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「メアリー&マックス」は、2003年の短編、「ハーヴィー・クランペット」でアカデミー賞を受賞したオーストラリアの鬼才、アダム・エリオット監督の初めての長編作品で、5年もの制作期間とインディーズ作品としては破格の6億円のバジェットを費やして完成した。
独特の世界観とアニメーション技術には更に磨きがかかり、決して可愛いとは言えない粘土人形たちが織り成す切なくてちょっぴりダークな物語は、過去に作られたどんな作品にも似ていない。
2009年度のアヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ、オタワ国際アニメーションフェスティバル作品賞など、世界各国で高い評価を受けた傑作だ。
1976年のオーストラリア。
メルボルン郊外に住む少女メアリー(トニ・コレット)は、ある日ふとアメリカ人と友達になりたいと思い、郵便局の住所録に載っていたニューヨークのマックス(フィリップ・シーモア・ホフマン)に手紙を送る。
肥満体の中年男のマックスは、突然届いたオーストラリアからの手紙に戸惑いつつも、返事を送り、お互いに似た部分を感じた二人は、やがて国籍も性別も年齢をも超えた友達となり、深い絆で結ばれる事になる。
だがある時、突然マックスからの手紙が届かなくなり・・・・
アダム・エリオットの作品はリアルだ。
もちろん世界観やキャラクターデザインは、アニメーションならではのカリカチュアされたものなのだが、そこに描かれている物語は驚くほど現実感に富み、ゴツゴツした粘土人形たちは、どんな実写映画よりも人間らしく見える。
それはエリオットの作品が、常に人間の内面をフォーカスし、登場人物たちが何らかの障害やコンプレックスを抱えた不完全な存在として描かれているからだろう。
このスタンスは、自伝的要素の強い「Uncle」「Cousin」「Borther」の初期三部作から、オスカーを受賞した「ハーヴィー・クランペット」を経て、初の長編となった本作まで一貫しているが、エリオット自身がゲイという性的なマイノリティであり、病理震顫という時折体の一部が痙攣する障害を抱えている事と無関係ではあるまい。
二人の主人公のうち、オーストラリアに住む8歳のメアリーは、“泥の水溜り色の瞳”を持つ孤独な少女。
額にはウンコ色の痣があり、学校ではイジメられている。
アル中の母親は万引きの常習者で、ティーバッグ工場に務める父親の趣味は鳥の剥製作りで、メアリー曰く「死んだ鳥と遊ぶのが好き」(笑
好奇心旺盛なメアリーは、アメリカ人と友達になろうと思い、たまたま住所録で見たマックスに手紙を出す。
一方のマックスはニューヨークに住む44歳の中年男性。
過食症の肥満体で、アスペルガー症候群のために人の感情を読み取れず、他者との円滑な関係が築けないため、今までに色々な仕事を転々としている。
口の臭い片目の猫ハル、インコのMr.ビスケット、何度も代替わりする金魚のヘンリーが家族だ。
メアリーからの予期せぬ手紙を受け取ったマックスは、メアリーの様々な問いかけに彼なりの言葉で誠実に答え、全く対照的な二人による海を超えた文通が始まるのである。
手紙という、物理的なモノの持つ重みが良い。
ヴァーチャルなデータに過ぎない電子メールと違い、手紙は常に現実世界に残る。
コミュニケーションの証が実在する事の重要さは、クライマックスに繋がる重要な伏線でもあるのだが、何度かの中断を経て20年以上に渡ってやりとりされた手紙は、そのまま二人の人生の軌跡となる。
彼らの文通を通じて浮かび上がるのは、人と人が繋がる事の大切さ、そして難しさ。
幼かったメアリーは文通を続けるうちに成長し、やがて痣の除去手術を受けてコンプレックスを克服する。
精神医学の道に進んだ彼女は、マックスも自分と同じ様にアスペルガー症候群を克服すべきコンプレックスと感じていると信じ、無断でマックスを研究対象にした本を書いてしまうのである。
ところが、マックスはアスペルガー症候群も自分の一部であり、個性として捉えている。
困難は抱えているものの、彼の人生はそれ程孤独でも不幸でもなく、メアリーの行為は彼にとっては裏切りに他ならない。
悩んだマックスは、愛用のタイプライターから「M」のキーを取り外すと、メアリーに送りつける。
「M」はメアリーとマックスの共通の頭文字であり、このキーを外すという事は、もう手紙は書かないという決別の宣言だ。
てっきりマックスが喜んでくれると思い込んでいたメアリーは、自分のしてしまった事の意味にようやく気づき、愕然とする。
アダム・エリオットには、実際に長年に渡って文通しているニューヨーク在住のペンパルがおり、本作のプロットは彼の実体験がベースになっている。
ペンパルはマックスと同じ様にアスペルガー症候群で、マックスが彼だとするとメアリーがエリオットという事だろう。
自分のキャラクターを女の子にしたのは、より対照的なキャラクターにした方が映画としてわかりやすいという事だろうが、本作にはメアリーの他にもエリオットの自己投影と思われるキャラクターが存在する。
それはメアリーの幼馴染のダミアンだ。
彼は一時的にメアリーと夫婦になるのだが、ニュージーランドの男性ペンパルと恋に落ち、メアリーを捨てて出て行ってしまうのである。
ダミアンはエリオット同様にゲイであり、吃音という障害を抱えている。
人は皆違い、完璧な人間などどこにもいない。
エリオットは、本作を作った理由の一つが、アスペルガー症候群に関する誤解を解く事だと語るが、同時に障害や性癖など「人と違った事」を偏見で見ず、一つの個性として受け入れる事を説ている。
実際にエリオット自身も、病理震顫による痙攣を自分の創作スタイルに生かし、それは彼の作品の個性として認められているのである。
他人の心の中は本当は誰にもわからない、だからこそ自分の尺度で計るのでなく、他者を尊重し気持ちを思いやる事が大切なのだ。
因みにエリオットは現実のペンパルに対しては、きちんと映画を作る事を知らせて、了解をとっているそうだが、彼は自分の事が映画になる事に、全く関心を示さなかったという。
映像のクオリティは、文句なしに素晴らしい。
全体のタッチはいつものエリオット作品と変わらないが、その完成度は圧巻のレベルだ。
色彩設計はオーストラリアのメアリーの世界を土をイメージさせるセピア色に、ニューヨークのマックスの世界をコンクリートのモノクロ調に描写し、キーアイテムに赤などの強い色を使う事で浮かび上がらせている。
キャラクターはかなりカリカチュアされて造形されているが、基本的に描写はリアルだ。
太ったマックスは、いかにも重そうに動くし、決してマンガチックなウソの動きはしない。
この辺りの抑制も映画の世界のリアリティを高めている。
そして、丁寧にアニメートされたキャラクターたちに最終的に命を吹き込むのは、オーストラリアを代表する名優たち。
成長したメアリーをトニ・コレット、ダミアンをエリック・バナというビッグネームが演じているが、圧巻はやはりフィリップ・シーモア・ホフマンの熱演だろう。
彼は、灰色の巨漢マックスの心の機微を、繊細な演技で生身の人間キャラクター以上に完璧に演じ切り、オスカー俳優のさすがの貫禄を見せ付ける。
