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2011年05月27日 (金) | 編集 |
九州新幹線の博多・鹿児島中央間が開業する日、「奇跡」が起こる・・・・
そんな噂を信じた子供達の、セカイとジブンを巡る小さな冒険を描いたロードムービー。
ゼロ年代に数々の傑作を放った是枝裕和監督の最新作は、偶然にも3.11を経験した日本人にとって、大いなる問いを投げかける作品となった。
子供お笑いコンビ「まえだまえだ」の前田航基、前田旺志郎の兄弟を初め、出演する子供達のナチュラルな演技は是枝演出の真骨頂だ。
まるでその場の空気を切り取ったかの様な、九州各地のロケーションも美しい。
※完全ネタバレ注意報
両親の離婚によって、母の実家の鹿児島で暮らす航一(前田航基)は、福岡にいる父と弟の龍之介(前田旺志郎)の事が気になってならない。
いつか再び家族四人で暮らせる事を願う航一は、ある日同級生から不思議な噂を聞く。
それは、3月12日に全線開業を迎える九州新幹線の、博多から南下する「つばめ」と鹿児島から北上する「さくら」の一番列車がすれ違う瞬間を見た者には、願い事がかなう奇跡が起こるという物だった。
段々と家族の気持ちが離れて行く事を感じていた航一は、同級生や福岡の龍之介を巻き込んで、奇跡が起こる地である熊本を目指す旅に出るのだが・・・・
是枝監督は、たぶん日本で一番子供の演出の上手い人だろう。
ドキュメンタリー出身の冷静かつ暖かな視点は、所謂子役芝居とは無縁のナチュラルさを子供達から引き出す。
それは本作も、当時14歳だった柳楽優弥を日本人初のカンヌ映画祭男優賞に輝かせた「誰も知らない」も変わらない。
主人公を演じる前田兄弟を初めとして、登場する子供達は皆大人の俳優もビックリな等身大のリアルさを持ち、日本の何処かに彼等が存在する事に疑念を抱かせないが、子供達が自然に役に同化出来るように、脚本的にも演出的にも様々な工夫がされている。
前田兄弟の役が大阪から引っ越してきたという設定なのは、無理せずに彼らの素の大阪弁を生かすためだろうし、年少の子供はあえて役名と本名が同じに設定されているのも、芝居中に考えさせ過ぎないための配慮だろう。
実際に、脚本もキャスト決定後に柔軟に修正されていったという。
物語的には、しっかり者の兄、航一を演じる前田航基が、主演俳優の貫禄たっぷりに展開を牽引し、天真爛漫な弟、龍之介を演じる 前田旺志郎が、不確定要素を作り出して物語にメリハリをつける役割だ。
更に二人の同級生達や周囲の大人達のエピソードが、ある種の群像劇の様に絡んでくる事で、物語を重層化している。
ロックの街、福岡に暮らすのはミュージシャンへの夢を諦めきれない父、オダギリジョー。
そんな父に心を残しつつも、火山灰降りしきる鹿児島に出戻る母には大塚寧々。
母の実家の祖父母を橋爪功と樹木希林、その友人に原田芳雄と大ベテランを配し、学校の先生役に阿部寛と長澤まさみ、元女優のスナックのママに夏川結衣と主役級の実力者が脇を固める豪華な布陣。
前半は、そんな大人達に見守られた、鹿児島と福岡での子供達の日常の風景と、将来への夢が丁寧に描かれる。
嘗ての母と同じ女優の道を夢見る少女、スポーツ選手に成りたいという愛犬家の少年、絵の才能に目覚めようとしている少女。
彼・彼女らの未来は、無限大の可能性で満ちている。
そして、後半はそんな願いを叶えるために、奇跡の瞬間を見ようとする小さな冒険旅行だ。
ところが、何とかお金を作って熊本までやって来たものの、新幹線は殆どが高架の為にすれ違う所を見られる場所が見つからない。
日は西に沈み、刻々と迫るその瞬間を、彼らは見る事が出来るのだろうか、という興味が観客を惹きつける。
まあ彼らに立ちはだかる問題は、いかにも本作に相応しい“奇跡”によって解決されるのだが、この映画に登場する大人達は皆哀しみを抱えているが故に暖かい。
是枝裕和監督にとって、これは都会の片隅で忘れられた子供達を描いた「誰も知らない」の対であり、「この世界にキレイはあるか?」という「空気人形」の問いかけたテーマに対するセルフアンサー的な物語なのかもしれない。
そして、制作時期から言ってもこれは偶然だろうが、本作は3.11以降の日本人にとって極めて象徴的な意味を持つ作品となった。
九州新幹線の開業は、今年3月12日であり、あの未曾有の大災害の翌日だ。
しかも、本作の中で航一が当初願っていた“奇跡”とは、桜島の大噴火によって九州南部に人が住めなくなる事なのである。
鹿児島脱出となれば、家族四人が再び共に暮らせるはず、という事なのだが、結果的に彼はこの願いを封印する。
「なぜ、奇跡を願わなかったのか?」と訝しがる龍之介に、航一は「家族より、世界をとってしまった」と言うのだ!
大切な人達との日常と、小さな冒険を通して、航一は人、自然、そして時の営みが作り上げる、この世界のキレイをたくさん見過ぎてしまった。
家族はもちろん大切、でもそれは例え離れ離れになったとしても、絆が無くなる訳ではない。
しかし、もしも桜島が大噴火したら、彼の見たキレイは全て消えてしまうのである。
航一は、世界とはいわば森羅万象全ての繋がりである事を、幼いながらに経験を通して感じているのだ。
時代に呼ばれる作品、という物がある。
私は、「奇跡」というタイトルを持つ映画が、今この時代に生まれたのには、やはり運命的な必然を感じる。
3.11は天災であり、同時に人災だと思う。
桜島の大噴火は航一の自制心のおかげ(?)で起こらなかったが、福島では人間の手によって作られた核の惨禍が、自然の猛威と共に暴走し、本当に人が住めない土地になってしまったではないか。
小学生の子供が、切なる想いを封印してまで守りたいと思った世界を、大人たちは自ら破壊してしまったのだ。
本作の劇中、突然タッチがドキュメンタリーのインタビュー映像の様になる部分がある。
それは、子供達が奇跡に絡めて自分の将来の夢を語るシーン。
私は、リアルとも演技ともつかない、朴訥とした口調で、「いつか成りたい自分」を語る彼等を見て、思わず涙腺を決壊させてしまった。
そう、本当の“奇跡”とは、この世界が、私達が存在する事。
奇跡の一部である私達は、この世界を次の世代へと継承する義務があるにもかかわらず、大切な世界の一部を過ちによって壊してしまった。
“世界”は、私達にどの様な償いを求めるのだろうか。
今回は九州が舞台の映画ながら、観終わって福島の事を考えてしまったので、会津の地酒ほまれ酒造の「ならぬことはならぬものです 純米原酒」をチョイス。
アルコール度数は高いが、酸味は程々で、原酒にありがちな刺々しさは上手く抑えれれており、まろやかで飲みやすい。
この奇妙な銘は、会津藩が若い藩士を育成するために、「してはならない事」を示した「什(じゅう)の掟」の最後の一節から採られている。
正に、とり返しのつかない事をしてしまった日本人よ、せめてこの酒を飲んで福島を応援しよう。
因みに、震災の直後に話題になった九州新幹線の開業を告げる素晴らしいテレビCM、タイミング的にてっきり本作とリンクした企画かと思っていたのだけど、スタッフに確認したところ直接関係は無いらしい。
あのCMの中に、本作の子供達がいたりしたら素敵なのになあ。
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そんな噂を信じた子供達の、セカイとジブンを巡る小さな冒険を描いたロードムービー。
ゼロ年代に数々の傑作を放った是枝裕和監督の最新作は、偶然にも3.11を経験した日本人にとって、大いなる問いを投げかける作品となった。
子供お笑いコンビ「まえだまえだ」の前田航基、前田旺志郎の兄弟を初め、出演する子供達のナチュラルな演技は是枝演出の真骨頂だ。
まるでその場の空気を切り取ったかの様な、九州各地のロケーションも美しい。
※完全ネタバレ注意報
両親の離婚によって、母の実家の鹿児島で暮らす航一(前田航基)は、福岡にいる父と弟の龍之介(前田旺志郎)の事が気になってならない。
いつか再び家族四人で暮らせる事を願う航一は、ある日同級生から不思議な噂を聞く。
それは、3月12日に全線開業を迎える九州新幹線の、博多から南下する「つばめ」と鹿児島から北上する「さくら」の一番列車がすれ違う瞬間を見た者には、願い事がかなう奇跡が起こるという物だった。
段々と家族の気持ちが離れて行く事を感じていた航一は、同級生や福岡の龍之介を巻き込んで、奇跡が起こる地である熊本を目指す旅に出るのだが・・・・
是枝監督は、たぶん日本で一番子供の演出の上手い人だろう。
ドキュメンタリー出身の冷静かつ暖かな視点は、所謂子役芝居とは無縁のナチュラルさを子供達から引き出す。
それは本作も、当時14歳だった柳楽優弥を日本人初のカンヌ映画祭男優賞に輝かせた「誰も知らない」も変わらない。
主人公を演じる前田兄弟を初めとして、登場する子供達は皆大人の俳優もビックリな等身大のリアルさを持ち、日本の何処かに彼等が存在する事に疑念を抱かせないが、子供達が自然に役に同化出来るように、脚本的にも演出的にも様々な工夫がされている。
前田兄弟の役が大阪から引っ越してきたという設定なのは、無理せずに彼らの素の大阪弁を生かすためだろうし、年少の子供はあえて役名と本名が同じに設定されているのも、芝居中に考えさせ過ぎないための配慮だろう。
実際に、脚本もキャスト決定後に柔軟に修正されていったという。
物語的には、しっかり者の兄、航一を演じる前田航基が、主演俳優の貫禄たっぷりに展開を牽引し、天真爛漫な弟、龍之介を演じる 前田旺志郎が、不確定要素を作り出して物語にメリハリをつける役割だ。
更に二人の同級生達や周囲の大人達のエピソードが、ある種の群像劇の様に絡んでくる事で、物語を重層化している。
ロックの街、福岡に暮らすのはミュージシャンへの夢を諦めきれない父、オダギリジョー。
そんな父に心を残しつつも、火山灰降りしきる鹿児島に出戻る母には大塚寧々。
母の実家の祖父母を橋爪功と樹木希林、その友人に原田芳雄と大ベテランを配し、学校の先生役に阿部寛と長澤まさみ、元女優のスナックのママに夏川結衣と主役級の実力者が脇を固める豪華な布陣。
前半は、そんな大人達に見守られた、鹿児島と福岡での子供達の日常の風景と、将来への夢が丁寧に描かれる。
嘗ての母と同じ女優の道を夢見る少女、スポーツ選手に成りたいという愛犬家の少年、絵の才能に目覚めようとしている少女。
彼・彼女らの未来は、無限大の可能性で満ちている。
そして、後半はそんな願いを叶えるために、奇跡の瞬間を見ようとする小さな冒険旅行だ。
ところが、何とかお金を作って熊本までやって来たものの、新幹線は殆どが高架の為にすれ違う所を見られる場所が見つからない。
日は西に沈み、刻々と迫るその瞬間を、彼らは見る事が出来るのだろうか、という興味が観客を惹きつける。
まあ彼らに立ちはだかる問題は、いかにも本作に相応しい“奇跡”によって解決されるのだが、この映画に登場する大人達は皆哀しみを抱えているが故に暖かい。
是枝裕和監督にとって、これは都会の片隅で忘れられた子供達を描いた「誰も知らない」の対であり、「この世界にキレイはあるか?」という「空気人形」の問いかけたテーマに対するセルフアンサー的な物語なのかもしれない。
そして、制作時期から言ってもこれは偶然だろうが、本作は3.11以降の日本人にとって極めて象徴的な意味を持つ作品となった。
九州新幹線の開業は、今年3月12日であり、あの未曾有の大災害の翌日だ。
しかも、本作の中で航一が当初願っていた“奇跡”とは、桜島の大噴火によって九州南部に人が住めなくなる事なのである。
鹿児島脱出となれば、家族四人が再び共に暮らせるはず、という事なのだが、結果的に彼はこの願いを封印する。
「なぜ、奇跡を願わなかったのか?」と訝しがる龍之介に、航一は「家族より、世界をとってしまった」と言うのだ!
