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東西冷戦たけなわの70年代を背景に、英国情報部“サーカス”に紛れ込んだ東側のスパイ“もぐら”の摘発を命じられた老スパイ、スマイリーの活躍を描く、第一級のスパイスリラー。
あの「007」と同じイギリスの情報機関、MI6に所属していた経歴をもつ、ジョン・ル・カレの傑作スパイ小説「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」を原作としているが、独特の雰囲気は損なわれておらず、ファンは胸を撫で下ろしている事だろう。
ル・カレ自身も本作のエグゼクティブ・プロデューサーに名を連ねており、言わば原作者お墨付きの映像化である。
監督は、スウェーデン発の異色のヴァンパイア映画「ぼくのエリ 200歳の少女」で、世界的な注目を浴びたトーマス・アルフレッドソン。
初めての英語版作品に挑み、見事に結果を出した。
※ラストに触れています。
英国情報部のチーフ、コントロール(ジョン・ハート)は、長年悩まされている東側の潜入スパイ“もぐら”を捕えるため、その正体を知るハンガリーの将軍の亡命計画を画策する。
しかし、作戦が失敗した事で、コントロールは腹心のスマイリー(ゲイリー・オールドマン)と共に、情報部を追われる。
その後コントロールは謎の死を遂げ、外務省のオリバー・レイコン(サイモン・マクバーリー)に呼び出されたスマイリーは、“もぐら”の捜査を極秘裏に引き継ぐ事を要請される。
容疑者は、いずれも情報部の幹部、パーシー・アレリン(トビー・ジョーンズ)、ビル・ヘイドン(コリン・ファース)、ロイ・ブランド(キーラン・ハインズ)、トビー・エスタへイス(デヴィッド・デンシック)の四人。
コントロールは、それぞにティンカー(鋳掛け屋)=アレリン、テイラー(仕立屋)=ヘイドン)、ソルジャー(兵士)=ブランド、プアマン(貧乏人)=エスタヘイスとコードネームを付けていた。
スマイリーは、信頼出来る部下のピーター・ギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)らと捜査を開始するが・・・
スパイ物と言っても、「007」や「ミッション・インポッシブル」の様な、派手なアクションは一切無い。
本作のベースとなっているのは、ル・カレが現役だった頃に実際に起こった、MI6幹部による二重スパイ事件、所謂“キム・フィルビー事件”だ。
元本職の作者が実際の事件をヒントに描いたのだから、貫かれるのは徹底的なリアリズム。
冷戦時代の冷たく陰鬱な空気が充満し、主人公のスマイリーを含めて見るからに怪しげな海千山千の登場人部たちの騙し合いを楽しむ“諜報映画”である。
与えられる情報をそのまんま受け流す様な観方をすると、あっという間に置いていかれてしまうので、良質な推理小説を読む時の様に、観客にも緊張感と集中力が要求される。
ブリジット・オコナーとピーター・ストローハンの脚本は、複雑な物語を一旦バラバラにし、パズルの様に再構成する事で先の読めないスリラーとして纏め上げ、それを受けたトーマス・アルフレッドソン監督は、鮮やかな映像センスで“世界の裏側”に生きる男たちをメランコリックに描き出す。
物語の発端となるのは、ハンガリーの将軍が、“もぐら”の正体を明かす見返りに亡命を希望しているという情報だ。
亡命計画を巡り、マーク・ストロング演じる英国情報部のジム・プリドーが、現地の情報源と接触するブタペストのカフェのシーンから、物語に引き込まれる。
このシーンを、周囲の状況を気にするプリドーの目線を中心に構成し、静寂の中で緊迫感を盛り上げる手法は、ブライアン・デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」の伝説的なシカゴ駅のシークエンスを思わせ秀逸だ。
実は、この亡命話自体がソ連の大物スパイ“カーラ”の計略で、作戦はあえなく失敗し、責任を問われたコントロールとスマイリーは情報部を去る。
その後釜に座ったのが、ティンカー、テイラー、ソルジャー、プアマンのコードネームで呼ばれる四人で、彼らはコントロール亡き後、“ウィッチクラフト作戦"の名の元に、謎のソ連の情報ソースに接近している。
スマイリーは、彼らのうち誰かが、ウィッチクラフトを隠れ蓑に機密情報をカーラに流している“もぐら”だと考えるのだが、なかなか尻尾を掴めない。
映画は、“もぐら”を追うスマイリーたちの捜査を縦軸に、幾つかの横軸を絡ませる形で展開してゆく。
一つ目の横軸は、英国情報部のスカルプハンター(実働部隊)のリッキー・ターの物語だ。
彼は、ひょんな事から“もぐら”の正体を知るKGBの女、イリーナに恋してしまい、彼女をイギリスに亡命させようとする。
だが、事態を察知したKGBによって彼女は連れ去られ、二重スパイの疑いを掛けられたターはKGBからも英国情報部からも追われる羽目になり、イリーナの救出を条件にスマイリーに協力を申し出る。
もう一つは、ハンガリーでの作戦で死んだと思われた、ジム・プリドーの物語。
KGBのカーラに拷問されたプリドーは、解放されるも心と体に傷を負い、スパイを廃業して小学校の教師となっている。
彼は、スマイリー以外でカーラを見知る唯一の人物であり、“もぐら”の容疑者の一人のある人物とも特別な関係にあるキーパーソンだ。
二つの大きな横軸は一瞬交錯し、しばしば観客をミスリードしながら、物語を重層化する。
そして、本作における隠し味、いや見えない横軸を形作るのが、姿なきソ連の大物スパイのカーラ、そしてやはり表には出てこないスマイリーの妻だ。
この二人とスマイリーは、言わば愛憎半ばする感情で結ばれた変則的な三角関係にあり、スマイリーの行動原理の根幹には二人への複雑な葛藤があるという事実を、妻からスマイリーに贈られたライターが象徴すのである。
主人公のスマイリーを演じるのは、英国を代表する名優ゲイリー・オールドマン。
ここでは、内なる敵であるカーラに対して抱く奇妙な感情と、不実を働く妻への想いに心掻き乱されながらも、繊細な内面をポーカーフェイスに隠し、深い洞察力によって、幾つもの小さな手がかりから事件の真相を暴き出す老スパイを味わい深く演じている。
例え国を救ったとしても、決して日の目を見る事は無い、非情なる諜報の世界で生きる男の覚悟を、静かな情念の炎として感じさせる演技力はさすがだ。
彼の周囲を、ジョン・ハート、コリン・ファース、マーク・ストロング、ベネディクト・カンバーバッチら、クセのある名優たちが固め、眉間に苦悩の皺を寄せながら、燻し銀の演技合戦を繰り広げる。
スパイでありながら、叶わぬ恋に身を焦がす、リッキー・ター役のトム・ハーディも良い。
彼の想い人であるイリーナ役のスヴェトラーナ・コドチェンコワは、この男臭い世界の中の殆ど唯一の紅一点だ。
やがて、難解なパズルを解いたスマイリーが、遂に真実にたどり着いた時、シャンソンの名曲「ラ・メール」の調と共に浮かび上がるのは、男たちのあまりにも切なく哀しい、秘められた愛の姿である。
要所要所に差し挟まれるパーティーのシーンの意味も、ようやく明らかとなり、裏切りと愛憎の物語に決着をつけるのは、涙の形に撃ち抜かれた弾痕だ。
マンガチックな秘密兵器と派手なアクションに彩られたブロックバスターとは対照的だが、これぞ正に大人の為の本格スパイスリラー。
情報量を考えれば信じられない位にコンパクトに纏められた、充実の127分を過ごした後には、素晴らしい物語に対峙した時にだけ味わえる、心地良い疲れを感じるだろう。
今回は、スパイの故郷英国から、シングル・モルト・スコッチ「ザ・グレンリヴェット18年」をチョイス。
