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「ウォレスとグルミット」シリーズなどのクレイアニメーション作品で知られる、イギリスのアードマン・アニメーションズによるCGアニメーションフィーチャーの第二弾。
サンタ一家のおちこぼれ次男坊、アーサーがたった一個のプレゼントを届けるために巻き起こす、イブの夜の大騒動を描く物語だ。
SFチックなハイテクを駆使した奇想天外なプレゼント配達作戦から、レトロなソリで世界を巡るドタバタ珍道中まで楽しい見せ場が満載で、正しくこの時期にピッタリのファミリー映画である。
監督は、テレビシリーズなどで実績を積み、これが長編第一作となるサラ・スミス。
アーサー(ジェームス・マガヴォイ)はサンタ一家の次男坊。
だが、サンタ・クロースとして世界中の子供たちに愛される父(ジム・ブロードベント)と一晩で20億個のプレゼント配達作戦を指揮する兄のスティーヴ(ヒュー・ローリー)とは対照的に、おっちょこちょいで何に対しても消極的なアーサーは一家の日陰者。
ところがクリスマスイブの夜、一つのプレゼントが置き忘れられている事が発覚。
一つぐらいのミスなら構わないと言う父や兄に納得がいかないアーサーは、引退したお爺ちゃんサンタ(ビル・ナイ)に古いソリを引っ張り出させて、プレゼントの配達に向かうのだが・・・
アードマン史上初のCGアニメとなった前作「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」はキャラクターデザインも含めて、クレイアニメのイメージを引きずっていたが、ハリウッド進出以来組んでいたドリーム・ワークスと別れ、新たにソニーピクチャーズをパートナーにして作られた本作は、全く別の手法だと割り切ったのか、3DCGならではの大胆な画作りがなされている。
だが、趣向を凝らしたドタバタに、英国らしい適度にブラックなスパイスを利かせて大いに盛り上げながら、最後にはホロリとさせてテーマに落とし込むのはいかにもアードマン流だ。
今回の物語のフックは、もしもサンタが実在するなら、一体どうやって全世界の20億人もの子供たちに一晩でプレゼントを配れるのか?という誰もが一度は抱いた素朴な疑問。
映画は、冒頭からいきなり「スター・トレック」に出てきそうな巨大な宇宙船に乗ったサンタと妖精たちが登場し、北極にある巨大な基地と連携しながら、「ミッション・インポッシブル」ばりの配達作戦を遂行するシークエンスが描かれる。
コスチュームもどことなく軍隊風のサンタ率いる妖精部隊が、世界中の都市から都市へと秒単位で展開しながらプレゼントを配ってゆく様は、ディテールのギミックも満載で実に楽しい。
そんなサンタ一家にあって、クリスマスの華やかさとは無縁の男が一人。
本作の主人公であるアーサーは、消極的な性格で何をやっても失敗ばかり。
今はしがないメール係として、世界中からサンタに届く手紙を整理する仕事をしている。
次期サンタへの意欲満々な兄のスティーヴに対して、胸の内にはクリスマスへの情熱を秘めているが、自分にはサンタになる能力も意欲もないと思い込んでいるアーサーは言わば閑職に追いやられた精神的引きこもりだ。
だが、仕事としてのクリスマスとは距離を置いているからこそ、ハイテクシステムがたった一個のプレゼントを配達し忘れるというミスを犯した時、許容範囲内のミスと早々に諦めてしまう父と兄の態度を、アーサーは素直には納得できない。
落ちこぼれゆえに、事態を一歩引いた所から見ているアーサーの方が、問題の本質が見えているという構図は、昨年公開された「ヒックとドラゴン」の主人公に通じるものがあるが、アーサーは引退していたお爺ちゃんサンタに、旧式のソリとトナカイたちを引っ張り出させ、イギリスの片田舎で待つ少女のためにプレゼントを届けようとする。
物語の後半は、アーサーとお爺ちゃんサンタの、方向音痴ゆえの世界をめぐる大冒険。
アフリカに行ったり、メキシコに行ったり、ライオンに食べられそうになったり、宇宙人に間違えられて戦闘機に撃墜されたり、やや一本調子が気になるものの、手を変え品を変え見せ場を連続させて飽きさせない。
ちなみに軍がサンタを追跡するというのは、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)が毎年“トラックス・サンタ(サンタ追跡)”というサービスを実際にやっていて、今年も間もなく公式サイトがオープンする。
何と日本語版もあったりするのが凄い。
やがてアーサーの奮闘は、基地で爆睡していた父や兄、100万人の妖精たちの知るところとなるのだが、この辺りの展開はある種のビジネス物のメタファーとして観てもなかなか面白い。
どんなビジネスでも、それが成長し巨大になればなるほど、経営者の中で最初の頃に持っていた意欲は薄れ、利己主義や官僚主義の齎す負のスパイラルに陥ってしまいがちである。
なぜサンタは存在するのか、なぜ世界中の子供がサンタを信じるのか。
この根源的な意義に関して、20億分の1など誤差の範囲だと、完全に経営者の論理を振りかざすサンタとその後継者候補よりも、現場の妖精たちがピュアな見解を持っている事は、なんだかスキャンダルに揺れるどこぞの会社を見るようだ。
父がプレゼントを届けるモチベーションは、サンタとして賞賛を受けたいが為、兄は偉大な父を超えて自分を認めさせたいが為、唯一子供の気持ちを考えてアーサーに協力した様に見えたお爺ちゃんサンタも、実は自分を蔑ろにする息子たちを見返したいと思っている。
でも、本来プレゼントを届けるのは、それがサンタの仕事だからでも、賞賛をうける為でもなく、サンタを信じる世界中の子供たち一人一人の心に応えるため。
だから蔑ろにして良いプレゼントなど一つも無いはず。
サンタの資格なしとみなされていたアーサーは、それ故にクリスマスへの純粋な憧れを保ち続け、内面でサンタにとって一番必要とされる心を育てていたのだ。
ジャスティン・ビーバーの歌う「サンタが街にやってくる」の流れるエンディングを迎える頃には、観客は大人も子供も優しい笑みを浮かべていることだろう。
大作が目白押しの冬休み映画の中にあって地味目な扱いだが、老若男女全てが幸せな気分になれる、ハートウォーミングなクリスマス映画の佳作である。
ちなみに、アードマンとソニーピクチャーズのコラボ第二段は、来年公開の「The Pirates! Band of Misfits」で、こちらは本来のクレイアニメーションとデジタル技術を融合した作品となる様で、非常に楽しみだ。
今回は、あったかい気分になれる映画に合わせて、北ヨーロッパの冬の風物詩であるホットワイン。
ドイツ製の「グリューワイン」の赤をチョイス。
マグカップに入れてレンジでチンしても良いし、直接ヤカンで暖めても良い。
