酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ヤング≒アダルト・・・・・評価額1550円
2012年02月29日 (水) | 編集 |
青春の終わりはいつ?

ジェイソン・ライトマンディアブロ・コディという、2007年のヒット作「JUNO/ジュノ」の監督・脚本家コンビによる、青春の思い出から逃れられない中年女性の、二十年目の“卒業”を描いた、ほろ苦い味わいの佳作。
憧れの大都市に住み、作家(ゴーストライターだけど)として成功しながら、とっくの昔に捨てたはずの故郷からの一通のメールに心動かされ、十代の精神状態に戻ってしまうイタタな主人公、メイビスをシャーリーズ・セロンが好演。
なるほど、原題の「Young Adult」を「ヤング≒アダルト」にして「≒」を付けた邦題のセンスが光る。
*ラストシーンに触れてます~!

ミネアポリス在住のメイビス(シャーリーズ・セロン)は、37歳でバツイチ、子供なし、アルコール依存症気味で、唯一の家族はポメラニアンのドルチェ。
ヤングアダルト小説のゴーストライターをしているが、ティーンに絶大な人気を誇ったシリーズも打ち切りが決定し、最終巻を執筆中。
そんな時、故郷の田舎町マーキュリーに暮らす元カレのバディ(パトリック・ウィルソン)から、赤ちゃんの命名パーティへの招待状が届く。
これを元カレからの復縁のアプローチと思ったメイビスは、思い出の曲「ザ・コンセプト」をBGMに、一路故郷へと愛車のミニを飛ばすのだが・・・


シャーリーズ・セロンが良いのである。
キティちゃんTシャツをだらしなく着るくたびれた中年の顔から、タカピーな都会のイイ女を演じるイタタな顔、愛を拒絶され打ちひしがれて少女の様に困惑する顔。
基本軽妙な役作りながら、それぞれのシーンの感情を全身で表現し、複雑な乙女心を抱えるアラフォー女性の説得力十分だ。
彼女が演じるメイビスは、傍から見ると37年の人生でそれなりの成功をおさめている。
田舎町の故郷を出て、大都会のミネアポリスに住み、結婚もし、物書きとしてベストセラーを書き、高級コンドミニアムに小型犬と優雅に暮らす。
だが一方で、結婚は失敗に終わり、犬が唯一の心の友、物書きとしては裏表紙にしか名前載らないゴーストライター止りで、おまけに人気低迷から打ち切りが決まっている。
本人的には行き詰まり、「アタシこのままでいいの?なにかか違う」という閉塞感に苛まれているのである。

そんな時に届いた、元カレからのメール。
男は何の思惑もなく元カノにこんなメールを送らない、と大いなる勘違いをしたメイビスは、一気に十代の頃に戻って失われた“運命の恋”を取り戻そうとする。
ここからの彼女は相当にイタイ。
元カレのバディはきっとつまらない結婚をして不幸なんだ、彼と結ばれるべき運命だったのは自分なんだ、と妄想を炸裂させるメイビスは、美貌を武器にモテまくった嘗ての鼻持ちならないプロム・クィーンのままだ。
バディの実際の妻のベスが、いかにも垢抜けないキャラクターなのもメイビスの勘違いを後押しし、暴走はもはやアンストッパブル。
高校時代には相手にもしていなかったダサ男のマットを何時の間にか飲み友達にして、酔っぱらってくだを巻き、彼の忠告にも耳を貸さない。
しかし、物語が進むにつれて、観客はこの嫌われキャラのメイビスにだんだんと感情移入してしまうのだから面白い。
それはバディやベス、マットらメイビスの同級生たちが、青春時代の憧れや夢と引き換えに、地に足を付けた“日常の幸せ”を手に入れているのに対して、メイビスは田舎町の良識などどこ吹く風とばかりに、自分の才覚で夢を(半分くらい)実現して頑張っている人だからだろう。

人は誰でも、希望と自信に満ち、どんな存在にも成れると信じている時代がある。
だが成長し、挫折を経験し、背負うものが増えるにつれて、そんな考えは幻想だったんだ、身の程を知らねばと考えて普通のオトナに成ってゆく。
そんな道程を経てきたマーキュリーの住人たちは、言わば大多数の観客と同じ視点を共有している訳だが、彼らにはメイビスの行動が痛々しいのと同時に、自分たちが諦めてしまった“ifの人生”を歩む彼女が眩しいのである。
青春時代のままに生き、空気を読めない行動を繰り返すメイビスは、果たして“コドモ”なのか?
生れ故郷の街で平凡な日常を過ごす同級生たちは“オトナ”なのか?
映画は、この二つの世代の合間にある“ヤングアダルト”という曖昧な定義を使って、人はいつ大人になるのか、大人になるとはどういう事なのかを問いかける。

ディアブロ・コディの脚本は、メイビスが妄想を抱く切っ掛けが弱過ぎる上に唐突とか、男性キャラがいかにも女性目線で類型的とかの欠点はあるが、このイタ過ぎるのに、いつしか愛おしくなるという主人公のキャラクター造形に非凡なキレを見せる。
ぶっちゃけ、物語の終りになっても、メイビスはメイビスままである。
今までの自分を悔い改めたり、オトナになってしまった同級生たちとの仲を修復しようとはしない。
奇妙な関係になってしまったマットとの事も、ミネアポリスに行きたいという彼の妹の願いもスッパリと振り切る。
高校時代の愛車を駐車場に置き去りにして、今の自分を象徴する様に、ぶつけてボロボロになったミニで颯爽と(?)ミネアポリスへの帰路につくラストは、「アタシはアタシの道を行く」という彼女の決意表明だ。
奇しくもメイビスの執筆しているヤングアダルト小説は、ちょうど終わりを迎えようとしているが、彼女の自身の「ヤング≒アダルト」は、どうやらまだまだ続きそうである。

今回は、シャーリーズ・セロンの故郷、南アフリカ共和国から、ディステルの「ネダバーグ・シャルドネ」をチョイス。
アフリカ大陸最南端の南アフリカは、温暖な地中海性気候に恵まれた世界有数のワインどころであり、アパルトヘイト時代の経済制裁が解除された後は品質管理も向上し、ワインの新興輸出国としても近年注目されている。
ネダバーグ・シャルドネは、辛口で飲み応えのあるしっかりとしたボディを持ち、柑橘類とアプリコットの繊細な香りが、心地よく映画の余韻を引き出してくれるだろう。
コストパフォーマンスが高いのも、飲兵衛には嬉しい。

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メランコリア・・・・・評価額1550円
2012年02月25日 (土) | 編集 |
憂鬱なる滅びの詩。

デンマークの異才、ラース・フォン・トリアー監督の耽美な終末譚は、突然出現した巨大な蒼い惑星・メランコリアの接近によって、この世界の終わりに直面する、ある姉妹の葛藤を描く物語だ。
トリアー監督の分身とも言える“鬱病気質の妹”を、本作でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞したキルスティン・ダンストが演じ、彼女とは見た目も性格も対照的な“普通の人”である姉をシャルロット・ゲンズブールが演じる。
ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が響き渡る中、人々がこの世の終わりに何を感じ、どう行動するのかが、幻想的な映像によって、美しくも陰鬱に展開する。