大切な人達との日常と、小さな冒険を通して、航一は人、自然、そして時の営みが作り上げる、この世界のキレイをたくさん見過ぎてしまった。
家族はもちろん大切、でもそれは例え離れ離れになったとしても、絆が無くなる訳ではない。
しかし、もしも桜島が大噴火したら、彼の見たキレイは全て消えてしまうのである。
航一は、世界とはいわば森羅万象全ての繋がりである事を、幼いながらに経験を通して感じているのだ。
時代に呼ばれる作品、という物がある。
私は、「奇跡」というタイトルを持つ映画が、今この時代に生まれたのには、やはり運命的な必然を感じる。
3.11は天災であり、同時に人災だと思う。
桜島の大噴火は航一の自制心のおかげ(?)で起こらなかったが、福島では人間の手によって作られた核の惨禍が、自然の猛威と共に暴走し、本当に人が住めない土地になってしまったではないか。
小学生の子供が、切なる想いを封印してまで守りたいと思った世界を、大人たちは自ら破壊してしまったのだ。
本作の劇中、突然タッチがドキュメンタリーのインタビュー映像の様になる部分がある。
それは、子供達が奇跡に絡めて自分の将来の夢を語るシーン。
私は、リアルとも演技ともつかない、朴訥とした口調で、「いつか成りたい自分」を語る彼等を見て、思わず涙腺を決壊させてしまった。
そう、本当の“奇跡”とは、この世界が、私達が存在する事。
奇跡の一部である私達は、この世界を次の世代へと継承する義務があるにもかかわらず、大切な世界の一部を過ちによって壊してしまった。
“世界”は、私達にどの様な償いを求めるのだろうか。
今回は九州が舞台の映画ながら、観終わって福島の事を考えてしまったので、会津の地酒ほまれ酒造の「ならぬことはならぬものです 純米原酒」をチョイス。
アルコール度数は高いが、酸味は程々で、原酒にありがちな刺々しさは上手く抑えれれており、まろやかで飲みやすい。
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正に、とり返しのつかない事をしてしまった日本人よ、せめてこの酒を飲んで福島を応援しよう。
因みに、震災の直後に話題になった九州新幹線の開業を告げる素晴らしいテレビCM、タイミング的にてっきり本作とリンクした企画かと思っていたのだけど、スタッフに確認したところ直接関係は無いらしい。
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2011年05月22日 (日) | 編集 |
2003年から続く大ヒットシリーズの第四弾。
前作の「ワールド・エンド」で、ウィルとエリザベスの物語が一応の完結をみたので、今回は一旦仕切り直し。
本来脇のキャラクターであったジャック・スパローを主役とした、ある種のスピン・オフとしての新シリーズのスタートとなっている。
オーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイと共に、前三部作を手がけたゴア・ヴァーヴィンスキー監督も降板し、新たに「シカゴ」「NINE」など、どちらかと言うとミュージカル物を得意とするロブ・マーシャルが後を引き継いだ。
“ジャック・スパローが、ロンドンで乗組員を集めている”そんな噂を耳にしたジャック(ジョニー・デップ)は、自分の偽者と対決するためにロンドンへ。
しかし、そこにいたのは嘗て自分が愛し捨てた、女海賊のアンジェリカ(ペネロペ・クルス)だった。
アンジェリカに嵌められ、誰もが恐れる最強の海賊、黒ひげ(イアン・マクシェーン)の船に囚われたジャックは、永遠の生命をもたらすという、“生命の泉”への水先案内を命じられる。
一方、黒ひげにブラック・パール号を沈められたバルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)も、英国王に取り入って船を手に入れると、復讐のために黒ひげを追っていた・・・・
今回は、ちょっと取り留めなく変な事を書く。
私は、このシリーズが大好きで、偏愛していると言っても良い。
だから体制一新後の本作には、期待と不安の両方を胸に観に行ったのだが、観終わった第一印象としては「面白い事は面白いけど、ちゃんとしすぎている・・・」であった。
ぶっちゃけると、ゴア・ヴァーヴィンスキーがメガホンを取った前三部作は、回を重ねるごとに物語がどんどんと支離滅裂なカオスの渦に落ち込んで行き、最後の「ワールド・エンド」に至っては、もはや誰と誰が敵で、何のために争っているのかすら良くわからない代物になってしまっていた。
もしもシリーズを、映画のロジカルな完成度で評価するなら、一作目が評価額1600円くらい、二作目が1300円、三作目は精々800円程度だろう。
だが、当ブログの評価基準は、あくまでも私的満足度。
私は二作目の「デッドマンズ・チェスト」に1500円、「ワールド・エンド」には1700円を付けている。
つまり、映画としてダメダメになっているのに、私の中での偏愛は加速しているのである。
ジャック・スパローを完全な主人公にして、新たにスタートした「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」を観て、私は以前の様なワクワク感を余り感じられなかった。
いや、物語は少なくとも前作よりはよほど良く出来ている。
新登場の黒ひげとアンジェリカ父娘、彼らに囚われたジャック・スパロー、黒ひげへの復讐に燃えるバルボッサの、生命の泉を巡る争奪戦を中心軸に置き、サブストーリー的に宣教師のフィリップと人魚のシレーナの恋物語を絡ませる。
まあ十分登場人物は多いものの、前作よりずっとスッキリして、印象としては第一作「呪われた海賊たち」に近い。
シリーズ全作品で脚本を担当しているテッド・エリオットとテリー・ロッシオは、新しい要素を取り入れながらも、「パイレーツ・オブ・カリビアン」な世界観とキャラクターの個性をしっかりと維持しているので、監督が代わっても違和感は全く無い。
しかしながら、物語の整合性が高まるのに反比例する様に、私の中でのワクワク度数は減ってしまったのである。
思うに、普通に出来の良い娯楽映画であった第一作「呪われた海賊たち」でスタートした前三部作は、次第に物語を時間軸という線ではなく、世界観と言う面で広げた様な作品になっていった。
元々がディズニーランドのアトラクションに話を付けて映画化したのだから、ある意味映画を再びアトラクション化したと言えるかも知れない。
とにかく海賊が宝を集める様に、面白そうな要素を後先考えずに貪欲に取り込んでいった結果、前三部作の最終作である「ワールド・エンド」に至っては、ディズニーとブラッカイマーというハリウッドの保守本流でありながら、もはやハリウッド映画の法則すら完全無視した、超アナーキーな狂気の大バカ超大作になってしまった。
だが、今にして思うと、大ヒットが約束された作品だから出来る、作り手の壮絶な悪ノリと余りにも自由な表現こそ、映画が描こうとする海賊の世界そのものであって、私はそんな混沌を愛していたのかもしれない。
故に、「生命の泉」は、普通の娯楽映画としてはそこそこ良く出来ているとは思うが、ヴァーヴィンスキー版にあった様な何者も恐れない破天荒さをあまり感じられないのである。
もっとも、別にロブ・マーシャル版が駄目と言う訳ではない。
演技指導に関しては定評のある人だけに、キャラクターの立たせ方はなかなかお見事で、俳優の動かし方、特に動き出しの演技の切り取り方はさすがミュージカルの名手である。
ジャック・スパローのキャラが何気にオネエっぽい事を上手く使ったり、彼が主役になった事で漸く登場した本当の意味でのスパローの相手役、ペネロペ・クルスを最高に魅力的に撮ってるあたりは、マーシャルならではの本作の個性と言えるかもしれない。
ただ、前作までのウィルとエリザベスを脇に回した様なポジションにいるのが、宣教師フィリップのサム・クラフリンと人魚のシレーナを演じるアストリッド・ベルジェ=フリスベなのだが、この二人のロマンスはいささかとって付けたような印象でかなり薄味。
特にフィリップの行動原理は信仰に生きる男という設定が生かされておらず、どうせなら彼をもう少し本筋と絡めた方が盛りあがった様な気がする。
ちなみに新星アストリッド・ベルジェ=フリスベは、ペネロペ同様スペイン出身で、ちょうど一回り違う25歳。
大先輩の様にハリウッドでも輝く事が出来るだろうか。
「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」は、普通に良く出来た娯楽映画である。
ジャック・スパローという不世出のキャラクターは、相変わらず容易く観客の心を掴んで支配するし、仲良く殺しあう個性的な海賊たちの世界も楽しい。
ただ、前作までの混沌と狂気に魅了されてしまった私には、それなりのレベルできちんと纏まった物語が、どうしてもビンのフタの様に大爆発を抑えている様に思えてしまう。
シリーズとしての世界観は相変わらず魅力的だし、新旧のキャラクターも立っている、ロブ・マーシャル監督の演出も、さり気無く個性を発揮して決して悪くない。
豪華なコース料理としては十分楽しめるのだが、私はこれにハバネロを大量にぶっかけたくなってしまうのである(笑
まあ、このシリーズに関しては、世評と私の中での評価は見事に反比例している様なので、「呪われた海賊たち」が好きで、「ワールド・エンド」にがっかりした人は、本作を素直に楽しむ事が出来るのではないだろうか、たぶん。
今回も例によってカリブのラム。
