■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係なTBもお断りいたします。 また、関係があってもアフェリエイト、アダルトへの誘導など不適切と判断したTBは削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係なTBもお断りいたします。 また、関係があってもアフェリエイト、アダルトへの誘導など不適切と判断したTBは削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
2011年06月10日 (金) | 編集 |
姥捨山に消えた婆たちは、実は女だけの秘密郷「デンデラ」を作って生き延びていた!
食い扶持を減らすために、一定の年齢になった老人を山に捨てたという姥捨伝説は、今も日本各地に残る。
この話を元にした深沢七郎の小説「楢山節考」を映画化し、28年前にカンヌ映画祭パルムドール(当時の呼称は“グランプリ”)を受賞したのが、故・今村昌平監督である。
そして今回、伝説の後日談とでも言うべき本作のメガホンをとったのは、今村監督の息子で、父の晩年の作品や「十三人の刺客」などの脚本家としても知られる天願大介監督だ。
世に親子監督は沢山いるが、父親の作品の続きを息子が撮るというのは、映画史的にも珍しいケースではないかと思う。
※ネタバレ注意。
七十歳になった斎藤カユ(浅丘ルリ子)は、村の掟によって冬山へ捨てられる。
豪雪の中、意識を失ったカユは、「デンデラ」という集落で目を覚ます。
そこは三十年前に捨てられ、齢百歳となる三ツ屋メイ(草笛光子)によって作られた秘密郷で、カユよりも先に山に捨てられ、とうに死んだと思われていた五十人の婆たちが、共同生活を営んでいた。
メイは自分たちを捨てた村に復讐するために、戦力を蓄えて村を襲撃し、男達を皆殺しにする計画を立てており、反対するのは椎名マサリ(倍賞美津子)らごく少数。
自分はどうするべきか悩むカユだったが、計画は着々と進む。
ところが、決行が間近にせまったある夜、冬籠り出来なかった子連れの熊が村を襲い、多くの婆が殺されてしまう。
村より先に熊と戦う事を余儀なくされた婆たちは、巨大な罠を作って熊を誘き寄せ、カユが子熊を殺すのだが・・・
はじめに断っておくと、私はこの作品と関節的に関わりがある。
基本的に、自分が参加した作品のレビューはしないと決めているが、本作が2011年の今を考えるのに非常に興味深い作品であるのと、直接関係している訳では無いので書く事にした。
原作は佐藤友哉の同名小説だが、未読。
キャストの大半が老境に入った女優たち、そして展開するのは極めて土着的なある種の寓話という、なかなかに挑戦的な企画だが、 これもまた3.11後の時代に呼ばれた様な作品だと思う。
本作では、物語の背景となる世界観は曖昧にされており、何となく明治初期ごろの東北のイメージは感じ取れるものの、どこでも無く、いつでも無い世界は、逆説的には日本全体、いや人間社会全体のメタファーと言えるだろう。
この辺りの考え方は、漆原友紀の漫画「蟲師」に近いものがある。
物語の舞台となるのは、その内側に激しい葛藤を秘めた秘密郷、デンデラ。
そこは一見すると、住人全てが平等な理想社会だが、愛する者によって捨てられた過去を持つ婆たちが、復讐を遂げるために軍事訓練を繰り返すアマゾネスの里でもあり、その情念が彼女らが生き延びる力にもなっているのである。
村の男達を皆殺しにすると叫ぶメイらに対して、集落を豊かにして、村を見返す事が一番の復讐だと考えるマサリらの一団もいるが、彼女らは「意気地なし」と呼ばれる少数派だ。
そんな両者の間にあって、“新参者”であるカユは、一度は捨てたはずの命をどう使うべきか、どう生きるべきか葛藤するのだが、それは即ち人間社会という物を少し離れた位置から考察する事でもある。
主人公のカユを演じるのは七十歳の浅丘ルリ子。
復讐に燃える百歳のメイを実年齢七十七歳の草笛光子が演じ、平和を訴えるマサリを六十四歳の倍賞美津子、弓の名手ヒカリを六十九歳の山本陽子ら、昭和を代表する錚々たる大女優たちが結集。
還暦を超えた彼女らが、足場の悪い酷寒の山中で結構なアクションを演じているのだから、ハラハラ、ドキドキ、別の意味でも迫力満点だ。
婆たちのテロ計画は着々と進み、いよいよ決行となった時、大事件が起こる。
