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■TITLE INDEX
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殺人鬼ジグソウによって密室に監禁され、死のゲームを強要される二人の男を描いた「SAW」は、2004年に公開されるや旋風を巻き起こし、所謂不条理デス・ゲーム物の一大ブームを作り出した。
この作品を創造したのが、共に当時27歳だったジェームス・ワン監督と脚本・主演を兼ねたリー・ワネルである。
「インシディアス」は、彼ら二人が再びタッグを組み、更に低予算モキュメンタリーホラー「パラノーマル・アクティビティ」で脚光を浴びたオーレン・ペリがプロデュース参加した作品。
若き恐怖のスペシャリストたちが挑んだのは、意外にも古典的なお化け屋敷ホラーだ。
タイトルは「じわじわ広がる」とか「狡猾な」という意味だが、果たして屋敷に広がる恐怖の正体とは何なのか?
※一部ネタバレ注意
念願の屋敷を手に入れたルネ(ローズ・バーン)とジョシュ(パトリック・ウィルソン)の夫婦は、三人の子供達と共に引っ越してくる。
ところがある日、長男のダルトンが突然意識を失って、昏睡状態に陥ってしまう。
原因は不明で回復の兆しが見えないなか、家の中では怪奇現象が起こり始め、パニックに陥った一家は再度の引越しを決意する。
だが、引越し先でも怪奇現象は一向に収まらず、ルネは霊媒師を呼んで、原因の徹底究明に乗り出す。
そして明らかになった、ある驚くべき事実とは・・・・
結論から言うと、なかなか面白い。
中盤のあるシーンなど、思わずおしっこ漏らしそうになったよ。
ストーリー的にも凝っていて、このジャンルの作品としては久々の快作と言えるだろう。
映画は、いかにも幸せそうな一家が、古い屋敷に引っ越してくるところから始まる。
だが直ぐに、この屋敷がいわくつきの物件である事がわかる。
屋根裏の奇妙な気配、勝手に動く家具、赤ちゃん用の音声モニターから聞こえる不気味な声。
カンの良い人なら気付くだろうが、この辺りの展開は、「ポルターガイスト」の前半部分を思わせる。
共に77年生まれのワンとワネルにとって、校外の一軒屋を舞台にした82年製作のスペクタクル・ホラーの金字塔は、おそらく恐怖の原体験の一つなのだろう。
あの映画では、墓の上に住宅を建てられた事に怒った死霊たちが、幼いキャロル・アンを霊界へと連れ去るが、こちらでは小学生の息子ダルトンが、原因不明の昏睡状態に陥ってしまう。
キャロル・アンと違って肉体はそこにあるので、それが霊的な現象なのかどうかもはっきりしない。
その後も、家の怪異を敏感に感じ取るルネと、あくまでも常識で判断しようとするジョシュの間に亀裂が生じ、一家は精神的に追い込まれてゆく。
しかし、エスカレートし続ける怪奇現象は、遂に一家に家からの脱出を決断させるのである。
ところが、お化け屋敷から逃げ出して、状況が改善されるかと思いきや、引越し先の家にもまた不気味な影が忍び寄る。
呪われているのは家ではなく、“誰か”なのではという疑念。
ルネはプロの霊媒チームを呼び、徹底的に状況を検証し始めるのだが、この霊を科学的に計測しようとする“ゴーストバスターズ”も「ポルターガイスト」に登場したチームが元ネタだろう。
その結果、ダルトンの昏睡は、ある種の幽体離脱だという事実が判明する。
体から離れてしまったダルトンの魂は、どうやら様々な事情で帰れなくなっており、抜け殻となった肉体を、死霊たちが我が物にしようと狙っているという訳だ。
ここからは、一家を狙う死霊を出し抜き、霊界という人知の及ばない世界に囚われているダルトンを如何に救い出すかというクライマックスへと突入する。
ジェームス・ワンは古典的なお化け屋敷ホラーの素材を、80年代のスピルバーグ風味のレシピで料理し、更に90年代以降のJホラーのスパイスで仕上げている。
恐怖演出は、ハリウッド的な派手な画作りや、びっくり箱的な脅かしは控えめ。
陰影を生かした画面構成、恐怖に至る“間”と繊細な音響効果、さらにはコキコキと間接が軋む様な暗黒舞踏チックな動きをする、白塗りの死霊キャラクターなどは、明らかに「呪怨」や「リング」といった日本映画の影響下にある。
ただし、詳しくは書けないが、ラスボス的な敵の造形などは、やはり西洋の作品である事を感じさせる物になっており、作り手の中にある恐怖映画の記憶がチャンポンされ、独特の世界観を生み出していると言えるだろう。
もっとも、この恐怖のごった煮的な作りは、良くも悪くも映画の輪郭をぼかし、イメージを極めて俗っぽい物にしているのも確かだ。
彼方此方に感じる既視感が、作品の独自性をやや薄めている印象は拭えない。
怖い事は怖いが最初からB級志向がありありで、個人的には元ネタと思しき「ポルターガイスト」や「シャイニング」と言った、既に古典となったホラーの名作に肩を並べるまでには至っていないと思う。
お約束の通り、一旦事が収まった後に二段オチがあるのだけど、Jホラーっぽいテイストのおかげで途中でどうなるか予測がついちゃったし・・・・。
ただ、父親のジョシュの過去が絡んできたり、物語的にも捻りがあって、夏の納涼映画としてはなかなかによく出来た作品だ。
「エルム街の悪夢」をはじめ、名バイブレイヤーとして多くのホラー映画に出演してきたリン・シェイ、「エンティティー 霊体」では幽霊にレイプされていたバーバラ・ハーシーら、脇の遊び心のあるキャスティングも楽しかった。
今回は、お化け屋敷で楽しんだ後のダメ押しに、鮮血を思わせる真っ赤なカクテル「デビルズ」をチョイス。
ポートワイン30ml、ドライベルモット30ml、レモンジュース2dashをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。
名前は凶悪そうだが、ポートワインのまろやかな甘みと、レモンジュースの酸味が爽やかな後味を演出する。
まあ、こっちの“悪魔”は、どちらかと言うと、大人の夜の甘い誘惑をイメージしてるんだろうけど。

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映画史に大きな足跡を残して、名優・原田芳雄が逝った。
原田芳雄という名前を知ったのは、何時だっただろう。
物心ついた頃には既に人気スターだったが、その存在感を強烈に意識したのは、多分鈴木清順と組んだ「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」を観た時だと思う(確か文芸座だった)。
それから主に名画座を中心に70年代の邦画の旧作を観ると、必ずと言って良いほどインパクトのあるキャラクターで出演しているのが原田芳雄だった。
傑作ハードボイルド、「反逆のメロディー」の若きヤクザや、「野良猫ロック」シリーズの最終作「暴走集団’71」のピラニア(凄い役名!)。
若き日の松田優作と共演した「竜馬暗殺」の竜馬役と、脇に回った「祭りの準備」の隣人役は初期の代表作と言って良いだろう。
「祭りの準備」のラストで、「バンザイ!バンザイ!」と江藤潤演じる主人公を送り出すシーンのカタルシスは、四半世紀近く前に観たのに、いまだ脳裏に焼き付いている。
「竜馬暗殺」の黒木和男監督とは、所謂戦争レクイエム三部作の「TOMORROW 明日」「美しい夏キリシマ」「父と暮せば」も印象深いが、3.11を経た時代から眺めれば、原発利権を巡る事件をサスペンスフルに描いた「原子力戦争」も忘れ難い。
この映画には奇しくも福島原発が登場しているのだ!
