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2011年08月07日 (日) | 編集 |
雪に閉ざされた街で出会ったのは、二つの幼く孤独な魂・・・・
トーマス・アルフレッドソン監督による、スウェーデン発の異色のヴァンパイア映画、「ぼくのエリ 200歳の少女」のハリウッド・リメイク版。
監督・脚本を「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーヴスが手がけ、1983年のニューメキシコを舞台に、苛められっ子の少年と永遠の12歳を生きるヴァンパイアの少女の切ない恋物語が描かれる。
主演は、「キック・アス」のヒット・ガール役で大ブレイクしたクロエ・グレース・モレッツと、「ザ・ロード」でヴィゴ・モーテンセンの息子役を演じたコディ・スミット=マクフィー。
リチャード・ジェンキンスやイライアス・コティーズら、ベテラン勢が脇を固める。
1983年、ニューメキシコ州ロスアラモス。
孤独な少年オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)は、アパートの隣の部屋に引っ越してきたアビー(クロエ・グレース・モレッツ)という同い年の少女と出会う。
次第にアビーのミステリアスな魅力に惹かれてゆくオーウェンだが、夜になると彼女の家から聞こえる怒鳴り声から、彼女が父親に虐待されているのだと考え心を痛める。
ある日、オーウェンはモールス信号のメモをアビーに渡し、それ以来二人は壁越しにノックで会話を交わすようになる。
そしてオーウェンが学校で苛められている事を知り、「やりかえすのよ」と言うアビー。
次第にアビーに恋心を抱くようになるオーウェンだったが、時を同じくして、近所で猟奇連続殺人事件が起こり始める・・・・
他国のヒット作をハリウッドがリメイクするのはもはや珍しい事ではないが、本作はその中でも近年で最も成功した例と言えるだろう。
オリジナルのムードを色濃く残しながらも、物語の新しい解釈・意味づけを行い、単なる英語版以上の優れたハリウッド映画として生まれ変わっている。
説明的要素を極力排除し、いわば緊張感を持った観客との阿吽の呼吸によって成立していたオリジナルは、後述する様にたった1カットを見逃しただけで、物語全体の意味を取り違えてしまう様な危うさを持っていたが、リメイク版は娯楽映画としてとてもわかりやすく完成度が高い。
まあこの辺りを説明過多ととるか、親切ととるかで好みは分かれるだろうが、私はこれはハリウッド映画が多民族文化の中で培ってきた特質であって、決して悪い事ではないと思う。
マット・リーヴスは、作劇上幾つかの点を改変しているが、最も重要なのは二箇所だ。
一つ目は言うまでもなく、時代と場所の設定である。
舞台は北欧スウェーデンの首都ストックホルムから、1983年のニューメキシコ州ロスアラモスへと移っているが、作品の精神的背景を米国ならではの設定で再構成するユニークな試みだ。
劇中でも繰り返し言及される“善と悪”の概念。
レーガン時代のアメリカは、自らを善なる存在と信じ、対立するソ連を“悪の帝国”と呼んだ。
キリスト教保守派の価値観を軸とした善悪の区分は、“善なるアメリカ”と、その外部に存在する“悪しき者”の二元論で世界を見せたのである。
そして主人公のオーウェンが住むロスアラモスは、マンハッタン計画以来のアメリカの核兵器開発のメッカであり、神の国アメリカを恐怖によって庇護する街なのだ。
離婚の瀬戸際にあるオーウェンの両親も、母親はアルコールと信仰に傾倒し、父親はそんな家庭に嫌気が差し別居中。
母の価値観に基けば、信仰心の無い父親は“悪しき者”となり、オーウェンは家庭の中でも善悪の価値観に引き裂かれている。
一方で彼は学校で酷い苛めのターゲットとなり、心安らぐのは雪の降りしきるアパートの中庭で、たった一人で遊ぶ時だけ。
彼の内なるアメリカは、決して“善なる者”によってのみ構成されてはいない。
