたからに他ならない。
彼は職業軍人であり、敵と戦い、民間人を守り、妥協すべきはして無駄な犠牲を避け、それでも最後まで誇りを捨てなかった。
国家という概念にただ従属してしまうのでなく、能動的にアイデンティティを定め、忠実に生きたのだ。
日本は負けたかもしれないが、彼らは別に誰に対しても負けていない、だから降伏はしない。
しかしながら、軍人であるからには、上官の命令には従う。
このギリギリの落とし所は、奇しくも戦後29年に渡って、フィリピンのルバング島で戦い続けた、小野田寛郎少尉と同じである。
本作の原作がアメリカ人によって書かれたという事実は、重要な示唆に富む。
我々は、歴史をマクロ的に俯瞰する事は多いが、それが多くの個と言うミクロによって構成されている事を忘れがちだ。
特に、第二次世界大戦の記憶は、マクロの視点から恥の歴史と捉えられて来た故に、ミクロを見ることを避ける傾向が強いのではないか。
もちろん歴史観には様々な立場の人がいるだろうが、大概において善か悪か白黒大雑把な傾向は否めない。
原作者のドン・ジョーンズは、あとがきでこの物語は、日本人の“知識の真空状態”を埋める物だと書いている。
本作には、主人公の大場栄大尉以外にも、日米双方に非常に沢山のキャラクターが登場する。
アメリカへの復讐心を抱く看護師、降伏を受け入れず一人密林に消える兵士、和平を取り持ったがために命を落とす通訳、あるいはフォックスに翻弄される米軍指揮官。
一本の映画としてみると、詰め込まれた沢山のエピソードは、消化不良の部分も多い。
だが、この作品が重要なのは、あの時その場所にいた一人一人に語るべき物語があるはずで、それは同時に我々が知るべき物語だと言う事を、改めて気付かせてくれる事にある。
だからこそ本作は、イーストウッドが投げかけた問いへの、真摯な返信と成っているのである。
今回は、四年前に「父親たちの星条旗」に合わせた、埼玉県の神亀の古酒「ひこ孫 時のながれ」をチョイス。
長期熟成された最高品質の日本酒は、まるで極上のブランデーの様な独特のまろやかさとコクを獲得し、正に至高の一本と言える。
日本からも、漸くこの酒に相応しい戦争映画の名品が生まれた。
最高級の日本酒に感じるのと同等の、丁寧な仕事と作り手の想いが伝わってくる作品なのである。
出来れば、この映画と酒だけでなく、原作も多くの人に読んでもらいたいのだけど、残念ながら現在は絶版になっている。
せっかく映画化されるのだから、ノベライズだけでなく、原作も復刊して欲しいものだ。
追記:どうやら映画の公開にあわせて、2月4日に原作が復刊されていた模様。
タイトルが「タッポーチョ 太平洋の奇跡」と変わっているが、この名著が再び日本人の目に触れるのは喜ばしい。
故ドン・ジョーンズも草葉の陰で喜んでいるだろう。

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全米一の犯罪多発地帯、強盗こそが住人の“ビジネス”となっている街、それが「ザ・タウン」だ。
生まれ育った街の呪縛から逃れ、新しい人生を歩みだそうとする凄腕の強盗ダグをアフレック自身が演じ、彼を街に引きとめようとする親友ジェムを「ハート・ロッカー」のジェレミー・レナーが好演。
初監督作「ゴーン・ベイビー・ゴーン」に続いて、アフレックは少年時代を過ごしたボストンの一角を舞台に、魂を刺激するハードなアウトロー・ムービーを作り上げた。
チャールズタウンで生まれ育ったダグ(ベン・アフレック)は強盗団のリーダー。
親友のジェム(ジェレミー・レナー)ら四人でチームを組み、鮮やかな手口で銀行や現金輸送車を襲撃、誰も傷つけず、証拠は一切残さない。