原田芳雄と言えばアウトローのイメージが強いが、彼はシリアスな作品から「PARTY7」のキャプテンバナナなんていう超ふざけた役まで、どんな映画でも自分の強烈なキャラクターを殺す事なく、実に自然に映画の世界に入り込んでしまう稀有な俳優で、若手からベテランまで多くの名匠に愛されてきたが、特に新人監督の作品に縁が深い印象がある。
自身初主演の「復讐の歌が聞こえる」は貞永方久と山根成之両監督のデビュー作(共同監督)だし、原田眞人の「さらば映画の友よ インディアンサマー」、大森一樹の「オレンジロード急行」、本作の阪本順治監督の鮮烈な第一作、「どついたるねん」でも物語の要となる名トレーナーを演じていた。
そして銀幕へ登場してから43年、遺作となった「大鹿村騒動記」は原田芳雄自身が企画し、監督の阪本順治、脚本の荒井晴彦を初め、共演者らへも殆ど自ら声をかけたのだという。
本人は癌の再発を知っていたそうだから、これは言わば映画ファン、そして今まで共に戦ってきた仲間へ向けた、遺言の様な作品なのかもしれない。
舞台は、300年に渡って伝統芸能“村歌舞伎”を受け継いでいる長野県の大鹿村。
原田芳雄演じる食堂“ディア・イーター”(笑)主人の風祭善は、村歌舞伎の役者でもある。
公演を控えたある日、村にひょっこりと風祭貴子と能村治が現れる。
貴子は善の妻で、治は幼馴染だが、16年前に食堂を開こうとした時、貴子と治が駆け落ちして村から消えたのだ。
しかし貴子が難病の記憶障害を発症し、手におえなくなった治が彼女を“返す”という。
勝手な言い草に激怒した善だが、貴子への愛が自分の中から無くなっていない事に気付き、彼女を受け入れる。
やがて、善は貴子が歌舞伎の台詞を完璧に覚えている事に気付き、彼女と共に舞台に上がろうとする・・・という物語。
伝統芸能をモチーフにした作品ではあるが、堅苦しさは一切無い。
原田芳雄追悼云々よりも、第一義的にとても楽しい娯楽映画である。
いい年したおっさんたちが、16年前の駆け落ち事件を巡ってどつきあい、貴子の記憶障害が静かな村に小さな嵐を巻き起こす展開は、暖かな笑いに満ちている。
風祭善という男は、サングラスにテンガロンハットの無頼漢だが、心根は優しく、情には弱く、仁義に篤い。
まるで俳優・原田芳雄の集大成の様な役柄である。
共演の大楠道代、石橋蓮司、岸部一徳、佐藤浩一、三國連太郎といった面々からは、過去の沢山の映画のシーンが蘇りどうしても泣けてくる。
ベテラン、中堅、そして松たか子や瑛太、冨浦智嗣といった日本映画の歴史を受け継ぐ、若き後輩達が織り成すアンサンブル。
シンプルに構成された脚本は、一時間半というコンパクトな上映時間にぴたりと嵌り、物語のクライマックスには大鹿村のみに伝わるという演目「六千両後日文章 重忠館の段」が劇中劇として上演されるのだが、この内容がまた現実の物語と上手くリンクし、見事な相乗効果をもたらしている。
ここまででも十分感動的なのに、駄目押しはエンドクレジットのカーテンコール!
もう原田芳雄という名優の最後の勇姿に対して、映画の神が用意したというか、追悼作として観るとあまりにも出来すぎなくらいである。
一人の俳優の映画人生の幕引きとして、これほどまでに象徴的でパーフェクトな作品は、ジョン・ウェインが癌に侵された老ガンマンを演じた、ドン・シーゲル監督の「ラスト・シューティスト」くらいしか思い浮かばない。
追悼番組で、コメンテーターが原田芳雄を“浪漫の残党”と評していたが、なるほどここにあるのは切ないくらいに理想を求め映画を愛した一人の男の、長い長い冒険のラストページだ。
幕府や政府の度重なる禁止にも屈せず、300年の歴史を誇る大鹿歌舞伎とその舞台を心底楽しむ観客達の姿は、そのまま作り手の“映画”への想いに被るのである。
7月22日に行われた、葬儀に用意された送り酒は、大鹿村からも程近い、長野の上伊那郡の地酒「夜明け前」だった。
この銘柄は島崎藤村の同名小説からとられているのだが、タイトルを使うにあたって、蔵元は藤村の長男・島崎楠雄とある約束を交わしたという。
「この名を使う以上は、命に代えても本物を追求する精神を忘れない」
酒をこよなく愛したという原田芳雄は、当然この逸話を知っていたと思う。
「夜明け前」は、これからの日本映画に対する、希代の名優からの最後のメッセージ、そんな気がしてならない。

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2001年公開の第一作から、足掛け10年に渡って楽しませくれた、空前の大ヒットシリーズ「ハリー・ポッター」が遂に大団円を迎える。
前作「死の秘宝 PART1」で、流浪の旅に出た若き魔法使いたちを待ち受けるのは、魔法界の独裁者となったヴォルデモート。
ホグワーツ魔法学校を舞台にした最終決戦は、正に死力を尽くしたクライマックスとなっており、全ての謎が明らかになる物語もドラマチックな盛り上がりをみせる。
良くも悪くも、原作本の動く挿絵状態だった初期作品から、尻上がりに映画としてのクオリティを上げてきたシリーズは、最終章に至って遂に「LOTR」三部作以来のハイファンタジーの傑作となった。
※ネタバレ注意
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)、ロン(ルパート・グリント)、ハーマイオニー(エマ・ワトソン)は、グリンゴッツ銀行のべラトリックス(ヘレナ・ボナム=カーター)の金庫に隠されていた四番目の分霊箱を奪い出すことに成功し、次なる分霊箱を探す為にホグワーツに向かう。
一方、魔法界の支配を進めるヴォルデモート(レイ・ファインズ)は、スネイプ(アラン・リックマン)をホグワーツの校長に据えるが、ハリーの帰還を知ったダンブルドア派の教師と生徒たちが反乱を起こし、学園に籠城する。
ヴォルデモートは、死喰い人の軍団を率い、圧倒的な戦力でホグワーツを包囲。
ハリーたちが五番目の分霊箱である“レイブンクローの髪飾り”を捜索する中、遂に戦いの火蓋が切って落とされる・・・
このシリーズが非常に特徴的なのは、物語のカラーまでもが登場人物と共に成長し、始まりと終わりでは全く違ったジャンルになっている事だろう。
ハリーたちが10歳でホグワーツに入学した時、物語は夢一杯の少年少女向け冒険ファンタジーだった。
やがて、恋の花咲く学園青春映画としての色彩が出て来た第三作「アズガバンの囚人」の頃から、宿命の敵であるヴォルデモートのダークな影が、シリーズを徐々に覆い始める。
そして第四作「炎のゴブレット」で、ヴォルデモートが復活を遂げると、 物語は数十年間に渡る魔法界の覇権を巡る戦いを描いた、壮大なサガへと変貌を遂げるのである。
世にファンタジー小説の名作は数多いが、劇中の登場人物が歳を重ねるのと共に、これほど物語のカラーが変わっていった作品は珍しいだろう。
