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年明けから始まった中東の革命、東日本大震災と原発事故、欧州の金融危機、北の将軍サマの突然の死と、正に波乱万丈な一年だった。
変化を求める人々の願いは行動となり世界を揺るがし、独裁者が次々と倒れ、欧米やロシア、そして勿論日本においても、古き価値観と秩序は力を失いつつある。
今年の漢字に選ばれたのは「絆」だそうだが、私の実感としては「変」である。
そして世に中が波乱の時は、映画が良くなるという昔からのジンクス通り、今年は時代にリンクした秀作が非常に多く、結果「忘れられない映画」も大幅増量である(笑
それでは観賞順に振り返ってみよう。
「ソーシャル・ネットワーク」は、正に時代とシンクロした一本かもしれない。中東革命の火付け役ともなったSNS、フェースブックの誕生に題材をとった物語。世界を作り変える天才達の創造の熱狂と、その裏にある一人の人間としての孤独と冷静。小さな波紋が主人公の心に広がるラストはまことに秀逸だ。
「英国王のスピーチ」は、吃音障害に苦しむ王が、その克服を通してノーブレス・オブリージュ(高貴なる義務)に目覚めてゆく。「ソーシャル・ネットワーク」とのアカデミー賞決戦は、結果的に古きが新しきを破った様な印象になったが、実は題材へのアプローチとしては此方の方が冒険的だったりする。
「塔の上のラプンツェル」は、ディズニープリンセス初のフルCG作品だ。宮崎アニメの影響を色濃く受けた本作は、現代の作品に相応しく行動的なプリンセスによる冒険映画の楽しさに満ちている。無数のランタンが三次元の空間を埋め尽くす幻想的なシーンには誰もが目を奪われるだろう。
「トゥルー・グリット」は、コーエン兄弟による西部劇の古典「勇気ある追跡」のリメイク。物語の構成要素は殆どオリジナルそのままに、演出的な解釈を変えることで、彼らは見事な21世紀の西部劇を作り上げた。圧巻のクライマックスは正にスクリーンでしか体験出来ない奇跡の映画的時間である。
「イリュージョニスト」は、ジャック・タチとシルヴァン・ショメという二人の偉大なクリエイターによる時空を超えたコラボレーション。時に忘れられつつある老奇術師と、彼を魔法使いと信じる少女の奇妙な共同生活。彼女を見つめる奇術師の切ない想いの秘密が明かされる時、映画の魔術もまた解ける。
「メアリー&マックス」は、制作に5年を費やした、アダム・エリオット渾身の力作。監督自身の体験に基づく、中年男マックスと少女メアリーの20年間に及ぶ文通は、そのままに二人の人生の軌跡となり、年齢も性別も国籍をも超えた、絆の物語として結実する。終盤に訪れるあるシーンでは、誰もが涙腺決壊を免れないだろう。
「ビー・デビル」は、韓国の新鋭チャン・チョルス監督による壮絶な復讐劇。絶海の孤島に生まれ育った孤独な女性は、何故凄惨な殺人事件を起すに至ってしまったのか。彼女がビー・デビル=悪魔となる過程には、綿密な伏線が張り巡らされ、彼女の心の叫びは鋭いナイフの様に観客の心に突き刺さる。またまた恐るべき新人監督の出現である。
「孫文の義士団」は、辛亥革命前夜を舞台にした、正に中国映画にしか作り得ない熱血アクション大作。比較的コンパクトな上映時間にも関わらず、多くの登場人物をキッチリと立てる作劇も見事。当時の上海を再現した迷路の様な巨大セットは圧巻だ。今年は辛亥革命100周年という事もあり、関連作品が幾つか封切られたが「新少林寺/SHAOLIN」も観応えのある大作だった。
「八日目の蝉」は、今年最も感銘を受けた日本映画だ。不倫相手の娘を誘拐し、自分の子として育てた女の物語と、成長した娘の物語が時系列をシャッフルして描かれる。原作を非常に映画的に解釈し、再構成した奥寺佐渡子の脚本が見事で、ラストのカタルシスは正に映画でしか味わえない物だ。
「ブラック・スワン」は、鬼才ダーレン・アロノフスキー版「パーフェクト・ブルー」という趣の異色のバレエ映画。ここにあるのは華やかな舞台の魅力では無く、創造のプレッシャーによって追い込まれ、壊れてゆく人間の心の闇だ。ナタリー・ポートマンのダークサイドが一気に開花するクライマックスは、正に戦慄のスペクタクルホラーだ。
「奇跡」は、まるで時代に呼ばれたかの様な作品だ。九州新幹線の一番列車がすれ違う時、奇跡を願うと実現する。そんな都市伝説に導かれた子供たちのロードムービーは、主人公の少年の「家族より、セカイをとってしまった」という台詞によって、3.11以降の世界に向けて大いなる問を投げかけるのである。
「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は、冷戦たけなわの60年代に起こったキューバ危機をモチーフに、X-MENの誕生を描く見事なビギニング。マシュー・ヴォーン監督は、「007」へのオマージュたっぷりに、ある種のスパイ映画として新たなX-MENの物語を構築している。人気シリーズのビギニングはすっかりジャンルとして定着したが、伝説的なSF映画に挑んだ「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」も素晴らしい仕上がりだった。
「127時間」は、ダニー・ボイルの才気迸る“イタイ”快作だ。不遜無謀な冒険野郎が、無人の荒野で岩に手を挟まれ身動きがとれなくなり、図らずも初めて自分自身と向き合う事となる。基本的に一人芝居、舞台も一ヶ所という全く映画的で無いシチュエーションにも関わらず、映画は驚くべき疾走感で極上のエンターテイメントとして昇華される。
「ハリー・ポッターと死の秘宝」は、昨年末から続くシリーズ完結編にしてベスト。11年続いた「ハリー・ポッター」は、当初の児童文学から次第に壮大な“サガ”へと変貌し、遂にダークファンタジーの傑作として幕を閉じた。作品毎に出来不出来はあるものの、色々な意味で映画史に記憶されるシリーズであることは間違いない。
「コクリコ坂から」は、1960年代の横浜を舞台に、海に消えた父に向けて信号旗を揚げ続ける少女と、学園闘争を指揮する少年との恋を描いた青春ラブストーリー。監督の宮崎吾朗は、父・宮崎駿からの脚本を受け、失われつつある記憶の継承という本作のテーマを極めて象徴的に描き切った。新世代ジブリを感じさせるフレッシュな佳作である。
「モールス」は、スウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」のハリウッドリメイク。構成要素はそれ程変わらないが、オリジナルの欠点を洗い出してブラッシュアップし、米国でリメイクする意義をキッチリと物語の背景に盛り込んでいるのは見事だ。若き演技派クロエ・グレース・モレッツとコディ・スミット=マクフィーの好演が光る。
「大鹿村騒動記」は、希代の名優、原田芳雄のセルフプロデュース的遺作。長野県の山間にある大鹿村に伝わる村歌舞伎をモチーフに、男と女の巻き起こす大騒動をコミカルに描く。クライマックスの歌舞伎の舞台からエンドクレジットのカーテンコールは、何というか映画の神が用意したというか、追悼作品としては余りにも出来過ぎな位のパーフェクトさだ。
「未来を生きる君たちへ」は、平和なデンマークとアフリカの紛争地帯という対照的な二つの舞台で展開する、負の連鎖を描いた社会派の人間ドラマ。単に理想論を振りかざすのではなく、非暴力を貫く事の難しさをリアルな実例をもって提示する作劇は真摯である。観客は負の連鎖を止める事の、綺麗事でない難しさに直面する。
「アジョシ」は、ウォンビンによるウォンビンのための、怒涛のスター映画。史上最強の“おじさん”は、孤独な少女を守るため、単身極悪犯罪組織に戦いを挑む。ひたすらウォンビンが恰好良く、まるで東映任侠映画の様なクライマックスの殴り込みは、ハリウッド映画も真っ青の迫力だ。韓流ファンの女性たちに独占させるには勿体無い、漢の映画である。
「スリーデイズ」は、ポール・ハギス先生によるリメイクのお手本。ドラマツルギーの中核は人間の感情にあるという、ハリウッド流脚本術の完璧な証明である。平凡な一般人である夫が、無実の罪で服役する妻を救い出すためのスリリングな脱獄劇、そして深い余韻を残すラストまで、お見事としか言いようがない。
「マネーボール」は、メジャーリーグの貧乏球団、オークランド・アスレチックスの再建劇を通して、“世界を変える”想像的破壊のプロセスを描いた燻銀の人間ドラマ。「ソーシャル・ネットワーク」に続くアーロン・ソーキンの脚本は、熱狂と冷静の切り替えが絶妙で、特に物語の閉め方が上手い。もしもラストシーン・オブ・ザ・イヤーがあれば彼の物だろう。
