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2012年05月31日 (木) | 編集 |
真夜中のパリは、不思議の街。
ウッディ・アレンが、自らもこよなく愛すパリを舞台に描くファンタスティックな寓話。
世俗的な仕事に嫌気がさし、小説家としての再出発を志す主人公、ギルが迷い込んだのは、世界中から文学・芸術の才能が集い、後の世で“狂乱の時代”とまで呼ばれる事になる1920年代のパリ。
ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ピカソ、ダリ・・・誰もが知る有名人たちとの交流を楽しみながら、自分の“黄金時代”は一体何処にあるのかを探すギルの葛藤に、アレンが得意とする恋のから騒ぎを組み合わせた軽妙な佳作である。
ハリウッドで成功した脚本家の地位を捨て、作家として処女小説の執筆に挑んでいるギル・ベンダー(オーウェン・ウィルソン)は、婚約者のイネス(レイチェル・マクアダムス)と共にパリ旅行へとやって来る。
ギルはパリに憧れ、住みたいとすら思っているが、イネスはアメリカ以外での生活など考えられないと取り合ってくれない。
偶然出会ったイネスの友人ポール(マイケル・シーン)たちと観光名所を巡るものの、ギルには教養人ぶったポールの態度が鼻持ちならず、一人でホテルに帰る事に。
ところが酔ったギルが道に迷い、真夜中の鐘がなると、どこからともなくクラッシックな車が現れて、彼をパーティへと誘う。
訳もわからぬままに、ギルが連れていかれた先は、芸術の花開く1920年代のパリ。
ギルはそこでヘミングウェイ(コリー・ストール)やガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)と出会い、ピカソの愛人だった美しいアドリアナ(マリオン・コティヤール)に心を奪われてしまうのだが・・・
構造としてはタイムスリップSFなのだろうが、そこはアレン。
普通この種の映画の主人公は、過去から未来へどうやって帰ったら良いのかと慌てふためき、歴史を変えてしまうのではというタイムパラドックスに悩むものだが、本作の場合SF設定はあくまでも状況を成立させるためで、面倒くさい理屈は完全スルー。
オーウェン・ウィルソン演じるギル自身も、彼と出会う過去の人々も、あっさりと奇妙な状況を受け入れ、お互い未知なる友人として語らい、いつしか毎晩タイムスリップするのが当然の様に振舞う様になる。
この緩い不思議話と寓話性が同居する物語に、私は何となく江戸落語のノリを思い出した。
例えば、創作に悩む江戸の若い戯作者が、闇夜の道中に狐狸に騙されて古の大作家と出会い、本来騙した相手が意図しなかった様な教訓を得る・・・などいかにも、古典物にありそうではないか。
ぶっちゃけ、そんなに深い話ではない。
仕事でも恋でも壁にぶつかっている主人公が、尊敬してやまない偉大な先人たちが活躍していた憧れの過去へと、束の間の旅をする。
そこで彼は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドと語らい、ガートルード・スタインに批評され、コール・ポーターの歌を聞いて、ジョセフィン・ベーカーの踊りに目を奪われ、ルイス・ブニュエルにアドバイスし、ピカソの愛人に恋をする。
「昔は良かった。きっと自分もその時代にいたら輝けたはずだ」という“黄金時代”への願望は、現状のモヤモヤを抱える人ならば誰でも考えた事があるだろうし、1920年代のパリというのはたぶんアレン自身が一番行ってみたい時代なんだろうと思う。
歴史上の大家が自分の小説を称賛してくれ、婚約者には感じた事の無い、恋の情念を燃え上がらせてくれる女性、アドリアナとも出会ってしまうのだから、ギルが過去に入り浸る気持ちも理解しやすい。
だが、その時代がいくら輝いて見えたとしても、過去は所詮過去なのである。
他人の芝は青く見えるという諺の通り、21世紀のギルが狂乱の20年代に憧れているのと同じく、その時代の人であるアドリアナは、20年代など退屈で19世紀末のベル・エポックが黄金時代と信じている。
すると再び真夜中のパリは、ギルとアドリアナに魔法をかけ、ベル・エポックの時代へといざなうのだ。
二人はそこでロートレックやゴーギャンと出会うのだが、ベル・エポックこそ理想の時代と言うアドリアナに対して、彼らはルネッサンス期こそ黄金時代だと力説するのである。
ここでギルは気付く。黄金時代願望は、過去への感傷に過ぎないのだと。
“今”という時代を退屈で閉塞した世界だと感じるからこそ、人は現状をブレイクスルーしようとし、その結果として偉大な創作が生まれ、後の世の人々がそこに黄金時代というレッテルを貼るのである。
どの時代に生まれようと、人は最初から黄金時代に生きる事は出来ないのだ。
この寓話的結論自体は、ありふれた話ではあるのだが、そこへ至るまでの組み立ては非常に上手い。
過去のパートは、観客に主人公と共に夢を見させる。
誰が見ても一目でわかる様に作り込まれた有名人のキャラクターに、時代を感じさせるゴージャスな美術、衣装はワクワクするファンタジー空間に説得力をもたらす。
そして対比されるのは、いかにもアレン的なシニカルさを持つ現代のパートだ。
ギルの心情を軸にして、二つの世界をバランスさせつつ巧みに絡み合わせ、物語を導いてゆく語り口はテンポ良く、さすがの見事さである。
ただ、ベルエポックのシークエンスで、全てのテーマを言葉としてギルに一気に喋らせてしまうのは、アレンが基本的に会話劇の人だという事を差し引いても少々性急に感じた。
ここはもう少し時間を使っても良かったように思う。
ちょっと面白かったのは、ギルがブニュエルに後に彼が撮る事になる「皆殺しの天使」のネタを提供するシーン。
この映画は晩餐会に集った人々が、何故か部屋から出られなくなるというシュールなコンセプトの一本で、ブニュエルの代表作にも数えられる傑作である。
映画のアイディアを話すギルに、ブニュエルが何度も「何で出られないんだ?理解できないよ」と問い直すのだが、ギルは答えない、というか答えられないのだ。
なぜなら「皆殺しの天使」に部屋から出られない理由は一切描かれておらず、その事がこの作品の解釈における長年の議論の的になっているからだ。
彼らの会話から、実はブニュエル自身も出られない理由は最初からわかっていなかったという事が示唆され、映画ファンを思わずほくそ笑ませるのである。
今回は、アドリアナと飲みたいフランス名産のリンゴの蒸留酒、ブラー社の「グランソラージュ カルヴァドス」をチョイス。
所謂アップル・ブランデーの一種だが、カルヴァドス県で作られる二年以内のシールドを蒸留して作られた酒のみが、カルヴァドスを名乗る事を許される。
豊かなリンゴの香りが最大の特徴だが、ブランデーと同じくある程度の歳月を経た物の方がマイルドなコクを味わえる。
若い物はカクテルベースにも良い。
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ウッディ・アレンが、自らもこよなく愛すパリを舞台に描くファンタスティックな寓話。
世俗的な仕事に嫌気がさし、小説家としての再出発を志す主人公、ギルが迷い込んだのは、世界中から文学・芸術の才能が集い、後の世で“狂乱の時代”とまで呼ばれる事になる1920年代のパリ。
ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ピカソ、ダリ・・・誰もが知る有名人たちとの交流を楽しみながら、自分の“黄金時代”は一体何処にあるのかを探すギルの葛藤に、アレンが得意とする恋のから騒ぎを組み合わせた軽妙な佳作である。
ハリウッドで成功した脚本家の地位を捨て、作家として処女小説の執筆に挑んでいるギル・ベンダー(オーウェン・ウィルソン)は、婚約者のイネス(レイチェル・マクアダムス)と共にパリ旅行へとやって来る。
ギルはパリに憧れ、住みたいとすら思っているが、イネスはアメリカ以外での生活など考えられないと取り合ってくれない。
偶然出会ったイネスの友人ポール(マイケル・シーン)たちと観光名所を巡るものの、ギルには教養人ぶったポールの態度が鼻持ちならず、一人でホテルに帰る事に。
ところが酔ったギルが道に迷い、真夜中の鐘がなると、どこからともなくクラッシックな車が現れて、彼をパーティへと誘う。
訳もわからぬままに、ギルが連れていかれた先は、芸術の花開く1920年代のパリ。
ギルはそこでヘミングウェイ(コリー・ストール)やガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)と出会い、ピカソの愛人だった美しいアドリアナ(マリオン・コティヤール)に心を奪われてしまうのだが・・・
構造としてはタイムスリップSFなのだろうが、そこはアレン。
普通この種の映画の主人公は、過去から未来へどうやって帰ったら良いのかと慌てふためき、歴史を変えてしまうのではというタイムパラドックスに悩むものだが、本作の場合SF設定はあくまでも状況を成立させるためで、面倒くさい理屈は完全スルー。
オーウェン・ウィルソン演じるギル自身も、彼と出会う過去の人々も、あっさりと奇妙な状況を受け入れ、お互い未知なる友人として語らい、いつしか毎晩タイムスリップするのが当然の様に振舞う様になる。
この緩い不思議話と寓話性が同居する物語に、私は何となく江戸落語のノリを思い出した。
例えば、創作に悩む江戸の若い戯作者が、闇夜の道中に狐狸に騙されて古の大作家と出会い、本来騙した相手が意図しなかった様な教訓を得る・・・などいかにも、古典物にありそうではないか。
ぶっちゃけ、そんなに深い話ではない。
仕事でも恋でも壁にぶつかっている主人公が、尊敬してやまない偉大な先人たちが活躍していた憧れの過去へと、束の間の旅をする。
そこで彼は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドと語らい、ガートルード・スタインに批評され、コール・ポーターの歌を聞いて、ジョセフィン・ベーカーの踊りに目を奪われ、ルイス・ブニュエルにアドバイスし、ピカソの愛人に恋をする。
「昔は良かった。きっと自分もその時代にいたら輝けたはずだ」という“黄金時代”への願望は、現状のモヤモヤを抱える人ならば誰でも考えた事があるだろうし、1920年代のパリというのはたぶんアレン自身が一番行ってみたい時代なんだろうと思う。
歴史上の大家が自分の小説を称賛してくれ、婚約者には感じた事の無い、恋の情念を燃え上がらせてくれる女性、アドリアナとも出会ってしまうのだから、ギルが過去に入り浸る気持ちも理解しやすい。
だが、その時代がいくら輝いて見えたとしても、過去は所詮過去なのである。
他人の芝は青く見えるという諺の通り、21世紀のギルが狂乱の20年代に憧れているのと同じく、その時代の人であるアドリアナは、20年代など退屈で19世紀末のベル・エポックが黄金時代と信じている。
すると再び真夜中のパリは、ギルとアドリアナに魔法をかけ、ベル・エポックの時代へといざなうのだ。
二人はそこでロートレックやゴーギャンと出会うのだが、ベル・エポックこそ理想の時代と言うアドリアナに対して、彼らはルネッサンス期こそ黄金時代だと力説するのである。
ここでギルは気付く。黄金時代願望は、過去への感傷に過ぎないのだと。
“今”という時代を退屈で閉塞した世界だと感じるからこそ、人は現状をブレイクスルーしようとし、その結果として偉大な創作が生まれ、後の世の人々がそこに黄金時代というレッテルを貼るのである。
どの時代に生まれようと、人は最初から黄金時代に生きる事は出来ないのだ。
この寓話的結論自体は、ありふれた話ではあるのだが、そこへ至るまでの組み立ては非常に上手い。
過去のパートは、観客に主人公と共に夢を見させる。
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ギルの心情を軸にして、二つの世界をバランスさせつつ巧みに絡み合わせ、物語を導いてゆく語り口はテンポ良く、さすがの見事さである。
ただ、ベルエポックのシークエンスで、全てのテーマを言葉としてギルに一気に喋らせてしまうのは、アレンが基本的に会話劇の人だという事を差し引いても少々性急に感じた。
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ちょっと面白かったのは、ギルがブニュエルに後に彼が撮る事になる「皆殺しの天使」のネタを提供するシーン。
この映画は晩餐会に集った人々が、何故か部屋から出られなくなるというシュールなコンセプトの一本で、ブニュエルの代表作にも数えられる傑作である。
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彼らの会話から、実はブニュエル自身も出られない理由は最初からわかっていなかったという事が示唆され、映画ファンを思わずほくそ笑ませるのである。
今回は、アドリアナと飲みたいフランス名産のリンゴの蒸留酒、ブラー社の「グランソラージュ カルヴァドス」をチョイス。
所謂アップル・ブランデーの一種だが、カルヴァドス県で作られる二年以内のシールドを蒸留して作られた酒のみが、カルヴァドスを名乗る事を許される。
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2012年05月26日 (土) | 編集 |
そこは、想い出の眠る場所。
川口雅幸が自身のサイトで発表し、口コミが口コミを呼びベストセラーとなった話題のファンタジー小説、「虹色ほたる~永遠の夏休み~」のアニメーション映画化。
主人公が迷い込んだのは、遠い昔に消えてしまったはずの、昭和の里山の世界だ。
時の輪に導かれる様にして出会った三人の少年少女が、不思議な夏休みを通して、生と死の意味を学び、淡い恋をして少しだけ大人になってゆく。