そしてそれは映画版にも言え、シリーズ最終章となった「ハリー・ポッターと死の秘宝 Part 2」は、10年前の「賢者の石」とは似ても似つかない本格的なダークファンタジーとなっている。
暗黒に覆い尽くされた世界を象徴する様に、物語の大半をナイトシーンが占める。
数少ない昼間のシーンも常に曇り空で、太陽が燦々と照る様な描写は終盤まで皆無である。
その分、漆黒の世界を意識したスペクタクルな画作りがなされており、ビジュアル的なスケール感はシリーズでも随一の仕上がりだ。
特に、魔法のシールドに護られたホグワーツが、ヴォルデモート率いる死喰い人やトロルの軍勢に包囲され、無数のワンドから開戦を告げる光が放たれるシーンは圧巻。
ここからの最終決戦は、敵も味方もバタバタと倒れてゆき、これはもう戦争映画だ。
幼いホグワーツ生の死を描写するカットが象徴する様に、もはや子供の観客にはキツイ。
ファミリー向けと言うより、完全に大人向けの映画である。
10年間全8作品のクライマックスに相応しく、見せ場は満載。
ホグワーツの戦い以外にも、ハーマイオニーがべラトリックスに化けて、グリンゴッツ銀行へ潜入するシークエンスや、巨大な白いドラゴンの背中に乗っての脱出劇、分霊箱を探して入った“必要の部屋”が炎に包まれ、箒に乗ったハリーたちが間一髪でドラコ・マルフォイらを救出する、ラピュタっぽいシークエンス(ここは重要な伏線でもある)など、派手なビジュアルがこれでもかという位に詰め込まれており、前編では間に合わなかった3D版も用意されている。
実写部分は後処理による所謂なんちゃって3Dではあるが、丁寧に処理されており、多くを占める3DCGの部分は当たり前だが立体効果も高く、なかなか迫力がある。
本作に関しては、2Dでも3Dでも、どちらを選んでも損はないだろう。
大人向け映画に相応しく、死地に赴くロンとハーマイオニー、ハリーとジニーのキスシーンもあるが、割と濃厚なロンたちに対して、付き合いの浅いハリーたちの方が若干あっさりだったりと結構演出が細かい(笑
そして「ヴォルデモートを打ち破る力を持つ者」として予言された“アナザー・ワン”であるネビル・ロングボトムが、シリーズ初期の地味キャラから、身長も精神力もビヨーンと成長し、大活躍するのも嬉しい。
ハリーとヴォルデモートの直接対決となった本作では、今まで小出しにされてきた様々な謎や人間関係も、全て明らかにされる。
もちろん厳密に言えば、膨大な原作からの描写不足は依然として残る。
例えばダンブルドアの弟妹の存在など、原作未読だと意味付けがよくわからないだろうが、総じて上手く誤魔化されており、違和感は最小限に抑えられていると思う。
蘇りの石の秘密、ハリーの守護霊の鹿の謎、ニワトコの杖の忠誠の行方などは、描写としてはやや物足りない部分もあるが、過去10年間に広げ続けた風呂敷をキッチリと畳んだのは大したものだ。
シリーズ8作中7作の脚本を手がけたスティーブ・クローブスと、終盤4作を手がけ、いわばシリーズの“クローザー”の役割を果したデヴィッド・イエーツ監督の手腕は高く評価されて良い。
特に、原作未読の多くの観客にとっては興味津々だったであろう、ダンブルドアとスネイプに関してはそれなりにキッチリと描かれていたのではなかろうか。
実際、この二人はシリーズ全体を通しての物語のキーパーソンでもあり、最終章でも大きな役割を演じる。
ダンブルドアは本当に死んだのか?セブルス・スネイプの正体は?
この辺りがどの様に処理されるのかは、原作既読者にとっても最も楽しみな部分だったが、二部作に分けた時間的余裕のおかげもあって、私的には大凡満足のいく形で映像化されていたと思う。
スネイプのハリーの母、リリーに対する生涯をかけた初恋の切なさは、正に男の純情。
彼は人生でたった一人愛したリリーの為に、ダンブルドアの二重スパイとして、ヴォルデモートに使え、その実密かにハリーを決定的な危機から守って来たのだ。
ハリーとヴォルデモートの物語がこのシリーズの表面だとすると、スネイプの秘められた愛の物語は裏面とも言える。
そう、「ハリー・ポッター」の影の主役は、実はセブルス・スネイプ先生なのである。
物語の19年後を描いたエピローグで、スネイプの真実を知ったハリーが、その想いにどう答えたかが明かされるシーンは、原作で読んで知っていても泣かされた。
このシーンは、ちょうど第一作のハリーたちのホグワーツへの旅立ちと、ループする様に構成されており、脈々と受け継がれる世代、そして彼らが織り成す終りなき物語の新章の始まりとしても感慨深い。
いつの日か、彼らの冒険にまた逢えますように・・・。
今回は10年8作に及ぶ、歴史的なファンタジー・シリーズの幕が下りるという事で、オックスフォード州ウイットニーで伝統的な製法を守り続けている老舗の醸造所、ウィッチウッド・ブルーワリー社から「ホブ ゴブリン」というマジカルな名を持つエールを。
原料は、醸造所近くのウィンドラッシュ川の天然水にモルトに酵母のみというシンプルな作りだが、ベースモルトに少量のチョコレートモルトをブレンドする製法が独特の味わいを生んでいる。
ダークエールは、高温多湿な日本の夏には少々重く感じる事もあるが、こちらはボディの濃厚さを残しながらもスマートで飲みやすく、亜熱帯の夜にも悪くない。
「ハリー・ポッター」の10年に乾杯!

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「コクリコ坂から」は、東京オリンピックを翌年に控えた1963年の横浜を舞台にした、スタジオジブリによる青春アニメーション映画。
高度成長の熱気に溢れ、古き物が棄てられ、新しい物が歓迎される時代。
おんぼろクラブハウスの取り壊しを巡る学園闘争を背景に、16歳の少女と17歳の少年の初々しい恋を描いた作品だ。
デビュー作の「ゲド戦記」が散々な評価に終わった宮崎吾朗監督だが、今回はあえて父・宮崎駿とタッグを組み、世代交代を象徴する冒険的な快作を作り上げた。
船乗りだった亡き父のために、信号旗を揚げ続ける主人公の少女・海に長澤まさみ、彼女と恋におちる少年・俊を岡田准一が好演している。
※一部ネタバレ注意
1963年。
横浜の外れにある、コクリコ坂に暮らす松崎海(長澤まさみ)は16歳の高校生。
船乗りの父とは幼い頃に死別し、海は留守がちな学者の母を助け、祖母と妹と弟、二人の下宿人を含めた大所帯を切り盛りしている。
彼女の日課は、毎朝亡き父のために、航海の安全を祈る信号旗を掲げる事。
そんなある日、海の通う学園のシンボルであるクラブハウス、“カルチェラタン”の取り壊し計画が持ち上がり、彼女はひょんな事から存続を訴える新聞部の風間俊(岡田准一)とつきあう様になる。
だが、海の家で下宿人の送別会があった日、彼女の父の写真を見た俊は、急によそよそしい態度をとる様になる。
問い詰める海に、俊が語ったのは、二人の出生に関するある秘密だった・・・
主人公の海が、俊に恋する瞬間の何と映画的な事か!
