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神々と男たち・・・・・評価額1600円
2011年03月13日 (日) | 編集 |
1996年、アルジェリアの寒村で7人のフランス人修道僧が消え、後に遺体となって見つかった。
当時のアルジェリアはイスラム過激派の台頭によって内戦状態に陥り、外国人の襲撃が相次いでおり、殺された僧たちにも再三の帰国勧告が出されていたという。
彼らは何故、身の危険が迫る切迫した状況の中、あえて異国に留まったのか?
これは、事件に至るまでの彼らそれぞれの葛藤を描いた、内的な心理ドラマだ。
ランベール・ウィルソンマイケル・ロンズデールらフランスを代表する名優たちが信仰という絆で結ばれた僧たちを演じ、監督は「ポネット」のお父さん役などで俳優としても知られるグザヴィエ・ボーヴォワ
2010年度カンヌ映画祭グランプリ受賞作である。

北アフリカ、アルジェリアの、アトラス山脈の山間にある修道院。
ここでは、クリスチャン(ランベール・ウィルソン)ら8人の僧たちが、信仰に身をささげた自給自足の生活を送っている。
彼らは医療などの奉仕活動を通じて、イスラム教徒の村人たちとも、信頼と尊敬に基づく良好な関係を築き上げていた。
ところが、アルジェリア政府とイスラム過激派の戦闘が激化し、過激派のターゲットがいつしか国内の外国人に向けられるようになる。
修道院にもテロの恐怖が迫る中、僧たちは村人を見捨てて去るのか、それとも殉教を覚悟して残るかの決断を迫られるのだが・・・・


アルジェリアは嘗てのフランス植民地で、今もフランスと関係が深い。
フランス語がかなり通じる事もあり、フランスで移民として暮らすアルジェリア人も数多く、本作の様なカソリックの修道院も、植民地時代からかなりの数が存在していた様だ。
だが1991年の総選挙で、イスラム原理主義政党が圧勝すると、世俗主義を国是とする軍がクーデターを起こして介入し、選挙結果を無効としたことから、軍とイスラム過激派の対立が激化。
やがてアフガン帰りのムジャヒィデンが過激派に流入した事から、次第に凄惨な無差別殺戮を繰り返すテロ集団と化し、アルジェリアは血で血を洗う泥沼の紛争へとはまり込んでゆく。
本作は、アルジェリアの治安が最悪の状況へと向う時代に、実際に起こった事件を元にしている。

7人の僧の殺害に関しては、武装イスラム集団(GIA)が犯行声明を出したものの、実行犯など事件の詳細については未だに謎が多く、解明されていない。
だが、本作は事件その物に関して深くは踏み込まない。
アルジェリアとフランスの歴史が関わる、極めて政治的な事件にも関わらず、そのあたりはアルジェ政府の高官がクリスチャンに対して「(アルジェの現状は)フランスの植民地政策のせいだ。フランスの搾取が原因だ」と毒づく描写がある程度。
まあフランス社会におけるある種のタブーが含まれている事もあるだろうが、これはあくまでも生と死を選択する現実に直面した人間たちの、内面の葛藤を描いた物語だという事だろう。

クリスチャンらは、最初から危険なアルジェリアに留まって、殉教しようと決めていた訳ではない。
信仰に生きてはいるが、ごく普通の人間として描かれる彼らは、我が身に迫る危険に慄き、自分の中にある生への執着を隠そうとしない。
全てを捨ててフランスへと帰るか、それとも自分達を必要としてくれる村に留まるか。
最初の意思表明では、帰国派と留まる派、事態の推移を見守る派に分かれる。
結局、もうしばらく様子を見ようという事になるのだが、それからの生活は、死を意識しながら自分の中にある信仰と改めて向き合う時間となる。
彼らは、表向き平和で静寂な暮らしを続けながらも、それぞれが個性ある一人の人間として苦しみ、恐れ、葛藤するのである。
流れは淡々としているものの、ボーヴォワは一人一人の苦悩を丁寧に描写し、飽きさせる事はない。

本作には、僧達が唄う聖歌以外の音楽が存在しない。
唯一の例外が、事件前夜の晩餐のシーンで、ラジカセから流れてくるチャイコフスキーの「白鳥の湖」である。
バレエ「白鳥の湖」では、悪魔によって白鳥に姿を変えられた善良な娘オデットが、王子ジークフリートの愛を得るが、王子は悪魔の娘に騙されてしまう。
王子は戦いの末に悪魔を打ち破るが、オデットの魔法は解けず、悲しんだ王子は湖に身を投げ、オデットと王子の魂は、来世で結ばれるために共に天へと昇ってゆく。
悪魔の誘惑に葛藤し立ち向かい、結果的に神の国へと旅立ったオデットと王子の姿が、本作の僧たちと被る事は言うまでも無いだろう。
この晩餐の時点では、彼らはもう何が起ころうがこの国に留まる事を決めている。
美しい調べにのせて、カメラはゆっくりと列席する男たちの表情を描写して行くが、皆憑き物が落ちたかのような清々しい顔をして、中には感極まって涙を流す者もいる。
明らかにキリストの最後の晩餐を意識したこのシーンでは、男たちはまるで自分の運命を予見して、残された最後の生を満喫しているかの様に見えるのである。

タイトルの「神々と男たち」は原題直訳だが、これは映画の中でクリスチャンによって読まれる詩篇82篇の、「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ」という一節からとられている。
つまり、神の子である人は皆己の中に神を宿しており、修道僧はもちろん、それ以外の人間、例えば僧たちを殺すイスラム過激派も含めて、皆等しく神の子なのである。
だが、次の節はこう続く「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう」と。
人間はたとえ神のごとき振る舞いをしたとしても、結局は自らの上に真の裁きを与える者がいる事を忘れてはならない。
その為に、神は死という運命を持って、人を人たらしめているのである。
したがって、信仰と神を受け入れるという事は、どのように死を受け入れるのかという事と直結している。
結果的に生き残る最長老のアメデ修道士を含め、彼らの選択は様々な解釈が可能だ。
ストイックに自分の生きる道を究めた結果の死と捉える人もいるだろうし、単なる狂信的な集団自殺に過ぎないと思う人もいるだろう。
外界とのコミュニケーション手段は、基本的に電話一本とポンコツの自動車一台だけ。
インターネットなど存在せず、全員が自分達の置かれた状況をきちんと把握していたのかは微妙なところだ。
もっとも信仰という絆に結ばれた擬似家族である彼らに、他の選択はもとより無かったのかもしれない。

さて、カソリックの儀式において、キリストの肉体とされるのはパン(ホスチア)で、キリストの血とされるのはワインである。
古来より修道院はワイン醸造と切り離しては語れず、欧州のワイン銘柄は修道院にルーツを持つものが数多くあり、また醸造施設として古い修道院が使われている事も多い。
今回はフランス、ヴォジョレーのルイ・ジャド社の「マルサネ・ルージュ」の2007をチョイス。
まだ少し若いが、パワフルなボディを持つ辛口の赤。
ここの地下ワインセラーは、隣接するジャコバン修道院の地下と共用されている事で知られる。
これもまたキリストの血なのである。

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