そんなオーウェンの前に現れるたアビーは、人間を殺し、その生き血によって永遠の時を生きるヴァンパイアだ。
しかし彼女が人を殺すのは単に生きるためで、そこには善も悪もない。
大人たちの押し付ける価値観の嘘を自らの体験として知っているオーウェンが、“悪しき者”であるはずのアビーの内面に自らと同じ孤独を感じ、仄かな初恋が芽生えるのは必然なのである。
ここでもう一つ、作劇上の大きな改変が、自分の気持ちを告白するオーウェンに対する、アビーの「私は女の子じゃない」という台詞の解釈だ。
話題になったので、ご存知の方も多いだろうが、オリジナルの日本公開時にはエリ(アビー)の陰部が映るカットが一箇所あり、そこには去勢された男性器の跡が映し出されていた。
実はエリは少女ではなく少年で、オスカー(オーウェン)との関係には、単純な恋愛感情以上の複雑な葛藤が織り込まれていたのである。
ところが、日本公開版では肝心のカットにボカシがかかっていたがために、多くの観客はこの事実を知らないまま普通に少年少女の初恋物として受け取ってしまい、その為に同じ映画を観たはずなのに、日本の観客と海外の観客とで全く感想が異なるという珍事を招いてしまったのだ。
オリジナルの「ぼくのエリ 200歳の少女」の原題は「Let the right one in(Låt den rätte komma in)」で、訳せば「善なる者を招き入れよ」となるだろう。
このタイトルは“悪しき者”であるヴァンパイアは、招かれない限りその家に入る事は出来ないという伝承から採られているのだが、ここでは男の子でも女の子でもないエリの設定によって、物語が二元論から解放され、果たして人間の中に“悪”はあるのかというテーマを打ち出しているのである。
ただ私は、オリジナルを観た時、この設定は(たとえボカシが無かったとしても)文学的過ぎて、映画としてはかなり深読みしないと伝わらないのではないかと思った。
たぶん、マット・リーヴスも同じ事を考えたのだろうが、リメイク版ではアビーが少年である事を示唆する部分は全く無く、「女の子じゃない」はイコール「ヴァンパイアである」と解釈できる様になっている。
無論、少年でないとも言ってないのだけど、どこからどう見ても“女の子”でしかないクロエ・グレース・モレッツを去勢された少年に見せようという意思が無い事は明らかで、オリジナルを知らずに本作を観る圧倒的多数のアメリカ人観客にとっては、アビーは少女ヴァンパイア以外の何者でもないのだから、事実上の設定変更と言える。
同時に、アビーの庇護者である“父”の意味づけも全く異なる。
オリジナルで“父”とされていた人物は、ヴァンパイアを崇拝するゲイの小児性愛者であるという設定であった。
だがリメイク版は、“父”がオーウェンと同じように少年時代にアビーと恋に落ち、以来彼女と共に生涯を生きてきた事を強く示唆する。
つまり、“父”はオーウェンの未来の姿でもあるのだ。
アビーはおそらく、それぞれの時代で少年を虜にし、昼間の庇護者とする事でずっと生きてきたのだろう。
それ故に、相手をヴァンパイアにする事は無く、二人は決して同じ時を生きる事はできない。
年老いた“父”が、アビーがオーウェンと親しくなった事を知り、彼女に「もう会うな」というのは、ヴァンパイアである事がばれるとか、危険が及ぶとかの心配ではなく若い“新恋人”に対する嫉妬なのである。
だが、だからと言ってアビーの愛が打算であるとはいえないだろう。
“父”の最期の瞬間に、アビーが彼の血を吸うのは、生涯を彼女の為に生きた男への最大限の愛の証に思える。
マット・リーヴスは、オリジナルでは主要登場人物のオスカーとエリと“父”の、三人の人間関係だけで語られていたテーマを整理する事で、本作を似て非なる物にしている。
“善と悪”を巡る多分に宗教的な概念を、83年と言う時代性とロスアラモスという舞台を巧みに使って物語の背景に配置し、そこから生まれる登場人物の葛藤は、最終的に初恋を巡る極めてパーソナルなラブストーリーとして純化させているのである。