正直なところ、全く映像で物語る事が出来ていなかった「ゲド戦記」と、同一人物の作品とは信じられない。
同じ事は、企画・共同脚本でクレジットされている宮崎駿にも言える。
21世紀の入ってから、ぶっ壊れてゆくばかりだった人が作ったとは思えないほど、物語がロジカルに構成されている事に驚く。
1980年に、雑誌「なかよし」に連載された佐山哲郎、高橋千鶴による同名漫画が原作である。
ストーリーのコアの部分はキープされているが、キャラクター設定や細部の筋立ては大幅に脚色され、物語の舞台も原作執筆時点の“現代”である80年から、63年へと変更されている。
もっとも、これは止むを得ないだろう。
原作は、良くも悪くもあの時代の典型的な連載少女漫画で、主人公の心象風景の描写が多くを占め、行き当たりばったりの展開、浮世離れしたキャラクター、掘り下げられていない世界観は時代性も希薄で、とてもそのままで映画化に耐えうる物ではない。
作中から比較的しっかりと描き込まれている海と俊のラブストーリー部分を抽出し、その他の要素はきちんとバックボーンを作り、設定の意味付をした上で再度組み込まれているが、この作業は物語に現実世界へと繋がる“リアル”を与えている。
面白いのは、本作のリアルは、アニメーションならではのものだという事である。
題材的には一見すると実写でも出来そうだが、いざ生身の役者が演じて、セットを組んで、CGで風景を再現してとなると、実際にはどんどんとリアルは失われてゆく。
この50年ほど前の、微かに人々の記憶に残る程度の過去というのは、一番再現のさじ加減が難しく、手を抜けば安っぽくなり、逆に究極的にやると「ALWAYS 三丁目の夕日」の様な箱庭的世界になってしまう。
本作は映像的ディテールは極めて細密ながら、決して写実的すぎない絵柄によって、上手く観客の記憶にあるイメージを利用して、時代を活写する事に成功しているのである。
脚色の作業は、物語の世界に“歴史”を付与するという、明確な目的意識をもって行われている。
原作では漠然としか描かれない海の父の死の真相も、海軍出身の父が朝鮮戦争に“従軍”し、接雷して戦死した事が語られ、海と俊の出生の秘密も、死が日常だった戦争の時代の止むに止まれぬ事情であった事が定義される。
そしてカルチェラタンである。
学園闘争は原作でも描かれていたが、モチーフは制服の自由化だった。
これは既に日本人が社会変革の意欲を失った時代の、パーソナルな闘争である。
映画は、これをカルチェラタンと呼ばれる古いクラブハウスの、存続か取り壊しかを巡る闘争へと変えている。
明治の終わり作られたカルチェラタンは、重厚な建物だ。
モデルとなっているのは、庄内の致道博物館にある明治の名建築、旧西田川郡役所だろうか。
色は違えど、時計台を有するデザインは良く似ている。
この建物の内部は、過去に学園で学んだ多くの卒業生の活動と思い出が蓄積された、文字通り学園の知の殿堂である。
新聞部部長として取り壊しに反対する俊は、集会で「古い物を壊すのは、過去の記憶を捨てる事と同じだ」と説く。
そう、映画の闘争は単に個人の自由を問う物ではなく、社会(学園)のあり方に対する戦いなのである。
これによって、東京オリンピック前年の1963年という時代設定も生きる。
色々な意味で、日本が古きを捨てて、新しい時代に突入するするターニングポイントだ。
またこの年の高校生は、戦時中生まれと戦後のベビーブーマー、所謂団塊の世代が混在するという意味でも象徴的である。
この映画は、第一義的には、少年と少女を主人公に、人が人を愛するピュアな気持ちを描いたラブストーリーだ。
だが彼らの出生に秘められた、親の世代の切なる気持ちが表すように、一人一人の人生にも、積み重ねられ受け継がれて来た歴史がある。
カルチェラタンを巡る闘争は、根底の部分で海と俊の切ない初恋の葛藤ともリンクし、我々が忘れてはいけない、記憶の継承の大切さを思い起こさせるのである。
カルチェラタンを映画史に置き換えても面白い。
「ラムの大通り」のえいさんが指摘する様に、この映画の作り出すイメージは、当時の日活青春映画そのもので、大いなるオマージュと言っても良い。
60年代の僅かの期間に、その黄金時代を築いた日活青春路線は、浜田光夫や吉永小百合と言ったスターの名で記憶されているものの、個々の作品としては多くが忘れられつつある。
いや、これは日活に限った話ではなく、日本における古い映画へのアクセシビリティは欧米と比べてもかなりお粗末であり、文化遺産の継承という点において、日本映画史の多くの部分は本作のカルチェラタンと同じ境遇にあるのだ。
触れられる者が誰もいなければ、継承は行われないのである。
また本作には、ジブリ映画の歴史も埋め込まれている。
88年に作られた宮崎駿の代表作、「となりのトトロ」は50年代の世界を舞台としている。
海と空の姉妹は、あの映画に描かれたサツキとメイと同世代であり、これはある意味彼女らの成長した姿を描いた物語とも観て取れる。
そして物語の終盤、父達の親友に自らの出生の秘密を聞いた海と俊が、ダグボートで去ってゆくシーンは、カット割からも明らかにスタジオジブリの第一作、「天空の城 ラピュタ」に対するアンサーシーンになっている。
あの映画のラストで、亡き父の想いに答えた少年は、愛する少女と共に空の彼方へと旅立って行く。
ちょうど四半世紀後に宮崎吾朗が描いたのは、父が消えた海から、愛する少年と共に帰還する少女の姿だ。
その時に彼女は、自分の家と風になびく信号旗、つまり亡き父に見て欲しいと思い続けた光景を、初めて自分自身で海の上から見るのである。
父はもう帰らないが、その想いは彼女の中に生き続け、彼女と共に家へ帰るのだ。
世代の移り変わりを象徴する感動的なシーンであり、宮崎吾朗は覚悟を決めたと思った。
私はアニメーション制作においては、チームに重きを置くピクサーのスタイルがベストだと思っている。
宮崎駿という一人の天才に頼り、ポスト宮崎もまた宮崎という、世襲制みたいな事は組織論としては好ましくないのは確かだ。
だがそれでも、本作に見られる創作の継承の鮮やかさは素直に認めざるを得ない。
まあまだ細かく観察すれば、不必要なカットを入れてリズムを崩してしまっている部分もみられるし、キャラの動かし方に疑問符がつくシーンも幾つかある。
しかし、細かな欠点をいくら論っても、この映画の魅力と独自性を消し去る事は出来ない。
昭和30年代を舞台に、日活青春映画にオマージュを捧げたアニメーションなど、今の日本で企画が通り、全国規模での公開が可能なのは、スタジオジブリという鉄壁のブランド以外にはあり得ないだろう。
結ばれるべきは結ばれ、守られるべきは守られるという、娯楽映画の正論を貫いているのも良い。
価値観が揺らぐ時代にあって、作り手はどうしても世界を斜に構えて捉えたくなる。
登場人物の葛藤に素直に感情移入し、この世界に生き、こんな青春を過ごしてみたいと思わされるストレートな物語というのは、結構難しいものである。
今回は、映画の主な舞台となる「ヨコハマ」の名を持つカクテルを。
ドライ・ジン20ml、オレンジ・ジュース20ml、ウォッカ10ml、クレナデン・シロップ10ml、パスティス又はアブサン1dashを、氷を入れたシェイカーでシェイクしてグラスに注ぐ。
かなり甘口で、世界的にも有名なカクテルをだが、名前の由来には諸説あり、正確なところはわからない。
ただ、元々は外国人が考案して日本人に広めたレシピであった様で、港ヨコハマらしい一杯である。

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しかし、それでも人は生きなければならない。
