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2011年08月24日 (水) | 編集 |
遠く離れた北欧とアフリカで、暴力の連鎖が交錯する。
「未来を生きる君たちへ」は、本年度米アカデミー賞とゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞をダブル受賞するという快挙を達成した、デンマーク発の問題作である。
「アフター・ウェディング」の世界的成功で、ハリウッドへも進出したスサンネ・ビア監督は、憎しみと暴力が渦巻く世界における非暴力のジレンマを通して、負の連鎖を断ち切る事の難しさ、そしてその先にある微かな希望を描き出す。
邦題は英題の「IN A BETTER WORLD(より良き世界で)」にニュアンスの近い希望的な物だが、デンマーク語の原題はズバリ「HÆVNEN(復讐)」というストレートさだ。
デンマークに家を持つスウェーデン人の医師のアントン(ミカエル・パーシュブラント)は、アフリカの難民キャンプで活動しているが、彼の担当地域では妊婦の腹を切り裂いて殺す、“ビッグマン”と呼ばれる武装勢力のボスが幅を利かせており、犠牲者が相次いでいた。
一方、母を亡くしたクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)が転入した学校では、アントンの息子であるエリアス(マークス・リーゴード)が執拗なイジメにあっている。
エリアスと親しくなったクリスチャンは、ある時いじめっ子の上級生を不意打ちして殴り、ナイフを突きつけて二度と手を出すなと脅す。
学校に呼び出されたクリスチャンの父クラウス(ウルリッヒ・トムセン)は、復讐には限りが無いと叱るが、クリスチャンはやられたらやり返さなければダメだと言い返す。
帰国したアントンが子供達とクリスチャンを連れて出かけた時、ちょっとした誤解からアントンがラース(キム・ボドニア)という粗野な男に殴られる。
なぜ殴り返さないと聞くクリスチャンに、アントンは相手は殴るしか能の無い愚か者で、殴り返せば相手と同じになってしまうと諭すが、クリスチャンは不満気だ。
そして、アフリカに戻ったアントンの元に、傷を負ったビッグマンが担ぎ込まれる。
人殺しを治せば、再び犠牲者が出る・・・ジレンマを抱えながら、彼の治療を行うアントン。
その頃、ラースに対するアントンの態度に納得出来ないクリスチャンとエリアスは、ある復讐計画を実行しようとするが・・・・
イギリスのエコノミスト誌が発表している「世界平和度指数」の2010年版によると、本作の舞台となるデンマークの平和度は世界7位。
周辺のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドと言った北欧諸国も軒並みトップ10に名を連ねている。
対して、もう一つの舞台となるアフリカの紛争地の指数は、ソマリアが最下位のイラクに次ぐ148位、スーダン146位であり、他にもアフリカの多くの国々が100位以下という悲惨な状況にある。
単純に数字で見ると、余りにもかけ離れた二つの世界。
しかしながら、程度の差はあれど、どちらも憎しみと暴力に無縁とは言えない。
映画は、北欧とアフリカ、大人と子供、男と女など、幾つものコントラストの中に存在する不寛容と、そこから生まれる負の連鎖を描き出してゆくが、単純に暴力はいけない、連鎖を断ち切らねば、という事を声高に主張する訳ではなく、むしろ暴力を否定する事によるジレンマを描く事で、非暴力のを貫くことの難しさを突きつけるのである。
主人公の一人、クリスチャンは、母親の葬儀でアンデルセンの童話「小夜啼鳥」の一説を読み上げる。
小夜啼鳥は美しい声で鳴き、その声は中国の皇帝をも虜にするほど。
だがある時、宝石をちりばめた機械仕掛けの小夜啼鳥を手に入れた皇帝は、偽物の声に満足して本物の小夜啼鳥を遠ざけてしまう。
ところが長い年月を経て機械の鳥は壊れ、死神に魅入られた皇帝が病に臥せった時、歌声を奏でる事は無かった。
失意の皇帝を癒したのは、本物の小夜啼鳥だった。
嘗て無用とされたにもかかわらず、歌声を聞かせて皇帝を元気にするために戻って来たのだ。
イジー・トルンカのアニメーション映画「皇帝の鶯」の原作としても知られる、思いやりと許しが、過去の裏切りや憎しみを越えてゆくという寓話だが、クリスチャンは本心ではこの話を信じていない。
父の仕事の関係で、幼い頃から各国を巡って暮らしてきたクリスチャンは、何処に行っても新参者でありよそ者だ。
