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人生、ここにあり!・・・・・評価額1650円
2011年07月11日 (月) | 編集 |
イタリアには、精神病院が無い。
1978年に制定された“バザリア法”によって、それまで病院に閉じ込められ、人間的な扱いを受けていなかった人々が一般社会に戻ってきた。
「自由こそが最良の治療」という革新的な法律だったが、当然ながらそれは様々な社会的葛藤を生み出し、行くあての無い多くの元患者達は、病院付属の“共同組合”に集められる事になる。
「人生、ここにあり!」は、1983年のミラノを舞台に、ある日突然精神障害者の協同組合を任される事になった健常者の主人公が、悪戦苦闘しながらも人々の偏見を取り払い、組合員による完全な自立を勝ち取って行く実話ベースの物語。
原題にもなっている“SI PUO FARE(やればできるさ)”の精神で突っ走る、ユニークなキャラクター達が織り成すのは、ラテンの陽気な笑いと深い悲しみが繊細に絡み合う、正に人生の賛歌とも言える物語だ。
※一部ネタバレ注意

1983年ミラノ。
正義感に燃える労働組合員のネッロ(クラウディオ・ビジオ)は、労働市場の革新に情熱を注いでいたが、あまりにも先鋭的な考えゆえに、所属する組合からも疎まれ、移動を命じられる。
彼がやってきたのは、“協同組合180”という病院付属の組織。
9人の組合員は皆、バザリア法によって閉鎖された精神病院の元患者達で、ノンビリと日々を過ごしているものの、実質病院に縛り付けられた薬漬けの生活は以前と変わらず、法の趣旨である自由による治癒には程遠い。
ネッロは、状況を改善するため意思の疎通すら難しい個性豊かな組合員達を集め、稼ぎになる仕事をしようと提案する。
好き勝手な発言が飛び交う中、何とか床の板張りの仕事をする事が採択される。
だが、精神障害者への偏見は根深く、なかなか仕事は取れず、慣れない作業に組合員達も失敗の連続。
あるとき、現場にネッロが不在の時に、床材が足りなくなり、統合失調症患者のジージョ(アンドレア・ボスカ)とルカ(ジョバンニ・カルカーニョ)が勝手に木片を組み合わせて寄木を作って完成させてしまうという。
ところが、この寄木の床が廃材を利用したアートとして大評判となり、組合員は一躍引っ張りだこになるのだが・・・・


私には、統合失調症を抱えた叔父がいる。
物心ついた頃には既に入退院を繰り返していたが、何となく彼が“普通でない”という事は子供心にもわかった。
私には優しい叔父さんだったが、入院をとにかく嫌がっていた事は今も心に残っている。
アメリカでの学生時代にも、メンタルディスエイブルの施設でしばらくボランティアした事もあり、この映画の取り上げているモチーフはとても興味深い物だった。

クラウディオ・ビジオ演じる、いかにも堅物そうなネッロは、理想主義者だ。
あまりにも妥協が無さ過ぎて、組合を左遷(?)させられるくらいだから、協同組合180にやってきても職務に忠実。
封筒の切手張りという、殆ど同情でまわしてもらっている補助業務にも効率化を持ち込み、そんな事には端っから興味の無い組合員達との間に、いきなり険悪なムードを作り出してしまう。
だが、空回りしても空回りしても、頑なにベターを追い求めるネッロの姿勢が、次第に組合員達を動かして行く。
多数決が原則の組合会議で、床の板張りの仕事をすることに決めると、自腹を切ってまで皆に経験を積ませ、必死で仕事を探し回る日々。
そんな彼の姿を見ている組合員にも、少しづつ労働者としての自覚が出てくる。
そして、ルカとジージョが寄木細工という意外な才能を開花させると、このユニークな“新興企業”の怒涛の快進撃が始まるのだ。
それは、実質入院患者と変わらない生活をしていた組合員にとっての、本当の自由と自活への道が開かれた事を意味するのである。
彼らに自立は無理だと訴えるデルベッキオ医師と袂を別ち、薬に依存しないフルラン医師の治療を選択、病院から離れて共同のシェアハウスに暮らし、事務所も開設する。
このサクセスストーリーは、ユニークな登場人物の個性を生かし、抱腹絶倒のコメディ調
自由を謳歌する彼らが、ECの助成金で娼婦を買いに行くあたり、まさかこれは映画の脚色だろうと思ったら、何と史実だというから驚きだ。