多くの観客は、マックスのぎこちない笑顔を忘れる事が出来ないだろうが、それはアニメーターと俳優が完全に心を一つにした結果なのである。
「メアリー&マックス」は、端的に言ってしまえば地味な人間ドラマだ。
映画としての完成度は極めて高いが、世間一般が“アニメーション”という言葉に期待する、カラフルで楽しげなイメージとはかなり異なった作品だろう。
だが私は、この決して可愛いくない、見方によっては不細工とも言える人形たちの物語に、笑い、怒り、哀しみ、ついには涙腺が激しく決壊してしまった。
彼らには、間違いなく本物の心が宿っている。
実はこの映画を観て、私が一番連想したのは、過去のアニメーション映画ではなく、21世紀に入ってからの、クリント・イーストウッド監督の一連の作品だ。
人と人との本当の絆を描いた本作は、今の日本に何よりも必要とされている作品だと信じる。
アニメーション映画史に残る、珠玉の一本である。
さて、メアリーの住む南部オーストラリアはワインどころとしても知られる。
今回は、メルボルンから程近いヤラ・ヴァレーに、ワイン評論家のジェームス・ハリデーが創設したワイナリー、コールドストリームヒルズの「シャルドネ 2007」をチョイス。
ややクセのある映画とは異なり、爽やかで非常に飲みやすい万人受けする上質のシャルドネで、メアリーの涙の様な優しい味わい。
コストパフォーマンスも高く、オーストリア旅行のお土産にもお勧めの一本だ。

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「イリュージョニスト」は「ベルヴィル・ランデブー」で知られるシルヴァン・ショメ監督が、母国の偉大な喜劇王、ジャック・タチの遺稿を元に作り上げた長編アニメーション。
1959年のスコットランド、エジンバラを舞台に、時代の波間に消えようとしている旅回りの奇術師(イリュージョニスト)と彼を本物の魔法使いと信じる少女の、奇妙でちょっと切ない絆の物語が、詩情溢れる美しいアニメーションによって描かれる。
豊かな歴史を持つフランス映画のエスプリを、十二分に堪能できる傑作だ。
旅回りの老奇術師、タチシェフ(ジャン=クロード・ドンダ)は公演でスコットランドの片田舎の島を訪れる。
宿で働く少女アリス(エルダ・ランキン)が、破れた靴を履いている事に気付いたタチシェフは、島を去る前に彼女に赤い靴をプレゼントする。
ところが、タチシェフの事を夢をかなえてくれる魔法使いだと思い込んだアリスは、タチシェフの旅について来てしまう。
自分は奇術師で魔法使いではない、とアリスに伝えようとするタチシェフだが、ゲール語しか話せないアリスにはなかなか伝わらない。
エジンバラの劇場に仕事を得たタチシェフは、やむなくアリスと奇妙な二人暮らしを始めるのだが・・・
主人公のタチシェフ、彼のモデルはオリジナル脚本を書いたジャック・タチその人である。
1907年にパリ郊外で生まれ、その生涯に5本の長編劇場用映画と幾つかの短編、テレビ映画を残したタチは、ロシア系のフランス人で、本名をジャック・タチシェフと言い、若い頃はパントマイム役者として劇場に立った事もある。
寡作だが、彼の作品と自らが演じた“ユロ氏”のキャラクターは、フランスのみならず世界中の映画人に大きな影響を与え、今も様々な形で彼にオマージュを捧げる映画作家は数多い。
最近ではリドリー・スコット監督の「プロヴァンスの贈りもの」の劇中で、代表作の「ぼくの伯父さんの休暇」が上映されていた他、タチという名前の犬が登場していたのは記憶に新しい。
本作のシルヴァン・ショメもタチの崇拝者の一人で、その偏愛ぶりは前作「ベルヴィル・ランデブー」にも見て取れる。
ショメは、タチが50年代に書き、未映画化のままになっていた脚本「FILM TATI No.4」に、タチ映画に対する自らの映画的記憶をも加味して、何とも儚く美しい物語を作り上げている。
本作には台詞らしい台詞は殆ど無く、映画文法的にはあたかもサイレント映画の様だ。
何しろ主人公であるタチシェフは片言の英語しか話せないフランス人で、一方のアリスはケルトに由来するゲール語しか話さないので、言語によるコミュニケーションが成立しないのである。
そもそもアリスがタチシェフを魔法使いと思い込んでいるのも、言葉が通じない故なのだが、こうしたコミュニケーションのすれ違いというのは喜劇の定番手法の一つであり、タチの作品にも多々見られる。
まあ本作の場合は笑いをとるための設定ではないのだが、意味のある台詞はタチシェフと絡む仕事関係の英国人との間でごく僅かに交わされる程度で、基本的に物語は映像によって語られる。
アニメーション技法的には、手描きと3DCGのハイブリッドで、両方の特徴を上手く生かして深みのある映像世界を作り出している。
デザイン画がそのまま映画になったかの様な水彩調の背景はリリカルで美しく、反面雨や霧、太陽光といった気象の表現は実写と見紛うばかりに写実的なのが特徴だ。
人物は基本手描きで、それぞれのキャラクターは専属のリードアニメーターが担当し、ちょっとしたクセや日常の細やかな仕草も、終始一貫して付けられている。
心の機微までが伝わってくる丁寧なキャラクターアニメーションだが、実は本作にはクローズアップのカットが存在しない。
カメラは終始引き気味の画で、可能な限り登場人物の全身が映るフルショットで捉えており、全てのカットが美しい絵画の様に構図が決まっている。
このあたりの手法は、タチの演出術のアニメーション的な再解釈と言えるだろう。
ショメは、タチが若い頃に両親の会社で額装の仕事をしていた事、ミュージック・ホールの舞台に立っていた経験が、フィックスとフルショットを多用する、彼独特の演出に繋がっているという。
なるほどそう考えて観ると、本作の映像はまるで額縁の中の絵、或いは舞台を見ているかの様だ。
キャラクターから演出まで、確かに本作はタチとショメという全く世代の異なる優れた映画人による、時空を越えたコラボレーションなのである。
もちろん、ショメは単に彼の中のタチ的なるものをトレースしているだけではない。
クライマックスの、3DCGならではのスペクタクルな大スピン映像などは、21世紀のアニメーション作家として意地と主張を感じさせる印象的なカットだ。
さて、映画ファンにとって、この映画で最も幸福な瞬間は、物語の終盤に訪れる。
図らずもアリスと暮らす事になったタチシェフは、彼女の夢を壊さないために、舞台の仕事だけでなく、慣れない洗車の仕事やデパートのショーケースの中での広告マジックという屈辱的な仕事までしてお金を作り、アリスに服や靴を買い与える。
だが、アリスにとってのタチシェフは、あくまでも自分の夢をかなえてくれる魔法使いで、恋人でも父親でもないのである。
タチシェフが仕事に明け暮れる間に、アリスは近所に住む青年と仲良くなる。
ある日、アリスと青年のデートを目撃してしまったタチシェフは、あわてて隠れようとして映画館に飛び込むのだが、そこで上映されているのが何と「ぼくの伯父さん」なのだ。
スクリーンの中のユロ氏(演じるは本物のタチ)とアニメーションで描かれたタチシェフは、しばしびっくりした様にお互いを見つめ合う。
実写とアニメーションという違いも、半世紀の時の隔たりも、軽々と乗り越えるこれぞ映画の奇跡を感じる瞬間ではないか!
