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2011年05月18日 (水) | 編集 |
「ブラック・スワン」は、いろいろな意味で、ダーレン・アロノフスキーの前作「レスラー」の対になる様な作品である。
あの映画では主演のミッキー・ロークの人生を、主人公であるレスラーに被らせる事で、物語に半ドキュメンタリー的なリアリティと迫力を持たせる事に成功していた。
今回も考え方は基本的に同じ。
ナタリー・ポートマンという女優を苦悩を抱えたバレエのプリマにリンクさせ、わかりやすいシンプルなストーリーラインと、外連味たっぷりな演出でデコレーション。
描き出されるのは「レスラー」とは対照的に、人間の内面に潜むダークサイドだ。
ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、引退するベス(ウィノナ・ライダー)に変わって、大胆にリニューアルされた「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。
しかし、フランス人監督のトマス(ヴァンサン・カッセル)は、ニナのバレエは白鳥を演じるには十分だが、黒鳥を演じ切るにはパッションが足りないと言う。
元バレリーナで今まで二人三脚で歩んで来た母親(バーバラ・ハーシー)にまで、「あなたに主役は無理だ」と言われ、ニナの心はプレッシャーと新加入したリリー(ミラ・クニス)に役を奪われるのではという恐れによって、黒鳥の魔力に呪われたかの様に少しずつ壊れてゆく・・・
バレエと言う芸術を、別種の表現である映画でどう描くかという点に関しては、英国映画の古典「赤い靴」から、つい最近の日本映画「ダンシング・チャップリン」まで様々なアプローチが試みられて来たが、アロノフスキーにとってのバレエは、あくまでも物語のモチーフ、枠組み以上ではない様だ。
本作におけるヒロインの精神崩壊の描写に、今 敏監督の「パーフェクト・ブルー」との類似点が指摘されているように、物語が描こうとしているものは、別にバレエでなくても成立するのである。
本作はカテゴリで言えばバレエ物だろうが、華やかな舞台を生み出すアーチストの、創造の葛藤を描く作品では無く、逆に創造のプレッシャーによって生身の人生における主人公の内面の矛盾が狂気の妄想として実体化し、心が壊れて行く様を描いたサイコホラー映画なのだ。
13歳の時にリュック・ベッソンに見出され、傑作「レオン」のヒロインとしてデビューして以来、ナタリー・ポートマンは順風満帆な女優人生を送って来たと言えるだろう。
多くの子役出身者が大人の俳優への脱皮に失敗し、ドラッグやアルコールに溺れてハリウッドから去って行く中、彼女は「スター・ウォーズ」の新三部作でアミダラ姫の役をゲットし、マイク・ニコルズやアンソニー・ミンゲラ、マイケル・マンといった巨匠にも相次いで起用された。
私生活でも六カ国語に精通し、ハーバード大学卒という才媛ぶり。
しかしその半面、優等生的な演技は、悪くは無いけど個性に欠け、強烈に印象に残る代表作が無く、演技者としては今ひとつ伸び悩んでいたのも事実。
アロノフスキーは、ニナというキャラクターを、明らかにポートマン本人を意識して造形し、「レスラー」におけるミッキー・ロークと同じ効果を追求している様だ。
要するにポートマンに対して、『君の芝居は、上手いけど臆病で面白味が無く、エロスもパッションも感じられないよ!』と突き付けているのである。
結果的にニナの様に追い込まれたのであろう、ナタリー・ポートマンは見事に壁をブレイクスルーし、念願のオスカー女優となった訳だが、アロノフスキーの悪意ある演出は他のキャストにも及んでいる。
