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カンフー・パンダ2・・・・・評価額1650円
2011年08月29日 (月) | 編集 |
新たな敵は、カンフーじゃなくて大砲だ!
ひょんな事からジェダイ騎士・・・もとい、“龍の戦士”となってしまった、怠惰でお調子者のパンダ、ポーの冒険を描いた2008年のヒット作、「カンフー・パンダ」の続編。
今回は、自らの出生に関わる葛藤を抱えたポーの前に、カンフー・マスターたちを倒して、中国を支配しようとするシェン大老が立ちはだかる。
ドリーム・ワークス・アニメーションとしては、四部合計でワールドワイドの興行収入30億ドルという、アニメ映画史上最大のヒットシリーズとなった、「シュレック」に続くおデブ&おバカヒーローによるシリーズ化だ。
脚本のジョナサン・エイベルとグレン・バーガーは続投だが、監督はマーク・オズボーンとジョン・スティーブンソンのコンビから、前作でストーリーボードや夢のシークエンスの演出を担当していたジェニファー・ユー・ネルソンにバトンタッチ。
幼い頃からマーシャルアーツ・ムービーが大好きだったと語るアジア系のユー監督、さすがの映像センスで見事な長編デビューを飾った。

伝説の“龍の戦士”となったポー(ジャック・ブラック)は、相変わらず喰いしんぼうでお調子者ながら、タイガー(アンジェリーナ・ジョリー)らマスター・ファイブと共に修行に勤しみ、村々の平和を守る日々を送っている。
ところがある日、谷あいの村を襲ったオオカミたちと戦っている時、ポーの脳裏に不意に赤ん坊の頃の記憶が蘇る。
実家の食堂に戻ったポーが、ガチョウのピン父さん(ジェームス・ホン)に「僕は父さんの子じゃないの?」と問いかけると、ピンはポーが捨て子だった事を認める。
そんな時、嘗て邪悪に走ったとして追放されたシェン大老(ゲイリー・オールドマン)が、強大な武器を持って帰還、都を守護する最強のカンフー・マスターが殺されてしまう。
知らせを受けたポーたちは、シェンの野望を阻止するために、都へと向うのだが・・・・


非常に良く出来た、お手本のようなファミリー向け娯楽映画である。
シンプルな物語の横軸にあるのは、クジャクのシェン大老率いる悪の軍団と、ポーたちカンフー・マスターの戦い。
中国の大発明の一つである火薬は、人々の生活の役に立ったり、花火として楽しませる事も出来るが、使い方次第では人間の能力を遥かに超える恐ろしい武器ともなる。
シェンは、火薬というテクノロジーの持つダークサイドに誘惑され、膳なる心を失った事で追放されるが、自ら開発した大砲と共に復活し、カンフーを滅ぼし中国を支配しようとする。
ここで鉄と火薬は欲望と物質主義の象徴として描かれ、カンフー・マスターたちが体現する豊かな精神主義と対立するのである。

そして、物語の縦軸となるのが、ポー自身のアイデンティティを巡る葛藤だ。
シェンの配下のオオカミたちと戦っている時、ポーは敵の旗印を見て不意にフラッシュバックを起こしてしまう。
それは母親のパンダによって、自分が捨てられるイメージ。
気の良いガチョウのピン父さんに育てられてはいるものの、ポーは遂に自分がガチョウの子でない事に気付いてしまう。
まあ誰がどう考えてもガチョウからパンダが産まれる訳は無いのだけど、そんな周知の事実をピン父さんが大真面目に告白する下りは、二人のボケっぷりに大笑いしてしまった。
本作では、自らは何処から来た何者なのか?本当の両親はなぜ自分を捨てたのか?というポーの内面からの問いが、ギャグを交えながらも物語全編を縦に貫くバックボーンとなっているのだが、やがてポーとシェンの運命が交錯するにしたがって、この縦軸と横軸が絡み合ってくる。

実は、ダークサイドに走ったシェンは、ヒツジの預言オババに、自分が「いつか“白と黒の戦士”によって倒される」と告げられ、予言封じのためにパンダの村に攻め込んで虐殺した過去があり、その時に母パンダによって唯一逃がされたのが赤ん坊のポーだったという訳だ。
このエピソードは、聖書の「マタイによる福音書」にある、新たなるユダヤの王(イエス)の誕生に怯えたヘロデ大王が、ベツレヘムに住む二歳以下の男の子を皆殺しにしたという話を思わせるが、この虐殺がシェンの両親の逆鱗に触れ、彼は悪しき者として都を追放される。
したがって、シェンとポーの関係は、ハリー・ポッターとヴォルデモート卿の様な、出生を巡る因縁によって結び付けられており、彼らの対決は物語の縦横それぞれの軸の終着点となる様に、巧みに構成されているのである。

とは言っても、これはあくまでもおデブ&おバカなパンダが主人公の、アクション・コメディ映画なので、あの映画の様に全体が大人向けのダークな世界に行く事は無い。
シェンが大砲の威力を背景に都を占領し、ポーとマスター・ファイブが彼の野望を阻止するために街に潜入すると、後はアニメーションならではのメリハリの効いたアクションとギャグの連続だ。
クジャクのシェンが華麗に羽を広げて繰り出す鋭い技、巨大な楼閣の中でのオオカミ軍団との対決や、人力車による追いかけっこなど、ギミックの楽しさが散りばめられたコミカルなアクション・シークエンスは、往年のジャッキー・チェン映画、或いは「ルパン三世カリオストロの城」を思わせ、3D効果を生かすために正しく縦横無尽に展開する。
古の中国を上手くカリカチュアした壮麗な世界観も映え、満載の見せ場には大人から子供まで魅了される事は間違いないだろう。

そして、一度シェンによって大砲で吹っ飛ばされたポーは、都を追放された予言オババによって助けられると、遂に全ての記憶を取り戻す。
嘗て命がけでポーを助けた本当の両親と、故郷の村を滅ぼしたシェン。
だがポーは、師匠のシーフー老師に教えられた、“心の内なる平和”という境地に達する事で、過去の因縁に縛られるのではなく、全てを受け入れ、全てを赦す事を決める。
それは正に天から降る雨の一滴が、この世界の理によって大地に染み渡るように、自然と彼の内面に生まれた心だ。
大砲と言う物質主義の象徴が、ポーの会得した心の奥義によって、文字通り手玉に取られるクライマックスは、単にアクションとして盛り上がるだけでなく、本作の持つ意外な精神性を十二分に感じさせる。
もちろん、お約束のボケと控えめに顔をだすちょっとしたハードさのバランスも良く、娯楽映画として極上の仕上がり。
戦いの後に、ポーとピン父さんのほっこりした絆を改めて感じさせるセンスも良い。
どうやら「カンフー・パンダ3」を期待して良さそうなラストのサプライズも含めて、夏休みの終わりを飾るのに相応しい鮮やかな快作である。
しかし、来年でパラマウントとの契約が切れるドリーム・ワークス・アニメーション、一体何処と組むのかが少々心配だが・・・。

今回は、アメリカ映画だけど主役がパンダで舞台も中国なので「青島スタウト」をチョイス。
普通の青島ビールとは一味違ったコクのある黒ビールは、ゴージャスな3D映画にも存在感で負けてはいない。
因みにこの「カンフー・パンダ」シリーズは、中国でも大ヒットしているが、一部ではアメリカによる文化侵略だという反発もあると言う。
何処の国にもそういう事を言い出す人はいるのだろうが、実際の映画はそんな偏狭な精神を軽々と越えているし、本当はこれこそ中国が作るべき作品だという気がする。
まあパンダにカンフーやらせるなんて、本場からすると余りにもベタ過ぎて、こっ恥ずかしいのかも知れないが(笑

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未来を生きる君たちへ・・・・・評価額1700円
2011年08月24日 (水) | 編集 |
遠く離れた北欧とアフリカで、暴力の連鎖が交錯する。
「未来を生きる君たちへ」は、本年度米アカデミー賞とゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞をダブル受賞するという快挙を達成した、デンマーク発の問題作である。
「アフター・ウェディング」の世界的成功で、ハリウッドへも進出したスサンネ・ビア監督は、憎しみと暴力が渦巻く世界における非暴力のジレンマを通して、負の連鎖を断ち切る事の難しさ、そしてその先にある微かな希望を描き出す。
邦題は英題の「IN A BETTER WORLD(より良き世界で)」にニュアンスの近い希望的な物だが、デンマーク語の原題はズバリ「HÆVNEN(復讐)」というストレートさだ。