そして、もうアリスに魔法使いは必要無い事を悟ったタチシェフは、彼女を残して再び孤独な旅に出る。
この時の彼は、既にイリュージョニストではない。
テレビとロックンロールの時代に、タチシェフの様な旅回りの芸人はもはや必要とされない。
仲間の腹話術師は人形を売ってホームレスとなり、アクロバット芸人はその技を生かして看板描きに転身、皆違う人生を歩み始める。
タチシェフもまた、奇術道具を売り払い、相棒のウサギを野に放してから旅立つのである。
物語の最後に、タチシェフがなぜアリスにあれほど親身になっていたのかという“理由”が明らかになる。
彼の終の旅路がどこへ向うのか、映画は明らかにはしないが、アリスとの生活に叶う事の無い魔法を見ていたのは、実はタチシェフの方だったのかもしれない。
「イリュージョニスト」は、シルヴァン・ショメが「ベルヴィル・ランデブー」にタチの「新のんき大将」の映像を使うために、権利者の中で唯一存命だった娘のソフィア・タチシェフに連絡を取った事から企画がスタートした。
ショメの仕事を気に入ったソフィアは、作品の使用を快諾しただけでなく、本作の脚本をショメに託し、四ヵ月後に亡くなったという。
こうして20世紀のフランス喜劇を代表するジャック・タチと、21世紀のフランスアニメーション界のエース、シルヴァン・ショメという二つの才能は、運命に導かれる様に出会い、宝石の様な美しい映画が生まれた。
ノスタルジックな映像はどこまでも切なく、去り行く者とその時代へと注がれる眼差しは優しい。
ジャック・タチとその作品を知っている方が深く堪能出来る事は間違いないが、仮に観た事が無くても、これ単体で十分に楽しめる作品である。
今回は奇術師の物語という事で、「マジック・トレース」をチョイス。
バーボン36ml、ドランブイ24ml、それにベルモット、オレンジジュース、レモンジュースをそれぞれティースプーン1杯づつ。
これらをシェイクして、グラスに注いで完成。
柑橘類のフレッシュな酸味と甘みはアリス、バーボンの深いコクはタチシェフを思わせ、ドランブイが二つを纏め上げて、じんわりと余韻を持たせる。
酒の味のコラボレーションを楽しめる一杯だ。

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「ファンタスティックMr.FOX」は、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」で知られるウェス・アンダーソン監督が、英国の作家ロアルド・ダールの児童小説「すばらしき父さん狐」を映画化した長編人形アニメーション映画。
ダールは「チャーリーとチョコレート工場」の原作者でもあり、また日本を舞台にした映画「007は二度死ぬ」や「チキ・チキ・バン・バン」の脚本も手がけた才人だ。
これが念願の企画だったと言うアンダーソンは、主人公のMr.FOXらユニークな動物たちと強欲な人間たちの戦いをコミカルに描きながら、独特の後味を持つシニカルな寓話に仕上げている。
凄腕の泥棒だったMr.FOX(ジョージ・クルーニー)も、息子のアッシュ(ジェイソン・シュワルツマン)の誕生を切っ掛けに足を洗い、今は新聞のコラムニストとして平凡な日々を送っている。
穴倉の家に暮らしているが、もっと良い所に住みたいと、丘の上に生える大木の家を購入したのだが、そこはボギス、バンス、ビーンズという人間の養鶏場と工場が目と鼻の先。
心に秘めていた野生の欲望が復活してしまったMr.FOXは、オポッサムのカイリー(ウォーリー・ウォロダースキー)を相棒に、毎夜養鶏場から獲物を盗みに出かけるようになってしまう。
怒った人間たちは、遂にMr.FOXを捕らえるために、重機を持ち出して丘を掘り返し始めるのだが・・・・
英国の田園風景を箱庭に収めた様な世界観は、絵本の挿絵の雰囲気をそのままに、優しいカラーでセンス良くまとめられて、なかなかオシャレ。
ここに暮らす動物たちは、一見すると擬人化されて人間の様な生活をしている。
彼らの社会も文明的で、弁護士がいたり、大工がいたり、子供たちは学校で野球とクリケットを合体させて、ややこしくした様な奇妙なスポーツを楽しんでいる。
主人公のMr.FOXは、狐色のスーツをダンディに着こなす新聞コラムニストで、狐のイメージ通りに頭脳明晰で狡猾。
声を担当するジョージ・クルーニーを、雰囲気そのままに動物化した様なキャラクターだ。
彼の盗みの相棒になるのがオポッサムのカイリーなのだけど、こっちはあまり頭がよくなくて、あまり沢山のインフォメーションを聞かされると、脳のキャパシティをオーバーして機能停止してしまう。
実際オポッサムという動物は、天敵に襲われると見事な死んだフリをする事で知られており、モデル動物の特徴を、上手くそれぞれのキャラクター設定に生かしている。
彼らの生活は、人間風ではあるものの、あくまでも本性は野生動物なのがミソ。
食事のマナーが思いっきり喰い散らかしだったり、興奮すると言葉を忘れて引っ掻き合ったり、人間っぽさと野生の部分のギャップがとぼけた味を生んでいる。
どちらかと言えばリアル系の、毛がふさふさした人形の造形は好みが分かれるだろうが、これは適度な現実感とワイルドさを感じさせる狙いだろう。
動物たちは多少の大小はあれど、皆それほどサイズは変わらない。
ウィレム・デフォーが楽しそうに演じる悪役ドブネズミなど、本来は遥かに大きいはずの狐と同じくらいの大きさに描写されるが、このあたりはキャラクター間のサイズの差異が大きいと、カメラの置き所に困ったり、アクションの掛け合いが成立しないなど、演出上の都合が大きそうだ。
まあリアル系の造形とは言っても、それは主に顔立ちであって、表情は人間並みに豊かだし、プロポーションなどはかなりディフォルメされているので、現実の動物とのサイズの差異にそれほど違和感は感じない。
アニメーションは丁寧だが、カクカクしたコマ撮り感を生かしたもので、動物たちの漫画チックでコミカルなアクションには、これぞ人形劇というワクワクする楽しさがある。
動物と人間の関係も、なかなかユニークだ。
人間たちは動物が一定の文明を持つ事を理解しているが、平和共存の関係には無く、お互いに相手をいなければ良いのにと思っている様である。
穿ちすぎかもしれないが、何となく彼らのいがみ合った関係は、植民地時代の列強と先住民の葛藤を連想させる。
動物たちは西欧風な生活スタイルを受け入れてはいるものの、精神文化の部分では相容れず、決して屈服しないという感じだろうか。
ただ、文明を持つ哺乳類の中で、どうも人間に買われている犬は例外で、彼らは“犬”という一つのカテゴリの生き物と、人間・動物双方から認識されているらしい。
物語は、二つの要素が絡み合って進行する。
一つはMr.FOXの野生への渇望が発端となった、人間との戦いだ。
泥棒家業だったMr.FOXは、子供が生まれることを切っ掛けに、Mrs.FOXに真人間(狐?)になる事を約束し、コラムニストとして生計を立てていたが、貧乏暮らしに嫌気が差し、引越しをした事から再び人間達の養鶏場から盗みを働くようになってしまう。
「何でまた盗みをするの?」とご立腹のMrs.FOXに、「だって俺って野生動物だから!」とあっさり答えるMr.FOX。
そこまでストレートに言われると、まあそうだよねと思うしかないが、当然のごとく怒り狂った人間たちは、動物たちに宣戦布告、狐だけでなく他の動物たちまで巻き込んだ大騒動に発展してしまう。
責任を感じたMr.FOXが、動物たちのリーダーとして、どんな解決法に導くのかというのが本作のメインストリーム。
そこに絡むのが、息子狐のアッシュを中心とした家族関係の物語だ。
アッシュは、スポーツ万能のMr.FOXとは違い、チビでひ弱でコンプレックスを感じている。
そんな時、全てにおいて自分よりも優れた親戚のクリストファーが家に預けられ、心を寄せていたガールフレンドをとられた挙句、父親までもが彼を褒めちぎる。
さらにMr.FOXが、泥棒の仲間に自分ではなくクリストファーを入れた事を知り、どんどんいじけて落ち込んでゆくのである。