結婚式を迎えたジャスティン(キルスティン・ダンスト)は、姉のクレア(シャルロット・ゲンズブール)とその夫ジョン(キーファー・サザーランド)が主催してくれたパーティーに大遅刻。
鬱病の気質を持つジャスティンは、華やかなパーティーの裏に蠢く人々の虚飾を感じ、次第に感情のコントロールが出来なくなり、不可解な行動を繰り返した挙句、一夜にして夫も仕事も失うという最悪の日となってしまう。
七週間後、太陽の裏側から現れた惑星メランコリアが地球に接近。
地球に衝突するのではないかと恐れるクレアを、ジョンは「惑星は5日後には通り過ぎる」となだめつつも、非常時の用意もしている。
そんな中、衰弱して立つことも出来なくなったジャスティンが、再び姉夫婦の邸宅にやってくる。
惑星が地球に衝突するという情報をネットで見つけ、「息子のレオはどこで育てるの?」と憔悴して泣くクレアに、「地球の生命は邪悪よ。無くなっても嘆く必要はないわ」と淡々と語るジャスティン。
そのジャスティンは、惑星が接近するにしたがって、まるで惑星からパワーを貰っているかの様に元気になってゆく。
やがて運命の日、屋敷に残った四人の目前に、巨大惑星が地平線から姿を現す・・・


トリアー監督は長年鬱病を患っており、常々映画を作るのは鬱病の治療薬としてだと語っている。
前作の「アンチクライスト」も相当にその気の強い映画であったが、そもそも企画のアイディア自体を心理セラピーのセッションから思い付いたというこちらは、更にド直球だ。
なにしろ、本作のタイトルであり、劇中で地球に衝突する巨大惑星の名でもある「メランコリア」とは、まんま“鬱病”を意味する言葉なのだから。
つまりこれは鬱病の主人公が、鬱病という名の惑星から終末のパワーをもらって元気になり、普通の人々が恐怖と絶望に涙する中、一人希望に満ちた滅びを迎えるという、途轍もなく憂鬱な映画なのである。

冒頭の数分間、スーパースローで表現された絵画の様に美しい映像が続く。
落下するたくさんの鳥、灰色の毛糸で絡め取られる花嫁、座り込む黒馬、子供を抱いてゴルフ場を歩く母親、そして地球に迫り来る巨大な惑星は、そのままちっぽけな地球に衝突し砕いてしまう。
荘厳な映像美と宇宙規模のスペクタクルに呆気にとられていると、メインタイトル「メランコリア」が映し出され、唐突に物語が始まる。
実はこの冒頭の映像は、これから起こる事のダイジェストにもなっているのだが、今まで色々なスタイルの映画を観て来て、一番最初にラストまでのネタバレを見せちゃうというのは、記憶を手繰ってみても初めての気がする。

映画は主人公である対照的なキャラクターの姉妹、それぞれの名を章題とした二つのチャプターに別れている。
前半は、キルスティン・ダンスト演じる妹の「ジャスティン」の結婚式だ。
本来は人生最良の日となるはずなのだが、いきなりの大遅刻を姉夫婦から叱責され、動揺するジャスティンは、愛人と出席し羽目を外す父親や、場を凍り付かせる辛辣なスピーチをする母親らを目の当たりにして、徐々に感情のコントロールを失ってゆく。
傲慢な上司を罵倒し、新郎の求めを拒否して、会ったばかりの若いインターンを犯す様にセックスするジャスティンは、翌朝には全てを失ってしまう。
トリアーの映画にはキリスト教的な暗喩がつきものであるが、この前半1時間に及ぶ結婚式のチャプターで描かれるのは、人間を罪に導くとされる、所謂“七つの大罪”であろう。
デヴィッド・フィンチャーの「セブン」でも引用されていた七つの大罪は「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲」であり、ジャスティンと結婚式の出席者はこの全てを体現する、まことに罪深い存在なのである。

そして、後半の章題となるのは姉の「クレア」だが、ここで描かれるのは罪の回収であり、その結果としての滅びのプロセスだ。
惑星メランコリアは前半では登場せず、結婚式の七週間後という設定の後半では既に地球にかなり接近している。
実は七つの大罪は、四世紀のエジプトではじめて定義された時には、“八つの枢要罪”として定義の中に「憂鬱」もあり、後に「憂鬱」が「怠惰」に統合されて七つになった経緯がある。
つまり七つの大罪を犯した罪人たる人類が、突然現れたもう一つの罪「メランコリア(憂鬱)」によって滅びの時を迎えるという皮肉な設定なのだ。
このメランコリアという言葉は、キリスト教よりもさらに古い、古代ギリシャのヒポクラテスの提唱した“四体液説”に由来する。
これは、人間の体と心の健康状態は、四種類の体液のバランスによって決まるという物で、黄胆汁質の人は短気、黒胆汁質の人は陰鬱、粘液質の人は鈍重、多血質の人は楽天的なのだという。
このうち、ギリシャ語の「黒い胆汁」が語源のメランコリアが、鬱の気質を表す言葉となるのだが、劇中のジャスティンは、まさしく黒胆汁が溢れかえっている状態だろう。
憂鬱に支配されたジャスティンは、接近する巨大惑星に終末の希望を見ているのである。
だが、急激に回復し、月光浴ならぬメランコリア浴をして滅びののエネルギーを受け取る妹の姿は、罪人である事を自覚していない姉のクレアにとっては絶望の予兆だ。
映画は、二人の対照的な主人公の、互いに突き放しながらも絡み合う内面の葛藤を描きつつ、遂に終末の時を迎える。

思うに、トリアーは一人のキリスト教徒として、鬱病である事に潜在的な罪悪感を持っているのではないだろうか。
彼はジャスティンが自分の投影で、クレアは普通の人の投影であると考えている様だが、たぶんどちらも分裂したトリアーの内面と考えた方がしっくりする。
なぜなら、決して馬が渡ろうとしない小さな橋が象徴する様に、舞台となるこの閉ざされた世界は、初めからトリアーの心象風景だからである。
いくつもの大罪を犯し、その元凶である憂鬱による根源的な滅びに救いを見出すトリアーと、罪を罪と思わずあるがままの生命を求めるトリアー、二つの対立する内面が溶け合う場所こそ滅びの瞬間の“魔法のシェルター”なのであろう。
しかし、前作の「アンチクライスト」にあった様な、ドロドロして屈折した感情は、意外にもこの作品からはあまり感じない。
文献によれば、メランコリアとは鬱状態だけでなく、しばし創造性をもたらす気質とも定義される。
作者自ら鬱病治療薬と言っているのだから、この映画にそれ以外の意味を積極的に見出すのは困難だが、映像は美しく、心理劇としてもなかなか興味深い。
たぶん、今の彼にとっては綺麗さっぱり滅びてしまった方がまだ楽なのだろうが、トリアーの映画作りによるセルフセラピー、薬としても映画としても、それなりに成功しているのではないだろうか。

今回はタイトル繋がりで「メランコリー・ベイビー」をチョイス。
グラスにクラッシュド・アイスを入れ、サントリーのメロン・リキュール、ミドリ45mlを注ぎ、スライスしたライムを絞ってグラスに落す。
惑星メランコリアは美しい蒼い星だったが、こちらは鮮やかなグリーンだ。
ミドリの甘みをライムの酸味が爽やかに引き立て、憂鬱な心を明るく染めてくれるだろう。

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ものすごくうるさくて、ありえないほど近い・・・・・評価額1600円
2012年02月22日 (水) | 編集 |
探しものは何処にある?

