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マイ・バック・ページ・・・・・評価額1650円
2011年06月01日 (水) | 編集 |
1971年、自衛隊朝霧駐屯地で、一人の自衛官が殺害された。
事件の背後にいたのは、新左翼の過激派青年と理想に燃える雑誌記者
なぜ、それは起こったのか?彼らは何を目指そうとじていたのか?
「マイ・バック・ページ」は、評論家の川本三郎の自伝的ノンフィクションを原作に、「リンダ リンダ リンダ」などで知られる山下敦弘監督が、妻夫木聡と松山ケンイチという旬の俳優を主演に迎えて映像化した骨太の人間ドラマ。
丁寧に作りこまれた40年前の日本に対する、現代からの醒めた目線が印象的だ。
※完全ネタバレ注意

政治の季節が終わろうとする1971年。
週刊東都の記者・沢田(妻夫木聡)は、新左翼の組織のリーダーを名乗る梅山(松山ケンイチ)と出会う。
理想論だけでなく、実際に武器を奪取し、革命を成し遂げるとエネルギッシュに語る梅山に、沢田は不思議な魅力を感じる。
ベテラン記者の中平(古舘寛治)には、梅山は偽者だから近づくなと警告されるが、沢田は少しづつ革命準備の証拠を見せる梅山から、どうしても離れる事ができない。
そして、沢田が梅山から自衛隊駐屯地を襲撃する計画を聞かされた数日後、遂に事件は起こる・・・


本作は、1969年の東大安田講堂落城を伝えるニュース映像で幕を開ける。
だがこの時、二人の主人公は共にその場にはいない。
梅山はまだ大学におらず、沢田は既に去っている。
彼らは言わば、祭りに参加するのに“早過ぎた者”“遅過ぎた者”だ。
僅かな期間に燃え上がった激動の時代に、乗り損なってしまった存在なのである。
1976年生まれの山下監督は、本作をノスタルジイでは描かない。
むしろ時代の熱狂の残滓を、壮大なペテン劇として批判的に捉え、社会変革の夢に破れた日本社会全体の、今に続く内向化、幼児化の原点として描こうとしている様に思える。
梅山の見せる過剰な自己顕示欲、根拠無き自信とプライドの異様な高さなどを、オウム真理教の麻原彰晃やその後の無差別殺傷事件の犯人たちに重ね合わせるのは容易だ。
同時に、彼のウソ話を無抵抗に信じてしまう沢田もまた、高い学歴を持ちながらオウムに帰依し、事件の全貌が明らかになってもまだ現実を受け入れられない信者たち、あるいはネット上の“情報”に右往左往する現代人の姿にそのままつながるのである。

向井康介の脚本は、冒頭の安田講堂事件を基点として、それぞれの事情から過ぎ去った政治の季節への想いを引きずる、沢田と梅山という二人のキャラクターを対照に配し、彼らの葛藤からある種の現代日本人論を導き出そうとする構造を持つ。
理想主義者の沢田が抱えているのは、自分がジャーナリストとして本来居るべき場所におらず、学生運動が衰退して行くのを傍観したという自責の念だ。
彼は、人々が政治への関心と学生へのシンパシーを失ってゆくのを横目に見ながら、特に政治的ではない週刊誌の記者として、ドヤ街の記事などを書いている自分の仕事に疑念を感じ続けており、それは学生たちを支援していた雑誌“東都ジャーナル”への強い憧れにも見て取れる。
因みに、名前は変えられているものの、沢田は原作者の川本三郎がモデルであり、週刊東都は週刊朝日、東都ジャーナルは朝日ジャーナルの事である。

対する梅山こと片桐優の論理は、もっと単純だ。
彼の中にあるのは、英雄としての革命家、大衆に注目されたい子供っぽいヒーロー願望であり、そのための絶好の機会であった、暴力で世界を変えられると人々が信じていた熱い時代を逃してしまったという遺恨の念である。
梅山は、目指す理想社会のビジョンがある訳でも、特に頭が良い訳でもない。
映画の中でも、大学の討論会で簡単に相手に論破されている事から、彼に実際の組織のリーダーになる器が無いのは明白だ。
ただし、彼にはおそらくは生来の資質であるペテン師の才能に恵まれていた。
“革命家梅山”に成りきってスラスラと出てくるウソと、そこそこ巧みな自己演出は、中平の様な修羅場を知る大人にはあっさり偽者と見破られるが、リアルを知らない沢田や同世代の大学生はコロリと騙されてしまう。
面白いのは、滝田修をモデルとした京大全共闘議長の前園勇までも、沢田たちと同類と捉えられている事で、本作の視点は終始この時代の“革命ごっこ”に対して批判的に見える。