独特の映像もユニークで、老舗・東映アニメーションと「ONE PIECE」シリーズなどで知られる宇田鋼之介監督、渾身の力作である。
小学六年生のユウタ(武井証)は、一年前に交通事故で亡くなった父と、よく遊びに行った山奥のダム湖を夏休みに一人で訪ね、カブト虫を探して入った森で奇妙な老人を助ける。
帰り道、濁流に流され意識を失ったユウタが目を覚ますと、そこにはさえ子(木村彩由実)と名乗る女の子が立っていた。
ユウタの“いとこ”だと言うさえ子と、同い年の少年ケンゾー(新田海統)に導かれて向かったのは、30年以上前にダムに沈んだはずの村だった。
ユウタは1977年の世界にタイムスリップしてしまったのだ。
何の疑いもなく、自分を“孫”だというお婆ちゃんの家で、さえ子と暮らし始めるユウタの前に、あの老人が姿を現し、元の世界に帰るにはここで一ヶ月待たねばならないと告げる。
訝しみながらも、不思議な夏休みを過ごすユウタだったが、この世界にはまだ彼の知らない秘密があった・・・
東映アニメーションは、日本アニメ界随一の老舗スタジオである。
東映動画時代の1958年に、日本初のカラー長編アニメーション映画「白蛇伝」を世に出したのはよく知られているが、組織の前身は日本のセルアニメの父と呼ばれる政岡憲三らが1948年に設立した日本動画まで遡る。
手塚治虫は、東映の「西遊記」に参加した事でアニメ制作のノウハウを学び、後に虫プロを設立し、宮崎駿は「白蛇伝」を観てアニメ界に進路を定め、東映でそのキャリアをスタートさせた。
きら星の如くアニメ史を彩る、数多くの人材を輩出して来た、いわば日本アニメ界の保守本流である。
ところが、そんな大店の最新作が、何ともアバンギャルドな作家映画なのだから面白い。
いや別に物語や構成要素自体は、決して冒険的という訳ではない。
心に傷を負った子供とレトロな田舎の風景のコンビネーションは日本型ファンタジーのお約束であり、不思議ギミックが“妖怪”から“タイムスリップ”にかわっている以外、先日公開された「ももへの手紙」と大差ない。
ところが、上映が始まり、映像が動き出すと驚かされる。
まるでラフ画の様に荒々しい主線に、木炭やパステルで描いた様な影や光の表現、更にはオーバーアクトを感じさせる程に、演技し続けるキャラクター。
よくぞこのビジュアル表現でGOサインが出たものだ。
シャープな線とペタッとした彩色、あまり動かないキャラクターに慣れた目には、最初少しだけ違和感を感じるが、物語が進むにつれて、この手作り感溢れる手法が内容のピュアさにマッチして来るのである。
主人公のユウタが訪れた世界は、棚田の風景が美しい小さな山あいの村で、どうやら死ぬはずだった人間が再生される場所という役割を持っている様だ。
濁流に流されたユウタは、山の神様(?)と思しき老人に助けられ、もう一度現世で生きるために、この世界で一夏を過ごし、自らの生の意味を知る。
35年前には存在し、今はもうダム湖の底に沈んでしまった村は、いわば現世と常世の中間の世界だ。
タイトルになっている“虹色ほたる”とは、嘗て村が大旱魃におそわれた際に、どこからともなく現れて、村人を水源に導いてくれたという虹色に輝く不思議な蛍の群。
それ以来誰も見たものは無いが、この村は奇蹟の起こる特別な場所なのである。
ユウタは村の少年であるケンゾーたちとカブト虫をとって遊び、最後の村祭りの準備を手伝い、少し年下のさえ子にほのかな恋心を抱く。
それは、ちょっと懐かしい夏休みの情景そのままだが、子供たちの日常が非常に丁寧に描かれているので、ユウタとケンゾーの間に芽生える友情や、少し影のあるさえ子が、ユウタにとって少しづつ気になる存在になってゆく心の変化がしっかりと伝わってくる。
もちろん映画は観客をレトロな感慨に浸らせるだけでは終わらない。
物語が進むにしたがって、ユウタは自分とさえ子がある運命によって結び付けれられている事を知ってしまう。
実は、ユウタの父親が死んだのと同じ事故に、さえ子と彼女の兄も巻き込まれていたのだ。
2012年の現実世界で、体に決して治癒する事の無い障害を負ってしまった彼女は、既に常世の世界に旅立ってしまった兄との再会を切望し、自らの生に別れを告げるために、この世界で夏休みを過ごしているのである。
不幸な事故によって、共に大切な人を失ってしまったユウタとさえ子だが、恋するユウタ少年にとって、今何よりもかけがえのない存在なのはさえ子なのだ。
この世界を離れて、元の世界へと戻ると、全ての記憶は失われてしまうらしい。
それでも、生きて欲しい。
僅か数日という短い生涯の中で懸命に運命の相手を探す蛍の様に、必ずさえ子を探すと未来の誓いを立てるユウタの必死の説得に、さえ子も心を動かされる。
本作が、単なる子供向けの昭和レトロなファンタジーにとどまらず、大人たちの心の琴線をも刺激する切ない情感を持つのは、例えばメーテルリンクの「青い鳥」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などと同じく、少年少女のファンタジー空間を生と死の狭間と定め、生きる事への葛藤と答えがきちんと描かれているからだろう。
そして、虹色ほたるの本当の奇蹟は、生への勇気を取り戻したさえ子とユウタが再び出会う未来で起こるのである。
ダブルクライマックスともいえるこの辺りの展開は、観る人によってある程度評価が別れそうだ。
なぜならこの映画、冒険しているのはビジュアルだけではなく、全体に微妙なやり過ぎ感が漂うのも事実なのだ。
個人的には、未来のシークエンス自体は物語上の必然だと思うが、やや演出過剰で情感をスポイルしてしまっているし、駄目押しのエンドクレジット後の字幕などは正直蛇足だと思う。
しかし、まあそういう部分も含めて、作り手がこの作品に込めた創作の“熱”を感じさせるのも確かで、過剰だからダメという訳ではないのだけど。
ケンゾーと彼に思いを寄せる少女のその後がさり気なく描写されているのとか、観客の期待を裏切らない細かいサービス精神も嬉しかった。
色々な意味で、今時の日本の商業アニメーションのスタイルへの挑戦状の様な異色作であり、忘れられない作品となったのは間違いない。
今回は、石川県の吉田酒造の「手取川 夏 純米辛口」をチョイス。
いかにも北陸の酒らしい端麗でスッキリ、夏の蛍の様に涼しげな一杯だ。
手取川は嘗て「蛍川」と呼ばれるほど蛍の多い川だったそうで、今は再びその風景を再現しようと川の浄化と蛍の里作りが進められているという。
「蛍川」と言えば宮本輝の同名小説もあり、こちらは富山県のいたち川が舞台で1987年に須川栄三監督で映画化されたが、これも蛍と初恋に纏わる愛すべき佳作である。
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川口雅幸が自身のサイトで発表し、口コミが口コミを呼びベストセラーとなった話題のファンタジー小説、「虹色ほたる~永遠の夏休み~」のアニメーション映画化。
主人公が迷い込んだのは、遠い昔に消えてしまったはずの、昭和の里山の世界だ。
時の輪に導かれる様にして出会った三人の少年少女が、不思議な夏休みを通して、生と死の意味を学び、淡い恋をして少しだけ大人になってゆく。
独特の映像もユニークで、老舗・東映アニメーションと「ONE PIECE」シリーズなどで知られる宇田鋼之介監督、渾身の力作である。
小学六年生のユウタ(武井証)は、一年前に交通事故で亡くなった父と、よく遊びに行った山奥のダム湖を夏休みに一人で訪ね、カブト虫を探して入った森で奇妙な老人を助ける。
帰り道、濁流に流され意識を失ったユウタが目を覚ますと、そこにはさえ子(木村彩由実)と名乗る女の子が立っていた。
ユウタの“いとこ”だと言うさえ子と、同い年の少年ケンゾー(新田海統)に導かれて向かったのは、30年以上前にダムに沈んだはずの村だった。
ユウタは1977年の世界にタイムスリップしてしまったのだ。
何の疑いもなく、自分を“孫”だというお婆ちゃんの家で、さえ子と暮らし始めるユウタの前に、あの老人が姿を現し、元の世界に帰るにはここで一ヶ月待たねばならないと告げる。
訝しみながらも、不思議な夏休みを過ごすユウタだったが、この世界にはまだ彼の知らない秘密があった・・・
東映アニメーションは、日本アニメ界随一の老舗スタジオである。
東映動画時代の1958年に、日本初のカラー長編アニメーション映画「白蛇伝」を世に出したのはよく知られているが、組織の前身は日本のセルアニメの父と呼ばれる政岡憲三らが1948年に設立した日本動画まで遡る。
手塚治虫は、東映の「西遊記」に参加した事でアニメ制作のノウハウを学び、後に虫プロを設立し、宮崎駿は「白蛇伝」を観てアニメ界に進路を定め、東映でそのキャリアをスタートさせた。
きら星の如くアニメ史を彩る、数多くの人材を輩出して来た、いわば日本アニメ界の保守本流である。
ところが、そんな大店の最新作が、何ともアバンギャルドな作家映画なのだから面白い。
いや別に物語や構成要素自体は、決して冒険的という訳ではない。
心に傷を負った子供とレトロな田舎の風景のコンビネーションは日本型ファンタジーのお約束であり、不思議ギミックが“妖怪”から“タイムスリップ”にかわっている以外、先日公開された「ももへの手紙」と大差ない。
ところが、上映が始まり、映像が動き出すと驚かされる。
まるでラフ画の様に荒々しい主線に、木炭やパステルで描いた様な影や光の表現、更にはオーバーアクトを感じさせる程に、演技し続けるキャラクター。
よくぞこのビジュアル表現でGOサインが出たものだ。
シャープな線とペタッとした彩色、あまり動かないキャラクターに慣れた目には、最初少しだけ違和感を感じるが、物語が進むにつれて、この手作り感溢れる手法が内容のピュアさにマッチして来るのである。
主人公のユウタが訪れた世界は、棚田の風景が美しい小さな山あいの村で、どうやら死ぬはずだった人間が再生される場所という役割を持っている様だ。
濁流に流されたユウタは、山の神様(?)と思しき老人に助けられ、もう一度現世で生きるために、この世界で一夏を過ごし、自らの生の意味を知る。
35年前には存在し、今はもうダム湖の底に沈んでしまった村は、いわば現世と常世の中間の世界だ。
タイトルになっている“虹色ほたる”とは、嘗て村が大旱魃におそわれた際に、どこからともなく現れて、村人を水源に導いてくれたという虹色に輝く不思議な蛍の群。
それ以来誰も見たものは無いが、この村は奇蹟の起こる特別な場所なのである。
ユウタは村の少年であるケンゾーたちとカブト虫をとって遊び、最後の村祭りの準備を手伝い、少し年下のさえ子にほのかな恋心を抱く。
それは、ちょっと懐かしい夏休みの情景そのままだが、子供たちの日常が非常に丁寧に描かれているので、ユウタとケンゾーの間に芽生える友情や、少し影のあるさえ子が、ユウタにとって少しづつ気になる存在になってゆく心の変化がしっかりと伝わってくる。
もちろん映画は観客をレトロな感慨に浸らせるだけでは終わらない。
物語が進むにしたがって、ユウタは自分とさえ子がある運命によって結び付けれられている事を知ってしまう。
実は、ユウタの父親が死んだのと同じ事故に、さえ子と彼女の兄も巻き込まれていたのだ。
2012年の現実世界で、体に決して治癒する事の無い障害を負ってしまった彼女は、既に常世の世界に旅立ってしまった兄との再会を切望し、自らの生に別れを告げるために、この世界で夏休みを過ごしているのである。
不幸な事故によって、共に大切な人を失ってしまったユウタとさえ子だが、恋するユウタ少年にとって、今何よりもかけがえのない存在なのはさえ子なのだ。
この世界を離れて、元の世界へと戻ると、全ての記憶は失われてしまうらしい。
それでも、生きて欲しい。
僅か数日という短い生涯の中で懸命に運命の相手を探す蛍の様に、必ずさえ子を探すと未来の誓いを立てるユウタの必死の説得に、さえ子も心を動かされる。
本作が、単なる子供向けの昭和レトロなファンタジーにとどまらず、大人たちの心の琴線をも刺激する切ない情感を持つのは、例えばメーテルリンクの「青い鳥」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などと同じく、少年少女のファンタジー空間を生と死の狭間と定め、生きる事への葛藤と答えがきちんと描かれているからだろう。
そして、虹色ほたるの本当の奇蹟は、生への勇気を取り戻したさえ子とユウタが再び出会う未来で起こるのである。
ダブルクライマックスともいえるこの辺りの展開は、観る人によってある程度評価が別れそうだ。
なぜならこの映画、冒険しているのはビジュアルだけではなく、全体に微妙なやり過ぎ感が漂うのも事実なのだ。
個人的には、未来のシークエンス自体は物語上の必然だと思うが、やや演出過剰で情感をスポイルしてしまっているし、駄目押しのエンドクレジット後の字幕などは正直蛇足だと思う。
しかし、まあそういう部分も含めて、作り手がこの作品に込めた創作の“熱”を感じさせるのも確かで、過剰だからダメという訳ではないのだけど。
ケンゾーと彼に思いを寄せる少女のその後がさり気なく描写されているのとか、観客の期待を裏切らない細かいサービス精神も嬉しかった。
色々な意味で、今時の日本の商業アニメーションのスタイルへの挑戦状の様な異色作であり、忘れられない作品となったのは間違いない。
今回は、石川県の吉田酒造の「手取川 夏 純米辛口」をチョイス。
いかにも北陸の酒らしい端麗でスッキリ、夏の蛍の様に涼しげな一杯だ。
手取川は嘗て「蛍川」と呼ばれるほど蛍の多い川だったそうで、今は再びその風景を再現しようと川の浄化と蛍の里作りが進められているという。
「蛍川」と言えば宮本輝の同名小説もあり、こちらは富山県のいたち川が舞台で1987年に須川栄三監督で映画化されたが、これも蛍と初恋に纏わる愛すべき佳作である。

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2012年05月22日 (火) | 編集 |
人生の楽園は、どこにある?
