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1年前にティーザートレイラーが公開されてから、世界中の映画ファンの間で話題を呼んでいたJ・J・エイブラムスとスティーブン・スピルバーグのコラボ作、その名も「SUPER8/スーパーエイト」!
これは、1966年生まれという、正にスピルバーグ世代ど真ん中の、元8ミリ少年エイブラムスが、偉大な先輩への大いなるリスペクトを込めて作り出した“愛すべき小品”である。
オハイオ州リリアン、1979年。
鉄工所の事故で母を亡くしたジョー・ラム(ジョエル・コートニー)は、悲しみを拭い去るかのように、幼馴染のチャールズ(ライリー・グリフィス)たちと作っている8ミリ映画に情熱を燃やしている。
密かに恋心を抱いているアリス(エル・ファニング)が、ヒロイン役を演じてくれる事も決まり、ますます映画にのめりこむ様になる。
だが、深夜に家を抜け出して、無人駅で撮影していた時、突然一台のピックアップトラックが空軍の物資を積んだ貨物列車に衝突、大爆発を起こす。
命からがら逃げ出したジョーたちだが、実は彼らのカメラには、ある恐るべき秘密が写りこんでしまっていた・・・・
タイトルの“スーパー8”とは、米国のコダック社が1965年に発表した、8ミリフィルムの規格である。
8ミリには他にも、日本の富士フィルムによるシングル8、1930年代に作られた古い規格であるダブル8があり、カメラに互換性が無かったので、当時8ミリ映画を作ろうとすると、カメラとフィルムの選択に皆頭を悩ませたものだ。
それぞれの規格の中でも色々なフィルムの種類があるのだが、一般にスーパー8は柔らかで暖色の再現性に優れ、シングル8はシャープで寒色が美しく出るといった特徴があった。
日本ではスーパー派とシングル派がほぼ拮抗していたが、コダックの母国が舞台の本作では、やはり8ミリと言えばスーパー8という事になるのだろう。
何でも、エイブラムスはアマチュア時代からスピルバーグと縁があったらしい。
82年に当時15歳だったエイブラムスは、ある8ミリ映画際に作品を出品、新聞でその記事を読んだアンブリンのキャスリーン・ケネディに、スピルバーグが少年時代に撮った8ミリ映画の修復を依頼されたのだそうな。
自分と同年齢の頃のスピルバーグの作品に触れたエイブラムスは、その稚拙さを見て大いに自信をつけたというから大物だ(笑)
なるほど、70年代末を舞台に展開するSFアドベンチャーは、確かにエイブラムスの映画的記憶にあるスピルバーグ映画の香りで満たされている。
宇宙人に纏わる少年少女たちの物語は、「未知との遭遇」と「E.T.」だし、田舎街が怪物に襲われるのは「グレムリン」、少しづつ恐怖の対象が姿を見せる小出しのテクニックは「JAWS」、地底の冒険は「グーニーズ」と、70年代から80年代初頭にかけてのスピルバーグ監督・プロデュース作にあった要素をごちゃ混ぜにした上で、一本に再構成したような作品である。
ディテールでも、画面の質感や音楽のタッチはもちろん、「E.T.」や「ポルターガイスト」で印象的だった、丘の上から見下ろした住宅地の夜景カットや、「未知との遭遇」の満点の星空の下を走るピックアップトラックのカットを再現している他、当時のスピルバーグ映画で特徴的だった横に伸びるブルーのレンズフレアまで再現しているのには驚いた。
面白いのは、スピルバーグへのラブ&リスペクトを全面に出しながら、実は同時代の作家であるジョージ・A・ロメロ対してもかなりの偏愛っぷりをみせている事だ。
劇中で8ミリ映画の監督をしているチャールズの部屋には、ホラー映画のポスターがベタベタと貼られ、何より撮っているのがゾンビ映画なのである。
本作の年代設定が「未知との遭遇」の1977年でも、「E.T.」の1982年でもなく、なぜ1979年なのかという事も、ロメロとの関連を考えると納得がゆく。
彼の代表作であり、世界中で大ヒットした「ゾンビ」(原題:Dawn of the Dead)は、1979年の5月24日に夏休み映画としてアメリカで公開されており、ちょうど本作の描いている時期と一致し、チャールズの部屋にもちゃんとポスターが貼ってある。
さらに、小さな田舎町が軍隊によって封鎖される描写は「ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖」を思わせるし、舞台となるリリアンの地場産業が鉄鋼という設定も、ロメロが元祖鉄鋼の街である地元ピッツバーグに拘り続けている事と無関係ではあるまい。
スピルバーグとロメロというと、一見対照的に見えるが、SFとホラーという括りの中で当時の8ミリ少年の間では結構ファン層が被っていたりする。
まあ今回はスピルバーグがプロデュースしている事もあり、あくまでも彼に対するオマージュを押し出しつつも、言わば表スピルバーグと裏ロメロという構造にしているあたり、わかるわかると頷いている観客も多いのではないだろうか。
もっとも、本作は単に過去の映画の再現をやって、おっさんたちを懐かしがらせるための作品ではない。
エイブラムスはスピルバーグ映画の要素を慎重に取捨選択しながら、パズルの様に組上げる過程で、しっかりと独自性を盛り込む事を忘れていない。
スピルバーグは、彼自身が母子家庭だった事もあり、父親不在(「E.T.」)あるいは父親が家族から去る(「未知との遭遇」)の設定を好むが、こちらでは逆に、去って行くのは母親であり、二つの父子家庭が描かれる。
そして親子間の葛藤は、スピルバーグ映画では殆ど前面に出ることの無いスパイスに過ぎなかったが、本作におけるジョーとジャック、アリスとルイスの両親子の間では、葛藤が衝突として描写され、その事がやや弱いながらも物語を展開させる動力になっている。
物語の結末で、主人公の抱える喪失感が克服されているのは同じだが、エイブラムスはよりはっきりと喪失とその結果としての葛藤を描くのである。
そして、スピルバーグ映画、特に監督作には決して出てこなかった要素、“初恋”が物語に色を添える。
ファニング姉妹の妹、エル・ファニングのキャスティングが、本作に奇跡の映画的瞬間をもたらした。
劇中劇で刑事の妻を演じるシーンの、とても撮影当時12歳とは思えない色香と、劇中の少年達と現実の観客を同時に黙らせる圧倒的な演技力。
ジョーがアリスにゾンビメイクを施しながら感じていたドキドキは、彼の肩に残された真っ赤なリップの跡と共に、観客の心に思春期の甘酸っぱさを蘇らせる。
これほど愛おしく思えるゾンビは、間違いなく映画史上初めててであろう(笑
親友と同じ女の子を好きになってしまった時の、切ない心の痛みも含めて、恋と冒険はセットとなって、少年達を大いに成長させるのである。
実際、8ミリ映画を作ってた男の子は、一度は好きな子に出てもらった事があると思うし(笑
「SUPER8/スーパーエイト」は、J・J・エイブラムスとスピルバーグという、ちょうど一世代違う二人の映画作家による、ある種の創作の循環を見る事の出来るユニークな作品だ。
とは言っても、2011年という時代を代表する作品とか、映画史に残る傑作というのとはちょっと違う気がする。
これは言わばハリウッド版のSFチックな「虹の女神 Rainbow Song」であって、ある特定の世代の映画的記憶に根ざした、ノスタルジックな映画へのラブレター。
エイブラムスとほぼ同世代の私にとっても、まるで自分の少年時代のアルバムを覗く様な、妙なこそばゆさを感じる作品だ。
観に行った劇場では何と上映終了後に拍手が起こってたが、こういう世代の共有意識というのも、映画の持つ大きな魅力かもしれない。
もちろん、決してそれだけに留まらず、元ネタを知らない観客に対しても、面白さはきっちりと担保されており、スピルバーグもロメロも一本も知らない人でも十分楽しめるだろう。
このあたり、さすが超一流同士のコラボレーション作品である。
エンドクレジットでは、劇中で子供達が作っている8ミリ映画“The Case”の本編が上映されるので、直ぐに席を立たない様に!