「BIUTIFUL ビューティフル」は、メキシコの鬼才アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督が、スペインの名優ハビエル・バルデムを主演に迎え、「バベル」以来4年ぶりに放った問題作だ。
裏社会の男が、末期癌に侵され、余命は僅かに二ヶ月。
彼は、愛する幼い子供達のため、自分が搾取してきた社会の最底辺の人たちのため、残された時間を生きる事を決意する。
スペイン、バルセロナ。
不法移民の斡旋を生業にするウスバル(ハビエル・バルデム)は、二人の幼い子供を抱えた男やもめ。
元妻のマランブラ(マリセル・アルバレス)とは、距離を置いて生活している。
ある日、体調の異変を感じ、病院で検査を受けたウスバルは、末期癌の告知を受ける。
既に全身に転移しており、残された時間はたった二ヶ月。
ウスバルは、家族に真実を告白出来ないまま、今まで自分が関わった人々のために、最後に出来るだけの事をしようとするのだが・・・
過酷な映画である。
人生、上手くいく時は何をやっても上手くいくが、ダメな時はどんなに足掻こうが、潮目はなかなか変わらないもの。
主人公のウスバルは、文字通り人生のどん詰まりに追い込まれた存在である。
もちろん、彼にも良い時期はあったはずだ。
愛する妻を娶り、可愛い子供にも恵まれ、世界の美しさを噛み締めていた時期が。
だが、今は全てが思い通りにならない。
心を病んで離れて行った元妻のマランブラは、ウスバルの兄と寝ている。
不法移民の中国人が工場で作った粗悪な偽ブランド品を、アフリカ人の露店商に斡旋する仕事は、厳しい取り締まりで売り上げは上がらず、子供達に好物を食べさせてやる事も出来ない有様だ。
そんな悪運に取り憑かれたウスバルに、とどめを刺すかの様に末期癌の宣告が突き付けられる。
この設定でもわかる様に、本作は黒澤明監督の名作、「生きる」にインスパイアされた作品であり、イニャリトゥのプロダクション“Ikiru films”の名前もこの映画に由来するという。
「生きる」は、同じ様に末期癌に侵された市役所職員の主人公が、無気力だった自分の人生を後悔し、最後に市民のための公園を作り上げるという物語だったが、本作のウスバルはそこまで具体的な目標を持たない。
彼は突然降りかかった運命に戸惑い、自らが死にゆく事を誰に告げる事も出来ず、身辺整理に取り掛かる踏ん切りもつかない。
両者に共通するのは、避け難い死を目前にしたからこそ、今を生きる事に必死になる事だろう。
ウスバルに出来るのは、残してゆく人々の状況を少しでも改善する事くらいである。
子供達のためにはマランブラとの関係を修復しようとし、劣悪な環境で暮らす中国人労働者たちには暖房器具を贈り、行くあての無いセネガル人のイヘ母子には自らのアパートを貸す。
中国人、セネガル人、そして自らの元妻と子ら、ウスバルが特に母子を救済しようとするのは、彼自身が父親を写真でしかしらず、母子家庭で育ったからだろう。
しかし、彼の行為はことごとく裏目に出る。
マランブラと兄の関係が発覚し、彼女は再び心の症状を悪化させて入院。
そして凍える様な倉庫で雑魚寝している中国人たちのために、自腹で買った暖房器具は粗悪品で、なんと一酸化炭素中毒で17人もの命を奪ってしまう。
そして最後に、子供達を託そうとしていたイヘもまた、ウスバルの元を去る。
一生懸命になればなるほど、彼の善意は空回りし、状況を悪化させてしまうという絶望的な悪循環。
面白いのは、ウスバルにはある種の霊能力が備わっていて、死者の姿を見て、その声を聞く事が出来る事だ。
ウスバルは、生者にして既に死後の世界を覗いている、言わば境界に生きる者なのである。
この設定によって、本作には「生きる」にプラスして「ヒア アフター」的な、自らの力をどう解釈するのかという“ギフト”を受けた者特有の葛藤も加わっており、それがウスバルの曖昧な死生観にも繋がっている。
生きていても死との繋がりを感じてしまうウスバルは、自分を両方の世界からも浮いた存在として認識してしまっており、生と死のどちらにも現実感が薄い。
彼は自らの死を具体的に実感する事で、初めて本当の意味での生を感じていたのではないだろうか。
主人公のウスバルを演じる、ハビエル・バルデムが圧巻である。
本作ではカンヌ映画祭男優賞を受賞し、オスカーにもノミネートされたが、何でもイニャリトゥは、最初から彼をイメージして脚本を書いたそうで、なるほどこの役柄はピッタリ。
一見とっつき難そうなキャラクターだが、くたびれていながら、中年男のセクシーさ、人生の年輪を感じさせ、実に魅力的だ。
元妻のマランブラを演じマリセル・アルバレスは、聞いた事が無い人だと思っていたら、アルゼンチンの舞台女優で本作が初の映画出演だという。
壊れそうな危うさと、家族を思う優しさという、二面性のあるキャラクターを繊細に作り上げ、デビュー作とは思えない素晴らしい演技を見せる。
他にも、バリバリのプロフェッショナルから、全くの素人までが混在するキャストによる見事なアンサンブルは、さすがイニャリトゥである。
タイトルの「BIUTIFUL」とはウスバルが娘に「“美しい”のスペルは?」と聞かれて教えてしまう間違ったスペル。
“美しい”けれども、どこかが間違ってしまったその単語は、まるでウスバル自身を象徴しているかの様だ。
だが、間違ったものが、本質から外れているとは限らない。
本作には、凡ゆる不幸が詰め込まれており、ウスバルの人生は悲劇そのものにも見える。
だが、泣けない。
イニャリトゥも決して泣かせには走らず、ウスバルの身に起こった事を淡々と描写する。
派手さは全く無いが、ウスバルの行動が、憂を含んだ表情が、一つ一つの台詞が、観客の心の奥底に、グイグイと入り込んでくる。
「ブロークバック・マウンテン」の名手、ロドリゴ・プエリトのカメラが、これら極めて映画的瞬間を永遠に封じ込める。
もう一つ注目すべきは、素晴らしく効果的な音響演出だ。
ウスバルの主観を感じさせる“音”によって、彼の心の機微が繊細に伝わってくるのである。
本作のオープニングとラストは、ループする様に二つのシーンで繋がっている。
一つはウスバルが両親から受け継いだ指輪を、娘のアナに託すシーン。
もう一つは、寒々とした冬の森で、ウスバルが彼が赤ん坊の時に死んだ父親と出会う、死後の世界(?)のシーン。
この二つのシーンは、三つの世代に受け継がれた命を描写し、本作のテーマを象徴的に表している。
ウスバルは、結局誰も救えなかったかも知れないが、少なくとも彼は自分の人生を生き切った。
人生は厳しく、痛く、そして同時に美しく、人間は何があろうと、自分自身の今を懸命に生きる事しか出来ないのである。
今回は、映画の舞台になったバルセロナの地ビール、S.A.ダム社の「ヴォル・ダム」をチョイス。
都内のカタルーニャ料理店でもちょくちょく見かける銘柄だが、適度な苦味とコクを持つ濃厚な味わいの本格ピルスナー。
深みのあるボディは、正にこの重厚な映画にピッタリだ。

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1978年に制定された“バザリア法”によって、それまで病院に閉じ込められ、人間的な扱いを受けていなかった人々が一般社会に戻ってきた。
「自由こそが最良の治療」という革新的な法律だったが、当然ながらそれは様々な社会的葛藤を生み出し、行くあての無い多くの元患者達は、病院付属の“共同組合”に集められる事になる。
「人生、ここにあり!」は、1983年のミラノを舞台に、ある日突然精神障害者の協同組合を任される事になった健常者の主人公が、悪戦苦闘しながらも人々の偏見を取り払い、組合員による完全な自立を勝ち取って行く実話ベースの物語。
原題にもなっている“SI PUO FARE(やればできるさ)”の精神で突っ走る、ユニークなキャラクター達が織り成すのは、ラテンの陽気な笑いと深い悲しみが繊細に絡み合う、正に人生の賛歌とも言える物語だ。