秋に餌が少なく、冬眠出来なかった子連れの熊が、デンデラを襲うのである。
残念なのは、この熊のビジュアルの出来がイマイチな事。
単に特殊造形だけの問題ではなく、アップばかりで引き画の殆ど無いカットの構成が、まるで70年代のアニマルホラー映画の様で、作り手がこの種の映画に慣れていないのが丸わかりなのだ。
勿論予算や時間の問題が大きいのだろうが、作り物然とした熊のアップが映る度にスクリーンから現実に引き戻されるのは辛い。
ここはもう少しシルエットや鼻息などの描写を使って、モロに映さなくてもリアルな生命を感じさせる演出上の工夫が欲しかった。
嘗て「楢山節考」も手掛けた稲垣尚夫によるスケールの大きな美術、スペクタクルな雪山の風景など、他の部分は映像的にも出来が良いだけに、惜しまれる。
図らずも拾った自らの命と、如何に向き合うべきか悩んでいたカユは、偶然にも子熊を殺した事で、否応なしに生死を賭した新たな戦いに巻き込まれてゆく。
そして、一旦は熊を撃退し、いよいよ村へと進軍を開始する婆たちに、今度は大雪崩という自然の猛威が襲い掛かる。
またしても多くの仲間を失った婆たちは、さすがに意気消沈。
リーダーのメイもついに倒れ、弱体化したデンデラに、雌熊が再びその姿を現す。
殺された子供の仇とばかりに、暴れまわる雌熊は、まるで村への復讐に燃えていた婆たちの合わせ鏡の様だ。
三十年もの間、捨てられた者が幸福に生きるための場として、密かに存在していたデンデラは、復讐という極めて人間的かつ利己的な行動を起こそうとした途端、山の神の怒りに触れたかの様に、自然の力によって滅び去るしか無かったのだ。
物語のラストで、雌熊に追われたカユは、山を走り抜けて村へと舞い戻る。
そして、そこに更に巨大な雄の熊が現れ、村人を次々に食い殺してゆくのである。
この唐突にも思える雄熊の出現は、テーマ的に極めて重要だ。
婆たちが、村の男を皆殺しにすると決めた時点で、もう彼女たちの生は自分だけのものとなり、脈々と受け継がれて来た人という種の、生命の循環からは外れた存在だ。
これが婆たちと子を殺された雌熊の対決だけなら、単に種を超えた女の戦いになってしまうところだが、雄熊の存在によって、所詮人間の道理でしか生きられない婆たちと、ただただ生命をつなぐ壮大な自然のサイクルとのコントラストとなっている。
婆たちが女を捨てようが、村へ復讐しようが、ちっぽけな人間の目論見など、“世界”という巨大なシステムの中では、ほんの些細などうでも良い事で、人間だろうが、熊だろうが、一つ一つの生命が出来る事は、究極的に言えば頑張って生きる事、そして命を未来につなげる事しかない。
カユと雌熊の最後は、色々な解釈が可能だろう。
私は、たぶんカユは熊に殺されたのだろうと思うが、それはカユの敗北をを意味しない。
カユも熊もそれぞれの生を懸命に生き、その結果としての死があるだけである。
全てはこの世界の理のなのだ。
「デンデラ」は、決して器用な映画ではない。
土臭く洗練されておらず、テーマをわかりやすく伝えるという点においては、不親切な作りであるとも言えるだろう。
しかし、ここには人間と世界を巡る本質的なドラマが確かにある。
つい先日も巨大な自然の力に翻弄されながら、今だちっぽけな利害闘争に明け暮れるこの国の在り方を考える上で、本作はなかなかに興味深い一本だと思う。
まあ、デンデラの婆たちを、永田町へ送り込みたいと思ってしまった私なども、所詮は人間の道理でしか世界を見られていないかもしれないが。
今回は、我々自身への希望を込めて、岩手県陸前高田市の地酒、酔仙酒造の「純米大吟醸」をチョイス。
岩手県の酒米「吟ぎんが」を使用しており、香り立つ吟醸香と淡麗かつ柔らかな口当たりが楽しめる芳醇な酒だ。
残念ながら蔵は津波で跡形もなく流されてしまい、今この酒を飲もうと思えば、震災前に出荷された物を探すしか無いが、既に全国の飲兵衛によって飲み尽くされ、入手困難な様である。
同社は施設だけでなく、従業員にも多くの犠牲者が出たそうだが、すでに再建への道を歩み出しているという。
いつの日か再び、「酔仙」のラベルを付けた新酒を飲める日が来る事を願ってやまない。
ところで、タイトルの「デンデラ」とは、遠野物語に登場する実在の姥捨の地である。
少し気になって調べてみたところ、遠野における姥捨とは、死を前提に山に捨てるのではなく、若い世代が暮らす本村から少し離れた枯野に、高齢者が集まって細々と共同生活を送るシステムだった様だ。