ところがある日、押し入った銀行で通報ブザーを押されてしまい、やむなく支店長のクレア(レベッカ・ホール)を人質にとる事に。
無事逃走に成功し、解放したものの、運転免許証から彼女がすぐ近所に住んでいる事を知ったダグは、彼女が自分達の事をFBIに漏らさないよう監視する事にする。
ダグが自分を人質にした強盗だと気づかないクレアは、次第に彼と親しくなり、遂には恋に落ちるのだが・・・
ボストンと言えば、先ごろ公開された「ソーシャル・ネットワーク」の舞台でもある、ハーバード大学のある学問の街。
だが、その北東部に広がるチャールズタウンは、アメリカ合衆国で最も多くの銀行強盗と現金輸送車の襲撃が発生する犯罪の街でもある。
この街では、強盗は言わば代々受け継がれるファミリービジネス。
幼い頃から親が犯罪を重ねる様を見て育った子供たちは、やがて自然に銃を手にし、ボーイスカウトに入るかの様にギャングのメンバーに名を連ねる。
彼らにとっては、この街こそ世界であり、強盗以外の生き方を知らない。
本作の主人公のダグも、チャールズタウンに生まれ育ち、服役中の父を持つ典型的なギャングファミリーの一員だ。
アメリカの闇社会を支配する犯罪組織の多くが、所謂民族系である。
良く知られているのはイタリア系のマフィアだが、本作に描かれるのはイタリア系と同じくらいの長い歴史を持つアイルランド系のギャングだ。
民族系ギャングは、基本的に特定の街に根を張り、何世代にも渡って組織が受け継がれて行くので、本作の主人公のダグの様に親兄弟親戚が皆ギャングというケースも珍しくなく、足を洗うのは容易ではない。
私がアメリカのカレッジの学生だった時に、クラスメートにヒスパニック系ギャングの元メンバーがいた。
彼もまた街中がギャングだらけという環境に育ったが、父親の服役を機に元々街の人間でなかった母親が離婚を決意、子供達を連れて遠くに越した事で、漸くカタギになる事が出来た。
だがいつか、父親が自分達を連れ戻しに来るのでは、という恐れからは逃れる事が出来ないと言う。
そんな負のスパイラルに生きる男達のドラマは、色々な意味で熱く、見応え十分だ。
この街の人間関係は正に“血は水よりも濃い”という言葉の通り。
アイルランドという共通の祖先の土地と血脈は、好むと好まざるとに関わらず、彼らを柵で雁字搦めにして街に縛り付ける。
ダグは、終身刑で服役中の父への好悪入り混じる想いと、幼い頃に失踪した母親の思い出との間で葛藤を抱え、いつかこの街を出たいと考え続けている。
ギャングという正体を明かす事の出来ない恋人、クレアとの出会いは、その切っ掛けとなるのである。
だが何世代もの間、人々の愛憎を糧に存在してきた街は、まるでそれ自体が一つの生命であるかのように、ダグの人生を支配しようとする。
物語の中で、ダグは自らの知らなかった過去を、二人の人物から告げられる。
ジェレミー・レナーが演じるジェムは、血の気が多いトラブルメーカーで、人を殺して長年刑務所で過ごした過去を持つが、ダグにとっては親友であり、元恋人の兄でもあるかけがえの無い人物だ。
ジェムは、街を出て行こうとするダグに対して、人を殺したのは敵対するギャングからダグを守るためだったと告白する。
街を出るという事は、自分のために殺人まで犯し、まともな人生を諦めた親友を捨てる事を意味する。
更に追い討ちをかけるのは、ギャングたちの黒幕でもある、花屋のファーギーだ。
彼は、足を洗うと宣言したダグに対して、彼の両親に関するある秘密を打ち明け、もしも抜けるならクレアに危害を加えると脅しをかける。
先日亡くなった名優ピート・ポスルスウェイトが、凄みのある演技で魅せるこのキャラクターは、出番は少ないながらも、影の主人公である“街”そのものの象徴として、強い印象を残す。
