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前作「ダークナイト」で大センセーションを巻き起こした、クリストファー・ノーランによる二十一世紀版“バットマン”三部作、堂々の完結。
テーマは前作を色濃く受け継ぎながら、ストーリー的には第一作の「バットマン ビギンズ」の対のような構造となっている。
シリーズ最高の2億5千万ドルが投じられたビジュアルは、デジタル技術との巧みな共存を図りながらも、人もセットも極力実写にこだわるという、現在では超大作にしか許されない贅沢な作りになっており、全編に散りばめられた幾つもの見せ場はゴージャスそのもの。
“バットマン組”に“インセプション組”が合流した、オールスターキャストも目を楽しませる。
デカイ仕掛けを使って人間たちの極限のドラマを魅せる、正に“最後のアナログ原理主義者”、ノーランの面目躍如だ。
※ラストに触れています。
トゥーフェイスへと変貌したデントの罪を被り、堕ちた偶像となったバットマンが大衆の前から姿を消して8年。
犯罪者を徹底的に取り締まるデント法によって街は平和を取り戻した様に見える。
だが、ゴッサムシティの破壊を目論む謎の男ベイン(トム・ハーディ)が出現。
ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)はベインに雇われたセリーナ・カイル(アン・ハサウェイ)の罠に嵌り、全財産を失って“奈落”と呼ばれる脱出不可能な刑務所に監禁されていまう。
ウェイン産業の開発した核融合炉を手に入れたベインは、それを核兵器に作り変えるとゴッサムシティ全体を封鎖し、革命を宣言する・・・
怒涛の完結編である
相変わらず情報量と物語の密度は圧倒的で、165分という長大な上映時間をもってしてもキチキチ。
破綻ギリギリ、殆ど息つく間もなく、エンドクレジットまで突っ走る。
犯罪者にとっての恐怖のシンボルとして君臨する事で、ゴッサムシティを救おうとしたバットマンが、自らの合わせ鏡のような邪悪の化身、ジョーカーと対決してから8年。
街の治安はデントの死の真相を隠し、英雄へと祭り上げる事で生まれたデント法によって守られ、バットマンは引退状態にある。
しかしそれは、真実を隠蔽し人々を裏切って作り出した偽りの平和だ。
目に見えない小さな歪みは、やがてバットマンと同じくラーズ・アル・グールの弟子だったベインという最強のヴィランの出現によって、世界の屋台骨を揺るがす大きな亀裂へと広げられてゆく。
本作の物語について、脚本を執筆したジョナサン&クリストファーのノーラン兄弟は、ディケンズの「二都物語」の影響を受けたと語っている。
なるほど、フランス革命を背景にした小説には、同じく革命をモチーフとした本作にそのまま符合する要素が沢山ある。
なぜかスケアクロウが取り仕切る裁判は、フランスの革命裁判所を思わせるし、デントの罪を被り偽物のヒーローとされたバットマンは、恋敵の代わりに断頭台の露と消えるシドニー・カートンの姿とだぶって見える。
本作には「二都物語」だけでなく例えばダンテの「神曲」などの文学作品、そして幾つもの映画作品の影響も垣間見る事が出来る。
特にベインのキャラクターはその身体的な特徴はもちろん、冒頭のCIAの小型機をC130ハーキュリーズ輸送機で捕獲するシーン、失態を犯した部下を無慈悲に殺してしまうシーンを見れば、ジョージ・ルーカスの創造した映画史上屈指のスーパーヴィラン、ダース・ヴェーダーを意識しているのは明らかだ。
ルーカスが遠い銀河の彼方を舞台に、壮大な“サガ”を作り上げたように、ノーランが自らの芸術的な記憶を総動員して描こうとしているのは、恐怖によって君臨する事を選んだ一人のダークヒーローを主人公にした、極めて強い比喩性を持った現代の神話である。
ゴッサムシティがほとんど現実のニューヨークのままなのに対して、バットマンが監禁される深い井戸状の刑務所、“奈落”などは完全にファンタジーのように造形されており、ひたすらリアリズムを重視するならあり得ないであろう、アンバランスさを感じさせる世界観のコントラストも、これがある種の神話であるという見方をすれば納得がいく。
だから運命の子であるバットマンも、「神曲」のダンテや多くの貴種流離譚神話の主人公のように、“rises(立ち上がる)”のためにいつ果てるとも知れない地獄の底を這い回るのである。
とはいえ、本作はあくまでもスペクタクルな娯楽映画。
比喩を読まないと理解出来ないような、堅苦しい作品では決してない。
観客の度肝を抜くスカイアクションから始まって、今回初登場の空飛ぶバットモービル、その名も“BAT”を使った地上と空を縦横無尽に駆け抜ける3次元バトル、ゴッサムシティを混乱に落とし入れる同時多発爆発に、ベインの私兵軍団と復活したバットマンに勇気づけられた三千人の警官たちとの肉弾戦と盛り沢山。
ピッタリしたボンデージ風スーツに身を包み、颯爽とバットポッドを駆るアン・ハサウェイ演じるキャットウーマンは、男臭い世界の中の貴重な萌えポイントだ。
もちろん、すっかりブルース・ウェイン役が板に付いたクリスチャン・ベールやマイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマンらのレギュラー陣に、「インセプション」のジョセフ・ゴードン=レヴィット、マリオン・コティヤール、トム・ハーディらが加わったキャストの織り成す人間ドラマは、まるで優れた推理小説を読むかのようにミステリアスでパワフルだ。
キャスティングでは“奈落”で傷付いたバットマンに対して、重要な啓示となる言葉を投げかける男が、「戦場のメリー・クリスマス」のMr.ローレンスことトム・コンティなのは嬉しいサプライズ。
このシリーズが、ハリウッドの素材を使いながら、同時に最もイギリス映画らしい作品であることを再確認させてくれた。
しかし、バットマンというスーパーヒーローを描く活劇としては満点と言って良い本作も、やはり前作ほどの衝撃は感じられないのもまた事実。
その理由はただ一つ、“市民”の物語上のプライオリティが低い事だろう。
「ダークナイト」は一般市民の究極の選択が、最終的にジョーカーという絶対悪を打ち負かすのだが、今回は前作からテーマを受け継いでいるにもかかわらず、市民の存在は背景にとどまっている。
実際に葛藤しクライマックスで戦うのは、バットマン率いる警官たちとベインらの私兵で、これは要するに米軍vsアルカイダみたいな物であり、明確な理念と理念の対決だ。
実際に歴史を作ってきたのは往々にして物言わぬ大衆ではなく、覚悟を決めた過激派であるのは確かだし、警官たちを市民の代表として描いたと言えなくもないが、願わくばそれぞれの良心に従って立ち上がる一般の市民に触発され、萎縮していた警官たちが合流し矢面に立つという展開にした方が、このシリーズの結末としては相応しかった様に思う。
さて、終盤で明かされる“オートパイロットのパッチ”をどう解釈するかによって、マイケル・ケインが観た風景が現実か幻かの判断は別れそうだが、いずれにしてもクリストファー・ノーランによる若きバットマンの物語は映画としてはこれで終わりだろう。
しかし、ある登場人物の本当の名前が明かされ、伝説の継承者となることが示唆される熱血なラストカットは鳥肌が立つほどに鮮やかだ。
ノーランは、映画を完結させながら、同時に物語の永続性を示すことで、既に伝説的なこの三部作を、二十一世紀の映像神話として昇華させたのである。
この映画に合うのは、やはりアメリカの酒よりもイギリスの酒。
英国スペイサイドにある蒸留所、ゲール語で「静かな谷」を意味するグレンリヴェットから、「ザ・グレンリベット 18年」をチョイス。
エレガントになめらかで、口に含むとまろやかなアロマがふわりと広がる。
全てにおいてバランスよく、お手本のような一本だ。
ダークナイト、いやバットマンに乾杯!