※一部ネタバレ注意
1983年ミラノ。
正義感に燃える労働組合員のネッロ(クラウディオ・ビジオ)は、労働市場の革新に情熱を注いでいたが、あまりにも先鋭的な考えゆえに、所属する組合からも疎まれ、移動を命じられる。
彼がやってきたのは、“協同組合180”という病院付属の組織。
9人の組合員は皆、バザリア法によって閉鎖された精神病院の元患者達で、ノンビリと日々を過ごしているものの、実質病院に縛り付けられた薬漬けの生活は以前と変わらず、法の趣旨である自由による治癒には程遠い。
ネッロは、状況を改善するため意思の疎通すら難しい個性豊かな組合員達を集め、稼ぎになる仕事をしようと提案する。
好き勝手な発言が飛び交う中、何とか床の板張りの仕事をする事が採択される。
だが、精神障害者への偏見は根深く、なかなか仕事は取れず、慣れない作業に組合員達も失敗の連続。
あるとき、現場にネッロが不在の時に、床材が足りなくなり、統合失調症患者のジージョ(アンドレア・ボスカ)とルカ(ジョバンニ・カルカーニョ)が勝手に木片を組み合わせて寄木を作って完成させてしまうという。
ところが、この寄木の床が廃材を利用したアートとして大評判となり、組合員は一躍引っ張りだこになるのだが・・・・
私には、統合失調症を抱えた叔父がいる。
物心ついた頃には既に入退院を繰り返していたが、何となく彼が“普通でない”という事は子供心にもわかった。
私には優しい叔父さんだったが、入院をとにかく嫌がっていた事は今も心に残っている。
アメリカでの学生時代にも、メンタルディスエイブルの施設でしばらくボランティアした事もあり、この映画の取り上げているモチーフはとても興味深い物だった。
クラウディオ・ビジオ演じる、いかにも堅物そうなネッロは、理想主義者だ。
あまりにも妥協が無さ過ぎて、組合を左遷(?)させられるくらいだから、協同組合180にやってきても職務に忠実。
封筒の切手張りという、殆ど同情でまわしてもらっている補助業務にも効率化を持ち込み、そんな事には端っから興味の無い組合員達との間に、いきなり険悪なムードを作り出してしまう。
だが、空回りしても空回りしても、頑なにベターを追い求めるネッロの姿勢が、次第に組合員達を動かして行く。
多数決が原則の組合会議で、床の板張りの仕事をすることに決めると、自腹を切ってまで皆に経験を積ませ、必死で仕事を探し回る日々。
そんな彼の姿を見ている組合員にも、少しづつ労働者としての自覚が出てくる。
そして、ルカとジージョが寄木細工という意外な才能を開花させると、このユニークな“新興企業”の怒涛の快進撃が始まるのだ。
それは、実質入院患者と変わらない生活をしていた組合員にとっての、本当の自由と自活への道が開かれた事を意味するのである。
彼らに自立は無理だと訴えるデルベッキオ医師と袂を別ち、薬に依存しないフルラン医師の治療を選択、病院から離れて共同のシェアハウスに暮らし、事務所も開設する。
このサクセスストーリーは、ユニークな登場人物の個性を生かし、抱腹絶倒のコメディ調。
自由を謳歌する彼らが、ECの助成金で娼婦を買いに行くあたり、まさかこれは映画の脚色だろうと思ったら、何と史実だというから驚きだ。
ミラノと言えばファッションの街でもあり、ネッロと服飾デザイナーの恋人サラとの恋物語も上手く絡み合い、快調なテンポで物語は進む。
もっとも、ここまでならば多分にハリウッド映画的な、お気楽“イタリアン・ドリーム”の話に過ぎない。
例えば「プリティリーグ」や「クールランニング」、あるいは邦画の「フラガール」の様に、バラバラ、グダグダのダメ集団に、熱意を持った指導者がやってきて、一流へと脱皮して行くという、王道ではあるが、普通の美談である。
だが、ジュリオ・マンフレドニア監督と脚本のファビオ・ボニファッチは、本作を綺麗ごとの娯楽映画のままでは終わらせない。
もはや病院患者でもなく、かといって社会にも受け入れられない人々の実情を知ったネッロは、協同組合180の成功を変革へとつなげたいのだが、漸く普通の暮らしを知った組合員との思惑は、やがてすれ違って行く。
ネッロは、組合を本格的に企業化して、より多くの元患者を雇用するために、パリ地下鉄のモザイク床という大仕事に狙いを定めるのだが、肝心の組合員は興味を示さない。
労働者として賃金受け取る生活を経験した彼らは、好きな物を買い、たくさん遊び、素敵な恋もしたい。
仕事という物に対するプライオリティが、ネッロとは根本的に違うのである。
そして失望するネッロに、予想もしない悲劇が追い討ちをかける。
健常者の女性に恋をしたジージョが、障害者故に受け入れられないという残酷な現実に直面し、自殺してしまうのだ。
自分たちが“普通”になれると考えたのは、誤りだったのだろうか?
動揺した組合員はデルベッキオ医師の下に戻り、組合活動は崩壊。
ネッロは、漸く自らの理想を追い求めるあまりに、急ぎすぎていた事に気づく。
罪の意識に打ちひしがれ、組合活動から身を引こうとするネッロを止めるのは、意外にもバザリア法に懐疑的で、ネッロの活動に反対していたデルベッキオ医師。
障害があっても、出来る事をやって社会の一員として普通に過ごすという生活によって、組合員の精神状態が劇的に改善している事を認めたのだ。
そして相棒のジージョの自殺によって、大きなショックを受けたルカも、再び歩みだす事を自ら決める。
社会が認めないのなら、何度でも逆転を目指して立ち向かえば良い。
誰も何もやらなければ、世界はずっと停滞したままだが、“SI PUO FARE(やればできるさ)”の精神で突き進めば、変えられない事など無いのである!
それにしても、これが30年も前の話だとは、本当に驚かされる。
振り返って日本を見ると、少なくともメンタルヘルスに関する考え方は、かなり遅れているのではないか。
バリアフリーなど、物理的な対応である程度対処できる身体的な障害に比べて、精神の障害はどうしても置き去りにされがちなのは、多分世界共通だろうが、どうも日本は特に難しい問題にはあえて触れない、無い事にしてしまうという考えが強すぎると思う。
障害者を障がい者と言い換えたりする言葉狩りも、ある意味事なかれ主義の一例だろうし、差別はしませんというポーズだけで、実際に社会全体で関わろうとするスタンスは極めて希薄な気がする。
作家の乙武洋匡さんが、twitterで自分の体をネタにジョークを呟いただけでも、びっくりする様な反発が巻き起こる国だ。
本作の様に精神障害をモチーフとしたコメディが作られ、しかもそれがワーナーという大メジャーの手によって公開され(イタリア国内)、54週ものロングランヒットになるというのは、残念ながら日本では考えられない。
社会的な開放度の違いは、まだまだ歴然とした差を感じざるを得ないのである。
美味しいイタリア映画の後には、代表的な食後酒グラッパ。
グラッパとは、ワインを醸造の搾りかすを蒸留して造るブランデーで、フランスのマールと基本的に同じ製法の酒である。
今回は、グラッパの聖地とも言うべき、バッサーノ・デル・グラッパ近郊のポリ社による「ヤーコポ・ポリ グラッパ・ディ・サッシカイア」をチョイス。
ほんのりと色づいた液体は、柔らかな風味と葡萄の香りを楽しめる。
アルコール度数はかなり高いのだが、ストレートでキュッと飲むのがお勧めだ。

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1962年の登場以来、半世紀に渡って愛されている、マーベルコミックの人気シリーズ「マイティ・ソー」の初の実写映画化である。
北欧神話をモチーフにした魅力的なキャラクターたちと、VFX満載のスケールの大きなビジュアル、おバカなギャグの数々が、いかにもアメコミ映画らしい適度に緩い物語を彩り、夏休み映画らしくスカッと楽しめる一本だ。
※一部ネタバレ注意