デンマークに家を持つスウェーデン人の医師のアントン(ミカエル・パーシュブラント)は、アフリカの難民キャンプで活動しているが、彼の担当地域では妊婦の腹を切り裂いて殺す、“ビッグマン”と呼ばれる武装勢力のボスが幅を利かせており、犠牲者が相次いでいた。
一方、母を亡くしたクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)が転入した学校では、アントンの息子であるエリアス(マークス・リーゴード)が執拗なイジメにあっている。
エリアスと親しくなったクリスチャンは、ある時いじめっ子の上級生を不意打ちして殴り、ナイフを突きつけて二度と手を出すなと脅す。
学校に呼び出されたクリスチャンの父クラウス(ウルリッヒ・トムセン)は、復讐には限りが無いと叱るが、クリスチャンはやられたらやり返さなければダメだと言い返す。
帰国したアントンが子供達とクリスチャンを連れて出かけた時、ちょっとした誤解からアントンがラース(キム・ボドニア)という粗野な男に殴られる。
なぜ殴り返さないと聞くクリスチャンに、アントンは相手は殴るしか能の無い愚か者で、殴り返せば相手と同じになってしまうと諭すが、クリスチャンは不満気だ。
そして、アフリカに戻ったアントンの元に、傷を負ったビッグマンが担ぎ込まれる。
人殺しを治せば、再び犠牲者が出る・・・ジレンマを抱えながら、彼の治療を行うアントン。
その頃、ラースに対するアントンの態度に納得出来ないクリスチャンとエリアスは、ある復讐計画を実行しようとするが・・・・


イギリスのエコノミスト誌が発表している「世界平和度指数」の2010年版によると、本作の舞台となるデンマークの平和度は世界7位。
周辺のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドと言った北欧諸国も軒並みトップ10に名を連ねている。
対して、もう一つの舞台となるアフリカの紛争地の指数は、ソマリアが最下位のイラクに次ぐ148位、スーダン146位であり、他にもアフリカの多くの国々が100位以下という悲惨な状況にある。
単純に数字で見ると、余りにもかけ離れた二つの世界。
しかしながら、程度の差はあれど、どちらも憎しみと暴力に無縁とは言えない。
映画は、北欧とアフリカ、大人と子供、男と女など、幾つものコントラストの中に存在する不寛容と、そこから生まれる負の連鎖を描き出してゆくが、単純に暴力はいけない、連鎖を断ち切らねば、という事を声高に主張する訳ではなく、むしろ暴力を否定する事によるジレンマを描く事で、非暴力のを貫くことの難しさを突きつけるのである。

主人公の一人、クリスチャンは、母親の葬儀でアンデルセンの童話「小夜啼鳥」の一説を読み上げる。
小夜啼鳥は美しい声で鳴き、その声は中国の皇帝をも虜にするほど。
だがある時、宝石をちりばめた機械仕掛けの小夜啼鳥を手に入れた皇帝は、偽物の声に満足して本物の小夜啼鳥を遠ざけてしまう。
ところが長い年月を経て機械の鳥は壊れ、死神に魅入られた皇帝が病に臥せった時、歌声を奏でる事は無かった。
失意の皇帝を癒したのは、本物の小夜啼鳥だった。
嘗て無用とされたにもかかわらず、歌声を聞かせて皇帝を元気にするために戻って来たのだ。
イジー・トルンカのアニメーション映画「皇帝の鶯」の原作としても知られる、思いやりと許しが、過去の裏切りや憎しみを越えてゆくという寓話だが、クリスチャンは本心ではこの話を信じていない。
父の仕事の関係で、幼い頃から各国を巡って暮らしてきたクリスチャンは、何処に行っても新参者でありよそ者だ。
彼は自分のテリトリーに相手が踏み込む事を許さず、力を誇示する事で今まで生きてきたのである。

そんなクリスチャンが、転入した学校で出会うのが、スウェーデン人のエリアスで、彼は執拗なイジメを受けているが、やり返す事ができないでいる。
たまたまエリアスと親しくなった事で、暴力に巻き込まれたクリスチャンは、躊躇する事無くいじめっ子のボスに対して熾烈な復讐を行い、結果的にいじめっ子は二人に手出しできなくなる。
より強大な恐怖によって、小さな恐怖を遠ざけたのである。
ところがエリアスの父親であるアントンは、自らを差別的に蔑み殴った相手に対して、問いただす事はしてもやり返す事はしない。
アフリカの紛争地で活動する彼は、復讐の連鎖が如何に巨大な怪物に育つかを良く知っている。
しかしそれは、クリスチャンにとっては単なる事なかれ主義にしか見えない。
暴力には暴力で対抗する事を、自らのアイデンティティの一部にしてしまっているクリスチャンは、エリアスを巻き込んで、危険な復讐計画を実行に移すが、それが出来るのは彼が自分の中に芽生えてしまった怪物の恐ろしさを未だ知らないからである。

一方のアントンもまた、大きな矛盾にぶち当たる。
沢山の妊婦を殺してきた悪漢“ビッグマン”が、今度は患者として彼の診療所にやって来たのだ。
医師として、目の前の患者を見捨てることは出来ないが、もしもビッグマンを助ければ、彼によって再び多くの命が失われるのは確実。
ここには、単純な非暴力の理論では割り切れない矛盾が、確かに存在している。
葛藤するアントンは、遂にビッグマンの心無い一言に激高し、リンチされる事を承知で彼を憎しみに燃える難民キャンプの住人たちに引き渡す。
アントンが信条とし、クリスチャンに見せた理想は、暴力が日常である苛酷な現実の前で、余りにも無力だ。

スサンネ・ビア監督は、デンマークの少年達とアフリカで活動する医師の姿を通して、暴力には暴力で対抗するべきなのか、或いは何があっても非暴力を貫くべきなのか、非常に重いテーマを観客に問いかける。
私たちは、倫理的にはアントンの考えが正しい事を知っているが、彼の教えを守って抵抗しなかったエリアスは毎日の様に苛酷なイジメを受け、問答無用で報復したクリスチャンはイジメを止めた。
では、常に報復が暴力を止めるかと言えば、答えはそう単純ではない。
ビッグマンは怒った住民に処刑されたが、彼の後釜はいくらでもおり、一人殺したからといって暴力が止む事は無く、逆に激化するかもしれない。
もしも一定の暴力が、暴力を止めることが出来るとしても、それはどこまで許されるのか?負の連鎖は乗り越えることが出来るのだろうか?
暴力を捨て、憎しみを捨て、寛容に生きるという事は、言うほど簡単な事ではない。
なぜならそれは、子供のイジメから、国家間の戦争に至るまで、人類が出現した時点から抱えている言わば原罪であり、人間が人間たる所以である感情の問題だからだ。
非暴力の理想を持つ人でも、例えばクリスチャンがいじめっ子を殴るシーン、或いはビッグマンがリンチされるシーンでは、悪しき者が罰せられたという“復讐のカタルシス”を感じる事だろう。

スサンネ・ビアは、この問題に安易な“正解”を用意していないが、未来への微かな希望を感じさせる。
アントンが殴られた事への復讐として、遂に爆弾を製造してしまったクリスチャンとエリアスは、その予期せぬ結果によって、初めて自分の中にいる怪物の恐ろしさを実感する。
そしてより深刻なジレンマを抱える大人たちは、子供達の引き起こした事件と真摯に対峙する事で、改めて自身の中の寛容性を自問自答し、自らの生き方に対して一定の答えを出すのである。
物語の最初では、ばらばらに引き裂かれていた登場人物の絆は、葛藤とコミュニケーションを経る事によって、物語の終わりにはお互いが理解を深め、より強固に結び付いてる。
思うに、多少難しい要素を含んではいるものの、本作はとても良質な“ファミリー映画”であり、夏休みに親子で観るのに相応しい作品だと思う。
世界に満ち溢れる負の連鎖を止めるために、残念ながら特効薬は存在しない。
暴力とは、許しとは、絆とは、この映画は“より良き世界”を作るにはどうしたら良いのか、映画と言う体験を共有し、親子で考えるまたとない機会を与えてくれるのではなかろうか。

今回は、デンマークビール「ツボルグ・グリーン」をチョイス。
日本でも御馴染みのピルスナーで、今ではデンマーク最大のビール会社、カールスバーグの一部門となっているが、ツボルグの銘柄も一世紀以上の歴史を持つ。
ややヘビーな映画の後味を、深みのある上品なコクとすっきりとした喉ごしが爽やかにシメてくれるだろう。

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ハウスメイド・・・・・評価額1550円
2011年08月20日 (土) | 編集 |
欲望渦巻く虚飾の館は、一人の女の“愛”によって崩壊する。
「ハウスメイド」は、1960年に大ヒットした故・キム・ギヨン監督の古典「下女」を、「ディナーの後に」などで注目されたイム・サンス監督がリメイクした作品。
大邸宅にやって来た一人のメイドが巻き起こす愛憎劇を、サスペンスフルに描き出し、オリジナルとテイストはかなり異なるが、なかなかに楽しめる。
※オリジナル「下女」のネタバレあり。