バニラ、洋梨など複雑なアロマと、はちみつの様ななめらかで深みのある味わいがじんわりと広がってゆく。
一時だけここが日本である事を忘れ、非常な世界に生きるMI6のスパイ気分で、一人飲みを楽しみたい酒だ。

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「ももへの手紙」は、「人狼 JIN-ROH」の沖浦啓之監督が、長年の構想を実らせたノスタルジックな和風ファンタジー。
瀬戸内の美しい風景の中、父を亡くした少女が、一夏の不思議な出会いと冒険を通して、少しだけ大人になる姿を描く。
制作は「ホッタラケの島 ~遥と魔法の鏡~」のプロダクションI.G、作画監督は「もののけ姫」の安藤雅司、美術監督は「魔女の宅急便」の大野広司。
日本アニメ界を代表するクリエイターたちの仕事は、素晴らしく丁寧で観応え十分。
GWに家族で観るのにピッタリの秀作である。
主題歌「ウルワシマホロバ~美しき場所~」を、原由子が担当しているのも注目だ。
「ももへ、」とだけ書かれた手紙を残して、海の事故で天国へ旅立ってしまった父。
些細な喧嘩をしたまま、父と永遠に仲直り出来なくなってしまったもも(美山加恋)は、母のいく子(優香)と共に自然豊かな瀬戸内の島、汐島に移り住む。
なかなか島での生活に馴染めないももは、ある日イワ(西田敏行)、カワ(山寺宏一)、マメ(チョー)という、三人の妖怪と出会う。
“見守り組”と名乗る彼らの姿は何故かももにしか見えず、奇妙な同居生活はしばしば騒動を巻き起こしながら、ももは次第に元気を取り戻してゆく。
だが、“見守り組”には人間には知られてはいけない、ある秘密の使命があった・・・
沖浦啓之監督は大阪出身だが、ルーツは「崖の上のポニョ」の世界観のモデルとなった事でも知られる広島県の鞆の浦にあり、その事から瀬戸内を舞台にした映画を作りたいとずっと考えていたという。
劇中に登場する汐島は広島県の大崎下島をモデルにした架空の島だが、特徴的な港の常夜燈や、古い建物が残る街並みの風景は鞆の浦にもよく似ている。
海と山と青い空、三拍子揃った日本のハートランドにやって来るのは、大きな喪失感を抱えた思春期の少女、もも。
そしてある隠された使命によって、彼女の前に姿を表すのは、これまたレトロな風貌の三人の妖怪たちである。
もっとも、彼らは元々具体的な形を持たず、たまたま家にあった古い妖怪本から姿形を借りただけで、ももが彼らの事を見える様になってしまったのも、ある意味事故なのだが、結果的に彼らは本来の役目をこえて、ももとの絆を深める事になるのである。
ももは、父が亡くなる前に、ちょっとした行き違いから喧嘩をしてしまい、仲直りのチャンスを永遠に失ってしまうのだが、後になって父の机から「ももへ、」とだけ書かれた手紙を見つける。
父は、一体自分に何を伝えようとしたのだろうか。
悲しみを抱えたまま、死んでしまったのではないだろうか。
そんな誰にも打ち明けられない悔恨の念が、心にポッカリ開いた穴をじわじわと広げ、彼女が未来へと目を向ける事を許さない。
一方で、ももから見れば、さっさと東京生活を切り上げ、自分の家族のルーツである汐島へと移り住み、新しい仕事へも熱意を燃やす母のいく子は、すっかり立ち直っている様に思える。
まるで父を忘れてしまったかの様な母への反発も、ももを殻に閉じこもらせ、仲良くなろうと誘ってくれる島の子供たちとも距離を置いてしまう。
そんな時、彼女の家に住み着くのが三人の“見守り組”の妖怪たちだ。
リーダー格でお面の様にいつも同じコワイ表情のイワ、ちょっと悪賢くてお調子者のカワ、物事を覚えられない天然のマメ。
実は彼らの役目は、死んだ父の魂が天に登るまでの間、残されたももといく子を見守って天界に報告する事なのだが、事情を知らないももにとっては自分にしか見えない厄介な同居人。
大食漢の彼らが、島の畑から作物を盗むのをやめさせるために、小さな冒険を繰り広げる羽目となるのだが、一方で自分にしか見えないという気安さもあり、彼らとの交流を通してももは少しづつポジティブな気持ちを取り戻して行く。
だがある日、妖怪たちの盗んだ物を見つけたいく子が、ももがやったのではないかと問い詰めた事から、反発したももは台風が島に迫る中、プチ家出をしてしまうのだ。
ここから展開は、言わば心の再生のための喪失の追体験だ。
嵐に打たれながらももを探し回ったいく子は、持病である重症の喘息を再発させ、瀕死の状態に陥ってしまう。
家に戻ったももが見たのは、再び自分の元から失われ様としている愛する者の姿であり、そこに至ってももは漸くいく子の本当の気持ちを理解する。
自分が父を失った様に、いく子もまた最愛の夫を亡くし、大きな喪失感を抱えていた事、それでももを気遣って、無理をして気丈に振舞っていた事を。
親の親たる所以を知り、自分が子供だった事を認識したももは、成長する準備が出来ている。
島に医者はおらず、母を救うためには暴風雨を突っ切り、未完成の橋を通って隣の島に医者を呼びに行かなければならない。
無茶を承知で嵐の中に踏み出すももを助けるのは、本来“見守る”のが仕事のはずなのに、図らずも事件の発端になってしまった妖怪たち。
彼らも元々は地の神の様な存在だったのに、悪さをしすぎたために罰を受け、使い走りの様な“見守り組”の仕事に身を落としている。
ももの想いに応えるため、妖怪たちもまた自らに科せられたくびきを解き放ち、精神的な成長を遂げるのだ。
暴風雨の中、“見守り組”の呼びかけに呼応した島の妖怪・精霊たちが、何百体も折り重なり、まるでトンネルの様な百鬼夜行となって風雨に抵抗し、ももを守るシークエンスのビジュアル表現は、ちょっと過去に観た事のないものだ。
それまで溜め込んだ“動かす力”が一気に解放された様な、正しくアニメーションの妙技を味わえる圧巻のザ・クライマックスである。
しかし、レトロな風景の残る田舎を舞台に、心に傷を負った子供、そして妖怪という組み合わせは、言わば日本型ファンタジーの鉄板であり、どうしても過去に作られたいくつもの作品、「となりのトトロ」「河童のクゥと夏休み」「ミヨリの森」そしてもちろん瀬戸内がモデルという共通項を持つ「崖の上のポニョ」などと重なり、既視感に繋がってしまっている事は否めない。
ただ、本作の場合はそれも含めて王道の安心感に繋がっており、必ずしもネガティブな要素ではないだろう。
所々、丁寧過ぎてやや冗長になってしまっている部分もあるが、これは“日本の家族”に観て欲しい愛すべき作品である。
今回は、嵐がクライマックスになる映画なので、広島の相原酒造の「雨後の月 真粋大吟醸 」をチョイス。
純和風テイストのファンタジー映画の後は、美味しい日本酒と瀬戸内の山海の幸をいただきたくなる。
幾つものフルーツが複雑に組み合わさった様な芳醇な吟醸香は、正に日本の自然の豊かさを象徴するかの様だ。
今年の夏は瀬戸内にでも旅行に行こうかな。

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突如として太平洋上に現れた、宇宙からの侵略者と人類の戦いを描く海洋SFアクション。
丁度本作の前に、「ジョン・カーター」を観ていたので、映画がはじまったらまたジョン・カーターが出てきてビックリ。
しかもかなりバカそうになって(笑
いや、2本のSF大作に主演するテイラー・キッチュ演じる主人公のキャラクターだけでなく、今回は侵略してくるエイリアンもかなりの大バカ者で、それが妙なユーモアに繋がっているのがミソ。
監督は「ハンコック」のピーター・バーグ、脚本は「レッド」のジョン・ホーバー、エリック・ホーバーのオリジナル。
メカ、バトル、友情以外は一切なし、細部には突っ込みどころ満載のジャンル・ムービーなれど、これはなかなか楽しめる。
