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2011年08月17日 (水) | 編集 |
人間とは何者か、神は何処にいるのか・・・・?
「ツリー・オブ・ライフ」は、商業映画デビュー以来38年で、発表した作品は僅かに5本という、超寡作な異才テレンス・マリックの6年ぶりの新作である。
二世代に渡るある家族の歴史を通して、我々は何故存在し、何処から来て何処を目指しているのかを、深い追憶と共に描き出す壮大な映像詩だ。
黄金時代のアメリカの家庭に君臨する厳格な父親をブラッド・ピット、父親の巨大な影によって深刻な葛藤を抱える息子のジャックを、一万人以上の子供達の中から選ばれたハンター・マクラケン、成長した現在のジャックをショーン・ペンが演じる。
人生の岐路を迎えている実業家のジャック(ショーン・ペン)は、喪失感に苛まれ、何時しか少年時代を回想する。
1950年代、テキサス州ウェーコに暮らしていた11歳のジャック(ハンター・マクラケン)は、父(ブラッド・ピット)と母(ジェシカ・チャスティン)と二人の弟と共に暮らしていた。
一見するとごく普通の幸せそうな家族。
だがジャックは、信心深く子供達に善良な人間になって欲しいという母と、力こそ正義で目的の為には善良すぎてはいけないと説く厳格な父の間で引き裂かれ、葛藤していた。
父に反発しながらも、自分の中にある父の存在を否定できないジャック。
一体、自分は何者なのか・・・・少年時代の葛藤は、弟の予期せぬ死によって大きな喪失感へと変わってゆく・・・・
いかにもテレンス・マリックらしい、特異な映画である。
ジェームス・ディーンそっくりの男と、夢見がちな少女の殺人と逃避行を描いたデビュー作「地獄の逃避行」から、アメリカ開拓時代初期の神話的ラブストーリー「ニュー・ワールド」まで、マリックの映画は一貫して苦悩を抱えた人間の営みが、神々しいまでに美しい自然の中で描かれてきた。
物語性は希薄で、ほぼ心象風景の描写に終始するも、登場人物の心のあり様が見せる自然の切り取り方、例えばガダルカナルの戦いを描いた「シン・レッド・ライン」に見られる様に、弾丸が飛び交う戦場でも自然の荘厳さが不意に心に飛び込んで来るといった、マリック作品以外では絶対にイメージできない独特の世界観を形作ってきたのである。
この自然の摂理を通して、人間存在の本質を描こうとするスタンスは本作も同じ。
作品のバックボーンとなるのは、アメリカが最も輝かしかった1950年代を舞台とした父と息子の葛藤だ。
保守的な南部テキサスの田舎町にあって、主人公のジャック少年の家庭では対照的な二つの価値観が衝突している。
神の存在を感じ、自然の森羅万象を愛でる母は、宇宙からの大いなる愛を体現する存在だ。
対照的に、世俗的で社会的な成功こそ全てと信じる父は、厳格な掟と暴力によって、子供達を支配する。
父親に強い反発を感じながらも、自らの内面に父親から受け継いだ価値観を感じ、母親を完全に肯定することも出来ないジャックは、自らの内と外で相反する価値観に引き裂かれているのである。
強大な父と反発する息子という、ジャックの抱える葛藤は、過去にも多くの作品でも描かれてきた、いわばハリウッド映画の鉄壁のパターンの一つだが、普通の作家ならここからじっくりと人間ドラマを描いてゆくところ。
だがマリックは、予想もしない方向に、思いっきり作品世界を飛躍させる。
モチーフとなっているのは、冒頭にも字幕で表示される旧約聖書の「ヨブ記」だ。
42章からなるヨブ記では、敬虔なるヨブの信仰を試すために神があらゆる試練を与える。
ヨブはそれに耐えるのだが、何時しか善良なる者を何故神は苦しめるのかと疑念を抱き、遂に全能の神に対して申し立てを行う。
神は沈黙したまま答えないが、ヨブが神はどこにいるのかと絶望を募らせると、遂にその口を開き、ヨブとの対話に応じるのだ。
ジャックが現代のヨブであり、本作が人間の内なる神性とは何かを描く物語である事を示すため、映画はジャック個人が認識している心象を遥かに超えて、突然宇宙創造のその瞬間まで時空の回廊を遡ってしまう。