それは「Let me in」と、格段にシンプルになったタイトルにも現れている。
このタイトルには、オーウェンの家にアビーを招き入れるという直接的な意味の他に、彼の心の中に彼女を入れる、いわば精神的な同化という意味があるのだと思う。
少年たちにとってアビーは永遠に色あせない初恋の象徴であり、だからそこ彼らはその気持ちを捨てられずに自らの人生を捧げ愛し続ける。
「ハリポタ」のスネイプ先生もそうだが、男とは時に初恋に殉死するくらいに純情な生き物であり、アビーは彼らの愛を受けた報いとして、永遠の12歳という孤独を生きるのであろう。
余談だが、本作の持つ独特のムードは、ハンガリー出身のニコラス・ジェスネル監督が1976年に発表した「白い家の少女」によく似ている。
当時14歳のジョディ・フォスターが、たった一人で白い家に住む少女を演じ、彼女の初恋と殺人が、ショパンのピアノ協奏曲第1番の切ないメロディにのせて描かれる。
オリジナル観た時から若干デジャヴを感じていたが、物語がシンプルになったリメイク版ではそれがより顕著になった。
ニコラス・ジェスネルは劇場映画の監督としてはあまり成功できなかった人物で、この映画も知る人ぞ知る作品だが、登場人物の造形など本作にも若干の影響を与えているのではないかと思う。
本作を気に入った人には是非観て欲しい一本である。
今回は、雪に覆われた風景が印象的な映画だったので、同じように真っ白で上品なカクテル「ホワイト・レディ」をチョイス。
ドライ・ジン30mlとホワイト・キュラソー15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ジンのスッキリしたテイストに、仄かな甘みと酸味が加わった優しい味わいは、まさに初恋の味。
因みにベースをウォッカに変えると「バラライカ」となり、こちらは更に軽やかで透明感のある味わいを楽しめる。
「キック・アス」に続いて、ヲタクの心を鷲掴みしそうなクロエちゃんだが、もうちょっと大人になると、カクテルグラスの似合う素敵なレディになるだろうな。
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トーマス・アルフレッドソン監督による、スウェーデン発の異色のヴァンパイア映画、「ぼくのエリ 200歳の少女」のハリウッド・リメイク版。
監督・脚本を「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーヴスが手がけ、1983年のニューメキシコを舞台に、苛められっ子の少年と永遠の12歳を生きるヴァンパイアの少女の切ない恋物語が描かれる。
主演は、「キック・アス」のヒット・ガール役で大ブレイクしたクロエ・グレース・モレッツと、「ザ・ロード」でヴィゴ・モーテンセンの息子役を演じたコディ・スミット=マクフィー。
リチャード・ジェンキンスやイライアス・コティーズら、ベテラン勢が脇を固める。
1983年、ニューメキシコ州ロスアラモス。
孤独な少年オーウェン(コディ・スミット=マクフィー)は、アパートの隣の部屋に引っ越してきたアビー(クロエ・グレース・モレッツ)という同い年の少女と出会う。
次第にアビーのミステリアスな魅力に惹かれてゆくオーウェンだが、夜になると彼女の家から聞こえる怒鳴り声から、彼女が父親に虐待されているのだと考え心を痛める。
ある日、オーウェンはモールス信号のメモをアビーに渡し、それ以来二人は壁越しにノックで会話を交わすようになる。
そしてオーウェンが学校で苛められている事を知り、「やりかえすのよ」と言うアビー。
次第にアビーに恋心を抱くようになるオーウェンだったが、時を同じくして、近所で猟奇連続殺人事件が起こり始める・・・・
他国のヒット作をハリウッドがリメイクするのはもはや珍しい事ではないが、本作はその中でも近年で最も成功した例と言えるだろう。