人類の運命を担うのは、アメリカ海軍と我らが海上自衛隊だ。
※クライマックスに触れています。
ハワイ、パールハーバーの沖合にレーダーに映らない奇妙な物体が浮上。
折りしも同海域ではアメリカとその同盟国海軍による環太平洋合同軍事演習、リムパックが行われていた。
艦隊の司令官シェーン提督(リーアム・ニーソン)は、演習に参加していた駆逐艦サンプソンとその僚艦、ジョン・ポール・ジョーンズ(JPJ)、海上自衛隊の護衛艦みょうこうに調査を命じる。
ところがJPJの戦略行動士官のアレックス(テイラー・キッチュ)が、その物体に触れた瞬間、突如としてエイリアンの巨大な戦闘艦が姿を現し、未知の兵器で攻撃をしかけてくる。
サンプソンとみょうこうは撃沈、エイリアンの張ったバリアーによってハワイ周辺が封鎖され、孤立無援の状態に陥ったJPJはアレックス指揮の元、エイリアンに反撃を開始する・・・
人類が地球外生命を探すために宇宙に放った電波を辿り、本当にエイリアンがやって来るが、彼らは友好的な訪問者ではなく、地球侵略を狙う好戦的な種族の先遣偵察隊。
本格的な侵略を文字通り水際で防ぐため、強力な武器を持つ彼らを倒し、母星から援軍を呼ぶのを阻止するというのが本作の骨子だ。
当初飛来したエイリアンの艦隊は五隻だったのだが、地球到着直前に肝心要の通信船を人工衛星との衝突事故で失ってしまう。
おーい、人類のスペースシャトルやISSですら大きなデブリとの衝突はレーダーで感知して避ける様になってるんだけどなあ(笑
いかにエイリアンと言えど、たった四隻で全人類を相手には出来ないので、彼らは自分たちを呼び寄せた、人類の電波基地のあるハワイ沖に着水する。
通信船の代わりに、基地を占領し母星と通信しようというのだ。
そのために彼らは、ハワイ周辺をバリヤーで覆い、外部からの干渉を遮断する。
リムパックの為に出港していた多国籍艦隊はバリヤーの外側で手出し出来ず、地上基地の戦力も奇襲攻撃を受けて壊滅、エイリアンの陰謀を阻止出来るのは、調査の為に彼らに接近していた日米三隻のイージス艦のみというわけである。
刻一刻とエイリアンの通信準備が進む中、洋上のエイリアン戦闘艦とイージス艦の戦いに、陸上の別働隊のドラマが交錯し、スリリングに展開する。
本作がユニークなのは、基本的にエイリアンも偵察隊なので、地球人の情報を十分に持っているわけではないという事だ。
相手を知らないのはお互い様で、過去のSF映画に登場した宇宙からの侵略者たちの様に、圧倒的な力の差を見せ付けて問答無用で攻撃して来る様なことはしない。
序盤はお互いの腹の内、戦力や技術を探り合っている様な状況で、エイリアンの妙に慎重な行動は人間臭く、実際に宇宙服の様なスーツを脱がせると、人間に似た風貌なのもリアリティを感じさせる。
彼らの使用する兵器も、いかにもSF的なビーム兵器の類は登場せず、敵に打ち込まれると時間差で爆発を起こす曲射砲の様な砲弾と、スティーブン・キングの「ランゴリアーズ」に出て来る“時間を食べる怪獣”を思わせるデザインの、全体が球形のノコギリみたいな武器程度。
敵のメカデザインは、同じハズブロ社の「トランスフォーマー」と若干被るのだが、技術レベルが人類サイドとそれほどかけ離れてはおらず、これならオートボッツ軍団の援軍が無くとも、人間だけでも工夫すれば勝てそうだなと思わせる匙加減が絶妙だ。
もっとも、腐ってもエイリアンなので、とりあえず三隻のイージス艦のうち、主人公アレックスの兄、ストーンが指揮を執るサンプソンは秒殺され、ストーンも戦死。
海上自衛隊のみょうこうも被弾して撃沈されてしてしまうが、浅野忠信演じる艦長のナガタらはJPJに救助され、敵の射程外にひとまず撤退する。
本作では、不良軍人のアレックスと最初は反目し合っているナガタが、戦いの中で徐々に信頼と友情で結ばれるのがドラマの軸になっていて、浅野忠信もアンサンブルキャストの中でテイラー・キッチュに次ぐ準主役のポジションを得て大活躍だ。
もともと、イージス艦はその強力なレーダーで遠距離から敵を補足し、ミサイルで攻撃する事を任務とする防空艦だが、今回の敵はレーダーに映らない。
最大の武器を封じられた状態で、未知の敵と戦う羽目に陥ってしまうわけだが、この状況をブレイクスルーするのが、ナガタの発案する地震国日本ならではの驚きの作戦だ。
実は、この映画の元ネタになっているのは、昔懐かしいハズブロの古典ボードゲーム「BATTLESHIP(軍艦ゲーム)」なのだが、これは垂直のパネルを挟んで対峙し、相手に見えないようにパネルの座標に軍艦を置き、お互いに相手の座標を予測して攻撃するというゲームである。
「トランスフォーマー」と違って、本作の場合ビジュアルから元ネタを想像する事は殆ど無いのだが、唯一この作戦のシーンだけは「おお、これは軍艦ゲームだ!」と思わせる物になっている。
さて、本作のタイトルは「バトルシップ(戦艦)」だが、エイリアンと対峙する日米のイージス艦はいずれもデストロイヤー(駆逐艦)である。
「バトルシップじゃないじゃん」と心の中で突っ込んでいると、終盤に観客の度肝を抜く展開が待っている。
敵三隻を撃破したものの、エイリアンの母艦は健在、対する人類サイドは最後に残っていたJPJを失い、万事休すかと思われた時、タイトルロールの“バトルシップ”は意外な所から登場する。
「もう船がない」と諦めムードのナガタらに対して、「船はある」とアレックスが指差す先にあるのは、記念艦としてパールハーバーに係留されているアイオワ級戦艦ミズーリだ。
第二次世界大戦下で建造されたアイオワ級は、日本海軍の大和・武蔵と並ぶ史上最大の戦艦で、長くアメリカ海軍の象徴として世界の海に君臨して来たが、湾岸戦争後に全艦退役している。
パールハーバーのミズーリは、日本が降伏文書に調印した艦としても知られ、甲板上にその記念プレートが埋め込まれているアメリカ合衆国の“史跡”でもあり、歴史の教科書で読んで名前を覚えている人も多いだろう。
20年も前に役目を終えた艦をいきなり動かすなんて、まあ冷静に考えたら無理なのだろうが、そこはマンガ、いや映画。
今や構造を知る者すらいないこの恐竜を動かすために、退役軍人の爺さんたちが、わらわらと集まり、“マイティ・モー”の愛称で親しまれた巨艦が息を吹き返すシーンは、アメリカ人にはたまらないだろう。
実際には絶対不可能だが、映画なので速射砲並みの発射速度で巨大な16インチ砲をぶっ放すミズーリに対し、敵の大型母艦はイージス艦を秒殺した例の砲弾を、雨あられと降らせるのだが、基本的に装甲を持たない現在の軍艦と違い、もともと大和と撃ち合う事を前提に作られた艦である。
ちょっとやそっと被弾しても、戦闘力は奪われない。
まさかSF映画で古の戦艦の砲撃戦を観るとは思わなかったが、古きが新しきを征する展開は豪快にして痛快。
大バカ映画のクライマックスとして大いに盛り上がった。
しかし、日本が降伏した戦艦に、日米の軍人が共に乗り組み、パールハーバーで世界を救う戦いを繰り広げるのだから、政治的な見方をすればかなり意味深な映画である。
まあ、実際にはアレックスとナガタのようにいがみ合った関係から、戦後信頼を積み上げてきた日米のシーマンシップに、海軍をリスペクトする作り手が素直にエールを贈ったものだろう。
余計な事は考えずに、頭を空っぽにして楽しむのが正解だ。
今回は、舞台となるハワイのビール「コナ ビッグウェーブ・ゴールデンエール」をチョイス。
ビールは案外土地柄のでる飲み物だが、これもやはりハワイで飲むのが一番はまる。
フルーティでまろやかな味わいの優しい印象のエールだ。
ラベルのヤモリはハワイ諸島で良く見かけるモチーフで、幸運をもたらしてくれるシンボルとされている。
ハワイにヤモリがいっぱいいたから人類は勝てたのかも?