長年にわたってマリックの映画に親しんできた人ですら、これは驚きだろう。
何しろ、地上の自然を如何にとらえるかにずっと拘ってきた人が、デジタル技術を駆使して虚構の映像を作り上げ、太陽系の形成、生命の誕生から恐竜まで登場させてしまったのだ。
この極めてリアルでナショナルジオグラフィックの科学番組の如きシークエンスの制作には、「ブレードランナー」以来実に29年ぶりに、ダグラス・トランブルがスーパーバイザーとしてクレジットされている。
映画を物語の流れとして考えれば、唐突にも見える創世神話のビジュアルは、実は全編に渡って描写される現実世界の映像とマクロとミクロの関係で密接に絡み合う。
本作では縦横無尽にカメラが動き回り、一体誰の視点なのかと思わされる様々なアングルから世界が切り取られ、細かなカット割りで紡がれて行く。
普通の日常からは、決して観る事の無いカメラが作り出す不思議な視点の主は、正しく神の目であると言えよう。
旧約聖書から材を取っていても、マリックの考える神とは、所謂一神教的な明確な存在ではなく、この宇宙、自然そのものが神であり、故に神は何処にでもいるというアニミズム的な概念の様に思える。
優しい母と遊んだ懐かしい風景、川で死んだ同級生の思い出、畏怖の念を抱いていた父に反抗した瞬間、人生のそれぞれの一瞬のキラキラした美しさと、対照的な緊張と閉塞感。
そして生まれたばかりの赤ん坊の、小さな小さな足をとらえたカットは、この映画の一コマ一コマにも神が宿っている事をストレートに感じさせる。
やがて、少年時代を支配した父の弱さを知り、弟が若くしてこの世を去ると、ジャックは大きな喪失感に苛まれ、それは数十年の時が流れ、成人して父以上の成功を収めた今も、彼の心を苦しめる。
あらゆる生命・意識は、他と関わりなく突然この世界に存在する訳ではない。
それぞれは個であると同時に、タイトル通り天地創造の瞬間から紡がれてきた、一つの大きな“生命の木”の先端である。
父と母は自らの命の継承者である子供たちに一体に何を与えたのか、ジャックは一体何を受け継ぎ、何を捨ててきたのか。
自分は神性に生きる善良なる者なのか、それとも俗世に生きる悪しき者なのか。
少年時代から続く、二十世紀的価値観の葛藤に支配されたジャックは、ヨブ同様に人生における苦しみに意味と答えを欲し、自分は一体何者なのかという答えを求め続けているのである。
だが、神は試練を与え、答えは示さない。
映画の終盤、ジャックは無機質なエレベーターに乗って上昇し、荒野に置かれた朽ち果てた門をくぐる。
天国の様でもあり、あらゆる意識が溶け合う、原初の楽園の様にも見えるその世界で、ジャックの意識は父、母、無くなった弟、そして少年時代の自分と出会う。
そこには葛藤は無く、ただただ存在があるだけである。
ヨブの申し立てに神が答えた様に、このシークエンスはジャックにとっての神との対話なのかも知れないが、それはおそらくジャックを深い絶望から救う事にはならないだろう。
神の意識の中では、あらゆる人間の葛藤も苦悩も壮大な創造の一部に過ぎず、そこに明確な答えは無いからだ。
しかし、それは神の不在を意味しない。
魂の交感を経たジャックは、エレベータで下降し、再び地上に降り立つ。
この映画の登場人物は、神の存在を捜し求めるかの様に、常に上を見上げているが、実は我々自身が神の一部であり、神は常に我々に寄り添い、何時何処にでも存在している。
「ツリー・オブ・ライフ」はテレンス・マリックという映画作家によって創造された、いわばスクリーンに投影されたミニチュアの宇宙なのである。
今回は天を見上げ続ける人々の映画という事で、秋田県の朝舞酒造の「天の戸 純米吟醸 氷晶 ダイヤモンドダスト」をチョイス。
映画同様に、非常に柔らかい味わいの純米酒らしい一本で、透明でなく薄っすらとにごっているのが特徴。
原料米は星あかりを使用しており、冷酒にしてその名の通り、夏の夜空でも眺めながら、悠久の時に思いを馳せたい。