彼は自分のテリトリーに相手が踏み込む事を許さず、力を誇示する事で今まで生きてきたのである。
そんなクリスチャンが、転入した学校で出会うのが、スウェーデン人のエリアスで、彼は執拗なイジメを受けているが、やり返す事ができないでいる。
たまたまエリアスと親しくなった事で、暴力に巻き込まれたクリスチャンは、躊躇する事無くいじめっ子のボスに対して熾烈な復讐を行い、結果的にいじめっ子は二人に手出しできなくなる。
より強大な恐怖によって、小さな恐怖を遠ざけたのである。
ところがエリアスの父親であるアントンは、自らを差別的に蔑み殴った相手に対して、問いただす事はしてもやり返す事はしない。
アフリカの紛争地で活動する彼は、復讐の連鎖が如何に巨大な怪物に育つかを良く知っている。
しかしそれは、クリスチャンにとっては単なる事なかれ主義にしか見えない。
暴力には暴力で対抗する事を、自らのアイデンティティの一部にしてしまっているクリスチャンは、エリアスを巻き込んで、危険な復讐計画を実行に移すが、それが出来るのは彼が自分の中に芽生えてしまった怪物の恐ろしさを未だ知らないからである。
一方のアントンもまた、大きな矛盾にぶち当たる。
沢山の妊婦を殺してきた悪漢“ビッグマン”が、今度は患者として彼の診療所にやって来たのだ。
医師として、目の前の患者を見捨てることは出来ないが、もしもビッグマンを助ければ、彼によって再び多くの命が失われるのは確実。
ここには、単純な非暴力の理論では割り切れない矛盾が、確かに存在している。
葛藤するアントンは、遂にビッグマンの心無い一言に激高し、リンチされる事を承知で彼を憎しみに燃える難民キャンプの住人たちに引き渡す。
アントンが信条とし、クリスチャンに見せた理想は、暴力が日常である苛酷な現実の前で、余りにも無力だ。
スサンネ・ビア監督は、デンマークの少年達とアフリカで活動する医師の姿を通して、暴力には暴力で対抗するべきなのか、或いは何があっても非暴力を貫くべきなのか、非常に重いテーマを観客に問いかける。
私たちは、倫理的にはアントンの考えが正しい事を知っているが、彼の教えを守って抵抗しなかったエリアスは毎日の様に苛酷なイジメを受け、問答無用で報復したクリスチャンはイジメを止めた。
では、常に報復が暴力を止めるかと言えば、答えはそう単純ではない。
ビッグマンは怒った住民に処刑されたが、彼の後釜はいくらでもおり、一人殺したからといって暴力が止む事は無く、逆に激化するかもしれない。
もしも一定の暴力が、暴力を止めることが出来るとしても、それはどこまで許されるのか?負の連鎖は乗り越えることが出来るのだろうか?
暴力を捨て、憎しみを捨て、寛容に生きるという事は、言うほど簡単な事ではない。
なぜならそれは、子供のイジメから、国家間の戦争に至るまで、人類が出現した時点から抱えている言わば原罪であり、人間が人間たる所以である感情の問題だからだ。
非暴力の理想を持つ人でも、例えばクリスチャンがいじめっ子を殴るシーン、或いはビッグマンがリンチされるシーンでは、悪しき者が罰せられたという“復讐のカタルシス”を感じる事だろう。
スサンネ・ビアは、この問題に安易な“正解”を用意していないが、未来への微かな希望を感じさせる。
アントンが殴られた事への復讐として、遂に爆弾を製造してしまったクリスチャンとエリアスは、その予期せぬ結果によって、初めて自分の中にいる怪物の恐ろしさを実感する。
そしてより深刻なジレンマを抱える大人たちは、子供達の引き起こした事件と真摯に対峙する事で、改めて自身の中の寛容性を自問自答し、自らの生き方に対して一定の答えを出すのである。
物語の最初では、ばらばらに引き裂かれていた登場人物の絆は、葛藤とコミュニケーションを経る事によって、物語の終わりにはお互いが理解を深め、より強固に結び付いてる。
思うに、多少難しい要素を含んではいるものの、本作はとても良質な“ファミリー映画”であり、夏休みに親子で観るのに相応しい作品だと思う。
世界に満ち溢れる負の連鎖を止めるために、残念ながら特効薬は存在しない。
暴力とは、許しとは、絆とは、この映画は“より良き世界”を作るにはどうしたら良いのか、映画と言う体験を共有し、親子で考えるまたとない機会を与えてくれるのではなかろうか。
今回は、デンマークビール「ツボルグ・グリーン」をチョイス。
日本でも御馴染みのピルスナーで、今ではデンマーク最大のビール会社、カールスバーグの一部門となっているが、ツボルグの銘柄も一世紀以上の歴史を持つ。