米領プエルトリコから、二作目にも付け合せた“豊穣のラム”の意味を持つロンリコを。
この銘柄は数種類あるが75.5°という度数を誇る「151プルーフ」をチョイス。
しっかりとしたコクとボディの強烈なインパクトを味わうのには、少しライムを搾ったオン・ザ・ロックがお勧め。
パワフルな酒で海賊気分を盛り上げよう。
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前作の「ワールド・エンド」で、ウィルとエリザベスの物語が一応の完結をみたので、今回は一旦仕切り直し。
本来脇のキャラクターであったジャック・スパローを主役とした、ある種のスピン・オフとしての新シリーズのスタートとなっている。
オーランド・ブルームとキーラ・ナイトレイと共に、前三部作を手がけたゴア・ヴァーヴィンスキー監督も降板し、新たに「シカゴ」「NINE」など、どちらかと言うとミュージカル物を得意とするロブ・マーシャルが後を引き継いだ。
“ジャック・スパローが、ロンドンで乗組員を集めている”そんな噂を耳にしたジャック(ジョニー・デップ)は、自分の偽者と対決するためにロンドンへ。
しかし、そこにいたのは嘗て自分が愛し捨てた、女海賊のアンジェリカ(ペネロペ・クルス)だった。
アンジェリカに嵌められ、誰もが恐れる最強の海賊、黒ひげ(イアン・マクシェーン)の船に囚われたジャックは、永遠の生命をもたらすという、“生命の泉”への水先案内を命じられる。
一方、黒ひげにブラック・パール号を沈められたバルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)も、英国王に取り入って船を手に入れると、復讐のために黒ひげを追っていた・・・・
今回は、ちょっと取り留めなく変な事を書く。
私は、このシリーズが大好きで、偏愛していると言っても良い。
だから体制一新後の本作には、期待と不安の両方を胸に観に行ったのだが、観終わった第一印象としては「面白い事は面白いけど、ちゃんとしすぎている・・・」であった。
ぶっちゃけると、ゴア・ヴァーヴィンスキーがメガホンを取った前三部作は、回を重ねるごとに物語がどんどんと支離滅裂なカオスの渦に落ち込んで行き、最後の「ワールド・エンド」に至っては、もはや誰と誰が敵で、何のために争っているのかすら良くわからない代物になってしまっていた。
もしもシリーズを、映画のロジカルな完成度で評価するなら、一作目が評価額1600円くらい、二作目が1300円、三作目は精々800円程度だろう。
だが、当ブログの評価基準は、あくまでも私的満足度。
私は二作目の「デッドマンズ・チェスト」に1500円、「ワールド・エンド」には1700円を付けている。
つまり、映画としてダメダメになっているのに、私の中での偏愛は加速しているのである。
ジャック・スパローを完全な主人公にして、新たにスタートした「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」を観て、私は以前の様なワクワク感を余り感じられなかった。
いや、物語は少なくとも前作よりはよほど良く出来ている。
新登場の黒ひげとアンジェリカ父娘、彼らに囚われたジャック・スパロー、黒ひげへの復讐に燃えるバルボッサの、生命の泉を巡る争奪戦を中心軸に置き、サブストーリー的に宣教師のフィリップと人魚のシレーナの恋物語を絡ませる。
まあ十分登場人物は多いものの、前作よりずっとスッキリして、印象としては第一作「呪われた海賊たち」に近い。
シリーズ全作品で脚本を担当しているテッド・エリオットとテリー・ロッシオは、新しい要素を取り入れながらも、「パイレーツ・オブ・カリビアン」な世界観とキャラクターの個性をしっかりと維持しているので、監督が代わっても違和感は全く無い。
しかしながら、物語の整合性が高まるのに反比例する様に、私の中でのワクワク度数は減ってしまったのである。
思うに、普通に出来の良い娯楽映画であった第一作「呪われた海賊たち」でスタートした前三部作は、次第に物語を時間軸という線ではなく、世界観と言う面で広げた様な作品になっていった。
元々がディズニーランドのアトラクションに話を付けて映画化したのだから、ある意味映画を再びアトラクション化したと言えるかも知れない。
とにかく海賊が宝を集める様に、面白そうな要素を後先考えずに貪欲に取り込んでいった結果、前三部作の最終作である「ワールド・エンド」に至っては、ディズニーとブラッカイマーというハリウッドの保守本流でありながら、もはやハリウッド映画の法則すら完全無視した、超アナーキーな狂気の大バカ超大作になってしまった。
だが、今にして思うと、大ヒットが約束された作品だから出来る、作り手の壮絶な悪ノリと余りにも自由な表現こそ、映画が描こうとする海賊の世界そのものであって、私はそんな混沌を愛していたのかもしれない。
故に、「生命の泉」は、普通の娯楽映画としてはそこそこ良く出来ているとは思うが、ヴァーヴィンスキー版にあった様な何者も恐れない破天荒さをあまり感じられないのである。
もっとも、別にロブ・マーシャル版が駄目と言う訳ではない。
演技指導に関しては定評のある人だけに、キャラクターの立たせ方はなかなかお見事で、俳優の動かし方、特に動き出しの演技の切り取り方はさすがミュージカルの名手である。
ジャック・スパローのキャラが何気にオネエっぽい事を上手く使ったり、彼が主役になった事で漸く登場した本当の意味でのスパローの相手役、ペネロペ・クルスを最高に魅力的に撮ってるあたりは、マーシャルならではの本作の個性と言えるかもしれない。
ただ、前作までのウィルとエリザベスを脇に回した様なポジションにいるのが、宣教師フィリップのサム・クラフリンと人魚のシレーナを演じるアストリッド・ベルジェ=フリスベなのだが、この二人のロマンスはいささかとって付けたような印象でかなり薄味。
特にフィリップの行動原理は信仰に生きる男という設定が生かされておらず、どうせなら彼をもう少し本筋と絡めた方が盛りあがった様な気がする。
ちなみに新星アストリッド・ベルジェ=フリスベは、ペネロペ同様スペイン出身で、ちょうど一回り違う25歳。
大先輩の様にハリウッドでも輝く事が出来るだろうか。
「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」は、普通に良く出来た娯楽映画である。
ジャック・スパローという不世出のキャラクターは、相変わらず容易く観客の心を掴んで支配するし、仲良く殺しあう個性的な海賊たちの世界も楽しい。
ただ、前作までの混沌と狂気に魅了されてしまった私には、それなりのレベルできちんと纏まった物語が、どうしてもビンのフタの様に大爆発を抑えている様に思えてしまう。
シリーズとしての世界観は相変わらず魅力的だし、新旧のキャラクターも立っている、ロブ・マーシャル監督の演出も、さり気無く個性を発揮して決して悪くない。
豪華なコース料理としては十分楽しめるのだが、私はこれにハバネロを大量にぶっかけたくなってしまうのである(笑
まあ、このシリーズに関しては、世評と私の中での評価は見事に反比例している様なので、「呪われた海賊たち」が好きで、「ワールド・エンド」にがっかりした人は、本作を素直に楽しむ事が出来るのではないだろうか、たぶん。
今回も例によってカリブのラム。
米領プエルトリコから、二作目にも付け合せた“豊穣のラム”の意味を持つロンリコを。
この銘柄は数種類あるが75.5°という度数を誇る「151プルーフ」をチョイス。
しっかりとしたコクとボディの強烈なインパクトを味わうのには、少しライムを搾ったオン・ザ・ロックがお勧め。
パワフルな酒で海賊気分を盛り上げよう。

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2011年05月18日 (水) | 編集 |
「ブラック・スワン」は、いろいろな意味で、ダーレン・アロノフスキーの前作「レスラー」の対になる様な作品である。
あの映画では主演のミッキー・ロークの人生を、主人公であるレスラーに被らせる事で、物語に半ドキュメンタリー的なリアリティと迫力を持たせる事に成功していた。
今回も考え方は基本的に同じ。
ナタリー・ポートマンという女優を苦悩を抱えたバレエのプリマにリンクさせ、わかりやすいシンプルなストーリーラインと、外連味たっぷりな演出でデコレーション。
描き出されるのは「レスラー」とは対照的に、人間の内面に潜むダークサイドだ。
ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、引退するベス(ウィノナ・ライダー)に変わって、大胆にリニューアルされた「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。
しかし、フランス人監督のトマス(ヴァンサン・カッセル)は、ニナのバレエは白鳥を演じるには十分だが、黒鳥を演じ切るにはパッションが足りないと言う。
元バレリーナで今まで二人三脚で歩んで来た母親(バーバラ・ハーシー)にまで、「あなたに主役は無理だ」と言われ、ニナの心はプレッシャーと新加入したリリー(ミラ・クニス)に役を奪われるのではという恐れによって、黒鳥の魔力に呪われたかの様に少しずつ壊れてゆく・・・
バレエと言う芸術を、別種の表現である映画でどう描くかという点に関しては、英国映画の古典「赤い靴」から、つい最近の日本映画「ダンシング・チャップリン」まで様々なアプローチが試みられて来たが、アロノフスキーにとってのバレエは、あくまでも物語のモチーフ、枠組み以上ではない様だ。