つまり、本物のデンデラは伝説ほど殺伐とした物ではなく、むしろ映画のデンデラに近く、現代の老人ホームの様な物だったらしい。
もっとも、老人ホーム自体が、姨捨山を法制度に組み込んだ物という見方もできるだろうけど。
記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもお願い
食い扶持を減らすために、一定の年齢になった老人を山に捨てたという姥捨伝説は、今も日本各地に残る。
この話を元にした深沢七郎の小説「楢山節考」を映画化し、28年前にカンヌ映画祭パルムドール(当時の呼称は“グランプリ”)を受賞したのが、故・今村昌平監督である。
そして今回、伝説の後日談とでも言うべき本作のメガホンをとったのは、今村監督の息子で、父の晩年の作品や「十三人の刺客」などの脚本家としても知られる天願大介監督だ。
世に親子監督は沢山いるが、父親の作品の続きを息子が撮るというのは、映画史的にも珍しいケースではないかと思う。
※ネタバレ注意。
七十歳になった斎藤カユ(浅丘ルリ子)は、村の掟によって冬山へ捨てられる。
豪雪の中、意識を失ったカユは、「デンデラ」という集落で目を覚ます。
そこは三十年前に捨てられ、齢百歳となる三ツ屋メイ(草笛光子)によって作られた秘密郷で、カユよりも先に山に捨てられ、とうに死んだと思われていた五十人の婆たちが、共同生活を営んでいた。
メイは自分たちを捨てた村に復讐するために、戦力を蓄えて村を襲撃し、男達を皆殺しにする計画を立てており、反対するのは椎名マサリ(倍賞美津子)らごく少数。
自分はどうするべきか悩むカユだったが、計画は着々と進む。
ところが、決行が間近にせまったある夜、冬籠り出来なかった子連れの熊が村を襲い、多くの婆が殺されてしまう。
村より先に熊と戦う事を余儀なくされた婆たちは、巨大な罠を作って熊を誘き寄せ、カユが子熊を殺すのだが・・・
はじめに断っておくと、私はこの作品と関節的に関わりがある。
基本的に、自分が参加した作品のレビューはしないと決めているが、本作が2011年の今を考えるのに非常に興味深い作品であるのと、直接関係している訳では無いので書く事にした。
原作は佐藤友哉の同名小説だが、未読。
キャストの大半が老境に入った女優たち、そして展開するのは極めて土着的なある種の寓話という、なかなかに挑戦的な企画だが、 これもまた3.11後の時代に呼ばれた様な作品だと思う。
本作では、物語の背景となる世界観は曖昧にされており、何となく明治初期ごろの東北のイメージは感じ取れるものの、どこでも無く、いつでも無い世界は、逆説的には日本全体、いや人間社会全体のメタファーと言えるだろう。
この辺りの考え方は、漆原友紀の漫画「蟲師」に近いものがある。
物語の舞台となるのは、その内側に激しい葛藤を秘めた秘密郷、デンデラ。
そこは一見すると、住人全てが平等な理想社会だが、愛する者によって捨てられた過去を持つ婆たちが、復讐を遂げるために軍事訓練を繰り返すアマゾネスの里でもあり、その情念が彼女らが生き延びる力にもなっているのである。
村の男達を皆殺しにすると叫ぶメイらに対して、集落を豊かにして、村を見返す事が一番の復讐だと考えるマサリらの一団もいるが、彼女らは「意気地なし」と呼ばれる少数派だ。
そんな両者の間にあって、“新参者”であるカユは、一度は捨てたはずの命をどう使うべきか、どう生きるべきか葛藤するのだが、それは即ち人間社会という物を少し離れた位置から考察する事でもある。
主人公のカユを演じるのは七十歳の浅丘ルリ子。
復讐に燃える百歳のメイを実年齢七十七歳の草笛光子が演じ、平和を訴えるマサリを六十四歳の倍賞美津子、弓の名手ヒカリを六十九歳の山本陽子ら、昭和を代表する錚々たる大女優たちが結集。
還暦を超えた彼女らが、足場の悪い酷寒の山中で結構なアクションを演じているのだから、ハラハラ、ドキドキ、別の意味でも迫力満点だ。
婆たちのテロ計画は着々と進み、いよいよ決行となった時、大事件が起こる。
秋に餌が少なく、冬眠出来なかった子連れの熊が、デンデラを襲うのである。
残念なのは、この熊のビジュアルの出来がイマイチな事。
単に特殊造形だけの問題ではなく、アップばかりで引き画の殆ど無いカットの構成が、まるで70年代のアニマルホラー映画の様で、作り手がこの種の映画に慣れていないのが丸わかりなのだ。