自分の引き起こした騒動に、如何に決着をつけようかというMr.FOXの葛藤と、自分の事を認めてもらいたいというアッシュの願いという二つの流れは、やがてクリストファーが人間の手に落ちるという緊急事態を迎えて、クライマックスの一点に向って見事に収束して行く。
まあ一言で言えば、これはウェス・アンダーソン版の「平成狸合戦ぽんぽこ」であり、そこに浮かび上がるのは、“本当にあるべき自分とは何か?”というテーマだ。
Mr.FOXは野生の欲望に蓋をして、優等生の人生を歩んでみたものの、結局そこには自分らしく生きられる道は無かった。
父親として狐として、はたして自分はどうあるべきなのか?自らの引き起こした事件を通じて、Mr.FOXは今一度考える事になる。
アッシュは偉大な父親を越える部分を自分に見出せず、恥ずかしく感じていたが、そんな父親もまた葛藤を抱えていることを知り、彼を助ける事で自分も少しだけ成長する。
彼らだけでなく、人間との厳しい戦いを通して、全ての動物たちは今一度野生動物としての原点を取り戻し、それぞれに生きる道を新たにするのである。
だが、秘めたる野生の魂を解放し人間を出し抜いた結果、動物たちがたどり着いた“ハッピーエンド”は、英国の作家らしく、何とも皮肉に満ちたものだ。
商品にあふれ、塵一つ落ちていない巨大スーパーマーケットで祝宴を挙げるMr.FOXたちの姿に、終末を暗示させる哀しさと不気味さを感じたのは私だけだろうか。
文明と野生は、どこまでも相容れないのかもしれない。
今回は、劇中にも出てきたリンゴのお酒から、 ル・セリエ・ド・ボールの 「シードル・ドゥミ・セック」をチョイス。
リンゴを醗酵させた酒は欧州では非常にポピュラーで、英語ではCider(サイダー)、フランス語でCidre(シードル)と言う。
これはブルターニュ産のシードルで、フランス物では比較的珍しい発泡性の一本。
甘口でジュース感覚で楽しめ、コストパフォーマンスも高いため、若者に人気がある。
日本ではサイダーと言うと、ノンアルコールの炭酸飲料を連想するが、基本的に英国でサイダーと言えばリンゴ酒の事である。
ただしこれは国によっても意味が異なり、アメリカでApple ciderは普通のリンゴジュースを指すのでややこしいのだけど。
日本でもリンゴ酒として売られている酒はあるが、どちらかと言うと清酒や焼酎に漬け込んで造られた物が多く、欧州の物とはかなり異なる。

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コーエン兄弟による「勇気ある追跡」のリメイク企画が進行中で、しかも主演がジェフ・ブリッジスと聞いた時には意外な感じがした。
1969年に作られたオリジナルは、オールドハリウッドの象徴であるジョン・ウェインが、最初で最後のアカデミー主演男優賞を獲得した作品として知られる。
隻眼で大酒のみ、豪放磊落な保安官、ルースター・コグバーンはウェインの当たり役となり、75年にはキャサリン・ヘップバーンとの共演で、続編「オレゴン魂」も作られている。
だが、映画史的に見ると、67年にはアーサー・ペン監督が「俺たちに明日はない」を発表し、ハリウッドの本流は、古めかしい西部劇からニューシネマの時代へと大きく潮目が変わっている。
そしてコーエン兄弟にしても、ブリッジスにしても、明らかにニューシネマ寄りの才能であり、オリジナルが体現するオールドハリウッドとは相容れない様に思ったのだ。
まあ結果的に言えば、そんな心配は全くの杞憂だった。
「トゥルー・グリット」は、キャラクター造形を中心にオリジナルの長所を生かしながらも、作劇をモダンにリファインし、尚且つ“なぜ今この作品のリメイクなのか”という問いに明確な答えを出している。
正にリメイクのお手本、西部劇の歴史に生まれた新たなる金字塔である。
1870年代末のアーカンソー。
14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)は、雇い人のトム・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)に父を殺された。
チェイニーは、連邦保安官以外には手出しの出来ない先住民居留区に逃走。
マティは、大酒飲みだが“トゥルー・グリット”(本物の勇気)を持つと評判の保安官、ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)を雇い、チェイニーを追跡しようとする。
別の事件でチェイニーを追うテキサス・レンジャーのラビーフ(マット・ディモン)も加わり、三人は居留区の捜索に乗り出すのが、チェイニーは悪名高いネッド・ペッパー(バリー・ペッパー)率いる強盗団に加わっている事が明らかになる・・・
この作品を一言で表せば、親を殺された少女による復讐譚。
物語は極めてシンプルで、その分個性的なキャラクターたちによる人間ドラマの色彩が強い。
そのため、オリジナルでは2時間8分という比較的長めの上映時間のうち、捜索の旅に出るまでに50分近くを費やして、マティ、ルースター、ラビーフのキャラクターをじっくりと描いていたが、リメイク版ではこの前半部分を30分程度に短縮している。
それでも、シーン構成や台詞の工夫によって、個々の人物像を効率的に描写する事で、キャラクターの魅力はしっかりと伝えている。
主人公のマティは、14歳にして父の経営する農場で経理を任されており、その押しの強さ、口の立つ事と言ったらナニワのおばちゃんもびっくり。
「弁護士のダゲッド先生に頼んで、訴えるわよ!」が口癖で、交渉術も大人顔負け。
あっという間に保安官を雇う経費を捻出し、自分の乗る馬までも手に入れてしまう。
演じる新星ヘイリー・スタインフェルドは、マティ役でいきなりアカデミー賞の助演女優賞ににノミネートされた注目株だが、基本的にこの話はマティを語り部に、彼女を軸に話が進んで行くので、よく考えるとなんで主演女優賞にノミネートされなかったのか不思議。
そして、ルースター・コグバーンを演じるのはジェフ・ブリッジス。
あまりにもジョン・ウェインの印象が強い伝説的なキャラクターだが、意外や意外、これが驚くほどのはまり役で、元祖のウェインに決して負けていない。
孫ほどの年齢の雇い主を、最初は子ども扱いしつつも、やがて徐々に心を通じ合わせる繊細な演技、平原を駆け抜けながらの馬上の決闘という、西部劇ファンが泣いて喜ぶ見せ場まで、重量級の存在感を見せ付ける。
そしてもう一人、テキサス・レンジャーのラビーフを演じるのはマット・ディモン。
リメイク版の大きなポイントが、ラビーフの単独行動が多い事だろう。
オリジナルでも、このキャラクターの扱いには脚本家が苦戦した跡が見えたが、コーエン兄弟は本作を明確にマティとコグバーン二人の物語とし、ラビーフに関しては脇役と割り切って構成している。
そのため、彼の出番その物はあまり多くないのだが、別行動している事で、オリジナルとは異なる見せ場を作り出しているのである。
例えば、川辺の小屋でネッド・ペッパーを待ち伏せするシーンは、オリジナルでは三人の共同作戦だったが、リメイク版では崖の上でマティとコグバーンが待ち伏せしているのを知らないラビーフが、偶然小屋の前でペッパーと鉢合わせしてしまう。
カメラはマティの視線で、眼下で起こっている事を俯瞰のロングショットで捉えて行く。
観客はマティと同じ様に、下で何が起こっているのかが良くわからず、これから何が起こるのかを予測できずに非常にスリリングだ。
ただ、この様に細部は異なっているものの、基本的に復讐を果すまでの物語はオリジナルとそう大きくは変わらない。
快調なテンポを持つ良く出来た娯楽映画ではあるが、なぜ今この作品をリメイクしたのかという“理由”は、この時点ではまだ見えないのである。
マティら三人は、紆余曲折の末にチェイニーを含むペッパーの一味と対決し、マティがチェイニーを射殺する。
だがその時に、マティは誤って蛇の巣穴に落ち、ガラガラ蛇に噛まれてしまう。
コーエン兄弟が、2010年の現代にこの作品をリメイクした真の理由、本物の映画力を見せ付ける圧巻のクライマックスはここからだ。
毒が体中にまわる前に、傷ついたマティを医者に診せるために、コグバーンが馬で運ぶ。
朦朧とする意識の中で、マティが見たもの。
それは彼女の復讐の結果である、平原に横たわるいくつもの死体。