「ウィンターズ・ボーン」は、貧しく閉ざされたアメリカの山の民、ヒルビリー社会の暗部を描くハードな人間ドラマ。どんな妨害にあっても、臆せずに自分とその家族を守ろうとする若き肝っ玉姉ちゃんをジェニファー・ローレンスが好演。凍てつく永遠の冬のような世界で、世代を紡ぐ素朴な音楽の音色が切なく響く。
「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」は、初めての立体映画にしてCGアニメーションを、巨匠スピルバーグが遊び倒したデジタル冒険大活劇。「SUPER8/スーパー・エイト」や「宇宙人ポール」など、自分をリスペクトする後輩たちに刺激されたのか、本作のスピルバーグは何だか80年代へ原点回帰。驚くほど若々しく元気だ。
「灼熱の魂」は、1970年代のレバノン内戦をモチーフにした、ミステリアスな歴史ドラマ。亡き母の遺した謎めいた遺言を辿る旅は、ギリシャ神話もかくやという驚くべき大悲劇へと展開し、人間の持つ業の深さを実感させる。第二次大戦中にフランスで起こったヴェルディヴ事件が背景となる「サラの鍵」と少し似た構造を持つが、両作に共通するのは罪を犯すのも人間、癒すのもまた人間であるという事実である。
「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」は、ザ・正月映画という印象の華やかなハリウッド超大作。アニメーション出身のブラッド・バード監督は、ギミック満載の凝ったアクションで観客を魅了する。モスクワ、ドバイ、ムンバイと新興国を股に掛ける物語もテンポ良く、四作目にしてシリーズベストの仕上がりだ。
「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」は、70年前の山本五十六という人物を鏡として、実は2011年を描写した問題作。1940年代が正に現代の相似形である皮肉は東日本大震災を経てより痛烈に感じられる。「八日目の蝉」に続いて素晴らしい仕事をした成島出監督は、間違いなく今年の邦画界のMVPだ。また、今年は邦画の戦争物の当たり年で、サイパンの戦いを日米双方の視点で描いた「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」、99歳の新藤兼人監督による「一枚のハガキ」も気を吐いた。
ずいぶん多くなってしまったが、今年の私的「忘れられない映画」は以上である。
2010-2011年は、欧州大戦、太平洋戦争勃発70周年、辛亥革命100周年、9.11同時多発テロ10周年など、歴史的転換点の節目が重なった年でもあり、関連した作品も多かった。
昨年が15周年の阪神大震災の記憶を描いた「その街の子供」は、元々テレビドラマという事で上のリストからは外したが、非常に優れた作品だ。
また洋画アニメーション映画が大豊作で、上記の作品以外にも「ファンタスティックMr.FOX」「ランゴ」「カーズ2」「カンフー・パンダ2」などバラエティ豊かな秀作が目白押しだったのだが、ディズニー・ピクサー以外は総じて興行的に低調。
日本人は“アニメ”は知っていても“アニメーション”は知らないという事実と、日本の映画マーケットの特殊性を改めて印象付ける事になった。
そして、今年後半の幾つかの作品にも既にその影は見えていたが、たぶん来年になると3.11後の世界を正面から捉えた日本映画が続々と出てくるだろう。
9.11が確実にアメリカ映画を変えたように、何れ日本映画の歴史は3.11以前と以降に分けられる様になるのではないだろうか。
どうやら、その最初の一本は園子温監督の「ヒミズ」になりそうである。
それでは、皆さん良いお年を。

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弟との約束を果たすために、一本の“鍵”を握りしめ大戦下のパリを目指すユダヤ人少女と、現在から彼女の消息を探すアメリカ人ジャーナリストを描くミステリアスな歴史ドラマ。
原作は、タチアナ・ド・ロネの同名ベストセラー小説。
監督・脚色は、ユダヤ系フランス人であり、祖父が絶滅収容所で亡くなっているという、ジル・パケ=ブレネールが手掛けている。
日本公開は今年だが、2010年にフランスで作られた作品である。
この年は1940年にドイツがフランスに侵攻してから70周年にあたり、自らの歴史を改めて振り返ろうとした作品も多かった様で、これもその一つだ。
1942年7月16日。
パリに暮らす10歳のユダヤ人少女サラ(メリュジーヌ・マヤンス)は、突然踏み込んできたフランス警察によって両親と共に逮捕される。
連行される直前、彼女は幼い弟のミッシェルを納屋に隠し、鍵をかける。
「直ぐに帰るから、決して出ちゃだめよ」と言い残して。
68年後のパリ、ジャーナリストのジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)は、リフォーム中の夫の実家が、元々ユダヤ人の一家が住んでいたアパートである事を知る。
彼らの消息を追ったジュリアは、やがて一家の少女サラが辿った過酷な人生と、夫の家族との秘密の歴史を知ることとなる・・・
ドイツ占領下のパリで1942年に起こったフランスの黒歴史、ヴェルディヴ事件。
パリに暮らしていたユダヤ人1万3千人以上が、フランス警察によって突然連行され、宿泊施設もない室内競輪場に押し込められた後に、ナチスの絶滅収容所へと送られた事実は、先日公開された「黄色い星の子供たち」でも描かれていたので、ご存知の方も多いだろう。
一万人以上もの人々が忽然と街から消え、その殆どが二度と戻らない。
当然、彼らの家は空家として残され、後には別の人が住む。
本作の主人公は、フランス人男性と結婚し、パリに暮らすアメリカ人ジャーナリストのジュリア。
雑誌社に勤める彼女は、ヴェルディヴ事件の取材の過程で、夫の実家のアパートが、事件で逮捕されたユダヤ人一家の住居だった事を知ってしまう。
もしかしたら、アパートは彼らの犠牲に乗じて不正に入手された物ではないのか・・・。
疑心暗鬼となったジュリアは、当時10歳だった一家の長女、サラの死亡記録が何処にも無い事を知り、何かに取り憑かれたかの様に彼女の消息を追いはじめる。
フランス人にとっては、触れられたくない歴史の汚点。
ジュリアはアメリカ人という第三者であると同時にジャーナリストとしての義務感から、軋轢を覚悟の上で、夫の家族とサラとの接点を探し始めるのだが、それだけでは誰もが触れて欲しくない歴史の暗部を、好奇心から覗こうとするだけのお節介な人にも見える。
だから本作では、ジュリアがサラの消息を追わなければならない、もう一つの必然を与えている。
彼女は45歳にして待望の妊娠をしたのだが、当然喜んでくれると思っていた夫に、新たな子供を持つことを拒否されてしまう。
今ある家族と新しい命。
生きることを許されずに、奪われてしまった多くの命が、ジュリアにとっては我が事としてのし掛かって来るのである。
映画は歴史に微かに残されたサラの痕跡を探すジュリアと、1942年の世界で弟との約束を果たすために、過酷な旅を続けるサラの姿を交互に描いてゆく。
隠された家族の歴史を探り、現代と過去がシャッフルされる作劇は、レバノン内戦を材にとった「灼熱の魂」と少し似た印象もあるが、あちらがギリシャ神話もかくやという大悲劇へと展開してゆくのとは対照的に、こちらはそこまでのドラマチックな飛躍はない。
むしろ、多分こういう事は戦争中に沢山あったのだろうなという、リアリティを重視した淡々とした流れに終始する。
昨日までの隣人が無慈悲に罵声を浴びせ、逆に良心の呵責に耐えられない警官が小さな命を救おうとする。
人間の持つ様々な側面を見つめながら、少女サラは自らの善意によって閉じ込めてしまった、幼い弟のために鍵を抱いて走り続ける。
そして、遂にパリに帰り着いたサラを待っていたのは、少女の心を打ち砕くには十分過ぎる、余にも残酷な現実だ。
地獄の様な時代を生き延びたサラは、戦後自らの存在を消し去る様に、誰にも告げずにアメリカへと渡ると、そこで人生の伴侶を得て一児の母となる。
しかしユダヤ人である事を含め、フランス時代の一切を封印して、一人息子にすらそれを秘密にするのは、自らの出自が悲劇を招き、弟を殺してしまったという恐怖から逃れる事が出来なかった事だろう。
自分が自分である事自体が罪。