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「アーティスト」は、1920~30年代のハリウッドを舞台に、トーキーに対応できず、時代に忘れられてゆく主人公と、反対にその声を武器にスターダムを駆け上がってゆく若き女優の絆を描いた物語だ。
画面は今や殆ど作られなくなった白黒スタンダード、そして音声は基本音楽のみのサイレント・スタイルで、徹底的に当時の映画のムードを再現するために、撮影では(当時まだ存在しなかった)ズームレンズを一切使用しなかったという。
21世紀の映画人たちによって作られた、80年前のハリウッドに対する大いなるオマージュは、実にロマンチックでチャーミング。
まるで小さな宝石箱の様な、愛すべき作品となった。
※ラストに触れています。
1927年のハリウッド。
サイレント映画の大スター、ジョージ(ジャン・デュダルジャン)は、ある時才気溢れる女優志望の若い女性、ぺピー(ベレニス・ベジョ)と出会い、彼女の映画界入りを後押しする。
やがて、ハリウッドはトーキーの時代を向え、無声映画の芸術性に固執するジョージは、時代に忘れられて没落して行く。
妻は去り、住む家を追われ、絶望したジョージは、自ら命を絶とうとするまで追い詰められてしまう。
一方、トーキーの波に乗って、一躍トップスターになっていたぺピーは、自分を見出してくれたジョージの才能を信じ、どん底の彼を救おうとある行動に出るのだが・・・
映画は、19世紀の写真技術をベースに、別系統の技術であるアニメーション機械の原理を取り込みながら、複数の人々が徐々に完成させていった芸術である。
このため、映画の発明者は誰かという問題に関して、長年アメリカはキネトグラフ・キネトスコープを発明したエジソンだと主張し、フランスではスクリーンに初めて上映したリュミエール兄弟だと主張してきた。
近年では、アメリカでもハードの発明者はエジソンだが、それを映画という表現として完成させたのはリュミエール兄弟だと認められる様になっているが、いずれにしても映画の黎明期においてこの二つの国が果した役割は決定的だった。
それから一世紀以上が経過した今年、アメリカ最高の映画の祭典であるアカデミー賞では、二つの映画の故郷が全く異なったスタイルで、お互いの歴史に対してエールを交換する様な不思議な偶然が起こった。
マーティン・スコセッシが監督した「ヒューゴの不思議な発明」は1930年代のパリを舞台に、忘れられた“最初の映画監督”メリエスの再発見をファンタスティックに描いた、ハリウッド製フランス映画。
デジタル技術を全面に押し出し、立体映画として完成した「ヒューゴ」は、言わばスコセッシ流の映画の再発明であり、古の映画人たちに対するロマンチシズムと、彼らの持っていた冒険精神の継承を宣言した様な先鋭的な作品だった。
対してフランス人のミシェル・アザナヴィシウス監督は、21世紀の現代にあえてサイレント映画を再現するという奇策に出た。
こちらは、サイレントからトーキーへと、映画という芸術の手法が大きく変わった1920~30年代のハリウッドを舞台にした、フランス製ハリウッド映画である。
自身もシネフィルであるアザナヴィシウスは、300本以上のサイレント映画を観て表現を研究したらしいが、スタンダードサイズの画面の隅々まで拘って再現されたサイレント映画の世界は、本当に80年前に撮影されたと言われたら信じてしまいそうな位の見事な出来栄え。
アメリカの映画人たちが、スコセッシの意欲作ではなく、こちらをオスカーに選んだ気持ちも何となくわかる。
これは、ハリウッド映画をこよなく愛するフランス人から届いたラブレターの様な作品で、こんな狂おしいまでのハリウッドLOVEを、外国の映画人たちによって告白されたら、そりゃあ賞の一つもあげたくなるだろう。
サイレント映画、と言っても正確には無声映画なので音楽は存在するが、改めて劇場のスクリーンでこの種の映画を観ると、いかに現在の映画が音声の力に頼っているかが良くわかる。
登場人物の台詞には重要な部分には字幕が出るのだが、それ以外の部分は想像するしかなく、なんと言っているかの解釈は観客それぞれに任されており、イマジネーションを刺激されるのだ。
台詞がない分、映像で説明しなければならないインフォメーションをどう表現するかも工夫が凝らされており、それらがまた過去の名作へのオマージュたっぷりに表現されてゆくのだからたまらない。
ジョージに憧れるぺピーが、初めてエキストラの仕事を得た時、二人がお互いを誰だか認識しないままセットの壁越しにタップの応酬をする印象的なシーンは、ぺピーが才能豊な事と二人の間ある運命的な絆を感じさせ、尚且つ終盤への伏線にもなっている。
また映画会社の階段で二人が再会するシーンでは、トーキーの時代になって落ち目のジョージは階段をゆっくりと下り、反対に新たなスターになったぺピー文字通りに駆け上がるという様に、状況を映像が比喩的に描写してゆくのだ。
更に映像だけではなく、例えばトーキーの脅威に怯えるジョージの心情を表現するのに、夢のシーン限定で効果音を入れるあたりの音響演出もなかなか面白いアイディアだ。
台詞という映画にとって非常に重要な武器が制限される故に、それ以外の要素が言葉を持たねばならないのである。
ストーリー的には、ごくごくシンプルなメロドラマだ。
新しい時代の波に抵抗し、没落してゆくジョージの人生を軸に、スターダムを駆け上がる若きぺピーの人生を交錯させることで、彼らの運命が力強い葛藤を作り出すのだが、アザナヴィシウスは更に登場人物と映画史をリンクさせる事で、本作を映画の神話として物語ろうとする。
ジョージは滅び行くサイレント映画、ぺピーは勿論トーキーだ。
そして、古きよきハリウッドを愛するアザナヴィシウスは、没落したジョージをそのまま歴史の彼方に消し去るような事はしない。
映画史的に言えば、トーキーは勿論その前にサイレントがあってこそ生まれた物である。
新しい表現が生まれると、古きスタイルは忘れ去られてしまうものだが、実はその中にも応用する事によってまったく新しい表現に生まれ変わる要素が隠れている事がある。
トーキーの時代にあって、サイレントのスターが戦える要素、それは言葉によらない体全体を使った力強い表現だ。
ジョージとぺピー、すなわちサイレントとトーキーの再会から、一気にミュージカルの誕生に持ってゆく鮮やかなストーリーセンスには、思わず膝を打った。
ダグラス・フェアバンクスをイメージして造形されたという主人公、ジョージを演じたのは、本作でフランス人として初めて、アカデミー主演男優賞を受賞した ジャン・デュダルジャン。
彼と運命的な出会いをするぺピーを、ベレニス・ベジョが演じる。
アザナヴィシウス監督婦人でもある彼女は、さすがに素晴らしく魅力的に撮られており、一気に人気者になるという劇中の設定も納得。
情感たっぷりの二人の演技は、本作の大きな見所の一つだ。
何でも監督は、言葉を封じられた俳優のエモーショナルな演技を引き出すために、セットで音楽を流し続けたと言うが、その目論見は成功したと言って良いだろう。
フランス人の二人の周りを、ジェームズ・クロムウェル、ジョン・グッドマンといったハリウッドのベテランが固める。
そして忘れてならないのは、ジョージの愛犬役として人間以上の大活躍を演じ、本作でカンヌ映画際のパルム・ドッグ賞を受賞したアギー!