複雑な人間関係は実によく考えられており、まるで互いに絡み合った蜘蛛の巣の様に、本作の骨太のプロットを支えている。
クレアを守り、新しい人生を歩むために、ダグは最後の仕事を受けるのだが、狙いは銀行ではなくメジャーリーグのボストン・レッドソックスの本拠地、フェンウェイ・パークだ。
だが、そこにはクレアを手の内に引き込んだFBIが待ち構えている。
もうここからは、アクションとサスペンスがつるべ打ちの怒涛の展開だ。
クライマックスを含め、都合三回ある襲撃シーンは緊張感たっぷりで、古都ボストンの狭い路地を効果的に使ったカーチェイスも迫力満点。
アクション映画としても、水準以上の仕上がりだ。
サスペンス、アクション、ロマンスと、見所満載の「ザ・タウン」はハリウッド伝統のアウトロー・ムービーの秀作である。
やはり ボストンを舞台とした「グッドウィル・ハンティング」で、幼馴染のマット・ディモンと共に若干25歳の若さでアカデミー脚本賞を受けたベン・アフレックは、やはり並の才能では無い。
なぜか日本ではDVDスルーになってしまったが、鋭い切れ味を持つ前作、「ゴーン・ベイビー・ゴーン」に続いて、哀しき男たちのドラマは情感に溢れ、深い余韻を感じさせる。
元々演技力という点では若干疑問の残る俳優だけに、イーストウッドの様に、裏方の方でより輝きを放つ人なのかもしれない。
とは言え、映画史に残る傑作となるには、何かが足りない気がするのも事実。
たぶんその原因は、ヒロインであるクレアの行動原理が不可解である事だろう。
ダグやその仲間達のドラマの濃密さと対照的に、クレアの背景は結構アバウトで、彼女がどんな人物なのか今一つわからない。
突然強盗の人質となり、震え上がるほど恐ろしい想いをしたのに、強盗の街の住人であるダグに対してあまりにも無防備に接近を許す。
FBIに目撃した犯人の刺青の事を話さなかったのは、自分が監視されている事を知っているからだという事で納得はいくが、何故ダグは例外なのか。
それに、いくらダグを愛したといっても、彼の残した汚れた金を使ってしまうのもピンとこない。
大体、あんな大金を寄贈したとしたら、絶対にFBIが嗅ぎ付けるはずだ。
レベッカ・ホールのナチュラルな存在感は悪くないのだが、この物語におけるクレアの立ち位置は曖昧で、それが映画全体の画竜点睛を欠く印象に繋がってしまっている。
もしも、彼女もまたこの街に囚われた者であるなら、もう少し突っ込んでキャラクターを描くべきだろうし、心情でダグを愛しても、行動では許せないという風に持っていったほうが、物語としてもピリリと締まった様に思うのだが。
今回は、ボストンを代表する地ビール、「サミュエル・アダムス ボストン・ラガー」をチョイス。
サミュエル・アダムスはボストン出身の政治家で、第二代合衆国大統領のジョン・アダムスの兄としても知られる。
彼の父は醸造所を経営しており、サミュエルも政治家になる前に職人として働いていた時期がある。
今では地ビールと言うにはあまりにも有名な銘柄となったが、映画と同じく適度な濃厚さとコクが魅力の味わい深いアメリカンビールだ。

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これは、ひょんな事から連続殺人事件に巻き込まれた平凡な男の体験を通して、人間の秘めたる狂気を描き出した、壮絶なダーク・エンターテイメントだ。
鬼才・園子温監督が創造したのは、人の良さそうな笑顔の裏に、恐るべき嗜虐性を秘めた怪物である。
観客は、怪物の極悪非道な殺人ビジネスに圧倒され、主人公と共に地獄への一本道に足を踏み入れてしまった様な感覚を味わうだろう。