ホワイトクリスマスにも体を心からポカポカ温めてくれるだろう。
赤ワイン一本に、蜂蜜大さじ2、砂糖大さじ2、レモン汁1個分、バニラ、シナモン、オレンジピール各適量を加えて煮込む事で自分でも簡単に作れるので、好みの味に仕上げるのも楽しい。

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「ナイト・ミュージアム」シリーズで知られるショーン・レビ監督の最新作は、近未来のロボット格闘技の世界を舞台に、戦う場所を奪われた元ボクサーと、長年離れて暮らしていた息子との父子の絆の再生を描くSFドラマ。
人間の身の丈を超える巨大なロボットをラジコンで操って戦うという、正に男の子の夢を具現化した様な話だが、様々な形のロボットたちが繰り広げる格闘シーンはなかなかの迫力。
主人公チャーリーを演じるのは、鋼の骨格を持つ男、ウルヴァリンことヒュー・ジャックマン。
彼の息子マックスを、「マイティ・ソー」で子供時代のソーを演じたダコタ・ゴヨ、パートナーのベイリーを「LOST」のエヴァンジェリン・リリーが演じる。
レビ監督作品としては最もコメディ色の薄い作品だが、ダメ親父が十年ぶりに再会した息子と暮らすうちに、自らの生きる意味を問い直し、父性の復権を目指すという物語全体の構図は、「ナイト・ミュージアム」とよく似ている。
西暦2020年。
チャーリー・ケントン(ヒュー・ジャックマン)は、嘗てボクシングで活躍した天才ファイター。
だが今やボクシングはロボットが闘うスポーツとなり、チャーリーはロボットファイターのオペレーターとして、各地の賭け試合を転戦し細々と食いつなぐ日々を送っている。
そんな彼の元へ、別れた妻が亡くなったという言う知らせが届き、十年間会っていなかった息子のマックス(ダコタ・ゴヨ)と暮らす事になる。
なかなか打ち解けられない二人だったが、ある夜ジャンクヤードでロボットの部品を探すうちに、ロボット一体が丸ごと埋まっている事を発見する。
“アトム”というそのロボットは、旧式ながら人間の動作を再現するシャドーファンクションという機能を持っていた。
チャーリーとマックスは、アトムをロボットファイターとしてリングに立たせ様とするのだが・・・
原作としてクレジットされているのは、リチャード・マシスンの短編小説「四角い墓場」だが、ロボット格闘技がモチーフで主人公が食い詰めた元ボクサーという設定以外、内容的には別物と言って良いだろう。
原作のロボットは人間ソックリのアンドロイド型で、試合前にロボットが故障してしまい、追い詰められた主人公がロボットのふりをして無謀な試合に臨むという話で、1965年に「トワイライト・ゾーン」の一編としてドラマ化されており、リー・マービンが燻銀の魅力で主人公のスコティッシュのファイター“スティール”を怪演していた。
対して映画版のロボットファイターは、いかにも男の子が好みそうなメカメカしい姿で、むしろ今実際に行われている、小型二足歩行ロボットを使った格闘技大会をスケールアップした様なイメージだ。
そして本作のもう一人の主人公である、打ち捨てられたロボットの名が示す様に、物語のスパイスとなるのは手塚治虫によって創造されたSF史上最も偉大なロボットの一つ、「鉄腕アトム」へのオマージュである。
「鉄腕アトム」には、天馬博士に捨てられたアトムが、ロボット格闘技に出場させられるエピソードがある。
このエピソードは、やはり「アトム」の強い影響が見てとれるスピルバーグ&キューブリックの「A.I.」にも引用されているが、本作も原作よりもむしろ手塚的少年漫画の香りを強く感じる。
アトムの前にチャーリーが手に入れるものの、ハイテクを全く使いこなせず、あっさり破壊されてしまう“超悪男子”には笑ったが、ロボット=JAPANのイメージも手塚治虫以来の日本製アニメや漫画が作り上げてきた物だろう。
何でも二足歩行のヒューマノイド型ロボットの研究者の数は、世界でもダントツに日本人が多いのだそうで、本作でも人型ロボットの誕生地は日本とされている。
アトムの子である我々日本人が、この映画に熱いものを感じるのは当然なのだ。
ショーン・レビは、子供の頃に親しんだであろう、アメリカと日本の遺産を受け継ぎ、自らの得意分野である父子物のストーリーに上手く結びつけている。
本作で特徴的なのは、父親と息子が共に内なる孤独を抱えたキャラクターで、彼ら其々の心の成長が、ほぼ等しく描かれて行く事だろう。
再会した時の二人の距離感は、やがてアトムを間に置くことで徐々に縮まってゆく。
息子のマックスは、ジャンクヤードに捨てられていたアトムに、嘗て父に捨てられた自らの境遇を重ね合わせ、父のチャーリーは旧式のポンコツロボットの姿に、過去の人となった自分のボクサー人生を重ね合わせる。
メカに強いマックスが、破壊された超悪男子の音声認識機能をアトムに移植し、自ら入場パフォーマンスするのは、父に自分を認めさせる強烈な自己アピールだ。
そしてチャーリーもまた、アトムを通して二度と立つことを許されないリングで躍動し、生きがいを取り戻す。
売り物であるロボットバトルは、会場がロデオ会場だったり、廃墟だったり、はたまた車を並べて作ったリングだったり、会場も相手もバラエティに富んでいて飽きさせない。
何しろ、冒頭でチャーリーのロボットが闘う相手は“牛”である(笑
まあ、それ以降はちゃんとロボット同士の格闘となるのだが、モヒカン頭がいたり、双頭がいたり、見た目にも技にも個性たっぷり。
よく犬と飼い主は似ると言うが、ロボットとそれぞれのオペレーターがどこか似てる設定なのも楽しい。
迫力のロボットバトルは勿論CG中心で描かれるのだが、デザインが今現実に存在するロボットの延長線上で十分リアルなのと、実際に作られた小道具のロボットとの切り替えも巧みで、とても絵空事とは思えない。
まるで本当にこの様な格闘技大会があるのでは?と、錯覚するほど現実感があるのは大したものだ。
9年後という僅かに未来の話ではあるが、今を基点に十分想像が可能な世界観とする事で、人間ドラマも現実の延長線上にあり、下手に捻ったり奇を衒った部分が無いぶん、しっかりと地に足をつけた物になっているのも好感が持てる。
ベタと言えばベタだが、家族の絆がサクセスストーリーの原動力となるのは正にハリウッド映画の王道だ。
アトムの快進撃によって巡ってくる、最新最強の王者“ゼウス”との対決は、チャーリーにとって嘗て僅かに手が届かなかったチャンピオンベルトへのリターンマッチであり、相手チームとの人間同士の因縁も加わって盛り上がる。
因みにボクシングのシーンは、70年代から80年代にかけてボクシング界に君臨した伝説的王者、シュガー・レイ・レナードが指導しているというから本格的だ。
リング上のアトムと、リングサイドのチャーリーが、完全に一体となるクライマックスは、いや確かに見事な“ボクシング映画”である!