因みにこの映画、実際にストーリーを作ったのは出演している子供達だそうで、適度なくだらなさがいかにもな感じでとても良い。
そう言えば自分が始めて撮ったのは超能力物(当時クローネンバーグの「スキャナーズ」が流行ってた)だったなあ・・・・なんて事も思い出してしまったよ。(笑
今回は、宇宙人繋がりで、“宇宙酒”をチョイス。
正式には「土佐宇宙酒 玉川 安芸虎 純米大吟醸」と言うが、もちろん宇宙で醸造された訳ではない。
高知県の蔵元有志によって推進された、日本酒の酵母を宇宙に送るプロジェクトから生まれた日本酒なのだ。
高知県産の酵母は2005年に国際宇宙ステーションに運ばれ、8日間を宇宙で過ごして帰還。
この宇宙酵母を使って、各銘柄で醸造されているのが、土佐の新名物宇宙酒という訳だ。
お味の方はごく普通に美味しい純米酒で、正直言われなければわからないが、夏の星空を眺めながら冷で飲めば、未知なる世界へのロマンが広がるだろう。

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今年のアカデミー賞戦線を賑わせた話題作の中で、実質最後発での日本公開となったのが、「スラムドッグ$ミリオネラ」のダニー・ボイル監督が、実際に起こった遭難事故を描いた「127時間」だ。
この奇妙なタイトルは、主人公が事故に巻き込まれてから、奇跡の生還を果すまでの経過時間。
結末のわかっている物語で、主人公は一点から全く動けないという特殊な状況と、映画化の難しい条件が見事に揃っている中で、果たして鬼才ボイルはどう仕上げた?
2003年4月25日の金曜日深夜、僻地の冒険旅行を趣味にしているアーロン・ラルストン(ジェームズ・フランコ)は、ユタ州のキャニオンランズ国立公園に向けて、誰にも行き先を告げずに出発。
翌日はMTBと徒歩で目的地のブルー・ジョンを目指し、途中で知り合ったクリスティ(ケイト・マーラ)とミーガン(アンバー・タンブリン)のガイドを買って出て、峡谷に出来た自然のプールで楽しい時を過ごす。
パーティーで再会する約束をして二人と別れ、一人で狭い谷間を通っていた時に事故は起こる。
足を滑らせたアーロンは、たまたま落ちて来た岩に右手を挟まれてしまったのだ。
通常のトレイルからは遠く離れた独自ルートを通っていたために、大声で助けを呼んでも誰にも届かない。
何とか岩を動かすか、砕くか出来ないかと試行錯誤するものの、びくともせず、残された水は僅かボトル一本のみ。
最悪の事態を覚悟したアーロンは、ビデオカメラで自らの最期の日々を記録しはじめるのだが・・・・
私は米国に住んでいた頃、国立公園のトレッキングが趣味で、映画の舞台となったキャニオンランズにも何度か歩きに行った事がある。
忘れもしない18年前の初夏、私はここで遭難しそうになった。
奥地のトレイルを目指していたのだが、いつの間にか道を見失い、見渡す限りの岩の荒野を延々とさ迷う事になってしまった。
キャニオンランズは海抜こそ高いが、砂漠気候で夏場の最高気温は摂氏40度近くになる事もある。
行けども行けども人っ子一人見えず、段々と減ってゆく水と脱水症状の恐怖と戦いながら、24時間歩き続け、漸く本来のトレイルに出て、たまたま歩いてきた人に水を分けてもらえた時の気持ちは、本当にフニャフニャと力が抜けて、そのまま倒れてしまいそうだった。
思えば、一人旅の行く先を、必ず誰かに告げるようになったのは、この時からだ。
私は幸運にも歩き続ける事ができたが、主人公のアーロンは文字通り抜き差しなら無い状況に陥ってしまう。
右手を完全に岩に挟まれ、身動きが殆どとれない。
しかも普段から誰も知らないルートを開拓するのが大好きな彼は、もちろん今回も地図に乗っているトレイルなんかを歩いてはいない。
ヨセミテなど都市に近いメジャーな国立公園なら兎も角、ユタの奥地まで来ると観光客自体の数が極端に少ないし、必然的にパークレンジャーの数も少ない。
つまり、誰かがそこを通って、気付いてくれる可能性は限りなくゼロなのだ。
当初は何とか岩を削って脱出を試みるものの、削れば削るだけ岩は自分の右手にのしかかり、状況は悪化するだけ。
一日が経つころには、血の通わない指の感覚は無くなり、壊死が始まる。
ダニー・ボイルは、この最悪の状況に陥った主人公の、サバイバル劇と心理劇を物語の両輪として展開する。
左手一本で僅かな装備に創意工夫を巡らして、一日でも長く生き延びる努力。
ハーネスで体を支えて体力の消耗を防ぎ、ザイルで簡易クレーンの仕組みを作り、岩を僅かでも持ち上げようとする。
水が底を付くと、尿をバッグに溜め、悪臭(脱水症状の人間の尿は臭くなる)に耐えながらそれを飲みほす。
苛酷な生への戦いの最中、死に直面したからこそ感じる、この世界の恵もある。
一日中暗い峡谷の底へ、毎朝僅か15分間だけ差し込む日光の温かさ。
毎日同じルートで飛ぶワタリガラスのシルエットが、まだ生きている事を実感させてくれる。
アーロンは、そんな自分の戦いを、遺言としてビデオに残す事で、自分自身を奮い立たせるのである。
やがて、肉体の消耗と共に、走馬灯の如く蘇ってくる過去の人生の幻影。
幼い頃に父が見せてくれた、壮大な自然から受けたインパクト。
仲の良かった妹と、一緒にピアノの練習をした大切な思い出。
しかし何時しか家族との関係も変わり、母からの電話には出なくなり、妹の結婚式まで欠席してしまった事への小さな後悔。
アーロンは、良く言えば自由奔放、悪く言えば傍若無人に人生を謳歌し、それは何時しか畏敬の念を抱いていたはずの、自然に対するスタンスにも反映されていたのである。
現実と幻想、主観と客観、ミクロとマクロが入り混じり、スプリット・スクリーンなども駆使した外連味たっぷりの映像テックニックで、テンポ良く繋いでゆくあたりはダニー・ボイルの真骨頂。
あまりにも単純で、長編映画にはなりそうもない素材を、見事に極上のエンターテイメントとして昇華させる辺りはさすがである。
そして、肉体が限界に達し、最期の時が迫る中、アーロンは過去ではなく、ある“未来の可能性のビジョン”を見て、最後の力を振り絞って究極の行動に出る。