私は熱烈ネコ派なのだけど、正直本作を観るとイヌの魅力にノックアウトされそうになった。
動物プロダクションにはそれなりに芝居するネコもいるけど、さすがにこの演技は無理だ(笑
思うに、「アーティスト」はアイディア賞的な一本であって、今後多くの映画に影響を与える様な作品ではないだろう。
しかしそれは、本作が重要な作品では無いという事を意味しない。
この21世紀の素敵な無声映画は、ロマンチックな映画への愛と、過ぎ去った時代へのノスタルジー、胸躍るエンターテイメントに溢れている。
この作品を一発屋と捉える事は簡単だが、少なくともこの一発は映画が発明されて117年、トーキーになってから83年間、誰も打ち上げる事が出来なかった、奇跡の一発なのである。
因みに、現代にあえて白黒サイレント映画を作り、それを映画史に絡めるという構造自体は、実は林海象監督の日本映画「夢みるように眠りたい」が四半世紀前にやっている。
こちらは、未完に終わったサイレント映画のラストシーンを探す探偵の物語で、映画史へのスタンスの違いを含めて、本作と観比べてみてもなかなか面白いと思う。
こんな華やかな映画には、やはりスパークリング。
それもハリウッドのあるカリフォルニアではなく、あえて本作のオリジンたるフランスはシャンパーニュを選ぼう。
モエ・エ・シャンドンの「ロゼ・ブリュット・アンペリアル」をチョイス。
柔らかなピンクの液体に繊細な泡が立ち、力強くもまろやかな味わいは、正にこの映画にピッタリだ。
シャンパンに舌鼓を打ちながら、古の映画のロマンに浸りたい。

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イランの鬼才アスガー・ファルハディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」に続いて、驚くべき作品を作り上げた。
物語の中心にいるのは、二組のごく普通の夫婦である。
一方の夫婦に生じた離婚の危機が、やがてもう片方を巻き込んで、泥沼の“おとなのけんか”に発展してゆく。
基本的には、世界のどこの国で起こっても不思議ではない普遍的な物語で、そこにイスラムへの信仰というイランならではのスパイスが加わり、ジワジワと効いてくる。
本年度の米アカデミー賞最優秀外国語映画賞を、イラン映画として史上初めて受賞した他、ベルリン国際映画祭金熊賞、セザール賞、ナショナル・ボード・オブ・レビューなど、全世界の映画賞を席巻したのも納得の、傑作人間ドラマである。
※ラストに触れています。
テヘランに住むシミン(レイラ・ハタミ)とナデル(ペイマン・モアディ)の夫婦は、現在離婚調停中。
理由は娘のテルメー(サリナ・ファルハディ)の教育を海外で受けさせようと、移住を計画してきたシミンに対して、アルツハイマーの父を抱えるナデルが、テヘランに留まると言い出した事。
夫婦の間で話し合いはつかず、業を煮やしたシミンは家を出て行ってしまう。
困ったナデルは、信心深い女性のラジエー(サレー・バヤト)をヘルパーとして雇うのだが、ある日ナデルが帰宅すると父親がベッドに縛られたまま意識を失っており、ラジエーの姿はどこにも見えない。
怒り心頭のナデルは、しばらくして平然と帰って来たラジエーを手荒く追い出す。
ところが、その夜にラジエーは流産し、ナデルは妊婦を暴行したとしてラジエーと夫のホジャット(シャハブ・ホセイニ)によって告訴されてしまう・・・
ファルファディの前作「彼女が消えた浜辺」は、極めてユニークな心理劇だった。
カスピ海沿岸の別荘にやって来た男女八人と子供三人。
楽しいはずのバカンスの予定は、やがて一行の中にいたエリという女性の失踪を切っ掛けにして、あらぬ方向に迷走し始める。
登場人物は一様に中流層に属するごく普通の人々だが、たった一つの善意の嘘が更なる嘘を呼び、普段は決して表に出ることのない、人間たちの深層意識が暴かれてゆくスリリングな展開に全く目が離せなかった。
本作の構造も基本的には前作を踏襲しているが、人間関係を二組の夫婦に絞り、ある種の法廷劇とすることで、語り口はよりシンプルかつ洗練された。
物語の発端は、シミンとナデル夫婦の子育てを巡る離婚騒動だ。
一人娘によりよい教育環境を与えるために、海外移住したい妻のシミンと、アルツハイマーを煩った父を抱え、慣れない環境へ踏み出す事を躊躇する夫のナデル。
どちらにも譲れない言い分があり、話し合いはずっと平行線のまま、裁判所にも夫婦で結論を出すようにと匙を投げられてしまう。
頑ななナデルに怒ったシミンは、家を出て実家に戻り、代わりに日中のヘルパーとして雇われたのがラジエーだ。
当たり前だが、イスラム教を国教とするイランにあっても、実際に宗教に対するスタンスは人それぞれ。
シミンとナデル夫婦は、それほど信心深い訳でもなさそうなのに対して、ラジエーが信仰に対して非常に敬虔であった事が、後の展開にジワリ、ジワリと効いてくる。
物語が大きく動くのは、ラジエーが父親を縛って無断外出していた事にナデルが激怒し、強引に家から追い出してからだ。
その夜、妊娠中だったラジエーが流産し、ナデルは彼女を突き飛ばしたとして告訴されてしまうのだが、今度はナデルもラジエーが父親を虐待したとして逆告訴する。
こうして、ナデルとシミン、ラジエーとホジャットという二組の夫婦が、それぞれの娘や関係者を巻き込んで、言った言わないの泥仕合を演じる事になる。
イランの司法制度はよくわからないが、おそらく映画で描かれているのは簡易裁判の様なものなのだろう。
弁護士を介在させずに、当事者同士が判事の前で直接主張をぶつけ合うのだから、わかり易い事はわかり易いが、ひたすら感情的なやりとりを繰り返す羽目になり、何時まで経っても結論は出ない。
この裁判の焦点は二つ。
一つ目は、果たしてナデルはラジエーが妊婦である事を知っていて、故意に突き飛ばしたのか。
もう一つは、何故ラジエーは父親を縛ってまで、無断外出をしたのかという疑問である。
ポイントとなるのは、告訴されているナデルとラジエーは、どちらもある理由から全ての真実を明かせないでいるという事。
ナデルは自分と家族の生活を守るために、ラジエーは深い信仰心のために、心に秘密を抱えているのだ。
それ故に、基本的には善意の行動が、ボタンの掛け違いの様に負の連鎖を呼び込んでしまうのだが、彼らの秘密は観客にとっても謎となり、本作は次第に人間の心を巡るミステリの様相を帯びてくる。
二組の夫婦の関係が拗れれば拗れるほどに、真実は尚更明かし難くなり、登場人物たちはいよいよどつぼに嵌ってゆき、何れにしても何らかの犠牲を払わなければ、事態の解決は不可能と言う所まで追い込まれてしまう。
そして、本作のあまりにもリアルなシチュエーションは、観客にも単なる傍観者たる事を許さない。