常夏の島、ハワイを舞台に「サイドウェイズ」のアレクサンダー・ペイン監督が、ジョージ・クルーニーを主演に迎えて描く悲喜交々の人生劇場。
突然の妻の事故を切っ掛けに自らの生き方を見つめ直し、改めて本当の家族、本当の父親になろうとする主人公を、クルーニーが中年オヤジの哀愁たっぷりに演じ、彼に反発しつつも絆を深め合う娘たちを、シャイリーン・ウッドリーとアマラ・ミラーが好演している。
米国本土とは異なる、ハワイ独特の文化が映画に不思議なムードを与え、憂いを帯びたハワイアンのメロディーが心に沁みる秀作だ。
※ラストに触れています。
弁護士のマット・キング(ジョージ・クルーニー)は妻と二人の娘の四人家族で、先祖代々暮らすハワイで平凡な日々を送っていた。
ところがある日、妻がパワーボートの事故に遭い、昏睡状態に陥ってしまう。
今まで家の事など全く無関心だったマットは、年頃の娘たちとの関係に戸惑い、今更ながら良き父親になろうとする。
だが、ある日長女のアレクサンドラ(シャイリーン・ウッドリー)から、妻が浮気していて、マットとも離婚するつもりだった事を打ち明けられ、ショックを受ける。
妻の本心が知りたいマットは、アレクサンドラと共に浮気相手を探し始めるのだが・・・
アレクサンダー・ペイン監督の映画は、松竹大船調にも通じる人情喜劇の妙がある。
定年退職した男が、新しい生活に戸惑いながらも自分自身を見つめ直す「アバウト・シュミット」、飲んだくれ中年コンビが、恋とワインと人生の賛歌を歌い上げる「サイドウェイズ」など、ユーモアと悲哀を織り交ぜながら、どこにでもいる市井の人々が大きな葛藤の末に小さな喜びを見出す物語は、観客の心にリアルに、そして心地よく響く。
この作品も、妻の事故という不慮の出来事によって、一気に噴出する様々な問題に戸惑う平凡な中年オヤジが主人公だ。
まず彼が直面するのは、今まできちんと向き合うことのなかった娘たちとの関係。
17歳の上の娘、アレクサンドラは学校の寮で酔っぱらい、頭の悪そうな彼氏を家に連れ込むし、小学生のスコッティは問題行動を繰り返し、マットは学校や同級生の親からの抗議の矢面に立たされる。
何年も妻に任せっぱなしにしていた間に成長してしまった娘たちは、マットにとってはもはや理解不能の異星人なのだ。
更に、追い討ちを掛ける様に、妻の浮気というマットにとっては驚天動地の新事実がアレクサンドラから打ち明けられる。
彼女は男に夢中になり、マットとの離婚も考えていて、アレクサンドラが家に寄り付かなくなったのも、その事で母親と喧嘩をしたからだという。
全く気づかないうちに、自分の家族が分解寸前になっていた事にようやく気付いたマットは、妻の真意を知ろうと、母へのわだかまりを抱えるアレクサンドラと共に、浮気相手の正体を調べはじめるのだ。
もっとも、マットに相手をどうこうしようという意図がある訳ではない。
病院のベッドに横たわり、もはや口を聞く事もなく、死を待つばかりとなった妻は、果たして幸せだったのか、自分を愛してくれていたのか。
とりあえず彼は、一気に瓦解してしまった日常の、自分だけに見えていなかった部分を知らずには、次のステップを踏み出す事が出来ないのである。
ジョージ・クルーニーが実に良いのだ。
いつものセクシーでダンディなナイスミドル像からは想像もつかない、ダサダサのおっさんを味わい深く演じて新境地を開拓している。
娘から妻の浮気を聞かされて、事の真相を知るべく近所に住む友人宅へドタバタ走る姿の何と格好悪く、何と人間臭い事か!
オスカーは「アーティスト」のジャン・デュダルジャンに譲ったが、彼のベストアクトの一つであるのは間違いなかろう。
また父娘というよりも、いつの間にか同士の様な関係になる、アレクサンドラ役のシャイリーン・ウッドリーがキュートだ。
彼女がマットの浮気相手の調査を手際良くアシストする下りや、問題児のスコッティの扱いをレクチャーするあたり、マットが完全にアレクサンドラに頼りっきりで、なるほど妻ともこんな感じだったんだろうなと想像させるのは上手い。
そして、家族の関係を見つめ直す事で、マットは自分の抱えているもう一つの難問にも答えを見出す。
原題である「The Descendants」は“子孫”を意味し、一本の樹木の様に広がる家系の血脈を指す言葉でもある。
実は、マットの一族は“キング”というファミリーネームの通り、カメハメハ大王の血を引くハワイ王族の末裔で、先祖から信託された広大な土地を売るか否かの決断を迫られている。
もし土地を売れば、一族には数億ドルという莫大な利益がもたらされるが、同時に150年間にわたって先祖代々守ってきたハワイの貴重な原風景が失われてしまう。
マットは、妻と娘たちという一番近い家族の関係を見つめ直しながら、この土地で脈絡と受け継がれてきた、大きな家族の意識、ハワイ人としての魂にも思いを廻らせるせるのである。
物語の最後で、カウチソファで仲睦まじくテレビを観ているマットと娘たちの姿が、本作のテーマを上手く表しているしている。
彼らを包み込んでいる大きな黄色いハワイアンキルトは、病室で死にゆく妻の体に掛けられていた物で、おそらく彼女の手作りだろう。
ハワイの伝統工芸として知られるハワイアンキルトは、元々本土からやってきた宣教師の妻たちが、ハワイ王族の女性たちにパッチワークの技法を教えた事から生まれたと言われており、つまりはそれはマットの一族の始まりそのものである。
キルトに描かれた大きな木は、長い歴史の中で受け継がれてきた家族の絆の象徴だ。
本作の秀逸な邦題、「ファミリー・ツリー」はたぶん担当者がこのモチーフから発想したのだろうと想像する。
楽園とは、別に驚くほど景色が美しかったり、素晴らしく気候が穏やかな場所の事ではなく、自分にとって本当に大切な人々が存在するところ。
マットのささやかな楽園は、今家族が寄り添うソファの上なのである。
今回は、ハワイアンを聞きながら飲みたくなるカクテル、その名も「ハワイアン」をチョイス。
ドライジン40ml、オレンジキュラソー1tsp、パイナップルジュース20mlをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。
ハワイの名を冠するカクテルというと鮮やかな「ブルーハワイ」が有名だが、こちらは見た目シンプルながら、香り豊かでサッパリした飲み飽きないテイストのカクテルだ。
ブルーハワイがどこまでも青いハワイの空と海だとしたら、こちらは太平洋に広がるオレンジ色の夕焼けの風景だろうか。
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常夏の島、ハワイを舞台に「サイドウェイズ」のアレクサンダー・ペイン監督が、ジョージ・クルーニーを主演に迎えて描く悲喜交々の人生劇場。
突然の妻の事故を切っ掛けに自らの生き方を見つめ直し、改めて本当の家族、本当の父親になろうとする主人公を、クルーニーが中年オヤジの哀愁たっぷりに演じ、彼に反発しつつも絆を深め合う娘たちを、シャイリーン・ウッドリーとアマラ・ミラーが好演している。
米国本土とは異なる、ハワイ独特の文化が映画に不思議なムードを与え、憂いを帯びたハワイアンのメロディーが心に沁みる秀作だ。
※ラストに触れています。
弁護士のマット・キング(ジョージ・クルーニー)は妻と二人の娘の四人家族で、先祖代々暮らすハワイで平凡な日々を送っていた。
ところがある日、妻がパワーボートの事故に遭い、昏睡状態に陥ってしまう。
今まで家の事など全く無関心だったマットは、年頃の娘たちとの関係に戸惑い、今更ながら良き父親になろうとする。
だが、ある日長女のアレクサンドラ(シャイリーン・ウッドリー)から、妻が浮気していて、マットとも離婚するつもりだった事を打ち明けられ、ショックを受ける。
妻の本心が知りたいマットは、アレクサンドラと共に浮気相手を探し始めるのだが・・・
アレクサンダー・ペイン監督の映画は、松竹大船調にも通じる人情喜劇の妙がある。
定年退職した男が、新しい生活に戸惑いながらも自分自身を見つめ直す「アバウト・シュミット」、飲んだくれ中年コンビが、恋とワインと人生の賛歌を歌い上げる「サイドウェイズ」など、ユーモアと悲哀を織り交ぜながら、どこにでもいる市井の人々が大きな葛藤の末に小さな喜びを見出す物語は、観客の心にリアルに、そして心地よく響く。
この作品も、妻の事故という不慮の出来事によって、一気に噴出する様々な問題に戸惑う平凡な中年オヤジが主人公だ。
まず彼が直面するのは、今まできちんと向き合うことのなかった娘たちとの関係。
17歳の上の娘、アレクサンドラは学校の寮で酔っぱらい、頭の悪そうな彼氏を家に連れ込むし、小学生のスコッティは問題行動を繰り返し、マットは学校や同級生の親からの抗議の矢面に立たされる。
何年も妻に任せっぱなしにしていた間に成長してしまった娘たちは、マットにとってはもはや理解不能の異星人なのだ。
更に、追い討ちを掛ける様に、妻の浮気というマットにとっては驚天動地の新事実がアレクサンドラから打ち明けられる。
彼女は男に夢中になり、マットとの離婚も考えていて、アレクサンドラが家に寄り付かなくなったのも、その事で母親と喧嘩をしたからだという。
全く気づかないうちに、自分の家族が分解寸前になっていた事にようやく気付いたマットは、妻の真意を知ろうと、母へのわだかまりを抱えるアレクサンドラと共に、浮気相手の正体を調べはじめるのだ。
もっとも、マットに相手をどうこうしようという意図がある訳ではない。
病院のベッドに横たわり、もはや口を聞く事もなく、死を待つばかりとなった妻は、果たして幸せだったのか、自分を愛してくれていたのか。
とりあえず彼は、一気に瓦解してしまった日常の、自分だけに見えていなかった部分を知らずには、次のステップを踏み出す事が出来ないのである。
ジョージ・クルーニーが実に良いのだ。
いつものセクシーでダンディなナイスミドル像からは想像もつかない、ダサダサのおっさんを味わい深く演じて新境地を開拓している。
娘から妻の浮気を聞かされて、事の真相を知るべく近所に住む友人宅へドタバタ走る姿の何と格好悪く、何と人間臭い事か!