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「時をかける少女」「サマーウォーズ」のヒットで、一躍ヒットメーカーとなった細田守監督は、遂に驚嘆すべき作品を作り上げた。
これをファンタジックなだけのファミリー映画と思って観ると、少々痛い目に合う。
狼男に恋した一人の女性が、二人の間に生まれた「おおかみこどもの雨と雪」を様々な葛藤を乗り越えて育て上げる物語には、ファンタジーとかラブストーリーとかエコロジーとかのジャンルを超えた、本質的な生命の循環と魂の絆が描かれており、それは時として心が震えるほど衝撃的で厳しく、時として鳥肌が立つほどに荘厳で美しい。
2012年の夏、この大傑作を劇場で観られる事は、映画を愛する全ての者にとって至福の喜びとなるだろう。
※ラストに触れています。
19歳の大学生、花(宮崎あおい)が恋した相手は「おおかみおとこ」(大沢たかお)だった。
やがて二人の間には雪(黒木華/大野百花)という女の子と、雨(西井幸人/加部亜門)という男の子が生まれるが、「おおかみおとこ」はある日突然帰らぬ人となる。
人間とけものという二つの顔を持つ子供たちを抱えた花は、人目につかぬように山深い里へと引越し、自給自足しながら女手一つで子育てを始める。
二人が小学校に通うようになると、社交的な雪と孤独を愛する雨の世界は少しづつ変わり始め、やがて雨は学校へ行かずに森を学び舎とする様になる。
そしてある年の夏、遂に雨と雪は人間として生きるか、狼として生きるかの選択を迫られ、それは同時に花にとっても決断の時となるのだが・・・・
自分がアニメ作りに関わっていながら、こんな事を言うのもなんだが、私は人間性の表現において究極的にはアニメは実写にかなわないと思っていて、どんなに素晴らしいアニメを観ても、心のどこかで「この先はないのだろうか」と考えてしまっていた。
このブログを開設してからの7年で、純粋なアニメ作品に満点をつけた事がないのもそのためである。
しかし本作によって、私の中にあったこの考えはあっけなく打ち砕かれた。
冒頭のイメージシーンに漂う不思議な詩情で、既に本作が並の映画でないことは確信出来るが、大学に通う花と狼男の“彼”が運命の出会いをし、二人の生活が繊細な描写で綴られる前半の都会のシークエンスで、もうその愛おしさに涙が出てくる。
二人が自然に恋に落ちてから、狼男が自分の素性を打ち明け、花が全てを受け入れて結ばれ、子供達が生まれるまでの時間の流れが、ほとんどセリフもなく一続きの情景として描かれてゆく。
一見すると実写でもいけそうだが、この極限まで無駄を排した世界は、ある種のデザイン化されたイメージであり、アニメーションでしか絶対に描けない。
狼男との恋、そして狼と人間の二面性を持つ子供達の誕生は、もちろんメタファーであろうが、本作はアニメーションならではの比喩性、デザイン性をビジュアル・作劇に最大限活かし、実写で描ける世界とは全く異なるベクトルで、稀有な密度を持つ人間ドラマを成立させたという点で画期的なのである。
二つの世界に属する雨と雪を抱えた花は、何時の日か二人が自立する時に、何方の世界も選べるようにと、森と人里の境界に位置する北アルプスの山深い地に移り住む。
そしてこの美しくも厳しい土地で、花は自らの手で畑を耕し、作物を作り、雪と雨を育ててゆく。
いや、育つのは子供達だけではない。
若くして母となった花もまた、土地の古老や同世代の母親達との触れ合いに助けられながら、二人の子供の育児を通して逞しく成長してゆく。
この辺りの描写は、嘗ての国民的人気ドラマ「北の国から」を思わせ、次第に大きくなってゆく子供達に観客の大人たちもすっかり親目線になってしまうが、細田監督自身はまだ子供がいないというのだから驚きだ。
曰く「憧れで描いた」らしいが、全く恐るべき観察力と想像力である。
花と子供達の13年の歳月は、ググッと映画的に凝縮され、やがて物語は成長著しい雪と雨、そして彼らを見守る花の目線が入り交じった物となり、幾つもの人生の分岐を経験するうちに、このちょっと不思議な家族の関係も変わってくる。
幼い頃は、快活な野生児の雪と臆病な都会っ子の雨という、コントラストがはっきりしていた二人のキャラクターは、小学校時代になるとすっかり逆転。
社交的ですっかり人間の子供達に馴染んでゆく雪とは対象的に、雨は森の主である老狐を“先生”と呼び、まるで記憶の彼方にいる父の面影を追うかの如く、森に入り浸った毎日を過ごすようになる。
そして、花と“おおかみこども”として生を受けた二人の子供達にとって人生最大の分岐点、自分の生きる世界を決める決断の瞬間が、真夏の嵐の夜にやって来る。
人間としての人生を選択する雪は、夜の校舎に初恋の相手と二人きりで取り残される。
この故・相米慎二監督の代表作、「台風クラブ」チックなシチュエーションで、雪がとるある意外な行動とその映像表現は、幻想的な美しさを漂わせる本作屈指の名シーン。
因みに本作の共同脚本家である奥寺佐渡子のデビュー作が、相米監督の「お引越し」であったことは偶然ではあるまい。
そして森に消えた雨を追った花は、彼が既に亡き夫の様な立派な大人の狼であり、死んだ老狐に代わって森を統べるべく狼の生を選択した事を知るのである。
数奇な運命に導かれ家族となった、三つの命が交錯し、それぞれが人生の決断を経験した全く新しい朝の情景の、何と瑞々しくも崇高な美しさに満ちている事か!