ミラノと言えばファッションの街でもあり、ネッロと服飾デザイナーの恋人サラとの恋物語も上手く絡み合い、快調なテンポで物語は進む。
もっとも、ここまでならば多分にハリウッド映画的な、お気楽“イタリアン・ドリーム”の話に過ぎない。
例えば「プリティリーグ」や「クールランニング」、あるいは邦画の「フラガール」の様に、バラバラ、グダグダのダメ集団に、熱意を持った指導者がやってきて、一流へと脱皮して行くという、王道ではあるが、普通の美談である。
だが、ジュリオ・マンフレドニア監督と脚本のファビオ・ボニファッチは、本作を綺麗ごとの娯楽映画のままでは終わらせない。
もはや病院患者でもなく、かといって社会にも受け入れられない人々の実情を知ったネッロは、協同組合180の成功を変革へとつなげたいのだが、漸く普通の暮らしを知った組合員との思惑は、やがてすれ違って行く。
ネッロは、組合を本格的に企業化して、より多くの元患者を雇用するために、パリ地下鉄のモザイク床という大仕事に狙いを定めるのだが、肝心の組合員は興味を示さない。
労働者として賃金受け取る生活を経験した彼らは、好きな物を買い、たくさん遊び、素敵な恋もしたい。
仕事という物に対するプライオリティが、ネッロとは根本的に違うのである。

そして失望するネッロに、予想もしない悲劇が追い討ちをかける。
健常者の女性に恋をしたジージョが、障害者故に受け入れられないという残酷な現実に直面し、自殺してしまうのだ。
自分たちが“普通”になれると考えたのは、誤りだったのだろうか?
動揺した組合員はデルベッキオ医師の下に戻り、組合活動は崩壊。
ネッロは、漸く自らの理想を追い求めるあまりに、急ぎすぎていた事に気づく。
罪の意識に打ちひしがれ、組合活動から身を引こうとするネッロを止めるのは、意外にもバザリア法に懐疑的で、ネッロの活動に反対していたデルベッキオ医師。
障害があっても、出来る事をやって社会の一員として普通に過ごすという生活によって、組合員の精神状態が劇的に改善している事を認めたのだ。
そして相棒のジージョの自殺によって、大きなショックを受けたルカも、再び歩みだす事を自ら決める。
社会が認めないのなら、何度でも逆転を目指して立ち向かえば良い。
誰も何もやらなければ、世界はずっと停滞したままだが、“SI PUO FARE(やればできるさ)”の精神で突き進めば、変えられない事など無いのである!

それにしても、これが30年も前の話だとは、本当に驚かされる。
振り返って日本を見ると、少なくともメンタルヘルスに関する考え方は、かなり遅れているのではないか。
バリアフリーなど、物理的な対応である程度対処できる身体的な障害に比べて、精神の障害はどうしても置き去りにされがちなのは、多分世界共通だろうが、どうも日本は特に難しい問題にはあえて触れない、無い事にしてしまうという考えが強すぎると思う。
障害者を障がい者と言い換えたりする言葉狩りも、ある意味事なかれ主義の一例だろうし、差別はしませんというポーズだけで、実際に社会全体で関わろうとするスタンスは極めて希薄な気がする。
作家の乙武洋匡さんが、twitterで自分の体をネタにジョークを呟いただけでも、びっくりする様な反発が巻き起こる国だ。
本作の様に精神障害をモチーフとしたコメディが作られ、しかもそれがワーナーという大メジャーの手によって公開され(イタリア国内)、54週ものロングランヒットになるというのは、残念ながら日本では考えられない。
社会的な開放度の違いは、まだまだ歴然とした差を感じざるを得ないのである。

美味しいイタリア映画の後には、代表的な食後酒グラッパ。
グラッパとは、ワインを醸造の搾りかすを蒸留して造るブランデーで、フランスのマールと基本的に同じ製法の酒である。
今回は、グラッパの聖地とも言うべき、バッサーノ・デル・グラッパ近郊のポリ社による「ヤーコポ・ポリ グラッパ・ディ・サッシカイア」をチョイス。
ほんのりと色づいた液体は、柔らかな風味と葡萄の香りを楽しめる。
アルコール度数はかなり高いのだが、ストレートでキュッと飲むのがお勧めだ。

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