クライマックスの展開は、まあ観る前からわかってはいたけど、肉体的にも精神的にも相当にイタタな物だ。
ボイルもここはイメージに逃げることはせずに、思いっきり彼の痛みを強調する演出をしているので、観客にも受け止めるための相当な覚悟が必要だろう。
そして、物語の終わりに、過去を描く映画という虚構が、未来の現実と出会った時、物語はスクリーンの枠を超えた広がりを獲得するのである。
思うに、アーロンにとっての不幸中の幸いは、4月という季節だろう。
キャニオンランズの気候では、あと一ヶ月早ければ凍死もあり得るし、逆に一ヶ月遅ければあの量の水では持たず、早々に脱水症状で死んでいたはずだ。
彼の身に起こった事故と奇跡の生還も含めて、壮大な自然の理の一部であり、その事を誰よりも実感したからこそ、彼は今でも冒険を続けているのではなかろうか。
今回は、大自然のトレッキングの後に飲みたい酒という事で、「ミラー ライト」をチョイス。
カラッとした砂漠気候では、ヨーロピアンな本格エールは重すぎ、こういう水の様に軽いアメリカンラガーがとても良く合うのである。
案外と、アサヒのスーパードライなども合うのではないかと思っているのだが、残念ながら未だに試した事はない。
今度アメリカでトレッキングする時に、街で買って持って行ってみよう。

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若き日のプロフェッサーXとマグニートが如何にして出会い、何故宿命の敵となったのか、1960年代を舞台に描かれる若きミュータントたちの冒険は、映画的、コミック的オマージュに溢れ、小気味良いテンポで加速してゆく。
シリーズの生みの親であるブライアン・シンガーがプロデュースし、監督は昨年異色のアメコミ映画「キック・アス」で旋風を巻き起こしたマシュー・ヴォーン。
アメコミをこよなく愛する二人の敏腕クリエイターのコラボレーションは、見事シリーズ最高傑作として結実した。
冷戦が激化する1960年代。
テレパスのチャールズ(ジェームス・マカヴォイ)は、幼馴染で変身能力を持つレイヴン・ダークホルム(ジェニファー・ローレンス)と共に、CIAに協力する事になり、米ソの対立の裏側で元ナチスのミュータント、セバスチャン・ショウ(ケビン・ベーコン)が暗躍している事を知る。
ひょんな事から、ショウに復讐心を燃やす強力なミュータント、エリック・レーンシャー(ミヒャエル・ファスベンダー)と出会ったチャールズは、既に“ヘルファイア・クラブ”というミュータントの軍団を組織しているショウに対抗するために、世界中から隠れたミュータントをリクルートする事にする。
だが、テレパスのエマ・フロスト(ジャニュアリー・ジョーンズ)の能力を使って、ソ連軍部を操るショウは、遂に核ミサイルを積んだ貨物船をキューバに向けて出航させてしまう。
もしも貨物船がアメリカの海上封鎖を突破すれば、世界は核戦争に突入する。
チャールズたち急造ミュータントチームは、ショウの野望を阻止するために、キューバに向うのだが・・・
ブライアン・シンガー監督による「X-MEN1&2」、そして監督がブレッド・ラトナーに代わった「ファイナル・ディシジョン」の三部作の前日譚にあたる作品であり、20世紀FOXのアナウンスによれば第一世代のX-MENたちを描く新三部作の第一作である。
自らもゲイのユダヤ人というマイノリティであるシンガーは、元々原作のX-MENにあった反差別、反ナチズムのモチーフをストーリーの前面に出し、単なるアメコミアクションにとどまらない深みを与える事に成功していたが、今回も基本的なテーマは同じ。
エリック・レーンシャーこと少年時代のマグニートが、ナチス将校だったセバスチャン・ショウに出会うシークエンスから幕を開ける本作は、60年代という公民権運動の時代を背景に展開し、ミュータントという存在が浮かび上がらせる、人間の持つ不寛容とそれがもたらす悲劇をメインテーマに、社会派SFとして十二分に大人の観賞に耐えうる快作となっている。
ショウに母を殺されたショックで、エリックの能力が覚醒する冒頭から、物語が常に動き続ける。
大戦後、ミュータント軍団“ヘルファイア・クラブ”を組織したショウによる世界崩壊の陰謀、チャールズと復讐に燃えるエリックとの運命的な出会いから、世界を救う戦いを経て、袂を別った二人による“X-MEN”と“ブラザーフッド・オブ・エビル・ミュータンツ”の結成までが、僅か131分の間に一気に描かれてゆくのだから、中ダレする時間帯など一切無く、怒涛の勢いで我々のよく知るシリーズの世界観が構築されて行く。
しかも物語の背景になるのは、実際に世界が核戦争の瀬戸際まで追い込まれた、あのキューバ危機である。
歴史的事件の裏側に、実はスーパーヒーローがいたというのは、アメコミ設定の王道の一つだが、絵空事の物語を我々の世界にグイッと引き寄せる効果があることは間違いない。
この映画作家にとっては魅惑的な舞台装置を使って、マシュー・ヴォーンはショーン・コネリー時代の007映画へのオマージュたっぷりに、ある種のスパイ活劇として新たなX-MENの物語を構築している。
本作の設定と同じ62年に公開された、007シリーズ“第一作”「ドクター・ノオ」のオープニングをモチーフにしたエンドクレジットのグラフィカルなデザインなど、007ヲタクが観たら感涙物だろう。
初出動するX-MENのコスチュームが、シックで現代的なシンガー版と違い、コミック初期のド派手なデザインなのもアメコミファンにはたまらない。
もちろん、冷戦時代を舞台にした超人たちのチームによる世界を救う戦いと言えば、我々日本人にとっても石ノ森章太郎の「サイボーグ009」や小松左京の「エスパイ」といった名作があるわけで、意図された事ではないだろうが、日本の映画ファンにとっても懐かしいコミック的、映画的記憶を刺激される作品になっており、その意味では若者よりも中年以上のオールドファンの方が楽しめるのかもしれない。