本作におけるヒロインの精神崩壊の描写に、今 敏監督の「パーフェクト・ブルー」との類似点が指摘されているように、物語が描こうとしているものは、別にバレエでなくても成立するのである。
本作はカテゴリで言えばバレエ物だろうが、華やかな舞台を生み出すアーチストの、創造の葛藤を描く作品では無く、逆に創造のプレッシャーによって生身の人生における主人公の内面の矛盾が狂気の妄想として実体化し、心が壊れて行く様を描いたサイコホラー映画なのだ。
13歳の時にリュック・ベッソンに見出され、傑作「レオン」のヒロインとしてデビューして以来、ナタリー・ポートマンは順風満帆な女優人生を送って来たと言えるだろう。
多くの子役出身者が大人の俳優への脱皮に失敗し、ドラッグやアルコールに溺れてハリウッドから去って行く中、彼女は「スター・ウォーズ」の新三部作でアミダラ姫の役をゲットし、マイク・ニコルズやアンソニー・ミンゲラ、マイケル・マンといった巨匠にも相次いで起用された。
私生活でも六カ国語に精通し、ハーバード大学卒という才媛ぶり。
しかしその半面、優等生的な演技は、悪くは無いけど個性に欠け、強烈に印象に残る代表作が無く、演技者としては今ひとつ伸び悩んでいたのも事実。
アロノフスキーは、ニナというキャラクターを、明らかにポートマン本人を意識して造形し、「レスラー」におけるミッキー・ロークと同じ効果を追求している様だ。
要するにポートマンに対して、『君の芝居は、上手いけど臆病で面白味が無く、エロスもパッションも感じられないよ!』と突き付けているのである。
結果的にニナの様に追い込まれたのであろう、ナタリー・ポートマンは見事に壁をブレイクスルーし、念願のオスカー女優となった訳だが、アロノフスキーの悪意ある演出は他のキャストにも及んでいる。
ニューシネマの名女優だが、ハリウッドでは今ひとつトップになり切れなかったバーバラ・ハーシーに、老いて娘に嫉妬し依存し続ける元バレリーナの母親を演じさせ、嘗てポートマン的なポジションにいたウィノナ・ライダーには、あろう事か彼女に追い落とされるロートルのベス役を当てがうなど、一歩間違えれば悪趣味にも感じさせてしまうギリギリのキャスティングであろう。
彼女らはニナにとって、10年後、20年後の“なりたくない自分”であり、言わば自身の分身の様なものである。
前記した様に、本作における真の葛藤は、芸術と現実の埋め難いギャップでは無い。
創造に挑む事で、否が応でもでも向き合わざるを得なくなった秘められた自分、本作の場合は、ニナが無意識に演じている12歳の少女の様な無垢なる自分と、成熟した女性としての抑圧された自我との肉体の支配を賭けた戦いだ。
嘗てバレエの世界にいた母親は、娘のニナに自らの才能を受け継いだ者に対する愛と、自らのキャリアを終わらせた者に対する憎しみが入り混じった複雑な感情を向け、結果的に自分も壊れかかっている。
この母娘の関係は、「キャリー」のシシー・スペーセクとパイパー・ローリーの母娘、あるいは山岸涼子のいくつかのコミックを感じさせる。
そう言えば山岸漫画には、そのものズバリ「黒鳥 ブラックスワン」という作品もあった。
内容的にはもちろん本作とは異なるが、バレエを巡る狂気を秘めた人間ドラマと言う点では共通点があると言える。
アロノフスキーは、バレエの創造を巡る葛藤を外枠に、無垢なる白鳥と邪悪な黒鳥という象徴的なモチーフを通して、抑圧された精神状態にある一人の女性の崩壊と解放を、超ハイテンションなエンターテイメントとして描き出した。
プロットそのものは単純だが、脚本には緻密な工夫が凝らされ、ニナの心が感じるプレッシャーが高まるにつれて、現実と妄想の区別がなくなり、自らの狂気への恐れが更なる葛藤を生み出す悪循環。
このプロセスのナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技と、バーバラ・ハーシーの静かな狂気は真に恐ろしく、本作に芸術と人生の板ばさみになる苦悩を描いた、「赤い靴」的なバレエ映画を期待して来た観客を戸惑わせる事は間違いない。
そして「白鳥の湖」における悪魔同様、誘惑者の役割であるミラ・クニス演じるリリーと、自らの内面の黒鳥を一体化させてゆくあたりからは、観客にも映し出されているものが現実なのか、ニナの心が作り出した世界なのか分からない様に描写され、精神の迷宮はより昏迷を深めてゆく。
際立つのは、対象を残酷なまでに突き放し、徹底的に計算づくのエンターテイメントに仕立て上げる作者のスタンスだが、この辺りはちょっと中島哲也を連想させるものがある。
思うに、アロノフスキーはバレエという表現、あるいは女性そのものがあまり好きではないのではなかろうか。
自分が心から敬愛するモチーフを、この様な悪意たっぷりの視点で、冷酷なまでに客観的に描く事は出来ないだろうし、似た構造を持つ「レスラー」にあった、プロレスとその虚構の世界に惹きつけられる男たちに対する、切ない愛情をこめた眼差しはこの作品には見られない。
むしろ余りにも痛々しい「白鳥」のステージの描写などに、嫌悪感にも似た冷たさを感じるのだが、それがまたニナの鬱屈した感情を加速させ、「黒鳥」パートでの大爆発とラストの解放における圧倒的な映画的カタルシスにつながっており、そこまで計算しているとしたら本当に脱帽するしかないのだけど。
今回は、最初から最期までハイテンションが持続し、かなり疲れる映画なので、終わったらスッキリとした酒を飲みたい。
新潟の地ビール、その名もスワンレイクビールから、白と黒という事で「ホワイトスワン ヴァイツェン」と黒ビールの「ポーター」をダブルでチョイス。
どちらも、喉越しは新潟の酒らしく爽やかだが、白鳥はスッキリとした酸味を楽しめ、黒鳥はしっとりしたコクを味わえる。
人間の二面性をジックリ見せ付けられた後は、ビールの二面性を堪能しながら、熱くなった心を冷やそう。
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あの映画では主演のミッキー・ロークの人生を、主人公であるレスラーに被らせる事で、物語に半ドキュメンタリー的なリアリティと迫力を持たせる事に成功していた。
今回も考え方は基本的に同じ。
ナタリー・ポートマンという女優を苦悩を抱えたバレエのプリマにリンクさせ、わかりやすいシンプルなストーリーラインと、外連味たっぷりな演出でデコレーション。
描き出されるのは「レスラー」とは対照的に、人間の内面に潜むダークサイドだ。
ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、引退するベス(ウィノナ・ライダー)に変わって、大胆にリニューアルされた「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。
しかし、フランス人監督のトマス(ヴァンサン・カッセル)は、ニナのバレエは白鳥を演じるには十分だが、黒鳥を演じ切るにはパッションが足りないと言う。
元バレリーナで今まで二人三脚で歩んで来た母親(バーバラ・ハーシー)にまで、「あなたに主役は無理だ」と言われ、ニナの心はプレッシャーと新加入したリリー(ミラ・クニス)に役を奪われるのではという恐れによって、黒鳥の魔力に呪われたかの様に少しずつ壊れてゆく・・・
バレエと言う芸術を、別種の表現である映画でどう描くかという点に関しては、英国映画の古典「赤い靴」から、つい最近の日本映画「ダンシング・チャップリン」まで様々なアプローチが試みられて来たが、アロノフスキーにとってのバレエは、あくまでも物語のモチーフ、枠組み以上ではない様だ。
本作におけるヒロインの精神崩壊の描写に、今 敏監督の「パーフェクト・ブルー」との類似点が指摘されているように、物語が描こうとしているものは、別にバレエでなくても成立するのである。
本作はカテゴリで言えばバレエ物だろうが、華やかな舞台を生み出すアーチストの、創造の葛藤を描く作品では無く、逆に創造のプレッシャーによって生身の人生における主人公の内面の矛盾が狂気の妄想として実体化し、心が壊れて行く様を描いたサイコホラー映画なのだ。
13歳の時にリュック・ベッソンに見出され、傑作「レオン」のヒロインとしてデビューして以来、ナタリー・ポートマンは順風満帆な女優人生を送って来たと言えるだろう。
多くの子役出身者が大人の俳優への脱皮に失敗し、ドラッグやアルコールに溺れてハリウッドから去って行く中、彼女は「スター・ウォーズ」の新三部作でアミダラ姫の役をゲットし、マイク・ニコルズやアンソニー・ミンゲラ、マイケル・マンといった巨匠にも相次いで起用された。
私生活でも六カ国語に精通し、ハーバード大学卒という才媛ぶり。
しかしその半面、優等生的な演技は、悪くは無いけど個性に欠け、強烈に印象に残る代表作が無く、演技者としては今ひとつ伸び悩んでいたのも事実。
アロノフスキーは、ニナというキャラクターを、明らかにポートマン本人を意識して造形し、「レスラー」におけるミッキー・ロークと同じ効果を追求している様だ。
要するにポートマンに対して、『君の芝居は、上手いけど臆病で面白味が無く、エロスもパッションも感じられないよ!』と突き付けているのである。
結果的にニナの様に追い込まれたのであろう、ナタリー・ポートマンは見事に壁をブレイクスルーし、念願のオスカー女優となった訳だが、アロノフスキーの悪意ある演出は他のキャストにも及んでいる。
