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わが母の記・・・・・評価額1650円
2012年05月01日 (火) | 編集 |
母の消えゆく記憶の中で、唯一残ったものとは・・・。

これは昭和の文豪、井上靖が母親との間に抱えた葛藤を描いた自伝的小説、「わが母の記」三部作を「クライマーズ・ハイ」の原田眞人監督が映画化した作品だ。
役所広司、樹木希林、宮崎あおいら日本を代表する演技派キャストを迎え、昭和3、40年代の高度成長期を背景に、10年間に渡る親子と家族の物語が描かれる。
幼少期の記憶から、どうしても年老いた母と素直に向き合えない主人公が、自らも親として娘たちの成長を経験してゆく過程で、徐々に母の心を理解してゆく。
第35回モントリオール世界映画祭で、審査員特別グランプリを受賞した話題作だ。

1959年。
43歳の作家、伊上洪作(役所広司)は父(三国連太郎)の見舞に訪れた湯ヶ島の両親の家で、母・八重(樹木希林)の痴呆の兆候を目にする。
洪作が自宅に戻ると、妻・美津(赤間麻里子)と長女の郁子(ミムラ)と紀子(菊地亜希子)が、洪作の著作の検印作業に追われているが、三女の琴子(宮崎あおい)の姿は見えない。
変わり者の琴子は、自分たちを小説のネタにする父に不満を募らせ、しばしば二人は衝突する。
数年後、八重の痴呆はますます進行し、湯ヶ島で八重の面倒を見ている洪作の妹、志賀子(キムラ緑子)夫婦の都合もあって、しばらくの間、八重を東京の洪作の家で面倒を見ることになるのだが・・・・


原作は未読。
予備知識は幼少期に母に捨てられた記憶から、母を許せないでいる男の話という位で、予告編でも樹木希林が「どうしたら、生きているうちに息子に会えるのだか・・・」と言っていたので、てっきり何十年も離れ離れの母子が、許しあって再会する話なのかと思っていたのだが、映画が始まると少し拍子抜けした。
何しろ主人公の洪作は妹と共に病床の父を見舞い、母の八重ともごく普通に会話を交わしているではないか。
母を許せないというのは、あくまでも心の中の蟠りの事であって、物理的に会わないとか、縁を切っているとかいう訳ではないのだ。

もちろん、“愛する母に捨てられた”という記憶が、洪作の自分史の中に刺さった棘なのは間違いない。
映画の冒頭、小津安二郎監督の「浮草」を思わせる洪作の回想シーンに、雨の中で軒下に佇む母と二人の妹と、道を挟んだ反対側にいる少年時代の自分が登場する。
降りしきる雨は、家族と引き離された洪作の涙雨であり、彼にとって数十年も後を引くトラウマの風景でもある。
表面上は普通の親子でも、洪作と八重の“記憶”の間には今も同じだけの距離があるのだ。

タイトルの「わが母の記」には「Chronicle of My Mather」という英題が付いているが、本作は同時に「Chronicle of My Family」でもある。
冒頭のシーン、また劇中でも台詞で言及されるように、原田眞人監督が一連の小津安二郎の作品を意識しているのは間違いないだろう。
小津が「東京物語」を世に出した、日本の家族制度が激変する時代を背景に、本作では洪作と八重との関係だけでなく、洪作と妻や娘たち妹たちとの愛情や衝突、共感が濃密に描かれ、ある種の“昭和の家族史”となっているのである。
とは言え、本作は所謂小津調の忠実な再現を試みている訳ではない。
現代日本映画随一のテクニシャンである原田監督は、小津作品へのオマージュを取り入れながらも、スピード感のある展開で昭和の家族をあくまで自分流に料理する。

閉ざされた内面の葛藤である洪作の八重に対する複雑な感情とは対照的に、物語を華やかに彩るのはそれぞれに個性的な性格の伊上家の三姉妹
さっさと結婚して、洪作に初孫をもたらす長女の郁子、パニック障害の気があり、洪作のせいでベルイマンの「処女の泉」をラストまで観られなかったと愚痴る次女の紀子、そしてカメラマン志望で、何かにつけて洪作とやりあう気の強い三女の琴子。
特に宮崎あおい演じる琴子は、本作の語り部的なポジションでもあり、洪作とは似たもの同士で、言わば女の姿をしたもう一人の自分でもあるという重要な役柄だ。
本作に描かれる10年間は、洪作が八重と向き合う事ができるまでの期間であるのと同時に、娘たちが洪作の元から巣立って行く10年でもある。
時にぶつかり合い、時に助け合い、成長して行く娘たちと共に、実は洪作もまた親として少しづつ成熟してゆく。

やがて、洪作の抱えていた八重への葛藤は意外な形であっさりと解消する。
痴呆が進み、自分をもう息子と認識できない八重から、ある時洪作は自分が“捨てられた”と思い込んでいた体験の、裏側にあった真実を聞かされるのだ。
二人の間に何十年もの間、決して解けない結び目の様に横たわっていた葛藤は、実はほんの小さなボタンの掛け違い、二人の記憶の差異が作り出した誤解に過ぎなかった。
自分の人生を作り上げたともいえる人間形成の原点が、一瞬にして消失してしまう衝撃を味わった洪作の前に、それまで知らなかった母の辿った“もう一つの家族史”が一気に開けるのである。
物語の終盤、記憶の中の洪作に会いたいという思いから、伊豆の海までやって来た八重が、後を追ってきた洪作に「どなたかぞんじませんが・・・」とおんぶしてもらうシーンがある。
母への愛情に溢れた洪作の表情と、息子の背中で静かに目を閉じ、安心しきった様な八重の姿は、かけがえのない心のよりどころとしての家族の絆を、ドラマチックに感じさせる。

「わが母の記」は話よし、芝居よし、映像よしの三拍子揃った力作であり、映画作家・原田眞人にとっても新境地と言える。
決して派手な部分の無いホームドラマを、パワフルかつ品格のある娯楽映画としても昇華しているのはお見事だが、それ故にもう一段階の高みを望んだとしても、決して無い物ねだりとは言えまい。
原田眞人の映画の面白さは、卓越したテクニック、特にあるカットから次のカットへの切り替わりだったり、カメラワークだったり、人物の配置や動かし方といった、ストーリーを展開させる技術的な上手さによる部分が大きい。
その為に、画面は常に動き続け、展開し続けるので、ディテールの緩急が希薄だ。
例えばスピルバーグの「戦火の馬」には、映像が動いていようが止まっていようが、有無を言わせぬ圧倒的な画力によって観客の目を捉えて離さぬ、鳥肌が立つ様なカットが複数ある。
それらは、明らかに他の部分からは突出した存在感を放ち、映像技術、俳優の演技と連動する事によって、観客のエモーション激しく揺さぶるのだ。
本作は非常にロジカルで上手い映画だが、残念ながらそこまでの映画的カタルシスを感じる瞬間が存在しないのである。
役所広司や樹木希林が素晴らしい名演を見せているからこそ、登場人物の感情がスクリーンを突き破って飛び出してくる様な“圧倒的な1カット”が欲しかった。
まあ、それが無くても十分見事な映画なのだけど。

今回は映画の重要な背景になる伊豆の地酒、万大醸造の「大吟醸 脇田屋」をチョイス。
大吟醸らしい華やかな吟醸香が立ち上り、柔らかなコクと共にすっきりとした甘味が口いっぱいに広がる。
正に母の様な優しいイメージの一本だ。
これからの季節は冷で、伊豆の海産物や洪作が大好きな蕎麦がきなどを肴に一杯やりたい。
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