そしてこのシリーズの魅力の一つが、ユニークな能力を持つミュータントたちのキャラクター。
今回は、大雑把に言えば、オリジナルシリーズにも登場する、プロフェッサーX、マグニート、ミステーク、そしてビーストの四人が主にドラマ部分を担当し、新登場のバンシーやアザゼルといったキャラクターはそれぞれの能力を生かしたアクション要員。
後にプロフェッサーXとマグニートとして敵対する事になる、チャールズとエリックの出会いと友情、対立と別れのドラマは、後にミスティークと呼ばれるレイヴンとビーストとなる科学者のハンクの、ミュータントの異形の容姿に関する切実な葛藤と上手く絡み合い、この物語の影に潜む人間の不寛容と差別の問題を浮かび上がらせる。
特にナチスによって迫害されたエリックが、今度は似たような恐れから来る選民思想に取り付かれ、大戦後イスラエルを建国したユダヤ人と、パレスチナ人の対立の歴史を連想させるのは、痛烈な皮肉だ。
もはや「ナルニア国物語」のタムナスさん役の・・・とは言われない、ジェームス・マカヴォイがチャールズを好演。
ハゲネタのギャグはあまりパトリック・スチュワートには似てなくて、ハゲそうもないからだろうか。
マカヴォイとは、傑作テレビシリーズ「バンド・オブ・ブラザース」のキャスト繋がりでもある、ミヒャエル・ファスベンダーがエリックを演じる。
脇では“ヘルファイア・クラブ”のテレパス、エマ・フロストを演じるジャニュアリー・ジョーンズが、「アンノウン」に続いて見事なファムファタールっぷりを発揮し、正に60年代のボンドガールのムードそのもの。
ミステークを演じた若き演技派ジェニファー・ローレンスも、さすがにゴージャスな大人の女の魅力では適わない。
因みに、オリジナル・シリーズからは二人がカメオ出演・・・という割には目立ってるので、探すまでも無いけど。
毎回恒例だったスタン・リーの出演は、IMDBによると今回は何故か無かったようだ。
「X-MEN::ファースト・ジェネレーション」は、大人の観賞に耐えるテーマ性と物語の面白さを持ちながら、アメコミならではのキャラクターやド派手なアクションも満載、60年代のレトロテイストを隠し味にした豪華なアメリカンディナーだ。
まあ、覚醒したエリック少年はなぜ真っ先にショウを殺さないのか?とか突っ込みどころも多々あるものの、ミュータントたちの大冒険にワクワクしているうちに、そんな些細な事はどうでもよくなってしまうのである。
なんちゃってヒーローを描いた「キック・アス」で大ブレイクしたマシュー・ヴォーン監督は、今回本物のアメコミ・ヒーロー映画で、このカテゴリにおける第一人者のポジションを確立したのではないか。
次回作はヒット・ガールを主人公にした「キック・アス」の続編だそうだが、これだけのクオリティを観せつけられると、出来ればこっちの残り二本も続投してもらいたいものだ。
今回は、X-MENたちの最初の活躍の地となるキューバから、1878年創業と一世紀以上の歴史を誇る銘柄「ハバナ・クラブ 7年」をチョイス。
元々キューバ危機は、カストロやゲバラによる革命に端を発する訳だが、革命による外国資本の撤退はキューバの酒造メーカーにも大混乱を引き起こす。
革命政府は、乱立するメーカーの統廃合を進め、革命後長らく輸出用のラム酒は全てこの「ハバナ・クラブ」銘柄に統一されていた。
この7年物は適度に熟成が進んで、まろやかでコクがあり、甘みも程よく、バランスの良いお酒だ。
カクテルベースにするよりも、ストレートやロックでその物を味わいたい。

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綿密に練られたはずの完全犯罪の計画は、ある驚くべき告白によって脆くも崩れて行く。
果たして彼ら三人の運命や如何に?
監督は、「ディセント2」の脚本家で、これが第一作となるJ・ブレイクソン。
超シンプルな構成要素ながら、巧みな展開で観客の目をスクリーンに釘付けにし、全く飽きさせない。
もちろんオリジナル脚本による、見事なデビュー作だ。
※一部ネタバレ注意
刑務所で出会ったヴィック(エディ・マーサン)とダニー(マーティン・コムストン)は、身代金目的の誘拐を計画。
ヴィックが完全犯罪を算段し、ダニーが新聞に載っていた記事から、金持ちの娘アリス・クリード(ジェマ・アータートン)をターゲットにピックアップする。
周到な準備の後、二人は首尾よくアリスを攫い、監禁部屋に連れ込むことに成功する。
計画は完璧なはずだったが、若いダニーは不安に駆られ動揺を隠せない。
ヴィックはそんなダニーを叱咤しながら、金を受け取る準備を進めるのだが・・・
典型的な物語のアイディアと展開のロジックで見せるタイプの、上質なクライム・スリラーだ。
作品の性格上、内容に深く触れると即完全ネタバレなので、極力簡潔にまとめる。
映画が始まると、いきなり二人の男が何かの準備している。
工具を買い集め、空き家を用意し、幾つもの鍵のついた物々しい部屋と、窓に目隠しをされたバンが用意される。
やがて、泣き叫ぶ女性が頭に袋を被せられてバンに押し込まれる事で、これが誘拐の準備であった事がわかるのである。
このシークエンスは台詞が無く、秀逸な編集技術で小気味良いテンポと緊張感を持ったまま、入念に描かれる。
映画を構成する要素で言えば、実はこのオープニングでほぼ全て出尽くしている。
登場人物は、ムショ仲間である誘拐犯ヴィックとデニー、被害者でタイトルロールのアリスの僅かに三人。
物語の大半は監禁部屋という密室で展開し、まるで舞台劇の様な構造となっている。
この映画が優れているのは、このシンプルな要素と、あとは人間の心と言う変数だけで、全く先の読めないサスペンスフルなシチュエーションを作り出している事だ。
最初、登場人物の関係は、単にか弱い被害者と冷徹な加害者、そして加害者にも年長のヴィックとダニーの間にある種の主従関係が見て取れるに過ぎない。
これでどうやって物語を動かしてゆくのだろうと思っていると、ある登場人物の意外な告白を境にして、映画はそれまでとは別の顔を見せ始める。