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「ツリー・オブ・ライフ」は、商業映画デビュー以来38年で、発表した作品は僅かに5本という、超寡作な異才テレンス・マリックの6年ぶりの新作である。
二世代に渡るある家族の歴史を通して、我々は何故存在し、何処から来て何処を目指しているのかを、深い追憶と共に描き出す壮大な映像詩だ。
黄金時代のアメリカの家庭に君臨する厳格な父親をブラッド・ピット、父親の巨大な影によって深刻な葛藤を抱える息子のジャックを、一万人以上の子供達の中から選ばれたハンター・マクラケン、成長した現在のジャックをショーン・ペンが演じる。
人生の岐路を迎えている実業家のジャック(ショーン・ペン)は、喪失感に苛まれ、何時しか少年時代を回想する。
1950年代、テキサス州ウェーコに暮らしていた11歳のジャック(ハンター・マクラケン)は、父(ブラッド・ピット)と母(ジェシカ・チャスティン)と二人の弟と共に暮らしていた。
一見するとごく普通の幸せそうな家族。
だがジャックは、信心深く子供達に善良な人間になって欲しいという母と、力こそ正義で目的の為には善良すぎてはいけないと説く厳格な父の間で引き裂かれ、葛藤していた。
父に反発しながらも、自分の中にある父の存在を否定できないジャック。
一体、自分は何者なのか・・・・少年時代の葛藤は、弟の予期せぬ死によって大きな喪失感へと変わってゆく・・・・
いかにもテレンス・マリックらしい、特異な映画である。
ジェームス・ディーンそっくりの男と、夢見がちな少女の殺人と逃避行を描いたデビュー作「地獄の逃避行」から、アメリカ開拓時代初期の神話的ラブストーリー「ニュー・ワールド」まで、マリックの映画は一貫して苦悩を抱えた人間の営みが、神々しいまでに美しい自然の中で描かれてきた。
物語性は希薄で、ほぼ心象風景の描写に終始するも、登場人物の心のあり様が見せる自然の切り取り方、例えばガダルカナルの戦いを描いた「シン・レッド・ライン」に見られる様に、弾丸が飛び交う戦場でも自然の荘厳さが不意に心に飛び込んで来るといった、マリック作品以外では絶対にイメージできない独特の世界観を形作ってきたのである。
この自然の摂理を通して、人間存在の本質を描こうとするスタンスは本作も同じ。
作品のバックボーンとなるのは、アメリカが最も輝かしかった1950年代を舞台とした父と息子の葛藤だ。
保守的な南部テキサスの田舎町にあって、主人公のジャック少年の家庭では対照的な二つの価値観が衝突している。
神の存在を感じ、自然の森羅万象を愛でる母は、宇宙からの大いなる愛を体現する存在だ。
対照的に、世俗的で社会的な成功こそ全てと信じる父は、厳格な掟と暴力によって、子供達を支配する。
父親に強い反発を感じながらも、自らの内面に父親から受け継いだ価値観を感じ、母親を完全に肯定することも出来ないジャックは、自らの内と外で相反する価値観に引き裂かれているのである。
強大な父と反発する息子という、ジャックの抱える葛藤は、過去にも多くの作品でも描かれてきた、いわばハリウッド映画の鉄壁のパターンの一つだが、普通の作家ならここからじっくりと人間ドラマを描いてゆくところ。
だがマリックは、予想もしない方向に、思いっきり作品世界を飛躍させる。
モチーフとなっているのは、冒頭にも字幕で表示される旧約聖書の「ヨブ記」だ。
42章からなるヨブ記では、敬虔なるヨブの信仰を試すために神があらゆる試練を与える。
ヨブはそれに耐えるのだが、何時しか善良なる者を何故神は苦しめるのかと疑念を抱き、遂に全能の神に対して申し立てを行う。
神は沈黙したまま答えないが、ヨブが神はどこにいるのかと絶望を募らせると、遂にその口を開き、ヨブとの対話に応じるのだ。
ジャックが現代のヨブであり、本作が人間の内なる神性とは何かを描く物語である事を示すため、映画はジャック個人が認識している心象を遥かに超えて、突然宇宙創造のその瞬間まで時空の回廊を遡ってしまう。
長年にわたってマリックの映画に親しんできた人ですら、これは驚きだろう。
何しろ、地上の自然を如何にとらえるかにずっと拘ってきた人が、デジタル技術を駆使して虚構の映像を作り上げ、太陽系の形成、生命の誕生から恐竜まで登場させてしまったのだ。