ニューシネマの名女優だが、ハリウッドでは今ひとつトップになり切れなかったバーバラ・ハーシーに、老いて娘に嫉妬し依存し続ける元バレリーナの母親を演じさせ、嘗てポートマン的なポジションにいたウィノナ・ライダーには、あろう事か彼女に追い落とされるロートルのベス役を当てがうなど、一歩間違えれば悪趣味にも感じさせてしまうギリギリのキャスティングであろう。
彼女らはニナにとって、10年後、20年後の“なりたくない自分”であり、言わば自身の分身の様なものである。
前記した様に、本作における真の葛藤は、芸術と現実の埋め難いギャップでは無い。
創造に挑む事で、否が応でもでも向き合わざるを得なくなった秘められた自分、本作の場合は、ニナが無意識に演じている12歳の少女の様な無垢なる自分と、成熟した女性としての抑圧された自我との肉体の支配を賭けた戦いだ。
嘗てバレエの世界にいた母親は、娘のニナに自らの才能を受け継いだ者に対する愛と、自らのキャリアを終わらせた者に対する憎しみが入り混じった複雑な感情を向け、結果的に自分も壊れかかっている。
この母娘の関係は、「キャリー」のシシー・スペーセクとパイパー・ローリーの母娘、あるいは山岸涼子のいくつかのコミックを感じさせる。
そう言えば山岸漫画には、そのものズバリ「黒鳥 ブラックスワン」という作品もあった。
内容的にはもちろん本作とは異なるが、バレエを巡る狂気を秘めた人間ドラマと言う点では共通点があると言える。
アロノフスキーは、バレエの創造を巡る葛藤を外枠に、無垢なる白鳥と邪悪な黒鳥という象徴的なモチーフを通して、抑圧された精神状態にある一人の女性の崩壊と解放を、超ハイテンションなエンターテイメントとして描き出した。
プロットそのものは単純だが、脚本には緻密な工夫が凝らされ、ニナの心が感じるプレッシャーが高まるにつれて、現実と妄想の区別がなくなり、自らの狂気への恐れが更なる葛藤を生み出す悪循環。
このプロセスのナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技と、バーバラ・ハーシーの静かな狂気は真に恐ろしく、本作に芸術と人生の板ばさみになる苦悩を描いた、「赤い靴」的なバレエ映画を期待して来た観客を戸惑わせる事は間違いない。
そして「白鳥の湖」における悪魔同様、誘惑者の役割であるミラ・クニス演じるリリーと、自らの内面の黒鳥を一体化させてゆくあたりからは、観客にも映し出されているものが現実なのか、ニナの心が作り出した世界なのか分からない様に描写され、精神の迷宮はより昏迷を深めてゆく。
際立つのは、対象を残酷なまでに突き放し、徹底的に計算づくのエンターテイメントに仕立て上げる作者のスタンスだが、この辺りはちょっと中島哲也を連想させるものがある。
思うに、アロノフスキーはバレエという表現、あるいは女性そのものがあまり好きではないのではなかろうか。
自分が心から敬愛するモチーフを、この様な悪意たっぷりの視点で、冷酷なまでに客観的に描く事は出来ないだろうし、似た構造を持つ「レスラー」にあった、プロレスとその虚構の世界に惹きつけられる男たちに対する、切ない愛情をこめた眼差しはこの作品には見られない。
むしろ余りにも痛々しい「白鳥」のステージの描写などに、嫌悪感にも似た冷たさを感じるのだが、それがまたニナの鬱屈した感情を加速させ、「黒鳥」パートでの大爆発とラストの解放における圧倒的な映画的カタルシスにつながっており、そこまで計算しているとしたら本当に脱帽するしかないのだけど。
今回は、最初から最期までハイテンションが持続し、かなり疲れる映画なので、終わったらスッキリとした酒を飲みたい。
新潟の地ビール、その名もスワンレイクビールから、白と黒という事で「ホワイトスワン ヴァイツェン」と黒ビールの「ポーター」をダブルでチョイス。
どちらも、喉越しは新潟の酒らしく爽やかだが、白鳥はスッキリとした酸味を楽しめ、黒鳥はしっとりしたコクを味わえる。
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![]() ■スワンレイクビール12本セット新潟発 瓢湖屋敷の杜ブルワリー スワンレイク 10P06jul10 |


2011年05月13日 (金) | 編集 |
何処か懐かしい、70年代テイスト満載のバディムービー。
東京と神奈川の境目に位置するらしい架空の街・まほろで「まほろ駅前多田便利軒」を営む主人公・多田啓介と、ひょんな事から居候となる幼馴染の行天春彦。
彼らの下に舞い込んで来る、少々ワケアリで奇妙な依頼を通して、様々な人間模様が見えてくる。
監督は「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の大森立嗣だ。
多田啓介(瑛太)は、まほろ市の駅から徒歩三分の雑居ビルで、便利屋を開業中。
ある日、仕事を終えた帰り道に、中学時代の同級生の行天春彦(松田龍平)と再会する。
一晩だけの約束で春彦を泊めた啓介だったが、なぜか春彦は何時までたっても事務所のソファに寝そべったまま。
いつの間にか、多田便利軒の居候スタッフの様な扱いになってしまう。
そんな彼らの下には、ユニークな依頼が次々と舞い込んで来るのだが・・・
まほろ市=まぼろし、という訳か。
どこにでもありそうで、それでいて不思議な空気感を持つ虚構の街。
この街は現在にありながら、どこかレトロで懐かしい。
多田便利軒の事務所には、二十一世紀を感じさせるアイテムが一切存在しない。
パソコンはもちろん、普通に考えれば商売の必需品であるファックスさえ無く、無造作に置かれたTVはウサギ耳型のアンテナを生やしたアナログだし、強面のヤクザ者をノックアウトする懐中電灯も、嘗ては各家庭の常備品だった単一電池を使う赤白のビッグサイズだ。
そんなボロ事務所に暮らすのは、良く言えば自由な、悪く言えばいい加減な、二人の無頼漢。
そう、要するにこれは「傷だらけの天使」や「探偵物語」の現代版。
若き日のショーケンや水谷豊、或いは本作の主人公の一人である松田龍平の父、松田優作の出世作のテイストを、ある種のファンタジー空間であるまほろ市を舞台に、現代に再現した物だ。
70年代の匂いは、単に美術だけでなく、音楽の使い方や細かなエピソードにまで及んでおり、その時代を知るものには感涙物。
「フランダースの犬」の粋な使い方、松田優作関連のギャグを、実の息子に振るある意味大胆なセンス。
昔のドラマの主人公は、なぜか物思いにふけるときには米軍基地に飛行機を見に行ったものだが、こうした描写を自らの映画的記憶としてイメージできる世代には、たまらないものがある。
ただ当然ながら、元ネタを知っている人と知らない人の間で、映画から受け取れるインフォメーションに差が出るのも間違いなく、(登場人物の少年がネロの最期を知らない様に)ある程度観客の世代を限定してしまう可能性もあるだろうけど。
タイトルロールでもある多田啓介と、図らずも相方となる行天春彦は、一見すると対照的な人物だ。
まあ妙な便利屋を開いている時点で、二人とも少し社会の本流からは外れた所にいるのだが、それでも一応経営者として大人としての行動をとろうとする啓介に対して、飄々とした春彦は、もっと後先を考えずに本能的に生きている様に見える。
だが、実際のところ、多くのバディムービーがそうである様に、啓介と春彦も相互補完の関係にあり、いわば一人の男の別の側面をカリカチュアした様なキャラクターと言えるだろう。
お人よしだが、バカになり切れない常識人の啓介に対して、春彦は勝手気ままな様に見えて、実は筋の通った行動で先走り、結果的に啓介を正しい方向に導いている。
逆に春彦は、啓介がいる事でギリギリ現世に足を付けていられるのである。
預かったチワワの飼い主が夜逃げした事件では、啓介と春彦は逃げた母娘の住所を探し出す。
転居先が安アパートである事を知り、犬を返しに行けない啓介を尻目に、春彦は犬の本当の飼い主である娘を呼び出し、母親が犬を押し付けて逃げた事、アパートで犬を飼う事はできない事実を告げ、彼女の責任でチワワの運命を選択をさせる。
辛い現実から選び出した彼女の答えを、今度は啓介が忠実に実行するのである。
或いは、塾通いの小学生の少年の迎えを頼まれたケースでは、知らない間にヤクザに薬の運び屋をさせられているという、少年の抱える大きな問題を、彼自身に告白させる事で、解決へと導く。
彼らへの依頼は、子供に絡む物が多く、そして依頼主は常に母子家庭である。
物語の後半、啓介が春彦に対して、「お前は何も持ってないフリをして、実は全部持ってるじゃないか!」と激高するシーンがある。
二人は共に暮らしながら、それまでお互いの領域に踏み込む事はない。
お互いに離婚暦があり、春彦は娘に一度も会った事が無いという事位しか、話として出てくる事は無いのである。
実は啓介は嘗て子供を亡くした過去があり、その事がトラウマとなり心の深い部分に突き刺さったままになっている。
そして、啓介はひょんな事から、春彦の“妻子”と出会い、実の親に愛されずに育った春彦が、同性愛者の女性カップルの精子ドナーとして、親になる道を選んだ事を知ってしまう。
つまり、春彦は決して娘を“失った”訳ではなく、愛そうと思えば愛せる存在がそこいる。
親になれなかった多田はそれが羨ましい。
愛を与えられなかった事がトラウマとなっている男と、愛されなかった事がトラウマとなっている男。
これは、見えない家族を持つ二人の父親が、物語を通して自らの父性に関して葛藤する物語なのである。
この映画もまた俳優が良い。
「八日目の蝉」が女優達の火花散る演技を堪能できる傑作だとしたら、こちらは瑛太と松田龍平の良い意味で自然体で力の抜けた、しかし高度な演技を楽しめる一本だ。