上流階級の邸宅に、メイドとして雇われる事になったウニ(チョン・ドヨン)は、当主のフン(イ・ジョンジェ)、双子を妊娠中の妻ヘラ(ソウ)、六歳の娘ナミ(アン・ソヒョン)、そして古参のメイドであるビョンシク(ユン・ヨジョン)らに囲まれ、住み込みで仕事を始める。
やがてフンに誘惑されたウニは、求められるままに彼に身を委ね、二人の秘密の関係が続く。
だが、ウニが妊娠し、その事がヘラの知るところになると、屋敷の中でウニの身に不可解な事件が起こり始める・・・・


金持ちの一家が、住み込みのメイドによってメチャクチャにされてゆくという基本設定は同じだが、オリジナルをそのままリメイクしたというよりも、リスペクトしつつも素材として使い、時代に合わせて大幅に再構築したという印象が強い。
何しろ「下女」の公開は、半世紀前の1960年だ。
当時の韓国は、一人当たりGDPが160ドル程度のアジア最貧国の一つ。
漢江の奇跡を経て豊かになった現代韓国とは、社会情勢も生活水準も、何よりも人々の意識が違いすぎて、そのままではプロットが説得力を持たなくなってしまっているのである。

オリジナルでは、紡績工場の音楽倶楽部でピアノを教えている、厳格な音楽家のトンシクの家が舞台となる。
ある時、彼にラブレターを送った女子工員ソニョンが、その事を公にされて会社にいられなくなってしまう。
ソニョンの友人だったキョンヒは、トンシクに個人教授を頼み、親しくなると今度は若く美しいメイド、ミョンスクを彼の家に送り込む。
やがてトンシクと関係を持ち、妊娠したミョンスクは、世間体を恐れて事態を公にしたくない裕福な一家を支配してゆくというストーリーだ。
トンシクの息子チャンスン役で、子役時代の名優アン・ソンギが出演している事でも知られる。
ユニークなのが、物語が関係者全員死亡という壮絶な悲劇で終わった後、いきなり主人公のトンシクがピンピンしてスクリーンに現れ、実は今までの話は全て“教訓”だと観客に語りかけるのである。
ここでわかる様に、物語の背景に流れるのは、貧富の格差が現代よりも遥かに深刻な時代における、持たざる者の欲望の切実さと、厳格な儒教的道徳観念であり、様々な分野で社会の解放が進んだ現代韓国では、作品の前提そのものが成立しないのは明らかだ。

イム・サンス監督は、半世紀前に作られた古典から、物語の基本骨格と幾つかの象徴的なモチーフを取捨選択し、当時とは別種の葛藤を抱えた21世紀の韓国らしい、シニカルなテイストのサスペンスに生まれ変わらせている。
現代から見れば、精々小金持ちにしか見えなかった音楽家の一家は巨大な財閥ファミリーに、ごく普通の一軒屋は宮殿の如き大邸宅に姿を変え、元の設定は当主であるフンの趣味がピアノ演奏というあたりに痕跡を残す。
フンと妻のヘラはそれぞれ愛欲・物欲・独占欲・権力欲など様々な欲望に取り付かれた存在で、社会全体は豊かになったものの、物質主義に支配され、精神的な拠り所としての家族を失いつつある現代を、この一族に象徴させようとしている様である。

財閥の御曹司として、欲しいものはすべて手に入れてきたフンは、当たり前の様にメイドのウニを誘惑し、彼女もまた余りにも従順に身を任せ、一夜を共にする。
翌朝、フンが小切手を渡す事からも、割り切った関係であるが、ウニが妊娠してしまった事から、事態は大きく動き出す。
おそらくフンにとって、ウニを妊娠させた事は、より多くの後継者候補を残すという“保険”である。
だがそれは、本妻のヘラにとっては、自分の子供のライバルが増える事を意味する。
古参メイドのビョンシクが、ウニ本人よりも先に彼女の妊娠に気付き、その事がヘラとその母に伝えられると、もはや男のフンは蚊帳の外で、ここからの展開はグチャグチャ、ドロドロの昼メロチックな女の争いだ。
オリジナルでは非常に受身のキャラクターだった妻のヘラは、夫を奪ったウニに対して無慈悲な報復を行い、深く傷つけられたウニは、それまでの流されるキャラクターが嘘の様に、魂の慟哭と共に一族への復讐を宣言するのである。

ウニを演じるのは、「シークレット・サンシャイン」の、息子を殺され、心のバランスを壊してしまう母親役が記憶に新しい、韓国を代表する大女優チョン・ドヨン
犬の様に従順でありながら猫の様にミステリアスで、内面に激しい情念を秘めた、半分天然で何ともとらえどころの無い不思議なキャラクターを好演している。
面白いのは、オリジナルのキョンヒを変形させた様なビョンシクのキャラクターだ。
演じるヨン・ユジョンは、キム・ギヨン監督が「下女」に続く使用人三部作の第二作として発表した「火女」でデビューした大ベテラン。
ビョンシクは長年この一族にメイドとして仕えながらも、かなりの部分自分自身のために利用している様なフシがある。
元々ウニを採用したのもビョンシクであり、彼女がフンのタイプである事も、彼女の中にある危険なパッションも当然見抜いていたはずだ。
ヘラの母親にウニの妊娠を告げ口したかと思うと、今度はウニにシンパシーを感じている様な行動をとる。
いわば天秤の右と左を行き来して手玉にとっている人物で、彼女の存在がそもそも事件を事件たる物にしているのだが、ウニもヘラもその事には気付かない。

もう一人、物語のキーパーソンとなるのは、一族の一人娘のナミの存在だ。
彼女は、欲望に塗れた屋敷の中で、ただ一人達観しているというか、とても冷静にエキセントリックな大人たちの争いを観察しているのである。
ウニが恐るべき方法で復讐を遂げた後、唐突に訪れる何ともシュールな味わいのラストシーンは、ナミを主役にして描かれている。
聡明な子供にとって、大人たちの欲望丸出しの愛憎劇は、とんだブラック・コメディだったという事だろう。
子供は親を選べないと言うが、ナミがいったいどんな大人に成長するのか、彼女の6歳にして全てを諦めた様な、虚ろな瞳が心に残る。

因みにオリジナルの「下女」はマーチン・スコセッシがリスペクトしている事でも知られ、2008年に彼がチェアマンを勤めるワールド・シネマ・ファンデーションの支援によって、現存するフィルムをレストアしたデジタルリマスター版が作られた。
残念ながら日本版は発売されていないが、コリアン・フィルム・アーカイブから発売されているDVDは、リージョンフリーで日本語字幕も付いているので、本作で興味を持たれた方には是非観賞する事をお勧めする。
韓国映画史のエポックである事は勿論だが、今観ても荒削りながら奇妙なパワーのある作品なのである。

今回は血の様な赤。
「天地人」のラベルで知られるルー・デュモンの「フィサン・ルージュ」の2008をチョイス。
韓国は空前のワインブームに沸いているらしいが、これはワイン造りの夢を抱いた日本人の仲田晃司氏が、単身渡仏して設立した若い銘柄。
フルーティな風味と心地よい酸味が、適度な強さを持つボディとベストマッチ。
非常に飲みやすく、高温多湿な夏でも重過ぎない事もあって、日本や韓国などアジア圏で大人気の一本だ。
こちらからは、より良い物を造りたいという“幸せな欲望”が感じられる。

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ツリー・オブ・ライフ・・・・・評価額1650円
2011年08月17日 (水) | 編集 |
人間とは何者か、神は何処にいるのか・・・・?
「ツリー・オブ・ライフ」は、商業映画デビュー以来38年で、発表した作品は僅かに5本という、超寡作な異才テレンス・マリックの6年ぶりの新作である。
二世代に渡るある家族の歴史を通して、我々は何故存在し、何処から来て何処を目指しているのかを、深い追憶と共に描き出す壮大な映像詩だ。
黄金時代のアメリカの家庭に君臨する厳格な父親をブラッド・ピット、父親の巨大な影によって深刻な葛藤を抱える息子のジャックを、一万人以上の子供達の中から選ばれたハンター・マクラケン、成長した現在のジャックをショーン・ペンが演じる。