オーディン王(アンソニー・ホプキンス)の総べる神々の国アスガルド。
王の息子で、あらゆる物を破壊できる武器ムジョルニアを持つソー(クリス・ヘムズワース)は、最強の戦士として将来を期待されていた。
しかし、増長したソーは、対立する氷の巨人の国ヨトゥンヘイムへと勝手に攻め込み、アスガルドに戦乱の危機をもたらしてしまう。
激怒したオーディンは、ソーから神の力とムジョルニアを奪い、人間たちの世界ミッドガルド(地球)へと追放する。
ワームホール理論を研究する天文学者のジェーン(ナタリー・ポートマン)は、地球に落ちて来たソーに偶然遭遇し、成り行き上面倒を見る事に。
慣れない地上での人間としての生活の中、ソーはジェーンたちとの交流を通して、少しづつ謙虚さを学んで行く。
だが、その頃アスガルドでは、ソーの弟ロキ(トム・ヒデルストン)による裏切りと陰謀が密かに進行していた・・・・
監督はなんとケネス・ブラナー。
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー出身で、映画監督としても「ヘンリー5世」や「ハムレット」などのシェイクスピア物や、名作オペラの脚色版「魔笛」など重厚な作品を手がけてきた人だけに、何でまたアメコミ物を撮ったのか不思議な気がしたが、映画を観て納得。
本作は、元のコミックにキャラクター造形はある程度忠実だが、物語はほぼオリジナル。
アスガルドと地球でのエピソードが交互に描かれるが、どちらかと言うと神々のお家騒動がメインで、地上の人間たちとの物語はそれを補完するという構造になっており、王位継承をめぐるオーディンと二人の息子、ソーとロキの葛藤は、まるでシェイクスピア史劇の様なのだ。
まあ、シェイクスピア自身がギリシャ神話から大きくインスピレーションを受けているのだから、別系統ではあるものの同じく神話をモチーフに400年後に描かれたコミックと共通点があってもおかしくはないのだけど。
とは言っても堅苦しさは微塵も無く、むしろ北欧の英雄神話を上手く現代のアメコミテイストと融合させた、軽妙な娯楽作という印象である。
映画は、いきなり地球に落ちて来たソーが、ジェーンたちに拾われるシーンから幕を開け、間髪入れずに時系列を遡ると、何故ソーが地球へと追放されたのかという、物語のバックグラウンドを描き出す。
ここから一気に30分を費やして語られる、神々の世界のエピソードは大作感十分。
ほぼCGで作られたアスガルドのビジュアルは、3D効果もよく考えられており、壮大で美しく、敵対する氷の巨人たちとの大バトルも見応えがある。
巨人に飼われている、まるで“キングシーサー”みたいな巨大怪獣は迫力満点で、ソーの持つムジョルニアの破壊力もスペクタクルに描写される。
が、地球に落ちてきてからの描写は、殆どがニューメキシコの田舎町とその周辺のみで展開する事もあって、一連のマーベル物の中でもかなり地味・・・というか、アスガルドの戦闘マシン、デストロイヤーがソー暗殺を狙って地球に襲来する終盤までは、アクションよりも小ネタのギャグの方が目立つ。
ソーがジェーンの車に何度も轢かれたり、彼を探しに来た友達の神様たちが完全にコスプレの変な人たちだったり、神の力を取り戻したソーが、ムジョルニアを手にして変身するシーンで、ナタリー・ポートマンに「Oh my god!」と駄洒落を言わせてみたり、前半とは一転して緩いアメリカンギャグのオンパレードで、たぶん日本の観客への受けは今一つだろうが、アスガルドのパートとのコントラストになっており、世界観のバランスという点では悪くない。
一方の神々の物語は、王座を狙うロキによる奸計の話になってゆくが、この辺りの展開は、本来の神話の設定を上手く組み込み、なかなかに面白い。
元々北欧神話は、神々と巨人との激烈な戦いを描く戦争神話の色彩が濃く、世界の他の神話と比べてもかなり独特だ。
知識を得るためなら片目を差し出し、自ら首を吊るほどにエキセントリックな主神オーディンと、筋肉バカの雷神トール(ソー)、千里眼を持つヘイムダル、原初の巨人ユミル、奔放な愛の女神フレイヤ、そして巨人の血を引く狡猾なトリックスター、ロキ。
ゲームキャラに使われたりした事で、日本でもかなり知られる様になってきた、神々と巨人、魔物の壮大な戦いは、最終戦争ラグナログにおいて、神々も巨人も世界と共に滅びる「神々の黄昏」という豪快なオチでも有名である。
映画では、アスガルド、地球、巨人の住むヨトゥンヘイムは、それぞれこの宇宙の中の、別の時空に存在する世界という設定になっている。
神々と巨人は嘗て地球を巡って戦った過去があり、今はお互いに不可侵条約を結んで危うい平和が続いているが、根深い疑心暗鬼を拭い去るには至っていない。
オーディンには、力に恵まれたソーと、口の上手いロキという二人の息子がいるが、実はロキは戦いの時に拾われた巨人の子供で、その事をオーディンはずっと隠して育てている。
だが、真相を知ったロキは、兄と父を追い落とし、自分が全てを支配しようとするのである。
神話のロキはオーディンとは義兄弟なのだが、身の上を知らずにソーと共に兄弟として育てられたという脚色は、アメコミの世界に古典悲劇の要素を融合させ、ブラナーとの意外なマッチングの良さをもたらしている。
もっとも、この映画の物語は、我々日本人にはより身近に感じるのではないか。
荒ぶる神ソーのアスガルド追放は、北欧神話よりもむしろ日本神話におけるスサノオを思わせる。
もちろん神の追放というモチーフは他の神話にもしばしば見られるが、豪放磊落でマッチョな神様が、その乱暴さを諌められ、力を奪われて人間界に追放されるという辺りは、ほぼ同じと言って良いし、スサノオはソーと同じく雷神、農耕神としての属性もあるので、両者の類似性はかなり色濃いのである。
もしかしたら半世紀前にこの話を作る時に、日本神話も参考にされたのだろうか。
ところでソーといえば、マーベルコミックのヒーローチーム、“アベンジャーズ”の中核メンバーの一人。
チームメイトのアイアンマン、ハルクに続いてソーの登場で、残るピンのメンバーはもうすぐ映画が公開のキャプテン・アメリカのみとなった。
映画版「The Avengers」も、いよいよ来年5月4日の全米公開が決まった事もあり、本作はその前章という色彩も強い。
故に「アイアンマン2」にも出てきたシールドのコールソン捜査官が、ロキの送り込んだデストロイヤーを見て、トニー・スターク(アイアンマン)の作ったロボットと勘違いするなど、作品間のつながりを強調する描写が多いのも特徴だ。
本作では、ジェレミー・レナー扮するもう一人のヒーロー、ホークアイがチラリと姿を見せているあたりもファンとしては嬉しいが、今回はコスチュームを着てない事もあって、知らない人には単なるスナイパーにしか見えないかも。
だが、このアベンジャーズ括りが物語から自由度を奪っている事も間違いなく、本作単体ではあまり意味を持たないシールド関連の描写にかなり尺を使ってしまった結果、地球パートの人間ドラマが希薄化してしまっている。
地球に落ちて来た神様のカルチャーギャップや、ソーとジェーンの心の交流の部分は、少々あっさりし過ぎており、故にソーの改心とジェーンとの恋愛モードもやや唐突に感じる。
ブラナーには神々の間の愛憎劇に注ぎ込んだ位の情熱を、出来れば人間と神との間にも見せて欲しかった。
因みに、お馴染みのエンドクレジット後のオマケも含めて、アベンジャーズの存在を知らないとサッパリ訳がわからない描写も多い。
まあその辺りはスルーしても特に問題はないのだけど、本作を観賞する前には「アイアンマン1&2」を、出来れば「インクレディブル・ハルク」も観ておく事をお勧めする。
今回は、劇中でソーが飲んでいたマッチョな酒「ボイラー・メイカー」をチョイス。
ジョッキにビールを注ぎ、そこにショットグラスに入れたバーボンを沈めるだけ。