9.11の同時多発テロによって、父を亡くした11歳の少年、オスカー・シェルの小さな冒険を通して、大いなる喪失と再生を描いた現代の寓話。
原作は2005年に発表されたジョナサン・サフラン・フォアの同名小説で、「フォレスト・ガンプ /一期一会」「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」で知られるエリック・ロスが脚色し、監督は「めぐりあう時間たち」「愛を読むひと」スティーブン・ダルドリーが務める。
主人公のオスカー少年を演じるのは新人のトーマス・ホーンだが、映画初出演とは思えない素晴らしい演技に脱帽。
その死によってオスカーに深い喪失感を将来する父親役にトム・ハンクス、母親役をサンドラ・ブロックという二人のアカデミー賞俳優で固め、オスカーの導き手となる一言も口を聞かない謎めいた“間借り人”を、名優マックス・フォン・シドーが演じ、さすがの存在感だ。

2001年9月11日。
オスカー・シェル(トーマス・ホーン)の最愛の父(トム・ハンクス)は、崩れ落ちるWTCと共に、突然この世界から消えてしまった。
葬儀の時も柩はからっぽのままで、オスカーはなかなか父の死を実感として受け入れられず、彼を心配する母親(サンドラ・ブロック)にも辛く当たってしまう。
それから一年以上が過ぎたある日、オスカーは父のクローゼットで、偶然花瓶の中に隠されていた鍵を発見する。
鍵は“ブラック”と書かれた封筒に入っており、これを人の名前だと考えたオスカーは、父の残した謎を解くために、ニューヨーク中の「ブラックさん」を訪ね歩く旅に出るのだが・・・


どうも原作の既読者にはあまり評判が良くない様だが、幸いにも(?)読んでいなかったからか、映画単体としてなかなか楽しめた。
9.11の惨劇で父を失ったオスカーは、クローゼットにあった花瓶の中から、偶然封筒に入った一本の鍵を発見する。
あの最悪の日から、父の死の意味に囚われ、喪失を乗り越える事が出来ないでいたオスカーは、これを亡き父からのメッセージだと考え、封筒に書かれた“ブラック”という名前を頼りに、“鍵が開くもの”を探す事にする。
何故オスカーがこんな風に考えたかというと、父はある種の発達障害を持つオスカーに、なるべく社会と関わってもらいたくて、ニューヨークに嘗て存在したという、幻の第六区の痕跡を探すゲームをしていたからだ。
ニューヨーク市の行政区はマンハッタン、クィーンズ、ブロンクス、ブルックリン、スタテンアイランドの五つ。
父は、嘗て六番目の行政区があったが、それはある時川に流されて忽然と消えてしまったと言うのだ。
まるで、沢山の命と共にこの世界から消滅したWTCのツインタワーの様に。

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」(Extremely Loud and Incredibly Close)という不思議なタイトルの意味は、物語を通して徐々に浮かび上がってくる。
発達障害の気があり、アスペルガー症候群の判定を受けた事もあるオスカーは(判定結果は曖昧だったものの)外界からの刺激に非常に敏感。
人の話し声や生活音、様々な乗り物の音などが、彼の中に雪崩れ込んでおり、9.11のトラウマでそれに拍車がかかっている。
オスカーにとっては、公共の交通機関に乗るのも、他人と触れ合う事も大きなストレスとなり、少しでも心を落ち着けパニックを避けるために、リズムを打つタンバリンを持ち歩いているほど。
彼にとって、この世界は「ものすごくうるさい」のである。

非常に理知的で雄弁だが、自分の感情を上手くコントロールしたり、人の心を理解する事が苦手なオスカーには、息子を心配する母親の存在も「うるさいもの」の一つであり、自分と向き合おうとする彼女に対して「(死んだのが父さんでなく)母さんだったらよかったのに」と言い放つ。
映画はこの時点では、オスカーと母親との距離を縮めようとはしないが、週末を利用してブラックさん巡りを始めたオスカーには、ひょんな事から相棒が出来る。
オスカーの自宅コンドミニアムの向かいには、お婆ちゃんが住んでいるのだが、この家に住む“間借り人”がオスカーの冒険に興味を抱いて、ついて来る様になるのだ。
彼は第二次世界大戦の経験から、喋ることが出来なくなっている老人で、実は遠い昔に家を出て行った父の父親、つまりお爺ちゃん。
二人で街を巡るうちに、オスカーも自分の自然な状態を素直に受け入れてくれる謎の間借り人の正体に気づくのだが、ある秘密を告白しようとした事が切っ掛けになって、彼は再び姿を消してしまう。
9.11の日以来、オスカーが抱え続けている秘密は、人生のベテランである間借り人にすら、受け止める事が難しいほど重い事実なのである。

だが、再び一人になったオスカーのブラックさんを探す旅は、意外な形で終わりを迎える。
ようやくたどり着いた“鍵が開くもの”は、オスカーの想像とは違っていたが、彼は“鍵穴の主”が自分と同じく父を亡くした喪失感に苛まれている事を知ると、誰にも告げる事の出来なかった秘密を遂に打ち明ける。
あの日、崩れ落ちるWTCから発された父の最期の瞬間の声を、留守番電話越しに聞いてしまったオスカーは、その時の絶望感を誰にも体験させない様に、家族から留守番電話を隠し、秘密を小さな胸にずっと隠し続けてきたのだ。
余りにも残酷な記憶の吐露は、身内でない赤の他人だからこそ、受け入れる事の出来る事なのかもしれない。
そして物語の終わりに、ようやく肩の荷をおろしたオスカーが、母と向かい合った時、始めて明かされる驚くべき事実
エリック・ロスの脚本は、映画のあちらこちらに登場人物の感情に関する“引っ掛かり”を作り、後からその瞬間の裏にあった本当の気持ちを明かし、キャラクターとの距離感を一気に縮めるという手法をとっているが、この母からの告白は映画的なカタルシスさえ感じさせ、彼女の愛の深さに涙腺決壊は必至だ。
オスカーが探し求めているものは、突然消えてしまった父の死の意味と、自らの生の意味なのだろうが、ニューヨーク全5区を駆け巡る旅の末に、その答えはごくごく身近にあった事が明らかになり、孤独な少年は自分が多くの人々の「ありえないほど近い」愛に包まれている事を知るのである。

もっとも、映画をじっくり観察すれば、確かにあちこちに物語が断片化した痕跡が見えるのも事実で、例えば間借り人とお婆ちゃんの過去とか、幻の第六区の云われとか、本当はもっと深い部分で物語と結びついているのではないか?と思わざるを得ない。
まあ読んでいなければ、この程度の描き方でも違和感はそれほど感じないのだが、このダイジェスト感が原作ファンから不興を買う事に繋がっているのではと思う。
おそらくエリック・ロスとしては、映画はあくまでも映画として、オスカー少年が父親の死を乗り越えて成長する物語と捉え、彼の冒険にフィーチャーしたかったのだろう。
一本の映画として、膨大な情報量を持つ原作物への一つのアプローチとして間違いではないと思うが、脚色という作業の難しい所である。

思うに、これは言わばポスト9.11の時代に、愛する者を失い、大きな喪失感を抱えた人々に向けられた現代版「青い鳥」の物語である。
モーリス・メーテルリンクは、チルチルとミチルの不思議な旅を通して、死と生命の神秘を描き、本当に大切な幸せは実は既にそこにあると説いた。
それからほぼ一世紀後に書かれたこの物語は、あまりにも大きな存在を失った少年の小さな冒険から、改めてこの世界の生と死の意味を問い、私たちは儚い存在だからこそ愛に満ち、誰一人として孤独では無い事を描いているのではないか。
オスカーの直面している葛藤は、ちょうど9.11から10年後、3.11の悲劇を経験した我々日本人にとっても、決して他人事ではないだろう。
アメリカ人にとってはあれから10年、日本人にはまだ1年も経っていない記憶だが、なかなかに考えさせられる作品であった。