オリジナルのムードを色濃く残しながらも、物語の新しい解釈・意味づけを行い、単なる英語版以上の優れたハリウッド映画として生まれ変わっている。
説明的要素を極力排除し、いわば緊張感を持った観客との阿吽の呼吸によって成立していたオリジナルは、後述する様にたった1カットを見逃しただけで、物語全体の意味を取り違えてしまう様な危うさを持っていたが、リメイク版は娯楽映画としてとてもわかりやすく完成度が高い。
まあこの辺りを説明過多ととるか、親切ととるかで好みは分かれるだろうが、私はこれはハリウッド映画が多民族文化の中で培ってきた特質であって、決して悪い事ではないと思う。
マット・リーヴスは、作劇上幾つかの点を改変しているが、最も重要なのは二箇所だ。
一つ目は言うまでもなく、時代と場所の設定である。
舞台は北欧スウェーデンの首都ストックホルムから、1983年のニューメキシコ州ロスアラモスへと移っているが、作品の精神的背景を米国ならではの設定で再構成するユニークな試みだ。
劇中でも繰り返し言及される“善と悪”の概念。
レーガン時代のアメリカは、自らを善なる存在と信じ、対立するソ連を“悪の帝国”と呼んだ。
キリスト教保守派の価値観を軸とした善悪の区分は、“善なるアメリカ”と、その外部に存在する“悪しき者”の二元論で世界を見せたのである。
そして主人公のオーウェンが住むロスアラモスは、マンハッタン計画以来のアメリカの核兵器開発のメッカであり、神の国アメリカを恐怖によって庇護する街なのだ。
離婚の瀬戸際にあるオーウェンの両親も、母親はアルコールと信仰に傾倒し、父親はそんな家庭に嫌気が差し別居中。
母の価値観に基けば、信仰心の無い父親は“悪しき者”となり、オーウェンは家庭の中でも善悪の価値観に引き裂かれている。
一方で彼は学校で酷い苛めのターゲットとなり、心安らぐのは雪の降りしきるアパートの中庭で、たった一人で遊ぶ時だけ。
彼の内なるアメリカは、決して“善なる者”によってのみ構成されてはいない。
そんなオーウェンの前に現れるたアビーは、人間を殺し、その生き血によって永遠の時を生きるヴァンパイアだ。
しかし彼女が人を殺すのは単に生きるためで、そこには善も悪もない。
大人たちの押し付ける価値観の嘘を自らの体験として知っているオーウェンが、“悪しき者”であるはずのアビーの内面に自らと同じ孤独を感じ、仄かな初恋が芽生えるのは必然なのである。
ここでもう一つ、作劇上の大きな改変が、自分の気持ちを告白するオーウェンに対する、アビーの「私は女の子じゃない」という台詞の解釈だ。
話題になったので、ご存知の方も多いだろうが、オリジナルの日本公開時にはエリ(アビー)の陰部が映るカットが一箇所あり、そこには去勢された男性器の跡が映し出されていた。
実はエリは少女ではなく少年で、オスカー(オーウェン)との関係には、単純な恋愛感情以上の複雑な葛藤が織り込まれていたのである。
ところが、日本公開版では肝心のカットにボカシがかかっていたがために、多くの観客はこの事実を知らないまま普通に少年少女の初恋物として受け取ってしまい、その為に同じ映画を観たはずなのに、日本の観客と海外の観客とで全く感想が異なるという珍事を招いてしまったのだ。
オリジナルの「ぼくのエリ 200歳の少女」の原題は「Let the right one in(Låt den rätte komma in)」で、訳せば「善なる者を招き入れよ」となるだろう。
このタイトルは“悪しき者”であるヴァンパイアは、招かれない限りその家に入る事は出来ないという伝承から採られているのだが、ここでは男の子でも女の子でもないエリの設定によって、物語が二元論から解放され、果たして人間の中に“悪”はあるのかというテーマを打ち出しているのである。
ただ私は、オリジナルを観た時、この設定は(たとえボカシが無かったとしても)文学的過ぎて、映画としてはかなり深読みしないと伝わらないのではないかと思った。
たぶん、マット・リーヴスも同じ事を考えたのだろうが、リメイク版ではアビーが少年である事を示唆する部分は全く無く、「女の子じゃない」はイコール「ヴァンパイアである」と解釈できる様になっている。