人生の岐路を迎えている実業家のジャック(ショーン・ペン)は、喪失感に苛まれ、何時しか少年時代を回想する。
1950年代、テキサス州ウェーコに暮らしていた11歳のジャック(ハンター・マクラケン)は、父(ブラッド・ピット)と母(ジェシカ・チャスティン)と二人の弟と共に暮らしていた。
一見するとごく普通の幸せそうな家族。
だがジャックは、信心深く子供達に善良な人間になって欲しいという母と、力こそ正義で目的の為には善良すぎてはいけないと説く厳格な父の間で引き裂かれ、葛藤していた。
父に反発しながらも、自分の中にある父の存在を否定できないジャック。
一体、自分は何者なのか・・・・少年時代の葛藤は、弟の予期せぬ死によって大きな喪失感へと変わってゆく・・・・


いかにもテレンス・マリックらしい、特異な映画である。
ジェームス・ディーンそっくりの男と、夢見がちな少女の殺人と逃避行を描いたデビュー作「地獄の逃避行」から、アメリカ開拓時代初期の神話的ラブストーリー「ニュー・ワールド」まで、マリックの映画は一貫して苦悩を抱えた人間の営みが、神々しいまでに美しい自然の中で描かれてきた。
物語性は希薄で、ほぼ心象風景の描写に終始するも、登場人物の心のあり様が見せる自然の切り取り方、例えばガダルカナルの戦いを描いた「シン・レッド・ライン」に見られる様に、弾丸が飛び交う戦場でも自然の荘厳さが不意に心に飛び込んで来るといった、マリック作品以外では絶対にイメージできない独特の世界観を形作ってきたのである。

この自然の摂理を通して、人間存在の本質を描こうとするスタンスは本作も同じ。
作品のバックボーンとなるのは、アメリカが最も輝かしかった1950年代を舞台とした父と息子の葛藤だ。
保守的な南部テキサスの田舎町にあって、主人公のジャック少年の家庭では対照的な二つの価値観が衝突している。
神の存在を感じ、自然の森羅万象を愛でる母は、宇宙からの大いなる愛を体現する存在だ。
対照的に、世俗的で社会的な成功こそ全てと信じる父は、厳格な掟と暴力によって、子供達を支配する。
父親に強い反発を感じながらも、自らの内面に父親から受け継いだ価値観を感じ、母親を完全に肯定することも出来ないジャックは、自らの内と外で相反する価値観に引き裂かれているのである。

強大な父と反発する息子という、ジャックの抱える葛藤は、過去にも多くの作品でも描かれてきた、いわばハリウッド映画の鉄壁のパターンの一つだが、普通の作家ならここからじっくりと人間ドラマを描いてゆくところ。
だがマリックは、予想もしない方向に、思いっきり作品世界を飛躍させる。
モチーフとなっているのは、冒頭にも字幕で表示される旧約聖書の「ヨブ記」だ。
42章からなるヨブ記では、敬虔なるヨブの信仰を試すために神があらゆる試練を与える。
ヨブはそれに耐えるのだが、何時しか善良なる者を何故神は苦しめるのかと疑念を抱き、遂に全能の神に対して申し立てを行う。
神は沈黙したまま答えないが、ヨブが神はどこにいるのかと絶望を募らせると、遂にその口を開き、ヨブとの対話に応じるのだ。

ジャックが現代のヨブであり、本作が人間の内なる神性とは何かを描く物語である事を示すため、映画はジャック個人が認識している心象を遥かに超えて、突然宇宙創造のその瞬間まで時空の回廊を遡ってしまう。
長年にわたってマリックの映画に親しんできた人ですら、これは驚きだろう。
何しろ、地上の自然を如何にとらえるかにずっと拘ってきた人が、デジタル技術を駆使して虚構の映像を作り上げ、太陽系の形成、生命の誕生から恐竜まで登場させてしまったのだ。
この極めてリアルでナショナルジオグラフィックの科学番組の如きシークエンスの制作には、「ブレードランナー」以来実に29年ぶりに、ダグラス・トランブルがスーパーバイザーとしてクレジットされている。

映画を物語の流れとして考えれば、唐突にも見える創世神話のビジュアルは、実は全編に渡って描写される現実世界の映像とマクロとミクロの関係で密接に絡み合う。
本作では縦横無尽にカメラが動き回り、一体誰の視点なのかと思わされる様々なアングルから世界が切り取られ、細かなカット割りで紡がれて行く。
普通の日常からは、決して観る事の無いカメラが作り出す不思議な視点の主は、正しく神の目であると言えよう。
旧約聖書から材を取っていても、マリックの考える神とは、所謂一神教的な明確な存在ではなく、この宇宙、自然そのものが神であり、故に神は何処にでもいるというアニミズム的な概念の様に思える。
優しい母と遊んだ懐かしい風景、川で死んだ同級生の思い出、畏怖の念を抱いていた父に反抗した瞬間、人生のそれぞれの一瞬のキラキラした美しさと、対照的な緊張と閉塞感。
そして生まれたばかりの赤ん坊の、小さな小さな足をとらえたカットは、この映画の一コマ一コマにも神が宿っている事をストレートに感じさせる。

やがて、少年時代を支配した父の弱さを知り、弟が若くしてこの世を去ると、ジャックは大きな喪失感に苛まれ、それは数十年の時が流れ、成人して父以上の成功を収めた今も、彼の心を苦しめる。
あらゆる生命・意識は、他と関わりなく突然この世界に存在する訳ではない。
それぞれは個であると同時に、タイトル通り天地創造の瞬間から紡がれてきた、一つの大きな“生命の木”の先端である。
父と母は自らの命の継承者である子供たちに一体に何を与えたのか、ジャックは一体何を受け継ぎ、何を捨ててきたのか。
自分は神性に生きる善良なる者なのか、それとも俗世に生きる悪しき者なのか。
少年時代から続く、二十世紀的価値観の葛藤に支配されたジャックは、ヨブ同様に人生における苦しみに意味と答えを欲し、自分は一体何者なのかという答えを求め続けているのである。

だが、神は試練を与え、答えは示さない。
映画の終盤、ジャックは無機質なエレベーターに乗って上昇し、荒野に置かれた朽ち果てた門をくぐる。
天国の様でもあり、あらゆる意識が溶け合う、原初の楽園の様にも見えるその世界で、ジャックの意識は父、母、無くなった弟、そして少年時代の自分と出会う。
そこには葛藤は無く、ただただ存在があるだけである。
ヨブの申し立てに神が答えた様に、このシークエンスはジャックにとっての神との対話なのかも知れないが、それはおそらくジャックを深い絶望から救う事にはならないだろう。
神の意識の中では、あらゆる人間の葛藤も苦悩も壮大な創造の一部に過ぎず、そこに明確な答えは無いからだ。
しかし、それは神の不在を意味しない。
魂の交感を経たジャックは、エレベータで下降し、再び地上に降り立つ。
この映画の登場人物は、神の存在を捜し求めるかの様に、常に上を見上げているが、実は我々自身が神の一部であり、神は常に我々に寄り添い、何時何処にでも存在している。
「ツリー・オブ・ライフ」はテレンス・マリックという映画作家によって創造された、いわばスクリーンに投影されたミニチュアの宇宙なのである。

今回は天を見上げ続ける人々の映画という事で、秋田県の朝舞酒造の「天の戸 純米吟醸 氷晶 ダイヤモンドダスト」をチョイス。
映画同様に、非常に柔らかい味わいの純米酒らしい一本で、透明でなく薄っすらとにごっているのが特徴。
原料米は星あかりを使用しており、冷酒にしてその名の通り、夏の夜空でも眺めながら、悠久の時に思いを馳せたい。

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一枚のハガキ・・・・・評価額1600円
2011年08月12日 (金) | 編集 |
死にゆく兵士から託されたのは、妻から届いた「一枚のハガキ」だった・・・・。
これは、戦後一貫して庶民の戦争を描いてきた齢99歳の新藤兼人監督が、自らの体験を元に戦争への怒りをストレートに描いた作品だ。
監督自ら「映画人生最後の作品」と語る様に、彼の80年近い映画人生のまさに集大成であり、敗戦の八月に観賞するに相応しい、今を生きる我々に向けた、老巨匠からの極めてパワフルなメッセージである。

太平洋戦争末期。
中年ながら一兵卒として召集された松山啓太(豊川悦司)は、ある日戦友の森川定造(六平直政)から、自分が死んだら手紙を読んだ事を妻に伝えてくれと言われ、一枚のハガキを託される。
兵士の配属先は、年下の上官のくじ引きで決められ、予科練の宿舎の掃除部隊に配属された啓太は生き残り、フィリピンへの陸戦隊へ配属された定造は戦死した。
戦後、復員して家に帰った啓太は、自分が死んだと思い込んだ父と妻が駆け落ちした事を知り愕然とする。
全てを捨ててブラジルへの移民を決意する啓太だったが、定造との約束を思い出し、ハガキに書かれていた彼の家を訪ねる。
するとそこには、戦争で全ての家族を亡くした未亡人の友子(大竹しのぶ)が一人で暮らしていた・・・