オスカーは「アーティスト」のジャン・デュダルジャンに譲ったが、彼のベストアクトの一つであるのは間違いなかろう。
また父娘というよりも、いつの間にか同士の様な関係になる、アレクサンドラ役のシャイリーン・ウッドリーがキュートだ。
彼女がマットの浮気相手の調査を手際良くアシストする下りや、問題児のスコッティの扱いをレクチャーするあたり、マットが完全にアレクサンドラに頼りっきりで、なるほど妻ともこんな感じだったんだろうなと想像させるのは上手い。
そして、家族の関係を見つめ直す事で、マットは自分の抱えているもう一つの難問にも答えを見出す。
原題である「The Descendants」は“子孫”を意味し、一本の樹木の様に広がる家系の血脈を指す言葉でもある。
実は、マットの一族は“キング”というファミリーネームの通り、カメハメハ大王の血を引くハワイ王族の末裔で、先祖から信託された広大な土地を売るか否かの決断を迫られている。
もし土地を売れば、一族には数億ドルという莫大な利益がもたらされるが、同時に150年間にわたって先祖代々守ってきたハワイの貴重な原風景が失われてしまう。
マットは、妻と娘たちという一番近い家族の関係を見つめ直しながら、この土地で脈絡と受け継がれてきた、大きな家族の意識、ハワイ人としての魂にも思いを廻らせるせるのである。
物語の最後で、カウチソファで仲睦まじくテレビを観ているマットと娘たちの姿が、本作のテーマを上手く表しているしている。
彼らを包み込んでいる大きな黄色いハワイアンキルトは、病室で死にゆく妻の体に掛けられていた物で、おそらく彼女の手作りだろう。
ハワイの伝統工芸として知られるハワイアンキルトは、元々本土からやってきた宣教師の妻たちが、ハワイ王族の女性たちにパッチワークの技法を教えた事から生まれたと言われており、つまりはそれはマットの一族の始まりそのものである。
キルトに描かれた大きな木は、長い歴史の中で受け継がれてきた家族の絆の象徴だ。
本作の秀逸な邦題、「ファミリー・ツリー」はたぶん担当者がこのモチーフから発想したのだろうと想像する。
楽園とは、別に驚くほど景色が美しかったり、素晴らしく気候が穏やかな場所の事ではなく、自分にとって本当に大切な人々が存在するところ。
マットのささやかな楽園は、今家族が寄り添うソファの上なのである。
今回は、ハワイアンを聞きながら飲みたくなるカクテル、その名も「ハワイアン」をチョイス。
ドライジン40ml、オレンジキュラソー1tsp、パイナップルジュース20mlをシェイクしてカクテルグラスに注ぐ。
ハワイの名を冠するカクテルというと鮮やかな「ブルーハワイ」が有名だが、こちらは見た目シンプルながら、香り豊かでサッパリした飲み飽きないテイストのカクテルだ。
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2012年05月17日 (木) | 編集 |
復讐のスパイスは、狂気。
最愛の妻を亡くした天才形成外科医が、密かに創り上げた妻そっくりの女。
一体彼女は何者なのか。
「トーク・トゥーハー」などで知られるスペインの鬼才、ペドロ・アルモドバル監督がティエリ・ジョンケの小説、「蜘蛛の微笑」を映画化した異色の心理劇である。
倒錯的ラブストーリーであり、官能的なスリラーであり、同時にある種の怪奇SFでもあり、更にブラックな人間喜劇の趣もあるという、所謂ジャンル映画とは対極の位置にある摩訶不思議な一本だ。
「アタメ」以来、アルモドバルと21年ぶりのタッグを組んだアントニオ・バンデラスが、現代のフランケンシュタイン博士を怪演し、謎の女ベラを「この愛のために撃て」のエレナ・アヤナが大胆に演じる。
※完全ネタバレ。鑑賞前に読まないで!
事故で酷い火傷を負った妻を亡くして以来、形成外科医のロベル・レガル(アントニオ・バンデラス)は、決して傷付けられない完璧な人口皮膚の研究に打ち込んできた。
医師としてのモラルを捨てた彼の屋敷には、一人の被験者(エレナ・アヤナ)が監禁されており、ロベルは彼女の肌を全て人口皮膚へと張り替え、完璧な妻のレプリカを創り上げてしまう。
ロベルと、ベラ・クルスと名付けられた謎の被験者と、使用人のマリリア(マリサ・パレデス)の三人での奇妙な暮らし。
しかし、マリリアの息子、セカ(ロベルト・アラモ)が訪ねて来たことから、事態は思わぬ方向に・・・
物語の設定は、ジョルジュ・ブランジュ監督の古典怪奇映画、「顔のない眼」を思わせるが、捻ったタイトルのユニークさも通じるものがある。
原題は「LA PIEL QUE HABITO」、英題は「THE SKIN I LIVE IN」で、ほぼ直訳の邦題「私が、生きる肌」は何とも奇妙な響きだが、観終わるとなる程このタイトル以外は無いなと唸らされる。
映画の前半は、天才的な形成外科医であるロベル医師を中心に展開する。
彼の妻は、自動車火災で酷い火傷を負い、やがて醜く焼けただれた自分自身の姿を鏡で見て、悲観するあまり飛び降り自殺してしまう。
そして、母親の死を目の前で目撃した娘のノルマもまた、数年後に後を追うように世を去る。
以来ロベルは、もしそれが存在すれば妻を救えるはずだった、柔軟で強靭、熱にも強い究極の人口皮膚の研究に没頭しているのだ。
彼の屋敷には、訳ありの使用人であるマリリアと、実験台にされている一人の女性が住んでおり、ロベルは彼女の全身の皮膚を開発中の人口皮膚に張り替え、同時に整形手術を施すことで、亡き妻そっくりの姿に作り変えようとしている。
一体、このベラ・クルスという意味深な名を与えられ、監禁された女性の正体は?
全ての秘密を知るマリリアとロベルの関係とは?
観客の興味を惹きつける幾つもの謎を含んだまま、映画は彼ら三人の奇妙な共同生活を描いてゆく。
やがて、警察に追われているマリリアの不肖の息子で、ロベルとは幼馴染であるセカが訪ねてくると、物語は大きく動き出す。
ベラをレイプしようとしたセカを、ロベルが射殺してしまい、その事を切っ掛けにして、ロベルとベラの関係が医師と被験者から、嘗て悲劇によって失われた夫婦の再現に変わってゆくのである。
しかし、ここまではまだマッドサイエンティストと禁断の恋という、わりとありふれた話に過ぎない。
この映画が、誰も想像出来ない方向に転がり出すのは、途中で時系列がロベルが妻を失った12年前、娘を失った6年前の過去と現代を行き来し始めてからで、それによって物語の視点はフランケンシュタイン博士から博士の創造物である“怪物”へと急速に移ってゆくのだ。
母親の死を目撃した事で、心の病に伏したロベルの娘ノルマは、ある時レイプ未遂の被害にあった事で決定的に壊れてしまい、母親と同じ道を選ぶ。
そして、復讐鬼となったロベルの怒りは、娘を死に追いやったビセンテという青年へと向かい、ロベルは彼を拉致すると驚くべき方法で復讐を開始する。
そう、謎の女ベラの正体は、ロベルの手によって性転換手術を施され、全くの別人にされてしまった哀れなビセンテの成れの果て。
ロベルは憎きビセンテを使って、自身が失った愛を再現するという、パク・チャヌクもびっくりの究極の復讐を遂げたのである。
しかし、余りにも妻そっくりにしてしまった事で、ロベルの心には本人も予期しない綻びが生じる。
実際のところ、ロベルと妻は決して上手くいっていた夫婦ではなく、妻はセカとも不倫関係を結び、夫を裏切っていた。
ロベルがベラを創造したのは、娘のノルマの仇討ちであるのと同時に、不貞な妻の姿を模した女を支配する事で、亡き妻に対して復讐するためでもあるのだろう。
ところが、ベラまでもがセカにレイプされ、今度はロベルがセカを殺し彼女を奪還した事で、彼は図らずも自分の中の過去を修正してしまう。
セカと関係した妻は死んだがベラは取り戻せた、だから彼女との間に過去には遂に叶えられなかった理想の関係を結べると錯覚してしまうのである。
ポイントは、この段階では既に映画の視点はベラ、いや彼女の内面のビセンテに移っている事。
元々、ビセンテにすれば、パーティで出会ったノルマが精神を病んでいるなど露知らぬ事で、彼女が飲んでいると語った向精神薬もハイになるドラッグの類だと思って、合意の上で事に及ぼうとしただけ。
途中で抵抗して気絶してしまったノルマを残して帰ったが、相手の父親が自分をレイプ犯と思い込んでいる事自体が青天の霹靂で、復讐される覚えなど無いのだ。
一度は諦めと、長期間犯人と過ごした被害者が、やがて犯人に感情移入するというストックホルム症候群に陥り、ロベルに身を任せようとしたものの、ある事によってビセンテは再び自分を取り戻し、遂に自由への戦いを始める。
冷静に考えれば、ビセンテにとってロベルは自分の人生をメチャクチャにした気の狂った変態、ぶっちゃけ「ムカデ人間」の博士の同類に過ぎないのである。
実にアルモドバルらしいのは、ロベルが実はマリリアの息子であり、セカとは父親違いの兄弟で、彼ら三人がマリリアを挟んだ奇妙な愛憎によって結ばれていたり、失踪したビセンテを探す母親の姿が丁寧に描かれていたり、母と息子の関係性が隠し味になっている事だ。
これによって、何とも複雑でドロドロとした人間関係と葛藤が作り出され、誰が正しくて誰が悪いという単純な割り切りが出来なくなっている。
また生活感の無い監禁部屋のデザインやテレビモニターの使い方、限りなく全身タイツのベラのコスチューム、原色の目立つ独特の色彩設計など、映像の外連味も目を楽しませる。
そして、マッドサイエンティストの悲劇の物語が終わり、自我を取り戻したがビセンテが、自分自身の苦難の物語の始まりとなる映画のラストで発する一言は、人間たちの喜悲劇の第二幕を感じさせ、まことに味わい深い。
何しろ「私が、生きる肌」は狂気の創造物しか残っていないのだから。
今回はラテンの情念を感じる血のような赤を。
スペインのワインどころというとリオハとリベラ・デル・ドゥエロが有名だが、今回は後者のワイナリー、ドミニオ・ロマーノから「カミーノ・ロマーノ」の2008をチョイス。
パワフルなフルボディで果実の味わいと適度な酸味がエレガントにバランスしており、スペイン美女を思わせる。
若いワインだが、なかなか美味しい。
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最愛の妻を亡くした天才形成外科医が、密かに創り上げた妻そっくりの女。
一体彼女は何者なのか。
「トーク・トゥーハー」などで知られるスペインの鬼才、ペドロ・アルモドバル監督がティエリ・ジョンケの小説、「蜘蛛の微笑」を映画化した異色の心理劇である。
倒錯的ラブストーリーであり、官能的なスリラーであり、同時にある種の怪奇SFでもあり、更にブラックな人間喜劇の趣もあるという、所謂ジャンル映画とは対極の位置にある摩訶不思議な一本だ。
「アタメ」以来、アルモドバルと21年ぶりのタッグを組んだアントニオ・バンデラスが、現代のフランケンシュタイン博士を怪演し、謎の女ベラを「この愛のために撃て」のエレナ・アヤナが大胆に演じる。
※完全ネタバレ。鑑賞前に読まないで!