勿論予算や時間の問題が大きいのだろうが、作り物然とした熊のアップが映る度にスクリーンから現実に引き戻されるのは辛い。
ここはもう少しシルエットや鼻息などの描写を使って、モロに映さなくてもリアルな生命を感じさせる演出上の工夫が欲しかった。
嘗て「楢山節考」も手掛けた稲垣尚夫によるスケールの大きな美術、スペクタクルな雪山の風景など、他の部分は映像的にも出来が良いだけに、惜しまれる。
図らずも拾った自らの命と、如何に向き合うべきか悩んでいたカユは、偶然にも子熊を殺した事で、否応なしに生死を賭した新たな戦いに巻き込まれてゆく。
そして、一旦は熊を撃退し、いよいよ村へと進軍を開始する婆たちに、今度は大雪崩という自然の猛威が襲い掛かる。
またしても多くの仲間を失った婆たちは、さすがに意気消沈。
リーダーのメイもついに倒れ、弱体化したデンデラに、雌熊が再びその姿を現す。
殺された子供の仇とばかりに、暴れまわる雌熊は、まるで村への復讐に燃えていた婆たちの合わせ鏡の様だ。
三十年もの間、捨てられた者が幸福に生きるための場として、密かに存在していたデンデラは、復讐という極めて人間的かつ利己的な行動を起こそうとした途端、山の神の怒りに触れたかの様に、自然の力によって滅び去るしか無かったのだ。
物語のラストで、雌熊に追われたカユは、山を走り抜けて村へと舞い戻る。
そして、そこに更に巨大な雄の熊が現れ、村人を次々に食い殺してゆくのである。
この唐突にも思える雄熊の出現は、テーマ的に極めて重要だ。
婆たちが、村の男を皆殺しにすると決めた時点で、もう彼女たちの生は自分だけのものとなり、脈々と受け継がれて来た人という種の、生命の循環からは外れた存在だ。
これが婆たちと子を殺された雌熊の対決だけなら、単に種を超えた女の戦いになってしまうところだが、雄熊の存在によって、所詮人間の道理でしか生きられない婆たちと、ただただ生命をつなぐ壮大な自然のサイクルとのコントラストとなっている。
婆たちが女を捨てようが、村へ復讐しようが、ちっぽけな人間の目論見など、“世界”という巨大なシステムの中では、ほんの些細などうでも良い事で、人間だろうが、熊だろうが、一つ一つの生命が出来る事は、究極的に言えば頑張って生きる事、そして命を未来につなげる事しかない。
カユと雌熊の最後は、色々な解釈が可能だろう。
私は、たぶんカユは熊に殺されたのだろうと思うが、それはカユの敗北をを意味しない。
カユも熊もそれぞれの生を懸命に生き、その結果としての死があるだけである。
全てはこの世界の理のなのだ。
「デンデラ」は、決して器用な映画ではない。
土臭く洗練されておらず、テーマをわかりやすく伝えるという点においては、不親切な作りであるとも言えるだろう。
しかし、ここには人間と世界を巡る本質的なドラマが確かにある。
つい先日も巨大な自然の力に翻弄されながら、今だちっぽけな利害闘争に明け暮れるこの国の在り方を考える上で、本作はなかなかに興味深い一本だと思う。
まあ、デンデラの婆たちを、永田町へ送り込みたいと思ってしまった私なども、所詮は人間の道理でしか世界を見られていないかもしれないが。
今回は、我々自身への希望を込めて、岩手県陸前高田市の地酒、酔仙酒造の「純米大吟醸」をチョイス。
岩手県の酒米「吟ぎんが」を使用しており、香り立つ吟醸香と淡麗かつ柔らかな口当たりが楽しめる芳醇な酒だ。
残念ながら蔵は津波で跡形もなく流されてしまい、今この酒を飲もうと思えば、震災前に出荷された物を探すしか無いが、既に全国の飲兵衛によって飲み尽くされ、入手困難な様である。
同社は施設だけでなく、従業員にも多くの犠牲者が出たそうだが、すでに再建への道を歩み出しているという。
いつの日か再び、「酔仙」のラベルを付けた新酒を飲める日が来る事を願ってやまない。
ところで、タイトルの「デンデラ」とは、遠野物語に登場する実在の姥捨の地である。
少し気になって調べてみたところ、遠野における姥捨とは、死を前提に山に捨てるのではなく、若い世代が暮らす本村から少し離れた枯野に、高齢者が集まって細々と共同生活を送るシステムだった様だ。
つまり、本物のデンデラは伝説ほど殺伐とした物ではなく、むしろ映画のデンデラに近く、現代の老人ホームの様な物だったらしい。
もっとも、老人ホーム自体が、姨捨山を法制度に組み込んだ物という見方もできるだろうけど。

記事が気に入ったらクリックしてね

こちらもお願い
スポンサーサイト
| ホーム |