ニューシネマの名女優だが、ハリウッドでは今ひとつトップになり切れなかったバーバラ・ハーシーに、老いて娘に嫉妬し依存し続ける元バレリーナの母親を演じさせ、嘗てポートマン的なポジションにいたウィノナ・ライダーには、あろう事か彼女に追い落とされるロートルのベス役を当てがうなど、一歩間違えれば悪趣味にも感じさせてしまうギリギリのキャスティングであろう。
彼女らはニナにとって、10年後、20年後の“なりたくない自分”であり、言わば自身の分身の様なものである。
前記した様に、本作における真の葛藤は、芸術と現実の埋め難いギャップでは無い。
創造に挑む事で、否が応でもでも向き合わざるを得なくなった秘められた自分、本作の場合は、ニナが無意識に演じている12歳の少女の様な無垢なる自分と、成熟した女性としての抑圧された自我との肉体の支配を賭けた戦いだ。
嘗てバレエの世界にいた母親は、娘のニナに自らの才能を受け継いだ者に対する愛と、自らのキャリアを終わらせた者に対する憎しみが入り混じった複雑な感情を向け、結果的に自分も壊れかかっている。
この母娘の関係は、「キャリー」のシシー・スペーセクとパイパー・ローリーの母娘、あるいは山岸涼子のいくつかのコミックを感じさせる。
そう言えば山岸漫画には、そのものズバリ「黒鳥 ブラックスワン」という作品もあった。
内容的にはもちろん本作とは異なるが、バレエを巡る狂気を秘めた人間ドラマと言う点では共通点があると言える。
アロノフスキーは、バレエの創造を巡る葛藤を外枠に、無垢なる白鳥と邪悪な黒鳥という象徴的なモチーフを通して、抑圧された精神状態にある一人の女性の崩壊と解放を、超ハイテンションなエンターテイメントとして描き出した。
プロットそのものは単純だが、脚本には緻密な工夫が凝らされ、ニナの心が感じるプレッシャーが高まるにつれて、現実と妄想の区別がなくなり、自らの狂気への恐れが更なる葛藤を生み出す悪循環。
このプロセスのナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技と、バーバラ・ハーシーの静かな狂気は真に恐ろしく、本作に芸術と人生の板ばさみになる苦悩を描いた、「赤い靴」的なバレエ映画を期待して来た観客を戸惑わせる事は間違いない。
そして「白鳥の湖」における悪魔同様、誘惑者の役割であるミラ・クニス演じるリリーと、自らの内面の黒鳥を一体化させてゆくあたりからは、観客にも映し出されているものが現実なのか、ニナの心が作り出した世界なのか分からない様に描写され、精神の迷宮はより昏迷を深めてゆく。
際立つのは、対象を残酷なまでに突き放し、徹底的に計算づくのエンターテイメントに仕立て上げる作者のスタンスだが、この辺りはちょっと中島哲也を連想させるものがある。
思うに、アロノフスキーはバレエという表現、あるいは女性そのものがあまり好きではないのではなかろうか。
自分が心から敬愛するモチーフを、この様な悪意たっぷりの視点で、冷酷なまでに客観的に描く事は出来ないだろうし、似た構造を持つ「レスラー」にあった、プロレスとその虚構の世界に惹きつけられる男たちに対する、切ない愛情をこめた眼差しはこの作品には見られない。
むしろ余りにも痛々しい「白鳥」のステージの描写などに、嫌悪感にも似た冷たさを感じるのだが、それがまたニナの鬱屈した感情を加速させ、「黒鳥」パートでの大爆発とラストの解放における圧倒的な映画的カタルシスにつながっており、そこまで計算しているとしたら本当に脱帽するしかないのだけど。
今回は、最初から最期までハイテンションが持続し、かなり疲れる映画なので、終わったらスッキリとした酒を飲みたい。
新潟の地ビール、その名もスワンレイクビールから、白と黒という事で「ホワイトスワン ヴァイツェン」と黒ビールの「ポーター」をダブルでチョイス。
どちらも、喉越しは新潟の酒らしく爽やかだが、白鳥はスッキリとした酸味を楽しめ、黒鳥はしっとりしたコクを味わえる。