やがて空には降る様な星空が広がり、西部の大自然の美しさと人間のちっぽけさを際立たせ、賛美歌「主の御手に頼る日は」の郷愁を誘うメロディが、画面にぴったりとはまり情感を盛り上げる。
この歌の歌詞は、神の御手の導きを信じて進めば、何も恐れることはなく、心は常に平穏でいられるという意味で、マティの見せる子供とは思えない信念と、タイトルでもある“本物の勇気”の拠り所が見て取れる。
音楽はいつもの様にカーター・バーウェルが担当しているが、賛美歌をテーマ曲として使いながら、映画的記憶を刺激する正統派西部劇らしいスコアを提供しており、彼のベストワークの一つと言って良い。
そして、マティの命を救うために、懸命に走り続けた愛馬リトル・ブラッキーも、遂に力尽きる。
瀕死の状態の馬を苦しませないために、コグバーンはマティの目の前でリトル・ブラッキーを射殺するのである。
馬が倒れる描写はオリジナルにもあったが、それはルースターの馬で、リメイク版ではあえてマティの愛馬を使い、廃馬するまでを見せる事で、復讐の代償としての彼女の痛みを増幅させている。
弱肉強食の西部で、マティは見事に父の仇を討ち、それはおそらく当時の規範からすれば、正しいとされていた行為たったはず。
しかし、結果的にそれがもたらしたものは一体何か。
実のところ、クライマックスからラストにかけても、構成要素としてはオリジナルとそれほど変わらない。
コーエン兄弟は、それらの演出的な解釈を変える事で、作品に現代的な視点と新たなテーマを与える事に成功しているのである。
唯一オリジナルと大きく異なるのが、物語の後日談として四半世紀後のマティが描かれる事だろう。
この部分は、ちょっと昨年の傑作アニメ「ヒックとドラゴン」にも通じる驚きの仕掛けがしてあるのだが、リメイク版のテーマを決定付けていたと思う。
正直、復讐を果すまでの展開は幾つか気になる点もあったのだが、怒涛のクライマックスは正に映画、些細な欠点を全て吹き飛ばすくらいの圧倒的な力があった。
もしも本作を気に入った人には、是非69年版の観賞もお勧めしたい。
オールドハリウッドが最後の輝きを見せたオリジナルと、同じ物語でありながら明らかに9.11以降の二十一世紀の空気を持つ本作。
二つの作品を観比べる事が出来るのも、リメイク物の醍醐味だ。
コーエン兄弟は、これはあくまでもチャールズ・ポーティスの原作の再映画化であって、69年版の影響は受けていないと語っているが、その割には細かい描写がオーバーラップする場面も多く、本当は結構研究している気がする(笑
因みに、今年のアカデミー賞レースでは、本作は10部門のノミネートを受けていながら、残念ながら無冠に終わった。
まあアカデミー賞が西部劇に冷たいのは昔からだし、さらにリメイク物というハンディも考えれば、無冠の理由は想像できるが、これはオールドハリウッドとニューシネマが、40年の時を経て幸福な邂逅を果した記念碑的な名品である。
ハリウッドは、この映画に何らかの賞を贈っても良かったように思うのだが。
今回は、ちょっと影の薄かったラビーフの出身地、テキサスの名を持つバーボン「イエロー・ローズ・オブ・テキサス」の12年ものをチョイス。
とは言っても、これを作っているのは二世紀以上の歴史を持つケンタッキー州の老舗、ケンタッキー・リザーヴ・ディスティリングなのだけど。
50度以上の強い酒だが、喉ごしは意外にまろやかで、柔らかな香りが余韻を演出してくれる。
「テキサスの黄色いバラ」とは、南北戦争時代に流行したバラードのタイトルで、「テキサス美人」を表す言葉。
本作は南北戦争の十数年後が舞台で、コグバーンもラビーフも従軍経験者として描かれている。
彼らもきっと、このバラードを聴いていたに違いない。

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ベースとなっているのは、グリム童話の「髪長姫」だが、髪の長い少女が塔に幽閉されている事以外、殆どオリジナルと言って良いほどに脚色されており、もちろん原作初版にある様なちょっとエッチな描写も無い。
変わって、ここで描かれるのは、庇護された世界からの自立という、ティーンエイジャー誰もが経験する普遍的な葛藤の物語だ。
さすがディズニーと思わされる、美しい映像に、素晴らしい音楽、楽しいキャラクターたちが御伽噺の世界を彩り、ダイナミックなカメラワークと濃厚な空気感を伴った立体効果はCGならでは。
キャラクターの設定も現代的だが、手描き時代のスタッフが数多く参加している事もあり、全体の雰囲気は良い意味で古典的なプリンセス物に近く、クラッシックとモダンの理想的なマリアージュを見る事が出来る。
ラプンツェル(マンディ・ムーア)は、深い森の中の高い塔に住む、驚くほど長い髪を持つ17歳の少女。
彼女の髪をはしご代わりにして、塔に出入りする母のゴーテル(ドナ・マーフィ)には、外の世界は恐ろしく、この塔からは決して出てはいけないと言い聞かされている。
だが彼女は、毎年自分の誕生日に、夜空に現れる沢山の光に気付いていた。
一体あの光は何だろう?自分と何か関係があるのだろうか?
18歳の誕生日を二日後に控えたある日、ラプンツェルは兵隊に追われて塔に逃げん込んできた泥棒のフリン(ザッカリー・リーヴァイ)と出会う。
初めて見る男性に警戒心を隠せないラプンツェルだったが、フリンは空の光は生後直ぐに行方不明になったプリンセスのために、国王夫妻が毎年空に飛ばすランタンだと語る。
ラプンツェルは、フリンを案内役に塔を抜け出して、それを見に行く事にするのだが・・・・
原作では、妊娠中の母親が、魔女の庭に生えているラプンツェル(野菜の野ぢしゃ)を食べた事で、生まれた娘を奪われてしまうが、映画では天界から降ってきた奇跡の花を、魔女のゴーテルが隠している。
この花は、あらゆる怪我や病気を治す不老不死の力を持ち、そのおかげでゴーテルは数百年もの間若い姿を保っているのである。
ところが妊娠中の王妃が病気になり、奇跡の花を探す兵士によって、花は持ち去られてしまう。
王妃は、その花を煎じて飲む事で助かり、無事に女の子を出産するが、奇跡の力は生まれた娘の髪の毛に宿っており、ゴーテルが不老不死でい続けるために彼女を攫ったという設定だ。
髪の毛に宿る奇跡の力とは、なかなかミステリアスだが、更にこの魔力は髪を切ると消えてしまうと言う設定が加えられており、終盤の重要な伏線になっている。
全体にロココ調でまとめられたビジュアルは文句なしの素晴らしさで、神秘的な森やカラフルな街はファンタジーの楽しさに溢れている。
特に、無数の孔明灯が空も湖も埋め尽くすランタン祭のシーンは息を飲む美しさだ。
三国志の小道具を、こんな風にロマンチックに使うとは、正にアニメーションならではのセンス・オブ・ワンダーである。
キャラクターデザインも、80年代以降のディズニーの手描きテイストを、非常に上手くCGキャラクターに置き換えている。
CGによる人間のキャラクターの表現というのは、その黎明期からトライ&エラーが繰り返されてきたが、これは手描きアニメ調のキャラクターとしては、現時点でのベストと言って良いのではないか。
大きな目でクルクルと表情の変わるラプンツェルは、キュートで魅力的だし、優男のフリンや彼らを助ける荒くれ者たち、魔女のゴーテルらもそれぞれ特徴的でなかなかに良い造形だ。
お約束の動物のお友だちは、カメレオンのパスカルと馬のマキシマス。
彼らはある程度擬人化されているものの、いつものディズニーキャラの様に喋ったりはしない。
その代わりに、コミックリリーフとしての絶妙なギャグや、迫力満点のアクションで魅せてくれる。
特に馬のマキシマスとフリンとの追っかけこは、まるで「未来少年コナン」や「ルパン三世」のルパンと銭形など、宮崎アニメを思わせるコミカルな物で、過去のディズニー作品とは一線を画する楽しさがある。
同じ事は悪役であるゴーテルの設定にも言え、彼女は魔女とは言っても、特に魔法を使える訳でもなく、ラプンツェルの髪の毛のお陰で不老不死でいるだけ。
彼女の持つ最大の力は、要するに人を陥れる“ウソ”であり、それ故に絵空事の世界を超えて、悪役としてのリアリティを感じさせるのである。