ユダヤ人である事を知られる事を極端に恐れたというサラは、ほぼ自殺に等しい非業の死を遂げるのだが、これもおそらくは自らの秘密を死によって葬る事で、家族を守ろうとしたのだと思う。
残酷な運命の悪戯によって、壊れてしまったサラの心。
だが、フランス、アメリカ、イタリアへと続く、サラとその血脈を追う長い長い旅路によって、彼女の人生の軌跡を追体験したジュリアは、自らが守るべき命、選ぶべき道を知り、またジュリアによって歴史の裏側に秘められていたサラの実像が、それを知るべき人々に伝えられる。
70年に及ぶ時の流れを超えて、サラの想いが新しい命へと繋がるラストは、この厳しく切ない物語の未来に、仄かな希望を感じさせる秀逸な物だ。
命は、血だけでなく記憶によっても継承されてゆくのである。
今回は、戦後のサラが降り立った地、ニューヨークの名を持つカクテル「ビッグ・アップル」を。
多目の氷を入れたタンブラーにウォッカを注ぎ、アップルジュースを適量加えて軽くステアし、最後にカットしたリンゴを飾って完成。
因みに、ニューヨークの愛称が何故ビッグ・アップルになったかは諸説があるが、どうも昔男性サロンにいた女性たちを男たちが隠語でアップルと呼んでおり、上質のアップルが集まる街という意味で、ビッグ・アップルとなったという説が有力の様だ。
女性だけでなく、世界中から人々が集まり、あらゆる人種・言語・宗教が共存するこの街は、サラにとっては最も安心できる場所だったのでもしれない。

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東日本大震災によって、文字通り日本列島に激震が走った今年は、やはりこの国の歴史のターニングポイントとなった、太平洋戦争の勃発から70年という節目の年でもある。
ヨーロッパや中国戦線が陸の戦だとすれば、大洋の覇権をかけて日米両国が激突した太平洋戦争は、世界の戦史上類を見ない大洋海軍同士の広範囲な海の戦であった。
1941年の開戦から、1943年にブーゲンビル島上空で戦死するまで、連合艦隊司令長官として、日本海軍の現場を預かったのが本作の主人公、山本五十六だ。
日本の軍人としては、世界的にもおそらく東郷平八郎と共に最も有名な人物で、1968年にも三船敏郎主演で同タイトルの映画が作られている。
だが、未曾有の大災厄に見舞われた平成の世に蘇った本作は、リメイクでもないし、人間・山本五十六を史実に正確に描いた評伝でもない。
これは、70年前に時代のアイコンとなった一人のリーダーを鏡として、平成23年の今を描いた作品なのである。
1939年。
海軍次官だった山本五十六(役所広司)は、日本を戦争へと追い込む三国同盟に、米内光政(柄本明)、井上成美(柳葉敏郎)らと共に強行に反対し、一度は阻止に成功する。
だが、ヨーロッパの戦争の拡大、反米感情から戦争を望む世論に押し切られ、政府はドイツ、イタリアとの三国同盟を締結し、時代は一気に戦争へと動き出す。
次官から連合艦隊司令長官に移動となった山本は、短期決戦で米太平洋艦隊を壊滅させ、即講和交渉に臨む作戦の立案を指示。
そして1941年12月8日、真珠湾攻撃によって遂に対米戦の戦端が開かれる。
山本は、肝心の空母が真珠湾にいなかった事と、外務省の不手際から結果的に騙し討ちとなって、アメリカに戦争の大義名分を与えた事から作戦は失敗だと考えるが、表面的な戦果に浮かれる世論は山本を英雄へと祭り上げる・・・
宣伝とは裏腹に、所謂戦争スペクタクルではない。
確かに真珠湾攻撃からミッドウェー海戦、ブーゲンビル島での空中戦など戦闘シーンは一通り描かれているし、迫力もある。
だが、その視点はどちらかというと戦闘の熱からは対極にある冷静な物だ。
そればかりか、タイトルロールの山本五十六という人物へのアプローチも含めて、本作は務めて被写体からの一定の距離感を保とうとするのである。
当たり前だが、遠い過去の出来事を映画にするなら、そこに「なぜ今作らねばならないのか」という意図が必要だ。
それは普遍性であったり、現代性であったり様々だろうが、本作の場合は太平洋戦争開戦前後の日本が、正に平成の世との相似形であるという事に尽きる。
「太平洋戦争70年目の真実」という副題が付いているが、これは「70年後の真実」と言い換えても良いだろう。
当時の日本は、1929年に起こった世界恐慌によって経済は停滞、社会には閉塞感が漂い、市井の人々は日清・日露の栄光よもう一度と戦争を望み、マスコミもまたそれを煽る。
そして、世論に押し切られる形で、事なかれ主義の政治家・官僚は三国同盟に走り、結果として自ら後戻り出来ない地獄へと突き進む。
軍部が勝手に暴走し無謀な戦争に突入、真実を伝えようとするマスコミは残酷に弾圧され、市民は何も知らされずに米軍の爆撃で殺された哀れな被害者だったという、幾多の戦争映画で描かれてきた、ありがちなステロタイプはこの映画には無い。
マスコミは自らの売り上げの為に戦意を煽り、多くの市民もまた経済活動として戦争を欲したという認めたくない事実を描いているだけでも、本作は過去に日本で作られた戦争大作と一線を画していると言えるだろう。
振り返って平成の日本では、失われた10年に続くリーマンショックの余波によって、やはり経済的には閉塞感に満ち、しかも大震災に原発事故と言うトリプルパンチで物理的にも精神的にも深いダメージを受けている。
そして相も変わらず大本営発表を垂れ流す大手マスコミに、頑なに既得権益を守ろうとする官僚、全くリーダーシップの見えない政治家たち。
劇中の「首相はコロコロかわる」「戦はやってみないとわからない」などの台詞は、何処まで意図した物かはわからないが、過去5年で首相を5回も挿げ替え、多分大丈夫というノリで、原発破綻を招いてしまった我々に対する、70年前からの痛烈なアイロニーである。
本作の主人公は勿論山本五十六だが、成島出監督はあまり彼の内心には立ち入らず、むしろ周りの状況を彼がどう受け止めて、どう行動したかを中心に描写する。
“連合艦隊司令長官”という肩書きから、何だか海軍全ての中で一番偉い人みたいなイメージがあるが、サッカー日本代表監督がチームを預かる中間管理職である様に、海軍にも現場の連合艦隊の上に軍令部やら海軍省やら上部組織があって、連合艦隊司令長官は基本的に決定事項に沿って作戦を立て、指揮する現場責任者に過ぎない。
安易なナショナリズムと経済効果だけを求めて戦争を望む世論と、ろくな戦略も持たず、戦のシミュレーションも十分に行わずに突き進むだけの政治のプレッシャーに晒されながら、己が信念と現実の立場の間で苦悩するリーダーの姿を、役所広司が好演している。
軍民様々な立場の人々が登場し、時代の激流によって流されて行く本作において、山本五十六は言わば不動の要石として物語の中心で重しとなり、更に観客である我々にとっては過去の世界から現代を映す鏡となる。
面白いのは山本の食事のシーンが非常に多く、それが控えめながら彼の心情を上手く反映している事だろう。
参謀達の言い争いを制して瀬戸内の魚の美味さを褒め称えるシーン、妻子と共に家で夕食を食べるシーン、そして下戸の甘党である山本がまるで最後の晩餐の様に部下達と酒を酌み交わすシーン。
あくまでも冷静に、しかしある意味戦争指揮官としては優しすぎたのかもしれない彼の内面を、それとなく想像させる秀逸な描写である。
また作劇上の工夫として、玉木宏演じる若い新聞記者、真藤を物語の語り部的なキャラクターとし、時代背景を説明する役割を与えている事もあげられる。
彼は明治維新以来の日本の戦争を記録した「大日本帝国戦史」を編纂しいるという設定で、マスコミと対立しても信念が全くぶれない山本に出会い、言論人としての葛藤を抱える様になる。
真藤のモノローグによって語られる戦争に至る背景や山本五十六像、また新聞社の編集会議のシーンや、彼の訪れる小料理屋のシーンで描写される社会の戦争への見方によって、断片的な物語展開が補完され、尚且つ日本映画にありがちな野暮なテロップによる説明を不要としている。
まあ説明要素に関しては元々要らないと思う人もいるだろうが、何しろ日米が戦争をした事すら知らない若者も増えているという時代であるし、作品の間口を広げるという意味でも必要だったと思う。
更に、真藤は山本の体現するメッセージを受け取る、次世代の代表としての役割を持たされたキャラクターでもある。
兵役にとられ、戦後復員した真藤が目にする、一面の瓦礫となった東京。
それは否応にも今年我々が幾度となく目にした、悪夢の様な風景に重なるのである。