今回は、ニューヨークを象徴するカクテル「マンハッタン」をチョイス。
カナディアン・ウィスキー45ml、スウィート・ベルモット15ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dashミキシンググラスでステアし、カクテルグラスに注いだ後ピンに刺したマラスキーノチェリーを沈めて完成。
しばしばハリウッド映画のスクリーンをも飾ってきた、この美しいカクテルの起源に関しては、有力な説として何とあのウィンストン・チャーチルの母、ジェロニー・ジェロームが発案者だというものがある。
1876年の大統領選挙の時に、マンハッタン・クラブで開かれた民主党候補の応援パーティで、即興で作ったカクテルが好評で、後に会場の名前からマンハッタンと呼ばれる様になったのだそうな。
その名の通りマンハッタンの夜景が似合う、大人なカクテルである。

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ドラゴン・タトゥーの女・・・・・評価額1650円
2012年02月17日 (金) | 編集 |
パンク少女の純情。

スウェーデン発の世界的ベストセラー、背中にドラゴンのタトゥーを纏う女、リスベットと敏腕記者ミカエルの活躍を描く、「ミレニアム」三部作が本国で映画化されたのは僅か三年前の2009年だが、早くもハリウッド製リメイクの登場である。
物語の面白さは証明済み、しかも監督は近年円熟味を増すと共に快作を連発するデヴィッド・フィンチャー、脚本は「シンドラーのリスト」「アメリカン・ギャングスター」の名手スティーブン・ザイリアンという全く不安要素の見えない鉄壁の布陣。
スウェーデン版が、田舎の旧家という閉ざされた世界で展開する、横溝正史的土着ミステリだとすれば、フィンチャー版はシンプル&クール。
原作は同じでも映画としての趣はかなり異なり、これはこれで話を知っていても十二分に楽しめる。
*ラストシーンに触れてます。

雑誌ミレニアムの看板記者ミカエル(ダニエル・クレイグ)は、名誉毀損で訴えられた裁判で敗訴し、責任をとって編集部を去る決意をする。
そんな時、スウェーデンを代表する財閥、ヴァンゲル一族の当主であるヘンリック・ヴァンゲル(クリストファー・プラマー)から、40数年前に起こった殺人事件を再捜査して欲しいと依頼される。
1966年のある日、一族が所有する孤島から17歳の少女、ハリエットが忽然と消え、今も遺体すら発見されていない。
老いたヘンリックは、犯人は一族の誰かに違いないと信じ、自分が死ぬ前に真相を知りたいと言うのだ。
ミカエルは、ヘンリックが自分の身辺調査の為に雇った凄腕のハッカー、リスベット(ルーニー・マーラ)を助手に迎え、捜査を開始するのだが、やがて彼らは時に埋れていた恐るべき連続殺人を暴き出してしまう・・・


ティム・ミラーのデザインによるオープニングタイトルは、リスベットの悪夢を実体化させたもの。
まるでコールタールの海に人間が溶けているかの様なビジュアルに、トレント・レズナーとカレンOによるレッド・ツェッペリンの「移民の歌」のカバー版が響き渡り、ゾクゾクする格好良さに、早速ハートを鷲掴みされる。
ここから始まる物語は、スウェーデン版では多くの要素が錯綜し、ややとっ散らかった感のあったストーリーラインをシンプルに纏め、スタイリッシュに再構成した印象だ。
元々原作者のスティーグ・ラーソンは、反差別・反ファシズムをテーマに長年活躍したジャーナリストで、政治雑誌の編集長を務めた事もあるという、正に小説のミカエルを地で行く人物。
「ミレニアム」シリーズは、原作の執筆直後に他界したラーソンが、反ナチ、反女性差別など現代スウェーデンの抱える様々な問題を、ミステリー仕立ての物語に詰め込んだ社会派作品でもある。
複雑ではあるが、含まれる要素が多様なだけに、切り口のバリエーションは見出し易い構造だ。

思うに、ミステリとしてはスウェーデン版の方が綿密に描写されていたし、謎解きの面白さはより深かったと思う。
だが、本作においてフィンチャーが描きたかったのは、第一義的にはミカエルとリスベットという年齢も性別も境遇も、全てが対照的な二人の関係性だろう。
地位も名誉もある中年のジャーナリストと、父親を焼き殺そうとした過去を持つパンクな天才ハッカー。
時には上司と部下であり、時には目的を同じくする同志であり、歳の離れた恋人であり、あるいは擬似的な父娘でもある二人。
フィンチャーは特に、複雑な人格であるリスベットの心に寄り添うことで、次第にミカエルに惹かれてゆく彼女の想いをフィーチャーし、愛を知らない彼女の初恋物語を本作のコアに置いている。

リスベット役には「ソーシャル・ネットワーク」で、マーク・ザッカーバーグが“一番友だちに成りたかったカノジョ”を演じていたルーニー・マーラ
アメフト界の大立者一族の出身で、いかにもお嬢様然とした本人のイメージとは打って変わって、タトゥーとピアスだらけのバイセクシュアルという奇天烈なキャラクターに成り切っているのだから正に役者である。
初のオスカー主演女優賞ノミネートも納得だ。
スウェーデン版では、お世辞にもカッコ良いとは言えないミカエル・ニクヴィストが演じ、切れ者だが見た目は普通のおじさんだったミカエル役に、セクシー&ゴージャスな007俳優のダニエル・クレイグをキャスティングした事もあり、二人の間に流れる感情はグッとウェットなものとなって、戦闘的な強面の裏に隠されたリスベットの女心が浮かび上がる。

二人の関係性が変わった事によって、ミステリとしての着地点にも若干の差異が見られる。
スウェーデン版では希薄だった、リスベットとサディストの後見人ビュルマンの物語と、ハリエット事件の再捜査から判明する連続殺人との間に、共通項を見せようとする意図がより明確になり、リスベットの行動原理が強化された。
リスベットを性暴力で支配しようとするビュルマンも、聖書の記述通りに何の罪もない女たちを惨殺するシリアル・キラーの正体も、共に権力を笠に着る男尊女卑的な性差別主義者だ。
彼らを社会的に、また物理的に抹殺するのがミカエルでなくリスベットである事からも、女によって女の敵が退治されるフェミニズム的寓話劇という側面が強調される。
もっとも、社会問題や謎ときはあくまでも作品世界に観客を繋ぎとめるディテールに過ぎず、これは基本的にミカエルとリスベットの物語。
「クリスマスは娘と過ごす」というミカエルの言葉を信じて、リスベットが深く傷つくラストは、「ソーシャル・ネットワーク」に通じる切ない余韻が心に染み入る。
原作を読んていても、スウェーデン版を観ていても、これはまた別の楽しみ方が出来る、フィンチャーらしい秀作である。

今回は、極寒のスウェーデンが生んだ代表的なウォッカの銘柄、V&S社の「アブソルート」をチョイス。
シャープでクリア、それでいてマイルドな味わいは、二日酔い知らず。
寒い日に、あえて冷凍庫に突っ込んでキンキンに冷やし、ショットグラスでクイッと一気に飲みたい。
喉がカーッと熱くなり、しばらくすると腹の底から火照ってくる。

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ポエトリー アグネスの詩・・・・・評価額1750円
2012年02月14日 (火) | 編集 |
残酷な現実に彷徨う老女が、最後に辿り着いた「詩」とは。

「グリーンフィッシュ」「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」「シークレット・サンシャイン」、そして「ポエトリー アグネスの詩」
42歳の時に遅咲きのデビューを果たして以来、15年間で撮った監督作品は、本作を含めても僅か五本。
しかし、その何もが映画史に燦然と輝く傑作という、正に現代韓国映画を代表する名匠、イ・チャンドン監督の最新作は、慎ましくも人生を楽しんでいた一人の初老の女性が、突如として降りかかった悲劇に葛藤しながらも現実と対峙し、一遍の詩を紡ぎ出す迄の魂の旅路を描く物語。
嘗て300本以上の映画に出演し、数々の映画賞に輝いた大女優、ユン・ジョンヒが16年ぶりにスクリーンに復帰し、素晴らしい演技を見せている。