我々は何時しかスクリーンの内側に引き込まれ、まるで彼らの友人か親戚になったかの様な気分で、戸惑いながらも事態の行く末を見守っているのである。
ナデルは真実を告白するのか、ラジエーは果たして神を謀る事が出来るのか。
人々の葛藤は、123分の間張り詰めた緊張感を保ったまま人生の、いや人間の不可解を描き出し、結末に至って再び離婚調停の場へと回帰する。
離婚自体は認められたが、それは全ての葛藤の解決ではなく、今度は娘のテルメーが両親のどちらかを選ばねばならない。
ラジエー夫妻との訴訟で、それまで知らなかった両親の姿を目の当たりにしたテルメーは、果たしてどの様な決断を下すのか。
それは同時に、物語を体験した観客に投げかけられた問いでもあるのだ。
離婚劇から予期せぬ訴訟合戦へと巻き込まれるシミン役を、キアロスタミの「シーリーン」などで知られるレイラ・ハタミ、夫のナデルを「彼女が消えた浜辺」にも出演していたペイマン・モアディ、彼らと対立するラジエーとホジャット役を、サレー・バヤトとやはり「彼女が消えた浜辺」から続投のシャハブ・ホセイニが好演している。
そして本作で、大人たちの冷静な観察者となるテルメーを演じるのは、サリナ・ファルハディ。
イランでは、ある種のファミリービジネスとして、家族みんなが映画界で活動している例が多いが、彼女も苗字でわかる様に監督の愛娘だ。
これがデビュー作とは思えない、年齢以上にどっしりとした落ち着いた演技をみせ、本作におけるキーパーソンの役割を見事に果しているのだから末は大女優か大監督か。
それにしても、物語から余計な要素を削ぎ落とし、最低限の素材に絞って心のパズルを組み立てる様な、ファルハディのロジカルな作劇は見事だ。
人間の心が透けて見えるギリギリのキャラクター造形の妙、普遍的な葛藤を描きながら、イランという国でしか作り得ないローカル性は、この作家の大きな武器と言えるだろう。
イスラム原理主義体制下にあるイランでは、当然ながら表現の自由には大きな制約があり、ファルファディも本作の撮影中に、イランから亡命した映画人たちの国内復帰を望む発言をし、制作許可を一時取り消されるなどの圧力を受けたという。
しかし、どんな抑圧的な体制下にあっても、結局人間は本質的には同じである事を本作は雄弁に物語っている。
思うに、ペルシャ湾情勢が風雲急を告げる今年、イランにとっては仇敵である米国の象徴たるハリウッドから、本作にアカデミー賞が贈られた意味は大きい。
イラン、あるいはイスラムという言葉に、何らかのステロタイプ的なネガティブイメージを持っている人は、是非ともこの映画を観るべきだ。
国家のあり様とは別次元に、映画に登場する個々のキャラクターは、どこにでもいる普通の人々であり、映画を観た誰もが、彼らの頭上に爆弾を降らせる事を躊躇するだろう。
今回は恐ろしくリアルな映画だったので、むしろ観賞後に夢を観たい。
東京全日空ホテルの、とてもロマンチックなカクテル「ペルシャの夜」をチョイス。
ドライジン25ml、ブルーキュラソー15ml、アップルジュース25ml、レモンジュース1tspをシェイクし、フルート型グラスに注いで、トニックウォーターで満たす。
さらにパルフェ・タムール2tspを加え、三日月にスライスしたレモンを添えて完成。
砂漠を照らす青い月光をイメージしたとても美しいカクテルで、フルーティで飲みやすい。

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「スーパー・チューズデー~正義を売った日~」は、俳優としてだけでなく、映画監督としても非凡な才能を発揮する、ジョージ・クルーニーの四本目の監督作品。
原作は、2004年の民主党大統領予備選に立候補したハワード・ディーンの選挙スタッフだったボー・ウィリモンが、その経験を元に着想した戯曲「Farragut North」で、選挙の舞台裏を背景に、若き選挙参謀が直面する葛藤を描く、ポリティカル・サスペンス映画だ。
クルーニーは大統領候補の州知事を演じ、主人公には「ドライヴ」などで最近大活躍のライアン・ゴズリング。
フィリップ・シーモア・ホフマン、ポール・ジアマッティ、マリサ・トメイなど渋い演技派ががっちりと脇を固め、クルーニーらしい堅実な作品世界を支える。
折りしも現実の大統領選に突入した今年、その裏側に蠢く人間模様を垣間見るかの様な本作は、エンターテイメントとしても上々の出来栄えだ。
民主党の大統領候補を選ぶ天王山、オハイオ州の予備選投票日が迫っていた。
有力候補のマイク・モリス(ジョージ・クルーニー)を支えるのは敏腕選挙参謀のポール・ザラ(フィリップ・シーモア・ホフマン)と若き懐刀のスティーヴン・マイヤーズ(ライアン・ゴズリング)。
ある時、スティーヴンは、対立候補のプルマン陣営の選挙参謀、ダフィ(ポール・ジアマッティ)から極秘の面会を打診される。
一度は断ったものの、ダフィの押しに負けて面会したスティーヴンは、彼の目的が自分の引き抜き工作である事を知る。
だが、仕事以前に政治家としてのモリスに心酔していたスティーヴンは、裏切る事は出来ないと固辞する。
ところがスティーヴンは、肉体関係にあるインターンの学生、モリー(エヴァン・レイチェル・ウッド)が、以前モリスとも関係を持ち、彼の子を妊娠している事を知る。
スティーヴンは、秘密裏にモリーに妊娠中絶させるが、ダフィとの面会がなぜかゴシップ記者のアイダ(マリサ・トメイ)にリークされ、忠誠心を疑ったポールに首を斬られてしまう。
絶望したスティーヴンは、自分だけが知る“切り札”を手に、モリスとポールへの復讐を決意するが・・・
簡単に言えば、夢も希望も実力もあり、政治への真摯な情熱も持っている若者が、選挙戦の虚々実々の駆け引きを通じて、どんどんとダークサイドに転落してゆく話である。
とは言っても、この映画には国家機密に関わる大げさな陰謀とか、いかにもハリウッドが好みそうな巨悪の存在は無い。
此処に描かれるのは、人間誰もが持つちょっとした虚栄心や欲望によって、国家や社会の礎になるべき政治の大儀が、いとも簡単に妥協され、破壊されて行く様だ。
御存知の方も多いだろうが、アメリカ大統領選挙は大変な長丁場だ。
選挙の仕組みも複雑で、実際の大統領選の前に、二大政党である民主党と共和党の内部で予備選を戦い、党の公認候補の座を勝ち取らなければならない。
予備選では、全米50州とコロンビア特別区、一部海外領土に一定の数の代議員が割り振られており、有権者はそれぞれの候補者の支持を宣言している代議員を選ぶ仕組みだ。
この予備選の期間は通常2月から6月の四ヶ月間に及び、最終的に自分を支持する代議員を一番多く獲得した候補者が、夏に行われる党大会で正式に党公認候補となり、本番の大統領選への挑戦権を獲得する。
しかも予備選の規定は州によって異なるので、各州の制度に応じた細やかな選挙戦略が必要になり、予備選の投票が始まると毎週の様に悲喜交々の人間模様が繰り広げられる。