事故で酷い火傷を負った妻を亡くして以来、形成外科医のロベル・レガル(アントニオ・バンデラス)は、決して傷付けられない完璧な人口皮膚の研究に打ち込んできた。
医師としてのモラルを捨てた彼の屋敷には、一人の被験者(エレナ・アヤナ)が監禁されており、ロベルは彼女の肌を全て人口皮膚へと張り替え、完璧な妻のレプリカを創り上げてしまう。
ロベルと、ベラ・クルスと名付けられた謎の被験者と、使用人のマリリア(マリサ・パレデス)の三人での奇妙な暮らし。
しかし、マリリアの息子、セカ(ロベルト・アラモ)が訪ねて来たことから、事態は思わぬ方向に・・・
物語の設定は、ジョルジュ・ブランジュ監督の古典怪奇映画、「顔のない眼」を思わせるが、捻ったタイトルのユニークさも通じるものがある。
原題は「LA PIEL QUE HABITO」、英題は「THE SKIN I LIVE IN」で、ほぼ直訳の邦題「私が、生きる肌」は何とも奇妙な響きだが、観終わるとなる程このタイトル以外は無いなと唸らされる。
映画の前半は、天才的な形成外科医であるロベル医師を中心に展開する。
彼の妻は、自動車火災で酷い火傷を負い、やがて醜く焼けただれた自分自身の姿を鏡で見て、悲観するあまり飛び降り自殺してしまう。
そして、母親の死を目の前で目撃した娘のノルマもまた、数年後に後を追うように世を去る。
以来ロベルは、もしそれが存在すれば妻を救えるはずだった、柔軟で強靭、熱にも強い究極の人口皮膚の研究に没頭しているのだ。
彼の屋敷には、訳ありの使用人であるマリリアと、実験台にされている一人の女性が住んでおり、ロベルは彼女の全身の皮膚を開発中の人口皮膚に張り替え、同時に整形手術を施すことで、亡き妻そっくりの姿に作り変えようとしている。
一体、このベラ・クルスという意味深な名を与えられ、監禁された女性の正体は?
全ての秘密を知るマリリアとロベルの関係とは?
観客の興味を惹きつける幾つもの謎を含んだまま、映画は彼ら三人の奇妙な共同生活を描いてゆく。
やがて、警察に追われているマリリアの不肖の息子で、ロベルとは幼馴染であるセカが訪ねてくると、物語は大きく動き出す。
ベラをレイプしようとしたセカを、ロベルが射殺してしまい、その事を切っ掛けにして、ロベルとベラの関係が医師と被験者から、嘗て悲劇によって失われた夫婦の再現に変わってゆくのである。
しかし、ここまではまだマッドサイエンティストと禁断の恋という、わりとありふれた話に過ぎない。
この映画が、誰も想像出来ない方向に転がり出すのは、途中で時系列がロベルが妻を失った12年前、娘を失った6年前の過去と現代を行き来し始めてからで、それによって物語の視点はフランケンシュタイン博士から博士の創造物である“怪物”へと急速に移ってゆくのだ。
母親の死を目撃した事で、心の病に伏したロベルの娘ノルマは、ある時レイプ未遂の被害にあった事で決定的に壊れてしまい、母親と同じ道を選ぶ。
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ロベルは憎きビセンテを使って、自身が失った愛を再現するという、パク・チャヌクもびっくりの究極の復讐を遂げたのである。
しかし、余りにも妻そっくりにしてしまった事で、ロベルの心には本人も予期しない綻びが生じる。
実際のところ、ロベルと妻は決して上手くいっていた夫婦ではなく、妻はセカとも不倫関係を結び、夫を裏切っていた。
ロベルがベラを創造したのは、娘のノルマの仇討ちであるのと同時に、不貞な妻の姿を模した女を支配する事で、亡き妻に対して復讐するためでもあるのだろう。
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セカと関係した妻は死んだがベラは取り戻せた、だから彼女との間に過去には遂に叶えられなかった理想の関係を結べると錯覚してしまうのである。
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一度は諦めと、長期間犯人と過ごした被害者が、やがて犯人に感情移入するというストックホルム症候群に陥り、ロベルに身を任せようとしたものの、ある事によってビセンテは再び自分を取り戻し、遂に自由への戦いを始める。
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実にアルモドバルらしいのは、ロベルが実はマリリアの息子であり、セカとは父親違いの兄弟で、彼ら三人がマリリアを挟んだ奇妙な愛憎によって結ばれていたり、失踪したビセンテを探す母親の姿が丁寧に描かれていたり、母と息子の関係性が隠し味になっている事だ。
これによって、何とも複雑でドロドロとした人間関係と葛藤が作り出され、誰が正しくて誰が悪いという単純な割り切りが出来なくなっている。
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今回はラテンの情念を感じる血のような赤を。
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2012年05月13日 (日) | 編集 |
“一番の友だち”は誰?
人生ドン底の主人公が、幼馴染の結婚式で花嫁の介添人に選ばれた事から、大騒動を巻き起こす抱腹絶倒の女子会コメディ。
昨年、「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」や「トランスフォーマー/ダークサイドムーン」と言った超大作を向こうに回し、全米で8週連続ベスト10入りというロングヒットを飛ばした話題作だ。
「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」という邦題サブタイトルが示唆する様に、超おバカでお下品なギャグの数々は正しく女版「ハングオーバー」で、純情な男の子が観たら女性不信になってしまいそうな勢い(笑
主演と共同脚本は「サタデー・ナイト・ライブ」出身のコメデジエンヌ、クリスティン・ウィグで、彼女は本作の脚本でアニー・マモローと共にオスカーにノミネートされた。
監督は「アイ・アム・デビッド」のポール・フェイグ。
やる事なす事上手くいかないアニー(クリスティン・ウィグ)は、親友のリリアン(マーヤ・ルドルフ)から花嫁の介添人(ブライズメイズ)のまとめ役、メイド・オブ・オナーを頼まれる。
張り切ってプランを立てるアニーだが、ブライズメイズたちは曲者揃いで、特に大金持ちのヘレン(ローズ・バーン)とは何かにつけて衝突ばかり。
結婚式前の独身最後の旅行でラスベガスに向かう機内で、アルコールと薬で酩酊状態になったアニーは、大パニックを引き起こしてしまう。
式の準備は混迷する一方で、何時しか長年の友情すら風前の灯火になってしまうのだが・・・
いや~、楽しかった。はらわたが捩れるほど笑ったのは久しぶり。
冒頭の大バカなベッドシーンから、気持ちの良いラストまで、大いに笑ってちょっとだけホロリとして、お下品系アメリカンコメディの王道を行く一本である。
私はいとこがアメリカ人で、ちょうど去年あちらの結婚式に参列したばかりだったので、式の裏側のドタバタを思い出して余計に可笑しかった。
アメリカの結婚式では、新郎新婦それぞれが数名程度の同性の介添人を指名する習慣があり、新郎側が“Groomsman(グルームズマン)”新婦側が“Bridesmaid(ブライズメイド)”と呼ばれる。
普通新郎新婦の兄弟姉妹、近しい親戚、友人たちの中から選ばれるが、特にその中でも介添人のリーダーとなる“Best man(ベストマン)”と“Maid of honor(メイド・オブ・オナー)”に選ばれる事は、言わば親友の中の親友であると宣言される事で、とても名誉な事なのだが、それ故に友人関係に禍根を残さない様に、選ばれる側も選ぶ側もそれなりに頭を悩ませる。
更に、わりと気楽な新郎側と違って、メイド・オブ・オナーになると式の段取りや独身パーティの仕切りなど、結婚式のプロセス全体にも関わる事になるので責任重大。
基本的に、結婚式の費用は新婦側の実家が持つケースが一般的なので、経済観念のない人に任せると、本当に結婚式貧乏になってしまい、実家との仲が険悪になってしまう事もあるのだ。
本作の主人公であるアニーは、幼馴染のリリアンからメイド・オブ・オナーを頼まれるのだが、本人の人生は絶不調。
夢だったケーキ屋の経営は、不況に直撃されて呆気なく失敗し、付き合っている金持ちの男には都合の良いセフレ扱いされ、同じベッドで目覚める事すら許されない。
経済的には勿論ひっ迫して、ポンコツ愛車の壊れたテールランプの交換すら先延ばしにしている位である。
ところが、リリアンのお相手は名家の御曹司で、何時の間にか交友関係もセレブ中心になっていて、アニー以外のブライズメイズも金持ちばかり。
アニーは、図らずも住む世界の違う彼女たちを取りまとめなければならなくなるのだが、特にメイドの一人で、ダントツの金持ちであるヘレンとは、何かにつけて衝突してしまう。
実は、このアニーとヘレンは社会的な立場こそ対照的だが、内面は結構似た者同士だ。
どちらも強烈なコンプレックスを抱え、余裕の無い自分自身に嫌気がさしているイタい女なのである。
ただ、ヘレンの方は有り余るお金にものを言わせる事で、自分の問題点をとりあえず見えなくしている一方、貧乏人のアニーは普通に全身からコンプレックスを噴出させている。
人間誰でも心が追い詰められると、自己客観視できなくなり、進むべき道が見えにくくなるものだが、アニーもまた自分の中の良い点や可能性すら自らダメ出しして前に進もうとしない。
だから壊れたテールランプが縁で知り合った、誠実な警官のネイサンと一夜を過ごした時も、結局自分の背中を押してくれる彼の事を拒否してしまうのだ。
もはや何も持っていないアニーにとっては最後の心の拠り所であり、逆に何でも持っているヘレンにとっては唯一お金で手に入れられないものが、リリアンとの友情なのである。
しかし元々心に余裕のない二人は、自分たちのやっている事が、リリアンのために素晴らしい結婚式の準備をするという本来の目的を外れてしまい、“リリアンの一番の親友の座”の争奪戦になってしまっている事に気付かないのだ。
度重なる失敗でメイド・オブ・オナーを降ろされたアニーが、パーティの席上でヘレンがリリアンにお金にまかせてパリ旅行をプレゼントした事に、ついに信じていた友情まで失ってしまったと思い込んで、キレて会場をメチャクチャにする姿はとても痛々しいのだが、彼女の絶望が伝わってきて何とも切ない。
そう「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」は、女性目線で人生の一大イベントである結婚式をネタにしたギャグ満載のコメディであるのと同時に、人生の相次ぐ失敗によって幼い駄々っ子の様なメンタリティーになってしまったアニーが、親友の結婚というビッグイベントを通して、自分の殻を突き破る成長物語でもあるのだ。
いや、アニーだけではない。
お金だけはあるものの、母親として結婚相手の継子たちに受け入れられない悲哀を味わっているヘレンも、二人の“親友”の狭間でマレッジブルーに陥ってしまったリリアンも、結婚までの大騒動によって皆少しづつ大人の女として成長し、最高の式を迎える。
コメディというラッピングを纏ってはいるが、ここに描かれるのは多少なりとも誰にでも身に覚えのある挫折と再生の物語であり、だからこそ単なる笑いを超えて、心に響くのである。
因みに5人いるメイドたちのキャラクターのなかでも最高に面白いのが、新郎の妹でもあるミーガンだ。
デブでブチャイクな容姿から嘗て酷いイジメを受けた反動か、超肉食系に育てしまった彼女のギャグはお下品かつ強烈で、何と映画のオチまでかっさらって行く。