無論、少年でないとも言ってないのだけど、どこからどう見ても“女の子”でしかないクロエ・グレース・モレッツを去勢された少年に見せようという意思が無い事は明らかで、オリジナルを知らずに本作を観る圧倒的多数のアメリカ人観客にとっては、アビーは少女ヴァンパイア以外の何者でもないのだから、事実上の設定変更と言える。
同時に、アビーの庇護者である“父”の意味づけも全く異なる。
オリジナルで“父”とされていた人物は、ヴァンパイアを崇拝するゲイの小児性愛者であるという設定であった。
だがリメイク版は、“父”がオーウェンと同じように少年時代にアビーと恋に落ち、以来彼女と共に生涯を生きてきた事を強く示唆する。
つまり、“父”はオーウェンの未来の姿でもあるのだ。
アビーはおそらく、それぞれの時代で少年を虜にし、昼間の庇護者とする事でずっと生きてきたのだろう。
それ故に、相手をヴァンパイアにする事は無く、二人は決して同じ時を生きる事はできない。
年老いた“父”が、アビーがオーウェンと親しくなった事を知り、彼女に「もう会うな」というのは、ヴァンパイアである事がばれるとか、危険が及ぶとかの心配ではなく若い“新恋人”に対する嫉妬なのである。
だが、だからと言ってアビーの愛が打算であるとはいえないだろう。
“父”の最期の瞬間に、アビーが彼の血を吸うのは、生涯を彼女の為に生きた男への最大限の愛の証に思える。
マット・リーヴスは、オリジナルでは主要登場人物のオスカーとエリと“父”の、三人の人間関係だけで語られていたテーマを整理する事で、本作を似て非なる物にしている。
“善と悪”を巡る多分に宗教的な概念を、83年と言う時代性とロスアラモスという舞台を巧みに使って物語の背景に配置し、そこから生まれる登場人物の葛藤は、最終的に初恋を巡る極めてパーソナルなラブストーリーとして純化させているのである。
それは「Let me in」と、格段にシンプルになったタイトルにも現れている。
このタイトルには、オーウェンの家にアビーを招き入れるという直接的な意味の他に、彼の心の中に彼女を入れる、いわば精神的な同化という意味があるのだと思う。
少年たちにとってアビーは永遠に色あせない初恋の象徴であり、だからそこ彼らはその気持ちを捨てられずに自らの人生を捧げ愛し続ける。
「ハリポタ」のスネイプ先生もそうだが、男とは時に初恋に殉死するくらいに純情な生き物であり、アビーは彼らの愛を受けた報いとして、永遠の12歳という孤独を生きるのであろう。
余談だが、本作の持つ独特のムードは、ハンガリー出身のニコラス・ジェスネル監督が1976年に発表した「白い家の少女」によく似ている。
当時14歳のジョディ・フォスターが、たった一人で白い家に住む少女を演じ、彼女の初恋と殺人が、ショパンのピアノ協奏曲第1番の切ないメロディにのせて描かれる。
オリジナル観た時から若干デジャヴを感じていたが、物語がシンプルになったリメイク版ではそれがより顕著になった。
ニコラス・ジェスネルは劇場映画の監督としてはあまり成功できなかった人物で、この映画も知る人ぞ知る作品だが、登場人物の造形など本作にも若干の影響を与えているのではないかと思う。
本作を気に入った人には是非観て欲しい一本である。
今回は、雪に覆われた風景が印象的な映画だったので、同じように真っ白で上品なカクテル「ホワイト・レディ」をチョイス。
ドライ・ジン30mlとホワイト・キュラソー15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ジンのスッキリしたテイストに、仄かな甘みと酸味が加わった優しい味わいは、まさに初恋の味。
因みにベースをウォッカに変えると「バラライカ」となり、こちらは更に軽やかで透明感のある味わいを楽しめる。
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