物語の発端となる、友子が定造に送ったハガキには、たった一文「今日はお祭りですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません。 友子」とだけ記されている。
受け取った定造も返事を書こうとはしない。
何を書いても軍の検閲で消されてしまうから、自分の率直な気持ちを伝える事は出来ないからだ。
だからこそ定造は、もしも自分が死んだら、ハガキを受け取って読んだ事を伝えてくれ、と啓太に頼む。
そんな彼らの生死を分けるのは、なんとである。
しかも自分で引けるわけではなく、“上官様”が引いてくださる籤によって、生き残れるかどうかが決まる。
100名の部隊のうち、60名は陸戦隊となりフィリッピン戦線へ送られ、戦地へたどり着く前に船が撃沈されて戦死、30名は潜水艦の乗員となりこれまた戦死、残り10名だけが予科練の宿舎の掃除部隊となる。
その10名も、掃除が終われば再び籤によって次の配属先が決まり、4名は海防艦に乗り戦死、結果最後まで掃除をしていた6人だけが生き残る。
人の命が籤運によって左右される、何ともバカバカしい状況だが、これは昭和19年に32歳で召集された新藤兼人自身が、実際に体験した事だという。
遥かに年下の上官に、クズと蔑まれ殴られ続けた体験は、新藤の助監督だった山本保博が、新藤自身を証言者にして2007年に発表した、半ドラマ半ドキュメンタリーの異色作「陸に上がった軍艦」に詳しい。
人間から人間性を奪い去り、思考を許されないただのモノとして、その生殺与奪すら籤運任せとなる、戦争と言う恐るべき非日常と、そんな時代を受け入れてしまった日本人。

そして啓太の様に生き延びたとしても、精神的にも物理的にも苦難の戦後が待っている。
父と妻が出奔し、村中の笑いものになった啓太は、抜け殻の様になった自分自身に嫌気がさして、新天地を求めブラジルへの移民を決意する。
一方、定造の未亡人である友子もまた、戦争によって壮絶な運命に向き合う事を余儀なくされる。
元々極貧の家の出だった彼女は、女郎に売られる寸前に、幼馴染の定造に救われ、以降慎ましくも幸せな生活を送ってきた様である。
それが突然の召集によって、夫は戦死。
夫の弟と再婚して家に残るも、その弟も直ぐに招集され、沖縄戦で戦死してしまう。
年老いた義父はショックから亡くなり、義母はその後を追う様にして自殺。
残された友子は、彼女に想いを寄せる村の実力者である吉五郎の誘惑もきっぱりと断り、世捨て人の様にたった一人で生きている。

籤運によって生き残った一人の兵士と、籤運によって全てを失った一人の女。
この二人は、男と女、海に暮らす漁師と山里の農民と対照的な存在ながらも、それぞれに戦争によって家族を失い、未来へと続く道を見失ってしまった人間だ。
過去となった戦争に、肩をつかまれたまま歩み出せなくなってしまったのである。
本作は、そんな二人が、亡き友であり亡き夫である定造の残した一枚のハガキによってめぐり合い、希望を再生し、共に戦後を歩む覚悟を決める物語なのだ。

新藤兼人は、シンプルなプロットの中に極めて率直にテーマを盛り込み、徹底的に戦争とそれに絡めとられてしまった人間をカリカチュアする。
可能な限り不要な要素をそぎ落とし、絞り込むことで戯画化された作品世界は一歩間違えば本当に漫画となってしまうギリギリの見切りで成立している。
例えば、新兵の出征のシーンでは、フィックスの引きの画で勇ましい出陣の行進を見せ、まったく同じ構図でからっぽの白木の箱となっての無言の帰還するシーンを連続して描写する。
死にに行くとわかっていても喜んで見せ、死んで帰ってきてもやっぱり喜んで見せる。
これだけで戦争の無情と滑稽さがはっきりと感じ取れる、簡潔かつシニカルな演出である。

豊川悦司と大竹しのぶは、何もそこまでという位に感情を体に出し、メソッド的なリアリズムとは無縁の、所謂絶叫芝居で己が心の内を吐露し、激しくぶつけ合う。
籤によって夫が死に、啓太は生き残った事を知った友子が、「何であんたは生きてるの!?」と詰め寄るシーンは圧巻だ。
舞台劇の様なオーバーアクションは全編を貫き、時には大杉漣演じる吉五郎が頬かむりをして友子をストーカー(?)するシーンや、啓太と吉五郎が彼女を巡って喧嘩するシーンの様なユーモアとなり、時には壮絶なまでの戦争への怒りとなって噴出する。

物語の終盤、戦争とその時代によって徹底的に破壊された啓太と友子の人生は、“不幸の家”と共に焼け落ち、その跡には小さな麦畑が作られる。
未来を共に歩む事を決めた二人は、黙々と小川の水を桶に汲み、天秤棒で運び上げるのだが、それまでの饒舌が嘘の様に、静かに淡々と描写されるこの再生のシークエンスは、瀬戸内の小島で生き抜く家族を描いた、新藤監督の代表作「裸の島」を思わせる。
命の水を運ぶ啓太と友子の姿が、あの映画の殿山泰司と乙羽信子の夫婦に重なるのは、おそらく意図的であろう。
悲しければ泣けば良い。苦しければ叫べば良い。
どれだけ時代や社会によって人生を踏みにじられようとも、人間はその過去と向き合い、未来を見て生きて行くしかない。
大地に根を張り、たわわに実る金色の麦は、生きる事への希望が、二人の中で再生した事を、力強く示唆するのである。
いやはや監督、こんなエネルギッシュな映画が最後の作品だなんてご冗談を。
100歳の映画監督、十分いけるのではないですか?

今回は、麦繋がりで新藤監督の出身地広島県の玉扇酒造の麦焼酎「O.Henry(オー・ヘンリー)12年」をチョイス。
実際の醸造は奥能登で行われている様だが、まるで洋酒の様な名前とボトルもユニークで、長期熟成された味わいは清涼かつまろやか。
少し冷やしたストレートかロックがお勧めだ。
そう言えばオー・ヘンリーと言えば、市井の人々の悲哀をヒューマニティ溢れるタッチで描き、じんわりと心に残る数々の物語を残した名手。
どこか、新藤監督の映画にも通じるではないか。

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トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン・・・・・評価額1600円
2011年08月10日 (水) | 編集 |
マイケル・ベイ監督による、巨大変形ロボットアクションの第三弾にして、一応の完結編。
地球を狙うディセプティコンの侵略は、遂に全世界的な規模へと拡大し、オートボット軍団と主人公ののび太・・・いや、サム・ウィトウィッキーは絶体絶命の危機を迎える。
前二作をご覧になった方は当然ご存知だろうが、相変わらずお話に深い物はなーんも無い。
本作にあるのはカッコいいロボットと兵器とクルマ、後はどんなに戦おうが吹っ飛ばされようが、決して化粧の崩れないセクシーなお姉さん(笑
でも、これはこれで良い。
「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」は男の子の一番おバカな願望を、ストレートに実体化したオモチャ箱なのである。

1969年。
月面着陸したアポロ11号は、月の裏側に墜落したオートボットの宇宙船を調査するという極秘の任務を帯びていた。
彼らがそこで見た物は、以降40年間に渡って政府によって封印される。
時は流れて現代。
月面の宇宙船に乗っていたセンチネル・プライムが、オプティマス・プライムによって復活する。
強力な同盟者を得たと考えるオプティマスだが、実はセンチネルはある驚くべき方法によって故郷サイバトロン星を復興させようとしていた。
その頃サム・ウィトウィッキー(シャイア・ラブーフ)は、大学卒業までに就職が決まらず、恋人のカーリー(ロージー・ハンティントン=ホワイトレイ)の家に居候状態。
必死に就活するサムの元に、三たびディセプティコンの陰謀が忍び寄る・・・・


オープニングの1969年のシークエンスが素晴らしすぎる。
今まで散々描かれてきたアポロの月着陸と陰謀説を、まさかトランスフォーマーとこんな風に組み合わせるとは!流石にこの発想は無かったよ。
当時のドキュメンタリー映像と新たに撮られたフィクションの映像を融合させ、ケネディやニクソンがまるで本当に秘密計画にコミットしていた様に見せるのは上手い。
最近では「SUPER8/スーパーエイト」などもそうだが、こういう史実とホラ話を上手く絡めた、“あの事件の裏に実は!”的な構成は、ファンタジーの世界をググッと身近に引き寄せる効果があり、わかっていてもワクワクさせられる。
しかも今回は本物のアポロ11号クルー、バズ・オルドリン本人の特別主演というオマケつきだ!