どん底からの復活を目指す親父を、父の愛を知らない少年の想いが救い、鮮やかに人生を取り戻す物語が、スペクタクルな映像を背景に展開する良質のファミリームービー。
冬休みに、是非お父さんたちに息子(と娘)を連れて観てって欲しい一本だ。
今回は、スッキリ爽やかなハリウッド映画で、主演がオーストラリア出身のヒュー・ジャックマンという事で、オージービールの「フォスターズ ラガー」をチョイス。
アルファベットの“O”の中に真っ赤な“F”が入ったラベルで知られるフォスターズは、世界150ヶ国以上で飲まれている超メジャーブランド。
味のイメージとしてはアメリカンビールに近いが、コク、切れ、苦味、香りのバランスが実に良く、多民族国家オーストラリアらしく、どんな料理にもあう。
観客を選ばない本作の味わいにもピッタリだろう。

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「新少林寺」というタイトルだが、ジェット・リーのデビュー作として知られる、武術アクション映画の金字塔、「少林寺」のリメイクではない。
あの映画は隋朝末の時代を舞台にしていたが、本作で描かれるのはその遥か1300年後。
辛亥革命後の混乱期、中国が事実上の内戦状態に陥った20世紀初頭の少林寺で展開する物語で、言わば先日公開された「1911」の後日談的な「1912 少林寺」である。
もちろん、売り物の武術アクションは観応え十分だが、何よりも我欲VS慈愛という骨太のテーマがストレートに打ち出され、人間ドラマとしても堂々たる仕上がり。
現代中国が、如何に精神文化を欲しているかがよくわかる作品だ。
監督は「香港国際警察/NEW POLICE STORY」「コネクテッド」のベニー・チャン。
1912年。
中国各地で軍閥が覇権を競った時代。
残虐な将軍・候杰(アンディ・ラウ)は、民草の信仰を集める少林寺に逃げ込んだ政敵を、強引に寺に押し入って射殺する。
猜疑心の塊である候杰は、信用の置けない義兄をも暗殺しようとするが、腹心の部下・曹蛮(ニコラス・ツェー)の裏切りにあい、愛する幼い娘は殺され、自らも追われる身となってしまう。
嘗て蹂躙した少林寺に助けを求めた候杰は、寺の調理係の悟道(ジャッキー・チェン)に導かれ、徐々に過去の自分を振り返り、懺悔して出家を決意する。
だが、 候杰が生きている事を知った曹蛮は、近代兵器で武装した軍を率いて少林寺に侵攻してくる・・・
今年は辛亥革命100周年に当たり、革命に絡んだ映画がいくつも公開されている。
面白い事に映画の公開順が実際の革命の時系列と同じになっていて、四月に公開された「孫文の義士団」は1906年の革命前夜、先日公開された「1911」がタイトル通りに革命の年の物語なのに続いて、本作「新少林寺」は革命翌年の1912年が舞台である。
「1911」の終盤で描かれた様に、孫文が袁世凱に禅譲する形で大総統の座を明け渡した事で、混乱した政府は統制力を失い、地方に勃興した幾つもの軍閥が、半独立国として勢力争いを繰り返す動乱の時代が幕を開ける。
古の中国が完全に潰え、今に続く現代中国が始まった時代だ。
それまで脈々と続いてきた国が、政治システムだけでなく、秩序や道徳といった文化もまとめて崩壊してしまい、人々が社会に拠り所を失った時、怪物の様に育つのは我欲である。
本作の主人公、候杰も力こそが正義と信じ、敵を倒し自らの利益と権力を拡大するためなら、伝統ある少林寺を踏みにじる事も辞さない。
しかし人の世は因果応報、力でのし上がった候杰は、同じように力で追い落とされる事を恐れ、誰の事も信用する事が出来ないのだ。
義兄弟の誓いを立てた相手に対してすら、自分を嵌めようとしているのではないかという疑心暗鬼が生じ、暗殺を計画する。
だが人を呪わば穴二つ。
実は義兄は、引退して自分の地位を候杰に譲ろうとしていただけ。
その事に候杰が気付いた時には、既に腹心の部下であった曹蛮の罠に落ち、権力を奪われてしまうのである。
権力者だった時には、恐れるに足らずと蔑んだ少林寺に助けを求めるも、いまだ超上から目線で僧達に既に亡くなっている娘の治療を強要する傲慢な候杰を見て、妻の顔夕も「娘を殺したのはあなただ」という言葉を浴びせて彼のもとを去る。
そうして全てを失って初めて、候杰は自分の過去の人生を振り返る事が出来るのである。
ここで候杰を導くのが、特別出演のジャッキー・チェン演じる悟道だ。
寺の厨房を預かる調理係である彼は、候杰を伴って寺の門前の難民達に饅頭を配りに行くのだが、嘗て支配した人々を前に、候杰は何をどうすれば良いのかわからない。
悟道は、候杰の手に饅頭を握らせて、食事を求める難民一人一人に配らせるのだ。
それまで人から奪う事しか知らなかった候杰が、初めて人に与える事を知る象徴的なシーンである。
やがて、過去の自分の行いが如何に煩悩に満ちた物だったのかを悔いた候杰は、出家して少林寺の僧“浄覚”となる事を決める。
と、ここまでは残虐な権力者だった候杰の、転落と改心の物語なのだが、本作にはもう一人改心させるべきキャラクターがいる。
候杰を裏切りその地位を奪った曹蛮は、言わば候杰のダークサイドの強化版だ。
より権力を求め、より猜疑心が強い。
彼は列強と取引し、中国の遺跡からの出土品と引き換えに武器を買い、遺跡で働かせた人足は口封じのために殺してしまう。
そんな曹蛮が候杰が少林寺で生きている事を知った時、物語は一気呵成に動き出す。
候杰は、自らに定められた天命を、曹蛮を改心させる事と悟り、彼と対決するのである。
物語のクライマックスは、候杰と曹蛮の再会と僧達による囚われた人足の救出作戦という二つの流れから始まり、やがて少林寺を舞台に候杰ら僧達VS近代兵器で武装した曹蛮の軍との全面対決という激流になだれ込む。
普通に考えたら銃を装備した軍隊に、いくら武術の達人とは言え精々刀と棍しか持たない僧達が勝てる訳が無いのだけど、さすがにこのあたりは演出の見せ方も上手く、互角の戦いに十分な説得力を感じさせる。
血気盛んな僧、浄空が因縁のある敵の中ボスと相打ちし、「少林寺を見縊るな」と言い放つシーンには思わず痺れた。
僧達が、「殺生をお許しください」と仏に祈りながら倒れて行くのも印象的だ。
日本人の俳優が時代劇に出ると映える様に、この映画に登場する中国の男たちはとにかくカッコいいのである。
主人公の候杰を演じる名優アンディ・ラウと、曹蛮を演じる若手ニコラス・ツェーの火花散る演技合戦。
僧達の寡黙なリーダーを演じたウー・ジンの燻銀の魅力。
ジャッキー・チェンもどこか手持ち無沙汰だった「1911」とは対照的に、持ち味のコミカルなアクションで水を得た魚の様に躍動する。
そしてが少林寺のトップである方丈を演じるのは、1982年の「少林寺」のオリジナルキャストで、ジェット・リーの師匠でもあるユエ・ハイ!