“良くも悪くも忘れっぽいのが日本人”という話が映画でも出てくるが、やはり我々は歴史の教訓を忘れてしまったのだろう。
山本が真藤に語りかける「目と耳と心を大きくひらいて、ちゃんと世界をみなさい」という言葉を、未来を生きる我々は改めて噛み締める必要があるのかも知れない。
今回は、山本五十六の故郷、長岡を代表する地酒で、創業460年を誇る吉乃川から「極上 吉乃川 特別純米」をチョイス。
ライトな飲み口で、喉ごし滑らかにして純米酒らしいふくよかな味わい。
この季節なら鍋料理に燗で飲んでも美味しいと思う。
山本は長岡で、高野五十六として生まれ、後に旧長岡藩家老の血筋である山本家の養子となる。
五十六という珍しい名前は生まれた時の実父の年齢だそうで、何気にこの名前はあまり好きではなかったらしい。
まあ・・・そりゃそうだろうな。

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スティーブン・スピルバーグによって生み出された、SF映画史上の金字塔「未知との遭遇」「E.T.」に影響された映画関係者は数多い。
この夏に公開された「SUPER 8/スーパー・エイト」も、そんなスピルバーグ映画への憧れをストレートに、そして真面目に表現した佳作だった。
一方こちらは、スピルバーグ愛は共通なれど、何しろ脚本があのサイモン・ペッグとニック・フロストなので、シニカル&ブラックな英国風味だ。
監督は「スーパーバッド 童貞ウォーズ」など、日本ではDVDスルーの作品でファンの注目を浴びていたグレッグ・モットーラが本邦劇場初見参。
イギリス人のイラストレーター、グレアム・ウィリー(サイモン・ペッグ)とSF作家のクライヴ・ゴリングス(ニック・フロスト)はオタクの祭典、憧れのコミコン・インターナショナルを訪れるためにアメリカにやって来る。
彼らは、キャンピングカーで西部に点在する超常現象スポットを旅行をしていたところ、エリア51近くでポール(セス・ローゲン)と名乗るグレイタイプの宇宙人と出会う。
ポールは二人に、宇宙へ帰るから“ある場所”まで送ってくれと言うのだが、彼らの背後にはお約束通りメン・イン・ブラックが迫っていた・・・
アメリカ旅行中に、ひょんな事から宇宙人を拾ってしまった英国人のナード(オタク)二人組の珍道中を描くロードムービー。
スピルバーグを始め、数々の映画へのパロディとオマージュが、エリア51やらブラックメールボックスやら、その筋の人だけに有名な観光スポットを巡りながら描かれる。
サイモン・ペッグとニック・フロストは、実際にキャンピングカーでアメリカを旅行しながら構想を練り、脚本に反映させていったという。
因みに私も、映画とほぼ同じルートでドライブ旅行した事がある・・・ええ、そうです私ナードですとも!(爆
ペッグとフロストはそれぞれ1970年と72年生まれ、監督のモットーラは1964年生まれ。
J・J・エイブラムスらと同じく、典型的なルーカス・スピルバーグ世代と言って良いだろう。
冒頭、いきなり「未知との遭遇」の殆どフルコピーのシークエンスで始まる本作、全編に散りばめられたネタは上記の二作品の他、「スターウォーズ旧三部作」「スタートレック」「エイリアン」「X-ファイル」といったSF作品から「JAWS」「レイダース」「イージーライダー」「ダーティー・ハリー」に至るまで70年代から90年代までのアメリカ映画、TVを網羅。
主人公たちが暗号代わりにクリンゴン語を使ったり、「E.T.」と同じ超能力で死んだ鳥を生き返らせたポールが、いきなり鳥をバリバリ食べちゃったり、はたまた酒場で乱闘が起こるシーンではナゼか荒野の真ん中なのに“水兵”が参戦したりと、アメリカ映画のお約束まで笑のネタに。
パロディだけでなく、何とスピルバーグ御大が自ら声のカメオ出演して、宇宙人ポールと「E.T.」のアイディアを語り合うのだからファンにはたまらない。
だが、それは同時に元ネタを知らない人にとっては、意味不明のギャグと会話が延々続く事を意味するので、一応独立した映画として成立していた「SUPER 8/スーパー・エイト」などとは比較にならない程、観客を選ぶ作品である事は間違いない。
とりあえず、最低限「未知との遭遇」と「E.T.」を観てから観賞すべきだろう。
もっとも、映画ネタだけが本作の見所ではなく、物語に目を向けてもなかなか良く出来ている。
主人公のグレアムとクライヴは友達以上、ホモ達未満の密接な関係。
そんな二人の元に転がり込んで来るのが、メチャクチャ口の悪いお下品な宇宙人ポール。
ポールとグレアムが仲良くなるにつれて、クライヴの中には微妙な嫉妬心が芽生えてくる。
しかも旅の途中で、宗教狂いの父親に育てられたルースという女性が一行に加わり、いつしかグレアムと良い雰囲気に。
旅を楽しみながらも、彼らの心の中の小さな蟠りが、言わば物語の揺らぎとなって深みを齎すのである。
更に、三人のメン・イン・ブラックと、娘を誘拐されたと思い込んだルースの父親までも加わった追跡劇がスリルを盛り上げ、1947年にポールが地球にやって来た時、最初に出会った少女、タラとのエピソードが物語に情感を加える。
政府がポールを連れ去って隠蔽した後、彼女は周囲に自分の見たものを信じて貰えず、嘘つき呼ばわりされたまま寂しく年老いてしまったのだ。
タラも合流した一行が目指す目的地は、もちろんワイオミング州の原野に聳える、“あの山”である。
まあ、ここからのクライマックスは、メン・イン・ブラックのボスキャラとして、ある大物俳優がサプライズ出演する以外は、全くの予定調和。
ルースの父親に撃たれて死んだグレアムを、ポールが命がけの超能力で救い、お約束のタイミングで宇宙船がやって来て、ポールが罪滅ぼしにとタラを故郷の星へと誘う。
そして、冒険を終えたグレアムとルースは恋人同士となり、作家として伸び悩んでいたクライヴはポールとの冒険を小説化し大成功と、誰もが予想する通りに物語は進み、絵に描いたような大団円を迎えて幕を閉じる。
だが本作の場合、それは作品の魅力をスポイルする事には繋がっていないと思う。
なぜなら、これはナードによるナードのための映画であり、このお約束こそが過去の幾多の名作に対する大いなるオマージュになっているからである。
我こそはナードを自認する人にこそ、オススメの一本だ。
今回は、アメリカン西部旅行の必需品。
ケンタッキーバーボンの「エヴァン ウィリアムス12年」をチョイス。
エヴァン ウィリアムスは世界4位の生産量を誇るバーボンメーカーで、この12年は同社のラインナップ中でも抜群のコストパフォーマンスを誇る酒だが、味わいは本格的で決して安っぽくは無い。
50度を超えるアルコールは強烈だが、後味はスッキリしている。
まあこれをボトル半分も飲めば、UFOにアブダクションされても気付かないだろうけど。
しかし、本作以外にもニック・フロストはエドガー・ライトと共に「タンタンの冒険」の脚本を担当、サイモン・ペッグは「M:I:IV」に準主役出演と「ショーン・オブ・ザ・デッド」組の勢いは、まるで冬休み映画を完全制覇しそうな勢いだ。

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トム・クルーズ主演の大ヒットシリーズ、第四弾にしてシリーズ・ベスト。
今回は、クレムリン爆破の容疑をかけられたイーサン・ハントが、第三次世界大戦の危機を阻止するために、サイモン・ペッグ、ポーラ・ハットン、ジェレミー・レナーといった個性豊かなチームの面々と共に世界を駆け巡る。
ギミック満載の息をもつかせぬアクションが快調なテンポで紡がれ、あっという間に2時間13分の長尺が終了。
正に抜群の安定感を持つ、正月映画の真打ち登場だ。
モスクワでクレムリンが爆破され、ロシア諜報機関はIMFのイーサン・ハント(トム・クルーズ)のチームに疑いをかける。
アメリカ政府は戦争を避けるためにIMFを解散させ、一切の支援を停止するゴースト・プロトコルを発令。
ハントのチームは孤立無援となってしまう。
事件の真犯人が、核戦争が人類を進化させると標榜する、政治学者のカート・ヘンドリックス(ミカエラ・ニクヴィスト)である事を突き止めたハントたちは、ヘンドリックスが殺し屋のモロー(レア・セドゥ)と核兵器発射コードの取引を行う事を知り、ドバイへと飛ぶが・・・
トム様がプロデューサーも兼任するこのシリーズ、毎回意外性のある監督の人選も楽しみの一つ。
第一作はサスペンス映画の巨匠ブライアン・デ・パルマを起用、第二作は香港ノワールを引っ提げてハリウッド進出を果たしたジョン・ウーを、第三作ではテレビ界に旋風を巻き起こしていたJ・J・エイブラムスを大抜擢した。