簡単に言えば、三人の関係の前提が崩れ、彼らの中で物語上の主導権を握る人物が、わずかの間にコロコロと入れ替わり、全く先が読めない話になってゆくのである。
しかも、その人物の驚きの告白は一回ではないのだ。
ここに至って、実は観客に開示されている情報すら、必ずしも登場人物の本心かどうかわからなくなり、まさに疑心暗鬼。
秘密だらけの件の人物を軸に、残りの二人がヤジロベーの両腕の様に右に傾き、左に傾き、ダニー、ヴィック、アリスの誰が最終的に生き残るのか、映画は殆ど何のヒントも出さないままに、一気に1時間41分を突っ走る。
ただし、登場人物の内面が読めない作りという事は、イコールそこまで立ち入って描けないという事でもある。
故に、この映画は非常に面白く、よく出来ていると思わせられるが、反面人間ドラマとしての深みはそれほど感じない。
もっとも、それは最初からわかりきっている事で、映画の登場人物は人間の持つ幾つかの側面のメタファーと割り切ってみれば、これはこれでアリだろう。
いよいよ事態が抜き差しならない局面を迎える時、観客はふと気づく。
全員の魂胆がわかったところで、元どおりの計画に戻れば、じつは誰もがハッピーな結末を迎えられると。
だが、それはあくまでも外から眺める観客の視点であり、一度他人の心を疑い出すと、もはや回復は不可能で、行き着くところまで行くしかなくなるのが物語の道理なのである。
「アリス・クリードの失踪」(原題:The Disappearance of ALICE CREED)と言うタイトルが秀逸だ。
なぜ「アリス・クリードの誘拐」でないのかは、映画を観終わる時には納得できるだろう。
J・ブレイクソン監督は、このデビュー作で、自らが非凡な才能の持ち主である事を証明して見せた。
緻密に構成されたプロットは隙が無く、細かな小道具の使い方や伏線の張り方も上手い。
三人の演技派俳優を、それぞれの役割でキッチリと立たせる手腕も老練さすら感じさせる。
人間ドラマとして、決して深い話ではないが、イギリス映画らしいシニカルなペーソス漂う本作は、良質の推理小説を読んだ時の様な、物語の展開の面白さを堪能できる秀作と言えるだろう。
今回は、計画が上手くいったらパブで乾杯したかったはずの酒、「バス ペールエール」をチョイス。
イギリスを代表するエールの勇だが、苦味は仄かに抑えられ、香り豊かでしっかりとしたコクが喉に広がる。
柔らかな甘みも感じられる、複雑な味のハーモニーが楽しめ、映画の緊張感を程よく解きほぐしてくれる。

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食い扶持を減らすために、一定の年齢になった老人を山に捨てたという姥捨伝説は、今も日本各地に残る。
この話を元にした深沢七郎の小説「楢山節考」を映画化し、28年前にカンヌ映画祭パルムドール(当時の呼称は“グランプリ”)を受賞したのが、故・今村昌平監督である。
そして今回、伝説の後日談とでも言うべき本作のメガホンをとったのは、今村監督の息子で、父の晩年の作品や「十三人の刺客」などの脚本家としても知られる天願大介監督だ。
世に親子監督は沢山いるが、父親の作品の続きを息子が撮るというのは、映画史的にも珍しいケースではないかと思う。
※ネタバレ注意。
七十歳になった斎藤カユ(浅丘ルリ子)は、村の掟によって冬山へ捨てられる。
豪雪の中、意識を失ったカユは、「デンデラ」という集落で目を覚ます。
そこは三十年前に捨てられ、齢百歳となる三ツ屋メイ(草笛光子)によって作られた秘密郷で、カユよりも先に山に捨てられ、とうに死んだと思われていた五十人の婆たちが、共同生活を営んでいた。
メイは自分たちを捨てた村に復讐するために、戦力を蓄えて村を襲撃し、男達を皆殺しにする計画を立てており、反対するのは椎名マサリ(倍賞美津子)らごく少数。
自分はどうするべきか悩むカユだったが、計画は着々と進む。
ところが、決行が間近にせまったある夜、冬籠り出来なかった子連れの熊が村を襲い、多くの婆が殺されてしまう。
村より先に熊と戦う事を余儀なくされた婆たちは、巨大な罠を作って熊を誘き寄せ、カユが子熊を殺すのだが・・・
はじめに断っておくと、私はこの作品と関節的に関わりがある。
基本的に、自分が参加した作品のレビューはしないと決めているが、本作が2011年の今を考えるのに非常に興味深い作品であるのと、直接関係している訳では無いので書く事にした。
原作は佐藤友哉の同名小説だが、未読。
キャストの大半が老境に入った女優たち、そして展開するのは極めて土着的なある種の寓話という、なかなかに挑戦的な企画だが、 これもまた3.11後の時代に呼ばれた様な作品だと思う。
本作では、物語の背景となる世界観は曖昧にされており、何となく明治初期ごろの東北のイメージは感じ取れるものの、どこでも無く、いつでも無い世界は、逆説的には日本全体、いや人間社会全体のメタファーと言えるだろう。
この辺りの考え方は、漆原友紀の漫画「蟲師」に近いものがある。
物語の舞台となるのは、その内側に激しい葛藤を秘めた秘密郷、デンデラ。
そこは一見すると、住人全てが平等な理想社会だが、愛する者によって捨てられた過去を持つ婆たちが、復讐を遂げるために軍事訓練を繰り返すアマゾネスの里でもあり、その情念が彼女らが生き延びる力にもなっているのである。
村の男達を皆殺しにすると叫ぶメイらに対して、集落を豊かにして、村を見返す事が一番の復讐だと考えるマサリらの一団もいるが、彼女らは「意気地なし」と呼ばれる少数派だ。
そんな両者の間にあって、“新参者”であるカユは、一度は捨てたはずの命をどう使うべきか、どう生きるべきか葛藤するのだが、それは即ち人間社会という物を少し離れた位置から考察する事でもある。
主人公のカユを演じるのは七十歳の浅丘ルリ子。
復讐に燃える百歳のメイを実年齢七十七歳の草笛光子が演じ、平和を訴えるマサリを六十四歳の倍賞美津子、弓の名手ヒカリを六十九歳の山本陽子ら、昭和を代表する錚々たる大女優たちが結集。