まあその後しばらくは、世界を二度も救ったのに就職先の決まらないサムのプータローライフが描かれるのだが、この辺りはジョン・マルコビッチがパラノイアっぽい軍需企業CEOを楽しそうに演じるサプライズや、新恋人カーリー役のロージー・ハンティントン=ホワイトレイのセクシーなルックスをマッタリと楽しめばいい。
サムは前作までのヒロイン、ミカエラにはふられたという設定になっているが、演じたミーガン・フォックスとの確執が伝えられたマイケル・ベイは、相当腹に据えかねたのか、映画の台詞でケチョンケチョンに彼女を扱き下ろしているのが可笑しい。
このユルユルの前半のうちに、とりあえず特殊部隊NESTの面々や“元”エージェントのシモンズ、コミックリリーフのサムの両親ら御馴染みの面々が次々に登場し、後半へのコマの配置が手際よく進んで行く。

物語的には、海外から伝え聞くほどにはぶっ壊れておらず、むしろ前作の「トランスフォーマー/リベンジ」よりはわかりやすく纏まっていると思う。
要するに、月に墜落した宇宙船は惑星が移動できるほどの巨大なワームホールを作り出せるエネルギー源を運んでおり、パイロットであるセンチネル・プライムは、オートボットの指揮官だったのだが、実はディセプティコンに寝返っている。
上手い事オプティマスを使って復活したセンチネルは、ワームホールを使って圧倒的な数のディセプティコンを地球に呼び寄せ、人類を脅迫してオートボットを追放し、更にサイバトロン星を地球近くに移動させ、人類を奴隷労働力として星を再興させようとしているのである。
オートボットを追放してしまい、サムたち人類は自らの力だけでディセプティコンと戦わざるを得なくなるという訳だ。
要するにドラえもんがいなくなったのび太が、一人でジャイアンと喧嘩するというあの幻の最終回と同じ構図である。
そしてイザ戦いが始まると、映画の後半1時間以上は、その殆どが血湧き肉踊る戦闘シーンに費やされる。

一応ディセプティコンの侵略は全世界に及んでいるらしいのだが、主な舞台となるのはヒロインのカーリーが連れ去られたシカゴ。
この街を舞台に、先ずは人間たち主導のカーリーの救出作戦が描かれ、満を来たしてオートボットが帰還すると、お待ちかねのロボット大バトルが勃発するという展開である。
過去二作と違って、巨大な宇宙船なども動員したディセプティコンの攻撃は、ロボット物というよりこのところ流行のディザスター系侵略SFに近く、特に様々な形の宇宙船がシカゴの高層ビル街を襲うビジュアルは、今年公開の「スカイライン-征服-」「世界侵略:ロサンゼルス決戦」に良く似ており、既視感を感じさせるほど。
もっともお金のかけ方の違いは一目瞭然で、クオリティの高い立体効果も含めてド迫力の都市破壊スペクタクルが楽しめる。
そしていよいよ絶対絶命となったところで、ドラえもんの秘密道具、もとい水戸黄門の印籠の様にオートボット軍団が登場し、一気に形成逆転。
いや、そんな簡単に倒せるなら、変な作戦使わず最初から一緒に戦えよ、とか言ってはいけない。
これはよくも悪くもマイケル・ベイの美学によって作られた“マンガ”なのであり、如何に強引だとしてもお約束は守らねばならないのである。

摩天楼の間を飛びぬけるNESTのウィングスーツのスピード感、スローモーションで崩れ落ちる巨大なビルの迫力、メカメカしいディセプティコンの破壊兵器の禍々しい美しさ、そして無骨な機械の塊が繊細に変形するトランスフォームのカッコ良さ!
マイケル・ベイは、自らが作り出した映像世界で、愛するオモチャたちの戦いを夢中になって描写して行く。
まるで緩急の“緩”の字を忘れたかのように、ひたすら超ハイテンションな危機・脱出のシークエンスが映画の後半延々と繰り返され、おそらくこのノリを素直に楽しめるかどうかがこの映画の評価の分かれ目だろう。
まあ、前二作もそうだったが「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」は映画と言うよりもむしろテーマパークのライドみたいな物。
スリル一杯のライドに、2時間半乗りたいという人には、夏休みらしい豪華でパワフルな超大作だが、そうでない人には、コース料理がすべてハンバーガーで構成されている様な大味な作品なのだろう。

既に企画が動き始めている次回作では、マイケル・ベイとシャイア・ラブーフが降板し、サム・ウィトウィッキーに変わる新たな主人公が登場するとも言われ、リ・ブート的位置付けの作品になる様である。
おそらく映画としては、もうちょっとキッチリとした方向性にチェンジすると思われるが、間違っても最近流行のダーク系に行くのは勘弁だ。
元々が日本生まれの子供用フェギアから生まれたこのシリーズ、誰が撮るにしても何時までも“男の子の理想”を具現化するオモチャ箱のスピリットは忘れないで欲しいものである。

このシリーズに合うのはアメリカンビール以外に思いつかないのだが、今回はシカゴが舞台と言う事で地ビールの「GOOSE ISLAND 312」をチョイス。
グース・アイランドは1988年創業の比較的若い会社だが、非常に特徴的な様々な種類のビールを製造して急成長し、つい先日世界最大級のビール会社ベルギーのアンハイザー・ブッシュ・インベブに買収された。
この「312」はスパイシーなアロマと深みのあるコク、まろやかでクリーミーな泡を楽しめる上品な一本。
映画が余りにもアメリカンなので、お酒はアメリカ製でもちょっとヨーロピアンな風味としたい。
残念ながら日本では未発売だが、東海岸では比較的目にするビールなので、米国土産にお勧めだ。

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モールス・・・・・評価額1700円
2011年08月07日 (日) | 編集 |
雪に閉ざされた街で出会ったのは、二つの幼く孤独な魂・・・・
トーマス・アルフレッドソン監督による、スウェーデン発の異色のヴァンパイア映画、「ぼくのエリ 200歳の少女」のハリウッド・リメイク版。
監督・脚本を「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーヴスが手がけ、1983年のニューメキシコを舞台に、苛められっ子の少年と永遠の12歳を生きるヴァンパイアの少女の切ない恋物語が描かれる。
主演は、「キック・アス」のヒット・ガール役で大ブレイクしたクロエ・グレース・モレッツと、「ザ・ロード」でヴィゴ・モーテンセンの息子役を演じたコディ・スミット=マクフィー。
リチャード・ジェンキンスやイライアス・コティーズら、ベテラン勢が脇を固める。

1983年、ニューメキシコ州ロスアラモス。
孤独な少年オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)は、アパートの隣の部屋に引っ越してきたアビー(クロエ・グレース・モレッツ)という同い年の少女と出会う。
次第にアビーのミステリアスな魅力に惹かれてゆくオーウェンだが、夜になると彼女の家から聞こえる怒鳴り声から、彼女が父親に虐待されているのだと考え心を痛める。
ある日、オーウェンはモールス信号のメモをアビーに渡し、それ以来二人は壁越しにノックで会話を交わすようになる。
そしてオーウェンが学校で苛められている事を知り、「やりかえすのよ」と言うアビー。
次第にアビーに恋心を抱くようになるオーウェンだったが、時を同じくして、近所で猟奇連続殺人事件が起こり始める・・・・


他国のヒット作をハリウッドがリメイクするのはもはや珍しい事ではないが、本作はその中でも近年で最も成功した例と言えるだろう。
オリジナルのムードを色濃く残しながらも、物語の新しい解釈・意味づけを行い、単なる英語版以上の優れたハリウッド映画として生まれ変わっている。
説明的要素を極力排除し、いわば緊張感を持った観客との阿吽の呼吸によって成立していたオリジナルは、後述する様にたった1カットを見逃しただけで、物語全体の意味を取り違えてしまう様な危うさを持っていたが、リメイク版は娯楽映画としてとてもわかりやすく完成度が高い。
まあこの辺りを説明過多ととるか、親切ととるかで好みは分かれるだろうが、私はこれはハリウッド映画が多民族文化の中で培ってきた特質であって、決して悪い事ではないと思う。