人間の二面性をジックリ見せ付けられた後は、ビールの二面性を堪能しながら、熱くなった心を冷やそう。
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あの映画では主演のミッキー・ロークの人生を、主人公であるレスラーに被らせる事で、物語に半ドキュメンタリー的なリアリティと迫力を持たせる事に成功していた。
今回も考え方は基本的に同じ。
ナタリー・ポートマンという女優を苦悩を抱えたバレエのプリマにリンクさせ、わかりやすいシンプルなストーリーラインと、外連味たっぷりな演出でデコレーション。
描き出されるのは「レスラー」とは対照的に、人間の内面に潜むダークサイドだ。
ニューヨークのバレエ団に所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、引退するベス(ウィノナ・ライダー)に変わって、大胆にリニューアルされた「白鳥の湖」のプリマに抜擢される。
しかし、フランス人監督のトマス(ヴァンサン・カッセル)は、ニナのバレエは白鳥を演じるには十分だが、黒鳥を演じ切るにはパッションが足りないと言う。
元バレリーナで今まで二人三脚で歩んで来た母親(バーバラ・ハーシー)にまで、「あなたに主役は無理だ」と言われ、ニナの心はプレッシャーと新加入したリリー(ミラ・クニス)に役を奪われるのではという恐れによって、黒鳥の魔力に呪われたかの様に少しずつ壊れてゆく・・・
バレエと言う芸術を、別種の表現である映画でどう描くかという点に関しては、英国映画の古典「赤い靴」から、つい最近の日本映画「ダンシング・チャップリン」まで様々なアプローチが試みられて来たが、アロノフスキーにとってのバレエは、あくまでも物語のモチーフ、枠組み以上ではない様だ。
本作におけるヒロインの精神崩壊の描写に、今 敏監督の「パーフェクト・ブルー」との類似点が指摘されているように、物語が描こうとしているものは、別にバレエでなくても成立するのである。
本作はカテゴリで言えばバレエ物だろうが、華やかな舞台を生み出すアーチストの、創造の葛藤を描く作品では無く、逆に創造のプレッシャーによって生身の人生における主人公の内面の矛盾が狂気の妄想として実体化し、心が壊れて行く様を描いたサイコホラー映画なのだ。
13歳の時にリュック・ベッソンに見出され、傑作「レオン」のヒロインとしてデビューして以来、ナタリー・ポートマンは順風満帆な女優人生を送って来たと言えるだろう。
多くの子役出身者が大人の俳優への脱皮に失敗し、ドラッグやアルコールに溺れてハリウッドから去って行く中、彼女は「スター・ウォーズ」の新三部作でアミダラ姫の役をゲットし、マイク・ニコルズやアンソニー・ミンゲラ、マイケル・マンといった巨匠にも相次いで起用された。
私生活でも六カ国語に精通し、ハーバード大学卒という才媛ぶり。
しかしその半面、優等生的な演技は、悪くは無いけど個性に欠け、強烈に印象に残る代表作が無く、演技者としては今ひとつ伸び悩んでいたのも事実。
アロノフスキーは、ニナというキャラクターを、明らかにポートマン本人を意識して造形し、「レスラー」におけるミッキー・ロークと同じ効果を追求している様だ。
要するにポートマンに対して、『君の芝居は、上手いけど臆病で面白味が無く、エロスもパッションも感じられないよ!』と突き付けているのである。
結果的にニナの様に追い込まれたのであろう、ナタリー・ポートマンは見事に壁をブレイクスルーし、念願のオスカー女優となった訳だが、アロノフスキーの悪意ある演出は他のキャストにも及んでいる。
ニューシネマの名女優だが、ハリウッドでは今ひとつトップになり切れなかったバーバラ・ハーシーに、老いて娘に嫉妬し依存し続ける元バレリーナの母親を演じさせ、嘗てポートマン的なポジションにいたウィノナ・ライダーには、あろう事か彼女に追い落とされるロートルのベス役を当てがうなど、一歩間違えれば悪趣味にも感じさせてしまうギリギリのキャスティングであろう。