国道沿いで小さな熱帯魚店を営む社本信行(吹越満)と妻の妙子(神楽坂恵)は、娘の美津子(梶原ひかり)の万引きをかばってくれた村田(でんでん)に誘われ、彼の経営する帯魚店を訪れる。
そこはひなびた社本の店とは比べ物にならない、まるで水族館の様な大型店舗だった。
強引だがエネルギッシュな村田のペースに巻き込まれた社本は、いつの間にか村田の仕掛ける詐欺話の片棒を担がされる。
だが、それは破滅へと進む第一歩に過ぎなかった・・・
本作の元ネタは、1993年に起こった埼玉愛犬家殺人事件だ。
モチーフを犬から熱帯魚に代えて、幾つかの他の事件もミックスしている様だが、個々の殺人の顛末などは比較的忠実に作られており、「(被害者の)ボディを透明にする」などの台詞も実際の犯人が語った言葉である。
この事件では、主犯格であるブリーダー夫婦が複数の殺人の罪で死刑判決を受け、彼らの助手的な立場の男が、遺体損壊などの罪で懲役三年の刑に服した。
助手の男は、主犯の男に脅迫され、恐怖によって支配される事で、ズルズルと彼らの犯罪を手伝っていたという。
2002年に北九州で起こった、家族内の監禁大量殺人事件など、圧倒的な力を持つ主犯の元、他の関係者が意のままに操られ、殺人に関与する事件は意外と多い。
本作の場合は、モデルとなった事件同様、殺人鬼・村田によって、気弱な同業者の社本が支配され、血と暴力の地獄に堕ちる事になる。
日本映画史上稀に見る、怪物的キャラクターである村田を演じるのは、どちらかと言えば人の良いおっちゃん役のイメージが強いでんでん。
このミスマッチが実に上手い。
村田という男は、エネルギッシュだが、どこか人を惹きつける魅力を持つ。
そうして他人に近づき、相手の心の弱い部分を見つけると、一気にその懐に飛び込んで、強引に支配するのである。
彼にはやたらとセクシーな衣装で登場する若い妻・愛子と、自称弁護士の筒井という相棒がいるが、この二人は同時に愛人関係にもあるという複雑さ。
一方、本作の主人公であり、語り部的ポジションにある社本は、村田とは対照的に気弱で頼りない人物として描かれる。
彼は、亡くなった妻との娘である美津子と、再婚相手の妙子と暮らしているが、娘と継母の関係は険悪で、家庭は崩壊寸前。
にもかかわらず、社本は夫としても父親としても、毅然とした態度をとる事が出来ず、ただただ時間の経過に身をゆだねるだけ。
そんな壊れかけた家族である社本家は、村田にとっては容易い獲物である。
小魚を捕食するピラニアの様に、村田は先ず妙子と美津子を言わば人質として取り込み、逃げられない状況を作った上で、社本を自分の殺人グループのメンバーとして迎え入れる。
目の前で、予想もしなかった第一の殺人を見せ付けられた社本は、なす術無く村田によって支配され、共犯者となってゆくのである。
絶対的な悪人とは言え、己の才覚によってのし上がってきた村田に対して、終始受身の社本はあまりにも無力だ。
自分の金儲けの邪魔になる者を躊躇無く次々と殺し、嬉々として犠牲者を解体する村田と愛子の前に、社本はまるで悪夢でも見ているかの様にへたり込むしかない。
ところが、そんな社本に対して、村田は「お前はまるで昔の俺だ」と言い放つのである。
村田と社本という一見対照的なキャラクターは、実はどちらも人間が誰でも持っている一面に過ぎないと言いたげなこの言葉は、この映画の構造を端的に表している。
物語的なクライマックスは、この無気力な虐げられた男が、いつどの様にしてその深層に秘められた嗜虐性を覚醒させるのかという事になるのだが、そこに至るまでの物語の流れはパワフルで、2時間29分の長尺を全く飽きさせない。
ただ、村田という怪物の強烈さに圧倒されて、ついつい忘れがちになるが、二人の主人公以外の要素は結構荒っぽい。