もちろん、ただの太った爺さんではないので、最後にはヨーダ並の活躍を見せるのも嬉しい。
紅一点のファン・ビンビンも、出番は少ないものの候杰の心の変化を感じ取る重要な役柄を好演している。
100年前の時代を描いた本作からは、21世紀の現代中国が透けて見える。
混乱の時代に聖域として人々の拠り所となり、遂に近代兵器によって破壊される少林寺は、中国が数千年かけて培ってきた豊かな精神文化の象徴だ。
革命後の内戦、第二次世界大戦、そして戦後の共産党の支配によって、中国はすっかり精神文化を置き去りにしたまま成長してしまった。
映画は、豊かになった中国社会が、我欲によって弱肉強食の世界として続いてゆく事に警鐘を鳴らしている様に思える。
戦いによって寺は完全に破壊されても、その心を受け継いだ人たちがいるかぎり、少林寺は滅びないというエンディングも、本作のテーマ性を強く感じさせる物で秀逸だ。
因みに本物の少林寺も、1928年に軍閥の襲撃で建物が全て焼失したが、後に再建されたという。
中国は革命後100年が過ぎ、物質的な豊かさだけではなく、心の豊かさを求めようという段階に入りつつあるのかもしれない。
今回は、熱血な映画なので、さっぱりした中国酒を。
黒龍江省で作られる高粱と小麦の蒸留酒「玉泉方瓶酒」をチョイス。
これは先日たまたま中国土産にいただいたのだが、独特のフルーティな酸味があり、他のどの中国酒にも似ていない。
トニックウォーターで割って飲んだら美味しかったが、カクテルベースにしても面白そうだ。
広い中国には、まだまだ日本人の知らない酒があるのだろう。

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「ザ・セル」「落下の王国」で知られる映像派の異才、ターセム・シンによる、ギリシャ神話に材をとった煌びやかな英雄譚。
元々カッコいい画を撮る以外に興味の無い人だから、ビジュアルはまるでどこかの美術館のルネッサンス絵画か、ギリシャ絵巻が動き出したかの様。
ロケーション中心だった前作とは趣は異なるものの、初3Dとなった今作は、空間設計も立体効果を高めるために計算されており、画的な観応えは十分だ。
もっとも、例によって物語は突っ込みどころ満載で荒っぽく、特に神様の行動原理はサッパリわからない。
※ネタバレ注意
古のギリシャ。
全能の神ゼウス(ルーク・エヴァンス/ジョン・ハート)は、地上で繁栄する人類の平和を願い、見守っている。
だが、ギリシャ滅亡を狙う邪悪な王、ハイぺリオン(ミッキー・ローク)が出現し、嘗てオリンポスの神々との戦争に敗れ、地底深くに封じられたタイタン神族を解き放とうとする。
封印を破壊する力を持つ、伝説のエピロスの弓を捜し求め、侵攻して来たハイペリオンの大軍の前に、ギリシャ軍は総崩れ。
人間の争いに関わらない事を信条とするゼウスは、正体を隠して自ら育て上げた剣士テセウス(ヘンリー・カヴィル)に一縷の望みを託すのだが・・・
珍作・・・いや怪作である。
「300 スリーハンドレッド」をザック・スナイダー監督で大ヒットさせた、マーク・キャントンとジャンニ・ナヌリらのプロデュースチームが、二匹目の泥鰌を狙って立ち上げた企画だ。
ただ、あちらが史実を脚色したグラフィック・ノベルを映像化した物なのに対して、こちらは一応ギリシャ神話がベースではあるものの、本来タイタン神族の一員であるハイペリオンを邪悪な人間の王にしてしまい、後にアテナイ王となるはずのテセウスを、農奴出身の一剣士として彼と対峙させた時点で物語はほぼオリジナルである。
基本的にはティタノマキアとして知られるオリンポスとタイタンの戦いに、ミノタウロス退治などのテセウス神話を組み合わせた感じだ。
ぶっちゃけ、話の展開はかなり強引。
テセウス、ハイペリオン、神々という三つ巴のうち、まず悪役であるハイペリオンが何者で、何をしたいのかよく分からない。
彼はオリンポスを滅ぼすために、封印されたタイタン神族を開放しようとしており、その力をもつエピロスの弓を探し求め、ギリシャに侵攻する。
一応、家族を失った時に、神々に祈ったにも関わらず、助けられなかった事がオリンポスへの恨みに繋がっているらしいが、元々そんなに信心深い人物には見えないので、動機としては今一つ弱い。
ギリシャとオリンポスを滅ぼして、その先に彼が何を見ているのか、解放したタイタンをどうするつもりなのかも不明のままだ。
もっともハイペリオンに輪をかけて、何を考えてるのか分からないのは、石岡瑛子デザインの聖闘士チックなコスチュームに身を包んだ 神々である。
人間とは関わらないと宣言し、テセウスを助けた神を死刑にしてしまうほど厳格なゼウスが、自分は人間に化けてヨーダよろしくテセウスを鍛えている矛盾。
娘のアテナには妙に甘いのも可笑しい(笑
そもそも、嘗ての戦争で苦労してタイタンを封じ込めたにも関わらず、彼らが開放される迄手出ししないという掟自体が謎である。
まあそれこそ神のみぞ知る深い理由があるのかも知れないが、映画を観ている限りでは、彼らの行動原理が何に基づいているのかサッパリわからない。
とりあえず、ハイペリオンに母を殺されたテセウスの復讐譚として観るのが、一番わかりやすいだろう。
意外と言っては失礼ながら、アクション映画としてはなかなかだ。
ターセムの画作りは、どちらかというと止め画に近い絵画的表現や、スローモーションの美しさに特徴があり、肉弾戦のアクションのイメージは無かった。
だが、テセウスが殺されそうになった時、突然戦神のアレスが現れ、敵を秒殺してしまう描写には、展開の唐突さに呆気に取られながらも唸らされた。
スーパースローとリアルタイムの緩急がユニークで、スナイダーの「300」とはまた違った華麗な面白さがある。
アレスがウォーハンマーを振るう度に人間たちの骨が砕け、血飛沫が飛び散る容赦無しのスプラッター描写、残酷性までもが美術館の展示品であるかの様な様式美は、ターセムのビジュアル演出の真骨頂だろう。
クライマックスでは封印を解かれたタイタン神族とオリンポスの神々の、超越者同士の正に血で血を洗う戦いと、狭い通路でのギリシャ軍とハイペリオン軍の敵味方押し合い圧し合いの白兵戦、テセウスとハイペリオンの人間のボスキャラ同士のどつき合いのタイマン勝負という、三つの戦いが並行して描かれ圧巻だ。
テセウスを演じるのは、これも奇妙な縁でザック・スナイダーが手掛ける「マン・オブ・スティール」で、新スーパーマン/クラーク・ケント役に決まったヘンリー・カヴィル。
対する悪の化身ハイペリオンには、ヒールとして第二の全盛期を迎えているミッキー・ローク。