この極めてリアルでナショナルジオグラフィックの科学番組の如きシークエンスの制作には、「ブレードランナー」以来実に29年ぶりに、ダグラス・トランブルがスーパーバイザーとしてクレジットされている。
映画を物語の流れとして考えれば、唐突にも見える創世神話のビジュアルは、実は全編に渡って描写される現実世界の映像とマクロとミクロの関係で密接に絡み合う。
本作では縦横無尽にカメラが動き回り、一体誰の視点なのかと思わされる様々なアングルから世界が切り取られ、細かなカット割りで紡がれて行く。
普通の日常からは、決して観る事の無いカメラが作り出す不思議な視点の主は、正しく神の目であると言えよう。
旧約聖書から材を取っていても、マリックの考える神とは、所謂一神教的な明確な存在ではなく、この宇宙、自然そのものが神であり、故に神は何処にでもいるというアニミズム的な概念の様に思える。
優しい母と遊んだ懐かしい風景、川で死んだ同級生の思い出、畏怖の念を抱いていた父に反抗した瞬間、人生のそれぞれの一瞬のキラキラした美しさと、対照的な緊張と閉塞感。
そして生まれたばかりの赤ん坊の、小さな小さな足をとらえたカットは、この映画の一コマ一コマにも神が宿っている事をストレートに感じさせる。
やがて、少年時代を支配した父の弱さを知り、弟が若くしてこの世を去ると、ジャックは大きな喪失感に苛まれ、それは数十年の時が流れ、成人して父以上の成功を収めた今も、彼の心を苦しめる。
あらゆる生命・意識は、他と関わりなく突然この世界に存在する訳ではない。
それぞれは個であると同時に、タイトル通り天地創造の瞬間から紡がれてきた、一つの大きな“生命の木”の先端である。
父と母は自らの命の継承者である子供たちに一体に何を与えたのか、ジャックは一体何を受け継ぎ、何を捨ててきたのか。
自分は神性に生きる善良なる者なのか、それとも俗世に生きる悪しき者なのか。
少年時代から続く、二十世紀的価値観の葛藤に支配されたジャックは、ヨブ同様に人生における苦しみに意味と答えを欲し、自分は一体何者なのかという答えを求め続けているのである。
だが、神は試練を与え、答えは示さない。
映画の終盤、ジャックは無機質なエレベーターに乗って上昇し、荒野に置かれた朽ち果てた門をくぐる。
天国の様でもあり、あらゆる意識が溶け合う、原初の楽園の様にも見えるその世界で、ジャックの意識は父、母、無くなった弟、そして少年時代の自分と出会う。
そこには葛藤は無く、ただただ存在があるだけである。
ヨブの申し立てに神が答えた様に、このシークエンスはジャックにとっての神との対話なのかも知れないが、それはおそらくジャックを深い絶望から救う事にはならないだろう。
神の意識の中では、あらゆる人間の葛藤も苦悩も壮大な創造の一部に過ぎず、そこに明確な答えは無いからだ。
しかし、それは神の不在を意味しない。
魂の交感を経たジャックは、エレベータで下降し、再び地上に降り立つ。
この映画の登場人物は、神の存在を捜し求めるかの様に、常に上を見上げているが、実は我々自身が神の一部であり、神は常に我々に寄り添い、何時何処にでも存在している。
「ツリー・オブ・ライフ」はテレンス・マリックという映画作家によって創造された、いわばスクリーンに投影されたミニチュアの宇宙なのである。
今回は天を見上げ続ける人々の映画という事で、秋田県の朝舞酒造の「天の戸 純米吟醸 氷晶 ダイヤモンドダスト」をチョイス。
映画同様に、非常に柔らかい味わいの純米酒らしい一本で、透明でなく薄っすらとにごっているのが特徴。
原料米は星あかりを使用しており、冷酒にしてその名の通り、夏の夜空でも眺めながら、悠久の時に思いを馳せたい。

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![]() 天の戸 純米吟醸『氷晶 ダイヤモンドダスト』720ml 10P14Sep09 |
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