本作は映像だけでなく耳でも聞かせる。
高木正勝のリリカルなスコアは、キャラクターの心情に優しく寄り添い、独特のムードで本作の情感をグッと盛り上げる。
そして主人公の花を演じる宮崎あおいが圧倒的に素晴らしく、彼女の表現力なくしてはここまでの完成度はあり得なかったと思う。
もしも今、今年の日本映画の主演女優賞を決めろと言われれば、私は彼女の声を選ぶ。
アン・サリーの唄うエンディングテーマと共に、花のその後が細やかに語られる時、この循環する命の物語は、深い余韻とともに観客の心に永遠に刻まれるだろう。
日本アニメ100年が到達した歴史的な金字塔である。
この映画、日本では同日公開となったディズニー・ピクサーの「メリダとおそろしの森」と、人間が動物に変身する物語である事、母子の絆を描いた成長物語であるという事と不思議な符合がある。
一方は中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジックなCGアニメーションで、一方は現代日本を舞台にした写実的な手描きベースのアニメーションというコントラストも面白い。
どちらも素晴らしい作品なので、是非劇場で二本を観比べるという幸福を味わって欲しい。
今回は、舞台となる立山連峰の名を関した北陸屈指の酒蔵、立山酒造の「立山 大吟醸」をチョイス。
柔らかい吟醸香が立ち昇り、優しくも凛とした味わいは、子供達の旅立ちを見守る花のイメージ。
山の清流の様に冷やして飲めば、この季節にアルプスからの風を運んできてくれるだろう。

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ピクサー・アニメーション・スタジオの長編第十三作目は、古のスコットランドを舞台に、初めて女性を主人公としたプリンセス物だ。
とは言っても、ディズニーの伝統的なプリンセスたちを想像してはいけない。
本作に登場するメリダは、王子たちとのロマンスを拒否し、馬で森を駆け抜け、得意の弓で男たちを凹ませる超アクティブな少女であり、彼女の自由な人生への渇望が、王国を揺るがすとんでもない事態を引き起こす。
監督は短編作品「ワンマンバンド」で注目されたマーク・アンドリュースと、ドリーム・ワークスの「プリンス・オブ・エジプト」で知られるブレンダ・チャップマンで、彼女の原案を元にしたオリジナルストーリーである。
物語のコアとなるのは、子の幸せを願いつつ、王族としての責任を果たそうとする母と、自分の足で人生を歩みたいと願う娘の間に生まれる葛藤だ。
※ラストに触れています。
スコットランドのとある王国。
王女メリダ(ケリー・マクドナルド)は、父ファーガス王(ビリー・コノリー)から贈られた弓に夢中。
やがて男勝りの勝気な性格に育った彼女は、おしとやかに育てたいと願う母、エリノア王妃(エマ・トンプソン)とは喧嘩ばかりしている。
ある日、エリノアから同盟を結ぶ三部族の族長の息子の誰かと結婚する様に言われたメリダは、森の奥に住む魔女に自分の運命を変える魔法を願う。
ところが魔女の作ったケーキを持ち帰ったメリダが、エリノアにそれを食べさせると、彼女はみるみるうちに巨大なクマに変身してしまう。
慌てたメリダは、クマとなったエリノアを連れて城を抜け出し、魔女の元へと向かうが、運悪く魔女は不在。
それどころか、二度目の夜が明けるまでに、魔法を解かないと人間に戻れなくなってしまう事がわかり・・・
これは予期せぬ事態に直面した母親と娘が、共に成長する寓話的物語である。
作品のカラーがピクサーっぽくないとか、「もののけ姫」みたいだとか、ドリームワークスっぽいとか、公開前からいろいろ言われていたが、ピクサーは長編CGアニメーションというカテゴリを創始した企業であり、その黎明期から自らの技術的な進化に従って、異なる物語、異なる表現に挑戦し続けてきたチャレンジャーだ。
最初期は人間の表現が難しかったために、ツルンとした質感のオモチャたちを主人公にし、わかりやすいファミリー映画として「トイ・ストーリー」を作り、幅広い層にこの新しい表現を認知させた。
そして昆虫や魚、フワフワの毛のモンスターといった有機的なキャラクターで経験をつみ、「Mr.インクレディブル」で遂に人間を主人公にしたのは、「トイ・ストーリー」から9年目の事だった。
もしも本作が「もののけ姫」の様だとしたら、それはピクサーがようやくジブリ的なる物を表現する技術的な裏付けと自信を得たという事だろう。
確かに、本作は女性が主人公である事、凝った物語のテーマ性も含め、基本“男の子の会社”だった従来のピクサー作品とは一線を画する部分がある。
中世ヨーロッパを舞台としたプリンセス物というディズニーチックな枠組みなれど、例えばいかにもファンタジー然とした「塔の上のラプンツェル」と比べると、鬱蒼とした森に覆われ実写とアニメの境界線ギリギリに作りこまれた世界観は、むしろドリーム・ワークスの傑作CGアニメ「ヒックとドラゴン」に近い。
メリダを運命に導く鬼火のデザインなどは、なるほどジブリアニメを思わせるし、何よりもモップの様な真っ赤な髪をなびかせるメリダのキャラクターは、過去のどのピクサー作品よりも生身の人間を感じさせる複雑なキャラクターだ。
映画は、子供の頃から快活で自由を求めるこの現代的な姫君と、娘を立派な王族として育て上げようとする母親の葛藤を軸に、世界中の民話や伝説を巧みに織り込んで構成されている。
人間がクマに変身してしまうというのは、イヌイットの伝承を元に作られたディズニーアニメ「ブラザー・ベア」を思わせるが、もちろん単なるオマージュではない。
元々人間と動物の変身譚には、動物の世界と人間の世界を、ある種の合わせ鏡と考える狩猟民族の世界観が反映されているという説がある。
そして、クマは親が子供をしっかりと教育した上で、親離れ子離れをする動物であり、クマになるという設定がメリダとエリノアの関係のメタファーなのは明らかだ。
そう考えると、本作でクマに変身するのが主人公のメリダではなく、母親の方なのは面白い。
もちろん、メリダが変身してしまうと物語のバランスとか、キャラ立ちとか色々と問題があるのは確かだが、結果としてこの物語のなかで一番成長したのは、クマとなったことで嫌が応でも娘との関係を見つめ直す事になったエリノアなのである。
親にとっては、子供は幾つになっても子供で、幸せにするために守り、導いてあげなければいけない存在であり、人生の経験値を持っている分、自分の失敗や成功の記憶を、そのまま子供にも当てはめてしまうこともある。
しかし子供はいつしか自我に目覚め、敷かれたレールではなく自分で切り開いた道を歩み始める。
本作のメリダとエリノアは正にこの時期にある。
エリノアは、屈強な王の妻として生きてきた自分の人生に、充実と満足を覚えているからこそ、正反対の育ち方をしている様に見えるメリダの人生を正そうとする。
王族として国を纏める立場にある以上、自分の意思を殺してでも今ある秩序を守るのが、メリダの勤めであり、幸せにもつながると言うエリノア。
そんな母に反発し、自由に生きたいというメリダの願いが、彼女をクマに変身させてしまう。
ハリウッド映画の作劇法則に反して、本作では起承転結の“承”にあたるこの部分まで、母娘の葛藤が全編の1/3を費やして描かれているが、それは二人の関係性がこの物語にとってそれだけ重要だからである。
そして、本作の原題である「BRAVE(勇気)」に込められた意味が描かれるのはここからだ。
エリノアを救うために、メリダが見せる本物の勇気、それは自らの過ちを認め、身を危険に晒しても愛する者を守ろうとする直向きさ。
エリノアがメリダに見てきた幼さゆえの無責任さや、弱さはそこには無い。
ずっと子供だと思っていた娘は、白馬の王子に頼らなければ生きていけない受身のプリンセスではない事を、エリノアは知るのである。
自分の行いの責任をとり、正そうとする勇気を見せることで、メリダは母親に子離れを自覚させ、二人はお互いを一個の人間として認め合う。
だから、本作で魔法を解かれるのはプリンセスではなく、ディズニーアニメでは大概悪役として描かれる母親の方で、魔法を解くのも王子のキスではなく、娘の真実の心なのだ。
思うに、この映画に一番感情移入するのは、子供達よりもむしろ子育て中のお母さんではなかろうか。
その意味で、本作はファミリー映画ではあるが、どちらかといえば大人向けの一本と言える。
まあ三人の王子を袖にしたことによる王国の危機に関しては、結局強引に先延ばししただけの気もするが、冒頭の人喰い熊の襲撃、片足を喰われた王のクマ嫌いなどの設定をクライマックスの伏線とする作劇の巧さ、クマになったエリノアや三人のチビ王子のユーモアたっぷりの演技など、映像的にも物語的にもさすがのクオリティ。
親子の絆を笑いとアクションたっぷりに伝えてくれる傑作ファンタジーだ。
今回は、映画の舞台となるのがスコットランドなので、定番のシングル・モルト・スコッチ「ザ・グレンリヴェット18年」をチョイス。
バニラ、洋梨など複雑なアロマと、熟成されたはちみつの様ななめらかな深みが特徴だ。
スコッチ・ウィスキーの起源は明らかでないが、スコットランドに蒸留技術を伝えたのは、5世紀に活躍した聖パトリキウスという伝承もある様で、この映画の時代には原型が存在していた可能性もある。
男勝りのメリダ王女、そのうち王やフィアンセ候補ともこんな酒を酌み交わす様になる?