還暦を超えた彼女らが、足場の悪い酷寒の山中で結構なアクションを演じているのだから、ハラハラ、ドキドキ、別の意味でも迫力満点だ。
婆たちのテロ計画は着々と進み、いよいよ決行となった時、大事件が起こる。
秋に餌が少なく、冬眠出来なかった子連れの熊が、デンデラを襲うのである。
残念なのは、この熊のビジュアルの出来がイマイチな事。
単に特殊造形だけの問題ではなく、アップばかりで引き画の殆ど無いカットの構成が、まるで70年代のアニマルホラー映画の様で、作り手がこの種の映画に慣れていないのが丸わかりなのだ。
勿論予算や時間の問題が大きいのだろうが、作り物然とした熊のアップが映る度にスクリーンから現実に引き戻されるのは辛い。
ここはもう少しシルエットや鼻息などの描写を使って、モロに映さなくてもリアルな生命を感じさせる演出上の工夫が欲しかった。
嘗て「楢山節考」も手掛けた稲垣尚夫によるスケールの大きな美術、スペクタクルな雪山の風景など、他の部分は映像的にも出来が良いだけに、惜しまれる。
図らずも拾った自らの命と、如何に向き合うべきか悩んでいたカユは、偶然にも子熊を殺した事で、否応なしに生死を賭した新たな戦いに巻き込まれてゆく。
そして、一旦は熊を撃退し、いよいよ村へと進軍を開始する婆たちに、今度は大雪崩という自然の猛威が襲い掛かる。
またしても多くの仲間を失った婆たちは、さすがに意気消沈。
リーダーのメイもついに倒れ、弱体化したデンデラに、雌熊が再びその姿を現す。
殺された子供の仇とばかりに、暴れまわる雌熊は、まるで村への復讐に燃えていた婆たちの合わせ鏡の様だ。
三十年もの間、捨てられた者が幸福に生きるための場として、密かに存在していたデンデラは、復讐という極めて人間的かつ利己的な行動を起こそうとした途端、山の神の怒りに触れたかの様に、自然の力によって滅び去るしか無かったのだ。
物語のラストで、雌熊に追われたカユは、山を走り抜けて村へと舞い戻る。
そして、そこに更に巨大な雄の熊が現れ、村人を次々に食い殺してゆくのである。
この唐突にも思える雄熊の出現は、テーマ的に極めて重要だ。
婆たちが、村の男を皆殺しにすると決めた時点で、もう彼女たちの生は自分だけのものとなり、脈々と受け継がれて来た人という種の、生命の循環からは外れた存在だ。
これが婆たちと子を殺された雌熊の対決だけなら、単に種を超えた女の戦いになってしまうところだが、雄熊の存在によって、所詮人間の道理でしか生きられない婆たちと、ただただ生命をつなぐ壮大な自然のサイクルとのコントラストとなっている。
婆たちが女を捨てようが、村へ復讐しようが、ちっぽけな人間の目論見など、“世界”という巨大なシステムの中では、ほんの些細などうでも良い事で、人間だろうが、熊だろうが、一つ一つの生命が出来る事は、究極的に言えば頑張って生きる事、そして命を未来につなげる事しかない。
カユと雌熊の最後は、色々な解釈が可能だろう。
私は、たぶんカユは熊に殺されたのだろうと思うが、それはカユの敗北をを意味しない。
カユも熊もそれぞれの生を懸命に生き、その結果としての死があるだけである。
全てはこの世界の理のなのだ。
「デンデラ」は、決して器用な映画ではない。
土臭く洗練されておらず、テーマをわかりやすく伝えるという点においては、不親切な作りであるとも言えるだろう。
しかし、ここには人間と世界を巡る本質的なドラマが確かにある。
つい先日も巨大な自然の力に翻弄されながら、今だちっぽけな利害闘争に明け暮れるこの国の在り方を考える上で、本作はなかなかに興味深い一本だと思う。
まあ、デンデラの婆たちを、永田町へ送り込みたいと思ってしまった私なども、所詮は人間の道理でしか世界を見られていないかもしれないが。
今回は、我々自身への希望を込めて、岩手県陸前高田市の地酒、酔仙酒造の「純米大吟醸」をチョイス。
岩手県の酒米「吟ぎんが」を使用しており、香り立つ吟醸香と淡麗かつ柔らかな口当たりが楽しめる芳醇な酒だ。
残念ながら蔵は津波で跡形もなく流されてしまい、今この酒を飲もうと思えば、震災前に出荷された物を探すしか無いが、既に全国の飲兵衛によって飲み尽くされ、入手困難な様である。
同社は施設だけでなく、従業員にも多くの犠牲者が出たそうだが、すでに再建への道を歩み出しているという。
いつの日か再び、「酔仙」のラベルを付けた新酒を飲める日が来る事を願ってやまない。
ところで、タイトルの「デンデラ」とは、遠野物語に登場する実在の姥捨の地である。
少し気になって調べてみたところ、遠野における姥捨とは、死を前提に山に捨てるのではなく、若い世代が暮らす本村から少し離れた枯野に、高齢者が集まって細々と共同生活を送るシステムだった様だ。
つまり、本物のデンデラは伝説ほど殺伐とした物ではなく、むしろ映画のデンデラに近く、現代の老人ホームの様な物だったらしい。
もっとも、老人ホーム自体が、姨捨山を法制度に組み込んだ物という見方もできるだろうけど。

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映画「軽蔑」の原作は、和歌山を舞台にした一連の“紀州サーガ”で知られる芥川賞作家、中上健次の最後の長編小説。
主演の高良健吾と鈴木杏は熱演で、熊野という古の地を舞台にした物語も濃密な意欲作だが、一方で映画全体に奇妙な違和感が付きまとう。
歌舞伎町で自堕落な生活を送る青年カズ(高良健吾)は、ポールダンサーの真知子(鈴木杏)に恋をする。
ある時、ヤクザの下請け仕事で真知子の勤めている店を潰したカズは、そのまま彼女を強引に連れ出して、故郷の熊野へと舞い戻る。
しかしカズの実家は土地の名家で、いくら二人が愛し合っていても、家柄にあわない真知子は招かれざる客だった。
やがて真知子は東京へと戻り、彼女を忘れられないカズはバカラ賭博の胴元の山畑(大森南朋)に巨額の借金を重ねていた・・・
主人公のカズは、どうしようもないダメ人間だ。