マット・リーヴスは、作劇上幾つかの点を改変しているが、最も重要なのは二箇所だ。
一つ目は言うまでもなく、時代と場所の設定である。
舞台は北欧スウェーデンの首都ストックホルムから、1983年のニューメキシコ州ロスアラモスへと移っているが、作品の精神的背景を米国ならではの設定で再構成するユニークな試みだ。
劇中でも繰り返し言及される“善と悪”の概念。
レーガン時代のアメリカは、自らを善なる存在と信じ、対立するソ連を“悪の帝国”と呼んだ。
キリスト教保守派の価値観を軸とした善悪の区分は、“善なるアメリカ”と、その外部に存在する“悪しき者”の二元論で世界を見せたのである。
そして主人公のオーウェンが住むロスアラモスは、マンハッタン計画以来のアメリカの核兵器開発のメッカであり、神の国アメリカを恐怖によって庇護する街なのだ。

離婚の瀬戸際にあるオーウェンの両親も、母親はアルコールと信仰に傾倒し、父親はそんな家庭に嫌気が差し別居中。
母の価値観に基けば、信仰心の無い父親は“悪しき者”となり、オーウェンは家庭の中でも善悪の価値観に引き裂かれている。
一方で彼は学校で酷い苛めのターゲットとなり、心安らぐのは雪の降りしきるアパートの中庭で、たった一人で遊ぶ時だけ。
彼の内なるアメリカは、決して“善なる者”によってのみ構成されてはいない。
そんなオーウェンの前に現れるたアビーは、人間を殺し、その生き血によって永遠の時を生きるヴァンパイアだ。
しかし彼女が人を殺すのは単に生きるためで、そこには善も悪もない。
大人たちの押し付ける価値観の嘘を自らの体験として知っているオーウェンが、“悪しき者”であるはずのアビーの内面に自らと同じ孤独を感じ、仄かな初恋が芽生えるのは必然なのである。

ここでもう一つ、作劇上の大きな改変が、自分の気持ちを告白するオーウェンに対する、アビーの「私は女の子じゃない」という台詞の解釈だ。
話題になったので、ご存知の方も多いだろうが、オリジナルの日本公開時にはエリ(アビー)の陰部が映るカットが一箇所あり、そこには去勢された男性器の跡が映し出されていた。
実はエリは少女ではなく少年で、オスカー(オーウェン)との関係には、単純な恋愛感情以上の複雑な葛藤が織り込まれていたのである。
ところが、日本公開版では肝心のカットにボカシがかかっていたがために、多くの観客はこの事実を知らないまま普通に少年少女の初恋物として受け取ってしまい、その為に同じ映画を観たはずなのに、日本の観客と海外の観客とで全く感想が異なるという珍事を招いてしまったのだ。

オリジナルの「ぼくのエリ 200歳の少女」の原題は「Let the right one in(Låt den rätte komma in)」で、訳せば「善なる者を招き入れよ」となるだろう。
このタイトルは“悪しき者”であるヴァンパイアは、招かれない限りその家に入る事は出来ないという伝承から採られているのだが、ここでは男の子でも女の子でもないエリの設定によって、物語が二元論から解放され、果たして人間の中に“悪”はあるのかというテーマを打ち出しているのである。
ただ私は、オリジナルを観た時、この設定は(たとえボカシが無かったとしても)文学的過ぎて、映画としてはかなり深読みしないと伝わらないのではないかと思った。
たぶん、マット・リーヴスも同じ事を考えたのだろうが、リメイク版ではアビーが少年である事を示唆する部分は全く無く、「女の子じゃない」はイコール「ヴァンパイアである」と解釈できる様になっている。
無論、少年でないとも言ってないのだけど、どこからどう見ても“女の子”でしかないクロエ・グレース・モレッツを去勢された少年に見せようという意思が無い事は明らかで、オリジナルを知らずに本作を観る圧倒的多数のアメリカ人観客にとっては、アビーは少女ヴァンパイア以外の何者でもないのだから、事実上の設定変更と言える。

同時に、アビーの庇護者である“父”の意味づけも全く異なる。
オリジナルで“父”とされていた人物は、ヴァンパイアを崇拝するゲイの小児性愛者であるという設定であった。
だがリメイク版は、“父”がオーウェンと同じように少年時代にアビーと恋に落ち、以来彼女と共に生涯を生きてきた事を強く示唆する。
つまり、“父”はオーウェンの未来の姿でもあるのだ。
アビーはおそらく、それぞれの時代で少年を虜にし、昼間の庇護者とする事でずっと生きてきたのだろう。
それ故に、相手をヴァンパイアにする事は無く、二人は決して同じ時を生きる事はできない。
年老いた“父”が、アビーがオーウェンと親しくなった事を知り、彼女に「もう会うな」というのは、ヴァンパイアである事がばれるとか、危険が及ぶとかの心配ではなく若い“新恋人”に対する嫉妬なのである。
だが、だからと言ってアビーの愛が打算であるとはいえないだろう。
“父”の最期の瞬間に、アビーが彼の血を吸うのは、生涯を彼女の為に生きた男への最大限の愛の証に思える。

マット・リーヴスは、オリジナルでは主要登場人物のオスカーとエリと“父”の、三人の人間関係だけで語られていたテーマを整理する事で、本作を似て非なる物にしている。
“善と悪”を巡る多分に宗教的な概念を、83年と言う時代性とロスアラモスという舞台を巧みに使って物語の背景に配置し、そこから生まれる登場人物の葛藤は、最終的に初恋を巡る極めてパーソナルなラブストーリーとして純化させているのである。
それは「Let me in」と、格段にシンプルになったタイトルにも現れている。
このタイトルには、オーウェンの家にアビーを招き入れるという直接的な意味の他に、彼の心の中に彼女を入れる、いわば精神的な同化という意味があるのだと思う。
少年たちにとってアビーは永遠に色あせない初恋の象徴であり、だからそこ彼らはその気持ちを捨てられずに自らの人生を捧げ愛し続ける。
「ハリポタ」のスネイプ先生もそうだが、男とは時に初恋に殉死するくらいに純情な生き物であり、アビーは彼らの愛を受けた報いとして、永遠の12歳という孤独を生きるのであろう。

余談だが、本作の持つ独特のムードは、ハンガリー出身のニコラス・ジェスネル監督が1976年に発表した「白い家の少女」によく似ている。
当時14歳のジョディ・フォスターが、たった一人で白い家に住む少女を演じ、彼女の初恋と殺人が、ショパンのピアノ協奏曲第1番の切ないメロディにのせて描かれる。
オリジナル観た時から若干デジャヴを感じていたが、物語がシンプルになったリメイク版ではそれがより顕著になった。
ニコラス・ジェスネルは劇場映画の監督としてはあまり成功できなかった人物で、この映画も知る人ぞ知る作品だが、登場人物の造形など本作にも若干の影響を与えているのではないかと思う。
本作を気に入った人には是非観て欲しい一本である。

今回は、雪に覆われた風景が印象的な映画だったので、同じように真っ白で上品なカクテル「ホワイト・レディ」をチョイス。
ドライ・ジン30mlとホワイト・キュラソー15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ジンのスッキリしたテイストに、仄かな甘みと酸味が加わった優しい味わいは、まさに初恋の味。
因みにベースをウォッカに変えると「バラライカ」となり、こちらは更に軽やかで透明感のある味わいを楽しめる。
「キック・アス」に続いて、ヲタクの心を鷲掴みしそうなクロエちゃんだが、もうちょっと大人になると、カクテルグラスの似合う素敵なレディになるだろうな。

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カーズ2・・・・・評価額1650円
2011年08月02日 (火) | 編集 |
今度はスパイ映画!
ピクサー・アニメーションスタジオの最新作は、2006年のヒット作「カーズ」の続編だ。
前作は、擬人化された車たちによる、失われたアメリカン・スピリットの再生を描いた物語だったが、今度は打って変わって、世界を転戦するレースを背景に、巨大な陰謀を巡るお笑いスパイアクションが繰り広げられる。
天才レーサー、ライトニング・マックイーンと錆だらけのレッカー車、メーターの冒険の舞台は、サイケデリックなトーキョーを皮切りに、何処かモナコっぽいイタリアのポルト・コルサを経て、全てのスパイたちの故郷、ロンドンへと帰還する。
危機に陥った彼らの友情は、果たして陰謀の黒幕を暴いて世界を救えるのか?