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日雇い労働で生きる若者の青春を描き、第144回芥川賞を受賞した西村賢太の私小説「苦役列車」を、「マイ・バック・ページ」の山下敦弘監督が映画化。
昭和末期を舞台に、金も友も失い、恋人もなく、もちろん未来への展望も持てず、終わりなき軌道をひた走る列車の様な人生を送る主人公を森山未來が好演。
高良健吾、前田敦子、マキタスポーツらが脇を固める。
公開前から監督と原作者のバトルが話題になっていたが、あくまでも小説は小説で、映画は映画。
独立した作品として観れば、これはなかなか味わい深い作品だ。
小5の時に父親が性犯罪で逮捕され、一家離散を経験した北町貫多(森山未來)は、中学を卒業して以来、安アパートに暮らし、日雇いで稼ぐ生活を続けている。
ある日、専門学校に通う日下部正二(高良健吾)と現場で親しくなった貫多は、彼に取り計らってもらい、以前から恋心を抱いていた古本屋のバイトの女子大生、桜井康子(前田敦子)と友達になる事に成功する。
しかし、人付き合いが下手な貫多は、正二や康子とも次第に溝を作ってしまい・・・
原作は未読だが、西村賢太氏と言えば、芥川賞を受賞した時の「そろそろ風俗に行こうかと思ってた・・・」というコメントのインパクトは強烈だった。
彼の私小説を原作とする本作の主人公も相当破天荒なキャラクターだ。
舞台となるのは、世がバブル時代に突入しようとする1986年だが、森山未來演じる主人公、貫多の人生は時代の熱気とはまるで無関係。
物語的にも特に何が起こる訳でもなく、一言で言えば貫多のクダグダな毎日と、見事なまでのダメ人間っぷりを鑑賞する映画である。
「モテキ」の今っぽさがウソの様に、見た目も心も昭和の肉体労働者になり切った森山未來の演技はそれだけで一見の価値がある。
貫多は、強烈なコンプレックスと性欲以外に何も持っていない青年だ。
何しろ小学生の時に父親が性犯罪者として逮捕され、ワイドショーで晒された事で一家は離散。
中学を卒業してからは、ずっと日雇い人足としてその日暮らしを続け、稼いだ金は風俗に注ぎ込み、月一万円の家賃すら滞納し、大家にはウソにウソを重ねて払わない。
唯一の楽しみは古本屋で買う本を読む事(と風俗通い)という毎日だ。
自分を性犯罪者から生まれた汚れた存在と言い、自慢できる事は生まれも育ちも東京の生粋の江戸っ子という事くらい。
くる日もくる日も同じ事の繰り返しをしているうちに、若干19歳にして人生は理不尽で自分はどこにも行けないと思い込んでいる。
もっとも、何も無いからと言って、何もしたくない訳ではない。
溢れんばかりの若い性欲は風俗で発散しても、恋人が欲しいと思っているし、本好きが高じていつか物書きになりたいという漠然とした夢は持っている。
ただ貫多の場合、現状がどん底過ぎる上に、周りにいるのもどう見ても人生の成功者とは言えない面々故に、自分の中のパッションをどこへどう向ければ良いのかがわからなくなってしまっているのである。
高良健吾演じる同世代の正二と仲良くなった事で、遠くから憧れているだけだった康子とも友達付き合いを始め、仕事も人足から倉庫番見習いに昇進し、ようやく人生とポジティブに向き合えそうになるものの、染み付いたコンプレックスと欲望はそうそう払拭出来るものでは無い。
正二とは無理やり金を借りたあたりから何となく様子がおかしくなり、更に正二に彼女が出来ると、だんだんと距離が出来始める。
ついには、酔っ払って正二の彼女を侮辱し、怒らせた事で疎遠になってしまう。
仕事でも倉庫番の同僚が事故を起こした事にビビって、人足に逆戻り。
少しづつ言葉を交わせるようになった康子とも、彼女に遠距離恋愛中の彼氏がいることが分かると、いきなり彼女の手を舐めるという奇行に出て思いっきり引かれる。
おまけに、貫多の頭の中では「友だちになる=やらせてもらえる」という不思議な方程式が成立しているらしく、自分を抑えられず彼女を雨の中に押し倒してあっさりと振られてしまう。
転落人生に悪い意味で慣れてしまった貫多は、うまく行きそうになると、自分から全てをぶち壊してしまうのだ。
康子というキャラクターは映画オリジナルのヒロインだそうだが、物語とのマッチングはなかなか良く、失礼ながら前田敦子はこういう田舎っぽい垢抜けないキャラクターにはピッタリはまるのである。
隣室の爺さんの下の世話をするある意味衝撃的シーンや、貫多に喰らわす強烈なヘッドバッドなど、昭和の世界に馴染んだ泥臭い演技は悪くない。
もうちょっと話に絡めても良い気はするが、あくまでも貫多視点の物語と思えば、彼女の比重はこの位でちょうど良いのかもしれない。
この話は、基本的には貫多が正二と康子と出会い、やがて貫多のダメっぷりが原因で別れてゆくだけの物語だが、ディテールは丁寧で彼らを取り巻く人々の造形がまた良いのだ。
サブカル系似非インテリを気取る正二の彼女なども、いかにも下北沢で小劇団がブームになった当時を感じさせ、貫多でなくても嫌味の一つも言いたくなるし、のぞき部屋でばったり出会う貫多の元カノとか、その情夫とかいちいちキャラクターに味がある。
特に、マキタスポーツ演じる高橋は、図らずも康子以上に貫多の人生の背中を押す事になる重要な存在だ。
彼は貫多が倉庫番から人足へと戻ってしまう切っ掛けになった元同僚のおっさんで、昔歌手にスカウトされたのが自慢。
怪我をして働けなくなった高橋の数年後と、それを見つめる貫多の姿には、キャッチコピー通りに「愛すべきろくでナシ」たちへの作り手の優しさが滲み出ていて、泣けた。
元が私小説である以上、康子以外はそれぞれのキャラクターにもモデルがいるのだろうが、こういった日常の物語は、人間観察とその表現が基本という事を改めて認識させられる。
思うに、この映画の観客で、貫多という男に対して好感を抱いたり、感情移入したりする人は決して多くないだろう。
むしろ、こんなメチャクチャな奴が身近にいたら友達になりたくないと思う人が殆どではないかと思う。
しかし、そんなダメダメな主人公の生き様から、目を離すことができないのも映画の面白さ。
「苦役列車」は社会の中で蠢く人間の葛藤こそが、ドラマツルギーの要である事をリアルに感じさせてくれる映画なのである。
実は、大ヒットしている「ヘルタースケルター」と本作は、興味深いことに鏡の裏表の様に対極な部分と似た部分を合わせ持つ。
あの映画を観た人には、是非ともこちらにも足を運んで食べ比べていただきたいものだ。
今回は1964年に生まれて以来、日本人の喉を潤し続ける史上初のカップ酒、「ワンカップ大関」をチョイス。