「M:i:III」は、例のトム様の奇行騒動の余波で興行的には期待された程では無かったが、高い評価を受けたエイブラムスは、本作でもプロデューサーとして残り、脚本チームもエイブラムス繋がりだ。
そして今回の監督は、何とブラッド・バードである。
名作「アイアン・ジャイアント」で長編デビューを飾って以来、ピクサーで「Mr.インクレディブル」「レミーの美味しいレストラン」を監督したアニメ界のヒットメーカーだ。
アニメ映画から実写の監督に転身した例は過去にも度々あるが、最近のハリウッドでは「102」「魔法にかけられて」のケヴィン・リマくらいだろうか。
もっともあれはディズニーアニメの実写化だったり、パロディだったり、アニメとの共通項は多かった。
あ、「シュレック」から「ナルニア国物語」を撮った、アンドリュー・アダムソンもいた。
元々アニメと実写では同じ映像制作とはいっても、方法論がまるで異なるので、それぞれのフィールドで実績を残している人でも、上手くいかない事も多い。
70年代頃の日本では、興行サイドの信頼を得るために、名の知れた実写の監督をアニメの監督に据える例もあったが、実質的には名義貸しに近かったと聞く。
宮崎駿も過去に実写映画を撮る気は無いのか?というインタビューに、「ノウハウが全く違う」と答えている。
だが、映画の急激なデジタル化とCGの普及は手法の垣根をぐっと低める効果を齎した様で、特にCGによる視覚効果を多用するSFやファンタジーでは、「これはアニメか?実写か?」という論争が起こることもしばしば。
ロバート・ゼメキスの一連の作品や、スピルバーグの「タンタンの冒険」など、パフォーマンス・キャプチャを使った実写監督によるアニメ作品はもはや珍しくない。
彼らが、俳優による即興的なボディリアクションなど、実写的な考え方をアニメの演出に持ち込んでいるとしたら、ブラッド・バードが本作でやっているのはその逆である。
本作で特徴的なのは、画作りがとにかくロジカルで、正に一瞬の隙も無い事だろう。
ゼロから脳内で映像を創造するアニメ監督ならではの画面の密度、空間を縦横に使ったアクションシーンの一挙手一投足にまで、完璧な絵コンテの存在を想像させ、尚且つそれぞれの見せ場に凝ったギミックが組み込まれているのである。
例えばクレムリンへの潜入におけるCG画像のカモフラージュ、ドバイに聳える世界一の超高層ビル、プルジュ・ハリファの壁面に張り付くというめまいを起こしそうなシーンの、ヤモリみたいな手袋の使い方、視界ゼロの砂嵐の中での携帯ナビを使ったカーチェイス、更にムンバイのエアダクトに侵入するシーンのセルフパロディ気味の空中浮遊。
ブラッド・バードは、過去のシリーズをクリティカルに分析し、それを良い意味で漫画チックに再構成している。
特にクライマックスの、駐車場タワーを舞台にしたスーツケースの奪い合いは、まるで宮崎駿の「ルパン三世/カリオストロの城」を思わせ、正にアニメーション監督の真骨頂だ。
物語も良く出来ている。
基本はクレムリン爆破の容疑をかけられ、アメリカには見放され、ロシアからは追われる立場となったハントのチームが、核戦争勃発を目論む事件の真犯人を探し出し、世界を救うというシンプルな物だが、登場人物の背景がしっかり作られており、それが行動原理に上手く結び付いているのだ。
例えば、ジェレミー・レナー演じる分析官のウィリアム・ブラントは、元々凄腕のエージェントだったのが、ある事件で心に傷を負い現場を退いているのだが、その事件に絡んでいたのが、実はハントだったという設定だ。
また、チームの紅一点であるジェーン・カーターは、恋人だったハナウェイ(演じるのは「LOST」のジョッシュ・ホロウェイ)を殺し屋のモローに殺されており、復讐心と任務への忠誠の間で揺れ動く。
この様に、登場人物の背景が物語の展開に伴ってサブストーリーとして絡み、話が一本調子になるのを巧みに防いでいるのである。
因みに出番は多くないが、モローを演じるレア・セドゥが良い。
2008年の「美しい人」で注目され、今週末公開の「ルルドの泉」にも出演しているフランスの注目株。
仏映画界大手のパテ社会長の孫娘にして、世界最古の映画会社ゴーモン社の会長は大おじという超サラブレッドで、いかにもタカピーそうなルックスが萌える。
殺しの報酬はダイヤでって、漫画っぽいディテールも似合うのだ。
「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」は、観応えたっぷりのアクションがてんこ盛りで、年末年始にスカッとするにはピッタリのゴージャスな一本だ。
全力疾走の必死さなどに多少歳を感じるようになったとはいえ、スターオーラ全開のトム様はまだまだ若い!
まあ核ミサイルが発射されたら、普通は着弾する前に迎撃したり報復したりするよね、とかツッコミどころも無きにしも非ずだが、その大らかさも魅力のうち。
良くも悪くもクール&シリアス路線が定着した「007」シリーズと比較しても、本作の圧倒的な間口の広さは明らかだろう。
また新たな監督での新展開も良いが、シリーズ中でもダントツに高い完成度を持つ本作のチームには、もう一本くらい期待したい気がする。
しかし、舞台となるのがモスクワ、ドバイにムンバイとまるで新興国ツアーの様。
前作で中国も行っていたし、このシリーズは漫画チックに見えて、案外と世界のパワーシフトを敏感に拾っているのかも知れない。
次回の舞台はブラジルに南アフリカ、インドネシアあたりかな?
今回は、ハリウッド映画らしい華やかさと面白さを併せ持つ作品に相応しく、アメリカン地ビールの王道「アンカー リバティ・エール」をチョイス。
1975年の登場時には、アメリカ中の地ビール業者に衝撃を与えたと言われるペールエールは、よく言われる様にマスカットを思わせるフルーティなフレーバーが特徴で、繊細な泡の刺激も喉に心地良い。
重すぎず、軽すぎず、それでいて個性もある、絶妙のバランスを誇るニュージェネレーション・エールの名品だ。

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「灼熱の魂」という邦題は観て納得。
原題の「Incendies」は仏語で“火事”の意味だが、これは正に燃え上がる炎の様な熱い魂を持った、力のある映画だ。
中東出身の一人の女性が残した謎めいた遺言から、実に40年間に及ぶ宿命の物語が展開する。
原作はレバノン生まれのカナダ人劇作家、ワジディ・ムアワッドが故国の内戦をモチーフとした戯曲で、監督・脚色をカナダ仏語圏のケベックで活躍する俊英、ドゥニ・ヴィルヌーヴが務めた。
*一部ネタバレ注意。
世捨て人の様に暮らしていた中東系カナダ人女性、ナワル・マルワン(ルブナ・アザバル)が亡くなった。
残された双子のジャンヌ(メリッサ・デゾルモー=プーラン)とシモン(マキシム・ゴーデット)は、長年母を知る公証人のルベル(レミー・ジラール)から遺言と共に二通の手紙を渡される。
それは二人には存在すら知らされていなかった、父と兄に宛てられた物だった。
戸惑いながらも母の故国へと飛んだジャンヌは、35年前の写真を頼りに、微かに残された母の足跡を辿り始める。
やがて姉弟は、歴史の闇に翻弄された、母の数奇な人生と秘められた家族の歴史を知る事となる・・・
何とも苛酷な映画だ。
レディオヘッドの「You and Whose Army」にのせて、幼い少年達が武装したゲリラ兵士によって髪を剃られるシーンで始まる本作は、1970年代に起こったレバノン内戦を背景としている。
ただし劇中で明確な国名が明かされる事は無く、戦争の背景もイスラム教徒とキリスト教徒の衝突という程度にしか語られない。
歴史の中のある一点を正確に描いたというよりも、今も世界のどこかで繰り返されている人間が抱える業の象徴としての戦争なのである。
映画は、遺言に導かれるように現代の中東の土を踏み、母ナワルの人生の軌跡を追う双子姉弟の旅と、1970年代から80年代にかけてのナワルの壮絶な過去の物語を、時系列をシャッフルする形で平行に描いてゆく。
演劇の“幕”の様に、全体が表題を持ついくつかの章に別れているのが特徴的だ。
一体、ナワル・マルワンとは何者なのか。
彼女はなぜ故郷を捨て、世間と殆ど交わる事をせず、人を寄せ付けない人生を送らざるを得なかったのか。
ミステリアスな心の旅は、やがて憎しみと不寛容によって人生を狂わされた一人の女性が辿った、残酷な負の連鎖を明らかにしてゆく。