自由人の様でいながら、悔恨という心の牢獄にいる男を演じる瑛太は、本作の精神的クライマックスとも言うべき長い長い独白で、役者としての凄みを見せる。
彼の芝居を受ける松田龍平も、不思議ちゃんムードを漂わせるキャラクターを上手く作り込んだ。
長身を生かした所作や独特の喋り方は、もちろん全く異なる個性ではあるのだけど、やはりこういうエキセントリックな役を上手く自分の中で消化するあたり、松田優作の血を強く感じる。
脇を固める俳優達も何気に豪華で、春彦の同性愛者の“元妻”に本上まなみ、眼光鋭い若いヤクザに高良健吾、自称コロンビア人(笑)の娼婦コンビに片岡礼子と鈴木杏、ストーカー男に柄本佑。
そして大森立嗣監督にとって実の父と弟である、麿赤兒と大森南朋の親子もさりげなく顔を見せている。
物語の終わりになっても、二人の葛藤は終わらないし、何かが解決した訳でもない。
ただ、二人でいる事で、少しだけ背負った荷物も軽くなる。
人生色々あるかもしれないけど、とりあえず明日はまた続いて行くし、苦しみながらも生きて行くしかない。
登場人物の“その後”を、ちょっとだけ垣間見られるエンドクレジットがまた良い。
特にストーカー男とお母さんの写真にはホッとさせられた(笑
どうやら原作には続編もあるようで、この二人の緩いコンビには次なる物語を期待したくなる。
啓介も春彦も、自分の中の葛藤の中身が何かを吐露してしまったので、続編では別のテーマが必要になるだろうが、それは物語の構造上それほど難しい事ではないだろう。
映画でも良いが、TVドラマでもいけるんじゃないかと思う。
今回は、まぼろし繋がりで広島県竹原市の中尾醸造の「誠鏡 純米 幻」をチョイス。
まぼろしという名を持つ酒は日本全国に数多いが、この酒の透明感とフルーティーで爽やかな後味は、本作に通じる物がある。
しばし騒がしい世間を離れて、味わい深い上質の映画と酒に舌鼓を打とう。
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東京と神奈川の境目に位置するらしい架空の街・まほろで「まほろ駅前多田便利軒」を営む主人公・多田啓介と、ひょんな事から居候となる幼馴染の行天春彦。
彼らの下に舞い込んで来る、少々ワケアリで奇妙な依頼を通して、様々な人間模様が見えてくる。
監督は「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の大森立嗣だ。
多田啓介(瑛太)は、まほろ市の駅から徒歩三分の雑居ビルで、便利屋を開業中。
ある日、仕事を終えた帰り道に、中学時代の同級生の行天春彦(松田龍平)と再会する。
一晩だけの約束で春彦を泊めた啓介だったが、なぜか春彦は何時までたっても事務所のソファに寝そべったまま。
いつの間にか、多田便利軒の居候スタッフの様な扱いになってしまう。
そんな彼らの下には、ユニークな依頼が次々と舞い込んで来るのだが・・・
まほろ市=まぼろし、という訳か。
どこにでもありそうで、それでいて不思議な空気感を持つ虚構の街。
この街は現在にありながら、どこかレトロで懐かしい。
多田便利軒の事務所には、二十一世紀を感じさせるアイテムが一切存在しない。
パソコンはもちろん、普通に考えれば商売の必需品であるファックスさえ無く、無造作に置かれたTVはウサギ耳型のアンテナを生やしたアナログだし、強面のヤクザ者をノックアウトする懐中電灯も、嘗ては各家庭の常備品だった単一電池を使う赤白のビッグサイズだ。
そんなボロ事務所に暮らすのは、良く言えば自由な、悪く言えばいい加減な、二人の無頼漢。
そう、要するにこれは「傷だらけの天使」や「探偵物語」の現代版。
若き日のショーケンや水谷豊、或いは本作の主人公の一人である松田龍平の父、松田優作の出世作のテイストを、ある種のファンタジー空間であるまほろ市を舞台に、現代に再現した物だ。
70年代の匂いは、単に美術だけでなく、音楽の使い方や細かなエピソードにまで及んでおり、その時代を知るものには感涙物。
「フランダースの犬」の粋な使い方、松田優作関連のギャグを、実の息子に振るある意味大胆なセンス。
昔のドラマの主人公は、なぜか物思いにふけるときには米軍基地に飛行機を見に行ったものだが、こうした描写を自らの映画的記憶としてイメージできる世代には、たまらないものがある。
ただ当然ながら、元ネタを知っている人と知らない人の間で、映画から受け取れるインフォメーションに差が出るのも間違いなく、(登場人物の少年がネロの最期を知らない様に)ある程度観客の世代を限定してしまう可能性もあるだろうけど。
タイトルロールでもある多田啓介と、図らずも相方となる行天春彦は、一見すると対照的な人物だ。
まあ妙な便利屋を開いている時点で、二人とも少し社会の本流からは外れた所にいるのだが、それでも一応経営者として大人としての行動をとろうとする啓介に対して、飄々とした春彦は、もっと後先を考えずに本能的に生きている様に見える。
だが、実際のところ、多くのバディムービーがそうである様に、啓介と春彦も相互補完の関係にあり、いわば一人の男の別の側面をカリカチュアした様なキャラクターと言えるだろう。
お人よしだが、バカになり切れない常識人の啓介に対して、春彦は勝手気ままな様に見えて、実は筋の通った行動で先走り、結果的に啓介を正しい方向に導いている。
逆に春彦は、啓介がいる事でギリギリ現世に足を付けていられるのである。
預かったチワワの飼い主が夜逃げした事件では、啓介と春彦は逃げた母娘の住所を探し出す。
転居先が安アパートである事を知り、犬を返しに行けない啓介を尻目に、春彦は犬の本当の飼い主である娘を呼び出し、母親が犬を押し付けて逃げた事、アパートで犬を飼う事はできない事実を告げ、彼女の責任でチワワの運命を選択をさせる。
辛い現実から選び出した彼女の答えを、今度は啓介が忠実に実行するのである。
或いは、塾通いの小学生の少年の迎えを頼まれたケースでは、知らない間にヤクザに薬の運び屋をさせられているという、少年の抱える大きな問題を、彼自身に告白させる事で、解決へと導く。
彼らへの依頼は、子供に絡む物が多く、そして依頼主は常に母子家庭である。
物語の後半、啓介が春彦に対して、「お前は何も持ってないフリをして、実は全部持ってるじゃないか!」と激高するシーンがある。
二人は共に暮らしながら、それまでお互いの領域に踏み込む事はない。
お互いに離婚暦があり、春彦は娘に一度も会った事が無いという事位しか、話として出てくる事は無いのである。
実は啓介は嘗て子供を亡くした過去があり、その事がトラウマとなり心の深い部分に突き刺さったままになっている。
そして、啓介はひょんな事から、春彦の“妻子”と出会い、実の親に愛されずに育った春彦が、同性愛者の女性カップルの精子ドナーとして、親になる道を選んだ事を知ってしまう。
つまり、春彦は決して娘を“失った”訳ではなく、愛そうと思えば愛せる存在がそこいる。
親になれなかった多田はそれが羨ましい。
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これは、見えない家族を持つ二人の父親が、物語を通して自らの父性に関して葛藤する物語なのである。
この映画もまた俳優が良い。
「八日目の蝉」が女優達の火花散る演技を堪能できる傑作だとしたら、こちらは瑛太と松田龍平の良い意味で自然体で力の抜けた、しかし高度な演技を楽しめる一本だ。
自由人の様でいながら、悔恨という心の牢獄にいる男を演じる瑛太は、本作の精神的クライマックスとも言うべき長い長い独白で、役者としての凄みを見せる。
彼の芝居を受ける松田龍平も、不思議ちゃんムードを漂わせるキャラクターを上手く作り込んだ。
長身を生かした所作や独特の喋り方は、もちろん全く異なる個性ではあるのだけど、やはりこういうエキセントリックな役を上手く自分の中で消化するあたり、松田優作の血を強く感じる。
脇を固める俳優達も何気に豪華で、春彦の同性愛者の“元妻”に本上まなみ、眼光鋭い若いヤクザに高良健吾、自称コロンビア人(笑)の娼婦コンビに片岡礼子と鈴木杏、ストーカー男に柄本佑。
そして大森立嗣監督にとって実の父と弟である、麿赤兒と大森南朋の親子もさりげなく顔を見せている。
物語の終わりになっても、二人の葛藤は終わらないし、何かが解決した訳でもない。
ただ、二人でいる事で、少しだけ背負った荷物も軽くなる。
人生色々あるかもしれないけど、とりあえず明日はまた続いて行くし、苦しみながらも生きて行くしかない。
登場人物の“その後”を、ちょっとだけ垣間見られるエンドクレジットがまた良い。
特にストーカー男とお母さんの写真にはホッとさせられた(笑
どうやら原作には続編もあるようで、この二人の緩いコンビには次なる物語を期待したくなる。
啓介も春彦も、自分の中の葛藤の中身が何かを吐露してしまったので、続編では別のテーマが必要になるだろうが、それは物語の構造上それほど難しい事ではないだろう。
映画でも良いが、TVドラマでもいけるんじゃないかと思う。
今回は、まぼろし繋がりで広島県竹原市の中尾醸造の「誠鏡 純米 幻」をチョイス。
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2011年05月08日 (日) | 編集 |
蝉は何年間も地中で成長し、やっと地上に出て成虫になると、僅か七日で死ぬという。
仲間が皆死に絶える中、もしも生き残った「八日目の蝉」がいたとしたら、それは蝉にとって幸せな事なのだろうか?不幸なのだろうか?