だからアメリカ大統領選挙は、実にドラマチックでスリリング。
下手な映画では太刀打ち出来ないほど面白く、大統領選挙の年は、ハリウッド映画の客入りが悪くなると言われている程だ。
本作の主人公のスティーヴンは、そんな生き馬の目を抜く政治の世界で、若くして有力候補のスピーチライターを任されるほどのやり手。
それだけでなく、彼は仕事としては勿論だが、何よりもモリスの掲げる政治的な大儀に心酔し、安易に妥協しない性格も尊重している。
そんな出来る男が、呆気なく理想を捨てて、ぶっ壊れてゆく物語のキーは二つ。
一つ目は、対立候補の選挙参謀、ダフィとの面会に応じた事。
ダフィの引抜を断った事で、スティーヴンは問題無しと判断してしまうのだが、実はこの面会自体がダフィの仕掛けた罠だったのである。
スティーヴンのボスであるポールは、長年魑魅魍魎蠢く選挙の世界で生きてきて、唯一つ信奉する概念が“忠誠心”と言う男である。
百戦錬磨のダフィにとっては、スティーヴンが申し出を受け入れれば自陣営に取り込み、たとえ断られても自分と会ったという情報をリークする事で、ポールがスティーヴンに不信感を持ち、解雇することは想定内だったのだ。
もう一つは、尊敬していたモリスが、事もあろうにインターン学生を酔わせて手を出し、妊娠させてしまった事。
スティーヴンは、最初選挙戦へ影響を与えないため、秘密裏にモリーに堕胎させるのだが、スティーヴン自身が解雇されてしまった事によって、この件は彼だけが知る切り札となるのである。
そして、スティーヴンが自暴自棄になって、自分とモリスの関係を暴露するのではと恐れたモリーが、自ら最悪の道を選んでしまうと、スティーヴンはいよいよ絶望し、ダークサイドで生きる覚悟を決める。
こうして、合衆国という世界最強の国家の権力の行方は、 ダーティな権謀術数によって、キャリアを奪われ、馬鹿げたセックススキャンダルによって、政治に抱いていた高潔な大義という夢にも幻滅した、たった一人の若者に握られてしまうのである。
もちろん、この映画はフィクションだし、作劇上のご都合主義など、リアリティを欠く部分も多い。
だが、本来大局的な大義によって行われるべき政治が、それに関わる人間たちのパーソナルな事情によってどんどんと矮小化されてしまうという描写は、現実の政治の世界をマスメディアを通して外から眺めるだけの庶民から観ても、それなりの説得力を感じざるを得ない。
選挙スタッフの引き抜き合戦は実際には行われているし、セックススキャンダルも、選挙戦の最中の話ではないが、明らかにクリントン時代のモニカ・ルインスキー事件を皮肉っている。
冒頭のシーンでの、スティーヴンのまだ希望を感じさせる目と、対になるように構成されたラストシーンの、夢も希望も失って、まるで死んだ魚の様な彼の目は、“政治の闇”とはイコール“人間の闇”である事を雄弁に物語るのである。
映画で描かれているのは民主党の予備選の設定だが、通常一期目の政権党は再選を目指すのが原則なので、今年行われる現実の大統領選挙では、民主党の公認候補はオバマ大統領で事実上決まっている。
対する共和党の予備選は稀に見る大混戦で、決着するまでにはまだ紆余曲折ありそうだ。
ちょうど先月には、映画の舞台となったオハイオ州予備選が行われ、ネガティブキャンペーンが飛び交う中、ロムニー氏が辛くも勝利した。
まあ誹謗中傷もやり過ぎは如何なものかと思うが、世界一の権力者の候補者が、本当に下ネタの揉み消しで決まっていない事を願わんばかりである。
今回は勝利の時に開けたい、カリフォルニアはアンダーソンヴァレー産のスパークリング「シャッフェンベルガー・ブリュット/カリフォルニアスパークリング」をチョイス。
これは長い長い選挙戦を戦い抜いた者だけが主となれる、ホワイトハウスのディナーでもしばしば提供される、アメリカを代表するスパークリングの一つ。
相対的に値段は高めだが、同程度のシャンパーニュに比べれば遥にコストパフォーマンスは高い。
果たして、次にこの酒をホワイトハウスで振舞うのは一体誰になるのだろうか。

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昨年夏、口コミが口コミを呼ぶ形で予想外の大ヒットとなり、全米で四週連続NO.1に輝いた「ヘルプ~心がつなぐストーリー~」が漸く日本公開。
舞台となるのは、まだまだ人種差別の激しかった1960年代初頭の南部ミシシッピー。
タイトルの“ヘルプ”とは、白人家庭で働く黒人のメイドたちの事で、同時に彼女たちの置かれた境遇からの“ヘルプ”の意味を掛け合わせた物となっている。
原作は映画の大ヒットもあって、実に1130万部も売れたと言うキャスリン・ストケットの同名小説で、ストケットとはミシシッピー州ジャクソンで育った幼少期からの幼馴染である、同郷のテイト・テイラー監督によって映像化された。
注目されたアカデミー賞では、オクタビア・スペンサーの助演女優賞のみに留まったが、アンサンブルキャストの素晴らしい演技が楽しめる、極めてクオリティの高い一本である。
公民権運動が勢いを増す、1960年代初頭。
大学を卒業して、ミシシッピー州ジャクソンの実家に戻ったスキーター(エマ・ストーン)は、故郷の人々が人種差別に何の疑念も抱かない旧態依然とした現状に陰鬱とした気分になる。
幼馴染の女性たちは、皆結婚して子供もいるが、裕福な白人家庭は“ヘルプ”と呼ばれる黒人メイドたちを雇って、子育てを彼女らに任せっぱなしにしている。
なのに、同級生のリーダーであるヒリー(ブライス・ダラス・ハワード)は黒人は不潔だと主張し、白人家庭の家の外に、メイド専用のトイレ設置を義務付ける法律の制定を呼びかけているのだ。
作家志望のスターキーは、メイドたちのホンネの証言を集めた本を書こうと思い立ち、友人のエリザベス(アーナ・オライリー)の家で働くエイビリーン(ビオラ・デイビス)に話を聞こうとするが、人種差別を告発する本に証言をする事は、南部では身の危険に晒される事を意味していた。
だが、ヒリーの家で働いていたミニー(オクタビア・スペンサー)が、家のトイレを使用して解雇され、証言を決意した事で徐々に人の輪が広がり始め、やがてスキーターの向こう見ずな行動は、田舎町に大騒動を巻き起こしてゆく・・・・
所謂南部バイブルベルトの中でも、ミシシッピーの保守性は筋金入りである。
嘗て南軍として南北戦争を戦ったこの州の州旗には、現在でも全米で唯一、南部連合の国旗“The Stainless Banner”がそのままのデザインであしらわれており、奴隷制の廃止を規定した合衆国憲法修正第13条を批准したのは何と1995年になってからで、50州の中で一番遅かった。
そんな土地柄だからこそ、ミシシッピーは公民権運動の最終目的地でもあり、最も激しい攻防の場ともなった。