残虐極まりない悪役を実に楽しそうに演じ、その存在感は神々、英雄をも圧倒する。
超マッチョな肉体を持つ、スーパーマンvsレスラーの一騎打ちは迫力満点だ。
“不死の、不滅の”と言う意味を持つ「Immortals」というタイトルを深読みすれば、本作は神々の時代から人間の時代への移り変わり、すなわち如何にして人が神の地位を奪い去ったのかを描こうとしているではないか。
本来“immortal”であるはずのオリンポスの神々は、人間によって解き放たれたタイタンとの戦いによって、自らの箱庭であったはずの地上で呆気なく命を奪われ、死すべき運命“mortal”の人間たちと変わらない存在に貶められる。
神話では本来神の眷族であるハイペリオンが本作では人間として死に、人間であるテセウスが神となるのも何か象徴的だ。
ラストで、テセウスの息子の前にゼウスが再び現れ、彼が来るべき戦いのビジョンを見るのも、人間の時代の神々は伝説として語り継がれる事でしかその不死性を維持できず、それ故に戦い続けるしか無いからかも知れない。
まあ、深読みすればの話だが(笑
ギリシャ神話ベースの話だけに、今回はギリシャから。
今ではこの地の酒と言えばウゾが一番有名だが、原型となったラキアが作られる様になったのは東ローマ帝国の時代と言われている。
神話の時代の酒と言えばやはりワインであろう。
エステート・セオドラカコスの「マルブディ・オーガニック」をチョイス。
神々の鮮血を象徴するフルボディの赤ワイン。
上品な香りはゴージャスなビジュアルに負ける事はない。

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メジャーリーグの弱小球団、オークランド・アスレチックスの奇蹟の再建劇を描いた、マイケル・ルイス作のベストセラー・ノンフィクション、「マネーボール」の映画化。
圧倒的な資金力の差を覆したのは、既成概念にとらわれないフレッシュな発想とパワフルなリーダシップ。
野球物としてはもちろん、今ではビジネス書としても大人気の原作を脚色したのは、「シンドラーのリスト」のスティーブン・ザリアンと「ソーシャル・ネットワーク」のアーロン・ソーキン。
名手二人の仕事を「カポーティ」のベネット・ミラー監督が、燻銀の人間ドラマに仕立て上げた。
主人公の型破りな球団GM(ゼネラルマネージャー)、ビリー・ビーンをブラッド・ピットが味わい深く演じ、おそらく彼自身の演技賞も含めて、オスカーへの大量ノミネートは確実の秀作だ。
ビリー・ビーン(ブラッド・ピット)は、弱小球団オークランド・アスレチックスを率いる若きGM。
引き抜かれた戦力の穴埋めをしようと、厳しい台所事情のなかで悪戦苦闘している。
強豪チーム、インディアンズの事務所にトレード交渉に訪れた時、ビリーは相手GMが太った若者の助言に耳を傾けている事に興味を惹かれる。
ピーター・ブランド(ジョナ・ヒル)と名乗った若者は、野球界は古臭い、試合はデータと論理を駆使する事で、金を使わなくとも勝てるとビリーに語る。
勝敗の鍵を握るのは、守備力でも打率でもなく、出塁率。
ピーターを雇い入れたビリーは、データに基づき、安くて問題を抱えているが、出塁率の高い選手を掻き集める。
だがそれは、従来の野球理論を真っ向から否定する事でもあり、ビリーと現場を預かるアート・ハウ監督(フィリップ・シーモア・ホフマン)らとの確執は次第に深まってゆく。
チームは、フロントと現場が乖離したまま開幕を迎えるが・・・
今年、松井秀喜が在籍した事で、日本でも名が知られる様になってきたが、オークランド・アスレチックスは私にとっても長年暮したサンフランシスコ・ベイエリアのチームであり、何度も試合を観に行った事があるのでとても馴染み深い。
一般に“A's(エーズ)”の略称で親しまれるアスレチックスは、過去にワールドシリーズを9度制しているア・リーグ屈指の名門球団である。
特に70年代にはワールドシリーズ3連覇を達成するなど黄金時代を迎え、常勝軍団としてメジャーに君臨していた。
オークランドの対岸に本拠地を構えるナ・リーグの名門、サンフランシスコ・ジャイアンツとの決戦を制した1989年のワールドシリーズは、ベイブリッジシリーズとして今も語り草となっている。
だが90年代に入ると、相次ぐ主力選手の流出、オーナーシップの変更に伴う財政悪化でチームは弱体化し成績は低迷、ワールドシリーズどころか、地区優勝にも手が届かなくなってしまう。
この状況を打破したのが、A'sが最後にワールドチャンピオンとなった1989年のベンチメンバーで、引退後にフロントに転身したビリー・ビーンである。
彼は本作の原作によって“マネーボール理論”として知られる様になる、セイバーメトリクスという分析理論を駆使して、A'sに往年の輝きを取り戻させた。
映画は、全く実話の通りという訳ではなく、時系列を含めてかなりコンパクトにまとめられている様だ。
例えば、ピーター・ブランドは実在せず、ビリーは彼との出会いで突然セイバーメトリクスを知った訳ではない。
ビリーが現役時代にA'sのGMだったサンディ・アンダーソンが、既に80年代から球団の戦略にセイバーメトリクスを取り入れ始めており、ビリーは映画のピーターに相当するポール・デポデスタという人物の協力を得ながら、理論を改良し徹底する事でチームを立て直したというのが実際の所の様だ。
映画に描かれた現場とフロントの衝突も、アンダーソンGMと当時のラルーサ監督の間で繰り広げられており、ザリアンとソーキンの脚本は、実質的に20数年間に起こった事を僅か一年の期間に集約しているのである。
もっとも、それは映画としてはマイナスではない。
濃密に構成された物語によって、本作は極めてドラマチックな展開を見せる。
セイバーメトリクスに出会う前、A'sのスカウトたちは、強打者のジアンビ、デイモンらを引き抜かれ、その対策のために喧々諤々の議論を繰り広げている。
だが、彼らの判断材料は基本的に誰それは打てる、走れる、顔が良い(笑)という印象論に過ぎない。
実はビリーは部下である彼らに対して、ある種の不信感をずっと抱いているのである。
それはビリーが高校生だった頃、スカウトたちに選手としての素質を認められ、大学進学を諦めてプロ入りした事がずっと引っかかっているからだ。
高額の契約金を提示され、スーパースターになれると言われてプロになってみたものの、結果は鳴かず飛ばずで、メジャーからマイナーへ、彼方此方の球団を渡り歩いて、芽が出ないままユニフォームを脱いだ。
人の未来を正確に予言することは、占い師にも決して出来ない。