ぶっちゃけ安酒だし決して素晴らしい味わいとは言えないが、日本酒がどうしても飲みたくて、でも財布が軽い時には頼もしい庶民の味方。
夏の暑い夜など、冷やしたワンカップを缶詰めのつまみなどでチビチビやると、なぜか本来の味を超えて美味しかったりするのである。

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色々な意味でこの夏一二を争う超話題作だろう。
全身整形美女、りりこの生き様を描く岡崎京子の未完原作を元に、「電車男」の金子ありさが脚色し、蜷川実花監督が映像化した。
もちろん、五年ぶりの主演映画でりりこを演じるは、エリカ様こと沢尻エリカだ。
タイトルの「へルタースケルター」とは、ビートルズの同名楽曲が有名だが、「大混乱、しっちゃかめっちゃか」などのカオスな状況を意味し、1969年にシャロン・テート殺人事件を引き起こしたカルト指導者、チャールズ・マンソンに大きな影響を与えたいわく付きの曲としても知られる。
なるほど、サイケデリックな映像でデコレーションされた、恐ろしいほどに破滅的なりりこの姿は正にこの言葉にピッタリだが、物語の収束点まで混沌としたまま定まらないのが少々残念だ。
芸能界の荒波を行くモデルのりりこ(沢尻エリカ)は女性たちのカリスマ。
表紙を飾る雑誌は飛ぶように売れ、CM契約は引っ張りだこ。
金と権力をもつ男たちは、砂糖を求めるアリのように彼女の美貌に群がって来る。
しかし、彼女には誰にも知られてはならない秘密があった。
実はりりこの正体は、違法な整形手術で作り上げられた全身整形美女。
検事の麻田(大森南朋)は、患者に自殺者が相次ぐ整形外科クリニックの捜査線に上がったりりこに興味を抱く。
そしてりりこも、手術の深刻な後遺症に苦しみ、クスリ塗れになったその心は崩壊寸前となってゆく・・・
蜷川監督、七年越しの企画らしい。
当初からりりこ役には沢尻エリカを考えていたそうだが、例の「別に」事件より前に彼女の中のりりこを嗅ぎ取っていたとしたら、なかなかの嗅覚と言えよう。
原作者の岡崎京子が、1996年の不慮の交通事故以来懸命のリハビリ状態にあったり、沢尻エリカがスキャンダルクイーンになってしまったりで、実際の映画化まではずいぶんと時間がかかってしまったようだが、結果的にタイミングは良かったと思う。
りりこというキャラクターに、演じる沢尻エリカのリアルを投影させ、まるで擬似ドキュメンタリーを観ているかの様な臨場感に観客を誘い込むという手法は、要するに近年のダーレン・アロノフスキーの日本版。
これはNYのバレー界を日本の芸能界に移し替えた、もう一つの「ブラック・スワン」とも言えるだろう。
現実のスキャンダルを逆手にとって、壊れてゆくりりこを演じる沢尻エリカは、自らの全てと引き換えに、美と欲望の冒険へと乗り出す“タイガー・リリー”に相応しい。
フォトグラファーである蜷川監督は、前作の「さくらん」でもインパクトの大きかった毒々しいまでにカラフルな色彩の洪水で、りりこが生きる非日常の世界を構築する。
鏡と無数のポートレートに囲まれ、窓には真っ赤に描かれた巨大な唇が一切の自然の光を拒絶するりりこの部屋は、見事なまでにシュールな彼女の心象世界のメタファーだ。
更にはりりこが手術の後遺症の苦しみから逃れる為に、薬物漬けになってからは、悪夢の様な妄想が彼女の世界を侵食しはじめ、現実と幻想の境界すら崩壊しはじめる。
泣き、叫び、ワガママ放題のりりこの姿は、演技技術としての上手い下手以前に、現実と虚構を超えて突き刺さる迫力がある。
何だかんだ言っても、本作がエリカ様という唯一無二のキャラクター抜きに成立しないのは確かだろう。
脇を固める俳優陣では、窪塚洋介演じるボンボンや大森南朋の検事ら男性キャラクターが何だかフワフワと浮世離れした不思議系なのに対して、女性たちには女のそれぞれの側面をカリカチュアしたような、クッキリとした輪郭があるのが印象的だ。
りりこに虐げられながらも、奇妙な主従関係を拒絶できないマネージャー役の寺島しのぶと、りりこの後輩のモデルでライバルになるこずえを演じる水原希子は絶妙なキャスティングだし、虚像のサイボーグであるりりこの生みの親とも言える、事務所社長と整形外科医を演じる桃井かおりと原田美枝子のツーショットはさすがの迫力だ。
しかし、この豪華な出演者は個々としては魅力的なのだが、後述するように映画全体を観た場合、作品の印象を拡散させる要因の一つになってしまっている。
力作である事は間違いないが、この映画がどこか突き抜けられていない理由。
例えば「ブラック・スワン」にあって本作に無いもの、それは圧倒的な熱狂、映画的なカタルシスである。
「ブラック・スワン」のニナは、その人間性の原点と官能的な黒鳥を演じるという到達点がハッキリとしており、故にラストの「perfect・・・」という台詞が、言葉通り彼女の絶頂として物語のオチとなるのである。
だが、本作のりりこはそのどちらもが明確で無いのだ。
彼女はどこから来て、どこへ行こうとしているのか、混沌の苦しみの中で何を見つけたのか。
殆ど出ずっぱりで描かれる彼女の内面は、逆説的に希薄化してしまっている。
特に後半は、次から次へと詰め込まれるエピソードによって、物語が堂々巡りを繰り返して前に進まなくなってしまい、物語は収束点に向かうと言うよりもカオスの淵にはまり込んでゆく。
本来ならば、全身整形がばれた後の記者会見、彼女の言う「見たいものを見せてあげる」こそがクライマックスとなるべきなのだろうが、映画はここからも冗長に続き、結局意外な人物の視点で幕を閉じるのである。
本作は観客の“見たいもの”を見せる事には確かに熱心だ。
しかしながら、作り手が“見せたいもの”は何だったのか、詰め込み過ぎの要素とキャラクターが多すぎてとっ散らかった視点によって拡散してしまい、最後まで曖昧だった様に思う。
主人公のりりこがぶっ壊れてゆくからと言って、映画の語り口までしっちゃかめっちゃかになる必要は無いのである。
ドラマの腰を折るだけにしかなっていない真っ白な取調室のシーンなど無駄な要素を取り払い、キャラクターと視点を整理して、りりこの内面の冒険を絶対的な軸にして描いた方がベターだったのではないだろうか。
今回は、りりこと飲みたいピムスベースのカクテル「ピムスロワイヤル」をチョイス。
ピムスは1840年にロンドンのジェームス・ピムという人物が、ジンをベースに柑橘類フルーツエキスなどを配合して作ったカクテルが起源で、イギリスを代表するフルーツフレーバーリキュールとなっている。