ややヘビーな映画の後味を、深みのある上品なコクとすっきりとした喉ごしが爽やかにシメてくれるだろう。
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「未来を生きる君たちへ」は、本年度米アカデミー賞とゴールデングローブ賞の最優秀外国語映画賞をダブル受賞するという快挙を達成した、デンマーク発の問題作である。
「アフター・ウェディング」の世界的成功で、ハリウッドへも進出したスサンネ・ビア監督は、憎しみと暴力が渦巻く世界における非暴力のジレンマを通して、負の連鎖を断ち切る事の難しさ、そしてその先にある微かな希望を描き出す。
邦題は英題の「IN A BETTER WORLD(より良き世界で)」にニュアンスの近い希望的な物だが、デンマーク語の原題はズバリ「HÆVNEN(復讐)」というストレートさだ。
デンマークに家を持つスウェーデン人の医師のアントン(ミカエル・パーシュブラント)は、アフリカの難民キャンプで活動しているが、彼の担当地域では妊婦の腹を切り裂いて殺す、“ビッグマン”と呼ばれる武装勢力のボスが幅を利かせており、犠牲者が相次いでいた。
一方、母を亡くしたクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)が転入した学校では、アントンの息子であるエリアス(マークス・リーゴード)が執拗なイジメにあっている。
エリアスと親しくなったクリスチャンは、ある時いじめっ子の上級生を不意打ちして殴り、ナイフを突きつけて二度と手を出すなと脅す。
学校に呼び出されたクリスチャンの父クラウス(ウルリッヒ・トムセン)は、復讐には限りが無いと叱るが、クリスチャンはやられたらやり返さなければダメだと言い返す。
帰国したアントンが子供達とクリスチャンを連れて出かけた時、ちょっとした誤解からアントンがラース(キム・ボドニア)という粗野な男に殴られる。
なぜ殴り返さないと聞くクリスチャンに、アントンは相手は殴るしか能の無い愚か者で、殴り返せば相手と同じになってしまうと諭すが、クリスチャンは不満気だ。
そして、アフリカに戻ったアントンの元に、傷を負ったビッグマンが担ぎ込まれる。
人殺しを治せば、再び犠牲者が出る・・・ジレンマを抱えながら、彼の治療を行うアントン。
その頃、ラースに対するアントンの態度に納得出来ないクリスチャンとエリアスは、ある復讐計画を実行しようとするが・・・・
イギリスのエコノミスト誌が発表している「世界平和度指数」の2010年版によると、本作の舞台となるデンマークの平和度は世界7位。
周辺のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドと言った北欧諸国も軒並みトップ10に名を連ねている。
対して、もう一つの舞台となるアフリカの紛争地の指数は、ソマリアが最下位のイラクに次ぐ148位、スーダン146位であり、他にもアフリカの多くの国々が100位以下という悲惨な状況にある。
単純に数字で見ると、余りにもかけ離れた二つの世界。
しかしながら、程度の差はあれど、どちらも憎しみと暴力に無縁とは言えない。
映画は、北欧とアフリカ、大人と子供、男と女など、幾つものコントラストの中に存在する不寛容と、そこから生まれる負の連鎖を描き出してゆくが、単純に暴力はいけない、連鎖を断ち切らねば、という事を声高に主張する訳ではなく、むしろ暴力を否定する事によるジレンマを描く事で、非暴力のを貫くことの難しさを突きつけるのである。
主人公の一人、クリスチャンは、母親の葬儀でアンデルセンの童話「小夜啼鳥」の一説を読み上げる。
小夜啼鳥は美しい声で鳴き、その声は中国の皇帝をも虜にするほど。
だがある時、宝石をちりばめた機械仕掛けの小夜啼鳥を手に入れた皇帝は、偽物の声に満足して本物の小夜啼鳥を遠ざけてしまう。
ところが長い年月を経て機械の鳥は壊れ、死神に魅入られた皇帝が病に臥せった時、歌声を奏でる事は無かった。
失意の皇帝を癒したのは、本物の小夜啼鳥だった。
嘗て無用とされたにもかかわらず、歌声を聞かせて皇帝を元気にするために戻って来たのだ。
イジー・トルンカのアニメーション映画「皇帝の鶯」の原作としても知られる、思いやりと許しが、過去の裏切りや憎しみを越えてゆくという寓話だが、クリスチャンは本心ではこの話を信じていない。
父の仕事の関係で、幼い頃から各国を巡って暮らしてきたクリスチャンは、何処に行っても新参者でありよそ者だ。
彼は自分のテリトリーに相手が踏み込む事を許さず、力を誇示する事で今まで生きてきたのである。