不倫相手の娘を誘拐した女の逃避行と、やがて成長した娘の愛を巡る葛藤を描いた角田光代の同名小説を、井上真央と永作博美のダブル主演で映像化したハードな人間ドラマだ。
奥寺佐渡子による脚色が素晴らしく、演技者として驚くべき成長を見せた井上真央と、既に名優の域に達したと言っても過言ではない永作博美の好演もあって、実に見応えのある秀作となった。
成島出監督作品としても、過去最高の出来栄えと言える。
1995年、東京地裁。
誘拐犯・野々宮希和子(永作博美)に懲役6年の刑が言い渡される。
彼女は会社の上司で家庭のある秋山丈博(田中哲司)と恋に落ち、授かった命を諦めて堕胎しなければならなかった。
秋山の妻・恵津子(森口瑤子)が、女の子を出産した事を知った希和子は、衝動的に秋山の家に忍び込み、赤ん坊を誘拐してしまう。
希和子は、秋山の娘・恵理菜を“薫”という名で呼び、4年に及ぶ逃亡生活の末に、小豆島のフェリー乗り場で逮捕されたのだ。
16年後、成長した恵理菜(井上真央)は21歳の大学生になっており、嘗ての希和子と同じように岸田孝史(劇団ひとり)という男性と不倫関係にある。
自分が妊娠した事を知った恵理菜は、過去の事件について調べているというフリーライターの安藤千草(小池栄子)と共に、野々宮希和子と過ごした空白の四年間埋める旅に出る・・・・
小説の物語構造を、極めて映画的に再解釈した脚本が見事だ。
原作はプローグの第0章と、 野々宮希和子と誘拐された“薫”を描く第一章、成長した秋山恵理菜の物語である第二章の三章構成となっているが、映画は過去の希和子と現在の恵理菜の物語を平行して描き、後半で失われた記憶を探す恵理菜の旅と16年前の逃避行をシンクロさせる事で、二人の主人公の人生をより象徴的に描写し、ドラマチックな効果を上げている。
近年では細田守監督のアニメ作品や「パーマネント野ばら」など、秀作を連発する奥寺佐渡子が、またしても卓越した構成力で、複雑な人間ドラマを纏め上げている。
劇中、タイトルの“八日目の蝉”に言及するシーンが二箇所ある。
どちらも井上真央演じる恵理菜と小池栄子演じる千草との会話の流れの中で出てくるのだが、最初二人は八日目の蝉は可哀想だと言う。
皆が七日目で死んでしまっているのに、一匹だけ生き残っても、寂しいだけではないか、と。
この様な言葉が出てくるのは、この物語の登場人物達が、皆心の中に虚無感を抱えた八日目の蝉だからに他ならない。
その基点となっているのが、20年前の誘拐事件だ。
希和子が恵理菜を連れ去った間に、赤ん坊だった恵理菜は4歳の少女に成長している。
事件が解決して家に帰ってきても、そこに待つ実の両親は見知らぬおじさんとおばさんであり、彼らの愛がストレートに恵理菜に届く事は無い。
ようやく我が子を取り戻した実母の恵津子は、4年間を奪った希和子の影を常に娘の中に感じ、苛立ちと後悔を隠す事が出来ず、希和子の愛を一身に受けて育った恵理菜は、そんな母の悲しみを敏感に感じて心を開く事ができない。
事件の原因を作った父の丈博は、そんな母娘の葛藤の前に余りにも無力だ。
結局、事件解決以降16年を費やしても、彼らは本当の家族に成り切る事は出来ないのである。
成長し、21歳の大人になった恵理菜は、そんな特殊な状況から逃げるように、大学生にして自立した生活を送っているが、図らずも愛した人は嘗ての希和子と同じく家庭のある人。
自分はいつの間にか、希和子の歩んだ道を無意識に選択しているのではないか、そんな思いに囚われた彼女の前に現れるのが、フリーライターの千草だ。
最初、過去を蒸し返される事に警戒感を隠せない恵理菜だが、千草の持つ強引なような柔らかなような、不思議な距離感によって徐々に打ち解けて行くのだが、後半に彼女もまた心に大きな傷を負った八日目の蝉である事が明らかになる。
20年前、逃亡の途中に希和子は、一時期エンジェルホームという宗教団体に身を寄せる。
“エンジェルさん”という神がかりの女性に率いられたその団体は、虐待などによって行き場を失った女性を多く受け入れているが、高い塀に囲まれた隔離された施設で育った子供たちは、純粋培養されて大人の男性に対する恐怖心を教え込まれる。
希和子と恵理菜は、外に正体がばれそうになった事から施設を逃げ出すのだが、千草は幼い頃にエンジェルホームで恵理菜と共に育った少女だったのだ。
今も男性恐怖症を克服できない彼女は、自らの育った施設の関係者を取材する事で、自分の過去と向き合おうとしている女性なのである。
猫背で荷物を抱えた片方の肩を落とし、足を引き摺る様に歩く、ネガティブパワー全開の小池栄子が良い。
本作では全ての登場人物に象徴的な役割が与えられているが、特に脇のキャラクターは彼女を含めてビジュアル的にも特徴付けられているのが印象的だ。
エキセントリックなヘアスタイルに、天使語?の通訳をつけて喋る余貴美子のエンジェルさんの奇怪なキャラクターや、まるで時が止まったかの様な写真館の店主を田中泯が演じ、16年前の過去と現在を結びつける役回りと成っているのは、実に映画的な、面白い効果を生んでいた。
やがて自らの妊娠を知った恵理菜は、自分が第二の希和子にも、恵津子にもならないために、煮え切らない言動を繰り返す岸田と別れ、一人で子供を産む決意を固める。
そしてそれは、嘗て自分が母と呼び、今も複雑な感情を感じている希和子との、封印された記憶と向き合う機会となるのである。
千草と共に、嘗ての逃亡の足跡を辿る旅に出た恵理菜は、今はもう廃墟となったエンジェルホーム、そして逃避行の終焉の地となった小豆島の風景の中で、徐々に形を取り戻す記憶に戸惑う。
希和子は、自分の人生を滅茶苦茶にした憎い誘拐犯のはずだった。
だが、恵理菜の心の中で蘇る希和子は、精一杯の愛を自分に与え、この世界のキレイを沢山教えてくれた優しい“ママ”に他ならないのだ。
愛は人それぞれによって形を変え、誰かの愛は別の誰かにとっては憎しみとなる。
20年前に起こった事は、恵理菜の実の両親と希和子の複雑に入り組んだ愛憎の結果だが、彼ら全員からピュアな愛だけを受けていたのは、実は恵理菜ただ一人なのである。
自らの過去と向き合う長い旅路の果に、恵理菜は遂に希和子を、そして恵津子を受け入れる。
同時にそれは、女という性の中に受け継がれ、自らの中にも確実に存在する“母性”とは何かを理解する事でもある。
物語の後半、恵理菜と千草が再び“八日目の蝉”の話をするが、この時には解釈が大きく変わっている。
八日目の蝉は不幸ではなく、他の蝉よりもこの世界のキレイをたくさん見る事の出来る、幸運な蝉なのだと。
そして、その境地に達した恵理菜が、全ての感情を解き放って口にする最後の台詞は、正に心に染み入る名台詞。
きっと恵理菜は、嘗て希和子がしてくれた様に、生まれてくる子供にこの世界のキレイをたくさん見せてあげるのだろう。
そして今まで苦しみの中にあった恵津子にも、今度は彼女からたくさんの愛が送られるはずだ。
恵理菜が再び希和子に会うことがあるかどうかはわからないが、二人にとっての4年間は、共通のかけがえの無い記憶になった事は間違いない。
時を隔てた本作の二人の主人公を演じた井上真央と永作博美にとっては、共にこれは代表作と言える作品となった。
子役出身で、実は既に20年のキャリアを持つ井上真央は、この役に出会って演技者として大きく成長し、完全に一皮向けた印象である。
きっと彼女が尊敬すると語る、杉村春子の様な大女優に育って行く事だろう。
対する永作博美は正に今が旬、油の乗り切った演技は貫禄すら感じさせる。
時系列が違うから当たり前だが、二人の主人公が直接顔を合わせるシーンは一切無い。
それにも関わらず、最後の最後で二つの時空、二人の女性の中にある感情は確実に繋がった。
このクライマックスの映画的カタルシスを感じるだけでも、本作の147分という長尺は決して長く感じない。
少々気が早いが、2011年の日本映画を代表する一本である事は間違いないと思う。
今回は物語の重要な舞台となる香川県小豆島の酒、森國酒造の純米吟醸「ふわふわ」をチョイス。
やわらかな口当たりと、瀬戸内の海を思わせる芳醇な香りが口いっぱいに広がる。
この蔵の酒は「ふふふ」とか「びびび」とか、味わいを感覚で表した様な不思議な銘が特徴的だが、中身の方は奇を衒わない正攻法の日本酒だ。
良い意味で技巧を尽くし、誠実に作られた映画に相応しい一本と言えるだろう。
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仲間が皆死に絶える中、もしも生き残った「八日目の蝉」がいたとしたら、それは蝉にとって幸せな事なのだろうか?不幸なのだろうか?