この道何十年のベテランの言葉だとしても印象論は印象論であり、尚且つ同じ基準に基いて選手を獲得しようとすれば、ヤンキースやレッドソックスといった金満球団に勝てる訳がない。
ビリーは、発想のドラスティックな転換、野球界の常識を変えるアイディアが必要だと考える。
そんな時に偶然出会うのが、野球とは関係の無い経済畑出身のピーター・ブランドだ。
彼はゲームに勝つために必要なのは、一人一人の選手の能力ではなく、データと分析に基いて出塁率の高いチームを作る事だと説く。
数字で表される勝利の方程式に、曖昧さは一切無い。
ベンチに入れる選手は25人いるのだから、個別の能力で劣っていても、彼らの個性を生かし、チームとして機能すれば勝てる。
この従来の考え方とは大きく異なるデータ野球は、当然の様に古参のスカウトたち、そして現場との軋轢を引き起こす。
せっかく獲得した選手は監督に起用を拒否され、チームは連敗を続け、マスコミのバッシングに晒されたビリーは窮地に追い込まれてしまう。
野球は巨大なビジネスであり、そこには一世紀を超える歴史に蓄積された不文律と既得権の壁が立ちはだかる。
現状に安住する者にとって、新しいアイディアは自分たちの居場所を奪いかねない忌むべき物なのだ。
だが、古き常識を破壊しなければ、抜本的な改革など出来る訳も無く、覚悟を決めたビリーが意中の選手を起用させるためにとった手段は、何と監督のお気に入り選手を全て他球団に放出してしまうという荒業だ。
結果的に監督は一人だけ残った選手を起用せざるを得なくなるが、もしもそれでセイバーメトリクスが機能しなければ、今度こそビリーが責任を取らざるを得ない背水の陣。
勿論、本になる位だから、ビリーとピーターは賭けに勝つのだが、彼らが歩む成功へのプロセスは、単なる野球物の枠を超えて、ある世界を変えるために創造的破壊を成し遂げた人間の物語として、非常にエモーショナルかつスリリングだ。
ビリーは単に他人に変化を強いるだけではなく、自分自身も成長し変わってゆく。
それまでGMという立場から、選手達との交流に一線を画してきた彼が、負け犬根性が染み付いてしまった選手達の中に積極的に入り、チームの戦略を語り、プロとしての心構えを植えつけ、またチームの最年長選手には、プライドを尊重しつつ、若い選手の手本となる様に頼み込む。
そして、新しい戦略がシステムとして機能し始めると、チームはいよいよ快進撃を開始するのだ。
だが、フロントの苦労や経営戦略など興味が無い世間は、勝ったら勝ったでそれまでビリーの改革を拒否していた監督を賞賛する。
負けたらバッシングされ、勝っても注目される事がないとは、縁の下の力持ちとは、なかなか辛いものである。
もちろん、見ている人はちゃんと見ている訳で、A'sを躍進させたビリーに対して、古豪ボストン・レッドソックスが巨額の年俸でGM就任をオファーする。
ビリーは過去にプロと大学を天秤にかけ、金でプロ入りした過去を悔い、「もう金で人生は売らない」とオファーを断るのだが、ピーターは「提示された金額の中身に意味がある」と言う。
レッドソックスの提示した1250万ドルという史上最高額のGM年俸は、ビリーたちが古い既得権にしがみ付いた勢力を打破し、野球の世界に新しい風を吹き込んだ証なのだ。
金ではなく自分たちが何かを変える、その事にこそ意味があるという終盤の二人のやり取りを聞いていて、私は先月死去したスティーブ・ジョブズの事が頭に浮かんだ。
ジョブズもその生涯で沢山の常識や既得権と戦い、それらを破壊する事で新たな世界を創造してきた。
伝説的なスタンフォード大学でのスピーチで、ジョブズは「stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、バカであれ)」という言葉を学生達に贈ったが、ビリー・ビーンの場合は、なるほど「野球バカ」だった訳だ。
しかし、セイバーメトリクスをチーム作りに取り入れた裕福なレッドソックスは、僅か2年で86年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げ、当のビリーは未だにリーグ優勝に挑戦中というアイロニー。
世界を変えた者が常に報われるとは限らないというほろ苦いラストに、ギターが趣味のビリーの娘が、離れて暮らす父に贈った愛情に溢れた歌“the show”が物語の余韻を優しく広げる。
人生の悲喜交々が詰まった133分は至福の映画的時間である。
野球ドラマというと、スッキリ爽やかなビールのイメージなのだが、この映画はむしろ試合が終わった後のオークランド・コロシアムに、一人佇むビリーの心情に寄り添いたい。
アメリカを代表するスピリット、バーボンウィスキーの「フォアローゼス プラチナ」をチョイス。
この酒の特徴は先ずその滑らかなクリーミーさ。
そして芳醇な香りと複雑な風味、長く後を引く余韻はストレートかロックで楽しみたい一本だ。
さて、A'sが再びワールドシリーズを征するのは何時の日だろうか。

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幼い息子を事故で亡くした夫婦の、喪失と再生の道程を描くヒューマンドラマ。
原作は、ピューリッツア賞に輝いたデヴィッド・リンゼイ=アベアーによる2005年の戯曲で、この作品に感銘を受けた二コール・キッドマンが自らプロデュース・主演を兼ねて映画化に動き、原作者自身によって脚色されている。
監督は「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」で脚光を浴びたジョン・キャメロン・ミッチェル。
ニューヨークの郊外に暮すベッカ・コーヴェット(二コール・キッドマン)と夫のハウイー(アーロン・エッカート)は、8ヶ月前に一人息子のダニーを不慮の事故で亡くした。
ダニーの思い出を大切にしながら、少しでも前に進もうとするハウイーと、息子の面影から目をそむけ、家の中からダニーに関するものを消し去ろうとするベッカとの仲は、段々とギクシャクしたものになってしまう。
妹のイジー(タミー・ブランチャード)の妊娠を効かされても、ベッカの心はかき乱されて素直には喜べない。
そんな時、ベッカはダニーを轢いた車を運転していた、高校生のジェイソン(マイルズ・テイラー)と、偶然の再会をする・・・
繊細な心理劇である。
「不思議の国のアリス」で、アリスは白ウサギを追いかけて、ウサギ穴に落ちてしまい、その先に広がるファンタジーワールドで冒険を繰り広げるが、本作では犬を追いかけて車道に飛び出した息子、ダニーが交通事故で帰らぬ人となってしまう。