66歳のミジャ(ユン・ジョンヒ)は、田舎の古いアパートで、孫のチョンウク(イ・デビッド)と二人暮らし。
娘は釜山に出稼ぎ中で、生活保護とパート収入が頼りの生活は苦しいが、それなりに人生を楽しんでいる。
ある日、ミジャは街の文化教室で詩作の教室を受講したことから、詩の題材を探し始める。
ところが、チョンウクと仲良しグループの男子学生たちが、数ヶ月に渡って同級生の女子生徒を強姦し続け、彼女を自殺に追い込んだ事を知る。
他の生徒の親たちは、アグネスの母に示談金を払って事件を隠蔽しようとするが、ミジャにはそんな大金の当てはない。
そんな時、ミジャは病院でアルツハイマー病の宣告を受ける・・・


物語の背景となるのは、日本以上のスピードで少子高齢化が進み、学級崩壊が深刻化し、若年層の性暴力事件が社会問題となっている韓国の今
イ・チャンドンは、実際に起こった中学生による集団強姦事件にインスピレーションを得て、本作の脚本を執筆したそうだが、元民主化運動家にして学校の教師として教鞭を振るった経験を持つ、彼自身のキャリアを色濃く感じさせる内容である。

主人公のミジャは、初老の年齢になった今も、可愛らしいものが好きで、見た目もお洒落なおばあさんだが、彼女が直面する現実は過酷だ。
一人娘は遠く釜山に働きに出たまま戻らず、送金も途絶えがち。
生活保護と介護へルパーの僅かな稼ぎで細々と古アパートに暮らし、思春期の孫を育てているが、ある時から物忘れの症状が出始める。
病院で精密検査を勧められた日、たまたま文化教室の詩作コースのポスターを見て、子供の頃に教師から「詩人になれる」と言われた事を思い出し、受講してみる事に。
詩作教室の講師は、ミジャら生徒に語りかける。
「あなたはリンゴを見たことがありあすか?いいえ、あなたたちはリンゴを見たことはありません」と。
ただ漠然と目の前にあるだけでは、そのものの本質を見ている事にはならない。
森羅万象の全ては、伝えようとする声を持っている、その声を聞く事ができて、はじめて心を打つ詩が生まれるというのだ。
ミジャは、美しいものを詩にしたためようと、教室の講師の言葉に習って身の回りの自然を目を凝らして眺めてみるが、実際には何が自分の人生で本当に美しいものなのかわからず、言葉が浮かんで来ない。
ほどなくして彼女は、詩作の美しさとは対極にある、残忍な事件に直面する事になる。
アグネスという女子中学生が、男子生徒から数ヶ月に渡って繰り返し強姦された事を苦に自殺し、その犯行グループの一人が愛する孫のチョンウクだというのだ。
彼女は、リンゴどころか一番身近な家族すら見えていなかったのである。
貧しくも平凡な人生を送ってきたミジャは、余りにも残酷な現実に、最初正面から向き合うことが出来ない。

自分の孫が非道な犯罪を犯したと知っても、問い詰めるでもなく、叱るでもなく、淡々とそれまでの日常を繰り返し、追い打ちをかけるかの様にアルツハイマー病の宣告を受けても、きちんと病気と向き合おうとはしない。
他の加害生徒の親たちと、いかに子供達のやった事を隠蔽し、全てを無かった事にするかを密談している時でも、彼女は彼らの言葉が聞えないかの様に一人部屋を出て行き、花を愛でるのである。
嫌なこと、汚いものとは関わりたくない。
ミジャは、詩の朗読会のメンバーで、何時も卑猥な下ネタに走る刑事に、「詩はこの世の美しさを追求するものなのに、あなたは詩を冒涜している」と責める様に言う。
だが、美しさとは何か。
人間のどす黒い裏側を眺めるのが日常である刑事は、彼なりに世界の美しさを追求し、詩作を続けているのである。
見た目の「キレイ、カワイイ」を美しさだと思っているミジャには、まだ世界の本質は姿を隠したまま、言葉を与えてくれない。

そんなミジャが少しづつ変わり始めるのは、死んだアグネスの生を辿りはじめてからだ。
教会に置かれた祭壇で、涼しげに微笑む少女の遺影を見たミジャは、思わずその遺影を持ち帰る。
あるいは、示談に応じない彼女の母を説得するために、農村のアグネスの家を訪ねた時、ミジャは命の美しさに満ちたその土地に圧倒され、場違いな派手な服を着てきてしまった自分を恥じ、母親の顔を見て何も言えなくなってしまう。
そして何時しか彼女が訪れるのは、アグネスが命を絶った橋の上だ。
アグネスを想い、彼女の言葉を求めて彷徨うミジャは、やがてアグネスの心を追体験する事で現実と向き合いはじめるのである。

ミジャが、ヘルパーとして介護している老人に迫られ、最初は拒絶するが、後に身を許すのは何故か。
チョンウクと囲む食卓に、アグネスの遺影を飾って伝えようとした事は何か。
示談金を用意する事が出来た彼女が、孫に対しても重い決断をしたのはどうしてなのか。
韓国の法律では、婦女暴行犯が未成年の場合、告発されなければ警察は動けない。
示談が成立して皆が口をつぐめば、アグネスの生も死も無かった事にされ、少年たちは永遠に責任を感じないまま。
物語の終わりで、ミジャは突然画面から“消滅”し、まるでアグネスが残した魂と一体となったかの様に、一遍の透明な詩となってこの美しき世界の中に溶け込んで行く。
果たしてこの映画をどの様に解釈するのか、観客一人ひとりが見ている、世界の本質が問われそうである。
果たして、私たちにはリンゴが見えているのだろうか?

今回は、かわいいおばあちゃんと乾杯したいリンゴのお酒。
フランス産のシードル「ラ・ブーシュ・オン・クール シードル・ブリュット」をチョイス。
シードルとはリンゴ果汁を発酵させて作るお酒で、多くが発泡性である。
ラ・ブーシュ・オン・クールとは、「おちょぼ口をして」という意味で、やや辛口でフルーティ、非常にスッキリとした味わいが楽しめる一本だ。
アルコール度数も比較的低く、ポリフェノールたっぷりなので、健康志向の人にもオススメ。
よく冷やして飲みたい。

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英雄の証明・・・・・評価額1600円
2012年02月10日 (金) | 編集 |
戦いにしか生きられない男が、権力への野心を持った時、悲劇の幕が上がる。

ウィリアム・シェイクスピアの古典悲劇「コリオレイナス」を、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー出身のレイフ・ファインズが、自ら監督・主演して映像化した意欲作。
原作の舞台は古代ローマだが、物語の構造や構成要素はほぼそのままに時代を現代に移し替え、世界の何処かにある“ローマ”という名の架空の国の、勇猛だが傲慢な将軍、コリオレイナスの悲劇が描かれる。
コリオレイナスの宿敵にして同盟者となるヴォルサイ人のオーフィディアスを、「マシンガン・プリーチャー」のジェラルド・バトラーが演じ、厳格な母ヴォラムニアをヴァネッサ・レッドグレイヴ、親友メニーニアスにブライアン・コックスと英国を代表する名優たちが揃った。
※ネタバレ注意。