このピムス1に対して甘口のスパークリングワイン4をグラスに注ぎ、ステアする。
お好みでストロベリーガーニッシュを。
柑橘類の香りと、柔らかな甘みと適度なほろ苦さがシュワシュワと炭酸と共に広がり、爽やかに喉を潤してくれる。

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成績優秀、スポーツ万能、誰もが憧れ一目置く学園のヒーローで、バレー部キャプテンの桐島が、ある日突然姿を消す。
そして齎された、「桐島、部活やめるってよ」という何気ない一言が、若者たちの葛藤が渦巻く学園生活に、ゆっくりと波紋を広げてゆく青春群像劇。
原作は、早稲田大学在学中に第22回すばる新人賞を受賞した、朝井リョウのデビュー小説で、彼は初の平成生まれの受賞者としても話題を呼んだ。
神木隆之介ら若きアンサンブルが、青春の熱をリアリティたっぷりに感じさせ、「パーマネント野ばら」の吉田大八監督は、彼らの日常に潜む漠然とした不穏を極めて映画的な構成で炙り出した。
とある高校の金曜日。
映画部の前田涼也(神木隆之介)は、教師のお仕着せの脚本ではなく、自分の作りたい作品を撮ろうと、ゾンビ映画の撮影を開始。
バトミントン部や吹奏楽部の女子たちは部活に励み、帰宅部の生徒は校舎の裏でバスケに興じる、いつもと変わらない日常の風景。
ところが学園一の人気者で、成績も優秀なバレー部のキャプテン、桐島の姿が見えない。
やがて、彼が部活をやめたという噂が飛び交い、生徒たちの間に動揺が広がり始める・・・
タイトルロールの“桐島”は、基本的に画面に登場しない。
存在だけを感じさせ終始物語の帰趨を支配する、作劇用語で言うところの所謂マクガフィンだ。
映画は、彼が部活をやめるという噂が飛び出した“金曜日”を起点に、同じ時間を幾つもの視点で描く事で、高校生たちの日常の裏側に潜む深層心理を描き出してゆく。
部活への情熱、片想いの恋、そして様々なコンプレックスを抱えた十代の日常は、それぞれの内面で設定された、学園という社会での立ち位置の、危うい均衡の上に成り立っている。
彼らにとっての価値観の頂点、言わば“なりたくてもなれない自分”の理想型が、学園のカリスマである桐島だ。
絶対だと思われていたピラミッドの頂点、重石を失った世界は解体と再生に向かって動き始めるのである。
人間は、孤独に存在する事は出来ない動物だ。
たとえ自分が桐島とは無関係と思っていても、蜘蛛の糸のように複雑に絡み合った人間関係の変化は巡り巡って影響を与え、その小さな社会の構成員は誰も逃れる事は出来ない。
エースが不在となったバレー部は、桐島の穴を埋めようと必死になり、それまで日陰の存在だった同ポジションの小泉がはじめて脚光を浴びるが、彼は逆に桐島との差を感じ、自己嫌悪に陥ってしまう。
桐島が部活を終えるまで、校舎裏でバスケに興じて時間を潰していた友人で帰宅部の竜汰たちは、その行為の目的を喪失し退散、竜汰に恋してサックスの練習を装ってずっと見つめていたブラスバンド部の沢島亜矢は、結果的に想い人との接点を失ってしまう。
男子学生の羨望を集める美少女グループにも変化が訪れる。
桐島の彼女である梨沙は、彼が自分に何の相談もなく部活を辞めた事に傷つき、彼の中の自分の価値に疑念を抱く。
バトミントン部に所属する東原かすみと宮部実果、竜汰の彼女である沙奈との間には、桐島退部後の小泉への態度を切っ掛けに不協和音が響き始める。
そして、桐島本人との接点が一番薄いにも関わらず、本作の事実上の主役のポジションを占めるのが、映画部の前田涼也だ。
バトミントン部のかすみには仄かな恋心を抱いている彼は、顧問の教師に押し付けられた脚本に嫌気がさし、本当に撮りたい映画を作ると宣言し、エド・ウッドみたいなゾンビ映画を撮り始めるのだ(笑
撮影場所を求めて、学園のあちこちに出没するゾンビチームは、桐島に振り回される他の生徒たちに思わぬ形で影響を与えてゆく。
吉田大八と喜安浩平の脚本は、どこか黒澤明の「羅生門」を思わせる。
原作は各章を別々の主人公に語らせている様だが、映画は桐島が忽然と消える金曜日から始まる5日間を、アンサンブルのそれぞれの視点で反復しながら描いてゆく。
例えば、涼也にとっての金曜日、かすみにとっての金曜日、亜矢にとっての金曜日といった具合だ。
同じ日の同じ学校という限られた時空にあっても、それぞれに訪れるドラマは違うし桐島の退部への感じ方も異なる。
若者たちの心に落ちた「桐島、部活やめるってよ」という一言は、彼らの心に大小それぞれの波紋を起こし、やがてそれらはぶつかり合い、絡み合い、学園という池を覆い尽くし、彼らの心に秘められたもやもやとした閉塞感を臨界へと導いてゆく。
語り部的なキャラクターを配さず、常に一定の距離感を保つカメラは、たくさんの登場人物を等身大の鏡として観客に自己の内面と対峙させる。
涼也は、かすみは、竜汰は、亜矢は、嘗ての私であり、大人の観客にとっては懐かしい、リアルタイムの十代には少々ビターな、観客一人ひとりの分身でもあるはずだ。
この映画の登場人物たちは、皆不完全な若者で、皆希望がある。
だがそれが本当に実現可能なものなのか、そのためには何をすれば良いのかがまだ漠然とした彼らの中では、青春の冷静と熱情が溶け合わずに存在しているのだ。
運命のクライマックスは火曜日の屋上。
桐島の不在によって広がった、それぞれの中の葛藤が頂点に達した瞬間、その二つが一瞬だけ混じり合い、更には涼也の8ミリカメラを通すことで、氷とマグマが出会った様な激しい爆発を起こすのである。
ブラスバンド部の演奏が徐々に盛り上がる中、涼也ら映画部のゾンビたちと桐島の影を追うバレー部の面々、かすみたち女子グループが入り乱れるて繰り広げられる、カオスな夕暮れの情景は正に映画的カタルシスに溢れた圧巻の仕上がりだ。
ある程度の出番のあるメインキャストだけでも十人以上、更に野球部の先輩やブラスバンド部の後輩ら、アンサンブルの隅々まで心の機微を描き出した脚本と、吉田大八監督の繊細な演出はお見事の一言。
神木隆之介、橋本愛、大後寿々花、東出昌大、落合モトキ、山本美月、清水くるみ、松岡茉優ら、書き切れないほどの若いキャストたちの熱演も観応え十分。
暑い夏に相応しい、クールな中に熱血を秘めた青春映画の快作である。
本作のロケは、吉田監督の前作「パーマネント野ばら」に続いて、ほぼ全編高知県で撮影されたという。
高知と言えば酒豪の郷であり、数多くの蔵元が存在する酒飲み天国の一つ。
今回は、あの坂本龍馬で有名な桂浜の蔵として知られる酔鯨酒造から「純米吟醸 備前雄町」をチョイス。