演じるメリッサ・マッカーシーは、インパクト絶大の本作の演技でアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、もし続編があるならミーガンの結婚式をやって欲しいぞ。
過激過ぎてX指定になりそうだけど(笑
今回は結婚パーティーの定番、モエ・エ・シャンドンの「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
フルーティで野いちごやりんごの様な果実香と、柔らかくシルクの様な喉ごしが印象的で夏野菜や肉料理との相性が抜群。
薄紅色の液体にきめ細やかな泡が立ち上る様は、目で楽しく舌で美味しい。
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人生ドン底の主人公が、幼馴染の結婚式で花嫁の介添人に選ばれた事から、大騒動を巻き起こす抱腹絶倒の女子会コメディ。
昨年、「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」や「トランスフォーマー/ダークサイドムーン」と言った超大作を向こうに回し、全米で8週連続ベスト10入りというロングヒットを飛ばした話題作だ。
「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」という邦題サブタイトルが示唆する様に、超おバカでお下品なギャグの数々は正しく女版「ハングオーバー」で、純情な男の子が観たら女性不信になってしまいそうな勢い(笑
主演と共同脚本は「サタデー・ナイト・ライブ」出身のコメデジエンヌ、クリスティン・ウィグで、彼女は本作の脚本でアニー・マモローと共にオスカーにノミネートされた。
監督は「アイ・アム・デビッド」のポール・フェイグ。
やる事なす事上手くいかないアニー(クリスティン・ウィグ)は、親友のリリアン(マーヤ・ルドルフ)から花嫁の介添人(ブライズメイズ)のまとめ役、メイド・オブ・オナーを頼まれる。
張り切ってプランを立てるアニーだが、ブライズメイズたちは曲者揃いで、特に大金持ちのヘレン(ローズ・バーン)とは何かにつけて衝突ばかり。
結婚式前の独身最後の旅行でラスベガスに向かう機内で、アルコールと薬で酩酊状態になったアニーは、大パニックを引き起こしてしまう。
式の準備は混迷する一方で、何時しか長年の友情すら風前の灯火になってしまうのだが・・・
いや~、楽しかった。はらわたが捩れるほど笑ったのは久しぶり。
冒頭の大バカなベッドシーンから、気持ちの良いラストまで、大いに笑ってちょっとだけホロリとして、お下品系アメリカンコメディの王道を行く一本である。
私はいとこがアメリカ人で、ちょうど去年あちらの結婚式に参列したばかりだったので、式の裏側のドタバタを思い出して余計に可笑しかった。
アメリカの結婚式では、新郎新婦それぞれが数名程度の同性の介添人を指名する習慣があり、新郎側が“Groomsman(グルームズマン)”新婦側が“Bridesmaid(ブライズメイド)”と呼ばれる。
普通新郎新婦の兄弟姉妹、近しい親戚、友人たちの中から選ばれるが、特にその中でも介添人のリーダーとなる“Best man(ベストマン)”と“Maid of honor(メイド・オブ・オナー)”に選ばれる事は、言わば親友の中の親友であると宣言される事で、とても名誉な事なのだが、それ故に友人関係に禍根を残さない様に、選ばれる側も選ぶ側もそれなりに頭を悩ませる。
更に、わりと気楽な新郎側と違って、メイド・オブ・オナーになると式の段取りや独身パーティの仕切りなど、結婚式のプロセス全体にも関わる事になるので責任重大。
基本的に、結婚式の費用は新婦側の実家が持つケースが一般的なので、経済観念のない人に任せると、本当に結婚式貧乏になってしまい、実家との仲が険悪になってしまう事もあるのだ。
本作の主人公であるアニーは、幼馴染のリリアンからメイド・オブ・オナーを頼まれるのだが、本人の人生は絶不調。
夢だったケーキ屋の経営は、不況に直撃されて呆気なく失敗し、付き合っている金持ちの男には都合の良いセフレ扱いされ、同じベッドで目覚める事すら許されない。
経済的には勿論ひっ迫して、ポンコツ愛車の壊れたテールランプの交換すら先延ばしにしている位である。
ところが、リリアンのお相手は名家の御曹司で、何時の間にか交友関係もセレブ中心になっていて、アニー以外のブライズメイズも金持ちばかり。
アニーは、図らずも住む世界の違う彼女たちを取りまとめなければならなくなるのだが、特にメイドの一人で、ダントツの金持ちであるヘレンとは、何かにつけて衝突してしまう。
実は、このアニーとヘレンは社会的な立場こそ対照的だが、内面は結構似た者同士だ。
どちらも強烈なコンプレックスを抱え、余裕の無い自分自身に嫌気がさしているイタい女なのである。
ただ、ヘレンの方は有り余るお金にものを言わせる事で、自分の問題点をとりあえず見えなくしている一方、貧乏人のアニーは普通に全身からコンプレックスを噴出させている。
人間誰でも心が追い詰められると、自己客観視できなくなり、進むべき道が見えにくくなるものだが、アニーもまた自分の中の良い点や可能性すら自らダメ出しして前に進もうとしない。
だから壊れたテールランプが縁で知り合った、誠実な警官のネイサンと一夜を過ごした時も、結局自分の背中を押してくれる彼の事を拒否してしまうのだ。
もはや何も持っていないアニーにとっては最後の心の拠り所であり、逆に何でも持っているヘレンにとっては唯一お金で手に入れられないものが、リリアンとの友情なのである。
しかし元々心に余裕のない二人は、自分たちのやっている事が、リリアンのために素晴らしい結婚式の準備をするという本来の目的を外れてしまい、“リリアンの一番の親友の座”の争奪戦になってしまっている事に気付かないのだ。
度重なる失敗でメイド・オブ・オナーを降ろされたアニーが、パーティの席上でヘレンがリリアンにお金にまかせてパリ旅行をプレゼントした事に、ついに信じていた友情まで失ってしまったと思い込んで、キレて会場をメチャクチャにする姿はとても痛々しいのだが、彼女の絶望が伝わってきて何とも切ない。
そう「ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン」は、女性目線で人生の一大イベントである結婚式をネタにしたギャグ満載のコメディであるのと同時に、人生の相次ぐ失敗によって幼い駄々っ子の様なメンタリティーになってしまったアニーが、親友の結婚というビッグイベントを通して、自分の殻を突き破る成長物語でもあるのだ。
いや、アニーだけではない。
お金だけはあるものの、母親として結婚相手の継子たちに受け入れられない悲哀を味わっているヘレンも、二人の“親友”の狭間でマレッジブルーに陥ってしまったリリアンも、結婚までの大騒動によって皆少しづつ大人の女として成長し、最高の式を迎える。
コメディというラッピングを纏ってはいるが、ここに描かれるのは多少なりとも誰にでも身に覚えのある挫折と再生の物語であり、だからこそ単なる笑いを超えて、心に響くのである。
因みに5人いるメイドたちのキャラクターのなかでも最高に面白いのが、新郎の妹でもあるミーガンだ。
デブでブチャイクな容姿から嘗て酷いイジメを受けた反動か、超肉食系に育てしまった彼女のギャグはお下品かつ強烈で、何と映画のオチまでかっさらって行く。
演じるメリッサ・マッカーシーは、インパクト絶大の本作の演技でアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、もし続編があるならミーガンの結婚式をやって欲しいぞ。
過激過ぎてX指定になりそうだけど(笑
今回は結婚パーティーの定番、モエ・エ・シャンドンの「ロゼ・アンペリアル」をチョイス。
フルーティで野いちごやりんごの様な果実香と、柔らかくシルクの様な喉ごしが印象的で夏野菜や肉料理との相性が抜群。
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2012年05月07日 (月) | 編集 |
宇宙(そら)を向いて歩こう。
エリート宇宙飛行士の弟と、人生の再出発から宇宙を目指す兄の絆を描く、小山宙哉原作のベストセラー漫画の映画化である。
主人公のモジャモジャ頭の六太を小栗旬、生き方もルックスも対照的な弟の日々人を岡田将生という旬の若手二人が好演している。
未完結の長編漫画の映像化というハンディを、全く感じさせない大森美香の脚色が素晴らしく、それを受けた森義隆監督の画作りも、宇宙開発という題材に負けないスケールの大きなもので、兄弟の絆という小さな話を核にしながら、そこからの広がりは大作感がある。
雄大な宇宙のロマンに浸りながら、何時の間にかスクリーンから背中を押され、前向きな気持になれる快作だ。
※ラストに触れてます。
西暦2025年。
失業中の南波六太(小栗旬)の元に、JAXA(宇宙航空研究開発機構)から宇宙飛行士試験の書類選考通過の通知が届く。
実はこれ、六太の弟で現役宇宙飛行士の日々人(岡田将生)が、勝手に応募したもの。
少年時代、共に宇宙を目指す約束をしながら、何時しか道を外れて行った兄の、再出発の後押しをしたのだった。
最初は戸惑ったものの、二次選考に挑んだ六太は秘めた才能を発揮し、次々と難関を突破する。
一方の日々人は日本人初となる月面着陸へ向けて、宇宙船アルテミス号で月へと旅立つが、時を同じくして六太は宇宙飛行士への最終試験に挑む事になる。
それは、密閉された空間で6人のチームメイトと共に10日間暮らし、毎日出題される様々な課題をクリヤするという物。
順調に試験が進む中、六太の元に月面の日々人が事故に巻き込まれ、消息を絶ったという連絡が入る・・・
「宇宙飛行士になりたいー」
子供の頃、将来の夢をこう作文に書いた人は多いだろう。
アポロ世代である私もその一人で、子供の頃はISSならぬスカイラブの上空通過を観察したし、スペースシャトルの初飛行もライブで見た。
自分たちの暮らすこの地球を、外側から眺める事の出来る宇宙には、人々を見果てぬ夢に駆り立てるフロンティアの誘惑がある。
しかし嘗ての宇宙キッズも、だんだんと成長するに従って、いつしか宇宙飛行士は夢のままになり、地に足を付けて、もとい地に縛り付けられて生きる様になるのだ。
そう、本作の主人公である六太は、正にそんな我々をまんま物語の中に放り込んだような人物であり、それゆえに感情移入が非常にしやすいのである。
脚本の大森美香が実に良い仕事をしている。
この人は漫画原作だからと言って、無理に原作の雰囲気を合わせたり、エピソードを詰め込むような事はせず、一度きちんと映画として物語を構成した上で、取捨選択して物語に取り込んでいるので、ストーリーラインが綺麗で観易い。
エリート街道を邁進する弟と、落ちこぼれの兄貴という設定は、南ちゃんこそいないものの「タッチ」以来の少年漫画の王道パターンの一つだ。
映画は、この二人の少年時代からの宇宙という夢を縦軸に、横軸の様々なエピソードを交錯させ、それぞれに伏線として有機的な役割を持たせる事で進行してゆく。
人類の宇宙開発の歴史を辿る、ワクワクするオープニングでまずは観客の心をキャッチ。
そして前半を六太の再出発物語として、彼の宇宙飛行士チャレンジを中心に構成し、最終の閉鎖空間テストに入り、画面に動きが無くなると、月面の日々人の物語と並行する様に展開させ、クライマックスを地球と月という遠大な空間で隔てられた兄弟の絆に持ってくる辺り、実にロジカルで上手い。
原作ファンには異論もあろうが、一本の映画としてのあり方としてはまことに正しく、個人的にはしばしばくどさを感じる原作よりも、映画のシンプルさの方に好感が持てる。