地方の保守的なキリスト教徒の家に生まれ、許されぬ恋によって妊娠したナワルは、お腹を痛めて生んだ男の子を奪われ、村から追放される。
親戚を頼り都会の大学に進学するものの、今度は内戦が勃発。
孤児院に送られたはずの息子を心配したナワルは、一人戦闘地帯となった故郷に向うのだが、そこで彼女が身をもって体験するのは、あまりにも理不尽な暴力の惨禍だ。
息子を見つけることは出来ず、旅の途中で幼い子供が虐殺されるのを目の当たりにした彼女は、あろう事か自ら暗殺者となって戦いを煽る右派政治家の命を奪ってしまうのである。
憎しみに駆られ、暴力の遂行者となってしまった彼女に、もはや安息は訪れない。
内戦下の刑務所に政治犯として送られたナワルを待っていたのは、想像を絶する地獄の日々だが、ここでは彼女は驚くべき運命の帰趨する先をまだ知らない。
ナワルが、自らの陥った負の連鎖の本当のおぞましさに直面するのは、逃れるように故国を後にし、カナダで二人の子供を育て上げた現代のことである。
終盤に明かされる“1+1=1”となる驚愕の事実には、おそらく全ての観客が言葉を失うだろう。
ここで二つの世代は時空を超えて絡み合い、ナワルが遺言によって子供達におくったメッセージの、真の意味が明らかになるのだ。
物語の構造のベースとなっているのは、ギリシャ神話のエディプスだろう。
ネタバレになるので詳細を書くのは控えるが、“踵”がキーワードになるあたり、明らかに神話から着想を得た作劇だと思われる。
ただし、それまでもかなり力技で展開してきた物語は、ギリシャ神話を引用する至ってもはや悪意ある神の悪戯としか思えないほど偶然性に頼っており、メロドラマもかくやという気もしないではない。
もっとも、この御都合主義とも言える運命の苛酷さが、本作の燃え上がるような情念の燃料となっていることもまた間違いなのである。
ナワルの中で燻ってきた闇黒の炎が、遂に彼女の全てを焼き尽くす場所が、満々と水を湛えたプールなのは、本作が神話的暗喩劇である事を如実に示している。
絶望の中で死を迎えた彼女を真に解放できるのは、呪われた血と運命を受け継いだ第三者、つまりジャンヌとシモンという二人の子供達。
真実を知ったことで、ジャンヌとシモンも忘れえぬ傷を負う。
いや彼らだけではない。
最も深く、残酷な傷を受けるのは、ラストシーンでナワルの墓石の前に佇むある人物であろう。
だが、あえてナワルが“知らないほうが幸せな真実”を追わせた事で、彼らは皆自分たちの血脈の中にある、暴力の歴史の意味を理解し、自らの責任として受け入れることで、憎しみと不寛容がもたらす負の連鎖を閉じる役目を果すのである。
それはナワルが一人の母親として子供達に残した、最後にして最大の愛の証でもあったのではないだろうか。
今回は、タイトル通りに非常に熱気のこもった作品故に、鑑賞後は爽やかに喉を潤したい。
映画では戦火に覆われていたレバノンの白ワイン、イクシール・レバノンの「アルティテュード・ホワイト」をチョイス。
歴史的にキリスト教徒が多く、温暖な地中海に面したレバノンは、中東ではイスラエルと共にワインの生産国として知られている。
このアルティテュード・ホワイトは軽やかなアロマに柑橘系の甘みと酸味が同居するバランスの良い一本。
何でもレバノン出身の両親を持つ、あのカルロス・ゴーン氏が出資してるんだそうな。
今も危うい均衡の上にあるこの地に、平和が定着しますように。

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![]() カルロス・ゴーン氏が投資するワイン[2010] アルティテュード・ホワイト/イクシール レバノン/ ... |


「映画 けいおん!」は、とある高校の軽音楽部でガールズバンドを組む、4人の女子高生の日常を描いた、かきふらい原作のテレビアニメーションのザ・ムービーだ。
3年間の締め括りとなる本作では、間もなく高校生活を終えようとしている主人公たちのロンドンへの卒業旅行と、いつも世話になっている後輩に何かプレゼントを贈ろうとするエピソードを中心に、物語が構成されている。
監督、脚本は、山田尚子と吉田玲子のコンビがテレビシリーズから続投。
いかにも京都アニメーションらしい丁寧な作りは、シリーズのビギナーにとっても好感が持てる。
卒業を間近に控えた軽音部の平沢唯(豊崎愛生)、秋山澪(日笠陽子)、田井中律(佐藤聡美)、琴吹紬(寿美菜子)は、卒業旅行を計画。
くじ引きの結果、全てのバンドの聖地、憧れのロンドンへ行くことになる。
後輩の中野梓(竹達彩奈)も誘って、5人で渡英した一行は、いきなり間違ったホテルに連れて行かれたり、何故か現地のSUSHIバーでライブをやる羽目になったり、珍道中を繰り広げる。
そして旅の途中で、唯たち卒業生は軽音部を受け継ぐ梓に、先輩としてなにか感謝の気持ちを残そうと考えるのだが・・・
テレビシリーズはたまに何度か観た程度、原作は読んだ事がなく、映画を観てからネット配信で1巻だけ読んだ。
熱烈なファンが多いというこのシリーズで、おそらく私の様な観客は最初っから対象外だと思うのだが、さすがにこれだけ騒がれるとファンならずとも観たくなるのが人情というもの。
正直、最初の10分くらいは、「えーと、この人誰だっけ?」とちょっと混乱したが、登場人物は基本的に軽音部のメンバーとその関係者のみで、人間関係もシンプルなので、仮に原作を全く知らなかったとしても、作品世界から弾き出される事はないだろう。
まあ物語的にも、ぶっちゃけ大した事は起こらない。
卒業を控えた高校3年生の4人が、後輩の梓を巻き込んで皆でロンドン旅行をし、梓に贈るプレゼントに頭を悩ませる、簡単に言えばそれだけの話だ。
旅行の準備編、旅行前編、旅行後編、卒業編と綺麗に四等分出来る全体構成は、まるで30分番組を四本繋げた様で、お世辞にも映画的とは言い難い。
実のところ、途中でやや中ダレを感じたし、ロンドンのジャパン・フェスティバルでのライブの後に更に卒業ライブと、緩いクライマックスが二度ある様な作りは、もっとうまく纏めて、モリモリに盛り上げれば良いのになあと感じざるをえなかった。
劇映画のセオリー通りに脚本を作れば、この内容ならたぶんあと30分は刈り込めるだろう。
もっとも、ユーモラスに描写される彼女たちの日常を眺めていると、何だかフワフワとしたムードに浸って楽しむなら、これはこれで良い様な気がしてくる。
原作漫画、そして週イチのテレビシリーズから本作を愛でている人にとっては、映画としては緩過ぎるこのテンポこそ、実は「けいおん!」を「けいおん!」たらしめているキモの要素なのではないだろうか。
実際、テレビシリーズの熱烈ファンを自認する知人に言わせると、この映画版は正にファンにとっての理想型なのだそうな。
なるほど、一見さんにはちょっと疑問を抱かれても、昔から贔屓にして貰っているお客さんのための作られた映画版。
映画の一つの在り方として、否定する事はできないだろう。
同じ意味で、高校生のガールズバンドにしては歌も演奏も上手すぎるとか、そんなに都合良くライブの依頼が入るワケないとか、顧問の先生行動力あり過ぎとか、御都合主義な展開に細かいツッコミをするのも野暮というもの(笑
「映画 けいおん!」は、万人向きの作品ではないかも知れない。
だが、テレビシリーズからのファンほどには入り込めなくとも、まさに箸が転んでもおかしい年頃の女子高生たちの青春は、なんだか凄く楽しそうに見える。
制作会社の本拠地である京都の現実の風景をベースに、綿密に作り込まれた日常の描写は非常に丁寧。
微妙に手持ち風のカメラワークで現実感を醸し出したり、演出もなかなかに工夫されており、アニメーションとしてのクオリティは、大人の観賞に耐えうるものだ。
例えこれが妄想的に理想化された女子高ライフだとしても、私の様に殺伐とした男子高ライフしか知らないおっさんからすれば、“もしも生まれ変わったら一度は女子高生をやってみてぇなあ”と思わされたのは、間違いないのである。
たぶん、もうそれこそ作り手としては、してやったりの反応なのではないだろうか。
さて、今回はバンドの話だけに、喉を大切にしたい人にお勧めの一本。
京都アニメーションに因んで、京都のハクレイ酒造が作る「生姜のスパークリング」をチョイス。
アルコール度も低く、お酒というよりも甘い生姜ジュースに醸造用アルコールを加えて、ほろ酔い出来るようにした物と考えた方が良い。
体を温めて寝付きを良くするナイトキャップにピッタリだ。