この映画を一言で言えば、ダメ人間がダメ人間たる所以を、延々と見せられるような作品である。
もっとも、太宰治の人気が衰えない様に、たとえ他人から見て酷い人生を送っていても、徹底的に自分の生き方に拘って突っ張る人間は、それはそれで魅力的に見えるもの。
本作の場合は、対照的な境遇に生まれた男女が、あくまでも自分たちの愛を貫く事がそれにあたるのだろうが、どうも焦点がボケてしまう。
ダメ人間の端くれを自認する私としては、身につまされる話でもあるのだが、それにしても登場人物の誰一人として感情移入できず、行動原理が理解出来ないのだ。
多分、この映画の評価を難しくしているのは、映画を構成する多くの要素が、ボタンの掛け違いによるミスマッチを起こし、まるで異なるパズルのピースを強引に組み合わせた様な違和感を感じさせてしまう事だと思う。
奥寺佐渡子の脚本は、相変わらずきっちりと構成されているが、意図的なのだろうか、まるで現代の香りがしない。
92年に出版された原作は未読だが、主人公のカズは明らかに中上健次本人がモデルだろう。
1946年生まれの彼が、東京に出てきたのは60年代後半。
もしも廣木隆一監督が当時を意識したのであれば、なるほどこのタッチも納得がいく。
破滅に向かって突き進むダメ人間というモチーフは、ゴダールの「勝手にしやがれ」の主人公を思わせるし、ヌーベルバーグに対するオマージュとしてはありかもしれない。
しかしながら、本作に用意された21世紀という器に、このクラッシックなタッチはどうもそぐわない様に思う。
熊野という土地の、いかにも和の情念を掻き立てる土着性も加わって、何とも奇妙な味わいになってしまい、第一のミスマッチを引き起こす。
私の父は中上健次同様に和歌山の出で、かの地には親戚も多いので、あの独特の濃い田舎の人間関係も理解できるが、本作に登場するキャラクターはあまりにも類型的で、古臭い印象だ。
勿論、家柄に拘ったりする因習は今でも残るし、田舎が都会より保守的なのも確かだが、普通の人が殆ど出てこないだけに、ステロタイプに古い部分だけを抜き出したように感じてしまうのである。
いっその事、舞台を60年代、せめて原作が出版された92年に設定した方がよかったのではないだろうか。
属する社会の規範とは別の次元で、若い二人が自分たちの世界を確立しようと足掻く物語は、何も現代でなくても成立するだろう。
もう一つの作劇上の問題は、周囲の理解を得られない二人の愛と、カズのギャンブル癖による借金という、本作のドラマを形作る二つの葛藤が、今一つ上手く絡み合わない事だ。
おそらく、この二つは真知子の視点からは一続きなのだが、物語の目線を形作るカズの中では真知子との愛は両親との問題、借金は山畑との問題として、別々の要素のまま最後まで持っていってしまっているので、ラストの収束点がバラけてしまっており、何となく消化不良のまま終わってしまうのである。
主演の高良健吾と鈴木杏は、激しいベッドシーンも含めて大変な熱演だ。
だが、残念ながら彼らのキャスティングが、更なるミスマッチを引き起こしている。
この映画は地方出身のボンボンであるカズが、東京から垢抜けたトップレスダンサーを掻っ攫って来る事で、田舎町を舞台に様々な葛藤が起こるのだが、どうしても二人の関係が逆に見えてしまう。
失礼ながら、鈴木杏には都会の大人の女の色気が感じられない。
ステージでボリュームたっぷりの外国人ダンサーと踊るシーンなどを見てしまうと、幼児体形が余計に目立ってしまい、申し訳ないが店のナンバー1には見えないのである。
逆に高良健吾は、現代的な顔立ちも含め、キャラクターがシャープすぎて、田舎出の青臭いボンボンのイメージとは程遠い。
これが都会に揉まれながら頑張っている地方出身の女に、東京出身の男が恋をする話なら何の問題も無いのだけど、本作はそうではない。
設定と実際のキャラクターにギャップがありすぎるから、なぜカズが真知子をそれほど好きなのか、なぜ真知子はダメダメなカズに愛想を尽かさないのかがよく分からないのだ。
「愛している」という言葉の裏づけとなるエピソードを描かないなら、真知子は男が一目惚れする色香を放つ女でなければならないし、カズにはもっと朴訥な魅力が必要だろう。
それが無理ならば、逆に物語はもっと語らねばなるまい。
人間は社会的な動物であり、決して周囲と無関係には生きられない。
だが、その縛りからあくまでも自由でありたいと願う者の行動は、自分が属する社会の規範から逸脱していたとしても、決して“軽蔑”出来るものではないという本作のテーマは理解できるし、本作が映画として面白いか面白くないかと聞かれれば、私は面白いと答える。
演出、脚本、演技、どれも単体で見ればクオリティは高く、感情移入できなくとも、観客の目は自然にスクリーンに惹きつけられ、印象的なシーンや台詞も多い。
挑戦的な映画であり、2時間16分という長尺を、私は長いとは感じなかった。
ただ個人的には、感情移入出来ないダメ男と、彼となぜ一緒にいたいのかを理解出来ない女の物語を、もう一度観たいとは思わないのもまた事実。
実は先日、長年連れ添った夫婦が崩壊してゆく様を描いた、アメリカ映画の「ブルー・バレンタイン」を観た時も似た様な感想を持った。
あの映画も世評は極めて高かったので、多分に好みの問題なのかもしれない。
今回は、私的にも馴染みのある紀州が舞台という事で、和歌山の代表的な地酒、田端酒造から「羅生門 龍寿 大吟醸」をチョイス。
紀州の酒は温暖な気候ゆえか、日本海側や東北の様な端麗辛口というよりは、フルーティでコクとまろやかさを重視した酒が多い。
本作でもバーベキューをしているシーンがあったが、羅生門ブランドの酒はバランスに優れ、肉料理などとの相性もとても良いので、これからの季節ならクーラーで冷やしてアウトドアで飲むのも美味しい。

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事件の背後にいたのは、新左翼の過激派青年と理想に燃える雑誌記者。
なぜ、それは起こったのか?彼らは何を目指そうとじていたのか?