もちろん、宇宙開発をモチーフにした話であるからには、単なる人間ドラマだけでは物足りない。
ハリウッド映画にも見劣りしない、出色の出来の映像が本作の世界観をグッと広げる。
巨大な月ロケット、アルテミス号の打ち上げシーンの迫力は、本物のアポロの映像を見慣れていても圧巻だし、後半のかなりの部分を占める月面のシーンは、スタジオ撮りだとわかっていても本当に月にトリップした様なリアリティがあり、ビジュアルの仕上がりは日本映画屈指と言っても良い。
この打ち上げシーンには、“嘗て月面を歩いた男”バズ・オルドリン本人も降臨。
相方のニール・アームストロングが仙人の様な引きこもり生活を送っているのに対して、この人はちょくちょくメディアで見かけるけど、多分出たがりなんだろうな(笑
オルドリンの、「ロケットを打ち上げる力とは、飛行士たちの勇気、管制官たちの情熱、人々の敬意なのだ」という言葉にも後押しされた六太は、いよいよ自分の中に燃え上がる宇宙への熱を燃料に、本物の宇宙飛行士になる決意を固める。
そして六太と日々人、それぞれが今立っているステージで、最大の危機を乗り越えるクライマックスから、ちょっと出来過ぎな気さえする、痛快無比なラストまで、物語は観客の心に疼く未知の世界へのロマンを掻き立てる。
本作に描かれる2025年から2031年までの世界は、日本映画が久々に見せた希望に満ちた未来予想図だ。
仕事をリストラされ、人生に迷っている頃の六太は下ばかり見ているが、宇宙への情熱を蘇らせた後半は、少年の様な憧れの目で宇宙に浮かぶ月を見上げている。
地上の生き物である人類に翼を与え、月にまで到達させたエネルギーは、大元を辿れば想像力である。
人間の想像力の及ぶ範囲なら、いつか必ず人類の手は届くし、それに向かって邁進すれば、何らかの形で人生は報われる。
それでも一人一人の人生は一度きりで、座り込んでいる時間はない。
これは、エンドレスの不況に未曾有の大災害のダブルパンチを受け、すっかり意気消沈している日本人へ、スクリーンから贈られたパワフルなエール。
2031年の月面の日章旗が本当になるかどうかは、全て今の我々次第なのだ。
今回は、宇宙で生まれた酒、「土佐宇宙酒 玉川 安芸虎 純米大吟醸」をチョイス。
もちろんこれ自体が宇宙で醸造された訳ではなく、高知県の蔵元有志によって推進された、日本酒酵母を宇宙へ送ろうというプロジェクトによって生まれた酒のこと。
2005年に国際宇宙ステーションへ運ばれた高知県産酵母は、8日間を宇宙で過ごした後に帰還。
この酵母を使った宇宙酒は、今では高知県のいくつかの蔵元から発売されている。
実際の味としては、まあ普通の美味しい日本酒だが、地球を外から眺めた酒だと思えば、遥かなロマンに酔いも早くなるだろう。
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エリート宇宙飛行士の弟と、人生の再出発から宇宙を目指す兄の絆を描く、小山宙哉原作のベストセラー漫画の映画化である。
主人公のモジャモジャ頭の六太を小栗旬、生き方もルックスも対照的な弟の日々人を岡田将生という旬の若手二人が好演している。
未完結の長編漫画の映像化というハンディを、全く感じさせない大森美香の脚色が素晴らしく、それを受けた森義隆監督の画作りも、宇宙開発という題材に負けないスケールの大きなもので、兄弟の絆という小さな話を核にしながら、そこからの広がりは大作感がある。
雄大な宇宙のロマンに浸りながら、何時の間にかスクリーンから背中を押され、前向きな気持になれる快作だ。
※ラストに触れてます。
西暦2025年。
失業中の南波六太(小栗旬)の元に、JAXA(宇宙航空研究開発機構)から宇宙飛行士試験の書類選考通過の通知が届く。
実はこれ、六太の弟で現役宇宙飛行士の日々人(岡田将生)が、勝手に応募したもの。
少年時代、共に宇宙を目指す約束をしながら、何時しか道を外れて行った兄の、再出発の後押しをしたのだった。
最初は戸惑ったものの、二次選考に挑んだ六太は秘めた才能を発揮し、次々と難関を突破する。
一方の日々人は日本人初となる月面着陸へ向けて、宇宙船アルテミス号で月へと旅立つが、時を同じくして六太は宇宙飛行士への最終試験に挑む事になる。
それは、密閉された空間で6人のチームメイトと共に10日間暮らし、毎日出題される様々な課題をクリヤするという物。
順調に試験が進む中、六太の元に月面の日々人が事故に巻き込まれ、消息を絶ったという連絡が入る・・・
「宇宙飛行士になりたいー」
子供の頃、将来の夢をこう作文に書いた人は多いだろう。
アポロ世代である私もその一人で、子供の頃はISSならぬスカイラブの上空通過を観察したし、スペースシャトルの初飛行もライブで見た。
自分たちの暮らすこの地球を、外側から眺める事の出来る宇宙には、人々を見果てぬ夢に駆り立てるフロンティアの誘惑がある。
しかし嘗ての宇宙キッズも、だんだんと成長するに従って、いつしか宇宙飛行士は夢のままになり、地に足を付けて、もとい地に縛り付けられて生きる様になるのだ。
そう、本作の主人公である六太は、正にそんな我々をまんま物語の中に放り込んだような人物であり、それゆえに感情移入が非常にしやすいのである。
脚本の大森美香が実に良い仕事をしている。
この人は漫画原作だからと言って、無理に原作の雰囲気を合わせたり、エピソードを詰め込むような事はせず、一度きちんと映画として物語を構成した上で、取捨選択して物語に取り込んでいるので、ストーリーラインが綺麗で観易い。
エリート街道を邁進する弟と、落ちこぼれの兄貴という設定は、南ちゃんこそいないものの「タッチ」以来の少年漫画の王道パターンの一つだ。
映画は、この二人の少年時代からの宇宙という夢を縦軸に、横軸の様々なエピソードを交錯させ、それぞれに伏線として有機的な役割を持たせる事で進行してゆく。
人類の宇宙開発の歴史を辿る、ワクワクするオープニングでまずは観客の心をキャッチ。
そして前半を六太の再出発物語として、彼の宇宙飛行士チャレンジを中心に構成し、最終の閉鎖空間テストに入り、画面に動きが無くなると、月面の日々人の物語と並行する様に展開させ、クライマックスを地球と月という遠大な空間で隔てられた兄弟の絆に持ってくる辺り、実にロジカルで上手い。
原作ファンには異論もあろうが、一本の映画としてのあり方としてはまことに正しく、個人的にはしばしばくどさを感じる原作よりも、映画のシンプルさの方に好感が持てる。
もちろん、宇宙開発をモチーフにした話であるからには、単なる人間ドラマだけでは物足りない。
ハリウッド映画にも見劣りしない、出色の出来の映像が本作の世界観をグッと広げる。
巨大な月ロケット、アルテミス号の打ち上げシーンの迫力は、本物のアポロの映像を見慣れていても圧巻だし、後半のかなりの部分を占める月面のシーンは、スタジオ撮りだとわかっていても本当に月にトリップした様なリアリティがあり、ビジュアルの仕上がりは日本映画屈指と言っても良い。
この打ち上げシーンには、“嘗て月面を歩いた男”バズ・オルドリン本人も降臨。
相方のニール・アームストロングが仙人の様な引きこもり生活を送っているのに対して、この人はちょくちょくメディアで見かけるけど、多分出たがりなんだろうな(笑
オルドリンの、「ロケットを打ち上げる力とは、飛行士たちの勇気、管制官たちの情熱、人々の敬意なのだ」という言葉にも後押しされた六太は、いよいよ自分の中に燃え上がる宇宙への熱を燃料に、本物の宇宙飛行士になる決意を固める。
そして六太と日々人、それぞれが今立っているステージで、最大の危機を乗り越えるクライマックスから、ちょっと出来過ぎな気さえする、痛快無比なラストまで、物語は観客の心に疼く未知の世界へのロマンを掻き立てる。
本作に描かれる2025年から2031年までの世界は、日本映画が久々に見せた希望に満ちた未来予想図だ。
仕事をリストラされ、人生に迷っている頃の六太は下ばかり見ているが、宇宙への情熱を蘇らせた後半は、少年の様な憧れの目で宇宙に浮かぶ月を見上げている。
地上の生き物である人類に翼を与え、月にまで到達させたエネルギーは、大元を辿れば想像力である。
人間の想像力の及ぶ範囲なら、いつか必ず人類の手は届くし、それに向かって邁進すれば、何らかの形で人生は報われる。
それでも一人一人の人生は一度きりで、座り込んでいる時間はない。
これは、エンドレスの不況に未曾有の大災害のダブルパンチを受け、すっかり意気消沈している日本人へ、スクリーンから贈られたパワフルなエール。
2031年の月面の日章旗が本当になるかどうかは、全て今の我々次第なのだ。
今回は、宇宙で生まれた酒、「土佐宇宙酒 玉川 安芸虎 純米大吟醸」をチョイス。
もちろんこれ自体が宇宙で醸造された訳ではなく、高知県の蔵元有志によって推進された、日本酒酵母を宇宙へ送ろうというプロジェクトによって生まれた酒のこと。
2005年に国際宇宙ステーションへ運ばれた高知県産酵母は、8日間を宇宙で過ごした後に帰還。
この酵母を使った宇宙酒は、今では高知県のいくつかの蔵元から発売されている。
実際の味としては、まあ普通の美味しい日本酒だが、地球を外から眺めた酒だと思えば、遥かなロマンに酔いも早くなるだろう。

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2012年05月01日 (火) | 編集 |
母の消えゆく記憶の中で、唯一残ったものとは・・・。
これは昭和の文豪、井上靖が母親との間に抱えた葛藤を描いた自伝的小説、「わが母の記」三部作を「クライマーズ・ハイ」の原田眞人監督が映画化した作品だ。
役所広司、樹木希林、宮崎あおいら日本を代表する演技派キャストを迎え、昭和3、40年代の高度成長期を背景に、10年間に渡る親子と家族の物語が描かれる。
幼少期の記憶から、どうしても年老いた母と素直に向き合えない主人公が、自らも親として娘たちの成長を経験してゆく過程で、徐々に母の心を理解してゆく。
第35回モントリオール世界映画祭で、審査員特別グランプリを受賞した話題作だ。
1959年。
43歳の作家、伊上洪作(役所広司)は父(三国連太郎)の見舞に訪れた湯ヶ島の両親の家で、母・八重(樹木希林)の痴呆の兆候を目にする。
洪作が自宅に戻ると、妻・美津(赤間麻里子)と長女の郁子(ミムラ)と紀子(菊地亜希子)が、洪作の著作の検印作業に追われているが、三女の琴子(宮崎あおい)の姿は見えない。
変わり者の琴子は、自分たちを小説のネタにする父に不満を募らせ、しばしば二人は衝突する。
数年後、八重の痴呆はますます進行し、湯ヶ島で八重の面倒を見ている洪作の妹、志賀子(キムラ緑子)夫婦の都合もあって、しばらくの間、八重を東京の洪作の家で面倒を見ることになるのだが・・・・
原作は未読。
予備知識は幼少期に母に捨てられた記憶から、母を許せないでいる男の話という位で、予告編でも樹木希林が「どうしたら、生きているうちに息子に会えるのだか・・・」と言っていたので、てっきり何十年も離れ離れの母子が、許しあって再会する話なのかと思っていたのだが、映画が始まると少し拍子抜けした。
何しろ主人公の洪作は妹と共に病床の父を見舞い、母の八重ともごく普通に会話を交わしているではないか。
母を許せないというのは、あくまでも心の中の蟠りの事であって、物理的に会わないとか、縁を切っているとかいう訳ではないのだ。
もちろん、“愛する母に捨てられた”という記憶が、洪作の自分史の中に刺さった棘なのは間違いない。
映画の冒頭、小津安二郎監督の「浮草」を思わせる洪作の回想シーンに、雨の中で軒下に佇む母と二人の妹と、道を挟んだ反対側にいる少年時代の自分が登場する。
降りしきる雨は、家族と引き離された洪作の涙雨であり、彼にとって数十年も後を引くトラウマの風景でもある。