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「ルルドの泉で」は、ダウナー系映画の巨匠ミヒャエル・ハネケに師事し、2001年に「Lovely Rita ラブリー・リタ」で長編デビューを飾ったオーストリアの俊英、ジェシカ・ハウスナー監督の最新作。
不治の病によって体の自由を奪われた一人の女性が、聖母マリア伝説で知られる聖地ルルドに巡礼し、本人も驚く奇跡の回復を遂げる。
だが、その結果彼女に向けられる人々の目とは・・・。
キリスト教世界では、神と人との繋がりを示す重要な“徴”である奇跡の現出をモチーフに、人間心理に迫った渋い秀作である。
奇跡の体現者となる主人公、クリスティーヌを「サガン 悲しみよ こんにちは」が記憶に新しいシルヴィー・テスチューが好演し、「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」のレア・セドゥ、「シンプルマン」などで知られるエリナ・レーヴェンソンらが脇を固める。
ピレネー山脈の麓にある聖地ルルドには、世界中から病や障害を持つ人々が奇跡を求めてやって来る。
多発性硬化症によって、不自由な生活を強いられているクリスティーヌ(シルヴィー・テスチュー)も、この地の巡礼ツアーに参加した一人。
孤独な人生を送る彼女の唯一の楽しみが、あちこちの聖地巡礼のツアーに参加する事だった。
滞在中、彼女の世話をするのは、マルタ騎士団でボランティアをするマリア(レア・セドゥ)だが、クリスティーヌを放り出して、他のボランティアの若者たちとの交流に夢中になってしまう事もしばしば。
ボランティアのリーダーのセシル(エリナ・レーヴェンソン)は、そんな彼女らを叱咤しながら、ストイックに務めを果たしている。
ツアーも終わりに近づいた頃、クリスティーヌに奇跡が起こる。
手の指も伸ばせなかった彼女が、突然立って歩き出したのだ。
人々の祝福の中、病になってから始めての自由を満喫するクリスティーヌだが、この奇跡がなぜ自分に起こったのか、また元に戻ってしまうのではないかという恐れを抱くようになる・・・・
フランスとスペインの国境に横たわる、ピレネー山脈の麓にある片田舎ルルドに、後に“ルルドの奇跡”と呼ばれる事件が起こったのは1858年の事である。
ガーヴ川の近くに薪を拾いに来た少女ヴェルナデッタが、一人の女性と出会った。
ウェルナデッタの前に18回にわたって姿を現したと言われる彼女は、自ら“無原罪のやどり(聖母マリアの別称)”を名乗ると、ある時「泉の水を飲んで顔を洗いなさい」と言って洞窟を指差し、少女がそこの土を少し掘ると泥水が湧き出して来たという。
話を聞いた大人たちが、洞窟を更に掘り下げると豊富な透明な水が湧き出し、盲目の男がこの水で目を洗って視力が回復した事が伝えられると、ルルドの奇跡の泉の噂は多くの人々の知るところとなり、更にカソリック教会が公認した事で世界中から巡礼者が集う一大聖地となった。
この話自体は、しばしば日本のバラエティ番組などでも紹介されるので、知っている人も多いだろうが、現在のルルドの様子やどの様に巡礼が行われるのかなど、詳細に見る機会は今まで無かったので、実際に現地で長期ロケーションを行った本作のディテールは非常に興味深かった。
何となく、ルルドの泉のある場所は、自然のままの苔生した洞窟という勝手なイメージがあったのだが、実際にはディズニーランドにありそうな、凝ったデザインの巨大な聖堂がそびえ立ち、幾つもの施設で巡礼の手順がシステマチックに設定されているあたり、さながら奇跡のテーマパークといった趣だ。
もちろん片田舎にこれだけの人々が集まるのは、幾つもの奇跡がこの地で実際に起こっているからではあるのだが、神秘的な聖地というイメージからはちょっと遠い。
ルルドに集まる人の境遇や目的は、皆異なる。
ある人は聖地観光を楽しもうと、ある人は巡礼者のケアをする事で信仰の証をたてようと、またある人は病気が治った、障害が無くなったといった奇跡の事例が、もしかしたら自分にも起こるのではという、切なる希望を胸にやって来る。
難病を患っている本作の主人公クリスティーヌも、奇跡に触れたくてこの地を訪れた巡礼者の一人だ。
もっとも、彼女自身はそれほど信心深い人物ではなく、孤独な生活を紛らわせるために、あちこちのツアーに参加している程度で、本気で奇跡が起こる事を期待しているわけでもなさそうだ。
物語の前半は、クリスティーナを軸に聖地ルルドの巡礼のプロセスをドキュメンタリーの様なタッチで追いながら、ツアーに参加している巡礼者の人たち、ボランティアとして彼らのケアをするマルタ騎士団のメンバーたち、それぞれの抱える葛藤や問題もそれとなく示唆され、ある種の群像劇として展開してゆく。
聖地を訪れる理由は様々だとしても、巡礼ツアーは神の前では皆が平等であるという、安心感を共有するコミュニティーとして機能している。
ところが、彼らの中からたった一人、本当に奇跡を受けた者が現れてしまい、しかもそれは、毎年の様にルルドを巡礼している母娘でも、自らも余命わずかにも関わらず気丈に人々の世話をするボランティアでもなく、難病を患ってはいるものの、何処にでもいるごく平凡な女性である。
なぜ神は彼女を選びたもうたのか、彼女はそれに相応しい人間なのか。
ここでは奇跡が、静寂に包まれた池に投げ込まれた小石の様に、静かな波紋を広げてゆき、共同体の均衡は脆くも崩れ去る。
表層的には皆クリスティーナに祝福を送り、彼女もまたずっと諦めていた自由を再び手にいれ、その喜びを隠す事もなく、密かに想いを寄せていたマルタ騎士団の男性メンバーと恋までする。
だが一方で、人々の内心では「なぜあの娘が?」という疑念が渦巻き、クリスティーヌもまた「なぜ自分が?」という戸惑いから逃れられない。
監督のジェシカ・ハウスナーによると、実際に奇跡が起こって回復した後に、病を再発したケースもあると言う。
もしも奇跡が神の恣意的な行為だったとしたら、持続する奇跡と、持続しない奇跡の違いは何か。
神は奇跡を与えた人に何を求めているのか、奇跡を受けた者はそれに対してどう答えるべきなのか。
映画は、この答えを明確には用意せず、クリスティーヌに起こった事が本当に奇跡なのか、一過性の回復ではないのかという点に関しても曖昧なまま物語は幕を閉じる。
「ルルドの泉で」は、奇跡という宗教的モチーフを描いた映画だが、実は宗教はフックに過ぎない。
カメラは、徹底的に主人公であるクリスティーヌへの感情移入を拒み続け、描かれるのは彼女に起こった現象と行動、それに対する周囲の人々の反応のみである。
だが映画が登場人物の内面に踏み込まないが故に、我々はスクリーンを合わせ鏡として、自らルルドの小さなコミュニティーの一員となり、クリスティーヌに起こった事を考えて、内なる心に問いかけるしかない。
彼女を心から祝福するのか、それとも密かに神の意図に疑いを向けるのか。
結局のところ、現象に意味を与えるのは人間であり、これは奇跡という予期せぬ事態に揺れ動く人々の姿を通して、我ら人間なるものの本質を考察する映画なのである。
さすがに師匠ほどの悪意は感じさせないが、なるほどこの突き放した様なキャラクターとの距離感は、ハネケ譲りなのかもしれない。
今回は、間もなく今年もやって来るクリスマスに因んで、監督の故郷オーストリアの「サミクラウス」をチョイス。
サミクラウスとはサンタクロースの事で、毎年12月6日に限定発売される特別な長期熟成ビールだ。
醸造から3〜5年で飲み頃となり、蒸留酒を思わせるコクと独特のアロマが特徴で、メルヘンなネーミングとは裏腹に、アルコール度数は14度を超える。
クリスマスの奇跡には、素直に気持ち良く酔いたい。

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「タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密」は、巨匠スティーブン・スピルバーグ監督初の3D作品であると同時に、初のアニメーション映画である。
ベルギーの漫画家エルジェによって、1929年に創造された少年記者タンタンと愛犬スノーウィの冒険物語は、以降半世紀以上に渡って描き続けられ、総部数は何と全世界で3億5千万部を超えるという。
映画は1943年に出版された「なぞのユニコーン号」をベースに、「ショーン・オブ・ザ・デッド」の監督として知られるエドガー・ライトらの脚本チームが、幾つかの原作を組み合わせて構成している。