貧困層の暴動が続く“ローマ”。
戦争の英雄として名高い将軍ケイアス・マーシアス(レイフ・ファインズ)は、食料を求める人々の願いを一蹴し、反感を買う。
再びヴォルサイ人との戦争に出征したマーシアスは、敵将オーフィディアス(ジェラルド・バトラー)が守るコリオライの街の包囲戦に勝利し、執政官から新たな名“コリオレイナス”を授かり、次期執政官に推薦される。
だが、コリオレイナスの事を快く思わない護民官たちが民衆を扇動し、彼の執政官就任に反対する大規模なデモが起こる最中、挑発にのせられたコリオレイナスが民衆を侮辱した事から、逆に反逆罪で告発され、ローマを追放されてしまう。
流浪の旅の末に、ヴォルサイに辿り着いたコリオレイナスは、宿敵オーフィディアスの副官となり、ローマへの復讐の為に挙兵する・・・


シェイクスピア劇の現代版は過去にも何作も作られているが、原作のエッセンスだけを抽出し、後は設定の変更に合わせて内容も大幅に脚色されていたり、或いはテーマ性も含めて原作はあくまでもモチーフに過ぎなくなっている作品が多い。
なにしろ原作が書かれたのは400年も前で、社会制度も人々の価値観も現代とは大きく異なっているのだから当然と言えば当然だろう。
逆にシェイクスピア本来の持ち味を活かした作品は、原作通りの時代設定で描かれる場合が殆んどだと思う。
ところが、本作は現代劇にも関わらず、内容的にもテーマ的にもほとんどまんまであるのがユニーク。
もちろん、現実のイタリアで、古代ローマを描く英語劇などやったら違和感バリバリになるのは明らかだから、本作は架空の都市国家“ローマ”をでっち上げ、言わばパラレルワールドの現代を舞台に展開するのである。

古典の世界をそのまま現代の風景に持ち込んだ為に起こる、どこかずれた世界観が面白い。
主にサラエボとベオグラードで撮影されたという、映画の世界のローマは、見た目は近代国家だが、政治制度などは古代ローマそのまま。
最高指導者の執政官は、絶大な権力を行使するが、民衆の代弁者である護民官のチェックを受け、民衆の支持無くしては存在し得ない脆弱さも合わせ持つ。
また覇権国家であるローマ周辺では諸民族の反乱が相次いでおり、政府は食料供給を切り詰めても軍事を優先せざるをえない、北朝鮮の様な先軍政治を進めており、民衆の反感も強まっている。
コリオレイナスは、この古代と現代が融合した奇妙な世界で、代々続く名門軍人一族の当主なのである。

常に戦場で先頭に立って戦ってきた彼は、自分たちはテレビで戦争を眺めながら、不平ばかり言う民衆を憎悪しているが、権力の座につくためには彼らの支持が必要というジレンマに直面し、狡猾な護民官のポピュリズムの計略に陥る。
国家のために死ぬ事こそ男子の本懐と考える、厳格なる軍国の母に育てられたコリオレイナスは、とにかく一本気でカチカチの石頭。
信じるのは己が信念と勝利のみで、自分は決して間違いなど犯さないから、敗北も謝罪も人生の辞書に無いという生き方は、現場の軍人としては有能なのだろうが、人心掌握こそが重要な政治家としては全く向いていない。
二枚舌を使い分ける何処ぞの国の為政者とは対象的に、コリオレイナスは猪突猛進、まるで憎き敵と対峙するかの様に民衆に向かい合うが、当然ながら受け入れられる事はなく、無情にも反逆者として母なるローマを追われる。

しかしながら、自分に非があるという反省の思考パターンを持たないコリオレイナスにとって、良きものである自分を排除したローマは自動的に悪しきものとなり、今度は仇敵であるオーフィディアスを訪ねると、相変わらずの上から目線でローマへ復讐するから兵を貸せと迫るのである。
オーフィディアスにとっては、今まで散々煮え油を飲まされた相手だが、ローマ軍の内情を知り尽くした相手を懐に入れられる千載一遇のチャンス。
そして、いざ兵を任せてみれば破竹の勢いで勝ち進み、あっという間にローマ陥落目前まで漕ぎ着け、嘗て自分たちが追放した男の帰還にローマはパニックに陥る。
ところが、完全勝利を目前にしながら、残してきた母と妻子の訪問を受けたコリオレイナスは、ローマを救って欲しいと嘆願されると、あっさりと和平を結んでしまい、それまで内心含むところがありながら、コリオレイナスを立ててきたオーフィディアスによって、裏切り者と断罪されて殺されてしまう。

人はこうあるべき、こう生きるべき、という理念によってのみ行動し、機械のように曖昧さを許さないコリオレイナスは、本質的に自分以外の人間の心を理解できていない。
だが、彼が足を踏み入れてしまった“民主主義”の政治の世界とは、民心という最も移ろいやすい要素の掌握こそが勝負の分かれ目であり、皮肉にも戦争の功績によって執政官へ推薦されるという栄光の瞬間に、愚直過ぎるコリオレイナスの悲劇は運命付られてしまったのである。
レイフ・ファインズはこの政治と人間性を扱った古典寓話を、驚くほど忠実に再現しながらも、斬新な世界観を与える事で21世紀に蘇らせている。
「ハート・ロッカー」のバリー・アクロイドによって活写される、くすんだ戦場のコンクリートの瓦礫の中で、現代の軍服を着た男たちが時代劇そのままの大袈裟な台詞のやり取りをする、奇妙な異世界感覚こそ本作の面白さ。
逆に言えば、物語の作りやテーマ性の部分は400年前に書かれた原作のままであり、世界観の様な新鮮な驚きは無い。
私などは何とか現代性を加えたくなって、例えばコリオレイナスとオーフィディアスの間に、同性愛的な感情が芽生えれば、クライマックスの愛憎がより深くなるのに、とか思ってしまうのだが、元よりこれはそういう作品ではないのだろう。
これはあくまでも、凝った舞台装置の中で、俳優たちのしっかりとした芝居を堪能する“シェイクスピア劇”であって、錚々たる顔ぶれの俳優陣、特に政治的野心を秘めるコリオレイナスの母、ヴォラムニア役のヴァネッサ・レッドグレイヴの不気味さは見もの。
もちろん、レイフ・ファインズが鬼気迫る迫力で演じる主人公コリオレイナスは、彼のシェイクスピアLOVEを十分に感じさせるのは言うまでもない。

今回は、古代ローマ時代からのワインどころ、イタリアはトスカーナからテヌータ・ディ・トリノーロ「レ・クーポレ・ディ・トリノーロ」の2009をチョイス。
非常にパワフルなフルボディの赤。
フルーティさと微妙なスパイシーさのバランスも良く、シェイクスピア劇の様に味わい深い一本だ。
いつもテンションMAXのコリオレイナスも、美味しいワインを飲んで頭を冷やせば良かったのに。
イタリアワインは財布に優しいコストパフォーマンスの高さも魅力。

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マシンガン・プリーチャー・・・・・評価額1550円
2012年02月07日 (火) | 編集 |
子供たちだけは、絶対に守る!