表面上は普通の親子でも、洪作と八重の“記憶”の間には今も同じだけの距離があるのだ。
タイトルの「わが母の記」には「Chronicle of My Mather」という英題が付いているが、本作は同時に「Chronicle of My Family」でもある。
冒頭のシーン、また劇中でも台詞で言及されるように、原田眞人監督が一連の小津安二郎の作品を意識しているのは間違いないだろう。
小津が「東京物語」を世に出した、日本の家族制度が激変する時代を背景に、本作では洪作と八重との関係だけでなく、洪作と妻や娘たち妹たちとの愛情や衝突、共感が濃密に描かれ、ある種の“昭和の家族史”となっているのである。
とは言え、本作は所謂小津調の忠実な再現を試みている訳ではない。
現代日本映画随一のテクニシャンである原田監督は、小津作品へのオマージュを取り入れながらも、スピード感のある展開で昭和の家族をあくまで自分流に料理する。
閉ざされた内面の葛藤である洪作の八重に対する複雑な感情とは対照的に、物語を華やかに彩るのはそれぞれに個性的な性格の伊上家の三姉妹。
さっさと結婚して、洪作に初孫をもたらす長女の郁子、パニック障害の気があり、洪作のせいでベルイマンの「処女の泉」をラストまで観られなかったと愚痴る次女の紀子、そしてカメラマン志望で、何かにつけて洪作とやりあう気の強い三女の琴子。
特に宮崎あおい演じる琴子は、本作の語り部的なポジションでもあり、洪作とは似たもの同士で、言わば女の姿をしたもう一人の自分でもあるという重要な役柄だ。
本作に描かれる10年間は、洪作が八重と向き合う事ができるまでの期間であるのと同時に、娘たちが洪作の元から巣立って行く10年でもある。
時にぶつかり合い、時に助け合い、成長して行く娘たちと共に、実は洪作もまた親として少しづつ成熟してゆく。
やがて、洪作の抱えていた八重への葛藤は意外な形であっさりと解消する。
痴呆が進み、自分をもう息子と認識できない八重から、ある時洪作は自分が“捨てられた”と思い込んでいた体験の、裏側にあった真実を聞かされるのだ。
二人の間に何十年もの間、決して解けない結び目の様に横たわっていた葛藤は、実はほんの小さなボタンの掛け違い、二人の記憶の差異が作り出した誤解に過ぎなかった。
自分の人生を作り上げたともいえる人間形成の原点が、一瞬にして消失してしまう衝撃を味わった洪作の前に、それまで知らなかった母の辿った“もう一つの家族史”が一気に開けるのである。
物語の終盤、記憶の中の洪作に会いたいという思いから、伊豆の海までやって来た八重が、後を追ってきた洪作に「どなたかぞんじませんが・・・」とおんぶしてもらうシーンがある。
母への愛情に溢れた洪作の表情と、息子の背中で静かに目を閉じ、安心しきった様な八重の姿は、かけがえのない心のよりどころとしての家族の絆を、ドラマチックに感じさせる。
「わが母の記」は話よし、芝居よし、映像よしの三拍子揃った力作であり、映画作家・原田眞人にとっても新境地と言える。
決して派手な部分の無いホームドラマを、パワフルかつ品格のある娯楽映画としても昇華しているのはお見事だが、それ故にもう一段階の高みを望んだとしても、決して無い物ねだりとは言えまい。
原田眞人の映画の面白さは、卓越したテクニック、特にあるカットから次のカットへの切り替わりだったり、カメラワークだったり、人物の配置や動かし方といった、ストーリーを展開させる技術的な上手さによる部分が大きい。
その為に、画面は常に動き続け、展開し続けるので、ディテールの緩急が希薄だ。
例えばスピルバーグの「戦火の馬」には、映像が動いていようが止まっていようが、有無を言わせぬ圧倒的な画力によって観客の目を捉えて離さぬ、鳥肌が立つ様なカットが複数ある。
それらは、明らかに他の部分からは突出した存在感を放ち、映像技術、俳優の演技と連動する事によって、観客のエモーション激しく揺さぶるのだ。
本作は非常にロジカルで上手い映画だが、残念ながらそこまでの映画的カタルシスを感じる瞬間が存在しないのである。
役所広司や樹木希林が素晴らしい名演を見せているからこそ、登場人物の感情がスクリーンを突き破って飛び出してくる様な“圧倒的な1カット”が欲しかった。
まあ、それが無くても十分見事な映画なのだけど。
今回は映画の重要な背景になる伊豆の地酒、万大醸造の「大吟醸 脇田屋」をチョイス。
大吟醸らしい華やかな吟醸香が立ち上り、柔らかなコクと共にすっきりとした甘味が口いっぱいに広がる。
正に母の様な優しいイメージの一本だ。
これからの季節は冷で、伊豆の海産物や洪作が大好きな蕎麦がきなどを肴に一杯やりたい。
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これは昭和の文豪、井上靖が母親との間に抱えた葛藤を描いた自伝的小説、「わが母の記」三部作を「クライマーズ・ハイ」の原田眞人監督が映画化した作品だ。
役所広司、樹木希林、宮崎あおいら日本を代表する演技派キャストを迎え、昭和3、40年代の高度成長期を背景に、10年間に渡る親子と家族の物語が描かれる。
幼少期の記憶から、どうしても年老いた母と素直に向き合えない主人公が、自らも親として娘たちの成長を経験してゆく過程で、徐々に母の心を理解してゆく。
第35回モントリオール世界映画祭で、審査員特別グランプリを受賞した話題作だ。
1959年。
43歳の作家、伊上洪作(役所広司)は父(三国連太郎)の見舞に訪れた湯ヶ島の両親の家で、母・八重(樹木希林)の痴呆の兆候を目にする。
洪作が自宅に戻ると、妻・美津(赤間麻里子)と長女の郁子(ミムラ)と紀子(菊地亜希子)が、洪作の著作の検印作業に追われているが、三女の琴子(宮崎あおい)の姿は見えない。
変わり者の琴子は、自分たちを小説のネタにする父に不満を募らせ、しばしば二人は衝突する。
数年後、八重の痴呆はますます進行し、湯ヶ島で八重の面倒を見ている洪作の妹、志賀子(キムラ緑子)夫婦の都合もあって、しばらくの間、八重を東京の洪作の家で面倒を見ることになるのだが・・・・
原作は未読。
予備知識は幼少期に母に捨てられた記憶から、母を許せないでいる男の話という位で、予告編でも樹木希林が「どうしたら、生きているうちに息子に会えるのだか・・・」と言っていたので、てっきり何十年も離れ離れの母子が、許しあって再会する話なのかと思っていたのだが、映画が始まると少し拍子抜けした。
何しろ主人公の洪作は妹と共に病床の父を見舞い、母の八重ともごく普通に会話を交わしているではないか。
母を許せないというのは、あくまでも心の中の蟠りの事であって、物理的に会わないとか、縁を切っているとかいう訳ではないのだ。
もちろん、“愛する母に捨てられた”という記憶が、洪作の自分史の中に刺さった棘なのは間違いない。
映画の冒頭、小津安二郎監督の「浮草」を思わせる洪作の回想シーンに、雨の中で軒下に佇む母と二人の妹と、道を挟んだ反対側にいる少年時代の自分が登場する。
降りしきる雨は、家族と引き離された洪作の涙雨であり、彼にとって数十年も後を引くトラウマの風景でもある。
表面上は普通の親子でも、洪作と八重の“記憶”の間には今も同じだけの距離があるのだ。
タイトルの「わが母の記」には「Chronicle of My Mather」という英題が付いているが、本作は同時に「Chronicle of My Family」でもある。
冒頭のシーン、また劇中でも台詞で言及されるように、原田眞人監督が一連の小津安二郎の作品を意識しているのは間違いないだろう。
小津が「東京物語」を世に出した、日本の家族制度が激変する時代を背景に、本作では洪作と八重との関係だけでなく、洪作と妻や娘たち妹たちとの愛情や衝突、共感が濃密に描かれ、ある種の“昭和の家族史”となっているのである。
とは言え、本作は所謂小津調の忠実な再現を試みている訳ではない。
現代日本映画随一のテクニシャンである原田監督は、小津作品へのオマージュを取り入れながらも、スピード感のある展開で昭和の家族をあくまで自分流に料理する。
閉ざされた内面の葛藤である洪作の八重に対する複雑な感情とは対照的に、物語を華やかに彩るのはそれぞれに個性的な性格の伊上家の三姉妹。
さっさと結婚して、洪作に初孫をもたらす長女の郁子、パニック障害の気があり、洪作のせいでベルイマンの「処女の泉」をラストまで観られなかったと愚痴る次女の紀子、そしてカメラマン志望で、何かにつけて洪作とやりあう気の強い三女の琴子。
特に宮崎あおい演じる琴子は、本作の語り部的なポジションでもあり、洪作とは似たもの同士で、言わば女の姿をしたもう一人の自分でもあるという重要な役柄だ。
本作に描かれる10年間は、洪作が八重と向き合う事ができるまでの期間であるのと同時に、娘たちが洪作の元から巣立って行く10年でもある。
時にぶつかり合い、時に助け合い、成長して行く娘たちと共に、実は洪作もまた親として少しづつ成熟してゆく。
やがて、洪作の抱えていた八重への葛藤は意外な形であっさりと解消する。
痴呆が進み、自分をもう息子と認識できない八重から、ある時洪作は自分が“捨てられた”と思い込んでいた体験の、裏側にあった真実を聞かされるのだ。
二人の間に何十年もの間、決して解けない結び目の様に横たわっていた葛藤は、実はほんの小さなボタンの掛け違い、二人の記憶の差異が作り出した誤解に過ぎなかった。
自分の人生を作り上げたともいえる人間形成の原点が、一瞬にして消失してしまう衝撃を味わった洪作の前に、それまで知らなかった母の辿った“もう一つの家族史”が一気に開けるのである。
物語の終盤、記憶の中の洪作に会いたいという思いから、伊豆の海までやって来た八重が、後を追ってきた洪作に「どなたかぞんじませんが・・・」とおんぶしてもらうシーンがある。
母への愛情に溢れた洪作の表情と、息子の背中で静かに目を閉じ、安心しきった様な八重の姿は、かけがえのない心のよりどころとしての家族の絆を、ドラマチックに感じさせる。
「わが母の記」は話よし、芝居よし、映像よしの三拍子揃った力作であり、映画作家・原田眞人にとっても新境地と言える。
決して派手な部分の無いホームドラマを、パワフルかつ品格のある娯楽映画としても昇華しているのはお見事だが、それ故にもう一段階の高みを望んだとしても、決して無い物ねだりとは言えまい。
原田眞人の映画の面白さは、卓越したテクニック、特にあるカットから次のカットへの切り替わりだったり、カメラワークだったり、人物の配置や動かし方といった、ストーリーを展開させる技術的な上手さによる部分が大きい。
その為に、画面は常に動き続け、展開し続けるので、ディテールの緩急が希薄だ。
例えばスピルバーグの「戦火の馬」には、映像が動いていようが止まっていようが、有無を言わせぬ圧倒的な画力によって観客の目を捉えて離さぬ、鳥肌が立つ様なカットが複数ある。
それらは、明らかに他の部分からは突出した存在感を放ち、映像技術、俳優の演技と連動する事によって、観客のエモーション激しく揺さぶるのだ。
本作は非常にロジカルで上手い映画だが、残念ながらそこまでの映画的カタルシスを感じる瞬間が存在しないのである。
役所広司や樹木希林が素晴らしい名演を見せているからこそ、登場人物の感情がスクリーンを突き破って飛び出してくる様な“圧倒的な1カット”が欲しかった。
まあ、それが無くても十分見事な映画なのだけど。
今回は映画の重要な背景になる伊豆の地酒、万大醸造の「大吟醸 脇田屋」をチョイス。
大吟醸らしい華やかな吟醸香が立ち上り、柔らかなコクと共にすっきりとした甘味が口いっぱいに広がる。
正に母の様な優しいイメージの一本だ。
これからの季節は冷で、伊豆の海産物や洪作が大好きな蕎麦がきなどを肴に一杯やりたい。

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