そんなクリスチャンが、転入した学校で出会うのが、スウェーデン人のエリアスで、彼は執拗なイジメを受けているが、やり返す事ができないでいる。
たまたまエリアスと親しくなった事で、暴力に巻き込まれたクリスチャンは、躊躇する事無くいじめっ子のボスに対して熾烈な復讐を行い、結果的にいじめっ子は二人に手出しできなくなる。
より強大な恐怖によって、小さな恐怖を遠ざけたのである。
ところがエリアスの父親であるアントンは、自らを差別的に蔑み殴った相手に対して、問いただす事はしてもやり返す事はしない。
アフリカの紛争地で活動する彼は、復讐の連鎖が如何に巨大な怪物に育つかを良く知っている。
しかしそれは、クリスチャンにとっては単なる事なかれ主義にしか見えない。
暴力には暴力で対抗する事を、自らのアイデンティティの一部にしてしまっているクリスチャンは、エリアスを巻き込んで、危険な復讐計画を実行に移すが、それが出来るのは彼が自分の中に芽生えてしまった怪物の恐ろしさを未だ知らないからである。
一方のアントンもまた、大きな矛盾にぶち当たる。
沢山の妊婦を殺してきた悪漢“ビッグマン”が、今度は患者として彼の診療所にやって来たのだ。
医師として、目の前の患者を見捨てることは出来ないが、もしもビッグマンを助ければ、彼によって再び多くの命が失われるのは確実。
ここには、単純な非暴力の理論では割り切れない矛盾が、確かに存在している。
葛藤するアントンは、遂にビッグマンの心無い一言に激高し、リンチされる事を承知で彼を憎しみに燃える難民キャンプの住人たちに引き渡す。
アントンが信条とし、クリスチャンに見せた理想は、暴力が日常である苛酷な現実の前で、余りにも無力だ。
スサンネ・ビア監督は、デンマークの少年達とアフリカで活動する医師の姿を通して、暴力には暴力で対抗するべきなのか、或いは何があっても非暴力を貫くべきなのか、非常に重いテーマを観客に問いかける。
私たちは、倫理的にはアントンの考えが正しい事を知っているが、彼の教えを守って抵抗しなかったエリアスは毎日の様に苛酷なイジメを受け、問答無用で報復したクリスチャンはイジメを止めた。
では、常に報復が暴力を止めるかと言えば、答えはそう単純ではない。
ビッグマンは怒った住民に処刑されたが、彼の後釜はいくらでもおり、一人殺したからといって暴力が止む事は無く、逆に激化するかもしれない。
もしも一定の暴力が、暴力を止めることが出来るとしても、それはどこまで許されるのか?負の連鎖は乗り越えることが出来るのだろうか?
暴力を捨て、憎しみを捨て、寛容に生きるという事は、言うほど簡単な事ではない。
なぜならそれは、子供のイジメから、国家間の戦争に至るまで、人類が出現した時点から抱えている言わば原罪であり、人間が人間たる所以である感情の問題だからだ。
非暴力の理想を持つ人でも、例えばクリスチャンがいじめっ子を殴るシーン、或いはビッグマンがリンチされるシーンでは、悪しき者が罰せられたという“復讐のカタルシス”を感じる事だろう。
スサンネ・ビアは、この問題に安易な“正解”を用意していないが、未来への微かな希望を感じさせる。
アントンが殴られた事への復讐として、遂に爆弾を製造してしまったクリスチャンとエリアスは、その予期せぬ結果によって、初めて自分の中にいる怪物の恐ろしさを実感する。
そしてより深刻なジレンマを抱える大人たちは、子供達の引き起こした事件と真摯に対峙する事で、改めて自身の中の寛容性を自問自答し、自らの生き方に対して一定の答えを出すのである。
物語の最初では、ばらばらに引き裂かれていた登場人物の絆は、葛藤とコミュニケーションを経る事によって、物語の終わりにはお互いが理解を深め、より強固に結び付いてる。
思うに、多少難しい要素を含んではいるものの、本作はとても良質な“ファミリー映画”であり、夏休みに親子で観るのに相応しい作品だと思う。
世界に満ち溢れる負の連鎖を止めるために、残念ながら特効薬は存在しない。
暴力とは、許しとは、絆とは、この映画は“より良き世界”を作るにはどうしたら良いのか、映画と言う体験を共有し、親子で考えるまたとない機会を与えてくれるのではなかろうか。
今回は、デンマークビール「ツボルグ・グリーン」をチョイス。
日本でも御馴染みのピルスナーで、今ではデンマーク最大のビール会社、カールスバーグの一部門となっているが、ツボルグの銘柄も一世紀以上の歴史を持つ。
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