沢田と梅山という二人の主人公を演じる役者が良い。
「悪人」の好演が記憶に新しい妻夫木聡は、ナイーブな内面を抱え、それまで傍観者で合った故に、過激に理想を語る梅山に惹かれてしまう沢田のキャラクターにピッタリ嵌る。
何と言うか、いかにも騙されやすそうな人に見えるのである。
つい先日も、同じ時代を舞台にした「ノルウェイの森」に出ていた松山ケンイチも、胡散臭さ全開の自称革命家を楽しそうに演じている。
この人の何となく和風の顔立ちは、昭和の世界に上手く馴染むのだろうか。
梅山に引かれてゆく沢田を心配する、古舘寛治演じる先輩記者の中平や、梅山を慕うあまり遂に殺人にまで手を染めてしまう、中村蒼演じる後輩の柴山ら脇のキャラクターも、「ああ・・こんな人いたいた」とデジャヴを感じさせるほどに昭和の人にきっちりと造形されており、世界観と共にとても丁寧に作りこまれている。
そして出番は少ないながらも、強い印象を残すのが、忽那汐里演じる倉田眞子だ。
モデルとなっているのは、22歳で自殺した女優の保倉幸恵で、実際に70年から71年にかけて週刊朝日のカバーモデルを務めており、川本三郎とは映画同様に仕事を離れても交流があったという。
彼女は、作品の主要登場人物の中で唯一梅山と直接関わりが無く、言わば作品世界からあえて浮かされている存在であり、終盤の台詞はテーマに切り込む重要な物だ。

思うに、この映画の評価は、事件の数年後を描くエピローグでの、沢田の涙をどの様に解釈するかで大きく変わってくるだろう。
映画の冒頭、沢田は身分を偽ってドヤ街を巡り、そこで出会う人々の事をルポルタージュしていた。
そしてエピローグで、沢田は当時取材対象だった一人の男に偶然街で出会うのだが、懐かしい友に出会ったと思っている彼に、沢田は騙して記事を書いていたという本当の事を告白出来ない。
そしてその時、沢田は漸く気付くのである。
社会の最下層で懸命に生きる人々を、欺いて記事にしていた自分と、革命の理想を掲げて周囲の人々を巻き込んだ梅山と何が違うのか。
劇中、梅山が沢田に語りかける印象的な台詞がある。
「僕たちは、ホンモノになれるんですよ!」
成りたいもの、目指したいものが強固であればあるほど、その行動は利己的になりやすい。
ずっと梅山の事を引きずっていた沢田にとって、ラストの涙は、漸く梅山とは何者だったのか、薄々疑っていながらも、なぜ自分は彼のウソに付き合ってしまったのかを理解した故であり、それは同時に、沢田自身が何者だったのかを知る、何とも切ない瞬間でもあったのだろう。
本作のタイトルはボブ・デュランが自身の過去を振り返って書いたと言われる、「マイ・バック・ページズ」からとられた物だろうが、デュランがこの曲を収録したのは何と23歳の時であるから驚く。
やはり若い頃から才能を発揮していた人は、自己客観視も凡人よりよほど早い様だが、もしかしたらラストの沢田は、この曲を書いたデュランと同じ心境だったのかもしれない。

さて、熱い革命にはやはりビールが合う。
今回は当時日本のビール市場で50パーセントものシェアを持っていた、麒麟麦酒の昭和40年代頃の味を再現した「キリン・クラッシックラガー」をチョイス。
コク、キレ、適度な苦味など、誰もがイメージする日本のビールである。
当時はどの家庭にも、酒屋さんが三輪車でビールの大瓶をケースで届けに来たのを思い出す。
映画の後はビールの味で昭和にタイムトラベルしよう。

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