ピストンカップで四度目の優勝を飾ったライトニング・マックイーン(オーウェン・ウィルソン)が、ラジエーター・スプリングスに帰郷する。
だが休暇もつかの間、世界の三都市で開催されるワールド・グランプリ・レースに参戦する事になる。
マックイーンは、初めてチームの一員となったレッカー車のメーター(ラリー・ザ・ケーブル・ガイ)と共に、第一戦の舞台となるトーキョーにやって来る。
だが、このレースの裏には、バイオ燃料と石油の利権を巡る巨大な陰謀が隠されていた。
秘密裏に黒幕を追うイギリスのスパイ、フィン・マックミサイル(マイケル・ケイン)は、ひょんな事からメーターをアメリカのスパイと勘違いしてしまい、いつの間にかマックイーンとメーターは、世界の運命がかかる戦に巻き込まれてゆく・・・


今年は「007」へのオマージュがブームなのかしらん?
先日も「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」が、60年代ムードたっぷりのスパイアクションを見せてくれたが、ジョン・ラセターは個性的な車たちを使って、見事なまでに007テイストを再現している。
米国公開時に、ピクサー作品にしては批評家ウケがあまり良くなかった事が話題になったが、思うにここ数年“感動系の良い話”が続いていたが故にイメージが固定化してしまい、観る側の先入観も大きかったのではないかと思う。
本作のアクションとギャグとパロディ満載で、外連味が強く迷いの無いピュアな娯楽作という作風は、むしろライバルのドリームワークス・アニメーションに近いかもしれないが、ラセター一流のマニアックなディテールも相変わらず楽しく、個人的には大いに楽しんだ。

もっとも本作の場合、物語よりもひたすら動きの面白さで魅せるカートゥーンへの回帰が進んだ結果、テーマ性はやや希薄だ。
一応、作品のコアとなるのは、メーターとマックイーンの友情物語である。
普段からトップレーサーとしてセレブな生活をしているマックイーンと、ラジエータースプリングスから出たことのないメーター。
初めてマックイーンのチームに加わったメーターだが、田舎者で天然な彼は都会で場違いな行動を繰り返し、周りから顰蹙を買ってしまう。
マックイーンに諭され、住む世界が違う事を悟ったメーターは、落ち込んで一人帰路に着こうとするのだが、ひょんな事からスパイ合戦に巻き込まれてしまうのだ。
そしてレースの出場者たちが狙われている事を知り、マックイーンを救うために、なんちゃってスパイとして奮闘するのである。
つまり、今回のメインテーマは友情の再生という事になるが、確かにまあ前作ほどの深みは無い。

その分、趣味人のラセターが悪ノリして作り上げた超マニアックな世界観と、3D効果を最大限追求したアクションが最大の見所だ。
ネオン電飾が光り輝くトーキョーのナイトレース、地中海の海風が画面から吹いてくる様なイタリアの架空の街ポルト・コルサ、そしてクライマックスとなるロンドンと、3戦分あるレースシークエンスは、過去にアニメーションで描かれた最も迫力あるカーアクションである。
現実のレース中継さながらのカメラワーク、レンズごとの被写界深度(ピントの合う範囲)の違いを生かして立体感を強調する演出など、さすがデジタル映像を知り尽くしたチームによる、圧巻の仕上がり。
文字通り陸海空を股に掛けるスパイ戦のビジュアルも素晴らしく、この作品は是非立体版で観賞する事をお勧めしたい。

前作でも凄まじかった車への拘りは、ラセターのエンスー心にターボでも付いたのか、更に加速がかかっている。
レースに出場するキャラクターは、例えばイタリア代表はF-1のフェラーリを模したフォーミュラーカーだったり、フランス代表はWRC(世界ラリー選手権)のシトロエンと、各国で人気のモータースポーツカテゴリをイメージして車種をチョイス。
前作ではキング・ペティやシューマッハら本物のレーシングドライバーが登場していたが、今回もジェフ・ゴードンやルイス・ハミルトンといったトップドライバーらが、本人をイメージした車として登場する。
因みに、日本代表のシュウ・トドロキは、トヨタのル・マン・プロトタイプっぽいのだけど、トドロキを名乗るなら8輪フォーミュラーにしてもらいたかった・・・と思うのは、たぶん40歳以上のスーパーカーブーム世代だけだろう(笑

彼らのレースを妨害するのが、マッドサイエンティストのプロフェッサーZ率いる悪の軍団。
日本語字幕では“故障”と“胡椒”を引っ掛けて“コショー”と意訳されているが、原語ではポンコツ車を指す英語のスラングである“レモン(lemon)”と呼ばれており、彼らの集会にはレモンが山積みになっていたりする。
なぜレモンという言葉が、この様な意味を持つようになったかは、諸説があるものの、元々は“品質の悪い物を誤魔化す”という意味の英国のスラングで、100年以上前には既に使われていた様である。
このレモン・カーに名を連ねるのがAMCペーサー、グレムリン、そしてキング・オブ・レモンとして悪名高き旧・ユーゴスラビア産のユーゴだったりする。
欧米ではこの設定で大笑いできるのだが、残念なのはこの辺りの車種が売られていなかった日本ではニュアンスが伝わりにくい事だろう。
彼らを率いるプロフェッサーZのモデルは、第二次大戦後にドイツで流行ったバブルカー(1、2人乗りのミニカー)のツェンダップ・ヤヌス。
ツェンダップ社は、マッドサイエンティストの本場、ナチス時代のドイツ軍のサイドカーメーカーとしてミリタリー方面で有名だったりするので、キャスティング(?)一つとってもなかなかに芸が細かい。

そしてレモンたちを裏で操る黒幕を探すのが、イギリスのスパイ、フィン・マックミサイルと助手のホリー・シフトウェル。
マックミサイルの元ネタはもちろんジェームス・ボンドであるのだけど、車のデザインはボンドカーとして知られるアストン・マーチンDB5その物ではなく、むしろBMW507に良く似ている。
実際には、ピアレスGTなど幾つかの同時代のスポーツカーを掛け合わせて“最もエレガントなブリティッシュ・スポーツ”をイメージしてデザインされた様だ。
また英国情報部の東京事務所で働くシフトウェルは、一応ジャガーXJR-15がモデルらしいが、あんまり似てない。
二段重ねのヘッドライトなどはコンセプトカーにありがちだが、この辺りはスパイらしく、正体不明という訳か。

まあ、そんな細部に目を凝らさなくても、大切な友のために、なんちゃってスパイのメーターが、遂には本職以上の活躍をし、謎の黒幕を暴き出すクライマックスは、偽者が努力の末に何時しか本物となる、「ギャラクシー・クエスト」や「サボテン・ブラザーズ」の系譜に連なるハリウッド映画の王道だ。
車に絡めたネタから映画に絡めた観光地ネタまで、ディテールの情報量は圧倒的で、前作に引き続きマニアほど楽しめる作品になっているのは間違いないだろうが、本筋を追うだけでも十分に面白い。
この作品の場合、とりあえず映画館ではファミリーで観て大笑いして、マニアなお父さんはブルーレイを買って、深夜に細部をチェックして仕込まれたネタを探すという、ヲタクな観賞スタイルが正しいのだと思う。
ピクサー作品で何時も楽しみなエンドクレジットは、マックイーンとメーターの世界一周旅行。
因みに最後にアメリカに帰って来た時、サンフランシスコの東にピクサーのスタジオが描きこまれているのがチラリと写る。

同時上映の短編「Hawaiian Vacation」は、「トイ・ストーリー3」の後日談。
御馴染みの面々が、バービーとケンにリゾート気分を楽しませるために、子供部屋に“ハワイ”を作り上げる物語。
どうやら皆、ボニーの家で幸せに暮らしている様で良かった。
先日ウッディ役のトム・ハンクスが「トイ・ストーリー4」のプロジェクトに言及した事で、2015年公開の噂が広まっているが、オリジナルに拘ってきたピクサーのラインナップが続編ばかりになって来ているのは気になるところ。
アニメーションは、キャラクタービジネスの側面も強く、続編やスピンオフという形で人気を維持する必要があるのも確かで、「カーズ2」もその流れにそって作られた作品だろう。
ピクサーは、バンクバーに主に短編を担うサテライトスタジオも開設したし、ディズニーグループの中核ブランドとして否が応でも、“大きな独立プロ”から脱却しつつあるのは間違いない。
その未来がどこへ向うのか、まずは来年公開の久々のオリジナルにしてピクサーブランドとしては初のフェアリーテイル、「メリダとおそろしの森」を楽しみに待とう。
本家ディズニーのフェアリーテイルと如何に差別化しているのか、興味深い企画である。

前回はアメリカンモータースポーツのお供、「バドワイザー」を合わせたが、今回は日本からワールド・グランプリが始まるという事で、亜熱帯の日本の夏に飲みたい「アサヒスーパードライ」をチョイス。
本格ビール党からは、邪道だのモドキだの揶揄されるスーパードライだが、ビールはとてもお国柄の出やすい酒で、私はこれは高温多湿な日本の夏が生んだ、世界的にもユニークな一本だと思う。
現実の日本では、以前お台場GPなどが企画されたものの、市街地レースはいまだ実現してないが、もしも東京でナイトレースが開催されたら、観戦しながら飲むにはこれが一番だろう。
クローズドサーキットとはまた違った迫力があるので、是非何処かで開催して欲しいものだ。

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