戦乱の南部スーダンで、武装組織に誘拐された多くの子供たちを救出し、彼らのための孤児院を運営している、実在の戦う牧師、「マシンガン・プリーチャー」ことサム・チルダースの半生を描いた問題作。
現在もアメリカと南部スーダンを行き来しながら活動を続けるチルダース役を、エグゼクティブ・プロデューサーも兼ねるジェラルド・バトラーが演じ、脚本は「Mirror, Mirror」が待機中のジェイソン・ケラー、監督は「ネバーランド」などで知られるマーク・フォースターが務める。
※一部ネタバレ注意。

長年犯罪者として生きてきたサム・チルダース(ジェラルド・バトラー)は、ある事件を契機にキリストへの信仰に目覚め、足を洗ってカタギになる事を決意。
苦労して始めた事業がようやくそれなりの成功を収めた頃、アフリカで活動する牧師の説教を聞いたサムは、短期ボランティアとしてウガンダに渡るのだが、隣国である南部スーダンの子供たちが置かれた悲惨な状況を目にして衝撃を受ける。
帰国してもスーダンの子供たちを忘れる事の出来ないサムは、妻リン(ミッシェル・モナハン)の後押しもあって、再びスーダンに渡り、子供たちの為に孤児院を作り始める。
だが、それは何時終わるとも知れない長い戦いのはじまりに過ぎなかった・・・・


とにかく、主人公のサム・チルダースのキャラクターが強烈だ。
アメリカ北東部、ペンシルバニアのヒルビリーの寒村に生まれ、お約束のドラッグと犯罪に塗れた青年時代を送る。
ところがある事件を切っ掛けに、突如として信仰に目覚めると、裏社会から足を洗って建設業で成功。
今度はたまたまボランティアで訪れた南部スーダンで、子供たちの置かれた悲惨な環境を見てしまった事から、夜な夜な武装勢力が跋扈する危険地帯に孤児院付の教会を建て、襲ってくる敵は自ら銃を取り容赦無しに殲滅する。
正に極端から極端で、先ずはこの直情的な人物像に驚かされるが、思い立ったら直ぐ行動という実行力と全く裏表が無い人柄が紛争地帯で慕われ、ある種のカリスマ性に繋がるのは理解できる。

スーダンは、長年北部のアラブ系イスラム教徒主導の政府と南部のアニミズム・キリスト教を信仰するアフリカ系住民の内戦が続き、血で血を洗う戦いの犠牲者は200万人近くに及ぶ。
だが、サムの戦う相手はイスラムではない。
彼の仇敵となるLRA(神の抵抗軍)は元々隣国のウガンダを拠点とする反政府勢力だが、南部弱体化を狙う北部スーダン政府の支援を受けて、南部スーダンまで足を伸ばしては村々を襲い、子供たちを誘拐して男の子は子供兵士に、女の子は売春婦にして搾取するという非道を行い、世界的な非難を浴びている。
組織の創設者で、四半世紀の間リーダーとして君臨するジョセフ・コニーは、聖霊と話が出来る霊媒を自認するキリスト者でもあり、LRAは言わばキリスト教系のカルト集団なのである。
武装して子供たちを守ろうとするサムと、子供たちを利用して神の王国を築こうとするジョセフ・コニー。
映画は、劇中には登場しないコニーを、サムの内なる敵として描き、二人の“神の声を聞く男”を対比する。

やがてサムは、生活のほとんど全てを南部スーダンでの活動に捧げる様になるが、時間の経過と共に現実という大きな壁が彼の前に立ちはだかる。
助けても、助けてもLRAに誘拐される子供は跡を絶たず、活動資金は常にギリギリの綱渡り。
アメリカでいくら寄付を訴えても、顔も見たことの無い遠いアフリカの子供たちに金を出そうとする人は多くない。
豪邸に暮らす友人に5千ドルの寄付を頼んで、実際にくれた小切手の額面がわずか150ドルであった事にサムは激高し、自分の一人娘がプロムのパーティに行くのにリムジンを借りたいと言っても耳を貸さない。
サムの、アフリカの悲惨な現実を何とかしなければという想いと、豊かな日常という別の現実に存在する故郷アメリカとのギャップは、次第に活動を支え続けた家族との関係すら危うくするほどに大きくなる。
更に自分を狙ったLRAの凄腕スナイパーを射殺したら、彼もまた子供兵士だったというやり切れない現実は、徐々にサムの心を追い込み、子供たちを救いたい、善き事をしたいという想いは、何時しか自分の行動を阻害する者たちへの憎しみへと変貌してしまうのである。

キリスト者として活動していたはずのサムが、もはや神すらも信じないと言い放つにいたって、故郷で支援していた人々だけでなく、アフリカで彼と行動を共にしていた友人たちの心も離れてゆく。
子供たちを救うためにやむなくLRAを殺すのではなく、憎いから殺す様になったサムは、南部スーダンの人々から見たら、単なる戦争好きの外国人に過ぎないのだから当然だろう。
そんな時、追い詰められ、荒んだサムの心を救うのは、嘗て彼が救い出した一人の少年だ。
彼は「憎しみで心を満たしたら、奴らの勝ちだよ」と、サムを諭すのである。
村を襲ったLRAの兵士に命じられ、自らの手で母親を殺したという壮絶な過去を持ち、今も生き別れになった弟の行方を捜し続けている少年の言葉は、静かにしかし力強くサムの心に広がってゆく。

昨年の7月9日、実に20年以上に渡った内戦の末に、南部スーダン諸州はアフリカ54番目の国、南スーダン共和国として独立を果たしたが、新しい国の政情は不安定で、現地に展開する国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)には、日本からも自衛隊が派遣されている。
国境付近ではLRAの越境襲撃も相変わらず続いており、サム・チルダースの戦いは今も終わりが見えない。
おそらく、私を含めた多くの人にとって、特に思想の領域において、彼の生き方は素直には肯定できない部分があると思うし、映画もあえて彼に対する支持や賛同は示していない様に見える。
暴力が作り出す負の連鎖と、非暴力の理想の間にある矛盾は、例えば昨年の「未来を生きる君たちへ」をはじめ、多くの作品で問題提起されてきたテーマだ。
だが、善悪の観念論ではなく、現実に暴力が支配する世界の中で生き、「子供たちに手出しする奴らだけは許さない」というサムのシンプルな行動原理に、強い説得力を感じざるを得ないのも事実。

映画の最後で、本物のサム・チルダースが我々の前に姿を現す。
いやサムだけでなく、彼がずっと戦い続けている宿敵、ジョセフ・コニーの姿もスクリーンに映し出され、映画は虚構の世界から現実への窓となるのである。
「もし貴方の子供や家族が誘拐され、私が彼らを助けると言ったら、貴方は手段を選びますか?」
サムが最後にスクリーンから語るこの言葉への共感と、自らの中にある理想との矛盾こそ、本作の投げかける大きなテーマなのかも知れない。
ただ、どんな立場をとろうとも、憎しみから救いは生まれない、これだけは信じたいものだ。

サムの青年期から現在まで、足掛け30年近くに渡る半生を僅か2時間9分で描いている事もあり、映画的には物足りない部分も多い。
特に信仰に目覚める過程は少々唐突で、もう少しキャラクターの内面に踏み込んで描いても良かった気がするが、この世界にはこんな現実があり、こんな人物がいるのだという驚きだけでも、観る価値のある作品だ。
映画を観たサム本人によると、本作に描かれた南部スーダンの描写は100%リアルだそうである。

今回は、バーボンリキュールの「ジム・ビーム レッドスタッグ」をチョイス。
ジム・ビームはケンタッキーバーボンの代表的な銘柄だが、これはそれにサムの故郷であるペンシルバニア名物のブラックチェリーを漬け込んだ物で、フルーティでナチュラルな甘みとバーボン本来の味が融合し、クセになる味わい。
カクテルベースにしても面白いが、個人的にはロックがオススメだ。

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J・エドガー・・・・・評価額1700円
2012年02月02日 (木) | 編集 |
権力の裏側で、男が守ろうとした“正義”の根にあったのは何か。