全体に、本作は過去のディズニープリンセス物と比べると、世界観やキャラクターデザインは古典的だが、個々のキャラクター設定や描写は、若干モダンかつリアリズム寄りになっており、それは作品のテーマを考えれば納得がいく。
生後直ぐに攫われたラプンツェルは、ゴーテルが実の母親だと信じ込んでいて、塔に閉じ込める事で邪悪な外の世界から守っているというゴーテルの言葉に疑いを持たない。
本作の脚本家が、グリム兄弟の原作以上に影響を受けていると思われるのが、レイ・ブラッドベリの短編小説、「びっくり箱」だ。
まあ、この作品自体が「髪長姫」の再解釈なのだが、こちらでは世界が邪悪で満ちていると信じる母親が、塔の様な家に12歳の息子を監禁している。
息子はその家こそが“世界”であり、外へ出れば死んでしまうと教えられて育つのだが、母親の死を切っ掛けに“世界”は崩壊し、彼は初めて本物の生へと歩み出し、歓喜するのである。
ここで描かれるのは、母親に吹き込まれた偽の世界の殻を破り、自由で自立した世界へと踏み出す葛藤と喜びであり、ロマンス要素の強い原作よりも本作に近い。
ブラッドベリの小説と本作が異なるのは、主人公を閉じ込めているのが、狂気の母性愛ではなく、利己的な偽りの愛であり、解放の切っ掛けが母親の偶然の死でなく、自立を求める自然な成長であるという点だ。
物語の前半は、ラプンツェルがゴーテルの本当の狙いを知らないので、庇護者のゴーテルと巣立って行こうとするラプンツェルの親子的な対立が軸となり、ラプンツェルの脱出は自立のための冒険と言えるだろう。
そして全てが明らかになる後半は、自分のために他人を犠牲にするゴーテルのエゴイズムと、お互いを想うラプンツェルとフリンの自己犠牲的な愛という、明確な対立点が作り出されて、物語を盛り上げるのである。
「塔の上のラプンツェル」は、歴史を継承しつつも、現代的なセンスと最新のテクノロジーで作り上げられた、21世紀に相応しい新時代のデジタル・ディズニー・プリンセス物の秀作だ。
「カーズ」 「ボルト」などを手がけたダン・フォーゲルマンの脚本はシンプルかつ丁寧で、バイロン・ハワードとネイサン・グレノの演出は伝統に裏打ちされたアニメーション技術に、新しいスパイスを絶妙にブレンドしている。
古典的な“プリンセス物の常識”を逆手にとった洒落っ気のあるラストなど、思わずニヤリとさせられた。
老若男女誰にでもお勧めできる一本であるが、願わくばこの元気が出る物語を、東北の被災地の子供達に見せてあげたい。
今はまだ難しいだろうが、もう少し被災地の環境が落ち着いたら、例えばNGOに委託する形でブルーレイによる巡回上映など出来ないものだろうか。
世界の人々に夢を与え続けてきた、ディズニーにしか出来ない貢献だと思うのだが。
今回は、ディズニー・プリンセスの第一号、白雪姫の名を持つカクテル、「スノー・ホワイト」をチョイス。
氷を入れたグラスにアップルワイン30mlとウォッカ15mlをシェイクして氷を入れたグラスに注ぎ、スプーン一杯のグレナデン・シロップを加える。 リンゴのスライスを添えても良い。
甘くて酸っぱいリンゴの風味が爽やかに広がる、大人の入り口にちょうど良いロマンチックなカクテルだ。
ちなみに、ディズニーの公式サイトによると、本作のラプンツェルは白雪姫から数えて10人目のディズニー・プリンセスに当たるのだそうな。
もっとも、リストを見ると別にプリンセスじゃないムーランが含まれていたり、動物や半分実写キャラだからなのかプリンセスなのに「ロビン・フット」のマリアンや「魔法にかけられて」のジゼルが省かれていたり、イマイチ基準が良くわからないけど。

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当時のアルジェリアはイスラム過激派の台頭によって内戦状態に陥り、外国人の襲撃が相次いでおり、殺された僧たちにも再三の帰国勧告が出されていたという。
彼らは何故、身の危険が迫る切迫した状況の中、あえて異国に留まったのか?
これは、事件に至るまでの彼らそれぞれの葛藤を描いた、内的な心理ドラマだ。
ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデールらフランスを代表する名優たちが信仰という絆で結ばれた僧たちを演じ、監督は「ポネット」のお父さん役などで俳優としても知られるグザヴィエ・ボーヴォワ。
2010年度カンヌ映画祭グランプリ受賞作である。
北アフリカ、アルジェリアの、アトラス山脈の山間にある修道院。
ここでは、クリスチャン(ランベール・ウィルソン)ら8人の僧たちが、信仰に身をささげた自給自足の生活を送っている。
彼らは医療などの奉仕活動を通じて、イスラム教徒の村人たちとも、信頼と尊敬に基づく良好な関係を築き上げていた。
ところが、アルジェリア政府とイスラム過激派の戦闘が激化し、過激派のターゲットがいつしか国内の外国人に向けられるようになる。
修道院にもテロの恐怖が迫る中、僧たちは村人を見捨てて去るのか、それとも殉教を覚悟して残るかの決断を迫られるのだが・・・・
アルジェリアは嘗てのフランス植民地で、今もフランスと関係が深い。
フランス語がかなり通じる事もあり、フランスで移民として暮らすアルジェリア人も数多く、本作の様なカソリックの修道院も、植民地時代からかなりの数が存在していた様だ。
だが1991年の総選挙で、イスラム原理主義政党が圧勝すると、世俗主義を国是とする軍がクーデターを起こして介入し、選挙結果を無効としたことから、軍とイスラム過激派の対立が激化。
やがてアフガン帰りのムジャヒィデンが過激派に流入した事から、次第に凄惨な無差別殺戮を繰り返すテロ集団と化し、アルジェリアは血で血を洗う泥沼の紛争へとはまり込んでゆく。
本作は、アルジェリアの治安が最悪の状況へと向う時代に、実際に起こった事件を元にしている。
7人の僧の殺害に関しては、武装イスラム集団(GIA)が犯行声明を出したものの、実行犯など事件の詳細については未だに謎が多く、解明されていない。
だが、本作は事件その物に関して深くは踏み込まない。
アルジェリアとフランスの歴史が関わる、極めて政治的な事件にも関わらず、そのあたりはアルジェ政府の高官がクリスチャンに対して「(アルジェの現状は)フランスの植民地政策のせいだ。フランスの搾取が原因だ」と毒づく描写がある程度。
まあフランス社会におけるある種のタブーが含まれている事もあるだろうが、これはあくまでも生と死を選択する現実に直面した人間たちの、内面の葛藤を描いた物語だという事だろう。
クリスチャンらは、最初から危険なアルジェリアに留まって、殉教しようと決めていた訳ではない。
信仰に生きてはいるが、ごく普通の人間として描かれる彼らは、我が身に迫る危険に慄き、自分の中にある生への執着を隠そうとしない。
全てを捨ててフランスへと帰るか、それとも自分達を必要としてくれる村に留まるか。
最初の意思表明では、帰国派と留まる派、事態の推移を見守る派に分かれる。
結局、もうしばらく様子を見ようという事になるのだが、それからの生活は、死を意識しながら自分の中にある信仰と改めて向き合う時間となる。
彼らは、表向き平和で静寂な暮らしを続けながらも、それぞれが個性ある一人の人間として苦しみ、恐れ、葛藤するのである。
流れは淡々としているものの、ボーヴォワは一人一人の苦悩を丁寧に描写し、飽きさせる事はない。
本作には、僧達が唄う聖歌以外の音楽が存在しない。
唯一の例外が、事件前夜の晩餐のシーンで、ラジカセから流れてくるチャイコフスキーの「白鳥の湖」である。
バレエ「白鳥の湖」では、悪魔によって白鳥に姿を変えられた善良な娘オデットが、王子ジークフリートの愛を得るが、王子は悪魔の娘に騙されてしまう。
王子は戦いの末に悪魔を打ち破るが、オデットの魔法は解けず、悲しんだ王子は湖に身を投げ、オデットと王子の魂は、来世で結ばれるために共に天へと昇ってゆく。
悪魔の誘惑に葛藤し立ち向かい、結果的に神の国へと旅立ったオデットと王子の姿が、本作の僧たちと被る事は言うまでも無いだろう。
この晩餐の時点では、彼らはもう何が起ころうがこの国に留まる事を決めている。
美しい調べにのせて、カメラはゆっくりと列席する男たちの表情を描写して行くが、皆憑き物が落ちたかのような清々しい顔をして、中には感極まって涙を流す者もいる。