まろやかにして濃厚、そしてキリリと辛い。
高校生たちにはちょい早いが、オヤジたちがスクリーンから吹き付ける青春の熱風を冷ますにはぴったりの一本だ。

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赤ん坊の頃から実の母親に懐かず、成長するに従って異様な悪意を無慈悲にぶつける様になる奇妙な少年と、息子への愛と憎悪の間で葛藤する母親。
やがて息子が引き起こした凄惨な事件が、彼女を破滅へと追い込んでゆく。
ライオネル・シュライバーのベストセラー小説を、リン・ラムジー監督が映画化した異色の心理スリラーだ。
息子がなぜ自分を苦しめるのか理解できず苦悩する母親役に、エグゼクティブ・プロデューサーを兼務するティルダ・スウィントン、謎めいたキャラクターの息子役をエズラ・ミラーが演じる。
旅行作家のエヴァ(ティルダ・スウィントン)は、夫のフランクリン(ジョン・C・ライリー)との間に新しい命を授かる。
ケヴィン(エズラ・ミラー)と名付けられた息子は、何故かエヴァに懐かず、彼女の嫌がる言動ばかりを繰り返す様になる。
やがてエヴァは第二子となる娘を出産するが、ある時彼女が大怪我をする事件が起こり、エヴァはケヴィンがわざとやったのではないかと疑念を募らせる。
そして、エヴァとフランクリン夫婦の間にも隙間風が吹く様になった頃、アーチェリーに熱中していたケヴィンが、恐ろしい事件を起こしてしまう・・・
観応えは十分だが、どこかピンとこない。
映画は、疲れ切った表情でうらぶれた生活を送るエヴァの描写から始まる。
小さな家に住み必死に仕事を探す姿は、どう見ても人生順風満帆とは言い難い不幸オーラに充ち満ちている。
それどころか、何者かによって家や車に血のような真っ赤なペンキをぶちまけられ、街を歩けば見知らぬ女性にいきなり殴られるという悲惨さ。
それもこれも、どうやら彼女の息子が起こした事件が関わっている様なのだ。
リン・ラムジー監督は、現在のエヴァの日常を基軸として、そこからごく短いスパンで時系列を交錯させる形で、彼女の過去に何が起こったのかを徐々に明かしてゆく。
世界を巡って奔放な作家生活を送っていたエヴァは、ケヴィンを妊娠した事で家庭に入る。ところが、赤ん坊のケヴィンは夫のフランクリンに抱かれるとご機嫌なのに、エヴァと二人だけになると火がついた様に泣き出してしまう。
言葉やトイレを覚えるのも遅く、エヴァがコミュニケーションをとろうとしても反応を示さない。
成長するに従って、一見すると普通の少年の様になってくるが、母親への態度はますます悪意に満ちた物となり、エヴァは自分だけにケヴィンが攻撃的な態度をとる理由が理解できない。
そして、成長したケヴィンは、母親とは違って愛していたはずの父親と幼い妹を弓で射殺し、更に学校に立て籠もり大量殺人を実行する事で、遂にエヴァの人生の全てを奪い去るのである。
原題の「We Need to Talk About Kevin(私たちはケヴィンについて話す必要がある)」が示唆する様に、これは息子の事件によって奈落へと突き落とされた一人の母親が、なぜこんな事になってしまったのかと、そこに至るまでの過去との対話を試みる映画だ。
共同脚色も兼ねるリン・ラムジー監督は、この世の地獄を生きる現在のエヴァと、ケヴィンが生まれてからの十数年間の出来事を交互に描き、少しづつケヴィンが齎す“破滅”へといざなう。
一体何が間違っていたのか?ケヴィンとは何者だったのか?
ストーリーテリングの手法としては、特に目新しくはないものの、エヴァ目線でケヴィンの不気味さを感じさせながら、観客の不安を掻き立てる手腕は力強く、達者な語り口はなかなかのものだ。
しかしながら、物語が進むに連れて、私の中ではどんどん違和感が強くなってきたのである。
本作の中では、息子を理解できなかった母親の葛藤を描く人間ドラマと、悪魔の様な息子を描く不条理ホラーという違ったベクトルの二つの話が喧嘩をしている様に感じる。
ケヴィンを妊娠する前の自由な生活とのギャップで、エヴァがややマタニティーブルーになったり産後鬱的な描写も多少あったが、基本的に彼女は普通に息子に愛情を注ごうとしていたはず。
ではケヴィンの理不尽に見える母への悪意の源は何なのか。
映画は徹底的にエヴァを軸とし、彼女の目線、彼女の心に寄り添っている為に、ケヴィン側の心理描写が全く無い。
その為に、現状ではケヴィンの様々な行動は、エヴァから見た単なる現象に過ぎず、彼の内面で何が起こっていたのかは伝わってこないのだ。
また成長の過程で段々と母親への態度が変わってゆくのではなく、生まれたばかりの赤ん坊の頃からの不気味さ故に、彼がまるっきりダミアンの様な生まれながら悪魔にしか見えず、一個の人間というよりも良くも悪くも“キャラクター”になってしまっているである。
だから、ラストのエヴァの問いに対するケヴィンの答えも、おそらくエヴァにとってはここからが親子としての新しい始まりというイメージなのだろうが、結局これが答え無き対話なのだという確信をますます強固にする。
それでも、始まりのラインに立てたことをもってして、親子としての大いなる一歩と考える事も出来るだろうが・・・。
いや、もちろん不条理劇、或いはある種の寓話としてはこれはこれでアリだろう。
しかし、「ケヴィンについて語らなければ」と言いながら、はじめから答えの出ない、出し様のない物語構造としているのは、やはり肩透かしをくらった感が否めない。
物語の構造を変える必要があるが、この話はもう少しケヴィンのキャラクターを人間的にして、彼の視点とエヴァの視点をクロスさせて二人の見ている世界の違いを描いた方が面白くなるし、成長と共に母親との関係性で変化を見せないと「We Need to Talk About Kevin」にならないと思う。
娯楽映画としてはなかなかにスリリングな意欲作で、面白い映画である事は確かだが、物語のテーマ性と構造の間に、どうにも埋め難い矛盾を抱え込んでしまっている印象だ。
今回は、ややピリッとしない後味を、舌が痺れる位に刺激的にする「スピリタス」をチョイス。
ポーランド原産のウォッカでアルコール度数は実に96°で、世界最強の酒と言われる。
もちろんここまでいくと酒というよりは純アルコールである。
そのまま飲んでも味など殆ど感じられないので、柑橘系のフルーツ果汁にスパークリングウォーターなどで割るベースにするのがお勧め。
母国のポーランドでは、万が一のための消毒用アルコール代わりに常備されているらしい。
アルコールランプの燃料にも使える?