「マイ・バック・ページ」は、評論家の川本三郎の自伝的ノンフィクションを原作に、「リンダ リンダ リンダ」などで知られる山下敦弘監督が、妻夫木聡と松山ケンイチという旬の俳優を主演に迎えて映像化した骨太の人間ドラマ。
丁寧に作りこまれた40年前の日本に対する、現代からの醒めた目線が印象的だ。
※完全ネタバレ注意
政治の季節が終わろうとする1971年。
週刊東都の記者・沢田(妻夫木聡)は、新左翼の組織のリーダーを名乗る梅山(松山ケンイチ)と出会う。
理想論だけでなく、実際に武器を奪取し、革命を成し遂げるとエネルギッシュに語る梅山に、沢田は不思議な魅力を感じる。
ベテラン記者の中平(古舘寛治)には、梅山は偽者だから近づくなと警告されるが、沢田は少しづつ革命準備の証拠を見せる梅山から、どうしても離れる事ができない。
そして、沢田が梅山から自衛隊駐屯地を襲撃する計画を聞かされた数日後、遂に事件は起こる・・・
本作は、1969年の東大安田講堂落城を伝えるニュース映像で幕を開ける。
だがこの時、二人の主人公は共にその場にはいない。
梅山はまだ大学におらず、沢田は既に去っている。
彼らは言わば、祭りに参加するのに“早過ぎた者”と“遅過ぎた者”だ。
僅かな期間に燃え上がった激動の時代に、乗り損なってしまった存在なのである。
1976年生まれの山下監督は、本作をノスタルジイでは描かない。
むしろ時代の熱狂の残滓を、壮大なペテン劇として批判的に捉え、社会変革の夢に破れた日本社会全体の、今に続く内向化、幼児化の原点として描こうとしている様に思える。
梅山の見せる過剰な自己顕示欲、根拠無き自信とプライドの異様な高さなどを、オウム真理教の麻原彰晃やその後の無差別殺傷事件の犯人たちに重ね合わせるのは容易だ。
同時に、彼のウソ話を無抵抗に信じてしまう沢田もまた、高い学歴を持ちながらオウムに帰依し、事件の全貌が明らかになってもまだ現実を受け入れられない信者たち、あるいはネット上の“情報”に右往左往する現代人の姿にそのままつながるのである。
向井康介の脚本は、冒頭の安田講堂事件を基点として、それぞれの事情から過ぎ去った政治の季節への想いを引きずる、沢田と梅山という二人のキャラクターを対照に配し、彼らの葛藤からある種の現代日本人論を導き出そうとする構造を持つ。
理想主義者の沢田が抱えているのは、自分がジャーナリストとして本来居るべき場所におらず、学生運動が衰退して行くのを傍観したという自責の念だ。
彼は、人々が政治への関心と学生へのシンパシーを失ってゆくのを横目に見ながら、特に政治的ではない週刊誌の記者として、ドヤ街の記事などを書いている自分の仕事に疑念を感じ続けており、それは学生たちを支援していた雑誌“東都ジャーナル”への強い憧れにも見て取れる。
因みに、名前は変えられているものの、沢田は原作者の川本三郎がモデルであり、週刊東都は週刊朝日、東都ジャーナルは朝日ジャーナルの事である。
対する梅山こと片桐優の論理は、もっと単純だ。
彼の中にあるのは、英雄としての革命家、大衆に注目されたい子供っぽいヒーロー願望であり、そのための絶好の機会であった、暴力で世界を変えられると人々が信じていた熱い時代を逃してしまったという遺恨の念である。
梅山は、目指す理想社会のビジョンがある訳でも、特に頭が良い訳でもない。
映画の中でも、大学の討論会で簡単に相手に論破されている事から、彼に実際の組織のリーダーになる器が無いのは明白だ。
ただし、彼にはおそらくは生来の資質であるペテン師の才能に恵まれていた。
“革命家梅山”に成りきってスラスラと出てくるウソと、そこそこ巧みな自己演出は、中平の様な修羅場を知る大人にはあっさり偽者と見破られるが、リアルを知らない沢田や同世代の大学生はコロリと騙されてしまう。
面白いのは、滝田修をモデルとした京大全共闘議長の前園勇までも、沢田たちと同類と捉えられている事で、本作の視点は終始この時代の“革命ごっこ”に対して批判的に見える。
沢田と梅山という二人の主人公を演じる役者が良い。
「悪人」の好演が記憶に新しい妻夫木聡は、ナイーブな内面を抱え、それまで傍観者で合った故に、過激に理想を語る梅山に惹かれてしまう沢田のキャラクターにピッタリ嵌る。
何と言うか、いかにも騙されやすそうな人に見えるのである。
つい先日も、同じ時代を舞台にした「ノルウェイの森」に出ていた松山ケンイチも、胡散臭さ全開の自称革命家を楽しそうに演じている。
この人の何となく和風の顔立ちは、昭和の世界に上手く馴染むのだろうか。
梅山に引かれてゆく沢田を心配する、古舘寛治演じる先輩記者の中平や、梅山を慕うあまり遂に殺人にまで手を染めてしまう、中村蒼演じる後輩の柴山ら脇のキャラクターも、「ああ・・こんな人いたいた」とデジャヴを感じさせるほどに昭和の人にきっちりと造形されており、世界観と共にとても丁寧に作りこまれている。
そして出番は少ないながらも、強い印象を残すのが、忽那汐里演じる倉田眞子だ。
モデルとなっているのは、22歳で自殺した女優の保倉幸恵で、実際に70年から71年にかけて週刊朝日のカバーモデルを務めており、川本三郎とは映画同様に仕事を離れても交流があったという。
彼女は、作品の主要登場人物の中で唯一梅山と直接関わりが無く、言わば作品世界からあえて浮かされている存在であり、終盤の台詞はテーマに切り込む重要な物だ。
思うに、この映画の評価は、事件の数年後を描くエピローグでの、沢田の涙をどの様に解釈するかで大きく変わってくるだろう。
映画の冒頭、沢田は身分を偽ってドヤ街を巡り、そこで出会う人々の事をルポルタージュしていた。
そしてエピローグで、沢田は当時取材対象だった一人の男に偶然街で出会うのだが、懐かしい友に出会ったと思っている彼に、沢田は騙して記事を書いていたという本当の事を告白出来ない。
そしてその時、沢田は漸く気付くのである。
社会の最下層で懸命に生きる人々を、欺いて記事にしていた自分と、革命の理想を掲げて周囲の人々を巻き込んだ梅山と何が違うのか。
劇中、梅山が沢田に語りかける印象的な台詞がある。
「僕たちは、ホンモノになれるんですよ!」
成りたいもの、目指したいものが強固であればあるほど、その行動は利己的になりやすい。
ずっと梅山の事を引きずっていた沢田にとって、ラストの涙は、漸く梅山とは何者だったのか、薄々疑っていながらも、なぜ自分は彼のウソに付き合ってしまったのかを理解した故であり、それは同時に、沢田自身が何者だったのかを知る、何とも切ない瞬間でもあったのだろう。
本作のタイトルはボブ・デュランが自身の過去を振り返って書いたと言われる、「マイ・バック・ページズ」からとられた物だろうが、デュランがこの曲を収録したのは何と23歳の時であるから驚く。
やはり若い頃から才能を発揮していた人は、自己客観視も凡人よりよほど早い様だが、もしかしたらラストの沢田は、この曲を書いたデュランと同じ心境だったのかもしれない。
さて、熱い革命にはやはりビールが合う。
今回は当時日本のビール市場で50パーセントものシェアを持っていた、麒麟麦酒の昭和40年代頃の味を再現した「キリン・クラッシックラガー」をチョイス。
コク、キレ、適度な苦味など、誰もがイメージする日本のビールである。
当時はどの家庭にも、酒屋さんが三輪車でビールの大瓶をケースで届けに来たのを思い出す。
映画の後はビールの味で昭和にタイムトラベルしよう。

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