明らかにキリストの最後の晩餐を意識したこのシーンでは、男たちはまるで自分の運命を予見して、残された最後の生を満喫しているかの様に見えるのである。
タイトルの「神々と男たち」は原題直訳だが、これは映画の中でクリスチャンによって読まれる詩篇82篇の、「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ」という一節からとられている。
つまり、神の子である人は皆己の中に神を宿しており、修道僧はもちろん、それ以外の人間、例えば僧たちを殺すイスラム過激派も含めて、皆等しく神の子なのである。
だが、次の節はこう続く「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう」と。
人間はたとえ神のごとき振る舞いをしたとしても、結局は自らの上に真の裁きを与える者がいる事を忘れてはならない。
その為に、神は死という運命を持って、人を人たらしめているのである。
したがって、信仰と神を受け入れるという事は、どのように死を受け入れるのかという事と直結している。
結果的に生き残る最長老のアメデ修道士を含め、彼らの選択は様々な解釈が可能だ。
ストイックに自分の生きる道を究めた結果の死と捉える人もいるだろうし、単なる狂信的な集団自殺に過ぎないと思う人もいるだろう。
外界とのコミュニケーション手段は、基本的に電話一本とポンコツの自動車一台だけ。
インターネットなど存在せず、全員が自分達の置かれた状況をきちんと把握していたのかは微妙なところだ。
もっとも信仰という絆に結ばれた擬似家族である彼らに、他の選択はもとより無かったのかもしれない。
さて、カソリックの儀式において、キリストの肉体とされるのはパン(ホスチア)で、キリストの血とされるのはワインである。
古来より修道院はワイン醸造と切り離しては語れず、欧州のワイン銘柄は修道院にルーツを持つものが数多くあり、また醸造施設として古い修道院が使われている事も多い。
今回はフランス、ヴォジョレーのルイ・ジャド社の「マルサネ・ルージュ」の2007をチョイス。
まだ少し若いが、パワフルなボディを持つ辛口の赤。
ここの地下ワインセラーは、隣接するジャコバン修道院の地下と共用されている事で知られる。
これもまたキリストの血なのである。

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![]() マルサネ・ルージュ[2007]年・ルイ・ジャド社・AOC・マルサネMARSANNAY Rouge [2007] Louis Jad... |


事故で子供を喪った夫婦が、心を癒すために訪れた森で、狂気の地獄に溺れてゆく。
「アンチクライスト」という直球なタイトルに、セックスとバイオレンス絡みのセンセーショナルな話題が先行していたが、実際のところそこまで過激な作品とも思えない。
確かにイタタな描写はあるものの、全体としては極めてロジカルに計算され、Jホラーのテイストなども加味されて仕上げられた、宗教的暗喩劇である。
情事の最中に、転落事故で幼い息子を喪った夫婦。
悲しみと自責の念から、妻(シャルロット・ゲンズブール)は精神のバランスを崩して入院してしまう。
薬に頼る治療法に懐疑的なセラピストの夫(ウィレム・デフォー)は、彼女を退院させ心理セラピーを試みる。
妻の恐怖が、森の記憶からやって来る事を突き止めた夫は、恐怖の根源と向かい合う事が必要と考え、彼女を連れて彼らが“エデン”と呼ぶ森の小屋にやって来る。
だが、森の自然現象は妻の心をさらに蝕んでゆき、やがて息子の死に関する恐ろしい記憶を呼び起こす・・・
物語は「プロローグ」「悲観」「苦しみ」「絶望」「三人の乞食」「エピローグ」の六つのチャプターからなるが、基本的にキリスト教における根源的な矛盾に直面した作者が、信仰を反転させた視点から描く事で、バランスをとろうとした物語と言えるだろう。
「プロローグ」では、主人公である夫婦の情事と子供の転落死が、ヘンデルの「私を泣かせてください」の調べにのせて、モノクロのスーパースローで描かれる。
降りしきる雪の中、思わず息を呑むほどに美しく描写されるこのシークエンスによって、これが性と死に支配された作品である事が強く示唆される。
続く「悲観」では事故のトラウマに苦しむ妻と、彼女を治療しよとする夫の関係が描かれるが、ここでちょっと面白いのは、夫がまるで罪の意識を抱えていない事である。
セックスしていた最中の事故なのだから、二人とも同じように心の傷を抱えていても良さそうなものだが、夫はまるで初めから罪を犯したのは妻であると思い込んでいる様にも見える。
本作は、カンヌで主演女優賞を受賞した一方で、女性蔑視が甚だしいとして監督のラース・フォン・トリアーに“アンチ”賞が送られたという。
まあトリアーが女性にやたらと厳しいのは以前からだが、キリスト教が元々男性原理的な宗教である事を考えると、本作の場合はあえて狙ってやっているのではと思う。
キリストを“男”と捉えれば、アンチクライストとは“女”の意でもあり、“キリスト=善”であれば“女=悪”というロジックが生まれるのである。
夫は、セラピーを通じて妻の恐怖の原点が森であると確信し、「苦しみ」以降のチャプターの舞台は、彼らが“エデン”と呼ぶ混沌の森へと移る。
ここでモチーフになっているのは、楽園追放とキリストの誕生のエピソードであり、物語の構成要素の多くは聖書の反転だ。
エデンの森とは勿論楽園の比喩で、小屋はキリストが生まれた馬小屋に対応する。
深い緑に囲まれてセラピーを続ける夫だが、森の状況はあまりにも不気味で、超自然的な様相を帯びて来る。
夜な夜な屋根を打つドングリの落下音、言葉を喋る狐に、死んだ胎児を引きずる雌鹿。
「森は悪魔の教会」という妻の精神状況はますます悪化し、性の狂気は何かに取り憑かれたかの様に加速してゆく。
過激さが話題になっているセックス描写も、キリスト教の矛盾点を克明にする。
まあ聖書の解釈は宗派によっても、個人によっても様々だが、神は愛であると説き、子孫繁栄を奨励しながら、同時に淫欲は罪であるとも定義する。
実際聖書にも、よくよく考えれば一体どっちなんだよ!と解釈に困る性愛のエピソードがいくつも出てくるのである。
果たして妻のセックスは、愛の表現なのか、それとも悪魔の誘いなのか。
やがて夫は、妻がこの小屋で悪魔崇拝や魔女の研究をしていた事を知り、彼女が息子を虐待していて、息子の事故すらわざと見逃したのではと疑念を深めてゆく。
そして夫が自分を棄てるのではないかと恐れた妻は、セックスの最中に夫を殴り倒すと、ドリルで彼の足に穴をあけ、大きな砥石を足かせとしてボルト留めする。
この痛々しい描写はそのままクライマックスにつながるのだが、宗教的世界観の中でここだけがちょっと通俗的なスプラッター映画の様で、精神のメタファーとしての描写が大半である本作においては、やや違和感があった。
「俺を殺すのか?」と聞く夫に、妻は「まだだ」と答え、「三人の乞食がやって来た時、誰かが死ぬ」と言うのである。
この三人の乞食は、聖書にある東方の三賢人の反転だ。
東方の三賢人は、キリストの誕生に際して三つの贈り物を届けたとされ、まあ最初のクリスマスプレゼントと言えるかも知れない。
一般に青年、壮年、老年の姿で描かれる彼らとその贈り物は、文明であり秩序であり権力の象徴だ。
対する三人の乞食は狐と鹿とカラスという動物の姿をしており、彼らが象徴するのは原初の森と本作のチャプター名となっている、悲観、苦しみ、絶望であろう。
元々キリスト教の神は、ある意味理性と秩序を具現化した存在であり、その根底にあるのが文明である。
逆に、人知の及ばない混沌とした自然=森は、悪魔の支配する魔の領域で、昔話の「赤頭巾ちゃん」や最近では「ブレアウィッチ・プロジェクト」など、キリスト教圏において、森が恐怖の対象として描かれるのはこのためだ。
悪魔の教会である森に三人の乞食が揃った時、生まれ出るものこそ、キリストならぬアンチクライストという訳だ。
そして本作のエデンの森は、聖書の楽園追放の物語とは逆に、ある者たちの魂を迎え入れる場なのである。