心にぽっかりと穴が開いてしまった夫婦は、同じ悲しみを抱いていても、弔いの仕方は違う。
ハウイーは、ダニーの思い出を抱いたまま、少しずつでも人生の時計を前に進めようとする。
だが事故を防げなかった自責の念に囚われた専業主婦のベッカは、日がな一日息子の面影に満ちた家にいて、息の詰まりそうな日常を送っている。
思い出と共に生きたいハウイーと、思い出のもたらす痛みから逃れたいベッカ。
映画はこの二人の葛藤を縦軸に、ベッカの実家の家族と、ダニーを轢いたジェイソンとの絡みを横軸として絡ませる。
ダニーの記憶そのものを封印し、悲しみに蓋をしようとするベッカは、思い出の品をしまい込み、大量の子供服を持って実家を訪れる。
見るからに裕福そうなベッカの家に対して、実家は典型的な低所得者用住宅で、決して経済的に恵まれてはいない。
妊娠中の妹は素行の悪い問題児で、実家に転がり込んだ彼氏は生活の不安定なミュージシャン。
ベッカの兄は、30歳でドラッグの過剰摂取で亡くなっている。
彼女はそんな生活から抜け出して、富と幸せを掴んだ“勝ち組”のはずなのである。
だが、「子供服は高いからあげるわ」と、妹に上から目線で服を差し出すベッカの傷だらけの心は、家族にはすっかり見透かされて、その事に気づいた彼女はますます自分を嫌になる。
母親が、ドラッグで死んだ兄と交通事故で死んだダニーを同一視して、自分の悲しみを語るのも、そこに成りたくない自分を見る様で余計に心を乱されてしまうのだ。
あくまでも普通にベッカを家族として思いやる母や妹に対して、彼女は悲しみを素直に見せて甘える事が出来ないのである。
おそらく、それは彼女の中で自分がダメな母親だと認める事に等しいからだろう。
閉塞感に苛まれ、夫婦仲も壊れそうになるベッカを救うのは、意外にもダニーを轢いた高校生のジェイソンだ。
偶然、通学中のジェイソンの姿を見かけたベッカは、彼が図書館で返却したパラレルワールドに関する本を借り、ジェイソンに対する興味を募らせる。
彼を責めたいのではない。
事故の原因はダニーが犬を追って車道に飛び出した事で、ジェイソンに過失が無いことはベッカも理解している。
ある日、ジェイソンに声をかけられたベッカは、やがて彼と公園で静かに語らうことが日課となり、その何気ない会話の中にに不思議な安らぎを見出して行くのである。
そんなジェイソンが描いているのが「ラビット・ホール」というタイトルのオリジナル・コミックだ。
亡くなった科学者の父の姿を追って、いくつものパラレルワールドを旅する少年の物語。
「パラレルワールドの中には、皆がハッピーに暮しているバージョンもある」と言うジェイソン。
そう、彼もまたダニーの死によって、心に一生消えない大きな傷を負った一人なのである。
ウサギ穴から繋がる無数のパラレルワールドに、一つとして同じ世界が無い様に、心に開いた穴を埋める方法も人それぞれ違って当たり前。
ジェイソンの様に物語として昇華する人もいれば、ハウイーの様に心に思い出を留めて生きてゆく人もいる。
ベッカが素直になれない実家の母や妹にとっても、ダニーは大切な孫であり甥っ子であり、それぞれに決して小さくない喪失感を抱えているはずなのである。
皆、一つの死がもたらす悲しみや痛みを共有している。
自分は決して、孤立しているのではない。
ようやく、ベッカがその事に気づいた時、彼女とハウイーが見つめる未来は、沢山のウサギ穴から繋がるハッピーエンドの一つだろうか。
パラレルワールドは無数に存在し、それはまだ仮想の未来に過ぎないが、きっと彼らは一番良い道を選ぶだろう。
それまでの悲しみの仮面を脱ぎ捨て、優しい海風を感じながらハウイーと未来を語る、ベッカの穏やかな表情からは、そんな微かな希望が伝わってくる。
本作で、アカデミー賞とゴールデングローブ賞にダブルノミネートされたニコール・キッドマンが、「めぐりあう時間たち」以来の輝きで魅せる。
ここしばらくは作品に恵まれていなかったが、今回は彼女の美しさも、深い演技力も存分に堪能できる嵌り役だ。
夫役のアーロン・エッカートも、「世界侵略:ロサンゼルス決戦」で珍しくマッチョな役柄を演じていたが、やはりこういう家庭的なキャラクターの方がしっくり馴染む。
脇では、二度のオスカーに輝く名バイブレイヤー、ダイアン・ウィーストが、同じ経験をしているからこそ娘と衝突するベッカの母親役を、これが初の大役となる24歳のマイルズ・テイラーが、ベッカと心の交流を深めるジェイソン役を好演している。
テイラーは、「ハング・オーバー!」シリーズのトッド・フィリップス監督の新作「Project X」への出演と、同シリーズの脚本家、ジョン・ルーカスとスコット・ムーアが監督・脚本を務める「21 and over」で初の主役を務める事が決まっており、これからが楽しみな逸材だ。
今回は、美しく歳を重ねているにコール・キッドマンのイメージで、透明感のある白いカクテル「バラライカ」をチョイス。
ウォッカ30mlとホワイト・キュラソー15ml、レモンジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
アルコール度数は高いが、非常にスッキリとした軽やかなカクテルで、全く腹にもたれない。
このカクテルは、ベースをジンに換えると「ホワイト・レディ」となり、ラムに換えると「XYZ」になり、ブランデーを使えば「サイド・カー」になるという万能レシピだが、多分これがバリエーションの中で一番飲みやすいと思う。
いつの間にか沢山飲みすぎてしまって、パラレルワールドの自分を夢で見られるかも。

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アメリカ中部、オザーク高地の村を舞台に、貧しく閉鎖的な社会に暮らす一人の少女の、孤独な戦いを描いたハードなヒューマンドラマ。
ダニエル・ウッドレルの原作小説を、これが長編二作目となるデブラ・グラニック監督がプロデューサーのアン・ロッセリーニと共同で脚色し、映画化した。
主人公の少女、リーを演じるのは「あの日、欲望の大地で」「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」の若き演技派、ジェニファー・ローレンス。
サンダンス映画祭グランプリ、本年度アカデミー賞主要4部門ノミネートなど、多くの映画賞に輝いた話題作だ。
ミズーリ州オザーク高地。
リー・ドーリー(ジェニファー・ローレンス)は17歳にして、幼い弟妹と心を病んだ母親の生活を支えている。
父親はドラッグの密造で逮捕され、保釈後に行方不明になった。