一説にはボイラー建設の作業員が発案したとも言われるが、世界中にバリエーションのあるビール+蒸留酒の、所謂“爆弾酒”で、悪酔い必至。
弱い人なら一杯持たずに酔いつぶれる。
ソーの故郷の北欧では、バーボンの変わりにウォッカを入れたりもするのだそうな。

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巨匠チャン・イーモウ(張 芸謀)監督の青春ラブストーリーと言えば、嘗てチャン・ツィーを一躍スターダムに押し上げた「初恋のきた道」が真っ先に思い浮かぶが、この「サンザシの樹の下で」は正にあの路線。
原作は、中国系アメリカ人作家エイミーが、中国出身の友人の手記を元に書き上げた同名小説。
激動の時代を舞台に、女子高生ジンチュウと青年スンの幼く、しかし運命的な恋を描いた佳作である。
※一部ネタバレ注意
1970年代初頭。
農民の生活こそが素晴らしいという革命の教えによって、辺境の村に派遣された女子高生ジンチュウは、村長の家に住む事になり、そこで家族同然の生活をしている青年スンと出会う。
村はずれで坑道を掘っている地質調査隊に属するスンは、慣れない農村の生活に戸惑うジンチュウを、何かと気にかけてくれる。
やがて、二人の間には仄かな恋心が生まれる。
しかし、文革の時代にあって、ジンチュウの両親は反革命分子として迫害を受けており、ジンチュウは世間の冷たい視線を浴びながら、模範的な生徒として教職に就けるように努力している身。
もし恋愛に現をぬかしている事が知れたら、確実に非難される。
正式に教師として採用されるまで、会わないで欲しいというジンチュウの母の願いを受け入れ、スンはジンチュウの前から去る。
ところが、それからしばらくして、ジンチュウはスンが重病で入院したという知らせを聞く・・・・
2000年代に入ってから、「HERO」や「王妃の紋章」など絢爛豪華な時代劇を多く作って来たチャン・イーモウだが、正直この画は派手だけど中身スカスカ路線をあまり評価していない私としては、彼が90年代に得意とした歴史観のある市井の人々の物語に回帰した事は嬉しい。
本作の舞台となる70年代初頭は、文化大革命の恐怖政治によって、ありとあらゆる抑圧が人々に重くのしかかっていた時代。
人間のネガティブな側面が最大化した時代だからこそ、本作に描かれるジンチュウとスンのあまりにもピュアな愛は、まるで二人の周りだけが浄化された空間の様に透明な清涼を感じさせる。
だが、密告が奨励され、反革命の大義名分の下に危険分子が排除される社会では、恋愛すら迫害の理由になりうる。
ジンチュウの両親は走資派(共産党内で資本主義寄りだと粛清された一派)として弾圧されている。
また当時の中国では、農民や軍人が上位で、地主や知識人は下位とされており、父親が地主出身で、母親が教師というジンチュウの家は正に「出が悪い」被差別階級だ。
それだけに、彼女が絶望的な生活から抜け出すには、彼女自身の党への忠誠を示し、真面目かつ謙虚な人間と証明し続ける事が必要なのだ。
そんなジンチュウが、スンとの恋愛関係を続ける事は、単純に歳が若すぎるという以上に、彼女の将来にとって危険を伴うのである。
他の時代、或いは他の国だったら、何の問題もない二人の恋愛には、政治の時代と言う巨大な壁が立ちはだかる。
しかし、大体において、人目を憚る恋ほど燃えるもの。
途中、ひょんな事からジンチュウの母親に付き合っている事がバレ、娘を思う母の願いを受け入れたスンは一旦身を引くが、それすらもより深い部分での二人のつながりを強固にしたに過ぎない。
チャン・イーモウは、プラトニックな恋愛模様のディテールを淡々と描きながら、大きな時間経過や物語の展開を、字幕の解説によって大胆に進めるという独特の手法をとっている。
まあストーリーテリングの原則から言えば、物語の転換点を一気にすっ飛ばすというのは禁じ手に近い気もするが、これによって昔話を読み進めるような、一風変わったムードが生まれているのも事実。
そして、スンの突然の入院と、彼を見舞ったジンチュウが再会するエピソードの辺りからは、決して結ばれない恋人同士の悲恋劇の色彩が一気に強くなる。
川を上手く使って二人の距離感を描き出す辺りは実に映像的で、特に恋人達が両岸に隔てられながらジェスチャーで抱擁を交わすところは、あの「また逢う日まで」の“ガラス越しのキス”に匹敵する切ない叙情を感じさせ、本作屈指の名シーンとなっている。
主人公の二人を演じるのは共に新人。
青年スンを、中国生まれカナダ国籍のショーン・ドウが朴訥な存在感で好演。
“良い人”を絵に描いたようなキャラクターを、嫌味なく作り上げた。
そして第二のチャン・ツィー?として期待されているのが、ジンチュウを演じたちょっと浅田真央似のチョウ・ドンユイ。
触れると砕けてしまいそうな、儚げなムードを持つ美少女だ。
「初恋のきた道」の時はモコモコした衣装のチャン・ツィーが、手をピンと伸ばして走る姿が何とも可愛かったが、どうやらチャン・イーモウは美少女の走りに拘りを持っているらしい。
今回のチョウ・ドンユイは、ツィーとは対照的に薄着で腕を曲げた姿勢ながら、走ってゆく後姿をスン目線で愛おしく捉えたカットが多く、印象的に撮られている。
彼女は次回作「湘江北去」において、29歳の若さで非業の死を遂げた毛沢東の妻、楊開慧を演じ、中国メディアによればかなりの好演を見せているそうで、今後の飛躍が楽しみな人だ。
それにしても、スンが所属している“地質調査隊”が掘っている鉱物とは一体何か。
ジンチュウが事情を聞きに行くと、この調査隊では白血病患者が相次いでいる事がわかる。
劇中では何となく示唆されるだけなのだが、おそらくはウランなど核関連の鉱物を扱っていたのだろう。
どうやら現場のスンたちはそれが何かは知らされておらず、当時の中国としてはかなりの高給が支払われているらしい描写もある。
たぶん、こうやって知らずに危険な物を扱わされ、何もわからないまま死んでいった人たちは、世界中に沢山いるのだろうなと思う。
もちろんこの映画の本質はそんな部分ではないのだけど、時期が時期だけに、どうしてもこの偶然が気になってしまった。
映画のラストで、ジンチュウがその後アメリカに渡ったいう字幕が出る。
彼女の身の上に、この後どの様な事が起こったのかは本作では明かされない。
もしかしたら文化大革命の進行と共に、更なる困難が待ち受けていたのかもしれないし、スンを失った喪失感が国を去らせたのかもしれない。
確かな事は何もわからないが、アメリカに渡ったジンチュウ(本名はシォンイン)の書いた手記のうち、高校時代の初恋を描いた部分が、やがて小説化されてベストセラーとなり、遂には嘗て迫害を受けた中国で映画化され、大ヒットしたというのだから、時代の巡り会わせとは何とも面白く、また皮肉なものである。
恋愛映画としても良い作品だが、ある種の極めてパーソナルな歴史劇として観ると、より深みを感じる事ができる。
今回は、鹿児島の黄金酒造の芋焼酎、その名も「初恋」をチョイス。
この蔵は非常に芋の風味が強い「蘭」で有名だが、こちらは芋の持つ甘みや風味を生かしながら、キレすっきり、口当たりをソフトにして、飲みやすくした印象だ。
多分芋焼酎のイモ!という主張が苦手な人にも飲みやすい、名前の通りに優しい味わいのお酒だ。
オン・ザ・ロックやソーダ割りでシンプルに飲むのがお勧め。
そう言えばイーモウがコーエン兄弟の「ブラッド・シンプル」をコメディとしてリメイクした「三槍拍案驚奇」はもう日本では公開されないのかな。観たいんだけど。

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![]() 「初恋 芋焼酎 25度 720ml」芋麹と米麹を使用することにより、これまで味わったことのない繊... |