1964年の夏、白人至上主義団体KKKのメンバーによって、活動家三人が殺害された事件は、アラン・パーカー監督の映画「ミシシッピー・バーニング」にも描かれたが、この事件によって盛り上がった国民的世論に押され、当時のジョンソン大統領は、ついに人種差別を禁じる公民権法を成立させるのである。
本作の舞台となるのは、正に公民権運動が急速に浸透しようとする1960年代初頭のミシシッピーの州都ジャクソン。
しかし、此処には激しい闘争や、政治的な駆け引きなどはない。
これはあくまでも日常の風景に根ざした、女性目線によるユーモラスでミニマルな、しかし勇気ある一歩を描いた物語だ。
主人公であるスキーターは、同級生が殆ど高卒で結婚し、家庭に入るのとは対照的に、大学で学び、作家を志す進歩的な女性として描かれる。
彼女にとっては、自分も自分の子供も黒人女性のメイドたちに育てられたのに、家のトイレすら使わせないという考え方があまりにも理不尽に感じられる。
きっと、メイドたちにだって心に秘めたホンネがあるはず、もしも彼女たちの境遇がそれを表に出す事を許さないなら、自分が本にして世間に問おう、そんな理想に燃えて執筆を試みるが、現実は甘くない。
当時のミシシッピーでは、その様な本を出す事自体が違法。
もしも証言者の身元がばれれば、単に解雇されるだけでなく、白人至上主義者の攻撃目標にされる事は必至で、最悪命の問題になってしまう。
さらに、メイドたちの多くは、白人からの差別という理不尽だけでなく、仕事がなく妻の稼ぎに頼る夫からの暴力にも晒されているのだ。
仕事を失えば、家の外にも中にも、彼女たちの居場所は無くなってしまうのである。
しかし、改めてそんな現実に直面したからこそ、スキーターは諦めず、やがて彼女はエイビリーン、次いでミニーから話を引き出すことに成功。
そして、ある事件を切っ掛けにして、多くのメイドたちが、今まで誰にも語った事の無いホンネを、スキーターに吐露し始める。
登場人物の殆どが女性、男性は言わば刺身のツマ状態だが、面白いのはそんな女性たちの中でも、特に白人のキャラクターがあえてステロタイプに造形されている事だ。
先進的な思想を持ち、理想主義者として描かれるスキーター、対照的にヒステリックな人種差別主義者のヒリー、そんなヒリーの取り巻きで、確固たる考えを持たず、流される事しかできないエリザベス、そして白人だが貧しい生まれで、ヒリーら裕福な白人コミュニティからは爪弾きにされ、痛みを知るが故に誰に対しても差別心を抱かないセリア。
彼女らは、当時の白人社会に存在した女性たちの特徴をカリカチュアさせた様なキャラクターで、それぞれの役割を持って物語り上に配置されている。
そうして記号化された白人たちと対比される事で、黒人メイドたちが人間的に生きるために、ブレイクスルーしなければならない差別という見えない壁の姿をクッキリと浮かび上がらせ、彼女たちのホンネがより深みを持って描かれるのである。
また、人物造形が単純化された事で、シリアスなテーマにも関わらず、生々しく成りすぎず、良い意味で漫画チックなユーモアに繋がり、物語をエンターテイメントとしてとっつき易くしている。
例えば劇中のキーになる“ウ○コパイ事件”など、ブライス・ダラス・ハワードがヒリー役を嫌な女っぷりMAXに演じているからこそ生きてくるし、大いに笑えるのだ。
監督・脚本のテイト・テイラーは、物語を通して“差別は何か”という点に対しても考察する。
実は、本作の敵役であり、(今日的な視点からは)人種差別主義者として描かれるヒリーは、自分自身がしている事を差別だと感じていない。
彼女は、過激な白人至上主義者たちを嫌悪し、自分は不潔な環境にいる黒人たちのために、お金をかけて立派なトイレを作ってあげる人格者だと思っている。
ここで浮かび上がるのは、差別だけに留まらず、虐待や苛めなど他者を虐げる者は、往々にして自分自身を悪魔だと思っておらず、ただ自らのコンプレックスから、無意識に相手を貶めているという事実だ。
明確なのは、差別とは差別する側から見たものではなく、あくまでも差別を受けた側によって定義されるべきだという事であり、この映画は単に半世紀前の歴史を寓話的に描いただけでなく、現代の我々にとっても“我が振り”を映し出し自問自答するための鏡であるという事である。
鏡に見えるのは、スキーターだろうか、それともヒリーだろうか。
更に、物語の終盤になると、キャラクターの役割が大きく異なってくる。
本作の語り部的なポジションにいたのは、本の著者であるスキーターだったが、いつの間にか物語はエイビリーンよって語られている。
いや、物語の主役自体、当初はスキーターだったのが、物語の終盤では彼女はアンサンブルの一人となり、映画の中心軸はエイビリーンに移り、彼女はそのまま物語にオチをつける役割をも担う。
これは映画を観ていると若干の違和感を残すのだが、それを承知で計算された物だろう。
スキーターは本を企画し、抑圧され物言わぬメイドたちから、秘められたホンネを引き出したが、その言葉はあくまでも彼女たちのものである。
劇中、エイビリーンの亡くなった息子が、「いつかクラーク家から作家が出る」と予言していたというエピソードが語れるが、一度解き放たれ自由な心は、もはや語ることを止める事は出来ないのだ。
映画は、少しビターな結末を迎えるが、エイビリーンが歩いて行く先に見えているのは、決して絶望ではなく、明らかな希望である。
人間の社会という物は、前進と後退を繰り返しながらも、長いスパンで見れば、着実に良い方向に進んでいるものだと思う。
この映画の時代、南部の黒人が自由を叫ぶ事は命がけだった。
半世紀後の2012年、映画の舞台であるミシシッピー州ジャクソンの市長は黒人のハーヴェイ・ジョンソン、そしてホワイトハウスの主もまた、黒人のバラク・オバマ大統領なのである。
実は何事も保守的なミシシッピー州は、人種差別が撤廃されるのも遅かったが、悪名高き禁酒法が撤廃されるのも全米で一番遅く1966年だった。
そのためか飲酒文化に関しても、言及される事の極めて少ない州でもある。
今回は、ミシシッピーはミシシッピーでも、ミシシッピー川の河口の町、ニューオーリンズが生んだ酒、サザン・カンフォートを使ったショットカクテル「ソコ・ライム・ショット」をチョイス。
サザン・カンフォート30ml、ライムシロップ10mlをシェイクして、ショットグラスに注ぎ、お好みでカットしたライムを添える。
夜の始まりを告げる景気付けの一杯だが、甘口で飲みやすい事もあって、酒を飲み慣れていない若者の間で大流行。
もし禁酒法時代のミシシッピーにこの酒があれば、もっと早く撤廃されていたかも?

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