実に48年間に渡ってFBI長官としてアメリカの司法の世界に君臨し、クーリッジからニクソンまで8人の大統領に仕えた男、ジョン・エドガー・フーバー
政官財のVIPの秘密ファイルを握り、大統領すら手だし出来ないアンタッチャブルな権力を持つに至った彼の事を、ある者はコミュニストやアナーキストからアメリカを守った英雄と賞賛し、ある者は影の独裁者と批判した。
しかし、これは謎多き権力者の表層的な評伝ではなく、彼の生涯をモチーフにしたある種の冷徹な米国論であり、同時に余りにも巨大な重圧を背負ってしまった男の倒錯的ラブストーリーでもある。
誰もが知る“フーバー長官"ではなく、親しい人にしか呼ばせなかった“J・エドガー”という名をタイトルにした事が、本作のベクトルを示唆している。

1924年、29歳の若さで初代FBI長官に任命されたJ・E・フーバー(レオナルド・ディカプリオ)は、旧態依然としていた犯罪捜査の世界に最新の科学捜査の手法を導入し、大きな成果を上げる。
弁舌と政治力にも長け、次第にワシントンで存在感を増すフーバーは、特別な絆で結ばれた副長官のトルソン(アーミー・ハマー)と共に、半世紀に渡ってFBIを牛耳り、誰も手出しできないほどの絶対権力を作り上げる。
しかし、プライベートでは、母アンナ・マリーの愛の呪縛からは逃れられず、トルソンとの秘めたる愛を公にも出来ない。
厳格な法の執行者の立場と、倒錯した内面の間で、フーバーは少しづつ被害妄想に囚われる様になるのだが・・・


なにしろ世界最強の捜査機関、FBIを作った男の伝記映画である。
作り方によっては、いくらでも娯楽性を高める事は出来たはずだ。
ポリティカル・サスペンス的なアプローチも良いだろうし、フーバーの作り上げた組織や彼の功罪にトリビア的に焦点を当てた社会派ドラマでも面白い。
実際、司法省に入る前の図書館勤務時代に、全世界の図書館で採用された検索カードのシステムを考案したり、現場の捜査官が昔ながらの“刑事のカン”に頼っていた時代に、いち早く科学捜査の手法を導入したり、フーバーが非常に先見性に富んだクレバーな人物だったのは間違いないだろう。

だが、監督のクリント・イーストウッドとゲイの権利活動家、ハーヴェイ・ミルクを描いた「ミルク」で知られる、脚本のダスティン・ランス・ブラックは、歴史家によって散々研究され尽くしたフーバーの表の顔ではなく、噂レベルの話にとどまっている裏の顔に焦点を当てた。
この映画のフーバー、いやJ・エドガーは、極度のマザコンで女装癖があり、さらに同性愛者の男として描かれる。
彼は米国人としては珍しく、43歳の時に母親が死去するまで同じ家で暮らし、生涯独身を貫いた。
またFBIの長官・副長官として40年来のタッグを組んだクライド・トルソンとは、毎日必ず食事を共にし、二人で連れ立って休暇に出る事も多かった様で、彼らが“特別な関係”にあったという説は昔から囁かれている。
もっとも、こう言った人物像に明確な証拠は無く、憶測の域を出ない物であり、FBI的に言えば“推定無罪”の案件だろう。
本作が、近年のイーストウッド映画としては例外的に本国で酷評され、アカデミー賞レースでも無視される結果となったのは、フーバーという一時代を築いた人物へのアプローチとしては、フィルターがかかって矮小化されていると受け取る人が多かったのではないかと思う。
しかし、これを歴史上の人物をリアルに描いた実録物では無く、あくまでもJ・エドガーという一人の人間をモチーフとして、象徴的にとらえた映画だと思えば、また観方は違ってくる。

アメリカの平和と安全を守る、そのために必要な事は断固としてやるというのが、彼の信念であり“正義”だ。
自らの正義に照らして、社会の害悪となり得ると判断した相手は、共産主義者であろうと、ギャングであろうと徹底的に追求し壊滅させる。
もしも相手が隙を見せないなら、時として法を捻じ曲げ、謀略の限りを尽くして陥れる事も厭わず、違法に調べ上げた秘密ファイルをネタに、大統領すら脅すのである。
一方で、彼は現場の捜査官達の手柄を横取りし、自分よりもマスコミ受けする部下が出ると、閑職に追いやるなど、組織を私物化。
コワモテで弁が立つ反面、誰とも本当の信頼関係が築けないコミュニケーション下手に加え、母の呪縛から逃れられないマザコン、更に女性とは付き合えない同性愛者という、絶対に人には知られたくない秘密を抱えているのだから、常に周りは敵だらけという被害妄想にとりつかれるのも道理である。
フーバーが、自らの存在その物が正義であると錯覚するのも、実は内面の矛盾を覆い隠そうとする故ではないか。
正義の遂行のためには、常にNo.1の立場にいなければならず、異なる正義を唱える者は、力を使ってでも排除するというフーバーの論理は、そのままアメリカという国家のキャラクターに通じ、高潔なる正義感の内側に、実は深刻な葛藤と自己矛盾を抱え込んでいるという点も共通している。
イーストウッドとブラックは、このエキセントリックなキャラクターに現代アメリカ史そのものを体現させている様に思えるのだ。

劇中で、年老いたフーバーは、若いFBIエージェントに、自らの回想録を執筆させている。
しかし、その内容は既にフーバーの記憶の中で虚実が入り混じり、彼自身にも何が本当に起こった真実なのか分からなくなってしまっているのである。
正義を行うには力が必要だという信念故に、自分の人生すら虚飾の闇に葬ってしまった男。
個人史の中で、最後の瞬間まで残ったただ一つの真実は、誰にも明かすことの出来ない、倒錯した愛だけだったというのは、なんともアイロニカル。
映画は、1919年から1972年までの半世紀を目まぐるしく行き来し、主演のレオナルド・ディカプリオは最近流行りのフェイシャル・アニメーションではなく、素晴らしいクオリティの特殊メイクの助けも借りて、アメリカの頑強さと繊細さを同時に象徴する特異な人物の青年期から老年期までを見事に演じ切っており、オスカーにスルーされたのが気の毒な位の熱演だ。
彼の心の恋人であるトルソンを、「ソーシャル・ネットワーク」アーミー・ハマー
脇では、トルソン以外ではただ一人、フーバーが心を許した秘書ヘレン・ギャンディを、ナオミ・ワッツがほぼ全編老けメイクで演じ強い印象を残す。

思うに、昨年の「ヒア アフター」あたりから、イーストウッドは人間への興味が少しシフトして来ているのでは無いだろうか。
描こうとする対象がより本質的になりつつあるというか、人の心に奥底に秘められた核心部分を思いもよらぬ方向から切り取って来る。
ジョン・エドガー・フーバーの正義の根幹にあるのが、彼自身の内面に潜む強烈なコンプレックスとは、誰が想像出来ただろうか。
いやはや、やはり凄い映画爺さんである。
おそらく、フーバーが“誰もが知っている人物”ではない日本では、この映画の人物像に違和感をおぼえる人は米国ほど多くないだろう。
一本の映画としては、本国より冷静な評価を得られるのではないかと思う。

さて、フーバーがそのキャリアの初期に戦った、ギャングやマフィアの大きな資金源は禁酒法時代の密造酒。
多くはバスタブに張った水に、蒸留器を沈めて作られたバスタブ・ジンと呼ばれる粗悪な酒で、健康被害も多かったと言う。
今回はバスタブ・ジンではなく、現代の本物のジンを使ったシンプルなカクテル「ジン・トニック」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、ジンとお好みの比率のトニック・ウォーターを注ぎ、軽くステアしてライムを添える。
元々熱帯のインドで生まれたと言われる清涼感のあるカクテルだけに、この映画の複雑な後味も綺麗に纏めてくれるだろう。

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