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大学の卒業式の日に出会った一組の男女の、その後23年間に渡る“7月15日”を描く風変わりなラブストーリー。
原作はデヴィッド・ニコルズの同名小説で、原作者自身が手掛けた脚本を、「17歳の肖像」のロネ・シェルフィグ監督がセンス良く仕上げた。
正反対の性格の主人公二人を演じたのは、最近出演作が目白押しのアン・ハサウェイと「アクロス・ザ・ユニバース」で注目されたジョン・スタージェス。
友情と愛情の間で揺れ動きながら、人生の様々な曲面で大切な時間を共有する不思議なカップルの物語は、誰もが覚えのある自分史の1ページを捲る様。
※ラストに触れています。
1988年7月15日の夜。
大学を卒業したエマ(アン・ハサウェイ)とデクスター(ジョン・スタージェス)は、もう少しでベッドインしそこなう。
やがて芸能界入りしたデクスターはテレビの司会者としてスターとなり、対照的に作家志望のアンはなかなか芽が出ないまま年月が流れ、それぞれが人生の伴侶を得ても、二人の奇妙な友情関係は続いていた。
数年後、人気が凋落したデクスターはテレビ界から足を洗い私生活でも離婚、新進作家として認められつつあったエマも長年付き合ったボーイフレンドと別れ、パリで新しい生活を始めていた。
久しぶりに出会った二人は、長年の曖昧な関係から、ようやく恋人として付き合う事を決めるのだが・・・・
毎年同じ日に邂逅する男女の話というと、映画化もされた舞台劇の「Same time, Next year」が有名だが、あれは不倫コメディ。
似たアイディアではあるものの、こちらはグッと詩的な情感のあるラブストーリーだ。
エマとデクスターが運命的な出会いをする7月15日は、イギリスでは聖スウィジンという聖人を記念する日なのだそうな。
なんでも、この人物が亡くなった時に、教会の軒下に埋葬する様にと遺言を残したのだが、後の世の人々が風雨に晒される場所よりはと遺体を教会内に移そうとしたところ、四十日間も続く大雨になってしまったとか。
この事から、「聖スウィジンの日が雨ならば、四十日間雨続き。聖スウィジンの日が晴れならば、四十日間晴れ続き。」というマザー・グースが生まれた。
そして、エマとデクスターが出会った日は、何とも微妙な曇り空の日で、この天気が予言するかの様に、彼らは長年に渡って友達以上、恋人未満の曖昧な関係を続ける事になるのである。
真面目なメガネっ娘のエマと、享楽的なボンボンでプレイボーイのデクスター、全く対照的な二人の一年にたった一日のカレンダーは、1988年7月15日に始まり、毎年同じ日の彼らの姿を追い続ける。
この本作を特徴づける日付け縛りは、映画的には諸刃の剣だ。
肯定的に捉えれば、364日分の描写が無いので、その分観客の想像力を刺激すると言えるだろうが、一方でエピソードを連続して描く事が出来ないので、始めから断片化という大きな欠陥を抱えている様な物でもある。
だから、本作では普通の映画なら丹念に描くであろうディテールが、豪快にすっ飛ばされているのだ。
例えば、デクスターと妻の間に、離婚に至るまでにどんなやり取りがあったのか。
あるいは、エマは何を切っ掛けにして、売れないコメディアンと付き合う様になったのか。
彼らを生身の人間として身近に感じれば、23年に渡る人生の物語の描かれない部分に、「きっとあんな事や、こんな事があったのでは?」という脳内補完が働いてイメージを豊かにしてくれる。
しかしひたすら受動的に鑑賞してしまうと、いわば砕けた彫刻の破片だけを見せられる様な、物足りない感覚を味わう事になるだろう。
それが最も象徴的に表れるのが、二人の主人公が長年の腐れ縁状態に終止符を打ち、本物の恋人同士になるシークエンスである。
作家として成功し、パリで暮らし始めたエマの元にデクスターが訪ねて来るのだが、なんと二人はあれだけ引っ張ったベッドインを、いつの間にかあっさり済ませてしまっているのだ。
それだけでもびっくりなのに、彼らは過去一年の間に急速にお互いに対する想いを強くした様で、いきなりの恋人宣言から結婚へと一気呵成に動き出すのである。
ここに至るまでに、大胆な飛躍にもついて来られる程度に彼らの人生に十分感情移入し、共感出来ているか否かで、本作への評価は大きく異なる様に思う。
思うに、この映画を観て「そうそう、人生ってこんなんだよね」と捉えられるのは、ある程度の年齢層以上の観客で、あまり若い人が観てもピンと来ないのではないだろうか。
実は物語の終盤の数年間は、もうエマは登場しない。
長い長い曇り空の時代を過ごした後、ようやく心から愛し合う様に成った二人は、残酷な運命によって引き裂かれ、エマはデクスターの前から永遠に姿を消してしまうのだ。
そして、自分の人生を振り返ったデクスターは、楽しい時も悲しい時も、何時も傍にいてくれたエマの存在の大きさを改めて感じ、彼女の面影を過ぎ去った時に追うのである。
現在から振り返る過去は、色々な意味で断片化しているもの。
私はだいたい映画の設定上のエマとデクスターと同世代で、残念ながら特にロマンスには発展してないものの、同じ位付き合いの長い腐れ縁の女友達もいる。
だからだろうか、私はいつに間にか映画の物語の向こうに、自分自身の過去史を観ていた様な気がする。
故に、映画が現在のデクスターからの追想の視線で作られている事がわかった瞬間、何とも言い様の無いノスタルジックな感慨に包まれたのである。
もしもエマとデクスターの様に、長い時を共有したパートナーがいる人は、是非一緒にこの映画を観て欲しい。
映画が終わって場内が明るくなる頃には、きっと傍にいてくれる人がたまらなく愛おしくなるはずだから。
今回は、大切な人と飲みたい(いないけど)ウォッカベースのカクテル、その名も「ラヴァーズ・コンチェルト」をチョイス。
カクテルコンテストのスミノフ部門受賞作で、スミノフ40°を45ml、タリスカー10年を10ml、ベイリーズ・アイリッシュ・クリーム10ml、カルーア5ml、モナン・キャラメル・シロップ10mlをシェイクし、グラスに注ぎ、最後にコーヒーパウダーでグラスをスノースタイルにデコレーション。
まったりとした味わいが奥深い、大人の恋人たちのための一杯だ。

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