彼女らはニナにとって、10年後、20年後の“なりたくない自分”であり、言わば自身の分身の様なものである。
前記した様に、本作における真の葛藤は、芸術と現実の埋め難いギャップでは無い。
創造に挑む事で、否が応でもでも向き合わざるを得なくなった秘められた自分、本作の場合は、ニナが無意識に演じている12歳の少女の様な無垢なる自分と、成熟した女性としての抑圧された自我との肉体の支配を賭けた戦いだ。
嘗てバレエの世界にいた母親は、娘のニナに自らの才能を受け継いだ者に対する愛と、自らのキャリアを終わらせた者に対する憎しみが入り混じった複雑な感情を向け、結果的に自分も壊れかかっている。
この母娘の関係は、「キャリー」のシシー・スペーセクとパイパー・ローリーの母娘、あるいは山岸涼子のいくつかのコミックを感じさせる。
そう言えば山岸漫画には、そのものズバリ「黒鳥 ブラックスワン」という作品もあった。
内容的にはもちろん本作とは異なるが、バレエを巡る狂気を秘めた人間ドラマと言う点では共通点があると言える。
アロノフスキーは、バレエの創造を巡る葛藤を外枠に、無垢なる白鳥と邪悪な黒鳥という象徴的なモチーフを通して、抑圧された精神状態にある一人の女性の崩壊と解放を、超ハイテンションなエンターテイメントとして描き出した。
プロットそのものは単純だが、脚本には緻密な工夫が凝らされ、ニナの心が感じるプレッシャーが高まるにつれて、現実と妄想の区別がなくなり、自らの狂気への恐れが更なる葛藤を生み出す悪循環。
このプロセスのナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技と、バーバラ・ハーシーの静かな狂気は真に恐ろしく、本作に芸術と人生の板ばさみになる苦悩を描いた、「赤い靴」的なバレエ映画を期待して来た観客を戸惑わせる事は間違いない。
そして「白鳥の湖」における悪魔同様、誘惑者の役割であるミラ・クニス演じるリリーと、自らの内面の黒鳥を一体化させてゆくあたりからは、観客にも映し出されているものが現実なのか、ニナの心が作り出した世界なのか分からない様に描写され、精神の迷宮はより昏迷を深めてゆく。
際立つのは、対象を残酷なまでに突き放し、徹底的に計算づくのエンターテイメントに仕立て上げる作者のスタンスだが、この辺りはちょっと中島哲也を連想させるものがある。
思うに、アロノフスキーはバレエという表現、あるいは女性そのものがあまり好きではないのではなかろうか。
自分が心から敬愛するモチーフを、この様な悪意たっぷりの視点で、冷酷なまでに客観的に描く事は出来ないだろうし、似た構造を持つ「レスラー」にあった、プロレスとその虚構の世界に惹きつけられる男たちに対する、切ない愛情をこめた眼差しはこの作品には見られない。
むしろ余りにも痛々しい「白鳥」のステージの描写などに、嫌悪感にも似た冷たさを感じるのだが、それがまたニナの鬱屈した感情を加速させ、「黒鳥」パートでの大爆発とラストの解放における圧倒的な映画的カタルシスにつながっており、そこまで計算しているとしたら本当に脱帽するしかないのだけど。
今回は、最初から最期までハイテンションが持続し、かなり疲れる映画なので、終わったらスッキリとした酒を飲みたい。
新潟の地ビール、その名もスワンレイクビールから、白と黒という事で「ホワイトスワン ヴァイツェン」と黒ビールの「ポーター」をダブルでチョイス。
どちらも、喉越しは新潟の酒らしく爽やかだが、白鳥はスッキリとした酸味を楽しめ、黒鳥はしっとりしたコクを味わえる。
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