不倫相手の娘を誘拐した女の逃避行と、やがて成長した娘の愛を巡る葛藤を描いた角田光代の同名小説を、井上真央と永作博美のダブル主演で映像化したハードな人間ドラマだ。
奥寺佐渡子による脚色が素晴らしく、演技者として驚くべき成長を見せた井上真央と、既に名優の域に達したと言っても過言ではない永作博美の好演もあって、実に見応えのある秀作となった。
成島出監督作品としても、過去最高の出来栄えと言える。
1995年、東京地裁。
誘拐犯・野々宮希和子(永作博美)に懲役6年の刑が言い渡される。
彼女は会社の上司で家庭のある秋山丈博(田中哲司)と恋に落ち、授かった命を諦めて堕胎しなければならなかった。
秋山の妻・恵津子(森口瑤子)が、女の子を出産した事を知った希和子は、衝動的に秋山の家に忍び込み、赤ん坊を誘拐してしまう。
希和子は、秋山の娘・恵理菜を“薫”という名で呼び、4年に及ぶ逃亡生活の末に、小豆島のフェリー乗り場で逮捕されたのだ。
16年後、成長した恵理菜(井上真央)は21歳の大学生になっており、嘗ての希和子と同じように岸田孝史(劇団ひとり)という男性と不倫関係にある。
自分が妊娠した事を知った恵理菜は、過去の事件について調べているというフリーライターの安藤千草(小池栄子)と共に、野々宮希和子と過ごした空白の四年間埋める旅に出る・・・・
小説の物語構造を、極めて映画的に再解釈した脚本が見事だ。
原作はプローグの第0章と、 野々宮希和子と誘拐された“薫”を描く第一章、成長した秋山恵理菜の物語である第二章の三章構成となっているが、映画は過去の希和子と現在の恵理菜の物語を平行して描き、後半で失われた記憶を探す恵理菜の旅と16年前の逃避行をシンクロさせる事で、二人の主人公の人生をより象徴的に描写し、ドラマチックな効果を上げている。
近年では細田守監督のアニメ作品や「パーマネント野ばら」など、秀作を連発する奥寺佐渡子が、またしても卓越した構成力で、複雑な人間ドラマを纏め上げている。
劇中、タイトルの“八日目の蝉”に言及するシーンが二箇所ある。
どちらも井上真央演じる恵理菜と小池栄子演じる千草との会話の流れの中で出てくるのだが、最初二人は八日目の蝉は可哀想だと言う。
皆が七日目で死んでしまっているのに、一匹だけ生き残っても、寂しいだけではないか、と。
この様な言葉が出てくるのは、この物語の登場人物達が、皆心の中に虚無感を抱えた八日目の蝉だからに他ならない。
その基点となっているのが、20年前の誘拐事件だ。
希和子が恵理菜を連れ去った間に、赤ん坊だった恵理菜は4歳の少女に成長している。
事件が解決して家に帰ってきても、そこに待つ実の両親は見知らぬおじさんとおばさんであり、彼らの愛がストレートに恵理菜に届く事は無い。
ようやく我が子を取り戻した実母の恵津子は、4年間を奪った希和子の影を常に娘の中に感じ、苛立ちと後悔を隠す事が出来ず、希和子の愛を一身に受けて育った恵理菜は、そんな母の悲しみを敏感に感じて心を開く事ができない。
事件の原因を作った父の丈博は、そんな母娘の葛藤の前に余りにも無力だ。
結局、事件解決以降16年を費やしても、彼らは本当の家族に成り切る事は出来ないのである。
成長し、21歳の大人になった恵理菜は、そんな特殊な状況から逃げるように、大学生にして自立した生活を送っているが、図らずも愛した人は嘗ての希和子と同じく家庭のある人。
自分はいつの間にか、希和子の歩んだ道を無意識に選択しているのではないか、そんな思いに囚われた彼女の前に現れるのが、フリーライターの千草だ。
最初、過去を蒸し返される事に警戒感を隠せない恵理菜だが、千草の持つ強引なような柔らかなような、不思議な距離感によって徐々に打ち解けて行くのだが、後半に彼女もまた心に大きな傷を負った八日目の蝉である事が明らかになる。
20年前、逃亡の途中に希和子は、一時期エンジェルホームという宗教団体に身を寄せる。
“エンジェルさん”という神がかりの女性に率いられたその団体は、虐待などによって行き場を失った女性を多く受け入れているが、高い塀に囲まれた隔離された施設で育った子供たちは、純粋培養されて大人の男性に対する恐怖心を教え込まれる。
希和子と恵理菜は、外に正体がばれそうになった事から施設を逃げ出すのだが、千草は幼い頃にエンジェルホームで恵理菜と共に育った少女だったのだ。
今も男性恐怖症を克服できない彼女は、自らの育った施設の関係者を取材する事で、自分の過去と向き合おうとしている女性なのである。
猫背で荷物を抱えた片方の肩を落とし、足を引き摺る様に歩く、ネガティブパワー全開の小池栄子が良い。
本作では全ての登場人物に象徴的な役割が与えられているが、特に脇のキャラクターは彼女を含めてビジュアル的にも特徴付けられているのが印象的だ。
エキセントリックなヘアスタイルに、天使語?の通訳をつけて喋る余貴美子のエンジェルさんの奇怪なキャラクターや、まるで時が止まったかの様な写真館の店主を田中泯が演じ、16年前の過去と現在を結びつける役回りと成っているのは、実に映画的な、面白い効果を生んでいた。
やがて自らの妊娠を知った恵理菜は、自分が第二の希和子にも、恵津子にもならないために、煮え切らない言動を繰り返す岸田と別れ、一人で子供を産む決意を固める。
そしてそれは、嘗て自分が母と呼び、今も複雑な感情を感じている希和子との、封印された記憶と向き合う機会となるのである。
千草と共に、嘗ての逃亡の足跡を辿る旅に出た恵理菜は、今はもう廃墟となったエンジェルホーム、そして逃避行の終焉の地となった小豆島の風景の中で、徐々に形を取り戻す記憶に戸惑う。
希和子は、自分の人生を滅茶苦茶にした憎い誘拐犯のはずだった。
だが、恵理菜の心の中で蘇る希和子は、精一杯の愛を自分に与え、この世界のキレイを沢山教えてくれた優しい“ママ”に他ならないのだ。
愛は人それぞれによって形を変え、誰かの愛は別の誰かにとっては憎しみとなる。
20年前に起こった事は、恵理菜の実の両親と希和子の複雑に入り組んだ愛憎の結果だが、彼ら全員からピュアな愛だけを受けていたのは、実は恵理菜ただ一人なのである。
自らの過去と向き合う長い旅路の果に、恵理菜は遂に希和子を、そして恵津子を受け入れる。
同時にそれは、女という性の中に受け継がれ、自らの中にも確実に存在する“母性”とは何かを理解する事でもある。
物語の後半、恵理菜と千草が再び“八日目の蝉”の話をするが、この時には解釈が大きく変わっている。
八日目の蝉は不幸ではなく、他の蝉よりもこの世界のキレイをたくさん見る事の出来る、幸運な蝉なのだと。
そして、その境地に達した恵理菜が、全ての感情を解き放って口にする最後の台詞は、正に心に染み入る名台詞。
きっと恵理菜は、嘗て希和子がしてくれた様に、生まれてくる子供にこの世界のキレイをたくさん見せてあげるのだろう。
そして今まで苦しみの中にあった恵津子にも、今度は彼女からたくさんの愛が送られるはずだ。
恵理菜が再び希和子に会うことがあるかどうかはわからないが、二人にとっての4年間は、共通のかけがえの無い記憶になった事は間違いない。
時を隔てた本作の二人の主人公を演じた井上真央と永作博美にとっては、共にこれは代表作と言える作品となった。
子役出身で、実は既に20年のキャリアを持つ井上真央は、この役に出会って演技者として大きく成長し、完全に一皮向けた印象である。
きっと彼女が尊敬すると語る、杉村春子の様な大女優に育って行く事だろう。
対する永作博美は正に今が旬、油の乗り切った演技は貫禄すら感じさせる。
時系列が違うから当たり前だが、二人の主人公が直接顔を合わせるシーンは一切無い。
それにも関わらず、最後の最後で二つの時空、二人の女性の中にある感情は確実に繋がった。
このクライマックスの映画的カタルシスを感じるだけでも、本作の147分という長尺は決して長く感じない。
少々気が早いが、2011年の日本映画を代表する一本である事は間違いないと思う。
今回は物語の重要な舞台となる香川県小豆島の酒、森國酒造の純米吟醸「ふわふわ」をチョイス。
やわらかな口当たりと、瀬戸内の海を思わせる芳醇な香りが口いっぱいに広がる。
この蔵の酒は「ふふふ」とか「びびび」とか、味わいを感覚で表した様な不思議な銘が特徴的だが、中身の方は奇を衒わない正攻法の日本酒だ。
良い意味で技巧を尽くし、誠実に作られた映画に相応しい一本と言えるだろう。

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