パフォーマンス・キャプチャで主人公のタンタンを演じるのは、「リトル・ダンサー」のジェイミー・ベル、相棒となるハドック船長に、この種の映画の第一人者となったアンディ・サーキス。
エキゾチックな冒険の舞台を作り上げ、最終的にキャラクターに命を吹き込んだのは、ピータージャクソン率いるWETAデジタルだ。
ジャクソンは本作のプロデューサーであるのと同時に、セカンドユニットの監督を務めており、事実上両巨匠の共同作業によって作品が作られたというから、何とも贅沢な一本である。
少年記者のタンタン(ジェイミー・ベル)は、ある日愛犬スノーウィと訪れたのフリーマーケットで400年前に沈んだ帆船、ユニコーン号の見事なミニチュア模型を買う。
だが、その日からタンタンの周りには得体の知れない男たちが暗躍する様になる。
実は模型には、ユニコーン号が積んでいた宝のありかを示す、暗号が書かれた羊皮紙が隠されていたのだ。
宝を狙う悪党のサッカリン(ダニエル・グレイグ)に誘拐され、貨物船カラブジャン号に閉じ込められたタンタンは、ユニコーン号の船長の子孫である大酒飲みのハドック船長(アンディ・サーキス)の協力を得て、彼と共に船を脱出する。
宝のありかを知るには、三つあるミニチュア模型全ての暗号が必要で、最後の一つがモロッコにある事を知ったタンタンは、ハドックとスノーウィと共にモロッコを目指す。
だが、そこには既にサッカリンたちの姿があり、失われたユニコーン号の秘密を巡る、最後の争奪戦の幕が切って落とされる・・・
スピルバーグが原作と出会ったのは、ちょうど30年前の事。
当時「レイダース/失われたアーク」が公開されていたヨーロッパで、「タンタン」という漫画との類似性が指摘されている事を知ったスピルバーグは、早速その本を取り寄せて読み、すっかり魅了されてしまったのだという。
早速映画化の準備に取り掛かったものの、紆余曲折があり実現したのは2011年だったという訳だ。
この様な経緯があるからだろう、本作は「タンタンの冒険」という漫画の映画化であるのと同時に、スピルバーグ自身による「レイダース」のリイマジネーション的な作品にもなっている。
センス・オブ・ワンダーに溢れたオープニングから、タンタンがユニコーン号のミニチュアを手に入れると、後はもうノンストップの連続活劇だ。
貨物船から脱出すると、今度は飛行機で嵐の中に突入、お次は灼熱の砂漠へと凝りに凝った場面転換のテクニック、縦横無尽に駆け巡るカメラワークは、正に80年代のスピルバーグ演出の進化形である。
特に、迷路の様なモロッコの町を舞台に、羊皮紙を奪った隼を巡る敵味方入り乱れての大争奪戦のシークエンスは、もうモロに「レイダース」で、一瞬タンタンがインディ・ジョーンズに見えるほど。
私が思うに、スピルバーグは自分の影響を受けて映画界に入った、最近の若い作家らとの交流が増えるにつれ、いろいろと心境の変化があったのではないだろうか。
彼は巨匠と呼ばれる他の多くの作家とは異なり、一つのスタイルに安住せず、常に新しいテーマ、新しい表現方法を貪欲に追求し、変化し続けてきた稀有な人物である。
それがスピルバーグ映画の“枯れない”魅力でもあるのだが、昔のスタイルを懐かしむファンの間では、もうあの頃の様な作品は観られないのだろうか、という郷愁の様な欲求があったのも事実。
80年代の彼へのリスペクトを、嘗ての観客の立場からストレートにぶつけたのが一世代若いJ・J・エイブラムスの「SUPER8/スーパーエイト」だった訳だが、若者達との共同作業で、スピルバーグの中にも嘗ての自分が作っていた物への想いが蘇ったのではないだろうか。
本作も、次回作の「戦火の馬」も(こちらに関しては予告を観る限り)画作りの考え方、特にカメラワークで物語を語らせる辺りが、最近の作品よりも遥かに80年代頃の彼のスタイルに近いのである。
更に本作を特徴付けるのが、これがスピルバーグにとっても初めての、漫画を原作としたアニメーション作品であるという事。
昔からディズニーへの憧れを公言してきた彼としては、それだけでも感慨深いものがあっただろうが、表現の形態としてはディズニー的な手描きアニメとは対極にあるCGアニメ、それもパフォーマンス・キャプチャを使った実写とアニメの狭間にある様なスタイルだ。
この系統の第一人者と言えば、やはりスピルバーグによって見出された盟友のロバート・ゼメキスであろうが、彼は「ベオウルフ/呪われし勇者」や「Disney's クリスマス・キャロル」といった一連の作品で、一見実写の様に見えるが、現実とは微妙にずれたデジタル世界を、物語の持つある種の神話性や映画的な虚構性の表現に上手く結び付けてきた。
基本的に本作もその延長線上にあり、世界観やキャラクターは写実的なのだが、その実漫画チックでもあるという絶妙なさじ加減で作られている。
このために、例えばゲップで飛行機を飛ばしてしまうとか、ちょっとやり過ぎと思える演出も笑いにつなげられたり、生身の人間がやれば全くリアリティのないアクションなども案外素直に受け入れられるのだ。
殆ど人間並みの知能を持っているように見える愛犬スノーウィの大活躍など、もしも完全な実写だったとしたあり得ない描写だろう。
その意味で、本来“漫画”である本作を、パフォーマンス・キャプチャを使ったアニメーション映画とした事は、必然であり、成功だったと思える。
また巨匠が初の3Dをどのように使ってくるのかも興味深い点だったが、立体感はしっかりとしているが、所謂飛び出す系ではなく、画面の深い奥行きを生かした落ち着いたもの。
この辺りは、びっくりさせるためではなく、臨場感を増幅するための3Dという「アバター」以来の立体演出のセオリーどおり。
個人的にはやたら飛び出すのは目が疲れるので、この方向性は好ましく思える。
因みに本作には、スピルバーグの実写作品を多く手がけているヤヌス・カミンスキーが撮影監督してクレジットされており、彼は実際に全てのシーンでライティング監修を行っているという。
撮影監督という言葉から誤解している人も多いが、基本的にハリウッドにおける撮影監督とは、ライティングのディレクションが第一義的な仕事である。
おかげでフィルムノワールの香り漂うヨーロッパの夜のシークエンスから、地中海の太陽が照りつけるモロッコのシークエンス、回想シーンで綴られる海賊船VSユニコーン号の大迫力の海戦まで、陰影の美しい映像はとにかくゴージャスだ。
まあ殆ど全編見せ場の連続なので、物語の緩急に乏しかったり、テーマ性の部分は限りなく薄味だったりと、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるだろう。
だが、これは計算して割り切った連続活劇である。
オープニングからラストまで、こんなにもワクワクする冒険に誘ってくれた映画は久しぶりで、私はこれ以上の物を本作に求める必要は無いと思う。
これはスピルバーグ&ジャクソンという二人の巨匠からの、夢と冒険の詰まった豪華なクリスマスプレゼントだ。
30年前の冬休み、「レイダース/失われたアーク」を観た時の興奮が蘇ってきたよ。
本作は既にヨーロッパでは10月下旬から続々と公開されており、既に2億ドルを超える興行収入を稼ぎ出す大ヒットを記録しているが、実は本国アメリカではクリスマス直前の12月21日からという異例の公開スケジュールとなっている。
これは原作の知名度がアメリカでは相対的に低く、全世界からのインターネットを通じた口コミ効果を狙ったものなのだそうな。
今のところタンタンの故郷であるベルギーを初め、おおむねヨーロッパの観客からの反応は良好な様で、関係者は胸を撫で下ろしている事だろう。
ドリームワークスは配給のソニーピクチャーズと二本の契約を結んでおり、次回作ではプロデューサーと監督のスイッチが計画されているとか。
ピーター・ジャクソン監督の「続・タンタンの冒険」、それはそれで面白そうだけど、彼は「ホビットの冒険」二部作もあるから冒険続きになっちゃうな。
今回はベルギーの小さな冒険者にちなんで、ベルギービール「ヒューガルデン ホワイト」をチョイス。
ベルギービールというとアルコール度数が高いという印象があるが、こちらは5度未満と国産ビール並みで、淡い口当たりとフルーティなテイスト、クセもなく飲みやすい。
本来夏に人気の高いホワイトビールは、実は脂っこいものを食べる機会の多いこの季節にも悪くないチョイスである。
映画同様、作り手のセンスとバランス感覚の良さが際立つ、万人向けの一本だ。

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