例えば社本の妻子と村田の妻ら女性キャラクターは類型的で、それぞれの行動原理はかなり単純化され、御都合主義を感じさせる。
また死体処理が行われるのが廃墟の教会で、マリア像や無数のろうそくなど、キリスト教的なモチーフが散りばめられているのだが、それが物語の中でキャラクターの心情と結びつかないので、むしろ浮いてしまっている。
細部の描写にも違和感を感じさせるものが少なくない。
殺人は、基本的に栄養ドリンクに仕込まれた毒で行われるのだが、全てを知ってる筒井が同じ手口で殺されるのはあり得ないだろう。
調べてみると、モデルになった事件でも、同じ手口が連続して使われているが、筒井に当たる人物は最初の殺人現場に居合わせておらず、殺害法を知らなかったから可能だった手なのである。
映画として脚色するなら、もっと自然なやり方がいくらでも作れたはずだ。
また警察が社本に接触するのが、よりにもよって村田のいる熱帯魚店の駐車場だったり、普通に考えれば無理のある描写が多々ある。
決定的なのは、ラストシーンの超御都合主義的展開だ。
現在進行形で殺人が行われていると当事者が告白しているのに、警察官は二人だけでゆっくりやって来る。
しかも血だらけで包丁を握っている社本を確保する事もなく放置し、最後の惨劇を許してしまうのである。
そもそも、何故警察車両に社本の妻子が乗っているのか?全く不自然である。
おかげで、村田によって社本に目覚めたネガティブパワーが、娘の美津子に継承される象徴的な描写に、作り物臭さを感じさせてしまった。
これら細部は、徹底的に作りこまれた二人の主人公のキャラクターから考えると、驚くほどアバウトであり、キャラクターのパワー頼みという本作の欠点を露見させてしまっている。
誤解を恐れずに言えば、本作はとても面白く、衝撃的ではあるが、観終わって何も残らず、特に感動もしない。
登場人物が体現したものが、誰の内側にもある人間の一面だとしても、超エキセントリックな殺人鬼と、それに翻弄される気弱な男は、どちらも感情移入のし難い極端なキャラクターで、彼らの関係性も、なるほどそんな事もあるかという程度にしか入り込めず、正直なところドラマとしての深みはそれほど感じない。
例えば、同じように人間の負の情念を鮮烈に描いた、韓国映画の「チェイサー」などと比べても、情感の有無の違いは明らかである。
結局のところ、本作は人間の中に潜む狂気をモチーフにしたピュアな娯楽映画だ。
村田が人間の欲望が具現化した怪物だとしたら、社本もその内面に鬱屈した情念を秘めた別種の怪物と言える。
これは人間が変異した怪物同士の戦いを描く、言わばスモールサイズの「サンダ対ガイラ」なのである。
エログロ満載、人間の解体などショッキングな描写も多いが、どちらかと言えば生々しさよりも70年代のスプラッター映画の様な嘘っぽさが残り、シーンによってはコミカルですらある。
このあたりの抑制には、映像的な優れたセンスを感じさせる。
時代性のあるプログラムピクチャとして、十分楽しめる一本である。
今回は、熱帯魚の住む沖縄は久米島から「久米仙 古酒7年」をチョイス。
泡盛の古酒は歳月を経れば経るほどにまろやかに熟成が進み、数十年を経た物はまるで高級ブランデーの様なコクのある味になる。
7年物はそれほどでもないが、やはり新しいものよりも深みのある味わいを楽しめる。
そう言えば、沖縄に行った時に、この久米仙のボトルに沖縄の近海で獲れる熱帯魚のラベルを貼った物があるのに驚いた。
さすがに沖縄以外では見た事が無いけど。

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