ある日、保安官の訪問を受けたリーは、家と土地が父の保釈金の担保になっており、彼が裁判に出廷しなければ、家を失う事を告げられる。
生活を守るために父の行方を捜し始めたリーは、貧困と犯罪が渦巻くオザークのダークサイドに足を踏み入れてゆく・・・
冒頭、主人公の住む薄汚れたログハウスの描写と共に、哀愁を帯びた素朴なメロディが流れる。
アメリカの音楽に詳しい人なら、これがミズーリ州の州歌でもある「ミズーリ・ワルツ」である事に気づくだろう。
元々この歌は、この地の吟遊詩人によって歌い継がれてきた、ヒルビリーと呼ばれる民謡の一つだった。
後に、カントリーミュージックの原型となるヒルビリーを生み出し、その名の由来となったのは、19世紀半ば以降にアメリカに渡って来たスコットランド人の農民たちだ。
遅れてきた移民である彼らは、肥沃な平地を購入することが出来ず、ある者はゴールドラッシュに沸く西部を目指し、ある者はアメリカ東部から中部にかけて広がるアパラチア・オザークの山間に入植し、ヒルビリーと呼ばれる様になる。
寒冷な山の入植地では、当然ながら穀物は十分に育たず、牧畜や狩猟などで補って何とか食つなぐが、やがて中西部の大穀倉地帯が開けると、山間の小規模農家はますます孤立する。
いくら働いても生活は豊かにならず、故郷から持って来た楽器で音楽を奏で、密造酒をあおって気を紛らわせる。
そんな山の民の音楽が、南部アフリカ系音楽と融合する事で独特の民謡音楽、ヒルビリーが生まれたのである。
更にアメリカ各地の様々な音楽の要素を取り入れて、今日のカントリーミュージックが確立するのは、20世紀に入りラジオが普及した以降の事だ。
言わば貧困が生み出した音楽であるが、実際この地方は今でも貧しいままだ。
主要産業である炭鉱は、第二次世界大戦後に閉山と機械化によって雇用が激減、それに代わる産業も育たなかったため、慢性的に失業率が高い。
主人公のリーの家も犯罪に手を染めた父親が失踪し、廃人同様になってしまった母と幼い弟妹の面倒を一人で見ているために学校にも行けない。
馬の干草すら買えず、森でリスを撃ったり、隣家の好意に甘えたりして、最低限の食べ物だけは確保する綱渡りの日々。
軍隊に入ることも考えたが、訓練所に家族を連れて行くことは出来ないと、あっさり門前払いされてしまう。
彼女の抱えている状況を見ると、これが世界で最も強大で、最も裕福な国の物語とはとても思えない。
まるで第三世界の映画を観ている気分になるが、これもまたアメリカの持つ秘められた一面である。
既に人生お先真っ暗、八方ふさがりの状況の中、更なる困難がリーを襲う。
失踪した父が、家族の暮す家と土地を担保に保釈金を捻出していた事が分かり、彼が裁判当日に出廷しないと、逃亡したとみなされて一週間で家を没収されてしまうのだ。
そうなっても何処にも行く当てのないリーは、家族を守るために父の行方を捜し始める。
しかし、村中ほぼ親戚だらけで、その殆んどがならず者として犯罪で生計を立てている特殊な社会である。
当然リーの探索は歓迎されず、それどころかあちこちで妨害や脅しにあう始末。
やがて彼女は、どうやら父が一族の掟を破り、共犯者の名前を当局に売ったことで、密かに処刑されたらしい事を知る。
その悲劇的な事実すら、リーにとってはもはや驚くべき事ではなく、父が死んだなら死んだで、今度はその証拠として死体を探し出さねばならないのだ。
否応無しに、一家の主として振舞わざるを得ない彼女は、もはや若き肝っ玉母さんとして何者をも恐れず突き進むしかない。
そして、その行動は周囲との更なる軋轢を生み出すことになるのである。
ここで面白いのは、彼らの社会では男があまり前面に出てこない事だ。
リーの伯父で、一族の間でも恐れられているらしいティアドロップが、男性キャラクターで唯一能動的な役割を果たし、物語の終盤でリーの助けとなるが、基本的に男たちは裏社会で蠢いている得体の知れない存在として描かれる。
接触する事すら難しい閉鎖世界に引きこもった男たちに代わって、この作品の中で現実と向き合い、人生という物語を前に動かしているのは女たちだ。
主人公のリーは勿論のこと、乳飲み子を抱えながら彼女に手を貸す友人のゲイルも、一族のボスの妻で、リーに容赦なく制裁を加えるメラブも、それぞれの立場でしっかりと地に足をつけた強い女として描かれる。
永遠の冬に閉ざされた様な、何処にも希望の見えない世界の中でも、彼女たちはそれぞれの“守るべきもの”を認識し、そのためには犠牲も厭わない。
タイトルの「ウィンターズ・ボーン」の意味が明かされる瞬間、リーもまた悲しい壁を越え、父を探す孤独な戦いは、図らずも彼女にとってヒルビリーの伝統を受け継ぐ一人の女として、自立への道となるのである。
リーを演じるジェニファー・ローレンスの、凛とした目力が凄みを感じさせる。
当初、キレイすぎて山奥の娘には見えないと言われた彼女は、最終選考のあったニューヨークの会場にわざと深夜の直行便で駆けつけ、充血してギラギラした目でオーディションに挑んでこの役を勝ち取ったと言う。
見上げた女優根性ではないか。
彼女の作り上げたリーは、どんな絶望的な逆境にもめげず、傷だらけになっても家族のために立ち上がり、過酷な人生の試練に向かい合うタフさを見せる。
彼女の明日に待つものは一体何か。
この映画に悪役はいない。
あるのは因習と貧困が齎す絶望と、その中で懸命に生きている人間たちの姿だ。
たとえリーが家を失わなかったとしても、自転車操業のその日暮らしは変わらず、彼女自身にも、弟や妹にも豊かで満ち足りた未来があるとは思えない。
しかし、自ら傷つくことを恐れない彼女の必死の行動に、全てを諦めていたティアドロップが心の動揺を見せ、彼女の家に愛しげに小さな命を運び込む事に、微かな救いを感じる。
永遠の冬も、いつも吹雪だとは限らない。
代々受け継がれたバンジョーの奏でる素朴な音色は、厳しい土地に生きてきた逞しい人間の魂の音色だ。
希望はまだ見えない。
だが、リーが貫き通した強い心さえあれば、絶望に負けない事は出来るのである。
今回は、ヒルビリーの故郷スコットランドからスコッチウィスキーの代表的銘柄「グレンフィディック 18年エンシェントリザーブ」をチョイス。
スムースでフルーティな甘みと、パワフルだが温かみのあるフルボディな味わいは、まるでヒルビリーの女たちの様だ。
素晴らしい出来栄えのサントラを聞きながら、じっくりと味わいたい。
そう言えば、クシャクシャの札束で保釈金の残りを払ったのは、結局誰だったんだろう。

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