その事が具体的に描写されるラストに至って、なるほどこりゃ女性蔑視と言われる訳だと納得した。
「アンチクライスト」はトリアー自身が「自分のうつ病の治療のために書いた」と語っている様に、彼の感じた神の存在とキリストの正当性に対する疑念と、そこから導き出される反作用を描いた作品だと思う。
したがって、キリスト教徒でもなく、そもそも自然を悪魔どころか崇拝の対象とする多くの日本人にとっては今一つピンと来ない一本だろう。
もちろん、散りばめられた宗教的な暗喩と、美しく工夫の凝らされた映像表現は良く出来ているし、主演のシャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォーの怪演は一見の価値がある。
妻は悪魔の研究を通して、自らを悪魔と一体視し、緑の地獄へと夫を誘い込む。
結果だけを見れば、トリアーは、内的葛藤を悶々と繰り返した末に、男性原理的なキリスト教の解釈へと戻っていっただけではないかと思えなくもない。
だが実は、罪を共有しながらそれを無意識に妻に転化し、独善的に彼女を分析して理性と秩序に導こうとするのは夫である。
妻の行動は最初から彼女を治すべき者、無秩序な者として扱った夫との関係の結果であり、要するに彼女が自分を悪魔と一体視した原因は夫なのだ。
果たして夫の最後の行動を、妻を救おうとする究極の愛の形として捉えるか、それとも自己矛盾の封じ込めに過ぎないと捉えるか。
トリアーは“治療”のために、自己と信仰の矛盾を男女の関係に象徴させて映像化する事で、何とか精神のバランスを保ったかの様に見える。
まあその為に、極めて道具的に女性という存在を扱っているのは確かで、本作を嫌悪する人が多くいる事は何ら驚きではない。
今回は、悪魔の教会である森にちなんで「グリーン・デビル」をチョイス。
ドライ・ジン50ml、クレーム・ド・ミント・グリーン25ml、レモン・ジュース適量をシェイクして、氷を入れたグラスに注ぎ、あればミントの葉を添える。
名前の通り緑色で、かなり辛口のカクテルだが、ミントのフレッシュな香りが広がり、後味は爽やかだ。

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悪魔そのものの様な殺人鬼を演じるのは、「オールド・ボーイ」で知られる名優チェ・ミンシク、彼を執拗に追い続け、いつしか自らも血みどろの地獄へと堕ちてゆく主人公を、イ・ビョンホンが演じる。
二大スターの火花散る対決を盛り上げるのは、「グッド・バッド・ウィアード」のキム・ジウン監督。
「悪魔を見た」(原題同じ)というタイトルが、観客の想像力を刺激しつつ、物語のテーマを暗示していて秀逸だ。
粉雪が舞う冬の日、一人の女性が失踪し、数日後バラバラ死体となって発見された。
彼女の名はジュヨン(オ・サナ)といい、引退した重犯罪科のチャン刑事(チョン・グックァン)の娘だった。
捜査が行き詰まる中、彼女の婚約者で国家情報院捜査官スヒョン(イ・ビョンホン)は、独自の捜査で塾のバス運転手のギョンチョル(チェ・ミンシク)が犯人だと確信する。
塾生の女生徒を、ビニールハウスに連れ込んだギョンチョルの元にスヒョンが現れ、彼を気絶させる。
目を覚ましたギョンチョルは逃走を図るが、それはスヒョンによる恐るべき復讐計画の始まりだった・・・
またまた韓国発の強烈な猟奇殺人物である。
そのうち日本の時代劇、アメリカの西部劇などと同様に、猟奇殺人物といえば韓国が枕詞になるかもしれない。
相変わらず韓国警察の現場保存は無茶苦茶いい加減で、裏をかかれっぱなしの捜査能力もかなり無能に描写される。
この国の、国家権力に対する不信は根深いものがありそうだ。
登場する猟奇殺人犯も、欲望のままに女性を攫い、犯し、殺すという正に血も涙も無い悪魔の如きキャラクターに造形されている。
しかも今回は一人だけではなく、途中からお仲間まで出てくるので、なんだか映画を観ていると、韓国は警察が役立たずで、猟奇殺人犯が溢れかえっている恐ろしい国に思えてくるよ。
殺人鬼ギョンチョルを演じるチェ・ミンシクは、「オールド・ボーイ」では復讐する方だったが、今回は復讐される側に立場が逆転。
何しろ殺した女の婚約者スヒョンは、非合法捜査ならお手の物の本職のスパイである。
まあこの設定そのものが、かなりご都合主義の気もするが、とにかく狙った相手が悪かった。
復讐鬼と化したスヒョンは、ギョンチョルを襲撃して気絶させ、その間にGPS盗聴器のカプセルを飲み込ませ、わざと逃亡させる。
簡単に殺すつもりはなく、相手の手の内、行動を全て把握した上で追跡し、少しずつなぶり殺すつもりなのだ。
逃げても逃げてもいつの間にスヒョンが自分の前に現れ、最初は腕、次は足と体の機能を奪われてゆく。
正に恐怖のキャッチ&リリースである。
ギョンチョルは、嘗てのお仲間カップルが、オーナー一家を惨殺して乗っ取った森の中のホテルに逃げ込んだものの、ここでもスヒョンに歯が立たず、お仲間カップルともどもボコボコにされてしまう。
もっとも、物語的にはそろそろ蹴りをつけないと流れが変わっちゃうよ~というタイミング。
劇中でも、スヒョンがギョンチョルを追い詰めている事を知っているチャン刑事や国情院の部下が忠告するのだが、スヒョンは耳を貸さない。
案の定、殴られ切られ、それでも闘志を失わないギョンチョルが、「冷たい熱帯魚」のでんでんも真っ青のしつこさで復活。
偶然にも自分の胃の中のGPSカプセルの存在を知ったギョンチョルは、下剤でそれを取り出すと、姿をくらましスヒョンに対して反撃を開始する。
その方法は、なんとジュヨンの父親であるチャン刑事と妹を殺し、その後で自首するというもの。
実質的に死刑の無い韓国では、逮捕されればもうスヒョンは手出しできず、復讐の計画は達成できない。
いつの間にか、スヒョンは自らの復讐計画を逆手に取られて、大切な者を全て失う復讐の無間地獄に堕ちてしまう。
倍返しのはずの復讐が、言わば四倍返しになって彼自身に跳ね返って来たのである。
ここまでやってしまって、いったいどうやって話のオチをつけるのかと思っていたら、スヒョンが下した究極の復讐の決断は、なるほどこう来たかという意外性のあるものだ。
「末代まで呪う」とは、正にこの事だろう。
全てが終わったラストカットの、イ・ビョンホンの泣き顔とも笑い顔ともつかない、なんとも複雑な表情が見ものだ。
私は、ちょっと「告白」のラストの松たか子を思い出した。
「悪魔を見た」は、サイコサスペンスとしてはかなり良く出来ていて、面白さはなかなかの物だ。
ただ、例えば「チェイサー」や「殺人の追憶」の様な、心の奥底までじわりとじわりと染み渡ってゆく様な、力強い情感は感じない。
たぶんその原因は、物語もキャラクターも良くも悪くもわかり易すぎる事だろう。
スヒョンはまるで007の様にイケメンで強くて、対照的にギョンチョルは無骨で不気味でレクター博士の様だ。
物語が本格的に始まる前から、彼らの役割は読めてしまい、決して枠をはみ出さない。
有機的に物語が展開してゆくと言うよりも、綿密に考えられてはいるが、あくまでもロジックに沿ってキャラクターが動いているという印象の方が強いのでえある。
ギョンチョルを追い始めてから、スヒョンがずっと表情を出さないポーカーフェイスを貫いている事もあって、彼の心の機微がいまひとつ見えない事も表層的な印象につながっているかもしれない。
もっとも、それがラストのインパクトにつながっているから、一概に悪いとは言えないのだけど。
どちらかというと、復讐に支配された人間の内面をじっくり描いたドラマというよりも、猟奇殺人を巡る良く出来たエンターテイメントと言えるだろう。
今回は、イタリア語で悪魔を意味する「ディアブロ」をチョイス。
ホワイトのポートワイン40ml、ドライベルモット20ml、レモンジュース適量を、シェイクてグラスに注ぐ。
なぜこんな恐ろしげな名前なのかは知らないが、ベルモットの香草の香りと、レモンの軽い酸味もさわやかで、すっきりと飲みやすいカクテルだ。
かなりブラッディな映画から、平和な日常への帰還を感じてホッと出来る。

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